カラヤンがクラシックを殺した  宮下誠  2022.4.12.

 

2022.4.12. カラヤンがクラシックを殺した

 

著者 宮下誠 1961年東京都生まれ。鎌倉在住。國學院大文教授。早大文・美術史学科卒、同大学院修士課程修了。スイス国立バーゼル大哲学博士。専攻は20世紀西洋美術史、美術史学史、画像解釈学、一般芸術学。趣味は石集め。パウル・クレーの研究で著名。2009年客死

 

発行日        2008.11.20. 初版第1刷発行

発行所           光文社 (光文社新書)

 

(巻頭言)

20世紀のある時点で、クラシック音楽は見紛うことなく、1つの「死」を経験した。その「死」は人類という種の、今日における絶望的状況の断面を鮮やかに浮き彫りにする

このような事態を象徴的に体現したものの1人がカラヤン。彼や彼を取り巻く状況は、時代の病理を理想的に映す鏡であり、私たちはそこに己の姿を映し、見つめ、考えなければならない

 

{カラヤンへの献辞}

人間はこれ以上考えようもない苦難の中にいる。人間はこれ以上考えようもない痛みに苛まれている。こんなことならまだ天国にいる方が幾らか、まし(マーラー《復活》第4楽章「原光」より)

Adagio Karajan》「癒し系」という言葉はいつごろ誕生したのだろう? この言葉自体が世界の、あるいは人類の絶望的状況の深刻さを逆説する。カラヤン死後にリリースされ、世界的ヒットを飛ばしたオムニバス。これ程つまらないアルバムも珍しい。美しさの極みだが、カラヤンの名誉のためには即刻回収処分すべき

 

バロック音楽は長い歴史を閲して、残るものだけが残りいかなる演奏も優しく受け止める。カラヤンの演奏さえも

 

音楽は技術や気合だけでは微笑まない。ましてや自己愛に付き合うほど寛容ではない

 

Beethoven: Tripple Concerto のジャケット写真の撮影。カラヤンが乗り気だったにもかかわらず、彼だけ笑っていない。共演者に対して極まりなく失礼。カラヤンとはそういう人間だった。強制されたリヒテルの笑いはひたすら虚ろだ

 

カラヤンは良きジャケット・デザイナーに恵まれた。空疎な中身を代償するように美しいものが多い。ただし、カラヤンの機械で作ったような音楽に似てメタリックなのが悲しい。ベートーヴェンの全集などなど、そのいずれもが後世に残るだろう。カラヤンの演奏は忘れられても

 

ウィーン・フィル世紀末の余薫芬々たるヨハン・シュトラウスのオペレッタも近年では多分に絶望的な演出で上演されることが多いが、カラヤンの《こうもり》は完全な保守肯定的で楽観的。出演者全員が極上のシャンパーニュをきこしめしていることは間違いない。カラヤンもまた、アインザッツもいい加減だからオーケストラも歌手も乱れっぱなしで楽しいことこの上ない

 

孤独なブラームスの自己慰撫的音楽はカラヤンの自己演出にとってまたとない素材だったのだろう。しかしカラヤンに普遍的な絶望への共感はない

 

晩年様式という言葉がある。ウィーン・フィルとのブルックナー7番の演奏、カラヤンはほとんど何もしていないように見えて手練手管を使い尽くしている。ウィーン・フィルの美音にたぶらかされてはならない。カラヤンは最期まで老人にはなれなかった

 

 

{クレンペラーへの献辞}

おまえの死は無駄ではなかった。おまえが憧れていたものは今やおまえの手にある。おまえが愛し、戦いの中で手に入れようとしたものはおまえのものとなったのだ(マーラー《復活》第5章より)

 

切手になったクレンペラーをジャケットにしたCDは、「クロル・オペラ時代」の演奏を集めたもの。ラヴェルやドビュッシーが入っているのが面白い。フランスの音楽も彼の前では重厚即物一本槍。お見事

 

ロサンゼルス時代の演奏を集めたレコード・アルバム。クレンペラーの可愛げなカリカチュアが珍しい。ガーシュインやプッチーニが入っているのも特殊。趣味の悪い冗談としか言い様がない

 

アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団の演奏を集めたアルバム。クレンペラーの表現主義的、構成主義的ポートレートが素晴らしい。彼の音楽の投げやりな即物主義が見事に絵画化されている。シェーンベルクの《浄められし夜》が目玉。絶対零度のロマン主義がひたすら寒い

 

同じくコンセルトヘボウとの演奏を集めたアルバム。ロック・ミュージシャンのようなクレンペラーが、細かい線描によって表現されている。ゴツゴツした彼の音楽精神が乗り移ったかのような怖さがある

 

晩年に差し掛かったころのクレンペラーが、1968年ウィーン・フィルを振ったアルバム。なかではモーツァルトの《ジュピター》が最高

 

 

{ケーゲルへの献辞}

ああ、信じるのだ。お前は無駄に生きたのではなかった。お前の生きた軌跡、お前の悩みは無駄ではなかった(マーラー《復活》第5章より)

 

 

はじめに

1988年、カラヤンが最後に来日した時のコンサート。終演後ホールは爆発的な賞賛の声と拍手によって埋め尽くされたが、「何かが違う」ことに気付き始める

どこか間違っている。異次元世界に踏み込んだような違和感、気持ち悪さ、薄気味悪さが綯い交ぜになった、端的に「嫌な感じ」が、ある種のトラウマとなって心に深く刻印された

その体験を契機としてカラヤンの音楽を考えようとしたのが本書

クラシック演奏史上、ある意味究極的な姿で、その完璧さには抗いがたい魅力がある一方、人口楽園のような幻惑が満ち、どこか作り物めいた白々しさが消し去り難くあるのも事実

彼の音楽は、小市民社会の偽りの幸福感、欺瞞と瞞着に根差している。慰めが所詮は弱者に用意された嘘であり、その慰めを提供したのがカラヤン

「カラヤン」以後、音楽の風景は大きく変わった。何かが決定的に変わってしまったことは覆うべくもない事実

音楽的聴衆の価値観や、ものの考え方、あるいは、音楽を聴く余裕のある人たち(その割合は思っているよりはるかに少ない)の、資本主義、拝金主義、現状肯定主義、クラシックを高等とする単純で軽薄な価値観の創造に進んで荷担し、音楽の聴き手の痴呆化を後戻りできないところまで推し進めたカラヤンの負の遺産は未だに消えていない。カラヤンが彼以後の人心に刻み込んだ歪んだ捉え方は、社会的、政治的勝者・強者と共同し、純正な文化環境を破壊し、誠実な知性を圧殺しようとする

20世紀末から21世紀にかけて、人類がこれまで経験したことのない類の、より深度の深い絶望に見舞われている。その絶望に慣れっこになって、知的無関心が蔓延しているのは問題

本書は、カラヤンの音楽と、その対極にあって彼の音楽を鋭く断罪するクレンペラーとヘーゲルの音楽を通して現代の抱える病根に応えようとするもの

カラヤンに代表される価値観、資本主義的競争原理における勝者の立場の影響力の大きさ、それに対する知的反省の欠如など、明確に否定的立場に立たざるを得ない。混迷を極める現代のものの考え方や人間関係の在り方が、一体どこで間違ってそうなったのかを考えるとき、カラヤンの音楽は1つのケーススタディとして有効と考える

 

