図解・カメラの歴史  神立尚紀  2012.10.4.


2012.10.4. 図解・カメラの歴史 ダゲールからデジカメの登場まで

著者 神立(こうだち)尚紀 1963年大阪府生まれ。写真・ノンフィクション作家。日大芸術学部写真学科卒。86年より講談社「FRYDAY」専属カメラマン、元零戦搭乗員の取材を開始、著書にまとめる。戦史関連、カメラ関連の著書多数

発行日           2012.8.20. 第1刷発行
発行所           講談社(BLUE BACKS)

現代写真の基礎が確立したのは1839
1975年 イーストマン・コダックがデジタルカメラ発明
2002年 デジタルカメラの出荷台数がフィルムカメラを上回る

第1章     カメラの黎明
「写真」と呼ぶ画像の起源 ⇒ 太陽光線によってさまざまなものに変化が起きることを知ったところから始まる。カメラの発明者はいない
原型とされる「カメラ・オブスクラ(暗い部屋)」は紀元前に既に存在
カメラ・オブスクラを使い、光を感光材料に定着させることに最初に成功したのはフランスのジョゼフ・ニセフォール・ニエプス(17651833) ⇒ アスファルトの感光性、光によって硬化するという性質に着目、ヘリオグラフィと名付けたが、露光時間が8時間必要で、実用的とは言えなかった
ニエプスとは別に研究していたルイ・ジャック・ダゲール(17891851)は、1829年にニエプスと共同で商会を作り10年契約を結ぶ ⇒ 銀メッキ銅板をヨードの蒸気でいぶしたヨウ化銀(ハロゲン化銀の一種)に感光性があることを発見、さらに撮影した銀板を水銀蒸気に晒すことで、感光した銀の像を見えるようにできる(現像)ことを発見、現像した画像は放置すれば感光が進んで画像が消えてしまうため、1837年には食塩の飽和溶液を用いて画像を定着させる方法を編み出す ⇒ ダゲレオタイプと名付ける
1839年フランス議会に報告され、政府の買い上げが決まり、一般に知られるようになる
1841年 ウィーンのフォクトレンダー社が初の金属製カメラ「肖像撮影用新ダゲレオタイプ装置」を発売、初の写真用レンズが開発された

第2章     小型カメラの誕生
1880年 ジョージ・イーストマンがニューヨークで写真乾板製造会社設立 ⇒ 84年にロール紙に感光乳剤を塗布する方法を開発、それを使用する小型のカメラを「コダック」と名付け、88年発売。カメラを売ると同時に現像サービス体制を整えたことで、一気に大衆に普及
写真の次は動画で、91年エジソンが「キネトスコープ」発明(長尺のセルロイド製フィルムを装填した筒を覗きこむ方式)。フィルムを提供したのはイーストマン。当時のフィルムの規格が35㎜フィルムとして現在も使われている
1895年 フランスのリュミエール兄弟がスクリーンに映像を映し出す「シネマトグラフ」を発明、今日の映画の元となる
シートフィルム、ロールフィルム(ブローニーフィルム)35㎜フィルム
大型のカメラを小型化したのは、ドイツ・ヴェツラーにあったライツ光学工場に入ったオスカー・バルナック(18791936)で、映画撮影用カメラから入って1913年に完成した「ライカ(ライツ+カメラ)」 ⇒ 以後の小型カメラの原型としての特徴を備える
    焦点距離50㎜ ⇒ 人間の肉眼の視覚に近い
    レンズは、ヘリコイド(螺旋)の回転により繰り出され、ピント調整が可能
    ボディは精密な金属製で、円筒を伸ばしたような形状
    シャッターは、布幕のフォーカルプレーン式(フィルム面の直前を、先幕、後幕の2枚のシャッター幕が走り、2枚の幕の間のスリットの幅を調整することで露光量を増減させる) で、一旦切られた後は巻き上げノブの操作でチャージされる
    セルフキャッピング ⇒ 2枚の布幕が重なり合って巻き上げられるので、巻き上げ時に誤って露光する失敗がなく、キャップをする必要もない
    自動巻き上げにより二重露光の失敗がない
正確なピント合わせのため、三角測量の原理を生かし、被写体側の2個の窓から入る映像の二重像をダイヤル操作で接眼部に1つで合致させることで被写体までの距離を測る距離計(レンジファインダー)が用意された
ライかに続いて35㎜小型カメラに参入したのが、カール・ツァイス財団が主導してドイツのカメラメーカー4社が合併し、1926年に設立したツァイス・イコン社で、ライカから遅れること1か月で、まったく異なる構造を持つコンタックスを発売。以後両社が競い合って性能を向上させていく
戦争中、ドイツからの輸入が途絶えてカメラ不足となった各国で、コピーライカの研究が始まる ⇒ 米英では2年後に発売。日本では1936年設立の精密光学研究所(現キャノン)35年に1号機「キャノン標準型」を完成、36年「ハンザキャノン」のブランド名で発売、レンズは日本光学から供給
「キャノン」は、観世音菩薩からとった「KWANON」が起源

