日本の地下水脈  保阪正康  2020.7.

 2020.7.12. 日本の地下水脈

 

著者 保阪正康 昭和史研究家

 

文藝春秋 20207月号~ 連載

 

1回 「疫病とファシズムの足音」 ~ 明治以降、猛威を振るったコレラやスペイン風邪。日本の疫病対策は、軍事に収斂する形で進んだ

明治以降の近現代史を振り返ると、日本という国家が形成される過程において、疫病との戦いが極めて重要な意味を持っていたことが分かる。緊急事態宣言が持つ「窮屈さ」とそれによって「人間性の喪失」が社会のそこかしこに現れるということを、解除後もしっかり記憶しておかなければならない

明治以降、日本の国家体制の構築は、全てが「軍事」に収斂するプロセスの中で行われた

欧米列強のような文民統制の歴史のない日本では軍事の下に政治が隷属するという歪な状況から、必然的に個人の自由が制限された窮屈な、市民意識の希薄な社会となり、その帰結が「人間性の喪失」の世界

本稿では3つの時代――「明治10年のコレラの流行と大久保利通」「大正7年のスペイン風邪流行と原敬」「太平洋戦争下での疾病対策」――において、国家指導者がどう疫病と戦い、国民生活がどう変わったかを見る

開国とともに海外から流れ込んだ疫病に苛まれる。最初が1822年長崎から上陸したコレラ

1858年には江戸がコレラに見舞われる。感染源はペリー艦隊。死者数十万に及び、攘夷思想高揚の一因となる

77年西南戦争の折には、清国でコレラが流行。イギリス艦船から日本に上陸。大久保の指揮下、衛生局長の長与専斎は隔離政策を示達 ⇒ 近代日本における防疫の嚆矢

西南戦争に従軍した全国の兵士と警官がコレラに罹患し、感染が全国に拡散

次に感染症が拡大したのは、大正時代のスペイン風邪。第1次大戦下の世界でパンデミックを起こし、休戦を早めたともされたが、3度日本を襲う ⇒ 第1波が大正757月、第2波が105月、第3波が812月~翌年5月。死者18万以上。時の首相・原敬も第2波の10月には罹患。隔離政策などを取るが、長野県のある集落では240戸全滅とも

3波の新兵入営日のクラスター発生は深刻

昭和4年の世界恐慌によって引き起こされた帝国主義国家の再編成の中で、日本は軍事を中心とするファシズム体制をより強化。すべてが軍に収斂し、疫病対策も「軍主導」で研究、予防が進められる ⇒ 予防研究では関東軍防疫給水部本部(通称七三一部隊)がある。陸軍に設置され、満州に拠点を置き、兵士の感染症予防やそのための衛生的な給水体制の研究が主任務を表の目的としながら、一方で細菌兵器や毒ガスの研究を行うも、戦場の兵士に対する疫病対策は軽視されたため、南方での疫病死が多い

軍事指導者にとって戦争とは賠償金を得るための経済活動、産業行動であり、兵士の命は戦場で働く産業要員扱いされた。戦争に勝つことによって列強の仲間入りを果たし、その賠償金によって富国強兵を実現。戦争は国家的利益を上げる最大の事業

欧米型の帝国主義国家以外の国家体制を作り上げる可能性があったはずだが、指導者には明確な国家ビジョンがなかった。可能性のある国家像としては以下の5

   欧米列強に倣う帝国主義国家 ⇒ 富国強兵を目指し、現実の政府が選択した道

   道義や倫理を貴ぶ帝国主義的道徳国家 ⇒ 殖産興業を目指し、市民社会の道義を軸に据えた国家

   自由民権を軸にした民権国家 ⇒ 国民主権の国民国家

   米国に倣う連邦制国家 ⇒ 幕藩体制の延長線上にある考え方で、南北戦争後のアメリカ合衆国を模した国家

   攘夷を貫く小日本国家 ⇒ 鎖国下の江戸時代の日本の姿。単なる外国の排斥ではなく、必要以上に外国とは交わらないという考え方

西南戦争は日本赤十字を生んだ戦いでもある ⇒ 戦争中、佐野常民、大給恒(ゆずる)の両元老院議官らが傷病兵救護活動等のために設立した博愛社を前身とする

同戦争中には、熊本の現・山鹿市で熊本協同隊という自由民権体制が生まれた ⇒ 孫文の辛亥革命を支援した宮崎滔天の兄八郎が中心となって樹立

西南戦争中にも上記③の国家思想の噴出が見られ、西郷も②や④の思想を持っていたと思われ、様々な歴史の場面で顔を出す「地下水脈」を見つめていくことで、日本の近現代が進んだ150年の歴史を再検証しての歴史観を考えていく

 

2回 「5つの国家像」 ~ 欧州型の帝国主義国家への道を目指した維新後の政府。だが、日本が取り得た「国のかたち」は他にもあった

明治維新から太平洋戦争に至るまでの日本は、政治、経済だけでなく、教育や社会倫理、日常生活の規範まで、全てが「軍事」に収斂するプロセスを辿った。その延長線上に、太平洋戦争における悲惨な敗戦という現実が位置付けられるからだ

可視化されていない事実や人々の記憶から忘れ去られたかのように見える観念が時として歴史の大きなうねりを生じさせる因果関係を持つことがある。これを「歴史の地下水脈」と呼びたい。司馬遼太郎も、「日本は攘夷の思想を未分化、未消化のまま残してきた。日本社会の地下水脈には攘夷の思想がずっと残っている」と語っており、明治維新が落ち着いた後、攘夷の機運は日本人の間から消滅したように見えるが、伏流水のように日本社会の地下に脈々と流れ、その思想が戦争中に排外主義という形で噴出したという

年表的に歴史を振り返ると、日本は帝国主義国家への道を一直線に進んできたように見えるが、実際は幕末に欧米から新風が吹き込まれると、維新開始までの間に様々な思想を持つ志士たちが登場するも、維新後中枢に居座った薩長の人物たちに国家ビジョンが何もなかったことがわかる。新政府は場当たり的な対症療法に終始した

1889年新憲法制定で新しい国家の在り方がほぼ定まったが、それまでには様々な国家像がせめぎ合っていたはずで、現実は①の道を辿るが、そのほかの4つも地下水脈となって生き続けた

①の帝国主義成立の過程 ⇒ 明治の当初20年は暴力革命の時代の覇権争いであり、軍事先行で国のシステムを構築、政治、社会構造、倫理、道徳に至るまですべてが軍事に隷属される形とされ、帝国主義的な政策が国家の中枢に位置付けられる。国境線の外に国益を守るための利益線を確保する考え方と外交方針が帝国主義の国作りの基本となる。日清戦争以後は、戦争に勝って賠償金を得ることが目的化していく。軍が親のような形で政治が誕生し、それが日本の帝国主義の特徴となる

不平士族の反乱や民権運動は③の自由民権思想にもつながり、より多くの国民の声を政治に反映させるべきとして盛り上がるが、明治政府は君主に強大な権限を認めるプロイセンに倣った憲法を採択し、③の可能性は地下水脈となる

④の連邦制国家は、幕藩体制の枠組みを継承したものだが、大久保が早くに暗殺されたことで、新しい国家体制の検討の対象から外れる

⑤の攘夷は、広義に、西欧と距離を置きながら近代化していく国家像。江戸幕府も鎖国を表明しながら、実際には外国と相当な交流があった。石橋湛山の「小日本主義」もこの亜流と見ることが出来、植民地の放棄と軍備の縮小を提唱

実現しなかった国家像も地下水脈となって、時に噴出し、ぶつかり合い、我々の心理や行動に影響を与えてきた。その歴史を辿ってみる

 

第3回     「無自覚的帝国主義からの出発」 ~ 明治政府はいかにして帝国主義国家としての主体的意思を持つようになったのか?

欧米列強の帝国主義国家建設には主体的な意思があったが、日本の場合は帝国主義国家としての主体的意思を持ち始めるのは維新後20年経った辺りから

日本が列強の植民地化されなかったのは、①統治体制が機能していたこと、②鎖国下でも国際情勢に通じた人物が幕府や各藩にいたこと、③内乱がなかったこと、などによる

長い間不平等条約に悩まされ、屈辱を味わった明治政府は71年岩倉使節団を送って条約改定交渉に臨むが、列強に一蹴され、漸くビスマルクから、弱小国家プロイセンの歴史を語られ、富国強兵による独立の全うを示唆されて、自らの進む道に目を開く

征韓論は、不平士族の不満のはけ口的な意義しかなく、帝国主義的進出の嚆矢とは言えない

天皇に軍事の大権を与えた武装天皇制こそが近代日本の特徴

日清・日露とも、天皇は開戦に消極的

 

第4回     「武装する天皇制」 ~ 日清戦争を機に主体的な帝国主義の道を歩み始めた日本。その陰に「睦仁」の葛藤があった

天皇武装化のプロセス ⇒ 71年薩長土1万人による「御親兵」創設、73年徴兵制、士族反乱に備え全国6管区に鎮台設置、78年参謀本部設置、82年軍人勅諭で、天皇の軍隊明記

憲法によって天皇の統帥権が認められ、議会や政府による軍事介入の防壁とする

明治天皇自身は、武装天皇制をどう受け止めたのか ⇒ 天皇にとって最も大事なのは皇統を守ること。武装する天皇制につきまとう恐怖感や、皇統の歴史に対する責任について、天皇の説得に際して大きな影響を与えたのは信頼していた伊藤博文

日本が本格的な帝国主義へと歩み出したのは、90年第1回帝国議会での山縣首相の演説、主権線を守るために利益線となる朝鮮半島の確保を目指し、さらにはロシアの南下に対峙

94年、朝鮮での東学党の乱をきっかけに対外的な緊張が高まると、日本国内では政府と政党が歩み寄り、議会は巨額の軍事予算を可決。言論界でも肥後・熊本藩の下級藩士の家に生まれた徳富蘇峰が民権派の立場から政府が西洋文化を急激かつ上から押し付けようとするのに異を唱え「平民的欧化主義」を主張していたが、対清政策では国権派に転じ自らの『國民新聞』の社説で積極的に清との開戦を訴える。内村鑑三も後に帝国主義的と自省しているがこの時は蘇峰を支持。10日後には日清宣戦布告

日本は戦場の中で、先進帝国主義国家が後発帝国主義国家を搾取する構造があることを実体験として学んでいく。その過程で、清や朝鮮をある意味反面教師として、自立した帝国主義国家を目指さなければならないことを痛感

日清戦争には勝利したものの、三国干渉によって列強は後発帝国主義国家の日本を外交的に抑え込んだ上で中国に触手を伸ばす。これが三国干渉の本質であり、日本は外交戦に敗れた

外交戦の背景にあるのは武力であり、日本は臥薪嘗胆を強いられた

清国から得た多額の賠償金により、軍事面でも帝国主義国家とする原資を得る。軍人も「戦争が国を富ませる、それが自分たちの役割だ」とはっきり認識

先ず軍が周辺国に進出し、領土と賠償金をせしめることで権益を確保、軍主導で産業が発展するという後発帝国主義国家としての特徴を持つ。国内の政治、産業、国民生活、教育のすべてが軍に収斂し、軍が主導していく、その結末が昭和の敗戦

主体的な帝国主義国家としての性質が最初に現れたのが、日清戦直後に発生した朝鮮の閔妃暗殺事件。実権を握っていた閔妃率いる親露派政権の成立に危機感を持った日本は、長州出身の公使・三浦梧楼が閔妃を暗殺。帝国主義的手法そのままのやり方に朝鮮が反発、ロシアの後ろ盾で成立した新政権は多くの親日派要人を処刑し、日露の衝突不回避に追い込まれる

 

第5回     「反体制運藤の源流」 ~ 対露強硬派が支持を集める一方、社会主義運動は弾圧され、地下水脈化してゆく――

明治政府は、列強の侵略から日本を守るために場当たり的な対処を重ねるうちに、無自覚に帝国主義への道を踏み出し、主体的に帝国主義へ進むのは日清戦争に勝った後、三国干渉から日露戦争にかけての時期だった

日清戦後の列強の侵食で日本にとって衝撃だったのは、日本が三国干渉で真に返還した遼東半島の旅順と大連をロシアが租借したこと

徳富蘇峰が、「平民主義」の立場から政府を激しく批判していたのに、国権論者へと変貌するきっかけとなったのも遼東還付で、「力が足らなければ、いかなる正義公道も半文の価値もないと確信した」と後に振り返り、「力の福音」の洗礼を受けたと表現。欧米視察後、松方内閣で内務省勅任参事官となる

日清戦争の巨額の賠償金は、産業振興に活用。工業化とともに、都市での賃金労働者が増嵩するが、低賃金の過酷な労働を強いられた。公害問題も顕在化

1900年の足尾銅山事件は、思想というより庶民の生活に根差した反体制運動。発展する帝国主義の内部で、その歪みの犠牲になる国民の存在が顕在化したもので、米騒動に繋がる

1898年の社会主義研究会の結成は、思想に基づく労働運動や社会運動の高まりを反映、3年後には日本で初めて社会主義を目指す政党として社会民主党発足

政府には、第2世代の官僚が中枢で台頭 ⇒ 桂太郎、陸奥宗光、小村寿太郎、大山巌、児玉源太郎らで、帝国主義的な枠組みの中で育ってきており、帝国主義的国家戦略を所与のものとして、さらに発展させようとし、日本は自覚的な帝国主義へと変容

日清戦後も満州に居座るロシアに対し、日本政府内には2つの論が対立。伊藤や井上の第1世代が唱える日露協商論/韓満交換論と、第2世代の桂や小村が唱える日英同盟論

日英同盟論は、国力の低下が著しいイギリスが、欧州や東アジアでのロシアとの対立を深める中、日露の接近を恐れて日本との同盟に踏み切る。日本にとっては列強との初の対等条約と同時に、バルチック艦隊のスエズ通航を妨げ同艦隊敗因の1つとなった

ロシアの東・南進は止まらず、シベリア鉄道全通を始めとする鉄道網の拡充に日本の脅威は増すばかりで、知識人や為政者らは対露強硬論に目のめりに

00年近衛篤麿(文麿の父)や自由民権運動の志士からアジア主義へ転換した頭山満など玄洋社の活動家、憲政本党などの野党政治家や新聞記者らによって「国民同盟会」結成、対露強硬論を展開、後に「対露同志会」に発展し主戦論を訴える

037博士建白事件は、帝大の戸水寛人が中心となって、桂外交を軟弱と非難し、対露強硬論を政府に建白。帝国大学が基本的には国家の政策と一体化してきたことを証明

92年黒岩涙香が創刊した『万朝報』も当初は内村鑑三の「戦争廃止論」を掲載したが、社論を開戦論へと転換、非戦論を展開していた内村ほか幸徳秋水、堺利彦らは退社、幸徳と堺は「平民社」を結社、『平民新聞』を創刊して、キリスト教的社会主義、平和主義、非戦論を展開

反戦運動の拠点となった同紙だが、05年には治安警察法(00年制定)に基づく政府の弾圧を受けて廃刊。10年には大逆事件で大量の逮捕・死刑を出し、社会主義と反戦運動は地下水脈化、大正・昭和で再び姿を現わす

明治天皇は、日清の時同様開戦に反対、信任篤い伊藤の説得で漸く同意するが、開戦後は兵士を鼓舞する勅語を出し、旅順港閉塞作戦でもたびたび勅語を出して武勇を称えるなど、主要な戦闘のたびに勅語を出している。武装化した天皇が自主的に帝国主義の政策に乗った君主になっていくプロセスがこれらの勅語から垣間見られる

日露戦勝で、日本の帝国主義はさらに新たな段階に入る

 

第6回     「菅政権が知らないパージの近現代史」 

~ 歴史を振り返ると、政府に批判的な人物の追放には、ある方程式があった

発足直後の菅政権が日本学術会議の人事に介入、新会員6名の任命を拒否

問題は、菅政権が拒否の理由を一切説明しないこと

この6人は、特定秘密保護法や安保法制などに反対したり、政府の方針に注文を付けた学者たちで、そうした人物を意図的に排除した疑いがある

学術会議側は推薦の理由を政府側に説明している以上、拒否するなら相応の説明をするのが当然だが、「総合的、俯瞰的」に判断したというばかりで理由を明らかにしない。指導者の発言としてはお粗末で、役人の責任逃れの弁に近い

近現代史を振り返ると、今回の件は政府による「パージ」と位置付けるべき

菅政権は歴史に無知だからこそ、事の重大さを認識できておらず、適切な対応をとれない

l 維新政府では、自由民権運動の高まりから国会開設の勅諭が出され、政党が乱立したが、政府は政治結社への弾圧を強める一方、幹部を懐柔して政党の弱体化を狙い、その後の政党間の抗争から民権派が分裂、政府の離間作戦が功を奏した

1932年の滝川事件は、あくまで思想的な面に焦点が当てられたもので、今回の問題とは異なる。「犯罪は国家の組織に欠陥があるから生じるもので、刑罰を加えるのは矛盾」だとした論理が、無政府主義思想と結びつけられ、共産主義擁護、政府批判と受け止められて、総長が辞任、滝川が休職になったため、法学部教授全員が辞表を提出

l 1935年には「天皇機関説事件」発生、立憲政治の理論的柱とされていたが、右翼の批判に政友会が便乗して葬られた

両事件から見えるのは、政府が気に入らない人物を排除する場合の方程式で、まず権力側がターゲットを決めると、アカデミズムにおける権力同調者がターゲットを激しく批判、右派がこれに乗じる。議会にも呼応する議員が出て、軍にも及び暴力的な脅しに発展し、権力中枢が手を下すことなく、権力に都合の悪い人物が排除される。事件後も思想や言論弾圧は激化し、敗戦によって弾圧はなくなったものの権力が邪魔な人間を排除するという志向性は、地下水脈として日本の社会を流れている

l 戦争協力者の「公職追放」には、GHQによるパージの中に日本政府側の意思が働くパージもあった。石橋湛山ものその1人で、主幹を務めた『東洋経済新報』が帝国主義を言論で推進したとされたが、戦前は共産党の弾圧に対して言論の自由を主張していたにも拘らず、蔵相としてGHQの経費負担などの要求に反発したことに加え、吉田茂による政敵切り落としに利用された面もあり、吉田は手を汚さずに石橋を葬ったといえる

吉田は、レッドパージも利用して、共産主義者のみならず、好ましからざる人物を追放

l 今回の菅政権の任命拒否は、政府中枢が人事に直接介入した点で、過去のパージより露骨であり、いかに近現代史に無知であるかを示している

同時に、政府の論点すり替えやレッテル貼りに私たちが踊らされていないか、留意する必要

「学問の自由」がすべてに優先する免罪符とはならないが、学術会議に組織的な問題点があったからといって、政府が何の説明もなく人事に介入していいということにはならない

l 戦前、「学匪」とか、学者を「売国奴」と攻撃、1950年にも吉田首相が講和条約締結に当たって「全面講和論」を主張する南原東大総長を「曲学阿世の徒」と批判した過去があるが、今回の件も同じニュアンスの言葉が復活するとの危機感を感じる

l アカデミズムの中から進んで権力と一体化する者が必ず出てくる

任命拒否はパージの第1弾に過ぎない。アカデミックパージも段階的に強化され、権力の目の届く空間から追い出すのが日常化し兼ねない

パージはアカデミックにとどまらず、政府にとって都合の悪い人物の社会的追放はこの先他の分野や組織にも広がる。民間企業の人事でも政府は圧力をかけるし、政府の顔色を窺う経営者は、政府に批判的な社員を追い出したり移動させたりすることにもなり兼ねない

 

第7回     「老壮会」という水脈合流点

~ アナーキストから右翼までが大同団結した結社が、大正中期の日本には存在していた

191921年は、近代日本の分岐点 ⇒ 維新後の政治体制が形を変えていく

背景には、第1次大戦終結による世界秩序の再編、プロレタリア革命の可能性、民族感情に帰依した新しいナショナリズム、大衆社会の誕生=市民社会への移行といった潮流がある

「老壮会」という共産主義者やアナーキストと大川周明、北一輝などが大同団結した結社の誕生、国家改造を考える

l 近代日本の反体制運動 ⇒ 帝国主義的な流れの中での対立、社会主義勢力、純正右翼の国家観=古代国家を範とする国家像、アナーキズムといった4つの水脈があった

l 反体制運動の背景には、維新以来の富国強兵政策の歪み ⇒ 急増する都市労働者の劣悪な環境、日露戦後の慢性不況などがある

l 1次大戦後は大戦景気に潤い、吉野作造を理論的支柱とする大正デモクラシーが拡散するなか、1918年の米騒動が為政者や知識人を揺さぶる

l ロシア革命が日本の社会、言論界に与えた影響大 ⇒ 「左翼」思想の原型が生まれる一方で、国粋主義者たちの危機感が高まるが、現状の変革を求めるという一点で両者は一致

l 三国干渉で帝国主義乗りアリアズムを知り、ロシアの横暴を深く記憶に留めた新聞記者で思想家・社会運動家の満川亀太郎(1888)は、社会主義の主張も国家改造の一助になり得るとして、左右両翼の思想の結合を試み、1918年「老壮会」を創設

