スノーボードを生んだ男 ジェイク・バートンの一生 福原顕志 2022.3.31.
2022.3.31. スノーボードを生んだ男 ジェイク・バートンの一生
著者 福原顕志 1967年呉市生まれ。神戸大文卒。NHK入局、報道番組部ディレクターとして、スポーツ中継、ドキュメンタリー番組を制作。96年独立し渡米。現在ロサンゼルスを拠点に、ドキュメンタリー番組を制作、ノンフィクションの執筆を続ける。
発行日 2021.11.20. 第1刷発行
発行所 文藝春秋
Jake
Burton Carpenter
スノーボードブランド「BURTON」創業者。1954年ニューヨーク生まれ。コロラド大ボルダー校を中退し、ニューヨーク大の夜間クラスに通う。77年12月マンハッタンの投資銀行に半年務めた後退職し、バーモント州に引っ越す。それまでスキーに興じていたが、雪上でのサーフィンをスポーツにしようと、バートンスノーボードを立ち上げ、スノーボードの制作を始める。その後スノーボードの普及・発展に大きく寄与。19年病で死去
プロローグ――3月13日はジェイクの日
スノーボードの発展の歴史は、常にスキー業界からの抑圧との闘い
だぶだぶのパンツを腰で穿き、ウェアをラフに着崩したスタイルは、規律や秩序への挑戦といったスノーボードの反逆的な文化を育む
バートンが常にそのシーンを牽引したファッションは、自己表現のキャンバスとなり日常的にストリートでも着られるようになって、雪山と街の境界をなくしていった。スポーツの域を超え、ライフスタイルとなっていった
バートンは生前、自らの人生とスノーボードについて、「僕がBURTONを始めた時、このスポーツがこんなに大きくなるなんて思ってもみなかった。スキー場は滑らせてくれなかったから、高価なスキーの代わりに誰もが気楽に天然の雪山で滑るものになればという思いだった。スノーボードは成長し続けるだろうが、忘れてはいけないのは、このスポーツの未来を決めるのはいつもライダーたちだということ。彼等がトレンドを作り、スポーツのレベルを押し上げる。だからライダーたちに特別な敬意を払う。でもそれは僕自身での我儘でもある。僕の幸せや心の平和は、スノーボードというスポーツがハッピーであるかどうかに密接につながっている」と語る
1977年までは存在しなかったスノーボードというすぽーつ。今や競技人口は3000万まで成長。板1枚で世界を変えた男、ジェイク・バートン
1.
きっかけは1枚のソリ
2018年の平昌五輪の男子ハーフパイプ決勝。ショーン・ホワイトと平野歩夢の対決
前回大会で銀メダルでデビューを飾ったバートン・ライダーの平野は、11か月前の全米オープンで着地に失敗して選手生命が脅かされるほどの大怪我を負い、かろうじて復活
縦2回転+横4回転のダブルコーク1440の大技の争いで、平野は2本目で成功させて95.25
一方のショーン・ホワイトは前回五輪3連覇を逃し、満を持しての挑戦だが、4カ月前には着地に失敗して顔面を62針縫う大怪我から復活したばかり。1本目から94.25を記録、2本目は着地に4敗したが、3本目でまた、しかも連続で成功させ97.25の金メダル
スノーボードの始まりは1968年、ジェイク14歳のとき
ロングアイランド育ちのジェイクは、サーフボードを買ってもらえず、代わりにスナーファーという10ドルもしない板切れを買って冬に裏山で滑っていた
スナーファーは、1965年ミシガン州のビジネスマンが子供の為に立って滑れるそりを作ったのが始まりで、特許をとってブランズウィックに大量生産させた
1967年、高卒で海兵隊に入った兄がベトナム戦争で戦死。最愛の兄の死にジェイクの高校生活は乱れ、退学へ。気を取り直して進学校に入り直し、総代で卒業。スキーの名門コロラド大に入るが、交通事故もあって入部のトライアルで落選
高校時代、母も白血病で失う。親孝行もあって、ニューヨーク大の夜間部に通い、学位も取って父と同様、証券会社で働くが、決まりきった激務に耐えきれず起業を思いつく
スナーファーを改良して、1つのスポーツに発展させようと決意
2.
失敗だらけの試作品開発
1977年12月、マンハッタンのアパートでスナーファーのボードを参考にスノーボードを作ろうとしたが雪の近くに行くことにして、バーモントで会社設立登記、社名はBURTON BOARDS。ロンドンデリーという小さな町に本社を置く。元手の10万ドルは、母方の祖母の遺産とアルバイトでためた貯金
無垢のアッシュをプレス機にかけ、熱い蒸気を当てて先端部分を曲げる。バインディングも試行錯誤で、最初は前足側に1枚の革シートをドーム型に張り付けただけのもの
作っては滑ってみて改良を繰り返すが、無垢では硬すぎてしならず、ターンが出来ない
スナーファーには先端に紐が取り付けられ、それを引っ張るようにして板の上に立っていたので、スノーボードでも初期には板に取り付けた紐を両手に持って板を操っていた
カリフォルニアに行って、サーフボードを基に削って作ろうとしたが、ファイバーグラスのスノーボードは軽くて柔軟性もあったが、衝撃に弱く諦める
結局また木に戻って、海用の合板を使ってみたが、まだ重かったし、柔軟性も不足
最後に辿り着いたのがスケートボード。薄い板を何枚も接着剤で張り合わせた集成材を使う。スケートボードは5枚の板を貼り合わせていたが、さらに強度を増すために7枚とし、軽量を保つために1枚の板の厚さを薄くした。その集成材を蒸気で熱してプレスし、先端部分を上に反るように曲げ、最後にボードの形にのこぎりで切る
6月末にまだ雪の残っているマウントワシントンの頂上まで登って試してみると、漸く期待通りの製品が出来上がったのを確認
3.
