分岐点―上野精一評伝  樋田毅  2025.11.11.

 2025.11.11. 分岐点 「言論の自由」に殉じた朝日新聞もう1人の社主

 

著者 樋田毅 ジャーナリスト.19524月生まれ.愛知県出身.県立旭丘高校卒,早稲田大学第一文学部社会学科卒.78年,朝日新聞社に入社.高知支局,阪神支局を経て大阪社会部へ.大阪府警担当,朝日新聞襲撃事件取材班キャップを務めたのち,京都支局次長,地域報道部・社会部次長などを歴任.襲撃事件の公訴時効成立後の20034月に和歌山総局長.その後,朝日カルチャーセンター大阪本部長等を経て,1217年まで大阪秘書役を務め,同年12月退社.著書:『記者襲撃 赤報隊事件30年目の真実』(岩波書店)、 『最後の社主 朝日新聞が秘封した「御影の令嬢」へのレクイエム』(講談社)、『彼は早稲田で死んだ 大学構内リンチ殺人事件の永遠』(文藝春秋)、『旧統一教会 大江益夫・元広報部長懺悔録』(光文社新書)

 

発行日           2025.8.7. 第1刷発行

発行所           岩波書店

 

カバー袖裏

新聞の存在価値について生真面目に考え続けていた男――

上野精一(18821970)の明治・大正・昭和にまたがる困難に満ちた生涯を通して、一新聞社の強さと弱さを見極める。社会が強圧的な独裁体制に呑み込まれようとする時、どう抗うことが出来るのか。引き返し不能地点はどこなのか。勇気と覚悟が問われるのは、どんな時なのか。そして、闘いに敗れ、失敗に気付いたときには、どう立ち直るのか。新聞の凋落が言われる中で、組織ジャーナリズムのあり方に一石を投じる一冊

 

プロローグ

新聞が存在している意味について生真面目に考え続けていた男が、かつていた。朝日新聞社の創業家の1つ上野家の2代目当主だった上野精一で、軍国主義に染まった時代に2代目経営者の1人として自由な社風の維持に努めたが、第2次大戦の勃発を前に挫折。戦後はもう1つの創業家の村山家が経営陣と激しく対立した際、断腸の思いを残しながらも、経営陣の側についた。「新聞は社会的な公器であるべき」との信念に基づく行動だった。時代のうねりの中で様々な危機に直面し、分岐点で思い悩んできた。その一方で、精一は生涯を通して新聞の歴史を研究し、「言論の自由」を追い求めて、いくつもの論文を執筆。新聞関連の膨大な資料を蒐集・整理し、後世に残した

朝日新聞の最大株主だった村山家は初代の龍平、その娘於藤(おふじ)、その夫の長挙(ながたか)、孫の美知子に至るまで良くも悪くも個性派ぞろいに対し、上野家の人々は、ある種の品格を備え、抑制心を持って社業に関わってきたため、あまり語られることはなかった

大戦中に戦記文学によって直木賞を受賞した元記者の岡田誠三が、精一について、「朝日新聞社を人格化した人物」と評したように、むしろ上野家の人々の生き方こそ、朝日新聞社の創業以来の伝統を体現しているのではないか。上野家の視点で朝日新聞社の歴史を辿ることで、朝日新聞の真の姿、ひいては日本の組織ジャーナリズムの強さと弱さを見極めることが出来る。さらに、メディアの将来を考えるための素材を見つけることが出来るかもしれない。そんな思いを抱いて取材を進めた

 

第一部     草創期

第1章 村山家とは異なる家風

精一の妹の孫岡田正意(せいい、1949生、日銀、福田の後任の仙台支店長、筆者の和歌山総局長時代の知己)が、「私が思うに、創業者の次の世代から、村山家と上野家で家風が異なってきたということがある。両家を分けたものは、ブルジョア性とプチブルジョア性の違い」という。関西財界で名を成した上野家が、愛娘を一介の鉄道エンジニに嫁がせたのか。ブルジョアでありながらプチブルの市民感覚を持った理一や精一を尊敬するとも言う

l  『英国新聞史』を生涯の書に

京大大学院経済学研究科・経済学部の図書室に「上野文庫」がある。約27,000点収蔵

その中に、精一が座右の書とした『英国新聞史』(1887年刊)がある。東京帝大3年の頃、父親の仕事である新聞の研究に興味を持ち始め、イギリスの新聞の歴史を通じて、新聞の理論を掴もうとした。その根幹にある「言論の自由/出版の自由」を調べることによって、「新聞の存在意義」を見極めようとした

 

第2章 二人の創業者 最初の試練

l  「同じ扱い」なのはおかしい

日本で最初に日刊新聞が発行された横浜市に日本新聞博物館「ニュースパーク」があり、朝日新聞社の創業者として村山龍平と上野理一の肖像写真が並んでいるが、当初並列だったのを見た村山美知子が「並列扱い」に激怒したため、少しずらした。改装後は他の30人ほどの肖像とともに1枚のパネルにまとめられた

l  最先端の情報産業

朝日新聞社の創業は1879年。西洋雑貨店の経営者の村山龍平が名目上の社長を引き受けたのが始まり。実質的な経営は、龍平の仕事仲間の木村平八とその息子謄(のぼる)

l  ライバルの新聞『魁』との死闘

資金的に行き詰まった上、辞めた社員の起した新興新聞『魁』に押され、万策尽きた木村は村山に経営を譲る。村山は支援者の1人で、三井系の糸問屋豊田商店の豊田文三郎の妹の婿で養子の又吉(後に善右衛門を名乗る)の実兄だった上野理一を経理担当として採用

