ヒトラーのモデルはアメリカだった  James Q. Whitman  2018.11.18.


2018.11.18.  ヒトラーのモデルはアメリカだった 法システムによる「純血の追求」
Hitler’s American Model ~ The United States and the Making of Nazi Race Law
First Published by Princeton University Press 2017

著者 James Q. Whitman イェール・ロー・スクール比較法及び外国法フォード財団教授。専門は比較法、刑法、法制史。シカゴ大で精神史のPh.Dを取得。スタンフォード・ロー・スクールで教鞭をとったのち、94年からイェール・ロー・スクール教授

訳者 西川美樹 翻訳家

発行日           2018.9.3. 第1刷発行
発行所           みすず書房

本書の目的は、ナチスがニュルンベルク法を考案する際にアメリカの人種法に着想を求めたという、これまで見落とされていた歴史を紐解くことだ。それにより、この歴史がナチス・ドイツについて、人種主義の近代史について、そしてとりわけこのアメリカという国について私たちに何を語るのか、それを問いかけることにある
そして本書は、ナチスのニュルンベルク諸法が、市民権、およびセックスと生殖を重視していたことを指摘する
「アメリカの人種法にはナチスから見て魅力的な面がいくつかあった。とりわけ異人種婚に重罰を課すアメリカの稀有な慣習が「ドイツ人の血と名誉を守るための法」の背景に見て取れる。一方「血の一滴の掟」(ワンドロップルール)といった他の点は、あまりに過酷すぎると驚かれた」のだった
法と歴史の狭間から、豊富な史料を駆使して、人種法における世界の「リーダー」たるアメリカ、さらにアメリカそのものに深く根付いた人種主義を炙りだした、初めての試み


