戦争というもの  半藤一利  2025.11.11.

 2025.11.11.  戦争というもの

 

著者 半藤一利 1930年、東京生まれ。東京大学卒業後、文藝春秋に入社。「週刊文春」「文藝春秋」編集長、専務取締役などを経て、作家となる。1993年、『漱石先生ぞな、もし』で新田次郎文学賞、1998年、『ノモンハンの夏』で山本七平賞を受賞する。2006年、『昭和史 1926-1945』『昭和史 戦後篇 1945-1989』で、毎日出版文化賞特別賞を受賞。『決定版 日本のいちばん長い日』『聖断―昭和天皇と鈴木貫太郎―』『山本五十六』『ソ連が満洲に侵攻した夏』『清張さんと司馬さん』『隅田川の向う側』『あの戦争と日本人』『日露戦争史』など多数の著書がある。

 

発行日           2021.5.25. 第1版第1刷発行

発行所           PHP研究所

 

初出 『歴史街道』2020812月号に『開戦から80年――「名言」で読み解く太平洋戦争』として掲載された作品を加筆・修正したもの

 

25-07 ノモンハンの夏』を読んで

 

人間の眼は、歴史を学ぶことではじめて開くものである(半藤一利)

末尾

戦争は、国家を豹変させる。歴史を学ぶ意味はそこにある(半藤一利)

 

まえがき

数え年という言葉を聞いたことがありますか。変わったのは1949年の「年齢のとなえ方に関する法律」により、これからは満年齢で「言い表すのを常とするように心がけなければならない」と決まったから

数え年でいうと、2020128日が太平洋戦争開戦80年の節目に当る

戦争は真に悲惨なもの

私自身は、空襲と猛火と黒煙に追われて川に落ち危うく溺死寸前という九死に一生の体験をしている。3月東京大空襲の生き残りの1

太平洋戦争では延べ1千万の日本人が兵士あるいは軍属として戦い、戦死240万人(70%が餓死)。原爆や空襲や沖縄などで死んだ民間人は70万超

天皇放送を聞き、焼け跡を眺め、そして新たに思ったことは、この戦争で空しく死ななければならなかった人たちのこと。戦争で亡くなった320万の人たちはいまもなお、私たちに語りかけている。戦争が悲惨、残酷、非人間的で空しいということを

90歳の爺さんがこれから語ろうとするのは、そんな非人間的な戦争下においてわずかに発せられた人間的ないい言葉ということになります。いや、全部が全部そうではなく、名言とはいえないものもまじりますが、それでもそこから将来のための教訓を読みとることができるでありましょう。むしろ許しがたい言葉にこそ日本人にとって教訓がつまっている。そういう意味で〈戦時下の名言〉と裏返していえるのではないかと思うのです」

 

 

 

太平洋戦争下で発せられた14の「名言」――もくじ

  • 一に平和を守らんがためである(山本五十六)
  • バスに乗り遅れるな(大流行のスローガン)
  • 理想のために国を滅ぼしてはならない(若槻礼次郎)
  • 大日本は神国なり(北畠親房)
  • アジアは一つ(岡倉天心)
  • タコの遺骨はいつ還る(流行歌「湖畔の宿」の替え歌)
  • 敗因は驕慢の一語に尽きる(草鹿龍之介)
  • 欲しがりません勝つまでは(国民学校五年生の女子)
  • 太平洋の防波堤となるのである(栗林忠道)
  • 武士道というは死ぬ事と見付けたり(山本常朝)
  • 特攻作戦中止、帰投せよ(伊藤整一)
  • 沖縄県民斯く戦へり(大田 実)
  • しかし――捕虜にはなるな(西平英夫)
  • 予の判断は外れたり(河辺虎四郎)

 

§  (いつ)に平和を守らんがためである(山本五十六)

111日の御前会議の結論を経て、山本は13日に指揮下の全艦隊司令長官と主要幕僚を岩国海軍航空隊に集め訓示。「128日を以て戦端を開くこと、将兵は本職と生死をともにせよ、日米交渉成立の際は出動全部隊は即時引揚」の指示に対し、機動部隊の南雲司令長官は敵前旋回の困難を訴えたところ、山本が言ったのが冒頭の言葉

100年兵を養うは何のためか。一に平和を守らんがためである。命令を受け帰ってこられないと思う指揮官は即刻辞表を出せ!

