震災復興 後藤新平の120日  後藤新平研究会  2022.9.10.

 

2022.9.10. 震災復興 後藤新平の120日 都市は市民がつくるもの

 

編著 後藤新平研究会

 

発行日           2011.7.30. 初版第1刷発行

発行所           藤原書店

 

関東大震災と東日本大震災――序にかえて

関東大震災は、江戸の遺構の上に、ほとんど無秩序に積み上げられ膨張してきた中枢都市を一掃するもの

直前の加藤尾友三郎首相の死により前内閣が総辞職、政権空白期にあった中で、大震災に遭遇した後藤は、震災翌日誕生した山本権兵衛内閣の内務大臣に就任、情報も混乱し体制も整わぬ状況下で、矢継ぎ早に緊急対策を打ち出す

96日には「帝都復興の議」を閣議に提出、「復旧」ではなく「復興」を、と訴えた。近代日本に相応しい世界に誇れる首都を新たに建設することこそが、後藤の目指した「復興」

4週間後には臨時帝都復興審議会を立ち上げ、帝都復興院の総裁となって、復興に係る問題点を洗い出すことを主導

後藤の復興計画は、様々な既得権益や政治的思惑との衝突、政争を経て、予算規模としても大幅に縮小され、理想像には程遠いものとなる

復興院のスタートした日に、『大乗政治論』を著し、「国家は1人のための国家ではなく、政府は1人のための政府ではない。従って、責任を国家に負うものは必ず無私の心で奉仕し、常に国民とともに、国民のために貢献しようと目指さなければならない」と記す

大乗とは利他ということだが、後藤の言葉でいえば、それは政治家の「自治」のことであって、①他の恩義を蒙らず、②常に他に対して何ものかを寄与するように務め、③そうして何らの報酬を求めない、という自治3(人の世話にならぬよう/人の世話をするよう/そして報いを求めない)を眼目とすること

年末の虎の門事件(昭和天皇狙撃事件)で内閣は総辞職、後藤も復興事業の現場を去るが、以後は在野にあって復興を支援し続ける

東日本大震災は、関東大震災と様々な違いがあるが、未曽有の災害を前にしても、国家を担うべき政治家たちの政争は激化している。平成の後藤新平を求める声は高まるばかり

東日本大震災を真に乗り越えていくために、既存の社会を問い直し、11人の「自治」に基づくまちづくりこそが、現代において求めるべき「復興」の姿だろう

本書は、関東大震災発生から内閣総辞職までの4カ月の、帝都復興に遭遇した後藤新平の姿を描いたドキュメント。非常事態に直面して、限られた条件の中で最善の策を最短で編み出していく、「政治」の原点のありようが現れているはず

 

I 後藤新平・帝都復興120日の軌跡

はじめに

後藤は、「近代日本の都市計画の父」とか「東京をつくった男」と称される。その理由は、後藤が帝都復興院総裁として、関東愛震災で壊滅した東京の復興に力を尽くしたことにある。しかし、後藤が総裁として先頭に立ったのはわずか120日。雄大と賞賛され、あるいは「大風呂敷」と揶揄された後藤の初期の復興プランは、政治状況のなかで当初の規模から次々と縮小されていった。にも拘らず、帝都復興事業は7年の歳月をかけて相当の成果を残す

 

プロローグ 第2次山本権兵衛内閣の成立

山本内閣の組閣が難航していたところに震災勃発、首相官邸の植え込みの中で閣議を開き、臨時震災救護事務局を特設、臨時徴発令の発布、戒厳令の一部地域への適用などの応急処置をとる

日ソ国交交渉のため外相就任を希望する後藤と山本の人事構想が折り合わず、後藤は入閣を保留していたが、緊急事態に後藤は意思を翻し、内務大臣として入閣を受諾

後藤は、未だ政党が未発達な状況から、無党派連盟的な国民的内閣をつくろうとした

 

1.    「帝都復興の議」を閣議に提出 96

後藤の帝都復興根本策は以下の4

   遷都すべからず

   復興費に30億円

   欧米最新の都市計画を採用し、我国に相応しい新都を造営

   新都市計画実施のためには、地主に断固たる態度を取る

この4原則をベースに96日「帝都復興の議」を閣議に提出

    復興計画の事務局設置 ⇒ 内閣最高の諮問機関として帝都復興審議会設置

    国費支弁、財源は長期の内外債

    震災地域の土地の買収、整理の実行(焼土全部買い上げ案) ⇒ 保留

復興のための独立機関として帝都復興省に各省業務を集中し、自治体の権限まで吸収しようという構想

山本内閣は枢密院に帝都復興に関する詔書「帝都復興の議」公布を依頼、12日に公布

15日摂政宮が焼土を巡視。後藤は前年5月東京市長として東京市政につき進講

震災60年後に昭和天皇は、「後藤の膨大な計画が実行されなかったことを残念に思う」と記者会見で発言

後藤とドイツ留学時代以来の友人だった東京帝大教授で造園の専門家本多静六は、後藤の依頼で復興計画を立案――ベースになったのは、2年前に本多が持ち帰ったバルセロナの最新式の都市計画の資料で、後藤市長に「東京でもこのくらいのことをやらなければ」と発破をかけたもの

遷都については、陸軍参謀本部で、今村均に調査の指示があった。火山帯にあって70年ごとに地震が繰り返すのであれば、戦時の防空の見地からも、同じ莫大な費用をかけるのであれば、遷都して理想の帝都を造営すべきとの観点から候補を物色した結果、第1が京城南の竜山、第2が加古川流域、万已むを得ない場合は宮城と政府機関を八王子に移す、というものだったが、「不遷都の詔書」が発せられてこの件は沙汰闇となった

 

2.    帝都復興院の創設とスタッフ人事 91930

19日内閣に帝都復興審議会設立――総裁が山本首相、幹事長が後藤内相

27日帝都復興院官制発布――内閣に帝都復興院設立、東京・横浜を対象としたが、各省管轄の建物の復旧は各省で担当することとなり、統一的な復興事業は没却となったが、復興院には省庁横断で有能識達の人士を幹部に迎える。東大教授の佐野利器(としたか)や鉄道省の技師太田圓三などを局長として抜擢。計画立案にはこの人事制度に負うところ大

後藤新平は都市計画に情熱を注いでいて、既に後藤のリーダーシップにより都市研究会が組織され、1919年に都市計画法公布として結実すると、東京市政要綱という東京の都市づくりのビジョンを作成すると同時に、安田善次郎の支援も得て東京市政調査会を設立

米国の歴史学者・政治学者でニューヨーク市政調査会の理事チャールズ・ビーアドを招聘し、東京市政の改革などについての調査と助言を依頼していた

佐野利器(18801956、復興院建築局長)は、建築構造と耐震設計の専門家で、1904年台湾の嘉義(かぎ)地震で実際の地震被害を調査、1906年のサンフランシスコ地震でも現地で鉄筋コンクリート構造の建築物の強さを認識

太田圓三(18811926、復興院土木局長、木下杢太郎の実兄)を推薦したのは、同じ鉄道省から経理局長として後藤に呼ばれた十河信二(18841981)で、強引にねじ込んだもので、天才的な芸術肌の人、区画整理の具体案は多く彼の創意から生まれ、古典的日本の芸術的風趣を残すべく隅田川の5大橋は画家にいくつも美しい絵を描かせ有識者を集めてその批評を求めてから、初めて技術者をして設計せしめた。能率と美観を具えた復興計画

 

3.    復興計画の策定 927日~1115

予算規模は、東京・横浜に限定され各省管轄が外れたことで、当初3040億円といわれたものが、1013億円に圧縮、11月初旬には7億円規模に縮減、さらに帝国議会の議決は5.7億円(国家予算14億円)1928年の議会では地方負担分も入れて8.2億円

復興院所管事業は、あくまで国家と自治体との共同努力によって達成すべき事業に限り、自治体の事業中、国家の力をもって執行・補佐する範囲に限定している(狭義の復興計画)

結果的に、後藤市長時代にできた都市計画(通称8億円計画)が基になって、金額的にもそれに近いものに落ち着く

バラックができる前に、東海道の小田原までの道路に幅杭を入れようという案を後藤に進言したところすぐにやろうということになった

後藤自ら街頭に立って復旧復興を成立せしむべきものと世論を喚起した

横浜は、官公署全部消失して公簿類はもとより地図1枚もないうえに、都市計画局長が震災直後に死去したのを見て、後藤は東京市土木局長を横浜に救援派遣し窮状を救う

罹災者救護と経済界安定に向けて、後藤は帝都復興審議会の理事でもあった渋沢栄一の協力を要請、渋沢は罹災者収容、炊き出し、震災情報掲示板、臨時病院など、多方面の救護事業を行う

後藤は、貴族院議員、衆議院議員、実業家に呼び掛けて救済・復興のためのボランティア団体・大震災善後会を発足させている

帝都復興事業の規模及びその施設方針の要綱:

   主要幹線の規格は幅員24(44m)以上

   高速度鉄道・地下鉄道の施設に備えるため620間以下の街路を施設する

   主要道路の交角(交差部)並びに橋台地(橋詰広場)棟には適当な広場を建設する

   鉄道停車場、港湾設備地と市内交通の連絡を容易にする

   一切の建築物は街路計画に従い、事前に建築線の指定を受ける制度に改める

   復興計画は全て復興院が規格を統制するが、執行すべき事業は出来得る限り自治の運用に待つ。帝都復興院は主として帝都構成の基幹となる施設の執行を担当する

焼失区域の区画整理については、当初から賛否意見百出。後藤は当初限定的に考えていたが、激論を経ていくうちに、区画整理が復興事業の根幹となっていく

 

4.    ビーアドの再招請そして進言 106日~113

ビーアド(18741948)は、歴史家・政治外交史学者、コロンビア大教授、ニューヨーク市政調査会専務理事。初来日は後藤東京市長の招聘によりちょうど1年前。都市問題の専門家として、東京の行政改革と都市問題の改善に対する助言と、都市問題についての国民の知識と理解の向上を期待してのこと。半年滞在して、各地を視察・講演するなどしてまとめた最終報告書が『東京市政論』

ビーアドは震災を聞いて後藤宛に、「新街路を設定せよ、街路決定前の建築を禁止せよ。鉄道ステーションを統一せよ」と打電

106日に来日して30日に『東京復興に関する意見』を後藤に提出

ビーアドの提言の基幹となるのが「大首都構想」で、「帝都として必要な支配権のみを帝国政府に保留し、東京市政庁に大なる地方自治を許すこと」とあり、特に印象的なのは、帝都の尊厳及び美観に関する考察で、「今後歴史の舞台は太平洋に移る、その時東京は多くの印象深い場面の舞台となる、それゆえ日本の帝都が帝都としての特異性を持たねばならぬことは極めて重要な事柄だ」と述べている

同時に、議会の多数が政友会によって牛耳られていることへの懸念も分析している。選挙権を持つ者は総人口57百万中3百万人に過ぎない所から、議会の承認を得ても国民の支持は得られず、国民の信望ある首相を選んでも、その予算は議会で協賛を得られない

 

5.    紛糾する第2回帝都復興審議会 1124

復興院総裁の諮問機関である評議会では、鳩山一郎などの政治家から復興院の原案が消極的だという非難もあったが、いざ議会が開催されると一変して逆風に

急先鋒が後藤の親友でもあった議会の重鎮伊東巳代治の絶対的反対――民心の安定が最優先、土地収用に多額の財政負担は不可、商工業や教育の復興に重点を置くべき、区画整理の手法に疑念

伊東の反対に意を強くした他の議員もこぞって反対を唱え、帝都の科学的・芸術的再建の機会が失われたことは遺憾

妥協案として、道路幅員の縮小、東京築港と京浜運河は見合わせ、東京市の下水道は国の計画とする一方、土地区画整理は焼失全域に拡張することとなり、復興事業の中で区画整理の手法と事業が決定的に重要な位置を与えられる

 

6.    臨時議会 1211日~24

後藤の政治思想の基本は自治の精神で、「政党のほかに」とか「無党派的に」という立場こそ「国民とともに、国民のために」最善を尽くす道と考えた

伊東と復興審議会の反対に加えて、議会多数党の政友会の反対の板挟みに

政友会の反対の根底には、後藤が普通選挙の早期実現について積極的だったことがある

政友会は、後藤の失脚と政府に致命傷を与えるために予算の1億削減と復興院の廃止を主張、首相も後藤も実質を優先し面子を捨て「忍び難きを忍んで」同意

政治的争点を生んだのは、井上蔵相の復興財源を巡る方針で、増税によらず内外債発行により財源を確保するが、公債利払いは確定財源である一般会計の余剰金で充当としたため、剰余金配分を巡って復興院と各省の復活要求との政治的対立を招き、政治的争点に転化

 

7.    後藤新平の役割とは何だったのか

    後藤自身がどう見ていたか

失敗の原因を13項目、僅微なる成功の痕跡を7項目列挙――後藤が客観的に省察する知性と習慣を持っていたことは興味深い。東京市民への告白という姿勢で事態を分析

失敗の原因として挙げたのは、復興の意義に対する国民の理解不足、大調査機関の欠如とその結果としての経済復興未遂、解散を躊躇したために微力内閣との誹りを免れないうちに引責総辞職に至ったことなどを上げる

不幸中の幸いとして挙げたのは、帝都復興の議が大要で認められたこと、政友会といえど消極的復旧に陥る行き詰まりを回避する姿勢を示したことなどを挙げ、実際にも翌年1億円の追加予算が認められている

300万市民に告ぐ』の末尾にも、「帝都の復興は着々と進められるが、その実績の良否は一に懸って市民の双肩にあり、自治能力の発揮に待つことが緊切」と述べている

    復興事業に深くかかわった政治家が後藤をどう見ていたか

山本首相は7年後に、復興事業の成功に対し後藤への真情と礼節を込めて振り返っているが、伊東は自己弁護のみで復興事業への評価はない

井上蔵相は、復興計画を後藤の功績と認めている

後藤内相の後任で、実際に復興事業を始動させた水野錬太郎内相は、1930年の後藤の1周忌追悼の辞で、台湾の民政長官としての新領土経営の経験を活かして、東京市の建設ということを胸中において進めたと述べている

    「帝国日本」の都市計画史を中心とした歴史の観点から

近代日本の歴史上、後藤新平ほど実践的かつ継続的に「都市」というものに深く関与した政治家は存在しない――1883年内務省衛生局に入り、東京の市区改正計画とドイツの官庁集中計画を目にし、スコットランドから来た上下水道の専門家バルトンとともに全国の都市を視察、1890年のドイツ留学ではヨーロッパの近代都市を視察、1895年台湾領有後はバルトンに依頼して衛生状態や上下水道の調査を行い民政局長として台湾に渡る、1900年には台北の都市改造計画を進め、歩車道分離、緑地分離帯を持つブールヴァール(並木付き道路)を建設。日露戦後満鉄総裁として大連における都市計画をロシアから引き継ぐほか、鉄道付属地の開発と都市建設を積極的に進め、奉天、長春などの都市が整備される

 

エピローグ 自治精神で「帝都復興」へ――都市は市民がつくるもの

12月政府提出の復興予算案に対する政友会修正案が可決成立、東京・横浜の復興のための特別都市計画法と政府に公債発行を認める震災善後公債法が公布され、帝都復興計画が確定したが、虎の門事件で内閣は総辞職、翌年の清浦内閣で水野錬太郎が内相を引継ぎ、帝都復興院官制が廃止され、佐野利器も去った後、内務省の外局として復興局が設置され、人員も縮小して復興事業が始まる

後藤新平とその同志たちの二枚腰の戦いがすごかった

佐野利器は一旦東大に戻るが、東京市長永田秀次郎、助役吉田茂から懇請され、新設の建築局長として、自らの鉄筋の計画を監督することになる

区画整理事業は、12間以上の幹線道路は国の事業となり、残りは地主組合が主体とされたため、事業主体を東京市に切り替え、国と連携しながら進めることとしたが、世間の反対の声は強く、佐野が純学問的な運動を展開、「街頭の戦士」として啓蒙運動に協力

区画整理の実現に向けて政友会を説得し1億の予算復活を認めさせたのは復興局土木部長太田圓三の功績――太田の最大の遺産は隅田川6大橋(相生~言問)。この都市の美観を演出するような美しいデザインの橋梁群、昭和通りに代表される植樹帯を持つ幹線街路、リバーサイド・パークである隅田公園、錦糸、浜町の3大公園、52の小公園と隣接した小学校、都市型住宅の先駆けとなった同潤会アパート、震災の焼失区域の約9割にあたる3119ヘクタールの区域で行われた世界都市計画史上の快挙ともいうべき区画整理による市街地大改造など、震災復興の遺産は数多い

ビーアドも、「都市の命運は、その年の人々の手中にある」と主張

後藤も都市計画と自治の精神について、健全な自治精神を離れては都市計画は無用という

都市は4つの敵と戦わなければならない――疫病、無知、貧困、無慈悲

後藤の晩年の言葉、「金を残すは下、仕事を残すは中、人を残すは上」

 

II 資料――都市の復興と自治の精神

l  「帝都復興の議」 (1923.9.6.)  後藤新平

東京は帝国の首都であり、国家政治の中心、国民文化の根本である。従って、その復興は明らかに1都市の形体回復の問題ではなく、実に帝国の発展、国民生活改善の根基を形成することにある。今次の震災は、理想的帝都建設のため、真に絶好の機会

 

l  「帝都復興の詔書」 (9.12.)  後藤新平

そもそも東京は、帝国の首都にして政治経済の枢軸となり、国民文化の源泉となって民衆一般の敬い慕うところ。一朝不慮の災害に罹って今やその旧形を留めていないとはいえ、依然として我が国都の地位を失わない。このためその善後策は単に旧態を回復するに止まらず、進んで将来の発展を図り、それによって街の面目を新たにせねばならない

