白秋望景  川本三郎  2012.7.2.

2012.7.2. 白秋望景

著者 川本三郎 1944年東京生まれ。東大法卒。評論家。69年朝日新聞入社。「週刊朝日」「朝日ジャーナル」の記者を経て、評論活動に入る。91年『大正幻影』(サントリー学芸賞)96年『荷風と東京』(読売文学賞)03年『林芙美子の昭和』(毎日出版文化賞、桑原武夫学芸賞)
11-08『マイ・バック・ページ』参照

発行日           2012.2.10. 第1刷発行
発行所           新書館

『大航海』に03年から連載、夫人の死を越えて8年かけて完成 ⇒ 「涙」という通奏低音がハッキリした
『荷風と東京』『林芙美子の昭和』に次ぐ文学者の評伝。好きな文学者の作品と生涯を追う幸せをいま思う


柳河(1952年柳川市に)の沖ノ端に代々続く海産物問屋であり造り酒屋だった実家が、1901年の大火で酒倉と6千石の酒を失い、以後家運が大きく傾き、1909年白秋最初の詩集『邪宗門』発刊の年の暮れに破産
あらゆる桶が日本酒を満たしたまま炎上、人々は酒の流れを飲み、泥酔して北原家の母屋に上がり込んで歌い踊って、消火活動どころではなかった
白秋は、愛読してやまなかった1897年出版の藤村の『若菜集』が燃えているのを「涙を溜めて何時までも凝視(みつ)めていた」(『思ひ出』) ⇒ 詩の道に進もうとしている少年ならではの切実な感傷
水の都で水が火に負けた
白秋にとって故郷柳河は失われた町、廃市(福永武彦に同名の小説がある。白秋は『死都ブリュージュ』からとった)である
2歳でチフスにかかったが、看病した乳母が死亡。4歳下の妹も12歳のときチフスで死亡
『思ひ出』は、詩壇に好評をもって迎えられ、出版記念会で上田敏が「日本古来の歌謡の伝統と新様の仏蘭西芸術に亘る総合的詩集]であるとし、その感覚解放の新官能的詩風を推奨、落涙したと言及、「白秋を崇拝する」とまで激賞。11年秋の『文章世界』明治十大文豪投票において、詩人の部1位に選ばれる
1904年上京。新橋駅頭に立った白秋の眼に飛び込んできたのは、電気燈、白熱瓦斯の明かり ⇒ 同じ頃上京して同じ明かりを見つめていた石川啄木は生活詩を深め、大逆事件に憤慨して「時代閉塞の現状」を書いたが、白秋は青白い光の中に都市のメランコリー、淡いデカダンスを見ようとしており、象徴詩を深めて、お互い住む世界が違ってゆく
早大英文科予科入学 ⇒ 坪内逍遥のシェークスピアの講義が主目的。同じ九州(宮崎県)出身の若山牧水と親しくなる。日露戦争の終結と同時期に上田敏の『海潮音』が出て、新しい時代の到来を予感させる。上田敏を「私の魂の母」(「父」は鷗外)といって尊敬、上田敏を通じてヴェルレーヌ他の西洋詩に触れ、西洋の文化への強い思いを抱く(永井荷風が『ふらんす物語』で臆面もなく憧れた気持ちに似ている)
白秋の西洋への憧れを考える時、忘れてならないのは日比谷公園 ⇒ 19036月初の西洋風公園として開園 ⇒ 神社仏閣の境内から初めて自立
東京に出てきて初めて故郷の水の美しさが思い出された ⇒ 『思ひ出』
江戸時代東京は水の町 ⇒ 近代に入り水が失われていった。「水」が失われていくものの象徴となったが、幸田露伴を筆頭に「水の東京」再発見の流れが出来つつある頃にあたる
1906年 与謝野鉄幹主宰の新詩社に入り、同世代の木下杢太郎と知り合い「パンの会」を結成したことが「水の発見」に影響。木下が隅田川とその周辺の水辺の町へ強い想いを持っていたから。川べりに残る江戸情緒に関心
1908年 アメリカ、フランスへの遊学を終えて帰国した永井荷風が目に留めたのも隅田川べりの町。東京の急速な近代化から取り残された隅田川べりに違和感を覚え、先ずは隅田川を渡って、深川の陋港へと入り込む
荷風が隅田川の中に見ようとした「荒廃の美」と、白秋が柳河を「廃市」と呼んだ世界と殆ど重なり合う ⇒ 水への思い、水の風景の発見というところで深く重なり合う
荷風が称賛した谷崎の『刺青』もまた水の文学 ⇒ 深川という水の町が舞台
芥川龍之介も、「僕らの散文に近代的な色彩や匂を与へたものは詩集『思ひ出』の序文だった」と、序文への感動を隠さない
序文:「私の郷里柳河は水郷である。さうして静かな廃市の一つである」
「水郷」「廃市」という言葉が作り出す、どこか、うらがなしくメランコリックな水の風景、近代文明から取り残され、ゆっくりと表舞台から消えてゆく水の町が、現代社会に違和感を覚えている文学者の心を慰藉する
伏線になっている文学の1つに鷗外が9年かけて訳し1902年に出版されたアンデルセンの、イタリアを舞台にした『即興詩人』 ⇒ ヴェネチアの画舫(ゴンドラ)が一世を風靡