 

§  バスに乗り遅れるな(大流行のスローガン)

太平洋戦争終結までの20年間、我々に残された教訓の1つが、「国民的熱狂を作って(流されて)はいけない」ということで、時の勢いに駆り立てられてはいけない

当時の流行語が「バスに乗り遅れるな」で、「バス」とはヒトラーのナチス・ドイツ

 

§  理想のために国を滅ぼしてはならない(若槻礼次郎)

1129日、天皇の指示で、政府首脳が重臣たちの意見を聞く懇談会を開く。米内の「ジリ貧を避けんとしてドカ貧にならないように」との発言が有名だが、東條と若槻の論戦も後世に残すべきもの。政府は自存自衛と大東亜の新秩序建設と永遠の平和の確立を謳ったが、開戦の詔勅には前者のみ。東條は現実を忘れる事は無いが、理想を持つことも必要と主張したのに対して、若槻が言ったのが冒頭の言葉

 

§  大日本は神国なり(北畠親房)

開戦当日の夜、真珠湾の成果が報道されて日本中が大興奮の渦に巻き込まれる

南北朝時代の南朝の忠臣北畠親房の著書『神皇正統記』の1行目にあるのが冒頭の言葉。誰もがそれを信じ、内閣情報局は「神州日本は不滅」と喧伝

20年くらいたって森喜朗首相が「わが国は神の国である」といったのに仰天

政治用の言葉を繰り返すことが、目的のための手段の1つに過ぎないことを忘れてしまい、かえって固定した名文句として広く行き渡らせることになる、その危険に注意

 

§  アジアは一つ(岡倉天心)

対英米戦争の目的の1つがアジアの解放・独立にあると信じていた人もいたが、ほとんどの日本人はアジア諸民族を軽蔑し切っていて、アジアに植民地政策を敷く

岡倉天心が英文で出版した『東洋の理想』(1903年刊)の冒頭の言葉「アジアは一つ」に込められた真の意図を曲解したことが、アジアの人々からの反発を買った

 

§  タコの遺骨はいつ還る(流行歌「湖畔の宿」の替え歌)

1940年の《湖畔の宿》が発売禁止されると、悪ガキどもは軍国おじさんに反発して、「召集されたタコ八が戦死しても骨がないので帰れない」と、替え歌を作り歌いまくった

 

§  敗因は驕慢の一語に尽きる(草鹿龍之介)

勝敗の分かれ目となったミッドウェイ海戦の敗因は、機動部隊南雲司令部の驕りと自惚れにあり。同部隊の参謀長草鹿龍之介少将(当時)が戦後敗因を吐露したのが冒頭の言葉

その敗戦の結果を日本の指導層は隠蔽・歪曲する不手際

 

§  欲しがりません勝つまでは(国民学校五年生の女子)

「大東亜戦争1周年記念 国民決意の標語」の募集があり、最優秀作が冒頭のもの。麻布笄小学校女児の作とされたが、1977年に女児の父親の作と判明

 

§  太平洋の防波堤となるのである(栗林忠道)

19452月頃から陸軍は本土決戦による必勝を豪語し始める

1944年夏、硫黄島防衛の指揮官栗林中将が幹部を召集して訓示したのが冒頭の言葉

 

§  武士道というは死ぬ事と見付けたり(山本常朝)

194411月下旬、東京空襲が本格化。当時旧制中学では「武士道」ということが言われ、「死して悠久の大義に生きる」ことこそ武士道の究極の極意だと教えられた

 