 

l  「大乗政治論」 (10.3.)  後藤新平

国家は1人のための国家ではなく、政府は1人のための政府ではない。従って、責任を国家に負うものは必ず無私の心で奉仕し、常に国民とともに、国民のために貢献しようと目指さなければならない。この根本観念を明確にする要義として、自治の心を養い育てることの必要を力説し、自助自立の思想を充実させることを唱道してきた

政府の理想は、大乗(利他、衆生=国民の救済)の見地を持ち、進んで修することを休まず、わずかでも退くことがないことに在る。しかし、小乗(自利、私欲、党利党略)的または通俗的に見るときは、現実世界の個々刹那の差別相について因果関係を認識せざるを得ない。この意味で、私はできる限り債権者であろうとする理想が欠けないようにと考えてきた。その意味は、まさに自治の精神を激励し拡充するものでなければ、国家社会に対して無私の貢献は期待できないと信じるから

健全な政党の活動を敬う。各政党自らが堅実な合理的発達をとげることを希望する

我が党内閣論といった、人心を蝕む思想が長い間に浸み染まっている

政治の第一義は力ではなく社会奉仕であり、政治上の行動は、公明を旨として互いに道理と正義とに基づいて是非の判断を下さなければならない

 

l  「内相進退伺いの状」 (11)  後藤新平

内務本省類焼の災いを免れず、僅かに重要書類の一部を搬出したに止まり、庁舎並びに書類の大部を烏有に帰せしめたるは最も遺憾とするところ

異常な人心の不安に伴い、流言飛語盛んに行われ、眼前の惨害を鮮人の所為に帰せんとして自警団の中には自制を失して暴挙に出るしゃあり、為に無辜の民にして殺傷せられたる者少なからず。治安保持の重任を辱め誠に恐懼措く所を知らず

 

l  300万市民に告ぐ――山本内閣入閣の情由と復興計画に対する所信」(1924) 後藤新平

 

l  「後藤伯と帝都復興」 (1929.6.) 佐野利器

この時に当たって後藤内相は大声疾呼された。禍を転じて福となす絶好の機会、憤然決起して更始一新、生活も根底から改革して国家隆興の基を固むべき。数段の隆興が目標で、そのためには復旧ではなく

復興でなければならぬ

大小百数十線の街路と五十数カ所の大小公園とを、土地買収によって新設改修することの不可能なるは、理論上極めて明白なるが、これを区画整理の方法によって行う決心は、政治家でも大偉人でなければできることではなかった。1つの建物の移転さえ難事であるのに、バラックとはいえ約20万棟の建物移転をしなければならないだけでなく、耕地と市街地との間には所有者の執着の程度に於て非常な差がある。さらに地境や権利などの問題を多分に背負っている東浜においてこれを行うことの難、むしろ不可能ともいうべきは行政の実際に通じた人のみな等しく称するところだった

復興の親、後藤伯爵を忘れてはならぬ

 

l  「後藤伯とビーアド博士」 (1929.6.) 鶴見祐輔

後藤の相許した友人がキリスト教青年会のモット博士(1946年ノーベル平和賞)と史家のビーアド博士

後藤とビーアドの最初の出会いは1919年のニューヨーク。その年末後藤が東京市長に就任し、在ニューヨークの鶴見にニューヨーク市政の腐敗とその矯正運動に関する調査の指示が来た時、鶴見の頭に浮かんだのがビーアドで、ニューヨークの市政調査会を紹介された。後藤は東京にも同様の組織を作りビーアドの助言を仰ぐ

後藤が感動したのはビーアドの高潔なる心事――あらゆる形の報酬を拒否した

ビーアドが特に後藤に感心したのは、至る所に研究所や調査局を作って、科学的に研究しつつ実際の仕事をした点で、「調査の政治家後藤男」と題して米国で講演している

 

l  「後藤伯追悼座談会より」 (1929.6.) 内田嘉吉/堀切善次郎

1917年後藤が会長となって都市研究会を立ち上げ、都市計画に関する調査を進める

内務省に都市計画課ができ、都市計画法や市街地建築物法が1919年成立

啓蒙のために6大都市で講演、東京でも15の区でそれぞれに講演し、政府が後押しをしてくれるならと納得して東京市長に就任

 

l  「東京市民の大恩人後藤伯を偲ぶ」 (1930.4.) 水野錬太郎

 

l  「都市は市民がつくるもの」 (1922) チャールズ・A・ビーアド

現代の都市が首都としての機能しか持たないというのは稀なこと。現代の都市は一般的に、普通の市民の住む街でもあり、その成長は、一般の人々の成長と共にある。現代の都市はそこに住まう市民の活動や労働によってつくられている。市民は都市をつくることも、損なうこともできる。大都市ではたいてい、市民が行政に何らかの形で参加している。市民が公職に就く人たちを選出し、最終的には、都市がどのような性格を持つかを決定する。責任は彼らにある。都市の道路が狭く、曲がりくねっていて、汚らしいならば、責めを負うべきは市民なのです

現代の都市がよく計画され、美しい街であるためには、そこに住む市民が共通の目標に向けて協力することを学ばなければならない。市民は共同で負担すべき税を積極的に納め、公共の利益のために必要な犠牲を払わなければならない。偉大な都市の住民は、生き生きとした精神を持っていなければならない。市民は今という時代にどのような恩恵を享受できるのかを理解しなければならない。市民は公共の利益のために個人の利益を譲らなければならない

これが現代の都市計画の精神であり、これが東京市長後藤子爵の精神です

 

l  「後藤子爵と東京の復興」 (1924.4.) チャールズ・A・ビーアド

 

 

特別附録 後藤新平を中心にした関東大震災の復興プロセス

 

 

 

 

Wikipedia

関東大震災(1923大正12年)91115832[1]115831.6[2]日本時間、以下同様)に発生した関東大地震によって南関東および隣接地で大きな被害をもたらした地震災害[注釈 1]。死者・行方不明者は推定105,000人で、明治以降の日本の地震被害としては最大規模の被害となっている。

概要[編集]

神奈川県および東京府(現:東京都)を中心に隣接する茨城県千葉県から静岡県東部までの内陸と沿岸に及ぶ広い範囲に甚大な被害

 

一般に大震災と呼ばれる災害ではそれぞれ死因に特徴があり、本震災では焼死が多かった。また阪神・淡路大震災兵庫県南部地震)では圧死東日本大震災東北地方太平洋沖地震)では溺死が多い[7]。本震災において焼死が多かったのは、日本海沿岸を北上する台風に吹き込む強風が関東地方に吹き込み[8]風害参照)、木造住宅が密集していた当時の東京市東京15)などで火災が広範囲に発生したからである。正午前ということもあって、食事の準備のために火を使っている家庭も多かった。強風や水道管の破裂もあり、火災が3日間続いた。近代日本において史上最大規模の被害をもたらした。

府県をまたいだ広範囲にわたる災害で未曽有の犠牲者・被災者が発生し、政府機関が集中する東京を直撃して国家機能が麻痺したことから、政府も大規模な対応に追われた。しかし、内閣総理大臣加藤友三郎が震災発生8日前の824に急死していたため、外務大臣の内田康哉内閣総理大臣を臨時兼任して職務執行内閣を続け、発災翌日の92日に山本権兵衛が新総理に就任(大命降下828日)、927日に帝都復興院(総裁:内務大臣後藤新平が兼務)を設置し復興事業に取り組んだ。

金融の停滞で震災手形が発生し、緊急勅令によるモラトリアムを与えた。復興には相当額の外債が注入されたが、その半分は火力発電の導入期にあった電力事業に費やされた[注釈 2]モルガン商会1931年(昭和6年)までに占めて10億円を超える震災善後処理公債を引き受けたが、その額は当時の日本の年度別の国家予算の6割を超えるものだった[9]。引受にはロスチャイルドも参加した[10]。金策には森賢吾が極秘で奔走した[11]

日英同盟のころから政府は資金繰りに苦慮していたが、特にこの復興事業は国債社債両面での対外債務を急増させた。また震災不況から昭和金融恐慌1927年(昭和2年)3月~)、1930年(昭和5年)に行われた金解禁[12]世界恐慌昭和恐慌)に至る厳しい経済環境下で悪影響が大きかったため、翌年には金輸出禁止[13]になった。

この震災により、東京市・横浜市から大阪府愛知県などのちに三大都市圏となる地域に移住する者も多くみられた。明治時代、東京にあった明治政府による藩債処分により大打撃を与えられた大阪市であったが当時は経済的に回復していた。特に1925年に近隣の郡部を編入した大阪市は東京市を超え、世界第6位の人口を擁する都市に躍進した。阪神間では阪神間モダニズム後期の大大阪時代を迎え、六大都市の序列に影響を与えた(参照)。また、東京市電の機能不全を肩代わりさせるため、東京市がT型フォードを約800台輸入してバス事業を開始[14][15]円太郎バス)。すると、全国にバス事業が広まるとともに、輸入トラックを利用した貨物輸送も始まり、旅客および物流におけるモータリゼーションが到来した[15]。電話の自動交換機も普及した[16]

状況[編集]

東京帝国大学理科大学教授の寺田寅彦も、上野で開催されていた二科会の招待展示会に出向き、喫茶店で知人の画家津田青楓と歓談中に被災している。その時の状況を以下の通り詳細に記録している。

T君と喫茶店で紅茶を呑みながら同君の出品画「I崎の女」に対するそのモデルの良人からの撤回要求問題の話を聞いているうちに急激な地震を感じた。椅子に腰かけている両足の蹠を下から木槌で急速に乱打するように感じた。多分その前に来たはずの弱い初期微動を気が付かずに直ちに主要動を感じたのだろうという気がして、それにしても妙に短週期の振動だと思っているうちにいよいよ本当の主要動が急激に襲って来た。同時に、これは自分の全く経験のない異常の大地震であると知った。その瞬間に子供の時から何度となく母上に聞かされていた土佐の安政地震の話がありあり想い出され、丁度船に乗ったように、ゆたりゆたり揺れるという形容が適切である事を感じた。仰向いて会場の建築の揺れ工合を注意して見ると四、五秒ほどと思われる長い週期でみし/\みし/\と音を立てながら緩やかに揺れていた。それを見たときこれならこの建物は大丈夫だということが直感されたので恐ろしいという感じはすぐになくなってしまった。そうして、この珍しい強震の振動の経過を出来るだけ精しく観察しようと思って骨を折っていた。 主要動が始まってびっくりしてから数秒後に一時振動が衰え、この分では大した事もないと思う頃にもう一度急激な、最初にも増した烈しい波が来て、二度目にびっくりさせられたが、それからは次第に減衰して長週期の波ばかりになった。寺田寅彦、『震災日記』

駐日フランス大使だったポール・クローデルは、罹災しながら、

被災者たちを収容する巨大な野営地で暮らした数日間・・・、私は不平の声ひとつ耳にしなかった。唐突な動きや人を傷つける感情の爆発で周りの人を煩わせたり迷惑をかけたりしてはならないのだ。同じ小舟に乗り合わせたように人々は皆じっと静かにしているようだった。ポール・クローデル、『孤独な帝国 日本の1920年代ポール・クローデル外交書簡192127

と当時の日本人の様子を書いている[17]

避難[編集]

東京市内の約6割の家屋が罹災したため、多くの住民は、近隣の避難所へ移動した。東京市による震災直後の避難地調査[18]によれば、95日に避難民12千人以上を数える集団避難地は160か所を記録。もっとも多い場所は社寺の59か所、次いで学校の42か所だった。公的な避難場所の造営として内務省震災救護事務局が陸軍のテントを借り受け、明治神宮外苑宮城前広場などに設営された。また94日からは、内務省震災救護事務局と東京府が仮設住宅(バラック)の建設を開始。官民の枠を超えて関西の府県や財閥、宗教団体などが次々と建設を進めたことから、明治神宮日比谷公園などには瞬く間に数千人を収容する規模のバラックが出現したほか、各小学校の焼け跡や校庭にも小規模バラックが建設された。震災から約2か月後の1115日の被災地調査[19]では、市・区の管理するバラックが101か所、収容世帯数21,367世帯、収容者86,581人に達している。一方、狭隘な場所に避難民が密集したため治安が悪化した。一部ではスラム化の様相を見せた[20]ため、翌年には内務省社会局・警視庁・東京府・東京市が協議し、バラック撤去の計画を開始している。撤去にあたっては、東京市が月島三ノ輪深川区猿江に、東京府が和田堀・尾久王子に小規模住宅群を造成した[21]。また義捐金を基に設立された財団法人同潤会による住宅建設も進んだ。

軍は橋をかけ、負傷者を救護した。「軍隊が無かったら安寧秩序が保てなかったろう」[22]という評価は、町にも、マスコミにも溢れた。警察は消防や治安維持の失敗により威信を失ったが、軍は治安維持のほか技術力・動員力・分け隔てなく被災者を救護する公平性を示して、民主主義意識が芽生え始めた社会においても頼れる印象を与えた[23]

震災後、日本で初めてラジオ放送が始まった。避難の教訓からラジオは急速に普及し、国威発揚にも利用された[24]

被害[編集]

190万人が被災、105,000人あまりが死亡あるいは行方不明になったと推定されている(犠牲者のほとんどは東京府と神奈川県が占めている)。建物被害においては全壊が約109,000棟、全焼が約212,000棟である。東京の火災被害が中心に報じられているが、被害の中心は震源断層のある神奈川県内で、振動による建物の倒壊のほか、液状化による地盤沈下崖崩れ、沿岸部では津波による被害が発生した。東京朝日新聞読売新聞国民新聞など新聞各社の社屋も焼失した。唯一残った東京日々新聞92日付の見出しには「東京全市火の海に化す」「日本橋京橋下谷浅草本所深川神田殆んど全滅死傷十数万」「電信電話電車瓦斯山手線全部途絶」といった凄惨なものがみられた。同3日付では「横浜市は全滅 死傷数万」「避難民餓死に迫る」、4日付では「江東方面死体累々」「火ぜめの深川 生存者は餓死」、「横浜灰となる あゝ東京」などという見出しが続いた。

津波:静岡県熱海市 6m千葉県相浜(現在の館山市 9.3m洲崎 8m神奈川県三浦 6m鎌倉市由比ケ浜300人あまりが行方不明。関東大震災では建物の倒壊と火災による被害が甚大で、津波と地震動の被害を分離することが困難なため、津波に関する報告は断片的で全体像が明確になっていなかった。津波の高さは鎌倉由比ヶ浜では局地的に9mに達し、逗子・鎌倉・藤沢の沿岸では5mから7mの津波が到達した。江ノ島電鉄の由比ヶ浜の停留所(現在の長谷4号踏切付近)に津波が到達し、中村菊三の手記『大正鎌倉餘話』で、中村は津波の被害者とみられる女性の遺体が由比ヶ浜滞留所にあったと書いている[26]。静岡県伊東市宇佐美、旭光山行蓮寺には、関東大震災つなみ浸水地点碑が現存している。

この震災の記録映像として、記録映画カメラマン白井茂による『関東大震大火実況』が残されており、東京国立近代美術館フィルムセンターが所蔵している。その一部は同センターの展示室の常設展で見ることができる。また横浜シネマ商会(現:ヨコシネ ディー アイ エー)の手による『横浜大震火災惨状』が、同社および横浜市中央図書館に所蔵されている。これ以外にも数本記録映画が存在しているが、オリジナルといえる作品は少ない[27]

人的被害[編集]

2004年(平成16年)ごろまでは、死者・行方不明者は約14万人と推定されていた。この数字は、震災から2年後にまとめられた「震災予防調査会報告」に基づいた数値である。しかし近年になると、武村雅之らの調べによって、14万人の数字には重複して数えられているデータがかなり多い可能性が指摘された。その説が学界にも定着したため、理科年表では2006年(平成18年)版から修正され、数字を丸めて「死者・行方不明 105千あまり」としている[28]

地震の揺れによる建物倒壊などの圧死があるものの、強風を伴った火災による死傷者が多くを占めた。津波の発生による被害は、太平洋沿岸の相模湾沿岸部と房総半島沿岸部で発生し、高さ10m以上の津波が記録された。山崩れや崖崩れ、それに伴う土石流による家屋の流失・埋没の被害は神奈川県の山間部から西部下流域にかけて発生した。特に神奈川県足柄下郡片浦村では鉄道事故100人以上の死者、また土石流で数百名の犠牲者を出した。

関東大震災により死去した著名人[編集]

寛子女王(閑院宮載仁親王第四王女)小田原閑院宮御別邸へ避暑のところ、別邸が倒壊。

師正王(東久邇宮稔彦王第二王子)- 避暑先の藤沢にある別荘が倒壊。

佐紀子女王(山階宮武彦王妃)鎌倉の山階宮別邸が倒壊。

松岡康毅枢密顧問官日本大学総長)葉山の別邸が倒壊。

園田孝吉(実業家、男爵

磯部四郎(政治家、法学者、弁護士)- 避難先の被服廠跡で焼死。

厨川白村(英文学者、評論家)- 鎌倉で津波に巻き込まれ、翌2日に死去。

辻村伊助(園芸家、登山家)- 小田原の自宅裏のがけ崩れに巻き込まれ、妻子とともに犠牲となる。

富田木歩(俳人)向島の自宅で被災し、避難の途中で退路を断たれ焼死。

五代目麗々亭柳橋(落語家)

関東大震災犠牲者の慰霊施設[編集]