はじめに
この研究の出発点は19346月の会議で、目的はナチスの人種主義体制下における反ユダヤ法の計画を練ることであり、新たな人種政策が創生された決定的な瞬間 ⇒ アメリカの法律を巡って議論が交わされた。アメリカの人種差別的な法律からドイツが学べる点について繰り返し議論となった。アメリカの人種法にナチスに強い関心を持っていたことを示す記録は他にも多く存在し、ヒトラーの『わが闘争』にもアメリカこそが後のニュルンベルク法が目指す健全な人種秩序の確立に向けて前進している「唯一の国家」だと褒めそやしていた
ナチスが権力の座に上っていく時期に、アメリカ、とりわけジム・クロウ法(人種隔離)下の南部が人種主義の郷土であったことも周知の事実。30年代のナチス・ドイツと合衆国南部はいわば「鏡像」のように見えた
30年代の人種主義的な両体制にどんな類似点があったにせよ、ナチズムは比類なき究極の脅威であり、アメリカが何らかの着想を提供したなどと誰しも考えたくはない
95年ドイツの法律家レートマイヤーが、ナチスにとってのアメリカは人種主義的法律を擁する国の「典型例」であったと言ったが、それでもニュルンベルク法にアメリカが影響を与えたと考えるのは見当違いであると強く主張
ところが、ナチスは人種法におけるアメリカの例に、熱烈ともいえる関心を持ち続けて、アメリカのやり方を活用するよう働きかけたのは最も急進的なナチ党員だった。彼らにとってのアメリカは南部に限らず、人種差別的なアメリカという国全体を意味していたし、アメリカの手法が厳しすぎて受け入れられなかったことすら多かったという。実際、ニュルンベルク法そのものが、アメリカの直接の影響を受けていることもあり得るし、むしろその可能性は高いと言える
1次大戦後のアメリカは世界の最重要国家であり、ナチスもまたアメリカを目標としたのは間違いないが、その1つが30年代前半のニューディール政策であり、歴史家たちは、ナチスによる紛うかたなき犯罪計画の一端におけるアメリカの影響を突き止めていた
まずは優生学。30年代におけるナチスの野望の中核に位置付けられ、「遺伝病子孫防止法」ではガス方式の使用をはじめホロコーストの先駆けともなる手順の良い安楽死計画が実行に移されたが、この事態の背景にアメリカの優生学運動への一貫した傾倒があったことはすでに知られている。30年代後半まではアメリカとナチスの優生学者の間で積極的な交流があり、ナチスはアメリカを「模範」とすら見ていた。アメリカにおいて精神障碍者の断種や遺伝的に劣ると見做される移民の排除が奨励され、英豪加などの国においても移民を遺伝帝な適合性のふるいにかけ始めた
40年代前半のホロコーストという悪夢の時期にも、歴史家はナチスの東方への拡大と並行して、アメリカの西部制服とそれに伴うアメリカ先住民との戦いを引き合いに出した。東方に領土を獲得し膨張を続けるドイツのために、ナチスは「生存圏」を手に入れる必要に駆られており、範となる陸の帝国はアメリカだった
28年にヒトラーは、アメリカの先住民駆逐のやり方を賛美する演説を行っていたし、40年前半に大量虐殺が行われている間、ナチスの指導者たちは自らの残忍な東方征服について語る際にアメリカの西部征服を再三引き合いに出していた。一部の学者は、合衆国の西部拡張政策は、その過程において白人男性が「劣等の」先住民族を容赦なく押しのけるもので、これは生存圏というヒトラーの構想そのもののモデルになった、と言い切っている
ナチスはたとえアメリカに先例や類似、着想を見つけたとしても、かまわず独自の道を突き進んだが、それでもこうした研究が間違いなく教えてくれるのは、ナチスが実際に合衆国の中に先例や類似、着想を見つけたということ
それを知ったうえで、この本が提示する証拠について考えてほしい
30年代前半、ニュルンベルク法の着想を練っている間ナチスが大いに興味を持っていたのは、優生学や西方への拡張に留まらず、アメリカの人種主義的立法や法体系の手法から得られる教訓だった
アメリカ人が問うのは、「ジム・クロウ」がナチスに何らかの影響を与えたのかという点だが、確かに人種隔離政策は常にナチスの計画の中で決まって引き合いに出されていたが、ナチスにとってそもそも隔離自体はそれほど重要な問題ではなかった
ニュルンベルク法が重視したのは、市民権とセックスと生殖の2点だが、30年代の合衆国は、人種に基づく立法の先頭に当たっていた。移民と帰化に関するアメリカの法律(24年の移民法)は合衆国への入国を「出身国」の人種表によって制限するものだった
合衆国は、黒人、フィリピン人、中国人などを対象に法律上も事実上も2級市民という形をとり、人種の政敵混合についても異人種間の結婚に反対する法律の先駆者であり、30の州でそれぞれ異なる体制を擁し、すべてがナチスの参考とされ、他に範とするものはこの世界にはなかった ⇒ 合衆国こそ、厳格な人種法を持つ「典型例」であった
従来歴史学者は、アメリカの人種法はユダヤ人を対象落としていないのでナチスに影響を与えたなどありえないと主張、逐語的な模倣が見られた場合のみ「影響」と呼べるべきものとしてきたが、ナチスにおいても当初からユダヤ人の絶滅を期していたわけではなかった
現代のドイツはナチズムを拒絶するだけでなく、ヒトラーの下で起きたことに対する自国の責任を否定しないという道義的立場に拠って立つ。その理由から、他国の影響を仄めかすことはドイツではもっぱらご法度
ナチズムは、その前後に何の関連性もない、単なる悪夢のような歴史上の挿話でもなければ、まったく前例のない人種主義的脅威でもない。そもそも彼らが機能する伝統が西洋の政体には存在した。ナチズムとその前後に起きた事柄には連続性があったのは事実。ナチスが刺激を受けたり手本にしたりしたものがあったのは事実で、なかでもアメリカの人種法は傑出していた
ただ、アメリカの法律における人種主義の傾向は、もちろん輝かしい人道的・平和主義的な傾向と共存し、また競合していた。中にはヒトラーに傾倒しているハーバード・ロー・スクールの学部長もいて、アメリカの進んだ法思想の象徴でヒトラーを気に入っているのを隠さなかった人物もいたし、ナチスの法律家にもアメリカに数多の軽蔑すべき点を見つけていた
アメリカとナチスの人種体制が同じだというのではなく、ナチスはアメリカの法的な人種秩序に高く評価できる手本や先例を見つけ、その一方で、これほど悪びれずに堂々と人種主義を許す国で自由主義の激しい逆行があることを嘆き、また当惑していた
この世の悪を合衆国のせいにするのではなく、我がアメリカの歴史、そしてこの国が他国に与えた影響の歴史についての厳しい問いから目を逸らせることには言い訳が立たない。世界の国々にアメリカが与えた影響は、私たちが自国を誇りに思えるものとは限らず、できれば忘れてしまいたいと願う過去の諸相も含まれる
これらの事実を顧みない限り、私たちはナチス・ドイツの歴史も、そして何より、もっと広い目で見た人種主義の世界史におけるアメリカの位置付けも理解できないだろう。30年代前半にナチスの法律家たちは、他国のモデルを探し求め、アメリカに先例を見つけた

