[新版]日本国紀  百田尚樹  2022.4.19.

 

2022.4.19. [新版]日本国紀 上下

 

著者 百田尚樹 1956年大阪府生まれ。放送作家として《探偵! ナイトスクープ》などの番組で活躍後、06年に『永遠の0(ゼロ)』で作家デビュー。《海賊とよばれた男》(13)で第10回本屋大賞受賞。NHK経営委員会委員(1315)

 

発行日           2021.11.15. 初版発行        2021.11.30. 3版発行

発行所           幻冬舎 (幻冬舎文庫)

 

 

序にかえて

神話と共に成立し、以来2000年近く、1つの国が続いた例は世界のどこにもない。それ自体が奇跡

ヒストリーという言葉はストーリーと同じ語源。歴史とは「物語」であり、本書は日本人/私たち自身の壮大な物語

 

第1章        古代~大和政権誕生

古代史を語る上での問題点は、6世紀以前のことがよくわかっていないこと

『魏志』などの中国の史書と、『古事記』『日本書紀』が文献資料のほぼすべて

中国の史書は伝聞や憶測が多く、『記紀』は神話が多数含まれている

l  縄文時代(1213千年~2800)

歴史の始まりは、文字による記録が残っている時代

そもそも日本人の祖先の縄文人はどこから来たのか――北からも南からも渡ってきた種々な人々が何代にもわたって混血して出来上がった民族

民族のルーツに関する定説はない

青森市の三内丸山遺跡:BC3900BC2200年、大規模集落遺跡、農耕生活の萌芽

l  弥生時代(BC10世紀~3世紀)

北九州で水稲耕作開始。金属の使用が始まる

1世紀ごろ編纂の『漢書』『後漢書』には「倭人」が漢帝国に朝貢していたとの記述あり。「漢委奴国王」印が発見されている

l  統一国家へ

弥生時代の重要な歴史書は、『魏志』「倭人伝」(『魏志』の中の「東夷伝・倭人の条」)

239年、邪馬台国の卑弥呼が魏に朝貢――邪馬台国は畿内か九州か不明

l  古代の日本社会と日本人

「倭人伝」には、日本人は、「風俗は乱れていない」「盗みがない」「争いごとは少ない」とある

集会の席では、長幼や男女の区別がなかった

l  倭とは何か

中国では昔から周辺の国や人に卑しい意味の字を当てる――「倭」「邪(馬台国)」「卑(弥呼)」「()()」「匈奴」など

日本人が漢字を習得して「倭」の意味に気付き、7世紀ごろからは「和」を使うようになった

l  大和政権が生まれるまで

邪馬台国と大和政権の繋がりは不明

『記紀』に「神武東征/東遷」とあるところから、大和政権は九州から大和平野に入った

l  銅鐸の謎

24世紀の日本には、銅矛(ほこ)文化圏(九州から中国地方西部)と銅鐸文化圏(畿内から中国地方東部)があった――銅矛は武器で、銅鐸は祭祀の道具

大和平野から発掘された銅鐸の多くは破壊され、出雲から出土の銅鐸は無傷が多い

l  朝鮮半島との関係

23世紀、日本はたびたび朝鮮に派兵――『日本書紀』にも「三韓征伐」の記述がある

369年、新羅と戦い、百済を従属させ、半島南部の弁韓地方を任那(みまな)と名付ける

7世紀にも百済が唐と新羅の連合軍に滅ぼされた時も、百済支援の派兵をしている

l  広開土王碑(こうかいどおうひ:石碑)

石碑は高句麗王(広開土王)の業績を彫ったものだが、391年に倭が百済と新羅を破り臣民にしたあと、404年には高句麗に敗れて任那のみの支配となったとある

l  神功皇后の謎

『日本書紀』にも神功皇后の時代に大和政権が朝鮮半島に進出し、新羅・百済を支配下に置いたとの記述あり

神功皇后の子供が第15代の応神天皇とされるが、登場人物の胎内での期間や身長、死亡年齢などから、実在に疑問符がつく――諡号に「神」が入るのは初代神武、9代崇神(すじん)に次いで3人目

l  倭の五王

413478年、日本の五王が中国各地に9回朝貢したとの記録が残る

(さん;履中天皇)、珍(ちん;反正天皇)、済(せい;允恭天皇)、興(こう;安康天皇)、武(;雄略天皇)とされるが、『記紀』にはその記述はない

l  古墳時代

46世紀は「大和時代」と呼ばれたが、統一国家は存在せず、「古墳時代」と呼ぶ――畿内から瀬戸内海沿岸にかけ巨大な古墳が出現(743が宮内庁の管轄下に)

l  継体天皇の登場

6世紀後半には巨大古墳がなくなり、506年第26代継体天皇が即位したとあるが、謎の多い人物

即位時57歳の高齢だったこと、応神天皇の5世の孫とされるがそこまで遡らなければ男子がいなかったというのも不可解だが、実在が確実と見做される最初の天皇

万世一系の思想の起源は不明だが『日本書紀』にはすでに伝統として受け継がれていた

 

第2章        飛鳥時代~奈良時代

独立国家としてスタート。独特の文化も芽生える

l  飛鳥時代(6世紀後半~8世紀初頭)

32代崇俊(すしゅん)天皇(継体天皇の孫)に始まり、ほとんどの期間都は飛鳥(現明日香村)。飛鳥の枕詞が「とぶとりの」だったところから「飛鳥」と書く

仏教の導入を巡って蘇我氏と物部氏が争い、蘇我氏が勝って仏教を受け入れ

蘇我氏は崇峻天皇を殺害し、推古天皇を擁立して、権勢を振るう

l  聖徳太子

推古天皇の摂政が厩戸皇子(諡が聖徳太子)――大伯父の蘇我馬子と政治の実権を握る

遣隋使派遣に際し、隋の皇帝に対し、対等の立場であり独立不羈の国との意を込めて「天皇」という言葉を編み出したとされる

l  17条憲法の凄さ――先進性

世界のほとんどが専制独裁国家だった古代に民主主義を謳う

l  飛鳥時代の文化

前期が飛鳥文化で、後期が白鳳文化

l  律令国家

645(大化元年)、中大兄皇子(38代天智天皇)が、蘇我蝦夷(えみし)・入鹿親子を滅ぼし、中央集権体制を整備、都を近江に移して初の法治国家を確立――乙巳(いつし)の変

「律」は刑法、「令」は一般行政法

l  白村江(はくすきのえ)の戦と防人制度

663年、唐が新羅と共に滅ぼした百済再興のため朝鮮出兵するが大敗――渡海の危険を冒してまで大軍を派遣した真意は不明

大陸からの侵攻に対し、北九州の防御として「水城」(みずき;土塁と外濠)を設置し、防人を呼ばれる兵士(徴兵)を配置

l  遣唐使

702年、正式に再開

唐文化を取捨選択して受け入れたが、「易姓革命」は拒否――天が王朝に地上を治めさせるが、徳を失った王朝は天が見切りをつけ「革命」を起こさせ、別王朝を立てるという思想で、前王朝の一族郎党の虐殺が許された

l  『古事記』『日本書紀』『万葉集』の誕生

672年、壬申の乱――天智天皇の後継大友皇子(弘文天皇)に対し、叔父の大海人皇子が反旗を翻し、大友皇子を倒して天武天皇となり、都を飛鳥に戻すとともに、公式歴史書として『古事記』『日本書紀』を編纂

『万葉集』は、政権や政策批判ととれるような歌でさえ収録するという、豊かで成熟した文化を反映

l  仁徳天皇に見る「大御心」と「大御宝」

『日本書紀』は、神武天皇から持統天皇(41)までの歴代天皇の業績を記述

なかでも仁徳天皇(16)の逸話は、天皇と民の関係を示すものとして興味深い

仁徳天皇が、人家から煙が上がっていないのを見て民の困窮を知り、課税を3年凍結。その間衣は破れるまで使用、宮殿の垣根の補修も繰り延べ。3年の豊穣の後、人家から煙が立ち上るのを見て、民が富んだので朕も富んだと言った。さらに3年課税を免除した後に宮殿を補修した際は、民が自発的に手伝ったという――大御心(天皇)と大御宝(国民)の両者が互いを思い合う関係ができあがっていった

l  日本の誕生

国名の正式な誕生は不詳。7世紀末頃、天武天皇の治世下では正式なものとなっていた

太陽が昇るところという意味

l  律令制度と班田収授法

律令制下、土地は公有で、6歳以上の人民に一定量の口分田が与えられた――班田収授法

寺社領は実質私有地として残り、墾田永年私財法なども利用して荘園へと拡大していく

l  身分制度

良民と賎民に分類。良民は皇族・貴族・公民・雑色(貴族に仕える職人)4分、賎民は人口の1割程度で、売買の対象となる奴婢以外は固定したものではなかった

l  平城京

8世紀初め、飢饉と疫病が続発。第42代文武天皇が疫病で崩御した際、後継の元明天皇(文武の母)は藤原京から平城京に遷都(710)

701年、文武天皇は元号を「大宝」とし、以後今日まで元号が使われる

交通路が整備され、官道には16㎞ごとに駅家(うまや)が設けられ、馬が常置

l  農民の疲弊

租は収穫物の3%だったが、男にはそのほかに調や庸といった税や、雑徭(ぞうよう)という使役が負担となって、没落していく

さらに、人口増加に伴い口分田が不足すると、墾田永年私財法により、新規開墾が奨励されたが、逆に支配層や富裕層の私有地増加を招き、公地公民の原則が崩壊

l  豪族たちの権力争い

729年の長屋王の変、740年の藤原広嗣の乱など、何れも天皇が不可侵な存在であることを前提とした臣下同士の権力争い

政変の頻発や天然痘の流行もあって、聖武天皇(45)は遷都を繰り返したり、仏教による救済を期して全国に国分寺・国分尼寺を建立(741)、東大寺に盧舎那仏建立も宣言

后の光明皇后も篤く仏教を信仰し、悲田院や施薬院を建てて、病人の治療にあたる

l  長岡京へ

仏教振興で力を増した寺院や僧侶の政治への容喙を嫌って、桓武天皇(50)は長岡京に遷都――淀川などの水路に着目するが、10年後には平安京に移る

 

第3章        平安時代

日本が独自の文化を花開かせた時代

プチ鎖国状態の中、雅を愛する平和ボケした貴族を脅かすように、10世紀には武士階級が勃興、12世紀後半には政権を掌握

l  平安京

794年、桓武天皇が平安京に遷都するとともに雑徭や兵役廃止などの政治改革を断行

代わって、軍事の子弟や有力農民による健児(こんでい)制の軍隊を創設、勘解由使による国司の不正取り締まり強化をはかる

最澄(天台宗:比叡山延暦寺)、空海(真言宗:高野山金剛峯寺)が新しい宗派を拓く

坂上田村麻呂が蝦夷(えみし)を破って東北地方一帯を支配、朝廷が全国を統治下に置く

l  成熟の時代へ(国風文化の開花)

894年、遣唐使の停止――唐の政情不安に加え、文化国家として独り立ち

仮名文字の発明――9世紀初め、僧侶が経典の難読漢字にふり仮名を振ったのが片仮名の起源。漢字の草書体から平仮名が編み出される

l  武士の誕生

土地の私有化と共に貧富の差が拡大

荘園を守るために雇われたのが武士で、やがて棟梁を頂点とする一族を形成するようになる――関東中心に勢力を広げた平氏は第50代の桓武天皇の、摂津や河内の源氏は第56代の清和天皇の流れを汲む皇族出身で、ともに家格の高さから武士の尊敬を集める

l  藤原氏の台頭

飛鳥時代の中臣鎌足を始祖とする藤原氏が、財力で権勢を手に入れる

天智天皇の落胤といわれる不比等には4人の息子がいて、それぞれ南家(なんけ)、北家(ほっけ)、式家(しきけ)、京家(きょうけ)を興すが、栄えたのは北家だけで、天皇の外戚として摂関政治を行う

道長は3人の娘を天皇に嫁がせ、それぞれの男児を天皇にしているが、息子教通(のりみち)の妻である内親王を女性天皇にはしていない――男系の万世一系を遵守

l  「祟り」について

古くから怨霊を恐れるという思想が日本人の心の底に根強く残り、幕末頃まで続く

平安時代の人々が恐れおののいた「祟り」の1つが「菅原道真の祟り」――藤原時平の讒言を信じた醍醐天皇によって左遷され、2年後に死去するが、5年後から関係者の死が続き、道真の怨霊を恐れて醍醐天皇は名誉を回復させるが、祟りは収まらず、怨霊を鎮めるために北野天満宮を建立し、ようやく落ち着いたといわれる

l  武士の反乱

藤原氏の時代、地方は乱れ、武力による独自の支配体制が割拠

平将門の乱、藤原純友の乱はその好例

l  摂関政治の弊害

外戚のポストを巡って、藤原氏や他の貴族が勢力争いを展開

l  刀伊(=東夷;女真(じょしん))の入寇

平安時代から新羅による侵攻が活発化――「寇」とは外国から攻めてくる意味

その最大のものが1019年の「刀伊の入寇」――ロシア沿海州の狩猟民族。大宰府の活躍で撃退

l  武士の台頭

平忠常の乱(1028)は関東の平氏が、前9年の役(1051)は奥州の安部氏が、後3年の役(1083)は奥州の清原氏が起こした氾濫で、何れも源氏によって平定

l  戦いを嫌う平安貴族たち

一連の争乱に対し、朝廷は警察機構や常備軍を持たず、対応は専ら武士に任せっきり

都では身が穢れるとして死刑を廃止したこともあって、治安が乱れっ放し

l  院政の時代

1086年、白河天皇が上皇(太上天皇の略)になったころから権力闘争が複雑化

譲位して上皇になって院政を敷く天皇が続く――後世「治天」と呼ばれ、治天の地位を巡って朝廷内の争いが生じ、皇室は権威を失っていく

l  保元の乱

崇徳上皇と後白河天皇(崇徳の大甥・弟)の争い――崇徳は鳥羽上皇の子供とされるが、実父は鳥羽の祖父・白河法皇(上皇が出家すると法皇に)で、鳥羽の后との不倫でできた子といわれる――公文書に記録はないが、崇徳以後数代の即位には不自然なものがある

1123年、白河法皇は鳥羽を退位させ、崇徳を即位させる――白河法皇死後、鳥羽は崇徳を退位させ、藤原得子(とくし、美福門院)との間の子を近衛天皇として即位させ自らは法皇となり、近衛死後は鳥羽の実子で崇徳の異父兄弟にあたる後白河を天皇にして、崇徳の血統を排除

崇徳の歌:「瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の われても末に あはむとぞおもふ」は、皇統が1つになってほしいとの願いを込めたとも読める

1156年、鳥羽上皇崩御を機に、鳥羽についた藤原忠通(関白、兄)と崇徳についた藤原頼長(左大臣、弟)との実権争いも絡み、忠通は源義朝や平清盛を味方に、頼道は源為朝、平忠正を味方につけて兄弟・肉親による骨肉の争いを展開、敗れた崇徳は讃岐に流刑

武士団が朝廷の内乱に決着をつけた歴史的意味は大きい

崇徳天皇は日本史上最大の怨霊とされ、最も大きな災いは「皇をとって民となし民を皇となさん」というもので、清盛がそれを実現したため、皇室は崇徳の怨霊を恐れ、100年ごとの式年祭で御霊を祀る。明治天皇は即位と同時に崇徳の御霊を讃岐から京都に戻し、約100年後にも昭和天皇が式年祭に勅使を遣わすなど、「怨霊を鎮める」行事が継承

l  平治の乱

後白河天皇は荘園整理令を発布、藤原通憲(法名・信西)は清盛の力を借りて私有地を没収

美福門院は信西の力を使って後白河に自ら育てた二条に天皇を譲位させたため、後白河は上皇となるが、武蔵の守・藤原信頼や源義朝に助力を頼んで権力奪回を図る

1159年、信頼・義朝勢がクーデターを起こし、上皇・天皇を幽閉、信西を自害に追い込むが、清盛が二条天皇を救出し、信頼・義朝勢を征伐。武士の力が一気に増す結果に

l  平氏の栄光

平清盛は後白河上皇の信任を得て、武士として初の太政大臣に就く

1179年、治承(じしょう)3年の政変で、清盛が後白河上皇を幽閉して退位させ院政時代が終わる。翌年高倉天皇を退位させ孫の安徳天皇を即位

l  平氏の没落

全国の武士の反発を招来、1181年木曽義仲が京都に攻め上ると、翌々年平氏は都落ち

後白河法皇がより共に義仲追討を命じ、次いで平氏追討も命じる

この時の源氏の旗印が白地に赤丸で、現在の日本国旗のルーツ

 

第4章        鎌倉時代~応仁の乱

鎌倉幕府成立は、頼朝が征夷大将軍に任命された1192年とされていたが、守護・地頭の任命権を得た1185年とする説などが出ている

「幕府」とは、「将軍の任命を受けた者が都以外の土地で朝廷に代わって行政を行うために設けた役所」のことで、武家政権の意味で使われるようになったのは江戸時代以降

鎌倉幕府も、当初は「鎌倉殿」と呼ばれ、源氏の棟梁を指す言葉で、東国を支配していただけで、全国支配はだいぶ後のこと

武家政権の成立は、100年もたたずして元寇が勃発したことを考えると僥倖だった

l  鎌倉政権

平氏を滅ぼしたのは義経だったが、頼朝の不興を買って殺害され、頼朝が初代の征夷大将軍となる。頼朝死後、息子の頼家が2代目を継ぐが、頼朝の岳父・北条時政によって退位させられ、12歳の弟・実朝が3代目に就任するが、16年後に頼家の息子・公暁に暗殺され、頼朝の血が絶える。その後は北条氏が、頼朝の血縁者を京都から迎え傀儡とした

l  承久の乱

1221年、源氏支配に不満を持っていた後鳥羽上皇が、執権・北条義時追討の院宣を発出

義時の姉・北条政子の説得に奮い立った御家人たちが、逆に京都に攻め上って不満分子を一掃、後鳥羽、土御門、順徳の3条項を隠岐、土佐、佐渡に流刑、貴族たちの所領を没収し、実質的に朝廷を遥かに上回る財産と権力を手に入れ、全国支配を確立

