皇室の風  岩井克己  2018.10.30.


2018.10.30. [宮中取材余話] 皇室の風 

著者 岩井克己 1947年富山県生まれ。慶応大経済卒。71年朝日新聞社入社、86年から東京社会部皇室担当。9412年編集委員。12年退社。05年紀宮婚約内定の特報で新聞協会賞。

発行日           2018.7.20. 第1刷発行
発行所           講談社

雑誌『選択』連載『宮中取材余話 皇室の風』117回分(089月号~185月号)を書籍化したもの

²  はじめに――光の底のブラックホール
毎日通い詰めて30年。皇居の中は新御所が建設された以外は全く変わっていない
「帝国の統治権の総攬者」から「平和と民主主義の象徴」へ変わったが、あたかも座標軸が大きく展開しても動かぬ「原点」のように天皇はこの中からお濠の外を見続けてきた
「ブラックホール」の縁で実見した過去と現在について報告し、未来について考えてみたい

²  お濠の向こうは
l  天井桟敷から見た宮殿 ⇒ 宮殿行事の取材では、天井近くののぞき窓からひしめき合ってのぞく。簡明な美と安らぎを醸す独特の華やぎの空間として世界に比類ないもの。天皇の発案で傘寿を祈念して初めて一般に公開。新宮殿の建設は64年の五輪直前。他国に類を見ないのは、広壮でありながら平らかに外に開かれ、海といい雲といい、朝日・夕陽といい、春の桜・秋の紅葉といい、日本の「自然」の美が満ちているから
l  伽羅(めいぼく)先代萩 ⇒ 天皇の執務室「表御座所」の一角にある「萩の間」は内庭の萩が楽しめる。よくここで食事もされる
l  内舎人(うどねり)と天皇 ⇒ 天皇や皇太子のそばに常時控えて、侍従以上に身近で日常生活を支えるのが「内舎人」で、身辺雑事万端と身辺警護

²  「昭和」は遠く
l  御召列車徐行す ⇒ 63年天皇は宮城県の地方事情視察と青森での植樹祭出席のため、御召列車で岩手県を通過する際、水沢駅で徐行し、二・二六で刺殺された斎藤実元総理(事件当時内大臣)夫人春子の奉送迎を受ける。斎藤夫妻は前日両陛下と昼食をともにし、その夜はグルー大使に招かれ初めてのトーキーを楽しんだ。70年にも両陛下は水沢市の緯度観測所を訪問された際、所長室で斎藤夫人と面談、「実には大変お世話になったね」と仰った
l  『実録』が避けた制憲過程 ⇒ 改憲に政治生命をかける安倍晋三が、戦後憲法学の泰斗芦部信善の名を国会で問われ「知らない、クイズのような質問はやめてもらいたい」と開き直ったのには驚く。天皇機関説排撃を叫ぶ政治家が美濃部達吉の名前すら知らないのに等しい。かつて改憲派の旗頭小林節慶應大名誉教授が護憲に「転向」したのは、改正派の政治家が「改正前でも後でも、元々憲法を尊重する気がない」と感じたため。『天皇実録』にも肝心のことが掛かれていない。GHQが日本に押し付けた原則とは民主主義を徹底する極めて基本的な内容であり、それすらも自前で策定できなかった日本政府のことを考えると、今なお"押し付けと言い募ることには二重の意味で恥じ入るべき。こうした背景の記述はなく、高松宮の反発や三笠宮が枢密院での採決を棄権して退席した事実は記載されている。『実録』でも、天皇がマッカーサーとの第2回会見で新憲法作成への助力に対し謝意を表明、粛々と改正を受け入れた様子が記されている

