略奪の帝国 William Dalrymple 2022.9.6.
2022.9.6. 略奪の帝国 東インド会社の興亡 上下
The
Anarchy ~ The
Relentless Rise of thr East India Company 2019
著者 William
Dalrymple 1965年スコットランド生まれ。現在、イギリスで最も活躍する歴史家の一人で、その著書の多くがベストセラーとなっている。ケンブリッジ大在学中に、マルコ・ポーロについての評伝『In Xanadu』で評価を得て、その後『White Mughals, The Last Mughals: Love and Betrayal in 18th-century
India, Return of a King: The Battle for Afghanistan』など、インド、ムガル帝国を舞台とした数々の話題作を発表。本書は’19年のサンデー・タイムズベストセラーのトップ5に入り、バラク・オバマによる同年のベストノンフィクションにもリストアップされた。邦訳に『コ・イ・ヌール:美しきダイアモンドの血塗られた歴史』がある
訳者 小坂恵理 翻訳家。慶應大文学部英文学科卒。訳書に『古今東西の哲学が教える現代をよく生きる術』、『貿易戦争は階級闘争である』、『マーシャルプラン:新世界秩序の誕生』、『ポール・ローマーと経済成長の謎』など多数
発行日 2022.6.20. 初版印刷 6.30. 初版発行
発行所 河出書房新社
『19-08 コ・イ・ヌール』参照
登場人物
1.
イギリス人
l ロバート・クライヴ(初代クライヴ男爵) 1725~74
イギリス東インド会社書記として入社。軍人として優れた才能を発揮してベンガル知事に出世。野心旺盛で強引、暴力的で冷酷だが、私設軍の有能なリーダーとして活躍。東インド会社はベンガルなど3州で政治的にも軍事的にも派遣を握り、イギリスによるインド統治の土台を築く
l ウォーレン・ヘイスティングズ 1732~1818
言語学者。ウィリアム要塞の初代プレジデント。ベンガル最高会議議長。1773~85年事実上インドの初代総督。学究肌で勤勉なワーコホリック。フィリップ・フランシスとの対立が原因で不正行為を非難され、議会で弾劾されたが、1795年最終的に無罪
l フィリップ・フランシス 1740~1818
フィンランド生まれの政治家。狡猾な論客。ベンガルの腐敗の元凶はヘイスティングズだと信じ込み、総督からの追い落としを画策。ヘイスティングズとの決闘に敗れロンドンに戻り、訴訟を提起、弾劾に追い込む
l チャールズ・コーンウォーリス(初代コーンウォーリス侯爵) 1738~1805
1781年北米のヨークタウンの包囲戦でイギリス軍を率い、米仏連合軍に敗れた後、イギリス東インド会社にインド総督として採用され、永代土地所有権を導入。1782年第3次マイソール戦争ではティープー・スルターンを破る
l リチャード・コリー・ウェルズリー(初代ウェルズリー侯爵) 1760~1842
総督としてインドを征服。イギリス東インド会社の商人気質を軽蔑したが、1799年第4次マイソール戦争では東インド会社を率いて勝利、マイソール王国は破壊。1803年の第2次マラーター戦争ではシンデーとホールカルの連合軍を打破、インドから仏人部隊を一掃。インド亜大陸ではパンジャーブ地方の南のほとんどの地域がEIC支配下に入る
l アーサー・ウェルズリー大佐 1769~1852
マイソールの知事。1799年にはティープーの部隊を、1803年にはマラーターの軍隊撃破に貢献。後にウェリントン公爵として有名に
l ジェラルド(初代レイク子爵) 1744~1808
60歳を超え、7年戦争に参加したベテラン。米独立戦争ではヨークタウンでワシントンと戦う。ウェルズリーの有能な最高司令官で、1803年の北部戦域ではマラーター軍を打破
l エドワード・クライヴ(初代ポーイス伯爵) 1754~1839
ロバートの息子。無能なマドラス知事として有名
2.
フランス人
l ジョゼフ=フランソワ・デュプレックス 1697~1764
インドのフランス入植地の総督。インド南部でのカーナティック戦争で若きロバート・クライヴに敗北
l ミシェル・ヨアキム・マリー・レーモン 1755~98
ハイダラバードのフランス大隊の傭兵司令官
l ピエール・キュイラー=ペロン将軍 1755~1834
ブノワ・ドゥ・ボアーニュの後継者としてシンデー連隊の司令官になり、デリー南西のアリーガル要塞に籠ったが、1803年東インド会社から老後を保証されたため部下を裏切る
3.
ムガル帝国
l アーラムギール・アウラングゼーブ 1618~1707
厳格で魅力に乏しい皇帝。露骨な野心の持ち主、デカン地方を征服し帝国を拡大するが、それが帝国の屋台骨を揺るがす。宗教的偏見が強く、帝国内のヒンドゥー教徒、特に同盟関係にあるラージプート族を疎んじたため死後は帝国が一気に崩壊へと向かう
l ムハンマド・シャー・ランギーラー 1702~48
芸術を愛好、行政には無関心、軍事的才能にも恵まれず、1739年カルナールの戦いでペルシアに敗退、デリーが略奪に遭い、コーヘ・ヌールのダイヤが嵌め込まれたクジャクの玉座が奪われる。国庫は空となりムガル帝国は破産し、修復不可能なまでに崩壊
l ガージー・ウッディーン・ハーン、イマード・ウル・ムルク 1736~1800
ハイダラバードの初代ニザーム・ウル・ムルクの10代の孫。1753年パトロンのサフダル・ジャングに勝利、翌年にはアフマド・シャー帝を幽閉・殺害、アーラムギール2世を玉座に就け、その息子シャー・アーラムを殺害を企図、皇帝も’59年暗殺。アフガンのナジーブ・ウッダウラが蜂起するとデリーから逃走、デリーの知事を譲る
l アーラムギール2世 1699~1759
ジャハーンダール・シャー帝の息子。’54年傀儡で即位するが’59年暗殺
l シャー・アーラム2世(アリー・ガウハル) 1728~1806
少年時代ペルシャのデリー侵攻を目撃、クライヴとは繰り返し戦火を交えて生き延び、優秀な司令官のお陰で帝国の再建に迫るが、司令官の夭折により挫折。ローヒラー族に蹂躙され、想像を絶する逆襲苦境に置かれたが、彼の宮廷では高尚な文化が栄え、自らも優れた詩を創作、詩人や学者、芸術家のパトロンとしても支援
4.
太守
l アリーヴァルディー・ハーン(ベンガル太守) 1671~1756
アラブ人とトルクメン人の血を引く。銀行家ジャガト・セート一族の支援を受けてムガル帝国で最も豊かなベンガル州の実権を掌握。マラーター王国を打破した後はムルシダーバードにシーア派イスラームの宮廷文化を創造し、政治・経済の中心として栄えた。ムガル帝国衰退の大混乱の時代、穏やかな環境で繁栄を謳歌したベンガルは稀有な存在
l シラージュ・ウッダウラ(ベンガル太守) 1733~57
アリーヴァルディーの孫。カルカッタなどで東インド会社を襲撃したのがきっかけで、EICはベンガルの制服に乗り出す。外国勢力からの評判は最悪で、放蕩の限りを尽くす
l ミール・ジャアファル(ベンガル太守) 1691頃~1765
アラブ人の傭兵。アリーヴァルディーの対マラーター勝利に貢献、’56年カルカッタの勝利で太守になったもののEICの傀儡に過ぎないことを認識、クライヴの評価も低い
l ミール・カーシム(ベンガル太守) 1763まで太守
無教養で支離滅裂な義父のミール・ジャアファルと正反対で、ペルシア貴族の血を引き、有能で聡明、決断力に富み、'60年にはEICと共謀してクーデターを成功させ、義父に代わって太守となり、近代的な歩兵隊を擁する規律正しい国家を創造するが、3年でEICと対立し、’65年バクサールの戦いで敗退、貧困のうちに死去
l シュジャー・ウッダウラ(アワド太守) 1732~74
ムガル帝国の偉大なワジール(宰相)サフダル・ジャングの息子で、父の跡を継いでアワド太守になる。’65年バクサールの戦いでEICに敗れるが、アワド太守の地位は保障され、死ぬまでEICの忠実な見方であり続けた
5.
ローヒラー族
l ナジーブ・ハーン・ユースフザイー、ナジーブ・ウッダウラ 1770年没
パシュトゥーン人のユースフザイー族出身の馬喰。騎兵隊司令官としてムガル軍に仕えるが、’57年にアーラムギール2世の娘婿のアフマド・シャー・ドゥッラーニーが侵攻すると彼の陣営に寝返り、その下でデリーの知事となり、晩年は彼の名に因んで建設されたナジーバーバードに落ち着く
l ザービタ・ハーン・ローヒラー 1785年没
ローヒラー族の族長。ナジーブ・ウッダウラの息子。パーニーパトの戦いなど、シャー・アーラムに何度も反乱を起こす
l グラーウ・カーディル・ハーン・ローヒラー 1765年頃~87
ザービタ・ハーンの息子。'72年ガウスガルの陥落でシャー・アーラムに捕らえられ皇子として育てられるが、’88年デリーを攻撃して反旗を翻す。最後はマハーダジー・シンデーのマラーター軍に捕らえられ殺害
6.
マイソールのスルターン
l ハイダル・アリー 1782年没
マイソール軍の将校。’61年マイソール王国オデヤ朝のラージャーを打倒して実権掌握。仏軍の戦術から近代式歩兵戦を学び、EICに激しく抵抗、’80年にはポッリルールで圧勝
l ティープー・スルターン 1750~99
ハイダル・アリーの息子。’92年コーンウォーリス率いるEIC軍の3者同盟に敗れて領土の半分をEICに割譲。’99年ウェルズリー卿に敗れ戦死
7.
