大作曲家の音符たち  池辺晋一郎  2022.4.17.

 

2022.4.17.  大作曲家の音符たち――傑作ア・ラ・カルト

 

著者 池辺晋一郎 Wikipedia参照

 

発行日           2021.10.31.

発行所           音楽之友社

 

『音楽の友』誌20184月号~20203月号連載に加筆修正したもの

 

 

はじめに

『音符たち』シリーズの11巻目にして最終巻

これまで取り上げてきたのは、ジャンルを問わず広く作曲した全方位的な作曲家10人――J.S.バッハ、モーツァルト、ブラームス、シューベルト、ベートーヴェン、シューマン、ドヴォルザーク、チャイコフスキー、ハイドン、メンデルスゾーン

名曲の楽譜に並んだ音符たちの「行間」から裏側を覗き、その奥に潜む生き物のような「音」を読み取る

 

第1章        驚くべき自由さ――D. スカルラッティ《ソナタ》集

スカルラッティは1685年ナポリ生まれ。J.S.バッハやヘンデルと同年生まれ。父はイタリア・オペラ史上重要な作曲家。父に倣ってオペラも書いたが、重要なのはチェンバロのための555曲のソナタ。ほとんどが単一楽章

リストやショパン、ラヴェルやバルトーク、プーランクなど近代作曲家にまで影響を与えた。驚くべき自由さに改めて圧倒される

 

第2章        ユニークさ、自由さに驚愕―ヴィヴァルディ《ヴァイオリン協奏曲集『四季』》

1678年ヴェネツィアの生まれ。25歳で司祭になり、ピエタ慈善院付属音楽院でヴァイオリンを教え、オペラ作曲家としても94曲書くほか、膨大な数の作品を遺す

後期バロックに分類され、J.S.バッハ、ヘンデルを始めアルビノーニなど多彩な顔触れ

《和声と創意の試み》というタイトルの12曲からなるヴァイオリン或いはオーボエ協奏曲集の最初の4曲で、5,6,10曲にも標題が付く「標題/描写音楽」だが、そのほかは標題がなく絶対音楽

ユニークさ、自由さに関して、超時代的ともいえる

 

第3章        シンプルながら、名曲!――カール・マリア・フォン・ウェーバー《舞踏への勧誘》

ヴァイオリンとコントラバス奏者だったフランツ・アントンの息子。その兄は歌手でヴァイオリニストのフリードマンで、その娘がソプラノ歌手でモーツァルトの妻コンスタンツェなので、作曲家ウェーバーとモーツァルトは義理の従兄弟同士

バッハからベートーヴェン(1770年生)を古典派と呼び、シューベルト(1797年生)からをロマン派と称するが、ウェーバーはその中間の1786年生まれ

父親の劇団について回り、オペラや付随音楽など多くの作品がある

1911年、ディアギレフのバレエ・リュス「ロシア・バレエ団」がこの曲のベルリオーズ編曲版を《薔薇の精》と題するバレエ曲として発表、大評判となって今日の定番となる

 

第4章        音楽史上重要な作品――リスト《交響詩 前奏曲「レ・プレリュード」》

1811年生まれのハンガリー人。ハンガリー語は話せなかったが、ハンガリー人としてのアイデンティティを終生保ち続けた

人生途上で聖職に就いたこともあって、夥しい数のオルガン曲や宗教音楽がある

死の前年に至って「無調」を宣言しており、先を見据えて次代の音楽を熟考していた

「交響詩」というジャンルの創始者。13曲書いている

《前奏曲》は元々男声合唱曲の序曲だったものを改作し、「人生は死への前奏曲である」というラマルティーヌの『瞑想詩集』から標題をとったもの

終盤のファンファーレはナチの宣伝として使われた

古典的な変奏曲形式とは全く違う、何かを「語る」ためのこの自由な変奏曲は、R.シュトラウス、フランク、シェーンベルクのどの交響詩の先鞭をつける音楽史上重要な作品

交響詩は、管弦楽によって演奏される標題音楽のうち、作曲家によって交響詩(symphonic poem)と名付けられたものを言う。音詩(tone poem)や交響幻想曲(symphonic fantasy)などと名付けられた楽曲も、交響詩として扱われることが多い。楽曲の形式は全く自由であり、原則として単一楽章で切れ目なく演奏されるが、中には多楽章制の交響詩も存在する。また、標題つきの交響曲の一部には、交響詩と名付けても差し支えないようなものがある。文学的、絵画的な内容と結びつけられることが多く、ロマン派を特徴づける管弦楽曲の形態である

 

第5章        音の装飾に付した表情と意味――ショパン《夜想曲(ノクターン)

純粋な管弦楽曲はない。管弦楽を使った曲は、ピアノ独奏を伴うものだけ

「ノクターン」という用語を初めて使ったのはジョン・フィールド(17821837)。アイルランド出身のピアニストで、19曲の「ノクターン」(181335の作)が重要。リストはこれらを評して「無言歌、即興曲、バラードなど様々な表題の下に現れたすべての作品のために道を拓いた」といった

 

第6章        巨人が成し遂げた奇跡――ワーグナー 楽劇《トリスタンとイゾルデ》~《前奏曲》と《愛の死》

ワーグナーが路線を「楽劇」に改めて初めて書いたのが《トリスタン》(185759)で、ある意味「現代音楽」の出発点と位置付けされる作品

オペラ/楽劇というジャンルの最高到達点を築いたのはまさに奇跡で、トリスタン和音(4つの「4和音」と音3つの「増6の和音」がある)と、この作品における転調法を現代音楽の出発点とする説が有力

 

第7章        学習の成果と自由奔放――ベルリオーズ 《序曲「ローマの謝肉祭」》

ベルリオーズは作曲家史上最大の奇人。フラジオレット(縦笛)、フルートやギターで音楽の勉強をしたという点も希少、ピストルによる自殺・殺人未遂も前代未聞

管弦楽法の名手、文筆にも優れ、評論活動でも活躍

この曲は、オペラ《ベンヴェヌート・チェッリーニ》の第2幕への前奏曲

 

第8章        想像を絶する天才――パガニーニ《24のカプリース》

158小節からなり、単旋律だけではなく和音や対位法的部分もある変奏曲で、主題と11の変奏+フィナーレという形式だが、その主題が「たった12小節」の単旋律

「カプリース」は仏語、イタリアでは「カプリッチョ」で、奇想曲/狂想曲という、自由な、形式にとらわれない楽曲のこと

ヴァイオリンの天才だが、生涯病気に苦しみ、水銀中毒が死因といわれる

作品のほとんどはヴァイオリン曲で、少しだけギター作品がある

ヴァイオリン協奏曲は6(6番は未完)2番の第3楽章《ラ・カンパネッラ》が有名だが、それ以上にほかの作曲家の創作の素材になったのが《カプリース》の第24番の主題

リストの《パガニーニによる超絶技巧練習曲集》(1838)は、《カプリース》の1,5,6,9,17,24番とヴァイオリン協奏曲1,2番の一部を、1851年に改訂された《パガニーニによる大練習曲》は、3曲目を《ラ・カンパネッラ》に変えたピアノ曲集

シューマンの《パガニーニのカプリースによる6つの演奏会用練習曲》(1833)は、Op3(5,9,11,13,19,16)Op10(12,6,10,4,2,3)2曲あり、24番を扱っていないのが特徴で、そこにシューマンの矜持を感じる

ブラームスの《パガニーニの主題による変奏曲(186263)は、24番を主題に変奏14づつの2(Op35-135-2)からなる大作

ラフマニノフの《パガニーニの主題による狂詩曲》(1934)は、独奏ピアノと大編成のオーケストラで実質協奏曲。序奏+主題+24番の変奏

《ラ・カンパネッラ()》も同じように他の作曲家たちの素材となった

リストは、《パガニーニの《ラ・カンパネッラ》の主題による華麗なる大幻想曲》(183132)、前記《超絶技巧練習曲集》(1838)、《パガニーニの《ラ・カンパネッラ》と《ヴェニスの謝肉祭》の主題による大幻想曲》(1845)、同じく前記の《大練習曲》(1851)と、4回も《ラ・カンパネッラ》をベースに作曲

ブゾーニやアムランも《ラ・カンパネッラ》による作品を書いている

 

第9章        逡巡のかけらさえない伸びやかさ――ヘンデル《オラトリオ:メサイア》

J.S.バッハと並ぶバロックの大家。両者に交流はないが、ヘンデルと同年生まれのスカルラッティはチェンバロやオルガンの競奏をしている

人生の後半、イギリスに帰化、ジョージ・ハンデルと呼ばれ、晩年失明するが、多くの曲を遺す

2部の終わり、39曲目が《ハレルヤ》

47曲、180分の演奏を、わずか24日で書いたといわれるが、逡巡のかけらさえない伸びやかさに満ちているのは間違いなく、驚くべき、巨大な作品としか言いようがない

 

