本当は怖ろしい万葉集②  小林惠子  2012.12.22.


2012.12.22.  本当は怖ろしい万葉集② 西域(シルクロード)から来た皇女

著者 小林惠子 1936年生まれ。岡山大法文学部文学科東洋史専攻卒。独自の史観に基づき、日本古代史に新たな光を当て続ける

発行日           2003.10.10. 初版第1刷発行
発行所           祥伝社

万葉集は、660年の百済滅亡に際し、半島から大量に政治亡命者が渡来した天智・天武朝時代から、聖武天皇の死までの約100年間にわたる為政者の政治的興亡の記録としての性格が大きい。そのため、桓武朝に移行する時期、禁書として抹殺された時期がある

大津皇子と父・天武天皇との確執。その鍵を握る大津妃・山辺皇女とは何者だったのか。そして繰り返される皇子たちの凄惨な権力闘争とは。―――壬申の乱から持統、文武朝を経て聖武朝に至る、『万葉集』のクライマックスを解読する

l  大津皇子は天皇として即位していた
l  死に際して残した歌には「3つの意味」が隠されている
l  なぜ万葉集にペルシア語がつかわれたのか
l  草壁、高市、弓削、志貴…・皇子たちは全て暗殺された
l  大津を裏切った男、大伴安麻呂が自責の念を吐露した歌とは
l  「長屋王の変」までの大異変――聖武天皇はすり替えられていた


第1部        大津皇子 処刑の真相
第1章        臨死の歌
大津皇子は、大海人皇子と中大兄皇子の娘大田皇女との間の子
大海人皇子と中大兄皇子は、唐に滅ぼされた百済再興のために共闘していたが、白村江の戦いで唐に敗れてからは、倭国内でのお互いの権力争いとなる ⇒ 天智天皇の息子大友皇子の近江朝に対し大海人皇子が謀反を起こして天下を取ったのが672年の壬申の乱
天武天皇として即位した大海人皇子は、皇位継承順を①草壁皇子(大津より5つ年下)、②大津皇子、③高市皇子とした
『書記』では、天武天皇が生存していながら、先ず大津皇子が、次いで草壁皇子とその母・鵜野皇女が実権を握ったような記述になっている ⇒ 実際は天武天皇が死んで、3皇子による権力闘争が繰り広げられていた可能性が強く、大津皇子が処刑されたのも、次の天皇が即位したために謀反の罪で殺されたため、即位していた事実も史上から抹殺された

第2章        西域から来た皇女
686年 大津皇子の処刑に際し、山辺皇女が殉死 ⇒ 当時は異例であり、特別な事情があったはず。『書記』の記述が後漢末期殺された皇后の記述そのままであること、さらにその語源が『西域記』(玄奘三蔵著)だとの説もあるところから、山辺皇女はガンダーラ辺りの西域から来たのではないかと推測される
山辺皇女は、天智天皇と、大化の改新で滅んだ蘇我氏の傍系で天智天皇の腹心蘇我赤兄(あかえ)の娘との間に生まれたとされ、大津皇子とは大津京で育った幼馴染の可能性が高い
この頃火葬が行われたことを示す記述がみられるのは、ササン朝ペルシアの国教だったゾロアスター教が伝来した可能性がある ⇒ 『続日本紀』にも736年ペルシア人が唐国の臣下となって日本に渡来したとの記述あり。8世紀創立の東大寺の「お水取り」も一例
ペルシア王の冠と聖徳太子の冠が酷似
『書紀』に斉明天皇(天智天皇の母で聖徳太子の娘と思われる)657年、ペルシア王朝の一族が漂着し、大和朝廷に厚遇されたとの記述あり。女子供を残して皇子だけが唐に向かう。残された娘が山辺皇女

第3章        天武天皇と大津皇子の確執
大津皇子が天武天皇に対して謀反を企てた理由の1つが山辺皇女であり、唆したのは大伴安麻呂 ⇒ 両者の関係は壬申の乱に始まる。父・天武天皇に想いを寄せる山辺皇女を取られた大津皇子が、近江朝の重臣だった安麻呂に皇女救出を依頼
『書記』682年に「虹が日を貫く」という表現で反天武派のクーデターの成功と天武の死を暗示