甘すぎた販売計画
小さなビルを借りて工場とし生産を始めたが、@90ドルのボードは初年度350枚しか売れず、在庫の山を築く。メールオーダーや口コミでは限界、自ら車に積んで訪問販売もしたが不発
1981年、漸く注文が入り始め、会社をリゾート客の多いマンチェスターに移転。社名をBurton SnowBoardに変更
当時はどのスキー場でもスノーボードは認められていなかったので、夜間に滑っていた
同時に、元々コース外のパウダースノーを滑る積りで開発したスノーボードだが、圧雪された斜面も滑れるように、板やバインディングを改良
バイトで雇った高校生たちが口コミで徐々に拡げていった
スノーボードに興味を持ったのは15~17歳のティーンエイジャー、市場を見誤っていた
スタートから15年、毎年売り上げが倍増
4.
出会いと競技で軌道に乗る
1981年末、ロンドンデリーで将来の伴侶となる10歳ほどしたのドナと出会う。コネチカット出身、ニューヨークのバーナード大に通うスキーヤーで、ジェイクのスノーボードにかける情熱に惹かれ、以後毎年バーモントに来るようになり、83年結婚。岳父は、ガルフアンドウェスタンの副社長を務めたビジネスマンで、セルティックスのオーナー
日本に初めて入ったのは1982年。ニュージャージーに住んで日米の雑貨の輸出入をやっていた、後にバートン・ジャパンの初代社長になる小倉一男が、マンハッタンで開催されたスポーツ用品の展示会で、バートンのブースを見たのがきっかけで対日輸出が始まる
スポーツとして発展させるために必要な競技会を考えたのは、スナーファーのプロ第1号のポール・グレイブス。1979年スナーファーの初の賞金付き競技会にジェイクが特別部門で参加、それを取り持ったのがグレイブス。2人は意気投合してその後の発展を築く
この頃からジェイクと同じようなスノーボードを開発する人たちが現れるが、その中でスケートボードの世界チャンピオンにもなったトム・シムスが、スキーボードとしてSIMSブランドで公然と挑戦してきた。以後あらゆる場面で熾烈なライバル争いを繰り広げる
1982年、グレイブスが全米スノーサーフィン選手権を主催。スイサイド6という急斜面を使って、種目はダウンヒルとスラローム。全米のテレビや雑誌に取り上げられて大成功だったが、翌年の会場探しで名門ストウマウンテンリゾートに打診したところ、スノーボードは求めていないし、スキーにとって代わるスポーツになろうとしていて反感があるという理由で拒絶
翌年はジェイクの支援で、全米スノーボード選手権として開催。競技会と共に、スノーボードはもの凄いスピードで進化していく
その後もジェイクは毎年全米選手権を開催、今日の全米オープンに成長
その年優勝したシムスはカリフォルニアに帰ってレイクタホで世界選手権と銘打って競技会を開催、当時西海岸で盛んになっていたハーフパイプという種目を初めて導入。次第にフリースタイルが主流となっていく
東海岸でスキーをして育ち、ビジネスを学んで、スノーボードを体系的に育てようとしたジェイクと、西海岸でツリーハウスに住み、自由に暮らしながらスケートボードとサーフィンに明け暮れていたシムスでは、スポーツへの取り組み方が正反対
5.
スキーとの愛憎関係
全米のスキー場はどこもスノーボーダーが滑ることを許さなかった
最大の理由は安全面――1977年バーモントのストラットンで怪我したスキーヤーがスキー場を訴えて150万ドルを勝ち取ってスキー場側がビビったのと、保険もスノーボードをカバーしていなかった。展示会でも排除された
個別に滑れるよう依頼して回っているうちに、漸くストラットンでスキー場にスクールを開設し、その受講者だけにリフトの使用を認めるようにな、全米オープンも引き受け、2013年コロラド州ベイルに移るまで、スノーボード競技の中心的な役割を担う
スキー場側も、スキーヤーの伸び悩みの対策として、スノーボーダーを受け入れざるを得なくなるが、全米に拡大するには6,7年かかった
‘84/’85年シーズンに全米で40カ所⇒'96年には450カ所に
圧雪されたコースを滑るようになったことで、スノーボードの製造にもスキーの製造の技術が生かせるのではと考え、ヨーロッパのスキーメーカーに目をつけ、どこも断る中、ザルツブルク郊外の個人のメーカーが協力を申し出、試作品をラスベガスの全米スノースポーツ展示会に出品。漸くスキー板と同様の技術・製法で作られた金属のエッジとポリエチレンの裏面を持つボードが完成
この時、試作品を運んでくれたのがインスブルックの運送会社で、1985年バートン・ヨーロッパ誕生の契機となる。当時のアルプスではスノーボードはほぼ存在していなかった。バートン夫妻も4年間移住して拡販に努めた結果、徐々にヨーロッパにスノーボードが広がり、インスブルックの街も新しいイメージを持つ。伝統的な山間部の街から、若くてダイナミックでトレンドを創り出す街に生まれ変わった――毎年「エアー&スタイル」というスノーボードの大会が開かれるようになった
6.
スター誕生で一気に飛躍
スノーボードメーカーは一時乱立したが、どこも長続きせず、一番心配したスキーメーカーの参入も'87年のロシニョールが最初、同年K2も最初のモデルを発表したが、サロモンが参入したのは'97年だし、ATOMICに至っては’01年で、既にバートンが市場を制覇。ライダーたちも長らくスキーヤーに差別されてきたので、スキーメーカーの板を本物だとは思わなかった
問題は資金調達と品質――’89年S&Lに端を発した金融危機で銀行の貸し出しが細り、せっかくの無担保融資の承認が取り消され、給料の遅配に至るが、何とか凌ぐ一方、品質面ではバインディングの進化で、ボードにねじで固定するようになったが、ねじ止めの技術に欠陥があり問題化していた
当初から欠かさず行ってきたのが自分たちで滑って出来具合を確かめることで、そのためのチームライダーを育成。そこから育った選手がアンディ・コグランやクリス・キャロル
1985年《007》シリーズの第14作、ロジャー・ムーアの最後の作品となった《美しき獲物たち》で雪原を逃げるボンドがスノーモービルを爆破され、その破片で雪山を降りそのまま水面を滑る際のスタントマンを務め一発で決めたのはシムスで、スノーボードが広く一般に知られるきっかけとなった
1985年、競技会に彗星のごとく現れて総なめにしたのがまだ19歳のシアトル出身のクレイグ・ケリー。BMXのバイクレースでチャンピオンにもなったこともあり、15歳でスノーボードに芽生え、我流でマスター。シムスのチーム入りを果たし、シムスは絶好調を謳歌したが、シムスの経営危機で買収されたのを機にクレイグがバートンに移籍。シムスとは明暗を分け、1989年裁判で勝訴してクレイグが正式にジェイクのメンバーになった後はバートンが市場をほぼ独占。シムスは2012年心臓発作で逝去、享年61
裁判の途中、ジェイクはスノーボードの特許を開発者のボブ・ウェバーから5万ドルで買収したが、他の業者からの反発にあって特許権行使を断念したのが業界全体を救う結果に
1990年頃から、アルペン競技は影が薄くなりフリースタイルに完全にシフト
1992年、クレイグが突然競技から引退し、バックカントリーに専念すると宣言。世界中の未踏の雪山に行ってフリーライドを楽しむ
7.