第1章      音楽の悪魔プロレゴーメナ

l  死後20年目のブーム

2008年はカラヤンの生誕100年。カラヤンの絢爛豪華な音楽絵巻に素直に反応し、その欺瞞的な「美」に魅入られるクラシック・ファンも多い

カラヤンの音楽を、「精神史」という古臭い方法で読み直し聴き直す試み

l  音楽の言語化

音楽の解釈を言語化するのは難しい

音楽を無心で聴き、その音楽に触発されて生まれる思想の萌芽を書き連ねていくことにより何らかの形にしたい

l  精神史的分析の可能性と社会構造

わかりやすい平均的音像を産み出した点でカラヤンの功績は大。聴き手の心理を巧妙に掬い上げ、最上の形で提示するカラヤンのバランス感覚は見事

カラヤンの産み出す音楽は、戦後の所謂「文明国家」の主導権を共有するか、或いはその後塵を拝しながら、虎視眈々とその地位を我が物にしようとひたすら上を目指して勤勉に努力するか、或いはまたその更に下位にあって「小さな幸せ」に満足しなければならないことに不満を持ち、羨望に塗れた視線を上に向ける人々によって形成される「集合的中産階級意識」と、絶妙なタイミング、或いは空間的位相において、いわば社会構造的に出会い、忽ちのうちに同化し、支配的な発言権を掌握することになったのだ

これが戦後の世界観を支配する、平板で欺瞞的な知のありかたを規定してしまう。そこにはやたらと綺麗に整理され、曇りなく先が見渡せるような現状肯定的幻想を抱かせる効果を持った価値観が屹立する。だからこそそれは世界的不幸や絶望に対して恐ろしく鈍感であり、同情が欠落している。カラヤンの音楽はその象徴的存在となり果(おお)せ、音楽的世界に君臨する。その音楽は極めて美しいが、音楽的良心の持ち主にはすぐに退屈なものとなり、一方遥かに数の多い鈍感な音楽的大衆にとっては格好のアクセサリーになって愛玩されることとなる

それは、クレンペラーが音の粒立ちを敢えて犠牲にしてでも作り出そうとした「この愚かしく住みにくい」世界への厳しくも崇高な、しかし挫折するほかない魁偉な問い、「何故私たちは今ここで生きなければならないのか?」という怒りの籠った、しかし切実で普遍的な問いとしての音楽とも、ケーゲルが、カラヤン同様、厳しくオーケストラをコントロールしながらも、音楽が持つ矛盾や、今、音楽が鳴っているその環境、いや世界の不条理や、そこにいる「私」の癒しがたい絶望を、美という媚薬で曖昧に糊塗することなくさらけ出す勇気を持った音楽とも根本的に異なっている

音楽の構造的あり方が社会の構造的ありかたと同期する限りにおいて、多分に主観的な精神史的分析が有効なのではないか。音楽と社会の関わり合いや音楽の存在論的なありかたを、精神史を武器にした構造的比較によって、炙り出すことができるのではないか?

l  カラヤン評からの訣別

新しい音楽批評の形が構築されつつあるのは好ましい現象

l  アウトライン

カラヤンの音楽自体というより、「象徴としての」カラヤンという際立った現象について語りたい

20世紀という時代を生きたものなら必ずや抱懐するであろう、やりきれない絶望を胸に、19世紀的な「美」の相対化に責任を持って取り組むことで様々な軋轢や不幸に見舞わわれたクレンペラーやケーゲルの音楽が、カラヤンの作り出す甚だ人工的で自己欺瞞的な「美」の幻影の背後に隠蔽されているとしたら、それは修正されなければならない

20世紀全体から21世紀にかけての荒廃した絶望的歴史風景を極彩色の「美」という幻覚によって平滑化、平板化するカラヤンやブーレーズの音楽に私は恐怖する。指揮者としてのブーレーズの、初期における音楽の過激な読み直しから、カラヤン流の流麗で落ち着き払った解釈への変転は音楽的欺瞞以外のなにものでもない

l  「クラシック」という制度

音楽ジャンルとしての「クラシック」という観念は20世紀のフィクションに過ぎない。1920世紀にかけて、歴史的なものの考え方が整備される中、徐々に制度化されたシステムと考えて良い。ルネサンスやバロックが様式概念として定着し始めてそれに続く様式として「古典派(クラシック)」という時代概念が定式化される

ベートーヴェンの生涯を覆う時代を中心とした50100(17201820年あたりまで)の様式名称に過ぎなかったものが、20世紀初頭に西洋音楽が古典派の意味ではない「クラシック」として「成り上がり」十把一絡げに一般名称化するのは、己が築き上げてきた「正当な」音楽を「クラシック」と呼ぶことで文化的優位を確保安定化するために「でっち上げられた」ためで、カラヤンこそ、ハイブローで排他的な「クラシック」という制度を一般化した張本人であり、西洋中心主義、男根中心主義、ロゴス(言語)中心主義が未だに「クラシック」世界を覆っている

l  聴き手の責任

それは聴き手の志向・思考・嗜好にも現れている

カラヤンの影は、クラシックの聴き手に大きな影響力を未だに誇示している

クラシックを中流階級的意識のアクセサリーとして聴くのは論外としても、年季の入った聴き手の多くが持つ融通の利かないクラシック至上主義も、どこかクラシックは特別だ、高尚だという聴き方をしてはいないか?

元々日本でのクラシック受容はお上からの教育によって浸透してきたが、この国の高騰主義は、特に戦後の高度経済成長による、意識としての一般大衆の中流意識化と同期しながら、そのクラシック受容の暢気さ、というか屈託のなさ、考えのなさを象徴しているように思われる。いわゆる「大衆」の救いがたい凡庸さには目を覆う

20世紀という弱肉強食の世紀、人類の危機の時代に抗うように一触即発の緊張状態の中で、人々の心の叫びとして、憎悪や怨嗟として真正の芸術が生み出されていったが、現代の「大衆」はその様なものを理解しようとしない

l  カラヤンの罪

神聖で明敏ながら「大衆」には理解しがたい知性と、そこに生まれる緊張に敢えて瞑目し、その存在を隠蔽し、平板で、誰にでも受け入れやすい1つのスタンダードを作ったのがカラヤンで、聴き手の精神的自律を麻痺させてしまう力を持った

何より救い難いのは、全人類に寄与するであろう感情のあり方、即ち「世界苦」への理解がカラヤンには全くないことで、自己も含めた人間存在の本来的な痛み、生きることの苦しみ、「ある」ということの絶望的な重さ、といったものがカラヤンの産み出す音楽にはその欠片(かけら)すら存在しない

l  カラヤン以前とカラヤン以後

元々指揮は、鍵盤楽器奏者など、作曲家自身が演奏しながらオーケストラを統率

ロマン主義の成立、個人主義の擡頭に同期する様に、多くは作曲家自身が指揮者として登場。カール・マリア・フォン・ヴェーバーが嚆矢

市民社会の社交の場としてコンサートが開かれるとともに、専業の指揮者が誕生、リヒター、ビューロー、ニキシュ、ヴァインガルトナーらが、音楽の守護者としてのオーラとそれに伴う権限や独裁権をもってオーケストラに君臨

l  指揮者の大衆化とクラシック音楽の変質

カラヤンを分水嶺として、指揮者のステータスはカリスマからアイドルに変化

世の中の見せかけの安定が次第に確実になるにつれ、社会的な負の状況には目を瞑り、日々の安寧を願い続ける風潮が支配的になると同時に、クラシック音楽もかつての輝きを失い、大衆の愛玩物として清潔に消費されるものとなっていった

「大衆」は自分の努力のなさ、向上心の欠如、拝金主義、他人の不幸を隠微に喜ぶ底意地の悪さなどを棚上げして、ささやかな幸福に満足し、その価値観の下、自分に理解できないものを仮借なく排除し、才能やオーラを突出した人間から掠め取り、食い物にし、その残骸を「お友達」感覚で賞味するという恐ろしい生き物になっていった