²  終わらない「戦後」
l  破れし国の道義と民主 ⇒ 46年に天皇は「敗戦の原因は道義的責任の欠如。占領軍は今まで知られなかったほどの憐憫と正義と寛容の美徳を示した。かつての敵のこの啓蒙的な態度は、我々が見習うべき長所。わが民族の道徳的素質を強化することを通して初めて自らの救済が成し遂げられるとの希望を抱きつつ、わが国民にこれらの精神的価値を勤勉に学ぶべしと説いて聞かせる」といった
l  天皇「神」と「人間」のあわい ⇒ 36年から半世紀にわたり侍従を務めた徳川義寛(のちに侍従長)45年暮れから熱心に学者・文化人のご進講に臨む天皇の姿を懐かしそうに語る。最初のご進講は歴史学者の板沢武雄で、天皇が興味を惹かれたのは3点。①後水尾天皇の譲位、②徳川氏が家康を神格化して改革を怠り破局に至った話、③謡曲(戦国時代民衆の間に「理想的に治まった天皇の御代への憧憬」が生まれ、謡曲に歌われた)。なお、45年新設された東宮職は、皇太子のための「帝王学」として明治天皇御製を奉唱。「目に見えぬ神の心にかよふこそ人の心のまことなりけれ」
l  克服されなかった過去 ⇒ 敗戦によっても、天皇や国家、歴史の連続性は辛うじて断絶を免れたことが、「自己批判を通じての伝統の獲得」を不徹底にしたのではないか。「米国の寛容」によって残った天皇という「オリーブの木」が今後どのような役割を担うのか、「伝統」を批判的に踏まえ、また未曽有の敗戦と犠牲からの再出発の軌跡を問い直し続けることからしか答えは見いだせないのではないか
l  白洲次郎と新憲法 ⇒ 天皇は白洲・吉田ラインに不信感を抱く。マッカーサーとの会見内容が漏れて通訳の外交官が懲戒免職となったのも、漏らしたのは白洲。GHQからの評判も悪く、重光も白州を批判、吉田が米国大使に進めた時もアメリカがアグレマンをくれなかった。昨今白洲はGHQによる新憲法「押し付け」に抵抗したヒーローに祭り上げられているが、当時多くの国民は新憲法を圧倒的に歓迎し支持。国際派野人・白洲の怒りは、実は主として日本人たちにこそ向けられていて、戦争への激しい嫌悪、独立後の天皇退位の主張、そして「押し付け」新憲法を次第に高く評価するに至っていた白州のもう1つの顔はもっと知られていい
l  靖国の名にそむきまつれる ⇒ 徳川侍従長の死後生前の証言をまとめて『侍従長の遺言』を出版した後、富田宮内庁長官から電話で「よく聞き出してくれた」と言われたのは、78年靖国神社がA級戦犯を含む合祀予定者名簿を届けに来た際、天皇が異議を唱え、「松岡のような軍人でもなく病院で亡くなった人まで合祀するのはおかしい」とされ、以後天皇の靖国参拝が途絶えたことを、徳川が天皇に批判が来ることを慮って、自らの感想として聞き出したことだった
l  女王退位と白菊の花 ⇒ オランダとの関係は、天皇とベアトリクス女王が皇太子と王女時代から親交があり、ともに両国関係の修復と和解に腐心し、戦後戦犯裁判や戦後賠償交渉を経て平和条約が結ばれ、経済交流も活発となったため、良好な関係が定着していたと思われていたが、蘭印での日本軍の仕打ちに対する蟠りは欧州各国の中でも最も強く残り、71年の天皇訪欧で日本人は初めて知った。記念植樹は一夜にして荒らされ、車列には卵や瓶が投げつけられた。天皇の大喪参列を見送った際は、将来の日蘭関係のために参列しない方がいいとの趣旨を、自ら現天皇に丁重に伝えてきたという
l  ファビオラの柩と黒い喪帽 ⇒ 14年ベルギーの故ボードワン国王の王妃ファビオラの葬儀に美智子皇后が参列。最前列通路側の筆頭席を用意され、柩入場の際はただ1人深々と頭を垂れて哀悼の意を表した。皇后の単独での公式外国訪問は初めてだが、現天皇皇后にとってボードワン夫妻との親交は特別のもの
l  慰霊の旅が投げかけるもの ⇒ 戦後50年の節目に天皇が始めた「慰霊の旅」は、父・昭和天皇の戦中戦後の苦渋を見て育った現天皇の1人の人間としての正直な表白だろう。先の戦争を「満州事変に始まるこの戦争」と明言し、自存自衛の戦いだったと正当化する動きに暗に釘を刺した。憲法上象徴とされる天皇に求められる行動規範からは、海外の戦場への慰霊はかなり際どい、思い切った決断だった

²  「退位」をめぐる歴史認識
l  『独白録』ふたつの「結論 ⇒ 宮内省御用掛寺崎版では、天皇が立憲君主の矩(のり)を守ったため心ならずも開戦を認めたと述べられているが、東京裁判対策として天皇の法的無答責に絞った編集となったものと思われる一方、木下侍従次長による『側近日誌』に添付された「聖談拝聴録原稿 結論」と題するメモでは、付和雷同の国民性を慨嘆され、戦争防止が困難であったとしている

²  「平成流」皇室と東日本大震災
l  平成の「玉音放送」 ⇒ 東日本大震災から5日後、天皇はビデオ・メッセージを発したが、天皇の思いを全国民に直接語り掛ける映像の放送は戦後初めて。深刻な国難ととらえ、「玉音放送」の4分余りを上回る556秒の異例の発信
l  ディアスポラ ⇒ 平成になって大きな災害が続くなか、美智子皇后が「復興というものは本当に難しいものです」と嘆息しておられたのは、災害発生直後は皆気持ちが一つだが、復興の段階になると様々で、皇室がどう関われるか難しいとの趣旨だったようだ。多くの被災と復興の実相に接し続けてきた両陛下の胸底には重いものが積み上がっているのだろう
l  ひとしなみ(等し並)にかける言葉の力 ⇒ 12年皇后78歳の言葉に微妙な変化。それまではどことなく糸を張り詰めたような緊張感が漂い、発する言葉にも精妙な内省の響きが感じられたが、大震災や天皇の重病にも直面する過程で、次第に個我を超越した率直・簡明な情緒と自然な柔らかさが加わってきた。震災直後のビデオ・メッセージ作成やビデオ撮りなどの陰で皇后の扶けがあったと天皇が深く感謝していると聞いたが、メッセージの文面からは作成者の個我は滅却され、その分重みを増した「天皇のおことば」となった。その後7週連続で被災地を歴訪、印象に残るのはこれまで以上に「脇役」に徹する皇后の控えめな様子