第1章        ナチスの国旗とナチスの市民はいかにつくられたか
1935.9.16.付けの『ニューヨーク・タイムズ』のトップ記事は、「帝国は鉤十字章を正式な国旗に採用。侮辱へのヒトラーの返礼」で、「ナチスのニュルンベルク法」が前日に公布されたことを伝え、その下に目立たぬ文字で、「反ユダヤ法が通過。非アーリア人から市民権と異人種婚の権利を剥奪」と言い添えた。この法律こそ、ホロコーストに行き着くドイツでの本格的な人種主義的国家の創設を予見させるものだが、なぜこれをトップ記事にしなかったのか ⇒ その答えはそもそもニュルンベルク法が誕生した政治的背景に関係すると同時に、30年代のナチスとニューディール政策下のアメリカとの関係がいかに複雑で二面性を持っていたかを裏打ちするもの
3336年ドイツには強い反米感情もあったが、良好な米独関係への期待、どちらも「北方人種」の優越性を真剣に守ろうとする国であるとの同胞意識をナチスが表に出すときもあったのは事実
『ニューヨーク・タイムズ』の見出しも、そもそもアメリカのユダヤ人に対してナチスが抱く嫌悪にからんだもので、前年夏に起きたブレーメン事件に対するナチスからの返礼だった ⇒ ドイツの大洋航路船ブレーメン号に掲げられた鉤十字旗がニューヨークでアメリカ人暴徒によって引きずりおろされた事件だが、ユダヤ人判事が無罪として全員釈放したことに対する報復措置として、3つのニュルンベルク法のうちまず国旗法を最初に公布、鉤十字をドイツ国家唯一の国章にすると宣言したもの(33年以来、「黒白赤の旗」と2つの国旗が掲げられていた)
後の2つのニュルンベルク法=市民権と異人種婚の権利剥奪は、返礼とは別のもので、この2つの反ユダヤ新法を公布した時のヒトラーとゲーリングの演説は、ルーズヴェルト政権や合衆国への友愛の言葉で飾られており、ドイツがアメリカの人種法の例にかなりの関心や敬意を払う空気の中で作られ、この立法によりドイツの法律がかつてないほどアメリカの法律と肩寄せ合うことになった
35年ナチス党大会で可決された法律は3つ ⇒ ①「国旗法」と、②ユダヤ人を二級市民に貶める「公民法」、③「アーリア人」との結婚及び性的関係を犯罪と定めた「血の法」
「国旗法」が生まれた経緯を辿ると、30年代前半のニューディール期のアメリカに対するナチスの態度に、敵意と暫定的な友好といった2つの相反する混濁した傾向があったことが見える ⇒ ブレーメン事件は両国間に外交上の危機に発展、米国務省は遺憾の意を表す書簡を送り、第三帝国と良好な関係維持を望んだが、ユダヤ人判事がアメリカの自由の名のもとにナチズムを激しく糾弾。当時アメリカではユダヤ人法律家が一流の法律事務所に入ることも権威ある裁判官の職に就くことも難しかったが、この判事はまず民主党の民族的マイノリティの利益を促進しようとするタマニー・ホールの後ろ盾もあって拘置所の下級判事の仕事に就き、この事件のチャンスを逃さずに、鉤十字旗を合衆国が反対するありとあらゆるものの象徴であり、文明に対する反逆だとして、暴徒を釈放したため、ナチスが食いつく格好の餌になった
国務長官のコーデル・ハルは同法公布のその日に正式な謝罪を表明したが、宣伝相のゲッペルスはナチスの政治目的に利用、願ってもない宣伝材料となった
Ø  「国旗法」こそ、ナチスの単独支配が決定的となった象徴的な法律
党大会でナチスの指導者たちは自信が闘う相手はユダヤ人であって合衆国ではないと周到に宣言し、ヒトラーはわざわざルーズヴェルト政権が判決を否定したことを褒めたたえ、ニュルンベルク法の目的がそこらじゅうの「ユダヤ分子」に非を鳴らし国家社会主義の「正しさ」を確認することにあると説明、ゲーリングもドイツは反ユダヤ法のないアメリカ国民に同情を禁じえないと付け加えた
歴史家は、ナチス・ドイツで合衆国が「モデルの役割を最終的に失った」のは、早くて36年初頭、とりわけ37年のことだったという
当時のナチスの世界史観では、合衆国の建国は白人至上主義が世界に台頭する「最初の決定的な転機」となり、第1次大戦以降アメリカは「白人種の指導的役割」を担い、アメリカの貢献なくして「白人種の意識的団結は決して生まれなかった」とし、ニューヨーク市を一歩出れば白人至上主義が深く根付いた国だった
Ø  「ドイツ国公民法」は、「ドイツ国公民」と単なる「ドイツ国民(国籍保持者)」を区別する法で、その目的は、完全な政治的権利をドイツ民族に属するものだけに限定して与えることだが、ドイツ民族とはドイツ民族共同体という神秘主義的な解釈に基づくもの
Ø  「ドイツ人の血と名誉を守るための法=血の法」は、ユダヤ人とドイツ人との結婚及び性的関係、ユダヤ人が45歳以下のドイツ人女性を家政婦として雇うことを禁じており、異人種間の結婚は民法上無効であり、犯罪行為とされた ⇒ ユダヤ人の定義がない
両法の目的は、市民権と異人種婚行にかかるナチスの新しい法律を作ることであり、そのどちらもアメリカの人種法の中心をなしていた
アメリカの人種法の歴史を考えると、どうしても「ジム・クロウ」法の人種隔離政策に辿り着く。アメリカの人種問題は、1954年の公立学校における白人と黒人の別学を定めた州法を違憲としたブラウン対教育委員会判決と、1896年の分離すれど平等の原則を確立した隔離政策を容認したプレッシー対ファーガソン最高裁判決の対立という枠組みで捉えるのが通例で、人種法=隔離政策が公民権運動でも焦点だった
