生涯弁護人 弘中惇一郎 2022.9.1.
2022.9.1. 生涯弁護人 事件ファイル 1&2
著者 弘中惇一郎 弁護士。法律事務所ヒロナカ代表。1945年山口県生まれ。広島・修道高、東大法在学中に司法試験に合格。'70年弁護士登録。クロマイ・クロロキン事件ほかの薬害訴訟、医療過誤事件、痴漢冤罪事件など弱者に寄り添う弁護活動を続ける。三浦和義事件、薬害エイズ事件、村木厚子事件、小澤一郎事件など、戦後日本の刑事訴訟史に残る数々の著名事件で無罪を勝ち取る
発行日 2021.11.30. 第1刷発行 2022.1.25. 第2刷発行
発行所 講談社
事件ファイル その1 表紙裏
「絶対有罪」の窮地から幾度となく無罪判決を勝ち取り「無罪請負人」と呼ばれる弘中は、歴史的なそれらの裁判をどのように闘ったのか? 受任の経緯から、鉄壁といわれる特捜検察の立証を突き崩した緻密な検証と巧みな法廷戦術、そして裁判の過程で繰り広げられるスリリングな人間ドラマまで、余すところなく書き尽くす
はじめに
'70年代初めは、ベトナム戦争に対する抗議活動や学園闘争が、最も高揚した時期で、新人弁護士として担当したのは、東大紛争で逮捕された学生たちの弁護。その後薬害や多数の医療過誤事件、小学生が犠牲となった交通事故死事件など、突然災厄に見舞われた人々の訴訟に奔走
‘80年代に、弁護士人生の転機の1つとなる三浦和義事件(ロス疑惑)が起きる。「凶悪犯」として報じられ、それまでの「市井の人」を手助けする弁護活動中心から、マスコミに「悪人」と糾弾される人物の弁護に関わったのは、真相を知りたいという弁護士としての純粋な興味からで、圧倒的に弱い立場の刑事被告人の弁護を通じて、社会から敵視された人、敵視されるように仕立てられた人たちの弁護活動を多く手掛けるようになる
弁護士活動の1つの区切りとして、これまで取り組んだ事件の中から特に印象深いものを取り上げ、どのように取り組んできたかを述べるのが本書
弁護士とは、国家権力と対峙して、人権抑圧されている人の側に立ち、その人の権利を擁護する役割であり、権力の側が作ろうとするシステムや法案には基本的に反対してきたが、中坊公平の率いる「整理回収機構」では、弁護士が政府と手を組んで仕事をした結果、過酷な債権回収過程で強い批判を受けるなど、弁護士の立ち位置が「在野」から「権力側」にシフトしている感じがして危機感を覚える
第1章では、国策捜査の問題を取り上げる
第2章では、ベトナム戦争に対する抗議活動と学生運動に関する刑事公安事件を取上げる
第3章では、医療被害の問題を取り上げる
第4章の三浦和義事件では、事件報道の問題と同時に現場を十分に見た上での証拠検討の問題を取り上げる
第1章
国策捜査との闘い
l 村木厚子事件――2009年受任
特捜検察によって「無実の罪」を着せられそうになった女性官僚を助け出すことができた稀有なケース
日本の刑事裁判の有罪率は99.9%といわれるが、かなりの数の冤罪の可能性があるのが大問題――「人質司法」や「調書中心主義」が「公権力による犯罪」を生む温床
事件は、障碍者郵便割引制度を悪用して大量のDMを発送し、不正な利益を得ていた団体と広告主の企業、広告代理店などの関係者が逮捕された「郵便法違反事件」が発端
'04年厚労省が発行した「心身障碍者団体であるとの証明書」により第3種郵便制度の利用が認められるが、架空の番号で偽造された証明書に厚労省の課長の公印が捺印されていた
民主党の石井一衆院議員の口利きで、村木課長が係長に指示して発行されたものと断定して、’09年虚偽有印公文書作成の罪で逮捕・起訴
村木は高知大出身で労働省入省、厚生省の勢力が強い厚労省の中で局長まで上り詰め、「女性キャリアの星」として知られた存在で、たまたま弘中夫人の部下
'05年の裁判員裁判制度の発足に伴って導入された公判前整理手続きで示された検察側の証拠には、検察のストーリーに合わせた多数の調書が提出されたが、証明書作成のフロッピーの日付が、村木が指示したとされる日付より前だったことに村木が気付く
証人尋問では、証人たちが検察調書の大半を否定。石井からの口利きで村木に指示したとされる上司の部長が「事件は壮大な虚構」とまで言い切り、石井にも完全なアリバイがあって全く関与していないことが判明
検察は検察官調書を証拠として提出したが、元の取り調べメモを全員が同じ日に一斉に廃棄していたことから、提出した43通のうち34通は「信用性がない」として却下される失態
最終弁論の前に大勢は決着していた
判決直後に、検察庁内でのフロッピー改竄の噂を嗅ぎつけた朝日新聞がスクープ、大阪地検は関係者を処分し、上訴権を放棄。真実を求めて提訴した民事訴訟でも国は請求を認諾(原告の請求を認めて争わないこと)、マスコミへのリークの嫌疑も漏洩の事実関係の特定が困難として却下
逆に検察側は、取り調べの可視化を義務付ける改正刑訴法では、対象を裁判員裁判対象事件(殺人・放火など)と検察の独自操作事件に限定したため、その他の案件では従来通りの手法が認められることになり、改革どころか焼け太り
l 小澤一郎事件――2011年受任
国策捜査とは、検察がある政治的意図に基づいて行う捜査。恣意的な法律の適用や権力濫用的な捜査を招きやすく、冤罪の温床となり得る
‘07年の参院選で自民党が歴史的惨敗を喫し、’09年には民主党の政党支持率が自民党を上回り、政権交代が視野に入る。民主党が検察の改革を政策に取り上げたことから検察が動き、小澤の公設秘書を政治資金規正法違反で逮捕(西松建設事件)、小澤は民主党代表を辞任。追い打ちをかけるように翌年元秘書の石川知裕ら3人が別件の政治資金規正法で逮捕(陸山会事件)。最終的に検察上層部は不起訴としたが、現場は収まらず、市民団体を動かして検察審査会に申し立てをして強制起訴へ
小澤事務所所属の秘書寮建設のための資金4億円を小澤個人が出したが、その経理処理をめぐる解釈の問題にも拘らず、ゼネコンを舞台とした大掛かりな疑獄事件を狙った
どう考えても「民主党潰し」であり「小澤潰し」で、控訴棄却されるべきもの
4億円を公共事業の口利きで地元業者からもらった賄賂や闇献金に結び付けようというのが特捜部の思惑で、100人もの検事を集めた大部隊で捜査をしたが、結局見つからないどころか、あたかも小澤が共謀しているかのような会話があったと調書を捏造、それをもとに検察審査会は強制起訴と判断している
‘10年の民主党代表選で小澤は菅直人に敗れると、民主党は「脱小澤路線」を加速させ、判決確定まで党員資格停止処分を課し、検察は対小澤戦争では完敗だったが、民主党が片棒を担いでくれたお陰で「小澤失脚」という当初の目的は達成
特捜検事による捜査報告書虚偽記載問題は、判決でも裁判長が「検察審査会の判断を誤らせるようなことはあってはならない」と厳しく批判したが、最高検察庁は市民団体から有印公文書偽造の嫌疑で刑事告発を受け当該検事を取り調べたが、「本人の記憶違いによる間違い」として不起訴処分になり、本人は減給の懲戒処分を受けて辞職
マスコミは、一貫して一大疑獄事件のように報じたのは、検察が自分たちのストーリーに沿った情報をリークしたからで、バッシングのターゲットとされた
l 鈴木宗男事件――2004年受任
鈴木は’83年の当選、追加公認以降内閣官房副長官・党総務局長と出世コースの王道を歩み、政務次官時代に外務省に深く食い込み、政界きってのロシア通として知られたが、'02年ロシア・北方領土・アフリカ諸国を舞台にした収賄事件など4件で逮捕・起訴され、‘10年上告棄却で実刑が確定、5年の公民権停止となる
控訴審から弁護人となり、東京地裁に再審請求をしたが却下、即時抗告で高裁の判断待ち