杢太郎は後に『白秋のおもかげ』の中で、「われわれは、哲学臭い思想を盛った詩は好まないで、まるで画筆をペンに代へたやうなのを作った」と書いている
「赤い鳥小鳥」「からたちの花」 ⇒ 画筆で書かれたように色彩に溢れる
1歳の夏、真夏の陽に照り輝く母の白蝙蝠傘(パラソル)をはっきりと覚えている、という
処女詩集『邪宗門』は、赤と金が目立つ豪華本。なかば自費出版だったが、「パンの会」の同士の画家、石井柏亭による装幀、装画、山本鼎の木版画、杢太郎のデッサンが加わる ⇒ 萩原朔太郎と並ぶ白秋の門下生、室生犀星がまだ金沢の裁判所に勤めていた頃、詩集を買っても中身は理解できなかったが、色彩やかで新鮮だった本を撫でさすっていた(月給8円のところ、詩集は150)
白秋の「色彩詩人」としての作品を見てゆくと、白秋にとっては、光や色彩を発見し、それを見つめてゆくことこそが思想だったのではないかと思えて来る。色彩への鋭敏な感受性、感覚そのものが思想になり得ている ⇒ 晩年眼を悪くし、視力を失ってゆくのは何とも悲しいこと
動きの中にある色を巧みに表現する。色彩を多様にちりばめてゆくことが、新しい時代の歌なのだという強い意思がある。特に赤と金を好んだ
美術評論家、高階秀爾は時代の色があるという ⇒ 明治30年代は「紫と青」の時代で、黒田清輝の「湖畔」や青木繁の「海の幸」、その後が白秋や茂吉(歌集『赤光』)の「赤や朱」の時代、それまでの日本の紅とは違った西洋の赤が近代日本の社会に徐々に入ってきている
1902年にはカラー印刷が登場