カラヤンの生涯と音楽こそ、この傾向を象徴的に代表し、彼を取り巻くいわば勝者たちの優越的な眼差しをもって、その傾向を創造・助長していき、現代の救いがたい病理を曇りなく物語っている

l  コレクターの悦楽

音楽的体験の蒐集も「物」と同じことだが、音楽が質量のないものゆえに、宿主の感動や歓喜や希望や悲しみに直接的直観的に反応し、「物」としての蒐集品より遥かに強力に宿主に影響を与える

l  最後の来日

1988年、結果的に最後となった来日の演奏は鬼気迫るものがあり強く惹かれた。1979年の来日演奏とは雲泥の差だったが、感動は一瞬で、跡には寂寞感が残った

l  音楽体験の複雑さ

音楽は時間芸術、その全体像の把握は記憶によるしかないが、記憶は変造され、作り替えられ、主観に都合良く改竄される

l  時間芸術としての音楽と記憶

時の推移と共に音楽は「その都度」現象する。音楽とは不可避的に「~しつつある」芸術であり、終止によって今まで「鳴って」きた音楽を「回想」するほかないので、「死」と結び付く

音楽を鑑賞するという行為は決定的に主観的

l  ショーペンハウアーは次のように書いている

音楽を芸術の最高位に置き、世界の根本原理たる盲目的「意志」を世界の説明原理として整序し、それを直接的に表現するものであり、副次的な、いわば世界の影である「表象」を遥かに凌駕する高みへと人間を導くものだとする

l  音楽を語ることの難しさ

限界を見極めた上で主観的に語り、そこになにがしかの「普遍」への手がかりを見出す

l  気持ち悪い音楽

カラヤンの最終演奏の後で感じた寂寞感をあえて言葉化すれば、「気持ち悪い」しかない

クラシックという「装置」を、一般化、大衆化、普遍化したカラヤンの音楽によって決定的に間違ってしまったのではないかという不安がよぎる

絶望と悲嘆の時代に、健全で自身に満ちた音楽が鳴り響くことは、歴史の皮肉ではないのか? 悪鬼の冗談ではないのか?

l  「神」なき世紀の不安とカラヤンの欺瞞

カラヤンの生きた時代は、神なき時代の、混沌の世紀

各世紀にそれぞれ特有の戦争、災厄、敵意が存在したが、20世紀にはそれ以前の世紀とは比較にならないほどに「人間性」というものに対して無情で暴力的で残酷であるように思われる。そうした時代を、誰にでも共有できる「美」という、平板で、欺瞞的なコーティングを施した「音楽」によって表現することなどできるはずもないのに、カラヤンは敢えてした。だから気持ち悪いのだが、一層切実な問題は、彼の音楽をスタンダードなものとしてしまった私たちの感性の鈍磨の方で、時代の欺瞞にはめられ、薄っぺらな幸福感に陶然としている。私たちは漠然とした不安を抱きながらも、世界は美しい、私たちは良い時代に生きている、と脳に思い込まされているのではないか? カラヤンの音楽はまさにそのような脳に心地よく作用し、私たちの多幸症的世界観をやさしく是認してくれる。ここにカラヤンの犯罪の核心があり、欺瞞の焦点がある

l  クレンペラーの音楽

クレンペラーの音の作り方は、徹頭徹尾ポリフォニック(多声的・多層的)。形(なり)振り構わず、旋律の持つ内在的な力に対して、時にごり押しのように「待った」をかけ、音楽の縦の構造を浮かび上がらせようとする。だから時折彼の音楽は停滞するし、「美しく」ない

l  フルトヴェングラーとは?

ドイツ・ロマン主義的ないわば「精神的」な音楽として、フルトヴェングラーとクレンペラーを同一視する向きもあるが、両者の演奏にはほとんど共通点はない

フルトヴェングラーの産み出す音楽は、緊張感を常に内在させながらも。決して構造的、構築的ではない。音楽に身を任せた忘我の境地がオーラの如く伴い、それが聴く者にも感染し、なんとも言えない高揚感と、宗教的法悦感、恍惚感を与える。ヒトラーの国民先導術と似通っていて、両者には共通して「古き佳きドイツ」というある種の精神的負荷がかかっている

l  「否(ナイン)」の音楽

クレンペラーの音楽には熱狂も陶酔もない。常に醒めた意識で音楽の持つ構造を、低音を基礎に音高の低いものから順に冷厳冷徹に積み上げてゆく。忘我の境地はなく、聞くほどに醒めてゆき、音楽の抽象的な構造そのものに意識を集中させるようになる

彼は20世紀の申し子。20世紀が抱えざるを得なかった諸問題に敏感に反応しながら、そのような動向に常に音楽の力で「否(ナイン)」と言い続けた。そのために彼の音楽はときに戦闘的で、ときに聴き手に冷水を浴びせるように冷酷無惨、ぶっきらぼうなほど即物的

彼の作曲した曲は、ヒンデミート以上に分裂し、先が見えず、救いがない

クレンペラーが、なぜかカラヤンの《ドン・ジョヴァンニ》の演奏に立ち会った時のこと、突然大声を発した。「カラヤン君、悪くないぞ、みんなが言うほど悪くない!」 カラヤンはそれ以降決してクレンペラーを許さなかったという

l  ケーゲルという指揮者

自らもヘルベルト・フォン・ケーゲルと呼んで、カラヤンの貴族主義的音楽を極めて底意地悪い仕方で批判したケーゲルは、筋金入りの社会主義者であり、東独の思想信条に忠実だったが、自由化へと軟化する政府から毛嫌いされ、壁の崩壊とともに自死した悲劇の指揮者。その悲劇は、彼の若い時からその音楽に内在。分裂的で躁鬱的振幅の激しい音楽は彼の悲劇的最期を予感させる

ヴァルトトイフェルのほとんど唯一ポピュラーな音楽《スケーターズワルツ》の純美的で幸福な演奏を遺したかと思うと、アルビノーニの《アダージョ》では地獄の深淵もかくやと言わんばかりの絶望的な音楽を平然と産み出している

ブリテンの戦争忌避の音楽《戦争レクイエム》の演奏の後、ほどなく自死したと言われているが、それを予感させるような苛烈で容赦ない音楽があたかも地獄絵巻のように展開。普遍的な怒りに満ち溢れ、人類の存在そのものに対するやりきれない絶望と、それに対して為す術を持たない自己の不甲斐なさを糾弾するかのようだ

l  音楽の悪魔

彼の音楽は「絶望」の言い換え。破滅的、自己破壊的で、マーラーの分裂症気質、ショスタコーヴィチの屈折と蟠(わだかま)りをケーゲルほど見事に表現できる指揮者はいない

彼の音楽の尊いところは、その絶望が個人的枠内に止まらず、人類の絶望として普遍化、昇華されているように聴かれるところ。基本的に即物的で、聴衆も絶望を共有し得る

カラヤンの音楽に代表される大袈裟で、予定調和的で、表面的な幸福を20世紀は必ずしも提供してはいない。むしろクレンペラーやケーゲルの音楽が示すように、20世紀は暗く不安で救いがないと考えた方がよさそう

 

第2章      流線型の美学ヘルベルト・フォン・カラヤン(1908~1989

l  『大地の歌』

リヒテルの日記に、盟友オイストラフと、あまり仲の良くなかったロストロポーヴィッチがカラヤンのベルリン・フィルとベートーヴェンの《トリプル・コンチェルト》を収録した時の模様を辛辣に綴っている。東西の雪解けの象徴のような組み合わせは話題を呼び、かなりの名盤と言われているが、リヒテルはカラヤンのテンポ設定に文句を言い、彼のショーマンシップの軽薄さを呪っている。録り直しを求めたリヒテルらに対し、もっと重要なことがあると言ってカラヤンが彼らを誘ったのはジャケット写真の撮影。笑顔で写っている演奏者たちを思い出しながら、作り笑顔で写真に写っている己の姿を滑稽だと言って吐き捨てたリヒテルの表情は苦渋に満ちていた

