安倍三代  青木理  2018.11.8.


2018.11.8. 安倍三代

著者 青木理(おさむ) 1966年長野県生まれ。ジャーナリスト、ノンフィクションライター。90年慶應大卒後、共同通信で社会部記者、ソウル特派員などを経て06年からフリーランス。『青木理の抵抗の視線』『ルポ 国家権力』『日本会議の正体』など

発行日           2017.1.30. 第1刷発行
発行所           朝日新聞出版

初出 『AERA』(2015.8.~2016.5.)

《羽鳥慎一のモーニングショー》火曜日レギュラーコメンテーター、《サンデ-モーニング》レギュラーコメンテーターで、理知的、理性的で的確なコメントをする
本人紹介文中に、代表的著書として紹介

序章
日本の政治は稼業と化してしまったのか
14年の衆院選挙後、父母、義父母、祖父母のいずれかが国会議員、または三親等内の親族に国会議員がいて、同一選挙区から立候補した「世襲」候補者のうち当選したものが112人で、全当選者の23.6%。自民党では3人の1人。内閣では半数が世襲
世襲による「政治身分の固定化」は一種の階層社会に繋がり、政治や社会から活力を失われ兼ねないし、何より問題は、代議制民主主義の下、選挙を通じて国政を委ねられている議員に世襲がはびこれば、幅広い層の意志や意見が政治に届きにくくなる
世襲の究極形が現首相の安倍晋三
根っからのたたき上げ山﨑拓は、「世襲議員派選挙の苦労もないし、逆境を経験しない。しかも岸の孫、吉田の孫って言うのを売り物にしている。麻生なんて選挙の出陣式で〈シモジモのみなさん、私が吉田の孫です〉って言ったらしいからな」と語っていた
安倍晋三も、岸への敬愛を隠そうとしていないどころか、各種のインタビューや著書でもたびたび岸の名に言及し、影響を受けていることを積極的に示唆してきた
他方、父方の祖父の名が語られることは極度に少ない。国会審議の場で「反東条政権を貫いた議員だった」と語ったことがあり、当然ながら知っている
父方の祖父は、政治思想的にも政治手法の面でも、政治的な立ち居振る舞いの面でも、現政権とはおそらく真逆の地平に立っていた、それ故に安倍は祖父のことを語ろうとしないのだろう。だからこそ、祖父・寛の実像を追跡してみたい
先の大戦下、反骨を貫いた寛。父・寛を終生誇りにしていたという晋太郎。なのに戦後70年を経た現在、宰相の座に就いて長期政権を成し遂げつつある孫の晋三は、寛についてほとんど語ろうとしない
その「安倍三代」の軌跡を追うことは、現政権のありようと問題点を根本的に問い返すのと
同時に、日本政治が現在の地平に至った歴史的な鳥観図を描くことに繋がるとも考えている

第1部        (18941946)
第1章        知られざる祖父
下関から北へ50㎞いった田舎の漁村、日置村の渡場が寛の生家
寛の両親は共に早逝、伯母に育てられ、萩中から四高(金沢)、東京帝大政治学科
日清・日露戦で武功を上げ陸軍大将まで上り詰め満州の経営にもあった大島義昌の孫娘と結婚、晋太郎を設けるがすぐに離婚
寛は東京で事業を起こすが失敗、日置村に帰って28年の普通選挙法に基づく第1回衆議院議員選挙に立候補するが落選、結核と脊椎カリエスに罹患、一命はとりとめる

第2章        「富の偏在」への怒り
33年に地元で、病床のまま政治が乱れていた日置村の村長に推挙
35年山口県議会議員選挙に出馬して当選(兼務)
37年衆議院議員選挙に山口1区から無所属で出馬して当選 ⇒ 反戦、平和主義、富の偏在を批判、「徳の政治」「誠の政治」を掲げる。軍部とは一線を画す。特高による露骨な選挙妨害を受ける中、地元の人望とどぶ板選挙で跳ね返す