自由な議論の必要性を強調、根本に憂国的精神を持つものを糾合、ほぼすべての思想的な地下水脈が網羅された感がある。22年まで続き自然解散

思想、国家観が全く異なる者同士が論じ合うことで、各人の思想や行動に大きな影響を及ぼし、そこからまたそれぞれの分野での国家変革を目指す地下水脈が分岐していく

 

第8回     国家主義者たちの群像

~ 北一輝や大川周明らの思想に感電した青年将校は「昭和維新」に突き進むが……

近代日本最大の民衆蜂起である米騒動を機に、さらに国民の権利拡大を希求する声が高まり、絶対君主制である天皇制との緊張関係が高まる一方、天皇を頂点とする国家体制を信奉する者たちや、農本主義者らも内外の諸問題に危機感を抱く

老壮会以後の右派の流れは、若手の思想家の結びつきから北一輝・大川周明を中心として1919年「猶存社」を結成。天皇を頂点とする国家改造を目指す

社会主義者の高畠素之は、老壮会から売文社に加わり、堺利彦や山川均らとともに言論による社会主義推進を目指すが、さらに急進的活動を模索し、国家社会主義を提唱

l 1次大戦後の軍縮期にあって軍人は肩身の狭い思いをしたが、22年の共産党結成には大きな危機感を感じ、軍部として対抗するための拠って立つ思想が必要となり、大川や北の説く思想に惹かれた。日ソ国交回復の話から大川と北は袂を分かち、22年には猶存社解散

満川と大川は新たに行地社を結成、「維新日本の建設」を唱え、革新派軍人との連携を強める

l 1次大戦後の欧州に渡り、総力戦時代における戦争のあり方を研究した陸軍のエリートの中に永田鉄山がいた。帰国後陸軍統制派の中心として軍の改革を図るが、皇道派の相沢により惨殺。替わって統制派から台頭してきたのが東条グループ

l 28年の張作霖爆殺事件など、場当たり的な軍の暴走を招いた背景には、元々自由民権思想が軍に拡散するのを恐れた山縣らが、軍人の政治関与を抑えていたが、昭和に入ると他所からの借り物思想で武装した軍人が政治に積極的に関与するようになり、次第に思想を放擲して「軍が天皇を取り込んで国家を好きにする」という野望を剥き出しにしてきたことがある

昭和初期は、軍部が勝手に考えた価値基準による天皇の意向を実践するという独善的な思考が、軍人の基本的な世界観、歴史観、人間観として沁みついていた時代

l 軍部が勝手に目指したのは天皇親政国家だが、思想的なバックボーンは感じられず、明治維新の本質が暴力革命であったのと同様、青年将校が標榜した「昭和維新」も暴力革命となるのは歴史の必然

l 暴力革命を志向した軍内の組織が「桜会」で、30年陸軍の橋本欣五郎中佐、長勇大尉らが中心となって結成、参謀本部の若手将校からなる秘密の政治結社。クーデターによって軍政権を樹立し国家改造を目指す。2度のクーデター未遂の後、血盟団事件から、海軍将校中心の五・一五へと発展、さらに二・二六に結実。注目すべきは、右翼思想家が積極的にテロを起こしたのではなく、軍の側が思想を求めて彼らを取り込んでいったこと

l 北については、その思想といい生活ぶりといい、様々な貌がある。北を痛烈に批判したのが、愛郷塾の橘孝三郎で、北は共産党であり、天皇は抽象的な存在に過ぎないとした。軍は北を死刑としたが、真に恐れたのは青年将校らが北の思想に影響を受けたことで、借り物の思想で国を変えようとしていた軍が自ら招いた悲劇といえる

 

第9回     テロに流れる攘夷の思想

~ 「天誅」――維新前夜の尊王攘夷派の合言葉は、なぜ後世のテロで蘇ったのか?

「老壮会」が後の思想家たちに与えた影響は大きい。右翼・左翼という大まかな分類も、老壮会以降に形成されており、老壮会以後日本の思想の世界は新しい局面を迎えた

左翼には、共産主義という外来の絶対的な思想があり、ロシア革命による史上初の社会主義国家が誕生したことで、日本の左翼運動も勢いを増し、22年には共産党も結成されたが、特高警察の設置、治安維持法制定(25)により弾圧を受けると急速に退潮

右翼は、「天皇絶対主義」に集約されるが、思想と呼べるほどの堅牢な体系的論理を持つまでには至らず。思想性の欠如が暴力性を帯び、テロの横行へと進展するが、明治維新前後に活発化した「攘夷」の地下水脈が見え隠れする

l 右翼テロのはしりは桜田門外の変であり、天誅思想が広がる

l 維新以後で歴史を変えた事件が78年の大久保の暗殺。天誅思想が根幹にある

89年の大隈外相遭難事件も、条約改正に異を唱える国権主義者によるテロであり攘夷に連なる天誅の思想が根底にあって、急速な欧米化に対し常に噴出口を求めて蠢いている

21年の原敬暗殺事件は、19歳の転轍手による犯行で、国家主義的な助役の教唆が疑われたが、詳細を明らかにすることなく裁判は終了。無期懲役となるが恩赦で釈放後は満州へ渡り長く生きたという。その裏には国家主義者の暗躍があるとの噂も

安田善次郎の暗殺も国粋主義団体「神州義団」による天誅がらみで、昭和初期にも相次ぐ

30年の浜口暗殺事件は、「統帥権干犯」が絡む。海軍軍縮を海軍の反対を押し切って調印したのが干犯と見做された。犯人は死刑判決を受けながら恩赦で減刑、戦後も血盟団の井上日召と共に「護国団」という右翼団体を組織し事件を起こす

l 桜会は、思想なき右翼と軍人の結節点。テロが皇国史観の模範であるかのように公然化

l 五・一五は軍人による集団的テロ。政党政治の打破と天皇親政による「昭和維新」を目的としたが、テロの犯人でありながら不満のはけ口を模索した国民大衆からの減刑嘆願が殺到、暴力礼讃の風潮が拡散。攘夷がいびつになり、天誅思想も変容

l 二・二六はテロがクーデターに発展。「国体破壊の不義不臣を誅戮し稜威(みいつ)を遮りご維新を阻止する奸賊を芟除(さんじょ)する」との蹶起趣意書は攘夷の発想と軌を一にし、天誅思想が青年将校の天皇への絶対的帰依に行きついたといえる

天皇親政を目指すが、軍部が維新以後目指した天皇との一体化は虚構であり、実現不可能な幻だった

 

第10回 (5月号) 共産主義者と「攘夷の水脈」 

~ ソ連から流れ込んだマルクス主義に知識人層は感電する。ところが・・・・

1918年設立の結社「老壮会」は、国家主義者からアナーキストまであらゆる思想家たちが集い、活動は僅か4年だが、日本の地下水脈の合流点となり、そこからまた新たな思想が分流

老壮会以前は、右翼・左翼という色分けはなく、富国強兵策による社会の様々な歪みを是正しようと現体制に異議を唱える思想家たちが表面化

左翼に近いのが1898年発足の「社会主義研究会」(5回参照)であり、1901年結成の社会民主党。結党2日後に警察権力により解散命令 ⇒ 社会平民党 ⇒ 平民社 ⇒ 地下水脈

自由民権運動の水脈は、1881年の板垣退助の自由党結党以後迷走、反政府的な騒擾事件相次ぐ中、運動の統制力を失って84年解党。90年帝国議会開設に伴い、中江兆民を中心に立憲自由党結成(翌年自由党に)、「民力休養、政費節減」をスローガンに藩閥政府と対立。98年自由党中心に初の政党内閣「隈板内閣」が誕生するが党内対立から4カ月で瓦解。さらに1900年伊藤博文を党首とする立憲政友会の誕生で、自由民権運動は政府の弾圧を受ける

大正に入って、社会主義勢力は海外から流れ込んだ水脈に力を得て息を吹き返す。コミンテルンから使者が来て共産党結党、壊滅するとコミンテルン支部と形を変えて再興

日本の共産主義には2つのグループがあり、1つは裕福な知識人層で代表は佐野学であり、もう1つが労働者グループ。1925年の治安維持法により取り締まり強化

コミンテルンは天皇制廃止を主張したが、日本の共産党は根源的な天皇崇拝から議論も出来ないまま綱領に入れず、尊王攘夷の地下水脈は左翼陣営にも流れ込んでいた

452月の近衛上奏文は、着々と進む共産革命達成を危惧し、国体護持のため一刻も早い戦争終結の方途を講ずべきと提言したが、実質的に書いたのは吉田茂。共産主義への恐怖を利用して早期講話への筋道を探ろうとした。天皇は即時停戦の建言には同意しなかったが、動揺した可能性は大。吉田の父は自由民権運動の中心人物の1人・竹内綱で、孝徳らと同様保安条例で東京から追放。社会主義勢力の一掃と共に表舞台から消えた自由民権運動と、弾圧された共産主義思想が、敗戦間際に奇妙な形で交差した

 

第11回  「転向」の共産主義者

 ~ 豊かさへの罪悪感から運動に身を投じた知識人たちは、なぜ思想を捨てたのか?

大正中盤を境に、日本の近代も大きく変わる。思想の世界も同様で、近代後期の始まりと共に、反体制運動が大きなうねりとなっていくが、ロシア革命が原因の一端

1933年、佐野学らが市谷刑務所で「転向声明書」を発表、共産党の幹部やシンパが雪崩を打って転向し、共産党は大打撃を受ける

エリートである大学生の中には、恵まれた身分である自身への葛藤から反体制運動に身を投じる学生が増えていく。帝大に「新人会」が発足。知的エリートを納得させる論理的な筋道が明確なのはマルクス主義であり、天皇制に立ち向かう武器となる思想として知識人層に広まる

文芸評論家の亀井勝一郎(190766)もその1人。函館の銀行頭取の家に生まれ、山形高から帝大文学部に進み、マルクス主義芸術研究会から新人会に入り、共産主義青年同盟に入って指導的な立場となる。後に亀井と親交を結ぶ太宰治も大地主の家に生まれ、生まれながらの豊かさに後ろめたさを感じ、弘前高で入れ違いに卒業した田中清玄の残した共産主義に惹かれ、帝大に入ると共産党のシンパとなり、実家を欺いて活動資金を出させる

政府は普通選挙の目的を「革命の安全弁」と公言、国民の政治参加の道を広げることで、革命を防止するという発想だったが、無産階級の政治への参加は脅威で、治安維持法制定へと繋がる

最初の普通選挙は28年、無産政党は49万票を得て8人が当選、それを見て脅威を感じた政府は弾圧を強め(三・一五事件)、新人会も解散命令。拷問の酷さもあって次々に逮捕された知識人たちは運動からの離脱を誓約

華族にもマルクス主義は及ぶ。岩倉具視のひ孫の岩倉靖子は学習院から日本女子大へ転向、共産主義運動に関わり、党の指示で組織の拡大を目指す。08年逮捕・起訴され自殺、享年20

共産主義の弾圧には、明治期の自由民権論者に対する弾圧に匹敵する国家権力のヒステリー化が顕著であり、「転向」はそんな国家の異様さを反映

33年の佐野らの「転向声明」は、「明治維新で日本は既に革命を遂げたとし、コミンテルンによ

る君主制廃止の指示はばかげている」と断じており、天皇を信奉する土着の攘夷思想が地下水脈として共産主義者にも流れ込んでいた

山川均らは共産党の巨頭らによる「転向声明」に批判的だったが、36年の受刑者438人のうち324人が転向、受刑者以外の思想犯では、4183人中非転向者は183

戦後は非転向を貫いたことが評価されるが、元々資本家対労働者というマルクス主義のいう階級対立、革命理論の基本的な土壌自体が存在しなかったということを考えると、転向組を蔑視したり、倫理的・道義的問題にすり替えようとして意図的に「転向」という言葉に含まれる一種の悍(おぞ)ましさを利用した面が無きにしも非ず

鶴見俊輔が転向という言葉の分析・解説をしているが、日常生活の面倒や家族からの説得などにより転向するケースが多く、理論的矛盾に気が付いて転向したのは11%にとどまるという。「自己変革」辺りで代置させるのがいいのではないか

 

第12回 (20217月号) 「転向」から「自己変革」へ

~ 「転向」というレッテル貼りではなく、「自己変革」という観点から、改めて近現代史を振り返る

1933年、獄中で共産党幹部の佐野学と鍋山貞親が天皇制を肯定して転向声明文を出し、幹部やシンパが続々と従い、第2次共産党は事実上崩壊

以後、「転向」には後ろ暗いイメージが付き纏い、いまだに否定的なイメージを拭えないが、「自己変革」と捉えると、日本の近現代史が異なって見えてくる

「転向」という言葉は、思想を取り締まる側が「正しい思想にじてかう」レトリックとして用いたもので、切支丹の「転ぶ」と通底するが、戦後は左翼運動体にも利用され、戦後解放された徳田球一や志賀義雄ら非転向組が英雄視され、「転向」という後に「権力への屈伏」「組織への裏切り」という負のイメージを込め、転向者たちを痛烈に批判。共産党にとって運動体の求心力を増すための便利な語だった

同じ左派の中でも、共産党に留まった者が上位で、穏健な社会民主主義などに転じたものは下位に置かれるという序列が付き、戦後の社会党は常に共産党に卑下されるという奇妙な心理的現象もあった

思想信条を変えることは多くの人が体験することであり、しかも自覚的に変える場合がほとんどにも拘らず、転向という後にマイナスのイメージが与えられてきたのは、日本人が近現代史を見るときの正邪の尺度に利用されてきたからだろう

日本の近現代史では、国家自身が転向を繰り返してきた。「あり得た5つの国家像」(2回参照)で詳述のように、尊王攘夷からいとも簡単に転向。維新後は「君民共治」を目指すが、「有司専政」(権力者による政治)へと走る

政府への不満の受け皿となった自由民権運動は過激化し、抑えきれなくなった板垣は解党して外遊しイギリスを学ぶべきと主張するようになったが、これを転向と批判するのは不適切

徳富蘇峰が民権派の言論人として「平民的欧化主義」の旗頭から、国権派に転じ日清戦争支持に回ったのも「転向」には違いない

1910年の大逆事件を機に、政府は「社会主義=悪」の図式を国民に刷り込み、社会主義者を徹底的に弾圧するが、それでも屈しない共産主義勢力に対し、治安維持法改正で「国体変革」の罪を死刑とし、「予防拘禁」の導入によって死ぬまで獄中勾留が可能となった

戦後の国体変換は日本全体の転向だが、一般国民のリアリズムはすんなり受け入れ

天皇の人間宣言「新日本建設に関する詔書」の冒頭、明治天皇の「五箇条御誓文」に触れた部分について、天皇自ら記者会見で、「民主主義を採用したのは明治大帝で、神にも誓われそれが基になって明治憲法が出来たもので、民主主義は決して輸入されたものではないことを示す必要があった」と語っている。近代日本最大の危機を天皇自ら「自己変革」で乗り切った

 

第13回 (20218月号) 「軍事先導」の資本主義

~ 後発帝国主義国家の日本は、軍の発展を優先した。そして「営利活動としての戦争」へと傾斜してゆく

近代の日本経済と財界人に流れる地下水脈を追う

終身雇用、年功序列、退職金・年金等の日本型雇用のシステムが続くのは、「藩」の意識が根強く残っているから。藩の雇用関係は「温情」を軸にして、藩が企業に替わっただけともいえる

西欧の資本主義が大航海時代に航海のつど資本を集め、持ち帰った利益を出資者に分配することから始まったのと異なり、後発の帝国主義国家として出発した日本は軍が先導する形で資本主義が発展。株主総会がシャンシャンで終わるのも、親方日の丸意識が抜けないのも、このような歴史的背景のためといえる

新政府が中央集権を進める上でまず手を付けたのが「版籍奉還」であり、次いで御親兵の武力を背景とした廃藩置県で幕藩体制が終焉。さらに「秩禄奉還」により一時金支給により俸禄を打ち切り、資本主義のシステム導入を図ったことが政商の誕生を後押し

金融制度を確立し、株式会社組織による企業の創設を促す

政商として莫大な利益を上げながら破綻したのが小野組で、そこで実績を上げた古河市兵衛が渋沢の援助で足尾銅山を買収、外国製機械を導入して産出量を引き上げ軍に貢献

素手でのし上がったのが花王の創業者・長瀬富郎。日本橋馬喰町で小間物屋を開業、調合技術を学んで国産初の花王石鹸を開発。資生堂や塩野義などの日用品製造企業には軍に取り込まれずに成長を遂げたが、江戸時代の蓄積がものをいったが、これらはあくまで例外

巨視的に見れば、軍が産業を主導し、政商が軍と一体となり国家の支援を受けて経営を拡大、国家社会主義的な色彩を帯びた経済構造が出来上がり、戦争によって植民地や権益を獲得すると、「払下げ」という形で政商に利益がもたらされ、政商の下で産業が充実し、国民に還元されるというシステム

そうした経済構造が、国家指導者に歪んだ戦争観を抱かせ、戦争に勝てば金が儲かるとなったが、日露戦争では裏切られたものの、第1次大戦ではまた味を占めた

資本主義の根幹部分といえる「生産性」や「利益配当」に於て、日本経済は歪んだものになる

軍需産業や軍関連の工場では、労働生産性が相当悪化、労働意欲も低く合理化も進まない

三井財閥の総帥も務めた蔵相の池田成彬は軍需産業の株式会社化を主張したが、陸軍次官の東条が猛反対、池田は憲兵隊の監視対象となり、同様に商工大臣の小林一三も統制経済を主導する岸信介によって失脚させられた

軍先導の資本主義は、戦勝が大前提であり、そのための無理無謀が許され、兵士の命より勝利が至上命題になっていく

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

第14回 (20219月号)

第15回 (202110月号)

第16回 (202111月号) 純潔の革命家・西郷隆盛

 ~ その精神性の高さゆえに庶民に愛され、軍事指導者に悪用されてきた人物の実像

1940年、奔流となって噴出した「攘夷の地下水脈」は1932,3年ごろから社会のあらゆる部分に浸透し、言論や思想が歪められ、徐々に異変を示すようになる

「昭和の文化大革命」の予兆は五・一五事件の裁判に見られる。被告たちが「自分は名も命も求めない。日本改造の捨て石になるために行動を起こした」と涙ながらに陳述。西郷の遺訓「命もいらず名もいらず官位も金もいらぬ人間ほど始末に困るものはない」に感銘を受けて参加したという。裁判長までが涙し、法廷が嗚咽に包まれる。彼等は英雄視され、動機至純論が日本社会を支配、知性の否定と狂乱の渦に巻き込まれていく

西郷には、明治維新という革命をとことんまで追求した、純化した精神性が内在するが故に多くの人を惹きつけてきたが、一方で都合よく利用されてきた部分がある

右翼・民族派は、西郷の精神性を過剰に尊崇し、軍事指導者は自分たちの野望を巧妙に西郷に投影し利用してきた。東条は西郷の詩を自己弁護にすら利用

一方、左翼は打倒すべき帝国主義者のイメージ形成に西郷を利用したが、何れもご都合主義

西郷に注目すべきは3点、①封建制度打破の最大の功労者、②革命の純潔性を支持、③自由民権運動の地下水脈が西郷の周囲に存在

西郷は類稀な政略家であり優れた軍師。彰義隊との戦いでは、連携の乱れた薩長軍を最前線で立て直し短期に掃討の目的を達成。また先見の明があり、早い段階から合従連衡に拘り欧州流の議会制の構想を持つ

西郷が主導した維新という革命成立後、士族に困難が待ち受ける。国民に兵役義務を課すことにより、士族の地位を否定、経済的にも困窮したところに、成り上がりの政府役人による汚職が発覚して士族の不満は溜まり、西郷はその矢面に立つ

さらに外交面では、不平等条約の改定が難しく、ロシア、台湾、韓国と相次いで衝突が出来、外征論が高まるなか、不満のはけ口として、比較的影響が小さそうな「征韓論」を閣議決定するが、帰国した岩倉使節団の巻き返しにあって挫折し西郷は下野

不満士族は、西郷という支柱を失ってテロに走る

西郷が決起した裏には、革命の純潔性を守る意思があったのではないか。そこに、自由民権思想を唱えた宮崎八郎の熊本協同体が援軍として参加した背景もあった

西郷がなぜこれほど大衆的人気があるのか、精神至上主義の良質な部分を体現しているからに他ならない。西郷には純度の高い精神性があるからこそ、革命という目標に向かって一直線に進むうちは比類なき破壊力を発揮するが、革命が終わって「平時」になると途端に色褪せてしまう。西郷の思想の磁力に連なる自由民権運動の地下水脈は後世に受け継がれた

西郷は自らの挙兵に大義名分がないことを認識していたが、死を賭すことで恥の意識を打ち消そうとした

昭和の軍事指導者は西郷のこのような思いを含めて全人像を想像することなく、一部を都合よく利用しただけであり、西郷の持つ革命の純潔性とは程遠いモラルだった

いま政治が混迷を極めている。為政者の都合の良い歴史解釈に惑わされないよう、私たちは歴史の本質を見つめる目を養う必要がある

 