北条氏3代目の泰時の時代に執権政治が確立――1232年、御成敗式目制定

l  「一所懸命」と「いざ鎌倉」

全国支配を徹底するために全国に守護・地頭を配置――いずれも幕府と主従関係を結んだ御家人で、幕府に忠誠を誓う存在

l  商業の発達

貨幣経済の発展――政治体制の変化と社会変化の相互作用

l  文永の役

12世紀終わり、チンギス・ハーン率いるモンゴル人がユーラシア大陸の大半を征服

中国を支配したのは孫のフビライ・ハーンで、1268年武力制圧の国書を日本に発出

執権・北条政村は本家の時宗に執権の座を譲り、鎌倉武士団の団結を高めて対抗

1274年、蒙古・高麗連合軍が博多に上陸。予想外の反撃に遭って2週間で引き揚げたが、晩秋とあって帰路の時化で大損害を被る(台風説は否定された)

l  弘安の役

1281年、再び蒙古が大軍勢を率いて来襲するが、今度は真夏の台風に遭って撃退

朝廷は「夷狄(いてき)調伏」を願って加持祈祷を行い、伊勢神宮などに「敵国降伏」の額を奉納したことを勝因とし、時宗の貢献を認めなかったが、明治になって従1位を追贈

l  鎌倉幕府の衰退と悪党の台頭

元寇で疲弊した御家人は、恩賞もなく、困窮したため、、幕府は徳政令を発出(1297)

社会不安もあって、荘園領主や幕府に反発する「強い集団=悪党」が跋扈

l  鎌倉の文化

優雅を重んじた貴族文化から、質実剛健な武士の文化へと変化

特筆すべきは文学――リアリズムと諧謔精神に満ちた作品が多く輩出。軍記物(『平家物語』『保元/平治物語』)、説話集(『宇治拾遺物語』)、随筆(『徒然草』『方丈記』)

彫刻(運慶、快慶など)、絵画(物語絵巻)なども歴史的な資料としても一級品

l  鎌倉の仏教

戦乱と飢餓の中で、末法思想が流行――法然、親鸞の大衆を救う教えと、対照的に自らの修行によって自らを救う禅の2つの流れが発生

伊勢神宮を巡る日本独自の神道理論が形成されたのも鎌倉時代

l  後醍醐天皇の討幕運動

朝廷では、政治の実権はなかったが、様々な権限や利益を巡り皇位継承争いは活発

13世紀末、後深草上皇(持明院統)とその弟・亀山天皇(大覚寺統)の間での皇位継承権を巡る争い勃発――幕府の調停で、両統から交互に皇太子を立てることになった

後醍醐天皇が即位(1318年、第96代、大覚寺統)、親政復活を企図して1624, 31年と2度にわたって決起するが、敗れて隠岐に流刑。幕府は持明院統の光厳(こうごん)天皇を擁立するが、それを機に不満武士が各地で蜂起

l  悪党、楠木正成の挙兵

1331,32年、河内で挙兵。千早城に籠って幕府の大軍を翻弄

1333年、後醍醐天皇が隠岐を脱出して討幕の兵をあげたのに対し、幕府は足利尊氏を送るが、尊氏は裏切って、六波羅探題を陥落

上野国の御家人新田義貞が鎌倉を攻撃、最後の執権北条守時は自害し、鎌倉幕府は滅亡

l  建武中興

1334年、幕府滅亡により後醍醐天皇は京都に戻って親政を行う――建武中興

幕府が擁立した光厳天皇(北朝初代天皇)は廃され、歴代天皇には数えられていない

足利尊氏は征夷大将軍を望むが、後醍醐天皇の息子護良(もりよし)親王を据える

1336年、尊氏は京都に進軍するも楠・北畠顕家軍に敗れて九州に逃れ、光厳上皇の支持を得て復活、湊川に楠軍を破ると後醍醐天皇に代わって持明院統の光明天皇(光厳の弟)を即位させ、実権を握り、1338年征夷大将軍となる――3代義満が京都北小路室町に「花の御所」(別名:室町殿)を造営したところから、室町幕府と呼ぶ

l  南北朝時代

後醍醐天皇は京都に幽閉されたが、秘かに脱出して吉野に籠り、正統性を主張――南朝の誕生により、全国の諸将が入り乱れて内乱を繰り返す

南北朝正閏(せいじゅん)論――室町時代は南朝が正統と見做されたが、その後は北朝が正統とされ、さらに明治以降は南朝。何れも万世一系であることには変わりない

l  観応の擾乱(じょうらん)

尊氏・直義兄弟間の権力争いにくわえ、それぞれが北朝南朝を後ろ盾にして騒乱が続く

九州では、「筑後川の戦い」(日本3大合戦の1)で地元菊池勢が足利勢を駆逐して九州一円を南朝下に置く

l  南北朝の統一

1392年、3代義満(尊氏の孫)の仲介で、勢力の衰えた南朝が両統迭立(てつりつ)を条件に和議を受け入れ、第99(南朝4)後亀山天皇が退位、後小松天皇(北朝6)が第100代として即位。九州も菊池一族との和解が成立、足利氏の支配下に入り、漸く室町幕府による全国統一が成る――北朝5代はカウントされず、南朝は4代で終了、現在は北朝

l  足利義満の野望と死

義満の横暴は凄まじく、次男の元服を宮中で立太子式で行い、後小松天皇の後釜を狙ったようにも見えるが、式直後に原因不明で急逝

l  倭寇と勘合貿易

義満は日明貿易で巨万の富を蓄積――倭寇と呼ばれた海賊との混同回避を目的に、船の公私の別を明示するために勘合(合い札)を使ったところから勘合貿易という

l  毀誉褒貶の激しい足利義教

4代義持が長男に将軍職を譲ったが、長男が夭折し、他に男子がいないため跡を決められないまま死去したため、群臣が義持の弟を還俗させ、義教として6代目とする

財政再建や権力強化に努めたが、激しい気性がたたって守護大名に殺害される(1442)

l  守護大名の台頭から応仁の乱へ

息子の義勝が7代将軍となるが、翌年死去。弟の義政が7歳で将軍に

守護大名の台頭に社会不安が重なり義政は政治を疎んで将軍職を弟に譲るが、文化面での功績は大――庭師の善阿弥、絵師の狩野正信など「わび・さび」の東山文化を築く

l  室町の文化

「わび(詫び)」とは、「心細く思う」「落ちぶれた生活を送る」「困って嘆願する」を意味する「わぶ」の名詞形。元は否定的意味を持ったが、そこに心の安らぎを見出そうとした

「さび(寂び/然び)」は、「さびれる」を意味する動詞「さぶ」の名詞形。本来「時間の経過とともにものが劣化する」の意だったが、「閑寂さの中に、奥深いものや豊かなものがおのずと感じられる美しさ」という意味を持つようになる

「わび・さび」が室町文化の基軸――侘茶や立花を「道」として確立、枯山水、能・狂言、水墨画など

l  応仁の乱

管領の家柄だった北畠氏の後継者争いが発端

義政が将軍職を弟の義視(よしみ)に譲った後、男児(後の義尚(よしひさ))が誕生、母親の日野富子が義尚を将軍にしようと守護大名の山名宗全を頼り、義視は管領の細川勝元を頼る。その後頭が入れ替わり、日野・義尚・細川対義視・山名となり、山名vs細川の覇権争いが続く

1467年、京都を舞台に開戦。1473年には山名・細川共に死去、将軍職も義尚に譲るが、全国の紛争は継続。目的も意味も不可解な無意味な戦争だった

l  応仁の乱の影響

身分制度の崩壊――武力最優先で、下克上思想が蔓延し、伝統的な社会制度や通念が崩壊

地方領主の台頭により、公家の収入が激減、朝廷の勢力が弱体化

1429年、琉球国誕生――九州以北の本土住民に近く、古語や方言も7世紀以前の日本語の面影が残り、中国や台湾とはかなりかけ離れている

 

第5章        戦国時代

古い価値観や身分制度が崩壊するとともに、初めて西洋文化に接する

l  戦国時代前半

14931549年、細川政権――武士に加えて寺院が力を持つ

戦国大名の先駆けは、関東を支配した北条早雲――幕府政所から身を興した下剋上の典型

戦国大名の大半は、守護大名ではなく、守護代や国人などの新興勢力で、彼等の支配地は「分国」と呼ばれ、幕府の支配力は及ばない

l  戦国時代後半

天下統一を目指す大名はおらず、自らの領国の安定を第一に考えた

最初に武力で京都を支配したのは、1549年の三好長慶(ながよし)、次いで松永久秀

l  室町幕府の滅亡

1565年、第13代将軍義輝が三好3人衆に暗殺――永禄の変。義輝の従弟を傀儡とする

1568年、義昭の檄に応じた信長が上洛し、15代将軍に擁立するが、1573年放逐して室町幕府終焉

l  乱世の怪物、織田信長

信長は、楽市楽座を設置し、経済振興を優先、貨幣改革を断行、直轄地を拡大

財力によって傭兵を多く抱え、対抗する勢力を撃破していく

l  羽柴秀吉による天下統一

5摂家の近衛家の猶子(形式的な養子)となり公家となって藤原氏を名乗っているが、1586年には正親町(おおぎまち)天皇から豊臣姓を賜り、公家最高職の太政大臣に就任

1587年全国平定するが、中央集権的な政治機構はまだない

l  鉄砲伝来

1543年、種子島に中国船漂着――3人のポルトガル人がいて、最初の西欧人との邂逅

この時鉄砲が伝わり、国産化が進む

1549年、キリスト教伝来――信長の庇護を受け布教が進む

l  キリスト教の伝来

モンゴル帝国の出現、『東方見聞録』などにより、ヨーロッパ人のアジアに対する興味が高まる

l  検地と刀狩り

田畑の面積と石高を調査。課税対象者を土地の所有者ではなく、耕作者にしたのが出色で、荘園制度が消滅し、近代的土地制度が始まる

刀狩り――農民の武器を取り上げ、武士と農民の区別を明確にし、身分の固定化が進む

l  キリスト教宣教師の追放

勢力を拡大したキリスト教徒が神社仏閣を破壊する事件が相次いだのを見て、1587年バテレン追放令発布。布教活動は急速に萎む

l  朝鮮出兵

1592年、明征伐の途上、李氏朝鮮に服属を強要、拒否されたため出兵――文禄の役

朝鮮半島のほぼ全土を制圧するが、明の参戦で戦線は膠着状態となり、4年後に講和条約

1597年、再度出兵――慶長の役。翌年の秀吉死去により撤兵。韓国では、この時李舜臣が日本水軍を全滅させたとして歴史的英雄とされているが、史実ではない

l  関ヶ原の戦い

1600年、家康と三成が東西に分かれて決戦

 

第6章        江戸時代

社会制度が急速に整い、国家秩序が安定した時代。貨幣経済が発達し、豊かになった庶民による文化が開花

l  江戸幕府

1615年、「武家諸法度」を制定、全国約200の大名を統率する一方、「禁中並公家諸法度」を定めて朝廷を管理。寺院、神社も同様に管理

l  3代将軍家光

1623年将軍となった家光はさらに統治を進め、参勤交代で大名の財力を削いだが、経済効果は抜群、さらに文化交流も盛んになる

l  江戸幕府の政治体制

親藩や譜代から選ばれた老中によって政治執行

本家の血筋維持のために御三家や、家康の血を引く子供の受け皿(養子)にする大名を置く

l  鎖国

秀忠がキリスト教を禁じ、海外貿易を制限

家光が島原の乱(1637)を機に鎖国(1639)――中国・オランダ以外の外国船の入港禁止、開港は長崎・対馬・薩摩・松前に限定。島国だった以上に、強力な武力が外国船を放逐

l  江戸時代の身分制度

武士を頂点とする身分制度を制定――武士は人口の7%、農民は7583%、町人が1017%、賎民が2%。身分・職業を世襲としたが有名無実化

l  武断政治から文治政治へ

1651年、家綱(10)4代将軍になるが病弱、死後は弟の館林藩主綱吉が5代を継ぐ

「生類憐みの令」だけでなく、天変地異の多発が評判を落とす――奥州飢饉(1695)、元禄大地震(1703)、浅間山噴火(1704)、富士山噴火(1707)、宝永の大火(1708)など

l  花開く元禄文化

戦国から江戸にかけて、日本は有数の金銀産出国であり、その豊かな財力で全国の主要街道と河川を整備するが、産出量の減少と自然災害からの復興に巨額の資金が流出、1695年には貨幣の改鋳を断行。一種のインフレ効果から貨幣経済が進展、経済成長により、好景気を背景にした元禄文化が開花――小説(『浮世草子』『日本永代蔵』)、人形浄瑠璃(『心中天の網島』)、木版印刷の普及、俳句(松尾芭蕉)、浮世絵、儒学・朱子学、囲碁、自然科学(『農業全書』の宮崎安貞、貞享暦の渋川春海、関孝和、算額の奉納)

l  ケインズを200年以上も先取りした荻原重秀

貨幣改鋳による金融緩和政策で元禄期に好景気をもたらしたのは勘定奉行の荻原重秀

国定信用貨幣論――政府に信用があれば、発行通貨に裏付けは不要

6代将軍家宣のブレーンとなった新井白石が荻原の改革を全否定して緊縮財政を強いたため、荻原は忘れ去られた

l  世界最高の教育水準

庶民の教育施設として広がったのが寺子屋/筆学所――幕末には全国で15千を超え、明治の義務教育ではそのまま校舎に使われた

武士の子弟は藩校で学び、多くの俊英を輩出

l  赤穂事件

1701年の播磨赤穂藩主・浅野長矩による江戸城内刃傷事件に伴う仇討

l  豪商の出現

元禄の頃から、干拓などの事業によって農地が拡大、農機具の発達により農作物の収穫量が飛躍的に向上。漁業や林業、鉱業なども発展、流通を担った商人の力が増す

l  街道の整備

東海道、中山道、日光道中、奥州道中、甲州道中の5街道を幕府直轄とし、宿駅を設ける

飛脚制度確立

治安の良さには驚く――歩けない飼い主に代わって「犬のお伊勢参り」まで登場

海上輸送も、太平洋、日本海、瀬戸内海で全国を繋ぐ航路とした

l  都市の発展

城下町の発達、江戸湾の治水の為に利根川東遷工事敢行、多摩川と井之頭池を利用して上水道を整備、優れた測量技術が前提

天下の3上水――江戸、赤穂、福山

l  江戸の食文化

江戸文化で特筆すべきは外食産業の繁栄――明暦の大火(1657)以後で、復興のための職人が大量に集められたのが背景

江戸の4大名物料理――蕎麦、鰻の蒲焼、天婦羅、握り寿司

江戸の料理屋は7000軒を超え、料理店のガイドブックや、レシピ本も出版

l  「五公五民」の嘘と「百姓一揆」の真実

人口の80%を占める農民の生活はそれほど悲惨ではなかった

年貢は村に対して賦課され(村高:むらだか)、享保の改革の頃は年貢米が3040%に引き下げられ、元禄以降の品種や農法の改良、生産性向上などによって実質負担はさらに下がり、富の増大は村に滞留

農村では自治が行われ、移動の自由があった

飢饉が頻発したところから、食糧事情が逼迫した状況下では騒乱事件も多発

l  閑院宮家創設

1709年綱吉死去――嫡男がいなかったため養子の家宣(家光の孫)が将軍となるが、元々は甲府藩主徳川綱豊。新井白石を登用。家宣は3年で死去して息子の家継(3)の代となるが、白石の金本位制復帰によるデフレ政策で不景気に

皇統廃絶を危惧した東山天皇の意向もあって、白石は新宮家の創設を建言。当時宮家は3(伏見宮、桂宮、有栖川宮)のみで、何れも遠い血筋になっていて、皇族男子の多くは出家しており、直仁親王(東山天皇の第6皇子)を閑院宮として4世襲天皇家を新設――70年後、後桃園天皇崩御の際は後継がなく、閑院宮家の祐宮(さちのみや、東山天皇の曽孫)が皇室に入り、光格天皇となる。幕府が皇室の万世一系を尊重していた証

l  吉宗の時代

1716年、家継が6歳で死去すると、秀忠の血を引く徳川宗家は断絶。御三家の紀州から吉宗(家康の曽孫)8代将軍となる

白石を解任し、自ら改革に乗り出す――定免(じょうめん)法により豊凶に関わらず年貢を一定量に決める一方、サツマイモの栽培研究で飢饉対策とする

足高(たしたか)の制により、能力ある者を取り立て

目安箱の設置――庶民の意見を訊き、要望を実現させる。小石川養生所もその1

享保の20年間の改革は、贅沢を禁じたこともあって経済的には成功とは言い難いが、最後に貨幣の改鋳(金の含有量を減らす)による金融緩和策によりようやく景気が回復

次男、4男のための分家を興す――田安徳川と一橋徳川、後に清水徳川と併せ「御三卿」

l  傑物、田沼意次

9代将軍家重(吉宗長男)は、障碍のため言語不明瞭。その後が家治(家重長男、在位176086)で将棋に没頭、実際の政治を行ったのが吉宗によって側用人に取り立てられた田沼

商鉱業の振興、貿易拡大に注力、商業活動に冥加金等賦課

米中心の経済から、金銭中心へと変遷、近代的な経済社会へと移行していく

l  寛政(17871801)の改革

11代将軍家斉は元一橋徳川家、家治の息子の急死によりその養子となり、14歳で将軍になり、在位50年と歴代最長だが、大奥に入り浸り

政務をとったのは老中の陸奥白河藩主・松平定信(田安徳川家、吉宗の孫)。田沼の改革を覆し、吉宗を見習って米と農業を基本とした倹約の政治を目指す

l  見せかけの天下太平

家斉との対立から定信が失脚(1793)した後、社会が活性化し、文化・文政(180430)年間に「化政文化」と呼ばれる町人文化が開花――浮世絵、出版文化全盛、歌舞伎の興隆など、上方中心の元禄文化に対し、江戸に中心が移るが、世界の潮流からは取り残される

l  次々に押し寄せる異国船

田沼時代からロシア船が出没、最初に通商を求めたのも厚岸に来たロシア船(1778)で、1792年には長崎への入港を許可。寛政末期になると英米も来航して通商を迫る

l  フェートン号事件

1808年、フランス支配下となったオランダの船を拿捕するため長崎に来たイギリス軍艦フェートン号がオランダ商館員を拉致して幕府に補給を要求。恫喝に屈した長崎奉行は切腹。幕府は露英を危険国と認識し、対応を検討し始める

