権力の病理  Paul Farmer  2012.7.23.

2012.7.23. 権力の病理  誰が行使し誰が苦しむのか 医療・人権・貧困
Pathologies of Power
  Health, Human Rights, and the New War on the Poor  2003

著者  Paul Farmer 1959年生まれ。発展途上国での医療提供活動によって世界的に著名な医師、医療人類学者。ハーバード医学大学院国際保健社会医学部長などを経て2010年から同大学のKolokotrones University Professor。学生の頃からハイチの慈善活動に参加、87年国際保健のNPOパートナーズ・イン・ヘルスを設立。12か国に活動を広げ、貧困地域ではこれまで不可能とされていた結核やエイズの治療に成功。Farmer自身もトレーラーハウス暮らしの貧困家庭出身で、その半生記『国境を越えた医師』は全米ベストセラー。現在はハイチ人の妻と子供たちと共にルワンダに拠点を置く。マッカーサー財団フェローシップ、マーガレット・ミード賞など受賞多数

訳者 豊田英子 1952寝ぬ稀。東大文学部西洋史学科卒。翻訳家
解説 山本太郎 1990年長崎大医学部卒。東大大学院医学系研究博士課程国際保健学修了。京大、ハーバード大、コーネル大を経て現在長崎大熱帯医学研究所・国際保健分野主任教授

発行日           2012.4.10. 印刷               4.20. 発行
発行所           みすず書房

世界の最貧困層と超富裕層のグロテスクな格差が最も深刻なのは医療の分野だ。安価な薬が手に入らず失われる膨大な命がある一方、医療技術の最先端は日々更新される。さらに医療「倫理」学の主な関心は、そのような高度医療の是非の問題であって、多くのアフリカの子供が、下痢性疾患によって5歳以前に死亡することではない。
ポール・ファーマーは30年以上にわたって貧困国で無償医療活動を行ってきた医師であり人類学者である。その活動は世界保健機関(WHO)のエイズ治療計画のベースにもなった。本書でファーマーは、偉大な豊かさの時代においても最も基本的な権利(生きるための権利)が無残に蹂躙されていることを、多くの例証によって示している。権利侵害は、「権力の病理」の現れであり、それに苦しむものと免れるものを決める社会的条件と密接に結びついている。しかし社会的条件が差別的に及ぼす悲惨な影響には人為が働いている以上、これは人間社会につきものの悲劇としてではなく、現代の諸学が取り組むべき最も緊急な問題として認識されるべきである――それがファーマーの主張であり、実践してきたことでもある。
真の解決策は、貧困や格差問題の本質と、苦しみへの深い理解の上にこそ成り立つ。本書はそのためのバイブルとなるだろう

世界人権宣言 第25
全て人は、衣食住、医療及び必要な社会的施設等により、自己及び家族の健康及び福祉に十分な生活水準を保持する権利、並びに失業、疾病、心身障害、配偶者の死亡、老齢その他不可抗力による生活不能の場合は、保障を受ける権利を有する
同 第27
科学の進歩とその恩恵にあずかる権利を持つ

人権宣言に強制力はないが、問題は、その権利を享受している者がごく一部だということ

本書の目的・内容――著者まえがき
特定の事例の綿密な検証に基づいて、人権に対する再評価を試みる
「健康」に重点を置くことによって、これまでになかった人権議論をしたい
健康を重視することにより、貧しい病人が人権侵害の矢面に立たされていることに気付く
貧困者の医師ならではの批判を展開したい
「解放の神学」こそが自分の知的源泉 ⇒ すべての考察を貧困者への奉仕に結び付ける
1部はの4章は、自らの経験を証言として書くとともに、通常の人権の定義に対する自分なりの批判を盛り込んだ ⇒ 人権に関する「リベラルな」見方は貧困者にとっては無益であるとの批判
1章は、保健活動の成果を左右する社会的決定要因は、人間的尊厳に対する侵害の分配を決める社会的決定要因でもあることを明らかにして、本書の基本的テーマを提起
ハイチの農村において、大規模は社会的力がどのようにして病気、苦しみ、困窮となって現れるか ⇒ 人権侵害の危険を構造化する力が、結核とエイズの流行にも拍車をかける
公平は、今後の医学と公衆衛生にとって大きな課題 ⇒ 不公平こそが病原
2章では、残虐な軍事クーデターから逃れたHIV陽性のハイチ人難民の異なる2つのグループでの経験を詳述して、その根底にある政策や国際的な反応を左右する力を解明
3章では、メキシコのグアテマラ国境で起こったサパティスタ(民族解放のためのゲリラ組織)の反乱から4年後のメキシコ最下層の人々の状況を採りあげ、人権論者が学ぶべきことを訴える
4章では、ロシア刑務所における結核の蔓延について取り上げ、構造的暴力が患者の生死を左右する主要な要因であることを検証する
2部では、より普遍的な問題に戻る
5章では、開発の3つのアプローチ(慈善事業、開発、社会正義)の違いを検証し、社会正義のみが権力の病理を暴き、これの予防を目指すという道徳的な立場をとるよう促すことが出来る唯一の方法だと説く
6章では、拡大する市場主義的風潮の影響による複合的な結果と、医療において深刻化する社会的不平等について報告し警鐘を鳴らす ⇒ 効果的な介入や膨大な資源が、それを最も必要としている人々には届かないという事態が恒常化している
7章では、刑務所での実例に基づき、過密人口と空気感染する病原菌の伝染との間に見られる明らかな相関関係に加えて、収監という当局による拘束が病気や死のリスクの増加にどう関係しているのかを検証
8章では、さらに突っ込んで、現代における極貧の病人という悲劇を倫理的に採りあげるべきと説く ⇒ 今後1年に6百万人と予想される結核、エイズ、マラリアの死者が、現代医療にアクセスできない人々の間で起こるのは、構造的暴力の反映であり、人権論者の大きな関心事であるべき
9章では、調査と行動からなる新たな領域を求めるという主張 ⇒ 研究や分析と、現場での治療の不平等に取り組む活動が分離してはならない
真実を語ることが犠牲者の役に立つなら、好ましくない真実を告げようと思う
私たちのように、そうした出来事や状況を目撃しながらも生き延びる特権を与えられたものは、権力の病理を明らかにする――明らかにし続ける――責務を負っている