第17回 (202112月号) 五箇条の御誓文と日本型民主主義

 ~ 昭和天皇が引用した御誓文の中には日本固有のデモクラシーの原型がある

米国型デモクラシーだけが民主主義と思い込んできた日本人が、発想を入れ替える好機

日本型デモクラシーの原型は五箇条の御誓文

1.    広く会議を興し万機公論に決すべし

2.    上下心を一にして盛んに経綸を行うべし

3.    官武一途庶民に至るまでその志を遂げ、人心をして倦まざらしめんことを要す

4.    旧来の陋習を破り天地の公道に基づくべし

5.    知識を世界に求め大いに皇基を振起すべし

1946年元旦、昭和天皇は「新日本建設に関する詔書」を出したが、そこに五箇条の御誓文を引用し、これを新日本建設の趣旨とすべきと述べる

五箇条の御誓文は、福井藩出身の由利公正が叩き台を作り、土佐藩の福岡孝弟、長州藩の木戸孝允らが加筆修正した上で岩倉に提出された。開国による欧米思想の流入に対し、独自の伝統的思想を示すものとして作成されたもので、そのルーツは聖徳太子の17条の憲法

「和を以て貴しとなす」の精神はまさに新政府が求めていたもの

その精神は、自由民権運動にも流れ込んでいるが、時代とともに影が薄くなる

その原因は、1つは軍人勅諭で、天皇と国民の間に軍部が介在し、神格化された天皇像を一方的に国民に押しつける構図が生まれる。もう1つが教育勅語で、国民は「臣民」とされた

特筆すべきは、両者が憲法より先に発表されたことで、国家の根本原理より前に、軍が天皇と国民の間に入り、子供達を臣民として教育するシステムが出来上がった

五箇条の御誓文の地下水脈は両者によって徹底的に抑圧される

反権力・反軍部を果敢に主張したジャーナリストに桐生悠々がいる。金沢藩士の家に生まれ、信濃毎日の主筆となって軍部の横暴を糾弾し、太平洋戦開戦直前に死ぬが、彼の根底にあったのも五箇条の御誓文であり、後藤新平も「政治の倫理性の模範」として御誓文を激賞

天皇の「詔書」では人間宣言が注目されるが、天皇によればそれは二の次で、天皇自ら明治大帝が神に誓われた思し召しである民主主義を今後の国の進路を指し示す思想としたことにこそ真の狙いがあった

開戦直前9月の御前会議で、天皇は敢えて御誓文を示すことによって強硬に反対するのではなく、異例ともいうべき、明治天皇の御製を詠み上げ平和を希求する気持ちを吐露

天皇にとって最も大事とされてきたのは皇統の維持であり、戦後皇統存続の危機の中で、昭和天皇は結局開戦に対する責任追及に対する「自己批判」の手段として御誓文を引用

御誓文の地下水脈は戦後も流れ続けている。石橋湛山は主筆を務めていた『東洋経済新報』の「社論」において、「旧敵国の求める民主化は難しいことではなく、五箇条の御誓文こそデモクラシーの真髄を道破せられたものであり、基本的人権も明治憲法の柱」と書いている

五箇条の御誓文が発せられた後、自由民権運動の中で、日本各地に60以上もの「私擬憲法」が生まれたという。日本には健全な民権制度が育つ素地が十分にあることを政治家も私たちも認識すべき

 

第18回 (20221月号) 議会政治の誕生と死

~ 議会への無理解が「政治的無関心」の源流にある

10月の衆議院議員選挙の立憲民主党の惨敗、与野党を問わず政治という職業が一種の「家業」と化していること、政治的無関心の末に壮大な「バラマキ」が国会の議論もなくなし崩し的に進められている。このような政治風景の源流には何があるのか?

明治維新の五箇条の御誓文が明治初期に勃興した自由民権運動に大きな影響を及ぼし、1890年には悲願の帝国議会開催が実現したが、政権は「超然主義」として不偏不党を標榜

帝国議会の権限は限定的だったが、予算議定権を持ち、藩閥政治に対抗。第1回議会から軍事費を巡って紛糾、第2議会では遂に解散、選挙後の議会では選挙干渉の責任を追及され総辞職。伊藤博文は自ら政友会を組織して政権を運営、漸く政党政治が始まり、1918年の原内閣に続く

1925年普通選挙法成立により、2大政党制が定着し、「憲政の常道」が守られていたが、有権者の増加が金権政治へと向かい、そこに付け入ったのが軍部。1932年の五・一五事件は民衆の支持を得て政権はファシズムに傾倒、海軍の長老斎藤実の首相就任により、僅か8年で憲政の常道は終焉

立憲政治が正常に機能するには、行政と立法府である国会が建設的な対立関係にあることが必要だが、軍部主導になると、政党がその権力にすり寄っていく。’40年民政党斎藤隆夫の反軍演説は懲罰委員会の対象となり除名処分になり、さらに大政翼賛会の誕生で政党は自滅

敗戦によって、男女平等の選挙権が実現したが、日本人

 

 

 

自らが獲得した権利ではないことから、日本人は選挙の重要性と議会政治の本質を理解しきれていない

同時に、選挙後に権力者を監視するシステムが必要で、有権者はその意思が求められるが、現代の日本ではそのシステムが機能していない。民意を反映できない議会と、議会を利用できない国民、その流れが明治から現在へとつながっている

 

第19回 (20222月号) 国家神道に呑みこまれた宗教

~ 国家神道への隷属の果てに起きた廃仏毀釈の嵐と大本教への大弾圧

象徴天皇制の曲がり角――眞子さんの結婚が、国民の皇室イメージを一変させ、世論の分断も招いている

国民も皇室側も「象徴天皇制」というシステムを本質的な深い部分で理解してこなかったから

議会政治も「与えられた」が故に国民の理解が欠如しているのと同様のことが、連合国主導で導入された「象徴天皇制」にも言える

「日本国民」を創る上で、思想や信仰が必要とされ、天皇とそれに連なる神道をその柱に据えた。国家主義化した神道は、それまで日本に根付いていた宗教や信仰を呑み込んでいく

戦後国家神道が解体され、「与えられた象徴天皇制」の下で暮らしてきた

幕末の政情不安と経済の混乱、自然災害は庶民の動揺を招き、新宗教ブーム招来

黒住教――岡山藩の守護神社の神官、黒住宗忠が1814年立教

天理教――天理の浄土宗信者、中山みきが1838年立教

金光教――岡山県大谷村の豪農、赤沢文治1859年立教

いずれも「神道13派」に数えられ、政府公認の神道の一派と位置付けられる――中央集権的国家建設の一環

神道を国教化するために神社制度を整備――朝廷管理の官幣社と国司管理の国弊社を再興、社格を規定。戊辰戦争の死者を祀るため1869年東京に招魂社を設け、79年には靖国神社と改め別格官幣社と位置付け、戦死者を一手に引き受けた

『古事記』や『日本書紀』に国家の起源を規定、神祇官を再興し、神道国教化の意思を鮮明にするとともに、障碍となる仏教排除のため神仏分離令を出し、廃仏毀釈を進める

庶民に新政府の施政方針を示した「五榜の掲示」が民衆統治の根幹――「五倫(儒教の倫理)の道」を説き、「徒党」を禁じ、「キリスト教」禁止の3枚は永年掲示とされた

政府による激しい弾圧を潜り抜けるように、仏教陣営やキリスト教からの反発が起こったが、そのもっともグロテスクな形が大本教への弾圧。1892年京都の寡婦、出口なおが「お筆先」を使って立教した終末論が軍人たちに強い訴求力を持ったのを警戒した当局が1921,35年の2回にわたり弾圧

独特の動きをしたのが日蓮宗――国家主義を唱え、軍事的な国家改造を目指し、「八紘一宇」などを掲げ、法華経の「不惜身命」の実践とばかりにテロ行為などの暴力事件を起こす

戦後国家神道は解体され、信仰の自由が保障されたとはいえ、現世利益に結びつけて信者にアピールする姿勢が露骨な宗教が増えてきて、「与えられた信教の自由」の課題が露呈

宗教性を排した象徴天皇制の意味についても、日本社会は真剣に向かい合ってこなかった

国家主義が消えた分、個人の利益を希求する思想が幅を利かせ、自分だけが豊かで幸せになればいいとの主張を憚ることなくできるようになった。その風潮が国民にも皇室にも及んでいるのではないかと、改めて自省すべき

 

第20回 (20223月号) 「聖」と「俗」の天皇論

~ 「聖」は「俗」とは交わらない。だからこそ天皇は日本人に必要な存在であったのだが・・・・・

皇室をめぐる世論は分断

権力者たちの栄枯盛衰を横目に見ながら、皇室は「権威」として存続し続けた理由の1つに、皇室が「聖なるもの」の地下水脈を体現した存在であったことが認められる。「聖」が存在することによって、我々「俗」の側は比較対象として1つの価値観を持てるし、「俗」が自省する際の尺度になり、暴走しないよう歯止めとなり得る。その「聖」なる部分を天皇に仮託してきた

「聖」の地下水脈は「俗」とは決して交わらない。だからこそ天皇制が成り立ってきた

いま「聖」と「俗」の関係性が危機に瀕しているように見える。眞子さんの結婚問題によって露わになった

鎌倉以降の武家社会にあって権力を持たない天皇が日本国民のアイデンティティの拠り所となった背景には、18世紀後半(ママ)から外国の手が日本に伸びてきたことがある

明治維新という暴力革命を経て成立した新政府は、欧米列強と対峙する近代国家建設のため中央集権体制を整えるために天皇を利用。万世一系と天皇が神の末裔であるという神話を事実として定着させるために天皇の神格化が進められた

さらに新政府は天皇を軍人支配の中枢に据える。天皇を国家主権の中心軸に据える前に、'82年に軍人勅諭を出して軍隊が天皇のものであることを明示、文民統制どころか、統帥権によって軍人が政治権力を振り回すに至る

敗戦後、天皇は「人間宣言」によって自らの神格を否定。国民もそれを受け入れたが、敗戦後の急激な天皇観の変化が日本社会に大きな歪を遺した

戦争責任論を曖昧にしたまま雪崩を打つように「人間天皇」の認識が広がる中、タブーの認識も拡散、天皇を「何か論じてはいけないもの」という空間に押し込め、歴史の流れの中で客観的に見つめることを忌避してきた

結果として「聖」と「俗」の地下水脈の境界が曖昧になり、皇室の存在意義を認識できない層の増加を招いている。それがこの国の弱点になってしまったのではないかと危惧する

 

第21回 (20224月号) 軍服を着た天皇

~ 「天皇に戦争責任はあるのか?」 その問いの前に知っておきたい歴史的事実

「聖」の地下水脈と「俗」とは決して交わらないからこそ天皇制がなり立ってきたが、戦後の象徴天皇制の中でその部分を日本人が直視してこなかったことと併せ、「天皇と戦争の関係」についても直視を忌避してきた

天皇が最も重視したのは「皇統の存続」

明治天皇には、戦争に対する徹底的な恐怖があった――日清戦争には反対の意向を示し「朕の戦争に非ず」とまで表現したのは、天皇制の崩壊を危惧したからで、開戦後は積極的に戦争に関わり、初めて設置された大本営が広島に移った際は明治天皇も同行

日露戦争でも、御前会議で開戦が決まった後も「事万一蹉跌せば、朕何をもってか祖宗に謝せん」と涙したという

両大戦の過程で新政府は天皇に軍事の大権を与える形で、天皇の武装化が進められた

大正天皇にも、一等国の主権者としての天皇像と、軍事主導体制に日本の伝統を重ね合わせる天皇像が求められたが、天皇は軍事に関することを徹底的に嫌い、「軍服を着た天皇」としての役割に消極的。明治天皇は自ら大正天皇に政務の一端を見せることで帝王学を身につけさせようとしたが、皇太子はこれも嫌い、漢詩の創作に耽り、感性の輝きを見せる

明治天皇は、代わって皇孫の帝王学に情熱をそそぐ。昭和天皇は、皇太子時代の特別教育で帝王学を学び、軍事主導体制を象徴する「軍服を着た天皇」を体現するが、同時に「立憲君主制の枠内にとどまる天皇」であることも求められ、「政治・軍事指導者に大権を付与した以上、その決定には異を唱えない、その代わり責任は免れる」こととされた

昭和天皇は、系統だった帝王学を授けられた近代最初の天皇で、即位直後から天皇を利用しようとする軍部の専横に遭遇。太平洋戦開戦直前の御前会議では慣例を破って非戦の意思表示をしたり、近衛が後任に東久邇宮稔彦王を推薦したのに対し、皇族が政治の責任者となることに反対したりする

天皇が緒戦の戦果を喜んだことを捉えて好戦家というのは早計で、皇統を守るためには戦争に負けられないことを天皇は知悉していた

ポツダム宣言受諾を決めた「聖断」の根底には2つの憂慮があった――日本民族は滅び、赤子を守ることができないという恐れと、国体護持が難しいという判断

昭和天皇が受けてきた帝王学と、要求されてきた二重性を考え合わせると、天皇が「責任」をとる立場にはなかったと理解できる。近代の天皇に求められた二重性は、昭和天皇自身にも影を落とし、死の直前病床にあった天皇は、「摂政宮を考えているのじゃないだろうね」と漏らし、自ら大正天皇を差し置いて摂政宮に就いてしまったという心のわだかまりを終生抱いていたことを窺わせた

戦後、天皇は「天皇制下の民主主義」によって国民との間に回路を作ることを模索したが、GHQの方針と折り合わず、結局「民主主義下の天皇制」となる。現在の皇室の危機もそこで起きている。こうした歴史の流れを踏まえた上で、現実を見つめ議論を続ける必要がある

 

第22回 (20225月号) 軍事哲学なき日本の悲劇

~ 「軍事は政治に従属する」 クラウゼヴィッツの大原則を、なぜ日本は理解できなかったのか?

なぜロシアは無謀な戦争を始めてしまったか。今後、たとえ戦争に勝利したとしても、プーチン大統領は政治的には敗北を喫するだろう。偏った情報をもとに始めた戦争が国を亡ぼすことを、私たちは体験的に知っている

日本の無惨な敗北の背景に、まっとうな「軍事学=その国固有の軍事哲学」がなかったことが考えられる

日本の戦争の歴史には、朝鮮半島征服の志向が地下水脈のように流れているが、その目論見は必ず失敗し、政権を瓦解させる引き金となってきた――白村江の戦(663)、秀吉の朝鮮征伐(1592)、征韓論(1873)、韓国併合(1910)

明治維新後の急激な軍の近代化の裏で、大きな歪みも生まれる――戦術に代表される実用的な技術の吸収ばかりを急ぐあまり、それを支えるべき日本固有の軍事哲学や思想の構築を怠る。「どのようにして国を守るのか」「戦争が回避できない事態となった場合にどう対処するのか」という、リアリズムに基づく根本的な国策の裏付けが必要

クラウゼヴィッツが『戦争論』で述べる軍事哲学が有名――最も重要なのは、「戦争とは他の手段をもってする政治の継続」だとして、戦争をあくまで政治の1手段とし、文民統制の重要性を指摘している

軍事哲学なき日本の特徴は、対中戦略に象徴的に表れている――列強が全面戦争を避け、効率的に実利を獲ったのに対し、日本は直接手段で中国と衝突。さらには、勝利したことが勘違いを加速させた。日本が戦争を「営利行為」と捉えていたことも哲学のなさを露呈

日本が「戦争とは何か」を内省する機会は日露戦後にあったはず。儲からない戦争を経験しながら、さらに突き進み、朝鮮半島の権益を手中にしたことで日露戦の失敗を帳消しにした

1903年、陸軍軍医の鷗外がクラウゼヴィッツの『戦争論』を翻訳、『大戦学理』と題して出版、陸軍内でも共有されたが、議論の俎上に乗ることはなかった

東條は政治と軍事の関係性を全く理解していなかった――開戦直後、出版・結社を許可制にする法案の審議で、「戦時の終わりとは」との質問に対し、「平和克服、それが戦時の終わりだ」と答弁。陸軍きっての秀才がまともな「戦時」の定義すらできず、軍部も現実的な終戦構想を持たなかったことを示唆。政府の終戦構想は、①東アジアでの資源確保・長期自給体制の整備、②蒋介石の屈服、③独伊と連携した英国の屈服、④アメリカの戦意喪失、を上げているが、何れも願望を事実に置き換えたもので、現実的ではない

現代の日本にも軍事哲学はない。「国防とは何か」という問いかけから目を逸らし続けてきた

「専守防衛」を掲げるが、内実はアメリカ頼みの軍事論に過ぎない。核共有の議論も、アメリカ頼みをさらに強めるものでしかない。都合の良い歴史解釈から脱し、自前の軍事哲学を持たなければならない

 

第23回 (20226月号) 幻想と裏切りのロシア

~ 「力の信奉者」という本質を見誤った日本の悲劇

ロシアのウクライナ侵略を受けて、日本はアメリカ主導の対ロシア経済制裁に加わったが、その対応は後手に回ったばかりか、ロシアは日本に揺さぶりをかけてきた――北方領土交渉の一方的中止、同地での軍事演習開始、元上院議長による北海道のロシア領宣言など

27回に及ぶ安部のロシアすり寄り外交は水泡に帰した――日本の近現代史では常に日本が自国に都合の良い情勢判断をしてロシアに甘い幻想をもっては裏切られるという失敗の地下水脈が流れている

l  日露関係第1(江戸末期~1875)――南下するロシアを止め、樺太・千島交換条約締結

1792年、ラスクマンが根室に来航、列強中最初に通商・開国を求めてきた

1804年、レザノフが長崎に来航、再度開港要求が拒否され、樺太・択捉などを攻撃

1853年、プチャーチン来航。翌年和親条約締結。千島の択捉以南を日本領、樺太は雑居地に

クリミア戦争に敗れたロシアは極東での勢力拡大に注力、樺太・千島交換条約によりようやくロシアの南下を食い止める。ロシアの圧力に耐え、富国強兵に努める

l  2(1945)――軍事衝突を繰り返し、革命後は共産主義思想が新たな脅威に

両国とも朝鮮半島を利益線としたため、政治的・軍事的に衝突――日露戦争へ

戦後は中国の門戸開放を狙うアメリカが日本の満洲進出を警戒したため、日本はロシアに接近、4次に渡り日露協約を締結、秘密条項で外モンゴルにおけるロシア権益と朝鮮半島における日本の権益を相互に認め合った。史上初めて日露が長期間接近

ロシア革命で事態が一変、秘密条項をソ連が暴露し破棄

ロシア人は伝統的に強い指導者を希求――「市民」の概念が希薄で、強権的な独裁体制である共産主義は「力の信奉者」との親和性が高い

革命後のソ連は、共産主義思想の拡張を加速。日本は日ソ基本条約でソ連を承認したが天皇制と相容れず、日独防共協定締結へと進み、大陸では利益線を巡りソ連と軍事衝突を起す

ソ連の衛星国となっていたモンゴルと、満洲との国境線を巡ってノモンハン事件勃発

日本は三国同盟に加えて、日ソ中立条約を結び、4か国協商体制で連合国に対抗しようと目論んだが、独ソ戦開始で雲散霧消したため、独ソ戦の様子を見ながら場合によっては中立条約を破棄して北方領土奪還を目論む

ソ連頼みでの講和は現実を見ていない妄想のみならず、日本の終戦工作はソ連を通じて連合国側に筒抜け。ソ連は降伏文書調印後も侵攻を続け、千島・樺太を占領。北海道北半分も視野に入れたがアメリカの反対で頓挫

終戦直後の大本営や関東軍からソ連に対し、在満邦人を棄民したり、ソ連の庇護下に置いたりする提案/要請がなされており、満洲に社会主義国家を造ってソ連と連携しながら米英との戦争を継続しようとの思惑があったとも推測される

l  3(1991)――北方領土交渉を繰り返すが徒労に終わる

1951年、サンフランシスコ講和条約で日本は千島列島を放棄、一旦は国後・択捉も含まれるとしたが、56年の日ソ共同宣言以降解釈を変え国後・択捉は千島列島には含まれず、歯舞・色丹と同様日本固有の領土とした

ソ連は一貫して4島とも第2次大戦によって獲得した領土だとし、講和条約にも調印していないが、56年の共同宣言では平和条約締結後に歯舞・色丹の返還を約束するも、'60年の日米安保条約締結の伴い、全外国軍の撤退を返還の条件として来た

l  4(~現在)

ゴルバチョフ・エリツェンともシベリア抑留を国際法違反と認め謝罪。領土奪回の好機だったが、交渉の具体的進展は見られず

プーチンが権力を握り、安定し始めると先祖返りして強権的な体質を露にする

対ロシア外交の失敗の歴史を謙虚に丹念に振り返り、同じ轍を踏まないよう心掛けるべき

 

第24回 (20227月号) 良心とマキャベリズムのアメリカ

~ キリスト教精神とは裏腹の外交的老獪さ――二面性を見抜けなかった日本の悲劇

沖縄は本土復帰50年を迎えたが、米軍基地返還は進まず、「核抜き、本土並み」の喧伝はいまだ実現せず、基地集中ゆえの苦悩を沖縄は負わされている。その根拠となるのは1960年安保条約改定と同時に結ばれた日米地位協定で、政府は「運用を改善している」というが、協定の見直しは決してしない

日米関係は、約170年の紆余曲折を経てきたが、その奥底には、日本に流入したアメリカの思想と日本の攘夷の地下水脈との相互作用が存在

1837年、米商船モリソン号が日本人漂流民7人の送還と貿易開始を求めて来航したが、浦賀沖で砲撃を受け、鹿児島でも砲撃を受けて退避

1846年、ジェームズ・ビットル率いる米東インド艦隊が通商を求めて浦賀に来たがこれも幕府は拒絶

1853年、マシュー・ペリー率いる同艦隊がフィルモア大統領の親書を携えて浦賀に来航、武力を誇示したため、幕府はしぶしぶ受け取り、翌年の回答を約し、翌年の和親条約締結に至る

アメリカの砲艦外交が日本に攘夷思想の勃興に繋がる――表向きは生麦事件や下関砲撃事件を経て薩長は開国に舵を切るが、上位の思想は地下水脈となって、日米外交の節目で噴出

維新政府は、若い国アメリカに不思議な親近感を持つ――初の欧米諸国視察となった岩倉使節団も最初はアメリカに向かう。アメリカ型国家を目指したが、短期間で列強に追いつくには強力な中央集権国家が必要となって、プロシア型の立憲君主制を選択

アメリカの文化的影響力の背景にはキリスト教がある

キリスト教の影響を受けた代表的日本人に新島襄がいる――少年期に漢訳の聖書に触れ、キリスト教精神に感化され、'64年国禁を犯してアメリカに向かい、英語力を買われ現地で岩倉使節団に加わる。'74年宣教師として帰国し翌年同志社設立

新島に呼応するように各地にキリスト教に影響を受けた動きが活発化――熊本洋学校(1871年設立)からは海老名弾正、徳富猪一郎(蘇峰)らが育ち、札幌では農学校から新渡戸稲造、内村鑑三らが受洗、横浜ではキリスト教における日本人指導者が多数育ち国内最大のプロテスタント教会「日本基督公会」となる。日本の指導層にも深く根を下ろし、原敬、吉田茂を始め、大平、細川など首相経験者の受洗も多い

日本社会で現在もキリスト教信者が一定数以上伸びないのは、攘夷の地下水脈が影響

アメリカのモンロー主義は地下水脈となって、日本人移民への風当たりは激化

日米という新興の帝国主義国同士が「中国」という沃野を巡って衝突するのは必然の流れ

開戦直前の対日交渉で、アメリカはマキャベリストの本領を発揮

敗戦後米戦艦上での日本の降伏文書調印式でアメリカが掲げたのは星が31しかない星条旗で、ペリー来航の際に掲げたものだった

 

第25回 (20228月号) 「擬態」としての日米同盟

~ 「保守」が「親米」となる倒錯はなぜ生まれたのか?

