物語 パリの歴史  福井憲彦  2022.4.6.

 

2022.4.6.  物語 パリの歴史 「芸術と文化の都」の2000

 

著者 福井憲彦 1946年東京都生まれ。東大文西洋史学科卒。同大大学院人文科学研究科博士課程中退。東大助手、東京経済大助教授、学習院大教授・学長などを歴任。学習院大名誉教授。日仏会館名誉理事長。専門はフランスを中心とした西洋近現代史

 

発行日           2021.8.25. 発行

発行所           中央公論新社 (中公新書)

 

はじめに

全国の年間来訪者1億人を目指していたところにコロナのパンデミック

フランスの吸引力の源は何か

パリと「芸術文化」というイメージの結びつきは強いが、それはどこから感じられるのか、どうして、どのようにして形成されてきたのか

広い視野から多様な側面にスポットを当てながら、歴史の展開を訪ねてみたい

 

序章 パリのエコロジーと歴史の始まり

パリの地下には石灰質の岩盤があって、切り出して建築資材にできるという好条件があったが、これも広い意味でエコロジカルな条件だし、どの気候帯に属するかも都市生活の様相に関係し、構築物の構造にも関係する、ということは都市文化のあり方にも反映

パリは緯度が高いので、夏は遅くまで明るく、冬は暗い時間が長い。19世紀末から電気が普及するが、1872年の岩倉使節団はガス燈が光り輝く街路の見事な情景に驚嘆

緯度は高いが、大西洋の暖流のおかげで冬でも極寒は珍しく、降雪も少ない。内陸なので湿気も少ない。四季の移ろいは明確で季節感が生活にリズムを与える。しばらく前から夏の酷暑と大気汚染が問題となり、パリ市当局はかなり頑張っている

パリは、紀元前後からローマ帝国によって、ガリア(ケルト)統治の前線基地としての位置づけを与えられた――カエサルの『ガリア戦記』の時代=紀元前50年代のことだが、その前から、南の地中海地域と北のフランドル一帯を結ぶ陸路と、南東から北西へと流れるセーヌ川が交わる地点として、ガリア地域間の交易ルートにおける重要な地点だった

中世からパリ市の紋章に船が描かれるのは、東から西へと流れるセーヌの川港としての重要性を示している

18世紀までは基本的に絵地図で、セーヌを中心に置き、多くは東を上、西を下に描いた

ガリアの前線拠点を置き、その後もパリの中心をなしたシテ島は、川の中州で、ローマ以前からケルトの神殿が置かれていた。中世になってからも王宮と大聖堂という聖俗の中心という位置付けは不変

1910年の大洪水を最後に、流れがコントロールされた

右岸(セーヌの北側)は、中世には「ラ・ヴィル(町内)」と呼ばれ、各種の手工業や商業が栄える経済の中心で、左岸が「ユニヴェルシテ(後にカルチェ・ラタン=ラテン区)」と呼ばれたのは、学芸の世界が中世にはラテン語による神学研究を基礎として形成されたから

両岸には防御の為に市壁が築かれ、一部は現存する。19世紀の第2帝政期までは小規模

19世紀の大改造に伴う発掘の際ローマ時代の遺構で明らかになったものが多く、19世紀末からパリ市には「古パリ(ヴュー・パリ)委員会」が構成され、保存に当たっている

パリ市域の変遷:

1.   ローマ帝政期のシテ島の防壁

2.   フィリップ・オーギュストの壁――パンテオンのあるサント・ジュヌヴィエーヴの丘(65m)、ルーヴルまで

3.   シャルル5世の壁――共和国広場、バスチーユまで

4.   ルイ13世の壁(フォセ・ジョーヌ)――オペラ・ガルニエ、コンコルド広場まで

5.   徴税請負人の壁(17871859年の市域)――モンマルトル山(129m)の内側、エトワール凱旋門、エッフェル塔まで

6.   7月王政の土塁(1860年以降の市域境界線)

7.   現在の市域境界線(1929年制定)――7月王政の土塁のすぐ外側+ブローニュの森+ヴァンセンヌの森

 

第1章        キリスト教徒パリ

1. 教会の多い町パリ

2014年現在、宗教に則った生活をしているのは、ムスリムを含めても40%に過ぎない

2019年ノートルダム大聖堂の炎上は、心の拠り所を喪失した感覚

教会建築には、文化技術の粋が詰まっており、優れた手技を持った職人(アルチザン)の仕事は、芸術家(アーチスト)の作品と区別しがたい質を持っていた

かつて教会の存在、特に小教区教会の存在とその活動は、住民にとって社会生活と不可分であり、小教区の一員として生まれそこに暮らし、精神生活を満たされていた

街の広がりや充実に伴い教会の数も増え、教会を束ねていたのが司教で、その拠点が司教座教会=大聖堂カテドラル。パリでは1622年から、司教は大司教に格上げされ、その管轄区域である大司教区はパリ市内及び周辺地域に広く及ぶ

3世紀半ば、パリがルテティアと呼ばれてローマ支配下にあった時にカトリック布教のために派遣された最初の聖職者がディオニシウス。キリスト教がローマ帝国の国教になるのは4世紀末で、ディオニシウスも異教徒に疎まれ処刑され、サン・ドニ(聖ドニ)として葬られたのが殉教(マルチール)の丘(モン)としてモンマルトルと呼ばれるようになった。16世紀スペインの修道士イグナチウス・ロヨラによってイエズス会が創立されたのもこの地だが、今では移民労働者が住み着いたこともあって左翼勢力が根付く労働者地区で有名

7世紀メロヴィング朝フランク国王ダゴベール1世が聖ドニを讃えてサン・ドニに移り、自ら建てた修道院に自身を埋葬するよう指示したことから、歴代国王・王妃の墓が安置されることになったが、18世紀末にの革命時には、カトリック教会権力と対立した民衆による破壊の対象とされ墓が暴かれるという悲劇も経験

 

2. 襲来する外敵と戦うパリ

聖ドニと並んで初期のパリで注目すべき聖人は、サント・ジュヌヴィエーヴ。5世紀半ばのアッティラ率いるフン族襲来「カタラウヌムの戦い」に際し、先頭に立って祈りでパリ襲撃を回避させ、パリの守護聖人と伝えられる

520年、彼女が葬られた丘にパリ最古の大修道院サント・ジュヌヴィエーヴ修道院の聖堂が完成、司教体制下に入らない在俗参事会員で運営される独特の位置を占めたが、1148年教皇庁直属となり、政教不可分の存在となる

ゲルマン系フランク王国のメロヴィング朝(481751)とカロリング朝(751987)時代、パリの政治的支配者はゲルマン系の人々で、クローヴィスやシャルルマーニュなどが君臨

フランスの社会と文化を捉える場合、単一あるいは少数の民族やエスニック集団の単位で考えてはいけない。古くからのケルト系、ローマからのラテン系、北方のゲルマン系諸集団が、この地で相互に交流・闘争を繰り返している。フランス社会が示す独特な文化的豊かさの基礎には多様な要素の交流と混淆がある

北方ヨーロッパを拠点とするゲルマン系ノルマン人(北の人)の集団であるヴァイキングが8世紀末~11世紀に勢力を拡大、9世紀には内陸部へも侵攻、パリも大きな被害を被るが、特に左岸の被害が大きく、結果的にその後の生活範囲を北の方へ拡大する余禄となる

