誰のために 何のために 建築をつくるのか 伊東豊雄 2025.6.8.
2025.6.8. 誰のために 何のために 建築をつくるのか
著者 伊東豊雄 1941年生まれ。建築家。東大工建築学科卒。菊竹清訓建築設計事務所勤務後、自身の事務所設立。主な作品:せんだいメディアテーク、多摩美大図書館、みんなの森ぎふメディアコスモス、台中国家歌劇院、2025EXPOホール。日本建築学会賞、ヴェネチア・ビエンナーレ金獅子賞、ブリツカー建築賞など。2011年にこれからの町や建築のあり方を考える場として私塾「伊東建築塾」設立。今治市大三島で継続的なまちづくりの活動にも取り組む
発行日 2025.4.15. 初版第1刷発行
発行所 平凡社
第1章 建築って何だろう
l 建築って何だろう
歳を重ねるにつれ、「建築って何だろう」という想いを強くする
「一体誰のために、何のために建築を作ってきたのか」という問いを我が身に投げかける
コルビュジェやミースの新しい建築や都市は、全ての大衆の生活を向上させ、明るい未来を切り開くと信じられていたが、1世紀後の今日、人々の夢は実現されたと言えるか?
大義名分とは裏腹に、実態はグローバル経済に基づく経済競争が主目的であり、再開発によって地域のコミュニティは崩壊して個人主義が加速、高層化に伴う自然からの乖離による人工環境化は建築の均質化をもたらしている
新たな建築家の使命とは? 私の目的は、①美しい建築を作る、②コミュニティの回復
取り組むテーマは3つ。①人と人を結ぶ建築、②人に居心地の良さを与える建築、③人に生きる力を与える建築
特に、公共建築では、機能に従って空間を切り分ける方式にならざるを得ず、自ら掲げたテーマを実現することは難しい
「建築って何だろう」という問いに対する私なりの答えは、人々が「自由を満喫できる建築を作ること」に尽きる
装飾を排した西洋モダニズムの美と、日本建築の洗練された美しさは共通するところが多かったが、私が建築に求める美しさは、もっと力強い美しさであり、人間の生命力に訴えかけるプリミティブな美しさ。埴輪や縄文土器、数寄屋造りより民家
「美」と「用」は相容れないとされてきたが、建築の「美」は時代を経て「用」を喪っても残る
その鍵は、失われた自然との関係を回復し、生命力に溢れた力強い美しさを見出すこと
現実の社会の制約から逃れるためにも、一旦自己の理想像を描いてみることが不可欠
設計とは、能の「橋掛かり」を往来する仕事
〈中野本町の家〉(1976)は、義兄の突然死に直面し、光の美しい空間だけを追い求めた結果、白い闇のような空間が生まれた
〈せんだいメディアテーク〉(2000)は、構造体と透明なファサードを示しただけの単純明快なモデル
現代建築は、人工環境に頼らざるを得ない現代生活の中で、自然との親密な関係を回復したいという、二律背反から逃れることはできない。二律背反を脱する建築を実現したい
l ICU(集中治療室)化する現代建築
技術の進化によって建築が機械設備に頼るようになってから、建築は自然との直接的な関係を絶ち、近代化を信奉する日本の社会は、ますますその方向に向かっていく
人々の生活を向上させるための再開発が、逆に環境の悪化を招いている
l 自然界は無数の分子の「流れ」と「淀み」によって構成されている(福岡伸一著『動的平衡』
我国では、人々が自然と一体化した暮らしを建築にしてきた。ということは建築も人体と同じく自然界の「流れ」と「淀み」を構成していた。よりスムーズにするための装置であった
l 現代建築や都市に機能という概念はもはや成り立たない
コルビュジェは、「住宅は住むための機械である」といい、「機能的なものは美しい」という表現が建築や工業製品にも求められ、幾何学的なキューブ状の建築が新しい美意識を獲得
機能に従ったゾーニングの思想は、電子メディアの発達に伴って機能という概念が溶解し、ゾーニングの境界が曖昧になって来た
l 「園」のような「館」
子どもたちが自由に過ごせる場としての公共建築を考え続けた
公共建築は、機能別に分かれていて、目的がないと訪れない
機能的で性能ばかりに捕らわれた建築に固執している限り、自由な空間は生まれない
極力梁のない空間を作り、柱の配置を自由にできれば、「園」のような「館」が出来る
l 部屋でなく場所をつくる
