本当は怖ろしい万葉集 完結編  小林惠子  2012.12.26.

2012.12.26.  本当は怖ろしい万葉集 完結編 大伴家持の暗号
編纂者が告発する大和朝廷の真相

著者 小林惠子 1936年生まれ。岡山大法文学部文学科東洋史専攻卒。独自の史観に基づき、日本古代史に新たな光を当て続ける

発行日           2003.11.5. 初版第1刷発行
発行所           祥伝社

歌人・家持は、政権の中枢に座る官僚でもあった
l  歴代天皇に仕えた大伴一族の謎
l  女帝・元正天皇を襲った「凶事」とは
l  家持は反乱者・藤原広嗣の身を案じる歌を詠んでいた
l  誰が聖武天皇の王子・安積(あさか)親王を殺したのか
l  日本に上陸した安禄山の武装勢力と戦った家持
l  大伴氏存亡の危機を招いた「奈良麻呂の変」の一部始終

大伴家持は、額田女王や柿本人麻呂と並んで『万葉集』を代表する歌人
両者とは2世代くらい後、直接編纂に係わり、歌人としての評価は両者に及ばないが、歌の多さでは人麻呂に匹敵、1720巻は殆ど家持の歌
聖武天皇の臣として官職につき、政治の中枢にあり、奈良時代の幾多の政変に直接係ったがゆえに、正史『続日本紀』では記録し得ない真相を、『万葉集』に託して秘かに後世に伝える目的を持っていたと確信する

序章
大伴氏が最初に『書記』に出てくるのは5世紀允恭(いんぎょう、新羅王と倭王を兼任)天皇の時の室屋(むろや)が初代、韓三国、特に新羅との関係が深い。4代目が長徳(馬養:うまかい)で孝徳天皇の右大臣まで行くが、藤原氏の台頭で、5代目・安麻呂は遠ざけられる。その子・旅人は中納言どまり。その子が家持で、天皇の側用人から身を興した
大和朝廷が藤原氏によって仕切られ、律令制が敷かれたが、唐国も当時最盛期にあり、極東を支配下に置くことに野望を持っていて、日本への介入が日本国内のナショナリズムを掻き立て、正史『日本書紀』が完成して、天皇は神の後裔であるという現人神観念が定着、万世一系の思想が成立したのはこの頃
旅人が仕えたのは、高市皇子の息子・長屋王が擁立した元正天皇
唐に対抗して勢力を広げていた渤海が、唐に戦いを挑んだ文武天皇の子を日本国王として送りこもうとした時、それに乗ったのが藤原不比等の息子・宇合であり娘の光明子
長屋王は、藤原氏の懐柔策として、元正を引退させ、光明子の夫だった聖武天皇を擁立したが、新羅との親密関係を維持したため、藤原氏は渤海を頼って、天武皇子の舎人親王と共に聖武天皇を暗殺し、文武の子である新聖武を即位させる
この政争の間、旅人は『万葉集』では太宰帥だったとあるが、『続日本紀』では大陸との交渉の窓口として重要な役職でありながら当時の帥が誰か全く触れられていないのは謎

第1部        大伴旅人の謎
第1章        政争に巻き込まれた山上憶良
山上憶良 ⇒ 白村江の戦(663)のころの百済の亡命者で兵法家だった人の息子。歌人・官僚。安麻呂に引き揚げられ、旅人と同世代に柿本人麻呂に代わって活躍。聖武天皇の侍従となる
(しろがね)も金(くがね)も玉も何せむに勝れる宝子に及()かめやも

第2章        皇位継承をめぐる長屋王の画策
長屋王が擁立した元正天皇のもとで武力を担ったのが旅人

第3章        元正女帝の死
聖武天皇の即位で邪魔になった元正上皇は、吉野に追われて殺される ⇒ いつ詠まれたか不明の山部赤人の歌に、殺害を匂わせるものがある
天武系の男王の即位を認めない唐国の手前、元正天皇の死は対外秘とされ、748年聖武天皇の子の女帝・孝謙天皇即位まで伏せられた

第4章        長屋王一族の滅亡
渤海が日本に迫るのを見て、長屋王は旅人に九州の防備へと向かわせる ⇒ 『続日本紀』に記載がないのは長屋王の個人的命令だったから?
729年 渤海は東北から日本に侵入し、舎人親王や宇合らと結託して長屋王を滅ぼし、聖武天皇の異母弟を擁立して元号も天平と改める

第5章        旅人を待ち受けていた運命
旅人は、太宰で長屋王の死を知り帰京するが、官職には就けないまま731年歿 ⇒ 旅人に脅威を感じた天平聖武朝によって暗殺。憶良も旅人を追い帰京するが旅人亡き後は不遇

