ならず者たちのギャラリー  Philip Hook  2018.11.23.


2018.11.23.  ならず者たちのギャラリー 誰が「名画」をつくりだしたのか?
Rogues’ Gallery ~ A History of Art and its Dealers  2017

著者 Philip Hook オークション会社サザビーズの現・取締役。印象派と近代美術部門のシニア・ディレクター。ケンブリッジ大で美術史の学位を取得後、1973年にクリスティーズに入社。808719世紀絵画部門の長。画商として活躍したのち、94年サザビーズ入社し現在に至る。その間英国BBCの人気テレビ番組《アンティーク・ロードショー》の鑑定人役としても知名度を高めた。オークショニア、画商として、40年にわたり美術市場で培ってきた経験と専門知識を生かし、執筆活動も行う。特に美術市場に精通した立場から美術史を論じた書籍に対する評価が高い。『印象派はこうして世界を征服した』は世界各国での印象派の受容の歴史を分析して『フィナンシャル・タイムズ』紙の09Book of the Yearに、『サザビーズで朝食を』は13年の『フィナンシャル・タイムズ』ほか『サンデイ・タイムズ』『スペクテイター』『ガーディアン』などでもBook of the Year

訳者 中山ゆかり 翻訳家。慶應大卒。英国イースト・アングリア大にて美術・建築史学科大学院ディプロマ取得

発行日           2018.8.25. 初版発行
発行所           フィルムアート社

はじめに
1920年代、画商の粘り強さと創意の豊かさで、美術の市場を開拓していった
20世紀を代表する芸術家マルセル・デュシャンの画商に対する見方は簡潔で、「アーティストの背中についたシラミだ」
画商がいなかったら、美術史はもっとずっと違ったもの、貧しいものになっただろう
画商という職業の持つ面白みと危険性は、彼らが取引をする美術品という商品が持つ特有の性質に由来する
美術品には機能的な価値はごくわずかしかない
美術品の価値は、数量ではかることの難しい領域にあり、美や質や希少性といった概念によって左右される ⇒ 精神的で、知的で、美学的なものが基準となるうえ、しばしば社会的地位や上昇志向とも渾然と混ざり合っている
市場価格は、誰がその作品を売っているのか、そのセールストークにどれくらい魅力があるか次第で決まる
画商とは、ファンタジーの調達人であり、想像力の飛翔や精神的な高揚をもたらし、有利な投資であることを効果的にちらつかせて人を刺激するという類のファンタジーが重要で、それは購入価格と販売価格の幅が広いほど画商にとって大きな幸福感となる
美術品の取引は、人々が欲しいとは思っているが、必要ではないものを買うように説得することであり、芸術家の天賦の才能を売り込もうとしている
芸術が天才の問題として最も明確に感じられたのは、芸術家個人の感性を重視した19世紀のロマン主義運動以来であり、画商たちが最も著しい活躍を見せ始めた時期と一致しているのは天才とは数量ではかることのできない付加価値を華々しくもたらしてくれるから
偉大な芸術は、価格を超えたものとして認められ、信仰とも例えられるものの延長線上にある。アートは21世紀の社会にとって、新しい宗教であり、美術品を買うことは宗教的な信仰のようなものだ
美術品の取引の歴史は、美術市場の歴史とは異なる。美術品取引にとって鍵となるのは、そしてその最も重要な主導者たちの歴史にとって鍵となるのは、美術品を商う画商や美術商の個性 ⇒ 本書のテーマ
l  画商は、コレクターが描く作品にどれほどの影響力を持つか?
l  その結果、その同時代の人々の趣味にどれくらい影響を与えているか?
l  画商は、画家が実際に描くものに対して、どれほどの影響を及ぼしているか?
l  あるアーティストやある芸術運動をプロモートすることにおいて、美術史、とりわけ近現代の美術史は、画商たちによってどれくらい左右されてきたのか?

Part I ルネサンスと啓蒙主義の時代――画商という存在の誕生
第1章        画商と代理人(エージェント)たちの出現――画家やコレクターらが参入した17世紀以前の取引
11の取引だったものが、第3者の専門家に仲介してもらう方が、自らの努力だけに頼るより得られる利益が大きいと結論した時に画商が出現
ルネサンスに先立つ時代には、西洋美術はキリスト教という宗教において視覚に訴える武器として機能、ほとんどの絵画は教会当局によって画家たちに直接注文されていた
ルネサンスの初期になると、聖人像やキリストの磔刑ず、聖華族といった主題と並び、より商業的な新しい主題の系統として、神話の場面や肖像画、さらに風景画さえも登場し始め、初期の美術市場が誕生 ⇒ 市場の場所はあらかじめ決められた日に露天商が集まり、美術品を提供するというもので、フランドルで出現
絵画も同業組合(ギルド)があり、規則を決めていた
1460年アントウェルペンの聖母教会の敷地で、「パンド」と呼ばれる屋根付きの市場が美術品の売買を専門に行うための事業を始める ⇒ 売り手は最初は画家で、次第に他の画家たちの作品の販売を引き受ける者が現れ、画商の役割を切り開いていく。買い手はたいていは商人で、他国に輸出していたが、代理人ということもあった
1553年にはアントウェルペン取引所から総量4トン以上の絵画と全長7万ヤード以上のタペストリーがスペインやポルトガルに出荷されていた
17世紀に美術市場は躍進。国家間で生じた個々の美術品の価格差に応じて投資に励んだことにより駆り立てられた
1630年代アムステルダムの画家ヘンドリック・ファン・アイレンブルフは、レンブラント・ファン・レインを自身の工房に雇うことで、実質的にレンブラントの画商となった
国際間で絵画の趣向に関する情報をやり取りして、趣向に合う絵を描かせることも盛んに行われるようになる
1619年パリの画家と彫刻家のギルドは、犯罪や破産などの結果として没収された美術品を売却する執行吏は、組合員である親方的な芸術家の許可が必要との規定を設けた
「芸術家は単なる商品の製造者以上の存在である」という当時強まりつつあった認識を利用した画商が、イタリア・ルネサンスの偉大な巨匠たちを英雄的な高潔さを持って模範的な存在と持ち上げ、美術品取り引きの発展を牽引した
イタリア・ルネサンスの芸術家ダ・ヴィンチ、ラファエロ、ミケランジェロ、ティツィアーノらの成功は、彼ら自身の生きていた時代は、王侯貴族はじめ権力者が直接注文していたので、画商や美術商の努力によって左右されるものではなかったが、その後の世代では巨匠たちの神話が確立され、最初の偉大な美術史家であるジョルジョ・ヴァザーリのような書き手が芸術家たちの伝記を著したことにより、その神話化がさらに勢いづいた
その結果、コレクターたちが巨匠の作品を希少な大きな獲物を狩る様に追い求め始める
その作品を提供するために手近にいたのが未発達乍らも画商たちという存在だが、供給元のイタリアで成功を収めたということは、それだけ現地の怒りを引き起こしたため、絵画を単なる手作りの「商品」からリベラルアーツの「作品」へと変質させる考え方で、美術品を扱う者に対する新しい需要を生み出すことになる ⇒ 自身の邸宅やギャラリーを持ったコレクターが、その収集作品を相当な利益を得られる場合に限って手放すことを自らに許しているという仕事のやり方をして、専門知識を持って社交界の容認を得ていった
その典型が16世紀のヴェネツィアで活躍したヤコポ・ストラーダ(150788)
画商の活動にとって評論家や美術史家の持つ重要性と、彼らと画商たちの間で長く続くことになる連携もこの時代に始まる ⇒ パリの画商ジャン=ミシェル・ピカール(160082)6070年代フランドルの巨匠ルーベンスの作品を大量にフランスのリシュリュー公爵に売った人物だが、美術史家のロジェ・ド・ピールがルーベンスをフランスの画家ニコラ・プッサンより優れていると断言していたのが背景にあったように、画商やコレクターと評論家や美術史家の間で、特定の芸術家を後押ししようとして協力することはその後もよく知られる商売上の戦術
17世紀には、独仏西の王家が権力の象徴として重要な絵画を取得する争いに英王室が加わる ⇒ チャールズ1世はヨーロッパ最大の「トロフィー・ハンター」
ヴェネツィアの英国大使は、事実上の画商で、多くの在英コレクターのために奔走
1627年チャールズ1世の収めた最も大きな成功の1つが、イタリアのマントヴァ公所蔵のゴンザーガ・コレクションの購入で、ダニエル・ナイシュ(15721647)が仲介したが、追加で購入した分は、英王室の政変で画商が抱え込むことになり破産に追い込まれた
1649年クロムウェル政権の誕生で、英王室から膨大なコレクションが市場に放出され大陸のコレクターたちが飛びつく
17世紀のオランダの画商たちは、絵画の買い手が望んでいるものについて、画家たちに情報を与える媒体として機能し、画家たちはますます特定の主題のみを描く専門家になっていった ⇒ 花や静物画、動物画、歴史画、風俗画、軍事的主題など、画商たちがより容易に市場に出せるよう、ブランド化がすすめられた
1625年アイレンブルフ(1587頃~1661)がアムステルダムで画家としてスタート。工房に画家を雇い入れ、質の高い絵を売り始める。31年レンブラントを雇い、注文の多かった肖像画を描かせた(生涯100点ほどの肖像画を描いたうち半数はこの工房での4年間に集中)ほか、聖書の主題のエッチングの銅版画制作も増えたのは、様々な価格層で美術品を欲する大衆の要求に応じるためでもあった ⇒ 300年後に同じことをリトグラフ(石版画)でやったのが英国で誕生した画廊マルボロ・ファイン・アートで、ヘンリー・ムーアやベーコンなどの英国美術の錚々たるアーティストの大半と契約し、そのサインを入れたエディションで売って成功
レンブラントはアイレンブルフの姪のサスキアと結婚したが、工房からは早々に独立するも、60年代には経済的に困窮し、金融業者として成功していたハルマン・ベッカーを頼り、将来の作品を見合いに借金をしてしのいだ ⇒ 金を持つ者が作品を買うことで芸術家を支援するが、のちに入手した作品を転売して利益を売る手法が生まれた