特捜事件特有の強引な捜査を始め、特捜検察・政治家・官僚・マスコミの4社による「疑惑」の捏造、収賄事件の冤罪立証の難しさ、一審弁護をあり方、検察による「シナリオ尋問」など、村木事件にも共通する多くの問題を内包
発端は、田中真紀子の応援で首相になった小泉が、外務省内で軋轢を起こす真紀子を外相から降ろすために鈴木を悪役に仕立てた’02年のNGO排除疑惑で、排除の圧力をかけたかけないでムネオ真紀子戦争の構図を作り上げ、喧嘩両成敗で真紀子を外相から降ろし、さらに従来の党内の王道を行く鈴木も煙たい存在として小泉による排除の対象となり、国策捜査によってムネオハウスなど数々の疑惑が暴露され、最初は秘書が、続いて外務省の佐藤優が微罪で逮捕され、鈴木との繋がりを自白するよう強要
検察は政権の鈴木排除の意図を忖度して国策捜査に着手したが、結局やまりんと島田という賄賂収受を立件するが、何れも政治資金規正法に準じて正規に処理
1. やまりん事件――'98年国有林の盗伐で行政処分を受けたやまりんが、処分解除の目的で官房副長官に就任したばかりの鈴木に400万円の政治献金を行い口添えを依頼したが、林野庁出身の松岡利勝代議士が間にはいってやまりんの減収を一部回復させる形で話し合いがついていたのに、4年も経ってから斡旋収賄容疑で逮捕
検察が、弁護士と被疑者との信頼関係を潰すために、違法とされている事務所へのガサ入れをちらつかせて弁護士を脅すことが公然と行われている
2. 島田建設事件――’98年島田建設が受注した網走の港湾工事に関連した受託収賄事件でも、'02年になって当時北海道開発庁長官だった鈴木を逮捕。官製談合が常態化しており賄賂は不自然なだけでなく、鈴木側も適正に政治資金として処理していた
ただ、収賄事件では筋書きは容易にでっち上げられる一方、冤罪立証は難しい
3. 議院証言法違反――'02年の国会答弁の一部が検察から偽証として告発され、予算委員会も法務当局に照会しただけで、国会自身が調査もせずに検察の説明を鵜吞みにした
‘12年上記1,2について東京地裁に再審請求――特捜事件の再審請求は史上初。それぞれの事件の検察側の証人を損害賠償の民事訴訟で偽証と認められることを狙ったが何れも敗訴したものの、「尋問シナリオ」の存在が露見したため請求に踏み切る。裁判所を通じて検察に開示を求めるといくつかのシナリオが出てきたが、’19年地裁に却下され即時抗告中
鈴木の逮捕の時期については、直前に大阪高検の公安部長三井環が検察幹部による巨額裏金事件を告発すると発言した直後に大阪地検が三井を逮捕、その2か月後に鈴木が逮捕されている。裏金に関し検察がマスコミの激しい批判に晒されるのを回避するために、鈴木の逮捕を急いだ節が見られる
上告棄却の判決の時期についても、村木判決の直前であり、村木の無罪判決によって特捜神話が崩れ、国策捜査への疑念が高まるのを恐れた裁判所が早目に結論を出したのかも
国策捜査は時代とのかかわりの中でなされる。戦後史の表面だけを辿っても、アメリカと距離を置こうとした政治家、中国・北朝鮮・ロシアに近づこうとした政治家は、相次いで摘発――石橋湛山、鳩山一郎、田中角栄、金丸信、加藤紘一、鳩山由紀夫など
鈴木や小澤が国策捜査の標的にされた背景としてアメリカの圧力を指摘する声もある
第2章
政治の季節
l マクリーン事件――1970年受任
'68年パリのカルチェ・ラタンで大学生が教育政策への不満から暴動を起こし、フランス全土で労働者や市民による反政府運動に発展したのが日本にも飛び火、学園紛争が瞬く間に全国に広がる。アメリカではベトナム戦争に反対する市民運動が学生運動と結びついて世界的な広がりを見せる
本件は、在日米国人英語教師のマクリーンが、日本での反戦活動等の表現行為が政治活動に該当するとして在留期間更新を拒否された事件で、最高裁大法廷は全員一致で上告を棄却、在留期間更新について法務大臣に大幅な裁量許可を認めたとんでもない判決だが、日本に在留する外国人に対しても日本国憲法による基本的人権を保障することが最高裁大法廷として初めて確立した画期的な判決と位置付けられている
'69年独身で来日、英語教師としての在留資格を得たマクリーンは、外人ベ平連に参加して反戦運動に取り組む。1年目の更新に際し、入管は出国準備の3か月に限って延長を認めたため、助けを求めてきたもの。弁護士になったばかりの友人同士2人で受任
地裁は在留期間更新不許可処分の効力の停止を決定したため、法務省は即時抗告をして、その理由を反戦活動や政治活動をしたからだと開示、さらに強制退去命令を出しても仮放免して自由な活動を認めるとしたので、裁判所も効力停止を取り消して、強制送還の執行停止の決定を下した
地裁には不許可処分の取り消しを求める行政訴訟も提起しており、表現の自由は在留外国人にも保障があるとして、処分は法務大臣の裁量の範囲を超えるとして取り消しを認める
控訴審では国が行政処分の裁量性を焦点として争い、入管業務の特殊性から裁量権が広く認められ、更新を認めるに足りる相当の理由あると判断する場合に限り更新が受けられるとして逆転敗訴となる。上告審でも、基本的人権は保障されるが、外国人の在留する権利までを保障するものではなく、国の裁量を拘束するものではないとして棄却
判決の42年後になって、元最高裁判事の泉徳治弁護士が、大法廷判決は「外国人に対する憲法の基本的人権の保障は、外国人在留制度の枠内で与えられているにすぎ」ないとしているが、これでは「法務大臣は憲法の拘束を受けずに在留に関する処分を行うことができる」と判示することになり、「明らかに誤りである」と断じている
にも拘らず、大法廷判決は法律と同様の効果があり、判決が認めた入管行政における広範な裁量権を理由にして、在留資格の解釈や在留期間の更新、在留資格の変更など、あらゆる面で恣意的あるいは不合理な運用が罷り通っている
国は、害コック人労働者の受け入れ拡大、外国人との共生を高らかに書かgる一方で、外国人の人権を守るどころか入管制度をより厳格化し、収容されている外国人を「犯罪者」として処罰しようとして入管法改正を試みたが、スリランカ人女性が施設内で亡くなったことから一時的に法改正を見送っている
1971年には反戦芸術家組織「自由劇団」の一員として来日したジェーン・フォンダの入国を一旦拒否したが、アメリカの施政権下にあった沖縄に行くまでの3日間に限り滞在許可を与えている
l 刑事公安事件――1969~1980年
1. 東大裁判――'68年の安田講堂占拠、機動隊による排除、無期限スト突入、全学封鎖、翌年初安田砦陥落、抵抗して逮捕された学生約700人のうち起訴されたのは465人
統一公判を巡り弁護団が裁判所に激しく抵抗、一部始まった公判でも騒いだり裁判官忌避を申し立てたり混乱を極めた
分離公判を認めた被告85人に新たな弁護団が結成され、’70年裁判開始
被告たちは無罪を勝ち取る気など最初からなく、学園紛争に至った背景事情を糾弾するのが主目的で、助教授を素人弁護人として裁判所に認めさせ、加藤一郎総長や坂田文相、秦野警視総監などを尋問に呼び出す
著者が担当した医学部グループなどは’72年執行猶予付きの判決が出て控訴はせず
2. 大菩薩峠事件――東大裁判の公判グループにいた赤軍派学生からの依頼で弁護
‘69年赤軍派学生53人が年末予定の佐藤首相訪米阻止を目的に大菩薩峠で武闘訓練していたところ全員逮捕、未成年者を除く34人が起訴、’70年公判開始
幹部16人を一括して弁護
争点の1つが爆発物取締罰則の合憲性で、元々法律ではなく太政官布告として1884年公布されたもので、封建時代の遺物として違憲・無効と主張したが、判例により却下
