戦争記念碑は物語る  Keith Lowe  2022.8.2.

 

2022.8.2. 戦争記念碑は物語る ~ 第2次世界大戦の記憶に囚われて

Prisoners of History : What Monuments to the Second World War Tell Us about our History and Ourselves  2020

 

著者 Keith Lowe 1970年生まれ。マンチェスター大学を卒業後、歴史・軍事関連書籍の編集者を12年間務め、現在は作家および歴史家として精力的に活動している。主要な歴史書に、連合国によるハンブルク爆撃によって生じた1943年の空襲大火(この空襲と慰霊碑に関しては本書の第20章でも扱われている)に関するInferno :The Devastation of Hamburg,1943 (2007)、英国で優れた歴史ノンフィクション作品に贈られるヘッセル=ティルトマン賞を受賞した『蛮行のヨーロッパ:第二次世界大戦後の暴力』(白水社、2018年)などがある。

田中直(たなか・なお)
1983
年、京都市生まれ。立命館大学国際関係研究科博士後期課程修了。
博士(国際関係学)。専門は現代ドイツ史、「記憶の文化」についての研究。
現在、立命館大学授業担当講師、龍谷大学ほか非常勤講師

 

 

訳者 田中直(なお)  1983年、京都市生まれ。立命館大学国際関係研究科博士後期課程修了。博士(国際関係学)。専門は現代ドイツ史、「記憶の文化」についての研究。現在、立命館大学授業担当講師、龍谷大学ほか非常勤講師

 

発行日           2022.1.28. 初版発行

発行所          白水社

 

序章

2017年アメリカでは公共の場から、南軍の英雄像の撤去が始まり、2015年ケープタウン大学からセシル・ローズの像撤去を契機にアフリカ全土で植民地時代のシンボル撤廃の声が上がり、「Rhodes Must Fall」と呼ばれるキャンペーンが世界中に拡散、イスラム原理主義者は偶像崇拝を理由に古代の像を破壊し始めた

現在私たちの記念碑を巡る議論は、ほとんどがアイデンティティに関するもので、その根底には私たち自身の歴史があるが、歴史が自らの生活の中でどのような役割を果たすべきなのかということについて、いまだ考えが纏まらずにいる

本書は、私たちの記念碑について、それが私たちの歴史とアイデンティティについて本当に何を教えてくれるのかについて書いたもの

本書で実証したかったのは、記念碑がどれも真に過去についてのものではないということであり、むしろそれは今日も生きている歴史の表現であり、好むと好まざるとにかかわらず、私たちの生活を支配し続けているものだということ

現在偶像破壊の対象になっていない唯一のものが第2次大戦の記念碑であり、他の記念碑が最早できない方法で、私たちが誰なのかということについて何かを表明し続けているのだ。撤去されるどころか空前の勢いで世界中に新しい戦争記念碑が建造されている

戦争は国によって大きく異なる方法で記憶されてきた。自分たちの国と隣国との違いを理解するには、私たちが常に共有し、共通の経験だと思っていることに対して、他者からの相反する見解を聞いてみることこそが最良の方法

1部では戦争の英雄に捧げられた記念碑を取り上げる。第2次大戦の記念碑の中で最も脆弱なものであり、唯一引き倒される可能性を持つ。第2部では戦没者に捧げられた追悼記念碑を検討、第3部では戦争の主要な犯罪者追悼の場を見る。第4部では終末論的な戦争の破壊に関する記念碑について述べ、第5部ではその後の再生のための記念碑を取り上げる。これらのカテゴリーは相互に反映し、補強し合う存在であると言える。それらは私たちの集合的記憶の別の一部分を荒々しく通過した偶像破壊の波から自らを保護するための、ある種の神話的枠組みを構築した

 

第1部        英雄

第1章        ロシア――「母なる祖国像」――ヴォルゴグラード

高さ6m以上の数十体の英雄像は、1967年完成の世界最大の記念碑像

動乱によって2級国家に弱体化したソ連が、戦後は超大国になった証としてデザインされたが、これ以降ロシアは戦争記念碑の建設を続けていて、何れも巨大なモニュメント 

戦争の賛美が、新しい国民的アイデンティティを築くための中心的支柱

 

第2章        ロシアとポーランド――「4人の眠っている人」記念碑――ワルシャワ

「武装同志の記念碑」は、1945年製作、同年末にワルシャワに建立。ソ連軍技術者の設計、ポーランド彫刻家グループの施工、6mの台座の上に武器を持って前進する3人の兵士が立ち、台座の四隅には2体のソ連兵と2体のポーランド兵が立つ。台座には「ポーランド国民の自由と独立のために命を捧げたソヴィエト軍の英雄、同志たちに栄光を」と刻まれ、両国の友好の新時代を象徴するもの

以後各地で同趣旨の570個もの記念碑が建設されたのは、ポーランドとソ連の戦時中の協力関係を基盤に、新たな共産主義的な未来を共に築くための公的な活動の一環だったが、ポーランドからすると、これらはあくまで外国人の活躍と犠牲を称えるものであって、ポーランド人自身が誇りを持てるような記念碑ではなく、すぐに不満をぶつける対象となった

民族主義的な落書きで覆われ、「武装同志の記念碑」も四隅の兵士が頭を垂れていたところから「4人の眠っている人」と呼ばれるようになった――ナチスに対するワルシャワ蜂起の間ソ連軍は傍観者に徹し、抵抗勢力が壊滅して廃墟と化した街に最終的にソ連軍が入ってきて解放したことから、ワルシャワが燃えている間彼等は「眠って」いたという二重の意味が込められている

共産主義政権の間の40年以上にわたり、戦争を追悼する場所として使用されてきたが、’89年共産主義の崩壊とともに、東欧圏の同種記念碑が次々と破壊されるなか、「4人の眠っている人」だけは無傷で残り、’92年地元当局が解体を検討したが反対意見で阻止された後、’11年地下鉄駅新設のため一時的に撤去、復元する際に72%もの人々が賛成したにもかかわらず、歴史博物館に寄贈され、’21年展示公開が予定されている

1994年、ロシアとポーランドは、互いの「記憶の場所」を尊重するという合意を結んだが、2017年にポーランド政府は、いまだ残っているソ連の戦勝記念碑を一掃するプログラムに着手。外国勢力のシンボルを排除しているだけだとし、本物の埋葬地を示す記念碑には手を付けないので合意違反ではないとしている

ウクライナでも、2015年に完全なる脱ソ連化を目的とした法律が可決され、通りや村の名前の変更まで徹底し、国立記憶研究所は’18年に国家の脱共産化が達成されたと発表

多くの東欧の人々は、これらの記念碑撤去を共産主義の過去の重荷から自国を開放する唯一の方法だと考えているが、歴史からはそう簡単には逃れられないことを考えると、1つの監獄を解体して別の監獄を作っているだけのように思える

 