第2章        ペテン師から鑑定家へ――変容する18世紀の画商たち
絵画の公正な価格にはどうしたら到達できるか ⇒ 美術品の所有権を移転する手段としてオークションというメカニズムが重要となる
社交界の洗練された人々にとって、美術の専門知識を持つことや鑑賞することは望ましい特質とされるようになり、画商が提供する品に対する需要は益々高まる
鑑定家という肩書が社交界に入る最も安全なパスポートの役割
18正規の美術品取引については、いまだ矛盾する2つの考え方があり、芸術とお金を巡る疑いは依然として付きまとい、「芸術家は金のことを考えた瞬間に、自らの美に対する感情を失う」とまで言われたくらいで、画商は「必要悪」と見做され、自らが作品売買に携わりその手を不正な儲けで汚さねばならないという事態から芸術家たちを救い出すという利点を持っていた
1769年に英国ロイヤル・アカデミー(王立美術院)が設立され、芸術家たちのための労働組合を提供し、年次で開催される展覧会という形で作品を売る舞台が出来たことから、英国美術は開花した ⇒ 英国のロココ期を代表するジョシュア・レノルズと肖像画で名を馳せたトマス・ゲインズバラの時代
誰が作者であるかを知ることなく、その絵の持つ本質的な質に拠って絵の価値を決定できるのかという疑問は、のちに続く何世代もの画商たちを悩ませてきた ⇒ 画家個人のブランド力を犠牲にして自らの画廊のブランド力を宣伝しようという画商もいた
下流の層の美術品取引では、画商にはペテン師のイメージが根強く残っていた
美術品取引の質を高める動きの背景には、美術に関わる専門知識の緩やかな成長で、画商のビジネスモデルの1つの発展がみられる ⇒ 自身の学術的な鑑定家としての立場を発揮することによって、仕入れた作品の価値を高め、より重要なものとして再評価を与えるより学者的な画商が登場。英国のアーサー・ポンド(170158)は画家で起業家、鑑定家。フランスのピエール=ジャン・マリエット(16941774)に私淑、デッサンや絵画のテクニックから誰が描いたかを識別する能力を身に着け、デッサンこそ画家の素性を見せる印だという確信を学ぶ。自らが紳士のように生活することで顧客の信頼を勝ち取り、コレクターとの緊密な信頼関係を築くことに成功、鑑定家としての権威を高め、美術品の裏面に彼のサインとともに「本物」と書かれていればその作品の質を保証するものと広く認められた。おそらく最初のプロの美術アドバイザイザーだったろう
18世紀画商をイタリアに引き寄せたのは、過去の偉大な芸術家のパトロンたちの子孫が財政的に苦闘していたことにある。ヨーロッパ大陸間の旅行が自由になり、裕福なコレクターが美術品収集の旅に出る。同時にクリスティーズのようなオークション会社設立の機運が熟す
18世紀後半にローマで名を成した英国の画家兼画商のギャヴィン・ハミルトン(172398)は正直で識別力にも優れ、信頼できる買い手の代理人として活躍。最大の勝利は、考古学者でもあったところからミラノの病院でダ・ヴェンチの《岩窟の聖母》を発見、1785年ロンドンのランズダウン卿に800ポンドの高値で売却
18世紀にアムステルダムに代わって世界の経済の中心となったロンドンでは、美術市場も重要性を増すが、同時に美術品取引はますますグローバル化していく
18世紀の美術愛好家の大多数は、いまだ金額に見合う価値を望んでおり、従って真摯な労働の証拠となる緻密な描き方の作品を評価していた
当時の美術界における最も権威あるカップルの最初の例がジャン=バティスト(17481813)とエリザベートのルブラン夫妻。夫人はマリー・アントワネットの肖像画を描いた画家。夫はパリで顧客の教育のために専門知識の提供という新しいスタンダードを打ち立てた画商で、最初の近代的なオークション・カタログを作る ⇒ フランス革命で資産没収の危機に瀕したが、巧みな脚捌きで共和政権とも友好関係を結ぶことに成功


Part II 19世紀――オールドマスターの画商と現代美術の画商
第3章        投機というアート――紳士たる投機家を希求したウィリアム・ブキャナン
19世紀初めに自ら投機家と名乗って活躍したのが英国のブキャナン(17771864)で、紳士たる者商売に手を染めるべきではないという障壁のあるなか、単なる売買の画商ではなく絵画を投機の対象として扱った
ナポレオン旋風下で大陸の多くの貴族が美術コレクションを手放しつつあり、それに最初に目を付けたのはマイケル・ブライアン(17571821)で、フランスのオルレアン公のコレクションをロンドンでオークションにかけ、巨額の利益を上げた
ブキャナンは、企業連合の形で他の投機家からも資金を調達してイタリアで作品を購入しロンドンで捌いたが、英国人の美術品に対する趣向を詳細に把握すると同時に、広範囲な読書励んだ結果、どこに名品があるのか、所有者は誰かという情報にも精通。彼が若き頃作成したアンガースタイン・コレクションの絵画リストは、現在その中のオールドマスターの傑作の多くがロンドンのナショナル・ギャラリーに収まっているが、「欠けている部分」を埋めるために欲しがるかもしれない作品を特定する手段としてイタリアの代理人に送ったものだし、クリスティーズのオークションで扱う絵画の主要な売り立てのカタログとその結果についての情報も熱心に収集して役立てた。「誰が絵を最初に見るかが重要」だとして、買い手を喜ばせるセールス・トークとして異なる相手に繰り返し使われ、絵画の「処女性」の更新可能性は、美術市場の奇跡の一つとなった
ブキャナンは、入手する作品について厳格な品質管理を行い続け、自分の力で国立美術館を開設させるという高い目標を夢見て、政府にオファーするに十分な品質を供えた絵画群を一纏めにするために注力した
1803年に12点の優れた作品群が集められたが、英国人の虚栄心が求めているのは、普通に良い作品を何点か持つより、最高の作品を1点持つ方が賢明だという風潮で、「戦利品(トロフィー)としての美術品」を追求する初期の例となった
作品の所蔵者歴である「来歴(プロヴナンス)」の重要性も強調、販売の保証として価値を持った
買い手に絵のイメージを伝える方法についても、版画を多用したほか、地元の画家によるスケッチの複製を注文し、現物を買い手の前に置くことに代えた
買い手の心理として、本当の大金は公開の売り立てでは払わないとして、個別の相対取引を重視、自身の店で在庫作品をいかにして最も効果的に展示するかに腐心
美術界の嫉妬深いライヴァルたちが流す悪意ある噂に対しても闘わねばならず、オールドマスターの買い手がロイヤル・アカデミーに助言を求めて手数料を払っていたが、その会長が贋作だの模写(コピー)だのと難癖をつけていた
紆余曲折の末、超楽観主義と日和見主義が彼を成功に導いたことは間違いないが、1824年にロンドンにナショナル・ギャラリーが設立された際には、彼の貢献は恩知らずの国家からは十分に認められることもなく報われることもなかった

第4章        ヴィクトリア朝の美術ブーム――英国現代美術をプロモートしたアーネスト・ガンバート
画商がパトロンの位置にとって代わり、画商のお陰ゆえに、現代絵画の値段は途方もなく上がっている ⇒ 1871年『アート・ジャーナル』紙が、「画商が影響力を持っているということは、現代美術の主要な特徴の1つ」と指摘
英国のヴィクトリア朝時代の画家の中で、最も成功を収めたサー・ジョン・エヴァレット・ミレイもこの評価を確認している
芸術家に競い合いの精神を呼び覚ました画商の代表がアーネスト・ガンバート(18141902)。彼の尽力のお陰で、美術の趣味と生産高は、極めて申し分のない形で整えられた
産業革命がもたらした19世紀の富が商人階級を成長させたが、彼らのニーズに応えて絵画を提供したのがガンバートで、当時の人々の心にとって愛おしく感じられる特定の物事や場所を特にリアルに呼び起こし、新興富裕層の価値観に強く訴えかける同時代の芸術家たちの作品を扱って成功、それが画家たちの支えにもなった
彼は版画商としてロンドンに来たが、版画は18世紀以来美術に関わるビジネスの中でも急成長を遂げていた分野で、18世紀に発明された仕組みである展覧会の開催による1回限りの鑑賞の楽しみと版画販売による繰り返し楽しむ方法のセットで、新興富裕層のニーズをいち早く掴んでビジネスにした
彼の成功を教える典型的な例は、1853年パリのサロン展で最初に展示された時にはセンセーションを巻き起こしたボヌールの《馬市》という巨大な作品(8x17ft)をロンドンの自身の画廊に持ってきて展示したところ、膨大な数の人々が入場料を払って見に来たうえ、大量の版画を頒布、最終的には絵画自体も3万フランで売却に成功
このビジネスモデルは185060年代にはうまく機能したが、その後は映画館の出現や写真の発明で、彼の世代を超えては続かなかった
有望な新人画家の発掘にも注力、オランダのアントウェルペンでローレンス・アルマ=タデマを生み出したのは彼だと言っても過言ではない ⇒ ロンドンに招き、作品を注文、画商の影響で、穏やかな歴史風俗画や物語を連想させる逸話的な作品にして成功