²  皇室・東宮・内親王
l  受け継がれる「伝統」の重さ ⇒ 09年金婚式を前にした記者会見では、重い責務を負い手を携えて歩んできた道のりを振り返り、互いに「感謝状を贈りたい」と、琴瑟相和すといった風情だったが、支えてくれた妻と人々に感謝を述べる段では声を詰まらせ、いつも端然とした佇まいを崩さない天皇が溢れる情を抑え兼ねる様子を初めて見た。現行憲法下、妻子は天皇の私的行為であり、両陛下の会見には長い年月ほぼ完璧に祭祀を務めてきたという実践に裏打ちされた自負と見識が滲む。そのうえで継承については、「次世代の考えに譲りたい」と述べた。皇后は伝統についていい面と弊害になる面があるとして、「この言葉が安易に使われることは好ましく思わない」と決然とした強い響きで言明
l  富美子と美智子 ⇒ 皇太子が何気なく発した「家庭を持たずには死ねない」との一言が美智子に生涯を共にする決心を後押ししたとも伝えられる。皇太子妃の話を受けるかどうか迷っているときの富美子の苦しみは傍でも見ていられないほどのもの母娘はとことん話し合った結果、たとえ親子の縁が切れようともお受けするとの結論に達したが、富美子は美智子の気持ちが固まるのを我慢強く待ったため、げっそり痩せた
美智子皇后が88528日母の逝去後に詠んだ歌:四照花(やまぼうし)の一木(ひとき)覆いて白き花咲き満ちしとき母逝き給ふ
l  天皇が問う皇太子の覚悟 ⇒ 08年現天皇に不整脈や胃腸炎の症状が現れ、長年の心痛が原因とされた。時代の流れに敏感に寄り添って歩んできた現天皇の「将来にわたる皇統の問題などへの憂慮」は、血の継承としての世継ぎ問題だけではなく、公務見直し問題などでの皇太子の言いっ放しを暗に諫めた形だった。天皇は、重い責務と課題を負っていく皇太子夫妻の将来を案じ、その「心術」を問うているように思われる。時代とともに何を継承し何を廃するのか、根深い問題に向き合う皇室の危機感が、天皇の「心痛」の底に横たわってるように思う
l  光厳帝に光を当てた岩佐美代子 ⇒ 歴代きっての文化人とされる鎌倉時代の花園天皇の甥で歴史から抹消された北朝初代の光厳帝を掘り起こしたのが岩佐の『光厳院御集全釈』(00年、読売文学賞)。同じ著者の『内親王ものがたり』(03)1200年近い内親王の歴史を辿って、その中に脈々と流れる一貫した明らかな個性を指摘する。他の生まれ、育ちの女性とは異なる伝統に培われた特性を持つ。岩佐は穂積重遠の次女で4歳から昭和天皇長女照宮成子の「お相手」の1人。敗戦時、真っ先に疎開先の伊香保から昭和天皇皇后の元に駆け付けた成子の「東宮姉の気概」を内輪の講演で明かす。光厳帝と現天皇のお二人が、少年期から、軍隊式ではない、非常に意識的な帝王教育を周囲から受けられた例
l  皇太子と『誠太子書』⇒ 花園天皇が光厳帝に与えたのが『誠太子書』で、10年の誕生日を前にした皇太子が会見で言及、「徳を積むことの重要性を説き、そのためには学問をしなければいけない」と説いていることに感銘を受けたという。その直後愛顧内親王の不登校問題が発生、東宮職から学習院内部の乱暴が原因との発表があって、マスコミによる犯人探しに発展したが、皇太子夫妻からは何のコメントもなし。これは雅子妃の懐妊報道への批判や、外国訪問が難しかったことへの不満表明、人格否定発言等の場合と同じこと。綸言汗の如し。皇太子は父祖天皇の心地(しんじ)に改めて思いを致してもらいたい
l  山折哲雄(宗教学者)の皇太子退位論 ⇒ 山折りの論文『皇太子殿下、ご退位なさいませ』(13)が波紋。岩井との対談で、岩井が「皇太子夫妻は孤独で、様々な人との関わりを求めているようには見えない。被災地に心を寄せるというが、足を運んだり色々な人を呼んで話を聞く様子もない。象徴家族の役割を果たせないことでメディアが批判すると、「治らないのは心無いメディアのせい」と言わんばかりの主治医の文書が出る」と言ったのに対し、山折りが「極端な言い方かもしれないが、皇太子は第2の人生を歩んでもいいのではないか。すなわち退位で楽隠居すればいい」と言ったもの
l  かくすればかくなるものと ⇒ 皇太子結婚20年の節目(13)に、10年に及ぶ妃殿下の「体調の波」について、ご夫妻や主治医らから丁寧な説明や見通しを示すべきと言ってきたが目立った反応はなった。批判的報道を抑え込もうとするかのような主張には、皇室全体が危機的状況を抱え込んでいることへの真剣な顧慮や見識はうかがえず、誠実に国民と向き合い理解を求めることこそ皇族を預かる側近の心構えではないかと思うだけに遺憾。その後も「体調の矛盾」は続き、学習院の学校行事には出席するが、各界の功労者を招く最大規模の宮中行事である園遊会には欠席等々