そのリヒテルさえ認めたのが、カラヤンが振った《大地の歌》。世紀末のウィーンの倦怠とヨーロッパ崩壊の予感に満ちたマーラーの傑作だが、それを振ったカラヤンの音楽を、それとはまさに対極にあるような、晩年瞑想的性格を次第に強めていった演奏を多く産み出したリヒテルが評価しているのは何とも不思議なこと

l  人工楽園

1975年リリースされたカラヤンの《大地の歌》は、彼お気に入りのクリスタ・ルートヴィッヒとルネ・コロを配し、病的なほど耽美的で、仄暗い情念に彩られ、名演の名に恥じないが、徹頭徹尾人工的で、彼特有の作り物めいたわざとらしさがつきまとう

ここにマーラーの音楽との共通性がある。マーラーもまた自己愛と自己憐憫、病的なまでのナルシシズム、世界の神羅万象、宇宙の鳴動そのものを交響曲という一形式に収めてしまおうとするとてつもない誇大妄想。ヨーロッパ近代の思い上がりが影を落とす

l  リヒテルの憂鬱

リヒテルの耳は、カラヤンの美質も見抜いていて確かだが、それは病理解剖的な耳で聴いたマーラーとの相性診断記録のようなもので、マーラーの時代の病理に対する明敏な反応の発露を、70年もたって第2次大戦も経験したカラヤンが同じように演奏することに可笑しさ、わざとらしさを感じざるを得ない

l  見せかけの優しさ

カラヤンのあまりに甘美で蠱()惑的な美学に馴染めない。見せかけの優しさでしかない

l  流線型の美学

カラヤンの音楽のスタイルは、音楽の本来的に持つ、前へ前へと向かう推進力の邪魔をしないように、比較的速めのテンポで、低音を幾分気付かれない程度に抑え、管弦のバランスを意識し、音の原器としてのリズムの粒立ちを均等に均し、レガートを多用。ごつごつした圭角を周到に排除され、、いわば「流線型」の美学によって統一された

フルトヴェングラーとの差を強調するためもあったのだろう、本人もトスカニーニの音楽を手本としたことを認めるが、イタリア的テンペラメントの本来的な発露は見られない

究極的に人工的で極美の音楽世界には、ある種超越的な感覚的麻痺効果があり、人を忘我の境地に拉し去る。ヒトラーの人心掌握術と構造的に近似し、本質的に何も変わらない

l  音楽的アウラ(オーラ)

カラヤンの音楽は自発的であるよりは計算づく。ドイツ音楽でもイタリア・オペラでも、どれも優等生的で狂いがなく、合理的で、いわば等身大の人間的スケールを持つ

2次大戦の過去を清算し新しいヨーロッパ像を打ち立てる必要があり、グローバルな共通言語として音楽を鋳なおそうとした「新しい世界」からは熱狂的に受け容れられたのは当然の成り行き

カラヤンは田舎町ザルツブルクの裕福な家に生まれたが、出自はより複雑で、ルーマニアともギリシャとも言われている。時代と環境が彼のコスモポリタニズムを後押しした。カラヤンの音楽の持つ合理性、システム化された音楽生産技術はまさに時代の要請によってカラヤンの一身に委ねられたが、その代償としてカラヤンが失ったのは、かつてのヨーロッパ、特にドイツ語圏に遍在していた観念論的伝統とそれに対する敬意と畏怖であり、アウラといってもいいもので、音楽自体が目に見えないものであるがゆえに「アウラ」は尚更に重要であり、往々にして音楽の性格を根底的に性格づけるものであり、その有無はカラヤンが思っている以上に重要なものであり、場合によってはその欠落が音楽の致命傷ともなりかねないもので、そこにカラヤンの誤算があった

ヨーロッパが変わるためには「アウラ」を見捨てなければならず、それによって再び世界と渡り合うだけの政治・経済力とそれを背景とした自信を取り戻したが、失われたものは決して小さくなかった

l  躓きの石

合理性。この言葉こそカラヤンの音楽の栄光と挫折を2つなりに約束したもの

カラヤンは全てを持っていたが、ただ1つ彼が持とうともしなかったものが音楽的「アウラ」で、彼には目に見えないものなどどうでもよかったに違いない

フルトヴェングラーがカラヤンと決定的に違うのは、彼が武器にしたのがカラヤンが切り捨てた曰く言い難い「アウラ」だった

l  カラヤンの不幸

フルトヴェングラーと比較され、その美学の特性上彼と対立せざるを得ず、自らの音楽をことさらに差異化せざるを得なかったカラヤンは、些か性急に先鋭化してゆき、自然の発露だけではどうにもならない、人工的な操作が必要となった。カラヤンにはそれが出来た

晩年の197080年代にかけて、ヨーロッパ自体が失ったものの大きさに気付き、その回復を模索するようになった時、カラヤンの美学はどうにも身動きの取れないものとして硬直化。死後急速に忘れられていったり、お手軽なヒーリング・ミュージックの代表格に成り下がってしまった。《アダージョ カラヤン》は、彼の音楽性を見事に要約する意味では見事なつまみ食いアルバムだが、彼の名誉にはまるでならない代物

カラヤンの戦略は間違っていなかったが、文化という魔物とマス社会という怪物の間で引き裂かれ、遂にはその無惨な姿を晒すことになる。カラヤンの音楽は記録に残り、西洋の伝統的な文化である音楽の流れを「クラシック」という薄っぺらなレッテルの下、軽薄な音楽、軽薄な演奏が量産される場所として編成し直した。それは獅子身中の虫として、ヨーロッパ文化という宿主をゆっくりと、確実に死に至らしめようとしている

「カラヤン」という名前は、戦後クラシック音楽の一側面を確実になぞる、いわばアレゴリー(寓話)にほかならない

l  「新しい聴衆」の不幸

このようなカラヤンの姿勢は、その存命中からクラシック音楽の聴衆のあり方にも暗く絶望的な影を落とす

ヒーリングという考え方が生まれたのは恐らく80年代だが、それ以前からクラシック音楽は間違いなく軽くなっていく。新しい音楽の担い手の産み出す音楽は確実に軽くなり、その聴き手もまた同様に軽くなっていった

かつては、音楽を聴いた記憶を秘め事のように大切にし、その体験を別格のものとして語り合ったように、音楽を聴くことには特別の意味が存在したが、戦後、音楽はいかなる場所でも簡便に手軽に聴けるようになっていった

カラヤンが1枚のCDの収録時間を自分の演奏するベートーヴェンの《第九》が丸々収まるように設計するよう開発者サイドに助言したのも、新しいテクノロジーの成立の都度ベートーヴェンの交響曲全集を録り直したというのも、彼の音楽美学を見事に逸話化している

「新しい聴衆」の音楽の聴き方は極めて刹那的。私たちの生きる時代の持つ悲劇性、私たちを取り囲む状況の困難さに目を瞑り、人が当たり前に殺し合う状況を対岸の火事のように眺めて平然としている「新しい感受性」と、この「新しい聴衆」の感受性は見事に重なる

この暴力的なまでの「健康さ」は、健康であるが故に厄介であり、多数であるが故に排他的で、音楽産業もまたこの「新しい聴衆」の大衆性におもねり、寄り添い、その趣味嗜好に合った音楽を大量にばらまいてゆく

