軽井沢の風展 KARUIZAWA NEW ART MUSEUM 2025.6.14.
2025.6.14. 軽井沢の風展 日本の現代アート1950~現在(いま)
編集・制作 KARUIZAWA
NEW ART MUSEUM
発行日 2012.7.21. 発行
発行所 KARUIZAWA NEW ART MUSEUM
展覧会
会期 2012.4.27.~2012.9.2.
会場 KARUIZAWA
NEW ART MUSEUM
主催 KARUIZAWA
NEW ART MUSEUM
協力 川崎市岡本太郎美術館、尼崎市総合文化センター、UNAC
後援 長野県、長野県教育委員会、軽井沢町、信濃毎日新聞社
企画 「軽井沢の風」展実行委員会(村田慶之輔名誉館長、長谷川祐子ほか)
あいさつ
2012年4月オープンした軽井沢ニューアートミュージアムの開館記念展として、現代アートを発信
軽井沢ニューアートミュージアム開館に寄せて 名誉館長 村田慶之輔
建築は西森隆雄。ガラス張りの商業施設として未使用だったものを東京の画廊主でホワイトストーン・アート・ファウンデーションを立ち上げた白石幸生の目に留まって美術館となる
“NEW ART”として、現代アートの再領域化を企図。その趣旨を具現したのが開館記念展
この数十年を振り返って想いを新たにするよすがとし、新しい美術館の方向を見定めて行きたい
「軽井沢の風」展を見る 本江邦夫
軽井沢は、ある種の魅力がある、美的な聖域
今回の「軽井沢の風」展の第一印象は「ハイブリッド」。平面、立体、建築マケット、金工等が、一見雑多に一堂に会しているのは珍しい
日本の美術のハイブリッドな現状をそのまま提示
ハイブリッドとは、異種のものの有機的共生状態を指し、本質的に分裂とか対立を回避する概念で、日本文化の雑種性とは常に言われること
入口に「縄文の美」の再発見者、岡本太郎の火焔土器に想を得た《縄文人》(1982,繊維強化プラスチック)の出迎えがあるのは象徴的な配置で、かなり縄文に傾斜した印象を与える
第1室は、素材の素材性に画家の意思が託された、非常に緊張感のある部屋。千住博の岩絵具を重力に任せた《ザ・フォールズ》(2000,紙本着色)ほか
第2室はとても熱い部屋。棟方志功が熱い。《華狩頌(はなかりしょう)》(1958)板画。井上有一の《花》(1968、ボンド墨・和紙)2点との関係は?
第3室の注目は、戦闘的なグラフィックデザイナーとして知られるサイトウマコトが始めたという絵画、《Fellini Been》(2011~12,アクリル・油彩・キャンバス)。草間彌生の《自己消滅》(1966~74、ミクストメディア)、《レモンスカッシュ》(1990、アクリル・キャンバス)、《PUMPKIN》(1998、アクリル・キャンバス)。村上隆の《雪月花》(2001,アクリル・キャンバス)
第4室が建築。我が国のメタボリズム(新陳代謝)建築は、戦後の復興期を貫いてきた理念であり、建築のユニットを細胞と見做す発想は伊東豊雄にも隈研吾にも受け継がれている
伊東豊雄は、台中オペラハウスの完成イメージ(‘13年竣工予定)・構造体模型・工事現場・大劇場内観イメージ(2004~07)
隈研吾は、グラナダ・パフォーミングアーツ・センターの完成イメージ(‘13年竣工予定)・エントランスイメージ・模型・ホールイメージ(2009)
第5室は変化に富む。宮田亮平の金工を太陽とすれば、飯野一朗のそれは月。打って変わって雄渾なのが絹谷幸二のオブジェ《顔》10態(1992)であり、何をやらせても秀でる人
宮田亮平 《シュプリンゲン 波々》(1998) ステンレス・真鍮・銅
飯野一朗 《間》(2005)
金銀彩銅緑青花器
諏訪敦と松井冬子の油と日本画によるリアリズム対決・共演。両者共に写真的被膜の皮相さを貫いて事象の絵画的本質に迫ろうとして、それぞれ独自の様式を獲得しつつある
諏訪敦 《Untitled(キリンの頭部剥製)》(2007~10)油彩・板
松井冬子 《従順と無垢の行進》(2010)
絹本着色
第6室は上前智祐のための部屋。「具体」の創設メンバーで、家父長的な吉原治良の支配を耐え抜き、90歳を過ぎて急激に評価を高める。生活の必要上から身につけた圧倒的な「縫い」の力によって実存を具現化することで自らの芸術を立ち上げた
《赤》(1964、油彩・板)、《赤にブルー》(1980、布・刺繍)
第7室は、オートバイのオブジェや「瓶投げ」の痕跡など様々
他の出展作品
舟越桂 《冬の先触れ》(1999)楠に彩色・大理石・ブリキ・鉄
Wikipedia
村田 慶之輔(むらた けいのすけ、1930年10月11日 - 2015年3月19日)は、日本の美術評論家[
1930年生まれ。1956年、早稲田大学第一文学部を卒業。1959年11月に神奈川県教育委員会職員となる[1]。1964年、神奈川県立博物館準備室の学芸員となる。1969年4月に文化庁文化部芸術課専門職員に転ずる。1974年7月に文化庁文化部文化普及課の国立国際美術館設立準備室主幹となる。1977年5月、国立国際美術館開館にともない学芸課長となる。1991年3月に定年退官[1]。愛知県立芸術大学、静岡大学等で非常勤講師として教鞭をとった。1992年4月、高岡市美術館準備室長となるが、翌年3月に退職。1999年4月に川崎市岡本太郎美術館館長となる。2012年軽井沢ニューアートミュージアムの名誉館長に就任。2015年、死去。
本江 邦夫(もとえ くにお、1948年9月25日 - 2019年6月3日)は、日本の美術史学者、多摩美術大学名誉教授、多摩美術大学美術館館長、美術愛住館館長。元府中市美術館館長。
愛媛県松山市生まれ。東京で小学校入学、中学2年の夏まで札幌と小樽で過ごす。
1973年東京大学文学部美術史学科卒業。1976年東京大学大学院人文科学研究科修士課程西洋美術史専攻修了。同年秋より東京国立近代美術館勤務。1986年同主任研究員、1992年同企画・資料課長、1994年同美術課長(~98年)。
1981年マチス、1983年ピカソ、1987年ゴーギャン、1989年ルドン、1994年木村忠太などの回顧展を手がける一方、1984年「メタファーとシンボル」、1990年手塚治虫、1992年「形象のはざまに」、1993年黒田アキ、1995年辰野登恵子などの現代的な企画に関与。
1998年多摩美術大学共通教育学科教授。2001年~2009年府中市美術館館長を兼任。2006年多摩美術大学大学院美術研究科長、2011学校法人多摩美術大学理事、2019年多摩美術大学名誉教授、多摩美術大学美術館長[1]。
2004年『オディロン・ルドン』で芸術選奨新人賞受賞。
2019年6月3日19時30分、心筋梗塞のため、東京都内の病院で死去[2]。70歳没。
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