²  忘れえぬ人

l  日光儀仗隊長の述懐 ⇒ 敗戦の混乱の中で皇太子を守り抜くために軍の側で警護に当たっていたのが近衛第1師団日光儀仗隊長の田中義人少佐
l  奥日光天皇疎開秘話 ⇒ 皇太子が373歳で両親と引き離され赤坂の東宮御所に移された際、東宮扶傅育官を務めたのが東園基文
l  白洲正子が語った秩父宮妃 ⇒ 女子学習院の同級生。正子が14歳で米国留学すると半年後に妃殿下の父が駐米大使に赴任、ワシントンで正子と節子は毎年の夏休みを一緒に過ごす仲
l  「英雄」白洲次郎の実像 ⇒ GHQにとって無遠慮に部屋に入り込んでは探りを入れてくる次郎は「油断ならない男」であり「sneaking eel(ずるく忍び込むウサギ)」とまで綽名された。明と暗、毀誉褒貶相半ばするのも事実。今は持ち上げられ過ぎ
l  「キャピー原田」の死 ⇒ 日系2世。GHQ経済科学局長マーカット少将の副官。天皇とマッカーサーの第1回会見に速記者として立ち会ったと言い、天皇が「全責任を負うものとして、私自身を連合国の裁判に委ねる」と語り、その言葉にマッカーサーが「この勇気に満ちた態度は私を骨の髄までも揺り動かした」と言って涙した、と証言してくれたが、往復とも通訳した奥村の記録にはなく、立ち合いも通訳1人だけだったというので、他に原田がいたという傍証がない限り記事にはできなかった
l  《終戦のエンペラー》に思う ⇒ マッカーサーの軍事秘書で身近に使えたボナー・フェラーズを主人公とするハリウッド映画で、13年日本でも公開。原作は岡本嗣郎の『陛下をお救いなさいまし――河合道(みち)とボナー・フェラーズ』(02年刊)。昭和天皇崩御後、次々と未公開資料が公開された中で最も衝撃的だった天皇の『独白録』(90)は、側近5人組が開戦の経緯を聞きとった記録で、宮内省とGHQの連絡役を務めた外交官寺崎の遺族が公開したものだが、当初謎だった目的が東京裁判で天皇の責任追及を回避するためにGHQからの依頼で急遽作成されたものであることが、フェラーズの遺族が保管していた文書の中から英訳が見つかったことで判明。フェラーズ(1473)は新渡戸稲造の直弟子で後に恵泉女学園を創立する河井道の勧めで留学していた一色(旧姓渡辺)ゆりと出会い、陸士でフィリピン配属となった際来日してゆりから河井を紹介され、リベラルな日本人に感銘を受け、陸軍指揮幕僚大学の卒論『日本兵の心理』は米軍内必読の書となる。戦前マッカーサーに随行して来日、開戦後は准将となってマッカーサーに認められ軍事秘書の特命を受け対日心理作戦に携わる。原爆投下後の絶望的な事態に日本側が降伏か継戦かで混乱する14日ポツダム宣言と日米交渉過程を暴露するビラを東京にばらまいて天皇と木戸内大臣に終戦の御前会議召集を決断させるきっかけとなったのもフェラーズの「作品」。フェラーズはマッカーサーに随行して厚木に降りた直後、河井とゆりと面談、天皇の戦犯指名について意見を求めると、「陛下にもしものことがあれば自分たちは生きていない」と言われる。その4日後GHQに天皇を出迎えたフェラーズは、更にその5日後にマッカーサーに天皇不訴追を進言する覚書を提出
l  クビをかけてるんだ ⇒ 両陛下の医療の積年の閉鎖的な旧弊に風穴を開けた2人の医者が相次いで亡くなる。前皇室医務主管金澤一郎と元医務主管兼侍医長池永達雄。93年皇后が週刊誌などのバッシング報道(後述)のさなかに倒れ声を失ったとき、池永の要請で駆け付けたのが東大医学部附属病院神経内科長の金澤。この人選は関係者が期待した以上に適任。わずか3日後の45日の徳島・香川国体への同行を、周囲の反対を押し切って皇后に勧め、天皇も「皆がこれほど心配してくれているのだから」と皇后を宥めたという。金澤は、「市井の一般の人たちの屈託ない歓迎に接することこそ元気づけると思った」、「皇后として魂の深みに抱え込まれた苦悩だろう。あれほどの女性ならご自分で乗り越えられるはずで、器質的異常がないことを確かめて「必ず治ります」と申し上げてご本人の力を促しただけ」と述懐。94年失語から回復後一旦離任
97年皇后は南米から帰国後帯状疱疹を発症、東京逓信病院に緊急入院したのも池永と金澤の指示。宮内庁病院以外への入院は前例がなく、一気に風穴を開けたが、一刻を争う事態で、逓信病院長は金澤にとって先輩だったが、簡単に引き受けてくれたので「実は皇后さまだ」と言うと、「郵政省本省の了承が必要だ」というので怒鳴りあいになり、「クビをかけてるんだ」と言ったら、即座に「わかった」と言ってくれた
02年金澤は国立精神・神経センター神経研究所長で、池永の後任として皇室医務主管に任命され、「無給なら」と引き受け、06年学術会議会長、12年主管を名川弘一に引き継ぐ。皇后の入院と相前後して東大病院長となった金澤は新築病棟にVIP病室を造らせ、のちに皇室ご一家もたびたび入院や検査に訪れる。03年の天皇の前立腺癌手術ではがんセンターと、12年の心臓冠動脈バイパス手術では順天堂と合同医師団を結成、当代随一の若手執刀医を抜擢。宮内庁病院に設備のない検査も定期的に東大病院で行われるようになる
「棟梁」みたいに借り上げた頭、誰にでも笑顔を絶やさぬざっくばらんな人柄は、日比谷高校から東大医学部教授、東大病院長、学術会議会長という経歴から連想されるエリート臭とは無縁
04年紀宮の婚約内定を伝えると、「御所に伺って最大の発見の1つは、皇居の奥にあんな素晴らしいお嬢さんがおられたことだった」と喜んだ
過去、皇室医務主管は侍医長が兼務し形骸化していたが、金澤はフル回転し、ポストの重みを飛躍的に高めたのは、両陛下の信頼の裏打ちもあったのだろう。「医者の領分を超えたところがあったかもしれないが、医務主管とは、メディカル・スポークスマンだと思う」と語っていた
13年暮膵臓癌を発症、新刊の『皇后 傘寿記念写真集』を見て嗚咽を堪えていたのも、両陛下の心身を18年以上も親身に支えながら胸に畳んでいた思いが込み上げてきたのだろう。皇后もスープの差し入れだけでなく、秘かに病床を見舞ったと聞く
l  ブリキのパンツ ⇒ 藤森昭一元宮内庁長官(2616年、享年89)は昭和天皇崩御を世界に告げた男。88年天皇の代替わりに官房副長官から異動。政治部記者に聞くと「ブリキのパンツ」(口が堅く、難攻不落の意)だという。定例会見では冗談はほとんど出ず、鉄仮面のように無表情で、何を聞いても無機質な官僚答弁に終始。猛烈なメモ魔。部下には荷が重いと見れば敢然と自ら実行に出る
両陛下訪中に反対した「日本を守る国民会議」周辺からの皇后・皇太子妃バッシングや「平成流」皇室批判が吹き荒れ、皇后が倒れて声を失うという思わぬ危機的事態が出来。「報道には反論せず」という旧態依然たる宮内庁の対応に両陛下は孤立感を深め、藤森は厳しい立場に立たされ、いったんは辞職もよぎった
官僚としての背骨は、陽明学者安岡正篤に学んだ儒教精神だと言い、『六然』を思う
     自處超然 處人藹(あい)然 有事斬然 無事澄然 得意澹然 失意泰然
95年戦後50年の節目に両陛下の戦災地慰霊の旅実現に奔走する一方、靖国参拝は斥ける。96年退官するも04年皇太子の「人格否定」発言で御所と東宮の間に深刻な亀裂が走ると、密かに収拾に動く。命懸けでまとめた結婚に責任を感じてのこと