ノルマン侵攻に立ち向かったのがパリ伯ウードで、10世紀末に彼の属するロベール家末裔のユーグ・カペが国王に選出され西フランク王国からフランス王国への転換を進める

911年には西フランク王国のシャルル3世がヴァイキングの首領に、停戦とカトリックへの改宗を条件に主従関係を結び、定住を承認したのがノルマンディの起源で、やがてブリテン島に侵攻してノルマン朝を立て、後世の英仏100年戦争にも繋がっていく

ノルマンを巡る動きが多様な文化交流を促す側面があったのも見逃せない

カぺの在位は987996で、封建領主の諸侯と主従関係を結びフランス王国を形成

カぺ朝7代目のオーギュスト(尊厳王)と呼ばれるフィリップ2(在位11801223)が、アンジュー朝イングランド国王ヘンリ2世との抗争で勝利しフランス王国と王権の基礎固めに貢献。2代後のルイ9(在位122670)と並んでパリの発展に貢献するが、十字軍遠征にも熱心で、ローマ教会の優等生として列聖され聖王ルイとされる

 

第2章        王権のもとで学術文化の都となる中世パリ

1. 中世の王権と王都パリの整備

フィリップ2世が、祖父ルイ6(在位110837)、父ルイ7(在位113780)時代から王都整備に着手。宮廷政治体制の組織化、国王文書管理の徹底、経済的安定、信仰の中心地としての整備等を実施すると同時に、都市としての文化的輝き、対イングランド王国に対する防衛体制の確立を目指す。セーヌ両岸に城壁を築き、シテ島の王宮と大聖堂を聖俗権力の中心として位置付ける

中世では、国王が重視した都市に独自の自治権を与え、都市はその見返りに自治の認可料を国王に支払う、という関係が成立。敏は国家権力に従うことで自治権を得て初校の支配から相対的に自由を獲得し、国王は都市から資金を調達する関係を結べると同時に、都市の位置する領域を支配していた諸侯に対し統制の楔を打つ。国王と良好な関係を築いた都市は「良き都市」と呼ばれるが、パリはその中でも特権的な位置を占めた

ルイ6世が1112年パリに特別な地位を公認するとともに、1121年にはセーヌ川を活用してきたパリの水運商人団体に改めて営業許可を公認、職業の社団組織への特認制度を始める⇒ギルドの公認。この時代には非公式ながらパリの紋章には船が描かれていた

経済の中心だった右岸のインフラが整備され、同時に国王の拠点であるルーヴルの城塞が構築、現在の美術館地下で遺構を見学できる

 

2. セーヌ左岸に始まる新たな学術文化の輝き

カトリック教会の上位聖職者による公会議のうち、第3(1179)、第4(1215)で神学教育の強化が打ち出され、民衆への新たな教化の働きかけを強める。聖職者たちの信仰レベルの引き上げも要請され、各地で修道会が民衆の間での布教にも注力して興隆

神学思想の研究とその教育が重みを増し、教会付属の学校(スコラ)が設置されるが、パリでは左岸のサント・ジュヌヴィエーヴの丘一帯に続々と学校や塾が誕生、13世紀には左岸が学生や学者の集まる場となっていく

12世紀末から教師と学生が一種の共同体を形成され始めたのを機に、1200年王都の宗教的・知的充実を図るべくフィリップ2世はこれに正式な社団としての認可を与え、世俗の法制から独立したステイタスを保障。この共同体がウニウェルシタス(ユニヴェルシテ)で、教会制度内でも公式な存在とされ、「知の共同体/学びの共同体」が公的に誕生

ヨーロッパ各地から来た研究者が出身地ごとにグループを形成して交流したが、この出身地ごとの括りをラテン語でナチオといい、後のナシオン(ネイション)の語源となる

パリの学問研究の特徴は、神学を中心としながらも、じきに自由7(文法、修辞、弁証、幾何、代数、天文、音楽)が始まり、広くキリスト教世界の各地から様々な関心を持った学者や学生を引きつけるようになった点

中でも自由学科の発展は重要で、具体的は職人仕事と対応しながら考察が進められるようにもなり、専門的な職人技に立脚した仕事の種類が多数誕生、その背景には12世紀からパリの都市活動全体が発展期に入った現実がある。ノートルダム大聖堂の新築という巨大事業が打ち出され得た背景であり、都市を核にして発展する「大開墾時代」が進み始めた

 

3. パリ大学とソルボンヌ

ヨーロッパ最初の大学は12世紀イタリアのボローニャで、教会法の法学中心

パリでは、神学を中心に、自由7学科が揃う

1257年にはパリの北東ソルボン出身のロベールが国王の礼拝堂付き贖罪聖職者として採用され、後身の育成のために建立したソルボンヌ学寮が認可

パリ大学神学部は、ソルボンヌでの優等生が入学の条件となり、17世紀後半には両者が一体化。大学は知的殿堂としての地位を確立し、宗教改革に対しても守旧的な姿勢を強めるが、権威や権力まみれを批判する放浪学生も現れ、左岸に展開していた民衆文化や町人文化と交差し活力に満ちた現象も生じた

1470年、パリで最初に活版印刷工房が設置されたのもソルボンヌ学寮で、パリ大学神学部の権威と一体化して運営された

 

 

第3章        職人・商人文化の発展と中世末の暗転

1.    20万都市パリの発展

13世紀の発展の結果、14世紀初頭のパリの人口は20万といわれ、右岸には様々な分野の商人や職人が5つの街区(カルチエ)に在住

学術文化と足並みを揃えて発展しだした市民生活の活性化、その基盤としての手工業と商業の発展により、キリスト教ヨーロッパ世界にあって断トツの地位にあったが、14世紀半ばのペスト襲来と、100年戦争と絡む内戦の影響とで人口は半減

 

2.    ギルドを形成した職人・商人と市民生活

同じ職業のための共同体の形成が、商業や手工業、それらの周辺に成立する都市生活固有の多様な職業についても波及し、共同体=ギルドが形成されていく

ルイ9世によって任命された代官が課税権と司法権を行使

各ギルドでは、制度や決まりが代官に認められた既定の形で存在し、傘下の親方や職人、丁稚を統制していた。なかでも、歴史が古く権威のあった団体は肉屋で、独占団体

中世半ばから、高度な質を持った職人や商人たちの組織が機能しだし、市民生活の質は全体として上がって、芸術文化面での将来への基盤形成も進む

この時代の芸術文化の表現は、個人としてのアーチストの作品というより、ゴシック建築に代表されるような独特な様式や構造をもった建築そのものであり、教会の場合も内部の彫像やステンドグラスなどの高度な製作技術から生み出されたものも全体構成に寄与する高質の作品として位置付けられ発展していた

国王政府とパリ市民との関係は、持ちつ持たれつで上手く機能している間は問題なく進むが、そうでなくなるといろいろなキシミを示す

 

