子規全集第10巻 小説 紀行 小品 故・正岡子規 2025.9.19.
2025.9.19. 子規全集第10巻 小説 紀行 小品 (非売品)
著作者 故・正岡子規
発行日 大正13年7月20日 印刷 7月25日 発行
発行所 (資)アルス 発行者 合資会社代表者 北原鐵雄
【小説】
Ø 月の都
Ø 一日物語
Ø 当世媛鏡
Ø 曼殊沙華
Ø 花枕
Ø 月見草
Ø 我が病
【紀行】
Ø かけはしの記
Ø 旅の旅の旅
Ø 大磯の月見
Ø 日光の紅葉
Ø 高尾紀行
Ø 鎌倉一見の記
Ø はて知らずの記
Ø 発句を拾うの記
Ø 上野紀行
Ø そぞろありき
Ø 王子紀行
Ø 閒遊半日
Ø 総武鉄道
Ø 夕涼み
Ø 道灌山
Ø 本郷まで
Ø 小石川まで
Ø 亀戸まで
【小品】
Ø 小園の記
Ø 車上所見
Ø 雲の日記
Ø 夢
Ø 蝶
Ø 酒
Ø 夏の夜の音
Ø 旅
Ø ゐざり車
Ø 飯待つ間
Ø 柚味噌會
Ø 闇汁図解
Ø 根岸草廬記事
Ø 熊手と提灯
Ø 病
Ø 新年雑記
Ø ラムプの影
Ø 車上の春光
Ø 明治33年10月15日記事
Ø 初夢
Ø 死後
Ø くだもの
Ø 煩悶
Ø 9月14日の朝
【小説】
Ø 月の都 明治25年
上の巻
渙亨王仮有廟利渉大川利貞
『易経』六十四卦の59.風水渙(ふうすいかん): 良いことも悪いことも離散する時
卦象:
運勢予報: 晴れたり曇ったり
卦辞: 渙。亨。王仮有廟。利渉大川。利貞。(かんはとおる。おうゆうびょうにいたる。たいせんをわたるによろし。ていによろし。)
運勢: 「渙」は散ること。「風水渙の時、通じる。王が宗廟に祖先を祀る。大川を渡っても良い。貞正であれば良い」。風水渙の時は、苦難の中 にあった人は今までの状態から解放され、悩みが退散し、長引いた問題には打開策が見出される時です。ただし、悩みのなかった人は逆に、職を追われたり一家 離散、契約のキャンセルなど、安定していたものが散らされてしまう場合があります。すなわち、吉凶ともに散ってしまう時だといえます。しかし、会社や家庭 が分裂状態になってしまったら、かえってゼロの状態から新しいスタートが可能とみなすこともできます。ですから、気持ちを引き締め、一丸となって努めれば 苦労の後の喜びが訪れることでしょう。現状を打開し挽回する絶好のチャンスと考えましょう。
第一爻
用拯馬壮吉
爻辞: 用拯。馬壯吉。(もちいてすくう。うまそうなればきち。)
対処法: 「救うのに馬が強壮であれば吉」。力が弱い時なので、力強き人の援助を急いで求めましょう。
三十一文字の徳は神明に通じ十七文字の感応は鬼神を驚かす
第二爻
渙奔其机悔亡
爻辞: 渙奔其机。悔亡。(かんそのきにはしる。くいほろぶ。)
対処法: 「机」は肘かけ。「風水渙の時、身を安んじる所に走る。悔いがなくなる」。有力者の援助を大急ぎで求める時です。基礎を固めて安定させること。
三十六鱗:鯉の別名。体側線上に鱗が36枚並ぶことに由来。「六六鱗(ろくろくりん)」や「六六魚(りくりくぎょ)」とも呼ばれる
銀泥(ぎんでい)は、銀の粉末を膠(にかわ)の水溶液で溶かして泥状にした顔料で、書画、日本画、陶芸などの分野で使われる素材です。金箔を細かく粉砕した「金泥」の銀版であり、作品に銀の輝きや高貴な美しさを与えるために、繰り返し塗布されたり、装飾に用いられたりします
第三爻
渙其躬。无悔
爻辞: 渙其躬。无悔。(そのみをかんす。くいなし。)
対処法: 「我が身を顧みずに尽くす。悔いはない」。利己心を散らして、自分の身を粉にして全力投球する時です。体裁にはこだわらないこと
第四爻
渙其群。元吉。渙有丘。匪夷所思
爻辞: 渙其群。元吉。渙有丘。匪夷所思。(そのぐんをかんす。げんきち。かんしてきゅうのごときあり。つねのおもうところにあらず。)
対処法: 「丘」は高い志。「夷」は平常の意味。「派閥を解散する。大いに吉。一度解散して新たに高きに従い集まる。凡人の考えでは及ばないことだ」。いったん解散してこそ立派な大同団結のできる時ですが、平凡な手段では効果が少ないでしょう。広い視野と大胆な行動力が求められる時です。
◎大変良い時です
第五爻
渙汗其大号。渙王居。无咎
爻辞: 渙汗其大号。渙王居。无咎。(そのたいごうをかんかんす。おうきよをかんす。とがなし。)
対処法: 「渙汗」は詔令を発すること。「大号」は大政令のこと。「王居」は王の蓄えたもの。「大政令を発して、王の蓄えたものを与えて民を苦しみから解放する。問題はない」。大きなことを行って良い時。人のために骨折ることを惜しまなければ自らも利を得ることができます。自信を持って初志を貫くこと。
◎良い時です。
第六爻
渙其血。去逖出。无咎
爻辞: 渙其血。去逖出。无咎。(そのちをかんす。さりとおくにいづ。とがなし。)