アメリカは開戦当初から、アメリカが求める体制を敷き永久に抵抗できない国家にするとルーズベルトが宣言し、アメリカの国益に合致する民主主義の実現を謳っている

敵対していた勢力にもキリスト教的な寛容さを示す一方で、国益に関する外交においては容赦をしないというのが、アメリカン・デモクラシーのマキャベリスト的な一面

終戦直後にアメリカが決定した「初期の対日方針」では、アメリカにとってのある種の「理想郷」を新生・日本に作ろうとの思いが込められていた――新憲法制定にもよく現れている

新制度の中で日本の実情に合わなかったのが警察制度の改正で、地方行政や警察を握っていた内務省を解体し、警察を国家警察と自治体警察に分離したが、日本ではアメリカの州のような独立性を自治体が担っていなかったため、負担が大きいだけでなく、情報交換や能率的運営の面で多々問題が生じ、独立回復後には新警察法により警察制度が一元化された

マッカーサーの統治が日本人に受け入れられた最大の理由は、天皇の扱いにある

アメリカの占領政策は、一面でキリスト教的価値観に基づく善意によって援助の手が差し伸べられ日本人を救ったが、同時にマキャベリスト的な面も計算し、メディアを使って日本の戦争責任を問いつつ日本国民を教育しようとしたり、外交関係でも東西冷戦が進むと日本の民主化よりも共産主義からの防波堤にするための政策を優先し、A級戦犯でも釈放して利用したり、日米地位協定では米軍基地を事実上の治外法権としたりした

日本人がこれほど無抵抗にアメリカ文化を積極的に受け入れた背景には、明治維新直後にあり得た「アメリカ型連邦制国家」の地下水脈の影響が窺える

だがそうした日米関係が戦後77年続く中で、日本人は大切な点を忘れてしまっているように見える――今の日本の民主主義は自分たちの手で勝ち得たものではないこと、普遍的な民主主義体制を作り上げてこようとはしなかった。「保守」という政治スタンスが「親米」「対米従属」という外交姿勢とほぼ同義になっている

日本社会の底流には今も「攘夷」の地下水脈が流れている。「親米」と「保守」が矛盾なく同居しているかのような現状は、ナショナリズムの面から見れば一種の「擬態」でしかない

アメリカ追従だけではない民主主義のあり方を、日本人は自らの手で模索するときに来ている

 

第26回 (20229月号)特別編 「テロ連鎖」と「動機至純主義」

~ 「動機が正しければ、何をやっても許される」のか?

78日安部元首相銃撃、死去

政治指導者に対するテロには、どのような理由にせよ、政治的な意味が内在するが、今回も旧統一教会という極めて政治色の強い宗教団体への安部の関与が引き金

歴史的教訓を直視しなければならない――193036年の政治家へのテロによって国家の運命が大きく変わった歴史があり、日本社会の底流には政治テロに影響されやすい思想的傾向が地下水脈として流れている。不幸な歴史を繰り返してはならない

テロとは、政治的な目的を持つ暴力、脅しで、多くは公の場で行われ、大衆に暴力を見せつけて恐怖心を煽り、大衆心理をコントロールする。維新当初は権力内部での争いで、大衆に政治的なメッセージを与えるためのテロではない

3011月 濱口雄幸首相狙撃事件――翌年死去

‘313/10月 国家主義グループ「さくら会」によるクーデター未遂事件

‘322月 血盟団事件――前蔵相井上準之助と三井合名團琢磨暗殺

‘325月 五・一五事件――犬養首相暗殺

‘337月 神兵隊事件――右翼によるクーデター未遂

‘343月 時事新報社社長武藤山治狙撃事件

‘3411月 陸軍士官学校でのクーデター未遂事件

‘358月 陸軍軍務局長永田鉄山斬殺事件

‘362月 天皇機関説事件

‘362月 二・二六事件

 

暴力による国家改造の動きの背景は、既存の権力である政党や財閥への不満

五・一五事件が「義挙」として受け止められ、テロを容認する空気が生まれた――軍法裁判の法廷が公開され、被告の士官学校生が涙ながらに、皇国の荒廃を訴え、減刑嘆願署名は35.7万通に達した。日本人が「行為は悪いが、動機の正しさは評価さるべき」という「動機至純主義」に靡きやすいことを表す⇒「動機さえ正しければ、何をやっても許される」という短絡的な考えに直結。毛沢東の文革と同じ思想

五・一五事件後、日本の言論は窒息状態に陥り、政治が機能を喪失――第1段階がテロの決行、第2段階がテロの政治利用(政党政治の終焉)、第3段階が国民感情の変化(テロを正義と見做す)

テロは連鎖するとともに、殺害方法が残虐になり、残虐性によって政治家も委縮、テロの実行側が政治的な発言権を増した

日本社会の底流には、今も「動機至純主義」が流れているのではないかという恐れと同時に、経済格差が拡大する中で、社会的に疎外された者たちの孤立感と将来への絶望感が深まっている現実を懸念する――無差別殺傷事件が相次ぐ。内側に抱え込んだ怒りを持て余した者にとって動機至純主義ほど都合のいい理屈はない

一方で、安部はポピュリズム時代が求めた理想的な宰相であり、本人もまた時代の中で生きることを望んでいて、テロの対象からは最も遠い人物のはずなのに、テロの対象になったのはポピュリズム時代の怖さ。正義と不正義が一瞬にして逆転する怖さがある

 

第27回 (202211月号) 日本が見誤った米国の軍事哲学

~ 「ポスト安部」時代に知っておきたいアメリカの本質とは?

安倍政権発足後、アメリカからの高額武器購入額は急上昇。'11年の600億から'15年以降は47000億円にまで増え続けている。さらに実質数兆円ともされる「陸上イージス」の導入を検討したり、米国との核兵器共有の「核シェア論」を提唱したりもしていて、「この国をどのように守るのか?」という日本独自の軍事哲学は欠けたまま

「アメリカ頼み」でしかなかったにもかかわらず、維新から現在に至るまでアメリカの軍事哲学から学ぼうとしては来なかった

維新政府は「海主陸従」を方針としたが、西南の役を経て逆転。その後陸軍は、幕府のフランス式から、’85年のドイツ陸軍の参謀招聘を機にドイツ式軍制へとシフト

ただ、ドイツが日本に伝授したのは、戦術面のノウハウで、長期的な国防計画や軍事哲学ではなかった

明治維新でまず向かったのはアメリカだったが、日本が目指したのは帝国主義国家であり、三権分立により軍隊を政治に従属させる文民統制の米国型は論外

日本の軍事は、統帥権の名の下に、軍事は天皇に従属、政治に口を出し、むしろ政治を従属させたが、軍事哲学に真剣に向き合った形跡はない

軍事哲学を持った稀有な存在が石原莞爾――満州事変の首謀者だが、その思想の源は「世界最終戦論」で、恒久平和は世界統一によってのみ可能、その前段階として世界は米ソ欧州東亜の4ブロックからなる国家連合の時代に入ると予想、日本の国力備蓄を進めようとした

戦後、社会文化はアメリカナイズされ、安全保障もアメリカ頼みになっている中で、日本のナショナリズムが余計に見えにくくなっている

戦後日本はアメリカン・デモクラシーを導入したが、それはアメリカ社会の二重性の中で成り立っている。民主主義や人権の美名のために戦った戦争を支えてきたのは、経済格差の底辺にいる人たち

アメリカは民主主義を国是とする一方で、国益を得るためにはマキャベリズムを剥き出しにして来たことを忘れてはならない。一方的なアメリカ追従を続けていると、追従する狡猾さが習い性になり、ある種の植民地根性が国民性を蝕んでいくことになり、健全なナショナリズムの発展を阻害し、日本は自壊の道を進むことになる。その危険性を自覚しなければならない

 

第28回 (202212月号) 軍部が欲した「国家の勲章」

~ 「手柄」欲しさの無謀な戦争の結末は、一将功なりて万骨枯る――

叙勲には根拠法がない。憲法7条の天皇の国事行為の第7項に「栄転を授与すること」とあるだけで、詳細については法的な根拠が定められていないため実質的には明治時代の太政官布告や戦前の勅令などを基に、今も叙勲は続けられている

政府は安倍に大勲位菊花頸飾授与を決めたが、戦後の受賞者はいずれも首相経験者で、吉田茂、佐藤栄作、中曽根康弘に続いて4人目。安倍に果たしてこの勲位に相応しい業績があったのか議論は分かれるところで、国家の価値基準がおのずと明らかになる

フランスは、国外の文化人や芸術に寄与した人物にも積極的に勲章を授与

アメリカは、功績のあった軍人には、議会の名において「議会名誉黄金勲章」を授与

イギリスは、ビートルズに授与、保守の伝統の中にも新しい文化に対する寛容さを示した

近代以降の日本社会には、「国民の序列化」という発想が地下水脈のように流れ続けている

明治時代に調えられた官僚制度がその最たるもの。原点は近代の始まりにあり、中央集権国家実現のため、軍事に注力、軍人の天皇、国家に対する忠誠心を喚起し繋ぎとめるための仕掛けとして華族制度(1884)を活用――日露戦争の論功行賞では陸海軍人100人、官僚30数人に叙爵・叙勲がなされ、陸軍の荒木や本庄、海軍の大角には満州事変の功で男爵に

爵位の魅力によって道を誤ったのが東條英機で、南部藩の能楽師の家系に生まれた上に、父親が陸大を首席で卒業しながら長州閥に睨まれて冷遇された怨みもあった東條にとって、爵位こそ積年の不遇を晴らす手段に思えたのは不思議ではない

勲章は、国民の国家、公に対する忠誠心を生み育てるための制度だが、外交上の重要なツールでもある――1875年、勲章を制度化するための詔勅、太政官布告により「旭日章」誕生

女性のみの宝冠章と、旭日章を補完する瑞宝章が創設され、勲188等級で、8割が軍人、残りは官僚、民間人はわずか。賞勲局が担当。軍人のみ対象の金鵄勲章も創設

最も新しく創設された勲章は文化勲章(1937)で、文化への貢献者を顕彰

戦後GHQの意向を受け、政府は叙位・叙勲を「一時停止」したものの、初めから復活させる意図があったのが、憲法への国事行為としての「栄転の授与」記載として実現

独立回復後には生存者叙勲の声に押されて、時の内閣が栄転法成立を目指すが、野党の反対に遭って強行採決は断念。1963年閣議決定で叙勲復活を決める

1964年、佐藤内閣は、東京大空襲などを指揮した空軍参謀総長のルメイに、航空自衛隊育成と日米関係への貢献を理由に勲一等旭日大綬章を贈呈。

2002年、8等級廃止、代わりに①大綬章、②重光章、③中綬章、④小綬章、⑤双光章、⑥単光章と改めたが、序列は明らか。区分や名称を変えても、国家への貢献度をもって国民を序列化するシステムは地下水脈として残る。その貢献度はその時々の為政者によって変わる

 

第29回 (20233月号) 「天皇」と「個人」の葛藤

~ 平成の天皇が求めた「戦争のない時代」と「民主主義」。その言葉から、天皇が抱えてきたジレンマが見えてくる

「天皇と戦争」というテーマで近現代史を分析すると、重要なポイントが2

   天皇の唯一、絶対の関心事は「皇統の存続」――開戦を迫られた時天皇が考えていたのは、「皇統が存続できなければ、高祖に申し開きが出来ない」という強い意思

   「天皇としての役割」と「個人としての内面」の乖離――臣下の進めた戦争にひるむことはできなかったが、個人としては戦争への忌避感と恐怖感を強く感じていた

l  「武装する天皇制」

明治維新は暴力革命だが、暴力装置には権威付けが必要で、天皇をいただくことにより軍事優先の国家建設が進められ、新政府の下で「武装する天皇制」へと生まれ変わる

不平士族による相次ぐ反乱と自由民権運動による反政府闘争が天皇の武装化を加速

l  「統帥権」という虚構

軍事が反政府勢力と結びつかないための仕組みとして考え出されたのが、1882年の『軍人勅諭』――軍人の政治への関与を禁じ、天皇の「統帥権」を確立する一方、憲法では権力の行使は天皇の名において、国務大臣の輔弼に基づき行われるが、責任は大臣が負うとした

l  「明治天皇」と「睦仁」の落差

天皇の名の下に臣下が好き放題できる仕組みが主客転倒を招き、後に軍部の暴走で顕在化

天皇にとって最重要なのは皇統の存続であり、日清開戦決定を認める際、「不本意ながら許すのみ、先帝に奉告するに苦しむ」と、「自分の戦争ではない」と釘を刺している

日露開戦に際しても、涙ながらに心情を吐露。「天皇」としての役割と「睦仁」としての内面の乖離も透けて見える。明治天皇は、次第に寡黙となり、晩年には「沈黙」によって威厳を示した

l  大正天皇が御製に託した厭戦気分

1次大戦参戦に当たっては、大正天皇も天皇の役割と個人の内面の乖離を見せている

卓越した文才のあった大正天皇は、短歌や漢詩で戦争への忌避感を表していた

l  一体化した「昭和天皇」[と「裕仁」

唯一帝王学を学んだ昭和天皇の中では、天皇の役割と個人としての人格はほぼ一体化

個人の顔を持たず、「主権者としての天皇」と「大元帥」という二重性を、自身の中で一体化

軍事に関する限り、「統帥権」を楯に、軍部の好き勝手の余地が大き過ぎた

l  二・二六事件と天皇のイメージ

軍上層部は権力行使を容易にしようと、天皇の神格化を目論み、勝手に作り上げた天皇像を濫用したことに対し、青年将校が天皇本来の意向を忠実に受け止めていないという不満を爆発させたのが二・二六事件。天皇が激怒したことを軍上層部は奇貨として権力を拡充

l  ポツダム宣言受諾を決めた理由

軍部が言う「皇統を守るために開戦」に同意したが、「赤子を保護し、国体護持」のためポツダム宣言を受諾。天皇は、皇統の存続こそが受諾の動機だったと正直に告白

l  昭和天皇の涙の意味

終戦によって、戦後民主主義が求める「象徴天皇」のイメージに自らを重ね合わせるべく煩悶

かつての時代の帝王学から一歩一歩身を引いていき、最後の天皇誕生日の会見で「大戦のことが一番嫌な思い出」だと吐露し一筋の涙をこぼしたのも、帝王学が教える「天皇」から40年以上かけて「裕仁」へと戻った、その最後の姿とみることが出来る

平成天皇の発した「日本にはどうして民主主義が根付かなかったのか」との疑問には、日本の近現代史に内在する問題と、陛下自身の長年の思いが凝縮されている

l  平成天皇と「民主主義」

平成の天皇は、「天皇」としての役割と「明仁」個人の内面を、民主主義の下で一体化された

最後の誕生日会見では、天皇としての憲法上の役割を演じ、そこに個人の思いも載せて、戦争のない平和という時代を作り上げたことへの喜びの言葉となった

戦争ない時代の遺産を我々がどう生かしていけるのか、立ち止まって考えてみたい

 

第30回 (20234月号) 日本の「原爆開発」秘話

~ 科学者が一流でも政治指導者が無策なら国家は滅びる

日本の科学技術への信頼性が大きく揺らいだのは東日本大震災の直後の福島原発事故

戦前の原子爆弾開発の経緯を取材していた時に、戦前の日本には世界基準で見ても優秀な科学者が数多くいたが、政治・軍事指導者が科学に対する理解をあまりにも欠いていたために、彼らの能力を生かすことができず、原子物理学の研究そのものが歪められたことを知る

戦後78年、科学技術軽視の風潮と、政治指導者の無理解によって科学の発展が歪められるという地下水脈は、今なお日本社会に流れているように思えてならない

維新後勢いがあったのは物理学。菊池大麓、長岡半太郎らの第1世代に続いて、仁科芳雄、湯川秀樹らの第2世代が輩出。日清戦争の賠償金で若手科学者の育成が進められた

1940年、ウラン爆弾の可能性の研究のため陸軍から東大に派遣され、仁科も協力はしたが、今次戦争中での実現の可能性については否定的。海軍も京大で研究を進める

理研の仁科は、陸軍からの問い合わせに対しなぜか、「原子核分裂によるエネルギー利用の可能性は多分にある」との回答。東條が興味を示し、開発を指示。すぐにウラン探査が始まり、ドイツから輸入を画策したが、米軍に撃沈される。戦況が不利になるにつれ、焦った東條は自ら仁科と連絡を取り開発の具体化を迫る。国内でのウラン探索も始まるが必要量の確保は困難

軍は仁科らを恫喝、仁科は研究継続により頭脳の温存を図ったのかも。'454月の理研空爆で研究は完全に断念。終戦直後に日本の科学者が大挙して中国に立ったが、なかには原爆開発に携わった者もいて、’63年日英原子力協定締結に際し、労働党議員が「多数の日本人原子力科学者が中国で働いているとの情報がある」と懸念を表明、その1年後中国は原爆開発に成功、中国初の原爆実験は日本が模索していたのと同じウラン235の遠心分離法だった

'49年設立の日本学術会議は、「戦争目的の科学研究は行わない」と声明を出すと、政府はアカデミズムを軍事研究に引き込もうとして研究への助成金を出してやり合うが、軍事と非軍事の境界自体が曖昧。一方で、福島原発事故で明らかになったように政府の原子力政策には潤沢な予算がつきながら研究レベルは極めてお粗末なものだった。為政者の科学への理解不足という失敗はいまだに繰り返されている

 

第31回 (20235月号) 山本五十六は何と戦ったのか?