§  特攻作戦中止、帰投せよ(伊藤整一)

硫黄島玉砕の翌月、米軍は沖縄への上陸作戦開始

及川小四郎軍令部長が天皇に海軍を挙げての総攻撃を上奏したため、成算もなしに将兵を無駄死にさせるわけにいかないと抵抗する伊藤整一第2艦隊司令長官に対し、草鹿連合艦隊参謀長が、「一億総攻撃の先駆けとなってもらう」と言って、大和の運命が決まった

最後に伊藤長官は、まだ海上に浮いていた4駆逐艦長宛に特攻中止・帰投の命令を発する

 

§  沖縄県民斯く戦へり(大田 実)

194566日付の沖縄方面特別根拠地隊(陸戦隊)の司令官大田実少将が海軍次官宛に発した電文は、県民を総力を挙げた奮闘の詳細を伝え、「沖縄県民斯く戦へり、県民に対し後世特別の御高配を賜らんことを」で結ばれ、大田は1週間後に自決

「り」は完了にあらず県民はいまも戦う、と迢空(折口信夫)賞受賞の歌人三枝昂之は詠む

 

§  しかし――捕虜にはなるな(西平英夫)

1945618日、沖縄ひめゆり学徒隊隊長西平英夫は、陸軍野戦病院長からの電報命令により、ひめゆり部隊の解散を告げ、別れの訓示。1人でも多く生き残れと言いながら、最後に言ったのが冒頭の言葉。米軍による凌辱という流言飛語に惑わされた悲劇

 

§  予の判断は外れたり(河辺虎四郎)

9日のソ連参戦は衝撃。その日の参謀次長河辺虎四郎中将の手記の冒頭に、「敵は遂に起ちたり! 予の判断は外れたり」と書く。独断と偏見に支配された軍上層部の滑稽は醜態

 

 

解説    半藤末利子

夫・半藤一利の最後の言葉

20210501 公開

20241216 更新

私の夫である作家の半藤一利 は、近代史や戦記物を多く書き残しました。 夫もまだ若かったある日のこと、彼は誰かに「お前、戦争にも行かないくせによく偉そうに戦争のことが書けるな」と揶揄されました。

俄然憤慨した彼は、「この野郎!若すぎたから戦場には行かなかったけれど、俺だって戦争体験ぐらいあらー」と、怒鳴り返して、命からがら逃げまどった自身の体験を書くようになりました。

夫の家は向島にあり、商家でした。昭和203月の東京下町大空襲の時には、向島の真上にも連合軍の爆撃機が飛来して、ボンボンと焼夷弾を落としました。たちまち夫の家も焼け落ちました。

夫は、夫の父と二人で燃え盛る火から逃れ、川に向かって走り続けました。火の勢いはどんどん迫ってきます。その途中で夫は、焼け焦げた死体や赤ちゃんを抱っこしている女性の髪がメラメラと燃え上がる様子、つまり人間が燃えている光景を幾度となく目にしました。

夫はとうとう父ともはぐれてしまいました。心細い限りですが、とにかく川まで走らなければなりません。 夫の母と妹と二人の弟は、一足先に茨城県の母の実家に疎開したので、この空襲には遭わずに済みました。

やっと川に辿り着くことができた夫は、れかけている人々の救助を手伝おうとして、逆に川の中に引きずり込まれてしまいました。追ってくる火の勢いからは逃れましたが、水中に入るとどちらが川面か川底か見当がつきません。

水の中でしばらく藻搔いているうちに、履いていた長靴がするりと脱げ、 それが沈んでいく方が川底なのだと気づきました。それで川面めがけて頭を出すと、おじさんが彼の坊主頭を摑んで、舟へ引き上げてくれました。