1部 証人となる
第1章     苦しみと構造的暴力についてーグローバル化時代の社会的・経済的権利
知るには2つの方法がある
1の方法は、貧困者の押し隠した苦しみを報告すること ⇒ 思い遣りと連帯が必要
2の方法は、あえて表面の沈黙を引っ掻かない
いずれの方法も、その時代と場所の文化や言葉に精通していなくても、十分可能なことを自らの体験で知った

1956年肥沃な谷にあった村がダムのために水没し、岩だらけの高台に移住させられ、人並みの暮らしが崩壊。娘は家を助けるために妻子ある兵士と付き合ってエイズに感染。娘を出産して間もなく死亡。父親も娘の死後ほどなくして自殺
同じハイチの不毛の地で育った若者は、1990年の選挙で民主化運動の指導者と見られていたアリスティド神父の大統領当選を喜んだが、翌年の軍事クーデターで政権を取った軍部を批判したのがばれて逮捕・拷問され死亡
ハイチでは、エイズと政治的暴力が若者の主な死因 ⇒ エイズを蔓延させた社会的・経済的な力は、大規模な弾圧を引き起こし、それを隠蔽した力と同じであり、さらには2人ともそうした人生を辿る「畏れ」があった ⇒ 最初から構造的暴力の犠牲者だったといえるのは、苦しみは歴史的に与えられ、経済的に助長されたプロセスや力によって「構造化」されているからであり、自らの選択の余地は極めて限られている
構造的暴力の本質を見極め、人間の苦しみへのその影響を解明する ⇒ 様々な社会的「軸」を同時に考慮する必要 ⇒ 性差、人種や民族性等々
構造的暴力と文化的差異の混同 ⇒ 伝統的な文化的制度だとして構造的暴力がカモフラージュされる(スーダンでの女性の割礼やフィリピンの首狩りなど)
貧困が世界最大の殺人者であり、構造的暴力の最大の犠牲者は世界の貧困者である

第2章     疫病と拘束―グアンタナモ、エイズ、そして隔離の論理
1991年ハイチの軍事クーデター ⇒ 大衆の圧倒的支持で占拠された民主化運動のリーダーだった大統領を追放し、その支持者を逮捕・処刑し続けたため、多くの難民が出た
米国は、軍事政権を支援し、難民を経済難民として本国へ強制送還し続け、最高裁も政権を支持 ⇒ 国連の非難を受け、直接送還ではなくキューバのグアンタナモの米海軍基地に一時的に拘禁、その間の米軍兵士による虐待が被拘禁者の不満となった
政治難民の認定を受けた者でも、HIV検査が陽性であれば米国への入国を拒否(ハイチ人難民に対してのみ適用され、キューバ人難民には適用されず)
公正さの向上――社会的・経済的権利の向上――は、医療における人権尊重を推進する上で欠かせない条件
2000年にWHOは全加盟191か国の医療システムの評価結果を発表 ⇒ 米国はGDPに対する保健医療費の割合は最高だが全体的な評価は37位、キューバはGDPに対する比率は低いが評価は米国とほぼ同じでラテンアメリカの上位4か国に含まれている
高評価を得たのは先進国か、社会民主主義的政府の下で国民皆保険制度を実施している国だった
「保健制度財源の公平なメカニズム」に関する評価は、キューバがラテンアメリカ中トップで、米国はトップ50にも入っていない
1994年貧困地域のラボトーで米軍の支援を得た軍と準軍事組織による住民の虐殺が発生 ⇒ 国外逃亡した軍最高司令部を含む37人を5年にわたる欠席裁判で有罪判決 ⇒ 裁判は、海外の支援者だった国境を超えた構造的暴力をも糾弾し、逃亡先と思われる周辺の国に彼らの逮捕・送還を要請。人権団体も米国政府を糾弾したが、米政府は資料の公開や逃亡者の引き渡しを拒否
1998年 米州開発銀行がハイチ政府と、ハイチの医療制度を「地方分権化して改革する」プロジェクトへの2,250億ドルの融資契約に署名したが、(米国政府の圧力で)実際の融資は幾つもの条件が成就されない限り実行されない仕組みになっていた
ハイチが人権侵害者や戦争犯罪人の追及に成功したことは、ハイチ以外ではほとんど注目されていないが、正義を巡るハイチ人とその政府の粘り強さは世界の教訓。正義なくしては和解も民主主義も存在しない