マンションと一軒家の違いは、外界から遮断されていること
マンションでは、切り分けられた「部屋」が自身の自由を束縛している
ペットが部屋を横断して自由に自分の居場所を確保しているように、場所を作るのが建築
第2章 自然の中の建築
l 記憶の中の風景
自然の美を建築に再現したい
人間の尊大さは、とりわけ人間と自然との関係に示されている。もともとアジアの人々は、自然に対して畏敬の念を抱き、自然に開かれ、自然と一体化した建築を作って来た。その伝統に立ち返って、建築と自然との関係を回復しなくてはならない
l 桜の下のまん幕――今治市岩田健母と子のミュージアム
満開の桜の下に幔幕を巡らせて花見をする姿こそ、私の理想とする建築の原イメージであると考えた
岩田健は、母子をテーマにした具象の彫刻ばかりを作る。長年慶應幼稚舎で子どもと接し、大三島を気に入ってブロンズ像44体を島に寄贈、併せてミュージアムを作ることを依頼
私は、廃校を利用して、芝の庭に直径30mのコンクリートの円を描く壁によって44体の彫刻を囲い込む。わずか3mの壁に囲まれただけで、その内部は幔幕を巡らせたように自然の流れの中の「淀み」の場所に変わり、外とは異なる抽象的な空間が生じる
l 白い闇――中野本町の家(1976)
外部からの自然光をいかに導き入れるかといった光をテーマにした空間で成立している建築。外壁の開口がほとんどなく、外部空間に対して極めて閉ざされた建築故に、光の空間、流動的で非現実の世界を作ることができた
壁に囲まれた中庭は、黒土が敷き詰められ、内部の純白な空間とのコントラストを示していたが、瞬く間に雑草が生い茂り、「切り取られた自然」という抽象的な空間となった
l 音の洞窟――台中国家歌劇院(2016)
台中市のオペラハウスは、コンペから11年の歳月を経て完工
大中小3つの劇場を持つが、西洋の伝統にしたがったオペラハウスではなく、まず最初に全体を構成する構造体を構想し、その中に3つの劇場を入れ込んだ設計で、新鮮な劇場空間ができる
l 「流れ」と「淀み」への誘い――せんだいメディアテーク(2000)
「せんだい」成功の秘訣は、壁がほとんどなく、自由に自分の居場所を選べるから
建物の中にいるというより、公園の中に居るような感じ。13本の「チューブ」と呼ばれる透明な直径2.2~9.2mの太い円柱で6層の床を支えている。チューブの中に収められたエレベーターや階段などから各フロアの様子を見ることができ、各フロアではチューブが壁に代って見え隠れする場所の違いを作り、林の樹木の間を縫うように空気と光の流れる空間を作っている
l 空気の流れをデザインする――みんなの森ぎふメディアコスモス(2015)
かつて「住まいは夏を旨とすべし」と言われ、高温多湿の夏を快適に過ごす工夫が重要な課題とされたが、エアコンの登場によって室内環境は一変
図書館の設計にあたり、「大きな家」と「小さな家」の2段階で内外を隔てようと考え、前者に書架を、後者に読書室を構想。高低差による空気の自然対流を促進している
l 力強い木組み――水戸市民会館(2023)
水戸芸術館(1990、磯崎新)と京成百貨店を結び、大中2つのホールを中心に、多目的スペースを多数配している。木造の柱(大断面集成材)・梁の木組みを露わにした力強い空間
ホール以外にも、さまざまなプログラムの場所を付加することによって、市民たちが毎日でも楽しめる公共空間とすることが重要
l 立体的な庭園――茨木市文化・子育て複合施設 おにクル(2023)
多機能複合型公共施設。多目的ホール、子育て支援の施設、ライブラリー、市民交流施設など、多岐に亙るプログラムがエスカレーターを持つ直径10mの吹き抜け「縦の道」によって結ばれている。「おにクル」は公募によって小学生からの応募案が採用されたもので、地元の伝説「茨木童子」の怖い鬼でも来たくなる施設の意
複合されていなければ出会わないような人相互のコミュニケーションが生まれている
住宅機能の一部を担う――住民にとって、住宅や学校などで充足できない空間や機能を補完するという意味で、文字通り「みんなの家」(後述)といえる
成功の要因は、①コンセプトを「立体的な公園」とし、壁を少なくして自由に歩き回れるようにしたこと、②自治体の対応=住民の自由のために運営に注力している
第3章 人に生きる力を与える建築とは何か?