第3章        アメリカ――合衆国海兵隊記念碑――バージニア州アーリントン

アメリカ人は戦争の英雄たちを、人間ではなくあたかも伝説の人物、あるいは聖人であるかのように見做す傾向にあるが、多くのヨーロッパ火とにとってアメリカのレトリックは馬鹿げたもののように聴こえる。ヨーロッパ人はアメリカの偏狭な世界観をしばしば揶揄するが、彼ら自身も同じようにアメリカに対して無知であることが多い

アメリカ人の意識の中では、第2次大戦中に軍人が果たした役割が、現在の自国の良さの全てを象徴するものとなっている

アメリカでは英雄を称える記念碑が作られるが、ヨーロッパでは犠牲者を表象する記念碑が作られることが多い

アメリカがヨーロッパを理解していないのは、ヨーロッパやアジアのように苦しんだことがないからで、映像を通じてしか戦争を知らず、戦勝記念碑も映像に基づいて作られる

ヨーロッパがアメリカを理解していないとすれば、アメリカ人の戦争に対する感情の深さが、歴史的な観念からではなくアイデンティティの観念から来ていることを把握できていないから

海兵隊記念碑は、アメリカの権力の中心的な重要な場所に置かれている。1775年の隊創設以来の全殉職者に捧げられた記念碑だが、費用は第2次大戦に従軍した海兵隊員の寄付金で賄われ、硫黄島の摺鉢山に米国旗を掲げた有名な戦争報道の写真を基にしている

日本軍の悪名高い攻撃によって始まった戦争を終わらせた行為を表す復讐のための作品であり、「アメリカを攻撃しようとする者はこうなる」という警告である

1954年の除幕式に参列した人々には、この碑の持つ負の感情を育む十分な理由があったが、制作者の企図は頭上にたなびく米国旗こそが神の導きの表象であるとし、それこそがこの碑がアメリカ国民に愛されている本当の理由

ヨーロッパとアメリカは、この戦争から全く異なる教訓を学んだ――戦前のヨーロッパは旗を振ることのあらゆる危険性に晒され、国旗は細心の注意を払って取り扱わなければならない象徴となったが、アメリカでは至る所に国旗が見られ、国旗への忠誠を誓うが、国旗は普遍的な美徳の象徴であり、外国の地に旗を掲げるのは支配ではなく解放の行為

 

第4章        アメリカとフィリピン――ダグラス・マッカーサー上陸記念碑――レイテ島

ソ連と同様、アメリカも数々の記念碑を各地に建造――最も有名なのはDデイに連合軍が上陸したノルマンディーの海岸近くのものだが、太平洋島嶼部にもいくつかある

米軍兵士が埋葬されている地に限定

レイテ島の記念碑は日本からの解放を主導したマッカーサー以下7人の将校の実物大の像

上陸時の米側戦争報道写真になぞらえて制作されたが、依頼主はフィリピン政府

この碑ほど、アメリカの英雄たちの誤謬性や、彼らが解放した国からどのようにみられているかについて、語っているものはない

マッカーサーは、父親もフィリピンがアメリカの植民地になった当初在フィリピン米軍司令官で、自身も何度かフィリピンに赴任、’30年代には米人で唯一人フィリピン陸軍の元帥にも任命。開戦当時新任の極東軍司令官としてフィリピンにいたが、奇襲攻撃で航空機は全滅、バターン島に撤退して大半は投降、マッカーサーはコレヒドールから最後の飛行機でオーストラリアに退避。体勢を立て直し、2年半後にはレイテ島上陸作戦を開始、約束を守って南太平洋の解放を実現させ、ヒーローとなる

記念碑は、その一連の物語を表象し神話的な力を与えるものだが、マッカーサーのように欠点の多い人物にそのような資質を持たせることは危険なゲーム

マッカーサーの人となりについては、開戦当初のリーダーシップの欠如はもとより、フィリピンへの帰還を可能にしたのが米海軍司令官たちの勝利によるものなのに自分の手柄のように喧伝し、部下の評判も不芳、フィリピンの上陸作戦では民間人の犠牲も厭わず砲撃したりと、それほど称賛に値するものではないことが判明、報道された映像も彼の報道チ-ムによる宣伝写真。前線に滅多に顔を出さないところからDugout Dougの綽名がある

彼の欠点や歴史家の間での長い論争にも拘らず、マッカーサーはレイテ島に足を踏み入れた一瞬の行為のおかげでフィリピンの英雄であり続けている

 

第5章        イギリス――爆撃機司令部記念碑――ロンドン

数多くある記念碑の中で最も新しく(2012年落成)、最も大きい(高さ8m、奥行き80m)

7人のパイロット像は、戦時中死亡した55573人の代表

軍事目標に限定した爆撃から都市全体を標的にする攻撃に戦略転換したが、’452月のドレスデンの破壊を境に、爆撃戦略への批判が高まり、まるで悪者の様に扱われ、1990年代になって漸く名誉回復が始まり、国民の隊員たちへの支持を見届けて記念碑建設のための民間資金集めのキャンぺーンが始まった

2次大戦によってイギリスは、帝国や威信、世界経済における卓越した地位を失い、国家財政が事実上破綻して何年もの間アメリカからの財政援助に頼らざるを得なくなった

イギリス人が憤りを感じ、侮辱され、歴史に騙されたと思うのは当然であり、自分たちが英雄なのか、それとも犠牲者なのか、心の整理がつかないのも無理はない

そんな気持ちが、この記念碑建設にも反映され、戦時中の批判が蒸し返された

 

第6章        イタリア――パルチザン犠牲者のための壁――ボローニャ

自分たちを英雄の国家だと信じ続けるために第2次大戦の英雄を狂信的に擁護する施策をとるのがアメリカで、「最も偉大な時代」を神話化したり、イギリスもチャーチルを神話化したりしているが、それを諦めて代わりに「殉教」をいう別のモチーフを記念碑に選ぶ国も出てきた

「パルチザン犠牲者のための壁」は、市庁舎の壁に約2000枚の地元抵抗運動家の肖像画と名前を貼り付けたもの。戦時中彼らが公開処刑された場所に、自然発生的な感情の高まりによって生み出されたもの

‘454月、抵抗運動が蜂起し街を制圧、全国的な抵抗運動の先駆けとなり、数日後には北イタリア全域へと広がる

ボローニャの人々は、処刑が行われたネットゥーノ広場に集まり、壁に国旗を掲げ死者の写真を貼って犠牲者の追悼を始めると、一気に広まり、市当局が城の城壁に恒久的に保存することを決定。’55年にはタイルに取り替えられ、名前や肖像画プリントされた

戦後この街を支配したのは抵抗運動の闘士で共産党所属だったが、‘7080年代にかけてイタリア全土を巻き込んだ極左勢力による政治的暴力に遭い、その犠牲者のプレートが追加された。英雄と犠牲者の線引きは曖昧となり、パルチザンでさえ犠牲者のように見える

街のアイデンティティにも大きな変化が訪れ、この年の過去と現在との間に連続性がなくなり、共産党も穏健は社会民主党へと替わり、グローバル化の波によって、都市人口の10%は他の国からきている

 

小括 「英雄主義」の終焉

記念碑は必ずしも歴史的事実を表象することを意図しているものではなく、正確な事実は重要ではない。ただ、英雄とは何か、という私たちが抱く神話的なイメージを表象したに過ぎない。これらは歴史の表象であると同時に私たちのアイデンティティの表象でもある