第3章        反戦唱え、翼賛選挙へ
42年の翼賛選挙は、40年発足の大政翼賛会が466人を推薦、うち当選381人に対し、非推薦候補は613人中当選85人。寛の他は三木武夫、河野一郎がいたが二階堂進や大野伴睦は落選
39年商工次官になった岸(寛より2つ下)は、衆議院の商工省委員となっていた寛とは面識があり、45年春には療養中に見舞いにも訪れている。岸は、サイパン陥落後早期終戦を唱えて東条と衝突、閣内不一致から内閣崩壊に追い込んでいる
46年寛は心臓麻痺により急逝 ⇒ 後継候補には晋太郎までの繋ぎとして親戚筋の木村義雄(寛の従妹の夫)となったが、公職追放に会い、跡を知り合いの農林省の役人で吉田内閣の副書記官長を歴任した周東英雄に託す
寛の生家辺りは、耕作放棄地となって荒れ果てた棚田が広がる。なのに旧・日置村の街道沿いには、「地方こそ、成長の主役」というスローガンの脇で誇らしげに上を見つめる首相・晋三のポスターが貼られている。とてつもなく現実と遊離した政治スローガン。寛ならきっと渾身の憤りを以て反旗を翻したに違いない

第2部        晋太郎(192491)
第1章        天涯孤独のドウゲン坊主
大伯母に育てられて、山口中学、六高(岡山)から東京帝大法学部、学徒出陣で海軍滋賀航空隊に入隊、「どうせ死ぬなら華々しく散りたい」と率先して特攻を志願
小学校からドウゲン(ガキ大将)、運動能力抜群で成績も村一番の秀才、地元の誰もが一目置く少年だった
徴兵後、父から実母の死を告げられ、「戦争は負ける。無駄な死に方はするな」とアドバイス。子供の頃母を探しに東京まで行ったこともあったが、結局みつからず

第2章        「異端」と「在日」
49年東大卒後毎日新聞入社、政治記者。日ソ共同宣言時の外相担当記者として特ダネも
51年結婚 ⇒ 政治家として寛を尊敬していた岸が、その遺児に惚れ込んだ
58年衆議院議員選挙に立候補して当選。周東が岸・石橋の総裁選で石橋側に回ったため、周東への反発から出馬、佐藤栄作派の候補を参院に回しての当選。その後も2回落選するが、地元の同級生を中心に圧倒的な人望で応援の輪が出来た結果、11回当選
安倍晋三事務所は、下関の在日コリアン1世で最大の成功者・吉本章治の世話になるものだが、89年当時パチンコ業界からの政治献金疑惑で「安倍のパチンコ御殿」と呼ばれスキャンダルの火種となる
晋太郎と「異端児」との関係は、晋太郎が天涯孤独であって、韓国でも北でも平等に付き合ってくれたのが認められたからで、晋太郎にしても地元で最有力実業家の林義郎陣営と渡り合うには、それなりの支援が必要だった
岸を始めとする戦後日本の保守正解は、パクチョンヒらと密接に連携しながら共産主義陣営と対峙、当時晋太郎も親韓派と目され、足元の在日コミュニティと深く結びついていたが、それ以上に晋太郎の晋三とは明らかに異なる「異端者=マイノリティ」への配慮の眼差しであり、決して極端に偏らない政治的なバランス感覚であり、狭量や独善に陥らない懐の深さが垣間見える。その一例が民団系、総連系に関わらず交遊を広げたこと
総連系の大物と晋太郎を巡る付き合いでは、晋太郎がおしのびで朝鮮学校の実情を視察、物的な支援をしてくれた
在日には、晋太郎が下関で政治地盤をつくった時、財政的に支えたのは自分たちだという自負があるにも拘らず、晋三が何かと敵視するのに不満が鬱積している