1811年、ゴローニン事件――松前藩が国後島でロシ軍艦の乗組員を拘束、北方領土でのロシアの略奪行為への報復だったが、ロシア側の謝罪で収まる

l  右往左往する幕府

1824年、大津浜事件――英捕鯨船乗組員が水戸藩領に上陸したのに対し、薪・水を与えて追い払う。薩摩沖でも同様の事件が発生、幕府は「外国船打払い令」を発出(1825)するが、アヘン戦争でイギリスの勝利を知ると撤回、遭難した船に限って補給を認める

l  シーボルト事件と蛮社の獄

1828年、オランダ商館付きの医師シーボルトが日本地図を持ち出そうとした事件で、シーボルトは追放され大量の処分者を出す――幕府も蘭学受容を決めるが、37年の「モリソン号事件」で、漂流した日本漁民を救助して届けに来たアメリカ商船を追い払った幕府の対応を蘭学者が非難したため、「蛮社の獄」で高野長英・渡辺崋山らを捕え言論弾圧

l  内憂外患、揺れる日本

1837年、家慶(家斉の子)が第12代将軍となるが、天保の続く飢饉に、民衆が蜂起――大塩平八郎の乱(1837)など

l  黒船前夜

1843年イギリス船が八重山諸島を測量したのを皮切りに、毎年外国船が補給や布教の要求を掲げて来航。49年にはアメリカが拿捕されていたアメリカ船員の引き渡しを要求した来航、幕府も脅しに屈して釈放、帰国後米政府に武力による開放を建議

l  黒船来航

1853年、米艦船が浦賀来航

アメリカの目的は捕鯨船の寄港地の確保

幕府は、全く対応できないままに追い詰められる

「起こってほしくないこと」は「起こらない」と考えようとする「言霊(ことだま)主義」は当時から、現在に至るまで続く

 

第7章        幕末

特筆すべきは天皇の存在――維新の動乱は天皇を巡って大きく動く

l  幕府狼狽

ペリー退去直後に家慶死去、息子の家定が第13代将軍となるが、心身ともに脆弱

家慶は死去直前、「今後の政治は徳川斉昭(海防参与)と阿部正弘(老中)に任せる」と言い残し、阿部は全国の諸大名に善後策の建議を求める――勝義邦の海軍創設の契機

l  開国

1854年、ペリー再来により、「日米和親条約」締結

1855年、安政大地震が前後3年頻発し追い打ち

1858年、日米修好通商条約締結――国家主権も関税の重要性も認識しない不平等条約

日露和親条約(1855)では、北方4島が日本の領土であることを確認、択捉島とウルップ島の間に国境線を引き、樺太は両国民混住とされた

l  桜田門外の変

1858年、条約締結直後に家定死去。養子の家茂(12)が第14代将軍となる

直弼の独断専行に対し、水戸や尾張藩主らが反発、孝明天皇の密勅もからんで安政の大獄に発展、桜田門外の変(1860)で決着

l  和宮降嫁

幕府の威信回復と反幕対策として企図されたのが公武合体。有栖川宮との婚約が決まっていた孝明天皇の妹を家茂に輿入れさせる(1862)――坂下門外の変を惹起、幕府の威信はさらに低下

l  吹き荒れるテロの嵐

1862年、京都守護職設置、会津藩主・松平容保が就き、京都見廻組や新撰組を組織して取り締まりに当たるが、逆に長州藩の恨みを買い、会津の悲劇へとつながる

l  荒れる京の町

1863年、京都で「818日の政変」と呼ばれるクーデター勃発――攘夷親征を主張する過激派公家と彼らを支援する長州藩が京都から追放される(七卿落ち)

1864年、池田屋事件――新撰組が多くの志士を殺害

同年、禁門の変――失地回復と京都守護職排除の為に長州藩が御所を襲撃、長州征伐へ

l  遣米使節団

1860年、日米修好通商条約批准のため、日本の遣米使節団が初めて公式に訪米――正使は新見(しんみ)正興

アメリカは、日本人の立ち居振る舞いや知識レベルの高さに驚く

 

第8章        明治維新

未曾有の国難に、平和ボケしていた日本人がようやく目覚めたのが維新

l  欧米列強との初めての戦闘

1863年、幕府は、和宮降嫁と引き換えに約束した攘夷を朝廷側から迫られて実行を確約

同年生麦事件の報復による薩英戦争、翌年馬関戦争と相次ぐ

l  鍋島直正と島津斉彬

近代化に向け、藩内改革に邁進したのが佐賀の鍋島――反射炉を設置し、アームストロング法を独自の技術で作り出す

薩摩の島津も反射炉を建設、日本初の蒸気船を建造するなど先進性を発揮

l  小栗忠順

幕府の近代化に取り組んだのが小栗。遣米使節団から帰国後、勘定奉行として幕府財政の再建に着手、フランスの助力を得て製鉄所・造船所を建設、フランスから軍事顧問団招聘

l  水野忠徳

旗本、長崎奉行時代に幕府海軍創設に奔走

無人のまま放置されていた小笠原諸島に捕鯨船の乗組員など英米人が住み着いた後、1876年水野が乗り込んで測量、島民保護を約して日本の領土であることを認めさせる

l  薩長連合

修好通商条約の勅許を取り付けた幕府に、薩摩と朝敵だった長州が、坂本龍馬の仲介で同盟を結び、後の討幕の原動力となる

l  2次長州征伐

薩摩に接近したイギリスに対し、フランスが困窮する幕府に援助を申し出

1866年、再度長州を討つべく諸藩に下命したが、最中に家茂死去、跡を継いだ慶喜は撤兵。幕府の権威は完全に失墜

l  倒幕の密勅

1867年、慶喜が15代将軍に就いた直後に孝明天皇崩御、幕府は後ろ盾を失い、朝廷内には討幕派が台頭

薩摩は強硬に武力討幕を主張、岩倉具視と組んで討幕の密勅を発出させようとするが、慶喜が先手を打って大政奉還を上表(天皇に書を奉る)265年の江戸幕府体制が終焉

民衆の動きも活発で、1866年には各地で不当な支配や収奪を行う地主や豪商に対する打ちこわしが頻出、翌年の豊作で世直し一揆が鎮まると、「ええじゃないか」が大流行。三河に始まって全国に拡散。動乱の世にあって鬱積した民衆の不満が爆発

l  王政復古の大号令

1868年、新政権での実質的支配を狙った慶喜に対し、討幕派の公家や薩摩藩は慶喜派の公家たちを閉め出して(宮中クーデター)、王政復古の大号令を発出――幕府を廃絶し、摂政と関白も廃止、新政府機構として三職(総裁、議定、参与)を設置

初の三職会議に有栖川熾仁親王、中山忠能(ただやす)、岩倉具視、大久保利通、松平慶永(越前藩主)、山内豊信(土佐藩主)、後藤象二郎、徳川慶勝(よしかつ、尾張藩主)が参加、一旦は慶喜の「(内大臣)辞官、納地(領地返還)」を決定するが、慶喜擁護派の策動で慶喜は議定に内定し、「辞官、納地」はうやむやに

西郷は、慶喜排除を主張、慶喜擁護派を挑発して薩摩に戦いを挑ませる

l  鳥羽・伏見の戦い

慶喜派の討薩軍の上洛を受けて薩摩は朝議を開き、慶喜の上洛を止める決定を取り付ける

これが錦の御旗となって、後に大きな武器となる

慶喜は恭順の意を表して江戸に撤退、新政府軍の圧勝に終わる

明治の建元は1023(新暦)だが、11日に遡って明治とすることが定められた

l  江戸無血開城

新政府は攻撃目標を江戸として東征軍を組織

慶喜派は、抗戦・非戦に分かれたが、慶喜は恭順を勧める勝の非戦論をとり、勝の懸命の説得を西郷が受け入れたことにより江戸城の無血開城が実現(46)

l  徳川慶喜という男

当初将軍職を固辞、大政奉還を受け入れたかと思えば、討薩の表を出したり、鳥羽・伏見では部下には戦えと言いながら自らは逃げ出し、江戸城開城では徹底抗戦を主張する多くの幕臣の意見を退けて恭順の意を表すなど、一貫性に欠け、恐懼に判断の揺れが目立つ

実父の斉昭の強い尊王思想の影響で、朝敵となることを恐れたとされるが、大政奉還と江戸城無血開城は、歴史の必然といえる

l  小栗忠順の死

東征軍に対し徹底抗戦を主張し蟄居していたが新政府軍に捕縛され死罪、享年41

大隈重信や東郷平八郎は、小栗のお陰で今日があると称賛したが、戦前は逆賊扱い

 

第9章        明治の夜明け

「明治維新」とは、大政奉還(1867)から西南戦争(1877)までの10年間

l  戊辰戦争

5月には奥羽列藩同盟と新政府軍の戦いが始まり、次いで幕府海軍部隊との間で箱館戦争が行われ、一連の戊辰戦争が決着をみたのは695

戊辰戦争の戦死者の慰霊施設として東京招魂社創建。1879年靖国神社と改称。戦死者の慰霊が目的だが、後に吉田松陰や高杉晋作、坂本龍馬も祀られる一方、伊藤博文や大久保利通は除外。禁門の変で亡くなった会津藩士は祀られるが、戊辰戦争の賊軍は対象外

l  五箇条の御誓文

‘683月発布。明治天皇が天地神明に誓約する形をとった、基本方針

近代民主主義の精神に充ち溢れるとともに、聖徳太子の17条の憲法との類似性に驚く

l  日本大改造

明治政府による大改革

版籍奉還(1869)――全ての藩は領地と領民を朝廷に返上し、「知藩事」となって、従来の石高の1割を家禄として与えられ、華族となる

廃藩置県(1871)――知藩事を排し、中央政府から府知事や県令を派遣して中央集権体制を確立。3302県に整理。藩の大半は返済不能な借金を抱えており、それが棒引きになることで反発はほとんどなかった。現在の形になったのは1888

廃城令(1873)により、城は陸軍省の管轄となり、大半が取り壊し

1871年、岩倉使節団を欧米に派遣――2年かけて視察

l  驚異の近代化

1872年、新橋・横浜間の鉄道敷設――兵部省が高輪の土地の利用を拒否したため、築堤を造成して海上を走らせた

同年、国立銀行条例――'79年までに153の民間銀行網成立

同年、冨岡製糸場操業開始――初の官営模範器械製糸場。翌年のウィーン万博に出品

各地の鉱山を開発

1877年、東京大学設立。学制改革

1872年、壬申戸籍作成。移住や職業選択の自由が認められる

1872年、陸軍省・海軍省創設。翌年徴兵制

1871年、散髪脱刀令

1873年、太陽暦採用

1868年、神仏分離令により神道の国教化を企図――廃仏毀釈という大衆運動を惹起

l  明治6年の政変

1872年、李氏朝鮮に国交締結を持ち掛けるが、排日気運の高まりもあって拒絶されると、征韓論が沸騰。翌年、西郷が直接韓国に行こうというのが反対されると、西郷・江藤らは政府から去る(明治6年の政変)――背景には薩長間や薩摩や肥前内部の勢力争いも絡んで複雑化

1874年、板垣は後藤象二郎や江藤らと愛国公党を結成、国会開設を要求するなど、後の自由民権運動へと発展

徴兵令に加え、秩禄奉還法(1873)などの改変に士族の不満が高まり、江藤の佐賀の乱を端緒に各地で不平士族の大掛かりな反乱が勃発

l  台湾出兵

1874年、台湾に漂着した宮古島島民が虐殺された報復として出兵。清国に善処を求めたが、統治外の国なので責任はないとの回答に、士族の不満のはけ口の狙いもあって決断

台湾を制圧したあと清と交渉し、琉球を支配下とし、台湾を清の領土と認める

1875年、ロシアとの間に樺太・千島交換条約締結――樺太を放棄、千島列島を支配下に

l  朝鮮に開国させる

1875年、江華島事件――朝鮮の開国を要求して軍艦を派遣するが砲撃されたため反撃して江華島を占拠。賠償の代わりに開国を要求、日韓修好条規を締結。不平等条約を強要

l  西南戦争

1876年の廃刀令と秩禄処分に士族の不満が爆発――神風連の乱、秋月の乱、萩の乱など

反乱の最大のものが西南戦争(1877)――鎮圧により、士族の反乱は途絶え、以後近代国家建設が進む

 

第10章     世界に打って出る日本

富国強兵を目指し、西洋列強の権益争いから逃れたが、日清戦争勝利による巨額の賠償金獲得が、「戦争が金になる」との誤った認識を植え付け、日本を誤った方向へと進ませる

l  立憲政治へ

1876年、天皇は枢密院議長に憲法起草を命じ、'81年には「'90年の国会開設」を勅諭

l  帝国憲法

1889年、大日本国憲法公布――立憲君主制と議会制民主主義を歌う

「神聖不可侵」とは、国民が天皇の尊厳を傷つけてはならないということ

天皇の統治権は、憲法の条文に従うとされた

1890年、第1回衆議院議員総選挙――有権者は国民の1%に過ぎないが、アジア初の立憲国家が誕生、近代法の整備にも成功し列強に追いつく

l  不平等条約に苦しむ日本

1894年、漸く領事裁判権の撤廃に成功

l  日清戦争

ロシアの南下の防波堤として李氏朝鮮の開国・改革を押し進めたが、朝鮮は排日の声が強く壬午(じんご)軍乱で、日本人軍事顧問らを殺害したため、日本は軍を派遣

清も同時に派兵し、反乱治安圧後は袁世凱を派遣し実効支配したが、清がベトナムの領有をめぐってフランスと争って敗れたすきをついて、朝鮮の改革派が日本の支援を得てクーデターを起こすが清軍に鎮圧。日清は天津条約により朝鮮から撤兵

1894年、東学党の乱を機に両国軍が出兵、乱鎮圧後も居座ったために両軍が衝突(豊島(ほうとう)沖海戦)、遂に宣戦布告となる

日本の圧勝で終戦となるが、日本の主目的は自国の安全保障のための朝鮮の完全な独立にあり(大韓帝国誕生)、賠償金と遼東半島・台湾の割譲は余禄

この時、漢城の迎恩門(宗主国からの死者を迎える門)が取り壊され、清からの独立を記念して独立門が建てられたが、今日では日本からの独立記念の碑と誤解されている

l  三国干渉

1895年、下関条約締結――露仏独が極東の平和安定のため、遼東半島の返還を要求

「臥薪嘗胆」といって国民の怒りを鎮めたが、巨額の賠償金と遼東還付金は日本財政の大きな助けとなり、多くの国民の間に「戦争は金になる」との誤解を生み、危険な方向へと導く

l  蚕食される清帝国

弱体化した清に対し、西欧列強は簒奪を進め、中国を分割していく

l  義和団の乱(北清事変)

1900年、列強を排斥しようとした秘密結社「義和団」が決起――清政府は欧米列強に宣戦布告。日米欧7か国は自国民保護を名目に派兵し、反乱を鎮圧。清は半植民地化される

会津藩士の子・柴五郎(当時北京駐在武官・中佐)は、在北京各国公使館の実質的司令官として籠城を指揮、各国から叙勲されるが、イギリス公使マクドナルドは柴とその配下の日本兵の勇敢さと礼儀正しさに心を動かされ、その後の日英同盟締結の強力な推進者となる

l  火種くすぶる朝鮮半島

日清戦後大韓帝国内部では親日派が力を持つが、三国干渉に屈すると、親ロシア派が有力となり、その代表が閔妃(26代高宗の妻)で、1895年日本公使が主導して閔妃を殺害(乙未(いつみ)事変)。高宗はロシア公使館に匿われて執政、次々とロシアに主要権益を譲渡

遼東半島を租借したロシアは、大韓帝国から軍事顧問を引き上げるが、満洲の事実上の支配は維持。日英同盟締結を知って、露清間に満洲還付条約を結ぶが、さらなる利権譲渡が進む。ロシアの露骨な南下政策のごり押しに1904年日露開戦

l  日露戦争

戦力、財政規模ともに1/10以下

イギリスに引き受けてもらった500万ポンドの国債は、日本の関税収入を担保としており、完済は1986

l  日本海海戦

世界最強のバルチック艦隊をほぼ全滅させて終わるが、完勝した背景には近距離に肉薄して魚雷攻撃で相手を仕留めた高速の駆逐艦や水雷艇の活躍があったからとされ、それらの多くは小栗忠順の横須賀造船所で建造(旗艦などは外国製)

l  ポーツマス条約

日本はルーズヴェルトに仲介を依頼、賠償金なし、南樺太の割譲のみで講和を締結したが、朝鮮半島における優越権や旅順・大連の租借権の譲渡は勝ち取り、極東の支配権を拡大

l  怒り狂う民衆

賠償金をとれない政府に、民衆の怒りが爆発

メディアが戦争を煽り、国民世論を誘導した事件であり、一旦は鎮静化するが、昭和に入って再燃し、大東亜戦争になだれ込む一因となる

l  韓国併合

日本は、列強の了解のもと、大韓帝国を保護領とし、漢城に統監府を置いて統治を始めるが、1909年初代統監の伊藤博文がハルピンで暗殺されると急速に併合論が高まり、大韓帝国内部からも併合の提案がなされ、列強も支持したことから、併合に踏み切る

列強の収奪型の植民地政策と異なり、日本は大韓帝国の近代化のために多額の資金を投入

l  明治を支えた学者たち

古市公威(こうい)は、帝国大学工科大学初代学長、内務省土木局長として全国の河川治水、港湾の修築を行い、近代日本土木行政の骨格を構築。1875年フランス留学。三島由紀夫の本名は、古市に心酔した内務官僚の祖父が因んでつけたもの

北里柴三郎は、1894年香港でペスト菌発見、破傷風の血清療法を共同開発

高峰譲吉は、1900年アドレナリンの結晶抽出に成功

鈴木梅太郎は、1910年ビタミンB1の抽出に成功

文化面で特筆すべきは、大量の和製漢語の創作――社会用語(社会、文化、法律、資本)、科学用語(時間、質量、理論)、哲学用語(主観、意識、理性)、「恋愛」「○○主義」など

中国や韓国にも広められ、日本語熱を高める

l  不平等条約改正の悲願達成

1911年、アメリカを皮切りに、関税自主権を回復

翌年明治天皇崩御――立憲君主国の元首として、枢密院や内閣の会議に臨席しても発言は控え、専横的な言動や振る舞いはなかった。全国巡幸、贅沢や華美を嫌う、和歌を好む

 

