美しい建築に人は集まる 伊東豊雄 2025.6.9.
2025.6.9. 美しい建築に人は集まる
著者 伊東豊雄 (『25-06 誰のために 何のために 建築をつくるのか』参照)
発行日 2020.6.24. 初版第1刷
発行所 平凡社 「のこす言葉」シリーズ(人は言葉をたよりに生きている。言葉は人をはげましてくれる。心にのこる言葉は、人に手渡すこともできる)
2019.1.15.脳幹梗塞。記憶や言葉の障碍はなかったが、歩行と嚥下の障碍が残ったが、リハビリで復活。一番大きな経験は、人との接し方が変わったこと。弱者になって初めて被災地の人と同じ立場に立ってはいなかったことに気づく
「もっと優しくなれ、優しい視線で建築を考えよう」と思う
² 真夜中の病室で考えたこと――「中野本町の家」から「台中国家歌劇院」へ一回転
l 自分たちの明日の町
東日本大震災の時、何カ所かの被災地に「みんなの家」という集会所を作ったが、建築家の無力さを思い知らされた
僕たちの提案した復興計画は、何一つ採用されることはなく、行政の壁も嫌というほど思い知らされた
l 必要だと思ってないのにできてしまう
モダニズム建築は、グローバル経済の論理と結びついて、ますます堕落してしまった
建築を作る動機は、もはや経済活動でしかない。個々人の意思とは無関係に、次々と巨大な土木工事が行われる。建築も、機能や利便性で善し悪しが判断される
被災地には、そんな尺度では生きていない人がいっぱいいる
l 近代以前と現代が結びつく接点
日本では、誰も今の生活が一番美しいと思ってはいない
世界の中で日本の現代建築は高く評価されているが、それはモダニズムの洗練でしかない。歴史や地域性など、ゼロから考え直して、近代以前の思想と、現代技術を使う建築とが1つになり得る接点を見つけること、が僕の目指す建築
l 地下にもぐっていくような建築
「中野本町の家」(1976)が自分の建築の原点。地中に沈潜していくような内向的な建築であり、それが自分の身体性のようで、一度は地上に出たものの、台中のオペラハウスが「まるで洞窟のようだ」と言われるように、また地下に戻ってまるで自分の建築人生が一回転したかのよう。諏訪湖の博物館も洞窟的な空間が自分の本質であることを表している
l 曖昧な日本語が作る身体性
自分の身体性は、言語によって作られたと思う。日本語で思考してきたことと、身体性は深く関係している。曖昧さが自分の性格でもあるし、それは日本語の持つ曖昧さによるところが大きい。境界を定めるような、明快なものはしっくりこない
近代化された社会の中で、ヨーロッパの近代とは違う、日本人の身体性を探っていきたい
² 自分を形づくって来たもの――内向的な野球少年が建築を志すまで
l 諏訪湖に立つ水平の虹
子どの時代の原風景が、自分の空間感覚とオーバーラップしている
小さい頃から内向的なところがあって、絵を描いたり、工作をするとか、ラジオを作ったりすることが好き
l じっとまわりを観察する性格
中学は野球部。内向していたのは、京城生まれでややよそ者だったせいもある
事務所でも、スタッフにアイデアを出させて、そこから選び取り、みんなで練って設計を進めていくやり方をするのも、人から吸収するタイプだから
l 消去法で選んだ建築
建築学科は、工学部の落ちこぼれが行く所
l アイデアは腹の底から絞り出す
卒業前にアルバイトで入った菊竹事務所は、理論で建築を考える丹下、黒川、磯崎のタイプとは違って、死に物狂いでアイデアを絞り出す。ものが決まっていく緊張感が凄い
l 未来都市でもなんでもなかったEXPO’70
事務所に勤めて4年、全共闘の闘争に仲間が巻き込まれ、その影響もあって仕事を辞める
メタボリズム全盛期で、それを象徴するような都市構想を発表、その夢の結晶が大阪万博と思っていたが、構想を見て幻滅を感じる
² 公共建築を作るということ――「せんだいメディアテーク」から「新国立競技場」まで
l 住宅ひとつで社会を批判する
事務所を作って独立するが仕事はない。篠原一男の感化で、建築を作ることは、世の中を批判することだと思っていたので、住宅の設計しかしていないのに大きな公共建築を批判
l 「八代市立博物館」(1991)の教訓
磯崎に、「住宅ばかりやっている建築家は、西欧では建築家と呼ばれない」と言われて発憤
80年代半ば、『消費の海に浸らずして新しい建築はない』(1989)を書き、旧態依然たる建築家を批判、今の世相を背景に勝負しない限り建築家として戦えないと主張。その延長で磯崎の推薦を得て出来たのが八代。50歳で初の公共建築。軽い屋根のふわふわした、存在感のないものを作ろうとしたが、公共の仕事は違う土俵だと痛感。内部のプログラムに踏み込まないと本当にやりたいことは実現できない。そこにこそ公共建築の面白みがある
これが縁でその後の「みんなの家」の活動に繋がり、今は「くまもとアートポリス」('88年細川知事の肝煎りで始まった建築文化事業)の3代目コミッショナーをやっている
l 「メディアテーク」って何だ?