『邪宗門』 ⇒ 空想の言葉による大伽藍。現実の中に突然現れた言葉の蜃気楼
ちんぷんかんぷんの中に、新しい言葉を作りたいという若い客気がある
生涯ついに西洋を現実には見なかったが、詩や絵画を通して知った西洋への強い憧れがあり、まだ見ぬ異国を夢に見続けた ⇒ 異国が、人工的に変えられた幻影となった
白秋のもう一つの西洋が「南蛮」で、南蛮文化は長崎に近い柳河で育った思い出に繋がる
鷗外や敏を通して、翻訳語という第三の言葉があり得ること、いな、詩人は言葉を作ることが出来るのだと、思い知った ⇔ 『邪宗門』の詩稿ノートに「海潮音」と「独創」とが併記されている。「海潮音」で知った翻訳語の1つが「鬱憂(メランコリア)
フランス文学で近代の憂いを知った永井荷風が繰り返し「悲哀」を語ったことに似ている
「パンの会」Younger generationの熱狂 ⇒ 旧来の道徳、倫理に反抗しようとする新しい世代の客気の現れ。その中で白秋は自ら「一躍して芸苑の寵児となった」といった ⇒ 人妻との姦通事件で世間から指弾され、一度は死のうとも思い、深い憂いの世界へ
姦通事件の相手は、隣家の新聞社のカメラマンの妻で薄倖の文学少女。白秋は、西洋文学を援用して想いを表すとともに、未完の小説『彼とその周辺』では、決して「姦通」ではなく「恋愛」だといおうとしている。12年収監・起訴されたが弟の奔走により示談・免訴
白秋が童貞を失ったのは09年のこと、啄木に浅草の十二階(凌雲閣の俗称、震災で倒壊)下に連れて行かれた
白秋の挫折と、抱えていた「近代詩」の問題 ⇒ 13年に出版された白秋の第一歌集『桐の花』には、事件前後の両面が出ているが、自ら恋愛を肯定する方へ向かわず、むしろ旧く不条理な法律の下で、世間という無言の圧力の前に脆く挫折していってしまう姿の中に、「近代」の困難が見えてくる。白秋の「前近代性」は事件によって自分以上に衝撃を受けたであろう母や弟への思い遣りの中にもある
白秋は、三崎の「海」からの柔らかい「光」によって死への想いから救われる ⇒ 13.5.14.2. 三崎での両親、姦通相手の妻と4(後に、弟妹も一緒と記載あり、矛盾)の田園生活が一大転機となる(「初めて心霊が甦り、新生是より創まった」) ⇒ 土臭い、生の力が溢れた歌が多くなる
肺を病んだ妻の療養も兼ねて、南のフロンティア小笠原の父島に渡るが、6か月で挫折 ⇒ 島の生活によって、「霊が益洗礼され、肉体は益健康になり、私を赤裸々にし人間らしく大胆に純一に真実にさしてくれた
19年ごろまでは「窮乏」生活を余儀なくされた ⇒ 父には逆らったが母親の仕送りで裕福な学生生活を送った後、詩を投稿していた雑誌の編集に携わるも薄給。明治中期までは詩が教養の一部として読者人口もあったが、次第に読者が減って詩集の刊行が難しくなっていた ⇒ 『邪宗門』の発行費用250円は全額自己負担
実家の破産後も、母親が送ってくれた慶長小判(117)を換金する生活が続いたが、実家の破産で一家が上京、そこへ姦通事件が起こる。示談金300円は弟、鐵雄が奔走して調達。以後弟が実社会人として経済人として兄を支え続ける
父島から戻って麻布十番の借家住まいとなったが、詩集は売れず貧乏生活が続き離婚
16年 平塚らいてうを通じて知り合った歌人、江間章(あや)子と再婚。芸術の理想に生きる者が受け入れるべきと覚悟して貧しさを楽しむようになる
市川市真間から、さらに小岩へと転居、「紫烟草舎」と名付ける ⇒ 白秋の詩才に敬意を払っていた谷崎が、『詩人の別れ』で当時吉井らを伴って訪れたときのことを書いたが、そこには貧しくとも「自分の藝術に忠実な」生活をしている白秋への敬意と羨望そして「芸術」の価値を信じ得た大正期の文学者の連帯感が込められている
村童たちと遊びながら、「童心」「無垢」にも本気で心を寄せ、童心讃歌が始まる
「紫烟草舎」は、69年に国府台の里見公園に市川市の文化財として移築復元され、小岩には八幡神社内に白秋の歌碑が建てられている
18年 小田原転居 ⇒ 妻の胸の病気療養のため
19年 貧窮生活から脱し、家を新築「木菟(みみずく)の家」
20年 洋館新築の地鎮祭の前に妻が雑誌編集者と駆け落ち。21年生涯の伴侶と再婚
18年 鈴木三重吉が独立した子供の世界のための「芸術として真価ある純麗な童話と童謡の創作」を謳って創刊した『赤い鳥』に、白秋も積極的に童謡を発表。発刊は成功 ⇒ 8年近い間に1000近い童謡を作る。詩として読んでも豊かな味わいがある(『雨』:雨が降ります、雨が降る)15年ほど続けた後鈴木と仲違いをして終わる
当時、学校で歌われたのは官製の唱歌、童謡は禁じられていた ⇒ 教室の外でそっと歌われた
白秋は、あまりに言葉に鈍感な学校教育を激しく批判、子供の自由な表現を型に当て嵌めてゆこうとするやり方に反発
新しい日本の童謡は、根本を在来の日本の童謡に置く。日本の風土、伝統、童心を忘れた小学唱歌との相違はここにある
母の帰りを待ちかねて、金魚を1匹づつ殺していく詩を残虐だといって西条八十が批判したが、      子供の行動はその刹那において全く善悪を超越しているので罪はなく、それを大人の価値観でとらえることが間違い
イギリスの伝承童謡『マザー・グース』は、欧米の映画(『お熱いのがお好き』『カッコーの巣の上で』)や本(『そして誰もいなくなった』)、歌(『スカボロー・フェア』)に溢れているが、日本で最初に翻訳したのは白秋 ⇒ 20年初めから『赤い鳥』に次々に紹介。21年末には132篇を訳出して出版(竹久夢二の方が早いが、出典の断り書きがない)