第11章     大正から昭和へ

列強と肩を並べるまでになるが、第1次大戦後の世界恐慌では、欧米のブロック経済により一種の経済封鎖を受け、満洲に活路を求めたものの、対中政策の失敗や外交政策の拙さも重なって、世界から孤立していく

l  清帝国の崩壊

1912年、南京に臨時政府「中華民国」誕生、孫文が臨時大統領に就任。清朝の皇帝・宣統帝溥儀は退位させられ清帝国終焉。中華民国は袁世凱が実権を握り大総統に就任

1914年、第1次大戦勃発。日本も日英同盟の関係で参戦

l  戦後の世界

戦時中、日本は戦争特需により空前の好景気を享受したが、総力戦の実相を見ることがなかったため、陸軍の近代化の必要性を学ぶ機会を失い、その後の戦いに禍根を残す

1917年、ロシア革命――2月革命で臨時政府樹立、10月革命でレーニンが軍事クーデターにより独裁体制構築。1922年ソヴィエト社会主義共和国連邦樹立

石油が石炭に代わって重要な戦略物資になる――エネルギー革命

l  国際連盟の誕生

1919年パリ講和会議――ヴェルサイユ条約締結

国際連盟規約に人種差別撤廃を謳うことを主張したが、全会一致が必要との主張に負ける

l  アメリカの対日政策の変化

1920年、国際連盟成立、日本も英仏伊と共に常任理事国に

満洲の利権争いを境に、アメリカは日本に敵意を抱き始める――南満洲鉄道の日米共同経営構想の破綻、満洲の全鉄道の中立化提案の拒否など、事毎に日米が対立

アメリカでは、排日土地法(1913,日系移民の土地購入の阻止)、アジアからの移民受け入れ禁止(1924)により一気に移民排斥が進む

l  「対華21か条要求」に見る日本外交の稚拙さ

1915年、日本政府は袁世凱に対し、山東省のドイツ権益の譲渡などを要求――袁の起草で、彼の要請に従って日本から発出したが、策略に乗せられ、日本の横暴と批判される

l  ワシントン会議

1921年、アメリカが主催した初の国際会議で初の軍縮会議――海軍軍縮と中国の領土保全・門戸開放・機会均を成文化(9か国条約)。アメリカの主張で日英同盟は破棄(1923)

l  大正デモクラシー

民主制が発展、初の政党内閣・平民宰相(賊軍だった南部藩家老の息子)誕生(1918)

工場労働者の激増、労働組合組織化、労働争議の頻発、小作争議、全国水平社(1922)による部落解放運動、婦人運動の活発化、普通選挙制度創始(1925)、治安維持法成立

社会に余裕が生まれ、国民が娯楽や愉しみを享受できるようになる一方、社会格差が拡大

l  関東大震災

1923年、南関東一円を震災が襲う――濃尾地震(1891)、三陸地震(1896)などを凌ぎ、被害総額は国家予算の3

自警団により朝鮮人が虐殺されたというのは虚偽が含まれ、朝鮮人が殺人・暴行を行ったのは事実。虐殺の犠牲者数にしても司法省の記録では233人とあり、約6000人というのは正しくない

l  昭和

1926年、大正天皇崩御。昭和の前半は日本にとって暗く陰鬱な時代

1929年、世界大恐慌――日本経済は対米輸出に大きく依存していたため、多くの企業が倒産、翌年には豊作飢饉、翌々年は冷害による大飢饉で農村が疲弊。列強が極端な保護貿易により国ごとにブロック経済化したため、日本の経済危機が深刻に

l  統帥権干犯問題

1930年、ロンドンの海軍軍縮会議で建艦が制限されたのを機に、犬養らの野党が政府批判のために持ち出した論理が、天皇の編成大権(憲法12)の侵犯で、内閣は輔弼事項だと反論して条約に調印したが、海軍が統帥権干犯と無理やり理屈をこじつけ、民衆もそれに悪乗り。浜口首相が狙撃されるに至って、内閣が軍部に干渉できない空気が醸成される

l  満洲事変

1928年、満洲を実効支配していた張作霖を爆殺――当初は関東軍と良好な関係にあったが、次第に利害が対立。欧米の支援で満鉄に並行した鉄道を敷設したため関係が決裂

天皇が田中義一内閣の対応に不快感を表明、それが原因で内閣総辞職となったため、以降天皇は「親政」を行わないようになる

日露戦後、日本は満洲を大発展させるとともに、清帝国末期の混乱に対し治安維持のため関東軍を配備するが、中国国民党政権と共産党による反日宣伝工作により、排日運動や日本人への脅迫や暴行が多発――代表例が南京事件(1927)

幣原外相の善隣外交路線が中国側からは弱腰ととられ、対日テロがエスカレート

1931年、関東軍は、満洲の治安維持を名目に、柳条湖事件をでっちあげて軍事行動を起こす。政府は不拡大方針をとるが、関東軍は翌年までに満洲のほぼ全域を制圧

l  満洲は中華民国のものか

1932年、関東軍主導により満洲国建国。清朝最後の皇帝・愛新覚羅溥儀が国家元首に

列強は9か国条約違反として抗議するが、条約のChinaに満洲が含まれるかどうかは曖昧――漢民族が満洲を実効支配したことはない。長城の北は蛮族の住む地とされ、騎馬民族が支配。満洲から出た女真族が漢民族の支配地を征服し北京を都としたのが清帝国。孫文は建国に当たり清帝国を引継ぐと一方的に宣言したが、実効支配下に置かれたはずもなく、中華民国の体制は脆弱で、大半の地域では地方軍閥の割拠を許していた

1932年、リットン調査団が派遣され、日本の権益が脅かされていることを認めながらも建国は認めず、非武装地帯として国際連盟による治安維持を提言、連盟は受け入れたが日本は拒否して連盟を脱退(1933)

l  五・一五事件と二・二六事件

昭和恐慌による経済的苦境の中で、ロンドン条約に不満を持つ海軍の急進派青年将校を中心としたテロ事件で、犬養首相らを暗殺――農村の疲弊や政党政治への不満が民衆に充満

政党内閣は8年で終わり、選挙で選ばれたわけではない軍人や官僚が首相に任命され、「憲政の常道」(衆議院第1党の党首が首相となるなどのルール)は有名無実化

国民の間に減刑嘆願の動きが広がり、異常に軽い処分となったことが二・二六に繋がる

1936年、陸軍皇道派による軍事クーデターで天皇親政を目指したが、天皇により一蹴

この事件を契機に、統制派が軍を主導、軍部大臣現役武官制を復活させ、軍が政治を動かす体制を作り上げ、異常事態となる。政治家はテロへの恐怖から軍を批判できず

l  ファシズムの嵐

ヨーロッパでも、ソ連とドイツ・イタリアで個人の自由を否定し、国家全体を最優先した凄まじい粛清が進む――ドイツ・イタリアでは選挙を通じて政権を握っていることに注意

l  ドイツと中華民国の蜜月

ドイツは蒋介石と手を結び、武器と引き換えにタングステンを輸入する一方、1933年には軍事・経済顧問を送り込み、対日戦略もアドバイス

l  暗躍するコミンテルンと中国

中国では国共内戦が続くが、中国共産党を作ったのはソ連コミンテルン(1921)

当初は国民軍と共闘していたが、'31年中華ソヴィエト共和国臨時政府を樹立

蒋介石は共産党からの国共合作の申し出を蹴って、張学良に共産党討伐を命じるが、裏切られて監禁され(西安事件)、第2次国共合作による抗日民族統一戦線結成を約束

l  盧溝橋事件から支那事変

1937年、盧溝橋での日本軍と中華民国軍の小競り合いを機に、日本陸軍は増派を強行

同年、上海租界で日本軍人が殺害されたのを機に第2次上海事変に発展、「暴支膺懲」をスローガンに始まった戦闘が全面戦争に発展――大東亜戦争までの4年間は、宣戦布告のない戦闘状態が続く。12月には首都南京を落とすが、米ソの支援を受けた国民政府は抵抗

南京大虐殺はフィクション――最初に世界に伝えた英紙の豪人記者は国民党宣伝部の雇われ顧問、同様、米紙2社の特派員も南京陥落後に南京を離れていて伝聞に過ぎない。当時南京の人口は20万人で、日本占領後は25万に増加。伝聞以外に物的証拠がない。極東裁判でも処刑されたのは南京司令官の松井大将1人だけ。戦後南京大虐殺が再燃したのは'71年朝日新聞の本多勝一が『中国の旅』の連載で言及したのがきっかけで、メディアが糾弾を始め、中国政府が悪乗りして外交カードに使い、以降執拗に日本政府を非難

 

第12章     大東亜戦争

戦争以外に道はなかったのか。歴史を学ぶ理由はここにある

ビスマルク曰く、「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」

l  全面戦争へ

支那事変は確たる目的のない戦争、しかも現地の軍主導で、政府は止めることができない

1938年、国家総動員法成立。2年後のオリンピックと万博開催を返上

l  暴れるドイツ

1938年、ドイツがオーストリア併合。チェコのズデーテン地方割譲を要求、英仏はミュンヘン会談で戦争回避のためにドイツの要求を呑む

1939年、チェコを軍事占領、独ソ不可侵条約締結後ポーランドに侵攻、英仏が宣戦布告

ドイツのユダヤ人迫害により、シベリア鉄道経由で多くのユダヤ人が上海亡命を目指すが、満洲国が旅券を出さず足止め。それを知った関東軍の樋口少将が便宜を図る。ドイツの抗議に対し関東軍参謀長の東條は「人道上当然」として不問。樋口は終戦時北方軍司令官として占守島の戦いでソ連軍に痛撃を与え、戦後ソ連から戦犯として追及されるが、ユダヤ人会議などの働きかけで戦犯リストから除外。イスラエルでは建国の功労者の名を刻む「ゴールデンブック」にリストされている

杉原千畝や、安江仙弘陸軍大佐もユダヤ人救出には尽力しているが、それを可能にしたのは、時の日本政府が亡命支援を黙認していたからで、当時の日本政府や陸軍には民族差別の意識がなかったこと、人道主義の立場をとっていたことが窺える

l  2次世界大戦

英仏は宣戦布告したが動かず、「奇妙な戦争」と呼ばれる

ドイツも東部戦線に主力を置いてポーランドを制圧したあと、一気にフランスへ攻め込む

陸軍のドイツ傾倒を憂慮した天皇は、親英米派の米内光政を首相に推挙。異例ともいえる天皇の行動で、三国同盟に反対していたことの証左だったが、フランスの降伏で陸軍が米内を倒閣、近衛内閣に代わったところで三国同盟を締結、アメリカと決裂

米英による援蒋ルート遮断のため北部仏印に侵攻するが、アメリカは経済制裁で対抗、インドネシアの石油のオランダの権益奪取を目論んでさらにエスカレート

石油消費の80%を対米依存していた日本は、全面禁輸を通告されて万事休す

l  開戦前夜

満州事変依頼、新聞各紙は戦争を煽るばかり

「ハル・ノート」で仏印・中国からの全面撤退を突き付けられ、日米開戦は不可避に

外国との戦争はしないと言って3選されたルーズヴェルトにとっても、日本の開戦派にとっても好都合だったという話もある

l  真珠湾攻撃

真珠湾とフィリピンの米クラーク基地、マレー半島上陸を同時進行――マレー半島はインドネシアの石油確保であり、クラーク基地は確保した石油を日本に運ぶ通過ルートの安全確保が目的

勝ち目のない戦に突っ込んだのは、欧米の植民地化される恐怖からで、自衛の戦争だったことは、マッカーサーも後年認めている

宣戦布告が遅れたことに関しては、有史以来宣戦布告して開戦する方が稀

l  戦争目的を失った日本

日本はこの戦争を「大東亜戦争」と閣議決定した

緒戦の勝利によりインドネシアの油田を確保したが、輸送の重要性を考慮に入れなかったため、輸送船がアメリカの潜水艦によって次々に沈められた

民間の徴用船の損耗率は43%に上り、陸軍兵士20%、海軍兵士16%を遥かに上回る

東南アジア諸国への侵略戦争という見方は間違い――中国以外のアジア諸国とは戦争をせず。植民地の宗主国と戦って駆逐したお陰で、戦後多くのアジア諸国は独立を果たす

l  ミッドウェー海戦と言霊主義

19426月、ミッドウェーで致命的な大敗を喫するが、その背景には日本海軍の奢りと油断、さらには言霊主義の悪しき面が出た――「悪い結果は口にしない、想定もしないで、いいことだけを言う」、情報の軽視も露呈

参謀本部も軍令部も、戦争が国を挙げての総力戦であることを全く理解していなかった

総力戦といいながら、夥しい無駄を放置

海軍と陸軍の対立もひどい――陸軍が外地の石油を確保しながら、海軍に廻さない

軍上層部が失敗の責任を取らないことも問題で、同じ失敗を繰り返す

l  無意味な戦い

1943年時点で、戦争継続の見通しが厳しかったにもかかわらず、アメリカの本格的な反抗がなく、中国では有利に戦いを進めていたところから、講和の画策をした形跡はない

その間、アメリカは新鋭空母の建造により反抗準備を整えていたので、1944年のマリアナ沖海戦では彼我の差が圧倒的。サイパンを奪われ、国務大臣・軍需次官の岸信介は職責完遂不能を理由に講和を進言したため、東條から辞職を迫られるも拒否して閣内不一致により東條内閣は総辞職

l  神風特攻隊

'4410月、初の航空機による自爆攻撃実行最初は輸送ルート確保のためフィリピンでの戦いに限定した作戦だったが、予想外の戦果に、なし崩し的に通常作戦に組み込まれた

'45年からは沖縄戦が始まり特攻機2000機が出撃

l  悪魔の如きアメリカ軍

'453月東京大空襲――民家密集地域に焼夷弾を、2000mの低空から落として大量殺戮を実行したが、あきらかにハーグ陸戦条約違反の戦争犯罪行為

全国の道府県、430の市町村が空襲に遭う

原子爆弾も明白な戦争犯罪。それ以上に有色人種に対する人種差別が根底に見える

古都の文化財を守るために空爆しなかったというのは誤り

9日の御前会議で最後に裁可を求められた天皇がポツダム宣言受諾を決断し敗戦が決まる

 

第13章     敗戦と占領

敗戦により明治維新以降築き上げてきたものの大半を失ったが、占領軍の政策は苛烈そのもので日本人を打ちのめす。伝統と国柄は辛うじて守られたが、日本人の精神は粉砕

l  連合国軍による統治

ポツダム宣言は日本「軍」の即時無条件降伏を要求したもの

310万の人命と、南樺太・台湾・朝鮮半島の領土喪失、200以上の都市が空襲で被災

l  日本国憲法

占領政策は、表向きGHQの指令・勧告によって日本政府が政治を行う間接統治の形をとったが、実権は全て占領軍が掌握

最初が憲法改正――戦争放棄を盛り込んだ草案に、自衛権を加える修正(芦田修正)がなされて成立したが、戦争放棄はアメリカの既定路線であり、恫喝によって天皇の地位と引き換えに押しつけられたものだが、押しつけ憲法でないことを偽装する必要があった

ハーグ陸戦条約では、「占領国は占領地の現行法を尊重する」とあり、GHQによる憲法草案作成自体が国際条約違反。西ドイツも押しつけ憲法だが、交戦権放棄は含まれず、有色人種への明確な差別意識が窺える。米国内における日系移民の私有財産没収も同様

憲法は時代に合わせて必要な改変を加えていくべきものだが、日本だけは固守

l  極東国際軍事裁判

占領軍による報復措置の最初が戦犯の処罰――罪刑法定手技に悖る論外なもの

東京裁判の根拠となったのは、極東国際軍事裁判所条例というマッカーサーの出した一般命令第1号という行政命令に過ぎず、事後法以前の問題

l  生き残った靖國神社

靖國も焼却対象だったが、ローマ・カトリック神父の意見も入れて思いとどまる

ローマ教皇庁も、「市民的儀礼の場所であり、宗教的崇拝の場ではない」との公式見解

日本は昔から敵国兵士をも弔っている――死者は全て成仏するという仏教的精神

「君臨すれども親政せず」という存在でありながら、同時に日本の「統治権の総攬者」であった天皇の戦争責任というテーマは、イデオロギーや政治的な立ち位置によって見方が変わり、永久に結論が出ない問題

l  ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラムWGIP

GHQの対日占領政策で問題なのが、日本国民に「戦争責任=罪悪感」を徹底的に伝える宣伝計画――日本人の精神面の破壊に成功

WGIPは、江藤淳が『諸君!』に連載(1983)した『閉された言語空間』で使った言葉で、GHQの意図を暴いたもので、GHQや東京裁判、憲法起草などへの批判を禁じ、言論の自由を認めず、戦前の刊行物の焚書などがあり、日本人の協力者が多数いた

「太平洋戦争」という呼称の使用もGHQの強制であり、検閲はわずか7年間だったが、いまだにその時の恐怖が日本社会に残り、「大東亜戦争」というのを躊躇する空気がある

l  「眞相はかうだ」による洗脳

WGIPは、新聞とラジオによっても行われ、新聞では「太平洋戦争史」としてGHQの宣伝工作記事が連載、ラジオではGHQの台本による「眞相はかうだ」という番組が始まる

いずれも戦争中の政府・軍の腐敗、非道を暴くドキュメンタリーで、国民を洗脳した影響は、贖罪意識として現在にも残る

天皇の巡幸が国民の天皇崇拝を鼓舞した光景はつぶさに伝えられたが、盡く検閲に遭い、GHQは徹底して天皇と国民の分断を図る

l  教職追放

GHQの思想弾圧で最も影響の大きかったのは教職追放――森戸事件、滝川事件などで放逐された学者がGHQの後ろ盾を得て大学に復帰、WGIP推進者となる

帝国大学では、共産主義や社会主義に転向したり変節したりする学者が続出――代表例が宮沢俊義。「8月革命説」を唱え、ポツダム宣言受諾により主権原理が天皇主権から国民主権へと革命的に変動、憲法もGHQの押しつけではなく日本国民が制定したものだとする

横田喜三郎も、天皇を否定し東京裁判を肯定

小中高も含め12万人が教職から去り教育界は社会主義者が支配、左翼系の日教組が誕生

l  公職追放

GHQの気に入らない人物を公職や民間の要職などから、総勢206千人が追放された

鳩山一郎も、原爆批判が睨まれ、首班指名目前に追放。鳩山のインタビュー記事を載せた朝日新聞も2日間発行停止処分を受け、以降同紙はアメリカやGHQ批判を一切掲載せず

言論人、文化人にも追放は及び、多くの大学、新聞社、出版社に「自虐史観」が浸透、占領終結後もそうした思想が一般国民に浸透していく

l  占領軍と朝鮮人の犯罪

アメリカ兵による殺人や強姦は日本の警察権の埒外なので実数は不明だが、夥しい数に上るといわれる。朝鮮人もGHQからの特別扱いをかさに着て同様の蛮行に及んだこともあって、彼らを「第三国人」と呼んで差別、その後も日本社会に深く根差す問題となる

公職・教職追放は、社会主義者や共産主義者の跋扈を招きGHQの誤算となるとともに、日本社会の至る所に深く根を下ろすことになる

l  日本改革

マッカーサーの5大改革――秘密警察の廃止、労組の結成奨励、婦人解放/参政権、教育の自由主義化、経済の民主化

経済民主化の具体策が財閥解体と農地改革――近代的な資本主義への移行と自作農の誕生

農地改革は、住宅ブームになると地価が高騰して深刻な社会問題を招くとともに、神社を支えていた地主の没落により神社の荒廃も招く

l  華族制度の廃止

世襲財産法など特権や優遇措置に恵まれた華族がなくなり、11宮家の皇籍離脱により、男系子孫がいなくなって万世一系の危機に直面

 