マラーター王国(同盟)
l チャトラパティ・シヴァージー・ボーンスレー 1680年没
マラーター族の指導者。ビージャプル王国のアーディル・シャーを倒してからデカンで王国を創造、ムガル帝国の強敵として対峙。'74年戴冠式を行いチャトラパティLord of the Umbrellaの称号を与えられた
l ナーナー・ファドナヴィース 1742~1800
プネーを拠点とする政治家。ペーシュワー(宰相)に財務大臣として仕える。「マラーター王国のマキャヴェッリ」として知られる。EICの脅威にいち早く気付き、ハイダラバード王国、マイソール王国と3国同盟を結成しようと試みるが実現に至らず
l トゥコージー・ホールカル 1723~97
マラーター王国の族長。パーニーパト戦を生き残り、インド北部でマハーダジー・シンデーの手強いライバルになる
l マハーダジー・シンデー 1730~94
マラーター王国の族長。晩年の20年はヒンドゥスターン北部で最も強力な支配者。’71年以降シャー・アーラムを庇護下に置きムガル皇帝はマラーター王国の傀儡となる。近代式軍隊を創設するが、晩年はトゥコージー・ホールカルとの対立激化もあって、EICと和平を結んだため、マラーター王国内の結束は緩み、最終的に王国崩壊の前提を作る
l ペーシュワー・バージー・ラーオ2世 1775~1851
マラーター王国最後のペーシュワー(‘95~'18)。若くしてトップになるが指導力はなく、'02年にヴァサイーでEICと条約を結んだ結果、偉大なマラーター同盟の解体に至る
l ダウトラ・ラーオ・シンデー 1779~1827
マハーダジー・シンデーの没後、15歳でブノワ・ドゥ・ボアーニュの創った強力な軍隊を引継ぐが能力不足で、ホールカル家と対立したこともあって対EICの共同戦線を張ることが出来ず、’03年の壊滅的なマラーター戦争の勃発を招き、EICがインドで最も強力な存在となり、イギリス領インド帝国誕生への道が開かれる
l ヤシュワント・ラーオ・ホールカル 1776~1811
トゥコージー・ホールカルの側室の子。戦場では強いが外交は苦手で、EICに付け込まれる。EICはマラーター王国の結束を崩し、シンデーを降伏させ、’03年までにヒンドゥスターンの大半を手中に収める
はじめに
インドの言葉がごく初期に英語に加えられた事例はわずかだが、その1つがlootで、略奪を意味するヒンディー語のスラング。インド北部の平野の言葉だったが、18世紀末を境に突然イギリス全土で一般的に使われ始めた
ウェールズのポーイス公国の最後の皇太子は、13世紀イングランドの君主に臣従した褒美としてポーイス城を建設。この城には後にイングランドが制服と盗用してきたインドからの略奪品が溢れ返っている。最も目立つのはベンガル太守シラージュ・ウッダウラがプラッシーの戦場から敗走した時に残された輿と、マイソールの虎と恐れられたティープー・スルターンの天幕
イギリス東インド会社は「戦争行為」が勅許状によって認められたお陰で、1602年の処女航海でポルトガルの大型船を攻撃し捕獲して以来、暴力に訴えて目的を達成してきた
1630年代からはインド入植地の周辺で、複数の狭い領域を支配下に収める
1765年が決定的な瞬間。これ以後シルクや香辛料を取引する一介の商社は、特殊な組織に変身。250人の駐在官company clerkは、現地で集めた2万人のインド人兵士で構成される軍隊を後ろ盾にして、わずか数カ月のうちに、ムガル帝国の最も豊かな州の事実上の支配者となり、好戦的な植民地統治機構へと徐々に姿を変えていく
1803年までには、私設軍の規模は20万人に拡大、インド亜大陸全体を制圧し、直接統治
最初の本格的な領土の制服は1756年のベンガルで、世紀末までにはムガル帝国の首都デリーまで拡大、デリー以南のインドの支配を完了
インドの制服は、1民間企業が一切の制約を受けずに危険な行為に及んだ結果であり、営利会社の下で植民地化され、この会社は出資者の利益を増やすことが最大の目的
19世紀半ばにヴィクトリア朝時代が最盛期を迎え、イギリス人によるインド支配が悪辣な商人の下で進められたことへの戸惑いが強まる。帝国には文明化の使命があり、1企業による略奪をきっかけにイギリスのインド統治が始まったという不都合な真実は意図的に忘れ去られた
1614年、トーマス・ロー卿は国王ジェームズ1世からムガル帝国に派遣されジャハーンギール帝に謁見。ジャハーンギールの父親アクバル帝が築き上げた帝国は、インド、パキスタン、バングラデッシュのほぼ全域とアフガニスタンの一部を含み、中国の明王朝に匹敵、人口はオスマン帝国の5倍の1億人、全世界生産量の1/4を占めた
両国の関係は、EICから派遣された貿易使節団によって始まる。EICは優れた経営効率のお手本
100年の歴史の中で、本社採用は35人のみ、最小限のスタッフが歴史上類のない企業クーデターを成功させる。企業の暴力行為の最たる例として世界史の中で際立っている
EIC成功の重要な要因の1つは、イギリス議会から受けた支援。18世紀を通じて両者の共生関係は着実に深まり、最終的に官民連携の形にまで発展。クライヴを始めインドから帰国した成金は、議席を買収、議会は国家権力でEICを支援、英仏の東インド会社同士の争いに、船や兵士の確保という喫緊の課題を後押し
イギリス東インド会社は、商売上有利な土地を確保することと同時に、イギリス議会でのロビー活動を発明し、自社株で国会議員を買収し、有利な法律の制定を働きかけた――議会の調査で買収が発覚、EICは贈賄とインサイダー取引の罪に問われ、枢密院議長は弾劾、EIC総督は収監
1765年、イギリス人が勝手にアラーハーバード条約と呼ぶ、シャー・アーラムが署名したディーワーニー(徴税権)は、本来国王に与えられるものだが、EICは勝手に会社に与えられたものと解釈し、インドに壊滅的な打撃をもたらす
中国にはアヘンを持ち込み麻薬事業の独占を狙い、アメリカには中国のお茶を持ち込んでインド同様の略奪をするつもりだった
「帝国の中の帝国」として、開戦の権限や和平を結ぶ権限を東洋のあらゆる場所で持ち、広大な地域にまたがる高度な行政機構や文民組織を創造し、ロンドンのドックランズの大半を建設し、イギリスの貿易の半分を手掛ける
‘69年ベンガルが飢饉に見舞われるとバブルがはじけ、EICも巨額の債務を抱えて行き詰まり、政府の緊急支援により救済され、支援と見返りに企業活動を厳しく規制して取り締まる最初の事例となった
本書の目的は、ロンドンの一介の企業が、1756~1803年インド亜大陸の支配者になった背景を追うことにある
18世紀のインドは「暗黒時代」ではなかったというのが見解として確立。ムガル帝国の衰退はインド亜大陸の他の地域の経済再生につながったとされるが、アナーキー(無政府状態)だった現実は変わらず、18世紀の大半を通じてアナーキーはムガル帝国の心臓部を確実に混乱に陥れ、デリーとアーグラの周辺は特に深刻な影響を受けた
18世紀インドを訪問した人のほぼ全員が、国土の大半は旅行を続けるのが困難と述べているが、彼らが広めたのがグレート・アナーキー(大混乱)という概念
第1章
1599年
1599年ムーアゲート・フィールズに、最大の実力者といわれたロンドン会計検査官のトーマス、スマイズ卿の呼びかけで、東インド会社の創設を女王に請願するために様々な階層の人々が参集。会社の目的は、東インドの島々や国々と交易すること
集まった人々は、新会社への出資を求められ、101人から33万ポンド余りを集め、出資者は、「祖国のため、イギリスの勢力圏での貿易と商業の発展のために」尽くすと宣言
当時のイギリスは比較的貧しい農業国家で、宗教紛争の結果、ヨーロッパ最強の組織と一方的に縁を切ったので、のけ者国家とされ、孤立したイギリスは遠方の新しい地上にチャンスを求め世界を探し回るほかなかった状況。将来の方向性を定めたのはフランシス・ドレイク卿で、1560年代初めパナマで採掘された銀を運ぶラバの列を襲撃、バッカニア(海賊)として名を挙げた。以後も国家公認の海賊として各国の船団を襲い巨万の富を築く
冒険家は、海賊行為のみで、遠隔地貿易は植民地の建設は苦手で、大半は悲劇に終わっていたが、1584年初の植民地がアメリカのチェサピーク湾ロアノーク島に建設され、未婚の女王に因んでヴァージニアと名付けられたものの、1年経たずに破壊
今回発足した新会社はジョイント・ストック・カンパニーで、テューダー朝イングランドの最も素晴らしいイノベーションの1つであり、元は中世の手工業ギルドで誕生したが、違いはプロジェクトの実行に関与しない人も巻き込んだ組織であること
1600年新会社に女王陛下の勅許が出る――出資者218人。最初の6度の航海の関税免除、イギリスが東インド諸島で手掛ける交易を15年間独占、軍隊を持つ半主権的な特権が与えられたが、文言の曖昧さを悪用して、アジアですべてのイギリス臣民に対する管轄権を主張、貨幣を鋳造、要塞を築き、法律を制定、独自の外交政策を実行、入植地を建設
翌年私掠船をベースに再艤装されたレッド・ドラゴン号ほか3せきがジェームズ・ランカスター卿に率いられて出航、喜望峰を回ってアチェに到達、途中ポルトガル船を略奪し、1年半後にロンドンに無傷で戻ってきたときには、高価な品で溢れかえり、300%もの利益を上げる。以後15年間に15回の探検を実行に移すが、オランダが国内の東インド会社を統合してオランダ連合東インド会社が発足、東方貿易を独占すると、資本力の小さいイギリスは手が出ず、香辛料はオランダに譲る代わりに、将来有望な分野として開拓したのが上質の綿織物、インディゴ(藍色の染料)、チンツ(インド更紗)で、何れもインドの特産
1608年、イギリス東インド会社の3回目の航海を率いた船長がウィリアム・ホーキンスで、EICの船長として初めてインドの土を踏む。インドは世界の産業の一大中心地で、特に繊維製品の製造に関しては世界のリーダーで、織物と関連する英語の多くがインドに由来する。ヨーロッパの銀がムガル帝国に流入し、それに相当する商品を持ち帰る
17世紀になると、ヨーロッパ人は世界の他の地域の人民に対して戦争で簡単に勝利を上げることに慣れ、スペインのアステカ帝国征服を嚆矢として、次々に力でねじ伏せていく
ムガル帝国は例外で、1632年ポルトガル人が要塞を築いて植民しようとした際にはムガル軍の攻撃で撃退され、ゴア駐在のポルトガル人総督も打つ手がなかった
ホーキンスは、ムガル皇帝との関係構築に努めるが、追い返される
1615年EICはジェームズ国王を説得し、国王の使者としてトーマス・ロー卿を派遣
皇帝はイギリスの産品には興味を示さず、ローは3年粘って商館の建設を認めさせ、その後の200年の間に帝国の体制の中で巧妙に活動する術を身に着けていく
草創期のEICはローの忠告に従って平和な貿易の確立に努め、各地に商館を――当初40年間に168隻の船を出し、104隻が帰還、それでも会社は利益を出し、繊維、宝石、胡椒、硝石の貿易がオランダの香辛料を上回る利益を出し始める
1634年最初の植民都市を後のマドラスに建設、民政が認められ通貨も鋳造
次いで、2番目の植民都市がボンベイに築かれる
1681年総裁になったジョサイア・チャイルド卿は、ムガル帝国に力で対抗しようと'86年大艦隊をベンガルに派遣したが、イスラーム国家は征服したが、ムガル帝国には簡単に撃退され、各地の商館も閉鎖された
1707年アウラングゼーブ帝死去がEICの転機に――ムガル帝国は現実的で寛容な姿勢とヒンドゥー教徒との同盟という2つの土台の上に築かれたが、アウラングゼーブが戦士集団の中核を形成するラージプート族などに強い偏見を持ち続けたため国が分裂状態に陥る
特に西方デカン地方のイスラーム国家を攻撃して勢力伸長を計ったため、その南にいたヒンドゥー至上主義のボーンスレー率いるマラーター族を刺激、反乱を拡大させ、相次いでムガル帝国の中心地が襲われた。ボーンスレーは1674年にはチャトラパティという君主の称号を与えられ、500年にわたるイスラームの支配を受けたヒンドゥー教徒の抵抗と復活のシンボルとして後世に名を残すが、彼の死後はムガル軍が失地を回復したものの、各地に反乱は飛び火、アウラングゼーブの死後は帝国の分裂が始まる
3人の皇帝が相次いで殺害され、マラーター王国の勢力が拡大していくと、ムガル帝国の地方長官である太守は自分の身を自分で守るしかなく、各地で独立した支配者のように振舞いだし、中には広範囲にわたって長期間支配する例も出現
ベンガルだけは例外で、太守がムガル帝国に強い忠誠心を持ち、厳しい徴税姿勢によって取り立て皇帝に献上し続けた