3.    危機の時代のパリ

14世紀半ば、中央アジアからイタリア経由ペストが流入、ヨーロッパ人口の1/3が失われる

1415世紀にかけては気候の全体的な寒冷化もあって、ヨーロッパの「大開墾時代」は完全に終わりを告げた

1337年英仏100年戦争開始――カぺ朝の直系男子が何れも早世、フィリップ4世の弟のヴァロワ超フィリップ6世が王位を引継いだが、イギリス王家に嫁いだフィリップ4世の娘の子エドワード3世が王位継承権を主張して攻撃を仕掛ける――1453年カレーを除く大陸側をフランスが制覇して終戦。正当な王位継承者シャルル7世の勝利に貢献したのがジャンヌ・ダルクだが、その後イギリスに囚われ異端審問を受けて火刑に処せられ、愛国のシンボルとなったのは20世紀に入ってから

 

4.    パリの戦闘的な自治の姿勢

100年戦争中はパリ市内もあれたが、一方で手工業生産の洗練が進み、商人たちの活動も活性化。市政を代表したのがパリ商人頭(かしら)という役職で、後の市長に該当

パリ市民の行動で目に付くのは、自治意識の強さ

1364年即位したシャルル5(ヴァロワ朝第3代の王、在位~1380、賢明王、ジャン2(善良王)の子)の治世下、シテ島に大時計を設け市民生活の時間を組織するよう指示したり、王立図書館を設置して学知を重視し続けたりして、王権と市政の協調関係を築く

 

第4章        ルネサンスとパリ――王都から王国の首都へ

1.    ルネサンスの魅力とイタリア戦争

ルイ11(在位146183、慎重王)は、国内支配強化を推進、15世紀トスカナのフィレンツェから発展した文化芸術の活性化運動であるルネサンスに強い関心を示す

ルネサンスは、地中海交易路に乗って瞬く間にフランドル地方に拡散したが、同地は仏王に敵対するブルゴーニュ公の勢力範囲だったため、ルイ11世以降の仏王たちは「イタリア戦争」を仕掛け、自らナポリまで侵攻してルネサンスの真髄を持ち帰り、フランスの政治経済面はもちろん、文化的な威信の高揚にも腐心

特に熱心だったのがフランソワ1(ヴァロワ朝第9代、在位151547)で、パリの王都としての再整備にも積極的に乗り出す。晩年のダ・ヴィンチを招聘、ロワールの城館で厚遇。後継者となる次男の婚姻相手をメディチ家から選ぶも、あまりの粗野に驚いたという

当時の多才なルネサンス的フランス人の代表がフランソワ・ラブレー(1483?1553)で、ガルガンチュアとパンタグリュエルという大食漢の父子による人間らしさの礼賛を寓話的に描いた作家で、医者・聖職者でもあった

移動宮廷方式で支配地を統治したが、王国の経済的・文化的中心はパリ以外ではありえないと宣言、1528年ルーヴル城を改修して居城とし、以後も幾多の混乱を経ながら、圧倒的中心都市としてのパリの地位、実質的な王国首都としての地位が揺らぐことはなかった

ルネサンス様式の市庁舎(オテル・ド・ヴィル)の新築にも着手。完成は95年後の1628年、ルイ13世の時代だが、1871年パリ・コンミューンに伴う内戦で焼失、再建へ

 

2.    世界の中のフランス、その王国の首都としてのパリ

新大陸発見により世界が一体化へ向かう中での王都パリの復活は、経済活動のスケールも、芸術文化の視野も一国一地域に収まるものではなくなりつつあった世相を色濃く反映

フランソワ1世も「幻想のアジア」を意識して大西洋横断航海を支援したが、ケベック一帯を獲得した以外はいずれも中断、西葡英蘭などに後れを取る

ヨーロッパ各国は、国土の保全を前提として国家の統一性を高めていく――文書主義と国家言語統一が進められ、パリを中心としたイル・ド・フランスの言語の使用が、全国の公的文書で義務付けられた。それを基に17世紀からはパリに設置されるアカデミーがフランス語の整備に乗り出す

戸籍登録の原型も導入され、ローマ教皇レオ10世との間でボローニャ政教協約を締結して、仏国内の教会を王権の統括下に置くことに成功

 

3.    人文主義の学術文化の再活性化

ルネサンス期の文化興隆のパトロンとなっていたローマ教皇庁は、ルターに端を発した宗教改革には否定的だったのに対し、フランソワ1世は教会の保守派と対立していたフランス人文主義の学者ジャック・ルフェーヴル・デターブルを師と仰ぎ、カトリック批判が国政に及ばない限りは寛容的立場をとる

ソルボンヌの隣にあるコレージュ・ド・フランスは国立の研究教育機関で、選抜された優秀な学者が定年まで主体となる組織だが、その前身となる施設が出来たのも1530

ボルドーの高等法院評定官だたモンテーニュの『エセー(随想録)』という、古典古代の多様な思想潮流を読み込みながら、人の生き方についての自身の思考の展開を書き綴った個人の著作が1580年発売されると、ロングセラーとなる現象が現れた

16世紀後半の宗教改革では首都パリも巻き込まれ、フランソワ1世の後継アンリ2世、その後のシャルル9(在位156074)の時代を通じて、「聖バルテルミの虐殺」(1572)など深刻な事態が全国的に展開するが、市民生活は中世末期の危機状態から脱して大いに活性化

パリでは、新教側勢力のリーダーだったアンリ4(在位15891610)を拒否した旧教派のパリ市政が、アンリ4世のカトリック改宗によって最終的に需要に転じたのも、現実的な国家の主権確保を優先すべきとする勢力が主導権を持っていたからで、新教派の存在も許容した国家体制の立て直しが始まる。パリの都市計画的事業の推進もその重要な構成要素の1つで、初の側道付きのボン・ヌフ(新橋)は宗教戦後の再出発の象徴となる

 

第5章        1718世紀パリの文化的発展と王権

1.    新たな行動様式とアカデミーの創設

17世紀がヨーロッパ史で「危機の時代」といわれるのは、気候の寒冷化による飢饉の頻発と、疫病の蔓延、30年戦争などの国際紛争の勃発が要因

フランスでも、人口が伸び悩み、経済状態はよくなかったため、統治体制への不満も顕在化したが、絶対王政といわれる国内政治体制は一定の安定を見せるようになる――ヴェルサイユ宮殿新築と宮廷社会の形成はその象徴

フランス宮廷は、ヨーロッパ諸国でモデルとされ、王の膝下で様式化された行動規範が席次と同様に政治的意味を持ち、芸術の面でも王権による庇護と助成のもとに隆盛

アンリ4世もメディチ家から王妃を迎え、マリ・ド・メディシスは後継のルイ13世幼少期には摂政として政治にも関与、芸術のパトロンとしても活躍

宮廷内社交での洗練された立ち居振る舞いが要求され、大貴族にして知識人でもあったラ・ロシュフコーが洒脱なモラリスト文学の傑作『箴言(しんげん;マキシム)』を出すと、パリの上層市民の間にも拡散していく

パリは、16世紀からリヨンと並んで、本格的な活版印刷による書物出版という重要な位置を占める――フランソワ1世が公的文書や規範の印刷のための王立印刷所を設置

刊行書籍は年と共に多様化し、情報発信の中心都市としてのパリは知的な動きの核となる

1635年、使用言語としてのフランス語の整備にあたる公的組織としてアカデミー・フランセーズが発足。現在まで続くフランス語の権威の殿堂の出発点

ルイ14世時代には、各種のアカデミーが「国王の栄光を讃えるために」設置され、本拠はほぼパリにあり、パリは学術文化の権威の所在地となる

 

