リッカルド・ムーティ自伝  Riccardo Muti  2022.4.3.

 

2022.4.3. リッカルド・ムーティ自伝 はじめに音楽 それから言葉

Riccardo Muti Autobiografia Prima LA MUSICA, poi LE PAROLE

 

著者 Riccardo Muti 

 

訳者 田口道子 国立音大声楽科卒後、ミラノに渡り、ヴェルディ音楽院を卒業、ディプロマを取得。メゾ・ソプラノ歌手として活躍する傍ら、オペラ演出の基礎を学び、演出助手としてミラノ・スカラ座を始め、世界の歌劇場で舞台経験を積む。多くのオペラ制作にも関わり、近年は演出も手掛ける。字幕の翻訳も多い

 

発行日           2013.10.31. 第1刷発行

発行所           音楽之友社

 

 

著者より

この本の題名に、ジョヴァンニ・バッティスタ・カスティの言葉を選んだ

私がいつも言っていることと違うし、私がいつも「言葉」から始めることを大切にしていると書いていることに気付くだろう。私は劇場では音楽はもとより、完全な言葉の理解を強く要求するのが常

しかしここでは、50年の音楽人生を振り返り、自身のことを省みて読者の皆さんにお話しするために、言葉を必要としたのだ

 

I.     おもちゃ代わりにヴァイオリン

モルフェッタ(ナポリの真東、アドリア海岸の町)出身だが、実際はナポリ生まれ。生粋のナポリ人の母とブーリア人の父との間に生まれた。ナポリで生まれ、すぐにモルフェッタに連れてこられたので、両方が故郷であり、自身をアプロ=カンパーノ(ブーリア地方とカンパーニャ地方両方の出身)と呼ぶのを好む

父は、ブーリアの医者だが、母はナポリを誇りにしていて、兄弟5人とも母が実家に帰って出産していた

16年間モルフェッタで育ち、祖父が校長をしていた小学校に通い、厳格に躾けられた

祖父も父もオペラ好きで、兄2人も楽器を弾いたが、自分は全く興味なく、7歳のクリスマスに2/4のヴァイオリンを贈られ失望。ソルフェージュも同時に始まり、気が乗らなかったが、ある日を境に突然興味を覚え、ヴァイリンのレッスンも受けることになり、9歳のとき神学校の講堂でソロ・デビュー

1955年、ピアノも習い始めバーリのピッチンニ音楽院に入学。学長のニーノ・ロータに将来を嘱望されて勧められたもの。56年からは地元の高校に通いながら、午後は31㎞離れたバーリまでバスで通う日々が続く

作曲家としてのニーノ・ロータは、その作品のスタイル故に多くの人から批判や攻撃を受けていたが、単に彼がそのスタイルを選択しただけということが理解されなかったためで、彼は幅広い知識を身に着けていたし、その作品にはストラヴィンスキーやプロコフィエフ、バルトークなどの手法が窺える。時代の流行に乗らず、前衛的な音楽に走らなかった

 

II.   指揮をしようと思ったことは?

ロータ先生の紹介でナポリの音楽院コンセルヴァトーリオ・サン・ピエトロ・マイエッラに入学。偉大なピアニストだったヴィンチェンツォ・ヴィターレに師事。ゼロから学び直し、フレーズが内包する自然の決まりを見出し尊重することを知る

ナポリ学長の勧めで指揮の勉強を始め、61年ピアノ科卒業、ディプロマを取得。卒業後の演奏会では指揮もした。当時はいつも暗譜だったが、スヴャトスラフ・リヒテルに「なぜ暗譜するのか? 目は使わないのか?」と聞かれて以来、暗譜で演奏する習慣をやめた。演奏時に楽譜を見るとまた何か発見がある

 

III. いい加減にしろ!

1962年末、ナポリ学長がミラノのヴェルディ音楽院の学長に就任したのに合わせてミラノに移る。トスカニーニの助指揮者だったアントニーノ・ヴォットが指揮科の主任教授で目をかけてくれた

1966年卒業の年、初めてオペラを振り、最高点をもらって卒業。マリア・カルボーネ女史のクラスで伴奏ピアニストとして働き、翌年には副科ピアノを教える

1967年のカンテッリ・コンクールでは、オーケストラの指揮の練習する場所のないイタリアに代わってプラハの軍の兵舎を紹介してくれる支援者がいて、軍楽隊とともに北イタリア各地を演奏して回ったお陰で優勝。新しい仕事が舞い込む

 

IV.  演奏家?

1968年にはフィレンツェでのリヒテルの演奏会での指揮に私が指名され、オーケストラのストで公演は中止となったが、代わりにフィレンツェ5月音楽祭のプログラムに加えられ、さらに10月にもコンサートを指揮。69年初には劇場専属指揮者に就任

1933年フィレンツェ5月音楽祭を創設したヴィットリオ・グイの知己を得たことで、ヴォットとは全く対照的な指揮を知ることになる

ヴォットの指揮は全てトスカニーニの姿勢と共通していて、音楽のための音楽であること、話は少しだけ、安物の装飾は必要ないし、作品の真髄に触れる、基本の動き以外必要以上のことはしない、ということを基礎にしてきたが、グイは指揮には文化の反映が第一、創造されたものの真髄をわかろうとしないで作曲家の意図を代弁する演奏家にはなれないと、修辞学的な問いを投げかけた