イギリス東インド会社も次第にムガル帝国の威光に敬意を払わなくなり、1710年にはイギリス人が拘束されたのを口実にマドラスで武器をとって立ち上がり、周辺の地域を徹底的に破壊、略奪を行う
1737年マラーター同盟の司令官バージー・ラーオの部隊がデリーに迫り、皇帝はニザーム・ウル・ムルクに援軍を要請したが、逆にマラーター同盟に包囲される
1739年にはナーディル・シャーのペルシャがハイバル峠を越えて侵入、デリーを占拠して暴虐の限りを尽くし、ジャハーンギール帝が愛用したクジャクの玉座を始め全ての財宝を奪って引き揚げる
ムハンマド・シャー・ランギーラーは王座に留まったが、信頼も実権も失い、国庫は空
誰もが保身のための対策を講じ、インドは求心力を失って分解する一方、戦士の自由市場として世界有数のヒンドゥスターンの全域に軍人専門の労働市場が立ち上がる
ムガル帝国の周縁部は発展し、アフガン系ローヒラー族、パンジャーブ地方のシク教徒などは独立国家を創造し、王国としての統治体制を確立
マドラスの南ポンディシェリーに砦を構えるフランス東インド会社と、マドラスのイギリス東インド会社が私設軍を編成し対抗し始める
フランス東インド会社の創設はイギリスより遅れて1664年、8年後にポンディシェリーに拠点を築き、マラーター王国に接近。1742年ベンガルに赴任したジョゼフ=フランソワ・デュプレックスはフランス東インド会社の総督となり私設軍を増強して勢力を広げ、マドラスのイギリス東インド会社を撃退
英仏の対立は世界を巻き込む全面戦争となり、1752年には北米大陸でフランス人冒険家がオハイオのイギリス植民地を襲い、フレンチ・インディアン戦争(7年戦争)に発展、フィリピン、キューバ、ナイジェリア沿岸、ケベックからプラッシーの湿地帯(ガンジス川河口)やマンゴー農園(プラッシーにあるプランテーション)へと広がる。最後まで紛争が残ったのはインド
第2章
断れない提案
1755年フランス東インド会社が軍艦を含む大船団をインドに派遣したのに対し、イギリス東インド会社も現地に武装強化を指示するとともに、既にインドで財を築き18カ月前に辞めてコーンウォール州出身の下院議員となったが買収が露見して免職になっていたロバート・クライヴを呼び戻してインドに派遣する
1725年生まれのクライヴは、1742年EICに採用され、翌年インドへ赴任。マドラスで仏軍に敗れた後逃亡し、別の要塞で歩兵部隊に入り、インド人傭兵を訓練してフランス軍に対抗、マドラスではデュプレックスを破って勝利を収める
クライヴが最初に入ったのはベンガルの中心地で急速に発展したカルカッタ。民族抗争の激しかったインドで、EICが橋頭保を築きしっかり防備が出来たカルカッタの街はインド人にとっても安全安心な街として人口が急増
ベンガルは、太守アリーヴァルディーの治世で黄金時代を築く。唯一の不安が孫で法定推定相続人のシラージュ・ウッダウラの存在
アリーヴァルディーの没後跡を継いだシラージュは、早速イギリスEICに最後通牒を突き付け降伏させるが、捕らえられた中には24歳のヘースティングズもいた
内陸部は弱肉強食の大混乱に陥る
デリーでは、アワド太守でありムガル帝国のワジール(宰相)のサフダル・ジャングの後見を得て10代のイマード・ウル・ムルクが力をつけ、陰謀でジャングを追放、皇帝も幽閉して、アフマド・シャーの代わりにアーラムギール2世を傀儡として即位させ操る。アーラムギール2世の長男のシャー・アーラムは26歳で幽閉状態から解放され、帝国の法定推定相続人に任命される。アーラムギール2世は厳格で、アウラングゼーブ帝が残した道を確実に踏襲したが、シャー・アーラムは詩や文学に没頭し、スーフィー(イスラム神秘主義)に傾倒していたために、イマード・ウル・ムルクに追い落とされようとしていた
第3章
略奪の限りを尽くす
新太守シラージュの軍勢はイギリス東インド会社のドレイク知事が守るウィリアム要塞を急襲、圧倒的な数の差で守備隊は敗走、徹底的な略奪が行われ、EICは最も利益の上がる貿易の拠点を失い、インドに滞在するイギリス人の怒りは何世代にもわたって残る
ちょうどその時軍艦に乗ったロバート・クライヴの率いる英国陸軍砲兵隊の3個連隊がコロマンデル海岸(半島東南部)に到着。本来仏軍との対決のために派遣されたものだったが、ベンガルへの直接投資で大きな損失を被ったクライヴの説得に負けて全軍をカルカッタの奪回に向けて派遣、さらにはEICの持つ特権の確立と賠償を要求することになる
‘57年カルカッタを奪回したクライヴはEICの名において、提督はイギリス国王の名において、シラージュに宣戦布告。瞬く間にシラージュ軍を撃破し、EICの特権の回復を勝ち取るが、直後に提督には米国大陸での7年戦争開戦が伝えられ、インドでも対仏戦が始まり、すぐ上流にあるフランス植民地シャンデルナゴル攻撃へと向かい陥落させる
シラージュの敗走を見て部下たちの離反が始まり、アリーヴァルディー一族内でシラージュを引きずり下ろす動きが活発化、盟友のミール・ジャアファルと銀行家のジャガト・セート一族はEICの軍事力に注目、莫大な報酬でクーデター支援を依頼、プラッシーの戦いでシラージュ軍を撃退。シラージュは逃走中に斬殺され、ミール・ジャアファルが太守に就く
プラッシーでの勝利を境に、イギリス東インド会社による際限ない略奪と資産収奪の時代が幕を開けると同時に、イギリスの貿易の性質が大きく変化。それまでイギリスの金が入ってきたが、’57年以降は入金が途絶え、ベンガルは外国の地金が吸い込まれるシンクから、大量の冨が奪われていく宝庫となり、EICは余剰収入の大半を没収し、豊かになった財源でライバルを打ち負かし、1803年には帝国の首都デリーまでも手に入れた
クライヴが支援した宮廷クーデターのイギリス人はベンガルで支配的な軍事力と政治力を手に入れたため、それをきっかけにインドの勢力均衡は大きく崩れ、同盟関係の結成や解消が万華鏡さながらに目まぐるしく変化、混乱が落ち着くことはなかった
第4章
無能な君主
1760年クライヴが国会議員になる夢実現のため巨万の富をもって帰国すると、ベンガルは大混乱に陥る
ミール・ジャアファルの宮廷は金欠で兵士の給料が支払えずに不満が充満し、各地で反乱が勃発。EICはこの混乱に乗じて勢力伸長を計り、1762年までにベンガルの400カ所以上にイギリスの交易所を設置、関税も無視し、所有権を持たない土地を囲い込んでいく
荒廃を極めたデリーではイマード・ウル・ムルクがマラーター族に支えながら権力を維持、傀儡だったアーラムギール2世を殺す
放浪の身だったシャー・アーラムは父の死の直後、同じくイギリス軍に負けて辛くもベンガルから脱出したフランス軍司令官ジャン・ロー・ド・ローリストンと遭遇、仏軍の支援を受けてベンガルの奪回に乗り出すが、イギリス軍の支援を受けたミール・ジャアファルの返り討ちに遭い、ローは捕虜となって、皇帝は退散
ミール・ジャアファルは、この戦いで息子を失い、EICが銀行家のジャガト・セートと共に義理の息子のミール・カーシムを押し立てて2度目のクーデターを成功させると、ミール・カーシムはベンガルの再生計画に着手、ベンガル南部をEICに割譲することで一定の独立を確保することに成功
一方、皇帝はイギリス軍の傭兵に追跡されながら、イギリス東インド会社との関係を見直し、お互いに多くを提供し合えるという現実を認識、EIC側も誰からも崇拝される皇帝という存在を有利な形で利用するべきと考え、両者が接近、連携に成功するとミール・カーシムも臣下として皇帝に恭順の意を表し、ベンガルから皇帝に巨額の年貢の提供を約束
皇帝はデリー帰還を目指すが、そこにはアフガニスタンから来た残忍なドゥッラーニーが居座っていて、ティムールの王家を根絶やしにしてヒンドゥスターン征服を目指していた
ベンガルではヘースティングズがムガル帝国とEICの共同統治を実現させようと画策していたが、EIC傘下のイギリス民間の私貿易人が特権を乱用してベンガル経済へ深く食い込みミール・カーシムの支配を弱体化させていた
1763年ミール・カーシムとEIC地方組織との間に武力衝突勃発
第5章
流血と混乱
カルカッタのEICも宣戦布告せざるを得なくなり、皮肉にも軟禁していたミール・ジャアファルを復権させる
ミール・カーシムは敗走、西のアワドに入り、まだアワドに留まっていたシャー・アーラムとEICに対抗するムガル大連合を打診。アワド太守のシュジャー・ウッダウラは野心過剰で尊大、無教養、大連合構想に賛同。総勢は15万に膨れ上がる。対するEIC軍は19千だが、雨期に入って戦線は膠着状態、その間シュジャーは戦いのさなかに動こうとしなかったミール・カーシムに不信を抱き牢獄に幽閉
1764年バクサールの戦いは混乱を極め、大逆転でEIC軍の勝利となり、ベンガルとその沿岸を支配下に収め、そこから西の内陸部へと影響力を拡大、インドの領土征服のための土台作りに成功、会社国家が誕生
シュジャーが逃走したため、囚われの身だったミール・カーシムは解放されたが、身一つで放浪し、貧困のうちに生涯を終える
シュジャーは、抵抗を続け、アフガン系ローヒラー族のもとに身を寄せ、仏人傭兵隊長に降伏交渉を一任、命と自由な身分を保障され投降、EIC軍監視のもとに太守の座を守る
シャー・アーラムは、戦争中も秘かにEICとの関係修復に腐心、シュジャーの逃亡を見届けるとEICの支援を得てデリーに向かう
EICのロンドンの取締役会は、今やプラッシー男爵となったクライヴをベンガル知事として派遣
武力衝突の勃発で劣勢が伝えられるとロンドンの株価は一気に落ち込み、投資家の間にパニックが広がり、クライヴの復帰を満場一致で可決。クライヴは帰国後格下ではあるがアイルランドの貴族として爵位を授かり、念願の議員となり、他のEIC取締役との口論に退屈していたが、広大なアジアをEICの支配下に収めるために前代未聞の権力を与えられることが分かると躊躇なく応諾、3度目の赴任に出発
1765年新知事として着任したクライヴの最初の仕事は、不安定で危険な権力の空白が続くヒンドゥスターンの制圧
まずはアワドのシュジャーと対面、EICの保護下での主権を認めると、降って湧いた幸運にシュジャーは絶対的な忠誠を誓う
次いでシャー・アーラムのデリーへの帰還支援を曖昧に約束する代わりに、ベンガルを含む豊かな東部3州のディーワーニー(徴税権)をEICに提供することを認めさせる
EICの私設軍は形式上ムガル帝国の枠組みに収まったものの、EICがアラーハーバード条約と呼ぶ協定によって現地では激変が引き起こされる――ベンガルは名ばかりの太守で、行政権の一切をEICが意のままに活用して徹底的な略奪が始まる
EICがベンガルに持ち込む品の75%は金塊だったものが、ロンドン向け輸出品の購入はインドでの税収が賄ってくれるようになり、全ての利益はロンドンに送られた。搾取だけが先行し、地域の全ての経済指標は悪化し、土地収益は減少、域内貿易は縮小、確実に破滅に向かっている
第6章
飢饉
1768年の雨季にインド北東部はわずかしか雨が降らず、’69年夏は全く降らず、猛烈な暑さに見舞われ、秋には飢饉へと悪化、食糧不足と必需品の欠乏に陥る
'70年も旱魃で餓死者が続出
‘71年末にはロンドンにもニュースが伝わり、ペルーでのスペイン人の蛮行も霞むとEICを非難する声が高まり、さらにEICのインドでの犯罪や蛮行が暴露され
1722年(ママ)アレクサンダー・フォーダイスというスコットランド人銀行家の破産を機に、金融危機がイギリス全土から欧州大陸に波及、EICの会長も破産、EICに投資する銀行がいくつも破綻
EICにも飢饉の影響が及び、土地収益が落ち込み、お茶の大量の売れ残りがロンドンの倉庫に積み上がる一方、軍事費は倍増、たちまち財政が危機的状況となり、株価も60%以上下落。イングランド銀行に緊急援助を求めるが、支援にも限界
インドの収益がイギリスの財政の枠組みに組み込まれている事実に気付き始め、インドの没落が大英帝国の全体系が崩れ去ることを理解
議会でもEIC問題が取り上げられたが、下院議員の40%が同社の株主でもあった
クライヴらのEIC社員の汚職容疑の問責決議は辛うじて否決されたが、EICを潰すにはイギリスの国全体に対する影響があまりにも大き過ぎて潰せなかった
国からの融資と引き替えに、EICはインド規制法への服従に同意。議会の監視が強化され、総督の任命権も議会が手に入れ、総督はベンガルの他にもボンベイ、マドラスを監督
インド規制法はEICの行き過ぎた行動を鎮めるためには役立たなかったが、これをきっかけに、国がEICに干渉するプロセスが侵攻し、80年後の1858年には国有化された