露出(露光) ⇒ レンズを通した光にフィルムを晒すこと。レンズを通して入る光の総量や、画像の明るさのことも露出という
最適な露出値(光の総量)は絞り(F)と露出時間(シャッター速度)、フィルム感度の組み合せによってコントロールする
カメラに入る光の総量を、露出値(Exposure Value=EV)といい、絞りの面積を1/2にしても、シャッターの開いている時間を2倍にすれば、EV値は同じ
F=1、露出時間1秒の時をEV=0とし、露光量が1/2になった時EV値が1大きくなるとする。2倍になれば1小さくなる
F値は直径の比の逆数で表すので、シャッター速度を1秒のままとすると
     F(Av)                 =1.4      =2       =2.8     =4
     EV                    1                2              3              4
F=1で固定すると
     シャッター速度(Tv)   1/2             1/4           1/8           1/16
     EV                    1                2              3              4
EV=Av+Tv  ⇒ 明るい被写体に対して適正露出となるEVは大きくなる

第3章     その他のカメラの発展
ステレオカメラ ⇒ 立体画像を撮るもので、視差が生じるように撮られた2枚の写真を、左右の眼に別々に見せることで立体視させる。3眼レフ構造で、真ん中にファインダー用のレンズを置き、そこから入った光を反射板(レフレックス)でスクリーン上に焦点を結ばせる(「ローライドスコープ」)
二眼レフカメラ ⇒ 1929年ローライドスコープを改造して通常の写真が撮れるように二眼レフのローライフレックスを開発。縦に同じ焦点距離のレンズを並べ、上をファインダー用に、下を撮影用としたもの。フィルムサイズを66としたため、引き伸ばしプリントが一般的でなかった当時、見易さが受けて大ヒット
スプリングカメラ ⇒ 大きな画面サイズを小さなカメラで撮影するために、カメラの蓋を開けるとスプリングで蛇腹式のレンズが飛び出してくる仕組み
レンズの大口径化 ⇒ フラッシュなしでも撮れる明るいレンズへの要望に応えて、1931F2が開発。高性能化するのは戦後