フィレンツェでの初めてのオペラが'69年冬の《群盗》で、初めてのヴェルディでもあった。熱狂的な観客に支えられて12年間勤め上げる

‘77年のヴェルディ《ナブッコ》では、ロンコーニの現代風の演出が聴衆の批判を浴びた

‘80年初めて《オテロ》を指揮したのもフィレンツェで、ミクロシュ・ヤンチョーの演出。ハンガリーの偉大な映画監督が演出することには少々の批判もあったが、公演自体よりも黒人女性のヌードが登場することが論争を巻き起こしカットせざるを得なくなる

‘82年、ロンドンのフィルハーモニア管弦楽団とフィラデルフィア管弦楽団の音楽監督も兼任していので、フィレンツェに終止符を打つ

ロンドンでは、’72年初めてフィルハーモニア管弦楽団に招かれ、初めてイギリスのオーケストラを指揮するデビューとなり、団員からの要請で首席指揮者となる。オーケストラはレコードの世界の偉大なマネージャーのレッグがカラヤンの為に作ったもので、カラヤンの後新編制にしてクレンペラーが指揮、名前もニュー・フィルハーモニアになる。結局10年指揮することになり、その間に名前も元に戻し音楽監督になって、去る時には名誉指揮者にしてくれた

‘73年パリのオペラ座で《イル・トロヴァトーレ》を指揮する際、リーバーマン総裁はルキーノ・ヴィスコンティに演出を依頼するも重病になり、私に相談もなく勝手に変更したが、新演出が斬新ではあるがイタリア版とフランス版の折衷みたいなものを望み、とても受け入れがたかった。音楽に関してすべての責任を負う私を無視して演出家が決定すること自体おかしな話。オペラの演出は音楽を基本として考えるべきものであり、オペラの演出は演劇演出とは別個に独自に存在するも――ヨーロッパの劇場団体ではカリスマ的存在で権力者でもあったリーバーマンは脅しをかけてきたが、断固拒否を貫き指揮を降りる

'92年のザルツブルクでも、モーツァルトの《ティートの慈悲》の上演で、カール=エルンスト・ヘルマンとウルゼル・ヘルマンの演出が全く音楽を無視して歌手の動きと音楽が一致しないことに不満、話し合いでも合意点が見つけ出せず指揮を降りた

一番一緒に演出をしたかったのはイングマル・ベルイマンだが、引退を決めていて実現せず、ニーノ・ロータを通じて知り合ったフェデリコ・フェッリーニとにも演出してもらいたかったが、「言葉が歌になっていると、話すのと違ってコントロールできなくなる」と言って断られた

 

V.    運命のオーケストラ

カラヤンには感謝。オーケストラに新しい音を作り出した。フレーズ作りやその洗練された音作りは、それまで聞いたことがないもの

カラヤンは私の評判を聞いて、‘71年のザルツブルクに《ドン・パスクワーレ》の指揮者として招いてくれた。以来40年間フェスティヴァルに参加

ウィーン・フィルとの出会いは'715月。《ドン・パスクワーレ》の練習で、イタリアとは全く異なる雰囲気に圧倒されたが、同じ言葉を話すドニゼッティに助けを求めることができたのは幸運。同じドニゼッティの作品でありながら明らかにイタリアで聴き慣れたものとは異なって、どこか交響曲の形跡が窺えるし、音がずっと満ちている感じ

作曲家によって「音色」が異なるのは、特に時代の違いにもよるが、指揮者はこの点十分注意しなければならない。オーケストラに私の意図を伝えるためには、歌うことが大いに役立っている

ウィーン・フィルは、私との共演を、2つの魂の融合の如く考えて大歓迎してくれて、10年ほどの間に私の音楽的スタイルを身に着ける源になる

シューベルトの交響曲全曲を録音した後、'93年のニューイヤー・コンサートに招かれたが、崇高なウィーンの「気晴らしの音楽」(娯楽音楽と同意義だが、ドイツの歴史では高尚な部類に属する)に対する経験がなかったので躊躇していると、彼等はシューベルトはシュトラウスへの入口だというので断る理由がなくなった。その後何回か共演したが、この種のコンサートは同じ曲を繰り返すと創造性を消す可能性があるので、今は断っている

彼等との共演で最も重要なのは、私が初めて取り組んだハイドンの《天地創造》で、'95年のムジークフェライン創立150年記念コンサートでのこと、創立時と同じプログラム

スカラ座を去ったばかりで難しい立場にあった時も私の傍らにいて、'05年辞職の1カ月後スカラ座で演奏し、これが私のスカラ座での最後の演奏になった

'82年《コジ・ファン・トゥッテ》を指揮した経緯は、フィルハーモニア管弦楽団と米国演奏旅行中にカラヤンからの電話で即断を迫られ、ザルツブルクではベームの伝説的な成功があったので躊躇したが、ドイツ語の新聞でも最高の評価を受ける――ロレンツォ・ダ・ポンテの台本から出発してモーツァルトの音楽に到達したやり方が新鮮でずいぶん違う作品が出来上がったのが好評。ナポリを舞台している理由が判明。ノイシュタット(新しい町)で実際にあった話だが、事実を明かすことを避けるためにナポリ(ギリシャ語ではネオポリス)に置き換えた。カラヤンはこの後《ドン・ジョヴァンニ》も翌年から指揮するよう求め、午前中に《コジ・ファン・トゥッテ》のゲネプロ、午後に《ドン・ジョヴァンニ》の本番を振ったこともある

 