最初の総督に選ばれたのはヘースティングズで当時41歳。政府のカウンシルの1人がアイリッシュのプロテスタントだったフィリップ・フランシスで、密かに総督の地位を狙って暗躍、以後インド統治を事実上麻痺させる
クライヴも、問責決議は乗り切ったが悪評が定着し、ヴァルチャー(はげたか)卿と呼ばれ、EICの最も堕落した無節操な一面を象徴するグロテスクな存在と成り下がり、'74年自殺
‘72年総督に任命されたヘースティングズは、社員の権力乱用や不正行為こそが諸悪の根源だとして、管理業務を強化するための改革に多くの成果を残す。インドとインド人を愛し、インドへの深い尊敬が根底にあり、現地の法制を尊重インドの文化への造詣を深める
ヘースティングズの統治を邪魔して混乱・麻痺させたのがフランシスで、その混乱に乗じて勢力を伸ばしてきたのが西部のマラーター王国と南部のマイソール王国
マラーター王国は、1761年パーニーパトの戦いで、アフガン勢力のアフマド・シャー・ドゥッラーニーに壊滅的な大敗北を喫したが、ドゥッラーニーの死去で息を吹き返す
マイソール王国は、1770年代に台頭してきた新勢力で、ハイダル・アリーとティープー・スルターン父子が60年代にクーデターで国王を追放し実権を握ると、フランス人将軍や技師を重用して軍事力・設備を増強、強力な海軍を保有して近隣を制圧
1767年ハイダル・アリーがEICに宣戦布告、デカン高原南部バンガロールに迫ってきたマイソール軍は近代的な歩兵を持ちフランスの最新設計の迫撃砲を備え、会社軍のマドラスの防御を突破。EICは和解金を払って和平に持ち込むが、これを機にマラーター王国と共にEICの支配を覆す好機と捉え、12年後にはEICがボンベイに遠征する際東近郊のプネーで大敗北を喫すると、EICの領土拡張の意図が暴露されたことから、マラーター王国の財務大臣で後に「マラーターのマキャヴェッリ」と称されるナーナー・ファドナヴィースはハイダルに対EICの同盟を呼びかける
ヘースティングズとフランシスの諍いは1780年ついにピストルでの決闘に持ち込まれヘースティングズが撃ち倒したが、フランシスも致命傷にはならずに済んだ
直後のマイソール軍とEIC軍によるポッリルールの戦いでEICは全滅するが、ハイダルはそこで進軍をやめたので、EICはカルカッタからの援軍も得て辛うじて踏みとどまる
ヘースティングズはEICの限界を悟って巧妙な外交交渉を展開、’82年にはサールバーイー条約を結んでマラーター王国の司令官マハーダジー・シンデーとの和平が成立、以後彼はイギリスの見方となって、EICを追放する機会は永久に消滅した
EICは世界のほかの場所でも敗北――ボストンではEICが輸入したお茶が投棄され大損害を被る
第7章
デリーの荒廃
1771年シャー・アーラムは12年の放浪生活に区切りをつけ、新たに増強した軍隊を率いてデリーに向け出発
デリーでは、アフガニスタン人によるインド北部侵略の立役者だったアフマド・シャー・ドゥッラーニーの死でローヒラー族による支配が揺らぎ始め、マラーター同盟が力を得て動き出す。そのリーダーとなったのがマハーダジー・シンデーとトゥーコージー・ホールカルで、シャー・アーラムを傀儡として玉座に復活させようと画策。皇帝もEICがいつまでもデリー帰還に向けて支援に動こうとしないことに業を煮やしてマラーター同盟の誘いに乗り、デリーに向けて進軍を開始、ローヒラー族領内に入ったところでシンデーに援軍を要請。シンデーは臣下の礼を取り恭順の意を表し、ムガル帝国が孔雀の玉座に戻る
皇帝の最初の仕事は失われた領土の奪還。まずはローヒラー族を平定、族長のザービタ・ハーンを虐殺するが、息子のグラーム・カーディルは皇帝の実質的な養子として保護・寵愛され、後に形勢が逆転すると皇帝に猟奇的な暴力を振るう
ムガル帝国とマラーター王国は、ローヒラーからの戦略品の取り分を巡って早速仲違い
マラーター軍が皇帝軍を襲撃するが、ちょうどその時プネーにいたマラーターの若きペーシュワー(宰相)のナーラーヤン・ラーオが急逝したため、マラーター同盟を構成する多くの集団の間で後継者争いが始まり、シンデーもホールカルも兵を引き上げてプネーに戻ったため、シャー・アーラムはデリーの完全掌握を達成
‘73年の雨季が終わるとデリー周辺から奪還作戦開始、ローヒラー族を追い出し、シク教徒をパンジャーブ地方に追い返した
皇帝のデリーの宮廷もかつての賑やかさを取り戻すが、同時に権謀術策も復活、矛先は軍司令官のナジャフ・ハーンで、デリー奪還の功により主計長官に任命されていた
‘82年ナジャフが病没すると部下の副官たちの権力争いが始まり、3年間旱魃が続いた後の飢饉で混乱と分断が深まり、デリーは一気に荒廃する
シャー・アーラムは、漸くヒンドゥスターンに戻ってきていたシンデーに再び助力を求める。シンデーはフランスの支援を受け10年間でティープーと並ぶインド最強の軍隊を育成し、この時もシャー・アーラムに恭順の意を示したが、実質的に支配する
シャー・アーラムの無力に付け込んだのは成長したローヒラー族のグラーム・カーディルで、'88年シンデーが去った間隙を縫ってローヒラーの残党を引き連れ父親の敵討ちとばかりに皇帝を襲い幽閉する。グラームの部隊は復讐に燃え略奪と暴虐の限りを尽くす
雨季が明けてシンデーはデリーに戻り、グラームを捕縛して処刑するが、最早シャー・アーラムは俗世間のことに無関心だった
第8章
ウォーレン・ヘースティングズの弾劾
1788年ヘースティングズは不正と背信行為によりインドを壊滅させた罪で告発され、弾劾されようとしていた。決闘で負けたフランシスが復讐のため、母国に戻ってインドでの蓄財を利用して国会の議席を買収し、ホイッグ党に入って、ヘースティングズの罪状を掘り起こし、党内を説得、遂に弾劾で告発するまでに持ち込む
ヘースティングズも、EICの行動を抑制し改善する改革に誰よりも奔走したが、総督時代のEICは以前と変わらず強欲で、独裁者として振舞うように見えたことも間違いない
最終的に1795年ヘースティングズの容疑は全て晴れたが、根拠もない中傷に基づく弾劾によって彼は晩節を汚されたが、EICの悪事の数々が議会に報告され、腐敗や暴力行為、賄賂体質は公になり、政府による監視や規制、統制をさらに強化するためのお膳立てが整ったのは良い結果をもたらす
議会はヘースティングズの後任に清廉潔白な人を選ぶ――チャールズ・コーンウォーリス将軍で、大英帝国の植民地だった米13州をジョージ・ワシントンに引き渡した結果、自由な国家が誕生。今回はインドで汚名を雪ぐことが彼の任務となった
1786年コーンウォーリスはカルカッタに到着。ヘースティングズの改革の成果で、カルカッタは飢饉から見事に立ち直り新興都市として繫栄していた
かつてはムガル帝国を支えたベンガルの農業収入が今ではEICによるインド支配を支えた
砂糖、アヘン、インディゴなどの新しい換金作物の導入に成功、貿易も綿織物や絹布、中国産のお茶などを主要品目に繁盛、インドの植民地支配は、戦争で勝ち取ったというよりも金で買い取ったものだといわれる
豊かな財政力を背景に軍事力も増強され、アジアで最強の軍隊とまでいわれた
1783年マイソールのハイダルが歿すると、息子のティープーが跡を継ぎ、フランス人技師を招いて産業技術を導入、バンガロールなどの都市化を進め、自らは敬虔なイスラームだったがヒンドゥー教徒を丁重に扱って保護、近代化に積極的なテクノクラートぶりを発揮したが、外交スキルの欠如が致命的。かつては同盟を組んだマラーター王国やニザーム王国とも敵対し、さらにはシャー・アーラムともインドの支配者の中で最初に関係を断絶
1790年第3次マイソール戦争――ティープー軍がマドラス近在のEIC軍を破壊したのを見てコーンウォーリスは自ら指揮をとってマドラスから出陣、バンガロールを奪回後ハイダラーバードでムガル軍と合流、さらにマラーター軍も合流してティープー軍を撃破、王国の半分を割譲させて和平を締結
1792年はEICにとって転機。以後圧倒的優位を確保するようになった――ティープーから南部の領土を得て支配地域はインド全体の10%を超えるとともに、コーンウォーリスの改革によって会社の立場が盤石に。北米で移民の子孫にも植民地を手放した失敗に鑑みインドで増大したアングロ・インディアン(現地妻ビーヴィーとの混血児)をEICでは採用せず、さらに会社の船の士官に加えてヨーロッパ人との混血にまで対象を拡大したため、アングロ・インディアンの社会的地位は下降、1世紀後には下級事務員などの職業に限定されてしまう。行政機構で活躍していたインド人の高級官僚もその地位を奪われた
次いで土地と税制の改革に着手、滞納者の土地を取り上げていったため、不動産の半分近くの持ち主が変わり、不平等な農業社会が生み出される――会社にとっては安定した税収が確保でき、ヒンドゥー教を信奉する親英的なベンガルのジェントリ階級が台頭、EICも彼らに地域の活動の責任を委ねたので、やがて社会階層の頂点に立つ。新たに誕生したボッドロロク(アッパーミドル階級)はタゴール一族、デーブ一族などで、カルカッタの中位の公職を独占するだけでなく、小作農の生産やバザールでの取引を支配
安定的な収益の確保で、EICはさらに軍備を教化、ヨーロッパのライバルたちを引き離す
唯一の対抗勢力はフランスで、1797年にティープーがナポレオンに援軍を依頼した時には仏軍はすでにインドに向けて1949隻の船団を派遣
第9章
インドの屍
1798年新総督リチャード・ウェルズリー侯爵がカルカッタに着任。同じころ着任した弟のアーサーは後に出世してウェリントン公爵に叙せられる
アングロ・アイリッシュのプロテスタントの家庭出身で貴族でもなければ政治家でもなかったが、リチャードは24歳で下院議員になるとほどなく大蔵卿となって首相のピットと親友になり、27歳でインド総督に
その間、議会はインドの政治や軍事を支配する権利を会社から奪い、1784年設立した管理委員会に監督させる。ウェルズリーは、EICの商人気質を嫌悪、インドにおけるイギリスの支配を盤石にすることと、フランス人を一掃することを目的とした
ウェルズリーが着任後最初に実行したのが、フランス軍到着前にティープーを叩くこと
まずはハイダラーバードのニザームと手を組み南部にいたフランス軍を包囲。ナイル河口の海戦でのネルソン総督大勝利の直後で、ウェルズリーはマラーター王国にも同盟に参加させ、一気にティープー打倒を狙う
マドラスの新任の知事はロバート・クライヴの息子だったが、従順なジェントルマンだが、地位にふさわしい能力はなく、ティープー殲滅作戦からも除外
会社軍はティープーの本拠を包囲して大勝、残忍な略奪行為は後々悪名を轟かせる
マイソール王国の豊かな土地の大半はEICとニザームによって山分けされ、残ったわずかな領土はヒンドゥー系のオデヤ王朝の末裔が探し出されて王位の復活と共に与えられ、ティープーの王国は完全に破壊され、当時の栄華を伝えるものは何も残されていない
EICのインド亜大陸全体の完全支配の前に最後に残ったのがマラーター同盟。1800年マラーターのマキャヴェッリが死ぬと、シンデー家もホールカル家も代が変わり、内部抗争が絶望的なまでに泥沼化
若いペーシュワーのバージー・ラーオはEICに支援を要請、1802年ヴァサイー条約を締結、EICをマラーター王国の大領主として認め、プネーの宮殿には監視役の大部隊が駐屯
シャー・アーラムは両目をくり抜かれながらも全ての敵より長生きし、マラーター王国の保護を受けて、細々と生き抜いていた
ウェルズリーは、皇帝は実権や領土や権力は完全に奪われたが、インドのほぼすべての国家、あらゆる階層の人民が、皇帝には名目上の主権が備わっていることを未だに認めていることを正確に認識。シンデーがヴァサイー条約を受け入れないことが明らかになると、ヒンドゥスターンに侵攻し、ムガル帝国とその首都を支配下に置くことを考える
1803年ダウラト・ラーオ・シンデーに率いられたマラーター軍は会社軍に対し宣戦布告、アーサイーの戦いではフランス人によって予想以上によく訓練されたセポイの歩兵隊と野戦重砲に会社軍は大苦戦を強いられ、アーサー・ウェルズリーも後のワーテルローでのナポレオンとの戦闘もこれほどではなかったと回想
シャー・アーラムはマラーター族の庇護下に置かれながら、今やEICの力が上回ると判断し、密かにウェルズリーと接触、EIC軍は激しい抵抗に遭いながら、何とかデリーを陥落させ、フランスとの戦いも最後となった
シンデーの封土だったラージプート諸王国のすべてと条約を締結、EICの軍門に降る
