東芝の悲劇  大鹿靖明  2018.3.5.


2018.3.5. 東芝の悲劇

著者 大鹿靖明 1965年東京生まれ。早大政経政治学科卒。ジャーナリスト。『メルトダウン ドキュメント福島第一原発事故』で第34回講談社ノンフィクション賞。築地の新聞社勤務。17年労働委員長に立候補し落選

発行日           2017.9.20. 第1刷発行       12.5. 第4刷発行
発行所           幻冬舎

プロローグ
17.8.10. 綱川社長記者会見 ⇒ 監査のお墨付きを得たことを告知したが、どこか笑みを浮かべているように見え、哀れな己の姿を客体視し、悲惨な状況を自嘲しているかのようであり、どこか他人事のように振舞っていた。責任を前任の社長たちに負わせ、当事者意識に欠け、どこか傍観者的
東芝は、経済環境の激変や技術革新の速度に対応できず、競争から落伍したわけではなく、突如強力なライバルが出現し、市場から駆逐されたわけでもない、その凋落と崩壊は、ただただ歴代トップに人材を得なかったためであった
歴代トップが、その地位と報酬が20万東芝社員の働きによってもたらされていたことをすっかり失念してきた、それが東芝の悲劇だった。本書はその記録
19962000  西室泰三
20002005  岡村正
20052009 西田厚聡
20092013  佐々木則夫
20132015  田中久雄
20152016  室町正志(会長兼務)
2016          綱川智

第1章        余命5年の男
2015年、東芝の「不適切な会計処理」が表面化して、決算発表を延期することになった直後のOB会「東寿会」に西室が久しぶりに顔を出し、「東芝の再建は私が責任をもってやります」と宣言し、出席者を呆気に取らせた ⇒ 20年にわたって東芝を支配し、人事を壟断してきた果てが経営陣の内紛と粉飾決算
西室は、頼まれた仕事はすべて引き受け、「肩書コレクター」と皮肉られていた
社外取締役が大きなウェートを占めるようになるが財界から起用された社外取締役の就任要請に動いたのは西室 ⇒ 退任後10年しても依然として東芝経営陣の人事に関わる
日本郵政の社長職も、体調異変が表面化、慶應病院の妻の隣に入院し、長兄の元東京ガス専務や次兄の元月島機械会長(現姓黒板)らに説得され、漸く退任
西室の祖父は山梨で染色業を創始、発明の特許も多数保有、礼装用の黒紋付もその1
父も祖父の仕事を引き継ぐが、父母とも教育熱心で3人の息子を武蔵に入れる
2人は東大ストレート合格したが、西室だけは2浪したのち慶應経済に進み、後の東大卒を疎んじる遠因となる ⇒ 全塾自治会委員長を2年務め、リーダーシップを発揮
大学4年の時、ブリティッシュ・コロンビア大への1年交換留学制度に応募して合格、その時に覚えた英語が人生を大きく決定づけた ⇒ 61年、貿易部門の強化を目指した東芝に就職
当時、東芝は石坂が建て直しに成功し、生え抜きの岩下を社長に据えたが、両者の確執が表面化、山一不況で業績が急降下した時に岩下が退任、石坂が推す土光が新社長に就任
当時から東芝のお家騒動は、経済ジャーナリズムにとって格好のネタとなり、三鬼陽之助がその内幕を暴露した『東芝の悲劇』(66)は、2カ月弱で30刷も増刷
岩下の時代、トランジスターの開発で先行したソニーを東芝が急迫した様子を連載した大宅壮一も、「ソニーは東芝のためにモルモット的役割を果たした」と有名な評価を下し、東芝をバランスの取れた総合メーカーとして高く評価してはいるが、同時に「大東芝」意識からっ来る官僚主義が戦後の再出発を妨げたと断じている ⇒ 名門病とも言える宿病がこの頃から外部の者にも容易に窺えた
西室は、入社後貿易部門に配属されたが、仕事は米国向けの真空管の輸出業務で、社内から見れば傍流、4年後東芝アメリカに赴任
入社当時から足を引き摺って歩くようになり、進行性筋萎縮症との診断、余命は早くて5年と言われたが、アメリカ時代に診てもらうと、脊髄に嚢(のう)腫があって神経を圧迫しているので、命の危険を覚悟で手術し除去に成功、ただし長期にわたって嚢腫が神経を圧迫してきたために右足には重い後遺症が残り、次第に足が動かなくなっていった
不自由な足は、コンプレックスではなく、病をバネに生き方が変わった点を強調、以来体を鍛え、人生を前向きに捉えることができるようになったといい、結婚もした
71年再度の米国勤務、モーレツサラリーマンとして国際営業部門で頭角を現す
土光の後任は通産から来た玉置、その後が石坂の秘書を務めた生え抜きの岩田、その時大型コンピューター事業からの撤退を決断、パソコンに特化していかざるを得なくなる
84年電子部品国際事業部長に。酒好きで人の輪ができた
米国勤務は通算14年に及び、東芝でも有数の英語使いとして知られる
87年のココム規制違反事件は、東芝製品の対米輸出禁止に発展、岩田の指示で佐波会長、渡里社長の同時辞任となり、青天の霹靂で社長になったのが重電傍流の技術屋青井で、パソコンなどの情報機器の開発や半導体の強化を進め、1メガビットDRAM商戦で圧勝
青井に気に入られたのが半導体の世界にも通じている西室で、タイム・ワーナーに5億ドルの出資を決める交渉役に西室を使う
青井が重電の佐藤に社長を譲った際、重電本流の山本と同時に取締役となり米国駐在へ
その時、パソコンの海外販売で頭角を現してきたのがアーバインに本社のある西田率いる東芝アメリカ情報システム
西室は、若い頃のモーレツぶりとは裏腹に、もっぱら酒飲み営業で、他人のやった仕事を取り上げて追い出すし、事業戦略は皆無と評判が悪かったが、順調に昇進
この頃から西室の管掌するテレビなどのAV機器部門では不良在庫の飛ばしが恒常的に行われており、その規模は100億円にもなっていた
DVDの規格統一交渉では、技術的に勝った東芝がソニーを破ったが、その栄えある記者会見は途中参入で海外勢を味方につけた西室が仕切り、その後DVDで功績あった者を追い出して独り占め、「嫉妬の人」として力のある部下を排除する傾向があった
96年佐藤の後任は、実質青井が仕切り、国際派でないとこれからは持たないと強調して、生え抜きは副社長から上がる慣例を無視して8人抜きで専務の西室にお鉢が回る
初の私学卒も含め、異例尽くめの上に、財務・人事など本社スタッフを煩わしく思い自分で決めたがるとの批判もあり、経費の使い方も身内の飲み会に交際費を使うなど疑問視
ソニーも前年、私大卒14人抜きの出井を抜擢、同様に文系で海外畑

第2章        改革の真実
97年持株会社の導入による分社化を日経にリークして発表するが、反対派の重電を騙し討ちにしたもので、山本が妥協案として提案したカンパニー制度にすぐ乗っかってきた
96年末後ろ盾の青井が急死、西室は経営陣の中で孤立、業績も悪化
97年総会屋利益供与事件に東芝の関与が露見
そういう中での社内改革で、西室は自分で言いだしたにもかかわらず、深い考えはなく、不十分な形での導入に留まり、その推進の経営企画担当に西田が来る
本社の掌握が不徹底のまま、社内カンパニー制は遠心力を強め、独立性を高めて、各社内に伏魔殿が出来ていく ⇒ 後の粉飾決算でその暴走とチェック機能の形骸化が明らかにされる
西室のお手本は、GEのウェルチ。さしで話せるウェルチの名声を利用
マスコミを通じて自身を対外的に売り込むことを覚えていく
98年が東芝のM&A元年 ⇒ 名門意識の強い伝統ある参加有力企業を、同業他社と合併させるなど、事業を切り刻みながら矢継ぎ早に再編、今後何を中核とするのかという根本的な疑問を浮かび上がらせ、後々まで続く資産切り売り文化の温床となった
日本の総合電機メーカー3社の中では、東芝の傷が比較的少なくマスコミ受けも良好
GEの改革を参考に、サービスとITを柱とした経営改革を目指し、東芝クレジットを100%子会社化したが、結局ものにならず、IT関係の事業も結局何一つ残らず
1999年、パソコンに内蔵されているFDC(フロッピー・ディスク・コントローラー)の不具合に関しテキサスで集団訴訟提起 ⇒ 元々東芝はシステムLSIの開発に手間がかかるところからNECの製品を違法にコピーして使用、その後NECとは和解したが、NECが欠陥を公表した後もそのまま販売を続けていたもので、実害はほとんどなかったが、総額1兆円にも損害賠償額が予想されたところから1,100億で和解。業績も急降下
その責任もあって4副社長が西室に一緒の退任を迫るも、西室は動かず、佐波の調整でようやく空席の会長に退くことになるが、後任の社長に西室は西田を推す
取締役になってまだ2年の西田は論外、歴代社長は調整役としての能力を買って岡村が急浮上。前年に業績不振のATM部門を沖電気に売却する交渉をまとめた実績が買われた
岡村は、選択と集中を進め、分社化を促進。ITバブルに乗って業績は回復したが、1期しか持たず、01年のITバブル崩壊によってDRAMの在庫の山ができ、創業以来最大の2,540億円の赤字に転落
西室は、会長になってから、財界活動に注力、経団連副会長に就任、政府の地方分権改革推進会議の議長や、日米財界人会議の議長にもた矢って、経団連会長への意欲を公言
ソニーの出井も、会長に退きながら、いつまでも社業に嘴を挟むのに似ていた