VI.  新世界のための音楽

'71年、フィレンツェ音楽祭のリハーサルに、同地にフィラデルフィア管弦楽団と公演に来ていたオーマンディが聴きに来て、その夜グイと一緒にアメリカ人のコンサートを聴きに行く。当時のオーケストラでは、弦楽器とのバランスを保つために管楽器の編成を倍にする傾向があり、その夜もベートーヴェンの《7番》にトランペットを4本使っていたことにグイが反発していたが、それよりまるで数学的な均整美を見せつけられているように魅力を感じ、知らなかった世界を見て目が眩んだ感じがした。翌日オーマンディから招聘され、'72年のアメリカ・デビューとなる。プログラムはモーツァルトの《交響曲K338 とプロコフィエフ《交響曲3番》で、カリスマ的首席ヴァイオリンのノーマン・キャロルが、同じ人の演奏とは思えないと感嘆。カーネギー・ホールでも同じプログラムで出演。'76年には首席客演指揮者に指名され、4年後には音楽監督に就任

'80年からは、米英伊の3つのオーケストラの音楽監督を同時に努めなければならなくなったが、最後まで務めたのはアメリカで、絶対的な責任を負う立場にあった

一番の課題は現代音楽で、特にアメリカ音楽を演奏する機会が多かった

フィラデルフィアとは交響曲のレパートリーを深めることができ、多くの作品をレコード録音。ベートーヴェンの交響曲の録音はアメリカで初のCDへの録音だった

音楽家たちが核武装に反対する抗議のコンサートを開きたいと願い出て、私も賛成したが、会場の外ではコンサートに反対のプラカードが立った

‘91年のマーティン・ルーサー・キングの記念日の演奏会は、いつもは黒人の観客がほとんどいないのに、その日は合唱団が全員黒人で、観客も90%が黒人。国歌演奏の前に黒人の国家ともいうべき賛美歌《Life Every Voice and Sing》演奏の要望があり、演奏を始めると白人も含め全員が起立し、強い感動を覚えた

フィラデルフィアで唯一残念だったのが音響で、「伝統的」なオペラ劇場の設計ゆえの欠陥だったが、ピットから舞台に移ると反響板がないので音のバランスが崩れる。何とかオーケストラ専用のホールをと働きかけた結果、現在のキンメル・パーフォーミング・アーツ・センターが完成。施設内の図書館に私の名前が付けられたのは光栄

20年勤め上げ、最後の演奏はエルサレムでアンコールにマルトゥッチを選び、出だしだけ振るとオーケストラは《ノットゥルノ》を最後まで彼等だけで演奏

 

VII.        ミラノ・スカラ座

'86年、ミラノ・スカラ座のオーケストラ再建をかけて音楽監督に指名、フィラデルフィアを辞退

同年末のデビューは、ロベルト・デ・シモーネ演出の《ナブッコ》、合唱のアンコール演奏で大反響を巻き起こす。アバドの後の新任指揮者を迎えて劇場は興奮したが空気が流れ、合唱が終わって次に行こうとしたところでアンコールの声が3回起こる。応えなければ観客を失望させるが、応えれば1920年以来ミラノ・スカラ座では禁止されている習慣を破ることになる。合唱団に促されるようにアンコールに入ると、私はほとんど指揮をしていないほどに動きを抑えたが、演奏はさらに素晴らしい出来になった。ヴェルディが「行け、我が思いよ」と歌わせたように、「我々はこれなのだ」という確固としたアイデンティティの表れがあり、公演は大成功のうちに終了。翌日の新聞の論争は賛否両論

'93年には、オペラとバレエを組み合わせて演奏。バレエ音楽が素晴らしい管弦楽様式を持っていることを示したかった

'87/’88シーズンにモーツァルトのイタリア・オペラ3部作を上演、ヴェルディ作品上演の代表的な劇場にとって一つの節目となる

'01年、ヴェルディ没後100年は特別なシーズンで、『フィナンシャル・タイムズ』はその年のスカラ座のプログラムについて、「世界中のオペラハウスの中で偉大なオペラ作曲家に真に貢献した唯一の劇場」と書く

ヴェルディの演奏を務めとしてきたが、大切にしたのは楽譜に忠実であることで、書いてあることを通してその奥にある無限の可能性を把握するよう努めてきた

'90年上演の《ラ・トラヴィアータ》は大反響――’64年のカラヤンとミレッラ・フレーニを最後にミラノ・スカラ座では取り上げられていなかった。偉大な過去に対する思いや恐れからだったが、若い歌手たちによる演奏に挑戦。ティツィアーナ・ファップリチーニとロベルト・アラーニャ、パオロ・コーニを抜擢

‘00年上演の《イル・トロヴァトーレ》では、慣例となっている演奏法の問題に立ち向かう――台詞や音の強弱、ピッチがいつの間にか観衆にアピールするように変えられている箇所がいくつかあったのを、作曲家の支持に忠実にやるよう戻した

‘956月にはストライキがあり、《ラ・トラヴィアータ》全曲をオーケストラのためにピアノで伴奏――オーケストラ団員とミラノ市長の交渉が決裂、既に観客が劇場に入った開宴30分前に公演が出来なくなった――オーケストラがいなくては指揮者はmuti(口がきけない)

フォンターナ総裁が観客の前で説明を始めると凄まじいブーイングにあって、やむを得ずムーティ自身がピアノ伴奏することに。合唱団だけはそのアイディアに反対して帰ってしまい、残りの出演者で強行。いつも練習で自分でピアノを弾くことを習慣にしていたので訓練は出来ていたが、あくまで苦肉の策で、大切な観客を失ったことには変わりなく、その後もオーケストラとの関係は良好ではあったが、何かした亀裂が入ったと思っている