こうして彼は、焼け死ぬことも死することもなく、生き残ったのです。 その後、燃え尽きた自宅付近ではぐれた父と再会し、お互いの無事を確認し合いました。二人ともどんなに嬉しかったことでしょう。夫は紛れもなく、完璧な戦争体験者であり、しかも戦争犠牲者であります。 

 

夫・半藤一利の最後の言葉

20210501 公開
2024
1216 更新

疎開先の新潟で眺めた、巨大な炎の柱

さてさて、夫より5歳年下の私は、その時何をしていたのでありましょうか。新しい環境と豪雪の脅威、それから想像を絶する空腹と闘っていました。

私たち一家は、昭和1911月に住み慣れた東京を離れ て、新潟県長岡市の郊外の父の生家の近くに疎開しました。11月は越後で最も悪い季節です。雨期なのです。

みぞれ混じりの冷雨が連日降り続き、やがてそれが雪に変わるのです。ここは豪雪地帯として有名でありますが、一晩で一メートルも積もる日もあります。既に二階建ての家屋がすっぽりと埋まってしまうほど、雪が積もっているというのに。

そういう朝には、母と二人でシャベルやコスキで新雪を払いのけ小さな段 をきざみ(これも大仕事)、上級生に両手で雪の上に引っ張り上げてもら い、下からは母にお尻を押し上げてもらって、やっと道に出て学校に行きました。

小学校三年生の女の子にはかなりこたえる作業でありました。何よりも耐え難かったのは、空腹です。当時はとにかく食べるものがなく、というのは、周囲に住む農家の人々が排他的で「よそ者に売るものはない」と言って母に米や野菜を売ってくれなかったのです。

私は目がギョロギョロとして、やせ細っていました。私にとっての戦争というものは、飢餓との闘いでした。空腹ほど辛いものはない、と今でも思うのです。

もちろん、殴られたり蹴られたりするのも辛いことでしょう。でも、空腹とは一種の暴力であることを、戦争は私に知らしめました。それでも、夫が経験したように、火に追われたり死寸前になったりする恐怖とは比べ物になりません。

ただ、私も一度、田んぼに囲まれたこの村で、幸か不幸か、太平洋戦争を、それも実戦を見る機会を得たのです。私が見たもの、それは長岡空襲の凄絶な戦火でした。以下、私の著書『夏目家の糠』に収録された「大空襲の夜」を抜粋し、少し読みやすく書き直しながら、ここに写すことをお許しください。

「その日、父母と姉と私は、父の生家、村松の本覚寺を訪れていた。盆参りという、寺としては一年中で一番大きな行事が催されたからである。夕食後、父は一人で帰宅した。

当時中学生であった兄は勤労動員で、その夜、北長岡の軍需工場で働いていた。夜勤明けで帰宅する兄を出迎える者がいなくてはかわいそうだと、父は一里(四キロ)の道を歩いて帰ったのである。

その夜、私たち三人は早々と眠った。どのくらい経った頃か、周囲が騒々しくて目が覚めた。空襲警報のサイレンや飛行機の轟音で目が覚めたという記憶はない。窓を開けると闇夜を旋回している色とりどりの電光がまず目に入った。星の数ほど無数に見えた。

時々赤い火を噴いて、焼夷弾が自在に飛び交う電光から降ってくるのが見えた。なぜ爆撃機B29が赤青黄緑とさまざまな色の光を放ちながら爆撃していたのか、今もわからない。私にはB29が陽気に焼夷弾をまき散らしているように見えた。

地上からはメラメラと燃えたつ巨大な炎の柱が天を射るようにそびえ立ち、闇夜を真っ赤に染め上げた。街全体が炎に包まれるのを私は初めて見た。

あの大空襲で命を落とされた方、命からがら逃げまどっていた方を思えば不謹慎も甚だしいが、その規模といい、華やかさといい、後にも先にもあれほど壮観な光景を私は見たことがない。息をのむほどに美しい眺めであった。