第10章     下降しつつの上昇気流――ボロディン《弦楽四重奏曲第2番》

1900年代初頭のパリに「アパッシュ」という若者の芸術家グループがいた。世紀末から裏路地などに跋扈していたチンピラを指すが、芸術家グループは新しい芸術を標榜し、ドビュッシーの《ペレアスとメリザンド》(1902)を支持して意気軒昂。互いに呼び合う秘密の合図としてボロディンの《交響曲第2番》(187679改訂)1楽章冒頭のモティーフを口笛で吹いたという。アパッシュを魅了したのも頷ける

ボロディンは、1833年ペテルブルクの生まれ。大学で医学と化学を学ぶ。ドイツ留学後母校で教職に就くと同時に創作を始め、「5人組」の1人として国民音楽を標榜

この曲は、下降しつつ、逆に上昇気流に乗った名品

 

第11章     天才少年の傑作――ビゼー《交響曲 ハ長調》

1838年パリ生まれ。フランスの大作曲家でパリ生まれは珍しく、サン=サーンス、グノー、プーランクくらい。だが作風は南仏やスペインへの想いが強い

早熟な天才の習作とされている《交響曲》(1855)は、パリ音楽院在学中のもので、23番と作曲したという説もあるが完全に失われて、唯一現存。1933年音楽院の図書館で発見され、35年ワインガルトナーの指揮で初演

ビゼーの作った力強い名旋律は3つ――《カルメン》第1幕冒頭の前奏曲、第2幕の《闘牛士の歌》、《アルルの女》のメヌエット

20世紀のバレエの巨人ジョージ・バランシンがパリ・オペラ座バレエ団のために《水晶宮》というタイトルでこの曲に振り付けをした(後に《シンフォニー・インC》と改題)

 

第12章     絵は観ずに、歩いただけ――ムソルグスキー《組曲 展覧会の絵》

「組曲」は、かつては「舞踏のいろいろ」で、J.S.バッハの《フランス組曲》は有名だが、その後書かれなくなり、ロマン派時代になって演劇付属音楽を後で組んだものとして復活、その後も演劇やオペラ、バレエの中の主要曲を選んで組み合わせたものとして続く

意図的に組曲を書いた嚆矢はこの《展覧会の絵》。四季や四大元素(火・空気・水・土)もいいが、次々眼前に現れる絵画で曲を書こうという発想も凄い

1839年ロシア北西部の地主の息子。「5人組」の中でも反西欧色が最も強い。アルコール依存症から42歳で夭折

たくさんのオーケストラ版で親しまれているが、元はピアノ組曲として作曲。「プロムナード」というアイディアが出色で、展覧会場を歩くシーンを間奏曲として冒頭を含め5カ所にインサートし、絵画1点に各10曲。プロムナードが自然に絵に溶け込んでいく

 

第13章     リプライズと調性選択と…――ヴェルディ《歌劇 椿姫》

アルプスを挟んで、ワーグナーと同じ年1813年の生まれ

《椿姫》の初演は1853年。アレクサンドル・デュマ(息子、182495)’48年発表した自身の体験小説を自ら戯曲化したもの。原題の『ラ・トラヴィアータ』は、「道を踏み外した女」の意

旋律が出る前に、リズム伴奏だけが1~数小節奏されるのは、ヴェルディ特有の手法、後にジャズなどで多用

「リプライズ」とは、オペラやミュージカルで、一度出た旋律などを再び聴かせることだが、ヴェルディの《椿姫》におけるリプライズは、シーンに合わせた微妙なヴァリエイションは、アリアごとの調性選択の妙と共に、素晴らしい――傑出したオペラに間違いない

 

第14章     9にゾックゾク、こんなことナインス――フランク《ヴァイオリン・ソナタ》

1822年、ベルギーの古都リエージュの生まれ。教会オルガニストとして出発。サン=サーンスらとともにフランス国民音楽協会設立に尽力。’72年パリ音楽院教授。ドビュッシーらの印象派作曲家たちと対抗

この曲は、同郷の若き名手イザイの結婚祝いとして’86年に作曲

9和音(コード・ネーム:ナインス)の多用がユニーク

 

第15章     こだわる、すごさ!――ブルックナー《交響曲第5番》

1824年、リンツ近郊の生まれ。オルガニストから入り、10代から作曲を始める

リンツ大聖堂のオルガニスト時代に交響曲を書き始め、最初が《00番》(‘63)

《第5番》(‘75’77)の初演は、‘772台のピアノで、'94年オーケストラで

一般的に演奏時間は75分とされるが、6025秒から8020秒までの差がある

楽章や音符の解釈による違いで、ブルックナーのこだわりの凄さを表すもの。それが類まれな構成の堅固さを作り上げている

 

第16章     惜しげもなく美しいメロディが――ドリーブ《バレエ コッペリア》

フランスのバレエ音楽の父と呼ばれ、1836年ル・マン郊外の生まれ。バレエ《ジゼル》の作曲者アドルフ・アダンに師事。オペラ座の指揮者を務めた後パリ音楽院教授就任

《コッペリア》のほかに《シルヴィア》、オペラ《ラクメ》(1883)など

《コッペリア》の原作『砂男』は、ドイツロマン派を代表する作家エルンスト・アマデウス・ホフマン。音楽家でもあり、宮廷楽長も務め、モーツァルトを敬愛して自らの名前にアマデウスを入れたという。『クライスレリアーナ』はシューマンに、『くるみ割り人形とネズミの王様』はチャイコフスキーに、『歌合戦』はワーグナーに、短編集『夜景作品集』はオッフェンバックの《ホフマン物語》の題材として提供

バレエは、演出家や振付師の権限で、上演ごとにかなり変わる。最も多いのが曲順の変更で、台本から想定して書いた曲が勝手にほかのシーンに使われているのはざらだし、調性まで変えられたりする

踊りに合わせるだけの、内容希薄な音楽が横行していたバレエ音楽を高度かつ劇に沿うものに変革したのがドリーブで、ロシアのチャイコフスキーに匹敵

 

第17章     愛されてしかるべき名曲――ブルッフ《ヴァイオリン協奏曲第1番》

1838年、ケルン生まれ。作曲家・指揮者として活動。ベルリン王立芸術アカデミー教授

メンデルスゾーン、ブラームスの流れを汲み、ワーグナーは否定。旋律重視。オペラ《ローレライ》(1863)が有名

ヴァイオリン協奏曲は3曲。《第1番》は1866年作曲・初演

スウェーデン人でもないのに《スウェーデン舞曲集》を書き、スコットランド人でもないのにスコットランド民謡に基づき実質的にヴァイオリン協奏曲である《スコットランド幻想曲》を書き、ユダヤ人でもないのにユダヤの聖歌を素材にした実質的なチェロ協奏曲《コル・ニドライ》を書いているのが面白い

 

第18章     北欧らしさを具備した傑作――グリーグ《ピアノ協奏曲》

1843年ノルウェーの生まれ。祖父はスコットランドからの移住。ライプツィヒ音楽院に学び、卒業後帰国して指揮者・ピアニストとして活躍

イプセンからの依頼で《ペール・ギュント》の付随音楽として作曲。演劇として初演された時のポスターがムンクの作。歳の順からは、イプセン・グリーグ・ムンク

《ピアノ協奏曲》(1868)の初演はコペンハーゲンで’69年、その時のピアニスト、エドムント・ノイペルトに献呈。翌年ローマでリストに会って賞賛される

 

第19章     まさに、作曲技法の粋――サン=サーンス《交響曲第3 オルガン付き》

1835年、パリ生まれ。3歳で作曲したといわれ、13歳でパリ音楽院入学。オルガンと作曲を学び、15歳で最初の交響曲を書き、185777年パリ最高のポジションといわれるマドレーヌ教会のオルガニスト。即興演奏の名手。’71年国民音楽協会設立

世界初の映画音楽作曲――無声映画《ギーズ公の暗殺》(1908)

《第3番》(1886)は、ロンドンのフィルハーモニー教会の委嘱。自身の指揮で初演

大編成のオーケストラで、楽器の性能を知り尽くしていることが素晴らしいが、それ以上に作曲技法の粋は凄い。しかも19世紀中葉からこの分野に加わったフランスから生まれたことが驚異。神童ならではの名作

 

第20章     オーケストラという楽器のフル展開――リムスキー=コルサコフ《スペイン奇想曲》

1844年、ノヴゴロド近郊生まれ。海軍兵学校に入った後、ピアノを始める。71年ペテルブルク音楽院教授。1905年政府批判で解雇されたが、音楽院は現在リムスキー=コルサコフ記念サンクトペテルブルク国立音楽院と改称

同輩の曲を直したり編曲したり、弟子の顔ぶれもグラズノフ、ストラヴィンスキー、プロコフィエフと凄い。合作が多いのも特徴

《スペイン奇想曲》(1887)は、ペテルブルクのマリインスキー劇場管弦楽団により作曲者自身の指揮で初演。スペインの作曲家による民謡・舞曲集から素材を選ぶ

大編成ではないが、構成の妙は素晴らしく、管弦楽法の粋を尽くした華麗さに圧倒

ベルリオーズ、ラヴェル、ストラヴィンスキーなどと並ぶ管弦楽の達人

 