l 建築は人に感動を与えられるか
すばらしい建築も人々を感動させることができると信じる
私にとって人に感動を与えられる建築とは、生命力を感じさせる建築であり、生きていることの喜びを感じる美しさ
日本人建築家の活躍は、クリエイティビティというより設計や施工における洗練の技術によるところが大きいが、私は、洗練された建築よりも力強い建築を作りたい。数寄屋造りより民家のような建築に惹かれるのは、そこに人々の生活と直結した生命の力が感じられるからであり、建築が呼び起こす感動とは、建築もまた自然の中で生き永らえていくことによるものだと思う
l いのち輝く未来社会とは何か
2025年大阪万博の全体のテーマは「いのち輝く未来社会のデザイン」で、8つのテーマに対し8人のプロデューサーと建築家が選ばれ、私は大催事場(EXPOホール)の設計を担当
'70年の大阪万博では、菊竹事務所の1員として、未来都市のヴィジョンの総決算の場とすべく加わったが、万博会場はおよそ未来都市とは程遠いと感じて途中で退所
今回目指すのは、単純で力強い建築。直径70mの金色のパラボラアンテナのような大屋根が天に向かって広がり、それを末広がりの壁で支える。未来よりも古代に先祖返りすることによって建築の生命力を蘇らせたいと考え、「いのち輝く」というテーマに応えたい
私は、「人に生きる力を与える建築とは何か」を日々自らに問いかけながら設計をしている
「生きる力」とは「動物的な生命力」。技術の進化は、人間が本来備えているべき本能的な力、五感に訴える力を退化させて来た。今こそ、技術の力を借りて、自然との関係を回復して動物的な力を取り戻すことが必要
コルビュジェは生涯、洗練という言葉とは無縁な建築家。インドで多くの建築を設計したが、ヨーロッパでの作品と違って荒々しく野性的。大地に根を降ろした建築の力強さと大らかさを謳い上げているが、モンスーン地帯の自然に遭遇して、彼の野性の血が呼び覚まされたからだろう
l 「みんなの家」と仮設住宅
「みんなの家」は、東日本大震災の直後に考え始めた。慣れない仮設住宅の被災者に小さな居場所を提供するというのが出発点。宮城野区を皮切りに、三陸3県で16棟建てる
土間や縁側を備えたかつての民家のような構成で、小さなコミュニティの場として活用
「人に生きる力を与える建築」とは、時間として持続し得る力強さを持つ建築であり、生命力を持つ建築とは、生き続け、呼吸をする建築でなくてはならない
l 建築家の使命
1979年、「Dom-ino」プロジェクトを始める。小住宅〈小金井の家〉がコルビュジェの「ドミノシステム」(1914)を連想させる。構造体だけ提示して、プランや素材は住まい手の希望に沿って作る。それまでの空間の美しさの追及から、生活の喜びの空間の追求へと変化
2011年に始めた「子ども建築塾」は、10~12歳の子どもたちと「イエ」「マチ」について考えるワークショップ。既成の概念にとらわれない自由な発想で自分の世界を描く
l 美しい建築に人は集まる
人の賑わいのある公共建築に共通するのは、、壁を極力少なくして、閉じられた部屋を最小限に留め、場所の多様性や選択性を確保している。それによって人々は居心地の良い場所を選ぶことができ、好みの仲間とのコミュニケーションも取りやすく、コミュニティが生まれやすくなっている
今は、同じ美しさでも、強い美しさを求めている
「いのち輝く」という万博のテーマを満たすのはAIや映像の技術ではない。人間の生きる力、生命力が輝くには「強い美しさ」に溢れた建築が必要。どこで初めて私にとっての「美しい建築に人は集まる」というテーマは完成する
あとがき
