日本小説技術史  渡部直己  2012.12.21.


2012.12.21.  日本小説技術史

著者 渡部直己 1952年東京生まれ。 早大文学学術院教授

発行日           2012.9.30. 発行
発行所           新潮社

初出 2007.12.2011.12.6月号と12月号 『新潮』

小説を、個人的な思い込みや既成の風評にしたがって読むのではなく、書かれた文章を徹底的に読み込んだ上で、作家の無意識の領域にまで想像力を馳せていく著者が、馬琴から逍遥、紅葉、二葉亭、鴎外、一葉、藤村、漱石、秋声、芥川、谷崎、横光、尾崎翠たちの代表作を、「技術」の視点から論じた、日本文芸評論の記念碑的大作。

序文 「日本小説技術史」にむけて
逍遥『小説神髄』から横光利一『純粋小説論』まで、2つの画期的な小説理論の間の約半世紀に書かれた小説を論じる

第一章 「偸聞(たちきゝ)」小説の群れ――馬琴「稗史七則」と逍遥・紅葉
稗史(はいし、「正史」の対語で、通俗的な歴史書)7つの法則で、馬琴が提案したもので、『八犬伝』に付言として付けられている
1.    主客 ⇒ 能にいうシテ・ワキ
2.    伏線 ⇒ 後で必ず出てくるものを、ちょっと仄めかすこと
3.    襯染(しんせん) ⇒ 下染め。しこみ。作品の読ませどころに先だって、その事件なり人物の言動なりの背景や由来などを効率的に書き込んでおく技法
4.    照応(照対とも) ⇒ 同じものを違った形で表現すること
5.    反対 ⇒ 同じ人が異なったことをする
6.    省筆 ⇒ あることの説明を繰り返さないために、一度に明示すること
7.    隠微 ⇒ 言外に深意を込めること
江戸「読本」自体が当時の外国文学である明末清初の俗語体「白話小説」の移入流行に端を発し、その和訳化と雁行して日本小節の1ジャンルを形成したのだが、馬琴はその和訳者の1人。「読本」界で雄飛した馬琴が、「稗史小説」を漢詩・和歌にも比肩しうる当代の第一文芸に高めることを宿願とした書き手であった
逍遥の『小説神髄』(1885)は、馬琴の50年後
逍遥が、旧来の小説技法から抹消すべき11のポイントとして列挙
1.    荒唐無稽
2.    趣向一轍
3.    重複
4.    鄙野猥褻
5.    好憎偏頗
6.    特別保護
7.    矛盾撞着
8.    学識誇示
9.    永延長滞
10. 詩趣欠乏
11. 人物をして屢ゞ長き履歴を語らしむる事
偸聞」は、「省筆」の一手法 ⇒ 甲と乙の会話の内容を、後に必ず知らなければならない丙がいたとして、甲か乙若しくは第3者をして改めて丙に伝達するという重複を避けるために、甲乙の会話内容をその場で直に丙にも共有させる手法
「偸聞」小説としての『八犬伝』 ⇒ 「偸聞」場面が25回も出てくる。「闕窺(かいまみ)」も入れればさらに数は多くなる
「偸聞」手法こそ、馬琴から逍遥に至る日本小節にあまねく踏襲されてきたといえる
小説技術の問題について論じる際には、馬琴的な組成力の延命振りは到底無視できない
日本の作家たちがある時期から漠然と「通俗小説」と呼び慣わしてきたものの内実も、馬琴から眺め直さなければ見定めがたい
正岡子規が後年、「明治文学の曙光」と呼んだ逍遥の『当世書生気質』にしても、3つの筋の話線を断片的に交錯させながら、これらを一気に結びつける末段において、「立聞」の媒介する奇縁奇遇が三重、四重に輻輳してくる

第二章 二種の官吏小説――二葉亭四迷『浮雲』と森鷗外「ドイツ三部作」
新技術たる「一人称」を活用 ⇒ 自ら訳出したツルゲーネフなどを介して熟知
『浮雲』が人々の耳目を惹いたのは、そこに書かれた主人公や出来事の平凡さにあった
徳富蘇峰も、「つまらぬ世話小説だが、これだけ人をして愁殺、恨殺、驚殺、悩殺せしむるは、天晴なる著者の伎倆と言わざるべからず」と称讃
『浮雲』の斬新さは、立聞きからも奇遇奇縁からも夢からもきっぱり絶縁した場所に「平凡」な人物を息づかせる切断性にある
日本の近代文学の発端に突出して、誰よりも鋭く馬琴に逆らいながらも馬琴のようにしか書けなかった逍遥作品のぎごちなさが、その未熟な実例としてあったとすれば、『浮雲』の三人称多元性に看取されるのは、文字通り画期的な達成である
三人称多元視界の最大の利点は、一般に、話者と作中人物との間に生じる2種類の移動の効果的な活用(可能)性にある
『浮雲』の破綻した官吏に対して、まともな官吏として登場したのが鷗外の『舞姫』(1890)の「余」 ⇒ ドイツから帰国して1年間、10本の翻訳作業の過程を通じて、人称性と文体とを慎重に選びながら『舞姫』の1人称を当時としては清新な「新雅文」体とともに登場させた