日本でも火が付いたブーム
甲府出身の中村ヒロキが1986年、15歳で赤倉にスキーに行って初めてスノーボードに乗る。現在はファッションブランドvisvimのデザイナー
小倉の地道な活動により、日本でも86年頃からブームが始まるが、82年には日本スノーボード協会立ち上げ、全日本選手権も開催していた
1995年、小倉は日本法人を設立、アラスカにスノーボード留学して帰国した中村が参加
その年発表された新製品から、ノーズとテールが同じ形のスタイルに変わる
1998年、志賀の焼額山で正式のオリンピック種目最初の競技が開催されたが、それまでの経緯を巡ってはスノーボーダーたちにとっては屈辱的ともいえる扱いから始まった
1996年、突如FISがスノーボード種目を扱い始め、91年には国際スノーボード連盟ISFも発足していたが何の相談もなく長野オリンピックの正式種目に決定。FISの手のひらを返したような態度に反発して絶対本命のトップ選手がオリンピックをボイコットしたが、ジェイクは業界発展のために参加
種目は大回転とハーフパイプ。スノーボードが禁止されているスキー場で開催されるという皮肉。競技会開催に不慣れなFISが設営したため不備が目立ち、特に大回転では硬く圧雪し過ぎてコース外に放り出される選手が続出しよいパーフォーマンスからは程遠かったし、ハーフパイプに至っては、悪天候でアルペン競技が中止されたのに決行
8.
人生スノーボード一色
1999年からは年間100日ライドを目標とし、新製品の確認と市場ニーズの収集に努める
1998年にはサブブランド「グラビス」立ち上げ――アクションスポーツの機能性とストリートウェアのスタイルを融合させたアクセサリーのブランド
9.
悲劇
'97~'99年、クレイグは、西海岸をアラスカに向けて北上、誰も滑ったことのない手付かずの山の斜面を制覇した後、山岳ガイドになる。そのためにスノーボードを縦に2つに割ったスプリットボードも開発したが、’03年ロッキー山中で訓練中、雪崩に遭って死去、享年36。彼の死がジェイクにも仕事への考え方、スノーボードへの向き合い方に変化をもたらし、半年後には経営を任せる
10.
多様化するライディング
クレイグの遺志を継いだのは、競技の世界でもクレイグの後の世界を牽引したノルウェーのテリエ・ハーコンセン。長野をボイコットした張本人で、その後バックカントリーでのフリーライドの世界に軸足を移し、ビデオ撮影を主体にしたが、競技の世界でも年間獲得ポイントで競うアークティックチャレンジを組織。そこで彼が記録したクォーターパイプのジャンプ9.8mの世界記録はいまだに破られていない
'92~’95年、テリエが全米オープンのハーフパイプで優勝していた頃、エキシビジョンで飛んでいた子供がショーン・ホワイト。'86年サンディエゴの生まれ。スケートボードから発展させた独特のスタイルを身に着け、14歳でバートン所属のスノーボードのプロに、17歳でスケートボードのプロとなる。最初から圧雪のライダーとして競技で活躍
06年トリノ五輪からは新たにスノーボードクロスという「雪上の格闘技」が始まる
日本選手では’10、'11年と全米オープンを連覇した國母が'20年大麻密輸で逮捕され、スノーボードと大麻の関係が問題視
‘14年のソチ五輪では、より高度な技術を要する新種目スロープスタイルを取り上げる。バックカントリーをゲレンデに再現したものとも言え、そのルーツはクレイグに遡る
'18年の平昌五輪では新種目ビッグエアーというジャンプ競技も始まる
‘22年の北京五輪では、2人で行うチーム・スノーボードクロスも始まる
'11年から毎年六本木ヒルズアリーナで開催されているのがバートン・レイルデイズというイベント。全長34mのスノーボード用特設コースで競われる。スポンサーはMINI
スノーボードの世界で、最も大切なものと言われながら、とても曖昧でつかみどころのないものが「スタイル」――「スタイルが出てる」「スタイルを入れる」などと使われ、スノーボードに対する各ライダーの価値観を表す表現。「気持ちよく余裕を持って滑れているかどうか」ということで、独特のユニークなスタイルを持っていることが重視される
テリエがキャリアを通じてオリンピックに反対してきた理由の1つに、このスタイルと競技の審査員のジャッジの関係もあって、本来重視されるべきスタイルは点数にすることは出来ず、目に見えるものだけが評価の基準になると、スノーボードの本質を見失う
ジェイクも、スタイルに関しては明確な線引きをする。「スタイルは全てだ。言葉にするのは難しいが、見ればわかる。素晴らしいスタイルは見る人の目を喜ばせる。楽しそうに見えると同時に芸術的でもある。ライダーがジャンプして回っても、そこにスタイルがなければ、ただの空虚な回転でしかない」
11.