第3章        奇跡のひと
米国のパソコン事業は東芝の柱の1つ、特にノートはトップだったが、市場価格の下落が急激で赤字に転落、浮沈の激しいビジネスになっていったが、その窮状を救ったのが西田で、東芝には珍しくアグレッシブにモノを売る男だった
西田は、京大の受験に2度失敗して早大政経に入り、東大大学院で政治学者の勉強をしていたが、73年忽然と姿を消す ⇒ 本人は出奔の理由を語りたがらないが、当時イランから文部省留学生として東大丸山眞男ゼミにいた名家の女性を追ってイランに行ったのは自明で、先に東芝の現地合弁会社の秘書として就職していたその女性の紹介で現地採用
松本清張の『火の回路(後に『火の路』)』に、西田を彷彿とさせる内容がある
2年後に本社採用となり、77年に帰国すると海外営業マンとして雄飛、84年ヨーロッパの副社長になりパソコンを売りまくって頭角を現す
97年取締役パソコン事業部長 ⇒ 東芝には珍しく派閥を作る人、その後国際部門から3人も副社長を出したように、目標を上振れ達成して発言権を拡大
03年、西田社長誕生で進んでいた中、パソコンの出血が襲い、西田が再建を引き受け、社内分社化した責任者として西田が起用される
一方で、社長は異例の岡村続投 ⇒ 西室が経団連会長を狙って、会長職に固執した
この時西田の下で資材調達部長になったのが後に西田に引き立てられて社長となった田中久雄(神戸商大卒、73年入社)で、パソコンのうちローエンドの普及品の製造を委託していた台湾のメーカー相手に部品の一括調達と完成品の買戻しを組み合わせたバイセル取引を開始
04年の決算でパソコン部門の業績をV字回復させた西田は、社長を当確とし、西室は奥田経団連会長の続投が決まったことで目がなくなり会長辞任を受け入れる
西田の社長就任後は、高い目標を設定し無理やり必達させる「チャレンジ」が横行、無理な会計操作に手を染める粉飾文化の浸潤が始まる ⇒ 四半期末だけが黒字で、その他の月次は赤字という状況が常態化。明確化を裏付けられるのは08
西田の就任以後、業績は急回復し、それまで停滞していた10年から脱皮 ⇒ ITバブル崩壊から米国経済が立ち直り、日本でもデジタル家電ブームが到来、新興国市場も成長した結果に加え、ウェスチングハウスの54億ドルでの買収による売り上げが上乗せ

第4章        原子力ルネサンス
WH売却の第1報は03年末ごろ ⇒ 英核燃料会社が買収したもののシナジーが得られないまま再度売りに出ていた
元々東芝は日立と共にGEの沸騰水型原子炉BWR技術を採用していたが、当時はWHの加圧水型原子炉PWR技術が一般的となり、世界の軽水炉原発市場でのシェア70%を持っていたところから、西室が興味を示し、オークションに参加、2回目の入札で2,700億を提示した東芝に一旦決まったが、元々WHの技術を導入していた三菱が巻き返して再入札となり三菱は42億ドルを提示
東芝の現場は、企業価値を2,000億辺りと見込んでいたので、撤退を進言したが、西室の意を戴した西田が買収に強く固執、電力トップの佐々木則夫(常務)も当初消極的にもかかわらず、日立・GE連合が入札に参加すると知ってライバル心を掻き立てられて態度を急変させ、西田と急速に接近、最後4回目の入札では英国側の罠にはまった形で価格が吊り上げられ、06年に54億ドル(6,210億円)で決着
当初は51%程度に収めて他社に呼び掛けたが、結局カザフスタンが10%参加しただけで90%は東芝の投資に
エジソンと同時代の発明家ウェスチングハウスの創業した総合電機メーカーのコングロマリットは、後のマネジメントの失敗から凋落、チェルノブイリの原発事故で原発部門売却を決断、売却先の英核燃料会社がさらに転売したもの
06年は日本のエネルギー政策の大変換の年 ⇒ 原子力ルネサンス体制の構築。東芝を原子力産業の救世主に見立てたのが経産省原子力政策課長の柳瀬唯夫(17年加計学園問題で「記憶にない」との答弁を連発し評判に)で、省内で大揺れだった原子力政策がトラウマとなって極端な原発礼賛派となり、日本勢による競り落としをせっついた
東芝の買収が、原発輸出を柱とした「原子力立国計画」の策定に弾みをつけ、東電と東芝は経産省が旗を振る原発輸出政策の先兵となる。自然エネルギーへの補助は打ち切られ、経産省から高経年化対策のお墨付きを得た東電は、新たな原発の技術開発よりも老朽原発の維持に舵を切る。その帰結が福島の事故
西田は原発の川上であるウラン鉱山開発にまで触手を伸ばす一方、米国を始め世界各国で新規原発の受注を進める ⇒ 15年までに39基の受注を目指し、当初の目論見を4年短縮して13年で投資回収と意気込む
原子力と並んで事業の柱にしようとしたのが半導体で、アップルの製品群などに使われるNAND型フラッシュメモリーの製造に集中
事業の絞り込みにつれ、西室や西田時代には独立性の高い部署だった人事や経理・総務部門も恣意的に動かされるようになり、中立性や公平性が危うくなっていった
佐々木則夫は72年早大理工(機械工学科)のボート部卒、入社後一貫して原子力を歩み、最初の担当が福島第1原発。03年原子力事業部長。独身でパワハラが評判
09年、西田から佐々木へ社長交代 ⇒ リーマンショックで東芝も3,436億の赤字
経団連副会長のポストは、財界御三家である新日鉄、東電、東芝の指定席。「社格」がものをいって西田も09年副会長に就任 ⇒ 重篤な財界病に罹患
岡村が日商会頭をやっているので、財界3団体のうち2団体の長を1企業が占めることには難色が多く、西田は我慢せざるを得なかった ⇒ 岡村と西田の不仲説が流れ、東芝の最早伝統ともいうべきトップ同士の確執がまたしても表面化
10年元旦讀賣が西田経団連会長内定を讀賣らしい仰々しさでスクープしたが全くの誤報
急接近した西田と佐々木の間にも隙間風が吹くようになり、WHの経営にしくじりそうで、経産省が危惧、東芝は崩壊に向けて舵を切る

第5章        内戦勃発
米ブッシュ政権の原発推進策に乗じて2基受注したものの、30年間も原発を新設していない米国では請け負う工事業者に建設ノウハウが不十分なため、労務コストが制御できないほど上昇、数十億ドル規模でコストが膨らみそうな可能性が出てきて先行き不安に
11年福島原発事故で、民主党政権下官民一体で進めようとしていた原発輸出計画にも暗雲、進行中のプロジェクトはもとより、市場が急速に萎む中、東芝だけは前進を続ける
09年半導体部門はバイセル取引による赤字557億円を報告したが、逆に佐々木は西田マジックの正体を見破ったとして、財務を巻き込んでさらに上積みを要求
映像部門でもキャリーオーバーやミスマッチという粉飾手口が、西田時代の08年辺りから加速
西田と佐々木のコミュニケーション欠如が常態化し、社内も両派に分裂、佐々木の部下虐めはさらにエスカレート
12年安倍政権下、3年半ぶりに経済財政諮問会議が復活、財界代表として経団連会長を差し置いて佐々木が選ばれる ⇒ 担当大臣の甘利の息子が佐々木の下にいた関係で両者は気が合った。西田が大荒れに荒れて、両者の仲を決定的に割いた
13年佐々木から田中に社長交代、佐々木は副会長へ
田中(73年入社)は、調達部門一筋で社長就任は異例中の異例で、800億を超えるバイセル取引の残高を隠匿するための起用ともとられ兼ねない
指名委員会のメンバーだった経営学の泰斗伊丹敬之も西田と佐々木の言い争いを止めることはできず、社外取締役の役割を果たしておらず、理論と実践の違いを批判されている
さらに指名委員会は、常任顧問に退いていた室町副社長を取締役に復帰させ、翌年取締役社長未経験にもかかわらず会長とし、佐々木を中二階に押し込める布石としている
佐々木は社長時代、社長の通信簿を作成させ、自らが利益積み上げに貢献したことを公然と言っていたが、西田は独りよがりの佐々木を公然と非難
13年田中社長就任と同時に、部下に促されてバイセル取引解消を即答するが、社内の抵抗に遭って半減させるのは1年遅れる
WHの建設工事に関しても、巨額のコストオーバーラン発生から暖簾に減損の懸念ありとの報告が来ており、現地の監査法人の指定に従って1,000億余りの減損を実施したが、本社は日本の監査法人の判断に従い減損は実施せず
14年末証取に東芝の不正会計を指摘する内部告発 ⇒ 重電部門の工事進行基準に関する不適切な処理で、佐々木が社長時代、同基準を操作して利益を捻出しており、監視委の指摘に対しても自浄作用がきかないところまで行きついていた
大量のメールを電子的な手法を使って短時間で解析する「フォレンジック調査」によって、社内の膨大なメールの中から、全社的に無理なチャレンジが行われ粉飾らしきことが横行していることが判明、なおかつ不正を正そうとする行動をトップが組織的に隠蔽しようとしていることもわかり、それらのメールをコピーした社員たちによって報道機関にばらまかれることになる
15年、第3者委員会設置 ⇒ 調査範囲を限定(原子力は対象外)したうえ、メンバーも独立性や主体性に乏しく、粉飾の全体の真相を突き止める性格のものではなかった

第6章        崩壊
15年、組織的粉飾が明るみに出た後の記者会見で田中以下執行部の総辞職が発表され、室町が社長を兼務。決算発表も有証作成も先送り
監査法人の新日本は、オリンパスに続いての失態で、危機感が乏しく、後刻金融庁から3か月の新規契約業務の停止と課徴金の支払いを命じられることになる
証券監視委員会は組織トップによる悪質性を焦点に刑事告発を検討するも、検察はバイセルには物の裏付けがあるとか粉飾額が会社規模に比して小さいとか言って消極的
15年、東証は東芝の株式を特設注意市場銘柄に指定
さらに、WHの暖簾代3,500億円の減損未処理問題が浮上、他事業の損失を一気に計上すると5,500億となり、合計で債務超過の恐れがあり、その補填策としては1.82兆の価値があると見積もられていた半導体部門の売却を検討したが、トップに同部門の関係者が多勝ったこともあって反対が強く、結局利益捻出の槍玉に挙がったのは今後の拡大が見込めるメディカルの子会社 ⇒ 企業価値の倍以上の6,600億でキャノンへの売却が決まるが、公取の審査を待っていると決算期内に処理できないため、ペーパーカンパニーを作って議決権株式を売却、キャノンには新株予約権を渡す脱法的なスキームを作って処理し、5,900億円の利益を計上、WHの減損2,600億と他事業の損失4,800億円をまとめて処理するが、このスキームについては後にキャノンや東芝は公取委から厳重注意をされたほか、中国からは罰金を科されたりした
16年室町の後任に売却されたメディカル部門出身の綱川が就任。原子力の志賀が会長に。指名委員長の小林(三菱ケミカル)は、志賀のWH取引に関するグレーな過去を知りつつ余人を持って代えがたいとした
WHでは、米建設会社のCB&Iからストーン&ウェブスター(S&W)を買収する計画が15年にまとまる
経産省では核燃料事業の統合を入口に3社の"日の丸再編を画策するも、日立は前向きだったが、三菱は冷ややか、東芝は傍観者的なスタンスを崩さず、お見合いは頓挫
志賀は、06年のWH買収以来現地に駐在、自身の秘書と再婚、コスト増の削減に心血を注いできたが、新たに米国で受注した4基の工事では納期延長の見返りに固定価格契約としたため、コスト増をまともに被ることとなる
S&Wの買収は0円だったが、デュー・ディリジェンスを後回しにしたため、20億ドル程度の見込み違いが発生、16年度には併せて数千億円の損失発生が予測され、1,450億円程度の黒字化が予想された業績を一気に暗転させる
海外の原子力事業からの撤退を表明、WH3月にチャプター11を申請、負債総額1兆円。高値掴みによる東芝の累計損失は1.4兆円に上る
東芝は半導体事業切り離しを決断するが、経産省はフラッシュメモリー事業が海外に流れることを懸念して救済に動き出す。シャープを買収した鴻海が最高値をオファーしていたが、経産省がシャープ買収案件での鴻海による横取りを根に持って日系資本を軸とした買収連合組成に動く ⇒ 現時点で未決着
綱川は、全く統治能力を失い、割拠する各部門に威令は行き渡らず