²  神話は生きている
l  即位儀と天武天皇 ⇒ 平安前期の貞観年間に儀礼体系をまとめて後世に伝えたのが『貞観儀式』で、それを下敷きにした09年公布の『登極令』に基づき大正・昭和・平生の即位や葬儀が行われた。皇室の祭儀体系は「天皇家の私的な伝統行事」として生き続け、皇位継承儀式もほぼ旧例を踏襲して挙行された
天智天皇から皇位継承を打診された皇弟の大海人皇子(みこ)は、出家して吉野に潜むが、壬申の乱で皇位に復帰、正統性の根拠を確立すべく、壮大な構想力と驚くべき緻密さで着手したのが記紀神話の編成であり、それと照応する祭儀体系

²  必ずあること
l  皇室と仏教のつながり ⇒ 平成になってから門跡寺院や由緒寺への積極的訪問が目立つ。明治維新以後皇室は神道祭祀一色となったが、834年空海が宮中真言院で国家と天皇の安泰を祈ったのが始まりで仏教儀式も正月恒例行事となり、1881年まで続く
秩父宮勢津子妃は91年『銀のボンボニエール』を刊行、雍仁親王が無宗教の火葬を遺言したことを明かす。最終的には神式となったが、以降天皇・皇后以外は落合火葬場での火葬に付されている。一般会葬者のためにお別れの時間を設け、宮内庁楽部員によるベートーヴェンの《告別》などの演奏は破格のことで、宮様の意志を斟酌してのこと
宮中祭祀は、明治・大正期に整備され戦後も維持されてきた壮大な神道祭儀の体系だが、今後は懐深い「伝統」の中で見直されていくのだろう
現天皇・皇后は火葬と「薄葬」を希望、政府・宮内省で具体策の検討を開始
l  副葬品から浮かぶ「人間天皇」 ⇒ 「副葬品」の中身はいまだ公表されていないが、本来のカテゴリーに属する者は皆無に近く、大喪の儀式自体は明治・大正の大喪に準じた壮大なものとなって、陵も高さ10.5m、下方部一辺27mと古代古墳をしのばせる規模だが、副葬品は個人が愛した身の回り品がほとんど。戦前の「大元帥」の影を極力消し去っていった。副葬品から浮かぶのは、「人間天皇」に徹する晩年の姿への人々の敬慕