再び表舞台に
‘07~'10年の金融危機は雪崩のようなもので、バートンも被害者。周辺商品に加え、サーフボードにも進出していたが、在庫の山を築く
'03年以降、ジェイクは経営の第一線から退いていたが'10年には復帰し、給与カットと5%のレイオフで乗り切るとともに、ビジネス先行の社風を、ライダーの会社に戻す
新興のスノーボードの会社が上場して成功したのに刺激されたが、短期間に暴落したのを見て公開を断念。また時価総額7億ドルでの買収も持ちかけられたが拒否している
本社工場を研究所に転用、クレイグスと名付ける
12.
見えない敵との闘い
'11年、生まれつきの病気「僧帽弁逸脱症」のための心臓手術を受けた直後に悪性のリンパ腫が見つかる。セミノーマと呼ばれる精巣腫瘍で、抗癌剤治療により一旦回復
「CHILL」はジェイク夫妻が95年に始めた非営利法人で、スノーボードに縁のない子供たちにライドの楽しさを知ってもらおうというプログラム。全米各都市から世界中に広がり、子供たちの成長をサポート
'13年、今度はギラン・バレー症候群に似たミラー・フィッシャー症候群の診断。自己免疫疾患で、目から始まり全身に拡散。両手以外は硬直し、暗闇の中で耳だけが機能
ICUに2カ月いて、漸く思いを綴れるようになる
発症から6週間、漸く全身麻痺が解ける兆しを見せ始め、気管切開手術で人工呼吸器から解放され、メイヨークリニックからボストンのハーバード大附属病院のスポルディングリハビリセンターに移り、歩行訓練も始まる。3カ月で退院、年末にはスノーボードに乗る
13.
何一つ悔いのない人生
'17年、ストラップ付のバインディングの着脱を立ったまま、ワンタッチで行えるシステムの開発に着手、3年かけて完成。スキーのようにハードブーツなら底を固定できるが、スノーボードはソフトブーツなので、どうしてもストラップで固定する必要がある
‘15年、裏原系のNEIGHBORHOODの滝沢のもの作りに惚れ込んだジェイクが、彼と組んでバートンのMINE77(‘77年に掘り当てた鉱脈の意)のデニムのストリートウェアをコラボする。ジェイクは自身のシグネチャーコレクションの製作も始め、ボードやバインディング、ウェアなどから普段着やアクセサリーまで、すべての製品に自分のこだわりをちりばめたが、そのコレクションを発表して生涯を終えた
‘19年、来日して滝沢のショップでサンプルチェックをした直後に癌再発、バーモント州で数年前に可決された尊厳死の権利行使を宣言。3週間後に死去
スノーボードを生んだ男 ジェイク・バートンの一生 福原顕志著
遊び心と情熱のスタイル
2022年2月5日 2:00 日本経済新聞
高さ6メートル近くジャンプし、空中で縦2回転+横4回転の大技を繰り返す。2018年平昌冬季五輪のスノーボード・ハーフパイプ男子決勝、平野歩夢と米国のショーン・ホワイトの熱戦にくぎ付けになった。2人の板には「BURTON」の文字。スノーボードの生みの親にして、世界有数のスポーツブランド創業者の名前である。
本書は元NHKディレクターが、バートン本人や平野ら契約ライダーへの取材をもとに執筆した。19年に65歳で亡くなったバートンの歩みを軸に、裏山の遊びから始まったスノボが40年ほどで、競技人口3000万人にまで成長した軌跡を描く。
米バーモント州の本社は60センチの新雪が積もった日は休業となる。ライダーが何よりも好むふわふわのパウダースノーを満喫するためだ。創業者自身、晩年も年100日は雪上で新商品を試行。ゴンドラに乗り合わせた若者との雑談を楽しむなど、遊び心と情熱を忘れなかった。
技の難易度よりも「スタイル」と呼ぶ、捉えどころのない価値観を優先する「横乗り」の文化がある。「それは、楽しそうに見えると同時に芸術的でもある。(中略)そこにスタイルがなければ、それはただの空虚な回転でしかない」とバートンは語る。北京五輪での平野らの競演に期待が高まるメッセージだ。(文芸春秋・1870円)
Wikipedia
ジェイク・バートン・カーペンター(Jake Burton Carpenter、1954.4.29.~2019.11.
20.)は、アメリカ合衆国のスノーボーダーであり、バートン・スノーボードの創業者。現代のスノーボードの生みの親の一人と見なされている[1]。
ニューヨーク市・マンハッタン生まれ、ニューヨーク州ナッソー郡シダーハーストで育つ。父親はオックスフォードに留学、イェール大卒後海兵隊に入ったエリートで、太平洋戦に参戦した後は証券会社に勤めるビジネスマン。ジェイクを厳格にしつける。兄も同じボーディングスクール出身で、生徒会長で競艇部のキャプテン、学校のスターだった
彼はマサチューセッツ州のブルックススクール(ボーディングスクール)に通い、その後コネチカット州のマーベルウッドスクールに転校、コロラド大学ボルダー校で経済学を学び、大学のスキーチームへの所属を希望したが、交通事故のため断念し、大学を中退。その後、ニューヨーク大学夜間部に通い、経済学の学位を取得し卒業、マンハッタン投資銀行に半年間勤務した。
ジェイク・バートンはスキーへの情熱から、今日のスノーボードの前身であるSnurferを改良、1977年にはバーモント州に移住し、バートン・スノーボードを設立して、スノーボードの制作をはじめた。当初は販売業績の不振に見舞われたが、スノーボードの発展、普及に努め、世界市場のリーディング・カンパニーに成長させた。
2019年、バーモント州バーリントンにおいて精巣癌による合併症で死去した。
“スノーボードの父” 「バートン」創業者が死去
2019/11/22
訳・ WWD STAFF
ジェイク・バートン・カーペンター氏 (c) FAIRCHILD PUBLISHING, LLC
米スノーボードブランド「バートン(BURTON)」を擁するバートンスノーボード(BURTON SNOWBOARDS)の創業者であり、“スノーボードの父”とも呼ばれるジェイク・バートン・カーペンター(Jake Burton Carpenter)氏が、11月20日にがんの再発による合併症のため死去した。65歳だった。
ジョン・レイシー(John
Lacy)=バートンスノーボード共同最高経営責任者は、「当社の創業者であるジェイクは、われわれが心から愛するスノーボードというスポーツを創り出した人物であり、スノーボーディングの魂のような存在だった」とその死を悼んだ。
カーペンター氏は以前にもがんにかかっており、11月9日にはそれが再発したことを従業員にメールで伝えていた。「信じられないことに、またリンパ腺に腫瘍が見つかった。助かる確率が高いとはいえ、大変な闘いになるだろう。恐ろしい事態ではあるが、家族がいることが大きな支えとなっている。私にはこの会社や友人たち、そしてスノーボードがある。復帰するつもりでいるが、未知のゾーンに分け入るに当たり、後の心配がないのは心強いことだ」と同氏はつづっていた。
学生時代からスキーに親しんでいたカーペンター氏は、雪上でサーフィンをしたら楽しいのではないかと考え、スノーボードを発明。手作りのスノーボードを販売していたことから、1977年にバートンスノーボードを創業した。同氏はスノーボードやそのカルチャーを現在の形に発展させた立役者で、同社は1億5000万ドル(約162億円)を売り上げるまでに成長した。同氏の働きかけもあって、スノーボードは98年の長野オリンピックから冬季五輪の正式種目として採用されている。また、同社は東日本大震災に見舞われた日本のため、2011年から東北支援プロジェクト「ライド東北スタンプラリー(RIDE TOHOKU STAMP RALLY)」を数年にわたって実施した。
2022年3月13日(日)、ジェイク・バートン・カーペンターのレガシーを讃える世界的記念日に参加しましょう。 どこにいようが、何をしていようが、ジェイクがみんなを1つにします。 スノーボード、サーフィン、スケートボード、ハイキング、ギアのメンテナンス……、何だってOK!