~ 「死に場所」を求めた天才戦略家の苦悩を追う

43.4.18.ラバウルのブナカナウを離陸、ブーゲンビル島ブイン基地を目指した一式陸上攻撃機搭乗の山本連合艦隊司令長官海軍大将は、「い号作戦」終了後前線の将兵を労うためにもう1機の一式陸攻と6機の零戦とともに飛行中、米軍の待ち伏せに遭って墜死

   山本の出自は「賊軍」の系譜に連なる――長岡藩儒官の子。戊辰戦争で反政府軍に属し、山本の妻も元会津藩士の娘。本人が意識したかどうかは別として、歴史的怨念が渦巻く

   典型的な「アメリカ通」の軍人――ワシントン駐在武官でハーバードに学ぶ

   「軍令」「軍政」「現場」を歴任――陸軍では分業化が進んでいたが、海軍全体を俯瞰できた

海軍は「2つの敵」と戦っていると揶揄され、、敵国と同様陸軍とも闘ってきた

専守防衛の観点から「海主陸従」で始まった維新だが、不平武士の反乱を機に「陸主海従」へと転換。陸海の対立は、薩長対立のみならず、英米対ドイツの対立でもあった

山本が長岡中学から海軍兵学校に進んだのも、「賊軍」の出自ゆえの藩閥への対抗心からか

19426月、山本は短期決戦を見据え、ミッドウェー沖海戦の構想を練り、制空権のあるうちに米機動部隊を誘い出して打撃し、講和に持ち込むことを考えた

短期決戦に失敗してから1年弱、山本は「死に場所」を求めて戦い、撃墜後も現場の状況からは最後まで生存していたと推測されるが、1か月後の公表は即死とされ、海軍指導部が即刻救援隊を出さなかった責任を回避

現代でも、先を見通さない場当たり的な政治や外交はいまだに日本の地下水脈として続いている。難局の打破を個人に依拠し、組織として都合が悪くなったら責任を被せてあっさりと切り捨てる――そうした悪弊もそこかしこに見られる。山本が心身を賭けて戦っていたのは、日本の地下水脈に潜むそうした悪弊だったのではないか

 

第32回 (20236月号) 社会主義政党の虚構と自己矛盾

~ 戦前は陸軍に同調し、戦後はマルクス主義の夢を貪った革新集団

日本は内外に深刻な問題があるにも拘わらず、有権者の半数以上が投票しない。まさに国家として危機的な情況にある。政治的無関心が常態化した原因として、自民党に代わりうる選択肢がないという現実があるが、かつては社会党という対立軸があったのに、1990年代前半急速に党勢を失う。その地下水脈は現在の日本社会にどのような形で流れているのか

l  軍部にすり寄る国家社会主義者

日本における社会主義政党の源流は1898年発足の「社会主義研究会」(本連載第5回参照)

当時の社会主義はマルクス主義ではなく、キリスト教的な人道主義や空想的社会主義の流れを汲む「社会正義」実現を追求する思想に近く、結党2日後には治安警察法により解散命令

ロシア革命以降、マルクス主義のもと共産主義勢力が芽生え、日本共産党を結党するが、度重なる弾圧で根絶やしに。一部は転向後国家社会主義へ傾倒

社会大衆党のような無産政党も、陸軍統制派を革新勢力とみて軍部にすり寄り、全体主義を原則とする新綱領を採択し、第3党に躍進し、「国体の本義」を支持。浅沼稲次郎も賛成の立場から質問。'40年には先頭を切って大政翼賛会に合流。まさに軍部の先兵

l  戦後に復活した社会主義勢力

戦争終結の動きをいち早く察知した旧社会大衆党の片山哲、原彪、西尾末広らが社会主義勢力の糾合に動く。西尾は鵺のような性格で、国家総動員法を支持したが、東條倒閣に加わって公職追放を免れる。戦時中計画経済に関心を持ったために企画院を追放(企画院事件)された和田博雄や勝間田清一などに加え、枢軸国中心の外交に違和感を感じていた外交官の曾禰益、森島守人なども合流

l  呉越同舟、同床異夢の出発

'4511月には日本社会党結党、書記長には片山哲。社会主義に対しての理解や距離は全く違い、天皇に対する認識も浅沼や賀川豊彦らは国体護持を主張したし、結党資金も篤志家といわれた徳川義親に頼ったりしている

戦後の国民生活の窮乏に加え、有権者を拡大した新たな選挙制度が追い風となり、'47年の衆院選挙では第1党に、社会党・民主党・国民協同党の連立政権が実現、片山が首相となるが、すぐに左右両派の対立が芽生える。最初の挫折が「炭鉱の国有化」で、産業界の猛反発を食らい、続く公務員の賃上げ問題も財源が公共料金値上げとあって左派が反発、9カ月で総辞職

l  講和を巡って左右分裂

社会党の第2の挫折は、’51年の講和条約。朝鮮戦争勃発で日本を西側陣営に取り込みたいアメリカの意向に押され、日本は独立を早め、ソ連を除く単独講和に踏み切ったため、社会党内は3派に割れ、怒声が飛び交う中僅差で講和条約賛成・安保反対となったため、左右両派に分裂。国民や国家のための現実主義的な選択を置き去りにして、社会主義の原理原則を墨守するという社会党の教条主義の欠陥を晒す

l  再びの同床異夢、そして分裂

吉田政権が求心力を失い、パージ組が復活すると保守分裂が起こり、'55年選挙では社会党が大躍進し、左右の統一を果たすが、保守合同の実現に対し、社会党は左右両派による不毛な理論闘争と支持母体の利益を代弁するご都合主義を続け、遂に民主社会党が分離

安保闘争を通じて新たな支持層を開拓、、旧来の教条主義から脱皮する好機だったが、党内闘争は続き、政党としての責任感の欠如は否めず

l  「安全弁」としての社会党

‘55年体制下、1/3の勢力を長く維持したことは注目に値する。労組や一部インテリの支援に加え、マルクス主義実践国家であるソ連への憧憬が支持の原動力であり、戦後日本人の心理的な「安全弁」だったのではないか。「護憲と戦争反対」への国民の期待があったと言える

l  昭和陸軍と酷似する体質

62年江田三郎の「構造改革論」は、アメリカの豊かさとソ連の社会福祉、イギリスの議会政治、平和憲法を人類の到達目標とし、教条的な社会主義政党からの脱皮を目指す動きだったが、党内左派からの罵詈雑言に遭う。その体質や行動は戦前の硬直した陸軍そのもの

一方の自民党には特定のイデオロギーはなく、原則に拘らない融通無碍ゆえに長く一強の地位を占め、党内の対立軸がうまく機能しているかの印象を与える。戦争の記憶が薄らぐ中、社会主義を標榜する政党の支持基盤は着実に揺らぎ、教条主義的なイメージのまま、党内対立を続ける社会党は、保守政治の対立軸となる力量に欠けていた

l  「臣民」の地下水脈

'89年土井たか子委員長のもとで躍進し、一時的な統制の復活を見せるが、90年代のソ連の崩壊を受け党の衰退に拍車がかかり、'94年の「自社さ連立政権」であっさり方針転換し、党の存在意義は消滅、戦後史の汚点ともいうべき

国民の「傍観主義」は、戦前からの地下水脈――国民は自立した「市民」ではなく、あくまで「臣民」であるとする天皇制国家主義の地下水脈が今なお日本に流れているからだろう

 

第33回 (20237月号) 日蓮主義と昭和のテロ

~ なぜ信仰は国家主義と結びついたのか?

l  「日蓮原理主義」の水脈――テロの連鎖に流れる地下水脈を辿る

昭和初期のテロの連鎖は、急進的な国家主義者たちによって引き起こされた。血盟団事件の井上日召、満州事変の石原莞爾、二・二六の黒幕の北一輝など、その源流には「日蓮主義」という共通項があるが、日蓮主義といっても右は超国家主義から左は仏教社会主義まで幅広い

日蓮の教えの原点回帰が勃興した背景には、元々教義に内在した明晰で鋭い論理性があり、法華経を唯一の正法とし、他宗派を邪教として積極的に攻撃する一面を持つ。『立正安国論』を著したように「国家」のあり方を強く意識した宗派でもある

l  神道国教化と廃仏毀釈の大嵐

近世における宗教のおかれた状況を見ると、藩の権力の末端で民衆管理の一部門として宗教が機能していたに過ぎず、また万物に霊性が宿るというアニミズム的自然観があり、一神教が浸透する余地がなかったところに、幕藩体制の揺らぎとともに新宗教が勃興し始め、政情不安が人心の混乱に拍車をかけたこともあって、黒住教、天理教、金光教の幕末三大新宗教は信者を増やす。危機感を強めた明治新政府は、国家神道という枠組みを持ち出し、各宗教を天皇の下に位置付け、教派神道として存続、仏教は神仏分離令から廃仏毀釈となって弾圧

l  日蓮主義の源流・田中智学

1861年江戸生まれの田中智学は、仏教の腐敗・堕落を見て僧侶に頼らず信者が中心となって布教活動をする「在家講」を目指し、日蓮の教えの原点回帰を唱え、日蓮の教義を国家の基本原理にすることこそ護国の道だと主張し、1884年立正安国会立ち上げ

中世・近世と他宗派を認めない激しい攻撃性から何度も厳しい弾圧をくぐり抜けたが、智学の日蓮主義は、国家主義との親和性が高く、政治・軍事指導者に近い人々に求心力を発揮したところに特徴があり、大正時代には「国柱会」と改称、国家主義者を魅了しただけでなく、坪内逍遥や宮沢賢治などの知識人も吸い寄せたし、内村鑑三や矢内原といったキリスト教系知識人も日蓮を再評価。内村は「代表的日本人」の1人に挙げ、矢内原も「尊敬する人」としている

l  テロに走った国家主義者たち

慢性的な不況が社会の混乱を招くと、国家改造運動が勃興、日蓮主義者たちの動きも先鋭化

1932年の血盟団事件では、自ら「地湧(じゆ)の菩薩」と位置付ける井上日召に感化された青年が11殺を唱えて殺人テロに走り、満洲では日蓮の国体観に感化された石原莞爾が「世界最終戦論」など独自の戦争哲学を持ち、「王道楽土」実現に向け行動を起こす

l  国家権力に近づいた教団

1917年、智学とは別の流れで、日蓮宗顕本法華宗管長の本多日生らの働きかけで大正天皇から日蓮に「大師号」が宣下され、東郷平八郎を顧問に、軍人・学者らを集め共産主義撲滅を目指すが、政府との安易な妥協を堕落として批判的な勢力も

l  石橋湛山に見る日蓮主義の一断面

同じ日蓮宗徒ながら国家主義とは全く逆の道を提唱したのが日蓮宗僧侶の息子の石橋で、自らも11歳で僧籍に入り、卒業後は言論人として帝国主義を批判、「小日本主義」を訴えた

国家紛争解決の手段として相互理解を求めた主張は、当時は異端中の異端。戦後は蔵相として進駐軍経費負担を巡ってGHQと衝突、公職追放に遭う。日蓮の3大誓願(我日本の柱とならむ、日本の眼目とならむ、日本の大船とならむ)を座右の銘とし権力と対峙

社会の閉塞感が昭和初期と酷似する今だからこそ、当時の状況を深く考察して、知性と信仰の関係を見つめていく必要がある

 

第34回 (20239月号) 明治と昭和に見るテロ類型

~ テロを利用した軍部が国の運命を変えた

近現代日本の歴史の多くの部分は、テロと謀略、あるいはクーデターによって編まれてきたと言っても過言ではない――市民的権利が認められていなかった故の悲劇だが、動機が正しければ権力者を撃ったり、暴力によって現状変革の断行を許容する風潮があったように思える

動機至純主義の嚆矢は1869年の大村益次郎暗殺だが、動機に2様あり、それぞれが大正・昭和期のテロと地下水脈で繋がる――①体制変革の中心にいる政治指導者を襲うテロ、②日本社会を欧米型の価値規範に方向転換しようとする要人を国粋主義的な怒りから襲うテロ

   の大村(兵部大輔)暗殺は軍制改革に対する旧士族の反発であり、大久保利通(内務卿、1878)、大隈重信(外相、1889)

   板垣退助(自由党総理、1882)、森有礼(文相、1889)

昭和のテロの多くは①のタイプ――濱口雄幸(首相、1930)、血盟団事件(1932)、二・二六

日本の運命を変えたのが五・一五――政党政治が終焉、首相の任命に陸海軍が干渉し始めるとともに、国民がテロ行為を義挙扱いし、テロの被害者が白眼視されテロが正義に置き換えられる、テロを利用して権力を握るようになる。二・二六でテロは終わるが、テロへの恐怖を利用して巧妙に軍事指導者が権力を掌握。二・二六事件後の広田内閣で陸軍相に就任したのが寺内寿一、次官が梅津美治郎、その下に東條がいて、何れもテロ研究に注力していた

令和の首相襲撃テロは、明治・昭和期のテロとは異なる。凶器を手製する孤独な作業の中に潜むテロの論理と真理は不気味であり、動機至純的なものとして許してはならない

 

第35回 (202310月号) 気骨あるジャーナリストの系譜

~ 今こそ賊軍出身者の批評眼に学ぶときだ

日本近現代史の中で真に時代に対峙したジャーナリストを取り上げ、気骨ある言論人たちが歴史に刻み込んだ精神史を地下水脈として現代に繋げてみたい

メディアを取り巻く状況は大きな転換期にある――①(/活字)媒体の市場縮小に伴う人々の思考の変化(⇒触覚的な感性の拡散)、②情報の送り手と受け手の区分の無効化(事実の歪曲化の懸念)、③新聞・テレビによる客観性を持った一次報道の弱体化、などが原因

明治初期に多数の新聞が創刊されたのは、薩長によって賊軍とされた地域の出身者が、多く言論人を目指し明治政府への批評眼となったことが大きかったが、自由民権運動に共鳴して民権論の立場に立つ新聞が増えると、言論弾圧が始まり、権力とジャーナリズムが明確に対峙

明治初期のジャーナリズムには2つの流れ――①政府の欧化主義を批判して国家主義的な主張をする「国権派」と、②自由民権運動に同調して民衆の権利を訴える「民権派」

陸羯南(185707)は、官職を辞した後新聞『東京電報(後に『日本』と改題)』を創刊(1888)、「平民主義」を唱える徳富蘇峰と論壇を二分するが、日本の国家主義的伝統の中で西欧的な民主主義を受け入れようとする。日清・日露では両者とも最終的には戦争を肯定している

黒岩涙香(186220)は、『萬朝報』を創刊(1892)。スキャンダリズムを武器に都市民衆の反権力志向を煽り、「赤新聞」の原点となる。内村鑑三、幸徳秋水、堺利彦らを迎え、硬質な社会派の性格も併せ持つようになって権力と対峙したが、黒岩が開戦論に転じたため、幸徳と堺は『平民新聞』を創刊して非戦と社会主義を主唱し、政府の激しい弾圧を受ける

内村は、日清戦争を「義戦」としたが、後に帝国主義的現実を見て、キリスト者の立場から絶対的な非戦論に至り日露では反対

もう1つの流れが、ジャーナリズムに依拠していた言論人から政治家に転じる者が出る――①犬養毅(新聞記者として政府と対峙してきたが、第1回総選挙で代議士となり、護憲運動・普選運動に邁進)と、②尾崎行雄(新聞記者から第1回総選挙で代議士に)で、何れも野党の政治家として政府と対決

明治思潮は、日露戦を通じ国権論に収斂し、大逆事件の大弾圧により社会主義運動も逼塞

大正期には、政治学者の吉野作造(187833)が、憲法下での民主主義を追求した「民本主義」を唱え、時代に向き合うジャーナリストとしての感性を持ち、普遍的な人道主義にも立つ

長谷川如是閑(にょぜかん、187569)は、陸の『日本』のジャーナリストとして頭角を現し、「白虹事件」で朝日退社に追い込まれ、『我等』を創刊してファシズムに対抗するジャーナリストたちを糾合。如是閑から最も大きな影響を受けたのが丸山眞男

危機の時代のジャーナリストがそれぞれの限界の中でどう抗ったのかの検証をしてこそ、先人の苦闘のエキスを汲み取ることができる――桐生悠々、石橋湛山、菊竹六鼓(ろっこ)

桐生(187341)は、『信濃毎日』の主筆として乃木希典の殉死を批判する『陋習打破論』や、『防空大演習を嗤う』での軍事批判を行い主筆を追われるが、個人誌『他山の石』で軍事主導体制を批判し続け、弾圧に屈せず。抵抗の軸は明治天皇の「五箇条の御誓文」

ジャーナリズムの活力低下、抵抗の弱体化など歴史に通底する危機に面した今こそ、記者魂を持った先駆者たちの奮闘を見つめ直しながら、私たちは自らの「存在理由」を問い直すべき

 

第36回 (202311月号) 転向=悪という日本共産党の詐術

~ 左翼の教条主義が戦後の論壇を縛り続けた

「転向」とは、日本の原論空間では極めて限定的に、権力の弾圧や強制によってマルクス主義、共産主義、社会主義などの左翼思想を放棄することを意味してきた。人間として倫理に反する行いと見做され、転向した者は深い罪の意識に苛まれてきたが、転向=悪という価値判断は正しかったのだろうか。重大な詐術があったように思えてならない

1933年、獄中の共産党幹部の佐野学と鍋山貞親が、当局宛ての上申書の要旨をまとめて公表し転向声明を発信したのを契機に、雪崩を打つように同志の転向声明が続く

戦後、同時期に獄中にあった徳田や志賀が彼らを糾弾し、新たな指導部を組織していく。非転向者は社会的な称賛を持って迎えられ、その風潮は戦後日本の社会的な共通認識となる。共産党は、転向が無節操で倫理的に劣ることだという立場の中心にいてその思潮を拡散し、ある種の巧妙なプロパガンダとして戦後日本を縛り続ける

そういった戦後論壇の空気を破ったのが吉本隆明の「転向論」で、転向を左翼思想から離脱する姿として論じ、60年安保闘争に参加する新たな左派論客として登場。「大衆的な動向からの孤立感」こそが転向のきっかけと推論

人は時代の中で変貌していくのは自然のありようで、権力や時代の強制によるものだとしても、権力側に寝返って極端に権力的な振る舞いをする以外は、倫理的な非難には当たらない

西郷隆盛の辿った軌跡も、自身に即して言えば自らの思想と実践を純化していく過程だっただろうが、明治政府の側からすれば巨大な転向者だったろう。明治新政府が革命性を失って堕落し、歪んだ暴力性を強め「転向」していく姿を見て、自らの理想を貫いて戦い続けた

板垣退助の自由民権運動を巡っても「転向」の諸相を見ることができる。84年以降、自由民権運動を批判して、暴力による政府転覆を謀った事件が頻発するが、誘因となったのは板垣の「転向」。板垣が民権派を懐柔しようとする政府の金で洋行したり、山縣の「利益線」確保のための軍備増強論に妥協したり、さらには民権運動に関わって平民主義を唱えた徳富蘇峰も日清戦争では対外進出を肯定する国家主義的立場をとるようになったり、黒岩涙香も反権力的な『萬朝報』を主宰しながら日露戦では主戦論を唱えてキリスト者たちと決別したり、時代の大きな「転向」を形作っていたといえる

辛亥革命で、日本が袁世凱を支援したときでも、孫文を支援し続けた玄洋社の頭山満は、国権論と民権論を並立して社是とし、その行動には複数のベクトルが絶えず渦巻いていた。同じグループの中から、関東軍を支持する者が出たのは大きな「転向」と言わねばならない

明治思潮の国権論から民権論への変貌は「時代の大いなる転向」だが、第2次大戦後の民主主義国家への大転換も転向と呼ぶべき現象。問題は、昨日まで軍国主義の強力な推進者だったのに、反省も悩みもなしに狡猾にいとも簡単に「転向」を成し遂げた者が多数いたこと

過去を真摯に反省し、民主主義を血肉化していく過程が必要だったにもかかわらず、戦時中の言動を振り返ることの無いままに民主主義の音頭取りとなった者たちが、それなりのリーダーシップを握ってしまった。戦後日本のこういった在り方に、左翼からの転向者を悪とし非転向者を英雄視する独善的な発想が共振していく。今こそ先駆けて左翼陣営に乗り換えるべきだという要領のいい処世を生み、民主主義の内実が空疎になっていった

この思想風土こそ、戦後民主主義の決定的な弱点。皮肉を込めて「転向民主主義」と呼びたい

 

第37回 (202312月号) 憲兵から「転向」したミスター日教組

~ 反省なき者が戦後民主主義教育を空疎にした

日本の近現代史における「時代の転向」と呼ぶべき事態は2度――日露戦争を機に国論が民権論から国権論へと変貌したことと、第2次大戦後の社会のありようが軍国主義から民主主義へと転換したこと。今回は後者について取り上げる

戦後民主主義の理想像のように見えるジャーリストの中にも、戦前は精神論で翼賛報道に徹しながら、民主主義の時代になるといち早く先頭に立って「平和と人権」の旗振り役となった者がいる。そこには、戦時下の自身の報道を検証する姿勢も、民主主義に転換する時代の深層を見つめる思考も感じることが出来ない。そこに日本の戦後民主主義の弱さがある

日本に民主主義が根付かなかったのは、彼等のご都合主義的な「転向」と、それを見抜けなかった私たちの責任であることを、改めて反省する必要があるだろう

戦後民主主義のスローガンに最も鋭敏に反応したのは、教育者たちで、815日を機に劇的に「転向」――戦後民主主義の基底には暴力否定の精神があるが、「転向」した教師から暴力性を完全に払拭することはできない

戦後に民主的教育者として定評のある金沢嘉市(1908)は、1967年に書いた回想記を読んでも、戦時下の自分のありようへの反省が不十分としか思えない。いとも簡単に考えを平然と変えることが出来る人たちが社会のリーダーとなって作られてきたのが「転向民主主義」

「ミスター日教組」と呼ばれた槙枝元文(1921~)も、第2次大戦中は憲兵であり、教育者としても皇民教育に加担しながら、その責任が社会的に問われることも無く、教育者自らが過去を痛苦をもって辿り直すこともしないまま、民主主義教育の旗手に生まれ変わっていた。戦後は組合活動を開始、71年から12年間日教組委員長、後半は総評議長も兼務。教育の現場を政治運動に使い目指したのは社会主義