京城に渡ってビジネスマンとして身を立てていた父親が残した高麗茶碗に関する文章によれば、高麗茶碗の神髄は「静寂な美」と「奔流する力」にあるという。お互い相容れないような概念だが、土という静けさを湛えた物質と、それを焼き上げた火のエネルギーによって焼き物が生まれる、その時作家は姿を消して自然の力自体が作ったような印象を受ける
作家への道を探究した末に、作家の姿が消えて自然の力が浮かび上がってくる。これこそ人に生きる力を与えるに違いない
作品リスト
平凡社 ホームページ
誰のために 何のために 建築をつくるのか
自然と共存する現代建築とは? 人にやさしい現代建築とは? 世界的建築家が自らの作品を振り返りながら自由に思索する。図版多数。
大阪・関西万博の大催事場「EXPOホール」、第2回みんなの建築大賞に選ばれた「おにクル」……、話題作を手掛ける世界的建築家・伊東豊雄が、「中野本町の家」「せんだいメディアテーク」「みんなの森 ぎふメディアコスモス」「台中国家歌劇院」「みんなの家」など自身の作品をふりかえりながら、現代建築のあり方を自由に思索する最新エッセイ。
図版・写真多数。
帯
人に 生きる力を与える 建築は可能か――
機能中心の現代建築から、人が集まる美しい建築へ
世界的建築家が、建築の可能性を問う最新エッセイ
(書評)『誰のために 何のために 建築をつくるのか』 伊東豊雄〈著〉
2025年5月24日 朝日新聞
■「力強い美しさ」現出させるには
伊東豊雄さんの「誰のために 何のために 建築をつくるのか」という設問はそのまま、僕の絵画に対する疑問でもあります。
伊東さんの「世の中に建築はない方がいい」という発想は、絵などなくても生きていけるへ連結して、面倒臭く、自分の、天下国家の、人類の、なんて考える前に、創造の霊感を与えてくれた存在こそが、伊東さんの言う「非現実の世界に踏み込もうとする」そのことが重要で、その時、神殿で鈴を手に巫女(みこ)が神に奉納する自然のままの無為と化す徳によって、初めて伊東さんは唯物的近代主義思想を超えた「力強い美しさ」の生命力、埴輪(はにわ)(大阪・関西万博EXPOホール)の美を現出させたのです。
建築も絵画もアイデア(観念)から生み出されるものはまだ近代主義思想に留(とど)まっています。観念から生まれる美は頭脳の知が求めるものであって肉体から生じたものではない。肉体という自然を通過して、初めて「人と人を結ぶ」「居心地の良さ」の建築が達成されるのです。
また、「現実の向こう」といえば想起されるのが能。設計は能の「橋掛かり」を往来する仕事と指摘し、この時、建築家は旅のワキ(生者)として、シテ(霊)と出会うことで、創造世界に這入(はい)っていく。現実と非現実の往還行為を伊東さんは無重力と例え、宙に浮かぶ建築を空想する。
また一方、天空を反転させたジュール・ベルヌの地底洞窟のような作品を伊東さんはすでに「地上の地下」空間として発表している。洞窟は僕を思わず霊的地球空洞説のアガルタ伝説へ誘導してくれるのです。
建築も絵画も未完のまま居住者、鑑賞者を受け入れる。そして最後に伊東さんは、建築は「作家の姿が消えて自然の力が浮かび上がってくる」ものでなければならないと本書を結ぶ。芸術は個人から個という普遍性の領域へと消滅して完成されるのです。
評・横尾忠則(現代美術家)
*
『誰のために 何のために 建築をつくるのか』 伊東豊雄〈著〉 平凡社 2750円
*
いとう・とよお 41年生まれ。建築家。主な作品に「せんだいメディアテーク」など。プリツカー建築賞を受賞。
Wikipedia
伊東 豊雄(いとう とよお、1941年6月1日 - )は、日本の建築家。一級建築士。伊東豊雄建築設計事務所代表。