クリエイティブになって、思いっきり楽しみましょう! #RideOnJake を付けて、あなたの3月13日をシェアしてください。
ジェイクのストーリー
ジェイクは、常に「誰もが楽しめるスノーボード」を望んでいました。 そして、いつでも思いっきり楽しむことを忘れませんでした。 彼が抱いていた夢、彼の根気強さや寛大さは、私たちへの贈り物です。 スノーボード業界の一員として、コミュニティの一員として、共につながり、ジェイクの功績を讃えましょう。ジェイクの精神を後世へ伝え、何より横乗りへの愛を共有し、1分1秒を有意義に過ごしましょう。
「スナーファーに魅了された彼は、初めてスノーボードメーカーを成功に導いた男だ」
The New
York Times
「スノーボードはジェイク・バートンに貸しがある。それは思い出さ」
Snowboarder
Magazine
The Mine
is Ours
何よりジェイクが情熱を注いだもの、それはプロダクト作りです。もちろん楽しむことを忘れず、細かなディテールにまでこだわる。何かを手に取れば、いつだって「どうすればもっと良くできるかな?」が口癖でした。だからこそ、ジェイクがクリエイティビティを吐き出すコレクション、MINE77が誕生したのです。
ジェイクは現場主義で、何事においても自分のやり方にこだわっていました。ジェイク以外に、彼の人生を語れる人はいません。では、ジェイク自らが綴った年表をご覧ください。
ジェイク・バートン・カーペンター:
1954年〜2019年
2019年11月20日、Burton Snowboardsの創設者、ジェイク・バートン・カーペンターが安らかに旅立ちました。癌の再発による合併症が原因でした。ジェイクはBurtonの生みの親であり、スノーボーディングのソウル、そして何よりも私たちが愛するスノーボーディングを与えてくれた人です。
さかのぼること数ヶ月前、ジェイクは自分の人生を振り返っていました。ここで、ジェイク自らが綴った年表を共有します。
ジェイク・バートンの歩み
1954年4月29日
4兄弟の末っ子として、ニューヨーク州ニューヨークに生まれました。
1960年代
1961年冬
家族で初めてのスキー旅行へ行きました。場所はバーモント州のブロムリーマウンテン。このときから、雪や山が大好きになりました。
1967年2月17日
兄のジョージ・ホイットニー・カーペンターが、海兵隊の伍長として従軍していたベトナムで戦死しました。彼は、銀星章と名誉負傷章を授与されました。
1968年秋
マサチューセッツ州ノースアンドーバーのブルックススクールに入学しました。ここは父や兄も通った学校です。2年後、“スモモ”というあだ名の校長(父や兄の代からの校長)によって退学にさせられました。学校での私は、生意気な劣等生として有名でしたね。
1968年12月
クリスマスプレゼントにサーフボードをお願いしましたが、結果もらったのは勉強机でした。結局自分で$10のスナーファーを買い、ロングアイランドの丘で友人たちとたくさんの時間を過ごしました。
1970 年代
1970年秋
コネチカット州コーンウォールのマーベルウッドスクールに入学しました(セカンドチャンスとしての全寮制高校として知られている)。この頃の私はギアを入れ替え、相当ながんばり屋になっていました。勉強もバイトも一生懸命で、スキーチームにも所属していました。思い出すと、体を動かすことばかりしていましたね。モホークマウンテンに行ったり、校内でスナーファーをしたり、タッチフットボールやバスケットボールにも夢中でした。
1971年9月21日
母のキャサリン・キティ・カーペンターが白血病のため亡くなりました。息子に先立たれたことも精神的負担になっていたと思います。17歳の私は大きなショックを受け、ひどく落ち込みました。母は、いつも父から私を守ってくれました(父から暴力を受けたことはありませんが、彼が望むような息子ではありませんした)。母が亡くなってからの父は、最高のシングルファザーになりました。
1972年6月
卒業生総代として、マーベルウッドスクールを卒業しました。高校最後の学期、私はニューヨークへ戻って自主学習プログラムを受けていました。同時に、造園業のビジネスも始めました。資本は古いステーションワゴンと2本の熊手、ゴム袋だけでした。
1972年秋
コロラド大学ボルダー校に入学しました。当時30,000人くらいの生徒がいましたが、私に知り合いはいませんでした。大学のスキーチームのトライアルにも落ちてしまいました(NCAAでも屈指の強豪校なんです)。チームのほとんどはヨーロッパのエリートスキーヤーが占めていましたね。私を落としたビル・マロットは、この数十年後FISでの天敵となり、私は彼を訴えました(私は人生で2人の人間を訴えましたが、そのうちの1人が彼です)。あの頃、スノーボーダーのオリンピック出場への道は、決してフェアなものではなかったので。だからこそ、スキーヤーが関与しないシステムが必要で、当然のことながら結果は勝訴でした。思えば、このコロラド時代がスキーヤーとしての人生の終わりだったのかもしれません。
1973年春
孤独や寂しさもあり、私はコロラドを去ることにしました。東海岸へ戻り、ニューヨークでサラブレッド競走馬のトレーナーとしての道を歩もうとしたんです。しかしながら、レース前に馬の金○に電気ショックを与えている光景を目にし、すぐに辞めました。動物が大好きですから。
1973年秋
ニューヨーク大学の夜間クラスに通い始めました。その後4年間通い、水泳チームのキャプテンにまでなりました。
1977年6月
ニューヨーク大学を卒業し、マンハッタンの小さな投資銀行に就職しました。そこは、姉の友人であるヴィクター・ニーダーホッファーが経営していました。
1977年12月