東京都慰霊堂(旧震災記念堂)- 身元不明の遺骨を納め死者の霊を祀る。1948年(昭和23年)からは東京大空襲の身元不明の遺骨を納め、その死者の霊も合祀している。

大正拾二年九月帝都震災殃死(おうし)者之霊供養碑 - 東京大田区の池上本門寺境内。

鉄道事故[編集]

詳細は「根府川駅列車転落事故」を参照

神奈川県足柄下郡片浦村(現小田原市の一部)の根府川駅では、そのときちょうど通りかかっていた列車が駅舎・ホームもろとも土石流により海中に転落し、100人以上の死者を出した。さらにその後に発生した別の土石流で村の大半が埋没、数百名の犠牲者を出した。

この震災により、小田原電気鉄道(現・箱根登山電車)も路盤やトンネルの崩壊、車両の脱線・埋没など甚大な被害を受け、復旧に1年を要している。

火災[編集]

地震の発生時刻が昼食の時間帯と重なったことから、136件の火災が発生した。大学や研究所で、化学薬品棚の倒壊による発火も見られた。一部の火災については工藤美代子が「火元には、空き家や小学校、女学校、越中島の糧秣廠(兵員用の食料(糧)および軍馬用のまぐさ(秣)を保管する倉庫で、火薬類は保管していない)など発火原因が不明なところがあり、2日の午後に新しい火災が発生するなど不審な点も多い」と主張している[30]。加えて能登半島付近に位置していた台風により、関東地方全域で風が吹いていたことが当時の天気図で確認できる。火災は地震発生時の強風に煽られ、本所区本所横網町(現在の墨田区横網)の陸軍本所被服廠跡地(現在の横網町公園。ほか、現在の墨田区立両国中学校日本大学第一中学校・高等学校などもこの場所に含まれる[注釈 3])で起こった火災旋風を引き起こしながら[31]広まり、旧東京市の約43%を焼失し[32]鎮火したのは40時間以上経過した2日後の9310時ごろとみられる。火災による被害は全犠牲者中、約9割に上る(当該の統計情報によれば、全体の犠牲者105,385人のうち、火災が91,781人を占めた)ともいわれている[33]。火災旋風により多くの被災者が吹き上げられた。被服廠跡で被災した人の中には15kmほど離れた市川まで吹き飛ばされた人もあった[34]。この火災旋風の高熱で熔けて曲がり塊となった鉄骨は、東京都復興記念館に収蔵・展示されている。

建物の倒壊[編集]

東京市内の建造物の被害としては、凌雲閣(浅草十二階)が大破[35][36][37]、建設中だった丸の内内外ビルディングが崩壊し作業員約300名が圧死した。さらに大蔵省文部省内務省外務省警視庁など官公庁の建物や、東京帝大帝国劇場日本橋三越本店などの教育・文化・商業施設の多くを焼失した。神田神保町帝大図書館松廼舎文庫大倉集古館も類焼し、多くの貴重な書籍群や文化財が失われた。

震源に近かった横浜市では、官公庁やグランドホテル[注釈 4]、オリエンタルパレスホテル[注釈 5]などが石造・煉瓦作りの洋館であったことから一瞬にして倒壊し、内部にいた者は逃げる間もなく圧死した。さらに火災によって、外国領事館のすべてを焼失、工場・会社事務所も90%近くを焼失した。千葉県房総地域の被害も激しく、特に北条町では古川銀行房州銀行(ともに現在の千葉銀行の前身の一つ)が辛うじて残った以外は郡役所・停車場などを含むすべての建物が全壊。測候所と旅館が亀裂の中に陥没するなど、壊滅的被害を出した。

なお地震後も気象観測を続けた中央気象台(現在の気象庁、位置は現在とほぼ同じで若干濠寄り)では121時ごろから異常な高温となり、翌2日未明には最高気温46.4度を観測している[38]。このころ気象台には大規模な火災が次第に迫り、ついに気象台の本館にも引火して焼失し多くの地震記録を失った[39]。気象記録としては無効とされ抹消されているものの、火災の激しさを示すエピソードである。

首都機能の麻痺[編集]

震災当時、通信・報道手段としては電報と新聞が主なものだった(ラジオ放送は実用化前で[注釈 6]電話も一般家庭に普及していなかった)が、当時東京にあった16の新聞社は、地震発生により活字ケースが倒れて活字が散乱したことで印刷機能を失い、さらに大火によって13社を焼失、報道機能は麻痺した。東京日日新聞(現在の毎日新聞の前身)・報知新聞都新聞は焼け残り、もっとも早く復旧した東京日日は95日付夕刊を発行した。

郵便制度も同様だった。普通切手はがき、そして印紙も焼け、一部に至っては原版までも失われた。全国各地の郵便局の在庫が逼迫することが予想されたため、目打なしの震災切手と呼ばれる臨時切手が民間の印刷会社(精版印刷・大阪、秀英舎・東京)に製造を委託され、9種類が発行された。その他にはがき2種類、印紙なども同様にして製造された。

11月に発行を予定していた、皇太子裕仁親王(のちの昭和天皇)と良子女王(のちの香淳皇后)との結婚式記念切手東宮御婚儀4種類のほとんどが逓信省の倉庫で原版もろとも焼け、切手や記念絵葉書は発行中止(不発行)となった[40]。その後、当時日本の委任統治領だった南洋庁パラオ)へ事前に送っていた分が回収され、皇室関係者と逓信省関係者へ贈呈された。結婚式自体は1924年(大正13年)の1月に延期して挙行された。

関東以外の地域では、通信・交通手段の途絶も加わって伝聞情報や新聞記者・ジャーナリストの現地取材による情報収集に頼らざるを得なくなり、新聞紙上では「東京(関東)全域が壊滅・水没」「津波、赤城山麓にまで達する」「政府首脳の全滅」「伊豆諸島の大噴火による消滅」「三浦半島の陥没」などといったやデマの情報が取り上げられた[41]

震央から約120kmの範囲内にあった国有鉄道の149トンネル(建設中を含む)のうち、93トンネルで補修が必要となった。激しい被害を受けたのは、熱海線(現在の東海道線)小田原-真鶴間で、11本あるトンネルのうち7本に大規模な損傷がでる被害を生じた。地滑りや斜面崩落により坑口付近の崩落や埋没を生じたが、坑口から離れた場所でも亀裂や横断面の変形を生じている。深刻な被害を生じたのは、根ノ上山トンネル(熱海線:早川-根府川間)、与瀬トンネル(中央線:相模湖-藤野間)、南無谷トンネル(現在の内房線:岩井-富浦間)[42]

土砂災害[編集]

丹沢山地では多くの表層崩壊を生じた[43]。特筆する災害の例として、神奈川県小田原市白糸川では地震発生当日に主震動によって斜面の崩落や崩壊が生じ山津波(岩屑流)となり、小田原市根府川沿い集落の123戸中64戸を埋没させ300人を超える犠牲者があった[44]。この山津波は約6km5分程度で流下した。なお、この山津波と根府川駅列車転落事故を生じた地滑りとは別のものである[44]

更に、912日から915日の大雨によって 166箇所の土砂災害、12箇所の河道閉塞が発生し、土砂災害による死者は1,053人以上、建物約500戸に被害が及んだ[45]

地震の混乱で発生した事件[編集]

司法・法制の動き[編集]

司法省および法曹会の下で、受刑者を一時解放した刑務所もあった。横浜刑務所では受刑者を名古屋へ移送することが97日になって決まり、同日に貼り紙による告知が行われたものの解放された受刑者821名のうち、翌日早朝の期限までに戻ってきた受刑者は565名のみだった。

なお、この97日は治安維持法の前身となる緊急勅令が出された日でもあった。

93 亀戸事件(当事者は警察署と自警団)、東京地方裁判所管

96 福田村事件(当事者は自警団)、千葉地方裁判所管

97 治安維持ノ爲ニスル罰則ニ關スル件』(勅令第403号)が発布。

916 甘粕事件(大杉事件、当事者は憲兵隊)、東京地方裁判所管

軍活動[編集]

陸軍の中では、震災後の混乱に乗じて社会主義自由主義の指導者を殺害しようとする動きもみられた。

甘粕事件(大杉事件)では、大杉栄伊藤野枝・大杉の6歳の甥橘宗一らが憲兵隊甘粕正彦らに殺害され[47]亀戸事件では、労働運動の指導者である平澤計七13人が亀戸警察署で近衛師団に属する習志野騎兵第13連隊に銃殺され、平澤は斬首された。

震災後の殺傷事件[編集]

本庄事件 (1923)」も参照

関東大震災朝鮮人虐殺事件」も参照

震災発生後、混乱に乗じた朝鮮系日本人による凶悪犯罪、暴動などの噂が行政機関や新聞、民衆を通して広まり[49][50][46][51]、民衆・警察・軍によって朝鮮人、またそれと間違われた中国人、日本人(聾唖者など)が殺傷される被害が発生した[52][53][54]

これらに対して92日に発足した2次山本内閣95日、民衆に対して朝鮮人に不穏な動きがあれば軍隊および警察が取り締まるため、民間人に自重を求める「内閣告諭第二号」(鮮人ニ対スル迫害ニ関シ告諭ノ件)を発した[55][56]

閣告諭第二號

今次ノ震災ニ乗シ一部不逞鮮人ノ妄動アリトシテ鮮人ニ対シ頗フル不快ノ感ヲ抱ク者アリト聞ク鮮人ノ所爲若シ不穩ニ亙ルニ於テハ速ニ取締ノ軍隊又ハ警察官ニ通告シテ其ノ處置ニ俟ツヘキモノナルニ民衆自ラ濫ニ鮮人ニ迫害ヲ加フルカ如キコトハ固ヨリ日鮮同化ノ根本主義ニ背戻スルノミナラス又諸外國ニ報セラレテ決シテ好マシキコトニ非ス事ハ今次ノ唐突ニシテ困難ナル事態ニ際會シタルニ基因スト認メラルルモ刻下ノ非常時ニ當リ克ク平素ノ冷靜ヲ失ハス愼重前後ノ措置ヲ誤ラス以テ我國民ノ節制ト平和ノ精神トヲ發揮セムコトハ本大臣ノ此際特ニ望ム所ニシテ民衆各自ノ切ニ自重ヲ求ムル次第ナリ

大正十二年九月五日        閣總理大臣

この内閣告諭第二号と同じ日、官憲は臨時震災救護事務局警備部で「鮮人問題ニ関スル協定」という極秘協定を結んだ[48]。協定の内容は、官憲・新聞などに対しては一般の朝鮮人が平穏であると伝えること、朝鮮人による暴行・暴行未遂の事実を捜査して事実を肯定するよう努めること、国外に「赤化日本人及赤化鮮人が背後で暴動を煽動したる事実ありたることを宣伝」することである[48]。こうした対応について、金富子は日本政府が国家責任回避のため、自警団・民衆に責任転嫁し、また実際に朝鮮人がどこかで暴動を起こしたという事実がないか必死に探し回ったものだとしている[48]

流言の拡散と検証、収束[編集]

一方で震災発生後、内務省警保局警視庁は朝鮮人が放火し暴れているという旨の通達を出していた[54]。具体的には、戒厳令を受けて警保局(局長・後藤文夫)が各地方長官に向けて以下の内容の警報を打電した。

当時はテレビはむろん、ラジオも日本にはなく新聞のみが唯一のマスメディアだった。記事の中には「内朝鮮人が暴徒化[注釈 7]した」「井戸に毒を入れ、また放火して回っている」というものもあった。こうした報道の数々が92日から96日にかけ、大阪朝日新聞・東京日日新聞・河北新聞で報じられている。大阪朝日新聞においては、93日付朝刊で「何の窮民か 凶器を携えて暴行 横浜八王子物騒との情報」の見出しで「横浜地方ではこの機に乗ずる不逞鮮人に対する警戒頗る厳重を極むとの情報が来た」とし、3日夕刊(4日付)では「各地でも警戒されたし 警保局から各所へ無電」の見出しで「不逞鮮人の一派は随所に蜂起せんとするの模様あり・・・」と警保局による打電内容を、3日号外では東朝(東京朝日新聞)社員甲府特電で「朝鮮人の暴徒が起つて横濱、神奈川を經て八王子に向つて盛んに火を放ちつつあるのを見た」との記者目撃情報が掲載されている。また、相当数の民衆によってこれらの不確かな情報が伝播された[52]海軍無線電信所船橋送信所は流言をそのまま伝えたため、後日、所長の大森大尉は免職になったという[58]

これらの情報の信憑性については2日以降、官憲や軍内部において疑念が生じ始めた。2日に届いた一報に関しては第一師団(東京南部担当)が検証したところ虚報だと判明、3日早朝には流言にすぎないとの告知宣伝文を市内に貼って回っている[59]5日になり、見解の統一の必要性に迫られた官憲内部で精査のうえ、戒厳司令部公表との通達において

朝鮮人暴動」の存在を肯定するも流言が含まれる旨の発表が行われた。

治安維持緊急勅令の発布[編集]

こうした流言の存在をきっかけとして、前内閣では廃案となった司法省作成の「過激社会運動取締法案」の代わりに、7日には緊急勅令治安維持の為にする罰則に関する件」(勅令403号)が出された(この時の司法大臣は、前日まで大審院長だった思想検事系の平沼騏一郎枢密院議長は司法官僚の清浦奎吾だった)。これがのちの治安維持法の前身である。8日には東京地方裁判所検事正南谷智悌が「鮮人の中には不良の徒もあるから、警察署に検束し、厳重取調を行っているが、或は多少の窃盗罪その他の犯罪人を出すかも知れないが、流言のような犯罪は絶対にないことと信ずる」と、流言と否定する見解を公表した[60]

震災後1か月以上が経過した1020日、日本政府は「朝鮮人による暴動」についての報道を一部解禁し、同時に暴動が一部事実だったとする司法省発表を行った。ただし、この発表は容疑者のほとんどが姓名不詳で起訴もされておらず信憑性に乏しく、自警団による虐殺や当局の流言への加担の責任を隠蔽、または朝鮮人に転化するために政府が「でっち上げた」ものとの説もある[48]

一部の流言については、正力松太郎1944年(昭和19年)の警視庁での講演において当時の情報が「虚報」だったと発言している[61]

戒厳令発布[編集]

警視総監赤池濃が「警察のみならず国家の全力を挙て、治安を維持」するために、「衛戍総督に出兵を要求すると同時に、警保局長に切言して」内務大臣水野錬太郎に「戒厳令の発布を建言」した。水野も朝鮮総督府政務総監時代の191992日(地震の4年前)、独立党党員に爆弾を投げられ重傷を負ったことがある[62]。これを受け、92日には、東京府下5郡に戒厳令を一部施行し、3日には東京府と神奈川県全域にまで広げた[52]。この戒厳令発令が水野内務大臣の最後の公務となり、内務大臣の役職は後藤新平に引き継がれた[63]。一方で戒厳令のほか、経済的には非常徴発令・暴利取締法・臨時物資供給令・モラトリアムが施行された[64]。最終的に政府は朝鮮人犯罪を一切報道しない報道規制を行うまでになった[要出典]。陸軍は戒厳令のもと騎兵を各地に派遣し、軍隊の到着を人々に知らせたがこのことは人々に安心感を与えつつ、流言が事実であるとの印象を与え不安を植えつけたとも考えられる[52]。この戒厳令により、警官の態度が高圧化したとの評価もある[52]

自警団による暴行[編集]

軍・警察の主導で関東地方に4,000もの警団が組織され、集団暴行事件が発生した[53][65]。横浜地区では刑務所から囚人が解放されていたため、自警団の活動に拍車がかかった[66]。これら自警団の行動により、朝鮮人だけでなく、中国人、日本人なども含めた死者が出た。朝鮮人かどうかを判別するためにシボレスが用いられ、国歌を歌わせたり[67]朝鮮語では語頭に濁音がこないことから、道行く人に「十五円五十銭」や「ガギグゲゴ」などを言わせ、うまく言えないと朝鮮人として暴行、殺害したとしている[注釈 8]。「白い服装だから朝鮮人だろう」という理由で、日本海軍の将校ですら疑われた[58] また福田村事件のように、方言を話す地方出身の日本内地人が殺害されたケースもある。聾唖者(聴覚障害者)も、東京聾唖学校の生徒の約半数が生死がわからない状態になり、卒業生の一人は殺された[68] 94日、埼玉県の本庄町(現本庄市)で、住民によって朝鮮人が殺害される事件が起きた(本庄事件)。同日、熊谷町(現熊谷市)、5日には妻沼町でも同様の事件が発生している。 95日から6日にかけて、群馬県藤岡町(現藤岡市)では藤岡警察署に保護された砂利会社雇用の在日朝鮮人ら17人が、署内に乱入した自警団や群衆のリンチにより殺害されたことが、当時の死亡通知書・検視調書資料により確認できる(藤岡事件[69]

横浜市の鶴見警察署長・大川常吉も保護下にある朝鮮人ら300人の奪取を防ぐために、1千人の群衆に対峙して「朝鮮人を諸君には絶対に渡さん。この大川を殺してから連れて行け。そのかわり諸君らと命の続く限り戦う」と群衆を追い返した。さらに「毒を入れたという井戸水を持ってこい。その井戸水を飲んでみせよう」と言って一升びんの水を飲み干したという[注釈 9]。大川は朝鮮人らが働いていた工事の関係者と付き合いがあったとみられている[54]。また軍も多くの朝鮮人を保護した。当時横須賀鎮守府長官野間口兼雄の副官だった草鹿龍之介大尉(後の第一航空艦隊参謀長)は「朝鮮人が漁船で大挙押し寄せ、赤旗を振り、井戸に毒薬を入れる」[41]などのデマに惑わされず、海軍陸戦隊の実弾使用申請や、在郷軍人の武器放出要求に対し断固として許可を出さなかった[67]。横須賀鎮守府は戒厳司令部の命により朝鮮人避難所となり、身の危険を感じた朝鮮人が続々と避難している[70]。現在の千葉県船橋市丸山にあった丸山集落では、それ以前から一緒に住んでいた朝鮮人を自警団から守るために一致団結した[54]。また朝鮮人を雇っていた埼玉県の町工場の経営者は、朝鮮人を押し入れに隠し、自警団から守った[54]