兄があの火の中で死んでしまったに違いない、と母が言った。誰も哀しいとは思わなかった。肉親の死にも麻痺して何も感じない異常な時代であった。私は怖いとも悲しいとも感じなかったが、歯の根が合わず全身が小刻みに震えていつまでも止まらなかったのをおぼえている。昭和2081日、私が11歳の時であった」

太平洋戦争が終わったのが昭和20815日ですから、長岡空襲は終戦の直前ということになります。まるで見通しのよい観客席に座って、じっくりとつぶさに、あたかも芝居やオペラを観賞するように、戦争、それも実戦を観る機会を得られたことは、私の人生にとって非常に大きな経験でした。

夫は空襲の体験者ですが、私はその目撃者とでもいうのでしょうか。今の長岡名物、花火で有名な8月の長岡まつりは、もともと長岡空襲の悲しい日を長岡市復興へのバネにするため、長岡市戦災復興祭として始まったと聞いています。

戦争で中断した長岡の花火も空襲の翌年の夏には再開されたように思います。長岡にいた頃、私も何回か夜空に開く華を見ました。しかし三尺玉だろうとスターマインだろうと、あの空襲の夜の強烈な華やかさには遠く及びません。

長岡まつりの季節になると、私は花火よりも先に、大空襲の夜の悲しい美しさを思い起こしてしまいます。それが悲惨な戦争を経験した者の、辛い性ということなのでありましょうか。

亡き夫も花火は大嫌いでした。花火を見ると、よく二人で不機嫌になったものです。そうそう、長岡空襲で亡くなったかのように思われていた私の兄ですが、実は彼は生きていました。兄を心配した父が宮内駅(長岡駅の隣の駅)に行くと、焼け跡からヨロヨロと兄が現れたそうです。

態度にこそ表しませんでしたが、兄と再会できた父の喜びははかりしれません。その後、戦争も終わり、平和が訪れた頃、兄はある学友を家に招きました。それが、後に私の夫となる半藤一利でした。

 

夫が残した最後の言葉

夫が亡くなったのは、令和3年の1月。彼は自分の死期を悟っていたのかもしれません。具合が悪くなるにつれて、「あなたをおいて先に逝くことを許して下さい」と私に頻りに詫びるのでした。

そして、亡くなる日の真夜中、明け方頃だったかもしれません。「起きてる?」と、夫の方から声をかけてきました。私が飛び起きて、夫のベッドの脇にしゃがみ込むと、彼はこう続けました。

「日本人って皆が悪いと思ってるだろ?」「うん、私も悪い奴だと思ってるわ」私がそう答えると、「日本人はそんなに悪くないんだよ」と言いました。

そして、「墨子を読みなさい。2500年前の中国の思想家だけど、あの時代に戦争をしてはいけない、と言ってるんだよ。偉いだろう」それが、戦争の恐ろしさを語り続けた彼の、最後の言葉となりました。

天災と違って、戦争は人間の叡智で防げるものです。戦争は悪であると、私は心から憎んでいます。あの恐ろしい体験をする者も、それを目撃する者も、二度と、決して生みだしてはならない。それが私たち戦争体験者の願いなのです。

 

 

編集後記  編集担当 PHP研究所 北村淳子

「俺、書こうかな」。祖父・半藤一利から孫娘の編集者に託された一枚の企画書

20210505 公開
2024
1216 更新

北村淳子(編集者)

20211に逝去した昭和史の語り部、半藤前最後の連載原稿を書籍化した『戦争というもの』が刊される。

その本では、太平洋戦争下で発せられた軍人たちの言葉や、流行したスローガンなど、あの戦争を理解する上で欠かせない「名言」の意味とその背景を解説している。戦争とはどのようなものか」を浮き彫りにした、後世に語り継ぎたい珠玉の一冊である。

本稿は、半藤氏の孫であり、本書の編集を担当した北村淳子氏の編集後記から、出版にまつわる祖父とのエピソードを紹介する。

※本稿は、半藤一利 著『戦争というもの』(PHP研究所)より、内容を一部抜粋・編集したものです。

 