対処法: 「流血沙汰から遠ざかり、危険から遠く流れ去る。問題はない」。面倒なことから速やかに退き、安全を図る時です。「見ざる、聞かざる、いわざる」に徹すること。
「三平 二満」(さんぺいじまん)は、十分ではないものの、少しのもので満足し、心穏やかに過ごすことを意味する四字熟語です。これは、数少ない「三」や「二」にも満足できるという意味合いを含みます。また、顔・鼻・下顎の3つが平らで、両方の頬が膨らんでいる顔の意味で、おかめ・おたふくのことをいう
「八声の鶏」(やごえのとり)とは、明け方に鳴く鶏の声のことで、たびたび(八度)鳴くことからそう呼ばれます。これは、太陽を呼び起こし光明をもたらす神秘的な鳥として信じられていたためです。また、八回鳴くといわれる「一番鶏」の別名や、夜明け前の特定の時刻、またはその時刻そのものを指すこともあります
下の巻
中孚豚魚吉利渉大川利貞
『易経』六十四卦の61.風沢中孚(ふうたく ちゅうふ): 真心が人を動かす時
卦象:
運勢予報: 快晴
卦辞: 中孚。豚魚吉。利渉大川。利貞。(ちゅうふはとんぎょきち。たいせんをわたるによろし。ていによろし。)
運勢: 「中孚」は誠、真心ということ。「風沢中孚の時、豚や魚にまでその誠が及んで吉。大川を渡っても良い。貞正であれば良い」。この卦は 口(沢)と口が上からと下からと向かい 合っている姿です。誠が通じて親しみ合っています。すなわち、いかなる困難にも揺るがない固い絆で結ばれた相思相愛の姿です。ですから、風沢中孚の時は心 を開いて誠意をもって行なえば、相手にも天にも伝わり、万事順調に進みます。たとえば、会社の中では経営者と従業員が気持ちを一つにして会社を発展させて い く時ですし、私生活でも対人関係は最高に良い時です。こういう時には我を張らずに、和を大切にして事に当たることです。ただし、心に何ら真実のない人に とってはすべて裏目に出る時でしょう。
第一爻
虞吉有它不燕
爻辞: 虞吉。有它不燕。(はかればきち。だあればやすからず。)
対処法:「虞」はよく考えること。「它」は他に心を移すこと。「よく考えれば吉。他に心を移せば安きを失う」。本業を固く守る時です。心変わ りは禁物です。
◎良い時です。
第二爻
鳴鶴在陰其子和之我有好爵吾興爾靡之
爻辞: 鳴鶴在陰。其子和之。我有好爵。吾興爾靡之。
(めいかくいんにあり。そのここれにわす。われにこうしゃくあり。われなんじとこれをともにせん。)
対処法: 「爵」は盃のこと。「親鶴が山陰から鳴けば,子鶴もそれに応じて鳴く。ここに、うまい酒を盛った盃がある。ともにこの酒を飲み交わそ うではないか」。以心伝心の時です。喜びも利益も人と分かち合うことが大切です。
◎大変良い時です
第三爻
得敵或鼓或罷或泣或歌
爻辞: 得敵。或鼓。或罷。或泣。或歌。(てきをえて。あるいはつつみうち。あるいはやみ。あるいはなき。あるいはうたう。)
対処法: 「敵が現れた。太鼓を打ち鳴らす。急にやめる。あるいは、泣いたり,歌ったりする」。見境なく心が不安定で、ヒステリックな状態の時 です。何事も中途半端に終わるので、進んで事を行なわないことです。とにかく冷静になる事が肝要です。
◎あなたの考え方、進み方に問題点があります。よく反省し、改めましょう。
第四爻
月幾望馬匹亡无咎
爻辞: 月幾望。馬匹亡。无咎。(つきぼうにちかし。うまのひつうしなう。とがなし。)
対処法: 「望」は満月のこと。「匹」は仲間のこと。「月が満月に近い。馬がその連れ合いを失う。問題はない」。良くない仲間とは縁を切る時で す。私事より公事、私利より公益を優先すべし。
◎良い時です。
第五爻
有孚攣如无咎
爻辞: 有孚攣如 。无咎。(まことありれんじょ。とがなし。)
対処法: 「攣如」は手を取り合うこと。「誠があって手を取り合うようにしっかりと心を合わせて相親しむ。問題はない」。良きパートナーを得 て心を一つにする時です。協調を旨とすること。
◎大変良い時です
第六爻
翰音登于天貞凶
爻辞: 翰音登于天。貞凶。(かんいんてんにのぼる。ただしけれどもきょう。)
対処法: 「翰音」は鶏のこと。「ろくに飛べない鶏は天に昇ってもすぐ落ちる。貞正であっても凶。できもしないことを望み、実力に乏しいのに掛 け声ばかり、イキがるばかりで長続きしない時です。分をわきまえる必要があります。
◎あなたの考え方、進み方に問題点があります。よく反省し、改めましょう。
「正岡子規 月の都」で検索した際のAIによる回答
正岡子規にとって「月の都」とは、彼が1891年末から翌年にかけて執筆した小説「月の都」のことで、文学的な理想郷を表現するために用いた言葉です。子規がこの言葉を用いたのは、伝統的な文学観に基づき、浄土のような理想的な世界を描こうとしたためですが、後に俳句を革新する上で、彼が目指した写実的な世界観とは対立する側面もありました。