第21章     純度の高い祈り――フォーレ《レクイエム》

1845年、トゥルーズ南の国境の地に生まれる。9歳でパリの古典宗教音楽学校に入り、ピアノと作曲法をサン=サーンスに学ぶ。国立音楽・演劇学校の教授

後に編み直した《ペレアスとメリザンド》は、ドビュッシー(オペラ)、シェーンベルク(交響詩)、シベリウス(演劇音楽)などと同様、メーテルリンクの戯曲を素材としている

室内楽に名作が多い

《レクイエム》は、「働きをやめた者のためのミサ」とも「死者のためのミサ」ともいうが、「鎮魂ミサ曲」は誤り。最古はオランダのオケゲム(141097)、続いてモラレス(150053)、時代を経てゴセック(17341829)、モーツァルト(175691)、シューマン(181056)、ヴェルディ(18131901)など。ドイツ語のブラームス(183397)、ラテン語/英語混在のブリテン(191376)の《戦争レクイエム》や近現代でも多い

フォーレは、1888年の初稿後、何度もこの曲を改訂

ソプラノ独唱の最高音もそれほど高くな。スコアにはdolce(甘く柔らかに)が多出、「死者のための」というより、純度の高い祈りの曲。あまたの《レクイエム》の中で孤高の存在、フォーレの全作品の中でも傑出

 

第22章     ひとつの奇跡――R. シュトラウス《交響詩 ドン・ファン》

1864年、ミュンヘン生まれ。後期ロマン派の代表。宮廷歌劇場オーケストラの首席ホルン奏者の父から徹底した音楽教育を受け、若くして作曲家・指揮者として活動。ワーグナーの影響で標題音楽に傾倒し、’89年《交響詩 ドン・ファン》を初演、賛否相半ば

以後次々と交響詩を発表するが、’987曲目の《英雄の生涯》を最後に、以降はオペラに。'05年《サロメ》で大成功。前衛的、エロティックで大胆な内容で、メトロポリタンでは1回だけで中止に追い込まれたが、マーラーなどの若手から大喝采

ドン・ファンの伝説は様々な音楽の素材になっているが、シュトラウスはオーストリアの詩人レーナウの詩が基本。レーナウの詩も多くの作曲家によって音楽化

完璧なオーケストレーション、全ての楽器のバランスの素晴らしさ、後期ロマン派の終焉間近、世紀の狭間に生まれた20代半ばの若者によるひとつの奇跡

 

第23章     異端なんて、誰が言ったん?――サティ《3つのジムノペディ》

1866年、ノルマンディ生まれ。異端とされるが、パリ音楽院で7年も学んでいる。酒場でピアノを弾き、芸術論をたたかわせながら作曲を始め、革新的な作品を発表する

《ヴェクサシオン》(1895頃、「嫌がらせ」の意)では、26拍の楽譜を840回繰り返す。注釈に、「予め心の準備が大切。深い沈黙と真剣な不動性の姿勢によって」と付記している

「永遠の繰り返し(ダル・セーニョ)」の指示さえある。後の「ミニマル・ミュージック」に通じるとも言われ、《家具の音楽》ではそこに「ある」だけの音楽というコンセプトで、真剣に聴かないよう指示されているが、後のBGMの嚆矢と言われる

サティの独自性はたくさんあるが、多くの芸術家とも交流しており、決して孤立していたわけではない

3つのジムノペディ》は'88年の作曲、古代ギリシャの祭典で、その模様を描いた壺から発想を得た

現在演奏されるのはピアノ曲かシャンソンだが、オペレッタやマリオネット、バレエなどもあり、音楽史に現れるべくして現れた重要な作曲家

 

第24章     音楽以上の音楽――ドビュッシー《牧神の午後への前奏曲》

1862年、パリの北西、サン=ジェルマンの森近くの生まれ。10歳でパリ音楽院へ、ピアニストを目指すが挫折して作曲へ。’84年「カンタータ《放蕩息子》」でローマ大賞

マラルメの詩『牧神の午後』に出会って閃いたのが《牧神の午後への前奏曲》(‘92’94)

冒頭のフルート・ソロはド#で開始。フルートの機構上不安定になる音を選び、ニンフたちがたむろするけだるい午後の空気を醸し出している

ディアギレフの「バレエ・リュス」が舞台化したのは1912年、振り付けをし自身も踊ったニジンスキーは不思議な掌の形で牧神=半獣神を表現。ストラヴィンスキーの《春の祭典》が大騒ぎになる1年前のこと。この曲の人脈を観るとき、この曲が音楽を超えた「音楽以上」のものであることが証明される

 

 

 

ひもとく

2022.04.13. 朝日

音楽家は書く 意味超える情感、にじむ文章 本社編集委員・吉田純子

学生時代の岩城宏之(左)と山本直純。2人の「ガキ大将」は小澤征爾らとともに、日本のクラシック界の底上げと大衆化に貢献する存在となってゆく

 音楽と物書き、どちらが本職か。そう問われるほどよく文章を書いたのが指揮者の岩城宏之だ。2月に復刻された『森のうた』は、途方もない才能と愛嬌を併せ持つ盟友、山本直純との日々をつづる畢生の著である。

 念願の東京芸大に入ったものの、指揮者になりたくて仕方がない作曲科のナオズミ(山本直純)と打楽器専攻のぼく(岩城)は「もりそば二杯進呈」をダシに芸大生を集めまくり、本当に学生オーケストラを結成してしまう。最高学府の権威も何のその。上野動物園の猿山の前で「振りてえよォ」と2人で悶え、カラヤンのリハーサルに一緒に決死の思いで潜り込み、涙もかれる失恋を慰め合う。かの「のだめカンタービレ」のはるか上を行くエピソードがこれでもかと続く。ひたむきな無鉄砲さがいじらしく、いとおしい。

一つに束ねる力

 クライマックスは、その学生オケを率い、ショスタコービチの「森の歌」をナオズミの指揮で上演するラストシーンだ。スターリンもコルホーズもどうでもいい。高揚感で突き抜ける大合唱付きの管弦楽曲は、それだけでプロアマ問わず、当時の若い音楽家たちを虜にしていた。

 奏楽堂という恭しい名のオンボロ木造ホール前は、長蛇の列に。「さあ、行け!」。奮い立つナオズミの背中をたたくと、たっぷり汗を吸った上着がピチャッと音をたてる。その筆は一瞬にして、本番直前の薄暗い舞台袖へと読み手を連れてゆく。

 ここから10ページ、圧巻のフィナーレがはじける。何十もの声部を同時に聴き、ひとつの響きへと束ねてゆく指揮者の特殊能力が、文章でもさえ渡る。至上のライバルであり親友だったナオズミとの4年間が、楽曲や演奏の描写とともに、見事な対位法で編みあげられてゆく。

 この2人の「弟分」的な世代である池辺晋一郎著『大作曲家の音符たち』は、元文学青年らしい洒脱さで、古今東西の作曲家の「語り口」を解き明かす。「意識しなくても口をついて出る」というおなじみのダジャレは、言葉を「意味」と「無意味=音」の融合とするならば、「無意味」の領域に限りなく近い世界での遊戯なのだろう。

 かように音楽家とは、言葉からこぼれ落ちる感情を、音という別の器ですくいあげながら生きている人々のことである。ちょっとした形容詞の選び方だったり、間の取り方だったり。そうしたところに、音楽のたたずまいがふっとにじむ。そのグラデーションを意識して読むと、音楽家の文章は殊更に面白い。

のびのび無軌道

 日本で初めて本格的なオペラを書き、オーケストラをつくり、クラシック音楽界の文明開化を大いに牽引した山田耕筰の『自伝 若き日の狂詩曲』(中公文庫・1210円)の文章に宿る色香やセンチメンタリズムには、小節線の軛(くびき)を逃れ、憧れの心が無軌道にのびのびと広がってゆく「この道」や「からたちの花」の旋律が重なる。この人が書く日本初の星占い本『生(うま)れ月の神秘』(実業之日本社・品切れ)には、天性の底知れぬ好奇心と諧謔精神こそが、パイオニアとしてのエネルギーの源だったのだと納得させられる。

 中村紘子著『ピアニストという蛮族がいる』は、よくある身内褒めとは無縁の潔い分析本だ。「理不尽なまでの時間の浪費」と「滑稽とも思える集中」の世界に生きる人生の、限りなき豊かさを伝えてゆく率直な筆致には、芸術の枠を超えた社交を好んだ人ならではの華がある。凜としておもねらない。

 反戦の思いを濃密に塗り込めた合唱曲の数々を書いた三善晃著『遠方より無へ』(白水社・品切れ)のすごみも唯一無二だ。激しくも静謐。シニカルで純朴。何ひとつ矛盾なく同居させる音楽の極意がここにある。=朝日新聞202249日掲載

 

 

(語る 人生の贈りもの)池辺晋一郎:1 仲間と奏でた、即興の楽しさ

2021112 500分 朝日

 《クラシックだけじゃなく、テレビや映画や芝居の音楽を書いたり、雑誌でエッセーの連載をしたり、司会したり、演奏会をプロデュースしたり。忙しいですね》

 そんなことないですよ。本や詩もよく読むし、最近もいい映画を見ました。小さい頃から好きなこと、僕自身の心が喜ぶことしかできない性分なんです。コロナの間は作曲に集中できたので、オペラを1本書きあげました。12月、姫路で初演します。おかげで腰を痛めちゃって、大変だったけど。