600人のイギルス東インド会社の文官が、155千人のインド人セポイに護衛されながら、インド亜大陸のほとんどの地域を統治することになる。10年前に北米でおよそ50百万の臣民を失ったが、インドで遥かに多くの臣民を獲得。植民地国家は効率的に組織化されたが、行政のインフラはインドの実情にそぐわず、次第に乖離していく
禁欲的なデリーのイマーム(導師)、シャー・アブドゥル・アジーズを師と仰ぐイスラーム教徒の多くは、インドは12世紀以来初めてイスラーム教徒の手を離れたと考え、アジーズも1803年にジハードを呼びかけるファトワー(勧告)に「インドはキリスト教に完全に支配された。インドはもはやイスラムの家ではない」と記した
イギリスの覇権は確立され、1857年の大反乱の数カ月を除き、インドはさらに144年間、良くも悪しくもイギリスの支配を受け続け、1947年ようやく自由を取り戻す
ウェルズリーによってティムール王朝が復活。シャー・アーラムはどん底の時代に王朝を導き、大混乱の最悪期にもムガル帝国の炎を燃やし続け、ムガル帝国に新しい統治モデルも導入――たとえ実際の権力はなくても、神聖な皇帝としてのオーラが発散され、ティムールの先祖から受け継がれた高尚な文化と宮廷作法を輝かしい後ろ盾として利用すれば、ムガル帝国は存続できることを証明。半世紀たっても彼の孫が君臨する宮廷は、史上最大の反植民地運動の中心となった
EICにとっても歴史的な瞬間で、巨大なムガル帝国の権力を徐々に私物化してきたが、ウェルズリーの下でムガル帝国の威光を笠に着るようになった――ムガル帝国を摂政として支配することで最高権力者としての地位を確立
6年続いた戦争の結果、ウェルズリーは会社を破産寸前まで追い込み、毎年の赤字を埋めるための借金の返済に巨額の銀がロンドンからベンガルに送られたため、取締役会も管理委員会にウェルズリーに対する異議を申し立て、ウェルズリーは更迭
1825年までには、EICの存在そのものの継続に、議会で反対の声が強くなり、1833年には東インド会社特許法が成立、同社は商業活動全般が停止に追い込まれ、統治機関に格下げされる
1857年EICの私設軍が雇用主に対して反乱を起こす――セポイの反乱はインドでは最初の独立戦争として知られるが、そののち議会は遂に会社からすべての権力を剥奪、全財産は国有化され、英国君主の支配下に入る
1874年勅許状の期限が切れると会社は静かに幕を閉じた
会社のブランド名は、ケーララ州出身の2人の兄弟が所有し、ロンドンのショールームで「薬味や高級食品」を販売するためにこの名前を利用
エピローグ
18世紀半ばにインドを奪い取ったのはイギリスの民間企業だった。インドの植民地化は営利企業のメカニズムを通じて進行し、それは専ら投資家の利益確保を目的とした
EICのインド征服は、企業による最悪の暴力行為として世界史での評価がほぼ定着
企業、即ち、世界を舞台に拡大する総合的な事業組織という発想は、ヨーロッパ人による革命的な発想であり、アジアとヨーロッパで従来の形の貿易を破壊した植民地主義とともに始まった。おかげでヨーロッパは競争上の優位を確保できた。さらにはヨーロッパ植民地主義が崩壊した後も勢いが衰えない
イギリスによるインドの植民地支配の遺産の最大のものはジョイント・ストック・カンパニーという発想であり、良し悪しは別として、ヨーロッパのいかなるアイディアよりも南アジアを様変わりさせ、その影響力は共産主義やプロテスタント、民主主義よりも確実に大きい。今日では、企業やそのリーダーは、政治や政治家に取って代わり、我々の制度の新し指導者、新しい支配者になった。企業は目立たないように狡猾に、多くの人類の命を支配している
巨大な多国籍企業の権力とそれがもたらす危険への対処法は、300年前からずっと継続してきた問題で、未だ明確な回答が得られない。EICの成功を見習って自らの目的を達成するために国家を利用しようと目論む企業は多い
企業は国家を潤し、一定の型にはめ、運命を作ることができるが、その一方で経済の足を引っ張る可能性も秘めている――リーマンショックでは欧米の銀行の不良資産のせいで、1兆ドル以上の損失を被っている
企業が権力とマネーを手に入れ、しかも説明責任を取らなくても許されると、この致命的な組み合わせは危険な悪影響をもたらすが、弱小国家は特に大きな被害を受ける
本書では、営利企業と帝国の間の力関係の研究に取り組んできた。企業が政治にどんな影響を及ぼすか、逆に政治が企業にどんな影響を及ぼすかを考察。権力やマネーが如何に腐敗を招き、商業活動と植民地化は往々にして足並みを揃えて発展することも明らかにした
イギリス東インド会社は今日でも未だに、企業の権力乱用が発生する可能性について警告する存在として歴史上で際立っている。狡猾な手段によって、株主の利益を国家の利益に見せかけている
訳者あとがき
ムガル帝国は、アフガニスタンから侵攻したトルコ・モンゴル系の指導者によって建国された。ムガルの語源は、チンギス・ハーンのモンゴル帝国に由来。シャー・アーラム2世は黄昏の帝国を消滅させず、自らが生き残るためにはどうすればよいかを行動の原動力とした。皇帝のお墨付きの威力は絶大で、運命に翻弄されながらも、誰よりも生きながらえたことは評価できるが、プラッシーの戦いの後致命的な過ちを犯し、EICが大きく飛躍するきっかけを作った
北方から来てムガル帝国を建国した民族はイスラーム教徒だったが、ムガル帝国の衰退とともにインド中央部にあたるデカン高原西北部のヒンドゥー教徒がマラーター王国を建国
一時はフランスの支援でインドの覇権を握るが、優れた指導者がいなくなると分裂
インド南部のマイソール王国のティープー・スルタンもイスラーム教徒で、フランスの支援を受けEICに対抗、ナポレオンにも支援を要請
EIC成功の理由は;
l 近代の兵器や戦術が役立つ
l インド各部族間の内輪もめ、外交政策の失敗
l 高い信用力でインドの銀行家たちから融資を集めた
l イギリス国内でも大き過ぎて潰せない存在に
2022.9.3. 日本経済新聞 書評
略奪の帝国(上・下) ウィリアム・ダルリンプル著
本書は、1600年に設立された世界初の株式会社であったイギリス東インド会社(EEIC)が、なぜ18世紀後半のわずか半世紀でインド亜大陸を支配するにいたったのかを、英語だけでなくペルシャ語で書かれた現地語諸史料を調べあげて書かれ、評判になった著作である。著者は、ケンブリッジ大学卒の在野の歴史家で、数多くのベストセラーを生み出している。
対象となる18世紀の歴史像は、K・ポメランツの「大分岐」論が提起されて以来、大きく変化している。南アジア史でも、1765年の東インド会社による東部3州の徴税権(ディワニー)の獲得が、歴史の転換点となったことは事実としても、その後の解釈は大きく異なる。本書でも強調されるムガル帝国の政治的大混乱(グレート・アナーキー)を強調する、帝国衰退・崩壊論に対して、地域社会の政治経済の再編や安定が見られたとする修正論が出されている。世界商品として、インド綿布(キャリコ)の輸出は拡大しており、グローバル経済史における南アジア経済の見直しも行われている。
上巻の主人公である初代ベンガル総督クライブは、短期間でヨーロッパ最大の富豪になった「インド成金(なりきん)」(ネイボッブ)として、悪評高い人物である。本書は、ネイボッブが出現した経緯を、ムガル帝国と新興のイギリス帝国の交錯を通じて描く。現地の政治経済面での諸事情に大きく規定された、領土拡大と植民地帝国形成の過程、中枢(イギリス)と周辺(南アジア)の相互作用、現地の同盟者・協力者との連携による支配の拡大の実態が、詳細に描かれる。特にムガル帝国の後継勢力として、ナポレオンとの連携もにらみながら重商主義的な近代化政策を推進した、マイソール王ティプー・スルタンの奮闘の物語は、アジアの独自性を明らかにするグローバルヒストリーとして読むことも可能である。
気になるのは、本書の帯やエピローグで「企業が国家を滅ぼす」ことが意図的に強調されている点である。近代以降は国民国家が中心の世界であるが、近世の世界は、内外の多様なアクターと帝国が共存した、多様性と寛容さに満ちた時代であった。多くのカラー図版は印象的であり、特に、イギリスと南アジアのつながりを多面的に描いた下巻は注目に値する。
《評》大阪大学教授 秋田 茂
Wikipedia
イギリス東インド会社(East
India Company(EIC))は、アジア貿易を目的に設立された、イギリスの勅許会社である。アジア貿易の独占権を認められ、イングランド銀行から貸付を受けながら、17世紀から19世紀半ばにかけてアジア各地の植民地経営や交易に従事した。
当初は香辛料貿易を主業務としたが、次第にインドに行政組織を構築し、徴税や通貨発行を行い、法律を作成して施行し、軍隊を保有して反乱鎮圧や他国との戦争を行う、インドの植民地統治機関へと変貌していった。セポイの乱(インド大反乱)の後、インドの統治権をイギリス王室に譲渡し、1858年に解散した。
概説[編集]
厳密には「イギリス東インド会社」は単一の組織ではなく、ロンドン東インド会社(旧会社)、イングランド東インド会社(新会社)、合同東インド会社(合同会社)という三つの会社の総称である。
初期には東インド(インドネシア)の香辛料貿易をめざしてジャワ島のバンテンやインドのスーラトに拠点を置き、マレー半島のパタニ王国やタイのアユタヤ、日本の平戸、台湾の安平にも商館を設けた。アジアの海域の覇権をめぐるスペイン、オランダ、イギリス3国の争いの中で、アンボイナ事件後、活動の重心を東南アジアからインドに移した。
インドにおける会社の大拠点はベンガルのカルカッタ、東海岸のマドラス、西海岸のボンベイである。フランス東インド会社と抗争し、1757年にプラッシーの戦いで、同社の軍隊がフランス東インド会社軍を撃破し、インドの覇権を確立した。以後単なる商事会社のみならず、インド全域における行政機構としての性格をも帯びるようになった。
ナポレオン戦争後は再び東南アジアに進出して海峡植民地を設立、ビルマとも戦った。18世紀以降、中国の広東貿易にも参入してアヘン戦争を引き起こし、香港を獲得した。しかし、同社による統治の失敗からインド大反乱を引き起こし、会社軍は反乱をようやく鎮圧したものの、インドの行政権をヴィクトリア女王に譲渡し、1874年に解散した。
歴史[編集]
特権会社のはじまり[編集]
1577年から1580年にかけてのフランシス・ドレークの世界周航を皮切りに、イギリス(イングランド王国)は、世界の海への進出を開始していた。しかし、当時のイギリスの航海の性格は、略奪、探検、冒険の色が濃かった[1]。また、すでに、レヴァント会社という会社組織が結成されており、地中海やモスクワ経由で地中海東岸地域との貿易を専門とする商社がイギリスにおけるアジアとの貿易を独占していた。ところが、1595年にオランダがジャワ島バンテンへ4隻から構成される船団を派遣し、これが成功するとヨーロッパ中に衝撃を与えた。
レヴァント会社はオランダが直接、アジアから東方の物産を大量に仕入れることができたことを目の当たりにしたことで、自らの占有事業が崩れることを危惧した。とはいえ、当時の航海技術と蓄積資本では非常にリスクが高いものであった。そこで、レヴァント会社の人間が中心となり、航海ごとに資金を出資する形で東インド会社が設立されることとなった。貿易商人の組合に近い性格を持っていたレヴァント会社、モスクワ会社などといったそれまでの制規会社とは異なり、東インド会社は自前の従業員を持つジョイント・ストック・カンパニー(合本会社)として設立された。さらに、エリザベス1世にアジアの貿易に関して、独占を許可する要請を行った。最初の航海は、1601年3月、4隻の船団が東南アジアへ派遣された。215人の出資者から68,373ポンドの資金を集めた[2]この航海は成功に終わった[2]。
その後、イギリス東インド会社は、オランダ東インド会社と東南アジアにおける貿易をめぐって、衝突を繰り返すこととなった。1602年にはジャワ島のバンテンに、1613年には、日本の平戸に商館を設置した。
1610年代から20年代にかけてのイギリス、オランダ、スペインの競合において、オランダは、1612年にスペインとの間で休戦協定を締結する事により、イギリスとの対立を鮮明にした[3]。しかし、オランダは、イギリスと対立するゆとりが無い事を悟り、1619年には、オランダ東インド会社に対して、イギリス東インド会社との融和を命じると同時に、1619年にはイギリス、オランダ両国の間で休戦協定が締結された[3]。