時代の変化に対し、英雄は最も脆弱な存在

多くの集団は、自分たちを英雄というより犠牲者として表象する傾向が強くなっている

私たちは皆、歴史の囚人であり、それは過去の出来事が集団に与えた役割

犠牲は英雄主義よりも遥かに強いアイデンティティであり、現れては消えてゆく英雄に対し犠牲は永遠の存在

 

第2部        犠牲者

多くの地域において第2次大戦は栄光に満ちたものではなく残忍なもので、多くの犠牲者を生んだ

この数十年の間に、記念碑文化に変化が見られ、英雄を表象する記念碑に代わって、被害者や犠牲者を追悼する記念碑を建てることが多くなった

犠牲者には免罪符の様な特権があるようでいて、自らを犠牲者と見做す国家もまた、他の国々と同様自らの歴史に囚われている

 

第7章        オランダ――国立記念碑――アムステルダム

2次大戦中の5年間、オランダ人は大きな苦しみを経験。戦争末期抵抗運動が活発化するとナチスは報復としてオランダ西部への食糧と燃料の輸送を遮断、「オランダ飢餓の冬」として知られる時期には18千が死に、数十万が深刻な栄養失調に陥ったとされる。終戦で解放された時には、オランダは自力で立ち上がれない状態だった

戦後の新政府は、耐え忍ばざるを得なかった屈辱と苦しみを忘れないため、記念碑の建設を決定。22mの円筒を囲むように半円形の衝立に、11州の土を入れた壺が配置され、後に蘭印の壺が追加

ユダヤ人住民に対する配慮が欠けているのではないか――戦時中11万が強制送還され、生還者は5000人のみだが、一様に無視されたと感じていたのは、オランダ人のホロコーストに対する無知ゆえに、自らの飢餓を優先しユダヤ人の苦しみに思いが至らなかったからでもあり、オランダには戦前から反ユダヤ主義が蔓延していたのも、戦時中のユダヤ人に何が起こったのか誰も気にしなかった背景にある

戦後オランダでは、ユダヤ人を助けられなかった不都合な真実を認めるよりも、この問題を無視する方が簡単だったことから、国家レベルにおいてはオランダのユダヤ人は突如見えなくさせられてしまい、かつてはユダヤ人の中心地として繁栄したアムステルダムでさえ、ほとんどユダヤ人を見かけなくなった

‘47年アンネ・フランクの日記出版を契機に見直しが始まり、各地に記念碑が建てられた

2000年代半ば以降、ヨーロッパの他の都市と同様、かつてユダヤ人の住んでいた家の前に「躓きの石」のプレートが埋め込まれ、現在市内だけでも400以上にのぼるという

国立記念碑は失敗に終わったが、それ以来アムステルダムはその排除と見落としを他で埋め合わせてきた――戦後無視されてきた多くの犠牲者を悼む豊かな記念碑文化が根付く。ナチスに迫害された世界初のジプシーの記念碑(‘87)や、同性愛者記念碑(同年)もある

 

第8章        中国――南京大虐殺記念館

現在「レイプ・オブ・南京」として知られる事件の記念事業の先頭に立つ中国の施設は「侵華日軍南京大屠殺遭難同胞紀念館」で、30mの記念像など、巨大な施設を持つ

中国では第2次大戦の出来事を記念するのに40年以上かかっている(南京の記念館の開館も’85)のは、中国共産党が階級闘争をしている間は民族主義的な戦争の記憶は政治的には役立たず、毛沢東の死後ようやく戦時中の苦しみを国民をより団結させるための動機として利用できる可能性に気付いたということ

この30年の間に、中国では歴史認識が爆発的に高まり、特に第2次大戦の公的記憶が重要視され、南京大虐殺は革命の中心であり、中国人犠牲の国家的シンボルとなっていて、‘14年には国民の祝日にされた

毒のある歴史を持つ日中両国の今後の関係は憂慮するが、ローカルなレベルでは膨大な和解活動が行われており、お互いの理解を深める小さな行動の積み上げこそ、歴史を少しでも耐えられるようなものにする最良な方法だろう

 

第9章        韓国――慰安婦像――ソウル

靖国神社と慰安婦像は、日韓両国の相互非難の中心

外部の人間に支配され、レイプされ、奴隷にされ、それでもなんとか尊厳を保ってきた女性の姿は、20世紀の韓国の苦悩を見事に表すメタファーであり、ソウルの平和の少女像によって表象されている

‘88年韓国の女性研究者が、第2次大戦中の韓国人女性の扱いに関する研究成果を報告したのが一大センセーションを巻き起こす。元慰安婦が名乗り出たことで急に現実味を帯び、東南アジア各地にも飛び火し、謝罪要求のデモに発展

問題の核心は、日本人が過去に対する道義的責任を受け容れようとしてるが、直接的な法的責任はまだ受け入れていないところにある――その間、’11年に日本大使館前に立てられた平和の像は恒久的な象徴となって座り続けている

武器としての犠牲であり、道徳的に優位に立っていることを知っている韓国の被害者たちは、永久に抗議活動を続けることが自分たちの話を聞いてもらうための最善の方法であることを認識している

 

第10章     アメリカとポーランド――カチン記念碑――ジャージーシティ

1991年設置された10mのブロンズ像は、目隠しされ猿轡を噛まされた兵士がその背中を銃剣で突き刺されている姿の彫刻で、1940年ソ連の秘密警察が行った残虐行為の顕彰碑だが、地元の意見を二分――「醜くて下品」「暴力的な死の描写が生々し過ぎる」とする一方で、「暗くて美しい」と評価する人もいる。この作品が引き起こす不快感こそが、優れた戦争記念碑が持つべき感情なのだそうだ

2018年、地域の再開発事業に伴い数百メートル移動させることが決まって論争が勃発。ポーランド系アメリカ人がポーランドの駐米大使まで動かして反対、反ユダヤ主義者の烙印を押したり、像の芸術性を巡って罵り合いにまで発展

ジャージーシティの記念碑は、第2次大戦以降’89年にソ連の支配から解放されるまでのすべてのポーランドの歴史を記念している。「カチン」という言葉自体がその間ポーランド人が被ったあらゆる裏切りの象徴であり、記念碑は国家のシンボルと同時に国家の苦しみを表象、さらには記念碑を建てた人々によってジャージーシティの地元の歴史や戦争の影響でこの地に移住してきた人々の個人的な歴史とも密接に結びついている

終戦でアメリカに来たポーランド人は約20万で、ヨーロッパで最大、うち1万がニュージャージーに定住、既存のポーランド移民の共同体に溶け込んで、新しいアイデンティティを確立していく中で、’80年代初頭退役軍人たちが記念碑建立の検討を始め、寄付が集められ市議会の議決を経て公の場に記念碑設置が決まる

バブル景気の煽りを受けた街の高級化が記念碑のある公園一帯の再開発を促し始めた時、記念碑の眼前で繰り広げられた9.11の惨事を目にして、記念碑の土台には新たにWTCのツインタワーから煙を上げるブロンズのレリーフ彫刻が加えられた