 

第38回 (20241月号) 戦争の教訓を経済に活かした宏池会

~ 池田勇人は浅沼稲次郎を悼み、革新を保守に包含した

戦後日本の思想空間の中に「転向民主主義」が継続してきたことが、今日の民主主義弱体化を招来した一因との私論には共感の声が寄せられる。「真正の革新」と「成熟した保守」が必要

「成熟した保守」とは何か、宏池会にその片鱗を見る

宏池会は、1957年池田勇人後援会として発足、保守の奥行と柔軟性を体現する政治家を多く輩出し、現岸田政権には安部・菅の強権政治とは異なる保守リベラルの新たな政治を期待したが、宏池会的な平和主義の哲学も、国民の側に立つ筋道の立った経済政策も、国際社会に向き合う清新な世界観も見られず、保守の危機感が極まった時代となっている。語り継ぐべき過去の豊かな保守の系譜を明らかにしておきたい

事務局長の伊藤昌哉は1917年満洲生まれ、陸軍経理将校で終戦、西日本新聞の経済記者となって池田の知友を得、58年秘書官、60年池田首相誕生時に首席秘書官。安保闘争に結集した若者たちの精神と行動力を日本経済に向けたら飛躍的に伸びると実感、その発想には「成熟した保守」の透徹した眼差しが感じられる

宏池会政治が牽引した高度経済成長とは、太平洋戦争の痛切かつ現実的な教訓の上に成り立っている。それを支えたのが池田、伊藤と、理論的支柱となったエコノミストの下村治

「軍事に煮え湯を飲まされた屈辱を、経済で晴らす」というのが宏池会政治の核心の1

池田の衆議院における浅沼追悼演説(1960)は、浅沼の人間的魅力を表現する人間的な感性に加えて、岸強権政治からの脱却と、経済成長という新たなテーマを国民に示し、闘争の時代の殺伐とした空気を緩和していく手法を発揮した名演説、その柔軟さこそ宏池会政治の本領

左派への共感が増す中、選挙では最大議席を獲得、そこには社会の動向を見極める保守の眼力と、反体制的な潮流をも巧妙に呑み込んでいく保守の知恵が息づいていた

大蔵省で池田の後輩だった前尾繁三郎も、戦後主税局長時代、GHQの占領軍駐留費増大を賄うための税収増の要求に対し、理屈のない増税は出来ないとして反論、更迭されているが、国家間の公正な関係を重視してアメリカとも向き合う姿勢に、「成熟した保守」として信頼に足る姿を見る

イギリスの政治家・思想家で「保守主義の父」といわれるエドマンド・バークの書物から前尾が読み解いた保守の本質は「受身の哲学」であり、左右の急進主義や過激な革命によって社会が脅かされた時に姿を現わすもので、変化を嫌ったり伝統を守旧するものではなく、ヒューマニズムの哲学とナショナリズムの国家観を基礎とした体系であり、現存の社会秩序を維持しながら、漸進的、部分的に社会改革を調和的に実践しようとする政治思想と定義する

 

第39回 (20242月号) 保守政治を侮辱した自民党裏金問題

~ 明治期以来の利益誘導政治が議会制民主主義を蝕んだ

戦争を熱心に推進した者たちが、敗戦後、真摯な反省を欠いたまま民主主義の牽引者になるという現実は、今に至る日本現代史の孕む重大な矛盾

戦後の安定した平和を築いた池田勇人、秘書官の伊藤昌哉、ブレーンの下村治に注目。左派を排除するのではなく、そのエネルギーを新たな国家建設の方へ振り向けるという巨視的な構想力を持っていた。その死後、宏池会を引継いだ、思索力に溢れた前尾繁三郎が日本社会に浸透させようとした「真正の保守」を再考。前尾が拠って立とうとした保守とは、革新的立場をも吞み込みながら、身の丈に合った実りある変革を実現するために、既存の社会秩序の肯定的な部分を大切にしていく政治的態度をとり、対外的にはアメリカにも言うべきことは言い、国際的な平和協調を求める外交姿勢を示す

現在の裏金問題は、民主主義と保守政治の腐食が露になった局面であり、民主主義の形骸化の果てに、ファシズム的な勢力が支持を得る状況に移行しつつある

地域にしがらみを持った政治風土の下では、有権者をカネで釣るという発想が恒常化しがちであり、それは澱んだ地下水脈となって今に至るまで継続、その濁流が再び勢いを得たのが安倍政権下だった。裏金によって炙り出されたのが、長期政権下の腐敗であり、保守政治の内実も概念も損なわれた。安倍政権もファシズムの1形態であり、民主主義の破壊が進行、その1つの表れが政治家の劣化であり、ファシズム的な時代状況に追随するだけの議員が加速度的に増え、民主主義が意味をなさなくなった。安部が「立法府の長だ」と口走ったことは一強の全能感が顕著に表れていたし、森友・加計問題を見れば「司法の長だ」といったに等しい

異次元緩和の恩恵を受けた一部大企業は、見返りを求めて政権に近づいたのも裏金の一因

安倍政権には保守政治としての基本的な原理原則がなかった、真っ当な理念がなかった。確たる歴史観や世界観があるなら、当然のことながら「保守」として、「対米従属からの離脱」というテーマが浮上するはずだが、それが一切ない所に、この政権の欺瞞が表れていたし、反日を掲げる宗教団体との関係は、安倍政権の保守としての原理原則のなさを象徴している。その安部を国葬にした岸田の政治的計算には、歴史を深く知る「成熟した保守」の片鱗もない

戦後の日本の政治を主体的に動かしたのは、保守政治の1つの源流ともいえる吉田茂。GHQとのせめぎあいの中で、日本の国益に合致するとの認識のもとに政策を受け入れ、現代日本の礎を構築してきた歴史を批判し、先人の労苦を蔑ろにしたのが安倍。先人への敬意なくして保守思想は育たない。国民の憤怒を掻き立てながら情緒に訴えるやり方は乱暴

国葬された吉田をあからさまに否定する安部を国葬にするのは歴史の否定に繋がり、そこに岸田の「非歴史性」が顕著に表れる。この鈍感さこそが真の保守不在の証であり、現在の逼塞状況を招いているといえる。歴史に学ぶ姿勢が見られないことが保守の退廃を生んだ

 

第40回 (20243月号) 政治理念を喪失した宏池会の消滅

~ 岸田首相は池田勇人の保守哲学を受け継がなかった

選挙を中心にして動く日本の議会制民主主義では、有権者へのバラ撒き政策、票読み、集票、見返りというサイクルが出来上がっている部分があり、近現代史を通底して構造化されている。この構造はつまるところ、「政治家と有権者」「日本政治と日本社会」の問題に帰着

岸田の提言で宏池会の名称が消えたが、実態はすでに消滅していたし、先人の貴重な遺産が今に引き継がれているとはおよそ言い難い。宏池会政治の基本は、戦争によって手ひどく抑圧された人間的能力の、戦後における解放にあった

現実政治では保守においても革新においても、戦後の理念が摩耗し極端な停滞が生じている

宏池会的政治理念の限界は、戦後日本が大切にすべき最大の価値を経済成長がもたらす生活の安定とみて、日本の自立、独立性という目標を持たなかったことであり、対米依存を肯定

日本の国家ヴィジョンを、世界の混沌、アジアの激動の中で真摯に、かつ経済的功利性によってリアルに思考し実践しようとしたのが石橋湛山

 

第41回 (20244月号) 石橋湛山に学ぶ「真正保守」の哲学

~ なぜ井出孫六(ノンフィクション作家)21世紀に湛山の読書会を開いたのか

今年生誕140年を迎える石橋湛山への関心の高まりは、現政権への失望の裏返し

昨年6月、超党派の「湛山議連」発足、岩屋毅(麻生派)、古川元久(国民民主党)らが共同代表

利権と派閥に特徴付けられる近現代の打算的な政党政治を批判してきた湛山の遺志がどこまで投影されるか見極める必要

l  湛山議連の問題意識とは――米中対立深刻化の中で、戦争回避のための外交的な構想力を湛山から学ぼうという趣旨。湛山思想とは、左右の極端な発想を排して、人間的な徳目を守りながら日本社会を真の民主主義、平和主義へと変えていこうとする考え方なので、いいように利用されやすいが、日本の近現代史の核心を問うものであることは間違いない

l  井出孫六を生んだ風土――反骨の書き手井出は、佐久市の造り酒屋。兄一太郎は三木政権の官房長官。石橋内閣の農相であり、湛山の薫陶を受けた歌人政治家、農民のための農政を進めた兄の保守政治の流れを汲んで、孫六もまた民衆を起点に据える思索者だった

日本の近現代史の中で見出すことができる気骨ある言論人では、桐生悠々と湛山が双璧。桐生は「五カ条の御誓文」を日本における民主主義と自由主義の大切な指標と見做し、その視点から軍部を痛烈に批判。湛山もまた「五カ条の御誓文」に倣って「五つの誓い」を掲げ、自らの政治原理を発信。明治天皇崩御の直後に神宮建設の愚を説き、公論政治・衆議政治の確立こそ明治を記念すべきものとした

l  安倍政権の行政独裁――安倍政権こそ、戦前の軍事独裁と同様、内閣人事局による人事の壟断や集団的自衛権の一部容認など、独裁的性格を色濃く持つ政治手法を駆使、国民は精神的にも経済的にも疲弊し、戦前の過ちを教訓として学ぶ姿勢が社会全体から薄れていくとともに、極端なナショナリズムや排外主義を煽る空気も広がる。歴史から現在を見極める羅針盤となり得る存在が「真正保守」の抵抗者たる湛山で、井出と北岡和義が議連を呼びかけ

l  ロサンゼルスの日本人――事務局を担った北岡(19412021)は、27年間在米でアメリカン・デモクラシーを体感するが、アメリカは人に民主主義を説くほどの国ではないが、知識層の根底には民主主義への深い信頼があるといい、彼らが興味を持つ日本人が湛山だという

ジャーナリスト 北岡和義さん死去

 NYニュース注目記事訃報 11/10/202111/10/2021 週刊NY生活

 本紙連載東京だよりや新年寄稿でお馴染みのジャーナリスト、北岡和義さんが1019日午後6時30分、肝臓がんのため東京都内の病院で死去していたことがこのほど明らかになった。享年79歳だった。岐阜県出身。葬儀は家族で行った。生前の本人の希望で弔問などは辞退している。喪主は妻邦子さん。

 読売新聞記者や北海道選出の横路孝弘・衆議員の議員秘書を経て1979年に渡米。ロサンゼルスの邦字経済新聞社USジャパンビジネスニュース社編集長の後、邦人向け放送局JATVを設立。2006年帰国、日大国際関係学部特任教授を務めた。著書に1981年のロス疑惑の謎に迫った『13人目の目撃者」、在外投票運動を記録した責任編集『海外から一票を!』などがある。2007年ロサンゼルス在外公館長表彰を受けている。

惜別評伝

三浦和義事件と北岡さんのことなど

 「ロス疑惑」と呼ばれた事件が1981年にロサンゼルス市であった。「三浦和義事件」とも呼ばれた。日本中が、一億総探偵団になってテレビに釘付けになった出来事だった。簡単に書くと1981年、ロサンゼルスで起こった殺人事件に関して、当初ライフル銃で撃たれて死亡した三浦一美さんの夫で被害者と見られていた三浦和義が「保険金殺人の犯人」ではないかと日本国内のマスメディアによって嫌疑がかけられ、過熱した報道合戦となり、結果として劇場型犯罪となった。殺人事件に対する科学的な考察よりも、その男性にまつわる疑惑について盛んに報じられた。三浦は、2003年に日本で行われた裁判で無期懲役から一転して無罪が確定した。しかし、その後の2008年に米国領土内において、共謀罪でアメリカ警察当局に逮捕され、ロサンゼルスに移送後ロサンゼルス市警の留置施設にて、シャツを用い首をつって自殺した。この事件の発端を在京特派員たちを尻目にぶっちぎりでスクープしていたのが、先月亡くなった元読売新聞記者で、当時、USジャパンビジネスニュースという地元経済新聞の編集長をしていた北岡和義さんだった(5面に記事)。北岡さんの著者『13人目の目撃者』(恒友出版)からその一場面を引用し、紹介する。

場所19819月、ロサンゼルスのUSジャパンビジネスニュース編集部

     

 事件から十日くらいたったある昼休み、食事をしていて自然と三浦夫妻の話題が出た。例の事件は怪しいですよと誰かが言ったらしい。編集部で最年少の記者、三浦良一(25)が、その話を聞いて妙な事を言い出した。

「あの三浦から殺人を頼まれたっていう男がロスにいますよ」

「なにい?」

 私の手がハタと止まり、三浦を正面から見すえたため、彼は急にしどろもどろになって、「いえ、そういう話を聞いた男がいるんです。ボク会いました。ちょっと軽薄な野郎なんですがね。でも本当ですよ。『お前、人、殺せるか』って三浦が聞いたようです」

 弁解口調で彼はしゃべった。話を聞いたのは、3、4日前だという。

「そんな大事なこと、どうしていままで黙っていたんだ」

 私は思わず声を強めた。前々から気にしていた事件である。三浦記者がリトルトーキョーの喫茶店で聞いてきた話を聞き流すことはできない。詳しく話すように促すと、彼はこう説明した。

「ウエラーコートの二階の喫茶店でコーヒーを飲んで、隣に座った男と話していたんです。その男、ヤマハの関係の仕事をしてるというもんですから、ボクはレコードの企画の話をしたんです。できたら彼に原稿、書いてもらおうか、と思って。まあ、ちょっとチャランポランなとこ、ありましたけど」

 レコードの企画というのは彼が文化面の片隅に始めた話題のレコードを紹介、解説するコーナーのことを指していた。それがきっかけで世間話をしていると突然、その男が言い出したという。

「あんた新聞社の人なら知ってるやろ。あの三浦の事件、実は殺しをあいつに頼まれた奴がいる」

 そこで三浦良一は彼の名前と電話番号を聞いた。だが、あまりに話が唐突すぎるし、内容が尋常でないので、三浦は半信半疑で、その話を聞き流していた。

 私はすぐ、その男と連絡をとるように命じ、私自身が会うと言った。幸いすぐ本人がつかまり、私は三浦記者とニューオータニのロビーでその男に会った。

 彼の話は本当だった。ただ「殺しをやれるか」と聞かれたのは彼ではない。福原光治という寿司レストランの板前で彼の友人だという。

「オレに似てる」といって北岡さんが亡くなる直前までFBのサムネイルに使っていた似顔絵(1982年に描いたもの)

 社に戻って、私は友人の新聞記者に電話した。

「最近、面白い話ない?」

そんなふうに探りを入れてみると、

「三浦事件だろ」

とずばり返事が返ってきた。さすが社会部出身、カンが鋭い。

「社会部記者は生きていたね」

 私は軽くからかった。彼は私のつかんだネタについて質問した。そこで簡単に夕方に聞いた殺人依頼された男がいるという情報を話した。

「大きい(ネタ)じゃあない」

彼は電話の向こうでうなった。事実とすればもちろんトップものだ。

「オレいまからそっち行くよ」

 夜8時を過ぎていたが、彼は私の社に飛んできた。

     

 そして、翌年3月、一人の週刊誌記者がロサンゼルスにやってきた。羽田と名乗る記者は、週刊文春の記者だった。すでに事件に疑惑を持って取材に来ていた。殺人依頼の話を彼に話すとメモを取って帰っていった。その2か月後の5月。「疑惑の銃弾」というシリーズが週刊文春で始まり、日本中がロス疑惑の渦に巻き込まれていった。

     

 事件から何年たったのか覚えていないある日、北岡さんが「でも変だよな、北岡和義と三浦良一、二人合わせて三浦和義だもんな。でもなんでオレが三浦くんの下なんだ?ワハハハッ」。事件を抜いた記者の笑顔と笑い声が今も耳に残る。(三浦良一記者、イラストも)

l  半藤一利が示し続けた見識――半藤も、軍部の暴走とその宣伝役となったメディアによって破局に向かうなか、抵抗の孤塁を守った湛山の言論戦を著す。湛山分析の5つの視点:

   湛山の歴史観、国家観、教育体験、思想などの独創性

   実学のあり方を身をもって示した知識人の先達

   共同体に縛られず、そこから自立していく自己のあり方

   「真正保守」という理念を体現する人物と、それを理解する人的な系譜

   言論によって権力と対峙して闘った、その能力と精神

l  生活に根ざした大衆の哲学――湛山は、東條や山本五十六らと同年生まれ。両者を比較すると、近代の完成教育カリキュラムがいかに人材の養成に失敗したかを確認できる。②の実学とは、自らの努力と頭脳・感性で学び、それを社会に還元していく学問のあり方であり、湛山の人生は実学そのもの。③も自己検証と状況認識の緊張関係の上に新たな国家建設を展望せよといい、自らの責任における自分の生活思想の確立の必要性、さらには自らの歴史観をもって一人一人が現実に対処するという社会構想を説いた。湛山こそ、近現代の日本において言論人の闘い方の原点と到達点を示した人物

l  湛山を「同時代的視点」で見る――論点は以下の通り:

   近代史での言論人と、現代史での政治家という湛山のあり方――言論によって軍事主導社会と対決し、言論の使命を極限まで果たすとともに、身をもってその限界を知った

   信念の根拠としての宗教と、合理主義者としての経済――日蓮宗の僧侶だが経済理論は別物とし、ケインズなどの理論から現実社会を見、リベラルな社会構想を世に訴える

   帝国主義国家への経済的合理主義からの批判――強権体制に抵抗、経済的合理主義によって植民地支配の非合理を知らしめる論を駆使

   軍部からの弾圧と、GHQによる追放――自らの言論や行動に不当な圧迫や干渉をされたときには一切妥協しない姿勢を示す。「自分をしっかり持つ」ことを強調

   米中ソとの対等な友好和平。「対米従属」を「自主独立」へと転じる展望――戦後日本の核心に恐れることなく踏み込もうとした。「節度なき現状維持の保守」への根源的なアンチテーゼであり、私たちが担うべき未来の課題でもある

 

第42回 (20245月号)  湛山、五十六、英機「明治17年生まれ」の岐路

~ 三者の生き方を比較すると近代日本の国家像が浮き彫りになる

現在の政治状況の劣悪さは目を覆うばかり、倫理の底が抜けるような惨状。国民感情は、芯まで腐った政治構造への怒りでなければならないが、その原因を探ると、政治家と国民双方の責任を追及する必要がある

国民の政治意識を点検する上で最も根本的な論点とは、国民が民主主義に飽いているという現状への批判でなくてはならない。民主主義を成立させるための国民の社会意識、不断の政治的関心、権利と義務への認識などが根本から崩れてきているのではないか

政治家の劣化と国民意識の摩滅が一体化したのが「選挙民主主義」とでもいうべき、民主主義が形骸化したありようであり、民主主義の全体像を我が物とすることができないでいる

l  孫文の「五権憲法」に学ぶ

西欧民主主義の3権に加え、中国古来の「考試」「監察」を近代化して加え、民主主義の形骸化を防ごうとしたところに孫文の独自性がある。考試とは、公務員の採用権であり、行政の恣意的な介入を斥ける力となる。監察とは公務員の監視、弾劾、会計監査であり、立法から独立させることで権力の濫用を抑止する

腐蝕を極める政治に求められているのは、「監察」の制度化

l  民主主義の血肉化

理念の現実化を志向するアメリカ発祥の哲学「プラグマティズム」を日本で継承・発信したのが石橋湛山。知識や思考を行動において捉え直し、実際の成果として見つめようとする思想的な態度を言い、独自に体現。「真正保守」との親和性が高い

ジョン・デューイ→田中王堂(18671932)→湛山と教え継がれた「真正保守」の系譜

日本における「真正保守」の起点は福沢諭吉。性急な西欧化がなされた時代に、西欧思想と日本人の生き方を共に見極めながら実証的な学問として「実学」を提起

17歳で渡米しハーバードでプラグマティズムを学び、戦後日本におけるプラグマティズム紹介者となった鶴見俊輔(19222015)も、湛山の思考にプラグマティズムを感じ取っている

l  明治17年という時代

同年生まれの石橋と山本五十六、東條英機。この3人の国家観、歴史観、人間観を問うとき、近現代史における人間の条件が透かし彫りにされる。軍事のみが突出して先行する時期

軍人至上主義、戦争が国益を生み出し、敗北は国家衰退の源と考える東條の性格や挙動はバランスに欠け、戦場体験のないことも手伝って、歪んだ戦争の時代を作る

国家や天皇にひたすら帰依する東條に対し、湛山は国家や天皇を私たちの存在を保障する機関と見做す。山本は日露戦に従軍して負傷、生粋の海軍軍人としての基本的な考えを崩さずに生き、軍事は政治に従属し、そこから逸脱してはならないという原則を固持

同世代の者が戦場であっけなく死んでいることに思いを馳せることができるか否かが東條と山本の違い。湛山と比較したとき、山本に決定的に欠落しているのは、戦闘を担う指導者としての道を進まざるを得なかったその生き方にある