とはいえ、1623年のアンボイナ事件をはさんだ時期において、平戸の商館を閉鎖するなど、アンボイナ事件以前より、イギリスは東アジア・東南アジアにおける活動を縮小しており、イギリス東インド会社の主な活動拠点は、インド亜大陸とイラン(サファヴィー朝)へ移っていった。今日、アンボイナ事件の歴史的意義を見直す動きもあり、アンボイナ事件を契機に東南アジアにおける活動の撤退をしたとされる学説を否定する主張もある[3]。それによると、あくまで、アンボイナ事件の意義とは、イギリス、オランダ両国において、封印されるべき記憶として刻印されたものの、事件の原因は当時のオランダ東インド会社総督ヤン・ピーテルスゾーン・クーン(en:Jan Pieterszoon Coen)が個人的にイングランド人を毛嫌いにしており、本国政府の意向を無視したからに他ならないとの事である[3]。
1639年には、マドラスの領主に招聘される形で、要塞の建設が開始された。また、サファヴィー朝のシャー・アッバース1世にも使節を派遣し、その結果、当時、ポルトガルの活動拠点であったホルムズ島はサファヴィー朝の支配下に入った。ホルムズ島の対岸に港市機能を持たせたバンダレ・アッバースが建設された[4]。
当時のイギリス東インド会社の弱点は、航海ごとに出資者を募り、その売り上げ全てを出資者に返却する方式にあった。この方式では継続的に商業活動を営むオランダ東インド会社との対抗が時代を経るごとに困難になってきた。1657年、オリヴァー・クロムウェルによって、会社組織の改組が実施された。これにより、利潤のみを株主に分配する方式へ改めると同時に株主は会社経営に参画できる総会方式が採用されることとなった[5]。
1670年代から1680年代にかけて、イギリス経済は空前の好景気が訪れた。1671年から1681年にかけて支払われた配当金は、利回りで合計240%になり、1691年までの10年間での配当利回りは合計で450%となった。背景には、イギリス国内における「キャラコ熱」と呼ばれるほどの綿製品に対する需要があった。東インド会社の株式は投機の対象となり、インサイダー取引が横行する状況であった。その中で登場したのが、ジョサイア・チャイルド(en:Josiah Child)である。東インド会社総裁に就任したチャイルドはインサイダー取引によって巨万の富を得たとされる。チャイルドは王室とも癒着関係を持っていた。
しかし、名誉革命により、ジェームズ2世が失脚すると、新しく国王となったウィリアム3世の命により、1698年9月には、「東インドと貿易をする英国のカンパニー」が設立され、旧会社に付与されていた特権は、3年後に失効する形となった。その後、旧東インド会社の経営状況が改善され、1709年、新旧両会社は合併された[6]。
マドラス以後の商館建設[編集]
インド南東部・コロマンデル海岸にマドラスという拠点を獲得したイギリスであるが、それ以外の地域でも商館の建設に随時成功していった。1661年には、チャールズ2世とポルトガル王女キャサリン・オブ・ブラガンザが結婚した。この時の持参金の一部がボンベイである[7]。インド北西部での活動拠点をスーラトからボンベイへ移した際に、パールシーの商人や職人が移住した。ボンベイでゾロアスター教徒が活躍したことは、沈黙の塔(en:Towers of Silence)が建設されたことでも分かる。ボンベイの人口は、1671年には10万人に到達した。
ボンベイについで獲得した主要な拠点がカルカッタである。1702年に、ウィリアム砦の建設を開始していたが、1717年、イギリス東インド会社は、ムガル帝国第9代皇帝ファッルフシヤルから、ベンガル地方における輸出関税の免除という特権を獲得した。ベンガル地方は、当時のイギリスが求めていた産物の集散地であった。このことから、イギリス東インド会社の輸出の重心はカルカッタへと移動する。1750年には、イギリス東インド会社全体の75%がベンガル地方で占めるようになった[8]。
とはいえ、17世紀のイギリス東インド会社の進出はあくまで、インドで産出される物産を独占することが目的となっていたため、必ずしも領土的野心を持って進出したわけではないことは明確にしておかなければならない。また、フランス東インド会社が1664年に、コルベールの肝いりで設立されるとインドにおける貿易は、イギリス、フランス、オランダ、さらには、デンマークやスウェーデンといった北欧諸国との競争が激化することとなった。
17世紀での貿易構造[編集]
イギリスはオランダとの抗争に敗れたため、香辛料という当時のヨーロッパで最も珍重されていた商品を失うこととなった。さらに、インドではイギリスで生産される毛織物製品に対しての関心を示さなかったことから、銀をイギリス国内から持ち出さざるをえなかった。また、インドで産出される綿織物を購入するために、バンダレ・アッバースの存在は必要不可欠であった。イランには砂糖、胡椒、香辛料を輸出し、その代金で金、銀、銅といった金属を手に入れることができた[9]。イギリスは香辛料に変わり、藍や硝石、紅茶、綿織物製品をヨーロッパに輸出した。輸出額は1670年には、36万ポンドだったものが、1740年には、200万ポンドに到達していた。加えて、ヨーロッパにおけるインド製品の需要によって、当時のインド商人や手織り業者に多くの富がもたらされることとなった[10]。
また、インドとイランへのイギリス東インド会社の進出には、現地からの招聘、協力が必要不可欠だったことである。バンダレ・アッバースにおいて徴収される関税の50%を取得できる権利はアッバース1世が存命の間は享受することができたが、1629年にアッバース1世が死亡するとバンダレ・アッバースの港湾長官は、その金額の引き下げを講じるようになった。最終的には毎年1,000トマン(イランの通貨単位)を獲得するという条件を引き出すことに成功した。このことは、1720年代に、イランの内陸部が混乱状態に陥り、バンダレ・アッバースでの貿易量が減った際でも、イギリスは獲得することができた。この金額はバンダレ・アッバースにおける商館の収入の33-41%に達した[11]。
会社組織の変質[編集]
詳細は「オーストリア継承戦争」、「茶法」、および「ボストン茶会事件」を参照
18世紀前半のインド亜大陸の情勢を要約すると以下のような状況となる。
ムガル帝国の衰退が顕著となった。全盛期を築いた皇帝アウラングゼーブの死去以降、帝国には経済力を貯えた地方長官、ザミーンダールの台頭に対する有効な手立てがなかった。1724年には、ハイダラーバードを中心にニザーム王国が形成され、続く形でベンガル、アワドなど各地で地方王朝が建国された。
フランス東インド会社の台頭が目立つようになった。大幅な増資を行い、現在の株式会社に近い運営が行われた。また、強化された資金によって艤装された商船が増えた。1740年、カルナータカ太守の領土がマラーター軍の攻撃によって、太守ドースト・アリー・ハーンが死亡した[12]。フランスは太守の息子サフダル・アリー・ハーン以下、家族をポンディシェリーの要塞に避難させた。その後、フランスはポンディシェリー近郊の村を委譲され、この地域の支配者となった。このことは、フランスが今後のインド亜大陸における政争に関与せざるを得ないという状況に追い込まれることとなった[13]。
このような状況の中で、ヨーロッパでは、オーストリア継承戦争が勃発することとなった。フランス東インド会社、イギリス東インド会社ともに、軍事的に強化されていた。インド亜大陸でも、三度にわたって、それぞれの会社の軍が衝突することとなった(カーナティック戦争)。
ジョゼフ・フランソワ・デュプレクスの活躍により、戦争の初期段階では、フランスがイギリスを圧倒する。しかし、フランス政府は、フランス東インド会社をあくまでも「商事会社」と認識していたことにより、デュプレクスの召還に踏み切った[14]。
デュプレクスの召還は、イギリスに優位に働いた。当時のベンガル太守シラージュ・ウッダウラはイギリス、フランス、オランダの活動を快く思っておらず、イギリスに対してはカルカッタの要塞への攻撃を行い、フランス、オランダに対しては上納金の引き上げを要求した。これに対抗するため、マドラスに就任したばかりのロバート・クライヴがベンガル地方に赴き、1757年6月23日、プラッシーの戦いで太守軍を撃破した。プラッシーの戦いを境に、イギリス東インド会社の性格は大きく変化した。
プラッシーの戦いにより、シラージュ・ウッダウラが殺害され、軍総司令官のミール・ジャアファルが太守の地位に就任した。ミール・ジャアファルとクライヴの間では、密約が成立しており、ミール・ジャアファルの裏切りがシラージュ・ウッダウラの敗北を決定付けた。その結果、イギリス東インド会社はベンガルにおける覇権を確立していく。イギリス東インド会社は、ミール・ジャアファルを援助していく過程で、ベンガルの内政への干渉を進めていった。
1765年、イギリスはブクサールの戦いの講和条約アラーハーバード条約で、イギリス東インド会社は皇帝シャー・アーラム2世からベンガル、オリッサ、ビハールのディーワーニー(州財務長官の職務・権限)を授けられ、財務長官に就任することとなった[15]。イギリスは太守の職を得たわけではなかったが、この3州の収租権を得たということはこの三州における「太守」になり、領有権を得たも同然であった[16]。また、これ以降皇帝とベンガル太守はイギリスからの年金生活者となったが、皇帝の方はのちに折り合いが悪くなり、イギリスのもとを離れてデリーへと戻った。
イギリス東インド会社はベンガル、ビハール、オリッサという広大な地域をベンガル管区に組み入れることに成功した。クライヴの快挙によって、競争相手であったオランダ、フランスよりも有利となったが、この時よりイギリス東インド会社は組織の変質を余儀なくされていった。イギリスは事実上の太守になったことで豊かな税収を得るはずだったが、その数年後には、全く逆の状況に追い込まれていった。その理由は以下の通りである[17]。
配当金の引き上げ。従来の配当率は7から8%程度であったものが、ベンガルほか2州獲得によりイギリス東インド会社株は本国での投機の対象となった。その結果、1771年には、12.5%まで引き上げられた。
東インド会社の主力商品である茶の売り上げがアメリカ植民地で全く振るわなくなった。大量に購入した茶は不良在庫品となった。
商事会社の運営に長けていた東インド会社の社員も、徴税業務、すなわち当時のベンガル管区の人口2000万人を統治することに関しては従来の会社運営のシステムでは限界があった。
南インドにおけるマイソール王国、北インド及びデカン地方におけるマラーター王国をはじめとする勢力との敵対関係が継続していた。そのための軍事費も会社側の負担であった。
さらに、1770年には、人口の25%が餓死するベンガル大飢饉(en:Bengal famine of 1770)が発生した。このことにより東インド会社の徴税活動は困難となった。
これらの複合的な要因が重なり、イギリス東インド会社は、財政危機に直面することとなった。
ヘースティングズ以降の改革[編集]
1772年、ウォーレン・ヘースティングズが東インド会社の取締役会の決定に基づき、初代ベンガル総督に就任した。この時期の東インド会社の社員のほとんどは、貿易以外については無知であり、沿岸地帯の自らの居住地域以外に、外から出かけることもなかった。加えて、現地職員が私腹を肥やすための密貿易をやめなかった。このような状況下で、イギリス政府は、ヘースティングスを総督に就任させ、東インド会社はイギリス政府の管理下におかれ、行政業務を義務付けた。1783年には、閣僚の1人を責任者とする監督局が設置された[18]。
ヘースティングズは就任と同時に、インド人の代理ディーワーン(ナーイブ・ディーワーン)に任されていた3州のディーワーニーを直接行使することにした。また、徴税のみならず行政や司法も同様に直接行使することにし、これにより3州は間接統治から直接統治へと移行されることとなった。
また、ヘースティングズは1772年の取締役会の業務報告において、「われわれが目指すべきインド統治の方針は、できる限り古代インド以来のインドの習慣と制度に従いつつ、われわれの法律をインド人の生活、社会、国家の諸問題に適用すること[18]」と述べているが、実際には/前述のように、東インド会社の職員で当時のインドの生活、社会に精通しているものはほとんどいなかったため、イギリス独自のインドの慣習に従った諸制度の改革を実施することとなった。第一が法体系の整備であり、第二が徴税制度の整備、第三が軍備の増強であった。
