ザ・クイーン  Matthew Dennison  2022.8.5.

 

2022.8.5. ザ・クイーン エリザベス女王とイギリスが歩んだ100

The Queen    2021

 

著者 Matthew Dennison 英国生まれのノンフィクション作家、ジャーナリスト、放送作家。9冊の著作の中にはヴィクトリア女王やその末娘ベアトリス王女の伝記など英国王室に関する作品がある。また英国の有名な作家・詩人ヴィタ・サックヴィル=ウェストの伝記は、英国の権威ある媒体であるタイムズ紙、オブザーバー紙、スペクテイター誌で2014年にブック・オブ・ザ・イヤー賞を受賞

 

訳者 実川元子 翻訳家、ライター。上智大仏語科卒。訳書に『ココ・シャネル』

 

発行日           2022.6.11. 初版

発行所           カンゼン

 

 

²  ウィンザー王朝の系譜

祖父母

ジョージ5(18651936)=メアリー(18671953)

母方:14代アール・アンド・ストラスモア=キングホーン伯爵夫妻

両親、伯父伯母・叔父叔母

エドワード8(デイヴィッド、後のウィンザー公爵、18941972)=ウィリス(18961986)

ジョージ6(アルバート王子、バーティー、元ヨーク公爵、18951952)=エリザベス(19002002)

   エリザベス2(1926)=フィリップ(エジンバラ公爵、19212021)

       チャールズ(ウェールズ公爵、1948) =ダイアナ(196197)離婚

          ウィリアム(ケンブリッジ公爵、1982)=キャサリン(1 982)

             ジョージ(2013)

             シャーロット(2015)

             ルイ(2018)

          ヘンリー(サセックス公爵、1984)=メーガン(1981)

             アーチ―(2019)

             リリベット(2021)

                                                         =カミラ(コーンウォール公爵夫人、1947)

       アン(プリンセス・ロイヤル、1950) =マーク・フィリップス(1948)離婚

          ピーター・フィリップス(1977)

          ザラ・ティンダル(1981)

                                                         =ティモシー・ローレンス(1955)

       アンドリュー(ヨーク公爵、1960)=セーラ(1959)離婚

          ベアトリス(1988)

          ユージェニー(1990)

       エドワード(ウェセックス公爵、1964)=ソフィー(1965)

          ルイーズ(2003)

          ジェームズ(セヴァーン子爵、2007)

   マーガレット(19302002)トニー・アームストロング・ジョーンズ(スノードン伯爵、19302017)離婚

         デイヴィッド(1961)

       サラ・チャット(1964)

メアリー(プリンセス・ロイヤル、18971965)=ラッセルズ子爵(後にヘアウッド伯爵)

   ジェラルド・ラッセルズ

ヘンリー王子(グロスター公爵、190074)=アリス(チャールズ2世直系の子孫、19012004)

   ウィリアム・オブ・グロスター(194172)

   リチャード(グロスター公爵、1944)=バージット(1946)

ジョージ(ケント公爵、190242、空軍軍務中に戦死)=マリナ(ギリシャ王女、190668)

   エドワード(ケント公爵、1935)=キャサリン(1933)

   アレクサンドラ(1936)=アンガス・オグルヴィ(宮内庁官デイヴィッドの弟)

   マイケル・オブ・ケント(1942)=マリー・クリスティーヌ(1945)

ジョン(190519、てんかんで死去)

 

 

²  エリザベスを支える人々

王室メンバー:

   プリンセス・アリス ⇒ アスローン伯爵夫人。父バーティーの叔母。メアリー皇太后の弟嫁

   マリー・ルイーズ王女 ⇒ ヴィクトリア女王の孫。ソダーブルク=アウグステンブルクの公女

エリザベスの親戚:

   マーガレット・ローズ ⇒ エリザベスのいとこ。王母エリザベスの姉とスコットランド貴族の娘

   レディ・メアリー・ケンブリッジ ⇒ エリザベスのはとこ。ボーフォート公爵夫人

フィリップの親戚:

   アリス・オブ・バテンバーグ ⇒ フィリップの母。ギリシャ王子アンドレアスの妻

   ソフィア ⇒ フィリップの一番下の姉。ハノーファー王子夫人、通称タイニー

   ルイス・マウントバッテン卿 ⇒ フィリップの叔父。父のいとこ。通称ディッキー

エリザベスの友人:

   メイリ・ヴェーン=テンペスト=スチュアート ⇒ 幼馴染。ロンドンデリー侯爵夫人の末娘

   シンシア・アスキス ⇒ 一家の友人。母エリザベスの伝記の著者

          前首相の義理の娘、作家J.M.バリーの秘書、スコットランド貴族の出身

エリザベスの私生活を支えた人々:

   エアリー伯爵夫人メイベル ⇒ メアリー王妃の女官

   アン・ヴィーヴァーズ ⇒ 最初の乳母。通称乳母B

   クララ・ナイト ⇒ 乳母Bの後任。通称アラー

   マーガレット・マクドナルド ⇒ エリザベスの女官。通称ボボ

   マリオン・クローフォード ⇒ エリザベスの家庭教師。通称クローフィー

   レディ・エルフィンストーン ⇒ 女王付き女官。王母の姉

   ヘンリー・マーテン ⇒ エリザベスの個人教授。イートン校副校長

   ピーター・タウンゼント ⇒ 父の執事。空軍大佐。マーガレットの恋人

   パトリック・プランケット ⇒ 父の執事

   デイヴィッド・マニング ⇒ 外交官。後に王室アドバイザー

   デイヴィッド・オグルヴィ ⇒ 第13代エアリー伯爵。宮内長官

エリザベスの個人秘書たち:

   アラン・ラッセルズ ⇒ 父、後にエリザベスの個人秘書。通称トミー

   マイケル・エイディーン ⇒ 即位後最初の個人秘書

   ジョック・コルヴィル ⇒ エイディーンの後任。広報官

   マーティン・チャータリス ⇒ コルヴィルの後任

   フィリップ・ムーア ⇒ チャータリスの後任

   ウィリアム・ヘーゼルタイン ⇒ コルヴィルの後任

   ロバート・フェローズ ⇒ ダイアナの義兄

   ロビン・ジャンヴリン ⇒ フェローズの後任

   クリストファー・ガイト ⇒ ジャヴリンの後任。後に儀式担当の終身侍従

   エドワード・ヤング ⇒ ガイトの後任

 

プロローグ

1926.4.21. 帝王切開で生まれ、5週間後にバッキンガム宮殿内の王室プライベートチャペルで洗礼を受け、エリザベス・アレクサンドラ・メアリーと命名、与えられた称号はエリザベス・オブ・ヨーク王女

1952.2.8. 加盟評議会で、「神の恩寵により、グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国並びに海外自治領の女王となり、信仰の擁護者」となることを誓う

伯父が黒髪の女性との結婚を望み、消えてしまったところから、エリザベスの子供時代に暗い影を落とし、人生の進路を変えた

成長して、海の向こうから来た王子フィリップと結婚

君主は、平民と変わらない普通の人が、非凡な地位について国に君臨するものがという考え方を、王室そのものが公に掲げる時代で、この考え方は折に触れてエリザベス自身の口から語られる――一般の主婦たちに自分も自宅の床を清潔に保つのに苦労していると語ったり、背丈が縮んだのでコートの襟を短くしてほしいとデザイナーに頼んだりした逸話に現れている

女王は一般国民と距離を置くことと親近感を持ってもらうこととのバランスをとってきた

在位70年で女王の目には君主制が大きく変化したと映っているかもしれないが、女王は改革には慎重で、父から授けられた教育や薫陶のおかげで生まれながらに持っていた女王の保守的性向が揺らぐことは一度もなかった

即位して間もない頃から「時代遅れ」の批判はあったが、時とともに女王の姿勢に向けられる声は変わり、長い年月にわたって女王の時代を超越した価値観のおかげで、女王の姿は英国国民が自信を回復する拠り所となり、激しく移り変わる時代における静止点となった

政治的中立を厳格に守り、国家元首としての役割の遂行よりも、国民国家の長としての役割を果たすことに遥かに多くのエネルギーを割くのが、自分に課せられた使命だとわきまえている

「クイーンズ・コンセント」 ⇒ 女王の個人的な利益や王室の特権に影響する恐れがある法律については、議会に諮る前に閣僚は女王の同意をとらなければならない

ジョージ6(バーティー、18951952)=エリザベス(19002002)

君主は英連邦の後見人であるというのは、エリザベス女王が独自に考案した考え方。帝国主義時代に大英帝国が支配した世界の領土に向けられる変わりない愛情と関心は、「国民国家との最も重要なコンタクトは、そこの人々と触れ合うことだ」という信条に支えられており、おかげで英連邦は生き残っただけでなく、9か国から54か国に増え、そのうち15の独立した国家は、今もなおエリザベス女王を自分たちの女王としている

 

1.    王室の後継者となる直系の男子 エリザベス 04

王の直系の息子と王族ではない女性との間の嫡出子の誕生は3世紀ぶり

ヨーク公(ジョージ6)后エリザベスは、スコットランドの国王ロバート1世の血を引く

エリザベスの名前は、母親の名前に、バーティーが大好きだった祖母アレクサンドラ皇太后の名前をもらい、母メアリーをつけたものになった――ヴィクトリア女王がエリザベスという名前を「これまで聞いた中で最もみっともない家政婦のような名前だ」と言っていたことは内密にされた

イニシャルのEAMは、母親ヨーク公妃のエリザベス・アンジェラ・マーガレットと同じ

バーティーの誕生日にメアリー王妃は、「王室の後継者となる直系の男子の誕生を期待する」と書き、エリザベスの誕生の際は、「性別は問題ではない」として、まだ未婚のプリンス・オブ・ウェールズやヨーク公夫妻に男児誕生の可能性を期待し、エリザベスが将来最高位に就くことを否定するものだった

当時、プリンス・オブ・ウェールズが友人に、「自分が将来王笏を守るために立つことはない」と言っていたのを王も王妃も聞いていなかった

1次大戦後に社会が大きく変わり、欧州各地で王たちが追放され、労働者の力が強まり、王政に異議を申し立てる方向へとイデオロギーが変化。イギリスでもジョージ5世の治世が始まった時、英王室の経費を巡る財政法案を巡って庶民院が貴族院に出した異議申し立てが通り、王室のあり方が問われていた。ジョージ5世は王室の安定を図るために尽力、1917年には王室の名称をサクス=コバーク=ゴータからウィンザーへに変更、自分の妻の兄弟たちを含む英国の王族がドイツの称号を持つことを廃止し、王室と国民との距離を慎重に縮めていこうとした。労働者によるゼネストに対しても首尾一貫して公明正大で注意深く中庸を守った。そんな変わってしまった世界で、新しく生まれた女の子の孫に王冠の重責を背負わせたいとは思っていなかったことは十分頷ける

王女は母の実家で誕生。母方の祖父母はスコットランドの地主で、典型的な貴族

母エリザベスは10人兄弟の9番目の末娘で、向こうっ気の強さが評判

バーティーに嬉々として従い、私的な家庭生活に変わらぬ関心を持ち続けたことで国民的な人気を勝ち得た

洗礼式の代父母には4人の祖父母とバーティーの妹のメアリー王女と母エリザベスの一番上の姉メアリー(レディ・エルフィンストーン)も代母に

王女エリザベスは国民から熱狂的に迎えられ、王室メンバーの人間的な側面に焦点を当てることがこの段階ではっきりあらわれ、赤ちゃんの生涯を通して、王室と国民の関係では、1つのテーマとなった。ヨーク公妃が王家の出身ではないことから始まり、ヨーク公夫妻が「恋愛結婚だったと広く認められ」、ヨーク家は「一般」家庭の理想形として自分たちを印象付けることができた

ヨーク公が王冠から距離がある地位にあったことで、ジャーナリストたちも畏怖の念なく扱ったし、いつか英国女王になるかもしれないと思っていたが誰も現実になるとは予想しなかったものの、繰り返しその予想が語られることによって、赤ちゃんに対する国民の見方が形作られていき、特別な存在という印象が持ち続けられた

ピカデリーの新居は王女の生活する世界と大人のそれとは物理的に分けられていたが、王女は同時代の育児スタイルの特徴だった親から感情的に切り離されるしつけは受けていなかった。両親が王女を感情面でしっかりと支えていることは国民の称賛の的

「娘は母に似てほしい」という願望は、そのままプレッシャーとなって繰り返し味わうことになり、王家の両親や祖父母がはめる型に順応することが、王女を君主制に組み込む道筋だった。王女は独立したアイデンティティを持つことを拒否された

王女はエリザベスと言えなくて「リリベット」と言ったのが家族の間での渾名になり、王女は王のことを「イングランドのおじいちゃま」と呼んだ

1928年、ジョージ5世は肺疾患から悪性の腫瘍が見つかり長期療養に入る

4歳の夏には、母方の祖母と静養先の地元の本屋を訪れ、動物の本を求められた。何冊もの本の中から、既に読んだものを却下され、最後に1冊がお眼鏡に叶ったが、王女に流れるスコットランド人の血に、おそらく慎重を促されたのだろう、購入を決める前に値段をお尋ねになり、自ら支払いをされた 

 

2.    二輪の薔薇のつぼみ、静かにおだやかに、王室に春を告げる エリザベス 47

1930年、妹誕生。ヨーク公夫妻は男児を望み、男児なら王位継承権第3位となるはずだったが、まだ時間はたっぷりあると自分たちに納得させた

プリンス・オブ・ウェールズは36歳だったが結婚する気配がなく、ヨーク公夫妻は王室の次世代は自分たちにかかっていると気づき始めていた

男性の継承者がいないことから、継承を決める法律で代替手段が設けられていたが、姉妹のどちらに優先権があるかは未定だったために、王はそれを明確にするよう命じた

5歳までには学習はかなり進み、同時に君主としての義務を果たす重要性を植え付ける教育が乳母によって施されていた

「しつけ」も最終段階に入り、特権階級の特別な行事に沿ってスケジュールされており、王と王妃である祖父母と共に過ごすことになる

1932年には2人の王女の言葉が、王室一家の公的記録であるコートサーキュラーに刻まれることになる

王女の名前は、慈善事業、営利事業や愛国活動など、広範囲にわたる活動と結びつけられ、「プリンセス・エリザベス」の名があちこちに使われる――子供服の素材、小児病棟、南極で新たに発見された領土、切手の肖像など