Part III 近代――モダニズムの時代の画商たちの活躍
第5章        アーティストとしてのセールスマン――アメリカのオールドマスター・コレクションを作ったジョゼフ・デュヴィーン
1次大戦に先立つ数年間は、近代美術が他に例を見ないほどに激烈な革新と革命の時代を迎えたことで注目に値する ⇒ 扇動したのは画商たち
1909年アメリカ合衆国への美術品の輸入税が廃止されたお陰で、膨大な数のオールドマスターの名作が有力な大画商によって売り捌かれた ⇒ 大恐慌も短期間で乗り切り、莫大な取引量を通して利益を蓄積
その代表格がデュヴィーン(18691939)で、ニューヨークに宮殿のようなギャラリーを所有、ミルバンク男爵という貴族の称号を持つ。良心の咎めやアカデミックな美術史の知識に悩むことがなかった天才的なセールスマン
古きヨーロッパが豊潤に持っていた美術品こそ、アメリカ人に欠けていた階級と歴史をもたらす完璧な商品
伝説的なアンドリュー・メロン・コレクションは、ワシントンのナショナル・ギャラリーの基礎を築いたが、その作品のほぼ50%はデュヴィーンが供給だし、アメリカのコレクションにある最高級イタリア絵画の75%の輸入はデュヴィーン経由
美術骨董品を扱う家系の生まれで、早くから絵画市場に参入、19世紀後期の美術と近現代美術は希少性の問題から難色を示し、またオークションは価格決定の偶然性から非難
デュヴィーンが専門家として頼ったのが美術史家バーナード・ベレンソン(18651959)
ベレンソンはすでに、ロンドンの老舗画廊コルナギの経営者グーテクンストと協力して、アメリカの大コレクターであるイザベラ・スチュワート・ガードナーのためにルネサンス美術の重要な作品を調達する仕事に携わっていた(のちにこのガードナー・コレクションによってイザベラ・スチュワート・ガードナー美術館設立)
デュヴィーンによって巨額の富を手に入れたベレンソンは、イタリア・ルネサンスの供給量が減る中で、判断が不正確になっていく。20年代からは写真で鑑定を行うことが多く、良心の厄介な痛みと完全主義者としての自己に対する期待感が、汚く陰険な世界の中で自分と折り合いをつけて生きていったことを示している。最後は喧嘩別れ
道徳的なバランスをとった行動こそが、美術品取引において鑑定というサーヴィスを提供する専門家が守らなければならないことだが、著名な美術史家の美術館長がある画商の妻にぞっこん惚れ込んだのかの記録を残していて、彼女は自らの貞操を捨てるという仄めかしをすることで、館長から作品の真筆性に対する鑑定をいくつも搾り取っていた。そんな鑑定書を基にして、アメリカ人のコレクションは作られているのだ!
当時のアメリカの大富豪たちを特色づけているのは、しばしばその外見があまり魅力的ではなかったことだが、今と違って美容外科などのバカげたことは1900年のアメリカにはなかった。百貨店のアルトマン、鉄鋼のフリック、銀行のモルガン、精肉のワイドナー、鉄道のハンティントンなど、いずれも叩き上げであり、粗野で、美術品という柔らかな緩和薬の中にのみ救済を求めていた
大富豪たちに顕著だったもう1つの特徴は無口だったことで、コミュニケーションを図る行為は苛々するほど面倒なことだから、彼らは文半ばに定期的に罵り言葉をは差し込んでそのイライラ感を表現する、「すげぇ(ファッキング)マティス、すげぇ(ファッキング)素晴らしい」というのが、ある極めつけの富豪が珠玉のコレクションを説明するために用意していた美学的評価の言葉だった
1919年にはデュヴィーンが騎士(ナイト)の称号を得、33年には貴族の地位を得、さらにロンドンのテート・ギャラアリーにはデュヴィーンの名を冠したギャラリーが残り、不朽の名声が与えられている
コレクションを美術館に遺贈するよう顧客たちを説得することは、デュヴィーンの側からすると名案で、コレクターとしての不朽の名声を与え、節税にもなる一方で、デュヴィーンは高値で売却した作品の価格を落とすことなく市場から消えることになる
デュヴィーンの屋敷の玄関には巨大な水槽があったが、魚の無気力さに心が乱されると言って、猿の檻と入れ替えよとしたところ、夫人が臭いがすると言って反対した際、デュヴィーンが言ったのは、「猿には絶えずゲランの香水を吹きかけておけばいい」と。これこそ彼の美術品取引がどのようなものであったかを暗に示す見事な隠喩(メタファー)だった

第6章        機密保持と情報の蓄積――巨大アーカイヴを築いたウィルデンスタイン家
20世紀の美術界を代表する画廊一族
普仏戦争後にナタン(18511934)によって設立。18世紀のフランス美術を中心に急成長
息子ジョルジュ(18921963)も参加して、ルネサンスの巨匠たちに加えて印象派やモダンアートの作品も扱うようになり、近代の主要な芸術家たちのカタログ・レゾネ(作家ごとの信頼できる作品一覧表)の決定版を編纂し、伝説に残るような美術書の蔵書コレクションも築く ⇒ 世界中の魅力的な絵画のすべてがどこに収蔵されているかの機密情報を綿密に集めたアーカイヴ的な存在
孫のダニエル(19172001)は、ある誤解から生じたナチスとの取引疑惑の申し立てを乗り越え、ますます力強さを発揮。1999年に『美術商』を著し、秘密の一端を明らかにして「強欲な成功者」との誤解を解き、予想外の「利他主義」を表に出してきた
彼らが明かしたのは、取引にとって重要なのは愛国心と専門知識であり、偉大な画商の定義として、1つのコレクション全体管理費を丸ごと買うだけの大胆さと力を持つということで、これが第1次大戦前の黄金時代の指針となり、いくつかの大画商を生み出した
パリのセリグマン画廊 ⇒ 鑑定家とビジネスマンの立場の両立を主張、自らも売却する作品に対する信念の証として所有すべきと唱える。自らの趣味を売るのであって、眼力より知識や記憶の方が勝る学者たちを軽蔑
ルネ・ジンペルは、父親がナタンと協力して仕事をしていたが、19年に袂を分かつ
ナタンが反対し理解しようとしなかった現代美術を扱うようになったのはジョルジュで、ローザンベール画廊との共同事業でピカソのキュビズムの具象画を扱うことになったが、33年に不倫が発覚して仲違い
現代美術については、ダニエルが90年代ニューヨークでアーノルド・グリムチャーが設立したペイス・ギャラリーと協力関係を結んで始め、かなりの利益をもたらしたが、完璧な確信を持った分野とはならなかった。現代美術家は、自らの過去の作品を突然否定する
画廊が得意としたのは、諜報活動と偽装工作 ⇒ デュヴィーンの鑑定家だったベレンソンはウィルデンスタインとも秘密の協定を結び、作品の先買権を提供したが、収益の50%という法外な手数料を要求したので25年には関係が破綻。盗聴で告訴されたこともある
ナチスとの最初の取引は、ナチスによる「退廃芸術」処分の一環としてゴーギャンの《海辺で馬に乗る人たち》がケルンのヴァルラフ=リヒャルツ美術館から出された時で、ナチスの画商カール・ハーバーシュトックとの間で行われ、アメリカの映画俳優エドワード・G・ロビンソンに売られた。他の画商たちもナチスによって破壊されてしまうかもしれない重要な美術品を守るためには仕方なく取引に参加していた
40年ドイツのパリ侵攻時点で、ウィルデンスタインは多くの作品を銀行やルーヴル美術館に預けたが、まだ多くを画廊に残していたので、一部はゲーリングによって略奪されたが、支配人に任せて疎開、ハーバーシュトックとの間で取引の話し合いが行われたが、ジョルジュは拒絶、密かにアーカイヴを安全な場所に隠し、ジョルジュはアメリカに渡る
パリでのビジネスは支配人によって続けられたが、戦時中も拡大を続けるニューヨーク市場にヨーロッパの作品を供給することは少なかったものの、ドイツ人の手に落ちた数は目立って少なく、戦後のビジネス再開に役だった
それでもナチスとの取引の疑いの黒い霧は晴れず、フランスの裁判所に告訴もされたが、取引が自由意思でされたという証拠がないという理由で棄却された
戦後は、戦争中に失われた名作を元の所有者に戻すことに関心を抱き、多くの作品を手掛けたが、まだ実を結んでいないものも多い
アーカイヴは称賛に値する巨大な知識の宝庫 ⇒ カタログ・レゾネと巨大な蔵書があり、のちにウィルデンスタイン研究財団となり、他の有名な画商や専門家たち、特に印象派の画商デュラン=リュエルと、ルノワールやシスレーの偉大な権威だった美術評論家フランソワ・ドールトのアーカイヴを取得
ダニエルはモネやゴーギャン、マネなどの究極の権威としても認められており、画商の仕事と研究所の仕事をわける「情報障壁(チャイニーズ・ウォール)」の問題は常に存在する
著しい価格上昇がヴァチカンの美術品コレクションに与える莫大な財政的価値について、ローマ教皇パウロ6世は、富を持つことと貧しい者の苦しみを軽減する教会の使命との板挟みから、ミケランジェロの傑作《ピエタ悲しみの聖母》の販売可能性について、ダニエルに下問があった。ダニエルが、「ユダヤ人がピエタを売ったら、十字架にかけられてしまう」と言ったら、法皇は「あなたが初めてというわけではない」と微笑まれたという