警官手帳を持った巡査が憲兵に逮捕され、偶然居合わせた幼なじみの海軍士官に助けられたという逸話もある[71]。当時早稲田大学在学中だったのちの大阪市長・中馬馨は、叔母の家に見舞いに行く途中で群集に取り囲まれ、下富坂警察署に連行され「死を覚悟」するほどの暴行を受けたという[72]。歴史学者の山田昭次は、残虐な暴行があったとしている[54]

関東大震災後の体験記(事実上の証言)[?]を以下に引用する。

なお、以下の◯◯は資料の原文通りのものである。当時、「朝鮮人」とか「鮮人」、「不逞鮮人」などを伏字にしたものであると推測される。

以上述べた二つは、警官等のある程度社会的地位の高い人の話を鵜呑みにしたために、朝鮮人に対するあらぬ偏見を抱いた典型的な例であろう。この様な内容の証言は当時の資料に大変多く[要出典]見受けられる。

ただし、注目に値することは他にもある。それは、この当時にも、社会の流言に惑わされず朝鮮人虐殺に加わらなかったばかりか、周囲の人の反感を大いに買ってでも、自らの家に朝鮮人らをかくまい、虐殺から保護した人が一定数いたことである。[要出典]

例えば、家に押し寄せた暴徒に対して「うちにいる朝鮮人はそんな悪いことをする人間では絶対にない。それは私が保証する。私が全責任を持つから、どうかお引き取り願いたい」と言って朝鮮人を必死にかばう人や、同様に「彼(保護している朝鮮人のこと)は一日の震災当日以来一歩も外出はしないで謹慎している。決して暴行などする人ではない。万一左様なことがあるとせば責任は僕が引受ける。」と言った人、或いは警官が自ら朝鮮人暴動は流言であることを町内に知らせ回ったこともあったことが資料から分かる。こうした人は、自分で真実と流言とを正しく峻別し、不可解な噂には耳を貸さなかったという点で他の人と相違点をなすであろう。[要出典]

10月以降、暴走した自警団は警察によって取り締まられ、殺人・殺人未遂・傷害致死・傷害の4つの罪名で起訴された日本人は362名に及んだ。しかし「愛国心」によるものとして情状酌量され、そのほとんどが執行猶予となり、残りのものも刑が軽かった[53][74]。福田村事件では実刑となった者も皇太子(のちの昭和天皇。当時は摂政)結婚で恩赦になった[74]。自警団の解散が命じられるようになるのは11月のことである。

被害者数[編集]

殺害された人数は複数の記録、報告書などから研究者の間で分かれており明確になっていない[75]。内閣府中央防災会議は虐殺による死者は震災による犠牲者の1から数パーセントに当たるとする報告書を作成している[52]吉野作造の調査では2,613[注釈 10]上海大韓民国臨時政府の機関紙『独立新聞』社長の金承学の調査では6,661人という数字があり[注釈 11]、幅が見られる[76]。犠牲者を多く見積もるものとしては、大韓民国外務部長官[注釈 12]による1959年の外交文章内に「数十万の韓国人が大量虐殺された」との記述がある[77]内務省警保局調査(「大正1291日以後ニ於ケル警戒措置一斑」)では、朝鮮人死亡231人・重軽傷43名、中国人3人、朝鮮人と誤解され殺害された日本人59名、重軽傷43名だった[76]。なお立件されたケースの被害者数を合算すると233人となる[78]

20136月には、韓国の李承晩政権時代に作成された被害者289人の名簿が発見され、翌年には目撃者や遺族の調査が開始された[79]2015118日に第1次検証結果では名簿からは289人のうち18人が虐殺されたもの、名簿にない3名が新たに被害者として確認されたと韓国政府は主張した[80]。最終的に201512月に検証結果が報告され、韓国政府発表では名簿からは289人のうち28人が虐殺されたものと主張を確定した[81]

紙幣の焼失[編集]

日本銀行本店は火災の被害を受けたが、銀行券は8.5%が損傷したのみに留まった[82]。ただ、当時の唯一の紙幣印刷工場であった東京市大手町の印刷局(当時は内閣の外局)は、証券印刷部や工場、約730台の機械設備、銀行券原版、製造中や製造完了の銀行券をほぼ焼失し、東京市王子の印刷局抄紙部も建物が全面倒壊した。9月下旬の大阪時事新報によれば、印刷局の焼け跡では奇跡的に1円、5円、10円、20円、100円の原版が無傷で発見され、日本銀行の金庫に保管された。

当初は緊急紙幣の発行は行われなかったが、10月中旬に一部の銀行で預金の払出しが相次いだため、日本銀行は116日に大蔵大臣に対し、未発行の高額紙幣「甲200円券」の発行申請を行い、大阪の証券印刷会社である昌栄堂印刷が下請工場として製造を開始した。しかし年末にはそれほど需要がないことが判明し、甲200円券は発行が中止となった(1926年にすべて焼却処分された)。

1924年には朝鮮総督府の印刷局が東京の印刷局へ、アメリカ製の凹版速刷機やパンタグラフを搬送し、その後に新たに発注されたアメリカ製の凸版平版印刷機も次第に到着して、印刷局の業務は19263月には復旧した。

復興[編集]

山本権兵衛首相を総裁とした「帝都復興審議会」の創設により、大きな復興計画が動いた。江戸時代以来の東京市街地の大改造を行い、道路拡張や区画整理などインフラ整備も大きく進んだ。公共交通機関が破壊され自動車の交通機関としての価値が認識されたことから、1923年(大正12年)に12,765台だった自動車保有台数が震災後激増、1924年(大正13年)には24,333[83]1926年(大正15年)には40,070台となっていた[84]1929年の世界恐慌など逆風が続くなか、その後も漸増した。

その一方で、第一次世界大戦終結後の不況下にあった日本経済にとっては震災手形問題や復興資材の輸入超過問題などが生じた結果、経済の閉塞感がいっそう深刻化し、のちの昭和恐慌に至る長い景気低迷期に入った。震災直後の7日には緊急勅令によるモラトリアムが出され、29日に至って震災手形割引損失補償令が出されて震災手形による損失を政府が補償する体制がとられたが、その過程で戦後恐慌に伴う不良債権までもが同様に補償され、これらの処理がこじれ、1927年には昭和金融恐慌を起こすことになる。

震災復興事業として作られた代表的な建築物には、同潤会アパート聖橋復興小学校復興道路復興公園震災復興橋隅田川)、九段下ビルなどがある。また復興のシンボルとして、震災前は海だったところをがれきで埋め立てた山下公園が作られ、1935年には復興記念横浜大博覧会のメイン会場となった。同公園内には1939年にインド商組合から市に寄贈された水飲み場(インド水塔)が設置されているが、これは在留インド人の事業復活のため、低利融資や商館再建などに尽力した横浜市民らへのお礼として寄贈されたものである。現在この水飲み場は使用されていないが、イスラームモスクを思わせる屋根をした建造物が今も残されている[85]

横須賀軍港では、ワシントン海軍軍縮条約に従って巡洋戦艦から航空母艦に改装されていた天城型巡洋戦艦天城」が[86]、地震により竜骨を損傷して修理不能と判定された[87]。代艦として解体予定の加賀型戦艦加賀が空母に改装された[87][88]。加賀と天城の姉妹艦赤城はのち空母に改装され、太平洋戦争大東亜戦争)緒戦で活躍した。

震災発生時、連合艦隊大連沖で訓練中であった[58]。地震発生の報告を受け連合艦隊各艦は訓練を中止、救援物資を搭載して東京湾に向かった[58]。このとき戦艦長門(連合艦隊旗艦、対外公称速力23ノット)が大隅海峡26ノットの速力を出していたのがイギリス海軍に目撃されている[58]

927日、帝都復興院が設置され、総裁の後藤新平により帝都復興計画が提案された。それは、被災地を一旦すべて国が買い取る提案や、自動車時代を見越した100m道路の計画(道路の計画には震災前の事業計画だった低速車と高速車の分離も含まれていた)、ライフライン共同溝化など、現在から見ても理想的な近代都市計画だったが、当時の経済状況や当時の政党間の対立などにより予算が縮小され、当初の計画は実現できなかった(後藤案では30億円だったが、最終的に5億円強にまで削られて議会に提出された)。また土地の買い上げに関しては神田駿河台の住民が猛反発した。この復興計画を縮小したことにより、図らずも東京大空襲時の火災の広がり方や、戦後の高度経済成長期以降の自動車社会になって、計画を縮小した影響が出てしまった。たとえば道路については首都高速などを建設(防災のために造られた広域避難のための復興公園(隅田公園)の大部分を割り当てたり、かつ広域延焼防止のために造られた道路の中央分離帯(緑地)を利用などして建設された)する必要があった。

1930(昭和5年)324日、昭和天皇が復興した東京を巡幸した[89]26日には二重橋前広場で帝都復興祭が挙行された[90]

帝都復興完成に就き賜はりたる勅語(昭和5326日)[91]

帝都復興ノ事業ハ官民協同ノ努力ニ賴リ月ノ短キ克ク此ノ偉績ヲ效セリ 朕深ク之ヲ懌フ 朕今親シク市容ノ完備大ニ舊觀ヲ改ムルヲ覽テ專ラ衆心ヲ一ニシ更ニ市政ノ伸展ヲ致サムコトヲ望ム

同年8月には帝都復興記念章が制定され(昭和5813日勅令第148号「帝都復興記念章令」第1条)、帝都復興事業に直接または伴う要務に関与した者(同第312号)に授与された(同第3条)。

9月は台風災害なども多いことから、関東地震のあった91日を「防災の日」と1960年(昭和35年)に定め、政府が中心となって全国で防災訓練が行われている。ただし、宮城県沖地震を経験している宮城県桜島を擁する鹿児島県などのように、独自の防災の日を設けてその日に防災訓練を行っている地域もある。

国外の反応と支援[編集]

地震の報を受けて、多くの国から日本政府に対する救援や義捐金、医療物資の提供の申し出が相次いだ[92]。特に太平洋を隔てた隣国で、第一次世界大戦時にともに戦ったアメリカ合衆国の支援は圧倒的で[93]、さらに「なお希望品を遠慮なく申出られたし」との通知があった[94]

義捐金の多くはイギリスアメリカ合衆国中華民国から送られ、ほかにもインドオーストリアカナダドイツフランスベルギーペルーメキシコなどからも救援物資や義捐金が送られた[95][96]。アメリカやイギリスの軍艦が救援物資や避難民を運んだことも記録に残っている[97][98]

この当時、即時に海外に伝達される情報手段は実用的でなかったが、日本から長波無線を使って磐城国際無線電信局原町送信所からアメリカに情報が伝達され、無線電信による非常時の情報伝達の有効性が日本で初めて確認された。

当時、日本とアメリカと結ぶ通信線は海底ケーブルか長波無線だったがこの時、地震で海底ケーブルは不通になっており、残るは長波無線しかなかった。日本でアメリカと交信ができる長波無線は、福島県の磐城国際無線電信局しかなかった。当時、磐城国際無線電信局では被害はなかったものの、大変な被害が関東で発生しているという情報がかすかながら伝わってきた。電話などはすべて不通になっているため、急遽国内向けの無線情報を入手すべく機械を改造して情報を入手し、アメリカに向けて緊急情報を発信した。またこのアメリカ向けに発信された情報が、たまたま日本が中国北京に建設し試験中だった無線局で傍受されたため、その情報が中国国内および欧州にも伝わることになった。結果的に唯一の海外への情報連絡局となった磐城国際無線電信局だったが、当時の磐城国際無線電信局長だった米村嘉一郎は非常時の無線の活躍について「素晴らしい活躍をする手段だったが、日本では磐城一か所しか国際通信ができない設備不足、および非常時の通信体制をどのようにしておくべきかまったく準備ができていなかったことを悔いている」とのちに述べている。[99][100]

しかしこの情報により、上記の各国による多大な援助が迅速に行われることになったのである。

中華民国

清朝の元皇帝で、当時中華民国内で「大清皇帝」となっていた愛新覚羅溥儀も、地震の発生を聞くと深い悲しみに打ち沈んだ[101]。溥儀は日本政府に対する義捐金を送ることを表明し、あわせて紫禁城内にある膨大な宝石などを送り、日本側で換金し義捐金として使うように日本の芳沢謙吉公使に伝えた。なおこれに対し日本政府は、換金せずに評価額(20万ドル相当)と同じ金額を皇室から拠出し、宝石などは皇室財産として保管することを申し出た。その後、192311月に日本政府は代表団を溥儀の下に送り、感謝の意を評した[101]

溥儀はのちに日本の協力のもとで満州国皇帝となるが、この時点において溥儀は「何の政治的な動機を持たず、純粋に同情の気持ちを持って行った」と溥儀の帝師のレジナルド・ジョンストンは自著の中で回想している[102]

アメリカ合衆国

第一次世界大戦においてともに戦った日本に対するアメリカの政府、民間双方の支援はその規模・内容ともに最大のものだった。有名なスローガンMinutes make lives(数分が生死を分ける)」はこのときのもの。全米で被災者に対する募金活動が行われたほか、当時アメリカの植民地だったフィリピンアメリカ陸軍基地からもさまざまな物資が送られた。さらにアフリカ系アメリカ人指導者のマーカス・ガーベイも、大正天皇あてに電報を送るかたわら募金活動を行った。アメリカ海軍は、アジア艦隊から多数の艦船を派遣し、避難民や物資の輸送にあたらせている。

ベルギー

震災直後、ベルギー政府は「日本人罹災者救援ベルギー国内委員会」を組織し、ベルギー王室のすべてのメンバーとベルギー赤十字委員会がこれを支援し、日本への支援を積極的に行った。民間もこれに応じて募金活動やコンサート、バザーによる多額の収益金を同委員会を通じて寄付したほか、画家のエミール・バースは自らと友人の作品を提供し義捐金にあてるなど、官民一体となって支援活動が行われた。

弔慰金

拳骨拓史の談話によると、朝鮮総督府は「精細に調査した結果」としたうえで、地震による倒壊での圧死、火事での焼死など死亡や行方不明の朝鮮人を約830名と発表。この結果に基づき、震災のため死亡または行方不明になった朝鮮人の遺族に対し、一人につき200圓の弔慰金を贈り、地方官を派遣して弔門させている。その支給数は約830名分で、弔慰金の総額は166,000円と発表した[104]

一方日本人の場合は、

死亡者・行方不明者 - 16

負傷者 - 4 住宅の全焼(1世帯)- 12 住宅の全壊(1世帯)- 8 住宅の半焼・半壊(1世帯)- 4[105]

 

遷都論議[編集]

震災直後には、このような大地震が周期的に発生するおそれがある東京からの首都の移転(遷都)が日本国内で検討された[110][111][112][113]

政府内や各所で遷都の是非について議論され[110][111]、また陸軍参謀本部3つの遷都候補地を報告した[110][111][112][113]

しかし、震災11日後の912日には天皇詔書により「東京を引き続き首都として復興を行う」旨が宣言され[114]、遷都は立ち消えとなった[111]

遷都への賛成意見[編集]

内務省による紹介[編集]

内務省復興事務局による『帝都復興事業誌』(1932年)では、当局の調査による『遷都ニ関スル論議』を引用する形で、主たる遷都すべき理由および遷都せざるべき理由を紹介している。東京から遷都すべき理由としては、以下のものがあげられた[110]

百年毎に大地震を免れない、

国防上不適当(東京は太平洋に近すぎる)、

帝国の版図全体より見て不適当(当時の大日本帝国朝鮮を併合し、満州や南方までも拡大していたため、東京よりも南西の場所が好ましい)、

大都市発展の将来に鑑み不適当(東京市内の下町は地盤が弱く建築物の高層化が難しい。山手は水利運輸の便が悪い)

陸軍による意見書[編集]

陸軍参謀本部では、震災5日後の96日に、参謀次長の武藤信義の命令により参謀本部員で少佐今村均が遷都先についての意見書案を作成した。今村は文献を参考にして震災対応や防空、また大陸進出について考慮した[111]

今村は「東京は震災や防空対策の上で首都として不適格」とした上で、具体的な移転先候補を次のように報告した[110][111][112][113]

朝鮮京城(現在の大韓民国首都ソウル。当時は日本領であった)近郊の龍山

兵庫県南部の加古川

東京府西部(多摩)の八王子

マスメディアによる論説[編集]

大阪朝日新聞(現在の朝日新聞)も、震災8日後の99日の朝刊で「論説 帝都復興と遷都論 国民多数の希望を容れよ」と報じた。内容は次のようなものであった[111]

近畿地方関東地方に比べて大きな天災が少ない。

(当時の日本では)台湾朝鮮半島が支配下にあることから、(東側の関東よりも西側の近畿のほうが)地理的に日本の中心といえる。

再び京都への遷都を求める声が出ている。大阪神戸にも近く、物資も安定供給できる。

引き続き首都は東京にすると速断せず、広く国民の意見をいれて決めてほしい。

遷都への反対意見[編集]

内務大臣による基本方針[編集]

しかし、内務大臣後藤新平は『帝都復興根本策』により「遷都をせずに東京を復興する」という基本方針を次のように発表した[110]