カラヤンは、孜々(しし)として表面を飾ることに執心し、本質的な問題にあえて目を瞑り、「世の中そんなに悪いものではない」という虚偽的、欺瞞的、自己陶酔的空想の価値観を人々の心に植え付け、かりそめの繫栄に酔わせ、現実的な貧困を隠蔽

l  初期の録音

1938年、カラヤンがベルリン州立歌劇場管弦楽団を振って録音した《アナクレオン》などは、推進力に富んだ見事な演奏で、フルトヴェングラーに比べると遥かにスポーティで軽快、清々しいが、どこか虚ろで浮足立ったところがある。己の指揮技術にいわばナルシスティックに没入し、自らを囲繞する状況や時代精神には一瞥もくれず、あたかも音楽と時代は無縁であるかのような脳天気さが現れている。エモーショナルな魂の叫びとでもいうべきものがカラヤンの演奏には絶無

l  神童

モーツァルトの音楽は本質的に暗く、狂気に満ちているが、それを理解する演奏家は多くない。グールドやアファナシェフは、モーツァルトの暗さに対する敏感な感受性を持つ数少ない演奏家で、深淵を覗き込むような暗さと狂気と絶望に彩られている

神童と言われながら、権力者や実ることのない恋愛に翻弄された彼の人生を考えれば、その音学がそもそも明るいはずはないが、後年ロマン主義的英雄化によって徹底的に変造され歪んで理解されていった

ザルツブルクの神童、カラヤンの指揮するモーツァルトは徹頭徹尾間違っている

ナチ・ドイツを毛嫌いする「大衆」の拒絶によって不遇を託っていたカラヤンに、EMIのレッグが接近しフィルハーモニア・オーケストラまで用意して録音という形で演奏の機会を提供、若い頃から得意としたモーツァルトもレパートリーの大きな部分を占めた

同じ町に生まれた2人の神童は所詮水と油で、カラヤンの自己中心的な自意識によって永遠に交わることのない不幸なカップルとなった

l  ベートーヴェンとカラヤン

暗さと狂気という点では、拠って来たるところは異なるが、ベートーヴェンの音楽にも共有されている

ベートーヴェンの生きた社会は、全ヨーロッパ規模の変革が矢継ぎ早に起こり、古典的調和の世界から疾風怒濤のロマン主義的世界へと移行する時期に当たり、彼の音楽にはこの社会的変動期に必然的に伴われる軋轢と矛盾が見事に刻印されている

カラヤンの演奏は、《第九》などでは、この作品の偉大なる誤謬、神聖なる狂気に対して一顧だにしない冷淡さで、スマート一本、理知的一本で音楽を構築しようとし、内実的には何も言及していないに等しい脳天気さが全体を覆い、よく出来たパロディにしか感じられない。恐らくベートーヴェンの革新的な音楽的知を全く理解できずにいたのだろう

l  オペラ

様々な人の手が関わる芸術だけに、逆説的に、カラヤンの棒から本当の意味で「良いもの」が多少なりとも生み出された

プッチーニの音楽ほどカラヤンの音楽美学に相応しいものはない。その時々最良の歌手を擁してこれ以上ない声の絢爛豪華な競演とセンチメンタルな抒情味を存分に出し切り渾身の録音を残している

ヴェルディの諸作品も、男性的な推進力と、硬質の抒情、大衆の嗜好を意識したエンターテインメント性があれば辛うじて押していける音楽であるが故に、カラヤンの音楽は自信と確信に満ちていて見事

ヴァーグナーの大袈裟な苦痛の表現や、誇大妄想、自己憐憫という病とは無縁で、健全に過ぎるヴァーグナーが出来した

カラヤンは、スペクタクルなものには燃える。「世界苦」などという余計な感傷を無視さえすれば存分に楽しめるものに仕上がっている。その意味では非凡というほかないが、人工楽園的、19世紀的な快楽の延長上に開花した妖艶なる徒(あだ)花だったのではないか

伝統的オペラ・ハウスという閉ざされた空間でのカラヤンとオペラの蜜月は皮肉にもカラヤンの、時代に対する無頓着を浮き彫りにした

l  ブルックナーとカラヤン

ブルックナーの音楽は優れて分裂的であり、時代の歪みやひずみを体現している。ウィーンでは田舎者扱い、馬鹿者扱いされ、漸く《7番》で小さな成功を収めた彼の音楽には、どこか悪魔のような執拗さがつきまとう

それ故にカラヤンにブルックナーの演奏は本来的に不可能なはずで、いずれの録音でも、一片の狂気も感じられないし、屈折とも無縁

l  その他の楽曲

素晴らしい演奏も少なくない――《ブランデンブルク協奏曲》のシャープで豪華極まりない音の洪水には陶酔感さえ伴うし、《水上の音楽》はハリウッド映画並みのゴージャスなエンターテインメントに満ち、極上の娯楽音楽になっている

シューベルトやメンデルスゾーン、シューマンの作品でもカラヤンの音楽美学にフィットしたものはある一方、サン=サーンスの《三番》では作曲家の仕掛けた偽りの壮大さを真正面から受け止め、その点で作曲家の意思を台無しにしているが、音楽的興奮度は極めて高い

カラヤンの音楽は、時代の病理や狂気に抵触しない限りにおいて、いわば音圧的に勝負できるものには抜群の適性を示している。カラヤンのみが見出し得る発見や美もあるが、知的退嬰を将来(ママ)するもので、人工甘味料のような欺瞞と危うさを内に孕んでいる

l  通俗名曲

カラヤンの適性は何よりも通俗的な「名曲」や小品に向き、格別の才能を示す

ロッシーニの序曲集、グリークの小品集、ヴェルディのオペラ序曲集など枚挙に暇がないが、大衆の趣味嗜好に合わせて、定評のある陳腐な「名曲」をクリーニングし、極上のオーケストラを締め上げ、最良の演奏を提供しているものの、ここには何も産まれない。悲しいほどに自己回帰的で、痴呆的。カラヤンの本質は、「大衆の時代」の当たり障りのない美意識の確立、踏み外すことのない「良識」の正当化、悲しくも切実な上昇志向と自己新神話化による負け犬的な羨望の醸成にあった。大衆はいよいよ愚かになり、「小さな幸せ」に満足し、今ある自分を慰撫的に是認する。最もやりきれないのは、カラヤンが、そのような罪の張本人であることに対して全く無自覚だったこと

l  病と遅すぎたドイツ的美学への回帰

ベルリン・フィルとの長い蜜月と、それに匹敵する長い確執も、ベルリン・フィルのカラヤン追放劇でカラヤンの敗北は決定的となる

カラヤンが歯牙にもかけなかったアーノンクール(ヴィーン交響楽団に所属し若きカラヤンのもとでヴィオラを弾いていた)が古楽の旗手として台頭し、カラヤン流の拡大しきった音楽的豊穣を嘲笑うかのごとき音楽を展開した(そのアーノンクールも今では、カラヤン並みに快楽追求的な音楽をやっているから皮肉)

多くの演奏家はカラヤンの演奏に反旗を翻し、同じように世界の絶望や苦しみに無自覚でも、カラヤンとは異なったやり方で音楽を作ることに執心した

最晩年のカラヤンの音楽が、ノスタルジックな色調を帯びていったのは間違いない。「大衆」の無知蒙昧をより真剣に受け止め、彼等の「物語」への郷愁、分りやすさへの無抵抗な偏りに敏感に反応し、純ドイツ的な音楽をやるようになっていく。スポーティな外観、巨匠然とした風格を自分にも音楽にも持たせるよう腐心したが、決定的な間違いで、自らの美学にも馴染まず、いかんともしがたい誤謬。最期まで人類を瞞着しきった

今更カラヤンを断罪しても始まらない。時代はカラヤンの望むような表面の美しさに充ち満ちているが、その背後には臓腑を抉られるような塗炭の苦しみと、汚物に塗れた精神の荒廃と、痴呆的に己の幸福に満足する、腑抜けた笑い顔だけが残された

 