第7章        新し芸術を売った初の近代的画商――印象派を支えたポール・デュラン=リュエル
前衛と保守の間に位置する特異な画商ポール・デュラン=リュエル(18311922)には多くのパラドックスが存在 ⇒ 前衛的な芸術運動の擁護者でありながら、政治的には大いなる反動主義者であり、信心深かったが利益のためなら何でもする心の準備が出来ていたし、知的な美術批評を普及させた高潔な人物だったがオークション市場を平気で操作。さらには食いはぐれた印象派の画家達の救済者である反面独占契約を画策することにより縛り付けようとしたし、あからさまなエリート主義者で大衆的な趣味に否定的だったが金儲けになるのであれば迎合する作品を扱うことに吝かでなかった
1911年既に有名な画商となっていたが、美術に関しては大変な鑑識眼がある一方デザインや工芸など応用美術に関しては全く識別力を持たない。扱う絵画は素晴らしいが、家具は全く非道い代物だったという
近代的な意味での最初の現代美術の画商
彼の政治的な見解と商売面での業務は共に、宗教的な信条の基盤の上に築き上げられていた。新興のブルジョア層の顧客と芸術家を結びつけるための仲介者としての画商の役割が重要性を増している中、デュラン=リュエルは自らの戦いの旗印を「前衛芸術」と明確にし、自らが精力的かつ革新的なセールスマンとなって、印象派絵画を売り出すという挑戦的な試みをこつこつと最後までやり遂げた
生家は画商であると同時に画材も商い、実際に制作中の画家達と直接接する機会に恵まれていたところから、現代美術に惹きつけられ、絵を描くプロセスに興味を持つ
最初に扱ったのが人気上昇中のバルビゾン派の絵画で、生涯続けることになるが、この売り上げが彼が関心を抱く印象派の画家たちを支援するための資金となった
186074年の間毎年開催のサロン展に先立って、お気に入りの画家達のアトリエを訪問し、人気の出そうな作品を片端から予約して、サロン展を契機として売り出すという従来のビジネスモデルを出し抜いた ⇒ 70年普仏戦争を逃れてロンドンに亡命、同じく逃れてきたモネとピサロに会い、初めて彼らの作品を直接買い取り、終戦後パリに戻って彼らからルノワールやシスレー、ドガを紹介され作品を買い取っている
72年にはある画家のアトリエで、印象派に先行する前衛的な画家マネの作品に出会い、それを買い取るとともに、マネのアトリエに行ってすべての作品23点を買い上げる
55年のパリ万博でドラクロアの作品を目にした時の経験が、「アカデミックな美術に対する現代美術の勝利」と見え、印象派支援の信念に結び付き、バルビゾン派に向かう
もちろん伝統的な画家達にも集中して扱ったが、印象派の画家達に対しては士気を維持するためにも寄り添って一生懸命働いていた
8090年代に印象派の画家達がより成功を収めるようになると、独占権の問題が発生。画家たちは直接売った方が高く売れると考え、デュラン=リュエルは独占しているからこそ、価格が維持されていると説得
大衆の関心を、個々の特定の絵ではなく、画家本人と彼らの幅広い作品群全体へと向けさせることによって、従来からの絵画販売の手法に変革を加えた ⇒ 「個展」形式の展覧会を開催すると同時に、一般向けの雑誌やカタログを刊行し、作品を説明し絶賛した
転機になったのは、1つは普仏戦争で、フランス社会が不安定になったお陰で、新しく革新的な芸術が不安定ではあっても何らかの足場を得ることが可能となったこと、もう1つは南北戦争で、起業家精神に富む者たちが驚異的なエネルギーを発揮して、莫大な富を生み出し、パリで自らを文化的に一新するという大胆さを見出していた
印象主義のように何か新しく衝撃的なものは、ヨーロッパ人たちよりアメリカ人からもっと心広く受け止められ、デュラン=リュエルも86年には思い切ってニューヨークで展覧会を開催するという決断に達し、それは単に印象主義の歴史においてだけでなく、美術品取引の歴史においても画期的な出来ごとの一つとなり、最初こそ20%しか売れなかったが、次の2年間に6回もの展覧会を開くことになる
ライバルとして登場したのが、ブッソ・ヴァラドン商会(旧グーピル商会)のテオ・ファン・ゴッホで、モネや他の印象派の画家達との取引を開始
もう1つはジョルジュ・プティ(18561920)の画廊で、豪華な部屋を使った贅沢な展示で印象派の作品を「贅沢品」の域に持ち上げた
印象派の絵画は、デュラン=リュエルとベルリンの画商パウル・カッシーラーとの取引を通じてドイツに伝播、特にいくつもの美術館での展示を経て素早く広まった
デュラン=リュエルは、セザンヌやゴーギャン、ゴッホに接する時間はほとんどなく、マティスらのフォーヴやピカソらのキュビストにいたっては全く時間がなかったので、セザンヌを過大評価だとか退屈だとか評して馬鹿にもしていた
1896年モスクワでの展覧会開催が、若きカンディンスキーにモネの《積みわら》を見て抽象芸術を追求する道に導くという、モダニズムの展開に重要な影響力を与えた
更に1905年にロンドンのグラフトン・ギャラリーで開催した現代フランス美術展で印象主義を英国にも広げることになった
デュラン=リュエルにとって最大の売れ筋はモネであり続けた。連作絵画は画商の夢で、1日の異なる時間の様々な光の条件の下で同じ主題を扱った作品群は、素晴らしい視覚的効果を持ち、一度に10点あるいは20点の絵画が画廊の展覧会場を満たし、絵の具の乾く間もなく売却された
1906年最新作の希少価値欠落を懸念したデュラン=リュエルは、ニューヨークの自身の画廊でモネの新作絵画による大規模な展覧会を開くと発表し、1週間前にキャンセル。彼がプレス向けに手早く出した説明は、「自身もちろん失望しているが、一方でモネの行為は、彼が芸術家であって、単なる製造者ではないことを示している」とあり、巨匠の厳格な品質管理をパスした特別なお墨付きしか市場に出さないことの再保証となった
さらに、息子のジョセフも素晴らしいセールスマンで、アメリカの大富豪にルノワールの《舟遊びをする人々の昼食》を売却する際、昼食に招待して席の真向かいにその絵を掲げて125千ドルという驚異的な額を出させることに成功
デュラン=リュエルの究極的な重要性とは、難解な現代美術を説明する解説者としての画商であり、顧客たちの教育者となった画商として最初の存在。また、まだ誰にも見出されていない若い芸術家たちの作品を買い取り、彼らが後に認められて地位を確立した時になって初めて利益を挙げるという美術品取引の1つの雛型を作った
印象お主義に続くポスト印象主義、そしてとりわけゴッホの表現主義というモダニズムの展開は、芸術家の個人的な特性をさらに強調することになる。そして芸術家の気質や個性の問題は、画商たちが大衆に購入を促す際にますます重要になっていく