遷都すべからず

復興費に30億円を要すべし

欧米最新の都市計画を採用して、我が国に相応しき新都を造営せざるべからず

新都市計画実施の為めには、地主に対し断固たる態度を取らざるべからず

天皇による命令[編集]

さらに、震災11日後の912日には大正天皇の詔書によって「(東京は)国都たるの地位を失わず」と発表された。この詔書の内容は次の通りであった[110]

「東京は帝国の首都にして政治経済の枢軸となり国民文化の源泉となりて民衆一般の瞻仰する所なり」

「一朝不慮の災害に罹りて今や其の舊形を留めずと雖我が国都たる地位を失わず」

「以て其の善後策は独り舊態を回復するに止まらず進んで将来の発展を圖り以て巷衢の面目を新たにせざるべからず」

この天皇の命令により、遷都しないことが正式に決定された。以後、遷都に関する議論は下火となった[110]

人口動態[編集]

震災による被害の大きかった東京市横浜市の市街地からは人口が流出し、郊外への移住者が相次いだ。前年の1922年(大正11年)から田園都市会社によって洗足田園都市住宅地の分譲が始まり、同じ年には箱根土地による目白文化村の分譲が始まったが、いずれも被害が限定的だったことから震災後は人口が増加する。さらには常盤台国立学園都市など郊外での住宅開発が相次ぎ、郊外に居住して都心部の職場へ通うことが一種のステータスとなった。震災をきっかけに東京府多摩地域埼玉県南部・千葉県西部・神奈川県東部では急速に都市化し、首都圏が形成されていくようになる。

その一方で、大阪市は東京・横浜からの移住者も加わって人口が急増し、一時的に大阪市が東京市を抜き国内でもっとも人口の多い市となった[注釈 13]名古屋市京都市神戸市も関東からの移住者によって人口が一時的に急増した。この状況は1932年(昭和7年)に東京市が近隣町村を大規模編入するまで続いた。

歴史認識問題[編集]

関東大震災時における朝鮮人殺害事件は、現在、歴史認識問題ともなっている。

横浜市立中学校の副読本の内容について、当該の副読本の出版社は2011年(平成23年)に、関東大震災の折にデマが原因で朝鮮人が殺害されたことについて、従来「自警団の中に朝鮮人を殺害する行為に走るものがいた」との内容だったのを、「軍隊や警察、自警団などは朝鮮人に対する迫害と虐殺を行った。横浜でも各地で自警団が組織され、朝鮮人や中国人が虐殺される事件が起きた」とする内容に改定した[117][118]。市議会ではこの変更が問題となり、横浜市教育委員会は「横浜でも軍隊や警察による虐殺があったと誤解を受ける」として、当時の指導課長を20129月に戒告処分としたほか、当時の指導主事らも文書訓戒とした[118]

2013年(平成25年)23日、韓国記録写真研究家のチョン・ソンギルが岡田紅陽が東京府の委嘱を受け撮影し、震災の89日後に発売した『大正大震災大火災惨状写真集』と私家版のアルバム所収の「吉原公園魔ノ池附近」と記された吉原遊女犠牲者の写真[注釈 14][注釈 15]を、関東大震災における朝鮮人虐殺時の写真として公開し、韓国の聯合ニュースで報道された[120][115][注釈 16]

文化[編集]

谷崎潤一郎プラトン社の面々など関東の文化人が関西に大勢移住して阪神間モダニズムに影響を与えるなど大大阪時代に拍車をかけた。震災によって職を失った東京の天ぷら職人が日本各地に移住したことで江戸前天ぷらが広まったり(反面、関西の割烹料亭が東京へ進出)、震災をきっかけに関東と関西で料理人の行き来が起こって関西風のおでん種が関東に伝わったり[121]、客に相対してのカウンター文化が関東に広まったり(それまでは関東は客は席に座ってから店が注文を取るやり方が主流だった)と、震災は文化面でも様々な影響を与えた。

経済界へおよぼした影響[編集]

91日、震災で関東経済界はまひした。 97日、緊急勅令 支払猶予令が公布され、91日から30日間モラトリアム実施。 98日、東京の銀行一部営業を再開し、915日ころまでに大手各銀行とも再開し、925日に横浜で組合銀行が再開した[122] 98日、大阪株式取引所再開、株価は暴落、下旬には回復した[123] 911日、勅令で、米穀輸入税免除令が公布され、1924331日まで免除された。 912日、緊急勅令で、生活必需品・土木建築用機材の輸入税減免を公布。 917日、横浜生糸取引所、現物市場が再開、定期取引は111日から再開[124] 922日、勅令で、臨時物資供給令公布。 929日、日銀副総裁、担保貸付の拡張など資金融通の方針を発表[125] 9月の物価は生活必需品・建築材料を中心に高騰し、日銀東京卸売物価指数総平均は前月比10パーセント上昇し、19252月以降下降した[126] 101日、東京手形交換所は手形交換を再開し、1025日、横浜手形交換所、1027日、東京株式取引所、115日、東京米穀商品取引所、それぞれ再開した[124][127] 108日、日本興業銀行臨時工業資金部は、大蔵省預金部からの借入1000万円を原資として中小企業救済融資を開始した[128] 1224日、震災善後公債法が公布され、震災復興事業のために46850万円を限度に発行。 12月、日本興業銀行は、大工業復旧資金を融資した。19241月までに大蔵省預金部からの借入で1200万円を貸付[128]

脚注[編集]

注釈[編集]

8.    ^ この地震の震源の位置は研究者によって見解が異なっており、相模湾のほぼ中央部を震源とする説(今村明恒[1924]の北緯34.98度、東経139.37度、ハーバート・ターナー[1927]の北緯35.0度、東経139.5度)、相模湾の北部を震源とする説(Matuzawa[1928]の北緯35.27度、東経139.33度、ベノー・グーテンベルグチャールズ・リヒター[1954]の北緯35.25度、東経139.5度、宇佐美龍夫[1966]の北緯35.2度、東経139.3度)、神奈川県秦野市付近を震源とする説(金森博雄、宮村摂三[1970]の北緯35.4度、東経139.2度)、山梨県の河口湖付近を震源とする説(Hirano[1924])などがある。また震源の深さについては金森と宮村が0-10kmと推定している[3]。地震の規模を表すマグニチュード(M)は、7.9から8.3の推定が有る[4][5][6]

9.    ^ 当時の電力会社の外債発行状況は以下のように英米向けである。復興に不必要な最新設備をゼネラル・エレクトリックなどから購入する費用も含まれている。NHK 1995.

10. 東京電灯 大正12年(1923年)6 300万ポンド

11. 大同電力 大正13年(1924年)8 1500万ドル

12. 東京電灯 大正14年(1925年)2 60万ポンド

13. 宇治川電気 大正14年(1925年)3 1400万ドル

14. 東邦電力 大正14年(1925年)3 1500万ドル

15. 東邦電力 大正14年(1925年)7 30万ポンド

16. 大同電力 大正14年(1925年)7 1350万ドル

17. 東京電灯 大正14年(1925年)8 2400万ドル

18. 信越電力 昭和2年(1927年)12 675万ドル

19. 日本電力 昭和3年(1928年)1 900万ドル

20. 東京電灯 昭和3年(1928年)6 7000万ドル

21. 東京電灯 昭和3年(1928年)6 400万ポンド

22. 東邦電力 昭和4年(1929年)7 1145万ドル

23. 日本電力 昭和6年(1931年)2 150万ドル

24. 台湾電力 昭和6年(1931年)7 2280万ドル

25. 外債を引き受けた金融機関を発行元ごとに掲げる。日本興業銀行 『日本外債小史』 1948 444-9

26. 東京電灯 - 1890年(明治23年)から死去までリチャード男爵が社長だったAnglo-American Debenture; The Whitehall Trust; モルガンのギャランティ・トラストラザードディロン・リード(ディロン債は信越電力より債務承継)

27. 大同電力 - ディロン・リード

28. 宇治川電気Lee, Higginson & Co.

29. 東邦電力 - ギャランティ・トラストPludencial Assurance Co.; ギャランティ・トラスト

30. 日本電力Harris, Forbes & Co.

31. 台湾電力 - JPモルガンクーン・レーブナショナル・シティー; ニューヨーク・ファースト・ナショナル横浜正金銀行

32. ホワイトホール・トラストをつくったピアソンは、1999年(平成11年)までラザード株の半分を保有した。ピアソンの沿革は英語版Pearson plc History を参照。

33. ^ 陸軍本所被服廠跡地の面積が東京ドーム1.5倍であるため。

34. ^ 場所は現在の横浜人形の家のあたりにあり、ドイツ人が経営していた。震災後に開業したホテルニューグランドとの経営的な繋がりはない。

35. ^ 震災で全壊し廃業したが、その跡地にはホテルニューグランドが建設された。

36. ^ 日本におけるラジオ放送開始は1924年(大正13年)(ラジオ#日本初のラジオ放送)。

37. ^ 関東大震災犠牲同胞慰霊碑を参照。

38. ^ 日本共産党員で詩人の壺井繁治の詩「十五円五十銭」による。ただし創作以上のものは未確認。

39. ^ 実際は、4合ビンに入った井戸水を飲み干して見せ、「朝鮮人が井戸に毒を入れたというのはデマである」と、自警団を追い返したのは、朝鮮人49人を保護した川崎警察署長・太田淸太郎警部との検証もある(「神奈川県下の大震火災と警察」神奈川県警察部高等課長西坂勝人著)(毎日新聞湘南版200699日朝刊)

40. ^ 朝鮮罹災同胞慰問班の一員から聞いたという伝聞(「朝鮮人虐殺事件」吉野作造 『現代史資料(6) 関東大震災と朝鮮人虐殺』P357

41. ^ この調査では「屍体を発見できなかった同胞」数が2,889人として、これも「虐殺数」に計算している。

42. ^ 当時および2017年(平成29年)現在の大韓民国政府の「部」は日本の「省」に相当し、その長官は日本の大臣に相当する

43. ^ 大阪市は1925年(大正14年)に近隣の東成郡西成郡全域を編入したため、単純に市の面積が東京市より広いということもあった。

44. ^ 岡田紅陽写真美術館による[116]

45. ^ 同写真は東京大学社会情報研究所廣井研究室のウェブページに 「東京吉原遊郭内池中より水死者引上の惨状」]として掲載されている[119]

46. ^ 明治44年(1911年)の吉原大火時の写真を捏造したものではないかとも話題になった[115]

47. 出典[編集]

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後藤 新平(ごとう しんぺい、1857724安政4641929昭和4年)413)は、日本医師官僚政治家位階勲等爵位正二位勲一等伯爵

台湾総督府民政長官。南満州鉄道(満鉄)初代総裁。逓信大臣内務大臣外務大臣東京市7代市長、ボーイスカウト日本連盟初代総長。東京放送局(のちの日本放送協会)初代総裁。拓殖大学3代学長を歴任した。

計画の規模の大きさから「大風呂敷」とあだ名された、植民地経営者であり、都市計画家である。台湾総督府民政長官、満鉄総裁を歴任し、日本の南方・大陸進出を支え、鉄道院総裁として国内の鉄道を整備した。関東大震災後に内務大臣兼帝都復興院総裁として東京帝都復興計画の立案・推進にも従事した[1]

生涯[編集]

生い立ち・医師時代[編集]

仙台藩水沢城下に、仙台藩一門留守家の家臣・後藤実崇と利恵の長男として生まれる[2]江戸時代後期の蘭学者高野長英は遠縁に当たる。

1867年、11歳で留守邦寧の奥小姓となる[3]

廃藩置県後、胆沢県大参事であった安場保和に認められ、後の海軍大将斎藤実とともに13歳で書生として引き立てられ、県庁に勤務した。15歳で上京し、東京太政官少史・荘村省三の下で門番兼雑用役になる。安場との縁はその後も続き、安場が岩倉使節団に参加して帰国した直後に福島県令となると後藤は安場を頼り、16歳で福島洋学校に入った。

後藤本人も最初から政治家を志していたとされるが、恩師・安場や岡田(阿川)光裕の勧めもあって、17歳で須賀川医学校に入学。同校では成績は優秀で、卒業後は山形県鶴岡の病院勤務が決まっていたが、安場が愛知県令を務めることになり、それについていくことにして愛知県医学校(現・名古屋大学医学部)の医者となる。ここで彼は目覚ましく昇進して24歳で学校長兼病院長となり、病院に関わる事務に当たっている。またこの間、明治15年(188246岐阜の神道中教院で開催された板垣退助の政論演説会で、板垣が暴漢に刺され負傷する事件が発生。後藤が板垣退助を診察している。この際、後藤は「閣下、御本懐でございましょう」と言ったという。後藤の診察を受けた後、板垣は「彼を政治家にできないのが残念だ」と口にしたという。またこの時期に安場の次女・和子を妻にもらう。

明治14年(1881年)、愛知県千鳥ヶ浜に海水浴場が開かれ、これは後藤の指導によると伝えられている。この前年に開設された日本最古の医療目的の海水浴施設沙美海岸(岡山県倉敷市)に次ぎ、同じ年に開設された富岡海岸(横浜市金沢区)、兵庫県須磨海岸に並ぶもので、医療としての海水浴に先見の明を持っていた。

医師として高い評価を受ける一方で、先進的な機関で西洋医学を本格的に学べないまま医者となったことに、強い劣等感を抱いていたとも伝わっている。

明治15年(18822月、愛知県医学校での実績や才能を見出され、軍医石黒忠悳に認められて内務省衛生局に入り、医者としてよりも官僚として病院・衛生に関する行政に従事することとなった。

明治23年(1890)、ドイツに留学。西洋文明の優れた部分を強く認める一方で同時にコンプレックスを抱くことになったという。帰国後、留学中の研究の成果を認められて医学博士号を与えられ、明治25年(189212月には長與專齋の推薦で内務省衛生局長に就任した。

明治26年(1893)、相馬事件に連座して5ヶ月間にわたって収監された。最終的には無罪となったものの衛生局長を非職となり失脚し、長與專齋にも見捨てられる破目となった。

「生物学の原則」に則った台湾統治[編集]

内務省衛生局員時代に局次長として上司だった陸軍医務局長兼大本営野戦衛生長官の石黒忠悳が、陸軍次官兼軍務局長児玉源太郎に後藤を推薦したことによって、明治28年(189541日、日清戦争の帰還兵に対する検疫業務を行う臨時陸軍検疫部事務官長として官界に復帰し、広島宇品港似島似島検疫所)で検疫業務に従事して、その行政手腕の巧みさから、臨時陸軍検疫部長として上司だった児玉の目にとまる。

明治31年(18983月、その児玉が台湾総督となると後藤を抜擢し、自らの補佐役である民政局長1898620日に民政長官)とした。そこで後藤は、徹底した調査事業を行って現地の状況を知悉した上で経済改革とインフラ建設を強引に進めた。こういった手法を後藤は自ら「生物学の原則」に則ったものであると説明している(比喩で「ヒラメの目をタイの目にすることは出来ない」と語っている)。それは「社会の習慣や制度は、生物と同様で相応の理由と必要性から発生したものであり、無理に変更すれば当然大きな反発を招く。よって現地を知悉し、状況に合わせた施政をおこなっていくべきである」という思想だった。

台湾の調査事業[編集]

まず台湾における調査事業として臨時台湾旧慣調査会を発足させ、京都帝国大学教授で民法学者の岡松参太郎を招聘し、自らは同会の会長に就任した。また同じく京都帝大教授で行政法学者の織田萬をリーダーとして、当時まだ研究生であった中国哲学研究者の狩野直喜、中国史家の加藤繁などを加えて、清朝の法制度の研究をさせた。これらの研究の成果が『清国行政法』であり、その網羅的な研究内容は近世・近代中国史研究に欠かせない資料となっている。

人材の招聘[編集]

開発と同時に人材の招聘にも力を注いだ。アメリカ合衆国から新渡戸稲造を招いた際には、病弱を理由に断る新渡戸を執務室にベッドを持ち込むことなどの特別な条件を提示して結局承諾させている。スカウトされた新渡戸は、殖産局長心得、臨時台湾糖務局長として台湾でのサトウキビサツマイモの普及と改良に大きな成果を残している。また、生涯の腹心となった中村是公と出会ったのも台湾総督府時代だった。また、欧州留学中に知り合った林学者河合太郎を招聘し[4][5]、河合は阿里山の森林資源調査、ひいては阿里山森林鉄路の開通に多大な成果をもたらしている。衛生局時代に知り合った医学者の高木友枝は、台湾でのペストやマラリア撲滅を実現するために後藤が招聘し台湾総督府医学校校長および設立した総督府研究所の所長に据えた[6]

阿片漸禁策[編集]

当時は中国本土と同様に台湾でも阿片の吸引が庶民の間で蔓延しており、これが大きな社会問題となっていた。また、「日本人は阿片を禁止しようとしている」という危機感が抗日運動の引き金のひとつともなっていった。これに対し後藤は、阿片を性急に禁止する方法を採らなかった。

後藤はまず、阿片に高率の税をかけて購入しにくくさせるとともに吸引を免許制として次第に常習者を減らしていく方法を採用した。この方法は成功し、阿片常習者は徐々に減少した。総督府の統計によると、明治33年(1900年)には169千人いた阿片常習者は大正6年(1917年)には62千人、昭和3年(1928年)には26千人にまで減少している。こののち総督府では昭和20年(1945年)に阿片吸引免許の発行を全面停止、施策の導入から50年近くをかけて台湾では阿片の根絶が達成された。