第3章     チアパスの教訓
チアパス メキシコのグアテマラ国境にる最貧州
自分が先住民だと認識している者が人口の50%以上を占める唯一の州。マヤ語族の末裔が多く、特に女性はメキシコの公用語を話せない
1994年 サパティスタ民族解放軍がチアパス州のサンクリストバル・デ・ラスカサスにある政府ビルを占拠
同地は、「インディオの庇護者」として有名なバルトロメオ・デ・ラス・カサスに因んで名づけられた。ラス・カサスはスペイン入植者の先住民に対する残虐な行為を糾弾。もともとは、コロンブスの3回目の航海に、司祭としてではなく野心的な入植者として随行したが、ヒスパニオラ島で、持ち込まれた感染症、虐待、奴隷のような重労働が原因で無数の先住民が死亡するのを目の当たりにして、考えを変えた。聖職者でもある彼は多くのラテンアメリカ諸国で、西半球の先住民の権利の熱心な擁護者として慕われている。ハイチでは、弱々しいインディオよりもアフリカ人のほうがよい奴隷になるだろうと助言したという説もあって、それほど敬愛されていない
ラス・カサスは、スペイン宮廷でインディオの「人間性」を認めるようスペインの統治者に訴え、メキシコ南部に向かう。1544年サンクリストバルの司教に任命されたが、その地はスペイン王家の重要な拠点であり、彼の影響力は薄れていくとともに、チアパスの先住民にとっては辛い世紀が続く。美しい町を訪れると、貧しい先住民とヨーロッパ的な顔立ちのエリート層の著しい格差に愕然とする
サパティスタとは、20世紀初頭にメキシコの貧しいカンペシーノ(農民)の土地所有権のために闘い19年に殺害された革命家エミリアーノ・サパタに因んで名付けられた大半が「インディオ」の貧困層からなる集団。メキシコ各地のみならず、世界中からの支持も得て北米自由貿易協定NAFTA調印の日に蜂起
ファーマーの関与していたパートナーズ・イン・ヘルスもチアパスの地域保健プロジェクトを支援していた。ハイチを拠点に、近代的医療の不平等を正すために創設されたNGO。社会的・経済的権利医療だけでなく、教育・住居・衛生的な浄水の利用の重要性を学び、そうした権利のために闘う農民を支援。米、シベリア、ペルー、チアパス、ハイチの貧しい地域と提携して活動。解放の神学(カトリック系社会主義)を信仰
メキシコ政府は、新たに要塞を建設して鎮圧に乗り出すと同時に、武装集団がサパティスタ支持と見られる農民グループを襲撃、教会と地元の代表を迫害し続けたため、3年間で貧困がさらに深刻化
1.5百万人のチアパス人が医療を全く受けていない
天然資源は豊か、石油・電気・木材・家畜・トウモロコシ・砂糖・コーヒー・豆を供給するが、見返りはごく僅かで、チアパスの人々は貧しい 
1918年のメキシコ革命で、農地解放、奴隷(債務労働)禁止をうたった憲法改正も、結局は中央政府と地元の族長や有力者との関係を強固にしただけに終わり、農民はさらに貧しい土地へと追いやられた
1974年 非政府組織による大規模な先住民会議が組織され、過激な農民運動へと発展
解放の神学が、チアパスの蜂起においてそのアイデンティティ(貧困であること)の形成に大きな役割を果たす

第4章     我々すべてに伝染病が?―ロシアの刑務所における結核の再流行
ロシア刑務所における若年層の多剤耐性結核が広がっている
ソ連崩壊後、収監率が倍増したため、長期未決で拘留されている間に結核に感染、きちんとした対面服薬治療が受けられないまま中途半端な治療に終わったため第1次選択薬では効かない状態(多剤耐性)になりながら、第2次選択薬が高価であるために治療を受けられないままに放置されている。若年層の死亡原因の第1位で、飢餓や拷問よりよほど多い
1990年代初頭のニューヨークでは、刑務所やホームレスの収容施設を中心に多剤耐性結核が大流行、鎮静化のために十億ドル超の資金が投入され、撲滅に成功

2部 人権を巡る1医師の視点
貧困者は、病気になる可能性や医療を利用できない可能性が高いように、人権侵害の犠牲になる可能性が高い。人権を巡る闘いに社会的・経済的権利を含めることは、構造的暴力を受けやすい人々を守ることに繋がる