第3章        オレのオヤジは大したやつで
74年三木内閣の農林省として初入閣。寛と政治姿勢を同じにした三木が遺児を抜擢
中曽根政権での外相在任は1334日、後継と目されながら中曽根裁定で僚友竹下に譲り、党幹事長に就任、次との密約すらあったと言われるが、リクルート事件で水泡に帰す
岸・福田という自民党のタカ派の系譜を継ぎ、「保守の本領」を掲げたが、実際には平和憲法擁護論者で、野党関係も柔軟路線をとった
日頃からオヤジ自慢を繰り返し口に ⇒ 徹底した戦争反対の父を誇りにしていた。逆に岸のことは1回も聞いたことがない
先の大戦に対する認識にしても、国会で「国際的にも侵略戦争であるという厳しい批判がある。そうした批判に対し十分認識したうえで対応をしていかなければならない。これがこれからの、そしてこれまで日本が歩んできた世界平和を求める基本的な姿勢でなければならないし、今後ともそうでなければならない」と答弁、歴史修正に走ることはなかった
古賀誠によると、「世襲は故郷を持っていない。選挙地盤は田舎だが、晋三は田舎で生まれ育っていないので、地元民の心がわからない。政治に打って出る強烈なモチベーションがない。父や祖父を追い越すというのは、本来の政治の志ではない」

第4章        リベラルとバランス
実母は離婚後横浜正金の西村と結婚、男児を設けたのが興銀頭取の西村正雄(193206)
西村が大学入学の頃、大叔父から晋太郎の存在を示唆され、よく似ていて人違いされたこともあったが、仲介者があって、晋太郎にその気があればと思っていたところ、79年に初めて面談し、晋太郎は初めて生母のことを西村から聞かされる
西村は死の直前『論座』に「偏信を捨て兼聴せよ」と題する論文を寄せ、小泉政権後の次期総理(=甥の晋三)に向け幅広い分野で注文を出している。曰く、「格差社会の是正、戦争責任を含む史実の勉強不足、戦争責任を自覚した現実的な外交を優先すべし」
反戦・反骨に生きた政治家・寛を最大の誇りとしつつ、父の遺産の上に晋太郎は立っていた。しかも世襲のプリンスでもあったが、その人生に課された孤独と戦争体験がバランス感覚や優しさといった人格を形作った。それに対し、晋三は、凡庸にすぎるほど育ちのいい3世のおぼっちゃま。極端な善や悪などと全く無縁にすくすくと育ったツクシン坊、それだけにその姿はどこか頼りなく、薄っぺらく、強引な振る舞いに出ても、幅と深さと知性に欠けるように思われてならない。取材するほど確信へと変わっていく

第3部        晋三(1954)
第1章        凡庸な「いい子」
晋三が高3の時、日米安保を批判する教師に対し、「安保条約には経済条項もあり、経済協力もうたわれている」と言ったら教師が不愉快そうな表情で話題を変えたというエピソードを紹介し、「教師の狼狽えぶりは私にとって決定的だった」と自分の政治志向への影響を語るのは安倍の定番中の定番
これ以外のエピソードらしいエピソードが皆無に近い
6177年成蹊在籍 ⇒ 教育者・中村春二が設立した学習塾を起源とし、その後岩崎小弥太らの協力で総合大学にまで発展。兄・寛信も同じく成蹊一筋
映画監督志望、成人してからも母親と一緒にアクションやサスペンス映画を見たという
勉強ができたという感じでもなく、スポーツでも際立ったという印象はなく、将たる器を感じたこともないので、首相になっているのが不思議に思える
家庭教師の平沢勝栄も、不在がちの両親に替わる遊び相手程度
岸が溺愛したというが、少年期から青年期にかけての晋三に政治志向の気配は感じられないどころか、学校でも剣道部から練習が嫌いで地理研に変わり地味、政治とは無関係
3の時のエピソードも、同級生から見れば大した話ではなく、都市伝説みたいなもの
高校の教師に言わせても、「近現代史を真剣に学んでいない。憲法の生い立ちにしても、知識として血肉化するような作業をやっていないから、国会で「芦部信善を知っているか」と聞かれても知らないと答弁して波紋を広げたのには唖然。知らないままに政治家となって、憲法改正までしようとしているのか悲しくなった」