l  共同経営者の誕生

上野理一は1848年篠山の名主の生まれ。村山のもう1人の支援者でもあり、理一と同郷で、道修町で薬種商として成功していた細見卓の要請を受けて転職。細見から村山に、リスク分散の見地から共同経営者が提案され、村山も上野の能力を買って共同経営者となる

l  青年記者たちの心意気

村山が引き受けた頃の朝日新聞社は巨額の累積赤字を抱えながらも、若い社員の活気と心意気に溢れていた

l  新体制の船出

1881年、村山と上野は共同経営者として、木村から経営権を引き継ぐ。新資本金3万円のうち2万円を村山が、1万円を上野が出資。上野の出資分は弟の又吉らの支援で工面

l  最初の圧力

直後に『平仮名国会論』の連載記事を巡り、初の発禁処分。新憲法を前に国会の必要性を分かりやすくまとめた内容だが、理由不明のまま3週間の禁止。当時、政治課題について正論を論じる大新聞と、巷の世相を取り上げる小()新聞があり、小新聞として出発した朝日新聞が、政治問題を扱ったこと自体が問題にされた。解禁後は「発行停止に負けない朝日新聞」をアピールして、『魁』との熾烈な競争に戻る

「中庸の新聞の育成」を目指していた政府の松方蔵相と大阪財界の五代友厚の働きかけで、政府と三井銀行から機密資金25,000円が提供され、苦境を乗り切る(13年後には完済)

l  政府との秘密契約

1882年、朝日新聞社は政府と秘密契約締結。政府方針について、「黙過は出来るが反対意見は出せない」との内容で、創業期の汚点とされる。明治初期、殖産興業のため、政府は様々な分野で民間企業にテコ入れした時代だが、権力から距離を置くべき報道機関としては禍根を残す

l  ライバル紙がついに廃刊

機密資金受け入れから4カ月後、『魁』廃刊。朝日新聞社は販売部数急造

積極果敢でアイディアマンの龍平と、冷静沈着で深く思考した理一の信頼関係は篤い

 

第3章 船場のお坊ちゃん

l  生まれは朝日新聞創業の三年後

1882年、精一誕生。船場の幼稚園に通い、生涯「船場ことば」で通す

l  「おとなしい、きゃしゃな感じの子」(同級生の精一評)

1888年、東京の『めさまし新聞』を買収、『東京朝日新聞』と改題して本格的な東京進出を果たし、村山が常駐。『大阪朝日新聞』はすべての責任が上野理一に委ねられる

l  野球に熱中した旧制中学時代

1885年、府立一中(現北野)入学。まだ「野球」という訳語が広まる前のことで野球に熱中

日清戦後、大阪朝日の発行部数は10万を超える

l  「エリート学歴」と「別の道」

精一の「エリート学歴」に対し、負けず嫌いだった龍平は、精一の15歳下の1人娘於藤には、自宅での個人教育を施したため、於藤の社会性に問題が生じ、戦後の朝日新聞社の経営を巡る騒動の一因となったとの見方もある

l  「蛮カラ」の青春

1900年、精一は旧制第三高等学校進学。第1(文・法)で、英語・独語・法学を主に学ぶ

学生寮には入らず、教授宅に寄宿。ドイツ文学を言語で読破

l  好きな作家は夏目漱石と森鷗外

1903年、東京帝大法科大学入学。平野町に理一が購入した老舗の商家は『細雪』の舞台に

漱石の『猫』の連載に夢中になるが、精一が生涯最も愛読したのは鷗外

l  妻も強打者

1907年、大学院進学、同時に勧銀に(無給のインターン)入社。大学院で金井延教授の経済原論を学び、勧銀では土地と地代の研究に取り組む

1908年、結婚。相手は三田藩の最後の藩主九鬼隆義の娘梅子(むめこ)。小学生の頃は「ベースボール」を楽しんでいた

 

第4章 全国中等学校優勝野球大会

l  東京朝日と大阪朝日が合併(1908)

合併を機に、理一が社長に、龍平は監査役。以後、両者は1年交代となる慣習が出来る

合名会社から合資会社になり、龍平と理一は無限責任社員、於藤と精一は有限責任社員

l  何もしなくてもいい」

1910年、東京朝日に入社。翌年には緒方竹虎、2年前には美土路昌一が入社

l  新設の営業部長

新設の営業部長になり、赤字経営の続く東京朝日の経営改革に取り組む

日露と第1次大戦の戦間期に、経営は安定。100%以上の配当をした年もあって、両創業家は潤い、龍平・理一も競うようにして茶道に親しみ、骨董品などの蒐集も始まる

l  南極探検隊問題で苦い経験

精一は、白瀬の南極探検への支援に関与するが、杜撰な計画から見直し、一旦朝日は資金的な尻拭いをして手を引くが、結局「雪原」到達を実現、朝日の貢献への感謝の言葉が遺された。苦境打開に当たり理一の全面的支援を受け、精一には苦い経験となった

l  桐生悠々を「出入り禁止」に

明治天皇他界の頃、反骨の新聞人桐生悠々の評伝に精一の名が出て来る。桐生は、朝日などで記者経験を積んだ後信濃毎日の主筆として活躍するが、明治天皇大喪の報道では、朝日の取材内容をそのまま流したことから、精一が桐生の出入りを禁じたところ、精一のせせこましさに不満を持った朝日編集局の古参職員が桐生に同情して、情報を提供してくれたという。入社間もない若造だった精一の苦労が偲ばれる