全員が有罪(うち9人が執行猶予付き)とされ、打撃を受けた赤軍派は海外にも運動拠点と同盟軍を持つべきという国際根拠地論を唱え、'70年よど号ハイジャック事件を起こす。日本に残った者は共産党と合流して「連合赤軍」を形成し、’72年あさま山荘事件を起こす
法廷が荒れて全員退廷を命じた訴訟指揮を被告が批判したり、被告の意見陳述を2度も認めたり、被告の仲間の非業の死に対し被告全員が黙祷をしたり、司法界もおおらか
3. 明治公園爆弾事件・米子銀行強盗事件――'71年明治公園での沖縄返還協定への抗議集会で機動隊との揉み合いに爆弾が投げ込まれ、翌月松江相互銀行米子支店では強盗事件発生、共通の犯人として赤軍派学生が逮捕され弁護
警察は、明治公園の事件では証拠不十分で不起訴となったため、米子の事件で仇を取ろうとして、明治公園事件の新たな証拠を探して再逮捕、一括起訴に持ち込む
争点の1つは、「職務質問に付随して行う所持品検査の許容限度」で、承諾のない職質は違法であり、違法に収集した証拠に基づく逮捕も違法と主張したが却下、最高裁でも捜索に至らない程度の行為は、具体的な状況により許容される場合があるとされた
第3章
医療被害と向き合う
第1章
クロマイ・クロロキン薬害事件――訴訟提起:1975年
高度経済成長期には公害や薬害による健康被害が深刻な社会問題となり、4大公害訴訟、サリドマイド訴訟、スモン訴訟など、企業や国の責任を問う訴訟が次々に提起された
薬害訴訟は、同様の被害が広範囲で同時に発生するため、集団訴訟となることが多く、地域の限定性がないので、全国あるいは全世界で被害が発生し、投与した医師・病院よりも、製造した製薬会社や国に大きな責任があるのが一般的
1. クロマイ薬害事件――抗生物質クロロマイセチンによる再生不良貧血を発症した被害者5家族が、国や製薬会社、医師を提訴した事件
1949年アメリカで発疹チフスの薬として開発されたが、再生不良性貧血による死亡例や血液障碍が報告されたため、FDAは効能書への警告記載を義務付けるとともに軽い疾病への使用を規制。日本では万能薬のように扱われ、軽症でも投与する医師が多い
幼い頃からクロマイを投与されていた8歳の女児が‘73年再生不良貧血で死亡したが、母親がクロマイが発病原因になるとの噂を根拠に娘の病歴を調査し、原因究明に動く
‘75年クロマイの危険性を放置した国と、製造販売元の三共・日本化薬を相手取って地裁に提訴。アメリカでは有害作用が定説になっていてFDAも使用範囲を制限した歴史的事実もあったが、被告側の抵抗は強く、決着まで14年を要した
最大の難関は因果関係の証明で、厚生省はすでにクロマイ原因説を否定するための研究班をいくつも立ち上げていたので、弁護側の証人に立つ医師が限られていた
世界的な権威に嘱託尋問にも参加してもらいアメリカの裁判所で証言
‘87年和解勧告で、後から訴訟参加した4家族は応じたが、原告は拒否、最後は原告提訴の理由を和解調書に書き加えることを条件に三共が2200万円支払って和解成立
提訴直後に厚生省はクロマイの使用を腸チフスなど特定疾患に制限したためクロマイの生産量は一緒にゼロ近くになる。裁判は三共の責任を認める形で終結
2. クロロキン薬害事件――'75年腎炎などの治療でクロロキン製剤を投与された視力視野障碍を発症した被害者が国、製薬会社、医師を提訴。1審勝訴後20年の長期戦に
クロロキンは’34年ドイツでマラリア薬として合成されたが毒性が強いとして実用化を断念。戦後適応が拡大、'61年小野薬品が慢性腎炎の特効薬として大量販売を開始、世界で日本だけ承認だが、国民健康保険制度の確立期と重なって、爆発的に売れる
‘62年初めてクロロキン網膜症が報告される。クロロキンと網膜の親和性が高く、視野狭窄から失明に至るもので、治療法はなく、服用をやめても進行は止められない
アメリカではクロロキンの有害性が1940年代から報告され、FDAも効能書にクロロキン網膜症の副作用記載を義務付け。日本では’69年末にようやく副作用記載を指示
'72年被害者の会結成、製薬4社と自主交渉を開始したが、3年で結論は出ず提訴へ
第1次訴訟の原告は被害者71名、全国統一訴訟。厚生省も製薬会社もリスクを認識していたことが明らかになってきたので、故意による制裁的慰謝料を適用
厚生省で医薬品の製造許可を与える権限と安全性を守る義務を併せ持つ製薬課長豊田勤治が、製薬会社の役員から副作用ありと聞いて服用をやめたと証言したことから、別途傷害罪でも刑事告訴したが、’84年不起訴処分になり、検察審査会も未必の故意を認め不起訴不当としたが、検察は再度不起訴とし、豊田は製薬業界団体に天下り
'82年被害者全員が勝訴したが、故意と制裁的慰謝料、インフレ算入逸失利益は却下
原告・被告とも控訴、裁判長は直接傍聴席の原告に向かって和解を呼びかけたが、誰1人応ぜず、判決は微調整したのみだったため、製薬会社とは裁判外の和解で被害者に賠償金を配布した後、国と医師を相手取って純粋な理論闘争として上告したが敗訴
第2章
医療過誤事件――1969~92年
専門的かつ高度な医学知識や知見が必要なため、裁判に決着がつくまでに時間がかかるうえ、和解が5割以上で判決が約3割、うち原告の勝訴率は17%、和解金0もある
裁判所に認めてもらってカルテの証拠保全が必須だったが、今は患者に閲覧権がある
東大病院の若い医師らが中心になって、医療事故問題への取り組みが始まり、そこに弁護士として加わる形で関与
1.
出血多量による産婦死亡事件――裁判開始:1969年
'67年都立病院で出産後妊婦が出血多量で死亡した事件。医師が説明を拒んで逃げたため、夫が提訴し、1審は勝訴、控訴審から受任したが逆転敗訴、上告も棄却
1審では弛緩性出血と見做され適切な処置を取らなかった医師の過失を認めたが、控訴審では医師側が新たに血液凝固症候群という直近にアメリカで初めて系統だって報告された病名を上げてきて、医師には知見も経験もなく、不可抗力だったとされた
最新の医学的知見が争点になると、裁判官には判断のしようがなく、結果的に専門知識が豊富な医師・病院側の主張を容認する傾向が強い
2.
異型輸血死亡事件――裁判開始:1995年
‘90年名古屋の自衛隊式典に参加中の大物衆院議員(丹羽兵助)が刺殺された事件。搬送された病院が家族の告げた血液型を鵜呑みにして異なる血液型を輸血した後で、間違いが発覚したが手遅れで死亡
‘95年輸血した2病院と犯人を外出させた精神病院を被告として提訴
異型輸血は、患者に適正な治療を施さなかったという病院側の債務不履行で、損害賠償請求(時効10年)に対しては、輸血と死亡の因果関係が不明とし、一方、精神病院の場合は不法行為になるので、賠償請求の時効(3年)が既に成立しているとされ、和解で決着したが、遺族は長男が弔い合戦で敗れた上に、公職選挙法違反問題もあって散々
3.
本人の同意なき子宮摘出事件――裁判開始:1988年
‘87年左卵巣嚢(のう)腫と診断され手術を応諾、開腹すると嚢腫ではなく筋腫と判明、執刀医は全摘を決め、手術室に夫を呼んで「このままでは危ない」として承諾を求め、手術を進めたが、術後知らされた妻は激しく動揺、提訴に踏み切る
争点は、インフォームド・コンセント('97年導入)が十全に行われていたかどうかで、1審は手術中断は危険で、筋腫の症状は予断を許さない状況であり、家族への説明と承諾で足りるとして原告敗訴となったが、控訴審では産婦人科医の協力を得て内診で容易に鑑別できること、診断や手術前手順にミスがあること、子宮温存が可能であったことを立証できたことから原告も満足できる和解に持ち込む
4.