ミラノ・スカラ座は’02年改修のため取り壊し

ライヴ録画を好むのは、特にオペラなどの場合、スタジオではプロデューサーの合図で始めなければならず、指示や強制されているように感じて恐ろしくなるから

'00年、エリザベス女王二世がスカラ座での英伊両国の曲によるコンサートの終演後に予定に反して曲がりくねった長い距離を歩いて指揮者控室に来られた。女王と親しい友人にどのように接したらよいかを尋ねたところ、”Her Majesty”ではなく”Ma’am”と呼ぶようにいわれたが、女王が来られた時に最初に発したのはいずれでもなく”Attemzioneだった。楽屋の入り口にステップがあったので思わず言ってしまった。2人で撮った写真に女王がサインしている。別れる前に大英帝国勲爵士の称号を授与される

ミラノ・スカラ座との関係が終わったことと、常に卓越していたオーケストラや合唱との芸術的な相互理解とは何の関係もない

 

VIII.      ナポリ魂

常に特別な結びつきを感じているのがナポリのサン・カルロ歌劇場

戦後の初代総裁パスクワーレ・ディ・コスタンツォの時代に初めて出会う――カンテッリ・コンクールで優勝した時に招いてくれた。ロッシーニも何年か劇場長をしていた

 

IX.  出会い

音楽家は孤独。楽譜を前にして、演奏への探求のみならず、それをオーケストラに伝え、さらに観客にまで届けなければならない使命を負っている

ヨハネ・パウロ二世との出会い――初対面は法王がスカラ座を訪問された時。コミュニケーション力を備え、偉大な人間性を持つ飾り気のない優しい方

ベネディクト十六世にはお会いしていないが、彼の著書『神への芸術賛歌』には短い序文を書く。現在の宗教音楽の衰退に対する心からの懸念に多くの筆を費やした。過去の宗教音楽のラテン語のテキストを読むことから再出発すべきと説いた

歌手で特別な親しみを持って思い出すのはレナータ・テバルディ。一緒に仕事が出来なかったのは残念だが、ヴェルディの手紙をプレゼントしてくれた

カラスとは、’74《マクベス》を企画した時、レコードで聴いた彼女の声に心を打たれて、既に8年もオペラ全曲を歌っていなかったが、偉大なる女優として舞台に望んでくれないかと関係者に話をしたのが伝わり、突然電話がかかってきて「嬉しいがもう遅い」といわれたことが想い出。残念だったが、彼女の肉声は大切な宝物を得たような気になった

アルトゥール・ルービンシュタインとは共演できなかったが、私が指揮したフランス国立管弦楽団との演奏会で、終わるや否や真っ先に立ち上がって拍手してくれた

ニコライ・ギャウロフも才能に溢れ、フィレンツェで《アッティラ》の共演で知り合う。舞台に登場するなりカリスマ性を発揮する人物

共演したソリストの中でも特別な友人はスヴャトスラフ・リヒテル。音楽でも「不意」を好み、カデンツや予測もしない音の変化をつけてびっくりさせることが多い。ラヴェルの《左手のための協奏曲》で共演した時のこと、演奏中に彼が音を度忘れ、私は瞬時にオーケストラをコントロール、彼もすぐに思い出して演奏を続けたので、気付かれることはなかったが、彼は気にかけ自身に打ち勝つように、アンコールで弾き直したいと頼んで来た。反対するオーケストラを説得して舞台に戻り最高の状態で終えることができたが、翌日別れるときに彼がスコアを出せといい、一瞬止まった箇所に「間違った」とサインして、「毎回ここで私が間違ったことを思い出せるように」と言った。偉大なアーティストから謙虚さを教えられた瞬間だった

ベルリン・フィルへのデビューは’71年で、ポリーニがソリストで共演したバルトークの《ピアノ協奏曲第2番》を演奏した時。最も素晴らしい思い出は'80年央の、大きな楽器編成による偉大な楽曲《カルミナ・ブラーナ》の演奏で、作曲者のオルフが聴きに来て、「2回目の初演」になったと献辞をくれたが、この演奏の後強弱記号を書き直したそうだ

 

X.    将来の展望

私の経験を若い人たちに残そうと決意。2日後にスカラ座で上演されるオペラ作品を、ピアノを弾きながら解説する「レクチャー」をスタートさせたり、聴衆の前でコンサートのリハーサルを行ったり(公開リハーサル)、若者で編成したオーケストラも誕生させたりした

若者のオーケストラはケルビーニ管弦楽団と名付け、ラヴェンナ・フェスティヴァルとピアチェンツァ歌劇場の支援でエミリア地方とロマーニャ地方を中心とした州を代表するオーケストラに成長。若い演奏家は30歳未満で、在籍3年以内で巣立っていく

’11年には5年間で使命を終える「ナポリ楽派プロジェクト」もケルビーニ管弦楽団によってナポリの過ぎ去った栄光に光が当てられ、ナポリの真の姿を再認識させた

若い人たちに教えたいと努めていることは、①オーケストラの一員として並んで座っていても室内楽の理想を追いつつ「ソリスト」としての努力を惜しまないこと、②プロとしての倫理的態度を身に着けることの2

演奏家の集団を作るよりも、人々に音楽を理解することによって得られる大きな喜びを楽しんでもらいたい。理解するにはあまりにも不可解、内面的に感じるだけでいい

 

XI.  音楽に境界はない

'102月、レヴァインの招きでメトロポリタン歌劇場との幸せな出会いが実現、《アッティラ》を指揮して温かい歓迎を受けた

今回は思いがけずにシカゴとの新し出会いが始まる――30年ぶりに客演した後、'08年にはヨーロッパ・ツアーも指揮したのが契機となって音楽監督に。就任に先立って、自分の意思に反して文化から遠ざかっている人々に広く音楽の喜びを伝えていくことに尽くしたいと希望を出す