第3章      孤高の絶対音楽オットー・クレンペラー(1885~1973

l  満身創痍の鉄人

クレンペラーの生涯は波乱に満ちている。何度もの不幸に見舞われ、時代に、社会に痛みつけられた。それ故彼の産み出す音楽には常人には到底叶わない強靭さが、狂気と理解不可能な破綻と逸脱が備わり、それは崇高なまでに巨大で常軌を逸していて異彩を放つ

不遇を託っていたクレンペラーが最初のポストを得たのはプラハのドイツ歌劇団で、マーラーの交響曲2番《復活》をピアノ曲に編曲し、作曲家自身に弾いて聴かせるといった離れ業が認められた結果で、それも上部との軋轢から3年で辞め、プフィッツナーを頼る

1927年ベルリンのクロル・オペラの音楽監督に就任、惰性的な演奏を嫌って斬新さを追求、時代を先取りした演出で新時代の到来を予感させ、33年ナチに閉鎖されるまで、最も先進的なオペラ・ハウスとしてヨーロッパ全土に名を轟かせた

ナチの迫害を受け、ロサンゼルスに亡命して指揮をするが、女性スキャンダルなどで評判を落とす。戦後ヨーロッパに戻り、ブタペスト国立歌劇場を指揮するが、社会主義リアリズムを強制されて退任した後、レッグに引っ張られ、財政逼迫のオーケストラをニュー・フィルハーモニアと改名して再起させ、漸く安定した晩年を過ごし、名演も残す

l  アンチ・モラリスト

自らモラリストではないと断言してはばからず、奇行が目立つ

ヴィーン・フィルとの共演に消極的だったのは、ギャラが破格に安かったからという

l  音楽の奉仕者

逸話には事欠かず、特に女性とのスキャンダルは数知れないが、彼の音楽には全く反映されず、徹頭徹尾厳格で崇高な気配を漂わせ、何者にも動かすことのできない鉄の意思が貫通していて、稀有なパラドックスかもしれない

音のブロックを11つ、巨人には相応しからぬ正確無比の手捌きで積み上げ、木管の細かな音型に注意深く耳を傾け、第一ヴァイリンと第二ヴァイオリンを、指揮者を中心に左右に振り分け、低弦を指揮者から見て左側に配置することで、多声的、ポリフォニー的な構築を心掛ける。一方で、必ずしも正確とは言えない大まかなアインザッツに対して、頻繁に出来するオーケストラの微妙な「ズレ」があり、皮肉にもそれがクレンペラーの音楽を壮大玄妙なものにしている。精密なスコア・リーディングは徹底しながら、演奏の際には基礎的なことは横に置き、音楽の構造的核心に直接的に肉薄するような鋭さと乾坤一擲の大胆さと気迫で立ち向かう

聴衆への媚もサーヴィスも絶無だから、聴く方は主体的に、創造的に聴かなければならず、それ故に疲れるし、クレンペラーの音楽に適性を持たぬ者には退屈に感じる

音楽をできる限り正しい形で演奏するという異常に高い使命感もあって、ときにスコアを勝手に補筆したりカットしたりもするが、抗いがたい説得力がある

カラヤンとは似て非なるもので、聴衆も演奏者もなく、時代への、大衆への阿りもなければ阿諛追従もなく、権力欲も、卑屈な自己理解も存在しない。透徹した眼差しと、それに対峙させられる音楽だけしかない。常に怒っていて、音楽を通じて普遍化する

l  遺産

クレンペラーも1960年あたりまでは決して遅くなく、快速調で颯爽と、それでもなお暗いものに対する独特の適応性をもって演奏を展開していた。どの演奏も誠実無比、カラヤンの厚化粧に比べればなんと清々しく潔いことか

l  傑作

シューベルトの《未完成》を晩年に振ったものは秀逸。シューベルトの夢見るような儚さと狂気はクレンペラー自身の老いの諦念と未だなおくすぶる狂気に同期し、稀有の名演

意外なレパートリーとしてベルリオーズの《幻想交響曲》も快演。比較的速めのテンポの演奏で、情緒的には極めてドライな印象が強いが、フランス的なものには一切目をくれず、管弦のバランスをほとんど猟奇的に整え独墺系の古典派交響曲の風格を持たせている

l  「世界苦」

ヴァーグナーには定評。60年リリースのフィルハーモニア・オーケストラとの《ローエングリン》第1幕への前奏曲は白眉。あまりに美しく、それでいて毅然として逸脱もない

チャイコフスキーの後期交響曲も意外なレパートリーだが、ロシア的抒情や大袈裟な感情表現は全く見られず、交響曲としてひたすら押してゆくので、交響曲という概念自体の老朽化、変質の様子が実感できて面白い

「世界苦」といえば、マーラーの第9番目の交響曲で、クレンペラーの最晩年、急拵えのイスラエルのオーケストラとの演奏が白眉

l  小品と現代曲

質の悪い冗談めいているが、ヴェーバーの序曲集など真面目、小交響曲の風格すら持つ

ヨハン・シュトラウスの《皇帝円舞曲》も素晴らしい。中盤以降音楽はどんどん巨大になってゆき、地球的規模を超えて宇宙的な偉容を見せるようになる。ポピュラーへと漸次変容してゆくシュトラウス的音楽機構が、クレンペラーのなかでは交響曲の残骸、それも廃墟的なノスタルジーと英雄的な厳粛さに置き換えられてしまっている。確信犯的犯行

現代曲ではクルト・ヴァイルの《三文オペラ》が最高

クレンペラー自作の交響曲も現代曲として見逃せない。新即物主義的曲想、狂気の阿鼻叫喚、底意地の悪いパロディの連続で、分裂的でとりとめがない

l  クレンペラーの憂鬱

カラヤンの犯罪が、クレンペラーの啓発的で覚醒的な音楽を隠蔽してしまい、クラシック音楽の創造的可能性を圧殺してしまうほどの威力を持っていたことは間違いない

カラヤンはいくつもの栄光あるポストを手にしたが、その結果は彼に何をもたらしたのか? やたらとゴージャスなだけの、空虚な音楽と、オーケストラや歌劇場、気まぐれな「聴衆」からの手痛い仕打ち、その結果としての死後の急速な忘却、敬遠という名の祭り上げ、カラヤンの憂愁や屈折など判ろうともしないで、付和雷同してカラヤンを不当に貶める批評家たちやクラシック・ファンの喋々としたおしゃべり、それだけではなかったか?

それに比べてクレンペラーは、「音楽的大衆」におもねらなかったことで、彼等から「無知」「忘却」という形で復讐されたにもかかわらず、彼の音楽を慕うクラシック・ファンは今でも少なからず存在する。彼のアウラは確実に聴き手の耳に届き、これからも純良なクラシック・ファンを育ててゆくだろう

自身しか見えず誰も信用できずに寂しい晩年を送ったカラヤンと、同じ寂しい晩年でも自足のクレンペラーとでは大いに異なる

l  美のグロテスクな本質

音楽は生の承認であり、認識の狂喜であり、この世界に生きることの絶望に対する呵責なき是認である

カラヤンの「しくじり」の根源は、レコードという「記録」を意味する英語に惑わされ、あくまで「表面的」「表層的」という意味で誤りのない「美」にその生涯を捧げたこと。そしてこのような価値観を、「カラヤン以後」の音楽の核に抜き差しならぬ形で移植し、育て上げたカラヤンは資本主義の嘘とも結託して、孜々として勤勉にそして半ば無意識的に、欺瞞に満ちた「美」に奉仕した。これがカラヤンの罪の精神的基盤

このような音楽の周辺に張り巡らされた「美」しい罠を、野蛮な怪力によって、快刀乱麻を断つように断ち、さらにはその返す刀で自身の音楽をも思うように切り捌き、その傷などどこ吹く風で受け流したのがクレンペラー

ケーゲルは「美」に拘泥したが、カラヤンとは異なり、痛みを伴う血塗られた「美」の廃墟であり、グロテスク極まりない「美」の本質に他ならない。美とは、あらゆるおぞましい得体の知れない様々なものの、不気味極まりない死体の堆積の上にのみ君臨するものなのだ

 

第4章      絶望の音楽ヘルベルト・ケーゲル(1920~1990

l  自殺したくなる音楽

ケーゲルの指揮したアルビノーニの《アダージョ》の凄惨な音楽は、「自殺したくなる音楽」の最右翼。絶望し切っている

ケーゲルは何に対して絶望しているのか?