腹膜炎の見逃しによる死亡事件――裁判開始:1987年
'84年虫垂炎と診断された沖縄の高校生が、手術で重症の急性腸炎の疑い濃厚と診断したが、激しい苦痛を訴えても、手術の後遺症と判断し、それ以上の手当てをせず。さらに腹膜炎を発症、敗血症によるショックを起こし激痛のうちに8日後に死亡
病院が示談に応じなかったので提訴。病院側は毎朝外科医全員で総回診するといいながら、証言が相互に食い違う
‘92年の判決では、開腹手術の時期を遅延した病院側の過失を認め、原告の完全勝訴
医療過誤事件の裁判は専門性が高く審理が長期化するところから、裁判所もスピーディーな訴訟処理に舵を切り、2001年に医事関係訴訟委員会が設置され、学会に鑑定人の推薦を依頼し裁判所に紹介する活動を始めたこともあって、ほとんどの場合、最高裁が選定した複数の鑑定人の討議により、迅速かつ事務的に鑑定が行われるようになっている
ただ、学会が推薦した医師だけに、被害者側に有利な鑑定が出にくくなっているようだ
1980年には医薬品副作用被害救済制度によって医療費などの救済金が支給される公的制度創設
2009年には産科医療補償制度により、分娩時の医療事故に対する一種の保険制度が発足
米国の医療法協会が1986年から主催する「医療の法と倫理の国際学会」は有意義
第4章
「悪人」を弁護する
第3章
三浦和義事件――1987年受任
‘81年ロスで日本人夫婦が銃撃され妻が死亡する事故で、夫の保険金目当ての殺人事件としてマスコミの報道が過熱。夫は殺人未遂(殴打事件)と殺人(銃撃事件)で逮捕・起訴され、前者は最高裁まで争ったが有罪、銃撃事件は控訴審で逆転無罪
銃撃を受け妻は1年後に死亡、三浦も大腿部に重傷を負ったが、'84年初になって『週刊文春』が「疑惑の銃弾」として7週連続で掲載、劇場型事件を主導、三浦を大衆の嫉妬を掻き立てずにはおかない存在として取り上げ続ける
‘86年9月過熱報道に後押しされる形で警視庁は三浦を逮捕、警視庁前に詰め掛けた報道陣を前で国民に三浦を晒し者にした→後に人権侵害として弁護士会から警告書を出す
‘87年事前の殴打事件で起訴され有罪。三浦の父親が自由人権協会に報道過熱による人権侵害を訴えてきて著者も控訴審から訴訟に参加
1. 「殴打事件」裁判――刑事弁護の正攻法は「現場百編」。別件逮捕だったが、現場の状況から検察の論拠を崩したにも拘らず、控訴は棄却。上告も棄却され実刑が確定
後に陪席裁判官が本裁判での問題点を語った中で、裁判長が「マスコミがこれだけ騒いでいるのに無罪にするわけにはいかない」と大真面目で考え、それを判決に反映させたと証言、こういう考えの裁判官がいることは否定できないと言っている
2. 「銃撃事件」裁判――’88年殺人容疑で逮捕・起訴したが、立件できるだけの証拠に事欠いて「一罪一勾留の原則」を無視して殺人と保険金詐欺に分けて勾留
検察は大勢の証人を尋問したが、決定的な証言は皆無
争点の1つは、殺人の動機と保険金の使途にあったが、動機とされた会社の資金難は全くデタラメ、保険金も特別異常な掛け方はしていないし、実行犯とされる部下に払った事実もなく、最終的にはマスコミ報道によって倒産に追い込まれた会社の債務返済に充当している
もう1つの争点が、白いバンが犯行に使われたのか、バンからの射撃可能性だったが、写真には写っていたが、何時から何時まで現場にいたかは不明、バンの影から蹲って銃撃したという検察の主張も妻のレントゲン写真と矛盾
銃撃したという部下のアリバイも成立
にも拘らず、1審判決は部下を無罪としたが、三浦は氏名不詳の第3者と共謀して殺害しようとしたとして無期懲役。判決自体論理が破綻してる
'98年の控訴審判決では、裁判長がマスコミ先行型の特殊な事件と位置付け犯罪報道の問題点を正面から指摘、誰も主張していない「氏名不詳の第3者と共謀した」と判定したのは訴因変更で違法とするとともに、被告側立証を全面的に認めて逆転無罪
史上初の日米合同捜査実施で、日本の警察は面子にかけても犯人を上げなければならないという気負いが、強引な逮捕・起訴の要因となったことは否定できない
三浦は獄中から530件の名誉棄損の民事訴訟を大半は自力で起こし、8割勝訴したことは、メディアによる名誉棄損やプライバシー侵害に関しある程度抑制する効果があったといえる
2008年三浦がサイパンでアメリカの警察に妻の殺人罪と共謀罪で逮捕、町村官房長官は「日本で無罪でも捜査協力はできないことはない」と捜査に前向きな姿勢を見せる
日本で無罪が確定している人間を逮捕するのは一事不再理にも二重処罰禁止にも違背するにも拘らず、政府も検察も抗議に動かず、挙句が官房長官の発言
ロス警察のアジア捜査班でのジミー佐古田が功を焦って三浦事件を上げようとし逮捕状まで取ったが日本に引き渡され、'07年日米間の捜査協力が認められて旭日小綬章を受章したが、何とか釣り上げる寸前で逃した魚を取り返そうと狙っていた
ロスに移送された直後の独房内で三浦首吊り自殺
メディアの印象操作に、大衆ならずも捜査当局から裁判官、さらには政権までが惑わされ続けた事件。三浦も子役時代の経験もあってメディアの注文に乗りやすい性格だったことも災いして、メディアに人生を弄ばれたともいえる
妻のこと
法律相談所の1年後輩。司法研修所で暇にしていた時、学園紛争で授業がなくて暇だった妻と急速に親しくなり、「何のために東大に入ったかよくわからない」もの同士結婚。
ピアノに打ち込んでいたが限界を感じて東大に入ったが、姉が東大に入ったことに影響されたようだ
彼女の姉が東大在学中に米国留学したことに影響されて、労働省入省後に30歳のとき自力でロンドン大学に留学
2007年頃から体調を崩し、’08年8月死去
事件ファイル その2 表紙裏
ゴーン、安部英、野村沙知代・・・・・マスコミを騒がせた著名人たちは本当に罪を犯したのか。「悪人」に仕立てられた彼らの意外な素顔と事件の真相。「絶対有罪」の窮地から幾度となく無罪判決を勝ち取り、「無罪請負人」と呼ばれる弘中惇一郎弁護士が公開する迫真の事件簿。マスコミと刑事司法が作り出した虚構のストーリーの裏に隠された、知られざる物語にあなたはきっと驚愕する
はじめに
'19年末前日産自動車会長のゴーンの国外逃亡事件発生。役員報酬関連で計4回逮捕・起訴されたが、3度目の逮捕の後弁護を受任
ゴーン事件の本質は日本では公正な裁判が受けられない点にあることを忘れてはならない
「人質司法」として世界中から批判されると同時に、東京地検特捜部のやり方は、司法取引制度を悪用しての日産幹部の抱き込み、ゴーンを悪人に仕立て上げるためのメディアへのリーク、証拠開示の妨害と露骨な裁判の引き延ばし、長期にわたり妻との接触を禁じる非人道的な扱いなど、海外ではそれ自体が違法とされるような問題ばかり
被告人が検察とマスコミによって「悪人」に仕立てられる構図は、三浦もゴーンも同じで、冤罪の被害者であり、係争中のIR汚職事件も同じ
日本の刑事手続きには、先進国の司法とはとても言えないような問題点が多々存在
取り調べに弁護士の立ち合いが認められない、高圧的な取り調べや誘導により、被告人にとって不利な調書を一方的に取られる、否認・黙秘すると「罪証隠滅の恐れ」を理由に長期勾留、検察の証拠閲覧が認められないし、検察は有罪を立証するための証拠しか開示しない、などなど日本の刑事裁判や捜査の現状は、被疑者・被告人にとって極めてアンフェア
国民の異分子排除の願望とも関係し、警察や検察はその願望を背景に現状を正当化する
被疑者・被告人にとってのアンフェアな司法制度からは冤罪が生まれやすい
刑事手続きにおいて最も重視されなければならない格言は、「10人の真犯人を逃すとも、1人の無辜を罰するなかれ
第1章は、安部英医師薬害エイズ事件――1990年代世界中で薬害エイズ問題が起こったが、1臨床医の刑事責任を問題として糾弾したのは日本だけ
第2章は、下館タイ女性殺人事件と2件の小学生交通事故死事件――弱者救済は弁護士に与えられた大きなテーマ
第3章は、野村沙知代や中森明菜ら芸能人の人権侵害事件と雇用契約を巡る紛争事件――表現の自由を守るためにメディア側に立って弁護活動を行う
第4章は、警察官による暴行事件と痴漢冤罪事件――誰もが当事者となり得る事件
第5章は、ゴーン事件――保釈獲得やメディア対応、事務所への違法な家宅捜索も詳述
弁護活動における基本は、予断や偏見を持たずに依頼人の話をよく聞き、何を望んでいるのかを探ること
第1章
報道が作り出す犯罪