法体系を整備するに当たり、ヘースティングズは1776年に、ヒンドゥー法典編纂委員会を創設し、サンスクリットで述べられていた様々な判例を一つずつ調査する膨大な翻訳作業が始まった。このことを契機に、ヒンドゥーとムスリムの区別がインド国内で明確に区別されるようになった。また、イギリスにおいて東洋学研究が始まる端緒となった[18]。
徴税制度の改革は、ヘースティングズの時代にはディーワーニーを直接行使するに至ったものの、大半の徴税業務は現地のインド人によって行われていた。抜本的な改革が行われたのは、第3代総督チャールズ・コーンウォリスのときである。1793年、コーンウォリスは徴税業務を担っていたインド人を解雇し、全員をイギリス人に入れ替えた。その上で、彼らに高い給料と年金の保証、上級職の独占を認めることと引き換えに、私貿易の禁止を行った[19]。とはいえ、コーンウォリスの改革は会計処理が複雑だという理由を作り、インド人を上級職から排除したことにより、今後のイギリスによるインド統治において、人種差別の芽を作った面も否定できなかった[18]。
コーンウォリスの改革は、そのあとに総督に就任したリチャード・ウェルズリーによって完成した。ウェルズリーによるフォート・ウィリアムズ・カレッジの創立(カルカッタ)、イギリス本国でのヘイリーベリー・カレッジが創設されたことで、インドの諸言語を学習する機会が実際の業務に着任する前に与えられた。これにより、イギリスの徴税業務がある程度、軌道に乗ることとなった[18]。
軍備の増強は、ベンガル、後にインド全域を防衛するための観点からも欠かすことのできないものであった。宗教とカーストに配慮した糧食の支給、海外派兵はないことを約束した上で、現地のインド人を「シパーヒー」(セポイ)として雇い、常備軍としての訓練を実施した。1789年段階で、10万人強だった陸軍は、ナポレオン戦争時代には、155,000人の歩兵と騎兵を擁する軍隊へ成長していった。しかし、東インド会社は常に兵士の反乱や抗議に対して、警戒しなければならなかった[18]。
植民地の拡大とインド征服の完了[編集]
このような改革に支えられ、東インド会社は商事会社と徴税業務や治安維持業務を兼ね備えた行政機関としての性格を有しつつ、脱皮に成功した。1798年、インド総督に就任したリチャード・ウェルズリーは、強化された東インド会社の拡張を推進し、急速に領土を拡大した。イギリスは領土を拡大するうえで、反抗的なものは武力で押さえていったが、従順なものはイギリスに有利な軍事保護条約を締結して藩王国(保護国)化した。
その例としてはデカンのニザーム王国があげられる。同国は1795年にマラーターに大敗北を喫し、その劣勢が明らかになったため、1798年にイギリスと軍事保護条約を締結した[20]。その条約では領内からフランス人を追放すること、領内にイギリス軍を駐屯させること、外交に対しても制約を受けることが定められた[20]。
また、イギリスはニザームの時と同様にアワド、トラヴァンコール、コーチン、ラージャスターン(ラージプート)の諸国とも同様の軍事保護条約を締結することで、領域の拡大に成功していった[18]。
反抗的な南インドのマイソール王国に対しては、1799年に第四次マイソール戦争で屈服させ、その君主ティプー・スルターンを殺害した。その後、イギリスはヒンドゥーの王家(オデヤ朝)を復活させ、新たに擁立した君主と軍事保護条約を締結し、マイソール王国を藩王国化した[21]。また、カルナータカ太守には第四次マイソール戦争で内通した疑いをかけ、1801年にカーナティック条約でその領土を奪い、ここにマドラス管区が完成した[22][23]。
マラーター同盟に対しても同様に武力で以て対応した。1802年にイギリスはマラーター王国の宰相バージー・ラーオ2世とバセイン条約を結び、1803年にはマラーター諸侯との戦争に入った(第二次マラーター戦争)[24]。イギリスは同年にデリーを占領し、ムガル帝国の皇帝を保護下に置き、マラーター同盟の北部への野望を粉砕した。だが、リチャード・ウェルズリーが本国に召還され、加えてナポレオン戦争による脅威もあり、1805年に講和して戦争を終結させた[25]。
ナポレオン戦争終結後、1817年にイギリスはマラーター同盟と戦端を開き、1818年にマラーター王国宰相バージー・ラーオ2世は降伏、同盟を解体した[26]。同盟に帰属していた北インド、中央インド、マハーラーシュトラ地方は東インド会社の領域となった。イギリスは宰相の領地を没収して追放したものの、マラーター王国とマラーター諸侯らとの間では軍事保護条約を結び、これらを藩王国化した[26]。
会社の進出は、パンジャーブ、シンド、バルーチスターンといった北西インドにも向けられた。
1809年、シク王国のランジート・シングとの間で、会社は領土の相互不可侵条約を締結した[27]。その後、シク王国はカシミール地方まで領域を拡大していったが、シングが死亡した1839年以降、王国で内紛が発生した。また、アフガニスタンに関心を示していた会社は、1838年にアフガン勢力に宣戦布告、翌年からこの地域に進出を開始した(第一次アフガン戦争)。しかし、アフガニスタンでの戦闘で会社は甚大な打撃を被り、敗北を喫した。
その後、イギリスはアフガニスタンからパンジャーブ地方へ関心を移し、シク王国内における政情不安を見て、1845年にはシク王国と戦端を開いた。2度にわたるシク戦争の結果、1849年にシク王国は滅亡し、イギリスはその領土を併合した[28]。ここにイギリスのインド植民地化は完成した。
さらに、フランス革命による本国の混乱を契機に、イギリス東インド会社は東南アジアやビルマへのインド以外の地へ進出を開始した。決定的だったのが、1795年に、フランス革命軍がオランダを占領したことであった。イギリスによる前進基地の役割を担ったのが、マレー半島であった。1826年には、マラッカ、ペナン、シンガポールを中心に海峡植民地が形成された。
商事会社の機能の終焉[編集]
東インド会社は18世紀末に不振に陥った。ヨーロッパ向け商品を仕入れる資金が不足して会社の財政が悪化し、手形発行が制限された。送金手段を確保するために、他のヨーロッパ諸国やアメリカ合衆国の商人に信用を供与し、後日ヨーロッパで払い戻しする方式が導入された。これは、イギリスがアジア貿易独占に使うはずの資金が他国の貿易に利用されているとみなされて問題化した。イギリス綿工業の成長によってインド産綿製品の利益が減少し、それに替わる商品がなかったことも衰退につながった[29]。
ヨーロッパ・アジア間の貿易は東インド会社が独占していたが、アジア域内の貿易は規制が緩く、カントリー・トレードと呼ばれていた。アジア域内で私貿易を行う貿易業者(カントリー・トレーダー)は、中国貿易の拡大の影響もあって1770年代以降に急成長し、エージェンシー・ハウスと呼ばれる会社に発展した[29]。イギリス本国では、アジア貿易への進出を望むスコットランドなどの利害関係者が、自由貿易と東インド会社の独占廃止を求めてロビー活動を行った。こうして、カントリートレーダーや本土の業者によって自由貿易が要求されるようになった[30]。
1770年代の経営危機を克服する時点で、東インド会社は、イギリス政府の支援を仰いだ。したがって、会社の命運はイギリス本国が掌握していた。この頃のイギリス本国では、産業革命が勃興し、東インド会社によるインド、中国貿易の独占状態を非難する声が高まった。その先鋒に立ったのが、『国富論』を著したアダム・スミスであった。スミスの自由貿易論は、知識人や政治家の間で多数派を形成した。
特許状[31]の更新がなければ東インド会社の独占貿易は保護されないわけであり、更新は20年ごとに行われた。1793年にインド貿易の一部が自由化され、1813年にインドにおける独占貿易が終了した。1833年には中国との独占貿易も終了し、商事会社の機能は終焉した。
インド大反乱[編集]
1857年、イギリスの植民地支配に対し、シパーヒーが蜂起した。シパーヒーは皇帝バハードゥル・シャー2世を反乱軍最高指導者として擁立し、ムガル帝国の再興を宣言した。しかし、この反乱の勃発自体が突発的であると同時に、統率が全くなされていなかったことから、デリーをはじめとする反乱は東インド会社の軍隊によって、翌年までに鎮圧された。
しかし、この反乱により、イギリス政府は、東インド会社によるインド統治の限界を思い知らされることとなる。イギリス議会は、1858年8月2日、インド統治改善法を可決し、東インド会社が保有する全ての権限をイギリス国王に委譲させた。250年以上にわたり、活動を展開したイギリス東インド会社の歴史はこの時点で終わりを告げた。
だが、東インド会社はその後、1874年まで、小さいながらも会社組織は継続した。理由は、イギリス政府が株主に対して、1874年までの配当の支払いを約束していたからであり、残務整理が終了した1874年1月1日、正式に会社の歴史の幕を下ろした[32]。残務整理が終わったインドでは1877年、ヴィクトリアを皇帝として推戴するイギリス領インド帝国が成立することとなった。
現在[編集]
現在でも東インド会社の名を冠した紅茶が販売されているが、これは1978年に紅茶販売のため、紋章院の許可を得て設立された会社である[33]。
2010年、インド出身のイギリスの実業家サンジブ・メフタがイギリス大蔵省に対し「東インド会社(East India Company)」の名称と商標の使用許可を出願し、これが許可されたため、東インド会社は135年ぶりに企業名として復活した。新「東インド会社」はロンドンに店舗を構え、輸入食品や宝飾品の販売を行なっている。
会計・監査[編集]
設立当初は航海ごとに組合を組織していたが、1621年に内規に会計と監査の規定が作られた。1662年にはイギリス初の株式会社となり、世界初の株主総会をする会社となった。1664年に複式簿記が導入されて定期的な財務報告もあり、現在の株式会社に通じる制度が作られていった。会計には会計担当役・監査担当役・理事会監査役がおり、監査担当役は出資総会で選出され、理事会監査役は重役でもあった。監査担当役と理事会監査役の選出母体が違うため、出資者総会と理事会で2種類の監査が行われた。監査担当役は2名がロンドン本社に常駐し、会計担当役が帳簿を作成する時に確認し、監査済みの会計記録を理事会監査役に提出した[34][35]。
1757年以降のインド社会と東インド会社[編集]
1757年以降、イギリス東インド会社はベンガル地方を、ひいてはインド亜大陸を統治することとなった。そのため、東インド会社が選択した制度とその制度を選択した理由を理解し、当時のインド社会・経済を理解するために、詳述する。
行政制度と藩王国[編集]
イギリスによる植民地が開始されたインド亜大陸は、3つの管区に分割されて統治されていた。ベンガル、ボンベイ、マドラスの3管区である。1773年に制定されたノースの規制法によって、ベンガル管区の知事は、全インドを統括する総督に昇格された。
ベンガル管区の統括地域は、アワド太守からの領土割譲、第二次マラーター戦争の過程で獲得した領土などで占められ、19世紀には広大な領域となった[36]。そのため、1836年にはインド西方の領域は分離され、北西州となった。ボンベイ管区の領域は、1818年に終結した第3次マラータ戦争によって獲得された西部デカン、1847年に飛地として編入されたシンドであった。マドラス管区は、南東部のカーナティックが主な管轄地域であった[37]。
3つの行政管区を除いた地域は、藩王を主権者とする藩王国とされた。全体として、インド亜大陸のほぼ3分の1を占め、数は500以上あった。面積、人口の規模は様々であり、外交権は保有しない点は共通とされたものの、内政の自主権に関しては、一様ではなかった。藩王を通しての間接統治はある程度、順調であったが、19世紀半ばに藩王の養子継承という問題が生じることとなった。会社は、藩王国を以下の3つに分類した[37]。
かつてどこの国にも服属しなかった藩王国。
インドの王国ではなく、会社の活動領域の拡大によって初めて、服属した藩王国。
会社の力によって成立しえた藩王国。
このうち、後二者においては、インド総督ダルハウジー侯爵ジェイムズ・ラムゼイは養子継承を認めず、藩王国の取り潰しを実施した。藩王国の取り潰しは後にインド大反乱の遠因となった[37]。
租税制度[編集]