戦後ドイツに壁が建設され、ソヴィエトの全面的な行政統制、思想統制を受けることになる「東ドイツ」に生き、そこで誂えられた社会主義リアリズムにどうにかその身を合わせ、それでも自己の創造欲求をギリギリまで出そうとし、敢えて身の危険を冒してまで同国の新音楽を紹介しようとし、また、オーケストラとの衝突を覚悟の上で過酷な練習を重ね、ひたすら音楽の新しいあり方に鋭敏に反応しようとした彼に対し、極めて鈍感にしか反応しなかった社会、体制、聴衆に対してだろうか?

l  途絶えたキャリア

ドレスデンで生まれ、音楽家となるべく教育されたケーゲルは、指揮をカール・ベームに師事、作曲と音楽全般をクレンペラーの助手も務めたパウル・デッサウに学ぶ。アーベントロートの助手としてライプツィヒに移り、彼の死後同地の放送交響楽団の首席となり、78年にはドレスデン・フィルの指揮者となる。晩年は自由化の波に押された旧東ドイツの微温的な文化環境の中、アグレッシヴな彼の音楽思想は無理解の壁に阻まれ、次第に仕事の場を奪われ、オーケストラや体制側からの陰険な妨害にも遭い、生来の希死念慮が悪化し、壁の崩壊を待つかのように90年ピストル自殺

l  絶望の音楽

彼の音楽は、ぶっきらぼうなベームやデッサウ譲りの比較的即物的なものだが、アーベントロートの19世紀的な事大主義的音楽とはまるで違い、生粋の社会主義者で、その音楽にはまさに社会主義を標榜するかのごとき機械的正確さに対する偏執狂的愛好があった

ひたすら孤独で、他者の介入する隙がない。悲惨なほどに自己懐疑的であり、極端を好み、自己制御できない妄執に支配されている。バランス感覚は随所で破綻し、安定していない

放送オーケストラを指揮したことも彼のささくれ立った音楽性を助長したかもしれない。放送局付きのオーケストラは、概して機能主義的で、即物的、カラーよりは技術の洗練に、情緒よりはスコアの読みの正確さに長けている

l  《音楽の捧げ物》

デッサウが編曲したバッハの《音楽の捧げ物》は、バッハを生かしながら、現代的センスと、大バッハへの批判的距離をとりながら、しかしそれでもなお一向に揺らがないバッハを最終的には顕彰するという手の込んだ編曲で、それを指揮するケーゲルはどこか寒々しく、生真面目な棒は熱い想いを心の底に燃やしながら、ひたすらに暗くじわじわとオーケストラを締め上げるが、最後の最後にケーゲルの音楽は唐突に威厳に満ち、壮大極まりない音楽の構築物が立ち現れ、普遍性への窓がいきなり開かれる。このコントロールの不安定さがケーゲルの魅力であり、根本的な欠点にもなりかねない危険な個性

l  《カルミナ・ブラーナ》

ケーゲルは、ナチスにも協力したナショナリスト、カール・オルフの音楽を好んで演奏

《カルミナ・ブラーナ》では、リズムの饗宴、音の洪水の中、ケーゲルは最初から最後まで怒っている。何に対して怒っているのか、自身もわからないだろう

l  ショスタコーヴィチ

交響曲《第5番》は、ソ連政府の批判に応えて、ベートーヴェンの《運命》に比する暗から明への綱領的な音楽に仕上げたが、最近の演奏ではこのようなプログラム性は完全に忘れたように純交響楽的なものが多いが、ケーゲルの演奏は度を越している

《第15番》も、ひたすら冷たく、気味が悪い。ロシアの指揮者でもこんな演奏はしない

l  ヴァーグナー

《パルジファル》の演奏会形式のライヴが凄い。ルネ・コロ、テオ・アダムを配し、即物的にサクサクと演奏しているが、耳障りは限りなく冷たい

ケーゲルの音楽には、死への誘惑というとてつもない毒が含まれている

ヴァーグナーの音楽は救済の音楽だが、ケーゲルにとってその音楽は救済ではなく、美しい死への誘い

l  ブルックナー

概ね健康的。厳格に音を組み立ててゆく点ではクレンペラーを思わせる

物語的抒情性とは無縁で、冷静極まる眼差しで、11つの音の塊、音の組織を、最新の技術を使った解剖学的な手捌きで解きほぐし再び組織し直し、極めて近代的なブルックナー像を打ち立てる。だからといって決して軽くなく、むしろ低音部に重きを置き、それを基礎に堅牢な構築物を完成させる

それでいて、健康的な仮面の裏に病的で絶望的な素顔を隠している

l  マーラー

《第1番》が異色

単純に聴けば大きな安息を得られるかもしれないが、良く聴けばそこには聴き手を深淵に突き落とす底意地の悪い陥穽が仕掛けられている

l  ヒンデミート

ほとんどの代表的管弦楽曲を録音しているが、そのどれもがキッチリした演奏で、その機能主義一辺倒の即物主義はヒンデミートさえ真似のできないものだろう

《画家マチス》《世界(天体)の調和》は必聴の名演

l  シェーンベルク、ベルク、ヴェーベルン

シェーンベルクでは、初期の、後期ロマン主義的音楽《グレの歌》と、後期の未完成オペラ《モーゼとアロン》がケーゲルの怒りをよく表している

ベルクでは《ヴォツェック》と《ヴァイオリン協奏曲》がケーゲルの資質を十全に表現し得ている。《ヴァイオリン協奏曲》は、ベルクに懐いていたというグロピウスとアルマ・マーラーの間に生まれた娘の死を悼んで作曲されたレクイエム的性格を持ち、最後にバッハのカンタータからの引用があり、ベルクの悲しみは増幅される

ヴェーベルンの主だった作品を演奏しているが、聴き手は無味乾燥は、しかし血みどろの公開手術を観るときのような厳粛さと気味悪さに耐えなければならない。ひたすら静かに息を潜めて立ち会う覚悟をもって、聴き手の存在を完璧に無視したケーゲルの自己治癒の儀式に参入するほかない

l  ストラヴィンスキー

《プルチネッラ」《カルタ遊び》の2曲の新古典主義的バレエ音楽では、新即物主義的に音楽を捉え、木で鼻を括ったような素っ気なさで演奏し、恐怖感を醸し出している

l  ペンデレツキとノーノ

ペンデレツキの《トレノス(広島の犠牲者への哀歌)》は、作品が作品なだけに、ケーゲルの憤り方は万全に開花。戦場の阿鼻叫喚の表現は、ケーゲルが第2次大戦従軍中に実際に経験したものだが、そこに不思議にも抒情的な優しさがふと浮かぶのもパラドックス