東京大学、東北大学、多摩美術大学、神戸芸術工科大学で客員教授を歴任。高松宮殿下記念世界文化賞、RIBAゴールドメダル、UIAゴールドメダル、日本建築学会賞作品賞2度、グッドデザイン大賞、2013年度プリツカー賞など受賞歴多数。多摩美術大学大学院美術研究科教授[1][2]。
来歴・人物
[編集]
1941年(昭和16年)、父親が日本と日本統治時代の朝鮮を行き来して陶磁器事業をしていた関係で、朝鮮の京畿道京城府(現・大韓民国ソウル特別市)に生まれる[3]。
2歳頃から中学生までを祖父と父の郷里である長野県諏訪郡下諏訪町で過ごす。4歳で初めて東京に行った際に、憧れをもち高校からは東京の高校に進学を決めた。
東京都立日比谷高等学校に入学。野球部であり、野球で大学を受験したが不合格で浪人する[4]。
東京大学工学部建築学科に進学。全く建築家を志しておらず、点数が低くても入れたため、消去法で進学した。当時の建築学科は工学部の落ちこぼれと揶揄されていた。ここで建築に興味を持った[4]。
菊竹清訓設計事務所勤務時に、大阪万博の近代建築物に携わったが、観衆がそれらには大して興味を持たず、太陽の塔が人を集める様を見て、近代建築に対して疑問を持ち始める[4]。
1971年(昭和46年)に30歳で独立[4]。。アーバンロボット(現:伊東豊雄建築設計事務所)を設立。当初は全く仕事がなく膨大な時間が流れた。家族や知人からの建築関係の依頼で生計を立てた[4]。
姉の家である「中野本町の家 (White U)」や[4]自邸「シルバーハット」など個人住宅を中心に手がけ、安価かつ禁欲的・ミニマルな作風で注目を浴びた。また消費社会に暮らし、物だけでなく生活空間まで消費する若い女性ら都市の「遊牧民」(ノマド)をテーマに、「東京遊牧少女の包(パオ)」といったプロジェクトを発表するなど、体を柔らかい膜のように包む建築などを構想し、都市を批評する活動を行った[5]。バブル景気の最中でも、大きな仕事は入らず、実績を問われてもその最初のきっかけをなかなか掴めなかった[4]。
博物館を訪れた際に「ざる」などが立派なガラスケースに展示されており、「こんなケースが必要なのか、触っても良いんじゃないか」と管理者に尋ねたところ「触っても良いです。でも、盗まれたらどうしますか?管理してる私が怒られるんですよ」と返されて「来場者のためじゃなくて管理者のために建築される。これが公共建築か」とショックを受けて、なんとしてもそれを変えたいと思った[4]。
1986年(昭和61年)、47歳の時に念願の公共建築の仕事が入った[4]。横浜駅西口に作ったシンボルタワー兼地下街換気塔「風の塔」は、無数の穴を開けた金属板(パンチメタル)と照明多数で構成された半透明な簡素な塔であるが、夜間は風などの周囲の気象条件に合わせて表面にカラフルな光が浮かび上がるようプログラミングされており、金属板の斬新な使用方法や環境に対する相互作用性で注目を浴びた。
1990年代に入り、「せんだいメディアテーク」を代表として[6]、次第に構造上でも実験的で、なおかつ官能的な外観・内部空間を有する作風に移りつつある。『新建築』誌上で槇文彦から「平和な時代の野武士たち」と呼ばれた世代の筆頭である[7][8]。
2006年(平成18年)には王立英国建築家協会よりRIBAゴールドメダルを受賞するなど、世界でも重要な建築家の一人とみなされるようになり、2013年(平成25年)にはプリツカー賞を受賞した。また、設計する建築のための家具の設計も行う。後進の建築家を多く輩出する教育者としても高い評価を得ている。
2010年(平成22年)には愛媛県今治市大三島町に今治市伊東豊雄建築ミュージアムを開設した。