 《たくさんの締め切りに追われているのに、楽しそうですね》

 僕には、締め切りを1週間早いと思い込める「特技」があるんです。だから旅にも飲みにも行けます。この習慣は、NHK大河ドラマを何度か引き受けた時に身につきました。もともと、何かに追われている状態も人に負い目をつくるのも好きじゃないんです。

 締め切りに間に合わなかったのは一度だけ。師匠の矢代秋雄さんが亡くなった時ですね。東京演劇アンサンブルに「走れメロス」の音楽を頼まれていたんですが、葬儀を手伝わなきゃいけなくて。

 スタジオに行き、いつもの仲間に、基本となる音の動きだけを口頭で伝えました。太鼓は一定のリズムで。僕がキューを出したら、フルートはこんな風にひゅうって入ってね。ハープは適当なタイミングでグリッサンドよろしく、みたいな。そしたらみんな張り切って、どんどん勢いづいちゃって。誰だって、楽譜に縛られるより、即興の方が楽しいわけですよ。

 ちなみにその芝居は大好評でした。音楽はやっぱり、作曲家の頭の中じゃなく、現場で生まれる方が自然なのかもしれません。(聞き手 編集委員・吉田純子=全18回)

     *

 いけべ・しんいちろう 1943水戸市生まれ。東京芸大卒。66年、日本音楽コンクール優勝。ザルツブルクテレビオペラ祭優秀賞、国際エミー賞、日本アカデミー賞最優秀音楽賞など受賞、著作多数。2018文化功労者

 

(語る 人生の贈りもの)池辺晋一郎:2 本に没頭、言葉好きで文字「発明」

小学生の頃、故郷の水戸で。病気で1年遅れて入学したが、注目を追い風に持ち前の社交性を磨いていった

 作曲家・池辺晋一郎

 《音楽には、小さい頃から興味があったのですか》

 子供の頃、レコードがぐるぐる回るのに釣られ、座ったまま一緒に回っていて、コイツ、一体どうしちゃったんだと父親に心配されたことはあったらしいです。でも、両親とも音楽はあくまで趣味でしたし、僕の方はむしろ本を、特に詩をよく読んでいました。今や、しがない作曲家ですけど。

 五線紙というものがあることも知らなかったので、ピアノをたたいて、好きなように曲を作って楽しんでいました。楽譜を読めるようにはなってからも、書かれているものをそのまんま弾くのはあんまり好きじゃなかったですね。

 《神童だったんですね!》

 いや、全然。病弱でしんどかったですけど。それで、小学校に入るのが1年遅れました。医者が母に、この子は長生きできないよ、と言ってるのがきこえてきた。

 《……ダジャレは池辺さんの代名詞みたいなものですが、何か言わなきゃって、いつもそんなことばかり考えてるんですか》

 いや、何も考えてない。勝手に出ちゃうんですよ、口から。後から、あー僕、また言ったなって気付くんです。黒澤明監督には、お前は病気だって言われました。

 《言葉と音楽が、池辺さんにとって、等価値の遊び道具になっているということでしょうか》

 ああ、そうかもしれない。僕は文章を書くのも好きだけど、それ以上に言葉というもの自体が好きなんです。言葉が好きすぎて、自分にしか使えない文字を「発明」したこともあります。それでいろいろ書くんだけど、翌週には自分でも読めなくなっている(笑)。

 《なぜ幼くして、そんなに言葉の世界に没入したのでしょう》

 うちの両親が、かなりの蔵書家だったんですよ。片っ端から読んで、飽きたら近所の、やっぱり本がたくさんある幼なじみのちっちゃんの家に、いつも遊びに行っていました。それが、今年4月に亡くなった立花隆さんでした。(聞き手 編集委員・吉田純子)

 

(語る 人生の贈りもの)池辺晋一郎:3 僕を作った、ちっちゃんの助言

中学生の頃。クラリネットとサックスを吹いていた

 作曲家・池辺晋一郎

 《作家の立花隆とは幼なじみ。「ちっちゃん」と呼んでいた》

 もともと母親同士の仲が良かったんです。彼は三つ年上で、妹の直代(なおよ)さんが僕の同級生。僕がちょうど小学校を卒業する頃、故郷の水戸から東京へ引っ越したのですが、その時も両家一緒でした。

 《立花さんは、池辺さんがアシスタントをしていた武満徹さんに関する大著も書かれています。影響を与えた部分もあるのでは》

 どうかなあ。大学生の時に、よくグレン・グールドの話はしたけれど。彼は東大の駒場寮にいて、僕の家からは一駅だったので、よくメシを食べにきていました。

 そういえば、僕が東京芸大に入ったばかりの頃、彼が「駒場文学」に発表した前衛詩に曲をつけたことがあったっけ。「うたげ」っていうとってもシュールな詩。初演もやりました。この頃、最先端の現代音楽に一瞬かぶれていたので、これが十二音技法で書いた僕の唯一の作品になりました。

 学生運動と本来の自分の気持ちとの折り合いをつけることが難しくなり、悩んでちっちゃんに相談したこともありました。そしたら「これを読め」と、共産主義を批判したロシアの哲学者ニコライ・ベルジャーエフの全集を薦められた。8巻くらいあったけど、読破して。10代でそんなの読んでるヤツなんて周りにいなかったので、変人扱いされましたが、ちっちゃんのおかげで僕は、自分の力でものごとを考え、誰に対してもブレずに僕自身の考えを言える人間になれたような気がしています。

 《芸術も文学も、何もかも貪るように吸収していた多感な少年が、なぜ、音楽一本に集中していくことになったのでしょう》

 水戸に住んでいた祖父母の家の近くに、東京芸大の作曲科の学生がいたんです。高校の頃、祖父母の所に遊びに行って、デタラメに書いた楽譜を置いて出かけたら、祖母が風呂敷に包んで、その人のところに持っていっちゃったんです。僕の全く知らないうちに。(聞き手 編集委員・吉田純子)

 

(語る 人生の贈りもの)池辺晋一郎:4 プロに学び、片っ端から詩を曲に

高校のオーケストラ部で。仲間たちや壁の楽聖たちの熱いまなざしを一身に受け、ピアノを弾く

 作曲家・池辺晋一郎

 《遊びにきていた孫が戯れに書いた「作品」を、祖母がプロの音楽家の卵に見せてしまった。才能があると思ったのでしょうか》

 いや、この子はいったい何をやってるんだ、と不思議に思ったみたいです。そしたらその人が、その場で自分の師匠に電話をかけてくれた。この子は、すぐに専門の勉強をするべきだと。その先生というのが、のちに大学で師事することになるフランス和声の大家、池内友次郎先生だったんです。

 先生のお弟子さんを紹介してもらい、高校2年になる前の春休みから、ちゃんと作曲の勉強をするようになりました。あの時の、視界がぱあっと開ける感覚を、今でも鮮烈に覚えています。感興の赴くままにデタラメに書いていたのが、その背景にある理屈がわかっちゃったもんだから、面白くてしょうがない。手品の種明かしをされてしまったようなものです。

 《勉強なんかじゃなくて、後から後から、新しい遊びを教えてもらっているような……

 まさに。対位法で曲をつくる課題をもらった時も、調性を変え、勝手にいくつも書いていきました。合唱曲の課題を好きな詩で書いていいって言われた時は、本当にうれしくて。前にも言ったように、僕は詩が大好きでしたから。北原白秋島崎藤村などを、片っ端から合唱曲にしていきました。その頃にはもう、合唱曲集をつくるつもりでいたんです(笑)。

 入試の時、書き終わって試験官に「この楽譜は返してもらえるんですか」と尋ねたら、「返しません」。えっ! 当時の僕には試験より、1曲できたということの方が重要でした。教室を飛び出し、上野公園のベンチで、ついさっき書いた一音一音を必死に思い起こして書き留めました。だって、将来の曲集に入れなきゃいけないんだもの。「作詞者不詳」でね。

 ちなみに池内先生は高浜虚子の次男で、自身も俳人でした。やっぱり僕は、どこに行っても言葉の世界に縁があるみたいです。(聞き手 編集委員・吉田純子)

 

(語る 人生の贈りもの)池辺晋一郎:5 ドラマの「風景」、はまった楽器

「独眼竜政宗」のテーマ音楽に宇宙的なスケールを与えてくれたオンド・マルトノと奏者の原田節(たかし)さん

 作曲家・池辺晋一郎

 《一種の音響実験みたいな曲も多いですね。大河ドラマ「独眼竜政宗」(1987年)のテーマ曲の「ひゅう~ん」は衝撃でした。時代劇なのに、特撮みたいで》

 オンド・マルトノっていう、電気で音を出す20世紀の楽器なんですよ。「アレは何だ」って問い合わせが結構来たので「八代将軍吉宗」でも使ったら、今度は「また使ってるのか」って(笑)。