第2章        「天のはかり」と「運命」
自らも受験したことがないのをコンプレックスと吐露しているが、祖父や父の後を追って同じ道を進もうという意思と意欲があったても不思議ではないが、チャレンジする雰囲気すらなかったという
成蹊の法学部は伝統的に良質な教授陣を多数擁していたので、将来の政治活動の土台となる知を吸収するには格好の学びの場
政治哲学の加藤節名誉教授も、必修授業の政治学史を担当したが、晋三のことは記憶に残っていない(優でも不可でもない)。大学の4年間で、自分自身を知的に鍛えることがなかったのでは。2つのムチ:無知ignorantと無恥shameless。戦後の日本が、過去の世代が営々と議論して築き上げてきた歴史を学ぼうともせず、敬意すら持たない、恐るべき政治の劣化だ
ゼミの指導教授で行政学会の理事長も務めた成蹊大看板教授の1人の佐藤竺も、晋三が発言したのを聞いた記憶がないという。立派な卒論は保管しているがその中にはない。地方自治の泰斗を師と仰げる機会を得ながら、議論の場で何かを発言した記憶すらないとまで回顧される様からは、人間としての本質が空疎、空虚なものでなないかという疑いする生じさせる
前出の加藤は「9条科学者の会」の呼びかけ人で、成蹊でも職員に訴えて「有志の会」として15年の終戦記念日に声明を出し、安保関連法制に反対しているが、晋三はそれに耳を傾けるどころか、過去の世代に対するリスペクトが全くなく、人事権を行使して「法による支配」を捻じ曲げてしまい、立憲主義という最高規範が権力を縛るという基本的な考え方に対する無知を晒した
77USCに留学するが、1年は語学研修、残り3か月は政治学を履修するがドロップアウト、政治学科に2年留学していたのは経歴詐称としてのちに取り消している
いくら取材を重ねても、悲しいまでに凡庸で、何の変哲もない、善でもなければ強烈な悪でもない、取材していて魅力を感じなければ、ワクワクもしない。なぜこのような人物が為政者として政治の頂点に君臨し、戦後営々として積み重ねてきたこの国のかたちを変えようとしているのか。政治システムに大きな欠陥があるからではないのか
79年神戸製鋼所入社。地元の長府工場との関係でのコネ入社。最初の赴任地がニューヨークというのはそのため。以後1年毎に部署を異動していく
82年中曽根内閣の外相になった父の秘書官に就任
長男が引き継がなかったのには特別な理由はない。自分で向かないと思っただけ
晋三の今の政治スタンスは、明らかに後天的なもの