子規の小説「月の都」
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執筆時期と内容:
正岡子規が1891年末から翌年にかけて執筆した小説のタイトルです。
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文学的な意味:
子規は文学の美を、浄土という身近な世界観になぞらえ、「月の都」を理想郷の象徴として描こうとしました。
「月の都」が示す子規の内面
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初期の理想主義:
当時の子規は、伝統的な文学の枠に沿って、理想的な世界を描写する文学的態度を持っていました。
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後の革新との対立:
子規は後に俳句を革新する人物となりますが、「月の都」で描かれたような伝統的な美しさ、理想化された世界観は、彼の写実主義とは異なる側面を示しています。
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あらすじ(自作):
上巻は、現実世界での高木直人と水口浪子の恋の葛藤。最初は直人の片思いだったが、浪子との思いが遂げられないままに出家
下巻は、直人の出家後の世界を描く
さらしな堂(さらしなのこと検索サイト)
2011.7.16. 106号・正岡子規が描こうとした「月の都」
千曲市の観光キャッチフレーズが「芭蕉も恋する月の都」となったのを機に、NHKドラマ「坂の上の雲」に登場する近代俳句の創設者、正岡子規の「月の都」という小説に目を通してみました。これは世に打って出ようとした子規の最初の小説で、シリーズ86で少し触れたように、まだ俳句に本格的に打ち込む前の明治25年(1892)、子規が26歳のときの作品です。文語調なので幾度となく読み直し、大筋が分かりました。当地さらしな・姨捨にまつわることは何も書かれていません。しかし、子規が「月の都」という言葉にどんな世界をイメージしていたかをうかがうことができ、現代の「月の都」千曲市に参考になると思います。
恋に破れて
400字詰め原稿用紙で30枚弱の中編小説。好きになった女性が別の男と歩いているのを見て、出家する男が主人公。しかし、実は女性も主人公の男性が好きだった…。恋愛ならぬ悲恋のお話とも言えます。
物語の筋を簡潔に要約すると、これだけのことですが、「美の象徴」とみなしていた女性の不義に絶望した男は、美を「月の都」に求めます。「月の都」への旅に出るのです。旅立つに当たって「理想の美人を人間に求めしこと第一の不覚」と言っているのが印象的です。
ではその「月の都」とはどんな所か。具体的な地名が記されているわけではありません。道中の男の心境の大半を仏教の用語や世界観を引いて描いており、子規は仏である阿弥陀如来のいる「西方浄土」をイメージしていたことがうかがえます。極楽浄土、単に浄土とも言い、現代人になじみのある言葉では天国のことです。
芸術の本質は美です。文学も芸術の一つです。明治になって文学の美とは何かということに、多くの小説家たちが関心を深めており、子規もその一人でした。26歳の時点での子規が持っていた美についての考え方がこの小説に反映していると思います。
命がけでイメージ
では、なぜ子規は月の都を浄土とみなしたか。浄土は山の中にあるという日本独特の浄土観が関係していると思います。
仏教はインドで生まれ、浄土は光に満ちたはるか西のかなたにあるとされていたのですが、日本に入ってきて平安時代、源信というお坊さんが樹木など日本の山の要素を加えた日本オリジナルの浄土の世界を打ち立てました。「往生要集」という源信の書物の中で描かれているそうです。「日本人の他界観の構造」(大東俊一著、彩流社刊)という本の中で、詳しく解説されています。
この浄土観を受け平安時代末期から、阿弥陀如来がいる極楽浄土の画がたくさん描かれるようになりました。その代表的かつ先駆的なものが、左の写真、京都市左京区の永観堂禅林寺にある国宝「山越阿弥陀図」です(縦約140㌢、横約120㌢)。
山の端のくぼみの向こう側に、月を背景にした阿弥陀如来がいます。この画を見て何か感じませんか。これは当地の鏡台山からのぼる中秋の月の構図とよく似ていないでしょうか。北と南の二つの峰があるため真中が凹んで見えるのが鏡台山の特徴ですが、この画ではそれぞれの山に勢至菩薩(左)と観音菩薩(右)がいて、阿弥陀如来の脇を固めています。手前には水の流れが見えます。千曲川を思い浮かべました。