2.    文化活動の高揚とサロンの活性化

1637年、デカルトが『方法序説』出版。パスカルやニュートンも同時代人

1610年代から、パリのランブイエ侯爵の館のサロンを会場として貴族や上層市民が集まって会話を楽しむ私的会合が開かれるようになり、学者、芸術家を包含して活発化

なかでも18世紀における公論の高まりは注目すべきで、公共の利益や公共善の在り方を問う議論が活性化。啓蒙思想の時代にその中心はパリ

1672年、サン・ジェルマン市場に開店したカフェを契機に外食産業がパリの都市生活に根付き、公論が交わされる場となっていく

労働市民の生活は職住近接で、濃密な近隣関係は社会生活や情報伝達に欠かせない要素であり、やがてフランス革命などいくつもの市民蜂起において重要な意味を持つ

 

3.    1718世紀のパリ都市空間の整備再編

18世紀初頭のパリには約50万が暮らし、衛生設備は極めて不十分

教会などモニュメンタルな建築にかけられる時間は長かったが、ファサード(正面の壁面)の改造は手っ取り早く、1718世紀にかけて多くが古典主義的な(ルネサンスを引継ぐ)建築様式に基づき、パリ市内の新たな美的要素をモニュメンタルに追加していく

1764年マドレーヌ教会建設に着手(完成は19世紀半ば)、パンテオンも当初はサント・ジュヌヴィエーヴ教会だったが、完成した1790年は革命勃発後で、用途変更された典型的事例。現在は、フランスに貢献した人を国葬している

右岸では市内の国王所有地や修道会の土地が分譲され、貴族や上層市民の館邸の建築が促され、それらが用途を変えて現存し、現在の街に与える歴史文化的な雰囲気は大きい

ルイ14世時代には、1670年から順次パリの防衛用の市壁撤去

ルイ16世治世下の1784年に「総徴税請負人の壁」が新たな集住地の外側を取り巻くように構築(全長24㎞、高さ3m、後の外周大通りの位置)、随所に市門が設けられたが、飢餓と生活苦の民衆からは怨嗟の声が上がり、革命直前にはあちこちで焼き打ちがあった

 

第6章        文化革命としてのフランス革命

1.    多岐にわたった大きな変化

1789年の革命を経て絶対王政から立憲国家へと転換、1870年末から共和制へと向かう

フランス革命が長く影響を残し続けたのは、人間の社会とその秩序形成の原則に関わる根本的な問題提起がなされたからで、芸術文化が個人によって自由に追求されるための、前提的な基盤に関わることでもあった

市民の権利の平等や自由に関する規定、国民国家の諸原則は、近代国家の枠組みとしての普遍性を主張するもの

   キリスト教会の社会統治への関与を全面否定(反教権主義)し、政教分離の原則を貫くが、市民個人の信仰の自由は確保

   83の県・郡・小郡・居住自治体からなる地方自治・統治の仕組みが確立

   メートル法・グラム法による度量衡統一

革命期を通じて、社会的・文化的な改変を含む多様な指令が革命政府から出されたが、すべてそれらの発信地は革命政府が本拠地を置いたパリで、パリの中央集権的な地位は、旧王政期よりも革命によって強くなったが、同時に地方の反発も生んだ

 

2.    表象(リプレゼンテーション)の多様な噴出

言語や音、絵画などの図像によるものを問わず各種の表象が革命後のパリに氾濫。言語表現でいえば、新たな法令などが印刷・公開されたり、説得や演説という言語表象が議会や民間でも大きな位置を与えられた。ビラやポスターから新聞風の意見紙まで、個人・団体を問わず公論の開示も盛んで、その代表例は革命勃発直前の三部会議員選出の段階で刊行された『第三身分とは何か』で、著者で無名の聖職者シエイエスは一躍革命のリーダーの1人となる。恐怖政治期の山岳派リーダーのロベス・ピエールは弁護士で、その演説で他を圧倒した

18世紀の啓蒙思想期からの「文芸の共和国」の現実化であり、ラマルチーヌやトクヴィルのように19世紀以降に優れた作家や思想家たちが政治家としても活躍するのはこうした伝統に立っている

 

3.    人類の芸術遺産をパリに集めよ!

王室のコレクションの芸術作品を市民に開放する計画は、革命以前から始まっていたが、革命によってその位置づけを変え、国家の中央美術館で公開することにより国家の威信を高める手段となった

革命のリーダーも、旧体制への民衆の攻撃から美術品や貴重な内装品などを護り、芸術の傑作を市民に広く開放するとの考え方を共有していた――人類の普遍的価値というユニヴァーサリズムと、フランスへのパトリオティズムとが同居した時代

周辺諸国との革命戦争を展開する中で、諸国に所蔵されている芸術品は、人類の誇るべき宝として、進歩の先端パリにこそ集約して公開すべきと考え、戦地で勝利した場合には積極的に接収してパリに運んだが、その考えは植民地時代に各国にそのまま引き継がれる

芸術作品のパリへの集約と市民への公開には前史がある――貴族の間ではお互いの美術品を鑑賞し合という作法が広がり、18世紀からは社会的に公開する方向が見え始めていた

さらには広範な文化遺産に加えて、あらゆる自然界の生物、鉱物、化石などの標本を収集して、研究する博物誌学が発達

1753年、ロンドンではパリに先立ってブリティッシュ・ミュージアムの設立が決められ、それを追ってフィレンツェのウフィッツィ美術館、ドレスデン絵画館など、市民公開を前提にした美術館整備が進む

18世紀のルーヴルは、各種アカデミーが本部を置き、様々な学術・芸術の活動の場になり、1750年には王室コレクションの一部が左岸のリュクサンブール宮殿で公開

ルイ16世はルーヴルを本格的に改修、美術作品の公開を企図したが、革命で頓挫

革命直後、教会資産が国有化され、不動産が売却されたが、王宮や王室コレクションも国家に帰属、'92年の共和国宣言直後から、将来にわたって受け継ぐべく「国民共有遺産」という理念が共有され、翌年にはルーヴルの「共和国中央美術館」が開館

革命戦争で勝利した土地に収蔵されていた美術品や、芸術性の高い歴史遺産をフランスに持ち帰り保管し、必要な修復などを施して、ルーヴル美術館に展示する、という接収行為は、ナポレオンが徹底して実行

物作り技術に関しても、多様な面での熟練した職人的手業を基本に、この頃には多様な自動機械も開発され始めていたが、それらについても保存伝承と教育を兼ねた展示室を含む施設が作られ、後の国立職業技芸伝承博物館となる

 