‘90年代から、公共の仕事に参画
最初が仙台市。磯崎が「メディアテークって何?」と問いかけるところから始まる。来た人が自由に過ごせる「場所」を作ろうと提案。「今後市民と協力して、このコンセプトに基づき新しい建築の形にまとめ上げる」ことを条件に採用されたが、今の仕組みでは無理だった
最近の公共建築はPFI方式で、民間に丸投げしている。運営や完成期限が重視され、建築デザインは二の次。「新国立競技場」がその典型で、僕は3連敗
l 納得のいかない負け戦「新国立競技場」
最初のコンペは2012年、審査委員長は安藤忠雄。ハディド案1等。最終審査に残った11案のうち、法規や予算を守ったのは僕らの案だけ。ハディド案に対抗して、既存のスタジアムの改良を呼び掛けたが、何の議論もなしに解体
2015年の第2回コンペは、大成・梓・隈研吾と、竹中・清水・大林・日本設計・伊東の一騎打ちだったが、ハディド案の施工に決まっていた大成有利の出来レースで政治色の濃い結果に。完成されたスタジアムの凡庸さを見ると悔しさが募る
政治家と官僚のお粗末さを、他人事には思われない。日本に元気がなくなっている証し
公共建築の問題は、それを利用する人と設計する人の間に自治体という官僚組織が存在して、その官僚組織が国・地方自治体を問わず、衰退していることにある
大手の組織事務所は、自己主張があるようなないような、本質が見えない。そういう組織が特に大都市の建築デザインの大半を担っているから、日本は建築家のイメージが曖昧になっている。ゼネコンの施工技術は世界最高レベルなのに、個の思想の曖昧な建築が次々にできるのはもったいない限り
² 美しい建築に人は集まる――大三島の穏やかな海を見ながら考える内なる自然
l ひょうたんから伊東豊雄建築ミュージアム
いま、どういう建築を作りたいか――一言でいえば、美しい建築を作りたい
いつからか、建築が美しいと言わなくなり、コンセプトという言葉で語りだした。それは、都市の理屈で建築を考えているから
東日本大震災で初めて、都市ではないところに住んでいる人たちと出会って、都市ではない町の可能性から建築を考えるようになった
最初に大三島に行ったのは2004年。ミュージアムのアネックス設計の依頼がきっかけ。若い人の育成を話に出したら、アネックスが伊東自身のミュージアムにしてそのために使ったらいいとなって、合併後の今治市の市議会が承認。2011年オープン
僕の出世作で、’86年建築学会賞を受賞した「シルバーハット」を中野から移築、既存の「ところミュージアム」を改築した「スティールハット」と併せて、自身のミュージアムとする
相前後して東京で開講した「伊東建築塾」の塾生たちともこの島に通って活動を展開
l ライフスタイルのモデルケースに
大三島は人口6000人、半分以上は65歳以上。塾生たちが通うようになって、古い家を借り地元の人たちの協力も得て「みんなの家」を作り、ワイナリー作りまで始めると、移住者も現れ、一つのライフスタイルのモデルケースになるのではと期待
l 末は大三島?
釜石の復興に関わることができなかった敗北感を糧に、近代化に侵されていない自然の中で、都市ではない地域の問題に取り組もうとした
l もうちょっと建築にこだわりたい
これからの建築は、人と自然と建築の関係を、もう1回どう組直すか。再編するか。そこにかかっている。「内なる自然」ということをテーマにする
外部の自然とは違うが、五感にアピールしてくるもう1つの自然。抽象化されているからこそ、多くの人が共感してくれるような空間を作ることができるのでは。人々の共感を得ることができるのは、身体を通じてのコミュニケーションが成り立っているから
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