阿弥陀如来がいる画は、死んだ後の浄土の世界をイメージしやすいように描かれてきました。現代と違い、昔、人々は信仰心が深かったので、それこそ命がけで死後の浄土という世界を具体的に知りたいと思っていたはずです。この画を眺めていると、月が仏さまそのものだと言っているようにも思えます。
生きながら浄土
子規が浄土のイメージをこの画のように持っていたかどうかの直接の資料は見つかっていませんが、26歳ごろの旅をするときに被っていた菅笠には「西方十万億土巡礼」と墨書きしています(写真中央)。「西方十万億土」とは経典の一つ「阿弥陀教」の中に登場する言葉で、「十万億土」というのは、はるかかなたにある極楽浄土という意味ですから、子規は浄土と自分の目指す美の世界を関係付けて旅をしていたことがうかがえます。最初の小説を書いたときの子規にとっての文学の美とは浄土だった可能性があります。
浄土信仰が日本に広まり、約千年にわたって日本人が念じてきた極楽浄土。のちに俳句を革新する子規ですが、最初の小説では伝統に忠実に月の都を描き出そうとしたと言えます。子規は文学の美を浄土という身近な世界観になぞらえ、そのままでは仏教書になってしまうので、日本人が句歌でなじんできた「月の都」という言葉を持ち出して、自分のオリジナルの美を描き出そうとしたように思えます。
2009年の中秋(10月3日)、JR姨捨駅で「まんが松尾芭蕉の更科紀行」著者のすずき大和さんを招き観月トークショーをしました。そのときに見た鏡台山と月の光景も、今にして思えば永観堂禅林寺の「山越阿弥陀図」とそっくりです。中秋の月を見ることは、浄土を体感する経験に近いかもしれません。姨捨駅はなだらかな山の中腹に位置するので、下界が眺められます。下界を眺められるという点では、極楽にいるような錯覚も覚えます。(トークショーの様子はシリーズ104を参照)。
子規の小説の中では「さらしな・姨捨」こそ登場しませんが、子規のおかげで千曲市が「月の都」と名乗っていい大きな根拠を得ることができました。当地で、月の都にひたることは、死後の世界をイメージすることでもあるかもしれません。感受性の強い人なら、生きながら浄土にいるような感覚を覚えたとしても不思議ではないと思います。
Ø 一日物語 明治27年3~4月
春の雨夜のつれづれを額集めし34人、書灯の影に火桶を抱へて、今まで一番面白かった日嬉しかった日のことなど話し合ううち、勧められるままに話し出したという設定
仙台の玉屋という呉服屋の養子となって番頭にまで出世、小玉屋という小さな店を出させてもらう。生みの親を尋ねるが、主人もよく知らず、捨て子だったよう
玉屋の用事で羽後の横手まで行こうとしたら、何処の誰からとも分からない手紙が舞い込んできて、羽後の六郷にいるという実父から、容態が悪いので死ぬ前に遭いたいと恥を忍んで書いたという内容。ちょうどいいタイミングで、一緒に用を済ませようと汽車で横手に向かう
隣に座った妙齢の婦人が声をかけてきた、同じ横手に行くので一緒しようということになり、黒沢尻で降りて2人で人力車に乗り、女に案内されるままについていくと、横手までは遠いので、途中に自分の兄の樵小屋があるからそこで一泊していこうという
夜中に目が覚めると、屏風越しに女と男が人を殺して金を奪う算段をしているのが聞こえる
てっきり自分の事だと思って、まんじりともせず翌朝早く家を出ると、男が追ってきて、実父の事をよく知っているという。家まで送ってもらうと兄姉たちが父親の枕辺に座って涙に暮れている。1時間前に息を引き取ったという
「正岡子規 一日物語」で検索した際のAIによる回答
正岡子規の「一日物語」は、明治時代に書かれた西和賀町(現在の岩手県)を舞台とした小説の名前です。子規は明治26年にこの地を訪れ、病気療養のため湯本温泉に投宿し、そこでの経験をもとに小説を執筆しました。この小説は、東京に戻った後、子規が編集責任者を務める新聞に発表されたもので、この小説にちなんで地元の銘菓も「一日物語」と名付けられています。
小説の背景
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旅と執筆:
正岡子規は明治26年(1893年)の東北旅行中に、秋田県六郷町を経て岩手の西和賀町湯本温泉に投宿しました。
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温泉と自然:
この地で子規は「山の温泉や裸の上の天の河」「秋風や人あらわなる山の宿」といった句を詠みました。