ヘースティングズの改革により、東インド会社は、インド亜大陸における行政機構の性格を帯びるようになった。しかし、東インド会社による租税制度は、一律ではなく、それぞれの社会に適応する形で、別の言葉で言えばパッチワークのような統治形態をとらざるを得なかった。その理由はインド亜大陸の多様性に起因する。租税面で採用した制度は大別して、ザミーンダーリー制とライーヤトワーリー制の2つである。
ザミーンダーリー制とは、広大な土地を1つの単位として、地税額を競売で入札させ、最高額を入札した人物に徴税を請け負わせる制度のことである。採用された地域は、ベンガル、オリッサ、ビハールの計15万平方マイルである。徴税請負人をザミーンダールと呼び、最初期には彼らの徴税請負期間は5年間であったが、税収は一定しなかった。そのため、コーンウォリスが総督に就任した際、競売による徴税請負制度を廃止し、ザミーンダールを該当する地域の私的土地所有者とする永代ザミーンダーリー制度に移行した。その結果、毎年2860万ルピーを財源とすることが可能となった[37]。
ライーヤトワーリー制が導入されたのは、主として、マドラスを中心とする南インドであった。もともと、ライーヤトワーリー制の起源は、南インドのバーラーマハル地域であり、当時の南インドの徴税制度を踏襲した制度であり、国家が土地所有者であり、土地を保有し納税する責任をライーヤトと呼ばれる耕作者が負う制度であり、中間的階層の排除を目的としていた。とはいえ、ライーヤトと呼ばれた耕作者は、一部の限定された有力農民だけの場合が多かった[37]。その後、ザミーンダーリー制が失敗した地域では、順次、ライーヤトワーリー制が導入されることとなり、マドラス、ボンベイの管区で導入された[37]。この他の地税制度として、村ベースのマハルワーリー制がある[38]。
地税制度の違いを比較すると、ザミンダーリー制度が行われた地域は現在でも不平等レベルが高く、他の制度の地域と比べて現在でも公共財の普及が遅れている。また、識字率や政治への参加率が低く、農業技術の導入が遅れたため農業の生産性が低いという結果が出ている[39]。
工業国から従属経済への転落[編集]
18世紀前半までのインドは軽工業輸出国でもあったが、産業革命を契機に輸出入が逆転する。貿易赤字を埋めるために有力な輸出品として残ったアヘンを中国に輸出する構図ができあがり、のちのアヘン戦争をよぶ引き金になった。またインドの工業生産は輸入品におされて立ち行かなくなり、専らイギリス商人・企業家の懐を潤す場となった。
17世紀から18世紀前半のヨーロッパ各国は、綿製品を買うためにアメリカ・イラン産の銀を代価に払う以外なかった。しかし19世紀になるとイギリスで産業革命が勃興し、コットン衣料工場がイギリスなどにつくられた。ナポレオン戦争時の大陸封鎖令はヨーロッパに輸出する途も失わせた。インドは既製品を輸出する地位から原材料供給地・兼・既製品輸入地となる。1820年前後には英印間の綿布交易において、輸出入が逆転した[37]。インド亜大陸内の交通インフラが整備され、内陸部にまでイギリス製品がゆきわたり、インドの第二次産業は壊滅的打撃を受けた。
当時のインドで輸出産品足りえたものは、綿布、生糸、アヘン、藍(インディゴ)、砂糖、綿花といった一次産品に限定された。なかでも主としてベンガルで産するアヘンは有力な輸出品で、イギリス人商人はこれを中国(清)でさばいた。インド的には対中国貿易の貿易赤字の解消に貢献しただけではなく、インド貿易の30%を占めるまで成長した[37]。このアヘン輸出が後にアヘン戦争へと発展することになる。
藍は西インド諸島での生産が下火になったのにかわって、ベンガル各地で生産拡大が展開され、一時はインド最大の輸出産品に成長した。しかし1827年と1847年の価格下落を経験し、インド経済の牽引役とはならなかった[37]。綿花もまた、グジャラート、アワドといった生産地域が会社の管轄に入ったことで輸出が拡大した産品であった。カルカッタ、ボンベイからイギリスや中国へ輸出された。ただ、藍にせよ綿花にせよ、プランテーション経営で生産されたわけではなかった[37]。
予備兵力としての海軍機構[編集]
1613年、スーラトに小艦隊が編成された事を契機に、イギリス東インド会社は独自の海軍兵力を持つこととなった。その機能は、1687年にボンベイへと移されたが、その任務は、
東インド海上貿易の保護
インド沿岸、ペルシャ湾、アラビア海、インド洋諸島における水域調査
インド、東南アジアにおける海賊船の討伐
軍隊の輸送及び海戦への参加
の4点に集約される[40]。その後、ボンベイは、周辺の地域がチーク材を産出することから、インドにおける造船業の拠点として発展を遂げた。このことにより、ボンベイは東インドにおける海上貿易・海上警備の拠点へと成長を遂げた。さらに、19世紀にはイギリス海軍の活動がインド洋のみならず、東・南シナ海へと広がる事により、従来の海上警備のみならず、インド沿岸藩王国間の紛争の除去、港湾・貯炭地の獲得、海図の作成の任務を帯びるようになった[40]。
加えて1830年代のインド財政は逼迫したものであったため、本国イギリスに先駆けて、木造船を廃止し、全ての船を汽船に転換する事により、海軍組織の生き残りにかけ、それに成功した。汽船の活躍は、1839年のアデン占領、1840年からのアヘン戦争、1846年のニュージーランド遠征、1852年の第二次ビルマ戦争、1855年からのイギリス・ペルシャ戦争、1858年におけるインド大反乱と同時期に展開されたアロー戦争で確認する事ができる[40]。
インド貿易の成功がイギリス社会に与えた影響[編集]
詳細は「ネイボッブ」、「産業革命」、および「チャーティスト運動」を参照
イギリス東インド会社の活動はインド社会だけではなく、イギリスの社会・経済にも大きな影響を与えた。金融面ではイギリスにおける株式の取引が行われるようになったことであり、経済面では「キャラコ熱」がイギリスにおける産業革命をもたらした。さらに、社会的にはネイボッブと呼ばれる新しい層が台頭したことにあった。
ネイボッブとはナワーブに由来する語で、18世紀から19世紀にかけてインドで大金持ちになって帰国したイギリス人、いわゆるインド成金のことである。そのさきがけは、17世紀後半から18世紀前半にかけてダイヤモンドの採掘で財をなしたトマス・ピット(en:Thomas Pitt)である。1710年以降、トマス・ピットは、インドでの収益をもとに、イギリスの各地で土地を買い、また、何度も国会議員になった[41]。プラッシーの戦い以降、インドで財をなす人々が増えたが、彼らのイギリス国内の評判は芳しいものではなかった。ネイボッブは、腐敗選挙区で国会議員に選出され、議会では1つの圧力団体となった[41]。
主要年表[編集]
1600年 東インド会社創設
1602年 ジャワ島バンテンに商館設立
インド西海岸スーラトに商館設立
日本の平戸に商館(イギリス商館)設立
日本から撤退
1717年 ムガル帝国の皇帝からベンガル地方における輸出関税の免除特権を獲得
1757年 プラッシーの戦い、ベンガルにおける会社の覇権確立
1765年 ロバート・クライヴ、初代ベンガル知事に就任。ムガル帝国の皇帝からベンガル、ビハール、オリッサのディーワーニー(州財務長官の職務・権限)を授かる。
1773年 ウォーレン・ヘースティングズ、初代ベンガル総督に就任
1773年 茶法制定。イギリスは北米13植民地での紅茶の販売力強化による会社救済を目指したが、植民地住民の反発に遭いボストン茶会事件が起こる。その10年後の1783年には、アメリカ合衆国が独立することになる。
1799年 第四次マイソール戦争に勝利。マイソール王国を藩王国化。
1803年 第二次マラーター戦争。デリーを保護下に置く。
1813年 インド貿易の独占権喪失
1826年 海峡植民地創設
1833年 中国貿易の独占権喪失に伴い商業活動停止
1858年 インド管轄権を失う
1874年 会社解散
脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
1.
^ 浅田實 『東インド会社』講談社現代新書、1989年、14頁。ISBN 4-06-148959-3。
2.
^ a b 羽田正 『東インド会社とアジアの海』講談社、2007年、74-82頁。ISBN 978-4-06-280715-9。
3.
^ a b c d 末廣幹 著「第二章 ブリタニアの胎動」、小野功生・大西晴樹 編 『<帝国>化するイギリス』彩流社、2006年、53-88頁。ISBN 4-7791-1172-2。
4.
^ 羽田 (2007) pp.95-100
5.
^ 浅田 (1989) pp.38-40
6.
^ 浅田 (1989) pp.71-84
7.
^ Barbara D. Metcalf, Thomas R. Metcalf 著、河野肇 訳 『ケンブリッジ版世界各国史_インドの歴史』創土社、2006年、73-74頁。ISBN 4-7893-0048-X。
8.
^ Barbara D. Metcakf, Thomas R. Metcalf、河野肇訳(2006) pp.75-78
9.
^ 羽田 (2007) pp.202-203
10. ^ Barbara D. Metcakf, Thomas R. Metcalf、河野肇訳 (2006) pp.70-72
11. ^ 羽田(2007)pp.204-206
12. ^ 辛島『世界歴史大系 南アジア史3―南インド―』、p.197
13. ^ 羽田(2007)pp.292-295
14. ^ 羽田 (2007) pp.296-299
15. ^ 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、pp.272-273
16. ^ 羽田 (2007) pp.300-303
17. ^ 羽田 (2007) pp.314-316
18. ^ a b c d e f g Barbara D. Metcakf, Thomas R. Metcalf、河野肇訳(2006) pp.86-134
19. ^ 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.301
20. ^ a b 辛島『世界歴史大系 南アジア史3―南インド―』、p.277
21. ^ 辛島『世界歴史大系 南アジア史3―南インド―』、p.207
22. ^ 辛島『世界歴史大系 南アジア史3―南インド―』、p.208
23. ^ 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.297
24. ^ 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.280
25. ^ 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.281
26. ^ a b 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.282
27. ^ 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.283
28. ^ 藤井毅 著「第7章_イギリス東インド会社における植民地化」、小谷汪之 編 『南アジア史_2』山川出版社、2007年。ISBN 978-4-634-46209-0。
29. ^ a b 熊谷 2018, pp. 186–187.
32. ^ 浅田 (1989) pp.221-222
33. ^ 磯淵猛『紅茶事典』新星出版社、2005、p.185
35. ^ 中野, 清水編 2019, 第7章.
36. ^ 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.296
37. ^ a b c d e f g h i j 水島司 著「第8章_イギリス東インド会社のインド支配」、小谷汪之 編 『南アジア史_2』山川出版社、2007年、295-338頁。ISBN 978-4-634-46209-0。
38. ^ バナジー, アイヤー 2018, p. 189.
39. ^ バナジー, アイヤー 2018, pp. 191–192, 215–217.
40. ^ a b c 横井勝彦 『アジアの海の大英帝国』講談社学術文庫、2004年、211-223頁。ISBN 978-4-06-1596412。
41. ^ a b 浅田 (1989) pp.178-189
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