第8章        現代美術の豊かな才能を発掘――セザンヌの発見者、アンブロワーズ・ヴォラール
1887年パリにやってきたアンブロワーズ・ヴォラール(18661939)はインド洋の植民地出身で、法律の勉強のためにフランスに来たが、すぐにセーヌ河畔の露店で版画などを買い漁る時間に快感を覚え、画商に弟子入り。画材屋のタンギー爺さんの家でセザンヌに出会い、39年先進的な現代美術を専門に扱う独自の画廊を開設、ドランやマンティス、ピカソ、ルオー、ヴラマンクらが出入りするようになる
最初に開いた展覧会はエドゥアール・マネ展、次いで95年開催のセザンヌ展で自身を一変させる ⇒ セザンヌが亡くなる1906年までの10年間、デッサンと絵画の事実上の独占権を持っていた。ゴッホの作品も買い、ゴーギャンが南洋に行った後も独占契約を結んでいた
1901年若きピカソのパリでの最初の展覧会を開催 ⇒ フランスに着いたばかりの20歳のスペイン人のどこに才能を見出したのか、半分は売れたようだが、その後「青の時代」をヴォラールは好まず、「バラ色の時代」1906年にはいくつかの作品を扱ったが、「キュビズム」は全く分からなかった
1904年フォーヴを代表するアンリ・マティスの最初の個展を開催するが、以後彼を扱うチャンスを逸し、マティスが最終的に画商と契約を結んだのは1909年パリのベルネーム=ジュヌ画廊との間のことだった
ヴォラールが確保したフォーヴの画家は、05年にマティスから紹介されたアンドレ・ドランで、いつものように多数の数の作品を一括した買い取った ⇒ ロンドンに行かせて、モネの連作と同様テムズ川の連作を描かせ、フォーヴィズムの展開においても著しく際立った重要な出来事となり、後の何世代もの画商たちに素晴らしい利益をもたらした ⇒ ロンドンの富裕なコレクターたちは、自分たちに馴染み深い環境を描いた絵には喜んで金を投じてくれた
20世紀の最初の10年間にセザンヌの市場が急速に拡大したが、そうした中で実質的な独占権を持っていたことは、ヴォラールが膨大な数の在庫の中から、いつ何を売るかをえり好みできたことを意味している
ヴォラールが多くの芸術家たちと親密だったことは、彼らがこの画商を描いた驚異的な数の肖像画にも反映されている
18941911年の画廊の記録全体を調べると忘却の彼方に追いやられた多くの画家の展覧会が開かれているが、一方で、彼が扱ったうちで成功を収めたセザンヌ、ゴッホ、ゴーギャン、ボナール、ヴュイヤ-ル、ピカソ、マティス、ドラン、ジョルジュ・ルオー、キース・ヴァン・ドンゲンといった名を見るとかなりの的中率ということが出来る
版画制作における彼の不滅の名声は、ピカソの《ヴォラールのための連作集スウィート・ヴォラール》において成し遂げられた。ピカソが制作した中でもっとも有名なエッチングの組作品で、100点の作品からなり、最終的には37年に発表されたが、ほとんどは3034年に制作され、おそらくピカソの創造活動において最も実りの多かった時期に当たる
美術品取引の中で手付かずのまま残されている領域の1つが、画商の成功において修復者たちが果たしている役割 ⇒ ヴォラールについても多くのドガの作品について関係
1917年ドガの遺産の売り立てで多くの作品を買ったヴォラールは、ごく一部の作品を修復家に預けて改良を加えさせたとの非難がある ⇒ 多くの画を一括して買い込むことを好んだがゆえに失敗作が入るのは避けられず、遺産の売り立てのための記録写真と比較すると、1,2のケースで顔が描きこまれていたり脚が真っ直ぐにされているが、それをもってすべてに不当な疑いを抱くのはフェアでない
ドイツの画家は、「画家の質の悪い絵を贋作だと呼ぶことは、美術史家の義務である」
18世紀のフランスの鑑定家は、「経験豊かな鑑定家は、専門家にしか見ることのできない真実を見えるようにするために、デッサンを改善する権利を与えられている」
ヴォラールに倫理観があったのか否かについて、最後まで手許に置いていたオディロン・ルドンの素描作品《良心》が示唆するのは、善と悪の問題が折に触れて彼の心を占めていたのではないかということ ⇒ 自身の立像の背中に真っ黒な長髪をした何倍もの大きな頭を背負っている図
39年ヴォラールが自動車事故で死んだとき、生涯独身だった彼の遺産処分については戦争の勃発によって追跡困難だが、遺産から利益を得る立場にあったパリの胡散臭い画商マルタン・ファビアーニによって謀殺された疑いもあり、ファビアーニによってアメリカに輸出されたり、一部は従業員に盗まれたりして、残りの部分は何十年も銀行に保管され長い法的交渉の末、2010年サザビーズが売り立てを任された
ヴォラールが、ポスト印象派といわれるセザンヌやゴーギャン、ゴッホを擁護したことが、20世紀初頭にこれらの画家に対する評価の道を開き、ひいてはキュビズムと抽象芸術の展開に極めて重要な役割を果たすことになったし、ドイツやアメリカ、ロシア、英国の展覧会にも出品するというパイプ役を果たさなければ、これほどまでに広範囲に影響が及んだろうか ⇒ 最初に開拓者となった画商によって、近現代美術の取ったであろう形が、その強調のされ方や進行の経過において異なっていたかもしれない

第9章        キュビズムを支援した純粋主義者――ピカソの理解者、ダニエル=アンリ・カーンワイラー
ピカソがキュビズム(立体主義)へと向かう時点で距離を撮ったヴォラールに代わって、それを理解し支援する指導者となった画商がドイツ人のダニエル=アンリ(ハインリッヒ/ヘンリー)・カーンワイラー(18841979)
禁欲主義的で生真面目、販促や宣伝はせず、褒め称えもしないが安売りもしなかった
1次大戦開戦とともにフランスからスイスに亡命、戦後はドイツ国籍を保持していたので資産は没収、40年にはユダヤ人なるがゆえに再度没収されるが、フランスの片田舎に潜伏して生き延び、戦後再度復活
今同時に生きて活動している芸術家を扱うべきであり、同世代の画家達のために闘うことを自らの使命と課した
最初に売り出すべき画家たちの一団を見つけたのは、展覧会の中でも前衛的な芸術を展示する「アンデパンダン「独立」展で、フォーヴの画家アンドレ・ドランとモーリス・ド・ヴラマンクを知り、少しのちにピカソを知ってすぐに惚れ込んだ ⇒ すべての作品を自ら所有する独占権を結ぶため、画家たちを雇って支援を与えた
ピカソとの最初の出会いは1907年。《アヴィニョンの娘たち》の革命的なインパクトをすぐに理解。10年には3年間の独占契約を結び、5年前自分で売っていた時の倍額を払った。他にもジョルジュ・ブラック、ドラン、ヴラマンク、レジェなども同様の契約を結ぶ
カーンワイラーがキュビズムの展開に密接に関与していたことは間違いなく、彼ほど新しい革命的な芸術運動の中心となった画商の例はほとんどない ⇒ 画家たちが本能的に展開させていたものについて、理知的な基礎となるものを練り上げたのみならず、ピカソとブラックの絵画の大多数の題名を、彼らから聞いた説明に基づいて決めていた。彼の貢献を示すのは他にも画家たちから彼に対して抱いた尊敬の念で、それは彼らの描いた肖像画の数にも現れている
1次大戦前にオークションなどを通じて現代美術の市場が確立されたことが証明されたが、ドイツ人が症の積極的な関与が国内の保守派の批判を呼び、フランスの前衛芸術がとっている理解不能な新しい方向性に影響を及ぼす存在であり、フランスの秩序を転覆し征服しようと企むドイツ人たちの陰謀だとして、カーンワイラーは破壊活動分子と見做された
戦後は800点の所蔵品がすべて没収され、公売にかけられ安値で売られた
スイス亡命中に、キュビストたちとの契約も失ったが、最も重要な美術市場の影響はピカソに自由を許し、キュビスムから次なる方向へ向かわせたこと
2次大戦後比ピカソと和解し、ピカソの画廊として返り咲く ⇒ 戦時中から義妹の名前を借りてルイーズ・レーリス画廊と名を変えていた。画商たちを手玉にとることにかけては名人級だったピカソが、カーンワイラーだけは人間としての信頼性を評価していた
カーンワイラーはレジェの作だとする悪名高いデッサン・シリーズを信じ、後に贋作と判明するという災難に遭った ⇒ モダニズム作品の鑑定の難しさで、作品を制作する実技的な質が、その作品のコンセプトの質ほどには重要ではないということ。「上手い・下手」とか「似ている・似ていない」といったことはもはやそれが表現しているものに直接結びつけられておらず、作品の価値基準も、また作者が誰であるかを特定するための指針も識別できにくくなっている。来歴は近現代美術の専門家にとって常に一番の頼みの綱だが、それが欠ける場合は画家の筆跡で真贋を判断せざるを得ず、カーンワイラーは筆跡の特定は容易だったものの、模倣と正真正銘のものとの見分けまではできなかったということ

第10章     前衛芸術をめぐる理想と現実――矛盾をかかえたローザンベール兄弟画商
両大戦間に活躍した画商にローザンベール兄弟がいる。それぞれ別の画廊を経営
兄のレオンス(18791947)は前衛芸術に専心。キュビストたちの作品のプロモーションに打ち込むが、商才はなく、自尊心が高い。最初にピカソと契約したのは兄の方。
弟のポール(18811959)は、過去の巨匠を扱うことで成功し、パリの主要な画商の1人となっていた。1919年ピカソと契約し20世紀で最も重要な画商の1人となっている。ポールによってピカソはパリの社交界にデビュー、ファッショナブルな紳士に変わる。一旦新古典主義の様式で多くの肖像画を描いた後、20年代半ばにはキュビスムを生き返らせ、以前よりも色彩豊かで商売向きになっていて、様々な顔を持つ変幻自在なモダンアートの巨匠として売り出された
ポールは、ニューヨークとパリでフランス美術の主要な興業主となり、23年にはウィルデンスタインのニューヨークの画廊で最初のピカソ展を開催、具象的な作品の販売は難航したが、ピカソには展覧会は大成功と報告、「あらゆる大成功が常にそうであるように、まったく何一つ売れていない」と。実を結んだのは30年代になってから
30年代にはマティスとも独占契約を締結
画商がパートナーとの協力関係を成功させる必須条件の1つは、そのパートナーの妻との関係を持つことを避けること ⇒ 32年にジョルジュ・ウィルデンスタインはポールの妻と親しくなり、ポールが妻の不貞を発見したことで、ウィルデンスタインとの取引協定はいきなり終結
ポールはシュルレアリスムは文学の形式においては真面目なものだが、美術運動としては取るに足らないものだと感じていたので、ダリが代理人を務めて欲しいと言ってきたときには、「当画廊は真面目な店で、道化師は扱っていない」と断っている
ピカソが愛人の裸婦像を描いたのを持ち込んだことでポールの怒りが爆発、第2次大戦とそれによる強制的で物理的な別れと共に2人の関係は最終的に断絶 ⇒ ピカソはパリに留まったが、ポールはニューヨークに亡命、資産はすべてナチスに没収され、ニューヨークで事業を続けたが、悲しい最終幕だった