第三章 「突然(だしぬけ)」な女たち――樋口一葉の裁縫用具
「襯染=下染」の近代化に腐心する男性作家たちを横目に、「襯染」自体をきっぱり裁ち切る冴えやかな果断を見せたのが樋口一葉の夭折までの十数か月間 ⇒ 主人公の女性の心の内や来歴に一度たりとも踏み込まずに突然不意の変心を見せる筆法が、逆に女性の生彩をひときわ引き立てる

第四章 「自然」を見る・嗅ぐ・触る作家たち――独歩・藤村・花袋・泡鳴
国木田独歩『自然を写す文章』 ⇒ 自然を見て、自然を写すには、見たまま、見て感じたままを書かなければならない。文章に上手な人は書き過ぎるので嘘になる。それゆえ自分は進んで「下手な文章」に就くのだという ⇒ 自然主義文学の先駆
「見たまま」「感じたまま」を写すことができるという錯覚を導く技術
当代随一の「文章」家・尾崎紅葉に代表される漢詩の散文化に疑問 ⇒ 漢語を中心とした区切れの、いわば鋭角的な硬質さそれ自体が「自然」の連続的な広がりに対し根深い不和を来す点を指摘、さらには、そうした伝統的な「文体」に酷愛される対句、あざとい比喩や擬人法の踏襲が、行文をますます「自然」から遠ざけるという
『武蔵野』の奏功が、その滑らかな言文一致体にあることは間違いない
藤村も、『千曲川のスケッチ』(1911)辺りからこなれの良い口語調を使って周囲の風光に目を向けることになる
花袋の叙景性にも同様の変化が刻まれてくる
他方では、「真の叙景文」に馴染もうとすると、「嘘」(=物語)が書きにくくなる
徳富蘆花のように、「叙景」と「物語」を露骨にかき分ける作家も出てきた
独歩は、「物語」の方を圧縮して「自然」描写の中に溶け込ませていく
『破戒』 ⇒ 『浮雲』から発する明治文学20年間の記念碑的達成とされる
『蒲団』 ⇒ 散漫な平面描写ながら成功しているのは、背景の徐々たる変化と展開の上に、情緒がそれとなく織り込まれているから。近代私小説の始まりとして位置づけ
(岩野)泡鳴5部作 ⇒ 『蒲団』の後続作品たらんとした

第五章 反りの合わぬ夫婦たち――夏目漱石のフォルマリズム
漱石のデビュー作『吾輩は猫である』(1905) ⇒ 多彩な小説作品を生み出した作家の技術の根深さの始まり

第六章 志賀直哉の「コムポジション(混合物)」と徳田秋声の「前衛小説」
新潮流の特徴は、外形においては技巧を排した自然な描写であり、内容的には遊戯を排し人生の意義の暗示である(島村抱月『自然主義の価値』) ⇒ ことさらな「解決」も「理想」も持たない幾多のものを、何であれ、ありのままに描くこと、それこそが自然主義の価値
「自然主義」→「私小説」→「心境小説」という狭隘な純化志向が大正期日本小説の大勢となる
志賀直哉 ⇒ 二拍律(愉快/不快)がそのまま「善/悪」に直結
徳田秋声 ⇒ 単純な四拍子(喜怒哀楽)の中に可視的な物の多様と細微を求める

第七章 妄想のメカニズム――芥川龍之介と競作者たち
佐藤春夫に言わせると、明治から大正に至る日本文学の本質はもっぱら「ロマンティシズム」、即ち、解放された個性ならではの「未知の世界に対する好奇心」「異常な事物、見慣れない美」への憧憬の持続的推移にあるとする ⇒ 鷗外のドイツ留学年を「紀元」とし、西欧の詩や小説のたゆまぬ翻訳・紹介によって同時代に「未知の」刺戟を与え続けたことが、「新体詩」の発展はもとより、その「詩」から散文へと転じた藤村・花袋・泡鳴らの「自然主義」にも繋がる。大正期の新意欲は全てのモウパッサン全集を束ね、芥川をしてポオを学ばしめ、谷崎をしてワイルドからバルザック全集に向かわしめた時代であり、芥川の卓抜な鑑識力と豊富な学力が最も重んじられ利用されたと、芥川の功績を持ち上げる