25年 歌人仲間に誘われ樺太に1か月遊ぶ ⇒ 旅行記を連載し出版。戦前の樺太を訪れた文人の数少ない紀行文として貴重。車で樺太を横断
童謡で、子供たちが日常的に使う口語の終助詞「よ」が多用され始める ⇒ 白秋『からたちの花』、三木露風『赤蜻蛉』、野口雨情『七つの子』
白秋とコンビを組んで、白秋が死ぬまで20余年の友情の中で300余りの歌曲を作ったオーケストラの父で、日本最初の正規の作曲家、山田耕筰(白秋の1歳下)は、篤志家の創設した「自営館」で苦学して勉学に勤しみ、東洋人として初めてカーネギーホールで自作曲を指揮、19年日本に凱旋したときには白秋とも面識があった(鈴木三重吉の紹介) ⇒ 22年雑誌『詩と音楽』を2人で発刊するとともに大阪の化粧品会社、中山太陽堂がスポンサーとなって発刊された月刊誌『女性』に毎号のように新作を発表 ⇒ 『からたちの花』の詩は『赤い鳥』の247月号、曲は『女性』の255月号
歌曲の創作においては、詩人は夫、作曲家は妻という考え
もう1つの代表作が『この道』 ⇒ 詩は26年、曲は27年の作
白秋は、当初自分の詩に音楽が付くのを嫌っていた節がある ⇒ 「詩人の思い通りの曲が成ることはありえない。詩人1人の詩境から出来たものであり、詩そのもののリズムが既に出来上がっている」といっていたが、よほど山田と気が合ったのだろう ⇒ 山田は戦後、「白秋が死んでからは、僕はいい作品を書いていない」といったという

生活が落ち着いてからは、よく旅をした。37年に視力が衰えてからは難しくなるが、それでも41年には最後となる九州・関西に出掛けている
最も大事なものは、28年の故郷柳河への旅。07年に一度戻って以来。大阪朝日新聞が自社の最新鋭旅客輸送機「ドルニエ・メルクール」を使って日本縦断空の旅を企画、称して「芸術旅行」、全行程を4つに分け、北九州から大阪を第1区として白秋を搭乗者に選び、空から見た紀行文を新聞に載せようとした
飛行の直前、家族で柳河を訪れる ⇒ 実家の倒産で顔向けできなかった白秋を、故郷は温かく迎えてくれた
皇紀2600年奉祝の芸能祭に際し、白秋作詞、信時潔作曲の交声曲(カンタータ)『海道東征』 ⇒ 戦後長い間、『海ゆかば』の作曲者の曲ゆえに本格的にオーケストラで演奏されることはなかく、今日でもなお政治やイデオロギーと切り離し、純粋に音楽として演奏することは難しいが、「忌まわしい歴史」を越えて、明らかに美しい宗教音楽として聴ける
糖尿病と腎臓病による眼底出血で視力を失った状態で、殆ど口述筆記のようにして完成
戦時中は、陸軍省の依頼もあって、軍歌を数多く作っている ⇒ 国際連盟を脱退した時の『脱退ぶし』など、同じ詩人かと呆然とする
意外なことに、社会派と呼びたくなるような歌が幾つかある ⇒ 小河内ダムの建設で湖底に沈むことになった奥多摩の村の貧しい人の側に立つ歌(35)と、二・二六事件で処刑された将校らの気持ちを思って心情溢れる歌を詠んだ
小河内では、村の温泉を訪れて91首作った後、死を賭して内務省他に陳情した農民が警官隊の制圧にあって血を流したときに読んだ70
二・二六では、蜂起した麻布歩兵3連隊の隊歌を作詞しただけに思うことが深かったこともあって、テロリズムには怒っても、兵たちの心情は「同情」に値すると思ったのだろう
36年成城に転居、さらに40年阿佐ヶ谷に移り、此処が終の棲家となる ⇒ 北口、高円寺寄りの五つ角の近くにいたので、町の人は「五つ角の白秋さん」と呼んでいた