桐生はその後も精一の目を避けつつ朝日に通い、乃木殉死を聞きつけると、他社を出し抜いて長野で号外を出し、さらに「陋習打破論」と題した社説を書いて、殉死礼讃の世論に一石を投じる

l  漱石を追いかける

精一は編集幹部会で、文芸欄を主宰していた漱石とも同席したが、漱石の作品に対する憧れが強すぎて、ついに打ち解けた話が出来なかったという

l  理一の補佐役として

1912年、桂太郎の内大臣兼侍従長就任を批判、元老と藩閥による専横政治を批判した記事でも、相次いで発売禁止処分を受けたが、発行禁止=廃刊にまでは至らず

1913年、理一の体調不安から、精一は大阪本社へ転勤となり、理一の補佐役を務める

l  全国中等学校優勝野球大会を開始(1915)

三高野球部の提案で、社会部長の長谷川如是閑が採択。精一のかつての野球少年の経験が、龍平や理一を巻き込んだ即断即決に活かされている

l  理一が娘に送った言葉

1916年、大阪新社屋完成。「財政に余りあり」と宣言したように、贅を尽くしたものとなる

理一は慎重で用心深く、精一の深江転居の際も、娘の嫁入りの際も、細々と注意を与える1917年、理一は順番の社長を辞退、精一が副社長となって父のポストを継ぐ準備に入る

 

第5章 存亡の危機となった白虹事件

l  大正デモクラシー

1918年、白蛇事件。新聞各社による護憲運動、藩閥政府に対する倒閣運動が盛り上がった背景には、相次ぐ新聞紙法の改悪により、言論の取り締まりが強化されてきた現実がある

1916年発足の寺内「超然内閣」は、新聞各社が社会主義に干渉するためのシベリア出兵を批判し、米騒動を報道しようとするのに対し、「報道禁止措置」を連発緊張が極地に達する

l  「言論の自由」を求めた演説

各地で報道各社による会合が開催され、内閣弾劾・総辞職要求の決議がなされる

l  舞文曲筆(文章をことさらに飾り、事実を捻じ曲げて書くこと)の深刻な波紋

内閣退陣を迫る朝日新聞の記事に、「白蛇日を貫けり」の文言が、中国の伝説で「白蛇が太陽を貫くように見えるのは、その国の兵乱の兆し」との意味で使われたため、「内乱が起きるのを煽る記事」だと決めつけ、新聞紙法違反で発売禁止処分になる

社内でも問題化して空白にしようとしたが、一部地域では間に合わず、官憲は発行禁止=廃刊を求めて起訴。龍平が暴漢に襲われる。「皇室の尊厳の冒涜」との指摘に龍平は全面屈服を決断。会社解散まで覚悟した龍平に対し、理一が病身をおして経営を引き継ぐ

l  退職組が『大正日日新聞』を創刊

経営幹部の大半と著名記者が大挙して退職、編集局長は彼らを糾合して新たな新聞を創刊したが、朝日・毎日の販売店の妨害などもあって半年ほどで休刊

l  病身で社長に復帰

本社の大方針が公平穏健、国体を護持し立憲政治の美果を収めて国家社会に利するという大精神は変わらずと訓示して再建に邁進。改めて定めた編集綱領の第3条には、「不偏不党の地に立ちて、公平無私の心を持し、正義人道に本(もとつ)きて、評論の穏健妥当、報道の確実敏速を期する事」とあるのが核心で、「不偏不党」は政府への全面屈服の証と受け止められた。第2次大戦後の綱領にも受け継がれたが、そこでは政府権力からも距離を置く、中立性を標榜する言葉として理解されている。この時は、創業期に政府機密資金の融資を受けるにあたり、「政府批判はしない」との密約があった可能性がある

寺内の後継は、元大阪毎日の社長原敬で、理一とは旧知の間柄。改めて謝罪し決着

若い記者たちが自由に書けたのは、大正デモクラシーもあるが、理一社長の度量と抱擁力によるところが大きい。緒方・美土路らも本社に呼び寄せられ態勢の挽回に活躍

l  理一の急死

9カ月後、理一は病気療養のため完全引退。龍平が復帰。株式会社として再出発。村山家が父娘で58%、上野家が父息子で30%、その他を幹部社員20人が保有

理一は引退の4カ月後、脳血栓の発作で急死。享年71

l  絶妙のコンビ

村山は編集に、上野は会計事務に、それぞれが専念してお互いに無干渉主義。それが2頭政治を成功させた原因で、よほど2人の仲が円満だったに違いない

精一もちゃんとこのことを心得、龍平が長挙に社長を譲った後は、自分は閑職にいて、一切口を出さなかった

 

第二部 真価が問われた時代

第6章 関東大震災

l  龍平社長の補佐役

精一の時代は、191933年。30年からは会長

1919年、大阪朝日の編集陣は、普通選挙実現と軍備縮小に注力。野党との共催はせず、言論機関と政党との関係をあるべき本来の姿に戻し、朝日新聞の信頼回復に貢献

1919年、村山家に婿入りした長挙が、同時に朝日新聞社に入社、いきなり取締役就任

長挙は精一の12歳下。旧岸和田藩主の3男、兄は東條内閣の文相、弟は戦争末期の天皇侍従。龍平の後ろ楯で存在感を増し、精一との間で微妙な確執が生じる

1923年、精一は休暇を願い出て、10カ月に及ぶ欧米視察旅行に出る

関東大震災をロンドンの夕刊で知り、急遽アメリカ経由で帰国

l  社屋が焼失

東京の社屋は火災で全焼、震災の3日後には手書きのガリ版刷り号外を発行。「地震は止んだ」の見出しで、流言飛語に惑わされないよう警告する内容

l  震災による報道途絶

デマ情報に煽られた自警団が各地で朝鮮人虐殺という「悲しむべき混乱」を引き起こすに至ったことの責任の一端は、新聞社による「確かな報道の欠乏」にあったと精一は指摘し、正確な事実報道こそ、新聞に課せられた社会的使命であり、その責任の重さについての自覚を自他に促している。他社に先行して、11日後には漸く朝刊発行にこぎ着ける