毎日12〜14時間も働く生活に嫌気がさし、同時に、(心のどこかで)雪上でのサーフィンはスポーツとして成り立つはずだとも思っていました。ニューヨークでの仕事を辞め、バーモント州ロンドンデリーへと引っ越しました。その頃は住み込みのヘルパーをしており、馬の面倒も見ていました。敷地内に倉庫があり、そこで“Burton Boards”を立ち上げたんです。夜はバーテンダーのバイトをし、昼はスノーボードのプロトタイプを作り、近所の丘でテストしていました。
1978年
この頃のプロトタイプ作りは、家具から着想を得た方法(蒸気でアッシュを曲げる)やボートの構造を参考にした方法(チョップド繊維ガラス)をベースにしていました。ピーター・メルの父親(ジョン・メル)が所有するファクトリー、Freeline Designでサーフボードの構造を研究したこともありました。昼間はサーフボードを作っているので、夜の間だけ使わせてもらっていたんです。ジョン・メルは良き友人であり、幾度となく私を励ましてくれました(メモ: この頃の話は、とてもおもしろいインタビューになるはず)。
1979年1月
ミシガン州マスキーゴンで開催されたNational
Snurfing Contestのオープンクラスで、私は優勝しました。賞金は$300でした。
1980年代
1981年
バーモント州のロンドンデリーからマンチェスターへと工場を移しました。初めて買ったマイホームの庭にあった倉庫が新しい工場です。倉庫が工場で、自宅のリビングがストア、地下室がストックルーム、ベッドルームがオフィスです。カタログ問合せの電話は24時間鳴りっぱなしでした。
1982年1月1日
ロンドンデリーのレストランで、生涯の伴侶となるドナに出会いました。その日は大晦日で、ちょうど1982年になった直後でした。当時のドナはニューヨークシティのコロンビア大学に通っており、バーモントで年越ししていたんです。その後ハングアウトするようになって、工場の手伝いをしてくれていました。
1983年5月21日
その日は土砂降りでした。29歳の私は、19歳のドナ・ガストンと結婚しました。コネチカット州グリーンウィッチにあったドナの実家で式を執り行いました。式に参列したのは12人でしたが、その後の披露宴には400人ものゲストが出席しました。雷が鳴る荒れた天気のなか、私は混乱していました。過去の様々な出来事が頭のなかをグルグルと回り、「もしかしたらこれは間違いなのでは?」「結婚祝いを返すべきなのでは?」と思ってしまったほどです。もちろん、間違いなんかではありませんでした。
1983年冬
スノーボーダーのリフト乗車を認めてもらうため、ストラットンマウンテンのパトロールと一緒に滑ったのがこの年のことでした。その日は幸運にも雪が良く、私も仲間たちも上手にボードを扱うことができました。その後、ストラットンマウンテンはスノーボーダーのリフト乗車を許可した最初のメジャーリゾートになりました。
1984年冬
妻の家族と一緒に、オーストリアへ“スキー”旅行へ行きました。みんなはスキーでしたが、もちろん私はスノーボード。私は毎晩のようにスキー工場を訪れ、スチールエッジのスノーボードの製造に賛同してくれる工場を探し回りました。ほとんどが門前払いでしたが、Keil Skiは違いました。ハー・ケイルと私はすぐに意気投合し、スキーの構造を採用し、スチールエッジやPテックスベースを備えたスノーボードが誕生することになったんです。
1985年
ドナと私はヨーロッパへ引っ越しました。ヨーロッパでのBurtonは、オーストリア・インスブルックから始まりました。その直前、私はバーモントのミドルベリー大学で6週間の集中的語学プログラムを受けました。まずはドイツ語を理解しないといけませんからね。向こうでは、インスブルックからほど近いイーグルスに住んでいました。自宅兼オフィスです。車庫には、スキーと同じ構造のスノーボードが並んでいました。ヨーロッパのマーケットに向けて、Keil Skiに依頼して作ったものです。私はプロダクトに集中し(ハー・ケイルと共に)、流通に関してはドナにまかせていました。
1985年3月
オーストリア・インスブルック在住のハーマン・カプフェレにお願いし、ヨーロッパでのビジネスをやりやすくするため、倉庫と店舗スペースを備えたオフィスを探してもらいました。これがBurton Europeの始まりです。
1989年11月12日
長男ジョージ・バートン・カーペンターがバーモント州ラトランドで生まれました(バーモントでは、狩猟期の初日に麻酔専門医を見つけるのは非常に困難なんです)。
1990年代
1992年
Burtonの工場とオフィスをバーモント南部から北部(バーリントン)へと移しました。この頃、スタッフは100人ほどでした。
1993年8月18日
次男テイラー・ガストン・バートン・カーペンターがバーモント州バーリントンで生まれました。
1993年冬
3歳になるジョージにスキーを教えました。危うく大惨事になりそうな事故もありました。これが私にとって最後のスキーになったんです。
1994年1月24日
バーモント州ストウでナイターを滑っていたとき、スキーヤーがぶつかってきてしまい脚を骨折しました。私の脚を見た医者はこう言いました。「バットで殴られたレジー・ジャクソンみたいだ!」と。
1996年7月24日
三男ティミー・イートン・バートン・カーペンターが生まれました。
1997年1月13日
「Sports
Illustrated」によるインタビュー記事が掲載されました。タイトルは、
”Chairman of the Board Jake Burton Took a
Childhood Toy & Launched an international Craze (子供のおもちゃを世界的ムーブメントにまで昇華したジェイク・バートン)”でした。
1998年
アメリカン・エキスプレスのCMに出演しました。
1999年
この年から、年間100日滑ることを決めました。
2000年〜2009年
2002年2月
ソルトレイクシティオリンピック期間中、NBC「Today」の企画で、キャスターのケイティ・クーリックにスノーボードを教えました。もちろん私もハーフパイプの会場に足を運び、Burtonライダーのロス・パワーズとケリー・クラークの金メダル獲得をこの目で目撃しました。