あとがき
白秋は、徹底して言葉の人、言葉に生きた。韻文の世界で筆1本で生きた
常に時代の中で新しい言葉を考え続けてきた革新性に惹かれる
近代日本の歴史の核にあるのは「涙」だ。早くに近代化した西洋列強に追いつこうとしたら誰でもが必死にならざるを得ない。その健気さから「涙」が生まれた
白秋にとって大事だったのは、この、遅れて近代化しようと懸命になっている東洋の小さな島国の切ない必死さではなかったか。その近代日本を言葉で表そうとすれば、どうしても「涙」に行き当たらざるを得ない。名作『からたちの花』の涙も、近代日本の悲しい「涙」ではなかったか。われわれにとって「涙」がいかに大切か、それをこれまで非理性的、感傷的とあまりに安易に否定してきたのではなかったか



白秋望景 []川本三郎
時代と格闘した偽りなき人生
 この書は詩歌の人・北原白秋の軌跡を辿(たど)った評伝だが、その実著者による追悼詩のような趣をもつ作品である。著者自身が描いている白秋像を自らの言葉で解きほぐしていく。20の章でその57年の人生を彩るエキスを取り出し、それを濃密にデッサンしていくかに見える。
 「水の感受性」という章がある。「水があった」との一行から始まる。1904(明治37)年に東京に出てきた白秋は、隅田川という「水」に接して、自らの故郷、九州・柳河の水郷を詩的風景として捉える。いやこの期、永井荷風や芥川龍之介、谷崎潤一郎らとて「水」の東京を描くのだが、そこに通底するのは「西洋」への強い意識だ。「赤の発見」の最初は、「はじめに色があった」。白秋の心情に、いや白秋の詩歌がモチーフとするその人間感情に、著者は否応(いやおう)なく読者を引きずり込む。練達な表現(「白秋の目に、東京はまず光の町として飛びこんでくる」「言葉のキャンバスに新しいさまざまな色を描き出し」「思えば大正時代は、文学者が田園を目ざした時代でもあった」など)が至る頁(ページ)にあり、それが白秋を文学史上に位置づける著者の執念と窺(うかが)える。
 むろん白秋の私生活はすべて明らかにされ、三度の結婚や東京に出てきてから30回以上住所を変えたこと、さらに小笠原での隠遁(いんとん)生活で出会う「リデヤ」という無垢(むく)な少女の存在が、童謡の作詩にはいらせたのではないかとの著者の推測などは肯(うなず)ける。生涯の大半を筆一本で生きたこの詩人は、あからさまに時代と格闘したのだ。昭和のある時期には空疎な軍歌も作詩しているが、その心情にひそんでいるのは自身のナショナリズムへの苦悩であったのか。
 著者も関心を示す「金魚」(大正8年作)の残酷さ、が、そこにあるのは白秋の説く「童心童話」だとの指摘に、その偽りのない人生を確認し、著者と涙を共有する。
    