1927年、新社屋を数寄屋橋に建設

同年精一は、国連主催の第1回国際新聞専門家会議に日本代表として出席。最終日には、「世界平和を乱すような記事報道を防止する」という決議案を提出、捏造記事が国家間の紛争を助長し、世界平和の妨げになっているので、報道各社は事実に基づく報道に徹するべきという内容で、ドイツ以外の賛成多数で採択

l  新聞の役割をめぐる論文を次々に発表

帰国後精一は、新聞が果たすべき役割や使命を巡る論文の執筆や社内外での講演活動に注力。「新聞の性格は本来、進歩主義である」と周囲に語り、「言論の自由」の大切さ、進歩主義=リベラリズムの価値を社内外に広めようとした

l  「新聞の社会的使命ということ」(1928執筆)

精一の新聞研究者としての見識が詰まっている

新聞の原型は、ローマ時代の「フォルム(フォーラム)(公共広場)とその広場に置かれた掲示板にあり、人々の暮らしに欠かせない情報を提供していた

新聞は第一義的に出来事を報道して社会に知識を与える。次に、出来事の説明と解釈を加えることによって、社会が意見を形作るのに寄与する。この社会的機能を果たすために新聞の報道は真実でなければならないし、新聞の意見・解釈は公正でなければならない

報道内容の選択に当たっては、人々の役に立つかどうかを目安に考えるべき

実際には、歪曲報道による弊害や混乱が生じているとして、当時の新聞の状況に警鐘を鳴らし、新聞とは、政府を含めどんな組織からも独立した存在であるべきと説く

1928年、朝日新聞社はニューヨークタイムズ社と通信特約権協定締結、今に続く

l  普通選挙実現と軍縮のキャンペーン

1925年、普通選挙法成立。治安維持法も同時成立。8年越しの運動の成果である普選法成立の前に、言論の自由への脅威を取り除くことは出来なかった

 

第7章 分かれ道となった「社論転換」

l  中村大尉射殺事件

軍部の圧力が高まり、朝日新聞の論調が大きく変わる分岐点が1931年の満州事変

浜口首相銃撃の翌年、満洲の中国側支配地域を視察中だった陸軍の中村震太郎大尉が中国の官憲に殺害され、2か月間伏せられた後各紙が大々的に報道

変装した諜報活動の事実を隠したまま、報復のための軍事行動を容認する姿勢に転じた

l  満州事変勃発

報道から1カ月後、自作自演の南満洲鉄道の爆破により満洲事変勃発。直前の朝日の論調は、「軍縮の世論を無視している」と軍部に批判的で、国際正義に基づく近代的外交の殿堂を築き上げることを若槻新内閣に期待、事変勃発2日後の論調でもまだ事変を局地戦とし、事態の不拡大、外交交渉による解決に期待するとしていたが、10月になって「満蒙の独立 成功せば、極東平和の新保障」との見出しで、新国家誕生を歓迎する論調に転じる

l  失われていた正式記録

軍部が、笹川や内田良平らの右翼を使って圧力を加えてきたり、在郷軍人会などによる不買運動などの影響も深刻となり、さらに現地に送り込んだ記者からは中国側との交戦状況を連日華々しく伝えられ、「やむを得ない自衛行動」と紙面で了解していた

l  社論転換

「わが国の生存上非常に重大であり、政府の対策を積極的に支持する方針」を組織として決定。社内の抵抗に、軍部の攻撃が強まるが、人員整理をしてまで軍部に同調

l  社史の空白

この時期の役員会議事録は全て「紛失」。社史でも、社論転換のための議論の内容に触れず

この頃精一が執筆した『英国新聞史論』には、「私が範としてきた『タイムズ』は時の政府とあれほど果敢に闘ってきたのに、わが朝日新聞は肝心な時に一体、何が出来たのかという忸怩たる思い」が行間に滲む

2007年の朝日新聞掲載の『新聞と戦争』(外岡秀俊ゼネラルエディター)にも、当時の社論転換の背景について、「朝日の社論自体に、つまり社説を書く論説委員や社の幹部の考え方に、「もろさ」や中途半端さが内包されていた」との指摘がある

l  社長として、「主筆制」を導入

1933年、龍平死去。享年83。精一が社長となり、長挙は会長に就任

精一は追悼文の中で、「村山と父から教えられた大事なことは、朝日新聞の独立ということ」だと述懐

精一が社長就任後最初に取り組んだのが、社の論説や紙面編集の全責任を負う主筆制の導入。主筆には社論の決定権が与えられ、軍部からの圧力の中で、社論の統一性を確保するのが目的で、東京は緒方竹虎、大阪は高原操を指名

l  二・二六事件には電話で指示

1936年、二・二六事件では朝日新聞も国賊として反乱部隊の標的となり、侵入してきたが、活字版をひっくり返された程度の被害で終わり、東京での夕刊発行は反乱軍への過度な刺激を避け見送ったものの、翌朝から平常に復す

事件を機に、精一は緒方主筆と美土路編集局長への信頼を深め、ほぼ全権を委ねる体制に

l  「責任は自分がとる」

美土路も追悼文の中で、「責任は自分がとる」と決断した時を想起、上野さんの真骨頂はここにあった、と述懐しているのも、二・二六事件の時の精一の采配を思い起こしてのこと

l  広田内閣の支持を決める

事件直後に発足した広田内閣を、朝日新聞は積極的に支持。従来の政権からの中立の方針を翻し、文官の力を強めて軍部の力を抑える方針をとる。同時に、主筆一人制とし、東西の社論を一本化して緒方に全責任を持たせる