2人の王女をできるだけ近い距離において一緒に教育することとし、以後10年以上にわたって全く同じ服装をさせ、2人が年齢や地位においても同等の存在であることを示す

劇作家・詩人のクリストファー・ハッサルは王女たちを、「二輪の薔薇のつぼみ/静かにおだやかに/王室に春を告げる」と詠い、2人を「イングランドの誇り」と呼んだ

1933年、新しい家庭教師クローフィーが住み込みでやって来る。スコットランドの機械工の娘。以降15年務める。彼女が特に注力したのは速読能力

王女の教育に熱心だったのは王妃、ヴィクトリア女王によって堅持された英国の君主制に身を捧げることは自らの人生の指針であり、お気に入りの孫娘が王冠を継承して高貴な台座に座る可能性が見えていたこともあって、適切な準備が必要だと考えていた

ヨーク公夫妻は、娘の幸せを一番に祈り、7歳になっても引き続き王室の公式行事への参列は見合すことにした

 

3.    まさにイギリスらしい子供を描いた喜びに満ちた一幅の絵 エリザベス 810

1934年、ギリシャ王女マリナとバーティーの一番下の弟ケント公爵ジョージが婚約。マリナはギリシャの退位した王ゲオルギオス2世のいとこで、母の旧ロシア大公女エレナ・ウラジーミロヴナはロシア皇帝だったアレクサンドル2世の孫娘。7年前にプリンス・オブ・ウェールズがマリナに関心を持ったのに興奮したが、その時は何も起こらず、マリナが弟と結婚する時も何の未練も感じないどころか、バーティーと一緒に弟の付添人を務めたが、参列者の中に「全く魅力がない平凡なイギリス男」アーネスト・シンプソンとその妻で「150%アメリカ人」のウォリスがいた。2回結婚していた彼女こそデイヴィッドの最新の愛人だった

1924年から、ジョージ5世は長男のことを「手に負えない頑固者」と言い、苛立ちを募らせていて、彼が王座に就くことはないという自分の確信をバーティー夫妻にも話していた

‘34年のケント公爵夫妻の結婚式では、エリザベス王女はマリナのドレスの裾持ちを務め、大衆はその振る舞いに注目

翌年には、バーティーのすぐ下の弟グロスター公爵ヘンリーと、スコットランドの貴族メインズベリー公爵の娘レディ・アリス・モンタギュー=ダグラス=スコットの結婚式では、姉妹揃って花嫁付添人になった

1935年、王の即位25周年を祝いシルバー・ジュビリー執行――英国の歴史上そのような祝典は初めてであり、王室一族の人生において特筆すべき出来事となる

バッキンガム宮殿のバルコニーで祖父母の間に立ち、大勢の地域住民たちからの歓呼に応え、王夫妻のイーストエンド訪問に付き添って貧しい地域を回ったのもエリザベスだった

姉妹はその年のクリスマスと新年を祖父母と共に過ごしたが、帰京の2日後に王が死去、その日の午後、デイヴィッドはエドワード8世として王位に就く意思を示す。女たらしで有名で、その血を引いていると言われ続けてきた祖父エドワード7世と同じ名前を選ぶ

王妃は、エリザベスを、ウェストミンスター・ホールでの遺体の一般公開も含め、王のいくつもある葬儀の儀式に参加させ、葬儀の意味と棺の周りに置かれた王家の象徴的な事物について説明

エドワード8世が独身だったことから、ますます王女に注目が集まることになる

エドワード8世は、王室内のみならず国民広くから、自分の義務を放棄していると非難されていた。ヴァージニア・ウルフはタイムズ紙に、「我々の息子、兄弟たちは妻や恋人やさらには命さえ国に捧げる。どうして国王はそれさえもしないのか?」と寄稿

エドワード8世の退位は、君主と国の団結を揺るがした。欧州が危機に陥る中で、英国はナチスの脅威に全面的に晒された。退位は王室の人々、とりわけバーティーとエリザベスの人生を大きく変えた。ウィンザー朝にとってこの出来事は教訓となった。国王としての公的な義務を個人の意向が圧倒的な力でねじ伏せるとどうなるかという教訓話

エドワード8世のやったことは、独身のまま孤独に王座に就くよりウォリスのほうを選んだということで、以後、感情の抑制の効かないことへの恐怖に一家は凝り固まるようになった。退位を迫ったのは首相のボールドウィン、2人の結婚に反対し、自治領の首長たちとメディアも王室の公私は不可分だと主張

1936年当時、短期間に2回離婚して元夫が2人とも存命という女性を王室に迎えることは論外。皇太后も、宝石コレクションをジョージ5世の未婚の妹ヴィクトリア王女に分け、同時にヨーク、ケント、グロスター公妃にも何点か贈られたが、新王にはシンプソン夫人に渡してしまいかねないとして何も分けず、結婚に不賛成であることを明確に意思表示

12月、ヨーク公爵は最悪の事態を覚悟して、尊号をジョージ6世と決める。直後に正式に退位法が王室で承認され、ヨーク公爵の王位継承が決まる。エドワード8世がウィンザーの公爵位を得るが、退位後に王室から受け取る金銭についての交渉は熾烈な争いとなり、前王は大陸に居を移したが、新王が自分の妻にウィンザー公妃として王家の地位を与えることを拒絶したため、執拗に怒りをぶつけてきたため、彼の姿は亡霊のように何年にもわたって付き纏い、残された者たちの不安や苛立ちのもとになった

エリザベスは従僕から何が起こったのかを聞いたが、ほとんど何も知らなかった

 

4.    愛嬌のあるかわいらしい小さなレディは、次に王位を継承する身分となった 

エリザベス 1012

強い絆で結ばれた家族の美点を、ジョージ6世は治世の中心テーマにすることになった

メアリー皇太后も、国の支援と彼女自身への行為に表向き感謝を示すメッセージの中で、繰り返し「あなた方の多くが享受しながら、私は得られなかったこの上ない恩恵を、王と妻と子どもたちは授かっています。幸せな家庭という恩恵を」と呼びかけた

「弟が生まれることを熱心に祈る」様子も見せたエリザベスだが、自分の力ではどうにもならない運命に逆らう様子もなく、「避けられないことを受け容れる」ことは基本的に現実主義のエリザベスの性格の一部だった

父はたまたま王位を継承した。帝王学を仕込まれてもおらず、控え目で自信に欠け、吃音は少し改善したが人前でしゃべることなどできず、スター性もない。彼の美点はカリスマ的な妻に負っていた

世論調査でも王に向いていないとされた父とは対照的に、エリザベスは全てを備えていると映り、メアリー皇太后になぞらえて、その強さを相続したと言われた

1937年、庶民院で内務大臣が、1701年制定の王位継承法をわざわざ改正して、王の長女としてエリザベスの王位承認要求を正式に法制化する必要はないと回答

王室費についての議題が下院に提出された時、新王から、コーンウォール公領から得る個人収入からエリザベスのための準備金を作っておきたいという意向が伝えられ、ジョージ6世が長女を自分の後継者と定めた1つの証だった

ジョージ6世にとっては、生来的な保守主義と自信の欠如から、父のように振舞うことが必要不可欠な対策となった

即位と共にバッキンガム宮殿に居を移すとともに、公私の区別が消え、王女たちは塔の中に隔離状態

1937年、ジョージ6世の戴冠式を興奮のうちに迎え、初めて公の場で「王女として」出迎えられた。エリザベスのその日の感想は「感動して頭に靄がかかった」「全部とても素晴らしかった」で、全てが驚きの連続だった。両親に対して畏敬と深い尊敬の念を覚え、王である父への憧憬は決して揺らぐことがなかった

戴冠の放送で新王は臣民に「最高の栄誉は人々に奉仕することであり、王政の職務としてあなた方が私自身に捧げる言葉を深く厳粛に受け止める」と宣言、その思いは以後君主のあり方について考えるときにエリザベスの頭の中に一貫して響き続けた

エリザベスに帝王学を仕込む機会を逃すまいとしたのはメアリー皇太后で、直接的に、時に遠回しに、エリザベスの教育を補足する仕事に乗り出し、特に焦点を当てたのが王女たるものが学ぶべき王室の伝統

1938年、戦争の危機が迫る中、王夫妻はフランスを国賓として訪問、そのお土産を駐英フランス大使がバッキンガム宮殿に持参、2人の王女は初めて公式に外国の大使とのレセプションに臨む。両親の公的任務に王女たちが臨席することがジョージ6世の王室の新しい典型的なもてなしとなり、エリザベスの帝王教育の一環として、王は時事問題や政治について娘と議論するようになり、王が家族を1つのユニットとして見ていることを示した

 

5.    会った瞬間から恋に落ちた エリザベス 13

エリザベスの初恋は13歳になってすぐ、相手はダートマスの王立海軍兵学校で出会ったフィリップ。財産を持たない王家の亡命者で5歳年上。ギリシャ王室とデンマーク王室の血を引き、エリザベスと同様ヴィクトリア女王の玄孫。ケント公爵夫人マリナのいとこで、2人は結婚式で出会っているが、フィリップがエリザベスのシャイな所が長く印象に残っただけで、エリザベスは覚えていない

2日に渡る逗留で王室ヨットでの食事にも招かれ親交を深める。別れ際には王室ヨットを最後まで一人漕ぎの小さなボートで追いかけ、王に「バカな奴だ」と追い返された

1947年の誕生日の直後、デンマーク王家シュレスヴィヒ=ホルシュタイン=ソダーブルク=クリュックスブルクの分家であるギリシャ王室のフィリップと結婚。彼はイギリスに帰化していたが、エリザベスは会ったときから恋に落ちて、15歳になるころには大陸の王室の間でも噂になっていた

2人の結婚は、フィリップの母アリス・オブ・バッテンバーグの一番下の弟で親代わりでもあったルイス・マウントバッテン卿(通称ディッキー)が仕組んだとの説がある。家系に対する過剰なプライドから、ダートマスで王に随行したマウントバッテンが、経済的に恵まれない甥のフィリップに最適な相手としてエリザベス姉妹に目を付けたが、第2次大戦で可能性はほとんど空中分解

エリザベスの両親の世代までは、英国王室のメンバーは王家に属する者同士で結婚するのが一般的で、祖父母も共にジョージ3世の玄孫

フィリップは、父側はギリシャ王の甥で孫、デンマーク王クリスチャン9世のひ孫、英国のアレクサンドラ王妃の甥の息子。母側はスウェーデン国王グスタフ6世アドルフの王妃の甥、最後のロシア皇帝ニコライ2世のアレクサンドラ・フォードロヴナ皇后の姪の息子、ヴィクトリア女王の2番目の娘アリスのひ孫

ギリシャ王家は存続すら危ぶまれ、父が4人兄弟の末っ子では、ギリシャ王になる可能性はほとんどなく、フィリップも1歳から亡命生活が始まる。1922年ギリシャ王の弟である父アンドレアスが虚偽の罪で死刑宣告を受け、王妃が英国王室に頼み込んで、ジョージ5世が要請し、家族は英国戦艦に救出され、フランスで子供時代を過ごす

両親には財産も影響力もなく実質的な「王家の身分」は貧弱で英国王室の親戚の下で過ごす

母は精神を病み、’29年から入院、父はフランスのリヴィエラに引き籠り愛人と過ごす

 

6.    シンプルにまとまって家庭生活を送ることは、最優先すべき使命である 

エリザベス 1319

開戦と共に姉妹は両親と離れて暮らし、疎開児童たちとも接触を持ったが、「まやかしの戦争」のおかげでウィンザー城に戻り、また両親とともに終戦まで暮らすが、公式には所在を隠したまま、銃後を支えるイベントに参加して戦争に貢献しようとした

大陸の王族の多くがカナダに疎開したが、姉妹は疎開する代わりに、ウィンザー城に防空壕が作られ、灯火管制が強化、有刺鉄線が古代からの砦に張り巡らされた

1940年秋、初めてBBCの「子供たちの時間」に出演――ドイツの電撃的空爆があり避難している子供たちに向けてのスピーチが必要となって王室も意見を変え、評判は好意的

児童向けのチャリティにも初めてエリザベスの名を冠することが認められた

'42年堅信式についで、誕生日プレゼントとして、大叔父で親子2代の代父だったコノート公の死後空席になっていた近衛連隊の連隊長に任命される

青年徴兵プログラムに登録し、補助地方義勇軍ATS第二准大尉となる

‘44年の18歳の誕生日には、王が不在の時の公的業務を代行する臨時摂政に任命

摂政のほか、全英児童虐待防止協会と王立音楽学校の理事長、近衛師団と海兵警備隊の大佐となり、単独で王室の公務を担い始める

'45年にはATSで下士官に就任し、輸送車両訓練センターの現場で同年配の女性たちと一緒に仕事を始め、友情を育み、普通の女性の行動や考え方に接した

戦勝の日も翌日も王女たちは群衆に交じって戦勝を共に祝い、自由を満喫した唯一無二の機会となる

 

7.    王位継承者の結婚への準備は出来ているか?  エリザベス 2021

1946年母エリザベス王妃の甥アンドリュー・エルフィンストーン卿と王女付き女官のジーン・ギブスの結婚式で花嫁付添人を務めたエリザベスは、フィリップ王子と共に写真におさまり、観劇にも仲間として同道。婚約の噂が広まったため、秋には正式に婚約

6年にわたる戦争で、王も王妃も疲れ果て、戦勝国として王室が得たものは、へつらいに近い人気だったが、戦後の耐久生活にうんざりしていた国民に、王室が唯一慰めを提供していた。特にエリザベスは国民のアイドルに祭り上げられ、王女もそれに応えた

フィリップの英国人帰化は'47年に終わり、正式にギリシャ王家の継承者の列から外れ、英国王室に仕える英国王立海軍フィリップ・マウントバッテン大尉となった

エリザベスの婚約には、むしろ父親が動揺、家族4人の絆を支えに王の務めに耐えていた父親は、家族の力学が何かが加わることで脅かされることを恐れ、婚約の公表を遅らせた

王妃も、英国育ちの、できれば自分の一族や知り合いの貴族から選んでほしかったし、ドイツ人に対して偏見があることから、フィリップの姉4人がいずれもドイツの王子と結婚、中でも一番下の姉の夫はナチの将校で、バッキンガム宮殿を爆破したいと触れ回っていたといい、フィリップの従姉妹にあたるケント公爵夫人が何かと上から目線で関わりあってことにもうんざりしていたが、何事にも逆らわずに従うことに慣れていた王妃は敢えて異議を唱えず