第3章        世襲の果てに
政治家としての晋三にそれほど深遠な思想があったわけではなく、与えられた「運命」をいかに無難に、でき得るならば見事に演じ切りたいと腐心しているだけに過ぎない
87年昭恵と結婚、彼女に言わせると、晋三は努力型でも天才型でもなく、選ばれて生まれてきた、いわば「天のはかり」で使命を負っているのだ
晋三は、祖父や周辺のたちに喜ばれる「運命」を演じきれるという程度の核しか持たない空疎な中心なのではないか。本人は核を持っていると思い込んでるかもしれないが、そんなものは所詮後付けの皮相な代物であり、知と地にきっちりと根差したものではない
戦後初の本格的政権交代を果たした民主党の失敗への失望は計り知れず、巨大な期待外れへのバックラッシュ現象が燻っている。晋三はその追い風に乗って、更に小選挙区比例代表並列制導入によって党執行部の力が飛躍的に高まったため「安倍一強」の状況を作り出すのに成功しているが、高い支持率の支持理由は「ほかに適当な人がいない」というもの
戦後政治も、「安竹宮」までは先の大戦の記憶を生々しく持ち政権運営の基盤となっていたが、本格的な世襲時代に入り、選挙区に足をつけた政策ではなく、薄っぺらな思想らしきものを振り回すタイプが増えていく
1次政権の挫折で永田町の住人としての晋三は成長したかもしれないが、人間の根っこの部分はそう簡単には変わらない。少なくとも内から湧き上がるようなエネルギーに突き動かされて政治を目指したわけではなかった、という事実は永遠に変わらない
晋三の母校成蹊学園にも、政権への憤懣と鬱積が相当広範に燻っている
中国政治史を軸とする国際政治学者で、特に中国共産党や毛沢東研究では日本の第1人者、日中両国でその名を轟かせた宇野重昭は、成蹊大学長まで歴任した成蹊学園を代表する教育者であり、最高碩学と言える。政界入り後も交流を保ってきたが、憤りとも悲しみともつかないような発言が溢れ出てきた。「安倍政権が、中国はもとより欧米でも歴史修正主義的ではないかという疑念と警戒感がある。取り巻きにそういう人がどんどん出来ていったのが大きい。情念の同じ人とは通じ合うがそれ以外の人からは孤立している。憲法について何もわかっていない気がするし、もっと勉強してもらいたい。安保法制は完全に間違っているし、集団的自衛権行使に踏み切るのは大変危険な選択で、憲法解釈の変更などによって平和国家としての日本の有り様を変えた。生活のことを第一に考える穏健な保守を望んでいるが、現在の自民党の保守主義は本当の保守主義ではない。同じゼミ生の桐野夏生が女性の解放以上に女性を作り直すという強烈な使命感を学生時代から持って邁進していたのに比べ、晋三には大志を抱いていた様子が微塵も感じられず、周囲に感化された後付けの皮相な思想らしきものに憑かれ、国を誤った方向に向かわせないでほしい」と、涙を浮かべながらの諫言を、凡庸だが心優しき3代目はどのように受け止めるだろうか