第14章     日本の復興

日本の驚異的な復興の背景には、朝鮮半島を巡る国際情勢の急変によるアメリカの対日政策転換もあったが、ひとえに国民の勤勉さがある

逆に日本が取り戻せなかったのは「愛国心」と「誇り」――国家と国旗を否定する文化人が持て囃される国は日本だけ

l  独立するアジア諸国

東南アジアでの日本の戦闘に勇気づけられ、民族主義が開花、次々に独立を勝ち取る

l  再び混乱する世界

1945NATO結成、`55年ワルシャワ条約機構結成、軍事対立激化

中国や朝鮮半島でも対立激化

l  日本独立

1950年、朝鮮動乱勃発。日本国内の治安維持のため警察予備隊(後の保安隊を経て自衛隊へ)創設。朝鮮特需で経済活況化。一気に独立への環境が整い、’56年講和条約締結

ソ連・チェコ・ポーランドだけは講和に反対、日本国内にも公職追放の間隙を縫って大学に入った知識人らが反対、朝日を始めとするメディアも単独講和だと非難。吉田首相は、反対する東大総長・南原繫らを「曲学阿世の徒」と呼び捨てる

1953年、衆議院は全会一致で戦犯の赦免を決議、旧連合国からの反対もなく実施

l  日米安全保障条約

講和条約に、二国間協定による駐留容認の条項があり、同時に日米条約を締結し米軍が駐留することとなったが、韓国は日本に対し対馬と竹島の放棄を迫り、勝手に李承晩ラインを引いて侵犯する日本漁船を拿捕・拘束、竹島の実効支配を続ける

1955年、保守合同により二大政党の時代が始まる――自民党は「自主憲法制定」と「安保条約改定」を党是とし、'60年の安保条約改定でアメリカに対し共同防衛を義務付けたが、左翼はアメリカの戦争に巻き込まれるとして反対、民衆を巻き込んでデモを繰り返す

直後の総選挙では自民党が圧勝、メディアが報道した世論が国民の意識を正しく反映していなかったわけで、その後もマスメディアによる国民意識と乖離した世論捏造が長く続く

占領軍が去った頃(1955)から、新聞は反米路線に舵を切る。北朝鮮を地上の楽園と喧伝し、多くの在日朝鮮人に塗炭の苦しみを味わせたのも、朝鮮戦争が韓国から仕掛けたというのもソ連・中国側の圧力によるもので、日本の報道は事実をもとに為されてきたというには程遠く、いかに特定のイデオロギーで捻じ曲げられてきたものだったかがわかる

l  奇跡の経済復興

1960年、池田内閣の所得倍増計画

ガリオア・エロア資金総額18億ドルによって助けられたのは事実だが、後になって返済を迫られ5億ドルを返済している

また、米軍駐留費用の相当部分を、終戦処理費として毎年支出

l  テレビの登場

1956年、経済白書には「もはや戦後ではない」との記載

1959年頃からテレビが一般家庭に普及し、64年にはカラー化、74年の普及率は85

新聞社が民間テレビ事業に参入――先進国ではクロスオーナーシップとして原則禁止。言論の自由と多様性が制限されるというのがその理由。寡占状態も問題

l  日韓基本条約

1965年、日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約締結により国交正常化

無償3億、有償2億、その他を含め総額11億ドルを「経済協力金」として支払い、韓国は対日請求権を放棄。併合時代に残した53億ドルの資産は、民間資本と併せ全て放棄

韓国からの要請で、個人に対する補償も含めての支払いだったが、韓国は個人への補償を怠ったため、その後の慰安婦や徴用工問題が惹起される

l  ゾンビのように蘇る自虐思想

戦中生まれとその後の団塊の世代は、WGIP洗脳第1世代で自虐思想に冒され、社会進出と共に自虐思想が噴出――戦前の日本を全否定し日本国憲法を賛美、反日思想へと発展し、言論空間が急速に歪み始める

l  朝日新聞が生み出した国際問題

   南京大虐殺の嘘――1971年に朝日が連載をしてから拡散

   朝鮮人従軍慰安婦の嘘――1982年の朝日の記事、後に捏造と発覚。32年後に訂正

   首相の靖国神社参拝への非難――1985年、中曽根首相の参拝を朝日が非難したのが契機

l  戦時徴用工強制労働の嘘

1965年頃から、在日朝鮮人と在日韓国人が騒ぎ始める

1959年当時、日本国内にいた在日朝鮮人・韓国人は約61万人、うち戦時徴用で国内にとどまっていたのは245人だけ。残りの99.96%は「職を求めて」自由意思で日本にやってきた人たちであり、その中の多くは朝鮮戦争のときに密航してきた人たち

在日朝鮮人・韓国人の多くは戦争中に強制連行された人、あるいはその子孫というのは嘘

l  反日テロ活動

1960年代末学生運動が激化したのは、中国の文化大革命での紅衛兵に触発されたもの

極左暴力集団が勃興――連続企業爆破事件、よど号ハイジャック事件、あさま山荘事件

l  沖縄復帰

1968年、小笠原諸島返還。1972年、沖縄返還――密約で非核三原則を回避

l  大国のはざまで揺れる日本

1972年、米中国交回復(正式締結は7年後)。翌年アメリカはベトナムから完全撤退

l  「ベ平連」の欺瞞

ベトナム戦争は米ソの代理戦争だったが、ソ連は表に出ず、アメリカだけが各国のリベラル層から非難され、日本でも「ベ平連」が組織され、平和運動に名を借りて暴れる

後にKGBからの支援があったと判明

l  オイルショック

1973年、OPEC加盟7か国が原油価格を70%引き上げ、翌年はさらに128%引き上げ

4次中東戦争でアラブ諸国がイスラエルに苦戦したため、イスラエル寄りの国々に対して報復に出たもの。日本はアメリカの反発を懸念しつつもすぐにイスラエル軍が占領地から撤退すべきと声明を出し、禁輸リストからの除外を勝ち取る

官民挙げて省エネルギーに取り組んだ結果、エネルギー消費抑制に成功、省エネにつながる技術革新を進ませ、危機を乗り切る

l  教科書検定問題

1982年、教科書検定に際し、文部省が「華北侵略」を「進出」に書き改めさせたことからマスメディアが「歴史教科書改竄」キャンペーンを展開、中国政府も正式に抗議

以後検定基準に「近隣アジア諸国との間の事象の扱いには国際協調の見地から必要な配慮をすること」という項目が加えられ、古代史にまで遡って事実でもない記述がなされるようになった

もとになった書き改め自体、記者クラブ内の記者の勘違いで、書き改めの事実はなかった

l  平和ボケ

戦後の日本人を蝕んだ「自虐思想」に付随して生まれたのが日本独特の「平和主義」で、極端な反戦思想であり、「武」を「穢れ」として忌み嫌う、平安時代の貴族のような思想

憲法9条によって安全保障をアメリカに委ねた日本人は、自らを守るという意識が欠如

象徴的なのが1977年のダッカ日航機ハイジャック事件で、安易に犯人の要求に応じた

2010年の尖閣諸島沖での中国漁船の海保船への体当たり事件で、逮捕した船長を簡単に釈放。何れもその後の推移をみれば、安易な妥協の功罪は明らか

 

第15章     平成から令和へ

日本は神話と共に誕生、天皇の大御心、民衆を大御宝として、万世一系の天皇を仰ぎつつ成長。日本ほど平和を愛した民族はない。アジア諸国が次々と欧米の植民地となる中、欧米の科学技術を吸収して、瞬く間に強国となり、日露戦争の勝利は世界の有色人種に格別の勇気を与えた。第2次大戦で敗れた後、世界中で新しい国が生まれ、日本が世界を覚醒させた。絶対強者だった欧米列強相手に、人種差別撤廃を訴えたのは我々の父祖。今こそかつての先人の偉業を思い出し、世界平和への努力をすべき

l  平成

1989年、天皇崩御

日本の歴史上、平安以降800年にわたり天皇は政治の実権から離れていたにもかかわらず、時の権力者はその地位を奪おうとはしなかった。神聖にして冒すべからざる存在

戦後の天皇の全国巡幸を見ても、国のために祈りを捧げる祭主であり続けた

l  バブル崩壊

1986年、日本経済は空前の好景気となったが、’90年の総量規制によりあっけなく崩壊

l  ソ連崩壊

1981年、米レーガン政権の軍拡競争に対し、ソ連経済が耐え切れなくなったソ連は、ゴルバチョフが市場経済の導入や情報公開に踏み切る

1989年、ハンガリーがオーストリアとの国境を開放したのを機に、東欧諸国に自由化の波が押し寄せ、東ドイツによってベルリンの壁が破壊される

同年末、マルタ島での米ソ首脳会議で冷戦終了を宣言。'90年にはドイツ統一、’91年にはソ連邦崩壊――共産主義に基づく国は全て専制国家となり、粛清による死者は戦死者を超えた。共産主義は壮大な社会実験であり、ことごとく失敗に終わり、「人を幸せにしない思想」との結論が出たにもかかわらず、現代でもその思想は世界に蔓延る

l  膨張する中華人民共和国

唯一残る共産主義大国の中国は、1970年代から牙を剥き始める――米軍撤兵後のベトナムに進出、フィリピン撤退後はミスチーフ環礁を占領して、南シナ海を自国領と宣言

国内でも少数民族を弾圧

中国の軍事的膨張が東アジアの秩序を乱していることは確実だが、それを訴える日本のメディアはほとんどない。クロスオーナーシップの弊害は深刻

l  狂気の北朝鮮

1980年頃からミサイルと核爆弾の開発に注力、西側は経済制裁で対抗。人道的見地から宥和的な政策も取られたが、狂気の独裁者への対応としては愚かでしかない

朝日を始め日本の左翼系マスメディアは危機感を持った報道をしていないのには驚く

2020年になって漸く政府内にも「敵基地攻撃能力」の議論が始まるが、周辺国のミサイル開発のスピードに比してあまりにも遅い

l  内憂外患

日本は平成になって経済の停滞と低迷が続き、企業と経済のグローバル化に反比例して、地方経済の疲弊は深刻化し、雇用環境も悪化

少子化が進み、長寿国化し、保険制度を圧迫、国家予算を危うくしている

社会保障制度も手付かず、外国人労働者受け入れを進めるが、文化的トラブルも多い

l  憲法改正の動き

喫緊の課題は安全保障――国際情勢の急速な悪化に対応しきれていない

北朝鮮による拉致問題、能登半島沖の不審船(北朝鮮?)による領海侵犯などへの対応のまずさの根源は、全て憲法と、自衛権行使の制限にあり、国土も国民も守れないのが現実

憲法9条が日本のアキレス腱

中国や北朝鮮の軍事的恫喝により主権が脅かされ、テロも国際的になっているのに、憲法には緊急事態条項すらない。性善説に則った法律は常に危険を孕む

l  令和へ、そして未来へ

戦争のない世界は理想だが、戦争を起こさせない「力=抑止力」が必要

日本の対極にあるのがスイス。永世中立だが、自衛隊の何倍もの兵力を維持し、常に侵略に備えている。これこそが「国防」

この70年戦争がなかったのは奇跡だが、アメリカの圧倒的な軍事力によって抑止されているだけのこと。いつ巻き込まれないとも限らない

2016年、安部首相が改憲を目指すと公言した途端にマスメディアや左翼知識人からバッシングを受け、スキャンダルが報じられたが、これはメディアによる冤罪

暗い時代だが、天皇の譲位・皇太子の即位や、インターネットの普及によって国民の改憲への意識が出てきたことは喜ばしい

インターネットには功罪あるが、既存メディアとは明白に一線を画す存在となり、多くの国民が既存メディアの欺瞞と偏向に気付き始めたのは朗報。GHQの洗脳から抜け出しつつある若い世代が増え、日本的なものの回復に向けて確実に動き出しているのは頼もしい

「敗戦」と「GHQの政策」「WGIP洗脳者」「戦後利得者」によって「日本人の精神」は70年にわたって踏みつぶされ、歪められ、刈り取られて、絶滅状態になったが、2000年の歴史を誇る日本人のDNAは脈々と生き続け、復活の時を迎えている

 

エピローグ

2020年初、中国からコロナウィルスが侵入した際、正常性バイアスから水際対策を怠って感染拡大を招いたが、「平和ボケ」の一種で、危機意識の欠如は明らか

メディアの対応も、恐怖を煽るだけ。オリンピック開催についても政争の具とされた

幕末の幕府のように右往左往するのではなく、多くの志士たちのように危機的な状況においてこそ目覚めて、国民が1つになって国難に立ち向かってほしい。それが日本の力

 

 

 

幻冬舎 ホームページ

[新版]日本国紀<愛蔵版> 百田尚樹 / 著 

大増量150ページ!!

著者こだわりの超大幅加筆により新しく生まれ変わった

[新版]日本国紀を、箱付きの愛蔵版にて特別販売します!

神話とともに誕生し、万世一系の天皇を中心に独自の発展を遂げてきた、私たちの国・日本。聖徳太子、平清盛、北条時宗、徳川家康、徳川慶喜、高橋是清、昭和天皇らを一本の線でつなぐことで国家の変遷を浮き彫りにすると同時に、大伴部博麻、荻原重秀、小栗忠順、柴五郎など、重要な脇役にも焦点を当てる。教科書が教えない、知られざる史実と感動の歴史秘話が満載。当代一のストーリーテラー、こだわりの加筆により超大幅にボリュームアップした、日本通史の令和完全版。

 

日本の長い歴史を見つめ直す作業は、実にエキサイティングな旅でした。<略>旅を終えた今、私の心の中に、ひとつの「問い」が浮かんで、消えません。それは「もし、地球上に日本列島がなかったならば」というものです。(あとがきにかえて、より)

 

 

2021.10.21 [出版情報]

幻冬舎文庫『[新版]日本国紀』発売のお知らせ

来る20211117日、幻冬舎文庫より『[新版]日本国紀』を発売いたします。
本書は、単行本『日本国紀』(第9刷、2019年1月発行)に、150ページ以上(単行本ページ数換算)の大幅な加筆と、細部にわたる徹底的な修正を加えたものです。

 

なお、20181110日発行の『日本国紀』初版(第1刷)から最終版(第9刷)までの修正は下記の通りです。

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【初版】

P11

誤)私は縄文時代の土器を見ると、

正)私は縄文土器を見ると、(3刷から修正)

誤)その暮らしの中に美しいものを求める気持ちを持っていたのだ。

正)その暮らしの中に美しいものを求める心を持っていたのだ。(3刷から修正)

P19

誤)後に初代天皇となる神武天皇は九州から瀬戸内を通り、

正)天照大神の子孫である神武天皇は九州から瀬戸内を通り、(4刷から修正)

P21

誤)しかし中国地方から出土する銅鐸が丁寧に埋められ、奈良で出土する銅鐸の多くが破壊されているという事実、そして記紀の中の「神武東征」から、そう類推されるのである。

正)だが、日本書紀に銅鐸の記述が一切ないことや、中国地方から出土する銅鐸が丁寧に埋められ、奈良で出土する銅鐸の多くが破壊されていること、さらに記紀の「神武東征」の記述から、そう類推されるのである。(3刷から修正)

P23

誤)兵の食科の問題もある。

正)兵の食料の問題もある。(4刷から修正)

P33

誤)日本には過去八人(十代)の女性の天皇がいたが、全員が男系である。つまり父親が天皇である。

正)日本には過去八人(十代)の女性の天皇がいたが、すべて男系である。つまり父親を辿ると必ず天皇に行き着く。(4刷から修正)

P34

誤)ちなみに他の四人の未婚の女性天皇は生涯独身を貫き

正)他の四人の未婚の女性天皇は生涯独身を貫き(4刷から修正)

P86

誤)その百年後には、

正)その約百年後には、(4刷から修正)

誤)これをよく思わなかった藤原信頼が、

正)信西の出世をよく思わなかった藤原信頼が、(4刷から修正)

P95

誤)完全な鎌倉幕府の時代に入ったと考える。

正)鎌倉幕府の時代に入ったと考える。(3刷から修正)

P100

誤)元軍は帰還中に

正)蒙古軍は帰還中に(4刷から修正)

P157

誤)本国で臣政権を支えていた

正)本国で豊臣政権を支えていた(2刷から修正)

P289

誤)国際間係においては、

正)国際関係においては、(4刷から修正)

P311

誤)万延元年(一八六〇)に会津藩士として生まれた柴は、

正)万延元年(一八六〇)に会津藩士の子として生まれた柴は、(4刷から修正)

P394

誤)それなら九百人ほどで勝てるだろうと一木いちき支隊を送り込んだ。

正)それなら九百人ほどで勝てるだろうと一木いつき支隊を送り込んだ。(4刷から修正)

P399

誤)この時、商工大臣であった岸信介

正)この時、国務大臣でもあった岸信介(4刷から修正)

 

4刷】

P52

誤)特に次に記すエピソードは、当時の天皇が国と民をどう見ていたかを示すものと思う。少し長いが、要約して紹介する。

正)特に次に記すエピソードは、当時の天皇が国と民をどう見ていたかを示すものと思う。真木嘉裕氏の物語風の意訳を参考に要約して紹介しよう。(5刷から修正)

P53

誤)仁徳天皇四年、仁徳天皇が難波の高津宮から遠くを見てこう言った。

正)仁徳天皇四年、仁徳天皇が臣下に高台から遠くを見た時のことを話した。(5刷から修正)

誤)そして「向こう三年、税を免ず」いう詔を発した。それ以降、仁徳天皇は衣を新調せず、宮垣が崩れて、茅葺屋根が破れても修理しなかった。三年が経ち、ある日、天皇は高台に出ると、炊煙が盛んに立つのを見て、かたわらの皇后にこう言った。

正)そして「向こう三年、税を免ず」という詔を発した。その日から、仁徳天皇は衣を新調せず、宮垣が崩れて、茅葺屋根が破れても修理しなかった。三年が経ったある日、天皇は高台に出ると、炊煙が盛んに立つのを見て、皇后にこう言った。(5刷から修正)

誤)すると、皇后は言った。

正)すると、皇后が言った。(5刷から修正)

誤)「宮垣が崩れ、屋根が破れているのに、どうして富んだ、といえるのですか」

正)「宮垣が崩れ、屋根が破れているのに、どうして富んだ、といえるのですか」(5刷から修正)

誤)これに対して天皇はにっこりして、こう答えた。

正)天皇はこう答えた。(5刷から修正)

誤)「よく聞け。政事は民を本としなければならない。その民が富んでいるのだから、朕も富んだことになるのだ」

正)「政事は民を本としなければならない。その民が富んでいるのだから、朕も富んだことになるのだ」(5刷から修正)

誤)その頃、諸国の人々から、

正)その年の秋、諸国の人々から、(5刷から修正)

誤)やっと税を課し、宮殿の修理をした。

正)やっと税を課して宮殿の修理をした。(5刷から修正)