第7章        ロマン主義以降の芸術文化と新たなパリの中心性

1.    古典主義の権威とロマン主義の擡頭

革命後もヨーロッパの芸術文化は、19世紀を通じて依然として古典主義が重視され、ベルリンの国立博物館や改装された大英博物館のファサードの様式はそれを象徴

これに対抗するように発展したのがロマン主義の潮流で、芸術家個人の感性や幻想、インスピレーションに基づいた作品が輩出。建築でもネオゴシックの傾向が強まる

フランス・ロマン主義を厳密に定義するのは困難であり、政治的にも進歩主義や共和派とは限らず、すべての人が社会矛盾に立ち向かおうとしたわけでもない

従来の芸術観における普遍性や規範の重視に対して、個人の個性・経験・感じ方を重視し、創意と想像力の自由な発揮が芸術創造には不可欠だとした

フランス革命が打ち出した人間の自由という理念とは一致するが、革命理念を裏打ちしていた啓蒙思想の合理主義とは、相容れない。むしろ、自由を奪われている人々への、損得を度外視した英雄的な関わりや、合理的には説明できないような情熱、夢や幻想の世界を、文章や絵画、あるいは音楽によって表現する道を拓いた

普遍性に対する個別性の重視は、アカデミーの規範からはみ出していた過去の時代様式の再評価をもたらし、歴史主義を招くとともに、近代的な学問としての美術史学成立の前提となった

 

2.    異分野交流と芸術グループ内での切磋琢磨

フランスで美術面でのロアン主義の嚆矢はドラクロアで、182420代半ばで発表した《キオス島の虐殺》などの作品で強い色調と激しいメッセージ性を持った画風を打ち出すとともに、同時代の新しい芸術家たちのグループとも、ジャンルを超えて積極的に関わる

ヴィクトル・ユゴーが戯曲『クロムウェル』の序文で古典演劇を批判しロマン主義の作家たちを中心としたパリのグループに加わっていたのは、やはり20代半ばのこと

シャルル・サント・ブーヴが、文芸時評を新聞メディアに書き、文芸評論家という役割を確立するのも、新聞が多様に刊行されるようになり、芸術文化にとって新聞記事が重要になってくるのも19世紀前半のパリ

1830年、ユゴーは歴史戯曲『エルナニ』を発表、劇場公演では賛否渦巻き(「エルナニの闘い」)、フランスでのロマン主義文学の明確なマニフェストといわれる。ユゴーは政治活動にも野心を持ち、第二帝政には激しく抗議し、帝政終焉まで亡命先から帰国せず

ユダヤ系ドイツ人ハイネは、ドイツ官憲の監視を嫌って1831年パリに亡命、多くの作品を残してパリに没する。ショパンも独立回復運動に加わり、1830年の蜂起失敗後はパリに活動拠点を移す。ジョルジュ・サンドはまだ女流作家という地位が確立しない時代に、男性名にして多くの作品を刊行、先祖から多くの所領を受け継ぎ経営しながら、女性が男に負けない才能を発揮できることを身をもって示した

 

3.    作品を通して浮き上がる世界とフランス

同時代に活躍した女性作家フロラ・トリスタンは、サンドとは正反対に下層にありながら、女性解放と貧困からの脱出、人類の自由と解放を求めて、文筆で信念を発信し続ける

彼女の娘の子が、近代文明のあり方に違和感をもってタヒチに移住したゴーギャン

パリが拠点の作家で特筆すべきはバルザック。革命期のブルターニュ地方に素材を求めて『フクロウ党』(1829年刊)を始め、20年に90篇の人間ドラマを書き上げ、多様な位置にある人々の生き様を通してフランスというネイションを描き出そうとした

先行き不透明な中で、矛盾を内包した人間の生き方そのものを凝視してドラマとして描き抜く作家の執筆姿勢が見て取れる

ユゴーによればパリは、「ラブレーを父祖とし、モリエールを息子とし、ヴォルテールをその魂」とする、「弾けるような哄笑」に満ちた町

小説などの作品が多く生み出されるには、出版の世界が新たな発展の方向に入ったことと同時に、19世紀前半から各種の新聞がメディアとして重要になり始め、新聞連載小説の形式も始まるなど関連条件の充実も見逃せない。学術出版社も続々登場、幅広い読者層が育ち、読者による評価に応じた作品の出版が可能な時代に突入

ボードレールの『悪の華』やフロベールの『ボヴァリー夫人』など古い規範によって否定された作家が時代に与えた影響は少なくなく、その影響を受けたモーパッサンやエミール・ゾラ、ジューッル・ヴェルヌなどが登場、「読書の首都パリ」が誕生

こうした展開を受けた20世紀のパリは、現実の国籍とは無縁の「文芸ないし学芸の共和国」にとって、間違いなく首都としての位置を占めるようになっている

1913年のディアギレフ率いるロシア・バレエ団によるシャン・ゼリゼ劇場公演は、ロマン主義の展開の中で確立してきたバレエの枠組み自体を揺るがすもので、さらなる論争を巻き起こす。ロマン主義から星期天喚起へと、他分野に渡る芸術文化の活性化を受け、ジャンルを超越した交流や相互刺激がなされる中、改めて新たなパリの「参照点」としての評価も高まっていく

 

第8章        パリ大改造序曲――啓蒙のアーバニズムからランピュトーの美化政策まで

1.    「文明都雅」の先端と映った19世紀後半のパリ

1872年の岩倉使節団にとって、前年のパリ・コミューンに伴う内戦で荒れたパリですら「文明都雅」の先端と映る

都市の文化的なイメージを決定づける上で、街路状況や建物群が生み出している雰囲気、その場で生きる人々の様相など、全体的な都市景観がもたらす力は無視できない

近代都市計画のモデルとされたのがパリ大改造で、第二帝政下にセーヌ県知事オスマンのもとで推進された一大事業

 

2.    バロック的な都市改造から啓蒙のアーバニズムへ

1718世紀にはまだ国王の威信を象徴するような広場や建築物が立ち並ぶバロック的な都市改造が中心

ルイ14世治世下、既に外周部での開発が始まり、1750年代からはルイ15世広場(現在のコンコルド広場)の建設が進められ、西側地区には支配階層の館邸が立ち並ぶ。その1つが現在のエリゼ宮

18世紀のパリ周辺部での大掛かりな再開発の1つに、左岸の丘の上、サント・ジュヌヴィエーヴ教会の改築と周辺地区の再開発がある

18世紀を進むと、同じ開発でありながら、権力や権威を強調するバロック的な仕掛けとは違い、それを空気や水の流れを確保するためという、別の理由と結びつける発想も出てくる。当時疫病が流行るのは、「悪い空気」が淀んで溜まっているからだという「瘴気(しょうき)論」が有力視され、空気を流すこと、水の場合も溜まった水が瘴気を発さないようにサーキュレーションが健康と環境とをよくするための合言葉となり、この考え方は19世紀前半を通じて変わらず、世紀半ばの大改造でも重要な推進概念の1つとなる

 

3.    革命期からナポレオン体制下の都市空間

パリの都市改造は革命で一旦中断するが、改造計画の前提として作成された正確な測量地図は革命下に完成し、中心部に東西に抜ける軸線の道路(現在のリヴォリ通り)を引く計画が実現に向けて準備された

ナポレオンは、機能的な整備に繋がる啓蒙のアーバニズムを引継ぐと同時に、自らの権力を示すためにも、パリを世界の中心となるべき帝都として輝かすという野心を持ち、セーヌの護岸工事や新たな橋の設置による交通の改善、上下水道建設、墓地改造などを進める

革命政府によって任命されたセーヌ県知事の統括下に入ったパリは、新たな、強い権限を持つ行政体制が始まる

 