以上の理由から、アメリカのナチスに与えた影響は、「アメリカの人種隔離法」の影響程度にしか考えていなかったが、実際の人種法は遥かに多くのものを内包しており、戦間期のヨーロッパでもよく知られていた
アメリカで特に目を引くのは、黒人やアメリカ先住民、フィリピン人、プエルトリコ人に対して、2級市民という目新しい制度をつくったことで、州レベルでの異人種婚行禁止法も顕著な特徴 ⇒ 1967年のラヴィング対ヴァージニア州判決により漸く撤廃
連邦レベルでの移民・帰化法も同様 ⇒ 1965年新法まで存続
優生学と密接に関係し、しばしば人種的に健全な集団を維持するための方策と説明された
すべての領域で、合衆国はその法の持つ活力と斬新さでは並ぶものがなく、20世紀前半のアメリカは人種法における世界のリーダーであり、その立法にかける情熱は、ナチスのみならず世界の至るところで称賛され、アメリカの独創性が輝いた数ある領域1つだった
Ø  移民・帰化・市民権
アメリカはそもそも建国当初から人種的排他主義の歴史を持つ国
1790年の帰化法 ⇒ 自由な白人であるすべての外国人に帰化を認める
1880年代までの合衆国は進歩的な自由志向の概念に導かれ、自国を抑圧された万人の避難所と見做し、移民の禁止はおろか移民の制限すらも自由な憲法に矛盾すると考えられた。ただ、それ以前でも南北戦争以前には多くの州が自由黒人の定住を防ぐ法律を導入し、1850年代にマサチューセッツとコネティカットが好ましくないアイルランド系移民の入国を公式には禁じることなく阻止しようと読み書きのテストを全米で初めて導入したことはあったものの、19世紀の2/3までは国境の開かれた国で、ヨーロッパから大量の移民を引き寄せた国だった
1870年代後半を境に、アジア系移民の大量到来を主たる原因として、移民と帰化の法律は方針を変更。70年代後半にカリフォルニアで中国人排除の法が成立したのを皮切りに、82年には連邦政府が中国人排斥法を制定、日本からの移民も同じく標的となり、世紀末にはヨーロッパにも拡大。96年に導入された読み書きテストにより移民を制限する法案が提出され、クリーヴランド大統領の拒否権にあったが、20世紀にはいっても一連の措置が講じられた。1917年のアジア移民禁止区域を定めた移民法により、アジアの広範囲な地域を望ましくない者の出身地としてそこからの移民を、同性愛者や知的障碍者、無政府主義者などと共に入国を禁止。続いて、「出生国」に応じた2つの移民と帰化の法律が成立。21年の緊急移民割当法と、「人種に基づき」東欧や南欧の「望ましくない人種」より北欧や西欧の「北方人種」を優遇する24年の移民法
合衆国の他にも、イギリスの帝国主義でも、世界を股にかけて「自由な白人男性による民主主義」を築き「民族的に単一」の諸国家を維持する積極的な共通姿勢を披露。カナダ、ニュージーランドに加え、1840年代に始まったカリフォルニアでの類似の運動と連関する中国排斥運動の拠点オーストラリア、それと南アフリカ
これら英語圏における手法をナチスは熟知し、合衆国のみならず、広域のイギリス連邦自治領の中にも手本を探していた
19世紀後半以降に合衆国は、「国籍や移民に関して露骨な人種主義政策を立てる上での指導者」と見做され、移民と帰化に関するアメリカの手法はナチスが台頭するかなり前からすでにヨーロッパで注目を浴びていた ⇒ 特にフランスの左派からは批判
19世紀後半ヘンリー・フォードが描いた反ユダヤ本を含むユダヤの脅威を描いた書籍のドイツ語版を発行したテオドール・フリッチュが発表した『ユダヤ人問題の手引き』の冒頭で合衆国を取り上げ、アメリカが平等主義路線の間違いに気付き、ニグロと中国人に制限を設けざるを得なくなったと悟ったとして、アメリカの移民法の歴史は愚かな平等主義のために人種を蔑ろにすることの危険を教える聖書の例え話のようだと考えた。この本はナチスの時代に何度も増刷され、ヒトラーを始めとするナチスがフリッチュの解釈に沿った言葉を何度も繰り返していた
アメリカの市民権の法律もまたしかり。19世紀後半の同時期に二級市民という独自の形を編み出していた ⇒ 1924年までアメリカ先住民は「国民」と見做されていても市民とは見做されていなかったし、プエルトリコ人は外国人。あとはフィリピン人と黒人
黒人の市民権の問題は、古くから存在していたが、ナチスにとって何より重要だったのは二級市民という黒人の立場をつくった経緯 ⇒ 1857年ドレッド・スコット対サンフォード判決により黒人奴隷は自由州に移り住んで解放を訴えたが憲法が黒人を合衆国市民と認めていないとして最高裁が却下され、憲法史上最も悪名を馳せた判決と言われ、南北戦争勃発のきっかけの一つとなる。
南北戦争終結後、憲法修正1415条により黒人の市民権は保障されたが、数多くの法的策略によって実質上の政治的権利を剥奪されていた ⇒ もっとも有名なのが投票権を制限する読み書きテストで、英語圏の国にも推奨された
ヨーロッパ、とりわけドイツは早くからアメリカにおける黒人の扱いに注目、マックス・ヴェーバーも1906年には、「民主主義の国アメリカでは平等な投票権が非有色人種に与えられる」と言って興奮していたという