²  皇室とメディア
l  英国王の刺青 ⇒ 61年戦後初の英国王室からアレクサンドラ王女を迎えた宮中晩餐会に天皇は英ガーター勲章を着用、日英同盟下日露戦争直後に明治天皇に授与され、現在も外国人は欧州の国王・女王7人と天皇だけという最高位勲章で、大戦中外されたが、この宴での復活を英国側が認めた。天皇はスピーチの中で、皇太子時代に訪欧して英国王ジョージ5世に慈父のように親切にしてもらった思い出を語り、若き士官候補生時代に訪日した時に彫らせた刺青を見せてくれたと懐かしそうに語ったという。ジョージ5世の人柄と立憲君主としての覚悟に感服し、戦後も皇太子に同国王の伝記を読ませた昭和天皇の思い、勲章佩(はい)用の重みを示すエピソード
国賓歓迎晩餐会は宮中行事の華で、その雑観記事が社会面のアタマを飾ったが、最近は晩餐会の機会が増えて存在感が薄れたこと、大戦後70年を経て過去の「歴史の傷」に言及するかどうか注目を集めるスピーチ交換も一巡したこと、どの国にも均しく最高のもてなしをという皇室のモットーから料理もワインも定番化したことなどからニュース性も薄くなり、式次第が変更になったこともあって冒頭のスピーチ・乾杯以降はメディアが締め出され、生きた雑観記事が成立しなくなった
l  「お過ごしよう」をつかめ ⇒ 「お過ごしよう」とは天皇・皇族の側近らの口から時折出る言葉で、プライベートはわからないし話せないという文脈で使われる。天皇・皇族の公的な活動の舞台裏や日常の暮らしぶり、研鑽ぶりを指す特別の響きを持つ
02年皇后がバーゼルでの国際児童図書評議会創立50周年でしたスピーチの締め括りで引用した竹内てるよの詩『頬』は、内外に強い印象を残したが、皇后の込めた「思い」は今に至も解けないでいる。貧困や紛争の中で過ごす子供たちが、明日の社会を新たな叡智を持って導くことに希望をかけたいと思うと言った後で最後に、「生まれて何も知らぬ吾子(あこ)の頬に、母よ絶望の涙を落とすな、その頬は赤く小さく、今はただ1つのはたんきょう(スモモ)にすぎなくとも、いつ人類のための戦い(battle for humanity)に燃えないということがあろう・・・・・」
天皇は国家機関として政権の運用で動かされる。「天皇本人の言動」として具現するが、時に「大御心」とのギャップが生まれる。そのギャップの深淵こそ「天皇制」の要諦というようなところもある。そうした「深淵」を「お過ごしよう」から光を当てていきたい
l  狭まりゆく皇室の「窓」 ⇒ 天皇、皇太子夫妻、秋篠宮は毎年の誕生日前に会見、両陛下、皇太子夫妻は外国訪問前の会見にも応じるのが昭和の時代からの慣例
86年の美智子妃の誕生日前の会見では、側近の手違いから文書回答となったが、記者団からの要望で会見が実現、ペーパーなしでも文書とほぼ同じ内容の回答に、妃殿下の心から出た言葉を自ら彫琢し織り上げたものだと実感
日本の皇室は旧弊で閉鎖的と言われるが、61年以降定例記者会見に応じてきた皇室は、外国王室より広く窓を開いている面もあるにも拘らず、天皇会見の質問も3問に制限されたり、09年皇太子ベトナム訪問前も3問で打ち切られて、記者会が抗議したこともあり、また皇室と国民との間に開いた「窓」が狭まりつつある
l  狭まりゆく皇室の「窓」再論 ⇒ 誕生日の記者会見が恒例化しているのは秋篠宮(紀子妃同席)、雅子妃、天皇だが、徐々に"風前の灯になりつつある
会見での生きたやり取りには、言葉での応酬を超えて本人と記者たちとの間に目に見えない人間的情感の行き来がある。それは国民にも伝わる
l  狭まりゆく皇室の「窓」再々論 ⇒ 宮内庁長官の定例記者会見はずっと完全オフレコで、オンレコになったのは藤森長官の93年「皇后バッシング」がきっかけ
天皇とメディアの会見は、459月に外国人記者との会見に踏み切ったのがきっかけで、昭和30年代半ばから国内メディアとの間も定例化
金澤は、「雅子妃のご病状に関して、国民に真実がきちんと伝わっていないこと、また今後の見通しが明らかにされないことへの(天皇の)ご心労」を指摘したが、主治医の大野裕国立精神・神経医療研究センター認知行動療法センター長(当時)は、御用掛などの公式発令を受けておらず報告義務はないなどとして、逆に金澤発言に強く反発したが、天皇、医務主管、メディア、ひいては現状を心配する国民を無視するかのような対応は残念。皇太子妃がほとんど公的活動に携わらない状態が十数年たっても治癒しないのに主治医が恬として説明に立たない異常事態が続くことは、決して雅子妃を守ることにはならない
l  まったくの僥倖から ⇒ 04年紀宮清子内親王の婚約内定報道に、内親王の結婚とはこういうことか、そして皇室はこのように考え行動するのかと、身を以て体験。「若いころ苦労した人」とのヒントで、十数年前に候補として挙げられて消えた秋篠宮の同級生を思い出し、「黒田慶(よし)樹さんか」と言ったら顔色が変わったのでピンときた。父親を亡くしていたのでひとり親が引っ掛かったと思っていた。学習院法学部卒、都市銀行から都庁の都市計画局に転職。新潟県中越地震で婚約発表が延期されたことが分かり、宮内庁との交渉が始まる
l  交渉決裂 ⇒ 日本舞踊の名取まで上達し、発表会の舞台では堂々たる演技を見せたのに目を見張り、公務での立ち居振る舞い、感想文に現れた文才や記者会見での思慮深い受け答えに舌を巻いた。歴代の内親王は公務に携わっていなかったが、芯の強さを見せた見事な務めぶりに敬意と親愛の情が湧く。紀宮の結婚を機に出された『ひと日を重ねて』に内親王としての足跡と発言、和歌などが収録されているが、両陛下の背中から学びつつ支え続けた皇女の目から見た平成の皇室の記録として隠れた名著
当局からは、被災者全員が落ち着く1か月後に、各社公平にと言われ交渉決裂
l  「朝日のおかげでしたね」 ⇒ 当局のゼロ回答に業を煮やして大安の1113日の日付が変わってからの最終版締め切りギリギリに突っ込む。12日深夜に黒田本人にも通告、宮内庁側には翌13日深夜に通告、小泉首相と石原都知事には宮内庁から翌早朝報告。正式発表は1218日だったが、紀宮を孫のように可愛がった長老皇族として行く末を気にかけていた高松宮喜久子妃が当日早朝逝去され、発表は30日に延期。葬儀の前の拝訣で付き添っていた近衛甯子元内親王に「仲良しだった皇太后や勢津君へ良いお知らせを届けてくれるのではないか」と申し上げたら、「朝日のおかげでしたね」と言われ苦労が報われた
l  紀宮のメッセージ ⇒ 初めてづくめの皇女、親元で育ち、公務に携わり、外国公式訪問も重ね、働いて給料をもらい、皇族・元華族の家柄でない一般市民に嫁ぐ
「陛下がたゆまれることなく歩まれるお姿、皇后さまが喜びをもってお務めにも家庭にも向かわれていたお姿は、私がこの立場を離れた後も、ずっと私の心に残り、これからの日々を支える大きな力になってくれると思います」
l  礼宮の場合 ⇒ 89年の混乱のさなか、皇太子妃のお妃探しが急速に本格化、同時に85年暮に葉山で海岸を散策中の両陛下に恋人として紀子を紹介していた礼宮の正式発表も間近と思われた。川嶋夫妻が初めて御所を訪れたのを確認して、「私(岩井)は決まりだと思っている」と言ったら「さすがですね」と返ってきたので翌朝最終版1面トップに突っ込む。紀宮の場合と比較すると、詰め切れていなかったリスクはあったし、本人たちの思いも置き去りだった
l  メディア・スクラム ⇒ 93年の皇后失語症事件の際、筆者が「声を失ったのは皇室サイドからの反撃になった形ですね」と言ったら、金澤はきっぱりと否定。「誕生日の回答を見ても分かるように、このことで批判の自由が委縮することは望んでおられない、しっかりしておられる」。皇后の回答文には、「批判の許されない社会であってはならないが、事実に基づかない批判が繰り返し許される社会であって欲しくなない」とあった。すぐに犯人探しとなり、容易に特定できる表現で活字となった際、宮内庁記者会で守ろうと呼びかけたが、協調はできなかった。お互い抜くか抜かれるか、皇室相手となると深奥で何が起きているかアプローチするのは至難の業、挽回のチャンスはほとんどない。唯一の拠り所は「ジャーナリストとしての志操」で、ともに仕事をしている仲間たちと連帯するべき時は連帯するべきだろう
宮内庁の幹部や職員も、国民の負託を受け国民のために働く公務員であることを忘れないでほしいし、メディアもその観点を忘れないで対峙してもらわないと、政治の皇室利用に対するブレーキは働かない
前ニューヨークタイムズ東京支局長ファクラーの新刊『安倍政権にひれ伏す日本のメディア』がベストセラーになったのは、メディア状況への不満と不安が広がりつつあることの象徴で、ジャーナリスト同士が潰し合いをするのは、言論の自由の自殺行為だとしているが、特に皇室関連では、批判的言説が「不敬」として攻撃され兼ねない