第5章     健康・治療・社会正義―「解放の神学」による洞察
「解放の神学」の支持者は、貧困者の優先的治療を唱えることで、人権について懸念する人々の未来の行動の道徳的指針をもたらす。現代医学を「市場の力」に任せておくと、医学の実践ですら人権侵害に加担し得ることになる
貧しい病人のために質の高い医療を本気で追求することは、健康は人間の基本的権利であるという考え方から始まる
「費用対効果」の名の下に貧困者への医療提供が縮小されているが、費用対効果の基準など論外、社会的公正か否かが問われる

第6章     預言に耳を傾けるー市場本位の医学に対する批判
旧約聖書の預言の多くは、未亡人や孤児、多くの貧困者が耐えていた社会的状況に対する抗議だった ⇒ 構造的暴力(=少数の者にとっては贅沢を意味し、大多数の者にとっては悲惨を意味する貧困と不平等)に反対してあげた声そのものだったが、多くの預言者は学問ある者からは狂人と見做され、耳を傾ける者は少なかった
社会的不平等の形態を精査すると、より失望を招く実態が浮かびあがり、それらは加速度的に深刻化している
現代の生物医学はグローバル経済のように活況を呈し、基礎科学の成果がこれほど直ちに生命維持技術に応用されたことはなかったが、医療の現場はその利用と成果の不平等が拡大 ⇒ 公的資金に大きく依存しながら莫大な私利を得ていることも事実だし、急速に拡大する医療保険の多くが患者に医療を提供するのではなく「製品」を「消費者」に売ることを基本戦略としている
市場の力を、民主的社会において物品とサービスの流通を促進する理想のメカニズムと見做す見解を、医療にまで広げることはできない ⇒ 医学の目標と目的は独特、個人的信頼や公益と深く結びついている。治療は、その目的に適った倫理が支配する特殊な人間活動である

第7章     残酷で異常なー懲罰としての薬剤耐性結核
結核と刑務所の結びつきには長い歴史がある ⇒ 多くの状況下で「肺病」は刑務所での主な死因だった ⇒ HIVによって増幅
ロシアと米国の共通点 ⇒ 刑務所の収監率が突出(10万人当たり700人、欧州諸国の510)
最近になって漸く最高裁判所によって、「囚人の重大な医学的必要に対する意図的な無関心は、憲法が禁止した不必要で理不尽な苦痛にあたる」ことが再確認された ⇒ 各地で何件もの刑務所内での人権侵害訴訟が提起されている

第8章     新たな不安―グローバル化時代の医療倫理と社会的勝利
社会正義を医療倫理に導入する ⇒ 医療における富裕者と貧困者の二重基準を解消
医療は人権であるという道徳的立場を確立べく、医療関係者のための倫理綱領を検討
現代の主要な倫理的問題 ⇒ 過剰医療(治療がその効果に比べてあまりに苦痛で高価で長期にわたるケース→「医学的無益」と呼ばれる)の一方で欠乏がある。生命倫理、医療倫理、ジレンマの倫理(追加治療が無駄だと思われる高齢の患者を巡る問題)
新しい医療倫理の核心としての公平 ⇒ 医療の利用を人権と見做すならば、どのような人がその権利を持つ人間と見做されるのか。人権の概念を振り返ると、社会的不平等によって完全な人間として認めてもらえない人々が常に存在した
医療倫理の最大の課題は、医学における倫理的ジレンマを巡る私たちの考え方を再社会化すること ⇒ 繁栄を最大限維持することも一理あるが、ハイチやウガンダを除外しても意味がない

第9章     健康と人権の再考―パラダイム転換のとき
健康と人権に関するいくつかの問いを発し、それに答えてみたい
人権運動はどこまで前進したか ⇒ 国際的な人権運動はニュルンベルク裁判(第三帝国の犯罪に対する国際的な反動から人権憲章が生まれている)を契機として始まり、近年バルカン諸国やルワンダにおける戦争犯罪を裁く国際法廷の設置に繋がるが、世界人権宣言50周年を記念した多くの祝典の実施にも拘らず、現在の状況に関する詳しい評価は行われていない。根本的な問題は、人権に関する「リベラルな理論」が「私たちの社会は平等を享受している」という前提に立っているが、「その様な平等は実際には存在しない」ということにある
権利の概念を拡大して社会的・経済的権利を含めると、理想と現実の溝はさらに深まる
地域レベルでも、世界的レベルでも、不平等は、医学的・科学的進歩の成果が一部の者のために蓄積されており、その他の者には届いていないということを意味し、その規模は驚くべきもので、その傾向は加速している ⇒ 1995年の世界の億万長者358人の富の合計が世界23億の最貧困層の収入の合計に等しい
多くの国の政府は健康の不平等を正すためにはほとんど何もしていない。不平等が人権侵害に拍車をかけ、隠蔽を助長している
人権侵害は、単に研究対象とするのではなく、分析し、それに基づいた正しく適切な戦略を立てなければ意味がない ⇒ 分析と戦略に違いがあり過ぎるのが問題
分析とは、真実がどんなに体裁が悪く厄介で不都合でも、それを明らかにすること ⇒ いつ、誰が、誰に、何をしたのかを立証すること
医学と公衆衛生と、それらに関係する社会科学は、人権を巡る深い対立を孕んだ論争に大きく貢献できる ⇒ 医師は「貧困層の弁護士」であり、人権を巡る幅広い行動計画を独自の方法で促進できる
健康と人権を巡る闘いは前途遼遠 ⇒ 健康と治療が新しい行動計画の象徴的中心になれば、病人に関する領域という普遍的なものに立ち入ることになり、同時に医学、公衆衛生、基礎科学を含めた保健関連専門家を巻き込むことになる
病人や虐待されている人々、権利を侵害される可能性の最も高い人々の声に耳を傾ける必要がある
強力な国家や国際官僚組織への義務から自由である必要 ⇒ 人道に対する犯罪の大半を実行しているのは強力な国家というのは事実