l 安部英医師薬害エイズ事件――1996年受任
被害者と捜査権力、マスメディアが1本の線で結ばれるようになった時、人権にとって極めて危険な状況になる
感情が先行する被害者と、強大な捜査権力が同じ方向に向き、マスコミが煽ると、社会に冷静な空気が保たれにくくなり、理性や論理ではなく非合理な感情に多くの国民が支配され、「犯人探し」や「犯人づくり」をし始める
薬害エイズ事件における安部英医師に対する追及はその典型
非加熱濃縮血液凝固因子製剤(濃縮製剤)の投与により、血友病患者がHIVに感染し、やがてエイズを発症して死亡する出来事が、国民を大きな不安に陥れた
特捜部がターゲットにするのは、大衆が憧れと共に嫉妬を覚える人々で、彼らをやり玉に挙げるストーリーを大衆は喜ぶ
本件は、帝京大病院で非加熱血液製剤の投与を受けた血友病患者が、その製剤がHIVに汚染されていたために、エイズを発症し死亡したとして、大学の副学長で内科科長だった安部医師が適切な治療方針を樹立しなかった業務上過失致死罪に問われた事案
濃縮製剤は血友病患者にとって福音だったが、大勢の人の血液を混ぜて濃縮するため汚染されやすく、一方でエイズは潜伏期間が長いことから気付いた時にはアメリカで作られた濃縮製剤が世界中の血友病患者にHIV感染を広げていた
日本でエイズパニックが起きたのは1980年代後半――’86年エイズのフィリピン女性が松本市内で売春をしていたことが報道され大騒ぎに発展、以降各地で感染者が露見
‘89年被害者が国と製薬会社5社に対して損害賠償の集団訴訟を提起。’96年には橋本内閣の菅直人厚生相が国の責任を認めて謝罪、訴訟は相次いで和解に至るが、犯人捜しは続き、’96年死亡した被害者の遺族が元帝京大の安部英医師を告訴し、安部は逮捕・起訴
致死の危険性の認識や故意がないところから、殺人には問えず、業務上過失致死となった
帝京大教授だった研修所時代の恩師の依頼で、同郷のよしみもあり、「殺人罪」で起訴されたことに違和感を覚え、殺人罪の要件が皆無であるところから、検察も上申書を出せば事件にならないと明言していたが、菅が大臣就任後厚生省では'83年に安部を班長とするエイズ研究班が危険性を認識していたとの記録を探し出し、国の非を認めてしまう。実際は議論すらしていない班員たちのメモだったが、被害者と検察とマスメディアが一体となって「犯人づくり」が進み、安部の国会証人喚問となり集中砲火を浴びた上にメディアの安部叩きが加速したため、急先鋒だった櫻井よしこ、毎日新聞、安田行雄弁護士に対し名誉棄損で提訴
薬害の被告側の弁護に立ったため、20年続いたクロロキン全国統一訴訟の弁護団からは辞任を求められ、刑事事件の冤罪の弁護であり、精神は同じで薬害撲滅に資すると反論したが受け入れられず辞任
‘96年検察は業務上過失致死で逮捕・起訴。心臓に持病のある安部は勾留中に入院
争点の核心は予見可能性――当時の医療水準や知識でどこまで危険性を知り得たかが問題となったが、後任教授が自らに嫌疑がかかると検察に脅され、検察のシナリオ尋問に嵌められた。また、当時の知見ではエイズ抗体検査で陽性が出てもそれが何を意味するのかすら分かっていなかったし、安部叩きが始まったのを見て豹変する専門家証人もいた
裁判に大きな影響を与えた証拠の1つが仏人女性でエイズ発見者の共同研究者(‘08年ノーベル賞)の証言で、事件当時抗体陽性の意味も含め誰も明確な危険性の認識はなかったというものだったが、これは並行して行われていた元厚生省官僚・松村の法廷のもので、検察は安部の裁判では開示どころか嘱託尋問したことすら隠していたことが判明
‘01年の判決では予見可能性はなく、リスクとベネフィットを比較衡量して無罪
裁判長が東大医学部出身ということもあって実態を十分理解した名判決
民事裁判では、判決書の原本に基づいて判決を宣告するが、刑事裁判では判決書なしで判決骨子だけで判決を宣告し、判決の後推敲に時間をかけて判決書を作成
薬害エイズ問題をめぐる対応には、日米で大きな違い――アメリカでは事実と真摯に向き合い科学的に究明し、公的資金も投じて刑事責任不問を前提に情報を集め原因を徹底的に調査したが、日本では政治家の人気取りに利用され、ヒステリックな報道が続いただけ
菅は「とんでもない判決」とコメントしたが、無罪判決で実質的に批判されているのは菅
検察は直ちに控訴したが、公判途中で安部のアルツハイマー症状が急激に進行、公判停止を決定し、翌’05年死去、享年88。松村の裁判も本件絡みでは1,2審とも無罪で確定
ミドリ十字が有罪となったのは、加熱製剤が承認された後も非加熱製剤の出荷を続けていたためで、松村もこの件では非加熱製剤の回収命令を出さなかったとして有罪とされた
メディアが作り出した「安部=悪人」のイメージは彼の死後でさえ残り、弁護団として安部の無罪と裁判の意味を本にして出そうとしたが、出版社がなかなか見つからず、言論の自由の敵は権力者とは限らないことを痛感
名誉棄損訴訟は新潮社に対してのみ勝訴、毎日新聞と櫻井よしこに対しては1審で敗訴、2審で勝訴、最高裁で敗訴。一貫して「記述内容は真実ではないが、真実と誤信したことに過失があるとはいえない」(真実相当性)として却下された
法廷では、1審で傍聴人が安部に殴り掛かる事件が起きたり、被告人尋問の日に安部の病状が悪化し緊急入院となり、裁判所が被告人質問の不実施に踏み切った
1審判決での無罪が決定的になったことから、次の問題は法廷から安部を安全に連れ戻す算段で、助っ人になったのが三浦和義、報道陣の車による追跡を妨害してくれた
第2章
弱者と共に
l 下館タイ女性殺人事件――1991年受任
1991年茨木県下館市のタイ人ホステス3人が監視役のタイ人女性を殺害し金品を奪った強盗殺人事件
国際人身売買の被害者は昔から日本に存在、フィリピン人が多かったが、’90年代にはタイ人が急増。’93年現在約7万人のタイ人被害者がいるとされた
3人とも’91年日本に連れてこられ、身に覚えのない借金の返済のために監視付きで拘束されパスポートを取り上げられ毎日売春を強要された
監視のタイ人女性が寝ている隙に3人が共謀して殺害、パスポートと金品を奪って逃走したが、すぐに発覚して、ホテルにいるところを令状もなく通訳もなしで逮捕
国際人身売買の救済活動をする「女性の家HELP」に持ち込まれた事件で、被害者を「支える会」が立ち上がり、弁護団が結成され、声が掛かってきたもの
争点の第1は捜査段階での通訳人の能力、適性と供述調書の任意性・信用性――警察側の通訳は日本語の話せるタイ人のアルバイトで、雇用主に好意的な通訳をするが、裁判所は大筋で違っていなければいいとし、供述調書の任意性を認め信用できるとした
第2は「強盗殺人」か、それとも「殺人及び窃盗」か――両者では量刑が全く違う。最初から金品を奪う意図はないし、パスポートの財物性に疑義があるが、裁判所はパスポート以上のものが入ったバッグを奪ったとして検察の主張通り強盗殺人を適用
第3は正当防衛か、少なくとも過剰防衛ではないか――「急迫不正の侵害」があれば正当防衛が認められるし、認められないとしても過剰防衛なら刑が軽減されるが、寝込みを襲ったのは急迫不正の侵害がなかったと判断
第4は警察の捜査は違法か適法か――令状なき捜査は違法であり、違法な手段によって収集されたものは証拠能力がないし、違法に連行されたと弁護したが却下
第5は量刑――犯情や情状を勘案し、類似事例との比較をした上で決定されなければならず、心身とも抑圧された状況下での犯罪であり、人身売買組織や売春に関連した店などは処罰されていないことを勘案すべきだが、判決では情状の一部が考慮されただけ
検察側は、国際人身売買の実態を無視し、外国人不法就労者による犯罪と決めつけ、「売春目的で来日し、利得を売るために計画的に同胞を斬殺した」として無期懲役を求刑をしたが、情状酌量で10年に軽減。メディアは温情判決としたが、弁護側の主張は全面排斥
控訴審判決でも、弁護側の主張はほとんど排斥、特に通訳の重要性を全く無視、捜査手続きにおける被疑者の人権保護の重要性への配慮を全く欠いており、判決でも量刑不当のみを取り上げ、8年に短縮した
上告理由に乏しく、保釈の可能性もないので、上告は断念、検察も上告せず刑が確定
1年ほど服役し、強制送還でタイに帰されたのがせめてもの救い