1898年米西戦争の結果、プエルトリコとフィリピンの領有権を獲得したため、憲法上はアメリカ市民となるはずだが、フィリピンの住民は、アメリカ人が劣等もしくは救いがたく遅れた人種に属すると見做した太平洋の人種だったため、連邦最高裁は島嶼事件の判決で、米国統治下のプエルトリコに憲法上の諸権利を与えるものではないとして二級市民という法的地位を作ることを認め、新たに征服した土地の住民に対しても適用した
この当初事件はヨーロッパの人々の注目も集め、民主主義国家のアメリカが被植民者のために従属的な地位を作るべく奮闘する様は、ヨーロッパの帝国主義が猛威を振るう時代に世界的な関心事となる ⇒ とりわけドイツ人には関心深く、なかでもエーリヒ・カウフマンは20世紀ドイツ系ユダヤ人法律家の中でも傑出した存在で、アメリカ連邦最高裁の判決をコモンロー崇拝の根拠とした
アメリカは人種に基づく様々な形の二級市民権を発明したパイオニアだった
アメリカの人種法へのヨーロッパの傾倒をナチスがいかに受け継いだかを探るには、ナチスの聖書である『わが闘争』にあるドイツ再生についてのヒトラーの構想を見るとよい。市民権に明確な制限を求め、市民権は「ドイツ人の血統」を有するものに限定し、外国籍の者には彼らを無力化する策を弄し、排除するとの脅しをかけた(1914年以降ドイツに来住したすべての非ドイツ人は強制退去せしめる)
20年代後半のヒトラーの声明には、アメリカの人種政策に対する称賛と、この国の破竹の勢いに対する羨望が目立ち、とりわけアメリカの移民法の話になるとそれが顕著だった。アメリカをヨーロッパにとっての人種的モデル、さらに将来の人種的ライバルとして描き、アメリカが移民政策を転換したお陰で「北方的な」国家としての性質を確保できたと結論した。さらにアメリカの西部征服への賛辞も表明し、先住民の撲滅にも言及
ナチ政権掌握時には、ユダヤ人絶滅計画は狙いではなく、初期には「国外追放と絶滅」は想像しがたいものであり、当初の目標は街頭での暴力や法的障碍の創設によってユダヤ人を移住に仕向けることだった
最初の目標はユダヤ人の強制移住 ⇒ 公民法の変更によってユダヤ人を始めとする「外国人団体」を不利な立場に貶めることを画策。33年基本的な優生法が公布され、東方ユダヤ人の帰化権剥奪や追放を促進することが目的
ハンス・フランク(ヒトラーの顧問弁護士でドイツ占領下のポーランドにおける代理人:『ニュルンベルク合流』参照)編纂の『国家社会主義者のための法律入門』は、ナチスによる今後の立法方針を明らかにするのが目的だが、アメリカの判例について幾度となく触れていると同時に、アメリカの移民法をナチズムの先駆けとして歓迎し、ナチスの新たな秩序のためにいかに人種法を作るかを概説
多くの文書が押しなべて人種主義的であるがゆえに魅力を放つアメリカの法モデルの姿を描き出しつつ、欠点も認め、いずれ後戻りするか衰退すると警告するものも多かった
アメリカの移民法で特にナチスの法律家を惹きつけたのが、帰化及び帰化権剥奪の扱いで、第1次大戦前からいかなる対戦国の市民に対しても帰化権を拒否する立法があり、なかでも22年のケーブル法には非市民のアジア人と結婚した米国市民の女性の市民権を剥奪する条項があった(30年に撤回) ⇒ イギリスでもイスラムと結婚したキリスト教徒のイギリス人女性はイギリス国籍を失った
アメリカの「公民法」では二級市民に注目、とりわけアメリカの社会が深刻な脅威として受け止めている黒人が事実上法的地位を剥奪されていることに関心を持ち、合衆国の「ニグロ問題」と自身の「ユダヤ人問題」には明らかな類似点があると認めた
アメリカにおける黒人と同様、ユダヤ人の影響力を問題として、特に政府や官僚、法曹界からのユダヤ人の排除が当初の目的で、ナチ党綱領には「国家の執行・立法の決定権は国家公民にのみ与えられる」としている
合衆国南部が黒人らの投票権を手順よく剥奪することで、ファシストの人種的秩序のアメリカ版を作ろうとしたことは、3040年代にかけてヨーロッパ中に知られていた
いくらナチスがアメリカに先例を見出したとはいえ、それをもって彼らの公民法にアメリカのモデルが直接与えた影響について誇張した結論に飛びつくのは間違いであり、アメリカの法律は少なくとも市民権と移民に関する限り、その人種的目標をオープンにはしてこなかった。ただ、平等の伝統をうまく回避する必要から、「法の抜け道」を拵えていた
誇るべき深遠なる法伝統の代弁者であるドイツの法律家が、アメリカの法をそっくり「借用」したというのは間違いだが、かといってアメリカの法に対するナチスの関心を過小評価するのもまた愚かで意気地がないことで、アメリカの法には無視できない重要な何かが存在したと考えるのが妥当
アメリカの法律が近代の法律家にとって頗る重要なものをナチスに提供した。それは、自分たちには追い風が吹いているに違いない、との確信
比較法でいう影響とは、単にそのままコピーすることだけにとどまらない。アメリカの人種に基づく移民や市民権の法律は事実、20世紀初めにおける基準を設定した
先達の極右派と同じく、ナチスは合衆国の独創的な法文化が作った世界の流れを目指した