市長が移転を発表した時は、地元住民の大反対を巻き起こし、市議会も混乱、1区画南への移転という妥協案も、ポーランド大統領は承認したが、反対派の記憶と犠牲の前には無力で、最終的に市議会は永久に保存することを全会一致で決議

 

第11章     ハンガリー――ナチス・ドイツ占領下における犠牲者追悼記念碑――ブタペスト

抽象的な記念施設や記念碑の問題点の1つは、歴史を単純化し過ぎてしまう傾向があること――ソウルの平和の像の問題も韓国の「慰安婦」の問題のすべての責任を日本に押し付けていることにある。韓国にも責任の一端はあるが、国家は自分自身を見つめるよりも外部の人間を非難する方がずっと簡単

過去を白紙にするかのように意図的に設計された記念碑を建てることがあるが、その際にはしばしば犠牲者のモチーフが主な手段として利用される。犠牲者には道徳的な力があり、犠牲者は決して手の届かない存在。21世紀になってほとんどすべての国が自分自身を犠牲者として表象することを望む

ヨーロッパで最も物議を醸している記念碑がブタペストの記念碑――70年前にドイツ軍がハンガリーを占領した瞬間を記念して、’14年に時のハンガリー政権によって建立

ハンガリーの象徴である大天使ガブリエルの上にドイツを象徴する鷲が、ハンガリーを征服した年の1944と刻まれたリングをつけて舞っている像は、表象するものが歴史の捏造であり、表象性に欠陥ありとして批判の対象となる

ハンガリーはドイツの同盟国であり、’44年のドイツによる占領は、ハンガリーが連合国と個別に講和することを阻止するためにヒトラーが併合に動いたもので、ハンガリーの抵抗は全くなかった。犠牲者は最初にブタペストに到着したドイツの行政官の1人アイヒマンによってアウシュヴィッツへ強制移送された438千人のユダヤ人であり、加害者もドイツ人だけでなく、迅速な移送にはハンガリー人の協力が不可欠であり、1920年に反ユダヤ法が導入されたハンガリーにもホロコーストの基盤が存在した

権威主義的な政権の一方的な決断による記念碑建設に対し、市民活動家のグループは、次善の策として、市民11人が占領当時の「魂のシンボル」を建設現場に並べて「カウンター・モニュメント」として対抗

政府の記念碑は正式に除幕されることもなければ、政府の公式行事がこの場所で行われたこともなく、記念碑撤去の声は今も続く

ブタペストの出来事は、記念碑について基本的な2つの真実を示す――1つは特定のメッセージを念頭に置いて記念碑を建てても、それがどのように使用され解釈されるかを予測することは不可能であること、もう1つは歴史を書き換えようとして記念碑を建ててもうまくいかないことで、歴史は必ず追いついてくる

 

第12章     ポーランド――アウシュヴィッツ

ポーランドのオシフェンチムは、ドイツ占領下でアウシュヴィッツと改名、40もの収容所が点在する複合的な収容所だったが、’42年以降ユダヤ人の大量殺害に利用

2収容所のビルケナウでも’44年以降大量殺戮が行われる

この場所を訪れる人々が年々増加するために、自身に問題をもたらすことにもなった

一般の観光地化して、ゆっくりと歴史的意義を嚙みしめながら見学するという余裕を与えられない犠牲になったユダヤ人ばかりではなく、中には看守に協力してわずかなパンを手に入れる同胞もいた

アウシュヴィッツのような場所の道徳的な力の一部を自分たちのものにしようとする人たちはいつの時代にも多く存在する――戦後アウシュヴィッツの所有権を主張した最初のグループはポーランドの共産主義者で、ユダヤ人犠牲者に対する言及はなく、資本主義的搾取の究極の象徴として描かれた。’70年代にはポーランドのカトリック教徒もこの場所を自分たちのものとしようとした。教皇は大規模な礼拝をおこない、ここを「現代のゴルゴタ」と宣言。さらに近年では、第2次大戦の記念碑のなかでアウシュヴィッツだけが抜きんでた存在であることに疑義を挟む人が現れた

アウシュヴィッツは、ホロコーストの犠牲者のための記念碑であるだけでなく、その加害者の記念碑でもある

 

第3部        モンスター

193040年代にかけて勢力を持った狂信者たちは、何百万もの人々の権利、尊厳、命を全く無視して、自分たちの目的を追求した。大義への執拗な信念は称賛されるべき資質ではなく、全ての行動を覆い隠す弱点

 

第13章     スロベニア――すべての戦争の犠牲者のための記念碑――リュブリャナ

抽象的な記念碑だが、議論の余地がないわけではない

巨大な2枚のプレーンな石板が平行に、少しずつずれる格好で配置、1つは正方形、1つはやや狭めの長方形、正方形は一辺が12m、同じ石から作られ、高さ、重さ、体積が全く同じ、まるで永遠に競い合う兄弟のように、常に独立して、常に対立してはいるが、いつも密接に結びついている

郊外の炭鉱の廃坑にはチトー率いるパルチザンが共産主義者でもあったファシストの協力者らを捕らえて虐殺・廃棄した跡が放置されている

ユーゴスラビアの戦争の歴史に於ける道徳的な混乱は、1918年第1次大戦の荒廃の中で建国されたこの国の歴史を物語る――その領土はロシア、オーストリア・ハンガリー、オスマン帝国という19世紀の3大国の残存、空白地帯を断層的に横切り、キリスト教正統派、カトリック、イスラム教という3大宗教が交差する場所であり、半ダース以上もの民族が住み、何世代にもわたって小競り合いを起こし、嫉妬心を育んできた

‘41年独伊軍の侵攻とともに、全ての緊張関係が解き放たれ、国全体が大混乱に陥る。暴力的な紛争を操っていたのは独伊の占領軍で、異なる民族間の争いをも煽った

戦争の後半には2つの陣営に統合、一方はドイツ軍とその協力者で、クロアチアのウスタシャとその民兵、スロベニア郷土防衛軍、セルビアの義勇軍などがいたが、互いに信頼し合うことはなく、それぞれが別個にドイツ軍と協力しそれぞれの地を支配、他方それに対抗するのがレジスタンスで、’45年までにチトー率いる共産党パルチザンによって統合されていた

2つのグループの最終対決は終末的な意味合いを持つことになり、ドイツ軍協力者が連合軍に降伏しようとした際、連合軍は彼等の亡命を拒否して、チトーに引き渡したため、チトーによる大虐殺が始まった。共産主義ユーゴスラビアを取り戻すために、クロアチア人やスロベニア人を抹殺した方が容易く目標を達成できた

‘80年チトーの死後、異なる共和国と民族間の不毛な対立が再び始まった

‘91年、スロベニアはユーゴスラビア連邦から離脱した最初の共和国だが、セルビア、クロアチア、ボスニア、コソボを巻き込んだ暴力からは逃れられたが、旧共産主義者、新民主主義者、強硬な民族主義者らの間の緊張は依然として高い