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『はてしらずの記』:
翌朝、子規は人力車で和賀川沿いに下り、その道中記である『はてしらずの記』にこの地の情景や体験を記しました。
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小説『一日物語』:
帰京後、子規はこの経験を基に、西和賀町を舞台とした短編小説『一日物語』を書き上げ、自身の新聞「小日本」に発表しました。
「一日物語」が銘菓となった経緯
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地元の銘菓:
西和賀町の特産品である銘菓も「一日物語」と名付けられ、地元産牛乳と黒胡麻を使ったラング・ド・シャタイプのクッキーとして販売されています。
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物語にちなんだ命名:
この銘菓は、正岡子規が当地を舞台に執筆した小説「一日物語」にちなんで名付けられました。
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句碑の存在:
西和賀町には、子規が詠んだ句の句碑も建てられています。
蜩や夕日の里は見えながら
山の温泉や裸の上の天の河
「はてしらずの記」より
明治二十六年、秋田県六郷町を経て当地(現西和賀町湯本温泉)に投宿した文豪正岡子規は
「山の温泉(ゆ)や裸の上の天の河」 「秋風や人あらわなる山の宿」などの句を詠み、翌朝人力車に乗って和賀川に沿ってくだります。
その道中《はてしらずの記》に次の一節が記してあります。
『ここより杉名畑に至る六・七里の間、山迫り河急に樹緑にして水青し、風光絶佳掏すべく誠に近国無比の勝地なり』
東京に戻った子規は後日、自らが編集責任者を務める新聞「小日本」に当地を舞台にした小説『一日物語』を発表しました。
子規のたどった道々は今は湯田ダムにより湖底に姿を消しましたが、
錦秋湖に沿ってつくられた国道107号線は現在「子規ライン」と名づけられ秋田と岩手を繋いでいます。
その小説名を冠した当商品は、地元産湯田牛乳を始め厳選された原材料を使い
毎日一枚一枚手づくりで焼き上げたラング・ド・シャタイプのクッキーです。
フレッシュバターと黒胡麻のハーモニー、サクサクとした食感をご賞味ください。
Ø 当世媛鏡(とうせいひめかがみ) 明治27年6~7月
2人の彰義隊の生き残りで、母親のいる1人息子と両親に死なれた1人娘が幼馴染みで一緒になるが、財産を騙し取られて大学に通う1人息子のために1人娘は大磯の料亭に奉公に出る。娘は自分の叔母でもある1人息子の母親が病に倒れたとの知らせで暇を願い出るが認められず、料亭を飛び出して1人東京へ向かう道中難渋しているところを東京の裕福な学生に助けられ、その家に厄介になる。1人息子に近況を書いて知らせ、身から出た錆とはいえ、自らの過ちを詫び、裕福な学生の妹と結婚して、出世してくれと伝える。男からは返事が来て妹と結婚するが、1人娘も学生と結婚してはどうかと言われ、それ程呑気な心と思われし悔しさに激怒、髷を落として仏門に帰依
「糟糠(そうこう)の妻は堂(どう)より下(くだ)さず」とは、貧しい時代から苦労を共にし、支えてくれた妻を、富貴になっても蔑ろにしてはならない、という意味の諺です。中国の後漢時代、光武帝が家臣の宋弘(そうこう)に姉を再婚させようとした際、宋弘が「貧しい時の友を忘れてはならない、糟糠の妻は堂より下さず」と答えた故事に由来
「落花心あれば流水も情ある習い」(らっかしんあればりゅうすいもじょうある)は、散りゆく花に水が流れ寄り添うように、片方に相手を思う気持ちがあれば、相手にもそれを受け止めようという気持ちが生まれ、相思相愛の情が通じ合うことを意味します。落花流水の情
Ø 曼殊沙華 明治30年カ
領内第一の富豪、方1町を塗塀に囲い廻し、300年来の蔵の壁の桔梗の紋は此処の名物の随一と言われて、変らぬ者の譬えに引かれるくらい。惣領息子はその名も玉枝とて女のような優しい生まれ、今年16,7の花盛り。固より賢く慈悲深く、学問さえすぐれて居るが、日頃の塞ぎ様。街の花売り娘に心惹かれる。心配した親が相手を見つけて結婚させるが、三々九度の終ったその夜、暴風雨襲来。花売り娘のことが思い出されて、花嫁を殺そうとまで考えるが、戸外の泣き声を耳にして嵐の中に飛び出す
玉枝が気が付いた時にはわが家の座敷に寝かされ、夜になると譫言を言い、気がふれた様な振舞に及ぶ。その後花売りの声を聞いた者は1人もいない
玉枝とは、玉井玉枝? 子規が弟分のようにして可愛がっていた。『我が病』参照
ブログ 2016.9.19.