1947年の誕生日のラジオ放送のスピーチは、エリザベス自ら構想を考えたもので、王室における自分の使命への信念を表明した内容で、人々を十分に感動させるものだった

正式な婚約発表は'477月、概ね肯定的に受け止められたが「外国人」であることへの非難も散見

2人は、ヴィクトリア女王を通して3いとこ同士、ジョージ3世の傍系の祖先を通して4いとこ同士、、デンマーク王クリスチャン9世を通してはとこ同士

エリザベス王女は成婚後も現王家名であるウィンザーを保持し、生まれてくる子どもたちもすべてウィンザー王家の王子と王女となる

結婚式には、フィリップのドイツ人と結婚している姉たちも、ウィンザー公爵も招待されない

英国の戦後の経済状態は混迷のまま、莫大な犠牲を伴う社会改革によって福祉国家を作り上げようとし、富裕層への重税を財源の一部にするという政府の方針は、王室の華美な出費とは折り合いが悪く、王は共和主義に対する自身の恐怖心から不安を覚え、情緒不安定になった

同年11月の結婚式は大々的な祝賀となり、世界中から豪華な贈り物が届く

王はフィリップに、エジンバラ公爵、メリオネス伯爵、グリニッジ男爵を授与し、「ロイヤル・ハイネス」の称号を授ける。エリザベスに騎士団の位を認めた1週間後にフィリップをガーター騎士にしたのは、娘が上位につくことを計算しての任命

 

8.    固く結びついた新しいひとつの存在 エリザベス 2225

1948年、戦時中の爆撃で荒廃したコヴェントリーでの式典に参加したエリザベスは、ロンドン中心部の再開発の皮切りを祝って、出発を励ますスピーチとテープカットを行う

2週間後に第1子妊娠発表

夫婦の幸せはフィリップの忍耐に負うところが大きかったが、自立心旺盛なフィリップが望むような自分たちの存在を一つに「結びつける」には時間が必要で、2人の間にある溝は、エリザベスの公的生活によってさらに埋めるのが難しくなった

'48年、チャールズ・フィリップ・アーサー・ジョージ誕生

長期にわたってヘビースモーカーだった王は動脈硬化症を患い、壊疽を防ぐために右足の切断を宣告されていて、フィリップが海軍の任務を減らし、グロスター公爵と共に王の為に代役を務めることになる

'50年、姉妹の家庭教師を辞めたクローフィーが米英の雑誌にエリザベスの子ども時代を感傷的に愛情を込めてふりかえった連載『王女物語』が始まり、姉妹や両親が神聖なものとして大事にしてきた家庭生活が公のものとなる

‘50年、1人娘アン出産

‘51年、王は悪性腫瘍のために左肺を切除。フィリップは王の任務を代行するため海軍の任務から引退

'52年、夫妻でケニア訪問中に、ジョージ6世は心臓血栓症で逝去

 

9.    歴史の花嫁が聖別され、祝福された エリザベス 2527

エリザベスは、最も身近な人たちの期待通りに、君主の任務に対して教え込まれた通りのやり方で、最大限ベストを尽くそうと決意し、改革にはほとんど興味を示さなかった

王の死で、母エリザベスと夫と妹は一時的な放心状態に陥る。王母エリザベスは打ちひしがれて落ち込んだかと思うと、王が生きていた時の地位を不本意にも捨てざるを得ないことを愚痴り娘を悩ませた。フィリップには女王の配偶者(=プリンス・コンソート/王配)という以外に明確な任務はほとんどなく、自主的に活動できる領域も与えられず、周囲も高圧的に接しあら探しをされ時には許しがたい侮辱的な言動すら見せ、彼の世界は足元から崩れ、知らず知らずのうちにエリザベス自身が彼の不満の種になった

王室の年配の高官たちは、王室の任務にフィリップを関わらせず、エリザベスも君主としての核心部分を、たとえ配偶者であっても共有しないという姿勢を貫いた。それを可能にしたのは、エリザベスが幼少のころから叩き込まれた自己鍛錬のおかげであり、冷静で有能で清廉潔白な性格によるもの

フィリップの叔父マウントバッテン卿は、不用意にも「マウントバッテン家の王朝となる」と発言。メアリー皇太后は首相を巻き込まざるを得なくなり、卿を嫌いで信用もしていなかったチャーチルは、内閣一致で「ウィンザー朝を保持することを支持する」と発表、フィリップは「エジンバラ朝」との代替案を出したが空しく、エリザベスは王朝名は変更しないと声明を出さざるを得なくなり、フィリップは叔父の大言壮語の犠牲となった

エリザベスは悩んだ末に、内心受け入れられないところはあったにもかかわらず、自分が忠誠を誓うべきは先祖であると決断。フィリップの不満はますます高まる

エリザベスはエジンバラ公爵に、女王に次ぐ地位と様々な冠を授けたが、結婚当初言っていたフィリップを最優先する状況に戻すことはできなかった

医師団はエリザベスの重労働に健康上の懸念を表明したが、君主の仕事はエリザベスの天職で、即位とともに自分が変わったことを実感していたし、スタッフもその変化に気付き、合理的で、秩序立てて几帳面に事に当たり、仕事は整然と運び、洞察力があることを示した。夫に頼ることもほとんどなくなっていた

'533月メアリー皇太后死去。膨大な宝飾のコレクションをエリザベスに遺贈しただけでなく、幼少のころから諄々と王冠への敬意を説き、王室が唯一無二の存在であるとエリザベスに絶対の確信を植え付けたことは最大の遺産であり、彼女も祖母の愛情に報いた

‘5311月の戴冠式は、経済不安や強国の座からの失墜という好ましくない現実との葛藤を束の間忘れさせてくれ、歯止めのかからない衰退など何等反映されていなかった。臣民の高ぶった感情の中心にあったのは、帝国や英連邦という抽象的な概念ではなく、エリザベスその人だった

戴冠式は、雨の降る寒い日にも拘らず熱狂する群衆の集まる中、おとぎ話の様に行われた

 

10. 献身的な臣民が愛と情熱の光で輝かせた道を走り、長足の進歩をとげられた 

エリザベス 2728

家族の中ででき愛されて育ったマーガレットには、人を魅惑する華やかさがあったが、魅力以上のものを持つようには訓練されていなかった。エリザベスと違って、彼女は気まぐれで我儘で、身近な家族の誰もその欠点を直そうとはしなかった

父が亡くなり、姉が忙しくなる中、マーガレットが固執したのは、父の侍従武官で、ロイヤル・ハウスホールド(王室家事管理)副主任のピーター・タウンゼント空軍大佐。大佐は戦時中エース・パイロットで、マーガレットは13歳のとき彼に出会う

'53年春マーガレットに打ち明けられたエリザベスは、15歳年長で離婚歴がある大佐との結婚は、離婚問題が原因で伯父が退位した王室にとってありえないことをマーガレットは理解できず、不可能なだけに2人の恋は燃え上がる。話を聞いて仰天した王母はこの問題から距離を置き取り付くしまもない。離婚経験者の再婚に反対する教会のトップでもあるエリザベスは、2人に1年待つよう頼むのが精一杯

戴冠式での2人の親しげに話す様子がスクープされ、大論争を巻き起こす

戴冠式直後、夫妻は王室としては初めての英連邦をめぐる世界一周の旅に出る

チャーチルは、戴冠式の直前に心臓発作を起こしたが、エリザベスは戴冠式後まで後任選びを繰り延べしている間に、チャーチルが回復し辞職もしなかったため、’55年初頭には内閣が反旗を翻し辞任に追い込まれる。エリザベスは保守党内の想定に沿って、後任にイーデンを指名。首相の指名も、周囲の予想に沿って承諾する案件の1

マーガレットの結婚問題も対処が遅れた事例。’55年に25歳の誕生日を迎えれば、王室婚姻法ではエリザベスの許可なく結婚できる。エリザベスは最後まで妹を庇い、自分のことは自分で決めさせるべきとしてマーガレットに決断を迫り、マーガレットも最後は折れて姉に従ったが、その後’60年に結婚するまで傷心を抱えあちこちぶつかって過ごす

 

11. いまだに19世紀の大繁栄時代を引きずっているのか?  エリザベス 2934

'567月のスエズ動乱は、英国に屈辱的な結果をもたらし、大英帝国の栄華の幕が引かれた――ナセルの運河の国有化に対抗し、英仏イスラエル共同で国際管理の復活を期して軍事行動に出たため、ソ連や湾岸諸国からの激しい反発を招く

エリザベスは、イーデンから報告を受けたが、「君主の役割は政府から相談を受け、政策を励ましたり警告したりすること」という憲法の定めに従い、遠回しに不本意を表明しただけ

その頃フィリップが1人で英連邦歴訪の旅に出ていたため、不和も噂され、随行していた個人秘書の妻が離婚に踏み切ったことから、フィリップ自身の不和の噂を増幅させた

エリザベスは従来のやり方の踏襲を最優先としたため変化に脆かった。また、何事も受容する性格から、君主制を支える一つの要素である儀式についても、派手さは抑えても以前と同じ様に執り行うことに疑問を持たなかったが、その保守的姿勢への批判が出始める

エリザベスは少しづつではあるが、周囲に仕える人たちの多様性に配慮したり、一般社会の人たちと触れる機会を持とうとしたりしたが、日常的に直接親しく接するのは貴族たちに限られていた

イーデンの突然の辞任に際し、エリザベスは、イーデンから相談役として推薦されたソールスベリー卿と相談、デヴォンシャー侯爵という保守主義者の娘婿のマクミランを推し、チャーチルも了承したが、年配の保守主義的で排他的な集団の操り人形となった

'57年夏、オルトリナム男爵ジョン・グリッグが、エリザベス個人とその取り巻きを痛烈に批判した論文を発表、君主制の改革を訴えた。右翼の激しい反発を呼び、エリザベス自身も怒りを表したが、徐々にやり方を変えていった

米国訪問では、アイゼンハワー大統領が人々に好かれたいと強く望んでいるにも拘らず、愛され支持されることに自信を持っていないことに驚き、選挙によって勝ち取ったものではない自分の地位は、選挙民の短期的な忠誠よりも堅固な基盤の上にあることを知った

‘60年アンドリュー・アルバート・クリスチャン・エドワードを出産

7年前の王朝名変更の際の意見の相違が夫婦間の喧嘩の種になっていて、エリザベスが夫の意見を尊重して彼女の姓にマウントバッテンを入れることに同意、マウントバッテン=ウィンザーの名前を授けるというエリザベスの声明が出された

アンドリューには適用されず、フィリップの父の名を英国風にして、スコットランドへの賛辞を込めた名前とした

'60年マーガレット婚約。相手は王室写真家のバロン・ウォールトンのアシスタントの1人アンソニー(トニー)・アームストロング=ジョーンズで、以前から王室一家の撮影に参加。イートン校出身で成功した法律家の息だが、母は再婚でアイルランド人の義父がいる

初めて王室以外の人との結婚

‘62年世界最高の王室コレクションの一般公開始まる――エリザベスの優れた改革の1

 

12. 時間とエネルギーを、3つの義務に割いている――国、夫と子どもたちだ 

エリザベス 3538

アンドリューの妊娠でガーナ訪問をキャンセルした代わりに、初代大統領ンクルマをバルモラルに招待。英連邦のリーダーをバルモラルに招待するのは初めて。2年前に英国から独立。ンクルマは本来共和主義者だが、エリザベスには個人的に強い親愛の情を抱き、エリザベスは彼を枢密顧問官に任命。インドに続く英連邦2か国目の共和国となったが、直前にエリザベスを英連邦の長として認める意思があると表明、英連邦に留まる意向を示す

‘61年女王のガーナ訪問が決まるが、直前になってンクルマの独裁主義に対する爆弾テロが首都で起こり、安全を危惧するとともに、女王の訪問がンクルマの反民主主義政府を支持することになりかねないという懸念が英国議会に強かったが、女王は自分を長として抱く英連邦への訪問を重視しており、議会の外遊中止決議に激怒、自ら英連邦の国がコミュニスト陣営に取り込まれるのを引き留めて見せるとの決意を示す

エリザベスもマクミランと同様、ンクルマの背信が英連邦の力を弱めかねないのを理解、特に英連邦の他の国々がアパルトヘイト政策に怖気をふるい、それが原因で南アフリカがその年英連邦から脱退したこともあって、英連邦の長である自分が今ガーナを訪れることは必須だとエリザベスは考えた

女王の訪問は、英連邦の人々の心の最も深い所にある英連邦への忠誠と献身の思いを揺さぶる効果をもたらすが、ガーナでも同様熱狂的な歓迎を受ける

家庭生活における決定権を夫に渡す。特にチャールズの養育についてはエリザベス以上にフィリップの選択に従って進められた

エリザベスは女王になることを早くから覚悟、基盤となっていたのは両親の愛情に包まれた幸せな子ども時代だったが、彼女は自分の息子にその基盤を作ることに熱心ではなかった。伯父エドワード8世は自分の両親と愛情深い緊密な関係を築くことがなく、それが国王の座を押しつけられることへの反発に繋がったというのが分かっていたにもかかわらずで、周囲からも国王としての義務を果たすことに急き立てられ、子どもたちの喜びを優先するには忙しすぎたし、さらには趣味の競走馬が子どもより優先された

幼少のころから感情を表現するのが苦手で、どんな感情が沸き起こってくるにせよ、感情の高ぶりは自制すべきだという考え方が彼女には刷り込まれていた

フィリップは、'57年チャールズを自分の母校スコットランドのゴードンストゥン校の寄宿舎に入れたが、フィリップの並外れた環境順応力に対し、チャールズは内気で、繊細で、痛々しいほど行儀良く、運動能力に欠け、太り気味で、とても学校に馴染めず、自分のそんな惨めさを両親に隠そうともしなかったが、2人ともそれを無視するどころか、特にフィリップは学校がスパルタ式に鍛えてしっかりと躾けることを期待するばかり