ノーノの共産主義的政治音楽《力と光の波のように》はチリ革命に憂慮して書かれた作品で、社会主義者ケーゲルとしては放っておけない作品で、明らかに怒って演奏

l  デッサウ

作曲家に対するただならぬ敬意と、時代を共有するものの共感に満ちていて感動的ですらある。《ルクルスの審判》は荒唐無稽の批判劇だが、ケーゲルの棒は冴え渡っている

l  小さな悪魔

小品、通俗的名曲でも決して手を抜かない

ヴィヴァルディの協奏曲集は絶対零度の冷酷な演奏

l  ベートーヴェン

ときによって全く表情の異なる演奏

《運命》の第3楽章は序曲付きの幽鬼の踊りになっていて、時代が要請する新しさと、ベートーヴェンの鋭い時代感覚と狂気が混在しているが、カラヤンはこの異常さを完全にスルーし、クレンペラーは無意識のうちに自ずからその狂気を現象させ、ケーゲルは極めて意識的にその狂気を際立たせている

l  ケーゲルの叫び

ケーゲルの音楽は、徹頭徹尾、絶望の音楽。社会に絶望し、政治に絶望し、家族に絶望し、そして厄介なことに自身にも絶望

労働者階級の家に生まれ、苦労して音楽家になり、希望した声楽家にもピアニストにもなれずに指揮者となるが、常に傍流に押しやられ、オーケストラからも聴衆からも決して絶対的な賛意は得られないまま、それでも聴衆の啓蒙に熱意を燃やし続け、聴衆の無理解と闘い、批評家の悪意や、政治家のご都合主義に翻弄され、絶望を深めていった

絶望の底の底には、パンドラの箱に取り残されたものと同質の希望が存在する。希望があるからこそ絶望は機能する。ケーゲルの絶望は、希望への儚い、しかし熱意の籠った微かな期待だったのかもしれない

l  ケーゲルとカラヤン

東西が分断されなかったとしても、ドイツの音楽風景は大きく変わりはしなかっただろう

ゴミためのような社会、ささくれだってゆく人心、それをかりそめの美しい餌で慰撫する体制側の策略、続く戦争の悲惨、圧力をかけられ平板化する個人、エンターテインメント化する音楽、特にクラシックの退嬰、趣味の一元化、全てはカラヤンが荷担した世界観から生まれたもの。世の中力のあるもの、声の大きなものが勝ちを収める

そんな中で、ケーゲルやクレンペラーの音楽がどれほどの力を持ち得ただろうか。現代はいよいよ私たちを抑圧し、「ちょっと幸せな社会」を弱者の犠牲の上に打ち立て、そのからくりを隠蔽し、私たちを痴呆化しようと狙っている。悲惨なのは、私たち自身がそのような世界を自ら形成しているということ

 

クラシック受容のあり方、というごく狭い観点から近現代社会の病理を掠め見ようとして来た。クレンペラーやケーゲルは明らかにそれに気づき、カラヤンは気づきながらも資本主義の走狗となってクラシック音楽の受容の一般化と低劣化に寄与

私たちは覚醒しなければならない。立ち上がらなければならない。象徴としてのカラヤンに代表される非-文化的文化の巧妙な罠を注意深く避けながら、真正な芸術とは何か、真正な社会とは何か、人間の幸せとは何かを問い続けなければならない。クレンペラーやケーゲルの音楽はそのように気づいた私たちを必ずや勇気づけてくれるに違いない

 

²  おわりに

l  絶望の深度 マーラー解釈の距離

マーラーの音楽は所謂カペルマイスター・ムジーク(音楽監督の余技)の域を超えるが、作曲だけに思考を集中したものとは違う、生理的な矛盾と亀裂が内包されている。交響的作品はあまりに多層的、重層的で、宇宙論的な誇大妄想とひどく個人的な感傷が唐突に、無媒介に並列され、聖と俗が互いに牽制し合いながら、ときに親密な風情で、ときによそよそしく同居させられ、正気が狂気に常に脅かされている。死に対する恐怖と、死への甘美な憧れが当たり前のように混在している

途方もなく時代に超越し、現代の孕む不安や絶望を先取りして、極度に変態的

ボヘミアとユダヤという二重に阻害された出自や、ヨーロッパの辺境に育ったということも、彼の作品に屈折や挫折感を内包させたのだろう

近代と現代の端境にあって両者の病理を併せ持つ狂気スレスレの音楽

カラヤンのマーラーは、作曲家の葛藤も絶望も見事にスルー、根本的に間違っている

クレンペラーのマーラーは、ひたすら即物的故に、感傷とは無縁、ひたすら男性的で、これも間違っている。《第九》を好んだが、だからといって感情移入は一切なく、ひたすら管弦のバランスを整え、リズムを正確に刻むだけ。いやそれだからこそ聴き進むうちに鳥肌が立つほどの狂気への恐怖が聴き手を襲う。指揮者の生真面目さによって却てその密やかな狂気を覗かせるものなのだ

ケーゲルのマーラーは、あたかも作曲者が乗り移ったかのように恐ろしく矛盾に満ち、破綻し、決裂し、生々しい荒廃の傷口を見せつけるものとなっている

カラヤンは社会的成功と現世的幸福と引き換えに音楽を商品に変えた。それも1つの現代的狂気だろう。しかし、クレンペラーやケーゲルは、カラヤンの求めるものには軽蔑を隠さず社会的にしくじった。しかし彼等の残した音楽は、ひたすら不機嫌だったり、絶望したりすることでマーラーが予示した現代の救いがたい病理を見事に抉り出し、白日の下に晒した。彼らは不幸だったかもしれないが、残したものはひたむきで、見上げるほどの偉大な精神の記録だった

l  それでもなお、何故カラヤンか?

あくまで「象徴としてのカラヤン」について書き、彼が所属する社会、彼が関わった人々によるいわば集合的な無意識について糾弾。不幸な20世紀が不幸な21世紀に接続してしまい、状況は悪くなるばかり、私たちはいよいよ愚かになってゆく

そのカラヤンが創造し、その後塵を拝するようにして発展してきたクラシック音楽の価値観、音楽全般の価値観が生み出す「美」や「慰め」や「癒し」に無自覚に感動し、音楽とは良いものだと安閑として日々を送っているのが今日の音楽鑑賞のあり方だとすれば、それは根本的に間違っている。私たちの感受性にも大きな問題がある

社会的勝者であり、強者である「文明社会」に生きる音楽的聴衆の、日和見的で近視眼的で快楽追求主義的な音楽鑑賞のあり方は、社会的弱者の不条理や不合理な死を冷淡に放置し、格差社会の根本的原因を追及しようともせず、無自覚的に自己のひたすらに個人的な不安や不満やルサンチマンにのみ「不幸」を見出す、まことにおめでたい「文明人」の世界把握と完全に同期している

正義、愛、尊敬、希望、夢、信頼、目に見えないものへの畏怖…・

クレンペラーやケーゲルが創造した音楽には、このようなものに対する畏敬の念があり、社会の不条理に対する執念深い怒りが、個人的な怒りを超えて普遍へと飛翔している

 

カラヤンの音楽を1つの例に、私は20世紀の抱える問題を憂慮と共に見つめてきた。何かが間違っていると思ってきた。それがカラヤンの音楽に象徴されると思って来た

私たちの生きる時代はどこかが決定的に歪んでいる。私たちの感受性もまた絶望的なまでに偏っている。正すことはできないかもしれないが、それに対し意識的であることは可能だろう、その1つの契機になればと、本書を書いた

 

 

 

紀伊国屋ホームページ

20世紀を代表する指揮者、ヘルベルト・フォン・カラヤン。その流麗な「美」に魅せられた人は少なくないだろう。しかし、「カラヤン以後」、音楽の風景は一変し、何かが決定的に失われてしまったことに気づいているだろうか。かつて音楽を聴く聴衆は、その成り立ちに息を潜めるがごとく、宗教儀式のように音楽を体験し、享受した。そこには特別な「意味」が存在した。本書は、カラヤンの音楽と、それを鋭く断罪する二人の音楽家、オットー・クレンペラーとヘルベルト・ケーゲルの、絶望や狂気、矛盾や破滅が内在する『危険な音楽』を通して、20世紀から現代までを覆う「負の遺産」を問い直し、音楽、芸術、そして人間存在を考える。

 

 

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