第2章        ナチスの血とナチスの名誉を守る
「血の法」が禁じるのは、異人種間結婚で、何より性的混合から生まれる恐れがあるのは、堕落した「混じり合った者」即ち「混血児」である
ナチスがユダヤ人を人種混合の汚染源とする妄言についても、アメリカの法モデルとの関わりを示す最も物議を醸す証拠や直接の影響を示す不穏な兆候が見つかる ⇒ 33年の『プロイセン司法省の覚書』は、「血の法」の当初の枠組みを定めた急進派ナチスによる重要文書とされるが、そこにははっきりとアメリカのモデルが引き合いに出されている
アメリカの最高裁は、ナチスのものと見分けのつかぬ主張をする南部諸州からの申し立てを歓迎し、混交による人種荒廃といった話を広めもしたし、「雑種化」に非を鳴らし、「最も純粋なコーカソイドの血液にニグロの血が一滴入るだけで、彼の精神における発明の才が破壊され、その創造的能力は麻痺する」と主張。後のナチスですら「血の一滴の掟」は厳しすぎると拒否していたもの
アメリカの人種法がナチスに与えた影響は、人種妄想ではなく、人種混交の脅威に立ち向かうべくこの国が独自に編み出した法的手法のほうで、この分野でもアメリカは世界のリーダーだった
20世紀初めの優生学の最盛期には、「優等」人種と「劣等」人種間の結婚は避けるべきとの考えが世界に広まっていたが、実際に法律で禁止されるのは合衆国を除くと稀で
異人種間結婚の犯罪化にこそ、アメリカがニュルンベルク法に直接影響を与えたことを示す何よりのしるしが見て取れる
混血児の分類の仕方についての法律=「雑種化の法律」では、どこまでをユダヤ人に汚染されたと見做すのかという問題があり、主人と奴隷の性的関係が公然と認められていたアメリカの対応が参考になったが、アメリカの対応は厳しすぎた
当時の歴史的背景 ⇒ ①自発的なポグロム(虐殺)を主張する急進派と国家の統制下で進めたいと考える党上層部との政治的対立、②官僚内では厳しい措置を求める急進派と旧来の法慣習に従って立法に一定の節度を持たそうとする穏健派の対立、③諸外国との関係では「有色」人種を冷遇しようとする急進派と世界各国からの怒りの抗議に配慮すべきという穏健派の対立
35年の施行令では2つの部類が区別された ⇒ ユダヤ人の祖父母を少なくとも3人持つユダヤ人「である」もの、そしてユダヤ人の祖父母を2人持ち、更にユダヤ教の信徒であるかユダヤ人と結婚している、ユダヤ人と「見做される」もの
アメリカの異人種混交禁止法の歴史は1691年のヴァージニアの法令まで遡り、20世紀初頭にも導入し続け、アメリカの人種主義的立法の中でも盛んな分野
アメリカの例が素晴らしいのは、ドイツの法律家が大切にするような明快な概念がなくとも、実行力のある法制度を遣り繰りするのは可能であると証明したことで、州ごとに様々な手法を用い、単に地理的な概念を採用した州もあれば、アフリカの血統を問題にした州もあり、朝鮮・マレーシアといった地理的出自と彼らの考える血族集団という概念を一纏めにした州もある ⇒ 概念の混乱があっても、アメリカが人種主義的秩序を擁する妨げにはならなかった。科学的に意味ある人種の概念より、「人種の政治的構築」というイデオロギー的な決意で克服
アメリカの判事が、曖昧な概念であるにもかかわらず人種主義的法律を造作なく適用した判決手法にも学んだ ⇒ アメリカはユダヤ人を標的にはしなかったが、この国の鷹揚で制約のない、行き当たりばったりなコモンロー式の法的人種主義には、ナチスの判事に「いかにもぴったりな」「原初性primitivity(有色人種というだけで十分)」が備わっていた
トマス・ジェファソンは、1821年の声明で、「等しく自由な2つの人種が同じ政府の下で共存できないのは明白」と言い、リンカンは1863(奴隷解放宣言を発表した年)以前の声明で、「アメリカにとっての唯一の希望は黒人集団をどこかに移住させることだ」と言っている ⇒ いずれの声明も、アメリカの人種法をドイツに紹介した書類に言及されている
ナチスがまだ絶滅計画を説いてはいなかった当時から、ナチス政権がアメリカの人種法の理にかなった延長を説き進めていたことは間違いない
アメリカの異人種混交の措置に、ナチスが直接、何らかの意味ある形で、「影響された」と言えるのか ⇒ yes
何よりもまず異人種間結婚の犯罪化において、どう見ても「影響」と呼ぶほかないものが見つかる ⇒ 従来から重婚や「悪意ある詐欺」の場合を除き結婚が刑法の対象となることには無理があるとされたが、アメリカの法律は異人種婚を犯罪とした西洋の制度の貴重な例となった
さらにアメリカの例は、人種的に劣るとされる「混血児」の分類についても重要な意味を持った ⇒ アメリカにあった「血の一滴の掟」という「社会的慣習の容赦ない過酷さ」にはナチスですら過酷すぎるとの批判がでたが、人種分類が血統ではなく過去の結婚で決まるという発想に着目し、ナチスによる「ユダヤ人」の最終的な定義に重要な意味を持った