 

 

Wikipedia

リッカルド・ムーティ(Riccardo Muti, 1941728 ナポリ - )は、イタリア人指揮者シカゴ交響楽団音楽監督、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団名誉団員。現代を代表する指揮者の一人として知られる。

人物・来歴[編集]

1941年生まれ。

1967に、若手指揮者のためのグィード・カンテッリ賞を受賞。1972からフィルハーモニア管弦楽を定期的に指揮し、オットー・クレンペラー以来の首席指揮者に任命される。1980から1992までフィラデルフィア管弦楽団の音楽監督に就任し、しばしば同楽団を率いて世界的な演奏旅行を行った。フィラデルフィア管と制作したレスピーギ作品やロシア作品(ストラヴィンスキーチャイコフスキースクリャービン)、ブラームス交響曲の録音は、現在でも評価が高い[要出典]

1986から2005までミラノ・スカラ座の芸術監督を務める。1987ミラノ・スカラ座管弦楽団の首席指揮者に任命され、1988には同楽団とともにヴィオッティ・ドーロ賞Viotti d'Oro)を獲得。同楽団を率いてイタリア国内から欧州各地まで演奏活動を続けた。スカラ座辞任後は特定の監督ポストには就任せず、客演指揮者として活躍。

20105月、シカゴ交響楽団音楽監督に就任。

ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団にも定期的に客演している。1971以来ザルツブルク音楽祭にも定期的に参加し、オペラや演奏会を指揮しているが、とりわけ同地ではモーツァルの歌劇の指揮で有名である。スカラ座のほかにも、フィラデルフィアロンドンミュンヘンウィーン、ラヴェンナ音楽祭などでオペラ公演を指揮してきた。

交友は、小澤征爾ダニエル・バレンボイムズービン・メータマウリツィオ・ポリーニバルバラ・フリットリレナート・ブルゾン等が並ぶ。カルロス・クライバーの数少ない親友でもあった。

レパートリー[編集]

母国イタリアの作曲家を幅広く取り上げ、秘曲も多く紹介し録音も頻繁に行っている(EMI,SONY)。その他一般的なレパートリーは手中に収め、特にフィルハーモニア時代やフィラデルフィア時代に膨大な録音を残した。近年はウィーン・フィルとシューベルト、モーツァルトを頻繁に取り上げては録音をしている。2008~はハイドン・イヤー企画でハイドンの交響曲も録音している(DG)。近年は専属録音契約を結んでいないが、ドイツ・グラモフォンEMIからのリリースをしている。今までに全集を残したものとしては、ベートーヴェン交響曲(EMI,MUSICOM)、ブラームス交響曲(Philips)、シューマン交響曲(EMI,Philips)、シューベルト交響曲(EMI)、チャイコフスキー交響曲(EMI)、スクリャービン交響曲(EMI)などがある。ヴェルディのオペラのほとんどはEMISONYへ録音している。

ミラノ・スカラ座では、比較的無名の古典派のオペラ、例えばケルビーニの歌劇《ロドイスカ》や、スポンティーニの歌劇《ヴェスタの巫女 La Vestale 》を上演、その一方でスカラ座管弦楽団を指揮して、こんにち無名の20世紀イタリア人の新古典主義者(フェルッチョ・ブゾーニアルフレード・カゼッラニーノ・ロータ)の作品を録音した。

ヴェルディプッチーニの有名作品についても、伝統的に行われてきた改変(アリアのクライマックスでの高音の挿入、冗長と考えられる部分のカット等)に対して批判的であり、「演奏は常に作曲者によって書かれたまま(come scritto)でなされなければならない」との強い信念をもち、自筆譜の綿密な研究を通じてそれを実行してきた。特にSONYへ録音した一連の録音では、打楽器など細部まで原典版を徹底して用い、数少ない演奏例としても貴重な存在になっている[要出典]

ピアノの腕前にも優れ、僅少ではあるが録音を行っているほか、リサイタルの伴奏を行うこともある。「椿姫」上演の際にオーケストラのストライキが発生すると、一人でピアノを弾いてまで強行上演させたという逸話もある。

幼少-青年時代~ロンドン時代[編集]

当初ピアニストとして研鑽を積み、ロータに招かれて、彼が校長を務めるバーリ音楽院に進んだ。そこで音楽院オーケストラの公演があり、予定されていた先輩の指揮者が病気になり急遽欠席した。そこでロータはムーティを校長室に呼びつけ、代役をやるように指示した。しかしムーティは不安で一度は辞去したものの、簡単な拍子の振り方だけ教わって強引に任されてしまう[1]。結果としては素晴らしい出来になり、ムーティ本人も指揮に興味を持ち始める。これがきっかけでロータに恩を強く感じ、度々彼の曲を今でも取り上げている。勉強に打ち込むも生活が苦しく、アルバイトに明け暮れつつ苦学した。このとき妻であるクリスティーナ(演出家)と出会う[1]。その後グィード・カンテッリ指揮者コンクールで優勝を果たし、イタリア国内の主要楽団を指揮する。1969にはフィレンツェ五月音楽祭歌劇場の音楽監督に抜擢され、長く関わっていく(現在も度々客演している)。