「支える会」は、3人を転売してきたブローカーと共に雇用主のスナック経営者を刑事告訴しようとしたが知見や県警の反応は鈍く不調に終わり、労働基準法に定められた最低賃金の直接支払い原則に基づきスナック経営者に対する民事訴訟を起こし、被告側が主張を放棄して勝訴したものの、判決時点ではスナックの経営者は雲隠れして金はとれず仕舞い
当時同種の刑事事件は各地で頻発、「支える会」の活動が他の事件での支援活動のモデルとなったが、人身売買の根っこのところは依然として手が付けられないままに放置
l 小学生交通事故死事件
1. 中野区スクールゾーン交通事故死事件――1978年受任
‘77年登校中の小学生の列に東京都の清掃車が突っ込んで小学生が即死
事故のあった上鷺宮5丁目の区道は公安委員会指定のスクールゾーンで車両の通行は禁止
清掃車は除外指定車だが、当時は目的外通行、尚且つ徐行運転の義務違反
刑事告訴が先行、著者の弁護した民事が後を追う。被告ががんで死亡したため刑事事件は控訴棄却
急増する交通事故に、東京地裁民事部では処理基準を作成し個別事情を勘案せずに機械的な処理をするとともに、極力和解で処理するようになっていた
機械的な処理を回避するため、東京都や中野区も被告とし、運転手の雇用者と共に裁判に巻き込み、行政の無責任さが事故を誘発したということを立証しようとした
‘82年地裁判決では、我々の指摘した問題は全部スルーし、事実関係は認めたが、事故原因は運転手の不注意であり、違法にゾーンに進入したことで起こったのではないとして、雇用者と委託した東京都の責任を認め賠償の支払いを命じた。損害賠償は直接の相続人にしか認められていなかったため、妹への慰謝料支払いは却下
原告の問題提起に対し地裁は判断を回避したので、中野区と東京都に対する除外指定やスクールゾーンの規制の問題だけに絞って高裁に抗告したが、徒労に終わる
交通事故の増大と遺族感情も勘案して、’01年危険運転致死傷の新設に繋がる
2. 大型貨物車左折巻き込み事件――1978年受任
‘75年小学生が自転車で西武新宿線上石神井駅近くの踏切を横断しようとして、背後から左折して踏切に入ってきた大型トラックに衝突され、車輪に巻き込まれて死亡した事件
トラックの左ドア下部にガラス窓がなかったため、大きな死角があり、小学生以下だと運転席から見えなかったところから、事故後改善された
運転手が死角を理由に軽い量刑になったのを理不尽だとした遺族が運転手と雇用者を訴え
その後、被害者の父親がスクールゾーン事件の被害者の父親から行政を巻き込んだ訴訟をしていることを聞かされ、’79年危険な構造の車の販売を認めた国の安全確保義務懈怠とメーカーを相手取り提訴、両者併合して審理が進められる。弁護団を組み、薬害事件の経験を活かし、さらに人間工学の専門的知見も動員
結果的には、運輸省も大型貨物車の運転席を低くするなど視界改善策をメーカーに指示、メーカーも協力して試作車を完成させ死角改善が実現したことから、裁判所の強い和解勧告もあって、一定の和解金を受け取り和解成立
交通事故の個別事情を勘案して、’79年には直接の相続人以外への慰謝料も認められるようになり、’80年には逸失利益にインフレ算入が認められる
保育行政をめぐる裁判も弱者救済の重要な例
少子化や地方の衰退は我が国の大きな問題となり、国は少子化対策や地方創生の特命大臣を設けたりして、弥縫策をあれこれ論じているが、そもそもこれは50年前から提起された問題を国が押し潰してきた結果であり、また、裁判所もそれに深く加担してきた
第3章
名誉棄損・プライバシー侵害と報道の自由
事案は大きく3種類――①ゴシップ、②プロダクションとの労働問題、③記号化の弊害
人権意識が希薄だった時代には、芸能人にプライバシーは存在しないとの言説が罷り通り、損害賠償が認められても僅かだった
国家権力は、時として名誉棄損やプライバシー保護を隠れ蓑に、メディアに対して圧力をかけ、報道の自由を侵害する。相反する命題に弁護士としてどう向き合うか
l 名誉棄損・プライバシー侵害事件
俗にいう有名人のプライバシー保護の範囲は、その人の社会的立場により異なる――最も狭いのは政治家
芸能人の場合は、イメージが肥大化した存在ゆえに、イメージと現実のギャップがメディアにスキャンダラスに取り上げられると、名誉棄損やプライバシー侵害の問題となる
プライバシーとは、一般に私生活上の事実で、保護されるべきもの(三島由紀夫の『宴のあと』判決)であり、名誉棄損とは、真実性が基準となるが、報道する側に真実と思うだけの根拠があれば責任を負うことはないとされ、立証責任はメディア側にある。その際壁となるのが情報源開示の問題
メディアを提訴する場合は、名誉棄損とプライバシー侵害のどちらか、事案の分析が必要
1990年頃から、ロス疑惑報道が起点となって弁護士会が「報道による人権侵害」という概念を持ち出し、芸能人のプライバシーを大切にしようという流れが生まれた
1. 野村沙知代事件――2002年受任
‘99年ラジオ番組で、浅香光代が女剣劇で共演した野村沙知代の行動を批判したことが発端――執拗な攻撃に野村も反撃、野村に被害を受けたとする芸能人も巻き込んでワイドショーの格好のネタとなり、話題はどんどん拡大。野村が衆院立候補の際の経歴詐称を理由に浅香が公職選挙法違反で告発。さらに、沙知代の実弟が著書を出して実家の相続トラブルなどを暴露したため、出自などを巡って沙知代バッシングへと変容
嫌疑不十分で不起訴処分となったが、野村は別途自らの会社の脱税容疑で逮捕され有罪判決を受ける。そのため夫も翌年の阪神タイガース監督の続投を断念
野村の民事案件のみ弁護――脱税の有罪判決が出た後、100件余りの報道の中から33件の名誉棄損、プライバシー侵害に絞って訴訟を提起。『週刊実話』の事実無根の記事で勝訴を勝ち取ったほか、大半で勝訴。浅香に対しても一部名誉棄損が認められた
浅香側に立って野村を罵った渡部絵美、塩月弥栄子、デヴィ・スカルノなどにも勝訴
人権擁護の観点から、マスコミの姿勢に対する批判の声も上がる
アメリカでは、名誉棄損の賠償額が極端に高いが、日本では信用棄損による経済的損失までの因果関係はなかなか認めない
2. 中森明菜プライバシー侵害事件――1990年受任
‘90年失恋の傷心を癒すための海外旅行で水着姿を盗撮され報道された事件。出版社に対して損害賠償を請求、満足いく金額での和解が成立
l プロダクションとの紛争事件――加勢大周事件――1991年受任
芸能人と所属事務所との契約上のトラブルは、契約社員やフリーランスなどにも共通する普遍的問題
プロ野球は相当程度レベルが上の人でないと入れないが、芸能界は完全な買い手市場
芸能界では、独立を巡りプロダクションと紛争になるケースが延々と続く
加勢(‘08年引退)も独立を巡って所属プロダクションと争う――’88年にスカウトされ、当初は合意のもとに芸能活動開始、’90年専属契約締結によりすべての芸能活動を拘束され、収入も事務所に帰属し1割を加勢に還元、1年ごとの自動更新で10年拘束される
加勢は芸能活動開始直後に自ら『稲村ジェーン』のオーディションに応募して主役の座を勝ち取り、それがきっかけで出演オファーが殺到、一方的な契約内容に不満を持ち、’91年契約解除を通告し自身の個人事務所と契約したのにたいし、プロダクションが芸能活動の停止、芸名の使用許諾権を主張して提訴
争点は専属契約の更新拒否通告の有効性――3か月前の通告だったが、円満独立をしようと婉曲表現を用いたのを逆手にとって、通告を正式なものと認めないとのプロダクション側の主張が認められて1審は敗訴したが、控訴審では最初の通告は無効だが、その後の言動から更新の意思がないことは明白なので1年後の更新に対しては有効と認め、逆転勝訴
芸名の商標登録には本人の承諾が必要だし、商標出願では1つの願書で1つの商品しか指定できないにもかかわらず、地裁は出願だけだったのに登録済みと勘違いしている
本名使用の場合は人格権そのものなので、契約で縛るのは不当
l 記号化による人権侵害――中島知子事件――2013年受任
‘05年頃から、「オセロ」の中島知子が一緒に暮らす女性占い師に洗脳されているとの報道が頻発、'13年所属事務所から解雇され、コンビも解消し仕事が出来なくなったため、スポーツ紙を相手に名誉棄損で提訴。'16年法廷で事実無根であることを明らかにして和解
それまで何度か中島が提訴し勝訴していることを確認もせずに、中島=洗脳のイメージが先行して芸能メディアに取り上げられていた――記号化による人権侵害
l 「報道の自由」を巡る訴訟
メディア側に立ち表現の自由を守るために行政を相手取り闘う
1.
