東京をおもう  谷崎潤一郎  2012.7.1.

2012.7.1. 東京をおもう                                  (昭和9年記)

著者  谷崎潤一郎 

発行日           2001.12.25. 印刷             1.10. 発行
発行所           中央公論新社(中公クラシックス) 中央公論社刊『谷崎一郎全集』第20(1982.12.)、第21(1983.1.)、第22(1983.6.)からの転載

大正1291日 蘆ノ湖畔のホテルからバスで小涌谷に向かう途中、蘆の湯を過ぎてほどなく地震に遭遇、徒歩で小涌谷の方へ降りながら、まず横浜の妻子のことを考えた。大の地震嫌いで、地震の被害を相当大きく見積もった
当時の東京は、「大都会」とはとてもいえない泥濘で、二重橋外の広場は夜更けて自動車の往来が頻繁なために道路の破損すること甚だしく玄界灘といわれた
財界の活況につれ、急膨張した都会で、受け入れ態勢も整わないうちに人が溢れかえった
西洋映画に現れる完備した都市の有様を見ると、ますます東京が嫌いになり、大正7年に支那に遊んで、さらに東京嫌い、日本嫌いになった
ラフカディオ・ハーンは、人は悲しみの絶頂にある時に見たり聞いたりしたことを生涯忘れないものだといった。だが私はまた、人はどんな悲しい時でもそれと全く反対な嬉しいことや、明るいことや、滑稽なことを考えるものであるように感じる。大震災の時も、自分が助かったと思った刹那横浜の妻子の安否を気遣ったけれども、ほとんど同じ瞬間に「しめた、これで東京がよくなるぞ」という歓喜が湧いて来るのを如何ともし難かった。西洋風の近代都市の出現を夢見た
震災後10年経って現状を見ると、何事も予期通りには行かないというが、今日のような皮肉な結果を見たことを喜んでいいのか悲しんでいいか、不思議な気持ちがする。関東一円の地震という観測に誤りはなかったが、被害は東京府下よりも神奈川県下の方がひどく、東京は横浜に比べ犠牲が思いの外少ない。横浜にいた私の一家眷属でさえ一人残らず助かったのであるから、東京で死んだ人はよくよく運が悪い。東京市の復興は10年で見事に成し遂げられたとはいえ、私が思ったような根本的な変革とまでは行かなかった
東京の近代化、もしくは西洋化は、女子の服装と一般の食味において最も遅れているように思える。災害の範囲が大体下町に限られたという物質的事情もさることながら、苟も二千数百年の伝統を持つ国民の気質や習慣がそのくらいの外的条件で亡びることはない
人間万事塞翁が馬とはかくの如きをいうのであろうか
震災当時、私は10年後を考えて既に早く遅暮の感(遅暮之嘆:次第に年老いていく我が身を思って嘆くこと)催したことは事実だが、それは肉体の衰えを憂えたのであって、心境までもがこう変わるとは思っていなかった
関西に居住して十一二年経って、もはや自分を東京人とは思っていないが、震災後の東京のどこが厭なのかと問われると、新しいものの中に残存している旧い東京の俤(おもかげ)、たとえば市民の顔つきだとか、話振りだとか、物腰恰好だとか、食い物だとか、着物だとか、一と口にいえば、東京人の趣味とか気風とかいうものが、どうも昨今の私には溜まらなく鼻につく。多分東京に住んでいる中流階級以上の男女は日本人中で自分達が一番気の利いた人種のように己惚れていることであろうが、正直のところ、どうも私にはああいう連中が何となく薄っぺらで、気障で、繊弱で、何処かに寂しい影が纏わっているように思われてならない