そんな中で’09年戦争に関する記念碑のアイディアが議会で起こり、’17年に落成

無垢であるところが最大のセールスポイント。英雄や犠牲者、加害者について何も書かれていない、第2次大戦の記念碑であることを誰もが知っていながら、全ての戦争の犠牲者に捧げられている

建設に当たっては、様々な妨害事件や抗議行動が起こったが、注意を払う政治家や市当局者はほとんどいなかった。国家は何を記憶しておく必要があり、何を忘却すべきなのか、スロベニアはどのようにして歴史の最も暗い章から解放されることができたのだろうかなど、様々な疑問は解決されないままに残っている

今日、記念碑は都市景観の中に定着し、それについて思いを巡らせる人はほとんどいない

 

第14章     日本――靖国神社――東京

英雄、犠牲者、戦争犯罪人の境界線が曖昧になっているのはスロベニアだけではない

自分たちの過去の行いの一部を詳しく振り返ることを躊躇するのは、人間の本性である

イギリスの植民地主義の遺産を考えても、イギリスの人々は他の国の制服と搾取が道徳的に許されないことだと心の底から思っているが、植民地に対してインフラなど恩恵をもたらしたと考えることによってその良心の呵責に耐えている

日本やドイツは全面的に敗北したため、戦争中の犯した罪について独自の物語を構築する機会はなかったため、自分が加害の国に属していることとどう折り合いをつければいいのか。兵士の犯罪を容認することなく、彼らの犠牲に敬意を表することができるのか

戦争をどう記憶するかは、日本社会で最も議論を呼んでいる問題の1

靖国神社は、他の国が受け入れている歴史認識を決して受け入れないでいる。無実の人と有罪の人との区別を拒否し続けている、アジア諸国は、靖国神社を追悼と敬意を表する場としてではなく、戦犯たちの聖地だと認識し始めている

欧米には多くの誤解があり、それを解くことが重要――靖国は明治維新以来の戦死者全ての追悼施設で、霊廟簿には246.6万人以上の名前が記されている。また記念碑ではなく、祖先を弔うための施設

同時に、悪名高い憲兵隊の記念碑や、東京裁判で1人無罪を主張したパール判事の記念碑、さらには戦争博物館があって、戦争責任を真っ向から否定しているのみならず、歴史的な歪みのみならず、残虐行為など不都合な事実を意図的に省略している

問題の根源は戦犯の合祀で、’59‘67年にB,C級戦犯が、’78年には14名のA級戦犯を合祀。国民の反対を押し切り、天皇も合祀以降は参拝支那方にも拘らず、歴代首相は参拝を続け、中国や韓国の反発を招く

欧米諸国では、歴史否定は一般的に弱くなってきて、自らのプライドを少しずつ呑み込み、より大きな責任を認めるようになっているのに対し、靖国は逆の方向に動いており、否定を弱めるどころか強めている

 

第15章     イタリア――ムッソリーニの墓――プレダッピオ村

ムッソリーニが生まれ、埋葬された故郷の村では、毎年3回、誕生日と命日、権力掌握の日に、遺族とその支持者の葬列が見られる

1次大戦後の混乱から国を救うとして立ち上がった後政権を掌握、エチオピアやリビアに対して残虐な支配を確立したが、第2次大戦では敗北を繰り返し、’43年には独裁権が剥奪され監禁されたものの、ナチスに救出されその傀儡国家の指導者に返り咲き、イタリア北部で自らの国民に対し暴力を振るって抵抗の芽を摘んでいった

学術的な意味では、ここには正しい歴史が全く存在しないし、ムッソリーニの遺産を評価することもなければ、彼の功績と犯罪のバランスをとるための資料もない。このファシストの独裁者の地元の記憶は管理されておらず、単に彼を擁護する人たちの恥知らずな懐古主義に委ねられているだけ

この村を悪用する人々から自分たちの村を守るために、きちんとした博物館を建設する話が進んでいる

 

第16章     ドイツ――総統地下壕とテロのトポグラフィー――ベルリン

ヒトラーには墓がない

遺体は焼かれた後埋められたが、ソ連軍によって発見され、歯型の記録から身元が判明

当初ブランデンブルクの森に埋めたが、埋葬地が聖地になることを恐れ、徹底的に燃やされ、灰は川から海へと流された

総統地下壕についても聖地になることを恐れたが、破壊は簡単にはいかず、’80年代にようやく完全撤去となり、砂利や砂、その他の瓦礫で埋められ、痕跡は全て消え去り、みすぼらしい案内板があるだけとなった

ナチス時代の主要国家機関のあった地域は、’61年ベルリンの壁建設の際空き地となる

‘80年代、西ベルリンの雰囲気は大きく変化し、過去を直視しそれを記念しようとする新たな欲求が生まれ、’87年にはかつてゲシュタポ本部のあった土地が「テロのトポグラフィー」として生まれ変わり、’90年のドイツ統一後は市議会が恒久的な記念施設とすることを決定。さらに研究センターも建設されナチスの犯罪を記録した常設展示が行われ、ベルリンで最も人気のある追悼施設の1つとなった

「テロのトポグラフィー」は歴史を真正面から捉え、過去を打ち負かそうとしている。このような場所はベルリンに何十カ所もあり、過去を説明する案内板が設置されている。この圧倒的な情報量と、それに伴う普遍的な罪悪感は、部外者の人間にとっても息苦しさを感じさせる

‘45年にドイツの社会から一掃されたにもかかわらず、ヒトラーのイメージが今も根強く残っている。21世紀の今日、ヒトラーの記憶はこれまで以上に強固なものになっているようだ。ヒトラーには墓はないが、墓がなく肉体がなくても、彼の記憶は好むと好まざるとにかかわらず、私たちと一緒に生き続けている

 

第17章     リトアニア――スターリン像――グルータス公園

過去のモンスターからは逃れることはできない。その不在自体がある種の存在へとなってしまう恐れがある。残された最後の手段は「嘲笑」かもしれない

この公園には、スターリン像のほかにも20世紀を代表するモンスターたちの記念碑が集められていて、奇妙な場所。この場所を機能させているのは、これらの展示物を嘲笑するという方法で、私たちの歴史の最も暗い部分を認識するための革新的な方法を提示

リトアニアは侵略のたびに残虐行為が行われた挙句、’45年にはソ連に呑み込まれ、スターリンによる粛清が始まる。’90年ようやく独立を果たした時、共産主義の記念碑のほとんどが取り壊されたが、リトアニア新政府は後世に残すために多くの彫刻を保管

‘98年保管費用節約のため40体ほどを貸し出すことにして、公募の結果元レスリングのチャンピオンが追加費用なしに彫刻公園を作って展示することで落札。その計画は「スターリンのテーマパーク」と呼ばれ、特別な鉄道を敷いて観光客を集めようとした

激しい反対運動が起こり、国会議員は国家で保管することを決議したが、憲法裁判所が覆し、'01年公演は正式にオープンし、内外から多くの観光客に人気を博している。公園は鉄道こそ許可にならなかったが、入口に置かれた客車で強制収容所に連れてこられたような設えで、公園全体が有刺鉄線と監視塔に囲まれ、シベリアの収容所の一部であるかのように展示されている。同時に遊園地や動物園が併設され混然一体となっている。チャンピオンは、「人々はここにきて彫刻について冗談を言うことができる。それはリトアニアがもはや共産主義を恐れなくなったことを意味する」と展示の狙いを語っている