1971年、巨匠クレンペラーの後任としてニュー・フィルハーモニア管弦楽団1977年以降は「フィルハーモニア管弦楽団」)の首席指揮者に就任して以来、ロンドンには長く関わっている。EMIへの録音もこの頃から始まっている。1979には同楽団初代音楽監督に就任。その他ロンドン・フィルにも客演や録音を行っている。フィルハーモニア退任後も毎年のようにタクトを取るなど良好な関係を維持してきた。しかし一部メディアが反ムーティを掲げて過激な攻撃を行った。これに火がつき聴衆の一部も激化。2005年にはスカラ座共同参画でロイヤル・コヴェントガーデン歌劇場に初登場する予定であったが、演出家と激しく対立してキャンセルする(演出家はその後失踪した)。これによりメディアがムーティ攻撃を強め、翌年にフィルハーモニア管に登場するも、その後空白が生じた。2009にはしばらくぶりの客演予定が立った。

フィラデルフィア時代[編集]

引退を考えていたユージン・オーマンディがムーティのコンサートに訪れ、その驚異的な才能に一目惚れしてムーティ招聘を働きかける。その後首席指揮者を短期間務め、正式にオーマンディの推挙により1980、音楽監督に就任する。就任後はオーマンディが築いた「フィラデルフィア・サウンド」を踏襲しつつも、オーマンディの静に対して極めて動的、ドラマティックで熱い演奏を繰り広げて聴衆や楽員の支持を得た[1]EMIへの録音も盛んになり、オーマンディは私財を投じてムーティのために録音施設を建設した。晩年はPhilipsにも録音を行い、ブラームスやプロコフィエフで演奏を残した。カラヤンが他界して「ポスト・カラヤン争い」が勃発したとき、ムーティもその候補に挙がった。しかし早期に撤退を表明する。直後の1992年、激務に耐えられなくなったことを理由にフィラデルフィアを辞任した。その後数年、後任のヴォルフガング・サヴァリッシュの活躍でフィラデルフィアは好調を維持したが、次のクリストフ・エッシェンバッハ時代に低迷、そこでムーティ復帰を掲げて何度か招聘に乗り出すが失敗。代替案で桂冠指揮者への就任も打診するが辞去される。結果として数度の客演に止まり、その後の共演予定は立たなくなった。2009312日、ムーティはフィラデルフィアの低迷を心配するコメントを発表した[2] が、程なくして同楽団は破産法適用の申請を行った。

ミラノ・スカラ座時代[編集]

1986クラウディオ・アバドの後任として音楽監督に就任する。就任後は極めて強力な改革を推し進め[要出典]、スカラ座の復権・復興に効果[要出典]を上げた。カラヤンの失敗以来、各指揮者が敬遠していた「椿姫」をティツィアナ・ファブリチーニの起用により上演し、封印を破ったことは特筆に価する。その後もEMISONYに多くのオペラ録音を行って足跡を残す。ブーイング集団を秩序維持のために場外に追いやって物議を醸すなど、一部常連客らとの対立もあった[1] が、ムーティはスカラ座に長期にわたって君臨した。
しかし2005316に、スカラ座の管弦楽団員と職員の投票により圧倒的多数で不信任を表明される。これは、スカラ座総支配人カルロ・フォンターナとムーティとのいさかいがきっかけであり、先んじる同年2月にはフォンターナが免職される結果となっていた。ムーティは投票に先立ち演奏会をキャンセルするが、フォンターナの支持者との絶え間ない亀裂のためにその他の公演も立ち行かない状態だった。同年42にスカラ座を辞任した際、ムーティは職員からの「敵意」を辞任の理由として挙げていた。ムーティがベルルスコーニ首相と親しい間柄であるのに対し、フォンターナは左派に属する[3] ことから、この抗争自体芸術面でのそれというより高度に政治的なものだったとの見方もある。

フリー(客演)の期間[編集]

スカラ座辞任後は特定の監督ポストには就任せず、客演指揮者として活躍。母国の音楽的復興を試みてケルビーニ管弦楽団を設立し、若手音楽家の育成に注力する。ウィーン・フィル、ケルビーニ管以外は年に1ヵ月程度の付き合いに留まっている。現在の客演先はフィルハーモニア管弦楽団、バイエルン放送響、フィラデルフィア管、フランス国立管、ニューヨーク・フィル、フィレンツェ五月音楽祭歌劇場だけだが、新規としてメトロポリタン歌劇場ローマ歌劇場、シカゴ響(2回目)などの客演が決まっており、北京音楽祭や東京オペラの森音楽祭、PMFモスクワ音楽祭ザルツブルク聖霊降臨祭音楽祭などイベントへの参加も多い。ルツェルン音楽祭への出演や協力も表明し、周囲を驚かせた。ローマ歌劇場に対しては定期的な客演と復興活動に参画することが発表された。生まれ故郷のナポリにあるサン・カルロ歌劇場の復興にも尽力し、母国の活性化に大きく貢献している。2010年にはフランクフルト州立歌劇場にも登場する。

シカゴ交響楽団の音楽監督へ[編集]

シカゴ交響楽団は約30年というブランクがあるにもかかわらず、スカラ辞任直後のムーティに猛アタックを掛け、客演を要請していた。客演後はヨーロッパツアーを率いるなど大切な業務を次々と依頼した。その過程から「次期音楽監督か」と憶測が飛び交った。200855日、シカゴ交響楽団の次期音楽監督に就任することが双方から発表された。楽団のメンバーから多くの手紙や署名が届けられ、決心に至ったという。任期は2010年から5年間となるが、就任前に事実上の活動(スポンサー対応やオーディションなど)を開始。20091月は就任直前のコンサートになったが、人気が過熱してチケットは入手困難に陥りスポンサーを失望させた。そこでムーティは前例のない「スポンサー限定公開リハーサル」を実施して難局を乗り切った。20105月、ムーティは正式に音楽監督に就任。首席指揮者ベルナルト・ハイティンクもそのまま在任している。