エピローグ
三鬼陽之助の『東芝の悲劇』は繰り返され、すべては「経営不祥事」
バブル崩壊後、思い切った刷新を託された経営トップは、傍流からの起用
西室は、コンプレックスに由来する上昇志向が強く、名誉欲は人一倍強い
おとなしい岡村は、西室の院政を許し、西室は自身と同じ傍流の西田を後継者に
西田は、西室に輪をかけて名誉欲が強く、マスコミ受けするスタンドプレーを好み、バイセル取引という粉飾の温床となった仕組みを取り入れ、自身の成績向上のために活用
西田が聖域化された原子力部門の佐々木を抜擢
佐々木は、西田の粉飾手口を破壊的なまでに活用、暴力的な恐怖政治によって東芝を混乱に陥れ、福島の事故後も世界の潮流の変化を無視して無謀にも原発一筋に突き進んだ
佐々木が財界公職で名を成すのに嫉妬した西田は、身内の喧嘩を恥も外聞もなく世間に曝け出し、社内の混乱を収拾するためにまたも傍流の田中を起用、西田の傀儡に過ぎず、なおかつ粉飾の手口を発案した張本人
内部告発によって旧悪が明るみに出ると、暴君たちは去るが、あとの室町、綱川は所詮その器にあらず、WH破綻に至る最大の責任者の志賀は真相を明らかにすることなく真っ先に遁走                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                   
東芝の元広報室長は「模倣の西室、無能の岡村、野望の西田、無謀の佐々木」と評したが、この4代によって、その美風が損なわれ、成長の芽が摘み取られ、潤沢な資産を失い、零落した。東芝で起きたことは、まさに人災だった
教訓として言えるのは、傍流からの抜擢人事は、日本の大企業においては成功しない
傍流からの抜擢は、実力者自身の院政とセットのことが多く、日立の古川、ソニーの中鉢・平井、JALの西松、東電の清水等、失敗企業の失敗経営者はみな、院政を敷きたがった実力者によって引き上げられたくぐつ(傀儡)”であり、そもそも将の器ではない
同時に、会計士はもとより、弁護士から元高裁長官に至るまで、日本の専門家たち(プロフェッショナル)の偽善性や欺瞞ぶりも曝け出した ⇒ 検察も証取の監視委員会を抑え込むばかりで真相究明には及び腰、公取も刑事告発を見送り簡単な処分で大目に見ている
経産省のエリート官僚も、日本のエネルギー政策の旗振りとして、必要以上に出しゃばり過ぎて東芝の世話を焼いたうえに、原子力政策の失敗の責任を取らされることなく、優雅な天下り生活が保証された
東芝も、彼らとの深い交情に加え、原発の廃炉作業という他の者が担えない公共性の高い業務を請け負っていることが、身の安全を保証する護符だった
独立不羈の精神が社内に育まれることはなく、温和で従順な社員は自立の気概に欠けていたのも東芝の悲劇




東芝の失敗の本質とは? 社長4人に焦点あてルポ
紀伊国屋書店大手町ビル店  2017.10.6.
 ビジネス街の書店をめぐりながら、その時々のその街の売れ筋本をウオッチしていくシリーズ。今回は定点観測している紀伊国屋書店大手町ビル店を訪れた。働き方改革、ブロックチェーンやビットコイン……旬のテーマの本が店頭の平台をにぎわせているが、1週間前に訪れた青山ブックセンター本店とは見事なまでに売れ筋が違う。青山で注目されていたスタートアップ系やIT企業経営者の本などは見向きもされていない印象だ。そんな中、先週後半から売り上げを伸ばしていたのは、ベテランの経済記者が東芝崩壊の軌跡をたどった骨太のノンフィクションだった。
東芝メモリ売却先決定で売上げ伸ばす
 その本は大鹿靖明『東芝の悲劇』(幻冬舎)。著者は朝日新聞の経済記者。東芝は1990年代後半から著者の取材対象だった。2015年の不適切会計問題以降、崩壊の道を一気にたどっていく東芝の失敗の本質とは何だったのか。この問いに正面から切り込んでいる。
 「先週末から今週初めに大きく売れ行きが伸びた」とビジネス書担当の西山崇之さん。半導体メモリー子会社「東芝メモリ」の売却契約を、米投資ファンドの米ベインキャピタルを軸とする「日米韓連合」と結んだと発表されたのが928日。これをきっかけにふたたび関心が高まったのだろう。虎の子の成長事業を売却するまでに追い込まれた東芝では何が起きていたのか、大手町に本社を置くような大きな企業に勤めるビジネスパーソンには大きな関心事なのだろう。「企業の失敗や崩壊を扱った本はいつも大手町では人気がある」と西山さんは言う。
「東芝崩壊は人災」と断じる
 本は、178月、記者会見の席上での綱川智社長の表情から書き起こされる。ときおり笑みを浮かべているように見えるその表情をとらえて、著者は「哀れな己の姿を客体視し、悲惨な状況を自嘲しているかのよう」「どこか"他人事のよう」と書き留める。そして東芝の「凋落と崩壊は、ただただ、歴代トップに人材を得なかっただけであった」といきなり結論を持ってくる。続く6章にわたる本文を読めば、その結論が胸に落ちる。そんな構成だ。
 主に語られるのは、この20年の東芝のトップたちの動きだ。第1章で詳述されるのは、後に財界の顕職を歴任する西室泰三氏。続く3代の社長、岡村正氏、西田厚聰氏、佐々木則夫氏の折々の経営判断や発言がノンフィクションスタイルでほぼ時系列に描かれる。技術を核にした製造業だった東芝が、傍流からトップに上り詰めた4人の社長たちが繰り返す見かけ倒しの方策や誤った判断によって、崩壊の種を次々とはらんでいく。そのプロセスが生々しい。「この四代によって、その美風が損なわれ、成長の芽が摘み取られ、潤沢な資金を失い、零落した」「東芝で起きたことは、まさに人災だった」とエピローグで再度語られる結論は重い。
関連本も豊富に陳列
 本書を並べた平台には、ウェスチングハウス買収の経緯に焦点を当てたFACTA編集部著『東芝大裏面史』(文芸春秋、5月刊)をはじめ、今沢真『東芝消滅』(毎日新聞出版社、3月刊)、松崎隆司『東芝崩壊』(宝島社、7月刊)が並ぶ。他にも大西康之『東芝 原子力敗戦』(文芸春秋、6月刊)がある。いずれも経済ジャーナリストや新聞記者の著作で、企業を取材してきた人から見ると、東芝問題は日本企業の構造問題の縮図と感じられるようだ。