2003年1月20日
カナダ・ブリティッシュコロンビア州のレベルストークで、クレイグ・ケリーが雪崩により命を落としました。8人が巻き込まれ、うち7人が犠牲になってしまいました。スノーボード業界全体が深い悲しみに包まれました。
2003年2月23日
日本の長野で、Burtonライダーのジェフ・アンダーソンが事故で命を落としました。
2003年7月
アメリカを離れ、家族と共に世界中の冬を追いかける10ヶ月の旅に出ました。南半球はもちろん、アジアやヨーロッパでのビジネス発展の原動力になったと思います。まず訪れたのは、エクアドルのキト。6つの大陸でスノーボードをし、サーフィンもしました。人生のなかでも、特に思い出深い1年でしたね。
2004年4月
10ヶ月の旅の最後に、ノルウェー・トロムセで開催されたArctic Challengeを観に行きました。その後、フェリーで6時間かけてローフォテン諸島を訪れました。朝はテリエと一緒にサーフィンをし、同じ日の午後、スタムスンドの山をハイクしスノーボードもしました。同日にサーフィンとスノーボードをしたのは、この日が初めての経験でした。
2006年2月
イタリア・トリノで行われたオリンピックを観に行きました。Burtonライダーのショーン・ホワイトとハンナ・テーターがハーフパイプで金メダルを獲得しました。このときのUSオリンピックスノーボードチームのウェアは、Burtonがデザインしたんです。
2006年3月
ジョージ、テリエ、デイブ・ダウニング、DCP等と一緒に、ロシアのコーカサス山脈へ撮影に行きました。常に武装したボディガードに囲まれ、巨大な軍用ヘリコプターで山頂へ向かいました。ジョージと私用のラインをテリエが見つけてくれ、最高のランを滑ることができました。
2007年2月14日
この日はストウに120cmもの雪が降り、ストーンハットでバレンタインデーを過ごしました。
2009年3月26日
世界規模の経済的危機を受け、全社員の給与の減額と北米社員の1%をリストラすることを余儀なくされました。
2009年12月31日
オリンピックでの活躍も期待されていたBurtonライダー、ケビン・ピアスが外傷性脳損傷という命を脅かす大ケガを負いました。バンクーバーオリンピックに向けての練習中の出来事でした。
2010年〜2019年
2010年1月19日
交通事故によるケガのため、ダニー・デービスがオリンピック出場を断念しました。
2010年2月
オリンピック観戦のためバンクーバーへ行きました。Burtonライダーのショーン・ホワイトが、ハーフパイプで2つ目のオリンピック金メダルを獲得しました。
2010年3月16日
社員に向け、私は以下のメールを送りました。「バーモント州バーリントンの製造工場(BMC/Burton Manufacturing Center)を、純粋な研究開発施設へリニューアルすることを決めました。このプロトタイプ工場は本社の隣になります。結果として、バーモントでのスノーボード生産は終了します。そして、忠誠心ある43名のスタッフが会社を去らなければいけません。非常に残念なことですが、ご報告となります」。
2010年3月3日
CEOのローレント・ポトゥバンが退任したことを受け、私は再びCEOの職に就くことになりました。
2011年1月12日
父エドワード・ティム・カーペンターが91歳で亡くなりました。
2011年1月13日
クレイグ・ケリーの功績に敬意を表し、本社敷地内にできた新しいプロトタイプ工場を“Craig’s”と名付けました。
2011年4月29日
心臓弁の手術をしたことを社員に報告しました。生まれつき僧帽弁逸脱症を患っていたんです。
2011年9月21日
社員に向け、「良いニュースと悪いニュース」という件名のメールを送りました。「悪いニュースは、癌が発見されたことです。良いニュースは、それは完治できるということです。正確にはセミノーマと呼ばれるもので、精巣腫瘍としても知られています(ランス・アームストロングと同じ症状です)」。
2011年12月14日
外傷性脳損傷から雪山に戻ってきたケビン・ピアスの復帰ライドに参加しました。このときの私は、精巣腫瘍の化学療法を受けていました。
2012年1月21日
癌が完治したことを社員に伝えました。
2012年9月27日
ドナと私は、スノーボーダーとして初めてバーモントスキー&スノーボードミュージアム(VSSM)の殿堂入りを果たしました。
2012年11月13日
自分にとっては初めてとなるシグネチャーボード、The Stone Hutを作りました。グラフィックはジミ・ヘンドリックスです。
2013年12月3日
2014
USオリンピックスノーボードチームのウェアお披露目イベントのためニューヨークへ行きました。Burtonがデザインしたんです。
2014年2月9日
ロシア・ソチでのオリンピックにて、スロープスタイルがデビューしました。現地で、Burtonライダーのエニ・ルカヤルビ(銀メダル)とマーク・マクモリス(銅メダル)の健闘を祝福しました。
2014年2月13日
ハーフパイプでは、Burtonライダーの平野歩夢(銀メダル)、平岡卓(銅メダル)、ケリー・クラーク(銅メダル)が大活躍してくれました。
2014年5月9日
長男のジョージがコロラド大学ボルダー校を卒業しました。
2014年5月14日
再びBurtonの会長の座に就きました。それを受け、前COOのマイク・リースがCEOに昇進しました。
2014年12月11日
膝の状態を社員に報告しました。「これまでも自分の健康状態については包み隠さずお話ししてきました。何度も何度も同じ質問に答えるのもあれなので、率直に言います。私の大腿脛骨関節外側部は完全に使いものにならなくなりました。関節鏡処置を試みましたが、無駄な努力でした。つまり、膝の部分的な代替手術が必要です。靭帯をはじめ、膝の大部分は自分のものを残すことができるのでラッキーでした。ただ残念なことに、これで北半球でのシーズンは終了です」と、メールで伝えました。