4.    復古王政と7月王政期の都市整備

1815年のナポレオン失脚後、ルイ18世と続くシャルル10世は絶対王政復古主義で、パリ市民・民衆が革命的蜂起に立ち上がる

その間一貫してセーヌ県知事としてパリの整備に邁進したのが2代目のシャブロルで、食品市場や屠殺食肉市場の整備、上水道の完備、運河網の整備、シーニュ島造成(自由の女神像建立)、市周辺部での新たな街路編成と区画分譲、道路沿いの歩道の確保は画期的、乗合馬車オムニビュスの路線運行開始

1830年成立の7月王政で3348年にセーヌ県知事となったのがランピュトー伯爵で、パリ美化の都市計画を動かし始める――コレラ流行の翌年就任し、パリ市民に「水と空気と木陰」を与える。スラム化していた街区のスクラップ・アンド・ビルドが始まる

 

第9章        ナポレオン3世と県知事オスマンによる大改造

1.    ルイ・ナポレオン・ボナパルトの政治的浮上と第二帝政の開始

1848年、7月王政に抗議してパリ市民が蜂起、第2共和政を宣言するが、史上初の男性普通選挙制による選挙では、伝統的な支配階層が圧倒的に勝利し、大統領選挙ではナポレオンの甥が当選。強権的な政治行動に出て1852年帝政を再開

就任と同時にパリの近代的改造に向かい、53年にオスマンを知事に任命、パリを近代化してヨーロッパを代表する世界の首都にするとの野心を実行に移す

現在にまで続く都市の骨格と姿の基本を築いたのはオスマンで、16年の在任期間中、4万の建物、総延長64㎞の新規に開発した道路、上下水道を中心とした道路地下の共同溝の総延長は585㎞、50万本の街路樹の植樹、街路に噴水や花壇などの実用兼装飾の装置設置などを実施、代表例はオペラ座大通り(完全開通は1877)

 

2.    大改造のポイント

道路構造が根本から転換――要所に軸となる幅の広い大通りを直線的に通し、それと環状の大通りとをリンクさせるべく、まずは南北軸(セバストポル大通り)と東西軸(リヴォリ通り)1836年完成の凱旋門に放射状の大通りを設置、道路新設のための街区の再開発と同時にスラムのクリアランスも推進

パリ市内の建築については、建物相互に隙間を空けずに列をなすように建築し、道路幅がどのくらいならどれほどの高さの建築が許可されるかなど、18世紀からかなり細かな規制の下に置かれていて、オスマン化も基本的にこうした伝統を受け継いでいる

地下共同溝の設置は、コレラの流行を契機に進められた下水道の配管が先陣。上水道は、セーヌの汚染を避け新たな水源を開鑿した導水路を築く

市域の拡大を機に、自然公園を拡張整備するとともに、大通り沿いに街路樹が植えられ市内の緑を確保するとともに、随所に花壇が配置され、都市美化への工夫が各所に見られる

物質的空間としての都市整備は、帝都としての輝きを発信するコンテンツとしての芸術文化の振興と賑わいを促す

かつての城壁跡に造られたグラン・ブールヴァ―ルに沿って多くの劇場などの文化施設が並び、新オペラ座の建築も始まる。市域が現在まで続く実質的な範囲まで拡大、2080カルチエの行政区分が確立

 

第10章     モードと食と「コンヴィヴィアリテ」

1.    モードの先端を発信してきたパリ

モードの世界でパリが主導的役割を果たした背景には、ルイ14世時代のヴェルサイユでの宮廷政治における服装コードが挙げられる

1774年、ルイ16世の王妃マリー・アントワネットに紹介されたのがローズ・ベルタンという女性デザイナーであり、ナポレオン時代にモードをリードしたのが、王妃ジョセフィーヌの正装を受注したルイ・イボリット・ルロワ

1824年には大型の小売店展開が始まり、女性用既製服業界の発展にも寄与するとともに、カタログ販売やメディアの紙面広告を通じてファッション情報が広く共有されていく

2帝政期のパリで、英国出身のデザイナー、チャールズ・フレデリック・ワースが「オート・クチュール」という女性用の高級仕立服の業態を確立したのは、斬新なアイディアで最初から世界をターゲットに事業として立ち上げたから

 

2.    パリにおけるレストラン・カフェ・ブラッスリー

ヨーロッパで飲食業や外食産業という業態が根付いたのは18世紀後半~19世紀のこと

ルイ14世の宮廷から始まったフランス料理の工夫と洗練が、18世紀には料理本によってフランス国内はもとより各国に広まり、王侯貴族や上層市民の私邸で専属の料理人によってさらに進められた

18世紀初めからは、市内に飲料や簡単な食べ物を提供するカフェが増加、意見交換の場としても機能し、それらの場が急増していく――互いに言葉を交わし、共に生きている(コンヴィヴィアリテ)ことを感じる共食空間

1782年、後のルイ18世の料理長が上流階級を客として開店したのが本格的レストランの始まり。その後革命で地方からパリに来る議員などが急増しレストランの需要が高まり、さらに亡命貴族のお抱え料理人などが失職して個別の開業を模索するなどして広まる

中間市民層の拡大がレストラン需要を急拡大

旧王制下から外交の世界ではフランス料理が公的な席での定番になるなど、食を巡る一連の展開の中心的な位置を首都パリが占める

ブラッスリーという新たな業態も出現。ビヤホール的な店で、第二帝政期に始まり、第三共和政で広く定着。独仏戦争(ママ)でドイツに割譲されたアルザス・ロレーヌ地方の住民のなかには、ドイツの支配下入りを嫌って移住する人がいて、生ビールを提供するアルザス方式の食堂であるブラッスリーをパリで展開する人が出てきた

オスマン化が進められ、市内中心部の居住地を追われた労働階層は、職住分離となって昼は外食とならざるを得なかったことも、大衆相手のレストラン需要を喚起

 

終章 芸術文化を押し上げる力――私と公の両面の作用

1.    芸術文化の新たな飛躍の舞台パリ

19世紀前半のヨーロッパでは、ロマン主義の立場からの表現活動が大きなムーヴメントとなり、パリが多様な表現活動の中心地の1つとなったが、19世紀後半から20世紀にかけても広く世界に訴えかける力を持った作品が生み出され続けていく

出版社の果たした役割は大きい――20世紀初めから文学出版活動を始めたガストン・ガリマールは多大な貢献をする

ジャンルを超えた交友関係がパリを中心軸として芸術家の間で様々に織り成されていく

移民問題全般は、フランスで大きな課題だが、20世紀末でもパリのみかフランスを代表されると見做される人が、移民か移民第二世代であることは珍しくない

 

2.    画商・コレクターが果たした役割

パリを拠点にした画商が、芸術振興に注力し、自らも収集家となるなど、事業の社会的地位を確立

ポール・デュラン・リュエル(1831)は、父親が画商として活動、65年に家業を継ぎ、バルビゾン派の作品の売り出しに貢献。ナポレオン3世の時代にはロンドンに避難して画商を続け、帰国後は印象派の画家たちをサポート、アメリカに新市場を求めて大成功