第八章 「文」はどのように「人」めくのか?――鷗外の「史伝」と谷崎の「古典回帰」
鷗外の「史伝三部作」の内の『伊澤蘭軒』では、事実に欠陥があるが故に想像を借りて補填し、客観の及ばないところあるが故に主観で充足したくだりが散見する
『北条霞亭』では、自己の理想の体現者と思しき霞亭を「大志ある人物」と見定めたうえで夥しい書簡の引用と共に足跡を追い始めるが、追うほどに徐々に当てが外れ、二流以下の人物であったことを鷗外自身が認めざるをえぬ始末となりながら、書き続ける。さらに悲劇は、栄進後に急死した霞亭の死因が脚気だったこと。その偶然をやみくもに避けたがる鷗外の筆致は興味深い ⇒ 名医の診断がありながら、自らは「萎縮腎」による尿毒症との診断に固執。さらには、前2作を1年半で書き上げながら、これには4年余りかかったうえ、主人公の病因に及んでほどなく鷗外自身が同じ「萎縮腎」に冒されそのまま死に至る偶然に遭遇。主人公の父親が息子の死後8か月で死去するが、鷗外もまたこれを書き上げてから8か月後に死去。「文」と「人」との間のこの究極の同一化!! 様々な傾斜に沿って、自分に忠実な言葉を慎重に選び続けてきたものが、「史伝」なる場に犇(ひし)めく他人の言葉によって逆に無慈悲にも、しかしやはり律儀に選びとられてしまう。少数の作家にごく稀に訪れる事件ではあった
そもそも「人」の輪郭を放恣に弄んでこそ「芸術」であり、そのための技術である。そこに欠かせぬのは、より良い「文」のためには、いかなる豹変も辞さぬような大らかな意志に他ならない

第九章 男たちの「格闘」に「女の子」の仕草を添えて――横光利一・尾崎翠
関東大震災直後から小説界に2大勢力が目覚ましく台頭 ⇒ 新感覚派とプロレタリア文学
純文学にして通俗小説以外に、文芸復興は絶対にありえない(横光利一『純粋小説論』(1935))
「通俗小説」の2大要素の内、横光が「日常生活における感動」の別称として殊の外強調する「偶然」も、逍遙の夙に着目する点に他ならない。逍遥自ら、「偶然」が作品の結末に限定されるという条件を緩和し、いたるところに馬琴的な「偶然(=偸聞)」を講じていた事実は、第一章に詳述の通り。「偸聞」の督励を含む馬琴『稗史七則』(1835)から、ちょうど50年後に『小説神髄』を発表した者に倣うかのように、それからまた50年後の横光もやはり、その「佳境=感動」を作品の随所に持ち込むべきだと主張
小説技術とは、創造にまつわる暗礁の異称に他ならない
「小説というものは、何をどんなふうに書いても好()いものだ」(鷗外)、しかし、「何をどんな風に」書こうが暗礁に遭遇するのが小説というもの
われわれの生を真に豊かにするのもやはり諸々の暗礁に他ならない。ゆえに、小説とは人生と似ているのであり、したがって小説はいまになお信ずべきものなのだ