 《なぜ、オンド・マルトノを使おうと思ったんですか》

 大河はテーマ音楽だけ、番宣などの事情で前年の秋に録音するんですが、実はこの時だけN響の海外公演が重なり、さらに夏に前倒しされてしまったんです。台本もまだ少ししかできていない。せめてイメージづくりのヒントが得られればなあと、政宗ゆかりの仙台に行ってみることにしました。

 瑞巌寺や青葉城址を訪ねたり、政宗の子孫の方に会ったり。そうやって調べていくと政宗って、本当におしゃれなんですよね。戦で着た帷子に、下に着ているものを見せるため、わざと穴があけてあったりする。「伊達」ってこういうことを言うんだなって。そんな風に政宗という人の像が少しずつ形を結んでくると、磊落とか豪快とか単刀直入とか、いろんなキーワードが思い浮かんできた。ぴゅうーんって一気に降りて、一気に攻める。この感じにマルトノのSFっぽい響きがぴったりだと思ったんです。

 《メロディーではなく、音色から曲を構想していくんですね》

 篠田(正浩)監督の「瀬戸内少年野球団」の時は、リコーダーとかハーモニカとか、子供の楽器ばかりを使ってみました。今村(昌平)監督の「楢山節考」では篳篥(ひちりき)を2本使い、音域をひねるように接近させてみたり。「うなぎ」の時は口琴でビョン、ビョン、ビョン。最初に「風景」をつくるのが、僕の定石といえば定石です。(聞き手 編集委員・吉田純子)

 

(語る 人生の贈りもの)池辺晋一郎:6 「いま」が大切、評価は気にせず

大親友の西村朗さん(左)と。13年間司会を務めたNHKN響アワー」の後任も、彼に託した

 作曲家・池辺晋一郎

 《「独眼竜政宗」は音響の独創性で意表を突きましたが、朝ドラの「澪(みお)つくし」は優しい旋律が印象的でした。作風が変幻自在です》

 僕は自分のシステムをあえて持たないようにしているんです。逆に西村(朗)くんの曲は、どれを聴いても彼の「署名」がある。ひとつのスタイルを突き詰めながら深淵に向かう彼の凄みには、一番の悪友ながら羨望を覚えます。僕の場合、やり方を決めちゃうと、曲を書くことそのものが面白くなくなる。それだけなんです。

 十二音技法とか電子音楽とか、いわゆる現代音楽の手法はひととおり、若い頃に全部試しました。流行(はや)りモノにはとりあえずかぶれてみるタイプで(笑)。でも、どれも僕にはつまらなかった。方向性を、全部誰かが事前に決めてくれているわけだから。僕にとって何より重要なのは、新しい何かが生まれ続けている「いま」なんです。曲への評価? 気にしたことないです。めんどくさいから。

 《管理されるのが嫌い》

 そうかもしれない。子供の頃、ちっちゃん(立花隆さん)の妹の直代さんと一緒に絵を習ってたんですが、リンゴやバナナを描く静物画の時間になると、先生が「君はどうせ、こういうのはイヤだろ」って僕だけ椅子を後ろに向けるんです。想像の赴くまま、好きなものを描いてろって。ピアノもデタラメなら何時間でも弾いていられるのに、楽譜通りに弾けって言われた途端にイヤになった。

 両親もそういう人でしたね。中学生になり、テストで1番になったので喜んで父に報告したら、「1番はつまらん」。1番はもう上に行きようがないから面白くない。2番がいいんだ、だって。

 中学2年の時、担任のことをからかった校歌の替え歌を教室の黒板に書き、ひと騒動起こしたときも、学校に呼び出されたおふくろは一言、僕にこう言っただけでした。「心配しなくていいよ。自分のことをからかわれて怒るような先生は、ろくな先生じゃない」

 (聞き手 編集委員・吉田純子)

 

(語る 人生の贈りもの)池辺晋一郎:7 演劇で知った、混じり合う楽しさ

仲代達矢さん率いる無名塾の音楽を、創設当初から担当してきた。「リチャード三世」の打ち上げで、右端が池辺さん

 作曲家・池辺晋一郎

 《池辺さんは、やっぱり声がいいですね。実は演劇の仕事で、演じる方もやっていたとか?》

 してないです。したかったですけど(笑)。だから芸大でも演劇部に入ったわけですが、演じるのは美術の学生ばかりで、僕はもっぱら音楽を書く係。そのうち学外からも、舞台袖で歌の伴奏をするアルバイトを頼まれるようになって。プロより学生の方が安上がりですからね。やがて俳優座を筆頭に、他の劇団からも本職の作曲の依頼がくるようになりました。

 《音楽よりむしろ、演劇の世界の方が居心地が良かったり?》

 うーん、まあ確かに、若い頃から体の半分は演劇人でしたね。1970年代から80年代にかけ、四谷に演劇人が集まる地下のスナックがあって、通いつめてました。演劇評論家の小田島雄志さん、戸板康二さん、劇作家の清水邦夫さん、女優の吉行和子さんらとよくおしゃべりしましたね。ひとりでふらっと行っても、必ず誰かが演劇論に付き合ってくれました。

 《異なるジャンルの人たちが、壁を作るどころか、互いに巻き込みあって、それぞれのエネルギーの火種にしていた時代ですね》

 新宿に行くと、麿赤兒さんが体中にペンキ塗って路上でひっくり返ったりしてましたね。僕は今も演劇と音楽の人間が何か一緒にできないか、考え続けています。兵庫の劇団とオーケストラで、シェークスピアの「十二夜」をやったこともありました。オケの奏者は伝統的に休憩時間をしっかり確保するんだけど、そしたら演劇の人たちが「えー、さっき休憩したばかりじゃない」。一方で演劇の人が「今から稽古」なんて言うと、オケの人が「稽古? あ、練習ですね」みたいな(笑)。でも、知らなかった自分を引っ張り出される体験は、同じ世界の人たちとばかりいても絶対できないです。

 僕は差別は憎いけど、区別は好きです。誰もが「違うこと」を楽しめる世界では、戦争なんて絶対に起こり得ないと思うのです。(聞き手 編集委員・吉田純子)

 

(語る 人生の贈りもの)池辺晋一郎:8 「世界のタケミツ」突然の電話

作曲中の武満徹さん。アシスタントを経て、その創作現場にずっと関わり続けてきた=武満真樹さん提供

 作曲家・池辺晋一郎

 早くから現場で仕事をしていたので、僕は誰かの助手のような仕事を、自らしたことがないんです。唯一、アシスタントを務めたのが武満徹さんなんですが、それも武満さんが突然「仕事を手伝ってくれませんか」と電話をしてきたからで。大学時代の僕の室内楽作品を聴いたと言ってました。

 《その頃にはもう、「世界のタケミツ」でしたよね?》

 もちろんです。そりゃびっくりしました。突然「明日、来てくれないか」ですから。もしかしたら徹夜になるかもしれないからそのつもりで、とも。その通りになりました(笑)。19698月。翌年の大阪万博の仕事でした。

 途方もなく暑い日だったのを覚えています。その頃の僕は結婚したばかりで、家はみじめな1DK。冷房も風呂もなかったので、大作曲家の家に行ったら快適に仕事ができるはず、という下心たっぷりでお引き受けしたんです。

 そのはずが、行くと、鉛筆が汗で滑るくらい暑い。思わず「暑いですね」って言うと、娘の真樹さんがハトの卵を拾ってきて、孵(かえ)すためにピアノの下でヒーターをたいているんだ、と。暖房してたんです。そりゃあ暑いはずです。

 《でも、大作曲家の脳内をのぞける、またとない好機では?》

 武満さんのスケッチを、オーケストラ用の譜面に直していくのが僕の仕事でした。スケッチが来て、直して……の繰り返し。ある時、次のスケッチが来ないなと思っていたら、隣の部屋のピアノで突然「イエスタデイ」を弾き始めた。何なんだと思っていたら、まもなく、ハイ、ってスケッチを持って現れた。一体いつ書いたのか、不思議でしょうがなかった。

 武満さんが海外に行っている間、シリーズ番組の音楽の一部を武満さんのスタイルで「代筆」したこともありますが、あとで聴いても、どれが自分の曲なのかもうわからない。誰の曲とか、そんなことは現場では、本当にどうでもよくなっていくものなんです。(聞き手 編集委員・吉田純子)

 

(語る 人生の贈りもの)池辺晋一郎:9 「作曲坊や」、刺さった先輩の言葉

映画「瀬戸内少年野球団」「少年時代」などでタッグを組んだ篠田正浩監督(右)と

 作曲家・池辺晋一郎

 《頼まれたら、いや、頼まれなくても、何でも書けてしまう》

 そうかもしれないですが、罪悪感みたいなものがないわけじゃないんです。その辺にある思念みたいなものが、ぐーっと回って、勝手に五線譜の上に来ちゃうんだけど、本当はどこかで引っかかりというか、何かの歯車をくぐらせなきゃいけないんじゃないかと。

 《何でも書けるがゆえに、悩み、追いつめられてしまうこともあるということでしょうか》

 僕が20代の時、伊福部昭さんのアシスタントで映画「氷点」の音楽などを手がけた池野成(せい)さんのことを、先輩の松村禎三さんが話し始めたんです。妙に深遠な口調で、ゆっくりと、こんな風に。