『日刊新愛媛』事件――1984年受任
多くの県では1県1紙、愛媛県も昔から『愛媛新聞』が圧倒的な発行部数を誇り、知事との関係も良好だったが、’76年来島ドックの坪内が『日刊新愛媛新聞』を創刊、’84年当時は25万部を達成、四国最大の地元紙に成長
県政批判を売りとし、'84年松山地域での県立高校増設を巡り自民県連が松山市に違法に建設費の一部負担を要求していた事実をすっぱ抜いたため、知事が激怒して同紙に対し報道資料の提供を中止し取材活動に応じないことを決めた処分通知を発出
知事と坪内は同郷の同世代、政界と財界のドンがぶつかったもので、坪内側の弁護団に参加して勝訴が見えてきたところで造船不況から’87年訴訟取り下げとなる
‘85年には知事が取材拒否処分を撤回
2.
『噂の真相』名誉棄損事件――1995年受任
ジャーナリストの岡留安則が’79年創刊した『噂の真相』が「タブーなき雑誌としての自由な言論活動」をモットーに発行部数6万部を超える人気を博していたが、地検特捜部が2件の記事の名誉棄損で刑事告訴するという稀有の事件
表現の自由並びに検察批判も展開する同誌への威嚇は明らかで、弁護団として刑事名誉棄損罪の適用と解釈に当たっての表現の自由の保障の重要性を主張
判決では、7年も争った個々の記載内容を別個に判断することなく、全体を不可分一体として名誉棄損行為を構成するとして有罪、問題の本質から目を背けたもの
‘04年同誌は休刊。'19年岡留は癌で死去、享年71
3.
『創』接見妨害事件――1987年受任
‘71年創刊の『創』は、新聞などメディア業界の実情の詳報を柱とするが、刑事事件の被告や受刑者からの情報をもとに裁判では明らかにされなかった問題を報じることも多い
‘87年『創』の編集者対馬滋に対し、ジャーナリストであることを理由に在監被告への接見を拒否した事件で、弁護団は対馬と在監被告の両名を原告として、処分の取り消しと国家賠償を求めて提訴
在監中の被告の基本的人権の問題と同時に、取材の自由、知る権利の問題としても重要
地裁判決では、接見は個別具体的な接見申し出に対してなされ包括的な処分ではないとして却下、国家賠償についても拘置所に個別事情を勘案して判断する裁量権を認めて却下、控訴審でも同様の論理で請求を認めず
上告審理中の’95年、在監被告の死刑執行。上告棄却の4年後の’02年対馬死去、享年52
第4章
誰もが当事者に
l 警察官による暴行事件
自由人権協会の事務局次長時代の受任事件
1. 八千代台交番事件――1977年受任
‘76年会社員が泥酔してタクシー運転手と言い合いになり、止めに入った警察官により交番に連れ込まれて揉み合っているうちに死亡した事件。死因に不審を持った遺族が、警察官に暴行を受けていたとの目撃証言を聞き出して「人権を守る会」に相談、未必の故意による殺人罪と特別公務員暴行陵虐罪で告発、弁護団は国家賠償訴訟として提起
目撃証言の改竄が発覚して調書の取り直しまで行う
判決では、警察官の行為と死亡との間の因果関係は認めたが、防御的反撃であって積極的な暴力ではなく損害賠償責任を生じさせるほどの違法性があったとは認められないとした
刑事事件のほうも不起訴処分に
2. 川崎暴走族事件――1978年受任
‘78年元暴走族のトラック運転手が暴走族取り締まりのための検問をすり抜けて走行中突然飛び出してきた警察官を避けきれず撥ね飛ばしたため、包囲された同僚警察官に同乗中の知人共々暴行を受け、殺人未遂及び公務執行妨害で現行犯逮捕された事件
前記事件と同じ人権派のフリージャーナリストが人権協会に持ち込んだ案件
地検の告訴に対し、暴行された傷跡や車の破損を裁判所に証拠保全してもらい、特別公務員暴行陵虐致死傷罪などで逆告訴
検察は困惑して和解を勧告、撥ねられた巡査と10万円で和解成立し逆告訴を取り下げたが、同時に巡査が殺人未遂の裁判では「被告に寛大な処罰を」と証言することを義務付けた
調書の捏造を裁判所が認めて、殺人未遂は適用せず、公務執行妨害と傷害に縮小して執行猶予付きの判決に。検察も判決が管轄署の取り調べに厳しく反省を促したこともあって控訴せず。3年にわたる公判で、警察による集団暴行を一貫して主張してきたが、現行犯逮捕に際して許される実力行使の範囲内と判断されたのは不満
裁判官は、控訴されないよう配慮して判決を書く――控訴自体は減点にはならないが、判決がひっくり返されれば打撃
l 痴漢冤罪事件
‘09年、最高裁の多数意見(無罪)を述べた裁判官の補足意見は、いかに痴漢事件の事実誤認が問題になりやすいかをよく示している――冤罪は国家による人権侵害の最たるもの。刑事裁判の鉄則である「疑わしきは被告人の利益に」の原則と、有罪判断に必要とされる「合理的な疑いを超えた証明」の基準の理論は、何れも冤罪防止のためのもので、敢えて裁判所に対し警鐘を鳴らした
1.
K教授事件――2004年受任
‘04年田園都市線三軒茶屋駅近くの混雑した車内で通勤途上の大学教授が前に背を向けて立つ女性から手首を掴まれて痴漢を訴えられた事件。渋谷で降りた女性に誤解を解いてもらおうと一緒に降りたところ、女性が駅員に訴えたため駅事務所に連れていかれ、駅員が警察を呼び、刑訴法上の私人による現行犯逮捕が成立していたため警察署に連行・勾留、警察署では痴漢と決めつけた尋問が行われ、否認を続けたため都の迷惑条例違反で起訴
司法研修所同期で親友の河合弘之弁護士と共同で弁護
重要なポイントは被害女性の供述の信用性
弁護団が同時刻の電車に乗って目撃者を探すと両者の顔を知っている女性が名乗りを上げ、携帯の番号だけを告げていったものの、痴漢の被害に遭った経験があり、刑事事件への関与を嫌ってなかなか電話に出ようとしなかったが、被疑者の妻の手紙に心を動かされ証言をしようとしたところ、警察から職場に電話があって威迫された
弁護団は周防監督('07年痴漢冤罪事件をテーマとした映画《それでもボクはやっていない》の監督)に依頼して現場の状況を再現するビデオを作製し、供述の信用性を疑う
検察は罰金刑を求刑。ビデオによる供述の矛盾や非合理的な内容に加え、供述の変遷の裏には警察が傍聴席で監視するなど明らかに警察シナリオの存在が推定されたが、判決では、「被害者は被告人に恨みがあるわけではないので、敢えて話をでっちあげるはずもなく、被害者の供述は合理的で信用性が非常に高い」といういつもの論法で求刑通り認められた
控訴審でも、ビデオの証拠能力を前提が異なるとして排斥し、被害者の証言が信用できるかという尺度だけで判断し棄却、被告は裁判所の態度に失望して上告を断念
幸い、大学当局は最後まで被告の無実を信じてくれて、判決後は無事復職が認められ、職務を全うすることができた
2.
