昭(あき)―田中角栄と生きた女  佐藤あつ子  2012.7.14.

2012.7.14. (あき)―田中角栄と生きた女 

著者  佐藤あつ子(本名敦子) 1957年品川区にて田中角栄と佐藤昭の娘として生まれる(認知されていないため、戸籍上の父は別にいる)。中学から慶應へ、大学2年時退学。文藝春秋(201111月号)で公表した『田中角栄の恋文』が第73回文藝春秋読者賞受賞
佐藤A子は片山龍太郎氏(さつきの夫)と同じ慶応大学の経済学部に進学。このような事情もあり、彼女はクラスでは控え目にしていたそうです。それでも、美人の部類に入る彼女は、やはり目立つ存在であったようです。また、早くから大人の世界の複雑さを知っていた彼女は、同世代の学生が幼く見えたのでしょうか、どこか超然とした感じもあったらしいです。
また、慶応の学生時代の片山龍太郎氏は、マルマンの御曹司とはいっても、気取った感じもなく真面目な学生だったそうです。マルマンが一躍有名になったのは、メタルウッドの「弾丸」ブーム以降で、当時は時計バンドやライターを作っている比較的地味な存在だったからかもしれません。
片山氏は大学卒業後大学院へ進学しました。A子の方は、大学を中退したとの噂で、その後雑誌編集者との恋愛が、週刊誌に再度取り沙汰されることもあったようですが、現在は完全な私人という立場です。一方、母親の佐藤昭子氏の方は今でも時折マスコミにも登場します。情報源は、サンデー時評:佐藤昭子さんの「小泉批判」に同感)です


発行日           2012.3.11. 第1刷発行
発行所           講談社

2010.3.11. 東日本大震災の1年前、佐藤昭子逝去。享年81。越山会の女王、田中角栄の金庫番のひっそりとした死。娘だけが立ち会い
母が幸せだったのか、新潟から出てきた1人女性がなぜそんな人生を歩もうとしたのか、なぜ私を生んだのか、生まなければならなかったのか
()の実家はかなり裕福。父方も母方も大地主の家系。母方の実家は洋品店と文房具店とクラブ化粧品の代理店を兼ねた「竹源」という商店、町内で最も大きな店構え。佐藤家の筆者の祖父母も「よろず屋」という雑貨商を経営していたが、次々と病魔に冒される。
24女の末っ子。女児2人は夭折。4歳のとき父死去。次男も16歳で3女も直後に死亡。長男も結核で病死。祖母ミサは1人残った昭を溺愛したが、昭15歳の時死去。他家に下宿しながら教師を目指す。東京の家政大学に合格するも大空襲で大学は閉鎖となり柏崎に戻る。462月そこに選挙運動中の角栄が現れ昭に一目惚れ
2人の兄のうちの1人が角栄の秘書だった朝賀昭(日比谷高校3年の頃自民党本部にアルバイトに駆り出されて以来、角栄の身近に仕える ⇒ 如蘭会名簿には同名の人はいない)