湛山は、身延山久遠寺法主の長男。札幌農学校の第1期生でクラークの教えを生徒に説いた大島正健に出会い人格上の深い影響を受けた。日露戦には早稲田の学生として徴兵を免れ、軍人とは異なる、開放的な教育や自前の学問により民主主義を担う個人を育てる過程が透視できる人格陶冶の過程が見て取れる

東條が「国家」を高々と掲げつつ、「個人の栄達」を追求しているに過ぎないのに対し、湛山は「個人」を主張しつつ自らの信念を貫くことにより、その集合体としての「国家」の懐の深さや「社会」の改良を望んでいた。主権者の覚醒を前提とする個人主義が、民主主義に通じる道筋。湛山が信念をもって生きたその軌跡が、今ほど切実に求められている時代はない

 

第43回 (20246月号) 石橋湛山と歴代首相の通信簿

~ 対米従属からの脱却を目指したのは誰か

国賓として米国を訪問した岸田の、アメリカへの従属を良きものとして過剰に吐露する言動は、日米同盟を基軸にしながらも日中関係重視などアジアの一員としての立場を曲がりなりにも堅持して外交バランスをとってきた戦後日本のあり方から、米国への「自発的隷従」とでもいえるアメリカに付き従う姿勢に転換したかのように見える

日本の外交を見る時、歴史的な視点を大切にしなければならないが、対外関係を巡る近現代史の地下水脈を2つの方法で見る必要がある。1つは、人類史の中で日本を演繹的に捉える見方で、世界史の巨大な潮流の中で日本の対外交渉のあり方を再検証していく分析であり、もう1つは、日本国内の具体的史実を見極めたうえで歴史の大局的な流れを掴もうとする帰納的な態度。いずれの方法でも、以下の観点を念頭に置く必要がある

   鎖国体制下で、自らの文明と文化を世界の中で相対化することができなかった

   ペリー来航以来、アメリカの世紀の中で、日本は圧倒的にその従属下で存在してきた

   開国後は、日本はアジアに対して帝国主義的に振舞い、他国との交渉は戦争をもたらした

   軍事体制崩壊後は、アメリカ流の民主主義国家を建設、東西冷戦下で事実上アメリカの属国のような道を歩む

   固有の歴史を持つ文明と文化がありながら、対米隷属と模倣を続ける限り、世界に対する固有の文化的発信が乏しい

上記のような宿命的な縛りの中で、歴代64人の首相の舵取りを評価する

別格―終戦を主導した鈴木貫太郎、一国の首相という立場を超えて近現代日本の理念を示した石橋湛山、庶民の欲望を政策化した田中角栄

A―時代の中で重要な仕事を成し遂げた伊藤、原、若槻、吉田、池田、大平、中曽根など

B―独自の存在感を示した西園寺、濱口、岸、佐藤、宮澤、細川など

C―反国民的な存在の東條など。2000年以降の首相の大半はこの範疇

任期―首相の頻回交代は、193745年、戦後~48年吉田第2次内閣前、角栄退陣後~中曽根による「戦後政治の総決算」前

回顧録を残す―中曽根ほか、芦田、佐藤、福田らが実践したが、歴史上の責任を自覚しつつ政治を担ったのであれば、自らの歴史を次世代に引き継ぎ、歴史の審判を仰ぐ必要がある

中曽根を支えた官房長官の後藤田も回顧録を残して自らの歴史的責任を果たす。後藤田は、首相を支える有能な側近の好例。在任中には両者間に靖国参拝や自衛隊の海外派遣について暗闘もあった

中曽根のライバルは、同年生まれの角栄。中曽根は『自省録』の中で角栄が失脚したロッキード事件について、「アメリカ石油メジャーをよそに「日の丸石油」をアラブから直接買い付けようとしたためにアメリカの虎の尾を踏んだ」と書き、次の1節を置く。「大分たってからキッシンジャーが私に、「ロッキード事件は間違いだった」と語っていた」

対米従属からの脱却を志した政治思想ゆえに、角栄こそが湛山の系譜を真に引く政治家

 

第44回 (20247月号) 次期首相7つの条件

~ 原敬以来の系譜からポスト岸田を占えば

自民党政権に終末の気配が漂い始めた。裏金問題に端を発した政権与党の構造的な腐敗が原因。危機を好機に置き替えるには、歴史の地下水脈を辿り直し、その教訓に学ばなければならない

維新以後日本の政治を動かしてきたのは藩閥政治。次いで桂園時代(190113)を経て、原敬によって政党政治が誕生。大正デモクラシーが生んだ立憲政体だったが、テロリズムも台頭、治安維持法が成立して大衆運動の抑圧が始まり、政党政治が無残な終末を迎える

新たな可能性を期待する「首相の条件」とは;

   湛山のように、「真正保守」の常識で考え、「真正保守」の常識で行動する

   対米従属一辺倒ではなく、多国間の友好関係を築き、「小日本主義」の落ち着いた日本を志向すること

   角栄のように、時代の中の大衆のニーズを捉え、大衆と呼応する、劇場の主役となる

   歴史に学ぶ知性と、歴史の教訓を実現する政治力を持つ

   高齢者の信頼を勝ち得、若者をリードする人間性、安心を与える人格、生育環境の真っ当さを持つ、あるいは、苦労を深く内面化していること

   政治家としての経験よりも、経歴の中で、世界の中で敬意を持たれる存在であること

   海外経験は貴重だた、そこに過剰な意味を置いて「世界基準」への過信をしないこと。日本と世界の「関係性」を豊かに思考できること

 

第45回 (20248月号) 湛山に見る知識人の3条件

~ 湛山の「小日本主義」に竹内好(よしみ、中国文学者)はアジア主義を読み取った

派閥と利権に特徴付けられた近現代の政党政治を批判してきた湛山の遺志が今こそ生かされるべき

言論人としての湛山は、近代日本の軍事主導体制や帝国主義的発想による政策に対して、言葉による抵抗を限界まで試みた。思想は必ず現実に即すべきであり、現実に適応され得ない思想には価値がないとした、極めて現実的な闘い故に、現実を生きる我々に訴求力を持つ

政治家としての湛山は、1946年吉田内閣の蔵相として誕生。言論人として鍛えてきた思想を、政治家として現実社会に還元しなければという熱意に駆られて転身。知行合一を生きる

湛山精神の骨格をなす3つのポイントとは ⇒ 「真正保守」知識人の持ち合わせるべき認識

   小日本主義(帝国主義の否定)――独立自尊が前提、「戦法の極意は人の和にあり」とする

   非軍事志向(軍事で物事を解決しようとしない)

   論理的基盤(共同体的な情緒を克服し、個の意志を明確に示す)――国家にもイデオロギーにも従属しない「自己の確立」、そして「国家の自立」を大前提とする

湛山のプラグマティズムは、福澤諭吉―田中王堂―湛山という系譜で見ることができる

 

第46回 (20249月号) 都知事選の危険な熱狂

~ 約166万票を集めた石丸伸二の躍進は危うい予兆だ

都知事選では看過できない政治的な変調が起きているように感じる

都知事選の狂騒は終わったが、いずれの候補者も都政を担うに足るような政治家ではなかった。歴史上傑出した都政のリーダーは、後藤新平(192023)、美濃部亮吉(196779)、鈴木俊一(197995)の3人で、共通するのはなるべくしてなったと思わせられる存在感

後藤は、就任時「東京市政刷新要綱」を発表。精緻で独自の都市計画で、退任直後の大震災で活かされる。復興を好機として、復旧に留まらない「創造的な復興」を目指し、東京の復興を日本の国家的ビジョンに繋げる。美濃部は、「東京に青空を」と公害対策を掲げて都知事となり、革新都政の重点を福祉行政に置き、国に先駆けた福祉諸政策を実践、庶民・弱者の側に立つ都政をアピール。高度経済成長の弊害である公害にいち早く対応。美濃部の勝利を凝視したのが角栄で、角栄は福祉、公害、都市が時代の課題になっていることを鋭敏に嗅ぎ取り、自らの政権下で日本列島改造論を打ち出す。角栄の国政は革新自治体への保守の側からの回答という面もある。「真正保守」の立場から戦後政治を振り返る際には、高度経済成長と美濃部都政を表と裏のように捉え直し、革新都政から日本列島改造論への展開を時代のなかでの革新と保守の無意識の合作のように見据える、成熟した目が必要だろう

美濃部の革新都政の膨大な財政赤字のツケに向き合ったのが鈴木で、内務省で培った地方自治のプロとしての手腕を発揮、財政再建後は「防災都市、安全都市」を志向する町造りに着手

小池都政への違和感は、①護民官というより大企業優先、②幹部の多数退職に見る指導力の欠如、③震災の朝鮮人犠牲者への追悼文忌避に見る歴史意識の欠如

リベラルの蓮舫にも一言。生活困窮者への食事提供の現場を見て、余りの人の多さに驚いたというが、これまで「貧困の現実」を見てこなかったことを露呈。新自由主義の席巻により貧困が拡大していく時代に、あまりにも現実認識が足りない。政治とは「民のかまど」であることを、もっと現実に即して、実践的に理解することが必要

石丸は、独善的な話法で石丸現象を巻き起こしたが、既視感がある。かつては多くの軍人が同じような話し方をしていた。自分だけの世界があり、その狭い世界と自分の知識のなかだけで、社会現象や人間存在を考えている。斎藤隆夫の「反軍演説」への親軍派の議員たちの対応然り、天皇機関説事件然り。新しい熱狂が、新しい翼賛を準備する可能性は大いにある。歴史を繰り返えそうとしているのではないか

 

第47回 (202410月号) 原爆忌で考えた政治家10カ条

~ 岸田首相の退陣表明には戦争への反省が欠けていた

終戦前日の岸田の退陣表明を見て感じたのは、①岸田の言動には歴史観がない、②戦争への反省、戦死者への思いが感じられない

歴史的な責務を負った日に、自らと、政権と自民党のエゴイズムに基づく退陣表明をすること自体、岸田の歴史観のなさを浮き彫りにした。815日が何の日か知らない若者と同列であり、歴史に学ばず歴史に負け、世論を聞かず世論に負けたという告白に他ならない

長崎の平和祈念式典で長崎市長は、大国の為政者たちに、個としての「人間の倫理」を問いかけた。原爆起爆装置開発リーダーのアルヴァレズは、広島原爆投下の観測機に搭乗して見た原爆の破壊力を、旧知の嵯峨根遼吉博士(長岡半太郎の息子)に知らせ、日本の降伏を働きかけたが、嵯峨根が手紙を見たのは戦後大分たってから

後藤田健在なりせば岸田を見ていうだろう、①岸田は戦争経験世代をどう思っているのか、その世代が戦後社会を築いてきた苦労をどう感じているのか、②読書をしてきたのか、自らの徳目を高め、面識を磨く手段は他に何かあったのか、③宏池会の系譜に何を学んだのか

岸田は、宏池会の伝統を捨て去るように、しきりに改憲を打ち出し、緊急事態条項の創設を主張。これこそナチが利用したワイマール憲法の「大統領緊急権」に類似するもので、厳しい警戒が必要。同時に、改憲すら政権浮揚に使われようとしている、現代政治の空無化に留意

後藤田は「護憲」の政治家。戦場に赴いた世代に共通する感情を体現し、戦争を起こす仕組みを繰り返してはならないとの思いが血肉化している

現代の政治はイデオロギーに区分は出来ず、それを超えた政界再編成こそが求められ、その結集軸こそ、日々の暮らしを大切にし、漸次の改革を志向する「真正保守」の立場だと考える

真正保守政治家10カ条とは;

(1)        常に歴史を読め

(2)        師たる政治家を持て

(3)        甘言、巧言は敵とせよ

(4)        誤りから学べ

(5)        良きブレーンを持て――池田勇人の伊藤昌哉、村山の後藤田

(6)        清廉の徳を持て

(7)        討論、対話を厭うな

(8)        典故、先例に通じよ

(9)        読書に勝る良薬はない

(10)    氷山の如き人格たれ――知性・感性・人格の奥行きが表に現れる

 

第48回 (202411月号) 日中危機と2つの党首選

~ 新たな火種を抱えた日中関係に臨むリーダーの資質を問う

深圳の日本人男児殺害事件は、日中関係を揺るがしかねない。今こそ「真正保守」の立場から、歴史的な地下水脈を辿り、現代の悲劇と正面から向き合う必要がある

事件発生の日は、奇しくも93年前の満洲事変の発火点となった柳条湖事件と同日であり、昨今のようなネット上での反日感情を煽る投稿を見る時、事件と反日的動きの関連を危惧せざるを得ない。その意味からも、政治家が靖国神社を公式に参拝することには違和感を覚える

中国では庶民レベルに至るまで広範に反日感情が共有されているのではないか。さらにはそこに歴史的な背景があることを忘れてはならない

後藤田は政界引退後日中友好会館の会長を務めたが、「共産主義に賛成とか反対とかで中国を見たら、国際社会は分からない」と常々言っていた

歴史観を持つことこそ重要。日本が反省すべき点については、自己を厳しく問い質すべきで、中国に一方的に頭を下げるのではなく、歴史観を持った自らの立場を中国に説明すべき

石橋湛山も、「日中米ソ平和同盟」を構想して行動する中、日中間の歴史的経緯に起因する軋轢を解く際に、左派などの相手に媚びる態度が誤解を生むとし、相手への迎合や教条的な謝罪ではなく、公正な歴史観に基づく対等な対話こそが未来を拓くとした

個別の戦争犯罪を調べ、人類の愚行の中で普遍化し、人間としての恥ずかしさにおいて見つめる、そうしたことを繰り返すのが歴史を学ぶことであり、そのように歴史を深く見つめる目によってこそ、日中の隘路を抜け出す道が見えてくるだろう

戦争が人間をいかに傷つけて殺すか、敗者のみならず勝者の側の潜在意識まで蹂躙するかを知れば知る程、軍国主義を扇動する政治家を認めたくない。自民党の総裁選に際しても、歴史の教訓をしっかり踏まえた上で、軍事とどう向き合うかを問いたい。岸田の軍事観は余りに杜撰であり、宏池会の平和主義的な伝統を裏切った。今こそ徹底的に専守防衛を貫く軍事論を作る必要があり、それを支える哲学を磨くことが求められる

9人も総裁選に立候補した自民党は、政党としてのまとまりを失なった証拠。政治的貧困は目を覆うばかりで、大局を語る政策もなく、これでは国民の心を掴むことはできない

野党からも、資本主義の競争原理を加速させた「新自由主義」という名の「弱肉強食社会」に対抗する、新しい社会のヴィジョンが提起されない。新党首の野田は松下政経塾の第1期生だが、政治に企業の論理が入り込むことへの危惧があり、大衆の実感と乖離した立ち位置には違和感がある。特権的な立場の人だけが富み栄え、立場の弱い人がますます切り捨てられていく社会を変えることは、真の野党のみならず、実は「真正保守」の課題とも重なる

 

第49回 (202412月号) 自民党の終焉と福田和也の死

~ 戦後民主主義なるものを批判し続けた論客の素顔

石破が高市を破って自民党総裁に選ばれたのは、自民党に最低限の良識が残っていた結果だろう。石破は、理念において見識にある政治家と思ってきた。湛山が近代日本の膨張主義的な政策を戒め、功利主義を説いたがそれを今の日中関係に応用すればいいと言っていた

石破は、「保守というのは、皇室を尊び、伝統文化や日本の地方の原風景を大切にし、11人の苦しみ、悲しみに共鳴する、その本質は寛容だ」と説き、右翼とは一線を画する。さらに、「対米自立」についても、今の政治家が取り組むべき課題と考える石破の見識には信頼がおけると見たが、首相就任と同時に失速する。自らの主張を封印し、右顧左眄している

石破が政治的信条を実際の行動として貫くことができない以上に、党内の異端が首相になってもほとんど変わらないほど、自民党の旧態依然は構造的だということがはっきりした

新たな政治再編しかありえない。石破的保守と野田的リベラルに政策的な違いは少なく、両者の合体は「真正保守」の再興を現代日本の政治勢力の中で試みようとする時のモデルになり得る。こういう中道保守結集という政治動向を、最近亡くなった福田和也ならどう見るか

 

第50回 (20251月号) 「親米保守」という大いなる矛盾

~ ペリーの掲げた星条旗が降伏文書調印式でも飾られていた

西部邁は、「(日本独自のナショナリズムを追求するはずの)右翼が親米なんて、こんな戯画的な話はない」と言った。語義矛盾だが、「親米右翼」こそが、戦後の日本では主流であり、日本の自主独立を志向する「真正保守」とは異なる、「親米保守」と言われる思想的、政治的なスタンスがある。日米関係は対等とは言いがたい「ねじれ」を内包して形成されてきた。ペリーに始まり日本にとって、自らを開国させたアメリカの存在は大きい。国家モデルとして、まずアメリカ型を志向し、岩倉使節団を派遣したが、結局選んだのはプロイセン型

日露戦争以降、中国をめぐる日米間の暗闘が始まり、第1次大戦後はアメリカの日本敵視が強まり、移民法が成立し、日本でも日米間の架空戦記が出版され反米感情が掻き立てられた

1939年にはアメリカが日米通商航海条約を破棄、翌年には3国同盟締結。そのまま日米開戦へ。ルーズベルトの戦略とは、そしてアメリカの戦争目的とは、「アメリカの国益に合致する民主主義」をつくり出すこと

ミズーリ号で降伏文書の調印式には、92年前にペリーが日本に開国を求めて来航した際に掲げていた星条旗が、再び持ち込まれていた。マッカーサーの要請だったというが、アメリカの国家意志と言っていいだろう。その意味は、日本に対する国家的な戦略を「日本人を奴隷状態から解放する使命」とし、軍事主導体制下のファシズムから、戦後のアメリカン・デモクラシーに転換させることを意味した

アメリカへのアンビバレントな心理は、単に私の私的な思い出話であることを超えて、アメリカそのものの自己矛盾の反映でもある

占領前期は、民主化、非軍事化という理念の徹底的な実現であり、戦前の日本の解体による戦後の再建であり、非戦思想とキリスト教によるヒューマニズムによる民主主義の実践

占領後期は、東西冷戦の下、極東アジアにおける反共のための橋頭堡としての役割を日本に担わせることで、軍事もともなう反共自由主義とも言うべきアメリカの国益に沿う民主主義

「普遍的な民主主義」とはどのようなものか。次の4点を挙げておきたい。

1)基本的人権が自覚され、社会の共通意識になっている。

2)市民という概念が共有され、国民、臣民という意識を超えている。

3)基本的人権の意識が行き渡っていることを前提として、立法、行政、司法の三権が確立している。

4)国際関係を軍事ではなく外交によって築こうとしている

「大正デモクラシー」に胎動していた日本独特の精神や、五箇条の御誓文にこそ、新生日本の民主主義を切り拓く精神が宿っているという再発見

アメリカン・デモクラシーの問題点は何か。その最も大きな危険性とは、新自由主義化する資本主義下の民主主義ということ

 

第51回 (20252月号) キッシンジャー、オルブライト 2人の「亡命」外交官

~ 冷徹なユダヤ系の知性がアメリカの中枢に存在した

現在の日本には「真正保守」の思想的な立場が必要であると考え、その再興を模索している

戦後日本が手本としたアメリカン・デモクラシー自体が本国アメリカで重大な隘路に突き当たり、日本もその影響下にある。アメリカ社会は「頭脳」と「肉体」の分離によって支えられてきた

キッシンジャーはリアリズムに基づく外交によって、冷戦の緩和、大国間の和平に貢献をしたのであるが、その方法は常に、アメリカの国益に基づき、アメリカ・ソ連・中国のパワーバランスによって、国際秩序の維持を目指すマキャベリズムが根底にある

角栄による対中国交回復と、73年の石油危機でアラブ寄りに政策を転換したことがキッシンジャーの怒りを買い、ロッキードへとつながる

クリントン政権下で国連大使、国務長官を歴任したのがオルブライト。チェコからの「難民」。セルビアによるコソヴォの虐殺に敢然と立ち向かう

日本人が学ぶべきアメリカの知的伝統は、客観的、現実的な洞察に発するプラグマティズム

 

第52回 (20253月号) 戦後80年を前に死去したワンマン主筆

~ 「最後の陸軍二等兵」は戦争責任を追及し続けた

「歴史家」としての渡邉を語る。彼は、本土決戦時に「特攻要員」として命をなげうつ役割を強いられていた世代。戦後、共産党に入党ししたのは、戦争を遂行する国の強制力に、知性でも力でも抵抗できないという無力感を味わったからだが、党の画一的な規律を批判して除名

読売新聞入社後、渡邉は政治部を中心に活躍する。権力側の政治家の懐に入り込む取材手法を取った。よく知られたのが、自民党副総裁だった大野伴睦との深いつき合い。「オフレコ」破りがきっかけで親密に。渡邉は、人間関係を色濃く反映する戦後政治について語っているが、人間が実践する政治をめぐる普遍的な権力論でもある。世情を集約したような大野の発想と行動が政治を動かしていく作用に魅力を感じ、大野と相互影響する関係をさらに深める