しかし後藤の阿片政策には、後藤自身が、杉山茂丸らをパートナーとして阿片利権・裏社会との関わりを深めていったという見方も存在する。さらに後藤はまた、台湾総督府の阿片専売収入増加を図るために、阿片吸食者に売る阿片煙膏のモルヒネ含有量を極秘裡に減らして、より高い阿片煙膏を売り付けることを行い、その秘密を守り通すため、総督府専売局が、後藤と癒着した星製薬(創立者の星一が後藤の盟友である杉山茂丸の書生出身)以外の製薬業者による粗製モルヒネの分割払い下げ運動を強硬に拒んだことから、星製薬をめぐる疑獄事件である台湾阿片事件が発生したことが明らかにされている[7]

満鉄総裁[編集]

明治39年(1906)、南満洲鉄道初代総裁に就任し、大連を拠点に満洲経営に活躍した。ここでも後藤は中村是公や岡松参太郎ら台湾時代の人材を多く起用するとともに30代、40代の若手の優秀な人材を招聘し、満鉄のインフラ整備、衛生施設の拡充、大連などの都市の建設に当たった。また満洲でも「生物学的開発」のために調査事業が不可欠と考え、満鉄調査部を発足させている。

当時、清朝の官僚の中で満州に大きな関心を持っていたのは袁世凱を中心とする北洋軍閥であり、明治40年(19074月の東三省建置に当たっては、彼の腹心である人物が多く要職に配置された。彼らは日本の満州における権益独占を好まず、盛んにアメリカを引き込もうとし、その経済力を以って満鉄に並行する路線を建設しようとした。これは大連を中心に満鉄経営を推し進めていた日本にとって大きな脅威であった。

そこで後藤は袁に直接書簡を送ってこれが条約違反であることを主張し、この計画を頓挫させた。ただし満鉄への連絡線の建設の援助、清国人の満鉄株式所有・重役就任などを承認し、反日勢力の懐柔を図ろうとしている。また日露戦争後も北満州に勢力を未だ確保していたロシア帝国との関係修復にも尽力し、満鉄のレールをロシアから輸入したり、伊藤博文とロシア側要路者との会談も企図したりしている(ただしこの会談は伊藤がハルビンで暗殺されたため実現しなかった)。

当時の日本政府では満州における日本の優先的な権益確保を唱える声が主流であったが、後藤はむしろ日清露三国が協調して互いに利益を得る方法を考えていたのである。

拓殖大学学長[編集]

大正8年(1919)、拓殖大学(前身は桂太郎が創立した台湾協会学校)学長に就任(在職:大正8年(1919年)224[8]-昭和4年(1929413)。拓殖大学との関係は台湾総督府民政長官時代、設立間もない「台湾協会学校」の良き理解者としてたびたび入学式や卒業式で講演して物心両面において支援していたが[9]、大正8年(1919年)より第3代学長として直接拓殖大学の経営に携わることとなった。そして当時公布された大学令に基づく「大学(旧制大学)」に昇格すべく各般の整備に取りかかり、大正11年(192265日、大学昇格を成し遂げるなど[10]亡くなる昭和4年(1929年)4月まで学長として拓殖大学の礎を築いた。 学内での様子は当時の記録として「は学生に対しては慈愛に満ちた態度を以て接せられ(中略)、学生も親むべき学長先生として、慈父に対するやうな心安さを感じてゐた」と当時の記録にあるように[11]学生達に心から慕われていた。大正9年(1920512日には、早稲田大学の科外講師として「吾が国大学生の覚悟」と題する講義を行っている[12]。当時の邸宅は、水道橋駅から後楽園方面に降りて秋葉原方向の坂道を登る途中にある、昭和第一高校の前の公園であった。

関東大震災と世界最大規模の帝都復興計画[編集]

震災復興再開発事業#関東大震災」および「関東大震災#復興」も参照

2次桂内閣で逓信大臣・初代内閣鉄道院総裁(在職:明治41年(1908年)714 - 明治44年(1911年)830)、寺内内閣内務大臣(在職:大正5年(1916年)109 - 大正7年(1918年)423日)・外務大臣(大正7年(1918年)423 - 928日)、しばし国政から離れて東京市(大正9年(1920年)1217 - 大正12年(1923年)420日)、2次山本内閣で再び内務大臣(大正12年(1923年)92 - 大正13年(1924年)17日)等を歴任した。

鉄道院総裁の時代には、職員人事の大幅な刷新を行った。これに対しては内外から批判も強く「汽車がゴトゴト(後藤)してシンペイ(新平)でたまらない」と揶揄された。今日のJR九州肥薩線にその名前を取った「しんぺい」号が走っている。

組閣の真っ最中に関東大震災の洗礼を受けた第2次山本内閣では、後藤が内務大臣兼帝都復興院総裁として速やかに震災復興計画を立案した。それは大規模な区画整理と公園・幹線道路の整備を伴うもので、13億円という当時の国家予算の約1年分の巨額予算のため、財界や政友会からの猛反対に遭った。その上、後藤のお膝元である帝都復興院も、積極派の副総裁・松木幹一郎、建築局長・佐野利器らと、消極派で拙速主義を採り予算を削減しようとする副総裁・宮尾舜治、計画局長・池田宏らとに割れ、総裁である後藤には両派の対立を調停するだけの力がなかった[13]。さらに総理の諮詢に応じて重要な案件を審議し最終的に政府案を承認した震災復興審議会では、枢密院の大物として政官界に大きな影響力を持つ伊東巳代治が得意の憲法論で復興院案反対の急先鋒となり、1124日の会合では3時間にわたって熱弁を奮い原案を糾弾、結局これで審議会の大勢は原案の大幅削減に傾いてしまった。結局議会が承認した予算は57500万円に過ぎず、当初計画を縮小せざるを得なくなった。それでも現在の東京都市骨格、公園や公共施設の整備の骨格は、今なおこの復興計画に負うところが大きい。震災復興計画の方法について、後藤は19世紀中葉のフランス第二帝政下でセーヌ県知事だったジョルジュ・オスマンが行った「パリ改造」を参考に、土地を地権者から大胆に収用する手法を採ろうとした。しかし日本は土地に対する絶対的な私有感覚が極めて強く、財産権の内在的・外在的制約(大日本帝国憲法272項、日本国憲法第2923項)に対する理解が浅かったため、地主や地権者の激しい抵抗を受けることとなった。

道路建設に当たっては、東京から放射状に伸びる道路と環状道路の双方の必要性を強く主張し、計画縮小されながらも実際に建設された。南北軸としての昭和通り、東西軸としての靖国通り(当初の名称は「大正通り」)、環状線の基本となる明治通り(環状5号線)など、一定の街路は、曲がりなりにも実際に建設が行われている。当初の案では、主要街路の幅員は広い歩道を含め70mから90m、中央または車道・歩道間に緑地帯を持つという大規模な構想で、自動車が普及する以前の時代ではその意義が理解されにくかった。

今日では行幸通りなどにそれに近い形で建設された姿を見ることができる。現在の東京の幹線道路網の大きな部分は後藤に負っていると言ってよく、特に下町地区では帝都復興事業以降に新たに街路の新設が行われておらず、帝都復興の遺産が現在インフラとしてそのまま利用されている。また、昭和通りの地下部増線に際し、拡幅や立ち退きを伴わず工事を実施でき、その先見性が改めて評価された事例もある。しかし、昭和通りは、建設当初は大阪御堂筋に匹敵するような、街路樹や緑地帯を備えた東京の顔にふさわしい道路であったにも関わらず、前述の交差点の地下立体交差や首都高速道路の高架道路の建設により、後藤の意図したようなゆったりした緑の多い街路としての性質は、昭和40年代以降完全に失われてしまった[14]

緑地政策に関しては、隅田公園浜町公園など、近代的な公園緑地を建設することも忘れなかったが、比較的小規模なものにならざるを得ず、ロンドンニューヨークパリ等の大都市と比しても圧倒的に森が少なくなってしまったことが批判されている。また、後藤は地方自治のプロとして、小学校を地域の中核とする地域コミュニティの再編を進めたが、後藤が帝都復興計画の模範としたパリ大改造は、為政者にとって厄介なものだったフランス革命以来のパリの地域コミュニティを破壊することを隠れた目的としていたため、街路整備に不可避的に付随して、旧来の地域コミュニティの結束点をかなりの部分破壊してしまったという問題を指摘する者もいる。

ソ連外交とその後[編集]

後藤が満鉄時代に関わったロシア帝国は第一次世界大戦後期のロシア革命で崩壊し、社会主義共産主義を掲げるソビエト連邦(ソ連)が成立した。後藤は東京市長だった大正12年(1923)、国民外交の旗手として、ソ連の外交官アドリフ・ヨッフェ伊豆熱海で会談し、ソ連との国交正常化の契機を作った。ヨッフェは、当時モスクワに滞在していたアメリカ共産党員・片山潜の推薦を受けて派遣された。黎明会を組織した内藤民治田口運蔵等の社会主義者だけでなく、右翼団体「黒龍会」の内田良平も、中華民国北京にいるヨッフェに使者を送って仲立ちにあたった。一部から後藤は「赤い男爵」といわれたが、あくまで日本とロシアの国民の友好を唱え、共産主義というイデオロギーは単なるロシア主義として恐れず、むしろソビエト・ロシアの体制を軟化させるために、日露関係が正常化される事を展望していた。

大正13年(1924)、社団法人東京放送局が設立され、初代総裁となる。試験放送を経て翌大正14年(1925322、日本で初めてのラジオ仮放送を開始。総裁として初日挨拶を行った[15]。大正15年(1926)、東京放送局は大阪放送局、名古屋放送局と合併し、社団法人日本放送協会に発展的解消する)。

昭和3年(1928年)、後藤はソ連を訪問してスターリンと会見、国賓待遇を受ける。少年団日本連盟会長として渡航。その際、少年達1人が1粒を送った米による握り飯を泣きながら食べ渡航したという。当時の情勢的に日中露の結合関係の重要性(新旧大陸対峙論)は後藤が暗殺直前の伊藤博文にも熱く語った信念であり、田中義一内閣が拓務省設置構想の背後で構想した満洲委任統治構想、もしくは満洲における緩衝国家設立を打診せんとしたものとも指摘されるが、詳細は未だに不明である。後の満鉄総裁・松岡洋右日ソ中立条約締結に訪ソした際「後藤新平の精神を受け継ぐものは自分である」と、ソ連側から盗聴されていることを知りつつわざと大声で叫んだとされる。

なお、しばしば総理大臣候補として名前が取り沙汰されながら結局就任できなかった原因として、3次桂内閣の逓信大臣当時の第一次憲政擁護運動で前首相にして政友会総裁の西園寺公望の失脚を画策し、最後の元老となった西園寺に嫌われていたことが大きいと徳富蘇峰が語っている。

晩年[編集]

明治36年(1903年)1120日、貴族院勅選議員となり[16]、終生在籍した。晩年は政治の倫理化[17]を唱え各地を遊説した。

昭和4年(1929年)44日午前7時過ぎ、岡山で開かれる日本性病予防協会総会に向かう途中、米原駅付近を走行中の急行列車内で、一等寝台のコンパートメントから起き上がり窓際へ出ようとしたところを、後ろによろめいた。口から泡を吹き、呼んでも意識がなかった。後藤にとっては3度目となる脳溢血だった。たまたま同じ列車に乗り合わせた財部彪(元海軍大臣)らが駆け付け、次の大津駅で降ろすことも検討されたが、病院が充実した京都駅へ向かった。京都駅では列車を停めたまま、医学博士の松浦武雄が乗り込んで強心剤を数回注射するなど治療に当たった。松浦はさらに、京都駅長の許可を得て列車の窓ガラスを破って後藤の身体をホームに用意した担架に寝かせて駅貴賓室に移したが意識は戻らず、京都府立医科大学医院に入院したまま413に死去した[18]戒名は天真院殿祥山棲霞大居士[19]

三島通陽の『スカウト十話』によれば、後藤が倒れる日に三島に残した言葉は「よく聞け、金を残して死ぬ者は下だ。仕事を残して死ぬ者は中だ。人を残して死ぬ者は上だ。よく覚えておけ」であったという。

平成314月、台湾台北にある臨済護国禅寺にあるデスマスクが新平本人の物であると分かった[20]3つ作られたデスマスクのうちの1つで、新平が生前親しくしていた台湾の実業家の辜顕栄が献納したものである。

栄典[編集]

位階

1886(明治19年)78 - 従六位[21]

1892(明治25年)

222 - 正六位[22]

1212 - 従五位[23]

1897(明治30年)820 - 正五位[24]

1898(明治31年)530 - 従四位[25]

1903(明治36年)710 - 正四位[26]

1906(明治39年)1130 - 従三位[27]

1911(明治44年)720 - 正三位[28]

1929(昭和4年)413 - 正二位[29]

勲章等

1895(明治28年)1130 - 勲六等単光旭日章[30]

1897(明治30年)1228 - 勲五等瑞宝章[31]

1901(明治34年)627 - 勲三等瑞宝章[32]

1902(明治35年)124 - 勲二等旭日重光章[33]

1903(明治36年)1120 - 貴族院議員章[34]

1906(明治39年)

411 - 男爵[35]

1113 - 勲一等旭日大綬章[36]

1908(明治41年)1124 - 金盃一組[37]

1912(大正元年)81 - 韓国併合記念章[38]

1915(大正4年)1110 - 大礼記念章[39]

1920(大正9年)97 - 旭日桐花大綬章[40]

1922(大正11年)925 - 子爵[41]

1928(昭和3年)1110 - 伯爵[42]

1929(昭和4年)413 - 帝都復興記念章[43]

外国勲章佩用允許

1908(明治41年)

23 - プロイセン王国:王冠第一等勲章[44]

914 - ロシア帝国:白鷲大綬章

1910(明治43年)715 - ブラウンシュヴァイク公国:ハインリヒ・デス・レーウェン第一等勲章[45]

1918(大正7年)713

イギリス帝国大英帝国勲章一等

支那共和国:一等大綬嘉禾章

1919(大正8年)1226 - ベルギー王国:王冠第一等勲章

逸話[編集]

内務大臣に在任中、度重なる雑誌発禁処分により窮した大杉栄の不意の訪問を受ける。「いま非常に生活に困っているんです。少々の無心を聞いてもらえるでしょうか」と言う大杉に対して後藤は「あなたは実にいい頭を持ってそしていい腕を持っているという話ですがね。どうしてそんなに困るんです。」と応え、「政府が僕らの職業を邪魔するからです。」「が、特に私のところへ無心にきたわけは。」「政府が僕らを困らせるんだから、政府へ無心にくるのは当然だと思ったのです。そしてあなたならそんな話は分かろうと思ってきたんです。」「そうですか、分かりました。」というようなやりとりの後、300円を大杉に手渡している。大杉によれば、伊藤野枝の遠縁にあたる頭山満から紹介された杉山茂丸に、台華社での交渉で山口孤剣白柳秀湖を例に挙げて「国家社会主義ぐらいのところになれ」と軟化を迫られ、すぐその家を辞したものの、杉山の口から後藤新平の名前が度々出たことから後藤への無心を思いついたと語っている(『大杉栄自叙伝』より)

金権政治家の典型で、「黄金万能主義の権化」といった形で度々批判された。問題にされがちだったのは台湾民政長官時代に樟脳専売利権で結びついた、「政商」と言われた金子直吉の率いる鈴木商店との関係であった[46]

東京市長時代、3人の補佐役(永田秀次郎池田宏前田多門)を「畳屋」と称した。畳屋の由来は""の旧字体(3つの""の下に""がある)をもじって、3人の補佐役がいずれも名前の中に""の字を含んでおり、「東京市政は永田・池田・前田の3人に任せておけば宜(よろ)しい」の意である[47]。他にも「サンタクロース」(「三田苦労す」の捩り)という別名もある。

軽井沢では、新渡戸稲造とともに1918年に「軽井沢夏季大学」を開設(校舎はあめりか屋設計。現存せず)、この催しは戦前戦後の一時中断を挟み、現在まで毎年続けられている。また、若き日の堤康次郎に沓掛(現・中軽井沢)周辺の開拓を勧めたのは後藤であり、この堤の事業はのちの西武グループの原点となった。加えて堤には前述の東京での事業と同様、軽井沢で開発する道路の幅員は広く設計するよう助言、それは1925年に開通した県道43号線(通称「プリンス通り」)で実現されている。

日本のボーイスカウト活動に深い関わりを持ち、ボーイスカウト日本連盟の初代総長を務めている。スカウト運動の普及のために自ら10万円の大金を日本連盟に寄付し、さらに全国巡回講演会を数多く実施した。ボーイスカウトの半ズボンの制服姿の写真が現在も残っている。制服姿の後藤が集会に現れると、彼を慕うスカウトたちから「僕等の好きな総長は、白いお髭に鼻眼鏡、団服つけて杖もって、いつも元気でニコニコ」と歌声が上がったという。

上記の巡回の一環で、同じ水沢出身で朝鮮総督斎藤実を訪ねた際の挨拶では、「吾輩がかような子供っぽい服装をして来たのは偶然ではない。理由がある。今この会長をやっているため普及宣伝ということもあるが、朝鮮であろうが、内地だろうが常にこうである。そのわけは大政治家は、しかつめらしいことばかり言っていては、だめだ。稚気がないといかんということを念頭においているので、自分を律する意味においても、常にこういう服装をしているのだ。こどもにならんと本当の大政治家にはなれんよ」と語った[48]

晩年はソビエト連邦との国交回復に尽力する一方、数の論理で支配される政党政治を批判し、倫理確立による選挙粛正を唱え全国を遊説した。

シチズン時計の名付け親でもある(後藤と親交のあった社長から新作懐中時計の命名を頼まれ、「市民から愛されるように」と、市民を意味するCITIZENの名を贈った)。

虎ノ門事件の責任を取らされ内務省を辞めた正力松太郎読売新聞の経営に乗り出したとき、上司(内務大臣)だった後藤は自宅を抵当に入れて資金を調達し、何も言わずに貸した。その後、事業は成功し借金を返そうとしたが、もう既に彼は死亡していた。そこで、正力はその恩返しとして後藤の故郷である水沢町(当時)に借りた金の2倍近い金を寄付した。この資金を使って、1941に日本初の公民館が建設された。