解説 山本太郎
本書は不平の訴えに満ちた「告発の書」 ⇒ 構造的暴力を行使するもの、それを見逃す全ての人に対する告発
構造的暴力により蹂躙され侵害される人権は、「権力の病理」の現れであると説く
その例証を列挙
1章では、ハイチのダム建設で水没した村の少女が、妻子ある兵士のものとなるが兵士はエイズで死亡、家政婦をしながら知り合った男は妊娠を告げると離れてゆき、職も失って娘を出産するが間もなくエイズで死亡、彼女の死後父親も自殺
もう一人のハイチの女性は、軍事クーデターで実現した政権への批判をしたために捕えられ拷問された挙句死亡
ファーマーは、2人の物語が同じ様な状況下で暮らす何百万人、何千万人という貧困者の「典型」だといい、こうした人々に共通しているのは、個人的な資質ではなく、不平等な社会の底辺で暮らしているという事実であり、その背後には人間が下した決定がある
こうした状況に共感するのは容易ではない。その理由は、
   別世界での出来事として距離を置きたいという心理的障壁
   犠牲者が無名
「構造的暴力」の行使を見過ごす行為そのものも告発すべき対象だと考える
真実を語ることが犠牲者の役に立つなら、好ましくない真実を告げようと思う
私たちのように、そうした出来事や状況を目撃しながらも生き延びる特権を与えられたものは、権力の病理を明らかにする――明らかにし続ける――責務を負っている
そうすることは、虐げられた人々への共感と連帯とも通じる
競争主導型市場モデル優位の思想に異を唱える
医療において深刻化する社会的不平等について警鐘を鳴らす
ハイチや米国で貧しい患者と共に過ごしてきた医師としての告発
貧困者に優れた医療が施されなかった理由は、貧しい人々を貧しいままに放置しておくことによって富の配分を受けることのできる人がいたから

ハイチ ⇒ 200204年米国からの2国間援助凍結により、生活必需品にも事欠いた
2004年 独立200周年をアリスティド大統領の下で祝ったが、反政府勢力の武装蜂起で内乱状態に陥り、総ての国際線航空が運航を停止、大統領はアフリカに亡命、国連平和維持軍派遣
2010.1. 大地震で30万人以上が死亡、首都機能壊滅
2010.12. 全土で100年振りのコレラ大流行
いずれも構造的暴力の犠牲者だが、それを根本から変革する力は自分(解説者)にはない



権力の病理 誰が行使し誰が苦しむのか 医療・人権・貧困 []ポール・ファーマー
[評者]渡辺靖(慶応大学教授・文化人類学)  [掲載] 朝日新聞20120617   [ジャンル]医学・福祉 社会 

著者:ポール・ファーマー、豊田英子、山本太郎  出版社:みすず書房 価格:¥ 5,040
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社会正義の蹂躙、医師の目で告発
 「21世紀のシュヴァイツァー」——しばしばそう喩(たと)えられる著者は、今日、世界でもっとも注目かつ尊敬される人類学者であり医師である。
 23歳のとき訪れた中南米ハイチの窮状に衝撃を受け慈善活動に参加、1987年にハーバード大学の同級生ジム・ヨン・キム(今年7月より世界銀行総裁に就任予定)らと著名な非営利組織「パートナーズ・イン・ヘルス(PIH)」を創設した。PIHは貧困地域では絶望視されていた結核やエイズなど感染症の治療で目覚ましい成果を遂げ、現在、世界12カ国に展開している。
 1年の半分を大学で過ごし、収入のほとんどをPIHに寄付、ハイチをはじめ世界の貧困地域で無償医療活動に取り組んできた著者。貧しい少年時代からの半生を描いた、ピュリツァー賞作家トレーシー・キダーによる評伝『国境を越えた医師』(邦訳、2004年)は全米ベストセラーとなり、ノーベル平和賞受賞への期待も年々高まっている。
 本書は中南米やロシア、米国などでの著者の医療経験をまとめた代表作の一つ。人種差別や階級格差といった〈構造的暴力〉から、その構造と相互依存関係にある〈権力〉、そしてその権力を支える身近な制度や規範まで幅広く射程に据えながら、人権や社会正義が蹂躙(じゅうりん)される現状を告発する。
 例えば、医療倫理。議論されるのは脳死や臓器移植など高度医療の是非ばかりで、構造の底辺を生きる人びとへの責務が問われることは少ない。そうしたなかで医療が「費用対効果」など市場原理主義的な概念に絡めとられてしまえば「医学の実践ですら人権侵害に加担しうる」と手厳しい。
 著者はまた、貧困地域への医療提供が不十分な理由として挙げられる「無数の強弁」を次々と論破してゆく。例えば、「患者が医師の指示を守らない」という指摘に対しては、「医師が患者に十分に食べるように指示しても、食べ物がなければ患者は『守らない』だろう」と一蹴する。
 「地域的慣習」や「中立」を重んじる姿勢が「傍観するための戦術」に成り下がり得ることを危惧する点は同じ人類学者として強く共感を覚える。
 本書には著者の盟友であるノーベル賞経済学者アマルティア・センが序文を寄せている。「進歩は、裕福な者がさらにどれだけ豊かになったかではなく、貧困をどれだけ縮小したかによって適切に判断できる」というセンの哲学を著者は共有し、実践している。
 日本の論壇などではなかなかお目にかかれない、スケールの大きな、真のリベラルの勇姿(ゆうし)を、私は著者のなかに見いだす。
    