‘58年エリザベスは、チャールズに事前の相談もせず、彼にプリンス・オブ・ウェールズの爵位を授与すると決めたため、ウェールズの人々は沸いたが、チャールズは激しく困惑

周囲はイートン校を薦めたが、家名を巡ってフィリップが積年抱えていた怒りを何とか鎮める妥協策を編み出してからまだ1年しかたっておらず、エリザベスは性格からしてフィリップにもう反対したくなかった。そこへきてゴードンストゥンでの日常的ないじめの実態が露見、チャールズは辞めさせてくれと両親に頼んだが、その時もフォリップは拒絶し、エリザベスも夫に従い黙ってやり過ごしたのが、将来王室の危機を招くことになる

‘60年代半ばになった時点で、王位を継いだ当初の社会にあった、王室を取り巻く明るい楽観的な空気が大きく変わってしまったことが、エリザベスを明らかに不安にさせていた

EECへの加入を巡って、英連邦のリーダーたちと英国政府の意見は分かれていた。不人気のギリシャ王夫妻の公式訪問の時はエリザベス自身がやじられたが、10年前には考えられない侮辱だった。マクミランの辞職とともに政治スキャンダルが次々に暴露され、後任を巡る激しい対立もエリザベスにとっては逆風。’64年初めて新聞の風刺漫画で描かれる。退屈で欠伸しているエリザベスの顔が、シェイクスピア生誕400年の記念切手に描かれている風刺画で、教養がないことを暗に嘲笑している絵柄

一方で、エリザベス個人の人気には陰りは見られず、国内外を問わず、どこへ行っても歓迎を受ける。反感が向けられたのは王室で、治世の初期にあった畏敬の念は褪せていた

エリザベスの母は王室で引き続き強い影響力を持っていて、「近代化」への「嫌悪感」を隠そうとしなかった

‘60年代に大きく変容した文化を担っていたのは、圧倒的に若者たちで、旧世代を否定し、因習打破に立ち上がり、エリザベスは世代や社会階層によって分離した忠誠心というジレンマに直面

EEC加盟を巡って最終的にド・ゴールの拒否権によって英国の加盟が却下されたにもかかわらず、欧州諸国に接近しようとする英国政府に英連邦のリーダーたちは不信感をもって対立を深め、エリザベス夫妻による2回目のオセアニア訪問では歓迎ムードに水が差され、歓迎ムードに批判的な記事が出された

国内ではプロヒューモ陸軍大臣がスキャンダルに伴う嘘の答弁で辞任に追い込まれ、そこにフィリップが関係しているという噂が流れる

‘63年マクミランが病気で辞任、2代続く辞任で、エリザベスが後継者を指名するプロセスに関わらざるを得なくなり、マクミランの推薦もあって昔からの友人でもあったスコットランドの伯爵で外相ヒュームを指名

‘644番目で末子となるエドワード・アントニー・リチャード・ルイスを出産

母親業と君主業の両立はほぼ不可能だったが、10年前より「母親の役目」をより精力的にこなそうと懸命だった

 

13. ブロントザウルスのように環境に適応できずに絶滅して、博物館に展示されるだけの存在になりたい人などいない エリザベス 3944

‘60年代後半になると無関心と人心の離反がより深刻な危機の兆候として現れ始める

特に若者の多くが、女王はダサい堅物だと見做し、無関心を示す

フィリップも王室の危機を感じ、’67年には記者会見で冒頭の発言をする

‘66年ウェールズの炭鉱の村アベルヴァンでの大雨によるボタ山の崩落事故で大勢の死傷者が出た惨事で、現場に見舞いに行くのが遅れたことに批判が高まる

‘68年には王室の日常を自然な姿で撮影するテレビ番組《ロイヤル・ファミリー》の制作を許可(翌年放映)したのは、反抗的な若者世代の王室離れを食い止めようとするより、「家庭」を強調し、エリザベスを一人の人間として描き出そうとしたもので、王室の堅実な姿を伝えることに成功

番組は、君主が政治的過激主義から国を守るという役割を担っていうことを伝え、女王自身は権力を有していないが、独裁者や不法な権力を持つ者が、その権力を悪用しないように守る役割を担っていることを明らかにした

王室にテレビが入ることには否定的だったエリザベスが方針を転換したのは、広報官の交代が大きい。積極的に王室内部を公開することでますますエリザベスの人気は上がる

‘6921歳の誕生日に予定通りチャールズをプリンス・オブ・ウェールズに叙任。式はマーガレットの夫が仕切り、全世界にテレビ放映

エリザベスは働き方を進化させ、政治にも興味を持つ。熱意を込めてかかわっていてのは英連邦で、自ら任命したアドバイザーを信頼。フィリップを含め周囲を信頼できるスタッフで固め、彼らは排他的な貴族であり、王室改革に取り組んだ様子は見られない。女官たちは先祖代々の廷臣の家系から選ばれ、伝統と継続性が非常に重視された

'64年エリザベスの治世下で初めての労働党政権誕生――選挙で選ばれた労働党党首ハロルド・ウィルソンは’16年生まれでエリザベスとほぼ同世代であり、自分の意見に耳を傾ける同年代の政治家と接し、ウィルソンもエリザベスにすっかり惚れ込む

内閣には君主制に反対する勢力もあって、その1人の郵政長官は記念切手にエリザベスの頭部を使うことに反対するキャンペーンを張るが、エリザベスがウィルソンに相談した結果、従来通り頭部が使われることになり、現在に至るまでデザインの変更はあっても最高の発行部数を更新し続けている

王室の存在意義は社会福祉だというエリザベスの考えは、即位から一貫して変わらない

'67年、フィリップの母親で、ギリシャ王子アンドレアスの妃だったアリス・オブ・バッテンバーグが、アテネの政治動乱で国を追われたのを、エリザベスはバッキンガム宮殿に招き同居。’69年に亡くなるまで家族として面倒を見た

‘69年フィリップが不用意に、ヨットやポロの馬のための費用もあって王室の財政が不安定であることを暴露したため、微妙な問題を白日の下に晒した

王室費には、いとこのケント公夫妻、アレクサンドラ、エドワードのように実際には公務についているにも拘らず手当が出ない王室メンバーにエリザベスが支払う手当も含まれる

‘62年以来王室は赤字、王室の免税特権とエリザベスの個人資産評価が問題となり、定期的に監査が入ることが決められた

 

14. 国と恋愛していた エリザベス 4453

‘70年代後半、英国の経済は破綻していたが、エリザベスの女王としての存在感は絶頂に達した――'77年即位25周年のシルバー・ジュビリーには国民の熱烈な親愛と称賛が贈られ、王室は安定の象徴であり変わらない姿勢が称賛され、改革を求める声も小さくなった

エリザベスが家族を大切にする姿をアピールしようとしたのと裏腹に、マーガレットとトニーの夫婦は2人とも他の相手との情事を繰り返し、家庭不和は王室が内密にしてきたことを露にし、放ってはおけなくなる

‘72年パリ訪問の際ウィンザー公爵を訪ねるが、癌で激痛に苛まれ、自分たち夫婦をフロッグモアに埋葬してほしいとの願いを承諾、40年にわたる両家の溝を埋めたが、寒々しい関係は変わらず、葬儀の後フランスに戻る侯爵夫人を空港に送るロイヤル・ファミリーはいなかった

エリザベスが「拡大家族」と見做す英連邦も危機を迎えていた――'75年オーストラリアの委任統治領だったパプア・ニューギニアが自治領として独立、エリザベスを女王として抱く立憲君主制を敷いたことにより、英連邦に新しいメンバーが加わったが、英連邦の存在意義と目的は何か、新しい英連邦が現代社会でどんな機能を果たし、価値を持つのか。それらの問題が曖昧なまま放置されれば、巨大な茶番劇に成り下がる

‘70年発足の保守党政権のヒース首相は熱心な欧州派で、英国のEEC加盟を強く望んでおり、英国の国会議員の多くは英連邦を軽視しているとエリザベスに明言。2人は趣味も違い社交的な交流がなかく、生涯未婚で通したヒースは謁見で機密事項を打ち明けて秘密保持の重圧から解放されることに謁見の価値を見出していた

前労働党政権が南アフリカのアパルトヘイト政策に抗議して武器輸出を禁止したが、ヒースはそれを覆し、’65年に独立を宣言したローデシアがエリザベスを首長にしながら白人支配のルールを変えていないことをヒースは問題視しなかった。こうした問題を放置していればいずれ連邦が分裂するが、アフリカのことなどヒースは構っていられなかった

政権にとっては、英本国の経済危機のほうが差し迫った課題であり、’72年の北アイルランドの暴力の鎮圧はもっと緊急を要した

エリザベスがクリスマス・メッセージで「欧州との新しい結びつきは、英連邦に代わるものではない」と言ったことで、EEC加盟が批准されたが、英連邦首脳会議にはカナダ首相の招きで出席したり、オーストラリアやニュージーランドを親善訪問したり、何れも政府の意向を無視している

‘73年アン王女婚約発表。女王の重騎兵連隊所属の将校マーク・フィリップスで、王女と同じく国際的に活躍する馬術家だが、爵位を持たないことに世間の関心は集中

エリザベスは、娘の相手として不釣り合いとの疑念を感じつつ、家庭の問題でリーダーシップを発揮することは決してなかった

浮気症のフィリップの相手は5指に余るが、記事になったことはなく、エリザベスも何も触れずに終わったが、マーガレットの場合はお互い反目するばかりで、別居の挙句マーガレットが'7617歳年下のか細い男と浮名を流したことでエリザベスの堪忍袋の緒が切れ離婚を後押しし、スノードン卿から正式に別居が発表される

その後もエリザベスはマーガレットを王室の1員として庇い続け、公式行事にも並んで参加させたが、彼女の乱脈な生活は変わらず、ゴシップの格好のネタにされ、’78年離婚が正式に成立した時は姉妹とも精神的打撃を受ける

スノードン卿は個人的な苦しみを公に晒すことをしないおかげで、離婚後も王室といい関係を保ち、’77年エリザベスにとっては初孫となるアンの長男ピーター・フィリップスが生まれた時には祖母として初孫を抱くエリザベスの写真を撮っている

アンが夫や子供たちへの爵位の授与を固辞したので、男子の初孫も爵位を持たない平民になる。初孫誕生前に庶民院は王室費を増額したが、アンの子どもが平民であると聞いた国民は増額を認めて素直に誕生を祝った

オイルショックで英国経済はますます悪化、年間の物価上昇率が25%に達し、’76年にはIMFから23億ポンドのベイルアウト(財政支援)を受けたが、エリザベスもベイルアウトを受けざるを得ない事態に陥り、議会は不承不承応諾したが、王室一家への手厳しい批判も現れた。特にマーガレットの贅沢旅行は批判の的

‘74年エリザベスは競走馬のオーナーとして大きな成功を収める――アスコットでの勝利など20年近くで持ち馬がクラシックタイトルを獲得したのは初めて

‘77年即位25周年のシルバー・ジュビリーをするのは祖父のジョージ5世に次いで2人目。公式組織委員会のトップは海軍を辞めたチャールズ。前年エリザベスの50歳の誕生日が盛大に祝われたことで、さらなる盛り上がりが予想されたが、政府はIMFの支援や公共支出カットの状況下にあって冷淡

国内各地を巡り、英連邦諸国を巡る旅にも出て、各地で大歓迎を受ける

エリザベス個人の絶頂期を象徴、国民の賛辞はエリザベス個人に捧げられ、これから先も彼女が国を統治することが公に認知された決定的な出来事となった

エリザベスを公私にわたって支えてきたパトリック・プランケットが’75年死去。父の侍従武官を務め、その後王室の家政を仕切るマスター・オブ・ハウスホールドとしてエリザベスに仕え宮廷に調和とスタイルをもたらした人物。生涯独身をとおす。死後は彼の希望通りフロッグモアに埋葬

‘70年代後半には個人秘書として27年仕えたマーティン・チャータリスも退職。女官のボボ・マクドナルドも在任50年となったが、相次ぐ近しい人の交代で引退は先送りされた

30歳になって公務に専念するチャールズとエリザベスの間の距離は開いていた。チャールズに帝王教育を授けようともせず、自分の仕事を分ける気を見せなかった

チャールズは地位のおかげで性的体験の機会にふんだんに恵まれていたが、大伯父であるウェストミンスター侯爵の二の舞は避けなければならず、自らも結婚に癒しを期待、新聞各紙も色々な候補を上げていたが、30歳の誕生祝のエリザベス主催の舞踏会に5人の候補が招かれ、レディ・セーラ・スペンサーもそのうちの1人で、その妹で17歳のダイアナも出席。セーラは、かつて王母付き女官の1人だったスペンサー伯爵夫人シンシアの孫娘であり、侍女だったファーモイ男爵夫人ルースの孫娘。6年前にチャールズの恋の相手で、今は近衛兵アンドリュー・パーカー・ボウルズ夫人のカミラは、今も関係を続けているとの情報で招待リストからエリザベスが除外を指示

‘79年マウントバッテンが北アイルランドのテロで爆死。鬱陶しいほどお節介だが家父長のつもりで親切に尽くしてくれる貴重な助言者を失ってエリザベス夫妻は衝撃を受け、負傷した一族の人たちを実の母親のように世話を焼いた。自分の家族以外の人たちには深い親愛と気遣いを示すことができる逸話

マウントバッテン亡き後、排他的な王室サークルで影響力を発揮するのは王母だけ

プランケット、チャータリス、マウントバッテンの3人は、王室の外側にある世界への窓を開き、彼女と子どもたちとの関係を取り持ってくれた

 

15. あらゆることに節度を保つ エリザベス 5361

エリザベスは、ますます職務に自信を深めるとともに、馬にのめり込んでいく

‘80年代のエリザベスの人生は2人の女性に振り回される――サッチャーとダイアナ

‘79年の選挙でサッチャー率いる保守党が勝利、以後11年半にわたり女王との間に「友情なき友好関係」が続く――サッチャーの王権に対する敬意は本物だが、エリザベスの機知に富んだドライな言葉は通じなかったし、女性同士だからといって腹を割って話し合うような関係にはならなかった。君主として敬意を払ったが、女王が個人として何を考えているかまで思いを巡らすことをしなかった。自伝にもエリザベスの話は全く出てこない