精一の社長在任は1933暮~'40.5.に及び、日中戦争が泥沼化する中、事態の円満解決を求める社説を掲げたが、言論統制の圧力が強まるなか、朝日新聞の紙面も変わっていく

 

第8章 最後まで残った社会部の活気

l  「わたしや、そこ、社会部か、ウエノやが」

1937年、精一の長男淳一が京大を卒業、東京朝日新聞に入社、編集局配属

直木賞の岡田誠三(プロローグ参照)が、まだ社会部の駆け出し記者の頃、社会部に突然精一から電話を取って、特種のきっかけを作ってくれた思い出話を、実録小説『定年後』に書いているが、その中で精一について、「資本主義が抽象化される前の、個人の人間性がその企業に生彩を与えていた時期における彼は経営者のよさを保っていた。朝日新聞社がこの人の中に人格化されている」と書く。毒舌で知られた岡田にそう言わしめたのが精一

l  オールド・リベラリスト

戦前に論説委員を長く務め、「朝日新聞の両親」とまでいわれた森恭三も、『私の朝日新聞社史』で専務時代の精一を、「地下食堂でよく社員と一緒に食べ、家族のことまでよく覚えてくれていたのには驚く。社員が応召・従軍する時には、自らお詣りし護符をくれた」と書く精一は多くの社員から慕われていた。大正デモクラシーの洗礼を全身で受けた、「時代遅れの」ではなく「古き良き時代の」の意味での「オールド・リベラリスト」の範疇に入る人物

l  戦時体制への協力

国威発揚のイベントには積極的に参加、展覧会などを中心に大勢の入場者を集める

l  精一が会長に退く 後任の社長は村山長挙

1940年、精一は会長に退き、長挙に社長を譲る。長挙は、統制色を強めた新体制運動に呼応する形で社内改革に乗り出す。題号を『朝日新聞』に統一。長挙は、政府要職を多数務める緒方に事前の相談を要求し、両者の関係は急速に悪化。龍平の薫陶を受け旺盛な事業欲を発揮した於藤が、優柔不断な長挙に社長の権威を周囲に示すよう強く迫った背景も

l  「会社を辞める」

戦前か戦中に一度辞職を妻に告げ、1週間ほど出社しなかったことがある。背景や時期など不詳だが、社長退任後、長挙が大政翼賛会役員就任の頃ではないか。精一にとっては、政府や軍部に恭順する姿勢に転じたのが考えられなかったことだったからではないか

軍部から、全新聞社の国策新聞社への統合案が示され、新聞各社は自主統制組織を作る

緒方は、資本と経営の分離を提案するが、長挙は拒否して緒方を閑職に追い込んだため、緒方は'44.7.退職、小磯内閣で情報局総裁に就任。美土路も敗戦直前取締役辞任

l  大本営発表の記事しか書けない

長挙が東京に常駐して、大阪は精一が預かったが、精一は事態を静観

軍部の意向に沿った記事しか書けない時代になり、精一は原爆投下の翌日、鉄道兵として召集された長男にあって、「社と運命を共にする覚悟」だと伝え、最後まで疎開せずに出社

 

第三部 再出発

第9章 「戦争責任」を負って退社

l  社主制度の導入

ドイツではヒトラー体制に協力した新聞は廃刊した事実を考えると、「先走らずに、ぼつぼつ行こう」と言った細川隆元編集局長や、それを是認した長挙社長の発言は「軽い」と言わざるを得ない。社内でも戦時体制への協力を巡る経営陣や編集幹部への責任追及の声が強まり、取締役・経営幹部の総退陣が決まる。同時に社主制度が創業両家を守る形で発足、経営上の実験は放棄。社長には政治部長だった長谷部忠が、創業家以外からの初の社長に

精一は研究の日々を始め、なぜ新聞は軍部の圧力に屈したのか、なぜ自分自身が新聞経営者としての責任を果たせなかったのかを考え、この際新聞の原点に立ち返って、新聞が果たすべき役割を徹底的に考え直す、それが精一の「戦争責任」の取り方だった

l  『言論の自由』の翻訳

ジョン・ミルトンの『アレオパヂティカ(邦題:言論の自由)(1644)の翻訳に取り組む

イギリスが王制・共和制の間で揺れ動いた時代に、民衆の側から信教の自由と共に言論の自由を求める闘いが芽生えたことが書かれ、「言論の自由」の勃興期に生きたミルトンの「魂の叫び」が、「戦後の再出発」に当たっての精一の決然とした思いに重なる

l  新聞学研究会で講演(1950)

演題は「新聞は歴史の資料となるか」。戦時下、自由を失って窒息状態に陥った朝日新聞のことを自覚した上で、歴史の資料になり得る新聞が社会には必要と考えていた

歴史の重みに耐えうる紙面を日々、つくり続けなければならないと説いた

l  悔恨と研究の日々

1947年、精一と長挙、緒方、美土路は公職追放の指定を受ける。社主の地位も辞退

緒方も美土路も、新聞が果たすべき役割を自覚しながらも、果たせなかった事実を認めているが、精一の沈黙には、過去の過ちについてどんな弁解も通らないという堅い意志を感じる。孫の信三も、「言論の自由を求める祖父の信念は微動だにしなかったが、知性派の弱さというべきか、残念ながら、その信念を公に表明し、実行する覚悟に欠けていた。祖父には、このことへの深い悔恨の気持ちがあったはず」との見方を示す