豊田英子訳、山本太郎解説、みすず書房・5040円/Paul Farmer 59年生まれ。ハーバード大学最高位の教授職ユニバーシティプロフェッサー。発展途上国での医療提供活動で世界的に知られる。現在はハイチ人の妻や子供たちとルワンダに拠点を置く。


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ハイチ共和国は、中央アメリカ西インド諸島大アンティル諸島内のイスパニョーラ島西部に位置する共和制国家である。東にドミニカ共和国と国境を接し、カリブ海のウィンドワード海峡を隔てて北西にキューバが、ジャマイカ海峡を隔てて西にジャマイカが存在する。首都はポルトープランス
1804年の独立はラテンアメリカ初、かつアメリカ大陸で二番目であり、世界初の黒人による共和制国家でもあるが、独立以来現在まで混乱が続いている。
ハイチ時間の2010112M7.0の大規模な地震が発生し、大きな被害が発生した。

国名 [編集]

正式名称は、ハイチ語 Repiblik d Ayiti(レピブリク・ダイチ)、標準フランス語 République d'Haïti (レピュブリク・ダイティ)。通称、Haïti アイティ)。
公式の英語表記はRepublic of Haiti(リパブリク オヴ ヘイティ)。通称、Haitiヘイティ)。
日本語の表記は、ハイチ共和国。通称はハイチ、漢字では海地と表記される。なお、「ハイチ」とは“Haiti”訓令式ローマ字読みであり、現地では通用しない。
「ハイチ(アイティ)」は、先住民族インディアン/インディオアラワク系タイノ人の言葉で「山ばかりの土地」を意味し、独立に際してそれまでのフランス語由来のサン=ドマングから改名された。

歴史 [編集]

先コロンブス期 [編集]

紀元前4000年から1000年までの間にインディアンのアラワク人タイノ人)が南アメリカ大陸のギアナ地方から移住してきた。タイノ人は島をアイティ(Haiti)、ボイオ(Bohio)、キスケージャ(Quesquiya)と呼び、島は五つのカシーケ(酋長)の指導する部族集団に分かれていた。ヨーロッパ人の征服によりアラワク人は消え去った。征服時にいたインディアンの数は、イスパニョーラ島の全てを併せるとおよそ100万人から300万人程だろうと推測されている。

植民地時代 [編集]

1492クリストファー・コロンブスがイスパニョーラ島を「発見」したとき、この島にはアラワク人イノ人)が住んでいたが、それから四半世紀のうちにスペインの入植者によって絶滅させられた。金鉱山が発見され、インディアンのカリブ人が奴隷として使役され、疫病と過酷な労働で次々と死んでいった。その後、スペインは主に西アフリカの黒人奴隷を使って主に島の東部を中心に植民地経営をした。島の西部をフランス1659以降徐々に占領していったが、衰退の一途を辿るスペインにはそれを追い払う余力はなく、1697ライスワイク条約で島の西側3分の1はフランス領とされた。この部分が現在のハイチの国土となる。フランスはここを、フランス領サン=ドマング (Saint-Domingue) とした。この植民地は、アフリカの奴隷海岸から連行した多くの黒人奴隷を酷使し、主に林業とサトウキビコーヒー栽培によって巨万の富を産みだした。

黒人反乱と黒人国家の成立 [編集]