エリザベスも、何事にも先生役になって抗議したがるサッチャーの性向に辟易したことは間違いなく、エリザベスのほうから積極的に働きかけることもなかった

2人を結びつけたのは愛国主義で、サッチャーも「イギリス愛国主義」の看板を掲げ、王室の存在を特別なものとすることに貢献したが、サッチャーが尊重するのは自分と同じくらいアグレッシブな闘争心で、彼女の哲学の中心にあるのは、民営企業と勤勉。対立が激しくなるほど彼女は生き生きとしたが、エリザベスは何よりも対立を嫌う。エリザベスが重んじるのは、国のまとまりであり、互いの親近感、公共心であり、保守的で現状をあるがままに受け止めた

エリザベスが英国の君主と英連邦の長の仕事を楽しむのとは対照的に、サッチャーは英連邦を軽視、連邦諸国のリーダーたちを軽蔑、エリザベスの国際的視野を共有しようとはせず、2人は何回となく衝突した

‘79年ザンビアで開催の英連邦首脳会議への出席を巡り、エリザベスのほうが国際的政治力を持つことが証明される――白人支配を続けるローデシアの独立、連邦加盟を巡って、ローデシアへの経済制裁を渋る英国政権に対し連邦諸国が反発したが、エリザベスは公式に発言することなく、個別に根回しを行い、「ローデシアのための黒人多数派のルール」を制定するという公約を満場一致で決めるよう会議を導き、その後1年足らずで白人支配は終焉しローデシアはジンバブエ共和国として独立。彼女なしには合意に至らなかった

‘80年代は、王室でも英国でも、主役はエリザベスではなかった

‘80年秋、ダイアナがチャールズの有力なお妃候補として浮上。12歳年下で、子どものころ両親が離婚したトラウマを引きずりプリンス・オブ・ウェールズと結婚して家庭を築くことを夢見ていた。愛らしい容貌の影には我儘で自己中心的な性格が隠され、意志は強いが情緒は不安定。一方のチャールズはカミラと恋愛関係にあったが、相談役のマウントバッテンがいなくなって結婚を焦っていたが、両親とは話し合ったこともなかった

エリザベスは、自分の経験を息子に伝えるべきだったが、話そうとはしなかった

ダイアナが王妃に相応しいと考えられた根拠は、貴族出身であること、スペンサー家がエリザベスの家族と縁があったこと。ダイアナの父第8代スペンサー伯爵は、ジョージ6世とエリザベスに侍従武官として仕え、ダイアナの父方母方の祖母たちと4人の大伯母たちは王母のハウスホールドの一員として仕え、ダイアナの姉の1人のジェーンは’77年からエリザベスの個人秘書アシスタントのロバート・フェローズと結婚。エリザベスはダイアナの弟チャールズの結婚式で代母を務め、ダイアナは子供のころ王室一家の近くに住んでいて、アンドリューやエドワードを幼い時から知っていた

結婚への強力な後押しとなったのは、ダイアナの母方の祖母ファーモイ男爵夫人ルース・ロッシュが王母の承諾を取り付けたこと。エリザベスは未だに自分と同じ貴族階級としか付き合わず、ダイアナが自分も知っている貴族階級の出身であることにほっとしていた

新聞報道や噂のほうが先行、おたがいのことをよくしらないままに、’81年婚約発表

国民は有頂天になったが、カミラがチャールズを諦めないと知っているマーガレットは、「王室全員が心から安堵した」というだけで幸せだとは決して言わなかった

アンの2人目の子どもザラの洗礼式では、カミラの夫が代父の1人にいた

エリザベスは、「王室での暮らしが期待していたほど気楽ではないことが分かるはず」だとダイアナを気遣ってはいたが、彼女が気分の浮き沈みが大きく、情緒不安定なのは結婚前の不安から来るものだと片付けた

‘81年の結婚式は世界中で7.5億人が見守り、エリザベス女もその熱狂に驚いた

同年には第1子の妊娠発表。ダイアナ自身はプライバシーが失われたことを含め、自分の地位の現実を受け止めるのに苦闘

ダイアナが王室の生活にスムーズに馴染むよう、エリザベスが彼女付きの女官に選んだのはスーザン・ハッセイだったが、彼女はチャールズと20年以上にわたって親しく付き合っており、チャールズがゴードンストゥンでの惨めな日々を手紙で訴えていたような仲で、エリザベスがダイアナの置かれた状況をいかにわかっていなかったかを示しており、ダイアナとハッセイとの仲も苦々しいものとなり、他の宮廷内の人々との関係もぎくしゃくしていった

エリザベスの威厳は、人を委縮させ、近寄り難くさせるが、ダイアナもエリザベスに気軽に親しく近づけなかったようで、エリザベスはダイアナを助けようと手を差し伸べたのだが、ダイアナが必要としていたのはエリザベスの経験を超えたところにあった。親身になって人の話を聞くことができないのはエリザベスの性格だが、ダイアナはそれを自分への無関心の証拠だと誤って解釈

‘81年の女王の誕生日祝賀パレードのトルーピング・ザ・カラーの最中、エリザベスに向けて6発発砲があり、エリザベスの騎乗する馬が驚いて駆けだしたのを恐怖で青ざめながらも冷静に落ち着かせ、王室が国民に感傷的な陶酔感を提供するのに一役買ったことになるが、咄嗟に取った豪胆な行動と感情をあらわさない性格は、国際的にも称賛を浴びた

半年後にはニュージーランドで再び銃撃のターゲットになった。公式訪問がなくなることを恐れたニュージーランド政府は発砲は議会の終了を告げる音だと説明、事件を40年間隠蔽。犯人は捕まり拘留中に自殺

’82年にもエリザベスの勇気が試された――フォークランド諸島とサウスジョージア島は1841年以来英王室領で英国が実効支配してきたが、アルゼンチンが島内の捕鯨施設解た動きに対し、英外務省が抗議して氷海警備船を派遣、アルゼンチンはこの機に乗じて英国から取り戻そうとして軍隊を派遣したため、サッチャーもアルゼンチンの侵攻に対し軍隊の派遣を決める。エリザベスは、英連邦に加盟するフォークランド諸島の女王として、紛争は「フォークランド諸島の人々を救出し、基本的な自由を守るため」という大義を発表

派遣部隊にはアンドリュー王子がヘリコプター操縦士として従軍

サッチャーは戦争を、世界に英国の優位を誇示する機会と捉えて、英国内で高まる愛国感情に乗じて自身の人気を高めようとしたが、エリザベスは対照的に控え目

紛争の数カ月前、エリザベスが即位30年を機に譲位する噂が報道されたが、紛争勃発で立ち消えになったが、退位しない理由をウィルソンは、エリザベスが「女王という職業を宗教として考えて」いて、神の前で生涯全うすることを誓ったからだと説明して、人々を納得させた

‘82年には女王の寝室に不審者が侵入する事件が勃発。バッキンガム宮殿の警備の隙をついた事件で、女王は侵入者と10分間2人だけにおかれたが、幸い何事もなく、またも女王の勇敢さが称えられたが、ショックを受けたことは間違いない

‘826月、チャールズとダイアナの第1子ウィリアム・フィリップ・アーサー・ルイが誕生したが、チャールズとダイアナの問題を解決する特効薬とはならなかった

エリザベスにとっては、息子夫婦の問題に加えて、長女夫婦の不仲が新聞で報じられ、アンドリューも従軍で自信をつけ、王室からの独立を匂わせ、次々に女性に手を出すプレイボーイ振りがメディアに取り上げられ、心配の種は尽きなかった

同年の英連邦諸国ツアーでは、南太平洋の島国ツバルを訪問。’78年独立したばかりの9つの島からなる英連邦最小の国、立憲君主制でエリザベスを君主として仰ぐ

アフリカの国々は次々に独立して大英帝国の支配から離れ、カナダやオーストラリアでも共和制移行の動きが高まり、’70年代には欧州を1つの理念のもとにまとめようとする汎欧州主義が広がり、英国国民の多くが抱く英連邦のイメージは他国と共有できなくなっていた。英連邦の価値そのものが疑問視され、エリザベスの訪問の意義にも疑問が呈された

‘83年英連邦加盟の1つグレナダで軍事クーデターが勃発、アメリアが侵攻した時は、女王として強い怒りを示す。事前の連絡もなく左翼政権牽制のためとの意図も伝えないままで、2年後隣国のバルバドスでのスピーチでは「小国の脆弱性」という辛辣な言葉を使って憤りの強さを表す

‘85年ウォーホルがエリザベスのポートレートを大胆に彩色した4枚のスクリーンプリントは、エリザベスをグローバルなブランドとして称えているが、治世の後半を席巻する「セレブ文化」において彼女が「王室のスター」であるとはっきり示した。王室をセレブ中のセレブのスターとして扱う風潮が引き起こす問題に、次第にエリザベスとその家族は悩まされることになる。君主戦はセレブ文化とは根本的に異なり、エリザベスには君主とは厳格で純潔なものという見方が染みついていたが、家族の若いメンバーは君主制における王族とセレブリティの区別を明確につけようとせず、エリザベスも彼らの軽率な行動を注意することを躊躇い、自らの価値を落とすことをしないだけに留めた

‘86年の還暦の誕生日を迎え、切手に新しいポートレイトが採用され、紙幣のデザインも一新。ハイライトはエルガー作の《子ども部屋》というバレエ作品の披露で、ピカデリーの家の子ども部屋がそっくり再現され、王母と姉妹は息をのみ涙が止まらなかった

その直前、アンドリューがセーラ・ファーガソンと婚約。彼女も貴族の出身で、父はエリザベスの個人秘書ロバート・フェローズのいとこで、フィリップとチャールズのポロ仲間だったが、母が家庭と子どもたちを捨てたことからトラウマを負い、そのせいかセーラは王室の一員に求められる品格を欠き、義務感のかけらもなく、威勢ばかりがよかった

‘86年にアンドリューとセーラは結婚、ヨーク公爵を授ける

コモンウェルスゲームズではアパルトヘイトを敷く南アへの制裁にサッチャーが反対したことから、黒人国家32か国がボイコット。エリザベスは英連邦という組織の継続を図るために妥協案を見出そうと奮闘。サッチャーとの間の溝が深刻化する

‘87年アンにプリンセス・ロイヤルの称号を与える――君主の長女の称号で、メアリー皇太后の娘ヘアウッド伯爵夫人プリンセス・メアリーが1965年に亡くなって以来不在だったが、アンの公務への貢献を認めての授与。時代遅れの王室の意思表示ではある

同じ月、末息子のエドワードの提言で、子どもたちがテレビで慈善事業の資金集めを呼びかける。宮殿の上級スタッフ全員が反対したにもかかわらずエリザベスは許可。エドワードは海兵隊を任期途中で辞めて母を失望。今回の話も、大衆向けの娯楽番組で、チャールズは反対したが、アンとアンドリュー夫妻が賛成し、4人がそれぞれリーダーとなって募金集めを競うもの。参加した王室のメンバーから君主制が成り立つ基本である幻想を剥ぎ取ってしまったと批判が集中

エリザベスはヴィクトリア女王から「あらゆることに節度を保つ」という古い格言を引継ぎ、自制心と倹約の精神で実行してきたが、節度を保つことを子どもたちに教えなかった

 

16. いつまで我々の上に君臨するつもりだ?  エリザベス 6171

‘87年エリザベスはこれまで女性には授与されてこなかったイングランドとスコットランドの騎士団員を示すガーター勲章とシッスル勲章を女性にも受勲できるとする歴史的な決定を発表、王室近代化の1

エリザベスは子供たちの行状に頭を悩ます一方で、王室の運営の合理化にも取り組む必要に迫られる。フィリップは非効率的な運営を批判し改善を唱え続けていたが、エリザベスは父のやり方を固守、変化を嫌う母を気遣って夫の改革には本腰を入れず

‘80年代半ば漸く改革を決意したエリザベスは宮内長官のデイヴィッド・オグルヴィ(13代エアリー伯爵)に一任。彼の父も王母の前宮内長官で、妻はエリザベスの女官で唯一のアメリカ人、弟のアンガスはエリザベスのいとこのアレクサンドラと結婚。元シュローダーの頭取であり、王室業務の全面的な見直しに着手、200に及ぶ変更が3年かけて実施

サッチャーは自らの党から追われる屈辱を味わい、同情したエリザベスはガーター勲章とメリット勲章を贈って労う

湾岸戦争が始まって、エリザベスの家族が自分のことにかまけ、中には海外でバカンスに出掛けている者もいることを新聞各紙は強く非難、王室への批判が強まる

チャールズとダイアナの離婚騒動から、エリザベスは君主の職業が決して楽しいばかりでないと痛感。メディアからは先例のないほどの攻撃がエリザベス個人に向けられ、王室一家が理想の家庭像を示すというヴィクトリア朝時代の考え方は、王室の権威とともに消えていった。アン、チャールズ、アンドリューの家庭が’90年代初めに次々と崩壊していったのは、エリザベスが親として子どもと距離を置いていたことが原因だと責める声が上がり、エリザベスはその声に苦しんだ

王室にも英国社会にも最もダメージを与えたのはチャールズとダイアナの離婚。王室運営は改革のおかげで大幅な経費削減を実現したが、家庭運営は別次元で、メディアの王室報道に強い対決姿勢を取ったことがかえって反発を招く

エリザベスは、自分の子どもたちよりも母親や妹との距離のほうが近かったし、ダイアナが泣きながら訴えに来た時もエリザベスはただ困惑しただけ。チャールズは意地でも両親に相談しようとはしなかったところで起こったのが、’91年夏タブロイド紙のインタビューに答えたダイアナの赤裸々な告白ビデオの収録で、ダイアナが責めた1人がエリザベス。姑の自制心と行儀のよさをダイアナは非情だと決めつけた

エリザベスは暴露インタビューを無視して、即位40周年記念の彼女の軌跡を辿ったドキュメンタリー《エリザベスR》の制作に関与、映像を見ながら自らナレーターまで務めた

‘92年番組は放送され関心の高いことが証明されたが、「身の毛のよだつ出来事」が相次ぐ

ダイアナがタージ・マハルを単身訪問し1人で座る写真はチャールズとの不仲を世界に知らしめ、アンドリューとセーラの別居、アンの離婚と続く

にも拘らずエリザベスのクリスマス・メッセージは「父を手本に」「国民に奉仕」といういつもながらの内容で国民には空虚に響いた

‘92年ダイアナが関与した暴露本が出版され、漸くエリザベス夫妻はチャールズとダイアナと話し合い、お互い非をあげつらう前に、子どもたちと王室のことを考えろと強く意見