 新書館・2940円/かわもと・さぶろう 44年生まれ。評論家。著書に『荷風と東京』『林芙美子の昭和』など。


白秋望景 川本三郎著 「涙」を通奏低音に生涯を語る 日本経済新聞 書評 2012/3/11


 白秋を愛してやまない人が、「涙」を通奏低音にしてその生涯を語り尽くした評伝である。
 まず水が取り上げられる。白秋の故郷柳河は水の都であり、「廃市」である。次に色が語られる。白秋の詩歌には多彩な色が現れる。赤・金・白・青・黒・黄。まことに鮮やかだ。童謡の「赤い鳥、小鳥、なぜなぜ赤い。赤い実をたべた」は2連では白に、3連では青に変わる。「からたちの花が咲いたよ。白い白い花が咲いたよ」は2連では青に、4連では金に変わる。
 白秋が颯爽(さっそう)と登場した『邪宗門』では煌(きら)びやかな赤が基調だった。それが松下俊子との姦通(かんつう)事件をおこし、監獄に収容されると、赤は桐(きり)の花の淡紫色に変化する。
 白秋は俊子との生活に破れ、再婚した江口章子と雀(すずめ)を相手にした葛飾時代の困窮生活のなかで再生する。のどかな田園で村の子供たちと接した慎(つつ)ましい生活の内部から白秋の童心と無垢(むく)への思いが育まれていった。
 読者はここから白秋の童話の世界へと招待される。
 川本さんは白秋童話のキー・ワードは「涙」だと言う。童話はその多くが小田原時代に作られた。白秋の疾風怒濤(どとう)時代は小田原で終わり、3番目の菊子夫人との間に子を交えた平穏な暮らしが訪れる。その平穏さのなかから「童謡は童心童語の歌謡である」と考える白秋の「栗鼠(りす)、栗鼠、小栗鼠」「雨」「赤い鳥小鳥」「揺籃(ゆりかご)のうた」「からたちの花」「この道」「ペチカ」などが生まれた。
 「この道はいつか来た道、ああ、そうだよ、あかしやの花が咲いてる」に顕著なように童謡における「よ」の発見を指摘するなど著者は白秋童話の世界に深く身を沈める。「からたちの花」の5連は「からたちのそばで泣いたよ。みんなみんなやさしかったよ」となっているのは素晴らしいと著者は熱っぽく語る。涙を感傷的にとらえるのではなく、「近代日本の歴史の核にあるのは涙だった」という視点に立って、川本さんはつねに時代の中で新しい言葉を創造し続けた白秋の生涯を再構築している。『荷風と東京』『林芙美子の昭和』と合わせ評伝3部作になる。
(文芸評論家 川西政明)

谷崎潤一郎全集より
『藝談』:或る人が北原白秋君を難じて、白秋はカラリストだ、彼の詩には色彩があるのみだ、あの男は恋愛や夫婦関係や生計の苦労など、なみなみならぬ経験を嘗めているから、それに伴う複雑な生活感情が歌われていていいはずなのに、惜しいことにはそういうものが何も出ていない、折角の経験が彼においては少しも役に立っていない、ただ単純な官能をもって物を眺め、詠嘆しているばかりであるといったことがある。そこで私はその人に言った、いかにもそういう風に言えばその通りかもしれないが、それとは逆な考え方もある、実生活でいろいろな苦労をしていながら、なお官能の純粋さを失わず、感覚の統一を保っているということは、中々常人の及ぶところでないという風に見たらどうか、人は生活難に煩わされたり、哀別離苦の思いに悩んでいたりすると、たまたま自然の風物に対しても容易に心が慰まないのが普通である、悲しい時には花咲き鳥歌ううららかな野辺の景色までが悲しく見える、しかるに俗世間の苦労が少しも精神的打撃にならず、極彩色の花を見れがすぐその色の美に打たれ、明朗な空の陽光を眺めれば忽ちその光に胸を躍らすというのは、即ちその人が小児の心を持っている証拠ではないか、今日では、現実に打つかって行かないものは真の文学に非ずという風に思われがちであるけれども、複雑な現実を離脱して単一な世界に安住することの方が、却って難しい場合もある、白秋を批判するなら、そういう風に見てやらなければ気の毒であると。
今日の文壇の常識では、現実を逃避した文学は卑怯であるということになっている。しかしそういう風な考えは西洋文学の影響であって、元来われわれの持つ文学の職分は、俗世間の苦労を忘れさせることにあった
『岡本にて』:いにしえの文人は、皆何かしら、即席に筆を持たされても困らないだけのたしなみがあった。大臣や代議士なぞが変な漢詩を臆面もなく発表するのもハタ迷惑だが、書く文句がなくって「児童心理学」と書いたという緑雨の話にあるようなのも困りもの。近頃南画めいたものを画き出したのは武者小路君だが、ちょっと素人らしい面白い味を出していて、余技としては立派なもの。あのあんばいではまだまだ上達するだろう。その外北原白秋君も絵をかく。

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