1789からフランス本国では革命が勃発し、サン=ドマングの黒人奴隷とムラート混血の自由黒人)たちはその報を受けたヴードゥーの司祭デュティ・ブークマンに率いられ、1791年に蜂起した。
トゥーサン・ルーヴェルチュールジャン=ジャック・デサリーヌアンリ・クリストフらに率いられた黒人反乱軍は白人の地主を処刑した後、フランスに宣戦布告したイギリスとスペインが、この地を占領するため派遣した軍を撃退し、サン=ドマング全土を掌握した。ルーヴェルチュールは1801年に自らを終身総督とするサン=ドマングの自治憲法を公布し、優れた戦略と現実的な政策により戦乱によって疲弊したハイチを立て直そうとしたが、奴隷制の復活を掲げたナポレオンが本国から派遣したシャルル・ルクレールの軍によって1802年に反乱は鎮圧され、指導者ルーヴェルチュールは逮捕されフランスで獄死した。
ところが、新たな指導者デサリーヌの下で再蜂起した反乱軍は、イギリスの支援を受けて、1803年にフランス軍をサン=ドマング領内から駆逐した。そして、180411に独立を宣言し、ハイチ革命が成功した。
デサリーヌは国名を先住民族タイノ人由来の名であったハイチ(アイチ)に変更し、ナポレオンに倣って皇帝として即位し(ハイチ帝国)、残った白人を追い出した。デサリーヌは1805憲法を制定したが、北部のアンリ・クリストフと南部のアレクサンドル・ペションらの勢力に圧迫され、1806に暗殺された。デサリーヌはハイチ建国の父として後の世まで敬愛されている。

賠償金の圧迫と国内の混乱 [編集]

この後、クリストフによって世界で初の黒人による共和国、かつラテンアメリカ最初の独立国が誕生し、南北アメリカ大陸の他の植民地の黒人たちや、独立主義者、そしてアメリカ合衆国の黒人奴隷たちを刺激した。しかし南北の共和国(北部のハイチ国と南部のハイチ共和国)に分かれて争い、南部の共和国の事実上の支配者ペションは農地改革プランテーションを解体し、独立闘争の兵士たちに土地を分け与えた。その結果、たくさんの小農が出現した。この時期に南アメリカの解放者、シモン・ボリーバルがペションの下に亡命している。
一方、北部の共和国ではクリストフが王政を宣言(ハイチ王国)。圧政を敷いた。住民を酷使して豪華な宮殿(サン・スーシー)や城塞(シタデル・ラフェリエール、フランスの再征服に対処するため)(両方とも世界遺産)を建設させるなどの波乱があったが、1820クリストフの自殺に伴い南部のペションの後継者、大統領ジャン・ピエール・ボワイエがハイチを再統一した。1821、イスパニョーラ島の東3分の2(現在のドミニカ共和国)を支配していたスペイン人のクリオージョたちがスペイン人ハイチ共和国の独立を宣言し、コロンビア共和国への編入を求めて内戦に陥ると、ハイチは軍を進めてこれを併合し、以後1844まで全島に独裁体制を築いた。この時期、ボワイエはフランス艦隊から圧迫を受け、独立時にフランス系植民者たちから接収した農園や奴隷などに対する莫大な「賠償金」を請求された。
ハイチの独立後、独立を承認する国家は存在せず、シモン・ボリーバルが全イスパノアメリカ諸国の連合と同盟を企図して1826年に開催したパナマ会議ではハイチの承認が議題として取り上げられたが、パナマ会議が大失敗に終わったため、大コロンビアとイスパノアメリカ諸国によるハイチの承認はなされなかった[2]。結局ハイチはフランスからの独立の承認を得る代償として賠償金の支払いに応じた。この賠償金は長年借金としてハイチを苦しめることとなった。政府は奴隷制を復活させるなどしたが、経済は貧窮した。
1843、ボワイエの独裁に対しシャルル・リヴィエール=エラールが蜂起しボワイエを亡命させる。しかし奴隷制に対する農民反乱や軍人の反乱が続く無政府状態に陥り、1844年にフランスへの賠償金のための重税に苦しんでいた東部のスペイン系住民が、再度ドミニカ共和国としての独立を宣言し、これに敗北して東部を手放すなど、内政混乱が続いた。
この状況を収拾したのは元黒人奴隷で1791年の反乱にも参加した将軍フォースタン=エリ・スールークであり、大統領に就任したが後に帝政(ハイチ帝国)を宣言し、ファーブル・ジェフラール将軍の蜂起で打倒される1859まで皇帝フォースタン1世として君臨し、国内に秘密警察の監視網を張り巡らせて圧政を敷き、隣国ドミニカへの侵入を繰り返した。スールークを追放したジェフラールは共和制を復活させたが、フランスに対する巨額の賠償金による経済の崩壊、小作農たちの没落、列強の圧迫、相次ぐ大統領の交代や内戦、国家分裂でハイチは混乱し続けた。しかし、この時期、憲法はよりよく機能するよう何度も改正され、後の安定の時期を用意した。

米国による占領 [編集]