ウィーン・フィルとの信頼関係[編集]

もっとも親密なウィーン・フィルハーモニー管弦楽団では1973年以降ほぼ毎年指揮台に立ち、1996にはウィーン音楽週間の最終公演で同楽団を指揮したほか、極東ツアー(日本韓国香港)やドイツツアーのほか、199319972000200420182021ニューイヤーコンサートでも指揮をとった。2005-2006シーズンは30回以上指揮台に立っている。ウィーン・フィルからはゴールドリングが贈られ、同楽団の中枢メンバーで構成されるウィーン宮廷楽団の初代名誉音楽監督を務める。Wph専用機(エアバス機)に搭乗が許される唯一の指揮者であり、カール・ベームヘルベルト・フォン・カラヤン並の待遇を受けている。創立150周年記念、楽友協会125周年記念 他、記念コンサートでタクトを託されている。1975年の初来日はベームに帯同してウィーン・フィルと果たしており、その後1999年、2005年、2008年と4回来日を重ねている。2011728日、ザルツブルク音楽祭開催中に70歳を迎え、ウィーン・フィルより名誉団員の称号を贈られた。

ミュンヘンとの関係[編集]

1979年、バイエルン国立歌劇場に初登場し、超一流歌手を並べた「アイーダ」を上演。この公演のリハーサルに訪れたのがカルロス・クライバーであり、それ以来親交が続く。その後、同じミュンヘン市内の名門・バイエルン放送交響楽団にも登場し、毎年客演を重ねたりレコーディングも行う。バイエルン放送交響楽団はロリン・マゼールの任期満了に伴い、マゼールの意向でムーティを音楽監督に打診する。しかしムーティ側から辞退の申し入れがあり、後任はマリス・ヤンソンスに決まる。この後もバイエルンとは良好かつ密接な関係は維持している。

ニューヨーク・フィルとの関係[編集]

ニューヨーク・フィルはマゼールを音楽監督に迎えてから、同じくムーティの登場回数を大幅に増やしてゆく。マゼールは当初から契約更新をしないと明言しており、当初はムーティを後任として推挙していた(断念後はバレンボイムを推挙した)。それを受けてフィルハーモニックはムーティに就任を再三打診するも、固辞される。代わりにムーティは定期的な客演を約束し、2009-2010年はツアーを組むなど首席客演待遇で進める事が合意された。しかしムーティは2008年に、ニューヨークのライバルであるシカゴ交響楽団への就任を表明する。これによりフィルハーモニックのザリン・メータ総裁は失望の意を示し、今後の関係断絶をほのめかした。後に和解を果たし、2009年のツアーは予定通り実施されることになった。

クラウディオ・アバドとの関係[編集]

クラウディオ・アバドとの犬猿の仲は有名であり、お互い名前で呼ばないほど疎遠であった。殊にムーティはアバドのことを「(スカラ座の)前任者」と呼んでいた時期もあった。盟友のピアニスト・ポリーニ、バレンボイムや弟子のダニエル・ハーディングらがよく二人の間に立って和解を目指した。イタリア時代からお互い良きライバルであった反面、ポスト・カラヤンとして争い完全に決裂してしまう。アバドはベルリン・フィルを襲い自らの目指すカラーに染め上げた[要出典]反面、ムーティはウィーン・フィルの事実上の常任指揮者待遇になる[要出典]。双方がポストをもたない間に、アバドよりムーティへ協力要請があり、ルツェルン音楽祭への出演・協力に至る。また雑誌を通じてお互い尊敬しあっていることを打ち出すなど、雪解けへ向けて一気に加速が進む。アバドがパイオニアとして乗り込んだ地域(オーケストラ)の後任としてムーティが乗り込み、成功を収める例が多く、その他でも何かと因縁で切っても切れない様相を呈す(スカラ座・ウィーン・ベルリン・ロンドン・シカゴ・ニューヨークなど)[1]

日本との関係[編集]

1975年にカール・ベームに帯同してのウィーン ・フィルとの初来日以来、たびたび来日している。 長年にわたる日本とイタリア間の文化交流と相互理解の促進・貢献が評価され、平成28年春の叙勲・褒章において、旭日重光章を受章。2018年には第30回高松宮殿下記念世界文化賞[音楽部門]を受賞している。 2019年より東京・春・音楽祭で「イタリア・オペラ・アカデミー in 東京」を開催。同アカデミーは、2015年にイタリアのラヴェンナで立ち上げられたプロジェクト。ムーティ自身がこれまでの経験、教師たちや過去の偉大な演奏者たちから受けた教えを、才能ある世界中の若手音楽家に伝え、オペラ制作に至る複雑なすべての過程についても理解を深めることを目的に、毎年夏にラヴェンナで開催されているもの。日本では3年に亘って《リゴレット》(2019)、《マクベス》(2020)、《仮面舞踏会》(2021)を取り上げる予定だったが、《マクベス》は新型コロナウイルス感染拡大の影響で2021年に延期となった。

エピソード [編集]

同僚指揮者に極めて辛辣なセルジュ・チェリビダッケをして、「恐ろしく無知だが」という前提だが「才能がある」と認めさせた。チェリビダッケが才能を認めたのはムーティだけである[1]

ウィーン・フィルからお気に入りのヴィオラ首席奏者を引き抜いてスカラへ入団させた(後にウィーンに戻る)[要出典]