渡邉との盟友関係が知られたもう一人の政治家が中曽根康弘

渡邉の呼びかけで、1994(平成6)年、読売新聞は「提言報道」として「憲法改正試案」を発表したとき、「メディアがやるべきことではない」との批判が激しく起こったが、明治期以来、憲法草案の試みは何人かのジャーナリストによって行われたが、憲法改正案を組織的に提起したジャーナリズムはなかった。渡邉との対談で感じたのは、渡邉自身の体験に発する、心身に染みついた戦争への怒りであり、「最後の陸軍二等兵」として自分の心身に刻み込まれた戦争体験の痛苦から隣国の恨みに想像力を延ばし、日本の戦争責任を究明し、そして次世代が世界のなかで生きるための新しい価値基準をつくろうとしていると言えた。私の考える渡邉恒雄とは、戦争に動員され、特攻による死を強制された世代が、自らの体験に落とし前をつけ、戦争を遂行する構造を明らかにし、その責任の全体像を組織的に解明した人物

 

第53回 (20254月号) 石破・トランプ会談と日米政治史の教訓

~ 石破の対米外交に必要なのは湛山のプラグマティズムだ

石破は安倍政権の独裁的な政治手法に対して保守の原則に立って諫言する、自民党内で数少ない、ほとんど唯一と言ってもいい政治家。アメリカの巨大な矛盾が生んだ怪物的な大統領と、礼節を尊ぶ日本の篤実な首相というコントラストが際立つ。石破は角栄を師とするが、角栄の大衆性を充分には受け継いでいないし、トランプ的な指導者を攻略する術を身に付けていたとは言えない。石破は政治テーマを深く議論することを重視してきたのだろうが、人づき合いを深め、広げることは得手ではないのではないか。

石破は中途半端なナショナリストになるべきではない。ここで歴史の地下水脈に学ぶ必要が出てくるのではないだろうか。石破に、おもねりとは違う、プラグマティックな洞察力が垣間見られたのは収穫。彼ならではの言葉の力でもあった。石破について考えるときにプロテスタントのキリスト教徒であることは外せないファクター。政治家であることと、キリスト教徒であることの重なり合いとズレに、石破の一つの個性があるのではないか、と。原敬、吉田茂(死後洗礼)、片山哲、鳩山一郎、石橋湛山、大平正芳、細川護熙、鳩山由紀夫、麻生太郎、そして石破茂といった、キリスト教徒の首相の流れを辿ることも可能

湛山にとって、日蓮宗とキリスト教は相矛盾する価値ではなく、人間の生活において、根源的、普遍的につながり合うもので、そこが湛山思想の一つの拠点となった。

トランプの銃撃写真への石破の言及は、単なるリップサービスではなく、キリスト教徒であるトランプに、神の下での謙虚さと使命感を確認させる言葉として響いたと思う。アメリカ右派運動のスローガン「MAGAMake America Great Again)」を、「忘れられた人びとへの深い思いやりに基づくもの」だと石破が位置づけたのは、まさにトランプが登場した構造を把握した評言である。アメリカ社会の格差と軋轢、その只中から現れたトランプとその政治はポピュリズムの権化であり、独善性と排他性、ありていに言ってファシズムと国際紛争の危険性を内包しているが、トランプの使命感が、弱者を護る方向に発揮されるように念じながらの発言

石破の微細な「言葉の政治」は、日本にとっての有効な関係性を率直に求める「プラグマティックな外交」を匂わせる。石破は私小説的な言葉をプラグマティックに使用している点で独自性があり、それはごますりのための美辞麗句とは異なるものとして私の耳には届いた

日米地位協定は日本に駐留する米軍の法的立場を、米軍優位な形で定めているが、対等な関係でなければ日米関係の持続性が失われるということを、保守政治家としてプラグマティックに見透した洞察である。

湛山は『東洋経済新報』で鍛え上げてきた経済理論を、敗戦後の日本経済再建に活用しようとする。積極財政路線は当時の新聞などで「インフレ財政論」と称され、野党、財界、経済学者から批判を浴びたが、それでも自らが信じる経済政策に突き進む湛山に、GHQは警戒を覚え始める。湛山がGHQと対峙したもう一つのケースは、戦時補償打ち切り問題で、戦後復興という局面での一方的な戦時補償打ち切り要請に抵抗した結果、公職追放に至った

湛山は、日米関係の問題点をえぐり出し、「平和国家」の理念と日米協調の必要性を前提としつつ安保体制の問題点を指摘する。日米安保体制の4つの要素に着目を促している。それは、(1)日本が基地を提供して、アメリカが日本防衛義務を負うという「非対称性」、(2)対米従属という「不平等性」、(3)密約など、説明責任が果たされない「不透明性」、(4)米軍事件、米兵犯罪などによる「危険性」、ということになる

湛山が「自由思想協会」の創設で目指したのは、①一切の束縛から離脱して自由に考えること、②異質な存在と公正に交流する寛大な精神、③総ての問題を現実の生活に即して思考すること。プラグマティズムを「自由」とみなすところに、GHQから自由を圧殺された湛山の意思が込められている。それを政治思想の領域で確認するとすれば、以下の4点が浮上する

  固定的な主従関係とみなされている日米関係を、経済という国民にとっての有用性からの視点で少しずつ変えていくことができる

  独立自尊を主観的な情念によってではなく、具体的な現実のなかで論理的に捉える

  他国を尊重しながら自国の現実を何より大事にするプラグマティズムを追究する

  政治家が哲学を持つべきこと、哲学と政治が行き来する道筋を見出すべきこと

石破が引き継ぐべきは、何よりも湛山のプラグマティズムなのである。

 

第54回 (20255月号) 「戦後80年」に求められる首相の声明

~ ドイツのような「戦間期の思想」がない誇り

安倍一強の強権支配下で雌伏し、自らの保守政治を磨いてきたはずの石破には歴史的な使命がある。それは、石橋湛山的な「真正保守」の復興であり、1つは「対米従属」から「独立自尊」に近づけること、もう1つは国民が求め、国益が必要とし、民主主義にかなう実利を追求するプラグマティズムを日本の現代政治に根付かせること。さらに重要なのは、戦後80年、昭和100年という節目の年こそ、歴史観と言葉を持つ数少ない政治家である石破が、過去を踏まえた上で、日本の自画像と将来像を内外にメッセージとして発する絶好の機会だということ

歴史観を打ち出すことを求められるのが2025年という年。日本社会が次の局面を拓いていくためには、事実に基づいて歴史観を立て直し、旧来の世界像を転換し、そこから現実に有効な政策を打ち出していく必要がある

声明発信の際留意すべきは、①国民にダイレクトに語り掛ける構えが必要、②先人の労苦に思いを馳せ、その遺産を引き継ごうとする「真正保守」の姿勢を明らかにすること

「戦後80年」は近代日本の錯誤をどう克服したかという問いへの、新たな対し方が浮き彫りになる。1つは、軍事主導体制が日本の文化・文明・伝統を破壊したという批判的な視座であり、軍事主導体制が文化を解体するという日本が経験した現実は、普遍性をもって共有される必要がある。「戦争をしない文化」を再検証し、歴史的な誇りを確認するという課題が残る

もう1つは、「戦間期の思想」を持たないという態度。「戦間期の思想」とは、戦争で失ったものは戦争で取り返すという考え方。戦後日本は、その思想を持たないことを国是とし、世界に伝えようとし、それによって非戦の道を歩んだと言っていい

2020年、石破が総裁選に敗れた時、周囲から、「粛軍演説を行った反骨の政治家斎藤隆夫的な生き方もあるのでは」と進言されたのに対し、石破は「国会で正論を吐き続けて欲しいというその人の思いは痛いほどわかる」と言ったが、国家の最高権力者となった今こそ、日本近現代史を未来への教訓、そして世界への宣言とするような声明を書き上げるべき

 

第55回 (20256月号) 理念なき損得勘定の大統領との対峙

~ 対米従属姿勢をどう変えるかが問われている

トランプ米大統領が恣意の限りに繰り出す施策に、この時代全体が翻弄されている

トランプは関税を取引材料にしながら、アメ車の日本での販促、在日米軍経費負担増額、対日貿易赤字の解消を迫る。まさに対米従属姿勢をどう変えていくかが問われている

支離滅裂とも思える放言を繰り返すトランプには理念型の片鱗もなく、正統派ならざる事業家型の大統領は、通俗的な損得勘定ばかりが前面に出ている。理念で世界史が動く時代がひとまず終わって、今の社会を立て直す新たな理念を鍛え上げなければならない

プラグマティズムの有効性、有用性というのは、自己中心主義や民族中心主義によって判断されるのではなく、相互主体的な関係の中で、「人道的な理念」と結びついて判断されるべき

プラグマティズムは、心理や観念を人間の行為や探究の実践のプロセスとその結果の観点から理解しようとする立場で、シカゴ大のジョン・デューイが提唱し、学内で実践

かつての理念型アメリカ大統領の政治行動に学んで、理念を示すべき時。独立自尊の理想を密かに含み込んで、自立への道を現実的に模索すべき

 

第56回 (20257月号) 墨子とカントに学ぶ「非戦」の哲学

~ 「戦争の時代」のいま、江戸期の平和を考える

「真正保守」の復権を目指して、現在の政治勢力と歴史的な教訓を繋ぐ地下水脈を辿る

内憂外患のいま、「真正保守」の理念は国際性を備えていることも必要

選挙に合わせたポピュリズムばかりが優先され、危機に際して政治が信頼に足る構想力を持てないことが国民の危機感を増大させ、そこにトランプ関税という不安定要因がのしかかる

トランプが日米安保体制の片務性に言及している以上、外交安全保障政策と対米従属構造、ひいては平和構築への構えといった戦後日本の根幹にかかわる問題が浮上せざるを得ず、私たちの歴史観に裏打ちされた世界認識が問われる

現代世界は、未知と言ってもいい「戦争の時代」に入っている。イスラエルのパレスチナ占領に端を発するガザ戦争、ハマスのイスラエル奇襲、ロシアのウクライナ攻撃など、政治交渉無くしていきなり武力発動があって、その後始末に国際政治が難渋を極めている

このような世界史の中で、私たちは如何なる非戦の哲学を、また「真正保守」による戦争回避の思想を紡ぎ出すべきなのか

歴史上、非戦の理念を語る人物として登場するのは「墨子」。それを日本に紹介した半藤一利は、日本人が持ち得る非戦のDNAを語ろうとした。戦国時代の思想家墨子の思想の核心は「兼愛」と「非攻」。庶民の相互愛を政治的な自立として描き、戦国時代に愛と平和を説く抵抗者だった。ドイツ観念論の祖カントも『永遠平和のために』(1795)を著し、「世界共和国」の漸次的な実現を構想

近代日本の選択し得た国家モデルのうち、江戸的「閉鎖」国家は、湛山が帝国主義的な膨張政策に対置した「小日本主義」にも通じる部分があり、新たな可能性を秘めているように思う

 

第57回 スペシャル (20259月号) 特集:終戦80年「指導者とは」

~ 国家主義的右派政党の不気味な挑戦 参政党の掲げる「國體」は天皇制を利用した昭和の軍事指導者に重なる

今年の参院選は、近年にない奇妙な地熱を帯びた「政治の季節」を迎え、政党政治の新たな展開と、それに呼応する大衆的な動向は、画然とした分極化を示した

自公が少数与党に転落、立憲民主も改選前と同数に対し、国民民主と参政党が大躍進

安部・菅の独裁的な性格を帯びた執政に対して、あり得べき保守政治の立場から批判し続けた石破の登場は、「真正保守」再興への国民の期待が託されたが、指導力発揮には至らず

かつての自民党は、右から左までを併呑することで一大政治勢力を維持、殊に右派的な危険性が突出しないよう、党内にその勢力を取り込む組織論は、戦後史の知恵として評価出来る

安部が「戦後レジームからの脱却」を掲げて右派的に突出する専制政治を行ったが、保守としての原理原則を書くもので、確固たる歴史観を持つ保守であれば当然模索すべき「対米従属からの脱却」にまったくふれず、政権の欺瞞を露呈。反共と言いながら反日の統一教会の接近を受け入れたのは、保守の矜持を損ね、政権の私物化も露見。自民党右派は腐食の象徴として切り捨てられ、その向かった先が参政党

おりしも、西田昌司のガサツな歴史観は、歴史修正主義者の台頭を印象付ける

「国家主義的右派政党」としての参政党の目新しさは、戦後民主主義の理念を知らず、学ぼうともしない、それに飽いているところにある。基本的人権を蔑ろにし、弱者や少数派に対して抑圧的に振舞う。「創憲」では国民主権、人権規定、戦争放棄はなく、歴史の教訓は見られない

にも拘らず、自民党右派の受け皿以上に生産世代の一定数の支持を得ているが、注意すべきは、強者の論理と弱者への不寛容が、優勝劣敗の考え方として社会全域に行き渡り、国家主義的な歴史認識が一般化すること

参政党に近似する政党の跋扈は世界的な現象でもあるが、既存の政治も責任がある

課題は、「戦争に憑かれた近代後期50年間」を日本文化に背反する時代として検証すること。そして、江戸以降恒常化した「非戦」の知恵とは何だったのかを探り、受け継ぐこと。「非戦」とは江戸期265年、近代史26年、現代史80年を通じて日本が培った現実的な知恵

 

第58回 (202510月号) 参政党現象と天皇機関説事件

~ 戦後80年、幽閉されていた「ウラの言論」が噴出した

「戦後80年」の今を描く2つの「転換」

   「オモテの言論」から「ウラの言論」への転換――「戦前・戦中」の「オモテの言論」とは戦争遂行のための人間観・歴史観・価値観を言語化したもので、一言でいえば戦争用語。基本的人権や子の自由といった市民社会の価値は否定され「ウラの言論」と見做され地下に潜って密教化。敗戦でオモテとウラが逆転したが、自力で成し遂げたものではない。戦後日本の「オモテの言論」の軸にあるのはGHQ史観であり、アメリカン・デモクラシーであり、建前の平和と自由・平等への志向とは裏腹に、アメリカ自体が差別や人権侵害、弱肉強食といった非民主主義的な側面を持ち、虚構を孕んでいたことを再認識すべき。今回の参政党など国家主義的右派政党台頭の背景は、戦前の「ウラの言動」が社会の表面に露出してきたことを意味すると同時に、戦後民主主義の虚構性や脆弱性が露呈したとも見做され得る。戦後の自民党は、右から左までを併呑。国家主義的右派言論を党内に包摂することによって社会のウラに抑え込んできた力学自体は、まさに「真正保守」の知恵であり、歴史的な知恵として評価できる。7年半に及ぶ安倍一強政権が、政治の腐敗を招き国民の信頼を損ね、今国家主義的右派の表舞台登場を誘発した。彼らが、幽閉されてきた「ウラの言論」の代弁者になることは、国家主義的な地下水脈に合流することでもある

司馬曰く、「日本は攘夷の思想を未分化、未消化のまま残してきた。地下水脈にはずっとそれが眠っている」。戦後民主主義の形骸化と共に攘夷の思想がオモテの世界に顔を出し始めた。今こそ、私たちの戦後民主主義はその実力が問われている。アメリカン・デモクラシーを乗り越えて、新しい「日本の民主主義」を立ち上げることが求められている

アメリカン・デモクラシーの要請であると同時に、戦後日本の国民的な共通理解だったはずの歴史の教訓は、天皇の政治からの隔離だが、参政党の「憲法草案」ではそれを歪めようとしている。戦後の「ウラの言論」を検証し直し、戦後の「オモテの言論」の瑕疵を丹念に修復していかなければならない

   「同時代史」から「歴史」への転換――時と共に、現実が「目前に生起する事態」から「歴史的に解釈される史実」に変る。この時、歴史修正主義が露見することを警戒しなければならない。「同時代史」の理解では、体験と検証の積み重ねから無謀な戦争への怒りが共有されるが、「歴史」化に乗じて、歴史修正主義者はアカデミズムやジャーナリズムの苦闘を足蹴にする。この転換期において、私たちは徹底的に史実に基づき、かつ巨視的な展望を持つ歴史観を示す必要がある

プロイセンから国家が大学を経営することの重要性を学んだ伊藤博文は、’86年帝国大学令を発布し、天皇機関説に基づく国体を明徴したが、軍部は'34年頃から機関説の排撃運動を展開し、暴力的に覆す。これを「歴史」において解釈に当たっては、より大きな距離感で事態を把握するべき。明治・大正期でも「ウラの言論」だった天皇神権説が、天皇を周到に位置付けることで成立した近代国家日本の軸を崩壊させたのが天皇機関説事件。

「同時代史」から「歴史」への転換を見据えながら、従来の解釈を超える視界と認識によって、歴史への新しい見方を提示することは、現在をより深い危機意識で照らし出すことに繋がる筈。未来への大胆な展望も、そこからしか生まれない。現実に対峙し、未来を構想するとは、歴史観を持つことに始まる

 

第59回 (202511月号) 父が最期に語った関東大震災の記憶

~ SNS政治家は「戦争に憑かれた」歴史を学べ

参政党は、時代を攪乱して話題を集めたが、スローガンの空虚さは、歴史と今を見つめる目の不在を映し出す。欧米に現れた右派潮流の受け売り。ドイツ憲法擁護庁はAfDの主張を「自由民主主義と相容れない」として右派過激派に指定

石破には、政策実現に向けた途轍もない執着が感じられず、政治的エネルギーの絶対値が不足していた。「真正保守」の再興に向けた自らの信念を、自民党の規範を超えてでも、直接国民にアピールしてほしかった

政治家のレベルが国民の真っ当な政治意識を下回る時代に、国民の側から政治変革を求めることは私たちの権利であり義務でもある。新たな政治勢力が共有すべきは、歴史の教訓に学んで戦争への反省に立ち、外交と和平を志向、生活実感に根差した良識と常識を足場に議会政治の本道に立ち返ることであり、国民の生活を立て直し平和と安定をもたらすことが政治の使命であり、そのための政治的リーダーが必要

私の父は数学教師、祖父が済生会で結核患者を扱っていたために、父は早くして母や兄弟を失う、関東大震災にあって父の病院に向かう途中、瀕死の中国人に水をあげて自警団に殴打される。祖父も罹災者を回診中に遭難。父の個人史に「戦争に憑かれた50年間」が暴力的に刻印されていた。関東大震災時の虐殺とは、極限状態に置かれた閉鎖空間で日本人の「非戦」「非暴力」の文化が打ち捨てられてしまうということなのだろう。保阪の本家は、富岡の七日市藩(前田の支藩)の家老。戦争を避けるための現実的な知恵、共生のための細心の配慮は、江戸期の藩政にも胚胎していた

 

第60回 (202512月号) 大衆よ、ファシズムに吞まれるな

~ 日本人ファ―ストはファシズムの兆候だ

「昭和100年」「戦後80年」という節目の年に「真正保守」の再興を掲げ、歴史の地下水脈を辿り直し、過去と現在を往還する作業を続けてきた

現在の政治と社会の動きを歴史の視座で詳細に見つめ、「真正保守」の立場から如何なる変革をなしうるかを考える。そのとき、時代を揺り動かす「大衆という脅威」への着目が不可欠

予想外の高市政権誕生の裏には、日本人ファースト、排外主義、歴史修正主義を特徴とする国家主義的右派の席巻や、社会に充満する過剰なナショナリズムの気風が、総裁選の投票権を持つ人々に作用したことあり、現在日本の大衆の情動が色濃く塗り込まれている

経済重視の姿勢が市場からも歓迎され、大衆的な強い支持を得ているが、その後明らかになる高市の政策を見るにつけ、平和を創出して国民生活を支えるという政治の根本に向おうとしているようには見えず、根本的な政治姿勢に対する危惧は強い

高市の思い描く政治的な連携は、「国民政党右派」の中の右派から、「国家主義的右派政党」へと延びるウィングと言え、それを促しているのが、大衆的な右派潮流ということになる

そこで注視すべき点は、①安倍政権継承、特に「経済保守」維持の意志が強く、従米構造強化、②監視や治安維持への過剰な拘り、スパイ防止法には国民民主や参政も同調するが、今やるべきは国民の「知る権利」に応えるべく自らを改めること、自民党が目指す緊急事態条項に絞った憲法改正も、戦前の国家総動員法とのアナロジー(類推)で捉える必要がある、③国家観はあるが「国民観」が稀薄

石破の「80年所感」は、政治力不足でない得なかったことを、思索と言葉で残したもので、過去には10年毎の政府談話でも語られることのなかった戦争遂行の構図を昭和史の自立的な理解を目指して打ち出し、国際社会に日本の歴史的な良識を示そうとしたものであると同時に、日本人ファースト、排外主義、歴史修正主義を体現する政治勢力の抑止をも狙っている

現在の日本人ファースト、排外主義、歴史修正主義の立場はファシズムの兆候と見るべき。大衆のエネルギーは歴史の動力でもあるが、社会への深刻な脅威にもなる。危険な熱狂から身を引き剝がすために、私たちは個人に立ち帰り、歴史と対峙する必要がある。歴史観を持つべきなのは、私たち11人に求められている

()

 

 

 

コメント

このブログの人気の投稿

本当は恐ろしい万葉集  小林惠子  2012.12.17.

近代数寄者の茶会記  谷晃  2021.5.1.

小津安二郎  平山周吉  2024.5.10.