 池野はもともと、音楽なんか、何の関係もない男だったんだ。それが、終戦後の荒れ果てた街を歩いていた時、どこの家からか、ものすごい音楽がきこえてきた。彼は、その場に立ち尽くした。米軍放送の、ストラビンスキーの「春の祭典」だった。そんなことは、その頃の池野にはわからない。でも、その瞬間、彼は、これから音楽をやって生きていこうと決心したんだ。すごいだろう。で、池辺くんよ。君にとってのそういう瞬間は、一体何だったんだ――

 えっ、て感じですよ。聞かれた僕の身になってみてよ。そんな瞬間、あるわけないじゃない。そしたら松村さんはこう言ったんです。「君は、作曲坊やだ」と。

 これは、心底ショックでした。だって、僕にとって作曲は、まだ五線譜の存在を知らない幼い頃からずっと、遊び以外の何ものでもなかったから。でも、三善晃さん、林光さん、松村さんといったひとまわり上の世代は、確かに戦争という体験に突き動かされて曲を書いていた。僕は疎開はしたけれど、戦争というものに対してリアルに苦悩したわけじゃない。

 作曲坊や。この言葉が心に刺さって抜けなくなり、音楽が湧いてこなくなった。2年くらい、「自分の曲」が書けなくなりました。(聞き手 編集委員・吉田純子)

 

(語る 人生の贈りもの)池辺晋一郎:10 スランプ2年、言葉に救われた

若い世代と仕事をする時は、いつも心がワクワクする=東京・初台の東京オペラシティ、慎芝賢撮影

 作曲家・池辺晋一郎

 《20代で初のスランプ。遊びの延長といった風情で曲を書いていたら、尊敬する先輩から「作曲坊や」と言われ、足元を見失う》

 NHKとか劇団とか、外から来る依頼にはどんどん書けるのに、自分の作品が全然書けない。そんな状態が2年ほど続きました。何のために、なぜお前は曲を書くのか。この問いかけがいつも心の歯車にひっかかり、うまく音楽が出てこない。つらかったですね。

 《いつごろ、どんな感じで、心に雪解けが起きたのですか》

 大学院も終わりの頃、東京混声合唱団の音楽監督だった田中信昭さんから新作を委嘱されたんです。その時にふと、万葉集でやってみたらどうかな、と思いつき、「相聞」という合唱曲を書いてみて、あれ、ひょっとしたらこれって、僕にしかつくれない音楽なんじゃないか、と思ったんです。

 さらに、野坂恵子(操寿)さんからも二十絃箏(げんそう)のための独奏曲を頼まれて。僕がふだん使っているのは西洋音楽の技法だけど、やっぱり僕は日本人だし、日本人としての僕が何を書くのか、そこが重要なんだよな。そう思えるようになると、書きたい音楽がまた心からあふれ出してきた。田中さんと野坂さんに救われたんですね。

 《やはり、言葉に救われた》

 詩人や俳人という人たちは、およそ考えられないくらい、言葉からとてつもなく広い世界を引き出す力を持った人たちだと僕は思っているんです。僕らが100万語費やしても語ることのできない真実を、たとえば中原中也は「茶色い戦争ありました」、俳人の渡辺白泉は「戦争が廊下の奥に立つてゐた」と、たったの一文で突くんです。説明なんか要らない。音楽でもこういうことがやれるはず。いや、やらなきゃいけない。詩は、いつも僕を触発し、創作へと奮い立たせる道しるべなんです。(聞き手 編集委員・吉田純子)

 

(語る 人生の贈りもの)池辺晋一郎:11 長田弘さんの詩、今も羅針盤

憧れの長田弘さん(左)と「第九」作曲を機に初対談。すべての言葉が静かに重く胸に響いた

 作曲家・池辺晋一郎

 《詩は池辺さん自身の創造の源泉でもありますね。2013年に初演された交響曲第9番にも長田弘さんの詩が使われています》

 ベートーベン以降、どの作曲家にとっても「第九」は特別ですから。合唱を使うと二番煎じになるので、いっそ歌曲集にしてみたらどうか。それなら大好きな長田さんの詩で書けたらいいなと思ったんです。「世界の最初の一日」など、長田さんの詩を9編使い、全9楽章の曲を書きあげました。

 《長田さんの詩の何に、そこまで突き動かされたのですか》

 何げない、本当に何げない言葉なのに、とてつもない重さがあるんです。一番こたえたのはこの言葉ですね。「死者の生きられなかった時間を、ここに在るじぶんがこうしていま生きているのだ」。今も時々口にしながら、自分の心のありようを確かめています。

 それと、「春のはじまる日」という詩の一節の「幸福は何だと思うか?」。これも日常的に自分自身に問いかけている言葉です、交響曲第10番にも、この言葉に導かれたモチーフを使っています。

 曲を書くってことは、自分の心の中で何が響いてて、どう展開しているのかを、自ら確かめるということなんです。東京音大で教えていた頃、学生にいつも言っていたのは「作曲ってのは、楽譜を書くことじゃない」ということでした。音符を書くのは、すでに心の中にあるものを「写譜」するだけの作業であり、それで作曲をしていると思い違いをしちゃいけないよ、と。学生にというより、むしろ自分への戒めなんですけど。自分の中にとことん首を突っ込む。「作る」のではなく「探す」。これが作曲だということに気付かせてくれたきっかけの一つが長田さんの詩だったのだと思います。

 長田さんは「第九」初演の2年後に亡くなられましたが、いま、自分がどこに向かっているのか、何をどう考えたらいいのか、そんな風に迷うときは、今も長田さんの言葉を羅針盤にしています。(聞き手 編集委員・吉田純子)

 

(語る 人生の贈りもの)池辺晋一郎:12 小三治さん、あの音楽的な「間」

モーツァルトの誕生日のコンサートでは、自ら楽聖になりきって舞台へ

 作曲家・池辺晋一郎

 《それにしても、中原中也から最近の詩まで、よくここまですらすらと暗唱できるものですね》

 覚えちゃうんですよね。僕、東海林さだおさんの大ファンなんですが、本人に会えた時、あまりにもうれしくて、彼の10ページくらいの漫画を一言一句そのまま演じてみせたら「アンタ、何者だ?」って(笑)。落語も、僕は志の輔さん、文珍さん、文枝さんの創作落語が好きで、勝手に「御三家」って呼んでるんですが、この3人の噺は30作くらい入ってます。どうですか、一席やりましょうか?

 《こんなに忙しいのに、寄席にまで出かけてるんですか?》

 最近はマネジャーに「よせ」って言われるので、CDの方が多いですね。でも、どのフレーズにアクセントを置くかとか、どこで息を継ぐかとか、音楽に通じるポイントが結構あるんですよ。志の輔さんなんて、言葉の調子がちょっと上がったり下がったりするだけでもう、むちゃくちゃ面白い。

 《一番好き、というか、刺激を受ける噺家さんは誰ですか》

 断然、小三治さんです。僕、「せたおん」っていう世田谷区の音楽事業の音楽監督をやっているんですが、そこで「落語と音楽」って企画をやり、小三治さんに出ていただいたことがあります。あの自然体の、即興のマクラがいいんですよね。古典をやっても、演じている力みというか、そもそも「演じている」という意識がない。ステージという非日常を、日常の空間のように感じさせてしまう。舞台人としての、ジャンルを超えたひとつの理想形に到達された方なんじゃないでしょうか。

 小三治さんの「間(ま)」はすごく音楽的なんです。書の世界で、ヒュッと筆先で書いたあとの空白が重要なように、音が鳴っている瞬間よりも余白の方が、のちに心の中に広く深く広がっていく。そういうことを忘れ、つい楽譜を音で充満させてしまいそうになったとき、小三治さんのあの「間」をふっと思い出すことがあります。(聞き手 編集委員・吉田純子)

 

(語る 人生の贈りもの)池辺晋一郎:13 テレビでの話芸、即興と瞬発力

年に1度の「N響アワー」の出張ロケが楽しみだった。音楽を担当した映画「バルトの楽園」の徳島・鳴門のロケ地にて

 作曲家・池辺晋一郎

 《池辺さんの話芸を日本中に知らしめたのが、1996年から13年司会を務めたNHKのクラシック番組「N響アワー」でした》

 もともとFMで、N響公演の生中継の合間にしゃべるとか、そういうのをよくやっていたんです。そしたらNHKのディレクターが「いつも生放送で苦労させてるから、これからはちゃんとした番組でやってよ」と。1年だけの約束が、ずいぶん長く続きました。

 《一緒に司会をしていた檀ふみさんが、池辺さんのダジャレを知的にかわす光景も名物でした》

 番組が始まったばかりの頃、ピアニストが急に来られなくなって、キューバ人のピアニストが代役で入ったんです。檀さんが「どうしてこの人になったんでしょうね」って言うから「急場しのぎでしょう」と返したら、「こういう番組なんだ」と覚悟を決めたらしいです(笑)。檀さんのかわし方がどんどんうまくなってきたので、ダジャレを思いついてもリハーサルではぐっとこらえ、本番で急に言うようにしていました。