夢幻の恋――正岡子規「曼珠沙華」
富裕な旧家の惣領息子が恋をする。
相手は、花売りの少女。非人、乞食と蔑まれる蛇つかいの娘だ。
実るはずのない、夢と現の境を彷徨うような恋。
息子の異変を案じた両親は、良家の令嬢を少年の嫁に迎えようとする。
婚礼の夜は、大嵐になった。
少年は、窓の外に、少女の声を聞く。
新妻を置いて、嵐の中に出て行く少年。
暴風の中をさまよい、鳴神や天狗の声を聞く。
人の世で忌避される非人には、神や魔物と通じる力があるのだろうか。
花売りの少女の悲しみが、神や魔物の怒りをかったのだろうか。
少年は、嵐の中に倒れ、その後、病みつき、気がふれてしまう。
花売りの少女は、何処かへ姿を消した。
曼珠沙華の赤、桔梗の紫や白、金色の蛇……、色彩豊かな、美しい、幻想的な、張り詰めた文章。
病床で嵐の音を聞きながら、子規は、この物語を書いたのだろうか。
咳きあげて吐く鮮血に、曼珠沙華の色を重ねて。
Ø 花枕 明治30年4月
光と匂という神の子2人、花を集めて枕元を飾る
継母に折檻されながら育った姉妹2人。姉が森に迷い込んで花を摘む
その娘を救って天に連れて行こうと誘ったが、娘は妹も連れて行かねばと誘いを振り切ったところで目が覚める
岩波書店 ホームページ
正岡子規の文学史上の業績として,和歌俳句におけるそれとともに,散文芸術における,いわゆる写生文の創造者としての業績を挙げねばならない.本書は絢爛たる浪漫的な散文詩ともいうべき「花枕」および「月の都」のほかに,写生文の前駆的作品とみられる「曼珠沙華」の3篇を収めた.解説=岡麓
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文学者は、みな小説家になりたがる。短詩形の詩歌は短いが、小説は長いから原稿料が入りやすいからだろう。もちろん正岡子規も、あの石川啄木も、小説家になりたかったのだが、事志と違って、その代わりにというては何だが、もっと物凄い存在になり上がってしまった。
しかし子規は病気で政治家を諦めて文学に転出してからも、のちの漱石のような流行作家になりたかったのは間違いない。
そんな子規であったが、2本の未完作を含めて、生涯で7つの小説を書いていて、この文庫本では、処女作の「月の都」(明治25年大学時代に執筆、発表は27年)と「花枕」(明治30年3月)、「曼珠沙華」(明治30年9月)、の3つの短編が読める。
「月の都」は、相思相愛の若い男女が、ついに結ばれずに月の都へ逝ってしまうという悲恋幻想物語で、漱石の虞美人草を凌ぐ巧緻を極めた漢文脈の文語体で綴られているが、いくらこれでもか、これでもかと名調子の美文を並べても、肝心の内容自体が幼稚なので、これを読まされた幸田露伴が推薦を尻込みしたのは理解できる。
けれども、もし子規が「月の都」を現実派の露伴ではなく、理想派の鴎外に持ち込んでいたなら、別の道が開けていたかも、と思わないでもない。
3年後の「花枕」も哀しい幻想小説で、継母に苛められている貧しい花売娘を2人の天使が救おうとするが、姉も一緒にと願うために果たせないという悲話であり、後年子規が激賞した一葉に比べると物語のプロットが弱すぎる。
「花枕」と同じ年に執筆された「曼珠沙華」も、花売り娘がヒロインの悲恋小説であるが、これは短編というよりも中編で、しかも発展途上中の口語体で書かれている。
ここでは娘を好きな癖に、親に言われるがままに富豪の子女を娶ろうとする気の弱い主人公の揺れ動く心中が、写生文で描き出されていてちょっと二葉亭四迷の「浮雲」を思わせるが、物語の結末は、横山大観の画のごとく朦朧としている。
しかしそういう構造的な欠陥はありつつも、子規の小説の随所に読みどころはあり、万が一彼の健康と長寿、さうして同時代の良き指導鞭撻者を得たならば、詩歌以上の傑作を生みだした可能性は、なきにしもあらずと思えるのである。