日本小説技術史 []渡部直己
[掲載]朝日 書評 20121125   [ジャンル]文芸 
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異次元的な体験 作品の核心つく 坪内逍遥『小説神髄』から横光利一『純粋小説論』まで、半世紀にわたる文学作品を「技術」というテーマで語り抜く。つまり本書は、これまで何が語られてきたかのみを扱ってきた近代文学史に対し、どう語られてきたかを徹底して読みとる。「技術以外の何が小説にあるのか?」と、冒頭から我々を挑発しながら。
 まず著者は、逍遥がその前近代性を批判した曲亭馬琴の小説制作術「稗史(はいし)七則」のうちの「偸聞(たちきき)」から話を始める。歌舞伎や黄表紙、いやそれどころか逍遥自身の小説にさえ「偸聞」は横溢(おういつ)する。我々も時代劇などで観た「話は全部、そのフスマの陰で聞かせてもらった」というパターンだ。
 むろんここには、同じ話を繰り返さずにすませるための「省略」という技術的要請がある。だが、著者はその先にスリリングな小説論を用意している。作品は読者によって読まれているのだから「フスマの陰で聞かせてもらった」のは読者でもあるのだし、いわば同時に登場人物も話を読んでいると著者は考えるのである。
 その時、小説という空間には我々読者の身体が半分ほどめり込んでいると言ってもいい。また登場人物も半身を現実の我々のそばに現しているのかもしれない。そうした異次元的な体験が読むことであり、そもそも作家は作品の最初の読者なのだから、その異次元性は書くこととも直結している。
 一方、逍遥のごく近くにいた二葉亭四迷はこの技術を徹底的に避け、同時に「奇遇奇縁」や「夢」といった古い技法を捨て去って『浮雲』を書いた、と著者は喝破する。そして時間をおいて書かれた『浮雲』第三編で、四迷は話者の分裂という現代の実験小説でも容易に真似(まね)出来ないハイテクに挑戦し、作品を未完で終わらせざるを得なくなった、と読み解く。
 こうして技術という視点から鮮やかに縦横に動く著者の筆は、さらに樋口一葉の、それまでの作家たちからは明らかに分断された「不意」なシーン作りの妙を指摘し、テクストを震動させる分裂的な力に改めて驚嘆してみせる。
 大著はユーモアを交えながら、きびきびと鴎外、独歩、漱石、芥川、谷崎など大家たちの作品の核心を突き、と同時に、ひとたび「私」と書きこめば、その「私」は「語る私」と「語られる私」に分裂するという指摘など、小説のツボを惜しげもなく開陳していく。
 最後に著者は、技術とは「創造にまつわる」ある本質の異称だと告白するに至る。だからこそ小説は……と本書は滋味深い小説愛にあふれたフィナーレを迎えるのだが、それは五百ページを超える論考を読み通した者だけが味わうべき一文だろう。「偸聞(たちきき)」は不可。
    
 新潮社・3570円/わたなべ・なおみ 1952年東京生まれ。文芸評論家、早稲田大学文学学術院教授。主な著書に『私学的、あまりに私学的な』『かくも繊細なる横暴——日本「六八年」小説論』『不敬文学論序説』『中上健次論——愛しさについて』など。


日本小説技術史 渡部直己著 独自の小説観と文学史を体系化 
日本経済新聞朝刊書評 20121216日付
フォームの始まり
フォームの終わり
 書名だけ見れば、図書館の奥に鎮座して研究者か好事家ばかりが手にとる本と思うかもしれない。だが本書は、かつて『それでも作家になりたい人のためのブックガイド』(共著)を6万部のベストセラーとし、以後今日に至る小説の書き方本流行(ばや)りを導いた著者の集大成である――そう続ければ、暗い書庫に一筋の陽光が落ちるように、蠱惑(こわく)の光に包まれた貴書と見えるだろうか。事実、それは、小説の書き手にも読み手にも光の書となりうる一冊なのだ。
(新潮社・3400円 ※書籍の価格は税抜きで表記しています)
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(新潮社・3400円 書籍の価格は税抜きで表記しています)
 日本に小説なるジャンルが登場して百余年。本書はその前史『南総里見八犬伝』や最初のベストセラー『金色夜叉』に始まり、漱石・鴎外を経て谷崎や横光に至る20近い小説家と作品を対象に、彼らが何を書いたかでなくどう書いたかに着目する。飛行機好きの少年が図鑑を眺め飛行場に通い、ついには模型から設計図まで書き起こしてなぜ鋼鉄の翼が空を飛ぶかに迫るがごとく、著者は小説の謎を追う。登場人物はなぜ「まるで小説みたい」と口にするのか”“「私は」と一人称で語ることと「彼は」と三人称で語ることの質的な違いは何か”……小説の書かれ方を巡る様々な問いを起点に、過去数世紀に内外の文学者が重ねてきた議論も繙(ひもと)きつつ、独自の小説観と文学(技術)史を体系化した本書は、読むに容易だと言えば嘘になるし、硬派な文体も相まって一見古めかしく感じられるかもしれない。だが人生と小説は別物だというテーゼを全編で反復しつつ困難さと不可分な点で両者は通底すると結論づける本書とその著者にとり、本書自体もまた難渋でなければならなかったことは容易に理解できる。言わばそれは、小説を愛してやまぬ人生を小説と共に送るうち、自身の生と言葉がまるで小説みたいになってしまった一文学者の、異貌の自伝のようなものだからだ。
 その意味で、そしてだからこそ本書は、読み手には自身の姿見として、書き手には頼もしい声援として、そして小説が失われた未来(そんなものはないと信じたいが)に於いては小説がかくも愛されるものだったことの痕跡として、小説の光の傍らに月の如く置かれてほしい光の書なのである。
(批評家 市川真人)




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