東京の名物に反感と愛着の矛盾した感情を抱く。どれをとっても大したものではなく、食材の豊富な上方から見れば、商店のお番菜にも使わないといわれる。この東京人の衣食住に纏わる寂しさは何処から来るのかと思ってみるのに、結局それは、東北人の影響ではないのか。関西から見ると、何となく東京が東北の玄関のように見え、此処から東北が始まるのだという感じが深い。自動車の運転手などは東北人が大部分であろう。待合の女将なんかにズウズウが多いのには全く驚く。それも渋谷や五反田ではない、新橋赤阪下谷というような所に案外それがあるのだ。昔は「鳥が啼く東」といった夷が住んでいる荒蕪の土地が権現様の御入府に依って政治的に、というのはつまり人為的に、繁華な街にさせられたものであると見る時、始めて鮒の雀焼や浅草海苔やタタミイワシが名物であるという理由が分かる。震災前の東京市が市ではなくて村だといわれたが、震災後の今も、ある意味において田舎なのだ。
草創時代の江戸は、関ケ原で勝を制した覇者の都であるから、殺伐な中にも活気が溢れ、流れ込んできた江州商人や伊勢商人や三河武士どもと東北人の混血児である昔の江戸っ児が、タタミイワシや目刺しのようなもので我慢しながら、イキだとかオツだとか負け惜しみをいっていた気分は分る。彼等はあらゆる生活上の不便を、意気をもって耐え、征服した。鯛がまずければ鮪や鰹の刺身を拵え、蒲鉾が食えなければカンモのスジのようなものを作り、饂飩を蕎麦に換え、白味噌を赤味噌にして、そういう器量の悪い、田舎臭いものを、無理にイキだのオツだのといって喜んで食ったのだ。江戸人の自慢を聞いてみても、実質的に何一つ京阪に優ったものはない。上方見物に来た江戸っ児が堺の妙国寺の蘇鉄を見て、「蘇鉄なら珍しいこたあねえ、己あ山葵かと思った」といったという
全ての日本人が立身の機会を均等に与えられているのだが、東京の下町の人間で偉い政治家や実業家や軍人になった者をほとんど聞かない。本所生まれの芥川龍之介は、「里見君は横浜生まれだが、薩摩の血を受けているから、とても強気です。あなたや僕のようなものじゃありません」と、よくそういって、世間からは強気らしく思われている私の弱気を、さすがに彼は観破していた
東京人には何処までも東北人の暗い翳が付き纏ってい、彼等の頓智や洒落にさえも一脈の淋しさがただようのである。それを疑う者は久保田万太郎氏の戯曲を読むがいい。氏の作品を貫いているあのじめじめした陰鬱な気分、あれこそ実に偽りのない東京人の世界
今の帝都を代表するのはどういう階級の人であろうか。いわゆる智識階級に属する男女が著しく殖えたような気がする。それもかつての山の手の人々とも違い、彼等の趣味を比率で現すと、山の手5分、下町3分、田舎2分というところ。その昔漱石先生は『猫』の中で、「月並」なるものに定義を下し、白木屋の番頭に中学生を加えて2で割ったものだといったが、今日の東京にはそれよりもう少し複雑な要素の月並臭を持った通人が、非常に多い。複雑といったところで、極めて上ッ面な、ほんの鼻先だけのもので、お腹の中の単純なことは白木屋の番頭プラス中学生時代と変わりはない
軽佻浮薄の時代、東京及び東京人の何よりの欠点は、おっとりしたところがないこと。落ち着きがない。重厚の資質に乏しく、かつ最も嘆かわしいことには、その乏しさからくる薄っぺらさや哀れさに、彼ら自身が気が付いていない。近頃流行っている小唄くらい東京的なものはなく、またあのくらい薄っぺらなものはないと思う。あの中に東京人の欠点の総てが具現されているといってもいい

中央公論の読者諸君に申しあげたい。まだ東京を見たことがなくても、徒に帝都の華美に憧れてはならない。東京は消費者の都、享楽主義者の都であって、覇気に富む男子の志を伸ばす土地柄でない。文学藝術においても、真に日本の土から生まれる地方の文学を起こしてはどうか



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