Ø 月見草 明治30年4月カ
勝海正美は、2,3カ月前より須磨の裏の旅館の一間に肺病、の養生で来ている。法学士でまだ24,5歳。ある日裏山に登った帰りに疲れて浜辺に伏していると少女に声を掛けられたが断ったものの、後からもう一度会って礼を言いたいと思い、翌日から同じ時刻に浜に出ると少女が波間に見え、上りかけた月が少女の頭光の如く見える。月が雲間に入ると少女も見えなくなり、その後は現われず
正美は関西の生まれ。高畑権二郎とは郷貫(本籍)が同じ、小学校から大学法科まで一緒、常に一番を争う。小学校の頃の将棋では負けたが、大学は一番で卒業し、卒業後の洋行を命じられるが、病魔(二豎:にじゅ)に遭って洋行の途にも上らず、終に須磨に遊ぶ身の上とはなりぬ (未完稿)
一の谷は、正岡子規の聖地!? 『寒山落木』の句と、小説『月見草』。
2024年12月3日 00:10
正岡子規の『月見草』(『子規小説集』俳書堂、明治39年)に『寒山落木 巻四』(アルス、明治28年)にある子規が一の谷で詠んだと思われる句を加えてみた。
壹
うれしさに涼しさに須磨の恋しさに
涼しさや波打つ際の藻汐草
汽車過ぎて烟うづまく若葉哉
立ち出でて蕎麦屋の門の朧月
敦盛の塚に桜もなかりけり
入口に麦干す家や古簾
松涼し海に向いたる一くるわ
涼しさや二階をめぐる松の風
鈴蟲や風呂場灯消えて松の月
孑孑や須磨の宿屋の手水鉢
藻塩垂れつつ侘ぶといひし須磨は海水浴の名所と変じて、蜑(あま)が焼く煙と見れば汽車の過ぎ行く世の中、敦盛の塚は猶蕎麦屋を残し、古き家の檐端に疎き簾を垂れけるこそせめては昔を忍ぶたよりなれ。西須磨を西に離れて二の谷と三の谷の間に須磨館と呼べる旅籠屋は板塀の長さ一町に余りて松林の間所々にいくつも楼を造り、風呂場あり、玉突場あり、小憩所あり、一棟を借るべく、一間を借るべく、一夜を宿るべく、一年を住むべく、賄いを受くべく、自炊すべく、極めて客に便利を主とせり、山を負ひ海に臨み松多く気清きに況して須磨病院と隣りければ此処に来て二年三年と足を留むる者多くは肺病患者――無闇に痰を吐き散らしてあたら名所を汚す厄介者と世人よりは嫌はるる肺病患者なり。此内の第一号とて最も東に立てる棟の一間を借りて二三ヶ月前より例の病を養ひ居る勝海正美といへる男あり。年頃二十四五、昔の美少年の面影は黒き眉と通りたる鼻とに残れども、目うるみ頬こけて色の青ざめたる、三年前に彼を見たる者今は此半死の勝海を認むる能はざるべし、法学士の称号は法律書経済書と共に東京の行李の中にしまひ込んで、身一つを須磨の景色にも稗史小説にも慰めかねたる此頃、昼の暑さを通り過して海風袂を吹くたそがれ時、杖に倚りて磯辺を歩行くより外に楽みはなし。
夏山のこゝもかしこも名所哉
涼しさや内裏のあとの小笹原
牡丹咲く賤が垣根か内裏跡
物凄き平家の墓や木下闇
撫子に蝶々白し誰の魂
ある夕、正美は後の山に上らんと胆太くも思ひ定めて林の中、岡の上などあちこちと迷ひありきし末、やうやう停車場近き処に出でしに、さらば浜辺伝ひに帰らんと波打ち際へ出でて見渡せば日ははや全く暮れて、五日頃の月は山の端に落ちなんとす。海水浴の人は皆去りて波の音より外に聞く者も無く疲れたる足に砂踏み悩みて喘ぎ喘ぎ行く程に次第に息逼まりて苦しければ得堪へず其処に打ち倒れぬ。しばしは急く息に苦しく、やがて胸少し静まりて後も疲労甚だしければ身動きもせで伏しけるに、足音しとしととして我に近き稍ためらひしが又徐ろに寄りて「何うかなされましたか」と若き女の声にていふ「イエ、何うもしません、少し苦しかつたので寝て居るばかりの事です」「何処でございますか、お宿迄左様申して参りませうか」「イエ、それには及びません」「それでも砂の上では冷えますから御体に障るといけません」「有り難うございますが、構はずに置いて下さい、最う善いのです」今迄は眼を開く力も無くて、只受け答許りせしが少し頭を擡げて其方を見んとすれば、女はあわただしく暇乞ひして走り去りぬ。ちらと見えし白き単衣の後姿もて推するに、女は海水浴の帰りなりと思しく、さては不様なる形を人に見せじと急ぎ隠れしものならん。