H青年事件――2008年受任
‘07年西武新宿線高田馬場駅近くの車内で起きた女子高生に対する強制猥褻事件
女子高生に袖口を掴まれ駅員に突き出され、そのまま交番に連れていかれて留置
スカートに手を入れ下着の上から撫でまわしたとして強制猥褻で起訴され、実刑判決
控訴審から受任。被疑者に対する微物鑑定による鑑識テープからDNA鑑定をした結果、被害者のDNAとの一致は認められず、再現実験でも供述の信用性を崩すことができ、逆転無罪を勝ち取る
冒頭の最高裁の補足意見が出た後だったことも、勝因の1つ
無罪となった被告は刑事補償と費用補償を請求でき、本件では86日もの長い勾留・拘禁に対し最高限度の1日当たり12500円が交付された
痴漢冤罪から身を守るためには、事件発生時の対応が重要――逃げるが勝ち
第5章
日本の刑事司法の現実
l カルロス・ゴーン事件――2019年受任
検察はゴーンの海外逃亡を地裁が保釈を認めたからだと非難したが、裁判の開始を遅らせ、証拠は極力開示せず、妻には絶対会わせないなどアンフェアなやり方を続けゴーンを精神的に追い詰めたのは検察の落ち度
1999年日産とルノーの資本提携によって日本に派遣されたゴーンは、1年で日産のV字回復を実現させたが、’18年金融商品取引法違反容疑(有証虚偽記載)で逮捕・起訴、会社法違反(特別背任)でも逮捕・追起訴
弁護団の大鶴基成はヤメ検でゴーンとはうまく意思疎通ができていなかったところから代わりを探していたところで、新たに13人で弁護団を組成、完全黙秘を勧告し、保釈を取ることを喫緊の課題とした
日本の司法制度の問題点の1つに保釈率の低さがある――'19年時点で32.84%。罪を認めない限り勾留を続ける人質司法が罷り通っている。起訴後公判までは勾留処分の専門部の裁判官が決定し、公判開始後は係属の裁判所が決定するが、検察の主張に加えて裁判所が事件内容をある程度把握してから判断するので、勾留は長期化せざるを得ない
2度目の保釈請求が厳しい条件付きで認められ、制限住居での生活が始まる
記者会見直前に別件の会社法違反で4度目の逮捕されたが、保釈はそれまでの条件遵守を認めて容易に取れた
検察の強引なやり方には世界が非難を浴びせ、後には国連人権理事会の「恣意的拘禁に関する作業部会」が、「国際法の下では一連の勾留が手続きの濫用」と結論付け、「適切な救済策として日本政府はゴーンに賠償すべき」とまで書かれた
本件の特徴は、刑事事件では不可欠の具体的な被害の存在あるいは事件性が見当たらないこと――カットされた報酬をもらうことになっていたということが有証に記載されていないという曖昧な形で問題にされただけで、直接の被害は何も発生していないし、会社法違反も正規の稟議手続きで承認された送金であり、不当なら社内で是正するだけのこと
日産がゴーンの社内での不正を暴こうと、検察と手を握って刑事告発を仕組んだ事案だが、本当の目的は、ルノーとの経営統合の阻止にあり、仏政府が経営統合に向けて日本政府に働きかけるとの憶測から、ゴーンを追放して日産の経営独立性を確保しようとしたもの
日産は、海外の子会社から資料を提出させ検察の捜査に協力、司法取引にも受け入れ
日本の司法取引制度は、村木事件をきっかけとした'18年の刑訴法改正で導入――ある刑事事件で処罰の対象になっている被疑者が、「他人」の刑事事件について捜査に協力する場合に限って、自身の刑の軽減が認められるもので、「捜査・公判協力型」「他者負罪型」といわれ、欧米の自身の犯罪を認めて量刑を軽くしてもらう「自己負罪型」は含まないところから、取り調べの可視化もあって、運用次第では冤罪を生む危険性を孕む
本件の場合、司法取引に応じた日産内部の関係者には、軽減される処罰が存在しない
さらには社長の西川こそ、有証虚偽記載の責任を負う立場なのに刑事立件されていない
検察は、被害性や事件性が希薄だった分、それを補うためにマスコミにリークして世論を煽るのは常套手段
弁護団の主張の柱は、①違法捜査として控訴棄却、②金商法関連では未払い報酬は不存在、③会社法関連では日産側の損害不在、の3点で、完全無罪を確信
ゴーンの海外逃亡により公判は停止に
ケリーの裁判は、'22年に判決が出て、報酬隠しがあったとされた8年間のうち7年間は無罪、1年についてのみ執行猶予付きの判決、日産には罰金2億円
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弘中 惇一郎(ひろなか じゅんいちろう、1945年10月16日 -
)は、日本の弁護士。東京弁護士会所属。元自由人権協会代表理事。1964年、東京大学入学。1967年司法試験合格。東京大学法学部卒業(1968年)。司法修習22期(同期に木村晋介や筒井信隆)を経て1970年弁護士登録。数々の裁判で無罪判決を勝ち取っていることから、「無罪請負人」と呼ばれている。
経歴・人物[編集]
山口県生まれ。その後、東京代々木へ転居[1]。幼稚園と小学校は成城学園。小学校6年の夏に父親の転勤で広島市東区牛田に移り住む。修道高校を経て[2]、1968年東京大学法学部卒業。弁護士の佐藤博史は高校・大学の三年後輩にあたる。
クロロキン、クロラムフェニコール、日化工クロム職業病裁判(六価クロム)など多くの薬害事件を担当したほか、マクリーン事件などを担当。ロス疑惑の銃撃事件で三浦和義の無罪[3]、薬害エイズ事件における安部英の一審無罪[4]、障害者郵便制度悪用事件で村木厚子の無罪を勝ち取り、逆に大阪地検特捜部主任検事証拠改ざん事件を見抜く[5]。一方で2000年代初頭には熊谷信太郎、吉村洋文弁護士(後の大阪府知事)らと共に大手消費者金融武富士の訴訟代理人を務め[6][7]、武富士の反社会的な取り立てや違法な業務などを告発したジャーナリストへの訴訟を担当したが、これについてはスラップ訴訟であるとの批判も受けた[8][9]。
2019年にはカルロス・ゴーン被告が保釈を勝ち取れたのは弘中の弁護団選任が功を奏した、と海外で報じられた[10]。その後ゴーン被告は保釈中にレバノンに逃亡し、弘中は弁護団を辞任した。
また、2020年1月31日付の読売新聞朝刊の「ゴーン元会長が逃亡前、犯人隠避などの疑いで逮捕状が出た米国籍の男と弘中弁護士の事務所で面会していた」などという報道(「逃亡の謀議を黙認していたと疑われても仕方がない」とする検察幹部の発言も同時に掲載。)に対し、名誉を傷つけられたとして読売新聞東京本社と読売新聞大阪本社に計1320万円の支払いを求め提訴。しかし、東京地方裁判所(裁判長判事・小川理津子)は2021年11月15日、請求を棄却した[11]。
2020年1月29日にはゴーンの逃亡事件の関係先として弘中の事務所が出入国管理及び難民認定法違反(不法出国)容疑で東京地方検察庁による家宅捜索を受けた[12]。刑事訴訟法上の「押収拒絶権」に基づいて拒んだにもかかわらず違法に家宅捜索が実施されたとして、国に損害賠償を求め提訴し、東京地方裁判所(裁判長判事・古田孝夫)は2022年7月29日、捜索を違法と判断した。賠償請求については棄却した[13][14]。
弁護人・代理人を務めた人物[編集]
テレビ出演[編集]
「情熱大陸」(TBS 2011年4月10日)
著書[編集]
『刑事裁判と知る権利』(中村 泰次, 飯田 正剛, 山田 健太, 弘中 惇一郎, 坂井 真 共著 三省堂 1994年)ISBN 4385313466
『マスコミと人権』(清水英夫 編 所収「芸能人などの有名人と名誉・プライバシー」三省堂 1987年) ISBN 4385320705
『検証 医療事故―医師と弁護士が追跡する』 (有斐閣選書 (148))(本田 勝紀 共著 有斐閣 1990年)ISBN 4641181306
『安部英医師「薬害エイズ」事件の真実』(武藤 春光 共著 現代人文社 2008年)
『無罪請負人 刑事弁護とは何か?』(角川oneテーマ21) ISBN 4041107644
脚注[編集]
1.
^ 『AERA』朝日新聞出版2010年10月11日号pp. 54-58
2.
^ 『週刊文春』(2014年5月22日号)pp. 124.「阿川佐和子のこの人に会いたい」。
3.
^ “「死因未確定」と三浦元社長遺族 都内の葬儀で”. 共同通信. (2008年11月3日) 2014年3月1日閲覧。
4.
^ “民主・小沢氏弁護人に弘中氏 村木さん無罪やロス事件”. 共同通信.
(2010年10月20日) 2014年3月1日閲覧。
5.
^ “村木さん「不当逮捕」で国賠提訴 元検事らにも”. 共同通信.
(2010年12月27日) 2014年3月1日閲覧。
6.
^ 「消費者法ニュース」62号 39頁
7.
^ 「判例時報」1781号 112頁
8.
^ “維新の会 消したい過去”. しんぶん赤旗. (2020年6月27日) 2021年4月16日閲覧。
9.
^ “SLAPP訴訟の典型例である武富士訴訟の代理人が吉村洋文大阪市長”. BLOGOS. (2019年2月22日) 2020年4月12日閲覧。
10. ^ “【環球異見】ゴーン被告保釈 英紙「司法制度がカントリーリスク」 仏紙「国際的圧力の作用は確実」”. 産経新聞.
(2019年3月18日) 2019年12月31日閲覧。
11. ^ 弘中弁護士の請求棄却 ゴーン元会長逃亡巡る記事で地裁日本経済新聞2021年11月15日
12. ^ “ゴーン被告逃亡、東京地検が弘中事務所を家宅捜索”. 産経新聞. (2020年1月29日) 2022年8月14日閲覧。
13. ^ “弁護人事務所捜索「違法」 ゴーン元会長逃亡で東京地裁”. 日本経済新聞. (2022年7月29日) 2022年8月14日閲覧。
14. ^ “弁護士側捜索「法の趣旨反する」 ゴーン被告逃亡、国賠は認めず―東京地裁”. 時事ドットコム. (2022年7月29日) 2022年8月14日閲覧。
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