現代ロシアにおいてスターリンの記憶を回復させようとする懸念すべき傾向が指摘され、各地で真新しいスターリンの記念碑が建てられている

この公園は、私たちを歴史から解放することに近づいている。その魔法の成分は嘲笑

 

小括 モンスターの価値

2次大戦の犯罪者を記念するのに良い方法はない。解決策は全く記念しないことだが、

ヒトラーやスターリンのような人物の記憶はすでに社会全体に分散してしまっていて、彼らはその場に居なくても私たちの想像力を支配し続けている

英雄や犠牲者の記念碑を可能にしているのは、モンスターの記憶の存在で、死者や被害者を追悼する時、彼らを犠牲にしたモンスターを思い出している

2次大戦の記念碑が偶像破壊の波と比較的無縁でいられるのは、これらのモニュメントが何を表しているかではなく、それらが何に反対しているのかにある。チャーチルもモンスターに立ち向かったからこそいまだに英雄として崇められているし、犠牲者もモンスターの手にかかったからこそこれほどまでに悲劇的なものとしている

英雄、犠牲者、モンスターの記憶は、お互いに強化し合っていると言える。これらの人々の為に作った記念碑は、単なる歴史ではなく、神話であり、戦争と苦しみの物語だけでなく、善の力と悪の力の間の壮大な闘争の物語を構築してきた。これこそが記念碑の役割

 

第4部        破壊

2次大戦は、米英にとっては「最も輝ける時」として記憶されているが、徹底的に破壊された都市では異なる記憶が定着

 

第18章     フランス――オラドゥール=シュル=グラヌ

フランス中西部リモージュの北西郊外に残された廃墟の村

‘446月、村はナチスの武装親衛隊に包囲され、住民が皆殺しにされたが、その後も同様な残虐行為が、レジスタンスからの攻撃に対する報復としてあちこちの村で行われた

他の国でも同様のことは起こり、大半は戦後地元の人々によって再建されたが、この村だけは焼失のわずか4カ月後から国定史跡に変える動きが始まり、ド・ゴールによって支持され、廃墟が公的記念碑となった

レジスタンス活動への報復として破壊されたことからレジスタンスの記念碑とされたが、実際この村ではレジスタンスは活動しておらず、単にナチスの残虐性を表象するだけ

さらに、’53年の軍事裁判で虐殺に参加した中に何人ものドイツ軍に徴兵されたフランス人がいたことが判明、国内の分裂を痛感させ、対独協力という痛ましい遺産を想起させたことから、廃墟の村は単純な記念碑にはならず、何よりも否定の象徴となった

虐殺を生き延びた何人かは、廃墟の隣に建てられた同名の新しい村に定住したが、その生活は必然的に快適さと呪いの両方をもたらした。厳格な追悼が行われる6月の結婚式が遺族会によって解禁されたのは’88年のこと

 

第19章     ドイツ――虐殺されたヨーロッパのユダヤ人のための記念碑――ベルリン

ベルリンの中心部に、単一目的の為に建てられた最大の記念碑、面積19000

ベルリンの壁の跡地に’05年完成、2711個のコンクリートブロックが敷地内に格子状に配置。幅と長さは同じだが高さが15mと異なる。設計者は、「妥協することなく厳格なシステムを景観に課した時に起こる人間性の喪失」を表現したと述べるが、ブロックの数も、それ自体も何かを表しているわけではなく、記念碑には象徴的なものはない

ナチスによるユダヤ人虐殺の最初は’41年のソ連侵攻直後にウクライナのバビ・ヤールで、キエフ出身の約33千が対象、翌年は東欧で100万人以上が主に銃殺によって殺害

設計者のアイゼンマンは、記念碑を抽象化し全てを自由に解釈できるようにすることで、来訪者が自分の記憶を自然に呼び起こすことができるような空間を提供したいと考えた

近くのユダヤ博物館にある「亡命の庭」との類似性に気付く 

ドイツ政府は、アイゼンマンの企図した抽象性に異議を唱え、論争の末、地下に情報センターを設け虐殺の詳細な展示を行い、「名前の部屋」では現在判明している犠牲者全ての人の詳細が1人ずつ読み上げられている

次にこの記念碑を批判したのは、他国のユダヤ人と共に声を上げたドイツ在住のユダヤ人で、破壊された世界や彼らの苦しみを想起させるものが何もないとして、記念碑はドイツ人のためであってユダヤ人のためのものではないとした

世界中のホロコースト博物館・記念碑では、同じ基本パターンを採用する傾向があり、抹殺された共同体の名前や殺害されたユダヤ人の数を示す統計、収容所の土、ユダヤ教のシンボルなどが多用されるのは、ある種の慰めがあるからで、それを全て取り払ったのでは記念碑としての意味をなさない

一方、ドイツ人も歴史の囚人だが、そこで強調されるのは自らが被った被害ではなく、犯した罪のほうであり、子供たちはかつての収容所を訪れ、祖父や曾祖父が犯した罪について学んで行く

 

第20章     ドイツ――空襲犠牲者慰霊碑――ハンブルク

オールズドルフの共同墓地の慰霊碑は、街全体を襲ったアルマゲドンを想起させる

‘43年7月末のゴモラ作戦と名付けられたヨーロッパ史上最も破壊的な空襲は、722機のイギリスの爆撃機による焼夷弾の爆撃が火災旋風を引き起こし、10日間の爆撃で町の61%が完全に消滅したが、ここにはただ慰霊碑の小さな寡黙な彫刻があるだけ

戦後のドイツ人が抱えていた羞恥心は、現代人には理解しがたい。何よりもナチスが自分たちの名の下に行ったことを恥じ、他国の人々から見て社会ののけ者であることを知っていただけでなく、ナチズムがすべてのものに痕跡を残し、すべての機関が腐敗し、搾取されていることが明らかになった

羞恥心の痕跡は慰霊碑にも見て取れる。自ら進んで死に向かっているように見えるし、さらには、戦争末期に起こった暴力と破壊は、ドイツが犯した罪に対して支払わなければならなかった代償に過ぎないという無言の認識があり、その暴力が最終的にナチスの敗北に繋がったのだから、払う価値のあった代償であったという示唆もある

‘52年の慰霊碑の落成式で、戦後初の市長は悲しむ遺族に対して、家族の死の本当の理由を見る勇気を持てと自身を見直すよう求めた。「暴力的な犯罪者の側に身を投じたからこそ、自分たちの街が暴力に支配されてしまった」と述べた

 