 《この番組で鍛えられた?》

 いや、話し方を意識するようになったのはもっと前、30代の頃です。音楽に限らず人前でしゃべる機会が急に増えてきたので、自分に三つの課題を与えたんです。

 一つ目。いったん口にした「てにをは」は言い直さない。たとえば「今日、Aさんに会います」と言おうとしたのに「Aさんが」と言っちゃったら、そのまま「Aさんが下北沢に来るので会います」などと、続く文章でつじつまを合わせていく。時間を巻き戻すのは、聞いている人にとてもストレスを与えるんです。二つ目。「あのー」と言わない。重要なことを言う時だけ、「たとえばですね、あのー」という風に「演出」として使う。三つ目。結論を先に言う。前置きが長くならないよう構成を考えてからしゃべり出す。

 「いま」が全て。即興と瞬発力が大事。引き返せない。考えてみたら全部、音楽と同じですね。(聞き手 編集委員・吉田純子)

 

(語る 人生の贈りもの)池辺晋一郎:14 外の世界に触れ、生まれる新作

篠田正浩監督「少年時代」でタッグを組んだ映画録音技師の西崎英雄さん(左)と

 作曲家・池辺晋一郎

 《芝居、放送、詩、映画。音楽以外のいろんな「寄り道」に育てられたとも言えそうですね》

 僕だけじゃなく、あの頃の音楽家はみんな、外の世界に触れることの方が自然だったから。武満(徹)さんなんてある日の夕方、映画を見てきたって言うから、何を見たんですかと聞いたら、東映まんがまつりだって(笑)。映画館で映画を見る、ということが彼にとっては重要で、そのむちゃくちゃな好奇心の前には、子供向けだからやめとこうとか、そういうセンサーすら働かないんです。

 《何らかの目的があって他の世界と交わるというよりは、とりあえず交わってから、何かが生まれてくるのを待つ、という感じ》

 まさにそうです。NHKでも1968年、ドラマ、報道、教養など様々な現場のディレクターが結集した「明治百年」という一大プロジェクトがあって、その音楽に関わったのをきっかけに、いろんな現場で仕事をさせていただけるようになりました。年末のニュース特集なんて、秒刻みで大変だったなあ。今は、テレビの音楽の仕事はポップス系の人が主流になってしまいましたが、ラジオの仕事はまだたくさんやっています。

 幸運だったのは、一緒に放送や映画の録音をする仲間が、僕自身の作品の演奏家でもあったってことです。フルートの小泉浩さん、ハープの篠崎史子さん、打楽器の吉原すみれさん、ピアノの高橋アキさん、みんな現代音楽の第一人者です。僕が指揮をしながら「おい、そこ、半音低いぞ」なんて言うと「バーカ、お前がスコアを直せ!」って返ってきたり。僕も曲を書く時、彼らの音色や表現力を念頭に置いています。いまどきの人たちみたいにパソコンを使って書いたこともあるけれど、やっぱり僕は、演奏家たちの楽しそうな顔が浮かぶ現場にいたいなあ。(聞き手 編集委員・吉田純子)

 

(語る 人生の贈りもの)池辺晋一郎:15 言うこと言って、映画監督に奉仕

指揮者の本名徹次さん(右)、ハープの篠崎史子さん(中央)と=木之下晃氏撮影

 作曲家・池辺晋一郎

 《異なるジャンルの人たちと、ぶつかることもあるのでは》

 そりゃもう、映画ではケンカした思い出の方が多いくらい。特に今村昌平監督とはしょっちゅうでした。幕末の民衆運動をテーマにした「ええじゃないか」(1981年)の録音後も朝6時に電話がかかってきて、1時間くらい激論しました。泉谷しげるさん演じる農民の源次が幕府に撃たれ、その血が染みた地面に妻役の桃井かおりさんが横たわってほおずりし、土をかきむしるラストシーンに僕の音楽が重なるんですが……

 《民衆のエネルギーの爆発が、津軽三味線のアグレッシブなばちさばきに重なり、痺れました》

 でも今村監督は「違う、もっと悲劇的に終わらなきゃならん」って。悲劇的なままで終わったら民衆運動の映画にならないじゃないですか、民衆を描いて終わるべきですって、僕も譲らなかった。で、この時は僕が勝ったんだ。

 「楢山節考」(83年)を挟み、続く「女衒(ぜげん)」(87年)でまた「これは違う」と電話がかかってきた。内容は忘れたけど、この時は僕が折れた。2分10秒くらいの音楽なんだけど、書き直して、そのためだけにスタジオを借りて、演奏家を呼んで録音したんです。

 《すごいこだわりですね》

 彼の最後の長編作品「赤い橋の下のぬるい水」(2001年)でも、主人公の役所広司さんが独り地下道を歩くシーンでやり合いました。僕はその時の男の複雑な心理を音響に反映させてみたかったんだけど、今村監督は地下の空気感を増幅させる、メタリックで冷たい手触りの響きを求めてきた。いろいろ考えた揚げ句、原田節(たかし)さんのオンド・マルトノと僕のピアノで即興演奏したんですが、結局使われなかったみたいですね。

 映画は最終的には監督のものです。言いたいことは言いつつ、実は、監督の世界観に奉仕するための態度を僕なりに懸命に探していました。黒澤明監督も大変でしたが、それは明日のお楽しみに。(聞き手 編集委員・吉田純子)

 

(語る 人生の贈りもの)池辺晋一郎:16 黒澤監督、注文の難しさあれど

スタジオでラジオの録音に立ち会う。指揮も自ら=2008

 作曲家・池辺晋一郎

 《黒澤組にも「影武者」(1980年)「まあだだよ」(93年)など4作品で参加しています》

 黒澤(明)監督は、あの作曲家のあの曲みたいな感じ、などと具体的に指定してくるので、作曲家としては、自身の独創との折り合いを付けるのが難しいんです。

 たとえば「夢」(90年)っていうオムニバス作品に、主人公が仲間と雪山で遭難し、吹雪の中に埋もれていくというシーンがあるんですけど、ここはホルンでモーツァルトのコンチェルトみたいによろしくと。で、注文通り、場面の尺に合わせて4分くらいの曲を書いたんですが、そのシーンが始まって間もなく猛烈な吹雪になって、音楽なんてきこえたもんじゃない。最後の30秒くらいでまたきこえてきて、それでおしまい。

 《4分も必要なかったと》

 そう言ったら「裏では鳴ってるんだ」だって。何だそれ、じゃあ勝手にしてください、って怒って出てきたら、助監督が「池辺さーん、戻ってくださーい!」って追いかけてきた。そういう監督なんです。引き出しの中に、見えない鉛筆とか定規とかを入れておく。机はそういうものだからって。

 ウイスキーのCMに出るので、その音楽を書いて、と頼まれた時も、コーラングレっていうオーボエ属の楽器でと指定されました。録音の現場にまでしっかり来て、もうちょっとテンポ遅く、なんて指示してくる。仲代(達矢)が出ているCMのウイスキーよりこっちの方が高いんだろうな、なんて妙なことも気にしていたなあ。実は安いとは言えなかった(笑)。

 《ちょっと可愛いですね》

 そう、彼に限らず、映画監督には何ともいえない愛嬌のある人が多いんです。飲んだり食ったりして、特に意味のない時間をも共に過ごすうちに、この人のために何か書こうという思いになる。彼らの人間性が僕のモチベーションになる。意見は違っても、一生懸命に何かを作っている人たちのことは、やっぱり好きになりますよ。(聞き手 編集委員・吉田純子)

 

(語る 人生の贈りもの)池辺晋一郎:17 誰かと過ごす時間、人生の滋養に

指揮者の下野竜也さん(左)、フルートの小泉浩さん(右)と=木之下晃氏撮影

 作曲家・池辺晋一郎

 《ジャンルを問わず、規格外の才能の持ち主たちとの交流を、ひらめきの源泉にしてきた》

 1985年に杉村春子さんたちと、日中文化交流協会の文化代表として3週間ほど中国に滞在したことがあるんですが、その帰りの空港で、杉村さんが「欲望という名の電車」の台本を読んでいて。彼女が演じる主人公のブランチは幻聴をきっかけに精神を病んでいくんですが、僕、この作品の音楽を担当したことがあったので、彼女の前を通り過ぎながら、何げなくその幻聴の音楽を口笛で吹いたところ、彼女、「きゃーっ、やめてーっ!」と空港中に響き渡るような悲鳴をあげたんです。台本だけでその世界に没入していた。すさまじい天才だと思いました。

 天才といえば、武満徹さんもある時、すごく低い音域の響きを書こうとしたことがあって。武満さん、この音はこの楽器では出せないですよ、と指摘すると「池辺さん、すごいね。やっぱりアカデミックにきちっと勉強した人は違うなあ」と。でも、僕は「アカデミック」って言われるのが本当にイヤで。そんな知識があったところで、彼みたいに、わざと音程を4分の1狂わせたハープとビブラフォンをユニゾンでぽーんと出して何ともいえないうねりをつくってみるとか、そんなとんでもないことを思いつけるわけじゃない。