第4章        大津朝の挽歌
682年 大津皇子即位と推測。難波宮を建て移り住む
685年 大津皇子の急進的な改革に対し全国的に反乱が勃発
686年 大津皇子が謀反のかどで処刑され大津朝が崩壊し、山辺皇女は伊勢に追放、その後の行方は不明、大津皇子と同じ池で投身自殺したと推測される ⇒ 草壁皇子の即位だったが、天武天皇の息子ゆえに唐国の承認が得られず
690年 高市皇子即位 ⇒ 天智天皇が亡命中の済州島で生まれ、成人してから倭国に来たので傍流

第2部        暗闘する皇子たち
第1章        天武朝と天智朝、末裔たちの運命
696年 高市皇子死去、持統朝終焉

第2章        万葉歌が暗示する「皇子殺害」
『書記』696年には、高市皇子の死の直前日蝕があったとのみ
高市皇子の挽歌の直前の『万葉集』の歌に、新羅から来た文武天皇(軽皇子、新羅文武王)と草壁皇子の母鵜野皇女が皇子を暗殺したことを示唆したものがある ⇒ 本来であれば高市皇子の長子・長屋王が即位するところだった

第3章        文武天皇はなぜ日本を去ったのか
高市皇子の忠臣だった柿本人麻呂は、身の存続を天武天皇の皇子たちに期待したが、文武朝となって地方に追放され、元明朝になって殺されたとみられる
705年 唐国で平和主義者の則天武后に代わって中宗が復帰すると、文武朝は唐国から否認され、文武天皇は突厥と共闘して唐に対抗するため日本を去る
707年 元明天皇即位 ⇒ 文武の去った後、唐に忠誠を示すため不比等らが中心となって天智天皇の娘で草壁皇子の妃(阿倍皇女)を妥協の産物として即位させた。奈良時代の女帝の始まり。次も元明と草壁の間の娘・氷高内親王が元正天皇として即位

第3部        万葉集の底に流れる怨念
第1章        女帝誕生
715年 元明天皇が元正天皇に譲位 ⇒ 後ろ盾だった大伴安麻呂の前年の死も影響
『万葉集』には(太宰)帥・大伴卿とする歌が18首あり、共に帥だった大伴安麻呂・旅人父子のいずれか定かでない ⇒ 旅人の歌には年代の確認できるものが多い? 安麻呂は、大津朝成立に生涯をかけながら、結果としては大津皇子を裏切り、持統朝・文武朝では閑居しながら自責の念に駆られ、その死に際しても葬儀を辞退したとある(異例のこと)

第2章        武力と権力
安麻呂と対照的なのが石上(物部)麻呂 ⇒ 終生高市皇子の忠臣、長屋王の即位にも奔走、
朝廷の武力を支配し長屋王の目が無くなった後は、王妃・吉備内親王の実姉だった元正天皇擁立に動く

第3章        「長屋王の変」と大伴旅人
717年石上麻呂、720年不比等の相次ぐ死で混乱、唐も元正天皇の出自を問題とする ⇒ 舎人親王(天武天皇の皇子、母は天智天皇の娘新田辺皇女)が長屋王と対立
724年 聖武天皇即位 ⇒ 文武天皇の皇太子・首皇子。天武系を認めない唐に対しては元正天皇のままにして、元正天皇死去公表の翌749年孝謙天皇即位とした
729年 渤海が日本を巻き込んで唐に対抗するため日本に送り込んだ使者(文武天皇だった新羅文武王の子 ⇒ 聖武天皇の異母弟)を、不比等の死後影の薄くなった藤原宇合が担ぎ上げ、聖武天皇を暗殺してその使者を天皇にすり替えたのではないか ⇒ 年号が代わり(神亀→天平)、渤海との関係も良好になっている
729年 長屋王の変 ⇒ 舎人親王や藤原宇合(うまかい、不比等の子)らによって殺害
731年 大伴旅人没 ⇒ 天皇すり替えに気付いたため宇合により暗殺とする説もある
その事実を知った息子の家持の怨念が『万葉集』に込められている

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