“普通のおじいちゃん”だった

この本の原稿が私の手元に届いた時、まさかこれが「歴史探偵」半藤一利 の遺作になるとは思いもよりませんでした。半藤は、私の実の祖父にあたります。

私が半藤一利の孫だと言うと、皆さん決まって「半藤先生ってどんなおじい様なのですか」と興味津々に聞いてきます。そして私も決まって、「普通のおじいちゃんですよ」と答えてきました。

孫には甘く、私が成人して晴れ姿を見せれば、ちょっと恥ずかしそうに目じりを下げる。お酒が好きで、私がお酌をすると、嬉しそうに飲んでくれ る。

私にとって祖父は、長らくそんな普通のおじいちゃんでした。 私が編集者になりたいと伝えた時も、「そんなもん、やめとけ」と、笑って言われたのをおぼえています。

それでも祖父は、本気で反対するわけでも、かといって賛成するわけでもなく、ただ応援してくれていました。 祖父が「普通のおじいちゃん」ではない、と肌で感じるようになったのは、私が編集者になってからです。

出版界に身を置いて編集の仕事をしていると、祖父の存在、そして彼が書くものの尊さが身に染みてよくわかります。祖父は時折、作家として、そして編集者としての顔も見せてくれるようになりました。

それでも、私はまだ、本当の意味で祖父をわかっていなかった。この『戦争というもの』の原稿を読んだ時、それを思い知らされました。 この本は、半藤一利自身の手で企画されたものです。

 

入院を繰り返す半藤氏から託された「一枚の紙」


半藤一利氏直筆の企画書

事の発端は、祖父の骨折。20198月、未知のウイルスによる混乱がまだ起きていない頃、 祖父は酒に酔い、すっ転んで脚の骨を折りました。救急車で搬送されて、そのまま入院。

心配しながら苦言を呈しているであろう、祖母の渋い顔が目に浮かびました。 手術を受け、治療やリハビリを続けたのですが、状況は芳しくなく、むしろ悪化していきました。

祖父もその時、89歳でしたので、体力の消耗に勝てなかったのかもしれません。入院したばかりの頃は欠かさず読書もしていましたが、入院やリハビリを繰り返す半年間のうちに、本を読む気力もなくなってしまったようでした。

そうこうしているうちに、謎の感染症が流行していき、もしかすると簡単に会えなくなるかもしれないと思った私は、急いでお見舞いに行くことにしました。

私が病室に行くと、祖父は少し痩せてはいましたが、「おう、よく来たな」と、起き上がって話をしてくれました。母からは「最近はベッドで寝てばかりいる」と聞いていましたが、思いの外元気な様子でした。

正直に言うと、この時何を話したかはあまりおぼえていません。今になるとそれも悔やまれますが、きっと他愛もない話だったのだと思います。 私が帰った後、祖父は母に、「俺、書こうかな」と、ぽつりと言ったそうです。

その後、母を通じて私に一枚の紙が渡されました。そこには太平洋戦争下で軍人が発した言葉や流 行したスローガンなど、「戦時下の名言」と称された言葉が隙間なく、びっちりと書かれていました。

それは祖父が書いた「企画書」だったのです。そこに書かれていたタイトル案は、〈「太平洋戦争記憶してほしい37の名言」、あるいは「孫に知ってほしい太平洋戦争の名言37」〉 ――。

母から、祖父がこれを書く条件は、私が編集することだと聞かされま した。 喜びよりも、戸惑いが先に立ちました。その頃には、私も編集者になって数年が経っていましたが、普段担当しているのは主に小説の編集で、完全に畑違いなのです。

そんな私が扱っていい原稿なのか自信がありません。そのくらいには祖父の大きさを理解していました。しかも「孫に知ってほしい」なんて、完全に身内ネタです。本に書いて世に出さずとも、直接語ってくれれば良いのに。