ダイアナは関与を否定したが、嘘が露見し、エリザベスの家族は一斉にダイアナに怒りの矛先を向ける

エリザベスにとって、何よりも君主としての責務が第一で、家族の問題よりも優先される

度重なるトラブルや不運な出来事に、彼女は感情を見事にコントロールして変わらぬ自制心を持ってはいたが、気の休まることはなかった

セーラのトップレス写真が公開され、ダイアナの情事の会話が暴露される中で、エリザベスは自分の私生活が面白おかしく取り上げられないよう防御を固める

‘92年ウィンザー城が火事で100室以上焼失。英国社会の反応は、エリザベスへの親愛が薄れていない一方で、最近の王室への幻滅もはっきりと表すもの

直後の昼餐会での発熱をおしてのスピーチでは、王室の一員も人間的な弱さを持っていることを公に認めて、批判も節度を保ってほしいと異例の懇願、「私たちは皆同じ国家社会の一員。お互いを監視するにあたって、少しの優しさとユーモアと理解があれば、それだけで良い効果をもたらすことができる」と王室の責任を認めた上で抗議

‘92年エリザベスが税金の支払いを決める――長年の懸案だが、王室への大きな不信感が生まれたことへの対応でもあった。これにより一族は個人的に政府から支払いを受けることがなくなり、全てエリザベスが受け取る王室費から家族に配分される

庶民院がチャールズとダイアナの別居を発表――チャールズが王座を放棄する確率が101から61に引き下げられた

エリザベスは、日々起こる様々なことを「ごくありふれた日常」と見ることで緊張と不安の日々を乗り切り、淡々と公務・謁見・叙任を重視してこなし、継続性がいかに重要かを訴え、世界の変化から自分と王室を守るのは継続性にあるという主張を変えなかった

チャールズとダイアナの騒動は、海外においても王室のあり方を巡るより大きな議論となり、オーストラリアでは労働党政権が英国王室との絆を切る計画を進め始める

バッキンガム宮殿の一般開放を始め、王室がより近づきやすい存在になることを象徴

‘93年には初めて東欧圏のハンガリーを訪問、続いてロシアのエリツィン大統領を訪ね、’94年にはミッテラン大統領と共に英仏海峡トンネルの開通式に出る

エリザベスは家族の反対を押し切ってダイアナの国家行事への参加を認めていたが、'94年チャールズがテレビのドキュメンタリー番組に出演し、自らの不倫を告白したうえに、英国国教会からも距離を置くと発言。さらにインタビュアーがチャールズについての本を発刊、そこでは両親が「息子に深い愛情を持っていたが表に出すことはしなかった」ことや、フィリップが「わけもなく厳しく接した」ことが書かれ、著者の描くエリザベスは「超然としているというよりも無関心」で、大事な場面で母の「庇う言葉や姿勢」がなかったと指摘

‘95年のBBCのインタビューで初めてダイアナがエリザベスの君主としてのあり方を批判したのを受け、エリザベスもチャールズとダイアナの双方に離婚要求を突きつけ、議員たちはBBCの王室認可の取り消しを要求

‘96年チャールズとダイアナの離婚成立

エリザベス夫妻と4人の子どもに上級アドバイザーを加えた宮廷内部の「ウェイ・アヘッド・グループ(王室の未来を考える会)」が立ちあげられ王室改革を議論――2013年の王位継承法に反映され多様に、2011年以降に誕生した王位継承の有資格者について、男子優先の長子相続から、性別に関係なく年長の子どもが継承順位の上位につくことになる。ローマ・カトリック教徒との結婚が許される

‘97年ダイアナが事故死。エリザベス夫妻とチャールズ、2人の子どもは6日間もスコットランドに留まって何の行動も起さなかったことで王室は最大の危機に直面――近代社会において王室一家が国民感情と対立する姿勢を見せると、いかに簡単に王室制度そのものを危うくするかを示す出来事となる

エリザベスは、家族を失った思いを、家族以外の人と共有するつもりはなかったが、国民感情を読み誤ったことに気付き、遺体を英国に戻しセント・ジェームズ宮殿のチャペル・ロイヤルに安置、ウェストミンスター寺院で王室の一員と同様の大規模な葬儀を行う

首相になったばかりのトニー・ブレアがエリザベスの曾祖母であるメアリー・アデレイド・オブ・ケンブリッジ王女に与えられた呼び方に倣ってダイアナを「人民のプリンセス」と持ち上げた声明を出すのを認め、バッキンガム宮殿には父の喪のときもしなかった反旗を掲げ、ダイアナを「類まれな、才能に恵まれた人」と称えて称賛と尊敬を込めた自らのメッセージを出し、ダイアナの記章旗が飾られ砲車に乗せられた棺がバッキンガム宮殿の前を通り過ぎる時には一家とともに頭を下げて見送った

42年間エリザベスと王室一家を支えてきたブリタニア号の退役式に女王は出席を拒む

政府が費用が嵩む改修よりも退役を選択、エリザベスも渋々承認

‘90年代は、エリザベスにとっても王室にとっても、報われない10年だった

 

17. 女王に寄せる人々の親愛の情は決して消えることがないようだ 

エリザベス 7180

‘97年金婚式の祝賀舞踏会は改修なったウィンザー城で挙行

マーガレットが軽い脳卒中に続いて、98歳の王母が転倒して腰骨を骨折

ダイアナの死で王室はスタイルの変更を余儀なくされ、庶民との距離を縮める公務と行事が模索され、ブランドの再構築を図る

エリザベスとチャールズの関係は相変わらずぎくしゃくしたまま、何かにつけて行き違いばかりが際立った。チャールズの50歳の誕生日をバッキンガム宮殿で祝ったが、チャールズの住居での祝賀会はカミラがホステスだという理由でエリザベス夫妻は欠席

‘98年の議会開会宣言では、エリザベスは政府が用意した原稿を読み上げ、貴族院改革案に言及したところで、労働党議員から「しかり」との声が上がり、保守党からは「恥を知れ」との応酬。君主の演説が遮られるのは前代未聞

‘99年末っ子のエドワードとソフィー・リース=ジョーンズ結婚。相手はエリザベスの一族との関わりはなく貴族でもないが、’93年出会って以来バッキンガム宮殿で1人暮らしをしていた。友人同士としての付き合いから結婚に発展

エドワードにはウェセックス伯爵の称号が与えられ、フィリップの後を継いでエジンバラ公爵となることも決まる

労働党のトニー・ブレアは、エリザベスとの関係を密にすることは価値があると考えるようになったが、先達の様に王室に条件反射的に恭順の姿勢をとろうとはせず、継承されてきた形式的儀礼に苛立ちを深める――その原因は、2001年総選挙を実施しようとした際、エリザベスが議会の解散を拒否したこと

ブレアは英連邦にはほとんど関心がなく、狩猟禁止に固執、連合各国議会に権限を与えようとするなど、変化を焦り過ぎていた。バルモラルに週末招かれても王室に敬意を示さず、現実離れして異常だと批判

オーストラリアでは、非王族の国家元首を置く共和制案が国民投票で否決され、エリザベスは国家元首として同国を再訪、歓迎を受ける

'02年マーガレット死去。王母も相次いで亡くなる

即位50周年は、これまでで一番詰まったスケジュールで動き、ヨーロッパないだけでなく、54まで広がった英連邦のメンバーたちからも祝福を受ける。10年前、「一体いつまで君臨するつもりか」と毒づいた世論から国民の声は変わった

エリザベスは、いずれ王位を継承することになる孫息子に託すかのように、戴冠式50周年記念の礼拝では傍らにウィリアムを立たせた

カミラもようやくエリザベス主催の行事への出席を認められる

離婚に対するエリザベスの見方は伯父の退位によって決定づけられた

‘04年のクリスマスに、エリザベスはチャールズの再婚に同意。カンタベリー大主教も結婚を支持したが、国教会の中で分断を引き起こす。エリザベスは国教会首長であることを示して2人の民事婚には参列しなかったが、礼拝と奉献の儀式には参列、自ら2人のための祝いのパーティーを主催

‘06年の80歳の誕生日を祝う一連の行事は、王室一家が落ち着きを取り戻したことを証明。エリザベスは「血縁の原則」に基づく順列を見直し、血縁を最優先し、娘のアンもいとこのアレクサンドラも、チャールズ不在時にカミラに恭順の礼をとる必要はないとした

チャールズも母の誕生日に寄せて、「何事にも誠実と不屈の精神で取り組み、その顔を見れば安心して信頼感が湧く。世界の変化に対して、母は身をもって奉仕、義務と献身のあり方を示している」と称え、無表情と批判されたものが今は「それが強さ」だと称賛

 

18. 彼女は国民を幸せにしてきた エリザベス 8294

‘82歳になっても年間400件以上の国内外の公務を精力的にこなすこなす

2016年になってやっと、子どもや孫たちに自分が携わっている様々な後援事業の仕事を譲るようになった

隔年開催の英連邦首脳会議への出席も続けており、英連邦への親しみと関心は少しも衰えることがない。’94年爵位を授与したジンバブエの大統領ムガベが腐敗と蛮行を重ねたことに抗議して、'08年には爵位を剥奪することに同意

'08年ウィリアムをガーター騎士団の1000番目の騎士に任命し、4年後にはシッスル勲章も授与。ガーター騎士団の伝統的な行進の儀式には、ウィリアムの6年越しの恋人キャサリン・ミドルトンを初めて王室一族の席に招く

翌年ウィリアムとヘンリーはチャールズから独立して共同で王室を構えることになり、エリザベスの提案で、元外交官デイヴィッド・マニングが後見役となり、ウィリアムが初めて祖母の代理でオセアニアを訪問する際も同行、着実に「帝王教育」が始まっていた

‘11年新たな王室助成金法制定――耐用年数を超えたバッキンガム宮殿に構造的な修復を施すための費用が嵩んで大幅な赤字が予想されたための措置で、1760年導入されて以来の王室助成金のモデルが破棄され、財務省から一元的に支出された王室費に替わって、運輸省から旅費が、文化・メディア・スポーツ省からコミュニケーション費が支出され、エリザベスにはクラウン・エステートから上がる収益の15%が支給されることになった

'11年ウィリアム結婚、ケンブリッジ公爵の称号が授与され、アイリッシュ・ガーズ(陸軍近衛師団)の大佐に任命

フィリップは王配としての、チャールズは皇太子としての、エリザベスは治世期間でいずれも最長を記録。フィリップは90歳を理由に引退を仄めかすが、エリザベスは究極の称賛の証であるイギリス海軍トップとなる海軍卿の肩書を贈り驚かせる。彼の引退は6年後

‘14年のスコットランドの独立を問う国民投票では、慎重にではあったが重要な干渉を行う。独立派の盛り上がりに恐慌を来したキャメロン首相がエリザベスに助けを求め、エリザベスはスコットランドの村の教会の礼拝に参加した後のスピーチで、「誤った選択が安全を脅かさないように祈った」と話す。投票結果を聞いてエリザベスほど喜びを表した人はいなかった。当然のことながら国民投票に諮った首相の行為を軽率だと思っていた

政府から貿易と投資の特使という役目を与えられたアンドリューに、浪費と好ましからざる人物との個人的交際の疑惑が浮上、児童買春の実刑判決を受けた実業家エプスタインとの関係が露見して王室の顔に泥を塗る

'18年開催の英連邦首脳会議では、「父が1949年に始めたこの重要な仕事をプリンス・オブ・ウェールズが続けていくことを心より望みます」とスピーチ。数日後彼女の推薦を受けてメンバー国の首脳たちは、チャールズを英連邦の長とすることを決め、女王を喜ばせた

‘17年フィリップが公式に引退

‘17年ヘンリーがメーガン・マークルとの婚約発表、メーガンは離婚経験者、父親はオランダ・アイルランド系、母親がアフリカ系アメリカ人。翌年結婚してサセックス公爵となるが、2年も経たないうちに公務から離れることを決める

エプスタインが刑務所で自殺した後、交際のあったアンドリューがテレビのインタビューに呼ばれ、被害者の1人が17歳のときアンドリューから性行為を強要されたと訴えたのに対し、頑固に否定し改悛の情を一切見せなかったことに激しい抗議が寄せられる、エリザベスがそれでも息子を庇い続ける姿に非難が募った

‘20年ヘンリーがエリザベスに事前の相談なしに「王室一家の上級メンバーとしての役割から抜ける」意思を表明、5日後にエリザベスは、「サセックス公爵夫妻は今後王室の公務につくことはないし、公的資金も与えられない。HRH=陛下の称号は使用できない」との公式声明を出す。愛情に満ちた訣別の言葉だった

「他者に尽くすことこそが最たる高貴だ」という父の信念を生涯尊重してきたエリザベスは、君主であることを最優先にし、奉仕と義務の使命を守ることは片手間にできるものではないと確信していたからこそ、この対応しかないと考えたのだが、その配慮はすぐに裏切られる。1年も経たないうちに2人は米国のテレビインタビューで不満をぶちまける

自分たちの言い分をテレビで公にすることは最早王室の常套手段になったようだ

‘20年のコロナ感染防止のための「女王陛下バブル」にフィリップも合流して、2人だけの時間を過ごすようになるが、翌年フィリップ死去

コロナ禍にあってもエリザベスは希望のメッセージを出し続けた

エリザベスは70年間、常に国民に希望を示し、利他であることを称え、安心感を与えてきた。それがエリザベスの非凡で不変の使命の真髄にあるものなのだ

 

 

訳者あとがき

著者はヴィクトリア女王や英国を代表する作家ヴィタ・サックヴィル・ウェスト、ビアトリス・ポターの伝記などを手掛け、歴史ノンフィクション作家として高い評価を受けている

エリザベス女王の70年にわたる治世は、連合王国が急速に衰退していく時期

欧州の他の王室が消滅したり名目だけになっていく中で、なぜ英王室は「臣民」から崇められる存在でいられるのか?