第21章     日本――原爆ドームと平和祈念像――広島・長崎

自分たちが経験した惨状を受け容れ、それを変化の機会として利用しようとしたのが広島・長崎

一瞬で町が廃墟と化した出来事は、一体どのようにして記念されるのだろうか――正式な慰霊碑がない中で、廃墟そのものが特別な意味を持ち始めた

広島では、県産業奨励館の残骸が終末的な出来事の象徴となった

‘49年国会で復興のための具体的な法律が可決され、自らの経験を記念する方法が考えられ、中心部にメモリアルスペースを設け、資料館や平和公園、モニュメントの設置などが決まり、設計コンペで丹下健三のアイディアが採択された

‘66年には市議会が、奨励館の廃墟の永久保存を決議し、’96年には世界遺産となって世界中の人々の巡礼地となった

長崎では、浦上天主堂が大きな被害を受けて残ったが、大部分が戦後再建されたものだったところから、新しい目的を持って「平和祈念像」のモニュメントが建てられた

最も重要なテーマは「平和への祈り」であり、次いで被害者としてのメッセージ

ただ、原爆ドームを受難の象徴とする考えは、自動的に日本国全体に対するある種の赦しを意味するために、かつての交戦国の多くの怒りをかうことになった。現在の日本人は必ずしも過去の責任をとろうとしていない。理由として、その必要性を感じていないからであり、広島と長崎はすでに自分たちが代償を払った証拠だと考えている

少なくとも両市の慰霊碑には、誰かを非難する言葉は一切ない

最後の大きなテーマは、国家の再生という考えに関わるもの――日本人が戦争の敗者から平和の勝者になることができるかもしれないと提案している

 

第5部        再生

敵対行為が終わったことで、全世界には普遍的な希望に満ちた雰囲気が広がった。戦争によって物理的、制度的なインフラの多くが破壊されていたヨーロッパでは、どこの国も戦争を引き起こした古い伝統に囚われない、より優しく、より公平な社会を構築する機会を得た

2次大戦の記念碑の中には、戦争そのものではなく、希望と平和の新しい時代の幕開けを祝うものも存在する

 

第22章     国際連合――国連安全保障理事会会議場の壁画

国連が何を象徴しているのかを最も雄弁に表現しているのが’52年に公開されたこの壁画

9m高さ5mの壁画はノルウェーの画家ペール・クローグの作、長年の戦いを経て息を吹き返した世界が描かれている。下部は陰鬱な色で荒廃した風景が描かれ、上部にはこれから向かう明るい世界が描かれている

肝心の組織は、5大国の拒否権のせいで、機能不全に陥り、当初目論んだ理想の実現には程遠い

 

第23章     イスラエル――ヤド・ヴァシェムのバルコニー――エルサレム

‘05年に建てられたホロコースト博物館のバルコニーは、民族だけでなく、政治的な国家再生の強力なシンボルであり、多くの議論の的となっている

ヤド・ヴァシェムは、’53年イスラエルの国会がホロコーストの犠牲者のための追悼施設を作ることを決議した後設立され、研究機関、図書館、出版社、博物館、ホロコースト研究のための国際学校などが設けられた。「ユダヤ人の記憶の心と魂」

博物館に入って最初に目にするのがバルコニーだが、暗くて厳かな通路の一番奥に設置され、中央通路の両側にあるユダヤ人の苦難の歴史の展示を見た後でないと辿り着けない構造になっている。最後にある「名前の部屋」と呼ばれる円形の保管庫には犠牲者の経歴が保管されている。最後にバルコニーに辿り着くと、ユダヤの丘のパノラマが広がり、心を落ち着かせ大きな安堵感を覚える。博物館の存在自体が、再生と救済の象徴

ヤド・ヴァシェムは、ドイツの賠償金の一部で建てられた

イスラエルも他の国と同様、肯定的な政治的メッセージを示す歴史の側面には敬意を払い、あまり魅力的ではない側面は避けようと努力している。イスラエルが無視し、ヤド・ヴァシェムが省略しているものこそ、この再生と救済の公式メッセージを議論の的にしている

1は、戦後パレスチナの地に到着したホロコースト生還者がどのように扱われたか、ここではかなりバラ色に描かれているが、パレスチナ生まれのユダヤ人からは冷たく迎えられ、新生活にも苦労して、お互い同胞として受け入れるようになったのは’60年代に入ってから

2に、イスラエルという新国家がユダヤ人にとって安全な場所であるという考えもまた絶望的に理想主義的――第2次大戦直後のパレスチナはユダヤ人とアラブ人との間の内戦に巻き込まれ、’48年イスラエルが独立を宣言すると近隣諸国から侵攻を受ける

最後に、ヤド・ヴァシェムの展示する歴史は、ユダヤ人だけの歴史に特化しており、最も目立つ排除はパレスチナ・アラブ人の歴史――イスラエルの土地自体長く豊かな歴史を持つ領土であり、その多くはユダヤ人とは何の関係もなかった。1500年にわたって人口の大部分を占めてきたのはアラブ系パレスチナ人、キリスト教徒で、ユダヤ人が増加してきたのは19世紀末にヨーロッパからの迫害を逃れた移民が入ってきてから。当初こそ平和に共存していたが、ユダヤ人に政治的な支配権確立の目的があると知ってアラブ人は怒りを感じ、1920年代初頭には両者間で暴動が起こり、アラブによる虐殺に発展(1929年ヘブロンの大虐殺など)、ユダヤ人も民兵組織を設立して対抗。イギリスに代わって国連が間に入り、両者の居住区の分割を決議、アラブ人が猛反発してユダヤ人を攻撃したため、ユダヤ人も反撃、残虐行為の応酬の後、イスラエルの建国宣言により決定的な戦争に発展、その不安は現在までずっと続いている

 

第24章     イギリス――コベントリー大聖堂と釘の十字架

‘40年の空襲を受けたイギリスの都市コベントリーは、ドレスデンや広島にも近い象徴的な役割を果たす――大聖堂の廃墟は、第2次大戦を永久に想起させるランドマーク

他のどの遺跡より遥かに豊かで希望に満ちた記念碑となっている

国内でも有数の大規模かつ重要な工業地帯が、400機以上のドイツ軍機により当時としては破格の破壊がもたらされ、両国はプロパガンダに利用、それぞれの目的の象徴とした

コベントリーの町の有力者たちは、キリスト教の伝統に基づくより精神的な価値観を訴えようと、復讐を乗り越え、新しいキリストの世界を作ろうと宣言。瓦礫の中から拾い上げた釘で十字架を作り祭壇に置き、以後釘の十字架は新たなシンボルとなった

中核部の徹底した破壊を奇貨として新たな都市計画を作り、イギリスで初めて街の中心部を完全に自動車乗り入れ禁止とした

‘62年完成した新聖堂は、全く新しくできた聖堂と廃墟として残された尖塔とを巨大なポーチで結んだもので、破壊と復活を永久に想起させたものとなる

今日、コベントリー大聖堂の全ての活動の中核には「和解」の概念がある。都市としても同様の活動を行っており、公式に自らを「平和と和解の都市」と名乗る。世界中の多くの犠牲都市と連携し、市の劇場はドイツの爆撃によって破壊されたユーゴスラビアの都市に敬意を表してベオグラード劇場と命名