神楽坂「金満津(かねまつ)」の藝者、辻和子(27年生。没落商家の娘、神楽坂の置き屋の女将に売られ、芸者になる。2009年歿、晩年『熱情、田中角栄をとりこにした芸者』を出版) ⇒ 46年に角栄と出会い男児2人をもうける
角栄の本妻はなとの間の男の子は4歳で死去、和子の長男を養子に
筆者の戸籍上の父は、昭の2番目の夫だが、記憶はない。角栄だという証拠もない。ただ、残された角栄から昭への手紙(昭が死ぬまで耐火金庫に保管していた)の中では、敦子と眞紀子とを同列に書き、敦子のことを不憫な子ほどかわいいと書いている
昭の最初の夫 ⇒ 柏崎商業の弁論部主将。満鉄。入隊し中尉。文学同人誌を主宰。角栄の応援弁士。昭も選挙を手伝う。角栄は落選。2人は結婚。男児1人。角栄から秘書に誘われるも拒絶するが、翌年の選挙で角栄が当選すると、角栄を頼って上京、電気屋を開店。51年末倒産。52年離婚。離婚直前、昭に手を差し伸べた角栄の秘書に。
昭の2度目の結婚 ⇒ 54.8.新橋のキャバレーで働いていた時の客。大井町にアパートを建てて住む ⇒ 角栄の愛人になっていたが、煮え切らない角栄に業を煮やして腹いせに再婚、敦子も角栄との子だが、昭が結婚していれば私生児にならなくて済むという計算
1962年 離婚して、大井町のアパートを売却、角栄にとっても便利な赤坂へ
1974年 立花隆の『田中角栄研究――その金脈と人脈』が文藝春秋11月号に掲載
その記事と並んでルポライター児玉隆也の『淋しき越山会の女王』が発表され、封印した過去の一端(離婚後の転落人生)が公表。児玉は角栄辞任直後に病死
昭は秘書家業と麻雀で忙しく、筆者はクラスにも馴染めず、この頃手首をカッターで切るようになる
文藝春秋の記事の直後に角栄辞意。辞任後筆者の自殺未遂も週刊誌沙汰に ⇒ 酒浸り、薬漬けで手が付けられず
76年 ロッキード事件で角栄逮捕 ⇒ 昭が検察の調べを一手に受けて角栄を保釈に持ち込む
大学を中退した筆者を、昭はアメリカ留学させようと、イ・アイ・イの高橋治則に頼むが、むいていないことが分かり、西麻布のバーでアルバイト、喫茶店からスナックを開く
81年 筆者は男を追って大阪に行き、神戸のホテルの5階から飛び降り自殺 ⇒ 途中の木に引っ掛かって未遂に終わる
85年 角栄脳梗塞で倒れる ⇒ 角栄は毎日酒浸りだった。昭との接触は絶たれた
倒れる前から、昭は角栄の子飼いの国会議員と関係を持つ
倒れた後も、昭は政財界からの支援を受ける ⇒ 93年第二電電の第3者割当で22億もの利益を得る(東京協和信組の理事長になっていた高橋治則が昭に接近) ⇒ 最晩年には生活に困窮
94年協和信組破産、95年高橋が背任容疑で告訴、預金が回収できずに生活に困る
高橋は釈放後、昭の下に戻ってきて事業を始めたが05年くも膜下出血で急死。高橋を信頼して全てを預けていた昭の資産は消失 ⇒ それでも何とかやりくりしてそれまでの生活を続けていたが、08年肺癌が発覚



書評 朝日新聞 2012.4.29. [評者]後藤正治(ノンフィクション作家)
「昭和の父母」を問い直す娘
 その権勢において、金力において、上昇と下降の劇的さにおいて、田中角栄は戦後最大の政治家だった。公私にわたって寄り添ったのが「淋(さび)しき越山会の女王」こと佐藤昭であったが、彼女も鬼籍に入った。本書は、2人の間に生まれた娘・あつ子による私的な回想記である。
 小学生のころ、家に来れば濃い味のすき焼きを好む「おじちゃん」は「お父さん」となった。父はどんどん偉くなり、娘にはいつも使い切れないほどの小遣いを手渡し、海外に出るとまめにハガキを寄越した。すべてにおいて過剰だった。家庭もまた、三つの家族に同時に愛情を注いでいたのだから。
 有能な秘書である母もどんどん偉くなっていく。父への電話一本で、千万単位の札束が議員たちに手渡される。いつも周りに人々が群がり、海外への便はファーストクラス、旅の姿を収録するビデオ係も同行させた。
 娘もお姫様暮らしが続く。旅先の旅館に忘れ物をしたといえば即、だれかが探しに向かう。スキーをはじめると即、プライベートコーチがつく。多くを与えられつつ、娘は心の問題を抱えていた。リストカット、過度の飲酒、自殺未遂……自身をさらし、父母の私事を記すことにおいて筆はとても率直である。
 娘にとって母はずっと反発と葛藤の対象だった。角栄を失い、財力を失い、孤独のなかで病床についた晩年、ようやく母の人生への思いが深まる。思春期に孤高の身となり、ネオン街に身を染め、必死に生きてきた人。彼女もまた淋しかったのだ——。母への旅は自身の人生を問い直す旅ともなっていく。
 生涯を権力の興亡の渦中で生きた1組の男女。雪国に生まれた2人はともに「克雪」を背負い、安易に語りえない個人史を抱えた「昭和の人」だった。本書を閉じつつ、〈哀感〉という2文字が幾度もよぎった。
    
 講談社・1680円/さとう・あつこ 57年生まれ。「文芸春秋」で公表した「田中角栄の恋文」で文芸春秋読者賞。

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