2015年1月
北京とソウルのBurtonオフィスを訪問しました。そのときのインタビューが
Bloombergにアップされています。
2015年3月5日
膝の移植手術から3週間が経ち、初めて新しい膝でライディングしました。息子ジョージをはじめ、ケビン・ピアスや執刀医のブライアン・ヒューバーが同行しました。
2015年3月12日
ミラーフィッチャー症候群の初期症状が見られたため、私はバーモントのコプリー病院へ搬送されました。これはギランバレー症候群の一種で、とてもレアな症状なんです。搬送後すぐにニューハンプシャー州のダートマス=ヒッチコックメディカルセンターに移送され、3日後には呼吸をはじめ、飲み込むことや目を開けることができなくなると言われました。ドナ曰く、3月15日の時点で私は挿管(気管チューブや摂食チューブ)されたそうです。最初の2週間半で麻痺症状は徐々に広がり、続く2週間半は安定した状態(ほぼ全身麻痺状態)でした。そこからゆっくりと筋肉が回復していきました。麻痺状態は計8週間ほど続き、常に人工呼吸器が欠かせませんでした。結局、人工呼吸器が外れるのに10〜11週間かかりました。ダートマス=ヒッチコックでは、ずっと集中治療室にいました。
2015年3月27日
トライベッカ映画祭で破壊的イノベーション賞を受賞しました。ただ、このとき私は集中治療室のなかでした。
2015年4月22日
ボストンのスポールディングリハビリテーションセンターに移送され、ミラーフィッシャー症候群からの復活を目指してスタートしました。まずは、ナイフとフォークでご飯を食べることから始めたんです。
2015年4月
Burtonのスタッフフォトグラファーが社員全員をCraig’sの前に集め、私のためにお見舞い用の集合写真を撮影してくれました。みんな中指を立てていました。私の家族やBurtonにとって、中指は愛のシンボルなんです。大きくプリントアウトして、いつでも見られるようにと病室に飾りました。写真のキャプションは、“We Fucking Love you Jake”。結局、世界中のオフィスから写真を送ってもらいました。
2015年6月6日
担当医にお願いして、外出許可をもらいました。1978年以来のアメリカクラシック三冠に王手をかけた、アメリカンファラオが出走するベルモントステークスを観るためでした。3人の息子、友人、看護師長、呼吸療法士が同行してくれました。その日は3レースに賭け、結果$5,000を儲けました。施設を出るとき、看護婦のみんなにあげちゃいました。
2015年6月15日
ミラーフィッシャー症候群と診断されてから、初めてストウの自宅に戻りました。
2015年7月
ミラーフィッシャー症候群と診断されてから、初めてBurton本社を訪れました。
2015年8月19日
摂食チューブが取れました。
2015年12月
ミラーフィッシャー症候群と診断されてから、初めてスノーボードをしました。
2015年12月28日
「ニューヨーク・タイムズ」の記者、ジョン・ブランチが闘病について取材してくれました。
2016年2月
新しいCEOにドナを任命しました。
2016年12月
ジェフ・クーンズと共同でシグネチャーボードを作りました。売り上げの全てはChillに寄付されました。「ニューヨーク・タイムズ」でも取上げられました。
2017年3月
親友であり、Burtonライダーでもあるマーク・マクモリスが、カナダのバックカントリーで命に関わる大きなケガを負いました。私はすぐにお見舞いへ行きました。彼もまた、何度も私のお見舞いにきてくれたんです。
2017年12月
2018 USオリンピックスノーボードチームのウェアお披露目のためニューヨークへ行きました。
2018年2月
オリンピックを観るために韓国へ行きました。Burtonライダーのレッド・ジェラード、アンナ・ガッサー、クロエ・キム、ショーン・ホワイトが金メダルを獲得しました。
2018年8月22日
親友であり、医師のブライアン・ヒューバーが白血病と診断されました。“ドクター・セクシー”ことブライアンは、2015年に私の膝の手術を担当してくれました。もちろん、ミラーフィッシャー症候群で苦しんでいるときも常に側にいてくれました。
2018年12月
私自身のコレクション、Mine77をローンチしました。
2019年1月
1年限定で、ドナと私はスイス・チューリッヒへ引っ越しました。アメリカの狂気から逃れるため、そしてヨーロッパのビジネスをサポートするため、もちろんアルプスを滑るためです。
2019年11月10日*
世界中のBurton社員に向け、ジェイクはメールでこう言いました。「信じられないとは思いますが、以前患った癌の再発が発覚しました。初めてのときと同じ腫瘍で、前回の治療では完全に取除けていなかったようです。小さい腫瘍がリンパ節で悪さを始め、癌の再発という形で戻ってきました。
克服できる確率が高いとは言え、困難が待ち受けていることは確かです。
不安を感じてはいますが、家族の存在がそれを和らげてくれます。
会社や友人、スノーボードに対しても同じ気持ちです。また病を克服して戻ってきますが、信頼できる人たちに全てをまかせられるという安心感は、とてもありがたいものです」。
2019年11月21日*
Burtonの共同CEO、ジョン・レーシーが世界中のBurton社員にジェイクの死を報告しました。メールの最後にはこう付け加えられていました。「全ては突然の出来事で、家族や友人はもちろん、私たちみんなにも計り知れない空虚感を与えることでしょう。しかしながら、今こそ私たちの愛と元気をドナ、ジョージ、テイラー、ティミーに送りましょう」と。
*Burtonスタッフによる追記です。
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