[書評]『東芝の悲劇』
大鹿靖明
WebRonza 中嶋 廣 編集者
20171130
日本の負の縮図  
 これは労作である。著者の大鹿靖明は朝日新聞の記者で、前著『メルトダウン――ドキュメント福島第一原発事故』(講談社文庫)は講談社ノンフィクション賞を受賞した。これがあまりに鮮烈な印象を残したので、今度の本もすぐに読んだ。実に読みごたえがあり、2度目は細かいところまでじっくり読んだ。
 これは東芝という、かつての名門家電メーカーが傾き、今に至る惨状を、4代の経営者を中心に活写したものである。
 そもそも東芝は戦前から続く名門会社であり、戦後間もなくの社長、石坂泰三や、70年前後の土光敏夫は、その後、経団連会長を務めている。
 それが傾きだしたのは、1996年に西室泰三が社長になってからであった。西室は「選択と集中」をスローガンに東芝グループ内の事業を再編した。「原発から家電や半導体まで手がける総合電機メーカーは兵站線が伸びきっており、主戦場を限定してそこに経営資源を投入しようとした」のである。
 この「選択と集中」は、東芝本社を分割化して、重電、家電、情報通信、電子部品の4つのカンパニーを、持ち株会社にぶら下げようとするものであった。これは結局、後に原発とパソコン、半導体に集約されることになる。そして原発とパソコンについては、言いようもないほどの惨状を見ることになる。なお西室社長の時代は4年間、業績は悪化し続けている。
 次の岡村正社長は、西室泰三が会長として権限を振るうための置物にすぎなかった。この間にITバブルが崩壊し、またパソコンの大幅な値崩れが起こっている。ITバブル崩壊については「東芝の半導体部門には設計力も製造力もあるが、半導体部門のトップがタイミングを見た投資決断ができない」ということであった。
 パソコンについては取締役の西田厚聰が、決算の赤字をたちまち黒字にしている。大赤字のパソコン事業を劇的な黒字に立て直し、東芝社内では「西田の奇跡」「西田マジック」とよばれ、岡村の次の社長を確実なものにしている。
 けれどもこれにはカラクリがあった。「バイセル取引」という「安く調達した部品を各台湾メーカーに売って(セル)、彼らに組み立ててもらって完成品のパソコンになったあかつきには東芝が買い戻す(バイ)」という、これ自体は適法な取引を、極端な数字を当てはめ、四半期の決算ごとに黒字にすり替えたのである。
 これは、西田社長がパソコンを海外で売ったがために、それが勲章となり身動きが取れなくなっていき、さらにアメリカからリーマンショックが襲いかかり、粉飾決算は恒常化した。
 また西田社長のときに「チャレンジ」と称して、より高い目標を設定させ、それに無理やり到達させることが行われた。このときも、生産額は今期に、経費は次期に繰り越すという経理操作が行われている。
 僕が思うに、もちろんこんなことをしてもしょうがない。けれども決算の数字で成績が出るときには、その人のいる場所によっては苦し紛れに近視眼的にやってしまう人もいるのだ。
 東芝の原発は、ゼネラル・エレクトリックから沸騰水型原子炉を技術供与されていた。そこに原発メーカーのウェスチングハウスが、加圧水型原子炉を引っ提げて企業ごと売りに出される。東芝がウェスチングハウスも持てば鬼に金棒、世界中で商売ができる、と考えた西田は、適正企業価値の約3倍もの価格で買収している。
 ところがその後、次の佐々木則夫社長のときに福島第一原発事故が起こり、世界からの原発工事の要請は止んだ。ウェスチングハウスは実に金食い虫で、あげくの果てには今年(2017年)、経営破綻している。ウェスチングハウスに賭けた資金は、まったくの無駄金だった。
 佐々木社長のときには、リーマンショックに伴う世界経済危機が東芝を襲い、バイセル取引による粉飾決算は、どうにもならないところまで行っていた。おまけに佐々木社長は東芝へ入って以来、原発一筋だった。原発は過去のもの、という割り切り方は絶対にできなかった。
 こうして東芝は崩壊への道をひた走った。「一国は一人を以て興り、一人を以て滅ぶ。東芝で起きたことは、それだった。どこの会社でも起こりうることである」。この4人の社長は、東芝グループ20万人のトップというには、あまりに足りなかったのだ。元広報室長は「模倣の西室、無能の岡村、野望の西田、無謀の佐々木」と評した。東芝で起こったことは、一言でいうと「経営不祥事」、すなわち「人災」だった。――これが著者の結論だ。
 しかし僕の考えは違う。「第一章 余命五年の男」では、西室泰三の若い時から社長になるまでが描かれる。西室は若い時から人望があり仲間が集ってきた。慶應大学で全塾自治会の委員長になり、そこで取り組んだのが学生健康保険の創設である。西室は自身が結核を患ったこともあって、当時の役所の認可を得て、慶應学生健康保険互助組合を創設している。学生とは思えない行動力である。
 またあるとき足を引きずるようにしていたので、病院で診てもらうと、進行性筋萎縮症で5年はもたないと言われた。それで東芝でも、忘れられまいと死に物狂いで働いた。さいわい診断は誤っており、手術によって進行を食い止めることができたが、死の淵まで行った男が、しかも若い時から周りに自然に人が寄ってくるような人物が、社長として物足りないと言われても、なかなか首肯はできない。
 西田厚聰は東大大学院の政治学博士課程にいて、福田歓一教授の下でフィヒテを研究し、政治学者になるつもりだった。修士課程のときには岩波書店の雑誌「思想」に、フッサールについて論文を執筆している。けれども西田は突然コースを変えて、東大に来ていたイラン人の女学生を追ってイランに渡り、そこで結婚している。このとき結婚相手が勤めていたパース東芝工業に入ったのである。
 幼少のころから苦学して東大大学院に入り、一転イランの東芝に所属し、そして社長になるまでは、まさに波乱万丈の物語である。部下の一人は西田を「ドイツ語、英語、フランス語の原書で本を読んでいて、グローバルレベルで見てもすごい教養人。彼に引き寄せられる人はいっぱいいたと思います」と語った。
 そういう人が赤字決算を怖がって不正、粉飾に走る。20万人の社員の重圧は、それだけ恐ろしいものなのだろう。けれどもよく考えてみれば、日本人は国の予算を立てるとき、いつもいつも赤字国債という借金は先送りにし、それをみんなで了としているではないか。東芝はその縮図である。
 あるいは原発。東芝は、破綻したウェスチングハウスという貧乏くじを引いたけど、しかしまだ原発はやめない。これも日本国の縮図なのではないか。核のゴミが出続け、しかも運転延長でいずれは大事故を起こすと分かっていながら、それでも止めることができない。
 東芝の4人の社長は、確かに「人災」だったかもしれない。しかしそれは、対岸の火事では済まされまい。東芝は日本の負の縮図なのだ。



「原子力の看板」を下ろせない東芝
米事業で巨額の債務保証、福島第一原発の廃炉で重要な役割
20170308
 「2008年に受注した4基の影響が大きかった。ウエスチングハウスを買収したことといえなくもない……
原子力事業の失敗を公式に認める
 東芝社長の綱川智氏は、214日の記者会見の席上、東芝が危機にいたった理由を問われて、そのように答えた。
 東芝が、原子力事業の失敗を初めて公式に認めた瞬間である。事実、悪夢06年、原子力子会社ウエスチングハウス(WH)を6600億円で買収したことから始まる。
 08年のリーマン・ショックに加え、11年の東京電力福島第一原発事故によって、原子力事業は一気に逆風にさらされた。東芝は15年春に不正会計が発覚し、翌163月期にWH関連の減損2600億円を計上した。
 それから一年も経たないうちに、東芝は再び死の谷を迎えた。WHが15年に買収した原発建設会社CB&Iストーン&ウエブスター(S&W)の資産価値を見直した結果、7125億円の減損損失を計上。債務超過を乗り切るため、虎の子の半導体事業を4月に分社化し、その株式の過半を売却するところまで追い込まれた。
 ところが、存亡の危機にあるにもかかわらず、東芝は、「原子力の看板」を下ろさない。米国と中国で建設中の原子炉8基は建設を継続する方針だ。なぜ、この期に及んでなお、「原子力の看板」を下ろさないのか。いや、下ろしたくても下ろせないのが本当のところだ。
 というのは、東芝は、WHが米国で抱える原発建設で、親会社として7934億円の債務保証をしている。財政的余裕のない東芝は、巨額の債務保証に足をとられ、米国での原子力事業をやめたくてもやめられないのだ。
 とはいえ、かりにも今後、米国での原発事業で新たな巨額損失が発生すれば、WHの道連れになる。そこで、選択肢の一つとして浮上したのが、WHの米連邦破産法第11条「チャプター・イレブン」の適用の申請だ。裁判所の管理下で、堅調な保守、点検や燃料サービスを柱に、原発事業の再建を図るシナリオが考えられている。しかしながら、その場合、賠償請求が発生する可能性があり、思惑通りにいくかどうかは不透明だ。
全国の原発維持のためには、東芝は安易につぶせない
 もう一つ、「原子力の看板」を下ろせない理由に、福島第一原発事故をめぐる廃炉の問題がある。
 「国内の原子力事業については、再稼働、メンテナンス、廃炉を中心に社会的責任を果たしていきます」と、綱川氏は語っている。
 東芝は、福島第一原発の2号機、3号機、5号機、6号機の主契約者である。このうち、メルトダウンした2号機、3号機の廃炉作業について、東芝は「社会的責任」を負っている。つまり、廃炉をめぐる国家的プロジェクトの重要な担い手である。東芝を抜きにしては、原子燃料と燃料デブリ取り出しなど、廃炉作業はありえない。
 さらに、全国に点在する44基の原発の維持管理、保守のためには、東芝を安易につぶすことはできない。
 経済産業相の世耕弘成氏は、214日の記者会見において、「世界各国から日本の原発技術に対しては、強い期待の声が寄せられているのが事実だ」と語った。
 では、東芝はなぜ、原子力事業の業績不振を放置してきたのか。明らかに、「経営の失敗」である。
 原子力事業に携わった歴代トップの責任は重い。とりわけ、WH買収の指揮を執った西田厚聡氏、原子力畑を歩んだ佐々木則夫氏、さらにウラでトップ人事に介入したといわれる西室泰三氏の責任は問われてしかるべきだろう。
 そこに見られるのは、権力争いのほか、巨大組織特有の風通しの悪さ、官僚主義、縄張り意識だ。
いまも生き続ける「内紛体質」
 私は今回あらためて、1966年に発刊され、ベストセラーとなった三鬼陽之助著『東芝の悲劇』(光文社 カッパビジネス)を読み直した。東芝トップの権力争いは、いまに始まったことではないと、再確認させられた。東芝を論じる際には、必読の書だ。
 石坂泰三氏は1957年、生え抜きで重電出身の岩下文雄氏に社長の座を譲るが、石坂氏と岩下氏との間には、ほとんど意思の疎通がなかった。岩下氏の経営手腕に不満をもった石坂氏は、石川島播磨重工業会長だった土光敏夫氏を社長に推して、岩下氏に退陣を迫った……
 私は、同書を読みながら、いまの「東芝の悲劇」は、昔の「東芝の悲劇」の再現ではないかと思った。内紛体質は、いまも生き続けているのである。
東芝にはびこる「財界病」
 さらに、東芝には、昔もいまも変わらない、もう一つの病理がある。財界病だ。東芝は、経団連会長を10年務めた石坂氏と「メザシの土光さん」として、清貧ぶりが知られる土光氏の二人の財界総理を輩出した。その栄光は、病いとなって、東芝の遺伝子に組み込まれている。
 例えば、96年に社長に就任した西室氏は、経団連会長就任に並々ならぬ執着を示した。経団連会長になるためには、現役の社長か会長であることが必須条件のため、西室氏は会長の座に固執し、4年でトップ交代のルールを破って社長の座を譲らなかった。岡村社長は会長に就くことができず、社長任期を1年間延期する異例の事態となった。
 また、西田氏は、経団連会長ポストに執着したため、佐々木氏は副会長に棚上げされる形となり、新社長には副社長の田中久雄氏が昇格した。記者会見の席上で、二人はお互いを批判して真っ向から対立した。
求められるのは再生の道筋をはっきりさせること
 東芝は今年3月末に1500億円の債務超過に陥る可能性が高い。そうなると、東芝株は、東証一部から二部に降格となる。さらに、最悪のシナリオとして、上場廃止も視野に入る。ただし、生き延びる道が完全に閉ざされたというわけではない。
 例えば、半導体事業を分社化して設立する新会社の株式を全株売却し、2兆円程度を調達できれば、ギリギリ生き延びることができるかもしれない。経産省主導の救済プランや法的整理も浮上してくる可能性がある。求められるのは、再生の道筋をはっきりさせることだ。ここまでくると、ソフトランディングによる東芝再生は現実的ではない。「東芝ショック」をめぐる社会的混乱は、覚悟せざるを得ないといえるだろう。
片山修(かたやま・おさむ) 経済ジャーナリスト、経営評論家
愛知県名古屋市生まれ。2001年~2011年までの10年間、学習院女子大学客員教授を務める。『ソニーの法則』(小学館文庫)20万部、『トヨタの方式』(同)8万部のベストセラー。『本田宗一郎と昭和の男たち』(文春新書)、『人を動かすリーダーの言葉 113人の経営者はこう考えた』(PHP新書)、『なぜザ・プレミアム・モルツは売れ続けるのか?』(小学館文庫)、『サムスン・クライシス』(張相秀との共著・文藝春秋)、『社員を幸せにする会社』(東洋経済新報社)など、著書は50冊を超える。中国語、韓国語への翻訳書多数。 公式ホームページ