アンブロワーズ・ヴォラールは仏領植民地の出身で、20代半ばでパリに出て画商として成功。ルノワールやセザンヌと親交を結ぶなど交流を広め、アメリカにも進出

カーンワイラー(1884)はドイツ生まれでフランス国籍を取得、セザンヌからキュビズムに傾倒し、多くの画家を支援したりジャンルを超えた芸術家たちとの交流を深める。ユダヤ系のため第2次大戦中はスイスに亡命

ポール・ローゼンベルク(1881)は移民第2世代。古美術商の父親がパリに移住。ジャンルや国籍を問わず広く芸術家を支援。第2次大戦中はアメリカに避難

 

3.    芸術文化振興への政策的関与とパリ万博

パリが芸術文化の代表的な都市として認められるようになるには、都市空間に魅力がないと前提が成立しない。大改造を経たパリは、さらに世紀末にはアール・ヌーヴォーの様式を取り入れた建築やストリート・ファニチュア、第1次大戦後にはアール・デコのよりすっきりしたラインを持った建築、といったように、既存の空間にさらに新たな要素を添加していった。他方で都市の輝きは、自発的な展開だけでなく、一種の政策的な関与によって磨かれていく側面を持つ

旧体制下から王国の首都として位置付けられていたが、革命後の政権が代わっても芸術文化や歴史文化の重視は共通。特に19世紀半ばから繰り返し開催された万博は上からの政策的な関与の代表例。第二帝政下での1855年、67年、第三共和政下での78年、89年、1900年と立て続けに開催

万博は、産業経済の発展と不可分に関連したものであり、国家間競争という政治目的とも密接

1855年の最初の万博は、4年前のロンドンに対抗して計画され、イギリスの機械文明に対し、フランスでは芸術文化面に力点を置き、陶磁器やゴブラン織り、ガラス工芸品が展示され、絵画が集められ、後の写実派の隆盛や印象派の新たな動きにも繋がっていく

'67年の万博は、工業化推進と都市改造工事による社会改善を視野に置き、「上からの近代化推進」の時期、労働大衆を引き付けようとする企画もある

3回目の'78年は、第三共和政下初の開催で、共和政が確立したことを再確認するためのステップをなした。産業芸術推進への志向を明確にするとともに共和派の勝利宣言という政治的意味を帯びた

‘89年の万博は、革命100周年記念と、共和体制の確立と国力を誇示。目玉はエッフェル塔の建立

1900年の万博はさらに規模を拡大して開催。産業経済では英米独の後塵を拝したフランスにとって、芸術文化は重要な売り物。各種テーマでの国際大会が203件も開催。同時に新しい橋やメトロ、鉄道駅も誕生、持続的な都市整備への拍車をかける

最後に1937年にも万博が開催されたが、莫大な赤字を残して失敗。上からの政策的な文化振興が成功したのは1925年開催の「ア-ル・デコ」の略称で知られる国際装飾芸術博覧会が最後

 

おわりに

20世紀後半には、上からの政治的な文化政策は、恒常的には別の形をとるようになっていく。地方の活性化を文化政策的に進めることも重視され、パリだけが特権的な位置を与えられる時代ではなくなる

パリの町は、建築規制が区画や通りの単位で厳しく設定されていると同時に、建物や町の構え自体が歴史的な維持継承の対象とされ、歴史文化的なイメージの豊かさに通じている

重要なことは、市民生活を送る都市のスケールと空間としての形質とが、ヒューマンな感覚から外れていないこと、その日常に文化的な余裕があること、様々な芸術を市民が楽しみ、自由に語り合う関係性が継続することだと考える

 

 

 

 

 

〝世界のパリ〟の時間の厚み 中沢孝夫氏が選ぶ3

物語 パリの歴史 福井憲彦著

202199 5:00  日本経済新聞

二千年もの時間が堆積したパリの歴史を、素晴らしい目配りによって描いた物語である。

権力や権威に依る街区づくりや景観の設計。人口の集積、商工業の発達。海運……。そしてなによりもそれらが渦巻くことによって花開いた「文化」は、世界から人を招き、そのことがまた新たな文化の厚みを形成した。

言語や度量衡の統一、建造物、絵画、食べ物、ファッションなどへの見識の蓄積は、やはり"世界のパリ"である。1872年の岩倉使節団が、当時の先端国家との距離に驚嘆したのは当然だった。

翻って、アフガニスタンのように、海も大河もない山岳地帯が、民主的な国民国家をつくることの難しさに思いを馳せる。日本は幸運なのだ。(中公新書・990円)

 

 

紀伊国屋書店

物語 パリの歴史

「芸術と文化の都」の2000

福井憲彦

古代ローマのカエサルのガリア遠征に始まり、フランク王国、ペストの流行、百年戦争、ルネサンス、絶対王政、フランス革命など、常に世界史の中心に位置してきたパリ。「芸術と文化の都」として、世界で最も多くの旅行者を惹きつけている。その尽きせぬ魅力の源は何か。歴史を彩る王たち、たび重なる戦争と疫病の危機、そして文学や思想、芸術、建築......。フランス史の達人とともに訪ねる2000年の歴史の旅。

 

 

絵皿から薫るフランスの風 歴史学者・福井憲彦さん

こころの玉手箱

カバーストーリー

202219 5:00  日本経済新聞

1946年東京都生まれ。歴史学者。専門はフランスを中心とした西洋近現代史。学習院大学元学長。日仏会館名誉理事長。著書に「ヨーロッパ近代の社会史」「歴史学入門」「物語 パリの歴史」など。

l  仏ジアンの牡丹の絵皿


結婚祝いにもらった。フランスの普通の家庭でよく見かける

この手描きの牡丹の絵付け皿は、フランス中部のジアンという町で作陶されたもの。「庶民の家庭によくあるものだけど」と言って、私たちの結婚祝いに下さったのは、ファデフ夫妻であった。もう半世紀近く以前のパリでのことである。

その頃、留学生活を送っていた私は、現地で日本人女性と結婚することになり、その立会人になってくれたのが彼らである。企業の宣伝部に勤める画家であった夫君のディディエは、フランスの普通の家庭生活を知りたかった私に、いろいろなことを教えてくれた恩人だが、もう晩年であった彼の父親は、かつてコサックの一員でロシア革命軍とも交戦した後に、フランスに亡命してノルマンディ出身の女性と結ばれた人だった。家には当時のサーベルがあり、びっくりした。

私と同年齢だった奥さんのヴィッキーは、ラテン系の雰囲気を持つ素敵な方だったが、驚いたことに、大阪で日本女性と進駐軍の軍人との間に生まれたという。その後、彼女はロシア人夫妻の養女となり、その滞在地ベネズエラで子供の頃を過ごし、高校はイギリスの寄宿制女学校に学び、フランス旅行した際に出席したロシア系のコミュニティの集いで、ディディエと遭遇して恋愛結婚に至った。旅行会社に勤める彼女は、フランス語だけでなく、履歴と対応してスペイン語と英語、そして養母の使うロシア語と、何か国語も流暢に使う。日本語も話したいのだけれども難しすぎる、と言っていた。

フランスの研究者によると、20世紀末の時点で、フランス人の約2割は、その両親か両祖父母のうちに、1人は外国出身者がいる。移民大国とは知っていたが、夫妻のファミリー・ヒストリーは私の想像を超えるものだった。