終章 ナチスの目から見たアメリカ
本書で見てきた歴史が何を語っていないかに注目することが肝心 ⇒ ナチズムの起源について語ってはいない。ナチスの犯した数々の犯罪がアメリカの発想に起因するなどと結論したりはしない
本書が提示した歴史が突きつけるのは、ナチズムの起源についての問いではなく、むしろアメリカそのものについての問いであり、いったいなぜアメリカはナチスをこれほど惹きつける法律を生み出すことになったのか ⇒ 合衆国には人種主義が存在し根深い
ナチスの目からアメリカを見ると、アメリカの人種主義の性質とその規模にまつわること、もっと広い人種主義の世界史におけるアメリカの位置付けにまつわることを教わるのみならず、アメリカの法文化そのものについていくつか不愉快なことを教わる
アメリカの人種主義の歴史は、ジム・クロウ法下の南部の歴史に留まらない。30年代のヨーロッパの識者はみな、黒人と白人の対立はアメリカにおける人種主義の歴史の一端に過ぎないことを知っていた。特にナチスから見れば、「北方人種」のアメリカが直面するのは、「ニグロ問題」の他に「モンゴル人」、インディアン、フィリピン人、その他「入り込もうと」するありとあらゆる非「北方人種」集団の問題だった。その証拠に、20世紀の世界でアメリカが人種主義の立役者であることは、南部の隔離政策だけでなくより広範な組織的活動や他の法形式と関係、とりわけ人種に基づく移民政策や二級市民の立場、異人種混交禁止法といった国家による全米規模の計画と関係。ナチスが惹かれたのも隔離政策に限ったものではなく、これら諸々の面であって、それらが強烈な魅力を放っていた
20世紀初期に、根深い白人至上主義と活発で革新的な法文化を擁した合衆国は、人種的法律の創設においてまさに最先端を行く国だった空こそ、ナチスも重視したわけで、ナチスのみならずブラジル、オーストラリア、南アフリカもまたしかり、異人種混交禁止法を作るためのモデルを模索していたドイツの植民地行政官もしかりだった
アメリカのみならず、ヨーロッパにはそれこそ何世紀にもわたる迫害の歴史があり、ナチスの政策の多くを予見するものだったし、ヨーロッパが植民地主義、帝国主義的拡大を続ける世界の至る所で何らかの人種法は存在したし、イベリアとラテンアメリカには一部の歴史家が現代人種法のルーツと認める伝統があり、16世紀にまで遡ることが出来た
確かにナチズムはアメリカで生まれてドイツに輸入されたものではないが、それでもナチスが人種秩序の構築に着手した時に、どんなモデルがあるかと真っ先に頼ったのがアメリカだったのは事実
私たちはイギリスのコモンローの伝統を、権利という近代文化の重要な(唯一の)歴史的原点と考えるが、ナチズムもまた人種的ドイツ人と定義されたものは誰でもが、ただ支配者人種に属するとの美徳によって、支配者階級の(ママ)同等のメンバーと見做される。その意味で、ナチスの「国民革命」は徹底した平等主義的な社会革命だった
アメリカの白人至上主義も、「白人の間の不動の平等主義」を基盤にし、優遇された人種に属するあらゆる人間の平等を主張する運動であり、過去の貴族社会のような立場の不平等を力づくで否定した。とりわけジャクソニアン・デモクラシー(ジャクソン大統領(在位182937)時代の民主的な改革の総称で、白人男性普通選挙制を普及、先住民は強制移住、奴隷解放運動には敵対的)の本質だった
時代の地政学的関係にも注目 ⇒ 世界はあらかた英語圏の国々に支配され、英米の指導者や知識層は、テディ・ルーズヴェルトにしてもイギリスのジェイムズ・ブライスにしても、自分たちがこの地球をこれだけ広く牛耳っていることをあけすけな人種差別的主張を唱えて弁明。「この新世界は白人が受け継ぐ遺産」と信じて疑わない姿は、ナチスにとって格好の地政学的モデルとなった
両者の間には顕著な違いもあった ⇒ アメリカの人種法は特に再建期修正という形でこの国の法文化に歯止めをかける立憲主義の伝統と共存。すなわち「白人至上主義の秩序」と「平等主義的改革の秩序」との間に常に緊迫した対立があったが、ナチスにはない。さらに、ナチスは「ファシスト国家が持つ組織」を挙げて人種主義を徹底したのに対し、アメリカは憲法修正第14条に従っていると見せかけるのに必要な法的策略や裏の手口に頼り、国家機関の事業にすることを拒否し続けた
アメリカの実用主義的(プラグマティック)なコモンローの法体系は、ナチスにとって魅力的 ⇒ 柔軟性と制約のなさ、常に変化する社会的要求への順応性が魅力だが、それはコモンローの自由が擁する、より大きな文化が制度上に現れているからで、それとは対照的に大陸法では法典に体現される国家の確たる命令に従わざるを得ない