その謎の解明のために、これまで伝えられてきた本人の言動を細かく調べ、それをもとにエリザベス女王自身が「連合王国」と英連邦の長として何を考え、どんな行動をとってきたかを時間軸に沿って追っていく

謎解きのポイントは、

1.   なぜエリザベスは女王になったのか? ――人生を変えたエドワード8世の退位

ジョージ5世と王妃メアリーは、王位継承第1位の長男の放蕩振りに落胆するうちに、聡明な孫娘に期待するようになる

王位が世襲制であること、神のもとで誓った「正統」な結婚で生まれた子どもだけに王位継承権があり、離婚も離婚歴も許されない。それを守っていくことが英王室存続の道である、という伯父の退位が教えた(ママ)教訓が、エリザベスの人生を変えた

2.   なぜ女王は夫フィリップと添い遂げられたのか? ――現実主義に徹した夫婦関係

結婚当時、エリザベスはまだ王女でいずれ君主となることが決まっていたが、それでも神の前では夫の後を歩くことを誓った

エリザベスが現実主義者で、ロマンチックな感情以上に、まずは王室を維持していくための現実的な道を選んできたからこそ、英王室直系の血は次世代、次々世代へと引き継がれていく

フィリップにしてみれば、周囲から蔑ろにされ、存在も認められないことに不満を抱き、それを妻にぶつけて悩ませ続ける

夫婦の間には様々な軋轢があったが、夫婦ともに現実主義を貫いたおかげで、添い遂げられた。離婚は出来ないし、絶対にしない。そこで夫にギリギリまで譲り、しかし最後の一線は決して譲らず自分の意見を通す。そんな夫婦関係を貫いた。傑物である

3.   なぜ家庭と女王が両立できたのか? ――「理想の家庭像」の重圧を超えて

エリザベスが育った家庭の絆の強さを表現した「我々4人」という言葉が繰り返される

思いがけず王位についた父が拠り所にしたのが家族であり、女王エリザベスも自分が家庭では妻や母として立派に務め、同時に英国の家族のために尽くしていることを強調

しかし所詮は無理な話で、エリザベスが家族のトラブルから心理的にも物理的にも距離をとり、一貫して女王の任務を優先させたからこそ英国王室は存続できたといえる

社会が女性に求める役割はこの1世紀で大きく変わったのに、家庭で妻や母に求める役割が19世紀から変わらないことは、王室一家でもトラブルを引き起こすのだ

4.   なぜ70年も女王でいられるのか? ――愛される理由

エリザベスは自分から何か意見を述べることがなく、感情表現が乏しく、身体接触を嫌い、スピーチのトーンが単調だと批判されてきたが、それが君主としての長所だからこそ長く敬愛されてきた。選挙で選ばれる首長と世襲制で決まる君主とは「愛される」ことの意味が違う。君主としてどう振舞うか――エリザベスはそれをしっかり理解し、体現してきたからこそ、70年間にわたって世界中で愛され続けている

 

王室と立憲君主制が揺るぎない制度ではなく、維持存続のために王室の中の人たちが必死に闘い続けていることが分かる

近々公開されるドキュメンタリー《エリザベス 女王陛下の微笑み》が楽しみ

 

 

2022.8.6. 日本経済新聞

ザ・クイーン   マシュー・デニソン著

家族に悩んだ英女王の治世

今年2月に在位70周年を迎え、6月には4日間にわたるイベントで盛り上がりを見せたイギリスのエリザベス女王は、96歳のいまも粛々と公務を続ける超人である。その彼女の真実に迫った最新の伝記のひとつが本書となる。原著者はイギリスを代表する作家ですでに数々の評伝を著している。

原題=THE QUEEN(実川元子訳、カンゼン・3300円) 著者は英国生まれのノンフィクション作家、放送作家。英王室関係や英国作家の伝記など著書多数。 書籍の価格は税込みで表記しています

本書で主に取り上げているのは、エリザベスと彼女を取り巻く家族の歴史である。彼女が女王に即位する1952年(25歳)までに、すでに全体の45%を超える分量があてられている。そこには両親と妹マーガレットの4人で幸せな生活を送っていた純朴な生活が、伯父エドワード8世の突然の退位で大きく変わってしまったことに始まり、将来の夫君フィリップとの出会い、第2次世界大戦中の苦労などが綴(つづ)られている。

さらに父の急死という悲しみを乗り越え、女王に即位してからの政治や外交に関わる姿も交えながら、あまりにも早くに君主としての重責を担うようになったこととも関係し、子供たちに素直に愛情を示すことのできない性格が形成されたことも赤裸々に描かれる。特に自身の希望とは異なる学校に入れられた長男チャールズと真剣に向き合えなかったのは、君主としても親としても明らかに怠慢だったと著者の評価は手厳しい。

それはまたチャールズが結婚したダイアナとの「嫁姑関係」にも影響を与えた。夫フィリップとの結婚生活は73年以上にも及んだのに対し、4人の子供たちのうち3人はいずれも別居そして離婚を余儀なくされた。こうした状況はすでに妹マーガレットの結婚問題(1955年)に始まり、さらに近年では孫のハリー(ヘンリー)とメーガン夫妻の王室離脱、そして次男アンドリューのスキャンダルにまで至っている。女王の治世はつねに家族内に問題が生じ続けた70年でもあったのだ。

こうした家族内の問題とともに、王室が改革を進めていく様子も巧みに描かれる。

原著は560ページに及ぶ大作だが、訳文は平易で、日本の読者も手に取りやすい。惜しむらくは王室の用語や称号の表記などに誤りが散見される点であろう。幅広い読者を対象とできる本だけに、英国の歴史を正しく伝える視点が重要だ。

《評》関東学院大学教授 君塚 直隆

 

(売れてる本)『ザ・クイーン』 マシュー・デニソン〈著〉 実川元子〈訳〉

2022115日 朝日

 伝記にして一級のサスペンス

 映画の中で、机に向かっていた人が突然、爆発に見舞われるシーンがあるとする。映画監督のヒチコックによれば、それは驚きや恐怖かもしれないが、決してサスペンスではない。

 サスペンスであれば、机の下に爆弾が仕掛けられており、一定の時間がたてば爆発すると観客に知らせておかねばならない。危険にさらされている登場人物に、見る者が同化できるように。その意味で本書は一級のサスペンスといえる。

 英国の女王エリザベス2世が誕生した日から始まる伝記を手に取った人の多くは、やがて訪れる悲劇を知っている。息子のチャールズ皇太子の結婚生活の破綻と、ダイアナ元妃の死。そこから始まる王室の危機。時限爆弾が刻む音が全編から聞こえてくるような本である。

 一目ぼれした相手と結婚したエリザベスが、模範的な家庭を作れると信じていたに違いないこと。ところが女王、妻、母という役割に引き裂かれ、子どもたちに十分な愛情も、人生の模範も示せなかったこと。チャールズに結婚当初から愛人の影がちらついていたこと。

 1990年代の英王室の危機は想像以上に深刻だった。膨大な情報をもとに描写する本書から、教えられることの一つである。例えば世論調査では、王室がないほうが国はよくなると答えた英国人が4人に1人にのぼっていたという。

 もちろん最悪期を脱し、国民からの敬愛を取り戻したからこそ、あの国葬もあったはずだ。王室というブランドを再構築するための女王の努力は痛々しいほどだ。ロンドン五輪でジェームズ・ボンドと共演したのは、その一例にすぎない。

 国が困難なとき、王室は「国民に現実逃避となるファンタジーを提供してきた」と著者は記す。しかしそれは、世襲で運命づけられた人間たちに多大な負荷を強いてまで求めるべき役割なのか。どこか落ち着かない読後感とともに、日本の皇室のことも考えずにはいられない。

 有田哲文(本社文化部記者)

     *

 『ザ・クイーン エリザベス女王とイギリスが歩んだ一〇〇年』 マシュー・デニソン〈著〉 実川元子〈訳〉

     *

 カンゼン・3300円=416千部。6月刊。担当者は「購買層の6割強が女性で、3040代を中心に幅広い。妻でもあり母でもあった女王の生き方に興味を抱く方が多いようです」。

 

カンゼン社 ホームページ

この不撓不屈の女性がイギリスを、世界を、支えつづけてきた!

チャーチルからジョンソンまで報告を受けた首相は14

女王在位70周年(プラチナ・ジュビリー)を迎えた

英国史上最高齢、最長在位の君主

エリザベス女王伝記の決定版

 

英国と世界の激動の歴史とともに生きた一世紀

スエズ動乱、フォークランド紛争からEU離脱、新型コロナウイルスなどに加え、王室の存続さえ脅かしたダイアナ元妃の事故死、孫夫婦の王室離脱など、そのすべてを乗り越えてきたエリザベス2世の生涯を描くノンフィクション

 

「格調高くまとめられた決定版ともいえる女王陛下の新しい伝記。

女王の人生を、敬意を込めて公平な視点からまとめている。

特に女王の子ども時代についての著者デニソンの記述はすばらしい」

タイムズ紙

 

「女王の70年にわたる治世について、わかりやすくよくまとめられた内容で 女王と英王室について知りたい人にとって、これ以上の本はないだろう」

デイリーテレグラフ紙

 

「無私無欲に奉仕する女王陛下の比類ない人生を魅力的に描きだしている」

チョイス誌

 

「格調高い新しい伝記」

OK!

 

「事実を丹念に追い、慎重に描き出された女王陛下の卓越した肖像」

サンデーテレグラフ紙

 

 

2022.9.8. 死去 享年96 在位707カ月

チャールズ3世即位

エリザベス女王が死去、96歳 在位70年、英国君主として歴代最長

ロンドン=金成隆一202299 248分 朝日

 英国のエリザベス女王8日、死去した。96歳だった。大英帝国の終わりや欧州連合EU)からの離脱など激動期の英国を生き、君主を70年以上務めた。約千年の歴史を誇る王室の近代化にも努め、勤勉で気品ある君主として国民に深く慕われた。次の国王には、長男で王位継承順位1位のチャールズ皇太子73)がついた。

 英王室8日、「女王が本日午後、バルモラル城で安らかに亡くなりました」と発表した。バルモラル城は北部スコットランドにある女王の静養先。

 女王は6日、バルモラル城でトラス首相と面会。前日に保守党党首に選出されたトラス氏を新首相に任命したばかりだった。女王は通常、ロンドンのバッキンガム宮殿で新首相を任命するが、女王の歩行が困難になっているため、同城で実施された。

 7日に予定されていた公務は「医師の助言」に基づいてキャンセルされていた。

 女王は今年26日、英国の君主として初めて在位70年を迎えた。高齢ながら公務にあたる女王は多くの国民に慕われ、6月には即位70周年を祝う祝賀行事「プラチナ・ジュビリー」が行われた。女王は声明で「みなさんの善意に鼓舞され続けている。私たちが自信と情熱を持って未来を見つめる中、この数日間が、過去70年間に達成してきたことを振り返る機会となるよう期待している」と述べていた。

「偉大な英帝国のために尽くします」 エリザベス女王が残した言葉

マクロン氏、ゼレンスキー氏各国から追悼 女王死去「深い悲しみ」

 女王は1926年、のちにジョージ6世となるヨーク公とエリザベス妃の長女として、ロンドンで生まれた。36年、伯父エドワード8世が離婚歴のある米国人女性との結婚を望み、即位から1年足らずで退位。急きょヨーク公が国王になったことで、10歳で「次の国王」になることが運命づけられた。47年、13歳の時の初恋の相手といわれるギリシャの王子、フィリップ殿下と結婚。長男チャールズ皇太子ら31女をもうけた。

 5226日、父の急逝を受け、25歳で即位した。戴冠式は翌5362日に行われた。以来、日本をはじめ130カ国以上を公式訪問。香港返還の合意がまとまった後の86年には、英元首として初めて中国を訪問。115月には、アイルランドで独立闘争の戦死者らを追悼し、かつて対立した国や旧植民地との和解に貢献した。英国国教会の長として、信仰の守護者の役割も果たした。

 女王は歴史上の英君主としては最高齢ながら極めて健康で、80歳を過ぎても国内外での公務を精力的にこなしてきた。12年には即位60年を迎え、15年には高祖母ビクトリア女王(18191901)の約637カ月の最長在位記録を更新。歴代国王の長寿記録も大幅に塗り替えた。

 一方、王室には不倫などのスキャンダルが絶えなかった。チャールズ皇太子の元妻のダイアナ元妃が事故死した97年には女王自身の対応が「冷たい」と批判され、王室廃止論が叫ばれたこともあった。

 昨年4月には、73年余にわたり連れ添ったフィリップ殿下が99歳で死去。女王は昨年12月、クリスマス恒例のメッセージで「今年は親しんできた笑いが一つ欠けている」と述べ、心痛を吐露していた。昨年10月には、予定されていた北アイルランド訪問をキャンセルして一晩、検査入院。同月末に始まった国連気候変動枠組み条約締約国会議(COP26)も欠席し、健康状態が一時懸念されたが、その後は公務に戻っていた。

 女王自身が公務やチャリティー活動をこなす姿は尊敬を集め、調査会社ユーガブの今年5月の調査では84%が女王の仕事ぶりを評価していた。(ロンドン=金成隆一)

 

エリザベスとチャールズ 名前でたどるイギリス王政史 近藤和彦さん

寄稿2022918 1600分 朝日

 イギリスのエリザベス女王が死去し、チャールズ3世が王位を継承した。イギリス史の泰斗で東京大学名誉教授の近藤和彦さんに、歴代国王の名前から想起されるイギリス王政の歴史を数百年の時間軸で見通してもらった。

     

 エリザベスという女王は、イギリス史上に二人いた。

 エリザベス1世の即位は1558年。日本は戦国時代、ヨーロッパも信教と主権をめぐって争いの絶えない時代であった。ローマカトリック(旧教)とピューリタン(聖書主義)との血で血をあらう争いが、ドイツあたりから各地へ広がっていた。兄弟の死と混乱をへて即位したエリザベスは25歳、聡明で人文教育をうけ、周囲に人を得た君主であった。16世紀の国際力学のなかで、短慮の父ヘンリ8世とちがって、彼女は慎重にことを進めた。治世のキーワードは「中道」である。ローマカトリックとピューリタンという二つの非寛容をしりぞけ、両方の要素をとりいれた「国教会」を確立した。