l  夏の甲子園の復活に尽力

敗戦直後から、大会復活のために奔走。'46年連盟を結成、精一が会長を引き受け、西宮球場で大会復活。翌年から甲子園に移る。'47年の公職追放で後事を旧友に託す

l  「家庭の人」

‘46年、長男淳一 一家の31女が精一と同居、長女一家22女も隣に住む

淳一は、朝日新聞への復帰は考えず、'50年東京で職を得て上京

l  世の中は廻り持ち

財産税支払いのため、稀覯書の大半を売却。ほとんどは理一が蒐集したもの

l  「上野コレクション」

さらに追加で、国宝類、重文や古美術品も処分

1960年、163点の中国の書画を京都国立博物館に寄贈。「上野コレクション」として同館の中国書画の中核をなす

l  図書蒐集家にして稀代の書誌学者

精一は、日本でも屈指の図書蒐集家。京大の上野文庫には、17世紀初頭のイギリスで国内ニュースを最初に伝えた『ニューズ・レターズ』の原本や日本の新聞の前身ともいえるかわら版などを含め、貴重な書籍や資料が揃う。精一は、欧米の新聞研究を進めるうちに、各国の研究者たちが蒐集した新聞の現物のコレクションが、歴史研究者や新聞研究者のために役立っていることを理解し、自らも日本で同様の役割を担おうと考えた

京大への寄贈の手続きは、精一の生前には全ては終わらず、淳一が引き継ぎ、'80年完了

購入の都度、23冊の大学ノートに「洋書目録」を作成。資料の整理費用の寄付までした。目録自体が、書誌学の研究者の評価に耐えうる水準に達していた。京大が目録を完成したのは'94年。富の源泉は、朝日新聞社の株式の配当金。村山家の香雪美術館と双璧

l  突然終わりを告げた研究生活

1951年、追放解除に伴い精一は会社に復帰したため、研究生活は終わる

精一は復帰を喜んだが、村山家と経営陣との間の抗争に巻き込まれる

 

10章 「新聞社」は誰のものか

l  「朝日新聞綱領」を制定

精一が、その生涯で最も真価を発揮したのは、復帰の直後から燻り始めた村山家を巡る問題への対応。'51年、長挙が代取会長となり、精一は平取。長谷部等の経営陣を一掃し、社長不在のまま、笠信太郎ら3人のトロイカ体制で経営。新綱領には言論の自由を謳うが、それは与えられたものという根本的な問題・欠陥があるとし、「非利益社会関係に自らを置き、言論の自由を貫く」という考えが盛り込まれた。それは精一の追い求めたものでもある

l  長挙社長と経営陣との対立=村山騒動

「資本」と「経営」の関係がどうあるべきかという問題。朝日新聞社は、早くから新聞の公共性を重視し、両者の分類を実施してきたが、村山家はそれを無視し、人事権や経営方針に口を出したため、大きな騒動となる

1960年の株主総会で、長挙が代取社長に、精一が代取会長に復帰すると、トロイカの3人を筆頭とする旧経営陣と悉く対立、'63年の取締役会は人事を巡って紛糾。社長・会長に一任され、取締役全員再選で決着

l  紛糾した株主総会

株主総会で、村山家の意を受けた株主が、役員改選を投票で決めるよう要求し、反対の急先鋒だった常務の再選を阻止。強引に株主権を行使する村山家に、精一は覚悟を決める

l  辞任を申し出る

改選された他の役員も辞表を提出、販売店も販売代金の上納を拒否したため、緊急の取締役会で、社長解任が決まり、精一も辞任して平取に降りることが決まる。広岡らが代取に

l  猛抗議を沈黙で耐えた

於藤が精一に猛抗議。さらに右翼の街宣車が上野邸に現れる。精一は心労から軽い脳梗塞で寝込み、長挙が土下座して帰る

l  役員会での決意表明

体調の回復した精一は2カ月後の取締役会で、「朝日が公器として、社会的責任を果す」ことを基本に一番良い方法をとるとの決意を役員会で披歴

広岡以下の経営陣は、社報号外で社内に57%超の株式が経営陣に委任されたことを伝え、精一の決意表明に感謝し、この株数を足掛かりに株主総会を乗り切り、村山家との話し合いを続けるという覚悟を伝える

l  株式トラスト制度

森恭三が提案した株式信託制度に精一は真っ先に賛成。公正な第三者で構成する受託委員会が議決権を行使することで新聞の公共的性格を明確にする制度で、委員会の主たる任務はエディター(総編集長)を選任すること。イギリスの高級紙は皆この制度を採用

l  村山富美子の果たした役割

1964年、村山家の協力を得られないまま株式受託委員会発足。精一は19.5%の全株を提供、長挙の次女富美子が8.57%を信託したことが株式争奪戦の帰趨を決める。姉の美智子に対抗心を燃やし、自由奔放に生きた富美子が、家族とのしがらみを断ち切って決断

1964年、美土路が社長に復帰。全日空を立ち上げた美土路を復帰させたのは精一で、美土路は村山家との和解に心を砕くも努力は実らず、2年半後には退任して広岡に社長を譲る

村山家は経営陣との対立を深め、取締役の職務執行停止の仮処分を申請、高裁まで争った挙げ句、累積投票制度により取締役を送り込む。'77年、長挙死去後は美知子が社主となり、'79年漸く累積投票制度中止。於藤は'89年死去まで経営陣への敵愾心を燃やし続ける

'92年、受託委員会は解散。美知子の持ち株35%は経営陣の大きな脅威であり続ける

l  色紙の言葉

精一は「村山騒動」で苦悩したころから、「堪忍」という言葉を口にし、色紙にも書くようになった。「船場ことば」であり、学究肌の精一が村山家との確執の後に辿り着いた哲学であり、心の「呻(うめ)き」でもあった。米寿祝の際、淳一の妻美代子の求めに応じて書いた「堪忍」は、美代子が鎌倉彫のお盆にして、今上野信三宅の応接間に残る