第11章     フランス美術界の流行のつくり手たち――元テロリストのフェネオンと自転車業界出身のギョームら
画商たちの前歴はさまざま。英国の美術品取引の歴史において最も有名な請求書には、ズボンと絵画がまとめて1枚に書かれている
ユニークなのがフェリックス・フィネオン(18611944)で、元テロリスト。文学者で自転車乗り、美術評論家であると同時に無政府主義者。新印象派のジョルジュ・スーラを擁護、この画家の大作《アニエールの水浴》の初期の所有者でもあった。9293年には証拠不十分で無罪とはなったが爆破事件にも関与。91年に早世したスーラの没後初の画期的な個展を00年に開催。06年からは画商としてベルネーム=ジュヌ画廊に入り現代美術部門の責任者となって新印象派のシニャックなどを紹介
ベルネーム=ジュヌ画廊の創設者アレクサンドル・ベルネーム(18391915)とその2人の息子は、世紀の変わり目に画商としての名声を挙げ、印象派絵画のコレクターの第2世代の愛顧を得たが、フェネオンの影響はベルネームを新しい前衛芸術と接触させたことで、シニャック、マティス、ドンゲン、ゴッホ、セザンヌ、スーラ、ロートレック、ピカソ、モディリアーニなども紹介
無口で無愛想な画商は結構多いが、フェネオンもその1
ポール・ギョーム(18911934)も自動車工から転身して1914年にパリに画廊を開いた重要な画商の1人で、画廊で開催した最初の展覧会はロシアの前衛芸術家2人の作品展だったが、モディリアーニを積極的に支援、彫刻を犠牲にして絵を描くよう説得。モディリアーニは作品の中に相手の名前や言葉を銘記することを好んだが、ギョームの肖像画の1つには「ノーヴォ・ピロータ(水先案内人)」と書き入れている。自らの展開期のこの重要な瞬間に画商が果たしてくれた役割に対して、画家から画商に向けた感動的ともいえる謝辞だった。ギョームは終戦とともに商売を拡大、グループ展を開催してピカソ、マティス、モディリアーニ、ドラン、ユトリロなどを並べた
ギョームの前に現れたのが、フィラデルフィアのコレクターであるアルバート・バーンズ博士。ギョームを通じてアフリカ彫刻への興味を発展させたほか、18801930年までのフランス美術の巨匠たちの重要な作品を購入し続ける
ギョーム自身のコレクションは、現在はパリのオランジェリー美術館に収蔵されている
モディリアーニは1920年に早世しているが、彼の最後の画商レオポルド・ズボロフスキー(18891932)も若死。17年最初のモディリアーニ展を開催するも、裸婦像に陰毛が描かれていたため警察の手入れを受けて撤退したが、芸術家の死によって作品の価値が増した
両大戦間のパリには、由緒ある画廊を引き継いだジェルマン・セリグマン(18931978)がいる ⇒ 過去の画家達を扱う従来型の画商だが、2439年の間に125回も大西洋を横断、アメリカの顧客相手にニューヨークの画廊でモダニストの一連の展覧会を開催。最大の成功はフランスのファッションデザイナーで大コレクターだったジャック・ドゥーセの遺産からピカソの最も重要な作品の1つ《アヴィニョンの娘たち》を買い取ってMoMAに収めたことだったが、第2次大戦以後の美術市場はパリからニューヨークへと重力の中心を移し、フランスの美術品取引の黄金時代は終焉を迎える

第12章     前衛を追求したドイツの画商たち――使命感に燃えたカッシーラーから戦後のベルグランマで
19世紀末の経済の急激な成長ぶりは、ドイツの美術品市場を急成長させ、先進的な芸術の中心地として、ベルリンはパリに次ぐ第2の地位にあった
ドイツ各地でも興隆を極め、モダニズムの展開に対して積極的であり、11年にはパウル・クレーの初個展を開催、カンディンスキーを中心とした「青騎士(ブラウエ・ライター)」グループにも支援を与え、ドイツ表現主義の先駆けとなる活動を支援、ムンクの展覧会も
ドイツでモダニズムの発達を導いたのは画商のパウル・カッシーラー(18711926)で、1898年に画廊を開設、フランス美術をドイツにもたらすことが文化的に正しい行為だという使命感に燃える。19世紀末の前衛芸術運動として名高い「ベルリン分離派(ゼツェッション)」のメンバー。既成のアカデミーからの分離運動を進め、後に会長となって自身の画廊で会員たちの展覧会を定期的に開催。他の現代美術を扱う優れた画商たちと同様、新しいものには前後関係(コンテクスト)を与えることが重要だと理解し、より古い作品の展覧会と合わせて現代作品を散りばめることで、そこに正統性を加える手法を引き継いだ
彼が及ぼした最も重要な影響は、1901年以来ゴッホを擁護し、10年間自身の画廊で開いた一連の展覧会に加え1905年にドレスデンのエルンスト・アーノルト画廊で開いた展覧会でゴッホを紹介したことで、こうした機会がなければドイツ表現主義は、強烈な色彩と激しさで特徴づけられるあのような画風を展開しなかったかもしれない
最終的には、家族内での従妹同士の諍いと、ドイツマルクの激しいインフレ、不安定な美術市場、頻発する女性問題などで疲弊し26年に自殺
現代の芸術家に対してカッシーラー以上に深い関心を持っていた画商が、ユダヤ人アルフレート・フレヒトハイム(18781937)で、09年パリでピカソのエッチングを買ったのが転機となり、カーンワイラーに会ってキュビスムに強い感銘を受け、フランス現代美術のドイツにおける宣伝係を務めることになる
ドイツ国産のモダニズムの擁護者となったのがヘルヴァルト・ヴァルデン(18791941)で、元はジャーナリスト。「芸術協会」を設立してドイツ国内の前衛芸術家による展覧会を開催。スイス出身の画家パウル・クレーも彼の実力を認めて参加。32年資金的に困窮してソ連に亡命したが、スターリンの粛清にあって41年逮捕・死去
戦後のヨーロッパ本土でドイツ語を母国語とする2人の重要な画商が現れる
エルンスト・バイエラー(19212010)とハインツ・ベルグラン/ベルクグリューン(19142007)。学究的で慈善的な活動とコレクターとしての成果の証として、バーゼル近郊のバイエラー財団とベルリンのベルグラン美術館を残す

第13章     大陸の芸術運動を追いかける英国紳士と業界人たち――ゴッホの友人リード、シュルレアリストのメザンスら
英国人は、大陸で生まれた種々のモダニズム運動に対して懐疑的だが、最も成功を収めた画廊はアグニューズとコルナギ
トーマス・アグニュー&サンズはマンチェスターで創立、北部の新興の富裕層に美術品を提供、1860年ロンドンに進出、オールドマスターの取引に焦点
19世紀末の英国では貴族の多くが現金に困窮、貴重な美術品が多数美術市場に放出され。アメリカに輸出されていった
コルナギは1760年創立の版画商。グーテクンストの加入で急速に勢力を伸ばしたが、美術史家のベレンソンと緊密に協力して、ボストンの大富豪イザベラ・スチュワート・ガードナーに絵画を提供。協力の最大の獲物はティツィアーノの《エウロペの略奪》でガードナー夫人のコレクションに収めることに成功
19世紀後半に、フランスの近現代絵画を扱うという冒険に乗り出した画商が、スコットランド人のアレグザンダー・リード(1854~1928)で、ゴッホ兄弟との友情がゴッホの絵を英国市場に売り出す契機となった。画家になるために渡仏したが金が続かず、ブッソ・ヴァランド商会で美術品取引の職を得て、ゴッホの弟と親しくなる
1910年の「マネとポスト印象派展」と12年の「ポスト印象主義展」は、英国の近現代美術に対する趣味の発展において伝説となる画期的な出来事 ⇒ 美術評論家のロジャー・フライ(18661934)主導で開催、展示品の大多数がパリの画商からの借用(画商たちの展覧会)。第1次大戦後もロンドンに大陸の前衛芸術を伝え続けたのは画商たち
シュルレアリスト(超現実主義者)の画商は多くはないが、1人はベルギー人エドゥアール・レオン・テオドール・メザンス(190371)で、192017歳の時ルネ・マルグリットの作品を見て意気投合