P149

誤)最も有名なのは、前述のルイス・フロイスが書き残したものである。そこにはヨーロッパのインテリ(フロイスは文才豊かで教養もある人物だった)の目を通して見た当時の日本人の姿がある。彼が本国のイエズス会に書き送った中から、日本人に言及したところをいくつか紹介しよう。

「この国の人々は、これまで私たちが発見した国民の中で最高の人々であり、日本人より優れている人々は、異教徒の中では見つけられないでしょう。彼らは親しみやすく、一般に善良で悪意がありません」

「驚くほど名誉心の強い人々で、他の何よりも名誉を重んじます。彼らは恥辱や嘲笑を黙って忍んでいることをしません」

「窃盗はきわめて稀です。彼らは盗みの悪を非常に憎んでいます」

善良で、親しみやすく、名誉を重んじ、盗みを憎む――これが十六世紀の日本人の姿であった。

正)最も有名なのは、前述のフランシスコ・ザビエルが書き残したものである。そこにはヨーロッパのインテリ(ザビエルは文才豊かで教養もある人物だった)の目を通して見た当時の日本人の姿がある。彼が本国のイエズス会に書き送った多くの手紙の中から、日本人に言及したくだりをいくつか紹介しよう。

「私がこれまで会った国民の中で、キリスト教徒にしろ異教徒にしろ、日本人ほど盗みを嫌う者に会った覚えはありません」(ピーター・ミルワード著『ザビエルの見た日本』より、以下同)

「(聖徳に秀でた神父の日本への派遣と関連して)日本の国民がいまこの地域にいるほかのどの国民より明らかに優秀だからです」

「日本人はとても気立てがよくて、驚くほど理性に従います」

優秀で気立てがよく、理性的で、盗みを憎む――これが十六世紀の日本人の姿であった。(5刷から修正)

P158

誤)「豊臣秀吉による朝鮮出兵が開始されて以来七年、明は十万の将兵を喪失し、百万の兵糧を浪費するも、明と朝鮮に勝算はなく、ただ秀吉が死去するに至り乱禍は終息した」と書かれている。

正)「倭乱(関白秀吉による朝鮮出兵)より七年、明は十万の将兵を喪い、百万の兵糧を浪費やするも、中朝(明)と朝鮮に勝算はなく、関白が死去するに至り兵禍は休まり始めた」と書かれている。(5刷から修正)

P259

誤)東郷平八郎は、「日本海海戦に勝利できたのは、製鉄所、造船所を建設した小栗氏のお陰である」と語っている。

正)東郷平八郎は、「日本海海戦に勝利できたのは、製鉄所、造船所を建設した小栗殿のお陰である」と遺族に語ったと伝えられている。(5刷から修正)

P312

誤)「義和団の乱」の後、ロンドン・タイムズ紙は、社説で「籠城中の外国人の中で、日本人ほど男らしく奮闘し、その任務を全うした国民はいない。日本兵の輝かしい武勇と戦術が、北京籠城を持ちこたえさせたのだ」と記したが、その功績は柴によるところが大きい。

柴は、イギリスのビクトリア女王をはじめ各国政府から勲章を授与された。柴五郎は欧米で広く知られた最初の日本人となった。

イギリス公使のクロード・マクドナルドは、柴とその配下の日本兵の勇敢さと礼儀正しさに深く心を動かされ、

正)「義和団の乱」の後、イギリス公使クロード・マクドナルドは「北京籠城の功績の半ばは、とくに勇敢な日本将兵に帰すべきものである」と言い、英紙特派員は柴を「籠城中のどの(国の)士官よりも有能で経験豊かだったばかりか、誰からも好かれ尊敬された」と評した。

柴は、イギリスの武功勲章はじめ各国政府から勲章を授与され、柴五郎は欧米で広く知られた日本人となった。

柴とその配下の日本兵の勇敢さと礼儀正しさに深く心を動かされたマクドナルドは、(5刷から修正)

P378

誤)この「ヒグチルート」と呼ばれるルートを通って命を救われたユダヤ人は二万人といわれている。

正)この「ヒグチルート」と呼ばれるルートを通って命を救われたユダヤ人は五千人以上(一説には二万人)といわれている。(5刷から修正)

誤)戦後、ソ連は樋口をA級戦犯として起訴しようとするが、それを知った世界ユダヤ人会議がアメリカ国防総省に樋口の助命嘆願を行ない、戦犯リストから外させた。

正)戦後、ソ連は樋口を戦犯として起訴しようとするが、それを知った世界ユダヤ人会議をはじめとするユダヤ人たちが、樋口の助命嘆願を行ない、戦犯リストから外させた。(5刷から修正)

P379

誤)エルサレムにあるイスラエル建国の功労者の氏名が刻み込まれた記念碑「ゴールデンブック」には、樋口と安江と杉原の名前が刻まれている。

正)これらのエピソードから、当時の日本政府にも陸軍にも民族差別の意識がなかったこと、そして人道主義の立場を取っていたことがうかがえる。(5刷から修正)

P450

誤)そこでスターリンは日本のコミンテルンに「講和条約を阻止せよ」という指令を下したといわれている。

正)そこでスターリンは日本の旧コミンテルン一派に「講和条約を阻止せよ」という指令を下したといわれている。(5刷から修正)

P486

誤)日本の歴史には、大虐殺もなければ、宗教による悲惨な争いもない。人々は四方を海に囲まれた島国の中で肩を寄せ合い、穏やかに暮らしていた。

正)他の大陸ではよく起きた大規模な虐殺や宗教による悲惨な争いがなく、人々は海に囲まれた島国で肩を寄せ合い、穏やかに暮らしていた。(5刷から修正)

 

5刷】

P182

誤)六代将軍・徳川家宣に直参として仕えた関孝和は、

正)徳川綱豊(後の六代将軍・家宣)に仕えた関孝和は、(6刷から修正)

P361

誤)「憲政の常道」(総選挙によって組閣される)

正)「憲政の常道」(衆議院第一党の党首が内閣総理大臣となるなどのルール)(6刷から修正)

P402

誤)大阪、名古屋、札幌、福岡など、日本の主要都市は軒並み焦土にされ

正)大阪、名古屋、福岡など、日本の主要都市は軒並み焦土にされ(6刷から修正)

P409

誤)全国で二百以上の都市が空襲に遭い、東京、大阪、名古屋、福岡、札幌をはじめとする主要都市は軒並み焼き尽くされ

正)全国で二百以上の都市が空襲に遭い、東京、大阪、名古屋、福岡をはじめとする主要都市は軒並み焼き尽くされ(6刷から修正)

 

6刷】

P266

誤)島津久光(前薩摩藩主)

正)島津久光(薩摩国父)(7刷から修正)

P308

誤)君主はそれまでの「王」から「皇帝」を名乗ったが、これも朝鮮史上初めてのことである。

正)君主はそれまでの「王」から「皇帝」を名乗ったが、これは朝鮮史上初めてのことである。(8刷から修正)

P434

誤)はじめは朝鮮人の行動を黙認していたGHQも事態を重く見て、昭和二〇年(一九四五)九月三十日に、「朝鮮人連盟発行の鉄道旅行乗車券禁止に関する覚書」で、朝鮮人が「治外法権の地位にないこと」を明らかにする発表を行なった。つまり、それまでは「治外法権」を認められていたことになる。

正)はじめは朝鮮人の行動を黙認していたGHQも事態を重く見て、昭和二〇年(一九四五)九月三十日に、「朝鮮人連盟発行の鉄道旅行乗車券禁止に関する覚書」を出し、朝連が勝手に発行した乗車券による朝鮮人の無賃乗車を禁止した。つまり、この時までは事実上、朝鮮人に「治外法権」が認められていたことになる。(8刷から修正)

P496

誤)平成一五年(二〇〇三)四月二十日付けの朝日新聞は

正)平成一四年(二〇〇二)四月二十日付けの朝日新聞は(7刷から修正)

 

8刷】

P82

誤)後白河天皇(崇徳上皇の甥・弟)

正)後白河天皇(崇徳上皇の大甥・弟)(9刷から修正)

P83

誤)百人一首にも入っているこの歌の意味は、二つに分かれた急流が、いつかは一つになって出会うこともあろうかというもので、やがては皇統が一つになってほしいという願いが込められている。

正)百人一首にも入っているこの歌の意味は、二つに分かれた急流が、いつかは一つになって出会うこともあろうかというもので、一般的には恋人との再会を願う歌と解されている。しかし実のところは、やがては皇統が一つになってほしいという願いが込められたものであろう。(9刷から修正)

 

以上

 

 

Wikipedia

『日本国紀』(にほんこくき)は、百田尚樹2018幻冬舎から出した本である[1]

内容[編集]

縄文時代から平成時代までの「日本通史の決定版」[1]、「壮大なる叙事詩」と銘打たれている[11]。また広告等では幻冬舎の創立25周年記念出版と銘打たれている[11]

編集者有本香[2]、また大阪観光大学で歴史学講師を務める戦史研究家の久野潤、評論家の江崎道朗月刊正論編集長を務めた上島嘉郎、フリーライターの谷田川惣の助力を得た[12]。このうち久野は書誌情報上は「監修」と記載されていないが、自分のかかわり方として「監修」であるとし、度々「監修」と称している[13]。また「著者編集者監修者の間でかなりの議論を経て生み出された」「各分野の研究史を踏まえた歴史のプロである監修者の指摘を受け入れず、百田史観を貫いた部分」もあるとしている[13]

また教科書ウィキペディアにあるような通説的記述も多いが、古代史については古田武彦九州王朝説、中世史については井沢元彦の「怨霊史観」説など通説から離れた記述もある[14]

著者の百田は「歴史学者の批判が殺到すると期待するアンチが多いが、その期待は裏切られる。なぜなら書かれている内容は全て事実であり、単にその多くが、それまでの歴史教科書には書かれていなかったというだけ」と述べている[15]

評価[編集]

売上[編集]

『日本国紀』は発売前から大きな反響を呼び、発売前の時点で5万部の重版がかかり[16]amazon.co.jpにおいては発売前から2週間連続でベストセラー1位となった[13]201811月に販売されてから20193月まで月間ベストセラートーハン調べ)の上位10冊に入るなど好調な売れ行きを見せてきた[17]20195月までに65万部が発行されている[17]。出版元である幻冬舎見城徹は「65万部じゃまだ足りない」と考えている[18]ノンフィクションライター石戸諭によると、全国のTSUTAYATポイント提携書店のPOSデータを分析するサービスであるDB WATCHから『日本国紀』は刷り部数相応に売れており、百田尚樹のオピニオン系の書籍も数字が動いていることがわかるという[18]。そして、『日本国紀』は関連書を含めると100万部のベストセラーとなっているという[19]

肯定的な評価[編集]

著述家の宇山卓栄は、本書の百田の考えは「実にバランスの取れたフェアなもので、日本の歴史教育では意図して教えない歴史の隠蔽に斬り込む姿勢が大ヒットに繋がっている」と評価した。通説と作家の考えが混合しているとの批判に、「百田は自身の考えや推論、仮説を提示する際には文脈上混同しないよう明確に書き分けており、その区別のつかない批判者はよほど読解力がないと言わざる得ない」と述べた[20]。また「中世において、『日本書紀』が編さんされた目的の一つに、日本が朝鮮半島を支配した証拠や根拠となる史実を論証するという狙いがあった」と述べ、「『日本国紀』は現代版『日本書紀』たらんとする気概を持って書かれた」と評している[20]

否定的な評価[]

内容の矛盾やウィキペディア日本語版NAVERまとめYahoo!知恵袋からの転用疑惑が指摘されている[21][22][23]ニュースサイトリテラ』は1117日と1120日付のそれぞれで、「記述の矛盾やウィキペディア・新聞記事・歴史研究書からの転載疑いがある、一部を除き参考文献が示されていない」などと論じた[24][25]

毎日新聞のまとめによれば、ウィキペディアの紫式部文禄・慶長の役荻原重秀などの項目に書かれていた文章が、極めて近い表現で記述されていることが指摘されている[26]扶桑社が運営する『HARBOR BUSINESS Online』は121日付で、「246 - 249ページのジョン万次郎に関する記述はウィキペディアの要約ではないか、把握できた限りで全体の1.8パーセント相当の約9ページ分がインターネット上の記事をコピー・アンド・ペーストし改変したものではないか、などの疑惑がかけられている」と報じた[27]。また『逆説の日本史』などで知られる井沢元彦の説との類似も指摘されている[13]

歴史学者からの批判[編集]

現代史家の秦郁彦は、『日本国紀』は評論家の江藤淳と同様にウォー・ギルト・インフォメーション・プログラムを過大評価していると指摘した上で、「陰謀史観的だ」と評している[13]

中世史研究者の呉座勇一は、西尾幹二の『国民の歴史』に比べれば穏健であるとした上で、「研究者の中には、暗殺(毒殺)されたと見る者も少なくない」と足利義満暗殺説を記述していることが象徴的であるとして、「古代・中世史に関しては作家の井沢元彦氏の著作に多くを負っている」が、井沢の説であることを明示せずに有力説であるかのように示していると指摘している[28][14]。また刀伊の入寇の際の対応など[14]平安時代貴族が退廃的であったことや、足利義政が政治から離れたという理解は古い伝統的な歴史観であると指摘し、「日本史学界の守旧性を激しく批判し、新しい歴史像の提示を謳っているのだが、彼らの歴史理解は実のところ古い」と指摘している[28][29]。また近現代史においても「ベトナムとカンボジアとラオスを植民地としていたフランス」を相手に「植民地解放のため」日本が戦った[30]という記述など致命的な錯誤がみられ、短い時間とはいえずさんな校閲を行った、「監修」を自認する戦史研究家である久野の責任についても指摘している[31][14]。そして、『中央公論』20196月号掲載の論稿のなかで、同書の総合的な特徴として「教科書と大差ない淡白な通史的叙述と面白エピソード・豆知識、そして愛国談義が雑然と並んでいる。百田氏にこれらを統合する知的体力がないからである」と評し、同じ本の中で矛盾した記述をしているのにその点に無頓着なのは「そもそも百田氏が日本通史に全然関心を持っていない」からではないか、その根拠としてフランシスコ・ザビエルとルイス・フロイスを取り違えた記述があるとの指摘に対して百田が「どっちにしても外人や」と発言していることを挙げている[32]。そして日本通史に関心がないのに通史の本を出したのは、数ある「ネットウヨ本」と一線を画すかのような装丁、タイトルで同趣旨の本を出せば売れるだろうとの商業的動機からではないかと推測している。

宝島社2019821日に『百田尚樹「日本国紀」の真実』を出版し、秦のインタビュー、「全正誤表」と題した一覧表を掲載している。また『日本国紀』の内容だけでなく、百田個人や版元社長である見城徹の批判を行っている[33]

批判に対する著者側の反応[編集]

これらの批判に対し、著者の百田、編集者の有本香は度々再批判を行っているが、本格的な反論は行われていない[31]。呉座は、この点を取り上げ「百田氏はツイッターでの口喧嘩には強いが、論理的な長い文章は苦手なようだ」と述べている。

ウィキペディアからの盗用疑惑に対しては、百田は「執筆にあたっては大量の資料にあたりました。その中にはもちろんウィキ[34]もあります。しかしウィキから引用したものは、全体(500頁)の中の1頁分にも満たないものです。」[35]と自らのTwitterで述べている。

また「監修」を自認する久野潤はネット上や各種メディアで「反論」を行っている[13]。久野に名指しで批判された呉座勇一は[13]、たびたび反論を掲載しており[31]、一種の論争となっている[36]

一方で、インターネット上などで指摘された本書の誤りが、増刷後の版では告知なく修正されている。毎日新聞は、日本人を評した言葉を発した人物が「ルイス・フロイス」と書かれていた部分が、重版後には「フランシスコ・ザビエル」に修正されていたと指摘している[26] また『週刊実話』は、皇位継承に関する箇所が、告知せずに第4刷で訂正されていたと報じている[37]

批判作家の文庫が出版中止騒動[編集]

『日本国紀』に見られるWikipediaなどからの「コピペ」についてTwitter上で繰り返し批判していた作家、津原泰水[38]、幻冬舎から20194月に刊行予定だった文庫本を出せなくなる騒動が起きた[39]

津原は、20191月初めに幻冬舎の担当者から「『日本国紀』販売のモチベーションを下げている者の著作に営業部は協力できない」などと伝えられ、その後出版中止が告げられたという[40]

幻冬舎は、津原に対して『日本国紀』批判を抑えるよう伝えたが、出版中止は幻冬舎側から出たものではなく津原からの申し出だったとコメントした[41]。それに対して津原は、自身のTwitterで幻冬舎の担当者とのメール文面の一部を公開し、幻冬舎のコメント内容を真っ向から否定している[42]

また、津原による一連の告発を受けて、幻冬舎社長の見城徹が自身のTwitterで「文庫化中止は津原さんからの申し出」とした上で、「僕は出版を躊躇っていたが担当者の熱い想いに負けてOKを出した。担当者の心意気に賭けて文庫化も決断した」と説明したが、この際に本来非公表である津原の著書の実売部数を明らかにしたことで、作家や編集関係者が猛反発し、「完全に一線越えてる」「作家に対する敬意はゼロなのか」「編集者のモラルに悖る」と批判を受けた[43]。見城はこの批判を受けて当該発言を削除し謝罪、さらにAbemaTVの自身の冠番組『徹の部屋』でも改めて謝罪するとともに、発言の責任を取りTwitterとトークアプリの755の更新を終了、同番組も相談の上で終了させることを発表した[44]

関連書籍[編集]

百田尚樹、有本香『「日本国紀」の副読本 学校が教えない日本史』産経新聞出版 (2018/12/28)

百田尚樹、有本香『「日本国紀」の天皇論』産経新聞出版 (2019/10/15)

八幡和郎『「日本国紀」は世紀の名著かトンデモ本か』ぱるす出版 (2019/3/25) 

家長知史平井美津子本庄豊『『日本国紀』をファクトチェック~史実をどう歪めているか』日本機関紙出版センター (2019/8/5)

別冊宝島編集部『百田尚樹『日本国紀』の真実』宝島社 (2019/8/21) 

浮世博史『もう一つ上の日本史 『日本国紀』読書ノート: 古代~近世篇』幻戯書房 (2020/2/25) 

浮世博史『もう一つ上の日本史 『日本国紀』読書ノート: 近代~現代篇』幻戯書房 (2020/3/27)

脚注[編集]

1.    a b c d e f g h i “日本国紀”. 幻冬舎. 20181121日閲覧。

2.    a b 有本香 (20181026). “【有本香の以毒制毒】発売前にベストセラー!? アマゾンランキングも不動の一位 百田尚樹さん「日本国紀」現象とは”. 夕刊フジ. 産業経済新聞社. 20181121日閲覧。