1870年代末以降、まだ国家分裂や反乱は続いたが、ハイチは近代化への道を歩み始め砂糖貿易などで経済が発展し始めた。しかしフランスへの賠償金は完済せず、近代化のための借金もふくらみハイチの財政を圧迫した。またドイツによる干渉とハイチ占領・植民地化の試みも繰り返されたため、カリブを裏庭とみなすアメリカの警戒を呼び、1915、アメリカは債務返済を口実に海兵隊を上陸させハイチを占領、シャルルマーニュ・ペラルト将軍などが海兵隊と戦ったが敗れ、数十万人のハイチ人がキューバやドミニカ共和国に亡命した。アメリカ軍は1934まで軍政を続け、この間合衆国をモデルにした憲法の導入、分裂を繰り返さないための権力と産業の首都への集中、軍隊の訓練などを行ったが、これは現在に続く地方の衰退や、後に軍事独裁を敷く軍部の強化といった負の側面も残した。またハイチの対外財政は1947までアメリカが管理し続けた。
1934年には世界恐慌の影響や、ニカラグアでのサンディーノ軍への苦戦などもあって、ルーズベルト合衆国大統領の善隣外交政策により、ハイチからも海兵隊が撤退することになった。アメリカ占領以降、数人のムラートの大統領が共和制のもとで交代したが、経済苦境は続き1946にはクーデターが起こりデュマルセ・エスティメが久々の黒人大統領となった。
社会保障や労働政策の改善、多数派黒人の政治的自由の拡大などさまざまな進歩的な改革を行おうとしたが、改革はムラートと黒人との対立など国内混乱を招いた。1950年、エスティメは憲法を改正して再選を図ろうとしたため、ムラート層や黒人エリートらによるクーデターで黒人エリート軍人、ポール・マグロワールによる軍事政権が誕生した。彼の時代、経済はコーヒーやアメリカからの観光などの景気でいっとき活況を呈したが、またも再選を図ろうとしたことをきっかけに全土でゼネラル・ストライキが起こり、混乱する中1956末に彼はクーデターで打倒された。

デュヴァリエ独裁政権 [編集]

1957、クーデターで誕生した軍事独裁政権下で、民政移管と大統領選出をめぐりゼネストやクーデターが繰り返され政治は混乱したが、9月に行われた総選挙をきっかけに、黒人多数派を代表する医師でポピュリスト政治家のフランソワ・デュヴァリエが大統領に就任した。彼は福祉に長年かかわり保健関係の閣僚も歴任し、当初は黒人進歩派とみなされ「パパ・ドク」と親しまれたが、翌1958から突然独裁者に転じ、警察や国家財政などを私物化し近代でもまれに見る最悪の軍事独裁体制を誕生させた。
デュヴァリエは戒厳令を敷いて言論や反対派を弾圧、秘密警察トントン・マクートを発足させ多くの国民を逮捕・拷問・殺害した。1971にデュヴァリエは死亡し、息子のジャン=クロード・デュヴァリエ(「ベビー・ドク」)が継いだ。国家財政が破綻しクーデターでデュヴァリエが追われる1986までの長期に渡り、デュヴァリエ父子主導の下、トントン・マクートの暗躍する暗黒時代が続いた。

デュヴァリエ以降 [編集]

1987に新憲法が制定され、民主的選挙によって選出された左派のアリスティド1991に大統領に就任。しかし、同年9月のラウル・セドラ将軍による軍事クーデターにより、アリスティドは亡命。アリスティド支持派はハイチの進歩と発展のための戦線により多数殺害された。軍事政権は、国連国際連合ハイチ・ミッション)及びアメリカ合衆国の働きかけ、経済制裁などの圧力、更に軍事行動を受けた結果、政権を返上。セドラ将軍は下野し、アリスティドは1994に大統領に復帰した。1996、アリスティド派のルネ・ガルシア・プレヴァルが新大統領になり、2001には、再びアリスティドが大統領となった。
2004に入って武力衝突が発生。200425日「ハイチ解放再建革命戦線」が北部の町ゴナイーヴで蜂起した。1994年以降に国軍の解体が進められていたこともあり、反政府武装勢力に対し政府側は武力で十分な抵抗することは出来なかった。229日、アリスティド大統領は辞任し、隣国ドミニカ共和国へ出国、中央アフリカ共和国に亡命し、アレクサンドル最高裁長官が1987年の憲法の規定に従って暫定大統領になった。アリスティド前大統領は中央アフリカ共和国においてフランス軍の保護下に入った(この顛末については、アメリカの関与も指摘されている)。
三者評議会は直ちに賢人会議を立ち上げ、長く国連事務局にあったラトルチュを首相に指名、組閣が行われた。一連の動きに対し国連は臨時大統領アレクサンドルの要請に基づき多国籍暫定軍(MIF)の現地展開を承認し、31日には主力のアメリカ軍がハイチに上陸した。420日には安保理決議1542号が採択され、MIFの後続としてブラジル陸軍を主力とする国際連合ハイチ安定化ミッション(MINUSTAH)を設立、治安回復などを図ることとなった。20062月に大統領選挙が行われルネ・ガルシア・プレヴァルが51%の得票率で当選し、5月に大統領に就任した。
2010112日、マグニチュード7.0の地震が発生し、ポルトープランスを中心に甚大な被害が生じた。更に追い打ちをかけるようにコレラが大流行し、多数の死者が出た。地震を機にMINUSTAHの陣容は増強され、2011年現在も活動中である。
201011月、プレヴァルの後任を決める大統領選挙が実施されたが、選挙にまつわる不正疑惑から暴動が発生、20113月にようやく決選投票が実施された。決戦投票の結果、ポピュラー歌手出身のミシェル・マーテリーが大統領に選出された(就任は5月)。民選大統領の後継を同じく民選大統領が務めるのは、ハイチの歴史上初めてのことである。

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