 毛織物などの産業、海外貿易と植民、そして貧困をめぐる問題は引きも切らないが、全国からの請願を議会で審議して、法律とし、国民的コンセンサスを得ようとした。内憂外患の続く45年間が治まったのは、有能な忠臣と国教会、議会のお陰でもあるが、ちょうどユーラシアの長い成長期にあったことも大きい。イギリス人航海士ウィリアム・アダムズが日本に漂着して徳川家康に謁見したのは1600年、関ケ原の戦いの直前であった。

 後半では、チャールズという名の王をめぐる波乱の歴史をひもときます。

 エリザベス治世に成立した法律のうち、今も生きているのは「チャリティ用益法」である。チャリティとはコミュニティの益のために寄進された基金で、貸し付け運用された。「慈善」とはかぎらない。イギリスの公共社会の本質をチャリティに見る専門家もいる。

 エリザベス2世の即位は1952年。1世と2世のあいだには400年ほどの盛衰の歴史がある。1世が即位したイングランド王国は人口300万あまりの途上国だった。2世が即位した連合王国は人口5千万あまりの成熟した立憲君主国となっていた。彼女はまた、英連(コモンウェルス)という多様な主権国家とその20億を超える人々のゆるい統合の象徴でもある。

 この間に資本主義世界システムが形成され、19世紀には世界の経済・軍事・政治の覇権をイギリスがにぎった。幕末・明治の日本人が遭遇した「英国」は、世界に冠たる覇権国にして文明の中心であった。エリザベス2世の70年間に覇権は別のどこかに移ったように見えたが、イギリスはしぶとく金融・情報・高等教育の拠点の一半をにぎっていた。欧州連合EU)と英連邦がそれを支えていた。

 君主の人となりと、国のかたち(国制)とは、別の問題であるが、無関係ではない。王位は血筋だけで決まるものではない。世界には選挙による王政もあれば、「王のいる共和政」も「王のいない共和政」もある。国民の信に堪えない君主は、これまでも見限られてきた。名誉革命のジェイムズ2世、アメリカ革命のジョージ3世、1936年に公務怠慢のきわまったエドワード8世のように。聖俗の忠臣たちがエドワードの代わりに選んだ弟のジョージ6世は、映画「英国王のスピーチ」も描く、無骨で責任感の強い国王、エリザベス2世の父であった。第2次世界大戦中も戦後も、この2代の君主は艱難を国民とともにし、広く信を得た。

 女王の死を受けて、新しく即位した王の名はチャールズ3世。残念ながら、イギリス史でチャールズとは、平安と幸福をもたらしそうな王の名ではない。チャールズ1世は小心で形にこだわり、内戦を引き起こして1649年には裁判のうえ、処刑された。その子チャールズ2世は、フランスの太陽王ルイ14世からカネも軍も女も提供されたうえ、婚外子17人も生まれた。1745年には「紅顔のチャーリ王子」がチャールズ3世を僭称してスコットランドで兵を挙げ、惨敗した。

 新王チャールズは、王太子時代に環境保護に熱心で、人種差別に反対し、イスラームも含む「多信教の擁護者」でありたいと公言していた。即位後は、ただ言葉を弄するインテリ君主にすぎないのか、国民と英連邦の統合の象徴として実を果たすのか、注目される所である。(寄稿)

     

 こんどう・かずひこ 1947年生まれ。歴史学者、東京大学名誉教授。専門はイギリス近代の社会史、文化史、政治史。著書に『イギリス史10講』、共著に『王のいる共和政』など。今年出したEH・カー『歴史とは何か』の新訳も注目を集めている。

 

 

エリザベス女王の国葬、その特別な意味とは 社会学者・大澤真幸さん

聞き手・星井麻紀2022918 1400分 朝日

ロンドンのウェストミンスターホールで2022915日、亡くなったエリザベス女王の棺の前を歩き、敬意を表する人々=AP

 エリザベス女王の死去で一層の注目を集める英王室。英国は、世界の大国の中で、王室を持つ唯一の存在でもあります。市民社会が広がる中、なぜ英国は君主制を維持できたのか。国葬の意味は。社会学者の大澤真幸さんに聞きました。

 ――エリザベス女王が亡くなり、王室メンバーの一挙一動と共に、葬儀へのプロセスに世界中の注目が集まっています。

 単に英国王室が世界で最も有名で、関心が高いからということだけではなく、19世紀以来の我々の世界の一つの象徴として見ているからだと思います。英国は第1次世界大戦ごろまでは世界の中心でしたが、アメリカにその地位を渡し、女王は斜陽のイギリスを生きてきた。その斜陽感も含めて、人々は世界を感じ取り、共感しているのだと思います。

 また、アメリカとの対比では、人々はヨーロッパに残すべきで、失ってはいけないものを見いだしてもいると思います。例えば、大統領は王に代わる国家元首ですが、国民にリスペクトされないような人物が選ばれるアメリカには、イギリスのような王の権威が決定的に欠けているという感情もあるでしょう。

 ――しかし、王という存在は、民主主義的な価値を重んじる現代には、しっくりこないものがあります。

「生き残り、国民との新たな関係を模索した英王室」

 そもそも王は、近代社会以前の名残です。諸説ありますが、欧州ではだいたい19世紀ごろ、人々に国民(ネーション)という意識が芽生えます。自分はどこかの国に属しているというアイデンティティーのことです。

 ところが、国民には「国民はみんな平等」という意識があり、王や君主とは水と油の関係になってしまう。そうして、フランスでは革命が起きて王室は捨てられ、英国では王室は生き残って、国民との新たな関係を模索したわけです。

 ――王の新たな役割とはどのようなものですか。

 一番説得力のある説明をしているのが、ドイツの哲学者ヘーゲルです。王がやっていることは、アルファベットの「i」の点を打つことだと言うんです。

 近代市民社会では、王ではなく選挙で選ばれた代表者が議会で物事を決めるようになりました。でもそれは様々な意見を持つ人間の集合ですから、いろんな考えがある。

 それを多数決などで結論を出した後、最後に王が「それは私たち国民の意思である」と承認する。実際には、そうは思っていない人もいるので、「国民の意思」はフィクションなのですが、王が認めることで、「力の均衡による決定」が、「人間的な意思」に変換されるのです。例えば、女王がトラス新首相を任命したのもそうです。最後に「i」の「点」を打って、完成させるという役割を担っているのが近代以降の王なのです。

 じゃあなんで王がそんな偉そうなことをしているのか、となりますが、選挙でさえ、やはりどこかにくじ引きのような、ところがあって、それゆえにこそ、神の意思のようなものを感じるのと同じような心理が働くからだと思います。

 ――根っこには、宗教的な感覚があるということでしょうか。

「肉体」と「政治的身体」 英国の王は二つの身体を持つ

 ドイツ出身の歴史家カントロービチによれば、欧州、特に英国の王はいわゆる「肉体(自然的身体)」だけでなく、人々を正しく導く「政治的身体」をもつという観念を築きました。つまり王は二つの身体を持つ。実際、英国で初めて王権を否定した清教徒革命では、議会派(清教徒)は、王の「政治的身体」を守るために、腐敗した肉体を倒すというスローガンを掲げました。この概念は、神にして人であるキリストから長い変形のプロセスを経て生まれたものです。

 「政治的身体」という概念は、王政の中から出てきたものですが、この清教徒革命の例にも示されているように、近代市民社会の民主的な「政治の共同体」という考えの礎にもなっているのです。

――女王の国葬には、どのような意味があるのでしょうか。

 英国王の国葬は、この「二つの身体」という概念とも関係のある最も重要な場面です。肉体がなくなり、「政治的身体」が次の王に引き継がれる儀式という意味があるからです。

 「崩御」という言葉は英語で「ディマイズ」ですが、語源的には「わけて置かれる」という意味です。まさに、肉体と政治的身体とを分けることを指しています。シェークスピアの戯曲「ハムレット」では、王位にあった父の敵、叔父クローディアスをハムレットがなかなか殺害せず、優柔不断な感じがしますが、あれは王に「政治的身体」が宿るがゆえの迷いなわけです。葬儀は今は形式的なものになっていますが、この感覚は無意識レベルで英国人の間に残っていると思います。

 日本では安倍晋三・元首相の国葬に対して相当数の国民が疑問を持っていますが、英国では、国葬にほぼ一致した合意がなされていると思います。

 ――君主制に対する批判は英国内にも少なからずあります。

 確かに、君主制の継続が難しくなっていくとは思いますが、英王室は、市民に革命を起こされて殺され、廃棄されるかもしれないという歴史の中を、緊張感を持ってアクティブに活動し続け、「国民の意思」を包み込んで一つにまとめるという今の地位を手に入れています。

 世界の大国で王室があるのは英国だけで、欧州の中でも別格の存在。また、王室は英国発展の象徴でもあります。日本の皇室のように、敗戦時のネガティブな経験もなく、むしろ存続するメリットの方が大きいでしょう。

英王室と日本の皇室の違いは

 ――英王室は日本の皇室の手本と言われます。

 よく比べられますが、このように背景は全く違います。日本の天皇制は英王室以上の伝統がある一方で、中世・近世では、つまり明治になるまでは廃止されないことが不思議なほど、大きな役割を果たしたことはありませんでした。

 江戸時代では、武士のようなエリートでも「藩」に帰属しているという意識が強く、日本国民として統一した帰属意識が希薄でした。そこで、明治の政治指導者たちは、「日本国民」という意識を国内に広め、定着させるために天皇を利用したのです。「国民は天皇の子」だとして「日本人」としての意識を醸成したのです。

 敗戦後、皇室や天皇制も維持されましたが、政治の現場から完全に切り離されました。代わりに、戦後の憲法は「象徴」という役割を生きた天皇に割り振ったわけです。

 古代のある時期を別にすると、昔からはっきりとした政治的意見を示さないのが日本の天皇の特徴ではあるのですが、政治的意思から隔離された戦後は一層、思っていることを言えない、思っていることを読まれてもならない状況です。だから、「i」の「点」を打つというヘーゲル的機能も弱い。

 つまり、現代の日本人は天皇を媒介にして、単一の「国民の思想」を作っているというわけではありません。天皇は、英国の君主よりかなり不自由だと思いますね。(聞き手・星井麻紀)

 

 

エリザベス女王死去、開かれた王室に腐心

202299 5:00 (202299 5:02更新日本経済新聞

 

在位70年の記念式典に姿を見せたエリザベス女王㊥(65日、ロンドン)=ロイター

【ロンドン=中島裕介】8日、英国のエリザベス女王が96年の生涯を閉じた。70年あまりの在位中、国民への献身を誓い、「開かれた王室」の実現に心を砕き続けてきた。

「私は戦争を率いることはできませんし、法を定めたり人を裁いたりもしません。でも、他のことができます。それは私が皆さんに献身的に尽くすことです」

1957年のクリスマス。即位から5年、まだ31歳のエリザベス女王が初めてのテレビメッセージで、英連邦の市民に呼びかけた言葉だ。

エリザベス女王は生まれた時点では国王になる運命にはなかった。だが、伯父のエドワード8世が当時タブー視されていた離婚歴のある米国人との結婚を強行するため退位。体が弱かった父・ジョージ6世が予定外に国王となり、女王は突然、後継候補となった。

在位60年の記念式典に出席したエリザベス英女王㊥(2012年、ロンドン)=ロイター

2次世界大戦後の激動の世界史のほぼ全てを見守ってきた女王はこの言葉通り、晩年までひたむきにその身を女王の職務にささげた。

女王の在位期間は女性の活躍や移民の流入による多文化など、価値観の多様化が進んだ時代でもある。

1996年にチャールズ皇太子とダイアナ元妃が離婚し、翌年に「民衆のプリンセス」と慕われたダイアナさんが事故死した。この時、スコットランドで休暇中だった女王はすぐに弔意を示さず、対応が冷淡だとして世論の厳しい批判を浴びた。

この時の苦い経験から、女王は国民に身近で開かれた王室と、その近代化を目指す改革に着手する。国民との交流を活性化させ、バッキンガム宮殿を一般見学用に一部開放した。直系男子を優先していた王位承継の制度も男女平等に整えた。最近ではツイッターやインスタグラムにも公務の様子などを投稿していた。

「世間の最良の家族と同じように、私の家族はみんな少し変わっていた」。自身の家族を巡る苦労は晩年まで絶えなかった。

2020年には、王室との関係がぎくしゃくして孫のヘンリー王子とメーガン妃夫妻が王室メンバーを外れた。アフリカ系のルーツを持つメーガン妃が、息子のアーチーちゃんの肌の色を懸念する声が王室内であったと暴露し、女王は声明で「深刻に受け止め、家族でプライベートに対応する」と釈明した。

次男のアンドルー王子は女性への性的虐待の疑惑で訴追され、221月には軍の名誉職や慈善団体の役職を女王に返上した。王室メンバーとしての公的地位をほぼ全て失うこの決定には、実は女王の判断もあったといわれている。

女王は王室の信頼と威厳を守る責任を事実上、一人で背負っていた。214月に73年間、女王を支えた夫のフィリップ殿下が亡くなってからはその重圧はさらに大きくなったに違いない。

「君臨すれども統治せず」。政治に関与しない国家元首ながら、王室外交の場では巧みな機知と手腕を発揮した。

1979年、ザンビアで開かれた英連邦の会議。少数派の白人が支配していた南ローデシアへの対応をめぐり当時のサッチャー英首相がアフリカ首脳から不興を買うと、出席していた女王は各国首脳と個別に会談、彼らの話に耳を傾けた。

翌年、南ローデシアは黒人多数派政権へと平和裏な移行が実現、現在のジンバブエが誕生した。南アフリカのアパルトヘイト(人種隔離)政策撤廃でも、陰で影響力を行使したと伝わる。

激動する国内や世界の情勢にも常に気を配っていた。毎週行われる首相との会談を楽しみにし、新型コロナウイルスの感染が拡大してからも電話で話を聞いていた。

リーマン・ショック直後の200811月には経済学者らに「なぜ誰も、この危機を予測できなかったのですか」と尋ね、後日、この難問に名だたる専門家らが回答を熟考するといった逸話も残した。

純粋に国を思う情熱を持ち続けたからこそ、欧州連合(EU)離脱問題や新型コロナ危機など国の歴史的な節目での結束を訴える女王の発言に、国民は敬意を示し、耳を傾けた。

 

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