(書評)『ヒトラーのモデルはアメリカだった』 ジェイムズ・Q・ウィットマン〈著〉
201810200500分 朝日

 「自由の国」の「不都合な真実
 これこそが「不都合な真実」であろう。ナチス・ドイツが1935年に悪名高いニュルンベルク法を制定した際、モデルとしたのが米国だというのだから。ユダヤ人から公民権を奪い、ユダヤ人ドイツ人との婚姻を禁止したナチスは、やがて絶滅政策へと突き進んでいく。このおぞましい政権が米国を模範としたというのは本当だろうか?
 実際には、これは突飛(とっぴ)な議論ではない。1790年の米国初の帰化法は、対象を「自由な白人」に限定した。その後、非白人も市民と認められるようになるが、19世紀後半にはアジア系移民の排斥法が制定され、黒人、先住民、フィリピン人やプエルトリコ人も二級市民に貶(おとし)められていく。
 人種間混交の排除でも米国は際立った。優生学が流行した20世紀初頭には各州で異人種混交禁止法が導入される。人種主義的社会秩序の構築も進み「血の一滴の掟(ワンドロップルール)」により黒人を分類する慣行が広まった。
 このような人種法の数々を、ドイツ法曹は意欲的に吸収した。反対がなかった訳(わけ)ではない。法理を重視する守旧派は、人種の定義すら曖昧(あいまい)なまま米国法を真似(まね)ることに反発した。しかし、急進派は、米国では法律が「人種の政治的構築」を達成したとして、社会の変化に柔軟に対応する法文化を称賛したのである。
 気の滅入(めい)る話だが、救いは人種主義を国家事業としたナチスとは異なり、米国ではこれ以後、公民権が拡大したことであろう。その理由は、米国に人種法と対立する立憲主義や平等主義の伝統が併存したからだと著者はいう。
 ただし、これも両刃の剣かもしれない。多くの米国人は、自国が自由や民主主義のモデルだと信じるあまり、同時に人種主義政策のモデルだった可能性に気づかない。「自由の国」というイデオロギーが、人種差別の現実を隠してしまうのだ。今日の世界にも潜む危険を冷徹にえぐり出す読み応えのある書物である。
 評・西崎文子(東京大学教授・アメリカ政治外交史)
     *
 『ヒトラーのモデルはアメリカだった 法システムによる「純血の追求」』 ジェイムズ・Q・ウィットマン〈著〉 西川美樹訳 みすず書房 4104円
     *
 James Q. Whitman イェール・ロー・スクール教授(比較法、刑法、法制史)。著書に『過酷な司法』。


コメント

このブログの人気の投稿

近代数寄者の茶会記  谷晃  2021.5.1.

自由学園物語  羽仁進  2021.5.21.

新 東京いい店やれる店  ホイチョイ・プロダクションズ  2013.5.26.