[書評]『安倍三代』  青木理
小木田順子 編集者・幻冬舎
20170227日 三省堂書店×WEBRONZA
言ってはいけなかった真実  
 特定秘密保護法や、安全保障法制、そして現下の「共謀罪」や憲法改正など、安倍政権の施策、ひいては安倍首相の思想信条に反対する人たちの最大の疑問、苛立ちの原因は、なぜ安倍内閣の支持率はこんなに高く、選挙で勝ってしまうのか、というところにある。いったい安倍晋三とはどんな人物なのか。
 ジャーナリストが政治家について書こうとするとき、ひとつのアプローチは、政治家そのものに近づくことだ。だが、その懐に飛び込んで独自の情報を得ることと、批判的・客観的なまなざしを向け続けることは、なかなか両立しない。新聞・テレビの政治記者の書く政治家論が、しばしば「ヨイショ本」と言われてしまう理由はそこにある。
 政治記者ではない著者が、本書でとったのは、父・晋太郎、祖父・寛というあまり知られていない父方のルーツに光を当て、地元や関係者など周辺取材を積み重ねることで、安倍晋三の人物像を浮き彫りにするというアプローチだった。
『安倍三代』(青木理 著 朝日新聞出版) 定価:本体1600円+税拡大『安倍三代』(青木理 著 朝日新聞出版) 定価:本体1600円+税
 晋三氏の父方の祖父・寛。1894年、山口県日置村の醸造業を営む名家に生まれる。村長を経て、衆議院に2期連続当選するも、終戦直後の19461月、51歳で、志半ばのうちに亡くなる。
 寛の息子・晋太郎は、1924年生まれ。政治家を志し、まず新聞記者となり、同郷・山口県の政治家である岸信介の女婿に。その後、岸の秘書官を経て、父・寛の地盤を受け継いで衆議院議員となり、外務大臣ほか要職を歴任。首相候補と目されながら、67歳、やはり志半ばで亡くなる。
 そして三代目・晋三。祖父は岸信介、父は安倍晋太郎という、政治家になるには最強と言っていいバックグラウンド。晋三氏の兄が政治家になることを望まなかったため「後継ぎ」が回ってきて、父・晋太郎の秘書官に。小泉政権で抜擢され、戦後最年少の総理大臣に就任する。最初の政権を病気のために途中辞職するも、それもいまや、「挫折を乗り越えて復活」という美談となって、戦後の最長政権に迫っている。
 私も、冒頭で触れた安倍政権の施策に反対し、晋三氏の思想信条に共感しない者であるが、本書を読んで、その憤りの矛先をどこに向けたらいいのかが分からなくなってしまった。
 祖父・寛は、反戦と貧者救済を訴える政治家だった。戦時中の1942年、全政党が解散し大政翼賛会に一本化された、いわゆる翼賛選挙で、翼賛会の非推薦、つまり反権力の候補者として立候補する。官憲による厳しい弾圧を受けながら当選を果たすくだりは、本書で描かれる寛の生涯のなかでも、もっとも胸に迫るところだ。
 父・晋太郎も、改憲を党是とする自民党の派閥政治全盛の時代に生きた政治家であるが、彼を知る人は口をそろえて「平和憲法を擁護するリベラル。きわめてバランス感覚のすぐれた人」と語る。晋太郎氏は周囲には「俺は岸信介の女婿じゃない、安倍寛の息子なんだ」と繰り返していたという。本書で描かれる晋太郎像には、私がぼんやりと記憶するあの温和そうな人が、かくも気骨あふれる人物だったのかと、多くの驚きがあった。
 で、三代目である。三代目が父や父方の祖父に言及することはほとんどない。「反骨の政治家・寛や平和主義者・晋太郎の思いを受け継がないのは、けしからん」と非難するのはたやすい。だが、晋三氏は、なにがしかの思想遍歴を経て、彼らの思想信条と決別し、保守政治家を志すに至ったのかといえば、どうもそうではない。
 寛は晋三氏が生まれる前に世を去っており、晋太郎は多忙のため晋三氏との親子の関わりは希薄だった。晋三氏が、尊敬する政治家として、ことあるごとに岸の名を出すのは、その思想信条に共鳴したゆえでなく、幼い自分を溺愛し、幼少時代の幸せな時間を共に過ごしてくれた、いいおじいちゃんだったから……としか思えないのだ。本書を読んでいると。
 「とくに強い印象はない。勉強もスポーツもほどほどの、いい子、いい青年」「現在の保守的な思想はおろか、そもそも政治の話をするのも聞いたことがない」。幼少期から社会人になるまで、周囲の晋三評は、すべてこんなものだ。
 何人もに取材を申し込み、せっかく足を運んで話を聞いても、みんな言うのは同じことばかり。ノンフィクションライターの心を躍らせるようなエピソードは何も出てこない。著者がそのことにいいかげんゲンナリし、晋三氏を描く筆が意地悪になっていく……という点が、本書で描かれる晋三像についての一番面白いところと、私も意地悪になってつい言ってみたくなる。
 さしたる思想的基盤もなく、政治家になりたいという強固な意志もなかった政治家・安倍晋三、日本国首相。「王様は裸だ」ならぬ、「首相は○○だ」。著者は本書で、この言ってはいけない真実を明らかにしてしまった(○○の中身は、ぜひ本書を読んで、ご自身の言葉を当てはめて噛みしめてほしい)
 そしてそのような人物を、あなたは何で政治家になったのかと非難しても仕方ない。あなたの思想信条は間違っていると批判しても空しい。いったいこの憤りをどこに向けたらいいのか、あらためて考えるとき、著者が本書を、現政権への批判でなく、「現在、全衆議院議員のほぼ4人に1人が世襲である」という事実を述べることから始めた意味が、重くのしかかる。
 さらには、このような人物が多くの人々の支持を得て、国を率いる立場にまで昇りつめることは、何も日本でだけ起きているわけではない。そのような時代の潮流への言及はないものの、本書が投げかける問いは、当然、そこまで広がっていく。何重もの意味で、罪深い本だ。