地下鉄の父・早川徳次の「東京に地下鉄を作りたい」という構想に理解を示し、支援者に名を連ねたひとりであった。

現在の駐日中華人民共和国大使館は後藤邸の跡地である。

美濃部亮吉東京都知事時代に「私は後藤新平とよく政策とかが似ているといわれるが、どうしても都知事と総理大臣の給料を同じにすることができなかった」と発言したが、後藤は東京市長の給料を全額東京市に寄付していた。

後藤は巷で「大風呂敷」の他、「この際主義」とも呼ばれ[49]、関東大震災時に「この際」という言葉が伝播して羽田空港や乗馬場建設など皆が震災を機に「この際」やろうではないかと声を上げた[50]。そのことを社会主義者の演歌師添田唖蝉坊が風刺して「コノサイソング」という演歌を歌い始めた[50]。庶民はこの風刺演歌をさらに替え歌にして甘粕事件を風刺した[50]

反米左翼[編集]

後藤は1902年の視察以来アメリカの台頭を強く懸念するようになり、日本・中国・ヨーロッパのユーラシア大陸が連携して対抗するべきだと考えていた[51]

駄場 (2007, pp. 261–266)は、戦間期の日本において最も有力な反米親ソの政治家だった後藤新平[ 1][ 2]は、下に見るように、親族に多くの著名な左翼活動家を持つ反米左翼の庇護者であり、その影響力は後藤の死後、現代まで続いた。そのため、米ソ対立の冷戦イデオロギーの下、親ソ派であるか否かが、その人物に対する優劣・善悪の判断と直結しがちであった第二次世界大戦後の日本の学界において、後藤を実績以上に高く評価する方向へ学界世論が導かれたのではないか、としている。また同書では、このことと、後藤直系官僚から、岩永裕吉同盟通信社社長)、下村宏朝日新聞社副社長)、岡實大阪毎日新聞社会長)、正力松太郎読売新聞社社長)、前田多門(東京朝日新聞社論説委員)が中央マスメディア企業の幹部に転じ、また後藤の盟友杉山茂丸玄洋社における後輩緒方竹虎が朝日新聞社主筆として社長をしのぐ実力を持ったことにより、後藤系の勢力がマスメディア業界に牢固たる地盤を築いたことが相俟って、戦後の言論界で、後藤が過大評価される原因になったのではないか、としている。

また、日本で左翼というと「反皇室」というイメージを抱かれがちであるが、下の鶴見和子美智子皇后鶴見良行秋篠宮文仁親王の関係に見られるように、後藤新平に由来する反米左翼勢力は、皇族と太いパイプを持っている。

佐野学

獄中転向で有名な日本共産党中央委員長佐野学は、後藤新平の女婿である佐野彪太の弟で、東京帝国大学法学部大学院で学び、日本勧業銀行に勤務。その後、後藤の伝手で満鉄東亜経済調査局嘱託社員となり、さらに早稲田大学商学部講師となった。佐野学は19227月に日本共産党(第一次共産党)に入党し、翌年2月の党大会(市川大会)で執行委員・国際幹事に選出された。そしてヨッフェ来日中の同年5月末、第一次共産党事件65)による検挙を逃れてソ連に亡命したが、その際、後藤は、佐野学の亡命に関する情報をヨッフェ経由でソ連に流し、亡命を援助した[52]。佐野学が第一次共産党事件の検挙を免れたことについては、当時から、後藤が援助したのではないかと、政友会が議会で2次山本内閣内務大臣の後藤を追及していた[53]。佐野学は19257月に帰国して共産党を再建(第二次共産党)。19251月の日ソ基本条約調印によりソ連大使館が開設され、そこに商務官の肩書きで派遣されていたコミンテルン代表のカール・ヤンソンから活動資金を得て、『無産者新聞』の主筆を務めた。19263月、第一次共産党事件で禁錮10ヶ月の判決を受け、同年末まで下獄した佐野学は、192712月に共産党中央委員長に就任、労働運動出身の鍋山貞親とともに党を指導した。さらに佐野学は、1928三・一五事件でも、その前日に日本を発って訪ソして一斉検挙を逃れ[ 3]、コミンテルン第6回大会に日本共産党首席代表として出席。後藤最後の訪ソ時にもモスクワにおり、その半年後にコミンテルン常任執行委員に選任された。この頃のことについて佐野学は、ヨッフェの「自殺のまへ、ヨッフェの困つてゐる最中に、ジノヴィエフは私をよびつけてヨッフェの滞日中の生活態度を根ほり葉ほり聞いた。私はヨッフェに同情してゐたので知らないの一点ばりをやつた」、またスターリンに面会し、「二七年テーゼプラウダに出してくれるやうに頼んだが、後藤新平が今モスコーに来てゐるから見合せておく」と言われたと回想している[54]。しかし後藤新平死去直後の19296月に中国・上海で検挙され、193210月に東京地方裁判所治安維持法違反により無期懲役の判決を受けた。翌19336月に鍋山貞親とともに共同転向声明を発表した佐野学は、19345月の東京控訴院判決で懲役15年に減刑されて控訴審判決が確定し、194310月に出獄した。

佐野碩

インターナショナル』の訳詞者の一人として知られる共産党系の演劇人、佐野碩は佐野彪太の長男で、後藤新平の初孫であるため可愛がられた。後藤は佐野碩のことを、「自分の孫がマルクス主義者として大正時代、女装して逃げ回っていたんですからね、おもしろいじゃないですか。そういうことをとても喜んでいた」と鶴見俊輔が証言している[55]。後藤新平の生前、稽古場として佐野碩らの左翼演劇活動の拠点となったのは、小石川駕籠町にある佐野彪太邸で、彪太は息子の活動に資金援助も行った[56]。しかし後藤新平が死去した翌19305月、佐野碩は「共産党シンパ事件」で治安維持法違反容疑により逮捕された。碩の父彪太と母静子(後藤新平の長女)は、まだ没して間もない後藤新平の息のかかった政界・検察関係者に裏工作を行い、「直接にも間接にも日本共産党を支持する行為あるいはこれに類する行動を一切しない」と誓約して、他の逮捕者とは別に、一人、起訴猶予で保釈された[57]。そして19316月からモスクワで始まる国際労働者演劇同盟IATB)第1回拡大評議員総会への出席を求めるドイツ共産党員の演劇人千田是也からの手紙を機に、同年5月に出国し、以後、二度と日本に戻らなかった。

平野義太郎

講座派三太郎」の一人である平野義太郎は、後藤新平の岳父安場保和の孫娘で後藤にとっては義理の姪にあたる嘉智子の夫で、平野は後藤の「晩年屡々鍼灸する機会をもつた」と述べている[58]。平野は第一高等学校時代、後藤の女婿鶴見祐輔の弟で外交官となる鶴見憲鶴見良行の父)と同期で、弁論部に入り、鶴見憲と一緒に、鶴見祐輔が自宅で開いた「火曜会」に出席した。平野に嘉智子との結婚を勧めたのは鶴見憲だった[59]19213月に東京帝国大学法学部を卒業し、同年5月に同学部助手、19236月に同学部助教授となった平野は、1927からフランクフルト大学社会研究所に留学し、ソ連に傾倒するヘンリク・グロスマンに師事した。しかし後藤新平が死去した翌19301月に帰国した平野は、佐野碩と同様に、同年5月の「共産党シンパ事件」で検挙され、7月に依願免官となった。平野は、鶴見祐輔の下で後藤新平の正伝『後藤新平』全4巻(後藤新平伯伝記編纂会、1937-1938年)編纂作業に参加し、鶴見祐輔の太平洋協会では企画部長、弘報部長などを務め、敗戦で同協会が解散する際には、元調査部長山田文雄と協会の資産を二分した[60]。これが、鶴見和子・俊輔姉弟らが雑誌『思想の科学』を刊行する機構的・財政的基盤となった[61]。平野は1958年、後に鶴見俊輔らが「ベトナムに平和を!市民連合」(ベ平連)事務局長に起用した、当時、共産党専従活動家の吉川勇一が結婚する際の仲人を務めている[62]

鶴見和子

後藤新平の女婿鶴見祐輔の長女である社会学者鶴見和子は、戦後、武田清子武谷三男都留重人、鶴見俊輔、丸山真男渡辺慧らが思想の科学研究会を結成する中心人物となり[63]、共産党に入党して1950年ごろまで党員だったが[64]、その後、親中派に転じた[ 4]。そして筋金入りの反米主義者で北朝鮮シンパの武者小路公秀を所長として上智大学に国際関係研究所が設立される際、武者小路の招きを受けて、19694月に成蹊大学文学部助教授から上智大学外国語学部教授・国際関係研究所員に転じ[65]19893月の定年までその職にあった。同年6月の天安門事件における国共産党政府・人民解放軍民主化運動武力弾圧を西側諸国が強く非難し、日本政府も対中借款停止などの外交制裁を実施して日中関係が悪化すると、鶴見和子は同年8月末から9月にかけていち早く、江蘇省小城鎮研究会の招きで、宇野重昭石川照子とともに訪中している[66]。また1949に新制東京大学の第1期生として入学した吉川勇一は、世田谷区成城の自宅に柳田國男が創設した「民俗学研究所」に通っていたが[67]、その柳田邸の真向かいに住んでいたのが鶴見祐輔・和子父子で、鶴見和子もしばしば柳田邸を訪ね、もてなしを受けていた[68]。なお、2007728新宿中村屋本店で催された鶴見和子の一周忌の集いには、美智子皇后も臨席した[69]。鶴見和子本人も生前、明仁天皇と美智子皇后への深い尊敬の念を語っていた[70]。美智子皇后はその後も、鶴見和子を偲ぶ「山百合忌」に出席している[71]。鶴見俊輔によれば、「美智子皇后は姉の和子に対して、彼女の学友だった女官を通して『宮中まで来てほしい』とお呼びになったことがありました。そのとき、『あなたがこのあいだの講演で慰安婦の問題を取り上げてくださって、とてもありがたかった』とおっしゃった。姉が倒れて宇治の施設に入ったときも、『京都に行くから来てくれないか』と連絡が来た。当日は妹に託して、車椅子で姉を御所に上げました。天皇、皇后と姉と三人だけでお話をしたわけです。それだけ今上天皇、皇后は姉に共感をもっておられたんですね」とのことである[72]。「美智子皇后の相談役」として知られる精神科医神谷美恵子は、鶴見祐輔とともに「新渡戸四天王」と呼ばれた後藤新平側近の一人として数えられる前田多門の長女であり、鶴見俊輔は「神谷美恵子は、聖者である」としている[73]。神谷美恵子の兄のフランス文学者前田陽一は、皇太子時代の今上天皇のフランス語の師匠であり、共産党前中央委員会議長不破哲三のフランス語の師匠でもあった[74]。そして、やはり「新渡戸四天王」の一人である田島道治は、戦後、第2宮内府長官、初代宮内庁長官を歴任し、同じく新渡戸門下の後輩である三谷隆信侍従長とコンビを組んで宮中改革に尽力した。田島は宇佐美毅に宮内庁長官の座を譲ってからも宮中への影響力を行使し、東宮御教育常時参与の小泉信三とともに、「東宮様の御縁談について平民からとは怪しからん」とする香淳皇后らの反対を押し切って、美智子皇太子妃を実現するのに大きく貢献した[75]

鶴見俊輔

鶴見和子の弟である哲学者鶴見俊輔は、60年安保時には政治学者高畠通敏とともに「声なき声の会」を組織して岸内閣による日米安全保障条約改定に反対[ 5]ベトナム戦争期には高畠らとともに「声なき声の会」を母体として「ベトナムに平和を!市民連合」(ベ平連)を結成し、代表に作家の小田実を迎え、事務局長には共産党から除名処分を受けていた吉川勇一を据えて、自らもベ平連の中心的な人物となり、KGBの支援も得て[76]、活発な反米運動を展開した。その際、鶴見俊輔は、杉山茂丸の孫の杉山龍丸を「玄洋社国際部長」の肩書きでベ平連に取り込んだ[ 6]

鶴見良行

アジア学者・人類学者鶴見良行は、鶴見祐輔の弟で外交官であった鶴見憲の息子で、鶴見和子・俊輔姉弟の従弟である。日本の知的風土にある親ソ的傾向を是正して日米関係を改善するためにロックフェラー財団などが資金提供して設立された公益財団法人国際文化会館[77]の企画部長であるにも関わらず、鶴見良行がベ平連の「英語使い」[78]、「外務省」[79]として反米運動の有力活動家になったことに対し、左右両陣営から文化会館への批判が相次いだが、鶴見良行はベトナム戦争反対の世論をバックに突っ張った。これに窮した国際文化会館理事長の松本重治は、鶴見良行を企画部長から外して嘱託とする代わりに、満60歳になるまで机と手当を与えた[80]元老松方正義の孫である松本重治は高木八尺(松本重治の親戚)門下で、台湾総督府時代以来、後藤新平の子分だった新渡戸稲造の孫弟子であり、やはり松本の親戚で「新渡戸四天王」の後藤新平側近の一人である岩永裕吉の伝手で同盟通信社の前身である新聞聯合社に入社し、聯合・同盟の上海支局長を経て同盟通信社初代編集局長となり、敗戦時には同社常務理事を務めていた後藤系マスメディア人だった。篠宮文仁親王は鶴見良行のファンで鶴見良行に直接教えを受け、その強い影響を受けた[81]

フリーメイソンリーとの関係[編集]

文化人類学者の綾部恒雄によれば、後藤新平はフリーメイソンであった[82]。フリーメイソンリーを「国際的なつながりをもつ様々な職業のトップエリートによる最高度の情報交換のネットワーク」とする中田安彦は、後藤新平がドイツ留学中、1892の第5回万国赤十字会議に日本赤十字社委員として出席するまでにフリーメイソンリーの一員として迎え入れられていたと見ており、「後藤が赤十字という国際結社を通じてフリーメイソンに入会し、その後、日本を代表する黒幕として時の権力者に献策を続け、それが時には成功し、時には失敗した」としている[83]ボーイスカウト運動はフリーメイソンリーとの関係が深いが、後藤新平が「少年団日本連盟」(現在の財団法人ボーイスカウト日本連盟)の初代総裁となったのも、フリーメイソンリーとのつながりからであろうとしている[84]

著作[編集]

著書[編集]

『海水功用論 附海浜療法』春曦書楼、18823月。

『国家衛生原理』後藤新平、18899月。NDLJP:836881

『国家衛生原理』(3版)後藤新平、19238月。NDLJP:971387

『国家衛生原理』小野寺伸夫解題、創造出版、197811月。

『衛生制度論』後藤新平、18909月。NDLJP:836717

滝沢利行 『衛生制度論』大空社〈近代日本養生論・衛生論集成 8巻〉、199210月。

『後藤新平君演説筆記』宮部政厚筆記、大日本私立衛生会神戸支会仮事務所、189211月。NDLJP:783115

『後藤内務衛生技師演説筆記』西本茂吉筆記、赤穂郡役所、189212月。NDLJP:836882

『後藤内務技師演説筆記』永木誠太郎筆記、兵庫県明石郡役所、18931月。NDLJP:836883

『疾病保険法』柳下釧之助、18933月。NDLJP:800528

『赤痢病ニ関スル演説筆記』小林常吉、18934月。NDLJP:835272

『大国民之歌』山田源一郎作曲、如山堂、190910月。NDLJP:855532

立石駒吉 『後藤新平論集』伊藤元治郎、19111月。NDLJP:992298

平木照雄 『処世訓拾遺』如山堂、19115月。NDLJP:757181

田中収吉 『青年訓』宝文館、19123月。

『日本植民論』公民同盟出版部〈公民同盟叢書 8巻〉、19159月。NDLJP:933426

『日本膨脹論』通俗大学会〈通俗大学文庫 3編〉、19162月。NDLJP:933452

『日本膨脹論』大日本雄弁会19249月。

菊地暁汀 『修養の力』東盛堂書店、191811月。NDLJP:959288

『自治生活の新精神』新時代社、19192月。NDLJP:933341

三戸十三 『後藤男修養』日本書院、19196月。NDLJP:961902

『自治の修養』東亜堂〈袖珍名家文庫 5編〉、19199月。NDLJP:933318

『自治生活の新精神』内観社、192012月。NDLJP:964844

『日本植民政策一斑』拓殖新報社、19213月。NDLJP:980879

『後藤男爵真男児の鉄腕』日本書院、19212月。NDLJP:961797

『江戸の自治制』二松堂書店、19223月。NDLJP:968651

『日本膨脹論』大日本雄弁会、19249月。NDLJP:977651

『人生と燃料問題(記念講演大会、燃料協会創立三週年記念大会)』燃料協会出張所、19257月。NDLJP:10566529

『公民読本』 少年の巻、東京宝文館、19261月。NDLJP:942906

『公民読本』 青年の巻、東京宝文館、19261月。NDLJP:942907

『公民読本』 成人の巻、東京宝文館、19261月。NDLJP:942908

『人生と燃料問題(大正一四年六月二七日燃料協会創立三週年記念大会に於ける講演)』燃料協会出張所、19261月。NDLJP:10566583

『普選に直面して政治の倫理化を提唱す』普選準備会、19265月。NDLJP:1019381

『政治の倫理化』大日本雄弁会、19269月。NDLJP:1019432

『政治倫理化運動の一周年』政教社19276月。

『道徳国家と政治倫理』政教社、192712月。NDLJP:1465820

『ロシアより帰りて』朝日新聞社〈朝日民衆講座 6輯〉、19283月。NDLJP:1100157

『日本植民政策一斑・日本膨脹論』中村哲解題、日本評論社〈明治文化叢書〉、194412月。

新版刊行[編集]