国策会社 根深い統治不全 東芝解体 迷走の果て(上)
成長産業生めぬ日本映す
2017/10/1付 日本経済新聞
 日本のインフラ整備と家電産業の中心を担った名門、東芝。存亡がかかった虎の子、半導体事業の売却契約は結んだが、危機はまだくすぶる。会計不祥事からもう3年。東芝危機とは一体何だったのか。
「決められない」
 「自分たちだけでは決められない」。東芝の綱川智社長は半導体売却の調整の中で何度もそう口にした。事業はどこに売るか。そもそも売却はすべきなのか。官邸、監督官庁、銀行と調整先はあまりに多岐にわたった。
 経営危機の原因は企業統治をないがしろにした歴代社長の暴走、不作為にあったはずだった。だが当該の西田厚聡、佐々木則夫、田中久雄の3氏が去っても東芝の企業統治は機能不全のままだ。
 3氏を巡っては現在、東京など4地裁で裁判が続く。だが、争点の2300億円超の利益水増しは危機のほんの端緒にすぎず、本丸部分の米原子力子会社ウエスチングハウス(WH)の関連では、東芝は3人の退社後に1兆円を超す減損処理を迫られている。
 重い代償だ。半導体事業を売れば、東芝には特徴の少ない事業だけが残り、出直しが難しい。そのうえ、経済産業省には幹部直轄の東芝対策窓口ができ、今後も経営に陰に陽に影響が及びそうだ。
 「東芝の悲劇」。51年前に出版された書物に興味深い話が出てくる。1960年代初め、東芝に転じた財界重鎮で会長の石坂泰三氏と生え抜きの岩下文雄社長が対立、人事抗争の末に経営が悪化した。同書によれば、危機の背景は「たこつぼ化した縦割り組織、派閥経営、官への依存体質」だった。状況は現在と多くが重なる。
 混乱を収拾したのは石坂氏が招き入れた当時石川島播磨重工業(現IHI)会長の土光敏夫氏だった。「ミスター合理化」「荒法師」などと言われ、東芝の後は経団連や「第二臨調」会長も務めた同氏は対立を封印して組織の融和や権限の委譲を進め、いざなぎ景気にも乗って業績を急回復させる。
 だが、「石川島の3倍もある大所帯だから病根を探すのがたいへん」といみじくも指摘した通り、東芝の重い病は完治したわけではなかった。例えば「チャレンジ・レスポンス」という言葉が土光時代にあった。本来は従業員の自主性を促すためのスローガンであり、「失敗したら社内全体で早期に議論を尽くし、改善にあたる」を意味した。後年、3社長の時代になるとチャレンジは「過度な目標を強いる」「業績を取り繕う」に曲げられていく。
 変われなかった東芝。とりわけ根深く残ったのは統治不全で銀行、政財界、役所の横やりを受けやすい体質と官民一体の意思決定メカニズムでもあった。
 例えば、東芝の売上高の半分以上は現在も電力会社や自治体、防衛省向けの製品、サービスだ。電力は経産省と東京電力で絵を描き、東芝が製造する。そんな分業のヒエラルキーが色濃く表れ、進んだのが西田氏時代のWH買収でもあった。
 リーマン・ショックや東日本大震災、原発事故は事業を軌道修正すべき節目だった。だが、東芝は「原発輸出」の旗を降ろさなかった。国の大方針は動き出しており、東芝には止めようがない。東芝は国策の一部を担う「機関」と化し、その一方で、液晶など不採算事業の再編や海外企業買収では国の資金を頼った。
戦線だけ拡大
 かつては自動車と並ぶ輸出の両輪だった家電産業。現在では大半の分野で輸入超過が常態化しており、そんな中で注目されたのが原発輸出だった。だが、東芝の海外展開は輸出の延長としての国際化であり、グローバル化ではなかった。世界で通用するリーダーを育てず、戦線だけ拡大しても買収先を統治できなかったのは当然である。
 「飛ばし」と呼ばれた簿外取引で山一証券が自主廃業に追い込まれたのはちょうど20年前だ。日本の仕組みでのみ通用した経営と経営者、統治不在の組織。その構図は東芝をみる限り、今も根づく。IT(情報技術)革命を謳歌する米国とは対照的に、成長産業を生めない日本の現状を、東芝を取り巻く「変わらぬ構図」がいやがおうにも浮かび上がらせる。
(本社コメンテーター 中山淳史)

悲願の独自技術生かせず 東芝解体 迷走の果て(中)
2017/10/2
 東芝の危機は11年前、密室から始まった。
 「もっと積め」。2006年1月、東京・浜松町の東芝ビル。38階の社長室で当時社長の西田厚聡の声が響いた。米原子力大手、ウエスチングハウス(WH)の買収入札は、三菱重工業の参戦などで買収総額が54億ドル(当時約6400億円)に膨れあがった。だが西田は担当常務(同)の佐々木則夫が持ち込んだ提案書を見て即決する。
 「国内だけでは20年後に撤退を迫られるか、買収される」。取締役会では巨額買収への懸念や異論も相次いだが、西田は押し切った。
拡大路線が加速
 米ゼネラル・エレクトリックなど海外大手に追いつくため重電分野で世界に打って出る。その要となるのがWH買収だった。さらに08年、WHは米サザン電力から2基の原発建設を採算度外視で請け負った。
 WH破綻の伏線はこうして敷かれた。会計不祥事で西田らは退き、WH買収は製造業最大の1兆円の最終赤字をもたらした。今も5千億円を超す債務超過の深手を残す。
 上場維持のため来年3月末までに債務超過を解消するには、今期に連結営業利益の9割を稼ぐ半導体メモリーを売却する他に選択肢はなかった。
 「何で俺たちが売られなければならないんだ」。三重県四日市市。9千人が働く世界最大級の半導体工場は日米韓連合の傘下入りが決まり工場内から怒りの声が漏れる。
 DRAM全盛時代の90年に5割強のシェアを取り、世界市場を制覇したかにみえた日本の半導体産業。だが、基本特許を米国勢に押さえられた日本勢は、韓国・台湾勢との価格競争に敗れ次々と撤退に追い込まれた。
明暗分けた投資
 新たな期待の星となったのが東芝が自ら開発し、基本特許も持つNAND型フラッシュメモリーだった。スマートフォンなどのデータ保存用として需要が急拡大した。
 重電から家電まで扱う東芝では、巨額投資を常に求める半導体部門は鬼っ子扱いを受けてきた。投資するか迷う間に、市場を広げるため特許を供与した韓国サムスン電子が巨大投資を続け、東芝は文字通りひさしを貸して母屋を取られた。
 世界首位の座をサムスンに譲った状態ではいずれ来る需要の低迷期に多額の赤字に陥りかねない。利益を生む半導体部門の売却に対する疑問の声にも主取引銀行は「今は良くても1年後にどうなっているかは分からない」とつれなかった。
 日本が生んだ独自技術を守りたい経済産業省の意向もあり、東芝とHOYAの日本企業2社が議決権の過半を握る形で再出発する東芝メモリ。アップルや韓国SKハイニックスなどが資金を出す寄り合い所帯で、サムスンにどこまで対抗できるかは未知数だ。
 コスト力を持つ新興国の追い上げに対抗し独自技術の開発に血道をあげてきた日本。その努力は同メモリー、リチウムイオン電池、青色LED(発光ダイオード)などで実を結んだが多くが韓国などに主役を奪われた。
 他を寄せ付けないスピードで走り続けた企業だけが市場を独占する「一社総取り」の様相が強まるハイテク産業。20年以上前から「選択と集中」を掲げる東芝の挫折は、日本企業が打ち破らなければならない厚い壁を象徴している。=敬称略
(阿部哲也)

日本市場に消えぬ不信 東芝解体 迷走の果て(下)
2017/10/3
 メモリー子会社の売却交渉が大詰めを迎えた9月末、東京証券取引所では連日、夜更けまで少人数による議論が続いた。東芝の内部管理は改善したか。それは上場企業として十分な水準なのか。
自浄能力が欠如
 東芝は3カ月遅れながら8月に2017年3月期決算を発表しメモリーの売却契約で債務超過の解消へ希望をつないだ。上場維持へ残るハードルは管理体制の整備だ。審査を担う自主規制法人の関係者は「市場への影響が大きすぎる。軽々に方向性を示せない」と慎重な姿勢を崩していない。
 東芝が株式を上場したのは戦後間もない1949年だ。70年近く上場し続けた名門が2年にわたり上場廃止の瀬戸際をさまよっている。迷走を重ねた要因を探ると自浄能力の欠如に行き着く。
 経営にほころびが見えたのは15年4月に発覚した不適切会計だ。金融危機後の業績不振を覆い隠そうと経営トップが現場に圧力をかけると、パソコンなどの事業部が利益の水増しに走った。このときに外部人材の登用など内部統治を抜本的に刷新すれば現在の迷走は避けられたかもしれない。
 「これから構造改革に取りかかる時に買収などしてる場合か」。半年後、原子力子会社だった米ウエスチングハウス(WH)が持ち込んだ買収案件に半導体部門の幹部は眉をひそめていた。
 米建設会社S&WはWHの工事を請け負っていたが、建設コストの分担を巡り訴訟に発展していた。WH前会長のダニー・ロデリックは問題を解決しようと買収を決断。財務内容を調べると債務超過で、買収金額は0ドルとした。
 債務超過の企業の買収を懸念する声もあったが社内でWHに直接、異を唱える部署はない。「原発建設の推進に欠かせない」とのWHの主張が取締役会で了承され1028日に買収が決まった。
 1612月に発覚したS&Wの損失額は6000億円を超え、東芝自身が債務超過に陥った。報告を受けた東芝社長の綱川智は「何を言っているのか分からない」と繰り返し、原発事業を統括していた前会長の志賀重範は今年6月の株主総会で無言のまま東芝を去った。
上場の責任とは
 「なんとか上場だけは維持したい」と東芝幹部は口にする。上場していれば、いずれ株式市場から資金を調達して財務を修復できる。銀行融資でも上場企業の看板が信用力を底上げする。
 だが、上場には適切な内部管理や健全な財務の維持といった責任を伴う。不適切会計で明らかになった上層部の暴走。それを反省した新たな経営陣もWHを止められず、債務超過の危機を招いた。企業風土が本質的に変わらなければ上場企業である資格はない。
 レモンの原理。01年にノーベル経済学賞を受賞したジョージ・アカロフ米教授の学説だ。レモンとは外見からは判別できない欠陥品を指す。欠陥品と優良品が混在する市場では買い手がレモンを識別できず、優良な商品が駆逐されていく。
 日本取引所グループの最高経営責任者、清田瞭は「日本の資本市場と上場企業への信頼が傷つかないか危惧している」と話す。国を代表する企業が重度の統治不全を内包するレモンだった。その事実は重く、日本への不信として世界に印象づけられた。=敬称略
(田中博人)