そんな企画があって良いのか、生意気にも編集者としても悩みました。 けれど、本も読めないほど気持ちが落ち込んでいた祖父が、再び本を書くために動きだした。

何十冊も書いてきた祖父が、病院のベッドの上にいてもなお、書きたいことがある。それならば、と覚悟を決めました。 改めて話を聞きに行くと、私が病院につくなり祖父は、「今年は数え年でいうと、太平洋戦争開戦80年で」と、企画主旨を滔々とプレゼンし始めました。

その時の声は、とても力強く聞こえました。そして雑誌『歴史街道』での一部連載の後、加筆して書籍にするという算段がつき、祖父の企画は本格的に動きだしたのです。

 

祖父と孫が本に込めた“願い”

20207月には連載が始まり、11月に終わり、そして今年の一月に祖父は亡くなりました。企画段階では37あった「名言」ですが、実際に綴られたのは雑誌に掲載された14のみ。

すべて書き切れなかったことだけ は無念であったろうと、少し胸が痛みます。 きっと祖父は、これを最後の仕事にするつもりはなく、復帰後最初の仕事にしようと考えていたのではないかと思います。

ただ、祖父も高齢でしたし、先があまり長くないことを意識してはいたのでしょう。だからこそ、いつなにがあっても良いように、戦争を知らない世代のために、これだけは今書き残しておかなければならないと、私にこの原稿を託してくれた。そう思います。

直接語ってくれれば良いのに、と思っていたこの企画ですが、結局コロナ禍で祖父とは自由に会うこともできなくなり、この原稿だけが私と祖父を繫ぐ「手紙」となりました。

連載原稿が送られてきてそれを読むたびに、祖父の経験した戦争というものの壮絶さに胸が詰まりました。見たこともない戦火が、目の前に迫ってくるようでした。日常とはこのように壊されていくの かと、恐ろしくなります。

この本は、祖父が最後に私に手渡してくれた平和への願いそのものでし た。本書が、祖父母から孫へ、戦争を知る世代から知らない世代へ受け継が れる、そんな一冊になることを、祖父とともに心から願っています。

 

 

 

 

 

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昭和史研究の第一人者・半藤一利が、最後に日本人に伝え残したかったこととは――。

 太平洋戦争を理解する上で欠かせない「名言」の意味とその背景を、著者ならではの平易な文体で解説し、「戦争とはどのようなものか」を浮き彫りにした珠玉の一冊。

 「戦争の残虐さ、空しさに、どんな衝撃を受けたとしても、受けすぎるということはありません。破壊力の無制限の大きさ、非情さについて、いくらでも語りつづけたほうがいい。いまはそう思うのです。

 九十歳の爺さんがこれから語ろうとするのは、そんな非人間的な戦争下においてわずかに発せられた人間的ないい言葉ということになります。いや、全部が全部そうではなく、名言とはいえないものもまじりますが、それでもそこから将来のための教訓を読みとることができるでありましょう。むしろ許しがたい言葉にこそ日本人にとって教訓がつまっている。そういう意味で〈戦時下の名言〉と裏返していえるのではないかと思うのです」――本書「まえがき」より抜粋

 

 

夫・半藤一利の最後の言葉

半藤末利子(エッセイスト)

20211に逝去した昭和史の語り部、半藤前最後の連載原稿を書籍化した『戦争というもの』が刊される。

その本では、太平洋戦争下で発せられた軍人たちの言葉や、流行したスローガンなど、あの戦争を理解する上で欠かせない「名言」の意味とその背景を解説している。「戦争とはどのようなものか」を浮き彫りにした、後世に語り継ぎたい珠玉の一冊である。

本稿は、妻でエッセイストの半藤末利子さんによる解説から、戦中のエピソードや亡くなる直前の半藤氏の言葉を紹介する。

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