Part IV 現代――第2次世界大戦後のパラダイム・シフト
第14章     美術品取引の世界を変えたオークション――近代的な美術市場を発明した競売人ピーター・ウィルソン
サザビーズの会長でオークショニアのピーター・ウィルソン(191384)は、5879年の間会長にあって、会社の機能を変容させ、画商たちの直接のライヴァルとなり、更にはその役割を奪うことさえした
それまでの競売人は卸売業者で、deathdivorcedebtdealerの自暴自棄のケースにより委託されたものを扱ったが、ウィルソンはある種の華麗な競技場に変えた
オークションが美術品の価格を調査研究しうる根拠を与えてくれる手段、つまり「データバンク」となった
彼を知る人が一致して言うのは、美術品に対する情熱、鑑定家としての稀有な才能、運営した会社の素晴らしいクオリティ、悪戯心のあったユーモア感覚に対する称賛の気持ち
ウィルソンは中流以下の貴族の出、サザビーズでキャリアが進むにつれ、顧客たちの多くに個人的な軽蔑心を募らせていく。彼らは俗物的で感性が鈍く、美術品という宝物のための感情や識別力の一切をすでに無くしていたので、持ち前の美術品に対する趣味を満足させるためにも彼らの手元にある宝の山を出来るだけ円滑かつ効率的に社会に再循環させようとした。妻の手にした遺産でサザビーズの共同経営権を手に入れる
戦後初の売り立てはエジプト王ファールーク1世のコレクションで、サザビーズ社内を説得して引き受けたが、肝心の売り手が手放そうとしなかったために僅かな利益しか上げられなかったが、世界中への宣伝効果は抜群で、新しい刺激的な方法を将来に向けて指し示すことに成功
56年のフランスの巨匠プッサンの《羊飼いの礼拝》をオークションの目玉として確保したのが真の意味での突破口になり、傑作を売る代理人として個人画商が最高の地位にあるという従来の考え方を覆す ⇒ 実際には、直前に売り主にある画商が申し出た35千ポンドを最低売却額としてサザビーズが保証していて、入札の最高値は29千ポンドだったため、6千ポンドの赤字となったが、対外的には最低保証額は外には出ず競売が最高の作品の売り場所であるという確固たる証明がなされたので、赤字以上に多くの価値ある結果
1年後にはニューヨークのワインバーグ家の売り立てが来て、印象派絵画の分野で収めた最初の大成功となった ⇒ ゴッホが10点含まれていたが、56年にカーク・ダグラスの映画《炎の人》に登場した絵と同じもので、ハリウッド映画の世界と印象主義とを結びつけることには、絵画に対する需要をその熱狂の頂点へと駆り立てる意図があった。派手な宣伝により、美術品を幻惑的な魅力を持つものとして、どこか自身を見せびらかすものとして売り出した
ウィルソンこそ、印象主義が戦後の美術市場を駆動する牽引力となるという理解に基づいて行動した最初の人。市場は真に国際的なものとなり、最も高い価格は今やオークションによってのみ成し遂げられることを明らかにした
ワインバーグの時は、パーク=バーネット社が手数料23.5%を提示、クリスティーズの返事は3か月後に対し、サザビーズは折り返し電話で手数料8%を提示してきた。ロンドンはオークション税がなく、ニューヨークやパリに対して有利
翌年のジェイコブ・ゴールドシュミットの印象派絵画コレクションの売り立てでもクリスティーズを出し抜いてオークションを勝ち取った
オークションはかなり質の高い印象派の絵画7(マネが3点、セザンヌが2点、ルノワールとゴッホが各1)が一括され、世界からセレブが正装で参加して行われ、総額781千ポンド、内セザンヌの《赤いチョッキを着た少年》は220千ポンドにもなった
アメリカへの進出に際し、パーク=バーネット社の買収にも成功
サザビーズはセール前の評価額をカタログに掲載するというアイディアを推し進めたが、普通の人々が個人でより簡単に、居心地のいい気分でオークションで購入できるようにする手段となった ⇒ クリスティーズの場合は、たいていの買い手は同業者なのでその必要を認めていなかった
ウィルソンが人々にぜひとも理解させたがっていた一貫したメッセージが1つあるとすれば、「美術品の価値は必ず上昇する」というもの
「タイムズ=サザビーズ・アート・インデックス」の誕生 ⇒ 『フィナンシャル・タイムズ』紙の株価指数に準えてウィルソンが発明したもの。オールドマスターから印象派、更に家具や磁器まで、12の異なるセクションに市場を分け、それぞれに1年に毎月1セクションづつのインデックスを『タイムズ』紙に発表。1950年代末を100として6771年まで連載が続いた。印象派のインデックスはいつも歓声を巻き起こしたが、市場の他の分野は不安定。とはいえ、大衆の意識の最前線に、サザビーズ=ピーター・ウィルソンが美術市場を駆動しているのだと位置づけることに貢献
ウィルソンの転落のきっかけは、資金調達の一環として、自ら非喫煙者にも拘らず、会社のブランド名を英国の煙草会社に10万ポンドで売った煙草事件と、パリの購入代理人イゴンの経理処理の混乱で、前者は煙草自体の評判もさることながら内部からの激しい反発を呼び、取締役会とウィルソンとの関係に修復不可能な打撃を与え、後者については、株式公開も見据えて財務の専門家を入れて商取引を巡って何らかの秩序らしきものを確立しようとしたが、ウィルソンのやっていることを管理することは不可能だった
糖尿病が悪化したウィルソンは南仏に永住を決意したが、最後に手掛けた4,5世紀の銀器コレクション《セイゾー銀器》の売り立てでは、自身のサザビーズの株迄違法に処分して買い取り、ゲティ美術館に売ろうとしてレバノンからの輸出許可書を取ったが、物は出たものの許可書が偽造と判明、大きな国際訴訟問題に発展、未解決のまま84年に死去。最終的には相続人たちがこのコレクションをハンガリー国立美術館に収めることが出来た

第15章     買い物というアート――前衛芸術の中心地をパリから奪ったアメリカの画商たち
南北戦争後急拡大を遂げるアメリカ市場の富が最も必要としたのはヨーロッパの美術品で、それを売るために大西洋を横断したのはグーピル商会が草分け
国産の画商たちの中でモダニズムに向かった最初の重要な人物は、アルフレッド・スティーグリッツ(18641946)で、偉大な写真家の1人、写真展示のための会場を5番街に開設したものがあらゆる種類の前衛芸術のセンターへと発展。最初がマティス、次がセザンヌのアメリカにおける最初の個展、ピカソを紹介したのも最初、アフリカの彫刻にも発展。アメリカ人画家ジョージア・オキーフの初個展も開催した後結婚、後に妻の名声を確立することに集中、自身の画廊は17年に閉鎖
1931年オープンのジュリアン・レヴィ(190681)・ギャラリーはニューヨーカーによる開設。ハーヴァードで、偉大な鑑定家にして美術史家のポール・サックスのもとで学ぶ。32年パリからもたらされたばかりのシュルレアリスムの展覧会を開催。ダリやデュシャン、エルンスト、マン・レイの作品を紹介したほか、ジョセフ・コーネルを見出した画商でもあり、アメリカ抽象表現主義との間に重要な橋を架けることになった
マティスの息子ピエール(190089)は、25年にニューヨークに着いて起業した画商だが、父の名を活用して同時代の誰よりも商業面での成功者となる
ペギー・グッゲンハイム(18981979)は、「トラスタファリアン(金持ちの子女)」で我儘し放題で育ったが、魂の救済を得たのは現代美術を発見したこと。特にジャクソン・ポロックへの先駆的な認識と支援に結び付き、莫大な数の素晴らしい個人コレクションの蒐集へと結実。30年代後半にはロンドンで、40年代にはニューヨークで画廊を開き、芸術家たちに商業面の支援を行う。ニューヨークに美術館を開設したのは伯父ソロモンで、同じ名前を使うことに対し手厳しい拒絶反応を引き起こしたが、彼女自身もヨーロッパ大陸で活躍する前衛芸術家たちをロンドンに紹介する役割を果たす。ナチスに占領されたパリからエルンストを連れてアメリカに戻り、「Art of this Century」と名付けた画廊を設立し、抽象表現主義の誕生に立ち会う。最後はヴェネツィアで自身のコレクションを公開

第16章     アメリカン・ドリームの実現――抽象表現主義もポップアートも愛したギャラリスト、レオ・カステリ
戦後の美術界は、現代美術の重力の中心をパリからニューヨークに移し、行き詰まりを見せていたヨーロッパのキュビズムやダダイズム、シュルレアリスムが、アメリカ抽象表現主義、そして次世代のポップアートにとって変(ママ)わられた
ヨーロッパのアーティストや画商がアメリカに流入 ⇒ アメリカの画商として名声を打ち立てた代表がレオ・カステリ(190799)で、アメリカ抽象表現主義とポップアートの双方のアーティストにとってその誕生を助けた産婆的な画商
6070年代膨大な数の前衛芸術家を見出して紹介、販売を手掛ける ⇒ ジャスパー・ジョーンズ、ラウシェンバーグ、ふらんく・ステラ、ロイ・リキテンスタイン、ジョン・チェンバレン、アンディ・ウォーホール
自ら画商ではなく「ギャラリスト」と主張、才能溢れる新しいアーティストを発見し、ギャラリーで開く展覧会で彼らを世に出すという役割を自任し、古い美術品である中古市場の画商との本質的な違いを強調
トリエステで生まれのユダヤ人、ブカレストを拠点にヨーロッパ中で生命保険を売り歩きながら活発な社交生活を送るうちに、革新的な芸術運動の1つであるダダの作品への趣味を共有する地元の裕福な実業家の娘と結婚し、パリに出て39年ヴァンドーム広場にギャルリー・ルネ・ドルーアンの共同経営者となる。大戦の勃発で41年ニューヨークに移住、義父の繊維工場の引き継ぎながら美術への造詣を深め、51年にはイースト・ヴィレッジの熱気あふれる前衛芸術家たちのクラブの創設に参加し同時に彼らの展覧会を開催、アメリカ抽象表現主義という最先端の芸術の中心人物として認められた
57年東77丁目に独自のギャラリーを開設、ジャスパー・ジョーンズの《緑の標的》に前衛芸術に対する反動的な新しい方向性を感じて翌年展覧会で取り上げ、すぐにMoMAの買い上げとなる ⇒ 従来のアーティスト=画商=評論家という組み合わせに美術館学芸員(キュレーター)が加わって、比較的初期の段階で作品を買い上げる準備が出来ていた
戦後アメリカの抽象美術を代表するフランク・ステラも、ラウシェンバーグもいたし、更にリキテンスタインとウォーホールは、更に新しいポップアートという運動に発展
64年の世界最大の現代美術の国際展ヴェネツィア・ビエンナーレでは、政治力も駆使してラウシェンバーグにグランプリを取らせることに成功、
60年代が絶頂期で、徐々にセレブとして上流階級に上り詰めると、80年代にはお抱えのアーティストたちが彼の元を離れ始めるとともに、キューレーターとして影響を強めていたヘンリー・ゲルダーラーやペイス・ギャラリーを設立したアーノルド・グリムシャー(1938)、カステリから多くを学んだラリー・ゴガシアン(1945)などが「カステリ神話」を超えるものとして登場