原子力暴走(1)原発事業「0円買収」のツケ
査定せず、OB絶句
2018/1/10付 日本経済新聞
 半導体メモリー事業の売却や6千億円の巨額増資により、経営再建へ一歩を踏み出した東芝。140年の歴史を持ち、日本を代表する名門企業はなぜ未曽有の危機に陥ったのか。当時の経営判断や対応策をもとに改めて検証する。第1部は名門を崩壊に追い込んだ「原子力暴走」を追う。
 「買収した後にデューデリジェンス(リスクの査定)をやることになってました」。201611月、都内で開いた東芝の社内イベント。リスクの大きい米原発建設会社の買収に不信感を抱いていた大物OBは、当時東芝会長だった志賀重範を問いただすと、その答えに絶句した。
 話題に上ったのは、米子会社ウエスチングハウス(WH)が1512月に買収した原発建設会社だ。WHが米国で建設する原発4基は、設計変更などで膨れあがった総工費の負担を巡り電力会社や建設会社との訴訟合戦に発展していた。係争を収めて遅れを取り戻すには、建設会社ごと丸抱えして事業を主導するしかない。そう考えたWH首脳陣は無謀な賭けに出た。
 買収は異様な手順を踏んだ。対象は債務超過に苦しむ建設会社。かつて経営破綻した前科もある。それなのに意思決定に欠かせないリスク・資産査定は後回しだった。債務が膨らむリスクを無視したまま、買収額を0円(債務超過のためWHはのれん代105億円を計上)と算定した。
 東芝本体の経営会議は不都合な事実を見過ごし買収を承認した。「複雑な訴訟の解決には買収しかないとの説明だったが、他部門の役員はつっこみようがなかった」。ある幹部は当時を振り返り弁解する。
 志賀と会話を交わした1カ月後、OBの懸念は東芝の突然の発表で現実となる。「米原発事業で数千億円の損失を出す可能性がある」。工事の遅れなどで建設会社の負担額が急拡大。最終的に東芝の損失額は7千億円を超え、5500億円の債務超過に転落した。東芝140年の歴史で最大級の危機の始まりだった。
 東芝が海外の原発事業に進出したのは06年、6千億円を投じてWHを買収してからだ。「華々しくやりたい」。カリスマ経営者として君臨した社長、西田厚聡の肝煎りプロジェクトだった。
 当時は「原発ルネサンス」のさなかにあり、世界で原発建設に追い風が吹いていた。米ゼネラル・エレクトリックと並ぶ米名門企業のWHだ。入札には三菱重工業や日立製作所も参戦し、2千億円と見込んだ買収額はみるみるつり上がった。
 高騰する買収額に取締役会では異論もあがり、推進派だった原発担当副社長の庭野征夫も「2800億円を超えると投資回収できない」とブレーキをかけた。「何言ってるんだ。リスク背負わなきゃ、将来もないだろ」。西田は一蹴する。「佐々木の言うことが正しい」。強気の戦略に同調したのが、庭野の部下で常務の佐々木則夫だった。取締役らの懸念はかき消された。

原子力暴走(2)39基、張り子の受注計画 組織蝕む権力闘争
2018/1/11
 2009年秋、東芝のOBと現役幹部を集めた経営方針説明会。社長に就いたばかりの佐々木則夫のスピーチに会場は静まり返った。「今までの経営とは違う。初年度から黒字転換させる」。カリスマといわれた前任の西田厚聡を本人のいる前で否定して見せたのだ。
確執を隠して握手する(左から)西田会長、田中社長、佐々木副会長(肩書は2013年当時)
 西田時代に決断した6千億円の米ウエスチングハウス(WH)買収。買収額を当初の2倍超にした根拠が「15年までに33基」の受注計画だった。まとめたのは当時の原発担当常務の佐々木。二人三脚で買収を成功させた西田とは蜜月の関係のはずだった。だが「大将タイプで抑えがきかない」(OB)佐々木は社長就任後に手のひらを返し、独自路線を突き進む。
 象徴が原発事業だ。自らの成果を誇示しようと受注計画を39基に引き上げた。新興国の原発整備が進むとの読みだが、実際のWHの受注実績は現在8基にとどまる。周囲の見方も厳しかった。
 「米国の原発着工は鈍っているのに、なぜ東芝は受注計画を見直さないのか」。10年5月、佐々木は米国で株主に突き上げられた。東日本大震災の前から佐々木の皮算用は甘いと指摘されていた。自ら推進したWHで失敗を認めるわけにはいかず、強気を押し通した。
 自らの経営能力を示すには業績などの経営数値を見せるしかない。佐々木は西田時代に本格化した不正会計というウミを肥大化させたとの見方がある。「チャレンジ」と称して多くの部門に達成が簡単でない業績目標を課した。佐々木が部下を追い込む様子について、あるOBは「情け容赦なく怒る」と打ち明ける。東芝によると佐々木時代に不正にかさ上げした利益総額は2千億円超に膨らんだ。確執のひずみは会社を底なしの泥沼に引きずり込んだ。
 「もっと相手の立場に立って物事を考えろ」。現場の不満を聞いた西田は直接たしなめるが、佐々木は聞く耳を持たない。そこに事件が起きた。安倍政権が13年初めに設置した経済財政諮問会議の民間議員に、何の相談もなく佐々木が就任したことに西田は激怒。2人は修復不能となった。
 西田は13年、佐々木を副会長に押しやり、後任社長に田中久雄を指名する。田中は西田の下、わずか1年でのパソコン黒字化という奇跡を演出した男だ。第三者委員会の調査によると、製造委託先に部品を高く売りつける「バイセル取引」を利用した。西田は「協力者」を社長に指名したわけだ。自分に経営の主導権はなく、西田路線を踏襲せざるを得ないことは田中も承知の上だった。
 13年秋、田中は米国から液化天然ガス(LNG)を購入する契約を結んだ。火力発電の受注に役立つというのが表向きの理由。真の狙いは東芝が受注し破綻寸前だった米国の原発事業を下支えさせることだった。LNGを購入する見返りに、同原発の電力をLNG基地に販売する。だが原発建設は中止され、東芝にはLNG調達義務だけが残った。千億円単位の損失が発生しかねない負の遺産を田中は残した。
 ずさんなトップ人事――1710月、東芝は内部管理体制に関する報告書に、経営危機を招いた要因に人事問題があると明記した。東芝は指名委員会がありながら「実質的に前任社長らが後任を指名する状況」と指摘。暴走を止められぬ温床になったと反省した。
 東芝の首脳人事は権力闘争と引責辞任の連続だ。1960年代、石坂泰三と後任の岩下文雄が対立。80年代には佐波正一と渡里杉一郎が「ココム事件」で引責辞任した。西田の2代前の西室泰三は社長続投を4人の副社長に阻止された。
 トップの暗闘がウミを出す機会を逸し、さらに組織を蝕(むしば)んでいく。そんな負の循環を絶つ経営者はいなかった。
(敬称略)

原子力暴走(3)第三者調査、原発素通り
「臭いものに蓋」 組織にまん延
2018/1/12
 2016年2月、上場企業の審査を担う日本取引所自主規制法人は、企業が自社の不祥事に対応するための「原則(プリンシプル)」を公表した。そこに、こんな趣旨の一文がある。「第三者委員会の名前を掲げることで、不十分な調査に客観性や中立性を持たせてはならない」。関係者は明かす。「これは実は、東芝問題が念頭にある」
 15年4月に東芝の不正会計が発覚し、翌月にはパソコンやインフラ部門を中心に実態を調べる第三者委が立ち上がった。当時、苦境にあった子会社の米原子力大手ウエスチングハウス(WH)は不正会計とのつながりも連想されたが、調査対象から外された。
 「なぜWHを調査しないのか」。15年7月21日、第三者委が調査報告書を発表すると、多方面から疑問の声が噴出した。第三者委は「東芝に委嘱された調査を実施した」と繰り返すのみだった。
 「おわび申し上げる。今後も東芝を支援していただきたい」。同日、東芝社長の田中久雄は記者会見で頭を下げ、引責辞任した。関係者によると、田中は3カ月前、調査範囲の限定に向け委員会に働きかけるよう財務部の幹部らに指示した。「(全て調べられると)会社の体質、組織的な問題に発展してしまう」。こうクギを刺したという。
 田中の意をくんだ部下らの根回しが奏功したのか、調査対象はパソコンなどの分野に絞られた。東芝は後に発覚する巨額損失の芽を摘むどころか「隠蔽」の道を選んだ。
 WHは1213年度に合計で1100億円を超える減損損失を計上した。東証の適時開示対象にもかかわらず、東芝は連結決算には影響がないとして、この事実を1511月まで公表しなかった。
 ある東芝元首脳は06年のWH買収から始まった一連の海外原発事業の問題をこう振り返る。「臭いものに蓋。恥ずかしいけど、一事が万事、先送りの思考停止だった」
 田中に加え西田厚聡、佐々木則夫の歴代トップ3人が引責辞任した直後の15年8月。社外取締役だった国際大学学長の伊丹敬之は、東芝の社内報でこんなエールを送った。「上からの圧力でやらされた、不適切な仕事から解放されるだけでも、エネルギーが出て組織は変わるはずだ」
 しかし、原発問題の深刻さはトップが変わっても変わらなかった。巨額損失を生む米原発建設会社をWHが15年末に買収し、東芝の原発事業にとどめを刺した。3トップの辞任後に社長に就いた室町正志はこれを食い止められなかった。
 「社外取締役に十分な情報提供がなかった」「監査委員会は独立性に欠ける傾向があった」。東芝が1710月に発表した「内部管理体制の改善報告」を見ると、暴走を止めるチェック機能が働かなかったことがわかる。
 ある元社外取締役は振り返る。取締役会で米原発事業の質問をすると、執行側は「メンテナンスで稼いでいるし、うまくいっている」と回答し続けた。だが東芝は16年3月期にWH関連で2600億円の減損を実施。「結局、誰も本当の事を言っていなかったということだ」と吐き捨てる。
 チェック機能の不全は現場も同じだ。「内部通報制度はあるが人事に筒抜けと聞き、使えなかった」。ある社員はこぼす。米原発の減損先送りや不正会計などに直面してきた現場にはあきらめにも似た閉塞感が広がった。そのひずみは深刻だ。再建に一歩を踏み出した今も2030代の若い社員の退職が後を絶たない。
 長年かけて東芝に根付いた物言えぬ風土。それが経営の暴走を助長し、隠蔽体質を醸成した。東芝が危機に陥るのは必然だった。
(敬称略)