和解と再生のシンボルだとしても、最も雄弁に語るのは廃墟であり、英米の人々の想像力の中では、コベントリーは爆撃戦の最初の犠牲者として爆撃戦全体の縮図となっている

この街で行われた復活もその一部は神話で、街の再生もその後の数十年で灰色の街並みになってしまい、この数十年、コベントリーはイギリスの産業衰退の象徴となっている

 

第25章     ヨーロッパ連合――解放の道・ヨーロッパ

「解放の道・ヨーロッパ」は、‘44’45年にかけて、西側連合国がヨーロッパ解放の際に通った、複数の国にまたがる2000㎞におよぶルートに沿ったハイキングコースで、戦争終結75周年の’205月開通予定――チャーチルの戦時執務室を起点とし、ノルマンディ、バルジ経由、主要な戦いの場所を経てベルリンに至る。ウェブサイトとモバイルアプリで当時の出来事を辿ることができる

2014年に始まったプロジェクトは、ヨーロッパ全域にわたって歴史の道を広げることを狙って始められ、欧州議会が支持しているもので、このプロジェクトの成否は、1945年以降この大陸を支えてきた国際主義的な価値観と、戦争の原因の1つでもあり、現在も私たちの運命を構成する重要な一部でもある愛国主義的な物語の間に横たわる荒波を乗り越えることができるかどうかにかかっている

 

結論

私たちは、人々がますます頻繁に過去のシンボルに対して疑問を抱く時代に生きている

戦争記念碑が存続しているのは、それらが、私たちが誰であるのか、あるいは少なくとも、私たち自身が何者であると信じたいと思っているのかについて重要なことを語り続けているから

本書では5つの異なるカテゴリーの戦争記念碑を紹介。「英雄」は私たちの日常生活において不足していると思われる忠誠心、勇敢さ、そして道徳的な強さといったビジョンを提示し、私たちにこうありたいと思わせてくれている。「犠牲者」は私たちにそれと同じくらいの価値のあるものを与えてくれる。私たちに傷を負わせ、私たちを作り上げた過去の犠牲やトラウマを思い出させてくれる。「モンスター」は私たちが社会の中で最も拒絶しているもの、そしてかつては死守しようとしていたものを思い出させてくれる。アルマゲドンのビジョンはかつて私たちが受けた膨大な「破壊」を思い出させ、また「再生」のビジョンは戦後の混乱の中で秩序を取り戻そうとする私たちの努力を称えるものである

これらのカテゴリーはどれも単独では存在しえない。私たちの戦争記念碑が他の時代のものよりも堅牢であることが証明されるもう1つの大きな理由は、これらのカテゴリーの記憶が、お互いを支え合うだけでなく、互いに増幅し合っているところにある

これらの記念碑の存続は、民族感情や政治的雰囲気に左右される

そのような脅威にも拘らず、第2次大戦に関係する記念碑は増え続けている。本書で紹介した記念碑の約2/3は今世紀に入って作られたもの

将来記念碑がどうなるかわからない。永遠に残ることを願ってブロンズや花崗岩で作られるが、時代に合わせて変化する能力を持った記念碑だけが生き残ることができる

 

 

 

 

 

Wikipedia

白水社ホームページ

内容説明

「歴史認識」はなぜ他国と食い違うのか?

世界各地の25の戦争記念碑を「英雄」「犠牲者」「モンスター」「破壊」「再生」に分類して、歴史の表象とその変化や議論を考察する。

「第二次世界大戦の記念碑」といえば、日本では広島の原爆ドームや長崎の平和祈念像、東京の靖国神社、海外では中国の南京大虐殺記念館、ポーランドのアウシュヴィッツ博物館が有名だ。戦争記念碑は犠牲者や戦禍を追悼するもの、英雄やレジスタンス、犯罪を記憶に留めるもの、復興や平和を唱えるものとして、集合的記憶を形成し、継承する目的を有する。しかし近年、韓国の慰安婦像のように、論争を巻き起こしている戦争記念碑も増えている。本書は、英国の歴史家が世界の25の戦争記念碑を訪ね、「英雄」「犠牲者」「モンスター」「破壊」「再生」に分類し、歴史の表象とその変化や議論を考察する。

これらの記念碑は、地方レベルでは過去のトラウマを追悼し、国家レベルでは共同体の価値観に誇りを与え、国際的なレベルでは、戦争の悲劇から解放された未来への希望を鼓舞してくれる神話的枠組みを提供している。そして注目すべきは、本書で取り上げた9つが2000年代から新しく建設、またはリニューアルされたものなのだ。第二次世界大戦の記憶が現在に及ぼす影響の大きさと、そこから逃れられない「歴史の囚人」たちの姿が活写される。

 

 

戦争記念碑は物語る キース・ロウ著

ロシアが次々と建てる理由

2022319 2:00 [有料会員限定] 日本経済新聞

2022224日に始まったロシア軍のウクライナ侵攻開始後のいまほど、本書を読むのにふさわしい時期があるだろうか。

原題=PRISONERS OF HISTORY(田中直訳、白水社・3520円)

ウクライナ戦争のニュースを見ながらの読書でなければ、この書評も中国の南京大虐殺記念館(第8章)、韓国の慰安婦像(第9章)、日本の靖国神社(第14章)、原爆ドームと平和祈念像(第21章)を中心に、英国人歴史家の視点で読み解く東アジア戦争記憶論としてまとめていたのかもしれない。

だが、プーチンの侵略戦争下にあって、第1章のヴォルゴグラード(旧スターリングラード)「母なる祖国像」で始まる世界25カ所の戦争記念碑論は国際政治の優れた解説書になっている。21世紀に入ってロシアが巨大な戦争記念碑を次々と建てる理由を著者はこう説明する。「ロシア人が戦時中の英雄的行為をこれまで以上に主張するようになったのは、彼らの社会に新たな不安定さ、もしくは脆弱性が生まれているからではないかと感じずにはいられない」

一方、現在ウクライナ難民が殺到しているポーランドを扱った第2章では、「記憶の場所」を尊重するというロシアとの合意を無視して、ソ連時代の記念碑が旧東欧圏で撤去される様子が描かれている。「2015年にはウクライナ政府も国内の完全なる脱ソ連化を目的とした法律を可決した」

一方で「多くの普通のロシア人たちは、なぜそれほど自分たちが東欧で嫌われなければならないのかを理解できないでいる」。

戦争の背景に歴史の認識ギャップがあることは間違いない。各国の戦争記念碑を「英雄/犠牲者/モンスター/破壊/再生」に分類して展開される議論で、特に重要なのは21世紀に量産された記念碑では責任を担わねばならない英雄像よりも、犠牲者(被害者)の立ち位置が好まれている点である。そのために独裁者は「モンスター」化され、「破壊」が強調される。

こうした現状に平和「再生」の希望はあるのだろうか。著者は原爆慰霊碑の言葉をこう評価する。「日本は戦争に対する自らの責任を回避するだけでなく、かつての敵の責任をも回避させている」。そこに戦後の日米関係に役立った「友情の基礎」だけでなく、戦争の敗者が「平和の勝者」になる可能性さえ探っているのだろうか。

《評》京都大学教授 佐藤 卓己

 

 

 

 

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