²  きたるべき新時代に向けて

l  秋篠宮の発信 ⇒ 09年秋天皇は「将来の皇室の在り方については、皇太子とそれを支える秋篠宮の考えが尊重されることが重要」と発言、それを受けて秋篠宮は誕生日の会見で、三笠宮寛仁親王が女系・女性天皇に反対し旧皇族復籍を主張したこととは一線を画し、皇族による公務は柔軟に考え、皇族が減れば減ったでやっていけばいいと、現実的で自然体の実行力が伴った言いようだった。今後ともその言動から目が離せない
l  天皇と自衛隊 ⇒ 昭和天皇の在位60年祝典に反対する過激派に対し、警視庁が機動隊を坂下門内に入れたいと要請した時、皇宮警察は頑として断った。国賓歓迎式典でも、「象徴天皇」は迎賓館前庭で行われる歓迎式典に出向き、受令台に立たず、自衛隊の儀仗隊の巡閲にも加わらないできたが、06年初めて歓迎式典が皇居宮殿の東庭で行われた。栄誉礼は国軍が賓客に忠誠を誓う意味があり、儀仗隊は国軍の象徴。宮殿で行うのは違和感がある。迎賓館が工事中で使えないということだったが、工事終了後も元に戻らない
89年両陛下の北海道訪問の際、数千人規模の自衛官が沿道で敬礼して迎えた。54年の自衛隊法は天皇を最高の栄誉礼受令資格者とし来訪の際は現地部隊員が堵()列して迎えるとされていて、03年には旭川に向かう両陛下の車列の反対車線を装甲車部隊の車列が行き、一斉に敬礼しながらすれ違っていったという。陸自側の警察への当てつけの「示威行動」との疑いが今も拭えない
天皇と自衛隊の「接近」は宮殿行事でも目立たないが進む気配。統合幕僚長らの拝謁は73年以来平成でも毎年行われているし、自衛隊の海外派遣や帰国の際の接見も特定任務と言い出したらきりがないと昭和では行われなかったこと。東日本大震災では天皇がビデオメッセージで救援関係機関の真っ先に自衛隊を挙げて労を労っている(ママ)
l  王より王党派 ⇒ フランスの格言で、平成皇室へのバッシングを憂う。16年の現天皇の退位意向に対し、政府は制度を大切にするあまり、「譲位は認めず」「特別法で一代限り認める」とした。天皇のご意向は政治関与として憲法違反だということに対しては、国政の中枢から身を引くというだけで、国政を左右する問題とは異なるし、特例法による対応についても、憲法が国会が議決した皇室典範と言っている以上規範の複合化を招くので好ましくない
秋篠宮も、天皇の意向が恒久的な譲位の制度化にあり、自らも同じ気持ちであると明言
l  引かれ者の小唄 ⇒ 05年小泉内閣の有識者会議が女性・女系天皇を容認する皇室典範改正の答申を決めた際には、安易な取り運びとして、「引かれ者の小唄はしばらく歌い続ける」として敗北宣言したが、秋篠宮妃のご懐妊で、国論を二分しただけに終わる
17年初め衆参正副議長による政党間調整を経て、特例法による天皇の譲位が決まる
安倍首相は、官房長官時代から皇室にはあまり関心がなく、本論の憲法改正発議のため、国会論議を急ぐあまり、有識者会議の冒頭でも、紋切り型の挨拶だけで退出しようとして、今井敬座長に「少しは皆さんに総理自身の考えを言ったらどうか」と窘められたという
退位と退位の恒久制度化を圧倒的に支持する世論とのあまりの懸隔ぶりを見かねて長老が動いた結果だが、例外が先例となる際どい辻褄合わせで、将来時の政権と多数党が天皇の意志に反する「廃立」を策した場合の歯止めがどう確保されるのかも不透明
l  毒を食らわば ⇒ 17年の特例法による譲位では、天皇の「お言葉」が国民の間で広く深い敬愛を持って受け止められていることが前提だったが、法案からは削られたので発議主体について別の論拠が必要であり、各所に矛盾が顕在化している
政治的妥協で典範が本法と特例法の重層構造となってしまった以上、該当女性皇族1代限りの扱いこそ特例法で乗り切らざるを得ず、毒を食らわば皿までである
皇位の安定的継承への対処に関する政治の不作為は臨界点に達した感がある
明治以来の皇室制度の制度疲労が進んでいる以上、本格的な典範改正の議論は避けられない。徒に「伝統」を叫ぶだけの政治の不作為が続く以上、必要に応じて対処するしかなく、やはり毒を食らわば皿までだ   
l  4,5月改元への疑問符 ⇒ 西暦との換算の便宜や後世に渡り国民生活にも大きく影響が及ぶにも拘らず、『神社新報』に引きずられる形で正月改元が見送られたが、一般国民を置き去りにする政治家・官僚のご都合主義ではないか