専属のカメラマンが付く稀な指揮者であり、写真集も出版されている。そのほか公式サイトではその写真を公開している。

近年は視力の衰え(白内障)が激しくメガネを掛けている。サインなどファンサービスには応じるが、視力が悪化した時は説明を行った上で写真撮影を断っている。

201123日、シカゴ交響楽団とのリハーサル中に気を失って指揮台からステージに転落。顔面の骨と顎骨を骨折した(治療後に復帰)。その際、心臓にペースメーカーを埋めていることが明らかになった。

メディアや過激な聴衆からはよく「まるで帝王だ」と批判の対象になる。実際にムーティと決裂した相手は、演出家のフランコ・ゼフィレッリロベルト・アラーニャなど多く存在する。後日対立したゼフィレッリは「真のマエストロは妥協せず、気難しい性格になるものだ」とフォローした[4]。アラーニャも後日「歌手の限界に挑戦させる、極めて要求の厳しい指揮者だ」とコメントした。実際に芸術上の対立があった場合、基本的にはムーティのほうから先に去っている。

インフルエンザに掛かりやすく、122月にキャンセルが増える傾向にある。[要出典]

ジョークの多い指揮者で、リハーサルや記者会見でもしばしば用いる。心臓の調子を記者から質問されたとき、「問題は心臓ではなく頭だ」と自虐的に切り返した。[要出典]

車の運転にはかなり自信があり、相当のスピードを出すことを認めている。車種はイタリア車ではなくメルセデス・ベンツを好んでいるとのこと[要出典]

受賞歴[編集]

ウルフ賞芸術部門2000

レジオンドヌール勲章シュヴァリエ

レジオンドヌール勲章オフィシエ(2010

アストゥリアス皇太子賞芸術部門(2011

旭日重光章2016

高松宮殿下記念世界文化賞2018

脚注[編集]

注釈・出典[編集]

1.    a b c d e f ノーマン・レブレヒト『巨匠神話』河津一哉、横佩道彦・訳、文藝春秋、1996

2.    ^ The Philadelphia Inquirer紙(米)、Il Tempo紙(伊)

3.    ^ "Dumbing down row at La Scala" the Guardian紙(英)2003916日付記事。

4.    ^ Il Messaggero2009320日号

 

 

ニーノ・ロータ(Nino Rota, 1911123 - 1979410)は、イタリア作曲家クラシック音楽映画音楽で活躍した。本人は「本業はあくまでクラシックの作曲であり、映画音楽は趣味にすぎない」と言っていたが、映画音楽の分野で多大な業績を挙げており、死後クラシックの作品も注目を浴びるようになった。

生涯[編集]

北イタリアミラノ出身。11歳でオラトリオ13歳でオペラを作曲し、ミラノ音楽院サンタ・チェチーリア音楽院[1]で学んだ。その後米国に渡り、カーティス音楽学校に学んだ。帰国後ミラノ大学に入学し、文学哲学を並行して専攻。

大学卒業後は音楽教師となり、その傍らクラシック音楽の作曲家として活動を開始。1942以降、映画音楽の作曲も始めた。1951、当時新進映画監督として注目を集めたフェデリコ・フェリーニと出会い、その後フェリーニの映画のほとんどの音楽を手がけることになった。

フェリーニ監督以外の映画音楽も多数手がけ、1968年にはフランコ・ゼフィレッリ監督の『ロミオとジュリエット』の音楽を担当した。同作品の「ワット・イズ・ア・ユース」はグレン・ウェストンが歌っている[2]フランシス・フォード・コッポラ監督の『ゴッドファーザー』の音楽はロータの代表作となり、「愛のテーマ」は多くの人々に親しまれた。

67歳のとき心臓発作によりローマで死去。生涯結婚はしなかったが、娘が1人いる[3]

南イタリアのモノーポリニーノ・ロータ音楽院イタリア語版)が1971に設立されている。

主な作品[編集]

純音楽[編集]

交響曲第1番ト長調(1935 - 1939

交響曲第2番ヘ長調

交響曲第3番ハ長調

オペラ『フィレンツェの麦わら帽子』(1946

木管五重奏のための『小さな音楽の贈り物』(1943

オーボエとピアノのための『エレジー』(1955

弦楽のための協奏曲(1964 - 1965

トロンボーン協奏曲 ハ長調(1966

ファゴット協奏曲1977

映画音楽[編集]

フェリーニ監督作品[編集]

白い酋長(1951

青春群像1953

1954

崖(1955

カビリアの夜1957

甘い生活1959

ボッカチオ'701962

8 1/21963

魂のジュリエッタ(1965

世にも怪奇な物語1968

サテリコン1969

フェリーニの道化師(1971

フェリーニのローマ(1972

フェリーニのアマルコルド1973

カサノバ1976

オーケストラ・リハーサル1979

その他の映画音楽[編集]

戦争と平和1956

太陽がいっぱい1960

山猫1963

じゃじゃ馬ならし1967

ロミオとジュリエット1968

ワーテルロー1970

ゴッドファーザー愛のテーマ」(1972

ナイル殺人事件1978

ハリケーン1979年)

受賞歴[編集]

アカデミー賞[編集]

受賞

1975 アカデミー作曲賞:『ゴッドファーザー PARTII

ノミネート

1973 アカデミー作曲賞:『ゴッドファーザー

英国アカデミー賞[編集]

受賞

1973 アンソニー・アスキス賞:『ゴッドファーザー

ノミネート

1969 アンソニー・アスキス賞:『ロミオとジュリエット

1976 アンソニー・アスキス賞:『ゴッドファーザー PARTII

ゴールデングローブ賞[編集]

受賞

1973 作曲賞:『ゴッドファーザー

ノミネート

1969 作曲賞:『ロミオとジュリエット

1975 作曲賞:『ゴッドファーザー PARTII

 

 

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