第2部        「藤原広嗣の乱」と大伴家持
第1章     家持を支えた女性
安麻呂の娘・大伴坂上郎女(いらつめ)は旅人の異母姉弟(兄妹)で、旅人の死によって大伴本宗家が没落の危機に瀕した時、甥の家持が成長するまで聖武天皇に取り入って(聖武天皇との関係を匂わせる歌がいくつも残されている)本家を維持。家持にとっては恩人というべき人
家持(718785)の『万葉集』に見える最初の歌は、736年の天智系の復活を暗示したもので、その2年後大和朝廷に仕える

第2章     家持の処世訓
奈良麻呂の変(757) ⇒ 黄文王(きぶみおう、長屋王と不比等の娘との間の子)が、橘奈良麻呂(諸兄の子)に担がれて帝位を狙ったが殺された事件の伏線は738年にあった
長屋王の子の反乱だが、家持は静観

第3章     藤原広嗣、武装蜂起の顚末
光明子の娘である阿倍内親王(後の孝謙天皇)の立体子で、息子安積親王の即位が絶望的になった聖武天皇は、宇合の死後その息子・広嗣を引き上げ、740年には九州で挙兵して平城京に攻め上るべく個人的に指示したが、挙兵もしないうちに追討され、聖武天皇は諸国を放浪、家持は側近(安積親王の内舎人)として随行

第3部        変死した親王
第1章        「唯一の男児」の生い立ち
743年 聖武天皇が光明子の野望を押さえて安積親王を即位させるが、親王は翌年急逝

第2章        唐国からの外圧
天平聖武を唐が認めないため、光明子ら藤原一族は、長屋王の弟の鈴鹿王を引き立て、女帝の阿倍内親王の立太子を画策して唐との和解を進める

第3章        誰が親王を殺めたのか
『続日本紀』によれば、「新羅使者」が関与した可能性が強い ⇒ 元正天皇即位に反対していた志貴皇子(天武天皇の息子)の息子・白壁王が亡命先の百済から戻り、鈴鹿王と内通して親王殺害に関与。孝謙天皇が没して、藤原仲麻呂が死んだ後の770年に光仁天皇として即位

第4章        家持、親王への挽歌を読む
安積親王の死に当たって家持が挽歌を詠む ⇒ 白壁王と橘諸兄の暗殺関与を仄めかす
主人を殺害された家持は、諸兄を恨むが、逆に重用され、光仁朝になっても順調に出世を遂げる

第4部        「安禄山の乱」と大和朝廷の攻防
第1章        迫り来る軍勢
755年 安禄山の乱により、盛唐時代が終わる ⇒ 渤海に代わって北部で兵力を蓄え、唐に改革を迫ると同時に、日本も窺う

第2章        家持は、なぜ北陸へ向かったか
安禄山の日本侵攻の情報に際し、家持は越中守として赴任 ⇒ 746年 防戦の中で家持が瀕死の重傷、和議に持ち込む。藤原仲麻呂が安禄山と結託、一大勢力に

第3章        聖武朝の終焉
藤原一族の隆盛とともに、聖武天皇が退位を決意、阿倍内親王の即位を決断 ⇒ 聖武天皇悲願の東大寺建立に貢献した行基の死で出家を決断、薬師寺に籠る(幽閉?)

第5部        大伴宗主としての家持
第1章        大伴一族内で起きていた対立
聖武天皇を守ろうとする家持に対し、黄文王を擁立しようとする奈良麻呂一派に加担する大伴池主(大伴系図には見えない人物)との間に一族内対立 ⇒ 大伴一族の大勢は池主支持だったが、家持はあくまで聖武天皇支持を崩さず

第2章        動乱する東アジア
唐朝は、鑑真を通じて黄文王の親である天智系長屋王に肩入れしていたので、孝謙天皇の即位を認めず、遣唐使も拒否される
754年 鑑真来日 ⇒ 仏教布教以外にも天智系の復活の画策という目的があった
755年 安禄山の乱勃発で唐の圧力消滅。2年後息子によって殺害

第3章        「奈良麻呂の変」がもたらしたもの
奈良麻呂の変で、家持は大伴一族の宗主としての責任を問われたものの、隠忍自重が奏功して因幡守となって平城京を離れる ⇒ 任地にあって、聖武天皇の命によって発案され、未完成のままになっていた『万葉集』の編纂に没頭
因幡守在任中の764年、藤原仲麻呂が殺され藤原一族が滅亡したが、家持がこの内乱に巻き込まれた様子はなく、その後の光仁朝、更にその後の桓武朝にも仕えた

何代もの別系統の天皇に仕えた家持の歌を見ていくと、天皇個人よりも日本国の独立と安泰を守ることに執念を燃やすという一貫した姿勢が浮かび上がる
奈良時代は、唐が全盛で、大和朝廷は言うに及ばず日本国の存亡すらまだ流動的だったところから、日本国民への精神的支柱として、神代の時代から存続するという啓蒙書としての『日本書紀』が必要だった
『万葉集』の編纂が家持によってなされただけに、安麻呂・旅人・家持と続く大伴家3代の個人史という側面があるが、それ以上に正史『続日本紀』が記録し得ない、大和朝廷の真相を告発した日本国草創期の一大叙事詩である





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