Wikipedia
安倍 寛(あべ かん、1894明治27年)429 - 1946昭和21年)130)は、日本政治家衆議院議員(通算2期。第2021期)。日本進歩党に所属した。
政治家の安倍晋太郎外務大臣を務めた)は長男。安倍晋三内閣総理大臣)、岸信夫(衆議院議員)は孫。妻・静子は陸軍軍医監本堂恒次郎の娘(後に離婚)。
経歴[編集]
山口大津郡日置村蔵小田(現・長門市油谷蔵小田:大字蔵小田の一部が安倍寛死亡後の1954年に油谷町が成立した際に油谷町に所属した。日置村日置町、油谷町ともに2005年に旧長門市、三隅町と新設合併し現長門市となっている。)に安倍彪助・タメの長男として生まれる。4歳までに両親が相次いで死去したため、伯母のヨシに育てられる。父・彪助は郡内で名門として知られる椋木(むくのき)家からの婿養子であり、母・タメは安倍家の中興の祖となった安倍慎太郎の妹である。
金沢の旧制第四高等学校を経て、192110年)に東京帝国大学法学部政治学科を卒業する。帝大卒業後は東京で自転車製造会社を経営していたが、1923(大正12年)の関東大震災で工場が壊滅し、会社は倒産してしまう。東京に移ったのちに本堂静子と結婚し長男晋太郎を儲けるが、直後に離婚し以降は独身で暮らした。その後、「金権腐敗打破」を叫んで1928年(昭和3)の総選挙立憲政友会公認で立候補するも落選した。
1933(昭和8年)に日置村村長に就任。その後、山口県議会議員兼務などを経て、1937年(昭和12年)の総選挙にて無所属で立候補し、衆議院議員に初当選した。
十五年戦争がはじまっても非戦・平和主義の立場をつらぬき、1938(昭和13年)の第一次近衛声明に反対し、1942(昭和17年)の翼賛選挙に際しても東條英機らの軍閥主義を鋭く批判、大政翼賛会の推薦を受けずに出馬するという不利な立場であったが、最下位ながらも2期連続となる当選を果たした。議員在職中は三木武夫と共同で国政研究会を創設し、塩野季彦を囲む木曜会に参加して東条内閣退陣要求、戦争反対、戦争終結などを主張した。戦後、日本進歩党に加入し1946年(昭和21年)4月の総選挙に向けて準備していたが、直前に心臓麻痺で急死した。
政治家としては長男の晋太郎が後継者ということにはなるが、晋太郎が国政の場に立ったのは、寛の死後12年経ってからのことである。
人物像[編集]
若いころ、脊椎カリエスと肺結核を患い、健康的には恵まれなかった。
大政党の金権腐敗を糾弾するなど、清廉潔白な人格者として知られ、地元で「大津聖人」、「今松陰(昭和の吉田松陰)」などと呼ばれ人気が高かったという。寛の長男である晋太郎と娘との結婚話が持ち上がった岸信介は「大津聖人の息子なら心配ない」と述べたという。
農林大臣を務めた赤城宗徳とは当選が同期で、公私にわたって親交が深かった。
派遣軍の慰問のため、満州に派遣されたことがある。
三木武夫(第66内閣総理大臣)とは親友であった。
家族・親族[編集]
祖父 - 英任
- 彪助( - 1895
- タメ( - 1898
伯父 - 慎太郎政治家
伯母 - ヨシ( - 19477
- 静子(陸軍軍医監本堂恒次郎の長女、陸軍大将大島義昌の孫娘)
長男 - 晋太郎新聞記者、政治家)
- 寛信三菱商事パッケージング社長)
- 晋三(政治家、第90969798内閣総理大臣
- 信夫(政治家、岸家へ養子)
曾孫 - 寛人(三菱商事2017年入社、寛信の長男)
曾孫 - 信千世フジテレビ報道局記者、信夫の長男)


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