原子力暴走(4)「忖度、集団隠蔽の空気」 弁護士 国広正氏 名ばかり統治、外部の目こそ
2018/1/13
 不正会計に続く原子力事業の暴走で深刻な業績悪化に直面した東芝。トップの暗闘やチェック機能の不在などが重なり、名門を会社解体の危機に追い込んだ。問題の本質は何か。企業コンプライアンス(法令順守)の専門家で、第三者委員会を格付けする団体幹部として東芝の調査報告書に最低評価を下した弁護士の国広正氏に聞いた。
 ――企業統治の先進企業とされた東芝ですが不正会計など多くの問題を起こしました。
 「企業統治の形だけを整えていたが中身は伴っていなかったからだ。監査委員会委員5人のうち3人が外部人材だったが、東芝にとって不都合な情報は全く入ってこなかった。空気を読まず社内の同質性を崩すのが、社外取締役や委員の役割。でも正確な情報が届かないと機能できない」
 「東芝の不正会計を調べた第三者委員会の報告書は企業統治改革に関して不十分だった。社外取締役に会計の専門家を入れるべきだと指摘しているが、形を整えるだけでは意味がない。最高財務責任者(CFO)には数字の議論でかなわないからだ。それよりもフットワークが軽く、貪欲に社内情報を取りに行く人物が就くべきだ」
 ――経営危機は防げなかったのでしょうか。
 「東芝が不正会計に走った動機は原子力事業にあった。第三者委の報告書では利益至上主義が原因と触れるにとどまった。どうして利益至上主義に陥ったのかという真の動機に触れなかった結果、その後、ウエスチングハウス(WH)の原発建設会社買収という不透明な意思決定につながった。当時、原子力の実態を白日の下にさらしていれば、市場の信頼を損ねる致命傷は避けられただろう。第三者委の調査は最後のチャンスだった」
 「報告書では冒頭、『東芝のためだけに作成され、第三者に依拠されることを予定せず、責任も負わない』と書かれていた。東芝から言われたことだけを調査対象にすると宣言しており、委員会は中立公正な存在ではなかった。一番怪しいと思われていたWHの問題にまったく触れず、歴代3社長の責任だけに矮小(わいしょう)化した」
 ――なぜ原子力が問題との声が社内から上がらなかったのでしょう。
 「トップの号令一下で隠蔽を指示したわけではない。東芝には明確な命令がなくても下が忖度(そんたく)して動く空気があった。日本型不祥事の典型だ。私が第三者委の委員を務めた商工中金でも発覚1年前に本社が不正を把握したが、集団的に隠蔽に動いた事実があった。刑法上の故意は認められないが、現場発生的な動きを黙認したトップの責任は重い」
 ――他の企業でも不祥事が相次いでいます。
 「日本企業は大なり小なり東芝的な要素を内包している。東芝が他社よりもその要素が大きくなったのは、日本を代表する重電メーカーという名門意識が強かったからだ。不正会計の問題発覚前にも危機感を持ち、変革するチャンスはいくつもあった。1987年の東芝機械ココム事件、95年の下水道事業団談合事件など10年ごとに大きな不祥事を起こした。だが致命傷にはならず、何が起きても何とかなるという根拠なき楽観が根付いたのだろう」
 ――東芝は生まれ変われますか。
 「このままでは死んでしまうとの覚悟をトップが示し、社内の空気をがらっと変えないとダメだ。ボトムアップでは変わらない。今は経営に明確なビジョンがなく、生き延びることだけが目的になっているように感じる。外部から大胆な決断を下せるトップを招き入れるのも一つのやり方だろう」
(東芝問題取材班)
=この項おわり
 くにひろ・ただし 1980年東大法卒、86年弁護士登録。94年現在の国広総合法律事務所を開設。法令順守や企業統治が専門。



不正の温床()「社長お預け」から始まった
成果に焦り 利益かさ上げ
2018/2/27付 日本経済新聞
 1965年以来、半世紀ぶりに外部トップに再建を託すことになった東芝。かつて日本の財界をも背負った名門企業はなぜ道を踏み誤ってしまったのか。最大の綻びは2015年4月に発覚した会計不祥事だ。その奥底には過剰な名門意識や物言えぬ企業風土など根深い問題が広がっていた。第2部は「不正の温床」に迫る。
 「成果を出してから社長になれ」。2003年末。東芝会長だった西室泰三が、専務の西田厚聡にかけた言葉を元東芝首脳は鮮明に覚えている。「社長になれなければ辞める」と常々言ってきたという西田。必ず結果を出すと西室に誓わざるを得なかった。
 当時、西田は社長の岡村正の後継候補の筆頭だった。西室は指名委員会の委員長を兼ねる最高実力者。岡村の任期を考えると04年春の社長交代が順当だった。だが、業績不振のパソコン(PC)部門などデジタル製品全般の責任者だった西田の昇格には「赤字部門から社長は出せない」と異論も出ていた。
 15年に発覚した東芝の会計不祥事。第三者委員会が300ページに及ぶ調査報告書をまとめ、全容は解明したかにみえたが、大きな謎も残った。不正はいつ始まったのか。報告書には今も関係者の間で物議を醸す文言がある。「バイセル取引は04年から始まった」。悪用すれば不正会計の手口となる、PCなどの生産委託先との取引手法だ。
 03年当時、東芝のPC部門は危機に直面していた。米コンパック(当時)を吸収した米HPが攻勢を強め、世界的な安値競争へ発展。東芝の同部門も、03年度は約480億円の営業赤字に沈んだ。
 西田は「社長お預け」となったうえに厳しい立場にあった。専務のままPCだけを担当する「降格人事」となったのだ。手塩にかけて育てたPC事業の立て直しが社長昇格の条件だ。逆襲の材料にしたのが海外の安い生産委託先のフル活用だった。
 「1割に満たなかった外注比率はわずか数年で8割超に達した」(元東芝幹部)。単純な外注ではなく、西田は液晶や半導体などの部品を生産委託先にいったん売却し、後に完成品として買い取る「バイセル取引」を活用した。大量生産とスピードに適した仕組みだ。
 驚異的な回復だった。西田は目標を3カ月前倒しで達成し、PC事業は04年4~12月期に黒字転換する。「強力な指導力と実行力を備えた西田君を推薦します」。社長の岡村が指名委に報告すると、05年6月に西田は念願の社長の座を手に入れた。
 「バイセル取引」自体は違法ではない。当時、ほかのメーカーも慣例的に手掛けていた。だが、価格設定や売上高の計上時期に裁量の余地があるため、悪用すれば巨額不正も可能だった。
 「バイセルは麻薬のようなものだった」。東芝幹部は打ち明ける。目先の決算を良く見せるため、翌期分以降の部品を前倒しで高く売り付けて利益をかさ上げする手口を東芝は使ったとされる。
 しかも東芝のバイセル取引は規模が違った。0810月の社長月例会議。当時の部門長はこう報告している。「バイセル(による水増し)効果は営業利益で173億円。これを除いた実力は64億円です」。生産委託先への部品の販売価格は、仕入れ値の8倍に膨らむこともあったという。
 第三者委員会による調査の結果、テレビ事業やインフラ事業でも不正会計が判明。東芝全体で08年度から7年間で2200億円強の利益を水増ししたことが確認された。
 西田が主導した「04年の奇跡」に不正取引があったとは認定されていない。第三者委が「不正は08年度から」としたのも、金融商品取引法上の時効があるためとの見方がある。ただ多くの関係者の間で一致する見方がある。「04年に西田さんの社長お預けがなければ、その後の不正もなかっただろう」。同時代を過ごした元役員は振り返る。
組織を重視、異論は封殺
 東芝は伝統的に社内人脈の会社だ。東大理系卒、重電畑が長く主流派を占めてきた中で、私大文系卒、海外事務系の西室と西田は異端だった。2人には敵も多かった。「西田さんは実績で実力を証明するしかなく、重圧は大きかったはずだ」。元幹部は証言する。
 「社長になるまでPC事業のバイセル取引の仕組みなど知らなかった」。西田の後を継ぎ、新社長に就いた佐々木則夫はこう繰り返す。
 西田時代最後となる09年3月期、東芝は7期ぶりの営業赤字に転落した。PC部門がバイセル取引で0912月末までに同部門の利益額を400億円超水増ししていたにもかかわらずだ。半導体への巨額投資も財務を圧迫、原子力畑の佐々木には西田の失政と映った。
 「バイセルの仕組みは、どこかで見直す必要がある」。0910月、社長月例会議。佐々木自らバイセル取引に警鐘を鳴らす場面もあった。だが連結業績の低迷が続く中だ。佐々木は「今はやむを得ない」と考えたもようで、四半期業績が落ち込みそうなときはむしろ利益水増しを加速するよう会議をリードした。第三者委員会はこう描写する。
 15年1月、社内の法令順守を取り仕切る監査委員会のメンバーで取締役だった島岡聖也は監査委に申し出た。「バイセル取引の話をするとみんな話題を変える。実態を調査すべきです」。だが指摘は生かされなかった。「不適切な会計処理はありません」「事を荒立てると決算が間に合わず、最悪の事態になります」。同報告書によると、当時の最高財務責任者(CFO)だった前田恵造らが島岡をこう説き伏せたという。
 会社を重視し、組織と違う個別の異論や反論は封殺する。島岡も問題提起はしたが「当局の調査が入るとわかった後の指摘だったうえに、疑義を社内の人間にしか知らせなかった」(関係者)。社外取は蚊帳の外に置かれ、不正が明るみに出るまで実態が社外に漏れ出ることはなかった。
 「東芝の組織風土改革に魂を入れる」。半世紀ぶりの外部トップとして東芝を率いる、元三井住友銀行副頭取の車谷暢昭は2月14日の会見で強調した。50年前に東芝を立て直した土光敏夫は在任7年間、それでも最後まで「東芝の病根は深い」と悩み続けたという。その時と同じ重圧が車谷にのしかかる。
(敬称略)