彼らに娘が誕生して、洗礼式をパリ8区にあるロシア正教会で挙げるという。もちろん出席するよと言ったら、仰天したことに、私に代父つまりゴッドファーザーになってくれという。代父は母親の親族から出すのが通例だが、ヴィッキーには養母しかいなかった。あなたなら真面目だから大丈夫と言われ、なんと、ロシア正教会の主教と面接して了解を得た私は、娘リディアの代父として式に立ち会った。幸い、彼女は医者として大成した。私にとってジアンの絵皿は、近年先立ってしまった夫妻との記憶を呼び覚ましてくれる宝物だ。

l  仏革命期の「アッシニア紙幣」

本物の紙幣か定かではないが透かしも見える

小さくて分かりづらいが、人権宣言と記された大冊らしきものを持った女性が左下に、右下にはジャスティスを示す秤(はかり)を手にした女性が描かれたこの小さな紙切れは、フランス革命期に発行された50ソルのアッシニア紙幣である。本当にこれがアッシニア紙幣なのか、私には定かでないが、記されてある文字や、フランス共和国の頭文字RF50の数字が透かしで入っていることからすると、本物の可能性は高い。

お宝鑑定の話ではない。「パリの蚤の市で安く見つけてね、本物か分からないけど君にあげるよ」と言って紙幣を下さったのは、ヴォルテールなど啓蒙思想の研究で有名な小林善彦先生であった。下さった当時小林先生は、東大を定年後に学習院大学文学部のフランス文学科におられ、私はちょうど文学部の史学科に着任してしばらくの頃だったと思う。びっくり恐縮したが、ありがたく頂戴して私の宝物の一つになった。

小林先生は、日仏会館の運営でも奮闘なさっていた。一方私は、日仏歴史学会という日仏会館の関連学会で長らく世話係をして、ついには会館の役員まですることになった。そうした私に、話術の達人、小林先生は、折にふれ苦労話を面白おかしく話して下さった。私の師匠であるフランス史の大先生、故柴田三千雄先生と、小林先生とは、フランスつながりの交流があったが、柴田先生の談笑も素晴らしかった。

このお2人をはじめ、分野を問わず多くの先達からさまざまに話を伺う機会を持てたことから、私は学問研究や教育についてはもちろん、現役時代に選出されて務めた学部長や学長の仕事のうえでも、言語化は難しいがとても大切なものを頂戴したと思っている。

資生堂の福原義春さんや富士ゼロックスの故小林陽太郎さんのような超一流の経済人と交わすことのできた対話も、同様だった。

話を伺った方々の当時の年齢を自分が超えた今、会話に滲み出た先達の人間味とでもいうものが改めて思い浮かぶ。フランス革命には混乱をもたらしたアッシニア紙幣だが、私にはこうした思いを反芻するきっかけとなってくれている。

l  仏エピナル民衆画

諺などが題材で想像力をかき立てられる

20世紀最後の20年間、所属大学は移りながらも、幸運なことに多くの学問の先達や同輩に恵まれ、私は大変豊かな経験を積むことができた。なかでも、都市調査の達人、陣内秀信さんによる地中海都市調査に加えてもらい、時に陣内さんと2人で歩き回って現地で意見交換できた経験は貴重だった。そしてもう一つ、私からみれば破格の異才というべき社会哲学者の山本哲士さんと、共同で挑んだ外国の秀逸な学者たちとの対話。今振り返れば、よくぞこんな力が私の中から湧き出たものだと呆れる。

ほぼ50歳代半ばまで続いた知的挑戦は、21世紀に入って学部長に選ばれてしまった頃から、時間的に不可能となった。多方面にアンテナを張っていた私だが、それほど器用でもなければ才能があるでもない。大学での管理運営的な仕事や、新たな教育と研究の場を築く仕事は、とてもやり甲斐のあることだが、思索と学問に自ら励む環境とは程遠い。学問の肥やしにするためにフランスを最後にじっくり旅できたのは、私自身の環境変化の直前、2003年夏のことだった。

その時は、パリ郊外に住むアートディレクターの稲葉宏爾さんに付き合ってもらい、北西フランスから東のアルザス・ロレーヌまで鉄道で、第1次世界大戦の西部戦線の跡を追う形で、在来線を乗り継いで移動した。何十万もの死傷者を出したヴェルダンの戦跡で、いろいろな思いを持ったことは言うまでもないが、それとは別に、ロレーヌ地方の中心都市ナンシーから支線に乗ってエピナルまで列車で往復したことも忘れがたい。

そこは、石版印刷で作成されて19世紀から有名になった民衆画の本拠だ。ヴォージュの山間の川沿いに位置する夏のエピナルは、場所としても魅力的だった。その画題には、新聞などに提供された出来事や時事についてもあったが、何と言っても面白いし想像力を喚起するのは、民衆の知恵や活気を伝える生活風景や、諺を題材にしたこの写真のようなものである。現地で購入した民衆画は、いまも拙宅の廊下の壁から、往時の元気を忘れなさんな、と私を見ている。

l  切れ味鋭い剪定鋏

日本の優れた職人技術を示す

執務室と会議室との往復が主となった学習院大学長時代に、拙宅の小さな庭で草木の面倒をみることは、自分と向き合う貴重な時間だった。私の生まれは戦後すぐ。物心ついた頃に住んでいたのは、東京・代々木にあった狭い借家。裏庭で小さな家庭菜園を親が作っていた。親には呆れられたが、幼稚園を自主退園した私は小さい頃から外遊び派。新宿との間にはまだ焼け跡の原っぱもあり、遊び道具などない頃だから、虫を追ったり木苺を摘んだり、近くにあった明治神宮宝物殿前の池と芝生は、冒険の場だった。

吉祥寺には小学2年に転入したので、もうかれこれ70年近く住んでいる。まるで古老の域だが、町は変わった。近代化して綺麗になった、という人もいる。しかし、不動産の経済原理は雑木林を駆逐し、戸建ても減って小さな雑居ビルが無秩序に増えた。日本の都市部の悲しい趨勢。住居の区画は縮小し、草木も減れば、小さな生き物たちも数を減らす。近くに井の頭公園があるとはいえ、日々の暮らしから彼らが姿を消すのは寂しい。

私の家は、どうやら「緑の抵抗派」である。小さな庭は過剰なほどの草木で、今でも鳥が巣をかける。子供の頃には蝶々やトンボが季節に応じて飛び交い、バッタやカナヘビ、トカゲを追うのも楽しみだった。ガマガエルが出没し、カマキリがメレンゲのような巣をかけ、夕方にもなると家コウモリが夕闇を旋回した。彼らは、多くが姿を消した。ヤモリも、近年は姿を減らしている。時に室内に迷い込んでくると、そっと掌に包み込むように生け捕りにして外に放してあげる、そういう触れ合いも少なくなった。

心地よい音を立て、まるでプロの植木職人になったような気にさせてくれる、この切れ味鋭い剪定鋏は、私のような緑の抵抗派には大切な友となって、職人の手業のすごさを実感させて久しい。洋の東西を問わず、鍛え上げられた熟練職人の技術は、素晴らしいとしか言いようがない。絶えさせてはならないだろう。

 

 

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