 でも、アカデミックな勉強をしたことに対してコンプレックスを持つことができたのは、今思うとものすごく良いことだったと思います。自分の歩いてきた道が正しかったとか、そんなどうでもいい自負が消し飛んで、音楽という世界への視野が広がったから。

 《気付くと、周りの人すべてが「先生」だったんですね》

 特に目的もなく、誰かと飲んだりしゃべったりする時間からどれほどの人生の滋養が得られるか。その時には、これが自分を太らせてくれるなんて思いもしないんだけど、少なくとも、僕はそういう世界に育てられてきたんです。(聞き手 編集委員・吉田純子)

 

(語る 人生の贈りもの)池辺晋一郎:18 未知の世界へ、心震わせたい

時代が変わっても、やっぱり現場が一番=東京・初台の東京オペラシティ、慎芝賢撮影

 作曲家・池辺晋一郎

 《「九条の会」での活動も。政権への意見も躊躇しません》

 言いたいことを隠さず言うことは、僕にとっては目的じゃなく、僕という音楽家が在り続けるために必要なプロセスだから。ただひとりの人間として楽しんでいることを邪魔されたり、管理されたり、もしくは支配されたりすることに、僕は強く抵抗する。作曲という表現活動の軸を他ならぬ僕の中に築くため、言うべきことを言い、書くべきものを書く。それだけのシンプルなことなんです。

 《今秋、辺野古の基地を題材にした合唱曲も発表されました》

 原爆や震災もそうですが、当事者の方々の「触れてほしくない」という思いは大切にすべきです。でも、当事者の人たちだけに全てを負わせてしまうと、忘れた方が都合のいい人々の思うままにされかねない。彼らが語れない世界へと想像力を及ばせ、納得してもらい、真実を未来へとつなぐ。その方法を丹念に探していく努力を、芸術に携わる人間は怠っちゃいけない。芸術は嫌なことを忘れるためじゃなく、大切なことを忘れないためにあるものなんだから。

 《最後に。自身の書いた曲で、一番好きな曲はどれですか》

 これは、はっきり答えられます。書き終わったばかりの曲です、と。至極当たり前のことでしょ。その時々に自分が一番気に入っているものを書いて、しばらくしたら気に入らなくなってくるから、次の音楽を書くんだもの。

 師匠の三善晃さんの仕事机の前には、楽器の音域の一覧表がいつも貼ってありました。恐らく、そうやって自分を常にスタート地点に立たせていたんじゃないかと。「わかっている」と思っていることをひとまずご破算にして、いつもゼロ地点から創造に向かう。

 僕も常に触角を伸ばし、未知の世界に心を震わせ続けていたいですね。実は芸術家とかじゃなく、虫の一種なんだと思います。

 (聞き手 編集委員・吉田純子)=おわり

 

 

Wikipedia

池辺 晋一郎(いけべ しんいちろう、1943915 - )は、日本作曲家学位は芸術学修士東京芸術大学1971)。一般社団法人全日本合唱連盟顧問東京音楽大名誉教授文化功労者本名は池邉 晋一郎(いけべ しんいちろう)。

東京音楽大学音楽学部教授東京音楽大学付属民族音楽研究所所長、横浜みなとみらいホール館長などを歴任した。

人物・来歴

生い立ち

茨城県水戸市出身。幼少期は体が弱く、家にあったピアノを使って独学していた。1963年、東京都立新宿高等学校卒業。1967年、東京芸術大学音楽学部作曲科卒業。1971年、同大学院修了。中学・高校時代には、クラリネットを演奏していた経験もある。高校で合唱をしていた際、池田明良、そして3年次には宇野功芳(音楽評論家)が講師をしていた。大学では池内友次郎矢代秋雄三善晃島岡譲に師事する[1]。大学で1年先輩の三枝成彰と親交があり[ 1]、共に当時の若手作曲家のホープとみなされていた。

作曲家として

東京芸術大学在学中に書いた室内楽曲「クレパ七章」で注目され、武満徹の目に留まり、一時期映画音楽のアシスタントを務めた。10曲の交響曲をはじめとする演奏会用作品の他、黒澤明今村昌平の監督作品をはじめとする映画音楽、校歌NHK大河ドラマ[ 2]やアニメ『未来少年コナン』などのテレビ番組の音楽も多く手がけている。音楽家として海外留学の経験がない世代の最初として、野田暉行らと並び称される[2]

また、アマチュア音楽界、特に合唱とは深い関係を持っている。全日本合唱連盟の役員を長年務める一方で、1984に混声合唱組曲「悪魔の飽食」を神戸市役所センター合唱団の委嘱で作曲したことがきっかけとなって、うたごえ運動とも交流がある。全日本吹奏楽コンクールの課題曲も委嘱されて作曲している。2007年より、せたがや文化財団音楽事業部音楽監督を務め、イベントの際には舞台上で短いトークを披露する。

N響アワー』(NHK教育テレビ)に20093月までの13年間司会者として出演した。日本中国文化交流協会理事長。日本作曲家協議会元会長。日本音楽作家団体協議会元会長。東京音楽大学教授200741日より2020331日まで横浜みなとみらいホール館長。ダジャレ好きで有名。広島カープファン[3]。女優の香川京子は父の従妹である。

九条の会」傘下の「マスコミ九条の会」呼びかけ人[4]、「世田谷・九条の会」呼びかけ人を務めている[5]世界平和アピール七人委員会メンバー。

賞歴[編集]

1966日本音楽コンクール1

1968、音楽之友社賞

1971、ザルツブルク・テレビオペラ祭優秀賞

1974文化庁芸術祭優秀賞(1982年、1983年、1984年にも)

1976、イタリア放送協会賞(1989年にも)

1980毎日映画コンクール音楽賞(1984年、1990年にも)

1984日本アカデミー賞最優秀音楽賞(1990年、2009年にも)

1989国際エミー賞優秀賞

1991尾高賞19992017にも)

1997NHK交響楽団・有馬賞

2002放送文化賞

2011横浜文化賞

2015、第37姫路市芸術文化賞大賞

2018JXTG音楽賞洋楽部門(本賞)

2018文化庁創立50周年記念表彰

2019、水戸市文化栄誉賞

2020神奈川文化賞

栄典

2004紫綬褒章

2018文化功労者

作風

デビュー当初の1960年代は正嫡の前衛の音響体を志したが、やがて197080年代に入ると独自の反復語法やポリスタイリズムを掲げるようになる。2010年代に入るとかつての実用音楽と現代音楽との垣根を割ってイディオムをクロスオーバーさせたような音楽(ピアノ協奏曲第三番)へ傾斜し、さらなる音楽語法の発展を望んでいる。

 

 

 目標は「自分の意志で一から作曲」 旭日中綬章の池辺晋一郎

2022519日 朝日

作曲家の池辺晋一郎(78)が、春の叙勲で旭日中綬章を受章した。4月下旬、都内で会見し、「芸術は伝達しなければ完結しない。(今回の受章で)その最終地点に手を触れたのかな」などと喜びを語った。

 10作の交響曲や、NHK大河ドラマ「元禄繚乱」、映画「剱岳 点の記」の音楽など、ジャンルを超え、幅広い作品を手がけてきた。若い頃から仕事の依頼が絶えず、時には23日続けて徹夜をしたこともあったといい「作曲は日常生活の一部になっている」と語った。

 NHKの音楽番組「N響アワー」では2009年までの13年間司会を務め、その笑いも交えた音楽解説は人気だった。1人で取り組む作曲の仕事と、テレビ出演や寄稿などの社会や人と関わる仕事は「車の両輪」だと言い、「この両輪がなければ走れない」とも。

 創作意欲は衰えていない。今後の目標を問われると、「誰からの依頼でもなく、自分の意志で一から曲を書くこと。ぜいたくな話かもしれないですけど」と話していた。(弓長理佳)

目標は「自分の意志で一から作曲」 旭日中綬章の池辺晋一郎

2022519日 朝日

作曲家の池辺晋一郎(78)が、春の叙勲で旭日中綬章を受章した。4月下旬、都内で会見し、「芸術は伝達しなければ完結しない。(今回の受章で)その最終地点に手を触れたのかな」などと喜びを語った。

 10作の交響曲や、NHK大河ドラマ「元禄繚乱」、映画「剱岳 点の記」の音楽など、ジャンルを超え、幅広い作品を手がけてきた。若い頃から仕事の依頼が絶えず、時には23日続けて徹夜をしたこともあったといい「作曲は日常生活の一部になっている」と語った。

 NHKの音楽番組「N響アワー」では2009年までの13年間司会を務め、その笑いも交えた音楽解説は人気だった。1人で取り組む作曲の仕事と、テレビ出演や寄稿などの社会や人と関わる仕事は「車の両輪」だと言い、「この両輪がなければ走れない」とも。

 創作意欲は衰えていない。今後の目標を問われると、「誰からの依頼でもなく、自分の意志で一から曲を書くこと。ぜいたくな話かもしれないですけど」と話していた。(弓長理佳)

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