3.    ^ 『日本国紀』第1刷、20181110日、奥付

4.    ^ 『日本国紀』第2刷、20181115日、奥付

5.    ^ 『日本国紀』第3刷、20181120日、奥付

6.    ^ 『日本国紀』第4刷、20181125日、奥付

7.    ^ 『日本国紀』第5刷、20181128日、奥付

8.    ^ 『日本国紀』第6刷、20181225日、奥付

9.    ^ 『日本国紀』第8刷、2019120日、奥付

10. ^ 『日本国紀』第9刷、2019130日、奥付

11. a b “20181125日付産経新聞・中日東京新聞広告)”. 幻冬舎営業局 (20181124). 2018121日閲覧。

12. ^ 『日本国紀』第3刷、20181120日、pp.508-509

13. a b c d e f g 久野潤 (201916). “(百田尚樹『日本国紀』をコンナヒトタチに批判されたくない”. iRONNA. 産経デジタル. 2019222日閲覧。

14. a b c d 呉座勇一 (2019111). 『日本国紀』監修者・久野潤氏の反論に応えるアゴラ 2019222日閲覧。

15. ^ 20181141255

16. ^ “百田尚樹さん「日本国紀」が異例の発売前5万部重版 アマゾンに事前予約殺到”. 産経新聞産業経済新聞社 (20181022). 20181121日閲覧。

17. a b “65万部発行「日本国紀」とは? 盗用疑惑に異例の修正:朝日新聞デジタル” (日本語). 朝日新聞デジタル. 2020824日閲覧。

18. a b “幻冬舎・見城徹が語った『日本国紀』、データが示す固定ファン――特集・百田尚樹現象(2 (2019627) - エキサイトニュース(11/15)” (日本語). エキサイトニュース. 2020824日閲覧。

19. ^ “なぜリベラルは負け続け、いつまでも現実を変えられないのか?(現代ビジネス編集部) @gendai_biz”. 現代ビジネス. 2020824日閲覧。

20. a b 宇山卓栄 (201916). “百田尚樹『日本国紀』はなぜ支持されるのか”. 201917日閲覧。

21. ^ “百田尚樹『日本国紀』が「矛盾」「コピペ」騒動で大炎上?”. 週刊実話日本ジャーナル出版 (20181119). 20181121日閲覧。

22. ^ 売り上げ好調 百田氏「日本国紀」に「コピペ」騒動 専門家の評価は?毎日新聞. (20181220) 20181220日閲覧。

23. ^ “百田尚樹『日本国紀』が「Yahoo!知恵袋」コピペだとアンチがイチャモン!”. 週刊実話.日本ジャーナル出版(20190128日). 2019516日閲覧。

24. ^ 小杉みすず (20181117). “百田尚樹『日本国紀』の無知と矛盾にネットから総ツッコミが! 同じ本なのに主張がバラバラ、監修者降板騒動も”. リテラサイゾー. 2018121日閲覧。

25. ^ 小杉みすず (20181120). “Wikiコピペ疑惑の百田尚樹『日本国紀』を真面目に検証してみた! 本質は安倍改憲を後押しするプロパガンダ本だ”. リテラ. サイゾー. 2018121日閲覧。

26. a b 百田氏「日本国紀」に「コピペ」騒動毎日新聞. (20181220) 2019222日閲覧。

27. ^ GEISTE (2018121). “「歴史的事実は誰が書いても一緒」にはならない、たった一つの確かな理由~百田尚樹氏『日本国紀』”. ハーバー・ビジネス・オンライン. 扶桑社. 2018121日閲覧。

28. a b 呉座勇一 (20181210). (呉座勇一の歴史家雑記)通説と思いつきの同列やめて朝日新聞 20181220日閲覧。

29. ^ 呉座勇一 (20181211). (呉座勇一の歴史家雑記)足利義政のイメージは本当か朝日新聞 20181220日閲覧。

30. ^ 第二次世界大戦におけるインドシナの状況については仏印進駐第二次世界大戦下のフランス領インドシナ英語版)、明号作戦を参照。

31. a b c 呉座勇一 (2019110). 『日本国紀』監修者・久野潤氏の反論に応えるアゴラ 2019222日閲覧。

32. ^ 呉座「歴史学の研究成果の重みに敬意を 俗流歴史本と対峙する」、中央公論20196月号

33. ^ “百田尚樹『日本国紀』の真実” (日本語). 宝島社. 2019822日閲覧。

34. ^ ウィキペディアを指す。原文ママ

35. ^ 百田尚樹 [@hyakutanaoki]. "20181121日午11:07のツイート" (ツイート). Twitterより2019222日閲覧。

36. ^ 八幡和郎 (201916). 『日本国紀』をめぐる久野・呉座論争とは何かアゴラ 2019222日閲覧。

37. ^ “百田尚樹氏『日本国紀』指摘された皇室男系の定義をこっそり修正”. 週刊実話. 日本ジャーナル出版 (2018123). 2018127日閲覧。

38. ^ 津原泰水 (20181125). “津原泰水さんのツイート(201811269:03” (日本語). @tsuharayasumi. 2019516日閲覧。

39. ^ “百田尚樹さんの「日本国紀」批判で出版中止 作家が幻冬舎を批判” (日本語). 毎日新聞. 2019516日閲覧。

40. ^ 津原泰水 (2019513). “津原泰水さんのツイート(201951410:44” (日本語). @tsuharayasumi. 2019516日閲覧。

41. ^ “百田尚樹『日本国紀』批判したら「文庫出せなくなった」 作家が告発、幻冬舎「事実でない」”. J-CASTニュース (2019516). 2019516日閲覧。

42. ^ 津原泰水 (2019515). “津原泰水さんのツイート(20195167:25” (日本語). @tsuharayasumi. 2019516日閲覧。

43. ^ “幻冬舎・見城社長が出版中止作家の「部数さらし」のち謝罪 同業者から集中砲火「完全に一線越えてる」” (日本語). 毎日新聞 (2019517). 2019520日閲覧。

44. ^ “幻冬舎・見城徹社長、ツイッター&755&冠番組終了を宣言 部数公表の作家に謝罪「お詫び申し上げます」” (日本語). ORICON NEWS (2019520). 2019520日閲覧。

 

 

 

 

毎日新聞 ファクトチェック 2021.12.6.

「日本国紀」の悲しみ 単行本で修正繰り返したが文庫版も誤り続々

深掘り 吉井理記 

 

記者が購入した「日本国紀」単行本初版と上下巻からなる文庫版。下巻の付箋は誤りが放置されていたり、記者が気づいたりした単行本からの修正箇所。「超大幅加筆」をうたうが、天皇の靖国参拝や第二次大戦をめぐる初歩的な事実の誤りはスルーされていた

 考え込んでしまった。「日本通史」をうたう作家・百田尚樹さんの文庫版「日本国紀」(1117日発売)を読んで、である。単行本に対し指摘された数々の誤りが修正されたのは良いとして、なおも基本的かつ重大な誤りが放置されていたからだ。本を作るとは、そういうことなのか。【吉井理記/デジタル報道センター】

 お断りしておく。

 百田さんの小説はいくつか読んだ。時代小説「影法師」は、多くの名作を残した藤沢周平さんのファンである記者も引き込まれた。

 だが、帯書きで「満を持して、待望の文庫化!」とアピールした文庫版「日本国紀」には、あきれかえった。

 記者は3年前、単行本初版(20181110日発行)を発売日に買った。近現代史の叙述に関心があったためだ。思った通り、右派論壇で言い古された陰謀論めいた歴史認識や資料のつまみ食いが散見されたが、一読して分かる誤りが次々に見つかり、力が抜けた。「日本通史の決定版!」(単行本帯書き)どころか、初版から第9刷にかけて少なくとも50カ所以上の修正を重ねるお粗末さだった。

 実は重大な歴史的事実の誤りは、修正された箇所のほかにいくつもあったのだが、さすがに文庫化する時に修正するだろうと信じ、特に指摘する気にもならず今に至っていたのだ。

 ところが――

 書店に並んだばかりの文庫版下巻をパラパラやって、記者はその場に立ちすくんでしまった。目に入ったのは靖国神社に触れた346347ページのコラムである。

 <また「天皇陛下でさえ、A級戦犯合祀以来、参拝されていない」と言う人もいますが、天皇陛下が終戦記念日に靖国神社を親拝しなくなったのは、昭和51年(1976)からです(中略)昭和天皇が終戦記念日に靖国神社に親拝しなくなった理由はわかりませんが(後略)>

 

 

好書好日 じんぶん堂

「じんぶん堂」は、出版社と朝日新聞社が共同して人文書の魅力を伝えていく読書推進プロジェクトです。

前編2021.12.21. 後編2022.1.18.

読者が変えたベストセラー――『日本国紀』元版と文庫版を検証すると(前編)

『もう一つ上の日本史』と『日本国紀』単行本・文庫版

 2018年末に刊行され、65万部のベストセラーとなった百田尚樹『日本国紀』(幻冬舎)。毀誉褒貶激しい同著に対し、多くの関連書が刊行されました。その中でも、浮世博史『もう一つ上の日本史 『日本国紀』読書ノート』(幻戯書房)は、百田氏による基本的な誤りに注釈を入れ、歴史教育のありかたを論じた労作として話題に。そして2021年、文庫版の『[新版]日本国紀』が刊行。数々の指摘に対し、百田氏はどのように答えているのか? 単行本と文庫版を読み比べると、驚くべき事実が――『もう一つ上の日本史』担当編集者が、その検証結果を紹介します。

 

 20211117日、百田尚樹著『[新版]日本国紀』(幻冬舎文庫)という本(全二冊)が出版されました。三年前に出た同著者による『日本国紀』という本の文庫版で、カバーや帯、版元の公式サイトには「当代一のストーリーテラーによる日本通史の決定版」「知られざる史実と感動の歴史秘話が満載」「満を持して、待望の文庫化!」「大増量150ページ!! 著者こだわりの超大幅加筆により新しく生まれ変わった、令和完全版!」などという、思わず胸が高鳴るような文言が並んでいます。

 今年に入り、この文庫本(以下「文庫版」)の刊行予告がアナウンスされて以来、私にはずっとその存在が気にかかってきました。というのは昨年(2020)、『もう一つ上の日本史 『日本国紀』読書ノート 古代~近世篇』『近代~現代篇』という、『日本国紀』(以下「元版」)に見られる大量の誤りなどへの注釈をまとめた書籍を、私は編集していたからです。著者は、長らく中学・高校で歴史教育者として勤められている浮世博史さん。

歴史教育への不満が生んだ『日本国紀』

『日本国紀』は元々、20181110日の発売以来、基本的な史実の間違いやウィキペディアをはじめとするウェブ上からの膨大な量のコピペ(コピーアンドペースト)などで注目を集めてきました。しかし私は、この本がどれだけ批判を浴びても惹きつけられる読者が多く存在する、そんな特別な一冊となっていることに気づき、その背景を知りたいと思いました。

 すぐに思い浮かぶのは、元版の中でも述べられている、現今の歴史教育に対する、読者の不満です。日本は歴史が長い。そのぶん、学校の日本史教育では覚えることが多すぎて、「何のために学ぶか」という指針が呑み込めないと苦痛になる。それに、いまの生活認識にも直結するはずの現代史がちょうど学年末のあたりで曖昧になり、国民としてのアイデンティティがアヤフヤなまま卒業して大人になってしまう。もっと早くからしっかりした歴史観を身に着けさせてほしかった。自分や社会がこんなふうになったのは国の教育のせいだ――そんな不満です。

 実をいえば、私もその一人。生まれ育った沖縄では、一九九〇年代でもまだ過去の記憶が生々しく息づいていました。家や学校の近所で不発弾(時には人骨)が見つかりニュースになるのは日常的なことで、当時崩れたらしい城址や崖で遊ぶ。収穫を手伝っていたオバーの畑は流れ弾が飛んでくると使えなくなり、中学の同級生は「基地内就職は私たちに与えられたチャンスです!」という語学学校のテレビCMを眺めている。そんな「重たい日常」が周りにゴロゴロと転がっている環境を、敏感で小さな子供の体で受け止めるのは、ある種の鈍感さを身に着けてやり過ごさなければどこか苦しく、思春期の頃には学校教育に対する反発や忌避感を人並みに覚えるようになっていました。

日本の未来のために

 だからこそ、「驚異のベストセラーは私たちの反乱だ!」と売行を、しきりにまた小刻みに誇示する『日本国紀』に対し、歴史教育の現状や変遷を丁寧に説明する浮世博史さんのブログを読んだ時には、感動を覚えたのです。確かに、いまの歴史教育の環境には、特に生徒の理解度や満足度という意味では問題もあるかもしれないけれど、教科書は常に最新の知見を取り入れてアップデートされているし、学びは何歳から始めても良い。「万世一系」を唱えるにもかかわらず日本の王朝は二度交代(皇統断絶)していると主張してしまう、輪ゴムのようにしなやかでユニークな感性に貫かれた百田さんの文章を押し戴くよりも、まずはそれを批判的に克服する読解力を皆が獲得できるような教育を目指さなければ、未来は語れない――そんなメッセージを、浮世さんのブログからは受取った気がしました。読む人の力を信じ、なるべく事実に基づこうと努力し語りかける、そんな姿勢で綴られた『日本国紀』への注釈は、ある意味で学校教科書をフォローする一つの「通史」になっていました。一時的な金儲けに走るのではない、こういう本こそが、真にわれわれの将来を考える土台になるのではないか。そう思い、浮世さんに書籍化を提案しました。

 結果として、そのブログ連載は『もう一つ上の日本史』という二冊の本になりました。そのボリュームは、元版の2.5倍。中高生のみならず、日本史学習から長らく離れてしまった大人に向けた再入門書でもありながら、ウィキペディアをはじめ『日本国紀』が依拠した日本史俗説を次々と撃破してゆく、痛快なエンターテインメントでもあります。おかげさまで多くの読者から好評をいただき、ある方からは「この本が出たことで、『日本国紀』はもう立ち直れなくなってしまったんじゃないですか」という評価をお聞きしました。

 確かに、百田尚樹さんは以前にも、『殉愛』(幻冬舎、2014)というノンフィクションを発表した際、有志により刊行直後から数々の疑惑を指摘され、また関連する裁判でも敗訴が続き、文庫化されないまま今に至る、ということがありました。『日本国紀』も、これだけ誤りやコピペの痕跡を示されてしまっては、そのままでは文庫化はできない、少なくとも抜本的な改稿を施さなければならないだろうな、と私は感じていました。

 ゆえに、文庫版の発売が予告された時には、いったいどうなったのだろう、と興味を覚えたのです。

単行本版と文庫版を読み比べると

 そして発売当日。

『もう一つ上の日本史』を編集するにあたり、私は『日本国紀』の「刷」によってサイレント修正(どこを変えたのか読者に示さないまま大きく修正してしまうこと)された箇所が異なる、計六バージョンの本を持っていました。しかしその後、手元に残っていたのは一冊のみ。それは、「気になる部分」として浮世さんが引用したすべての文章(いわばツッコミどころ)にマーカーを引き、サイレント修正箇所を独自に集約したものです。つまりこの元版でマークした箇所を見ていけば、どのように改稿されたのか、あるいはされていないのかが一目瞭然。

 読み始めてすぐ、(オヤオヤ)と思いました。浮世さんが誤りを指摘したいくつもの箇所が、その指摘通りに変更されていたからです。それも、単に史実に合わせたというわけではなく、元版では踏まえられていなかった浮世さんの指摘の複雑で繊細なニュアンスを、正確に汲み取りなぞったかたちで。

 でも、参考文献一覧に浮世博史さんの名前はありません。まあ、それくらいのことはあるかな、とは予想していました。『もう一つ上の日本史』には刊行以来、百田さんや編集担当の有本香さんからは一切言及がなく、「読んでいない」という体裁になっていたからです。けど実は、百田さん(あるいは実務的な編集者)が、コッソリ熱心に読んでくれていたのかな、と思うと、つい微笑ましい気持ちになりました。

 ところが……

次第に大きくなる違和感

 それが(オヤオヤオヤ?)という疑念に変り始めたのは、『魏志』「倭人伝」に関する記述からでした(『日本国紀』「当時の日本社会と日本人」の項)。『もう一つ上の日本史』で浮世さんは、次のように書いています。

 

 ちなみに、『魏志』「倭人伝」で私が注目するのは、/「其の会同・坐起には、父子男女区別なし」/こここそ、見過ごしてはいけないところだと思っています。話し合いなどで集まるときは、男女長幼なく座る(男女共同参画社会っぽい?)。

 

 次の一段落は、『日本国紀』の元版にはなく文庫版で新たに加筆された記述です。

 

 もうひとつ注目すべき記述は「その会同・座起には、父子男女の別なし」というものです。つまり集会の席では長幼や男女の区別がなかったというのです。ここには女性を一段下に見る文化はありません。おそらく魏の人にとっては、これも変わったことに見えたのでしょう(風俗や文化の記述は当り前のことは記されない傾向がある)。

 

 あるいは、『万葉集』について。『万葉集』はすごい、1300年前にこのような文化は世界のどこにもなかった、という元版の記述に対して、浮世さんは次のように書いています。

 

『万葉集』が素晴らしい、世界に誇るべきものだ、というのは私もまったく同感なんです。でも、日本の素晴らしさは、他者の価値を下げないと伝えられない、なんてことはないと思います。外国の方に「『万葉集』って、どう素晴らしいの?」とたずねられて、「千三百年も前に、こんな文化は他になかったからだ」と胸を張ったら笑われてしまいます。むしろ、いくつか和歌を挙げて背景を説明するだけでも、読者に『万葉集』の素晴らしさを伝えられるはず。「こんな歌があって、当時の歴史はこうで……」と解説できたほうがいいじゃないですか。

 ちなみに私は、有間皇子や大津皇子のこんな歌が好きです。〈家にあらば笥に盛る飯を草枕旅にしあらば椎の葉に盛る(有馬皇子) ももづたふ磐余の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ(大津皇子)〉 彼らのように、権力闘争に敗れた人物の和歌さえも、『万葉集』には取り上げられています。罪は罪、でも人は人。権力に敗れた(陥れられた)人の悲哀、悲劇を、政治に阿らず伝える、そんな意志が、ほんのりと漂っていると思うのですが、どうでしょう?