2012年(平成24年)には国立競技場「基本構想国際デザインコンクール」に参加し、最終選考11作品に残った[9]。仕切り直しとなった2015年(平成27年)の再コンペにも参加し、今度は明治神宮外苑という立地を踏まえ神道を意識した作品で臨んだが、審査の評価点では「工期短縮」部分で27点の大差をつけられたこともあり、「総合」で8点の僅差で敗れ採用に至らなかった[10]。しかし、敗因となった 「工期短縮」部分では、A案の36ヵ月に対し伊東らB案は34ヵ月で勝っていた[11]。
2023年(令和5年)10月にかけて芝浦工業大学で開催した初期作の個展終了後の12月、1989年までの図面や模型など約2600点をカナダ建築センター(CCA)に寄贈する。伊東は一括での保管を希望し、それにかなったCCAを選んだ。伊東は1990年代以降の資料寄贈先もCCAとする意向であるが、日本の国立近現代建築資料館も候補となるよう努力する旨を取材に対してコメントしている[12]。
略歴
[編集]
1941年(昭和16年):京城に生まれる
1943年(昭和18年):長野県に移住
1965年(昭和40年):東京大学工学部建築学科卒業
1965年(昭和40年) ~ 1969年(昭和44年):菊竹清訓設計事務所勤務
1971年(昭和46年):アーバンロボット設立
1979年(昭和54年):アーバンロボットを伊東豊雄建築設計事務所に改称
2005年(平成17年):くまもとアートポリス第3代コミッショナー
2017年(平成29年):UIAゴールドメダル受賞
1984年(昭和59年):日本建築家協会JIA新人賞(笠間の家)
1986年(昭和61年):日本建築学会賞作品賞(シルバーハット)
1990年(平成2年):村野藤吾賞(サッポロビール北海道ゲストハウス)
1991年(平成3年):毎日芸術賞(八代市立博物館・未来の森ミュージアム)
1993年(平成5年):BCS賞(八代市立博物館・未来の森ミュージアム)
1994年(平成6年):日本建築学会北海道支部北海道建築賞(ホテルP)
1997年(平成9年)
ブルガリア・ソフィア・トリエンナーレグランプリ
BCS賞(八代広域行政事務組合消防本部庁舎)
1998年(平成10年):芸術選奨文部大臣賞(大館樹海ドーム)
1999年(平成11年)
日本芸術院賞(大館樹海ドーム)
BCS賞(大館樹海ドーム)
2000年(平成12年):国際建築アカデミーアカデミシアン賞
2001年(平成13年):グッドデザイン大賞(せんだいメディアテーク)
2002年(平成14年)
World
Architecture Awards Best Building(せんだいメディアテーク)
BCS賞(せんだいメディアテーク)
ヴェネツィア・ビエンナーレ金獅子賞
2003年(平成15年):日本建築学会賞作品賞(2度目)(せんだいメディアテーク)
2006年(平成18年)
RIBAゴールドメダル(
公共建築賞(せんだいメディアテーク)
2008年(平成20年)
金のコンパス賞
フレデリック・キースラー建築芸術賞
BCS賞(瞑想の森 市営斎場)
2010年(平成22年):高松宮殿下記念世界文化賞
2017年(平成29年):UIAゴールドメダル
2021年(令和3年)
リチャード・ノイトラ賞[19]
伊東家の養子となった義兄・伊藤成憲は幸田露伴の姪孫(露伴の長兄・成常の長男・政吉の五男)。
空間デザインコンペティション、建築環境デザインコンペティション、セントラル硝子国際建築設計競技、せんだいデザインリーグ、トウキョウ建築コレクション、広島8大学卒業設計展などの審査員を歴任。
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