 

11章 新聞の聖?

l  晩年の穏やかな日々

1965年、82歳の精一が中心となって、新聞研究のための勉強会が始まる。「上野ゼミ」と呼ばれ、健康上出席が難しくなるまで2年余り続く

l  上野記念財団の設立

1969年、日本の仏教美術を代表する鎌倉時代の国宝「山越阿弥陀図」を文化庁に買い上げてもらい、代金1億円をそっくり京都国立博物館に委ね、翌70年に「仏教美術研究上野記念財団」を設立

l  『舞姫』の手書き初稿に込められた思い

傘寿のお祝い返しに、鷗外の『舞姫』の手書き初稿の全文コピーを配布。その意図は、鷗外という傑出した人間でさえ、愛を貫けなかったことを、精一は自分の人生に置き換え、時代の重圧を受け、朝日の経営者として、守るべきものを守れなかったこと、あるいは経営者になる運命を受け入れたことで大切なものをいつくか失ったかもしれない、それらに耐えることが自分の人生だったという思いを籠めたということだろう

l  「帰国はまだか」

米寿を祝って、役員たちが、小磯良平に精一の肖像画を描いてもらう

広岡社長が訪中して周恩来に会ったと知り、病床で訪中成功を我がことのように喜ぶ

1970年、帰国を待たずに自宅で死去。死因は動脈瘤破裂、享年87

l  広岡社長の号泣の理由

社葬の弔辞で広岡社長が号泣した背景には、社長解任動議の際、上野家が自ら犠牲になることによって、朝日新聞社の社会的信用を繋ぎ止めようと考えてくれた精一へのオマージュがある

l  叙勲を辞退

1964年、戦後初の生存者叙勲の候補に挙がった際、事前に辞退するよう指示。発表当日、小泉信三の辞退の談話原稿を見た秘書が、精一と一緒に夕刊に載せようとしたところ、精一の雷が落ちた。戦時体制下で新聞の自由を守れなかった苦い記憶が辞退させたのだろう

母校の北野中学に密かに奨学金を出したり、難波宮の発掘事業を支援したり、陰徳を積む

新聞の聖(ひじり)であり、生まれながらの新聞の主。公私の別を特に厳しく守り、清潔さには頭が下がる。生涯を通して、新聞の歴史を真摯に研究し、新聞社の独立と言論の自由を希求し、経営者・オーナーとしての責任を全う。慎ましく、一隅を照らすように生き、新聞を愛した

l  後継者たち

精一の死後、長男の淳一が2代目社主に就任。村山家との緊張が続く中、経営陣も淳一を頼り、淳一もその期待に応えた

孫の尚一も、社主に就任すると、上野家の伝統に従うように、経営陣との良好な関係の構築に腐心。富美子が長男に株式の一部を譲渡した際、美知子も含め両家の会食が行われたが、美知子は家族の会と騙されたと立腹、二度と会食は行われず、尚一も村山家との連携には関心を示さず

2016年、尚一の死後、次男の聖二が上野家の当主となるが、経営側は将来的に社主制度の廃止を提案。聖二は反対

 

12章 新聞の未来

l  活字媒体の構造的危機

1995年のインターネットの本格的な普及により、若者たちを中心に新聞離れが始まり、ピーク時公称800万部といわれた販売部数が2003年頃から減少に転じ、従軍慰安婦問題の「吉田証言」報道の取り消しと、3.11後の福島原発事故の「吉田調書」報道の取り消し、池上彰の連載掲載見合わせを巡って激しい朝日バッシングがあり、一挙に多くの読者を失う

2022年には400万部も割り込み、2020年度決算では創業以来最大の赤字158億を計上

一方でデジタル版は400万を超えたが、有料は約30万でほぼ頭打ち

社内的にも、締めつけが厳しくなり言論の自由が失われつつあるとの危惧も聞かれる

精一の時代、歴史が与えた試練の中で、新聞とは何かを考え、言論の自由を追い求める人生を送った。精一は、経営者として新聞に求められるニーズと社会的使命を考え抜いた上で、言論の自由に行き着いた。軍部の圧力に抗しきれず、経営を守るために「言論の自由」を犠牲にした一時期もあったが、戦後は、過去についての責任を自覚し、自らの出処進退を含めて、経営者として高い見識を示し続けた。「リベラル保守」であり、保守の本質は「人間の不完全さ」を認めるところから出発し、そうであるが故に保守派自由な言論と寛容な社会(=リベラル)を希求する

明治・大正・昭和にまたがる彼の困難に満ちた人生は、そのまま日本の言論の世界が直面してきた苦難の歴史と重なる。彼の闘いから、私たちは何を学べるのか。社会が強圧的な独裁体制に呑み込まれようとする時、どう闘えばよいのか。その闘いで、どこが引き返し不能地点Point of no returnになるのか。覚悟と勇気が試されるのはどんな時なのか。失敗に気づいた時、敗北した時、どうやって立ち直るのか。彼の物語から読み取るべきことは多い

組織ジャーナリズムには継続性があり、メディアとしての責任を果たしているかどうか、その功罪について過去に遡って検証することが出来る。その検証作業によって、メディアの未来に貢献できる。「新聞=組織ジャーナリズムの営みは歴史の資料」になり得る。そこが、根無し草的な情報発信に留まっているSNSとは異なる点である

l  デジタル・ファーストの文化

アメリカでは、高級紙の『『ニューヨーク・タイムズ』『ワシントンポスト』の電子版の有料購読者が夫々500万、300万とデジタル対応に成功し、一時の経営危機から蘇る

『ワシントンポスト』紙はアマゾンが買収、2024年の大統領選では「バイデン支持」を却下し、編集方針に干渉。トランプ陣営によるIT業界の巨大企業や報道機関への圧力が背景にはあったとみられるだけに、事態は楽観できない