l  「前例踏襲」でいいのか ⇒ 何等の根拠も説明もなく急遽51日改元が浮上して決定。大がかりな皇位継承儀礼体系ではことごとに神々のための祭礼が優先され、さすがに90年にはかなり簡略化されたが、それでも皇族や事務方を苛む難行苦行に見える。それでも崩御継承の場合は喪中とあって略式化が図られたが、今回の譲位継承となると3日連続の拝礼など、特に雅子妃には辛い試練となろう。さらに現天皇の在位30年奉祝も加われば大変な労力と出費になることは間違いなく、国民感情として、自然な盛り上がりとはかえって遠ざかりはしないか
l  柳田國男の憤懣 ⇒ 旧皇室典範では即位の礼と大嘗(じょう)祭は京都で行うと定めたが、戦後は政教分離から大嘗祭は皇室行事としながら、平成の大嘗祭は公的性格を認め国費支出に踏み切り、過去と同規模の巨大な大嘗宮を建造し、祭りの後すぐに取り壊したので、各地で違憲訴訟が起こる。何も見えない暗闇のなか1,000人もの参列者が寒さに耐えて座り続けたという
1915年貴族院書記官で大礼使事務官に任じられ大正天皇の大嘗祭に奉仕した柳田は、祭りの実相に憤懣黙しがたく、建言書を書き元勲山県に提出することも考えたが、時代を憚って秘匿、半世紀を経て没後に公表。冬至の時季の祭を新暦で前倒しにしたり、巨大な建造物に数か月もかけたり、更には3千年来の儀式の前例踏襲は、「大祭の精神」を理解していないと嘆いた。時季前倒しのため農作物は実らず建物も急造素樸であるべきもの
明治・大正でも見直しは行われており、現代の象徴天皇に相応しい儀礼を模索する努力をすべきであり、そうしないとますます市民感覚からかけ離れた巨大イベントと化し兼ねない
l  「記すに及ばぬ」秘儀ゆえに ⇒ 90年の大嘗祭では食物を供えて自らも食する儀式で、手順を間違えたためにお供え物をぶちまけるところだった。天皇の「秘儀」の場となる内陣での儀式は記録することも憚られ、1687年に国学者が書いた『大嘗祭便蒙』は発禁とされ、著者は閉門処分となったくらいで、それぞれの儀式などについては様々な解釈がある。政教分離原則の下で、継承儀礼も再検討の余地あり
l  つくられた伝統 ⇒ 即位儀式で天皇が体現する「伝統」は、時代とともに変遷を重ねている。古代以来続いた唐風が明治で排除され神武神話が称揚され、戦後は神武色が消えたが、こうした細部の変遷を超えて、「伝統」と呼ぶだけでは割り切れない過剰な関連儀礼が神話色に彩られている
l  象徴の危うさ ⇒ 平成の大礼の場合、26の主要祭儀のうち国事行為は5件のみ、残りは関連神道祭祀。今回はそれに退位の礼や皇嗣の立礼とその関連神事も加わる
「国民的伝統」と称揚する声が根強いうえ、その「伝統」を誰も再検討できず硬直化
現天皇は、「伝統の継承者」を自任しつつも、皇位継承儀礼体系に風穴を開ける問題提起に踏み切って、火葬や、葬儀・築陵の簡素化、生前退位を提議、いずれも制度疲労を起こし始めた皇位継承儀礼体系の根本的な再編につながるものだが、正面から掘り下げた議論には至らず、特例法という変則的な形となって、徹底を欠いた着地
「伝統的支配は、統治が長い伝統や慣習を背景に持ち、そのような統治の長い歴史的由来に対する被治者の信頼が治者の支配を正統づける場合である。この伝統がさらに君主の神話的起源に求められる場合が神権説の思想で、近代ほとんど正当化の力を失ったが、神話に変えて伝統が持ち出されるときに、古い神権説の思想が新しい装いの下に依然として維持されている」として、象徴の内包する危うさを警告




(書評)『宮中取材余話 皇室の風』 岩井克己〈著〉
20189290500分 朝日
 「象徴天皇とは何者か」
 学問の各分野で発せられてきたこの問いは、「今も解を求めてさまよいつづけているのではないか」と著者は見る。戦前、戦後の二生を持つ昭和天皇、はじめから象徴天皇として出発した現天皇、この転換についての分析を「解」の鍵として論証する。
 著者は皇室記者歴30年に及ぶが、その間に見聞した皇室内部を折々に記事にしている。この書は月刊誌『選択』の2008年9月号から18年5月号までの117回分の連載をまとめたものだが、見聞を歴史的、学問的に整理している点で、類書にはない独自の天皇論をつくりあげている。昭和天皇の退位についての侍従長の見識、秩父宮の葬儀に触れつつ、宮中祭祀(さいし)の相対化が進むだろうとの予測、災害時に現天皇が自らの病をおして被災地を巡幸する「鬼気迫る姿」など、国民が知るべき皇室の史実がいくつもある。皮相部分での議論の軽薄さが浮き彫りになる点で、本書の果たす役割は大きい。
 保阪正康(評論家)
     *
 『宮中取材余話 皇室の風』 岩井克己〈著〉 講談社 3240円


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