第4章     レンジファインダーから一眼レフへ
戦後、ツァイス・イコンのコンタックスとそのレンズ用生産施設がソ連に接収され、キエフに移転。西側も東ドイツにいたツァイスの技術者を密かに脱出させ、新たに工場を興す
ドイツの独占に対する突破口となったのは日本光学。戦時中は陸軍系の東京光学と海軍系の日本光学が双璧(陸のトーコー、海のニッコー)
戦後、日本光学は35㎜判精密カメラの設計に着手、469月に「Nikon」を開発
日本光学をリストラされた社員が精密光学に移り、ニコンがコンタックス型、キャノンがライア型と住み分けて開発を進める
48年 日本光学が、独自で新種光学ガラスの溶解に成功、大口径レンズの設計が容易となる ⇒ 朝鮮戦争でアメリカの従軍取材した『ライフ』誌の報道写真家の多くがニコンのカメラとニッコールのレンズを使い話題となる ⇒ 当初は、レンズが認められ、ライカのカメラの装着されたが、厳寒の北朝鮮でライカのシャッターが凍り付いて動かなくなってからカメラもニコンになった
キャノンも、技能者集団から生産管理システムに基づく開発に転換
1950年に理研光学(現リコー)が国産二眼レフカメラ「リコーフレックス」を発売、高嶺の花だったカメラの大衆化に貢献、60年代までブームは続く
1954年 ライツ社が、全く新しいレンジファインダーカメラ・ライカM3を発売 ⇒ レンズの焦点距離により自動的にブライトフレームが切り替わる明るい大きなファインダー
日本での35㎜一眼レフのパイオニアは旭光学 ⇒ 50年に開発開始、52年「アサヒフレックス I」として発売
レンズ ⇒ 最初は凸レンズ1枚の「単玉」だったが、レンズには様々な収差があり、1枚ではボケや歪みが生じるため、何枚かのレンズを組み合わせる
球面収差、コマ収差、非点収差、像面湾曲、歪曲収差、色収差、周辺光量低下
組み合せの種類 ⇒ ダブレット(凹レンズを貼りあわせる)、トリプレット(2枚の凸レンズの間に凹レンズを入れる)、ゾナータイプ等々

第5章     日本製カメラ一眼レフが世界を制す
露出の自動化とシステムカメラ、小型軽量の3点で改良
システムカメラ ⇒ ありとあらゆるニーズを取り込むために、多様な交換レンズや機能を揃えた1つのシステムとして提供することが求められた
TTL(Through The Lenz:内蔵露出計)AE(Automatic Exposure)、モータードライブが3種の神器に

第6章     コンパクトカメラの系譜
コンパクト化の先鞭をつけたのは、59年発売のハーフ判カメラ・オリンパスペン

第7章     オートフォーカスの時代
最後の自動化 ⇒ 嚆矢は1963年発表のキャノンのオートフォーカス

第8章     デジタル化の流れ
1975年 イーストマン・コダックの開発担当者が発明 ⇒ 100100=10000画素
市販された一般向けカメラでは、90Dycam社のModel 1
2000年のシドニーオリンピックを契機に、報道各社のデジタル化が急速に進む



図解・カメラの歴史 神立尚紀著 逸話に満ちた驚異の発展史 
日本経済新聞 書評 2012/9/5
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(講談社ブルーバックス・900円 ※書籍の価格は税抜きで表記しています)
(講談社ブルーバックス・900円 書籍の価格は税抜きで表記しています)
 日本製のデジカメが世界を席巻している。特に、高度な技術が必要とされるデジタル一眼レフ市場は日本の独壇場といっても過言ではない。しかし、日本のカメラがここまで来るまでには、苦難の歴史があった。
 本書は、人類のカメラの歴史を扱っている。最初は、暗い部屋に穴をあけると、外の景色が壁に逆さまに映る「カメラ・オブスクラ(=暗い部屋)」。カメラはもともと「部屋」という意味だったのだ。以来、壁に映った景色を「定着」させたり、部屋を小さくして箱にしたりして、カメラは進化し続けてきた。
 黎明期の歴史も面白いが、やはり戦後の驚異的な進化が面白い。ニコンのレンズの解像度に感銘を受けた、雑誌「ライフ」の戦場写真家たちがニコンを愛用し始めた。戦場写真家からの電話を「忙しい」と断ってしまったらしいキヤノンは(一時的に)世界デビューを逸した。そして「ライカM3・ショック」が日本の一眼レフへの道を開いた。
 興味深い逸話が満載で、カメラの歴史にグイグイと引き込まれてしまう。私のような年輩のカメラファンもカメラ女子も楽しめる一冊だ。
★★★★
(サイエンス作家 竹内薫)

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