不正の温床(2)そしてイエスマンだけに 報復人事恐れ感覚マヒ
2018/2/28
 「君にはグループ会社に行ってもらう」。2012年。東芝社長だった佐々木則夫は一人の執行役を本社38階の社長室に呼び出し、こう言い渡した。事情を知る関係者は話す。「執行役の経歴と無縁の業種への転籍。本人は青天のへきれきだったはずだ」
 「もっと縮められるだろう、この赤字は」
 「いえ、期末まで残り3カ月しかない。できないものはできません」
 10年冬。足元の業績改善を命じる佐々木に執行役は抵抗した。構造改革で損失を出し切り翌期にV字回復すべきとの主張を曲げなかったという。
 佐々木は折れた。だが、執行役は担当を外されグループ会社へ。報復人事――。真偽は不明だが周囲はそう噂した。事業部は翌期に黒字転換したものの、執行役はもう本社にいなかった。
 08年度から7年間続いたとされる不正会計。損失の先送りや利益水増しに疑問を感じた幹部もいた。だが、反論は許されなかった。多くの幹部は抵抗もできずに不正を胸にしまいこんだ。
 1212月。財務部門トップの久保誠は、不正のウミを一掃するための「裏中計」を佐々木に提案した。正規の中期経営計画と異なる秘密裏の計画には、パソコンやテレビ事業で累積した利益のかさ上げ分を損失処理し、事業リストラも進める抜本策がまとめられていた。だが、内容を見た佐々木は「破滅主義。大学教授の理屈だ」と一蹴。正常化への願いは打ち消された。結局、久保は15年7月に引責辞任した。
 会社のため、事業部のため――。経営陣の「お墨付き」で利益かさ上げや損失先送りがはびこるなか、社員たちの感覚は麻痺(まひ)した。
 08年春。火力プラント事業部担当者らは売上金額を根拠無く水増しし、見せかけの利益を捻出した。第三者委員会の報告書によると、カンパニー長だった北村秀夫の言葉が重圧になった。「電力部門が今期に結果を出すにはこの案件しかない。何とかしてくれ」
 ある発電所案件の担当者は工事費用が膨らんだため損失引当金を計上すべきだと考えたが、上司の意向をそんたくし、計上の申請を先送りした。別案件で損失計上が認められなかったのを横目で見ていたためと同報告書は推察している。
 トップ主導による過度な利益至上主義ともの言えぬ企業風土は、事業部門から管理部門まで組織に浸透していった。ある中堅社員は佐々木が財務部門にリスクをとれと繰り返し命じたことが忘れられない。「やっぱりおかしかったんだと思えたのは不正会計が明るみに出た後だ」と振り返る。
 十数年前に現役を引退した東芝OBは「東芝はかつて自由闊達で議論できる雰囲気があったのだが」と驚きを隠さない。
 佐々木時代の空気を物語るのが社員向け冊子だ。「佐々木さん語録誕生秘話」。社長の佐々木が発した「自ら生まれ変わっていくしかない」などのコメントの背景を詳しく紹介した。「社長を褒めそやし、よいしょする社員ばかりだった」。ある東芝幹部は振り返る。

 トップが組織をゆがませたのか、組織がトップをゆがませたのか。「副社長にならなければ、こんなことにならなかった」。引責辞任し仕事を失った元副社長は今、東芝OBたちとの集まりでこうこぼすという。インフラ部門の元首脳も肩を落とす。「不正の認識はなかった。だが、結果的に部下を追い詰めてしまった」。不正にかかわった現役社員たちは今でも、当時のことを思い出すと目を伏せ、口を閉ざす。
(敬称略)

不正の温床(3)日立超え・財界総理 渇望 歴代社長、功名争い
2018/3/1
 東芝のある中堅幹部は東京・浜松町の本社を覆った十数年前の熱気を覚えている。「株価で勝つ。業績も抜こう」。2005年に社長に就いた西田厚聡は日立製作所を「ベンチマーク」とし、ことあるごとに発破をかけた。日立を仰ぎ見る重電2位の立場に甘んじてきた東芝。トップが抱く業界盟主への渇望が組織へと急速に広がった。
 「俺が社長になって、海外投資家の目を日立から奪ってやった」。やがて西田は周囲に豪語するようになる。次世代DVD開発の撤退、半導体メモリーと原発の巨額投資というメリハリの利いた戦略は確かに投資家の関心を引いた。日立の後じんを拝し続けた時価総額は06年夏に逆転。営業利益も日立を上回った。
 強い競争意識。成長こそ経営の根幹という信念。イラン現地法人から31歳で東芝に入社した異端の西田がトップに登り詰めた原動力だ。だが、08年の金融危機を機に、西田の経営スタイルと厳しい市場環境との間にズレが生じる。社長として最後の08年度に3400億円超の最終赤字に陥り、自己資本比率は7.1%に沈んだ。この年に不正会計は始まった。
 「社長のなかには強烈な競争心を持っている者が複数いた」「歴代社長にライバル意識を持ち、社内外の評価に強く執着した」。東芝は16年3月にまとめた改善計画・状況報告書で、達成困難な損益改善を現場に求め続けたトップの心理的背景をこう分析した。目標必達を強く迫り、現場を不正に追いやったケースは数多く見られたという。
 自己顕示欲の強さは西田の後任社長の佐々木則夫も負けていない。
 「歴代社長の業績ランキング」。佐々木が財務部につくらせたものだ。売上高や営業利益など表には歴代トップの成績が並ぶ。だが、事情を知る元東芝幹部はあきれ顔で言う。「自分が前任者より優れていると示すための資料だった。『西田時代』を下回る数値があると、為替レートを変えて勝っているように作り直させていた」
 西田は社長に引き上げた佐々木の尻をたたき続けた。「成長がない。売り上げを伸ばせ」。佐々木は1年もたたず西田を敵視するようになったという。西田への対抗意識が業績数値へのこだわりを生み、現場への無理強いにつながったとみる幹部は多い。
 いったん広がったゆがみはもはや修正が効かなかった。13年秋、パソコン事業の不正につながった「バイセル取引」を縮小する「プロジェクト・ルビコン」がひそかに立ち上がった。だが、これを承認した社長の田中久雄は、舌の根の乾かぬうちに財務部幹部にささやいたという。「少しでいい。パソコンのバイセルを増やせないか。そこで出た利益でテレビの赤字を埋めたい」
 東芝をゆがめたもう一つの要因が、財界総理の座を狙う経営トップの名誉欲だ。「西田さんが経団連会長を意識していたのは間違いない」。多くの東芝関係者が今も口をそろえる。
 戦後の混乱期に倒産の危機にあった東芝を救った石坂泰三、そして、1960年代に東芝を再建した土光敏夫。東芝は2人の経団連会長を輩出した歴史を持つ。本来は実績を積んだ経営者が「結果」として得る地位。それが「目標」になったとき、東芝は身の丈を超えた経営を加速させた。
 「トップも組織もプライドだけ高くなった。トップは財界代表を目指し、『自分の代で赤字を出したくない』との意識を持ってしまった」。ある東芝幹部は反省する。
 財界総理、そして日立超え。名門復権への執着が行き過ぎた当期利益至上主義を生み、不正会計の一因となった。歴代社長同士のライバル意識もこれに輪をかけた。虚飾の構図は約10年にわたり隠し通された。
(敬称略)


不正の温床(4)あらゆる手で黒字に固執 監査法人、機能せず
2018/3/2付 日本経済新聞
 「テレビ事業の借金(利益のかさ上げ額)は84億円。特損で落とせれば非常に助かる」。2013年8月、東芝のテレビ事業部長から企画部担当者に連絡が入った。「会計士が納得するストーリーが必要だ。何ができるのか検討してください」。後に不正の証拠として追及される密謀だった。
 東芝の会計問題の真相究明を目指した第三者委員会。15年7月に公表した調査報告書は、テレビ事業部で「キャリーオーバー」と呼ぶ経費計上の先送りなどが常態化していたと断じた。「実態をうかがわせる情報を開示せず、会計監査人に分からないよう説明内容を工夫していた」
 監査法人は上場企業の財務諸表の信頼性を保証する「市場の番人」だ。しかも東芝を担当したのは「4大法人」の一角を占める新日本監査法人だった。なぜ東芝の不正を見抜けなかったのか。
 買収に6千億円を投じた米原子力子会社ウエスチングハウス(WH)。14年初め、東日本大震災などで苦境に陥ったWHは、減損を計上する考えを東芝に伝えてきた。しかし、東芝は減損を回避させるため工事費用の見積額を引き下げるようWHに指示したとされる。
 「コンサルの情報では、東芝が圧力をかけてくるとWHが言っているそうだ」「その事実が監査法人に伝わった瞬間にアウトになる」。14年3月、電力事業部の幹部陣に一斉メールが送られ、緊張が走った。監査法人は気づいているのか。本当に減損は必要なのか。東芝は外部のコンサルに調査を依頼し、監査法人の目をかいくぐろうとしていた。
 上場企業の損益や資産内容は監査法人が厳しく精査するのが通例だ。だが東芝は手を替え品を替え、監査をすり抜け、市場を欺き続けた。動機は単純だ。株価を意識する歴代トップが右肩上がりの成長に固執。高い目標を「チャレンジ」と称して現場に迫ったからだ。
 「(社長の私が)下期は黒字にすると公に宣言した」「公約なので、ありとあらゆる手段を使って黒字化するように」
 第三者委の報告書は、各事業部の幹部が集まる社長月例会議の様子を描いている。13年8月以降、社長の田中久雄は毎月のように不振のテレビ事業部を強い調子で非難し続けた。
 東芝が14年度までの7年間に水増しした利益総額は2248億円に及ぶ。「異様な規模の不正だ。一部の幹部だけでなく、実際の関与者は相当数いたはずだ」。証券取引等監視委員会委員の浜田康は指摘する。
 13年秋。パソコン部門が悪用した「バイセル取引」を解消しようと、社内調査を進めた元幹部は絶句した。新日本には事業の実績データが毎月渡っていたが、チェック機能が働いた形跡はない。「期末の利益が多いのは慣例のコスト削減の成果です」「今期は数字が大きいですが、そんなものですか」。こうした緩いやり取りが両社の間で続いたという。
 見えてきたのは監査法人の限界だ。監査法人にとって東芝は年間10億円超の監査手数料を得られる最重要顧客だ。東芝の立場は強くなりやすい。「なぜ必要なのか」。監査法人が詳細な会計情報を求めても、窓口の東芝担当者から逆に問い詰められることも多かったという。数十人規模で送り込まれた会計のプロも目が曇った。
 1710月、東京証券取引所は東芝について、内部管理体制に問題がある「特設注意市場銘柄」の指定を解除すると発表した。ただ、審査した自主規制法人理事長の佐藤隆文は「(東芝の)内部管理体制は上場企業として最低限の水準となったにすぎない」とクギを刺した。市場を欺き続けたツケは重く、失った信頼は容易に取り戻せない。
(敬称略、東芝問題取材班)


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