第17章     最先端(カッティング・エッジ)のアートへ――21世紀の画商たちと美術界
21世紀の画商は、自らのギャラリーを美術館であるかのように飾り立てる資力を持ち、美術館に匹敵する質の高さを誇る。組織も勢力も国際化し、仕事ぶりは商業的、しばしばまだ描かれていない絵画も売るので、一流のアーティストが主要なギャラリーで新作展を開くとき、大部分はコレクターたちに売却済みということすら起こる
キュレーションという言葉は、高潔な響きを持つ。本来ある種の品質管理者であり、最良・最適なものを収集し、コレクションしてまとめる役割を果たすことによって、何かこの上もなく素晴らしいものを見る喜びを人々にもたらす存在だったが、21世紀には多くの上昇志向の分野をカバーするために拡張されてきている ⇒ フード・キュレーターなど
美術品取引において自身をキュレーターと呼ぶことが持つ効果は、自分のギャラリーを美術館という地位に近づけること、美術館で展示品を買うことが出来るのは究極のファンタジーだが、それが出来ない状況にあって、少なくともギャラリーでは可能な限り美術館的な手法をとりながら、実のところは売り物であるところの展示品を見せて営業が出来る
また、画商たちは美術品の売買をするのではなく、作品の「出所を見出し」しかるべき相手に「お収めする」と言って、金に関する汚染された行為を美学的なものにすり替えている
現代のコレクターは、造園術をイメージさせる言葉で語られると安心するようだ。アーティストは自ら進んで大地を耕すものとして描写され、彼らがひとたび十分に鋭いもの、カッティングエッジ(最先端)の作品によって、新しく地平を切り拓くグラウンド・ブレーキング(画期的)な仕事をすれば、そこから生まれてくるものは芸術の世界の風景に新たなランドマーク(目印)を作り出すことになると
現代美術のリアリティは、つまりは画商がアーティストをブランド化して市場に出すことにあるが、ブランドという以上に最高に象徴的なものは「アイコニック」と呼ばれ、「イコン(聖像)」を想起させる宗教的な含みを持つ
オークションという巨大な勢力に対する画商たちによる反撃は、国際アートフェアとして登場。近代美術のためにはバーゼルやマイアミのフェア、ロンドンの「フリーズ」、マーストリヒトなどがあり、世界中の主要ギャラリーが一堂に会して国際化された美術品購入層の公衆に向けて商品を提供
ブランドとしての「○○主義(イズム)」は、コレクターたちに安心感を提供する
画商たちは、近現代美術の展開において、またその歴史を記すに当たって重要な役割を果たした
【結びにかえて】
画商がときに芸術家たちの生み出すものに影響を与えてきたことを示す例を挙げてきたが、それは束の間のエピソードであって、偉大な芸術家が偉大な画商を作るのであって、その逆ではないことは依然として確かなままだろう
もっとも開拓者的な画商たちの場合には、新しい芸術を大衆がどう受け入れるかにも影響を与えている ⇒ デュラン=リュエルと印象派、カーンワイラーとキュビスト、カステリとアメリカのアーティストはどれもモダニズムの展開に重要な貢献を果たした
芸術の発展は、時折は商業的な力によって導かれることもありうるのはいいことなのだろうか? 避けられないことなのだろうか? 創造のための霊感の源にお金があるのは、どの程度まで正しいことなのだろうか?
美術品取引の歴史は、人間たちの実に多種多様な愚かさとその内面の二心が、独創性とインスピレーション、そして時折は英雄的な行為によって彩られている物語である



(書評)『ならず者たちのギャラリー 誰が「名画」をつくりだしたのか?』 フィリップ・フック〈著〉
2018.10.6. 朝日
メモする
 美術史に「悪名」高き画商あり
 いきなり「ならず者」とは穏やかでない。だが、新印象派を代表する画家スーラの没後初の大規模な展覧会を実現した画商フェネオンが、元テロリストだったと知ったらどうだろう。この画商は6人もの犠牲者を出す爆破事件に手を貸した前歴を持つだけでなく、みずから爆弾を仕掛けたこともある。導火線は巧みにもヒヤシンスの花の茎で隠されていた。
 フェネオンだけではない。歴史に名を残す画商になるのに、王道などまったくないようなのだ。美術史家や美術館の学芸員を目指す者にとって、大学で専門の学問を修めることは欠かせない。だが、本書に登場する画商たちは、ある者は元美容師、またある者は仕立屋、さらに別の者はスパイを兼業していた。しかも、そこで身につけた社交術や人間観が、のちの画商としての成功に少なからず影を落としている。画家マティスは、自分の絵の有望な買い手を前にしても「黙秘」を続け、ようやく口を開いたと思えば「買わないようにと強くすすめた」というフェネオンについて、驚愕(きょうがく)したという。
 美術の歴史について語るとき、美術史家や評論家ほどには画商の名が重視されてこなかったのは、こうした「悪名」ゆえかもしれない。だが、絵とは売り買いされるものだ。実際、世間で絵のことが話題になるとき、人はまず、その値段について大騒ぎする。
 それに、どんな名画も、誰かが誰かの手に渡る媒介をしなかったら、歴史に残っているはずがない。画商は時に戦争をもくぐり抜け、絵をしかるべき値段でしかるべき場所に届けた。どこの馬の骨ともわからない画家の才能にいち早く目をつけ、そのための資金繰りに奔走した。美術館はそんな危険を冒さない。多少の儲(もう)けは懐に入れたとしても、美術史において画商が想像以上に大きな役割をしてきたことは明らかだ。
 「自動車工(ガレージスト)からギャラリストへ」転身したギヨームに至っては、画家モディリアーニの作風にまで影響を与えていた。アフリカ美術に深い関心を持っていたこの画商は説得のうえ、もとは彫刻を手がけていたモディリアーニに絵を描くよう働きかけたという説もある。少なくとも、のちの歴史的な成功を見ることなく悲劇的な最期を遂げた画家が、今では広く知られた作風を維持するため、この画商が励まし続けたことはまちがいない。本書の表紙を飾るモディリアーニが描いたギヨームの肖像画にも、その一端はうかがえる。
 ダ・ヴィンチからベラスケス、モネからダリまで綺羅(きら)星のごとく並ぶ巻頭21点のカラー図版も、画商と名画とがいかに深く、まるで情事のごとく関わってきたかを如実に示してナヤマシイ。
 評・椹木野衣(さわらぎのい)(美術批評家・多摩美術大学教授)
     *
 『ならず者たちのギャラリー 誰が「名画」をつくりだしたのか?』 フィリップ・フック〈著〉 中山ゆかり訳 フィルムアート社 3240円
     *
 Philip Hook オークション会社サザビーズ取締役。40年以上にわたり美術市場に携わる。邦訳された著書に『印象派はこうして世界を征服した』『サザビーズで朝食を』など。



ならず者たちのギャラリー フィリップ・フック著
画商が美術史に果たす役割
日本経済新聞 朝刊
20181027 2:00 
絵は画家が描くもの、と思いこんでいないだろうか。たしかに実際に手を動かすのは画家である。だが、作品を創造するのはアーティストだけではない。多くの人間が、アーティストを通じて創造行為に携わっている。例えばルネサンス時代、絵の主題を決めるのは教会などの注文主だった。彼らは主題、描きこまれる人物やポーズまで指定することがあった。近代には批評家が、新しい方向性を示唆することによってアーティストの制作に直接的に関与した。
そして実は画商も作品の制作に深く関わっている。画家と作品を直接やり取りし、しばしば画家の生活を支え、時にその生殺与奪の権を握る画商は、注文主や批評家と同じか、それ以上の影響力を発揮する存在なのだ。
ルネサンス時代から現代へと至る画商の歴史を述べた本書の中心的なテーマは、「はたして古今の画商たちは、アーティストとその作品、コレクターの趣味、美術品の価値づけ、美術市場の展開、美術史の流れといったものにどれほどの影響を与えてきたのだろうか」というものである。
例えばピカソの画商だったカーンワイラーは、当時キュビスムの意義を本当に理解していた数少ない一人だった。「彼は、ピカソとブラックとグリスが本能的に展開させていたものについて、その理知的な基礎となるものを練り上げ」、キュビスムの展開にきわめて密接に関与した。だから、著者によれば、第1次世界大戦でドイツ人のカーンワイラーがパリを離れたことは美術史に大きな影響をもたらした。彼が不在だったため、ピカソが自由になって新しい方向に進むことになったからだ。
画家たちの才能を信じ、美術の革新のために奔走し、時にはずる賢く立ち回り、評論家や美術史家を巻き込んで画家の評価(と作品価格)を高め、コレクターを巧みに誘導して莫大な利益を上げる。画商列伝という形をとる本書は、美術史の展開に関わる画商の役割を体系的に記述した点に大きな意義がある。ただそれだけでなく、ドガの描いたバレリーナの顔が猿に似ていたため、パリの画商がかわいらしく描き直して売った、というような驚くべきエピソードに満ちており、近現代美術の裏面史として読んでもすこぶる面白い。
《評》美術評論家冨田 章
原題=ROGUES' GALLERY
(中山ゆかり訳、フィルムアート社・3000円)
著者はオークション会社の取締役。著書に『サザビーズで朝食を』など。


コメント

このブログの人気の投稿

近代数寄者の茶会記  谷晃  2021.5.1.

自由学園物語  羽仁進  2021.5.21.

新 東京いい店やれる店  ホイチョイ・プロダクションズ  2013.5.26.