ネット空間の拡大に対し、どうすればネットの言論空間を住みやすく快適に出来るのか、「オールド・メディア」である新聞が関わることが出来るのではないか

 

エピローグ

上野家のその後。美知子は晩年に持ち株の2/3をテレビ朝日と香雪美術館に譲渡・寄付。残余についても株式を含む全ての財産を香雪美術館に遺贈する遺言書を作成。美知子にとっては、長挙の設立した香雪美術館は村山家そのものだったが、実際には朝日新聞社が運営の主導権を握っており、'20年の美知子の死後、遺言は速やかに執行され、その後の株主総会で社主制度を廃止。朝日新聞デジタル・イノベーション本部の社員だった上野家4代目の当主聖二は反対したが、多数決で押し切られる。後は、上野家の人々の精神を、「朝日新聞の魂」として受け継いでいってほしいと願うばかり

 

 

 

 

岩波書店 ホームページ

「朝日新聞社を人格化した人物」と評された上野精一。明治・大正・昭和にまたがる困難に満ちた生涯をたどり、新聞社創業以来の社論変遷の舞台裏の真実に迫る。社会が強圧的な独裁体制に飲み込まれようとする時、どう抗うことができるのか。引き返し不能地点はどこなのか。新聞の凋落が言われる中、ジャーナリズムのあり方を鋭く問う。

 

 

分岐点 樋田毅著

「新聞は公器」、社主家の信念

2025920 2:00  日本経済新聞

かつて朝日新聞社の大株主だった2つの社主家のうち、上野家の2代目で1970年に87歳で死去した精一の生涯を描く。戦前は軍部の台頭から社論を守ることができず、戦後はもう一方の社主家、村山家との確執に悩む。「言論の自由」を追い求め、また「経営の自立」を後押ししてきた姿に打たれる。

旧制三高から東京大学へ進み、メディアでのキャリアを東京朝日の営業部長としてスタートさせた精一は、近代民主主義が発祥した地で編まれた「英国新聞史」を座右の書とし、繰り返し翻訳する学究肌でもあった。

朝日は大正期、藩閥政治に反対する護憲運動を導く。だが、記事中の表現が内乱をあおったとする「白虹(はっこう)事件」で告発され、社は存亡の危機に。精一も事態の収拾に奔走する。

昭和初期の満州事変では「不拡大」の社論を種々の圧力や軍都での不買運動などに屈した形で転換。戦前、6年半の精一の社長の時代には、社の存続に腐心した様子がうかがえる。

戦後は村山家による経営や人事への介入に対し、自らの会長としての地位を犠牲にして抗い、経営の自立を守る立場を取り続けた。

「新聞は公器」の信念に基づき、社主家として抑制的に振る舞った晩年。高く、澄んだ視座が印象に残る。(岩波書店・2970円)

 

 

 

Wikipedia

上野 精一(うえの せいいち、1882明治15年)1028 - 1970昭和45年)419)は、日本の新聞経営者。朝日新聞社社主

来歴・人物

1882、朝日新聞社社主・上野理一の長男として大阪市東区平野町に生まれる。北野中学校第三高等学校を経て、東京帝国大学法科大学卒。大学院在籍のまま日本勧業銀行に入行するが、1910に朝日新聞社に入社。営業部長、副社長を歴任。妻は九鬼隆義の娘の上野梅子(旧姓九鬼、の奏者として知られる。戒名は慈徳院殿仁讓琴室梅箏大姉)

村山龍平社長のもとに専務取締役、取締役会長を経て1933に社長就任。廃止されていた主筆制を復活させる。1946、全国中等学校野球連盟(現日本高等学校野球連盟(高野連))設立、初代会長に就任。全国高等学校野球選手権大会を朝日新聞社主催とする。翌1947公職追放を受ける[1]1951追放解除[2])。197087歳で死去。戒名は髙徳院殿禪機靈通精一大居士、墓所は、法然院

公益財団法人仏教美術研究上野記念財団[3]を設立し、仏教美術の研究に尽くした。

岳父は九鬼隆義[4]、息子は元朝日新聞社社主の上野淳一

系譜

上野理一(父、初代社主)上野精一2代目社主)上野淳一(息子、3代目社主)上野尚一(孫、4代目社主)

著書

単著

翻訳

共訳

 

 

上野 淳一(うえの じゅんいち、1909111 - 19971019)は、朝日新聞社の元社主

来歴・人物

朝日新聞社第3代社主・上野精一の息子であり、初代社主・上野理一の孫。岳父は三井財閥幹部の福井菊三郎。岳母の父は麻布中学校を創立した江原素六。息子は第4代社主の上野尚一

北野中学校広島高等学校 (旧制)1934京都帝国大学経済学部卒業。1937に朝日新聞社に入社。戦後の1945に戦争責任を明らかにするために退社。神戸商科大学事務局長、田中耕太郎最高裁判所長官の秘書官を務めた後、1952に朝日新聞社に復帰した。1970から社主となった。京都国立博物館評議員、仏教美術研究上野記念財団理事。199788歳の誕生日を目前にして死去。

 

コメント

このブログの人気の投稿

本当は恐ろしい万葉集  小林惠子  2012.12.17.

近代数寄者の茶会記  谷晃  2021.5.1.

小津安二郎  平山周吉  2024.5.10.