拓殖大学創立百年史編纂室  『後藤新平 背骨のある国際人』拓殖大学、20014月。ISBN 9784990068523

後藤新平歿八十周年記念事業実行委員会 『自治』藤原書店〈シリーズ後藤新平とは何か 自治・公共・共生・平和〉、20094月。ISBN 9784894346413

後藤新平歿八十周年記念事業実行委員会 『官僚政治』藤原書店〈シリーズ後藤新平とは何か 自治・公共・共生・平和〉、20096月。ISBN 9784894346925

後藤新平歿八十周年記念事業実行委員会 『都市デザイン』藤原書店〈シリーズ後藤新平とは何か 自治・公共・共生・平和〉、20105月。ISBN 9784894347366

後藤新平歿八十周年記念事業実行委員会 『世界認識』藤原書店〈シリーズ後藤新平とは何か 自治・公共・共生・平和〉、201011月。ISBN 9784894347731

鈴木一策 『国難来』藤原書店〈シリーズ後藤新平の全仕事〉、20199月。ISBN 9784865782394

平木白星・案 『後藤新平の劇曲平和』藤原書店〈シリーズ後藤新平の全仕事〉、20209月。ISBN 9784865782813

後藤新平研究会 『政治の倫理化』藤原書店〈シリーズ後藤新平の全仕事〉、20213月。ISBN 9784865783087

楠木賢道編・解説 『国家とは何か』藤原書店〈シリーズ後藤新平の全仕事〉、20219月。ISBN 9784865783254

翻訳[編集]

勃古 『普通生理衛生学』 上巻、忠愛社、18882月。

勃古 『普通生理衛生学』 上巻(訂正3版)、忠愛社、188812月。NDLJP:1083993

勃古 『普通生理衛生学』 中巻、忠愛社、18882月。

勃古 『普通生理衛生学』 中巻(訂正3版)、忠愛社、188812月。NDLJP:1083995

勃古 『普通生理衛生学』 下巻、忠愛社、18882月。

勃古 『普通生理衛生学』 下巻(訂正3版)、忠愛社、188812月。NDLJP:1083996

ギユンテル 『黴菌図譜』後藤新平、189310月。NDLJP:834072

ヨゼフ・オルツェウスキー 『官僚政治』冨山房191111月。

フリードリッヒ・パウルゼン 『政党と代議制』冨山房、19126月。NDLJP:784193

ハンス・デルブリユツク 『政治と民意』有斐閣19154月。NDLJP:952422

パウルゼン 『政党政策と道徳』通俗大学会〈東西時論 4編〉、19163月。

アーネスト・チー・ウヰリアムス 『英国の改造と貿易』後藤新平、19201月。

監修[編集]

ビスマルク 著、有賀長雄花房直三郎・澤井要一・長尾俊二郎・野口可輔・山吉盛光・青山大太郎 訳、森孝三 『ビスマルク演説集』 上巻、ビスマルク演説集刊行会、19191月。NDLJP:957449

ビスマルク 著、有賀長雄・花房直三郎・澤井要一・長尾俊二郎・野口可輔・山吉盛光・青山大太郎 訳、森孝三 『ビスマルク演説集』 中巻、ビスマルク演説集刊行会、19195月。NDLJP:957450

ビスマルク 著、有賀長雄・花房直三郎・澤井要一・長尾俊二郎・野口可輔・山吉盛光・青山大太郎 訳、森孝三 『ビスマルク演説集』 下巻、ビスマルク演説集刊行会、19196月。NDLJP:957451

共著[編集]

後藤新平、直木倫太郎、竹内六蔵、佐野利器渡辺銕蔵、倉橋藤治郎 『帝都土地区画整理に就て』工政会、19244月。NDLJP:978443

評価[編集]

後藤和子 「後藤はあの通り大雑把ですから、誰にでもお交わりをしておりますため、随分望ましくない人も周囲におりますので、これだけが誠に心配でなりません」[85]

演じた俳優[編集]

近藤真彦(青年期)/森繁久彌 - 『大風呂敷 後藤新平~時代をクリエートした男~』(テレビ東京開局25周年記念特別番組。1989410放映)

津嘉山正種 - 『復興せよ! 後藤新平と大震災2400日の戦い』(讀賣テレビ放送制作のドキュメンタリードラマ。2012122放映)

岩渕龍巳(少年時代〜青年)、星鴉宮(中年時代〜晩年)、髙橋力(最晩年)-『新平さんの大風呂敷 -郷土の先人 後藤新平物語-』奥州市民劇[86]・奥州市文化会館Zホール(2022(令和4)312日〜13日上演[87]

家族・親族[編集]

甥に政治家の椎名悦三郎[88]、娘婿に政治家の鶴見祐輔[2]、孫に社会学者鶴見和子[2]哲学者鶴見俊輔[2]演出家佐野碩、義孫に法学者の内山尚三[89]、曾孫に歴史家の鶴見太郎を持つ[90]

また、後藤の孫娘(長男・後藤一蔵の娘)は味の素創業家・鈴木忠治の六男で三菱自動車販売社長を務めた木正雄に嫁ぎ、鈴木正雄の娘(すなわち後藤の曾孫)は元内閣総理大臣桂太郎の曽孫に嫁いだ(桂の娘婿である長崎英造の孫)。

脚注[編集]

注釈[編集]

1.    ^ ロシア革命直後は、アメリカへの対抗を目的として、シベリア出兵積極論者であった[51]

2.    ^ 後藤新平は、その最後の訪ソで192817日にスターリンと会見した際、スターリンに対して「日本ニハ未ダ英米政策ノ追従者アリ。然レドモ日本ハ既ニ独立ノ対外政策ヲ確立スル必要ニ迫ラレツヽアリテ、ソノタメニハ露国トノ握手ヲ必要トシツヽアルナリ」と述べている。鶴見祐輔『後藤新平 第四巻』勁草書房復刻版、1967年)865頁による。

3.    ^ 佐野学が2度の共産党一斉検挙をタイミングよく免れていることから、佐野学を後藤新平や公安警察が共産党に送り込んだスパイであるとする者もあるが、そう断定する証拠は示されていない(近現代史研究会編『実録 野坂参三 共産主義運動スパイ秘史』マルジュ社、1997年)。

4.    ^ 鶴見和子は「私は後藤新平さんから受け継いだのは、反面教師としては権力志向は嫌いというのですが、もう一つは中国への関心ですね。後藤新平さんは、中国を安定させるためにロシアと結ぼうとしたのです」と、自らの親中的スタンスが後藤新平譲りであると述べている(鶴見和子「祖父・後藤新平」『コレクション 鶴見和子曼荼羅 華の巻――わが生き相』藤原書店、1998年、33頁)。

5.    ^ 日ソ協会(現・日本ユーラシア協会)によれば、「声なき声の会」のデモの指揮は日ソ協会が行っていた(「回想・日ソ協会のあゆみ」編纂委員会編『回想・日ソ協会のあゆみ』日ソ協会、1974年、96頁)。

6.    ^ 小田実ほか「呼びかけ」1965415日(ベトナムに平和を!市民連合編『資料・「ベ平連」運動 上巻』河出書房新社1974年)5頁。ただし吉川勇一によると、「杉山さんは、ベ平連の後半では、ベ平連への批判的態度をもつようになったようだ」という。ベ平連への批判的文献

7.    出典[編集]

8.    ^ 関東大震災後に帝都復興を成就した後藤新平の凄さ. yahooニュース. (201796) 2020228日閲覧。

9.    a b c d 『日本の有名一族』、177頁、179頁。

10. ^ 越澤明 『後藤新平大震災と帝都復興』筑摩書房〈ちくま新書〉、34頁。

11. ^ (繁体字中国語)被遺忘的歷史謎團 阿里山森林鐵路誕生的真相2011-03-01,蘇昭旭

12. ^ 河合 太郎 コトバンク

13. ^ 小高健 (1988-07-30). 血清薬院日本医史学雑誌 (日本医史学会) (34巻第3): p392. ISSN 0549-3323.

14. ^ 劉明修『台湾統治と阿片問題』(山川出版社1983年)81-116頁、189-190頁、194-195頁。

15. ^ 拓殖大学創立百年史編纂専門委員会『拓殖大学百年史 大正編』学校法人拓殖大学2010年、97

16. ^ 『拓殖大学百年史 大正編』97-98

17. ^ 『拓殖大学百年史 大正編』107-117

18. ^ 『拓殖大学百年史 大正編』101-102

19. ^ 『早稲田大学百年史』第三巻、482

20. ^ 駄場 2007, pp. 174–176.

21. ^ 越沢明『東京の都市計画』(岩波新書1991年)5886頁および越澤明『東京都市計画物語』(ちくま学芸文2001年)4464頁。

22. ^ 「無線放送に対する予が抱負」、社団法人東京放送局編『ラヂオ講演集 第一輯』日本ラジオ協会、192511月、17頁。

23. ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和2112月増訂、貴族院事務局、1947年、12頁。

24. ^ 後藤 1926.

25. ^ 原武史【歴史のダイヤグラム】車内で発症、後藤新平の覚悟『朝日新聞』土曜朝刊別刷り「be2020117日(4面)20201116日閲覧

26. ^ 服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』(吉川弘文館2010年)126

27. ^ 後藤新平のデスマスク、台湾で発見!

28. ^ 官報』第907号「賞勲叙任」1886710日。

29. ^ 『官報』第2591号「叙任及辞令」1892223日。

30. ^ 『官報』第2839号「叙任及辞令」18921213日。

31. ^ 『官報』第4242号「叙任及辞令」1897821日。

32. ^ 『官報』第4473号「叙任及辞令」1898531日。

33. ^ 『官報』第6007号「叙任及辞令」1903711日。

34. ^ 『官報』第7028号「叙任及辞令」1906121日。

35. ^ 『官報』第8424号「叙任及辞令」1911721日。

36. ^ 『官報』第685号「叙任及辞令」1929415日。

37. ^ 『官報』号外「叙任及辞令」18951218日。

38. ^ 『官報』第4350号「叙任及辞令」189814日。

39. ^ 『官報』第5395号「叙任及辞令」1901628日。

40. ^ 『官報』第5829号「授爵・叙任及辞令」1902126日。

41. ^ 『官報』第6118号「帝国議会 - 貴族院」19031121日。

42. ^ 『官報』第6832号「授爵・叙任及辞令」1906412日。

43. ^ 『官報』第7014号「叙任及辞令」19061114日。

44. ^ 『官報』第7626号「叙任及辞令」19081126日。

45. ^ 『官報』第205号・付録「辞令」191349日。

46. ^ 『官報』第1310号・付録「辞令」19161213日。

47. ^ 『官報』第2431号「授爵・叙任及辞令」192098日。

48. ^ 『官報』第3047号「授爵・叙任及辞令」1922926日。

49. ^ 『官報』号外「授爵・叙任及辞令」19281110日。

50. ^ 『官報』第1499号・付録「辞令二」19311228日。

51. ^ 『官報』第7389号「叙任及辞令」1908217日。

52. ^ 『官報』第8152号「叙任及辞令」1910823日。

53. ^ 筒井清忠「関東大震災と後藤新平・復興院の挫折」

54. ^ 越澤明『後藤新平 -大震災と帝都復興』(ちくま新書2011年)p.193

55. ^ 阿部千一『回花仙史隨談』(ラジオ岩手編、昭和33年)pp. 91-92

56. ^ 都市計画 Who was Who (14) 後藤新平 - 日本都市計画学会

57. a b c 56NSRI都市・環境フォーラム (no.296) 『デモクラシーの帝都~東京が世界第一級となりえた時代の都市と建築』 松葉一清氏 武蔵野美術大学教授 2012911 (), pp. 30-31

58. a b 庄司潤一郎 (2003). “戦史研究年報 6”. www.nids.mod.go.jp. 1次世界大戦の日本への衝撃. 防衛省防衛研究所. 2020523日閲覧。

59. ^ 駄場裕司「日本海軍の北樺太油田利権獲得工作」(海軍史研究会編『日本海軍史の研究』吉川弘文館、2014年)59-60頁、黒川創『鶴見俊輔伝』(新潮社2018年)25頁。

60. ^ 駄場『後藤新平をめぐる権力構造の研究』208-209頁。

61. ^ 佐野学「共産主義指導者の回想」(佐野学著作集刊行会編・発行『佐野学著作集 第一巻』1957年)999-1000頁。

62. ^ 鶴見俊輔「〈コメント〉祖父・後藤新平について」(『環』第21号、20054月)265頁。

63. ^ 千田是也『もうひとつの新劇史――千田是也自伝』(筑摩書房1975年)121-124頁、藤田富士男『ビバ! エル・テアトロ! 炎の演出家 佐野碩の生涯』(オリジン出版センター、1989年)70-75頁、岡村春彦『自由人佐野碩の生涯』(岩波書店2009年)32-35頁、46-47頁、51頁。

64. ^ 藤田『ビバ! エル・テアトロ!117-118頁、岡村『自由人佐野碩の生涯』88-89頁。

65. ^ 平野義太郎『民族政治学の理論』(日本評論社1943年)81頁。

66. ^ 鶴見憲「一高時代の平野君の思い出」(平野義太郎 人と学問編集委員会編『平野義太郎 人と学問』大月書店、1981年)20-22頁。

67. ^ 陸井三郎「戦中・戦争直後の平野先生 一九四三-四六年」(『平野義太郎』)82頁、86頁。

68. ^ 安田常雄「『思想の科学』・『芽』解題」(安田常雄・天野正子編『復刻版『思想の科学』・『芽』別巻 戦後「啓蒙」思想の遺したもの』久山社、1992年)215頁。

69. ^ 新村猛「平野義太郎さんを偲ぶ」(『平野義太郎』)77頁。

70. ^ 安田「『思想の科学』・『芽』解題」215頁、鶴見俊輔「思想の言葉 態度と知識――『思想の科学』小史」(『思想』2009年第5号)

71. ^ 鶴見俊輔・上野千鶴子・小熊英二『戦争が遺したもの 鶴見俊輔に戦後世代が聞く』(新曜社、2004年)291-292頁。

72. ^ 「ゼミでしたこと 出会った人々――鶴見先生インタヴュー――」(『コレクション 鶴見和子曼荼羅 環の巻――内発的発展論によるパラダイム転換』藤原書店、1999年)321-322頁。

73. ^ 能澤壽彦作成・鶴見和子校閲「『鶴見和子研究』年譜」(『鶴見和子曼荼羅 』)410頁。

74. ^ 吉川勇一公式サイト内「略歴」1949

75. ^ 能澤作成・鶴見校閲「『鶴見和子研究』年譜」374頁。

76. ^ 内山章子「一周忌までのご報告」(『環』第31号、200711月)69頁。

77. ^ 武者小路公秀・鶴見和子『複数の東洋/複数の西洋 世界の知を結ぶ』(藤原書店、2004年)193頁。

78. ^ 朝日新聞デジタル:「水俣の苦しみ今も」石牟礼さん、皇后さまに手紙 - 社会[リンク切れ]

79. ^ 鶴見俊輔・上坂冬子「爽やかだった大東亜戦争」(『Voice20089月号)163頁。

80. ^ 鶴見俊輔「神谷美恵子管見」(みすず書房編集部編『神谷美恵子の世界』みすず書房、2004年)86頁。

81. ^ 不破哲三「一高記念祭の思い出など」(「前田陽一 その人その文」編集刊行委員会編・発行『前田陽一 その人その文』1989年)237-240頁。

82. ^ 加藤恭子『田島道治――昭和に「奉公」した生涯』(TBSブリタニカ2002年)388-394頁。

83. ^ Koenker, Diane P., and Ronald D. Bachman (ed.), Revelations from the Russian archives : Documents in English Translation, Washington, D.C. : Library of Congress, 1997, pp699-700.

84. ^ 松本重治『聞書・わが心の自叙伝』(講談社1992年)184頁。

85. ^ 小田実「ヨシユキさん《a concerned citizen》」(『鶴見良行著作集月報』第10号、20026月)1-3頁。

86. ^ 武藤一羊「仮説を生産するヴィジョナリー」(『鶴見良行著作集月報』第10号)4頁。

87. ^ 加固寛子「〈解説〉人間・松本重治について」(『聞書・わが心の自叙伝』)215-216頁。

88. ^ 江森敬治『秋篠宮さま』(毎日新聞社、1998年)27-34頁。

89. ^ 綾部恒雄『秘密結社』(講談社、2010年)193頁。

90. ^ 中田安彦「後藤新平は『日本のセシル・ローズ』である」(副島隆彦+SNSI副島国家戦略研究所『フリーメイソン=ユニテリアン教会が明治日本を動かした』成甲書房、2014年)243-246頁、274-275頁。

91. ^ 中田「後藤新平は『日本のセシル・ローズ』である」253頁。

92. ^ 『実業の日本社』

93. ^ 総参加者140名による大演劇

94. ^ “『後藤新平の生涯を描く 令和43月市民劇 奥州市文化振興財団』”. 『岩手日日新聞』 (20211012). 2022110日閲覧。

95. ^ 日韓基本条約調印に尽力 椎名家資料、初の一般公開 悦三郎没後40年調査シンポも開催 奥州で21日から. 産経新聞. (2009919) 2020121日閲覧。

96. ^ 『日本の有名一族』、179頁。

97. ^ 『日本の有名一族』、178-179頁。

 

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