 戦時中なら、防人の歌、なんてきっと怒られたでしょうね。兵隊さんの苦労話が書かれた小説は発禁になりましたから。

 

 それに対し、『日本国紀』文庫版では、元版にない次の一節が新たに加筆されています。

 

 また権力争いに敗れた朝敵と見做される人物の歌や、防人歌のように、故郷を遠く離れて九州の前線に配置される兵士の悲哀を嘆じた歌も入っています。受け取りようによっては政権や政策批判とも見える歌でさえ収録されているのです。ここには、歌において罪や思想は問わないという姿勢が見られます。

 

 さらに、次のような文章から始まるコラムも文庫版では新たに書き下ろされています。

 

 万葉仮名の読み方がいかに難解なものか、ひとつ例を挙げてみましょう。次に紹介する歌は、私の大好きな歌人で「歌聖」と称えられる柿本人麻呂の有名な歌です。

「東の野に炎の立つ見えて かへり見すれば 月傾きぬ」(……

 

「其の会同・坐起には、父子男女区別なし」にせよ「和歌を挙げて背景を説明する」にせよ、「史実」というよりは、歴史書の記述に対する浮世さんの助言ないし監修、とでもいうべきものです。それがこんなふうにピンポイントで重なっていながら、参考にしていない、という体裁を装うのは、なかなか無理があるのではないしょうか。そう思い、私は文庫本二冊に書き込みを入れながら、二週間かけて読み終えました。『もう一つ上の日本史』の指摘に対する反応を、採用/無視/反論、の三パターンに分けながら読んでいったのです。その結果、次のような数が得られました。

 採用:300箇所以上

 無視:100箇所以上

 反論:50箇所以上

「〜以上」と微妙な書き方をしているのは、「部分的に受け入れながら反論する」といった判定の難しいパターンも見受けられるからです。また「採用」のカウントについては、先のような助言の他、データの誤りの訂正、込み入ったニュアンスの反映、「〜である」という断言から「〜という説もある」といったトーンダウン、デマエピソードの完全削除、などを含んでいます。

 

読者は無料校正者なのか?

 一方、先述のように、『日本国紀』元版には発売以来、読者からの多くの疑問の声が寄せられました。その一つが「コピペ問題」。それについては、文庫版を見ると、さすがに元版より多少「コピペ」の記述に手が入っている印象を受けます。その意味では、読者一同の指摘が、この「10000箇所以上、10万字以上の加筆修正」(百田さんのtwitter上での発言より)を促した、つまり、多くの読者の歴史と出版物に対する思い、愛、厳しさが、この「65万部突破のベストセラー歴史本」を抜本的に変えた、と断言できます。

 しかし……その上で思うのです。著者あとがきや、元版には全くなく文庫版で初めて記載された「主要参考文献」一覧などに、こうした読者の協働は一切、言及されていません。それに、自説に関係の薄い初歩的な史実の誤りは、未だ放置されたまま(たとえば、「室町時代には南朝【実際は北朝】が正統と見做されていた」「フランシスコ・ザビエルが本国【実際はインドのゴア】に送った書簡」など)。

 膨大な誤りが多少修正されてよかった、これで「当代一のストーリーテラー」の話術により多くの読者に少しは正確な日本史へ興味を持ってもらえる……はたして、そのように考えてよいのでしょうか。私は、どうも疑問を感じるのです。

(次回、さらなる検証結果をご紹介いたします)

(幻戯書房編集部・名嘉真春紀)

この本を書いた人

浮世博史(うきよ・ひろし)

奈良県北葛城郡河合町の私立西大和学園中学校・高等学校社会科教諭。塾講師として20年近く中学受験・高校受験の指導にあたった後、大阪市天王寺区の私立四天王寺中学校・高等学校社会科主任をへて現職。201812月、自身のブログで「『日本国紀』読書ノート」を連載開始し、注目を集める。その他の著作に『浮世博史のセンター一直線!世界史B問題集』『日本人の8割が知らなかったほんとうの日本史』『超軽っ!日本史』『宗教で読み解く日本史』。

 

読者が変えたベストセラー――『日本国紀』元版と文庫版を検証すると(後編)

 前回の続きです。

「前編」の最後で、私は、『もう一つ上の日本史』に対する『[新版]日本国紀』の反応を数え上げ、次のように書きました。

採用:300箇所以上

無視:100箇所以上

反論:50箇所以上

……)(「採用」のカウントについては)助言の他、データの誤りの訂正、込み入ったニュアンスの反映、「〜である」という断言から「〜という説もある」といったトーンダウン、デマエピソードの完全削除、などを含んでいます。

 

 今回はまず、「採用」の具体例をいくつか紹介しましょう。引用文による比較が続くので、記事として平板な印象を与えるかもしれませんが、よーく読んでいただければ、その影響がおわかりになると思います。

 

実際、どのように「修正」されているのか?

 さて、「助言」は前回挙げたので、「データの誤りの訂正」から。(以下、引用文の出典について、『日本国紀』単行本は【元版】、『もう一つ上の日本史』は【浮世】、『[新版]日本国紀』は【文庫版】と表記。また漢数字は洋数字に変換しました)

 たとえば、宮内庁管理の陵墓について。

 

【元版】宮内庁が管理する全国899の陵墓は、(……)(p30

 

【浮世】これは誤り。陵は188、墓は555です。「899」は火葬塚、分骨所、陵墓参考地などを含めた数です。(上p36

 

【文庫版】令和3年(2021)の現在、宮内庁が管理する陵墓は743(陵が188、墓が555)です。(上p47

 

「菅原道真の祟り」について。

【元版】道真を追い落とした藤原氏の主だった男たちが次々と急死し、その子供たちも次々と亡くなっていく。道真を左遷に追いやった首謀者の藤原時平はそれを見て、道真の祟りに怯えながら狂い死にする。それでも祟りは収まらず、今度は皇太子までもが亡くなる。(7576頁)

 

【浮世】菅原道真の死は903年。以下は道真の「怨霊が原因」で死んだとされている八人の没年です。906年 藤原定国/908年 藤原菅根/909年 藤原時平/913年 源光/923年 保明親王/925年 慶頼王/930年 醍醐天皇/936年 藤原保忠(……
(『日本国紀』の)記述は事実関係・前後関係を誤認しています。これではもはや、まったく新しい別の道真怨霊物語。藤原時平は、いったい誰とその子どもたちが、次々と死んでいくのを見たのでしょう? おそらく、『大鏡』に記された時平の息子・藤原保忠の逸話とごっちゃになっていると思います。(上p7577

 

【文庫版】以下、「祟り」で死んだとされる人と年代を記します(わかりやすくするために西暦で記します)。906年、道真の左遷のきっかけを作った藤原定国が死亡。908年、同じく左遷のきっかけを作った藤原菅根が落雷により死亡。909年、左遷の首謀者である藤原時平が死亡。913年、道真の後任となった源光が沼にはまって死亡。923年、時平の甥で皇太子の保明親王が薨去。925年、保明親王の息子の慶頼王も薨去。(上p118119

 

 続いて、「込み入ったニュアンスの反映」。

 遣唐使について。

【元版】平安時代の大きな出来事といえば、何といっても遣唐使の廃止である。(p68

 

【浮世】遣唐使の「廃止」ではなく、「停止」と現在では説明します。(上p69

 

【文庫版】平安時代の大きな出来事といえば、まず遣唐使の停止が挙げられます。(上p107

 

 応仁の乱以後の「下剋上」について。

【元版】戦国時代を象徴する「下剋上」の思想もこの時代に生まれた。(p131

 

【浮世】これも誤り。後醍醐天皇の「建武の新政」を風刺した「二条河原の落書」の中にすでに「下克上スル成出者」と出てきています。(……)「下剋上」は時代の節目、特に体制に変化があったり混乱したりした時にはよく見られた現象です。(上p175

 

【文庫版】戦国時代を象徴する「下剋上」の思想もこの時代に色濃くなっていったものです。(上p213

 

 お次は主張の「トーンダウン」。「事実である」と断言していたものを、百田さんの独自見解や「~という説もある」などとして、主張を後退させるパターンです。

 豊臣秀吉によるキリスト教宣教師の追放について。

【元版】当時のスペインやポルトガルが宣教師に先兵のような役割をさせ、中南米や東南アジアの国々を植民地にしてきたことは事実である。(p154

 

【浮世】ネット上ではよく見かける説明ですが、事実ではありません。もしそのような例があるならば、具体的に挙げてほしいところです。/これは、中南米やフィリピンに適用された、「エンコミエンダ制」に関する誤解から生まれているものだと思います。(……)(上p204p205

 

【文庫版】私は、当時のスペインやポルトガルが宣教師に先兵のような役割をさせたのではないかと考えています。前述したヴァリニャーノの手紙からもそうしたニュアンスが読み取れます。

 

 江戸時代、徳川吉宗が設置した「目安箱」について。

【元版】大和朝廷成立以来、千年以上、庶民は政府に対し口を出すことはできなかった(直訴は極刑)。その伝統を打ち破って、広く庶民の訴えを聞くというシステムは、近代の先進国でもおそらく初めてのことではないだろうか。(p203

 

【浮世】「目安箱」は、戦国時代からあったようなんです。ですから、「日本史上初の画期的なシステム」というわけではありません。(……)中世ヨーロッパの諸都市ではすでに市民が市政の運営を行なっていましたし、十三世紀のイギリスでも、都市の代表や地主などが貴族とともに議会を形成していました。享保の改革とほぼ同じ頃の十八世紀初期、やはりイギリスでは本格的に議会が機能していて責任内閣制も始まっていました。違う形で人々の意見を吸い上げる制度ができていたので、「投書箱」という形式をとる必要などありません。庶民の訴えをお上が聞き届ける、という形式はむしろ前近代的と言えるでしょう。

 

【文庫版】大和朝廷成立以来、千年以上、基本的に庶民は政府に対し口を出すことはできませんでした(直訴は最悪の場合、死刑)。吉宗はその伝統を打ち破って、広く庶民の訴えを聞くことをシステム化したのです。目安箱に似たものは江戸幕府以前にもあったようですが、吉宗の作ったそれは単なる庶民のガス抜きではありませんでした。(上p319

 

「デマエピソードの完全削除」。これはわかりやすい例を挙げるために、第二次大戦後まで時代を飛ばしましょう。

 GHQが計画した情報政策、いわゆる「WGIP」については、『日本国紀』後半部のキモとなっており、浮世さんの指摘について百田さんもいくつか反論しています。その一つ、カナダの外交官ハーバート・ノーマンに関する文書について。

【元版】GHQが日本人に施した洗脳は、戦時中の中国・延安で、中国共産党が日本人捕虜に行なった洗脳の手法を取り入れたものだった。このことは近年、イギリス国立公文書館が所蔵する秘密文書で判明しており、(……)「WGIP」が、中国共産党の洗脳に倣ったことを伝える文書は、「ノーマン・ファイル」(KV2/3261)と呼ばれるファイルに残されている。(p430431

 

【浮世】「ノーマン・ファイル」を百田氏は本当に読まれたのでしょうか。読まれた上で、「戦後の日本は、共産主義者たちの一種の「実験場」にされたようにも見える」(432頁)と本気でおっしゃっているんでしょうか。どこを読んでも、そんな話は出てきません。「近年、イギリス国立公文書館が所蔵する秘密文書で判明しており……」という部分も違和感をおぼえます。このファイルが公表されたのは2010年ですが、内容自体はこのファイルで初めて明らかになったようなものではなく、1980年代には詳細にわかっています(大森実『赤旗とGHQ』、アメリカ戦時情報局『延安リポート』など)。

 

【文庫版】(削除)

 

 ダグラス・マッカーサーが厚木飛行場に降り立った際、日本人による暗殺を恐れて失禁していた、という、最近ネット上で人気のエピソードについて。

【元版】昭和20年(1945830日に厚木飛行場に降り立った連合国軍最高司令官のマッカーサーは、サングラスをかけコーンパイプをくわえ、日本人を睥睨するようにタラップを下りてきたが、この時、決死の覚悟を持った日本人による暗殺を恐れるあまりズボンの中に失禁していたといわれる。(441頁)

 

【浮世】これはマッカーサーに関する数ある俗説の中でも、荒唐無稽さにおいて「マッカーサー神社」を上回り、低劣さにおいても類を見ない恥ずかしいものなので、削除されたほうがいいと思います。/マッカーサー来日の際の画質の悪い写真から、「ズボンが濡れているように見える」という俗説(明らかにズボンのしわの影でそのように見えるだけ)が近年、ネット上の一部で広まっているようですが、何しろアメリカ側にとっては「記念すべき」一瞬ですので、実際には「濡れていない」鮮明な写真がたくさんあり、またカラーの動画も残っています。ご確認いただければすぐわかることです。

 

【文庫版】(削除)

 

 以上、『もう一つ上の日本史』に見られる指摘と、『日本国紀』文庫版の修正箇所の比較例を、ほんの少しだけ挙げてみました。あまりにも選り取り見取りで(時代によっては頁毎に指摘がいくつも反映されているように見える箇所も)、どれを挙げるか悩んだほどですが、同じ調子で挙げていくとそれも(本一冊分を超える)膨大なボリュームになってしまうので、今はこの辺で留めておきましょう(もしも時間が許せば、『[新版]日本国紀』訂正表wikiのようなサイトを作ってみたいものですが)。

 また本来ならば、「無視」や「反論」についても同じだけの分量で紹介するべきかもしれませんが、ここではその傾向についてだけ、述べておくことにします。

 

ゴシップも歴史?ーー『日本国紀』の基本方針を読み解く

『日本国紀』の記述には元々、歴史的人物に関するゴシップや俗説が大量に採用されていました。つまり、ひとくちに「史料」といっても、その信頼性には差がある(史料の信頼性を検証することが歴史学の役割の一つだと思います)。『古事談』や『三王外記』のようなゴシップ集であろうと、より面白いエピソードがあればそっちの方を採る、科学的な歴史学が発達する以前は、過去の人だってそういうゴシップを真に受けていた――というのが『日本国紀』の基本的なスタンスなので、それを「『日本国紀』に書かれていることは全て事実」(百田さんご本人のTwitter上での発言より)と言われると、「それは違う」という反発が沢山出てくるのは当然だと思います。

 同じことは、近現代の記述についてもいえます。すなわち、『古事談』や『三王外記』といった昔のゴシップ集と同じような感覚で、ネット上に広がっている面白エピソード(マッカーサー失禁説など)を採用すると、デマのリスクが高くなる。ネットと史料はさすがに違うので、あまりにも明白なデマについては、「過去の人だって信じていた」という論法が使えず、削除せざるをえなかった、ということなのでしょう。逆に、あと二百年ぐらい経てば、『日本国紀』も歴史史料として扱われ、現代に生きる我々も「過去の人はこんなことを信じていたんだなあ」と思われているかもしれません。

 そんな中で、「無視」や「反論」をされているのは、『日本国紀』全体の論旨上自説をゴリ押ししたい、あるいは関係が薄いと思われたのか放置されている箇所ですが、見逃せない記述もあります。たとえば前回挙げた、「室町時代には南朝【実際は北朝】が正統と見做されていた」という記述はそのまま(無視)。南北朝正閏論は保守派の論者が長らく重要視し時に論争を続けてきた部分であり、『日本国紀』の主要テーマである「万世一系」とも深く関わります。ここを放置しているというだけで、(この百田という著者は、我が国の伝統を何も知らない人なんだな)と思われても仕方ありません(実際、ディープな保守派の方のそういう意見を刊行以来いくつか見かけました――などと書いておくと、また文庫版の増刷時にサイレント修正してくれるかも?)。

 

アフター『日本国紀』の時代に向けて

『日本国紀』の誤りを指摘する試みについては、刊行以来、「どうせイデオロギーありきの、情報戦の一環として出された本なのだから、重箱の隅を突いても仕方がない」という意見も見かけました。つまり、百田さん側は「事実」よりも「日本人としての誇り」を与えてそれがウケてるんだから、パクリだの何だの幾ら言っても意味がない、という意見です。確かに、その一面も否定はできません。が、私は『もう一つ上の日本史』編集にあたって、「事実」という重箱の隅を突くことの積み重なりが、読者の「誇り」を支えることに繋がるはず、という、両面立ての方針を重視したいと思いました。というのは、『日本国紀』の記述の事実性については、歴史を愛する様々な分野の方が、思想の垣根を超えて「共闘」する、という稀有な光景を目撃していたからです。そこに私は、「分断」とは異なる可能性を感じました。その方針が無ければ、浮世さんの本がここまで支持をいただくことはできなかったでしょう。

 浮世さんとの企画がスタートして以来、日々『日本国紀』の動向をチェックする中で、私はこれまで積極的に触れてこなかった、様々な立場による書籍や意見を目にする機会に恵まれました。中でも、浮世さんの論の中でいちばん目から鱗だったのが、「歴史教科書はなぜ、どのようにして書き換えられるか」を随所で解説した部分。それまで「メタヒストリー」だとか「史学史」だとか、歴史学の趨勢は時代によって変遷するらしいと知識としては知っていましたが、(ナルホド、こんなふうにして変わるのか!)と、初めて具体的に実感できたのです。と同時に、そういうカラクリを知らないと、「日本の歴史教育は戦後ずっとGHQに操られたまま!」というような硬直した見方になっちゃうんだな、と恐ろしくなりました。「自虐史観をぶっ飛ばせ!」というかけ声は、威勢はいいけれど、大人が抱く真の「誇り」としては、単純すぎて弱い。「学生時代、歴史の授業が苦手だった」「歴史教育に見放された」と感じているであろう多くの方々(私もその一人です)が、こうした歴史(学)の面白さ、恐ろしさにアクセスする一助となれないものか……僭越ながら、そのようなことを考え続けた企画でしたが、大きくいえば、ヒトが生まれ学び社会を構成しやがて歴史となる営みを続ける限り、その課題が消えることはこの先もないのでしょう。つまり、「『日本国紀』的なもの」が文化をハックする余地は、これまでにもあったし、これからもある。私自身、これからも考え続けたいと思っています。

 もとより、『[新版]日本国紀』を読んで面白かった、初めて日本史に興味を持った、という方の「感動」を奪ったり否定したりする気持ちは、私にはありません。ただ願わくは、その「感動」を、より良いかたちで活かしていただきたい、と思うのです。オススメは、「面白い!」と勢いがついたその流れでぜひ、歴史に関する他の本も読んでみてはどうでしょう、ということです。すべての本はその一冊だけで成り立っているのではなく、あらゆる他の本へと開かれ、広大なネットワークを形成している。読書の醍醐味は、単に「真実を知る」よりも、むしろそこにある。『日本国紀』のロジックに則っていえば、参考文献が一切なく「鎖国」していた百田さんが、文庫版では参考文献をたくさん挙げて「開国」している。とすれば、本当の「民主化」が始まるのは、ここからではないか?

 教科書だけを信奉するのでも、押し付けられた「誇り」を唯々諾々と抱えるのでもない。根拠の信頼性を一つ一つ試しながら、自らの信じるべきものが何かをさがす。おそらくその探究が、真の「誇り」を育てるはず。

 私はそう信じています。

(名嘉真春紀・書籍編集)

 

 

 

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