朧月須磨の釣舟ありやなし
名どころや海手に細き夏の月
月昇る紀伊と和泉の堺より
須磨の海の西に流れて月夜哉
砂濱や何に火を焚く夏の月
すゞしさを足に砕けて須磨の波
帷子や須磨は松風松の雨
正美はようよう力づきて宿に帰りぬ。翌の日は心地悪しくて外に出でず。其次の日の夕方、少しく熱の上り居るをも忘れて門を出て鉄軌を踏み切りて浜に下りたり。前日吾をいたはりくれし少女の顔も見ず名も聞かざりしこと悔しく、あながちに逢ふて礼を言はんとの心にもあらねど、何とは無き心苦しさに、余所ながら尋ねて見んと東に向いて辿り行けば、先の日と同じ時頃なるからに散歩の人も海水浴の人も見えぬに、彼方の浜近く波の中に立てる人あり。薄き月の光を片頬に受けて身動きもせぬは慥に少女なり。夜目遠くほのめく顔の光、明かに見えねばや、猶気高く神々しく乙姫などいふ女神の出現せしかとも思はれぬ。吾に物言ひかけしも此少女にはあらずやと疑はるる儘、少しづつ其方に近よれば、少女は人ありと悟りけん、直ちに砂を蹴て走り去りぬ。少し隔たりし旅籠屋の裏門より入りしとは見ゆれど何処とも見定めず。其後毎日同じ時刻をはからひて行けば何時も彼少女に逢はぬ時なし。近よりて驚かさんはさすがにて、土手の陰に潜み、あるは浜辺の仮小屋の中より窺ひなどする許りなれば終に其帰る所を得窮めず。今は只訳もなく其人なつかしく、ある夕小雨さへ降りしに、されとて其時刻に行かざらんは安心からねば、傘さして浜辺に立ち出でしに空もやもやと曇りて黒白も分からず。されども若し其の人の在らんかと例の処まで抜き足して近よれど影もなし。猶疑はしくて海の際へ進み出で闇に透かせど目に障る者もなくて、足もとにちょろちょろと寄る波白く音あり。失望して帰りぬ。
次の夜も小雨猶降りやまで、波の音荒く第一号の棟に聞ゆる程なれば、今宵はとて行かず。燈火に日記など書きつけ居しが兎角に面影目に立ちて、今宵若し浜に行かば見得たりけんなど思はれ、其夜は善く寝られず。
読みさして月が出るなり須磨の巻
藍色の海の上なり須磨の月
七夕やおよそやもめの涙雨
船に寝て星の別を見る夜哉
もしほたるゝ京の娘のおよぎ哉
翌日空うつくしく晴れて日落るより星一つ二つ輝き初むる頃例の処に行きぬ。在り、在り、女神は既に在り。乳より上を波の上に現して、白き単衣を着たるが汐に濡れたればさながら肉体の如し、髪は振りさばきて後ろに垂らしたるが端は波に浸りたらん、今しも少女は彼方を向きて静かに沖を見つめ居たるが、東の方雲少し破れて、鏡の如き十六夜の月は少女の胸より上がりぬ。平に幅広き波のふわりと寄せ来る、波は一面にふくれる、少女も波につれてふわりと浮く。月は今少女の頭光の如く見ゆ。嗚呼、神、神、よも人間にてはあらじ。
少女も動かず、正美も動かず。月独り動きて少女の頭を離るる時雲に入りかかれば少女は見えずなりぬ。正美は雲間をのみ眺めぬ。ようようにして月は再び雲を出でぬ。金龍波を走りて海一面に照らせども少女ははや見えざりき。
次の夜も其次の夜も少女は見えず。宵闇に紛れて浜近く行きて見れど在らず。十日許りつづけて行きたれど逢はず。正美も今は出ずなりぬ。
夕涼み仲居に文字を習はする
梶の葉に書きなやみたる女哉
七夕に草履を貸すや小傾城
稲妻に紅粉つけて居る遊女哉
ちかづきの仲居も居らず秋の暮
貳
ものうさや手すりに倚れば萩の花
涼しさや松の葉ごしの帆掛船
涼しさや松の木末を走る真帆
夜や更けぬ蚊帳に近き波の音
真夜中や涼みも過ぎて波の音
暁や白帆過ぎ行く蚊帳の外
毎晩同じ時刻になれば正美は欄干にもたれて闇の木の間より海を見ることになり居りしが、其も何時しかにやみぬ。女神の面影も次第に薄らぎて、ラムプの陰に幻影を見るやうな事も無くなりしが、只無聊に困じはてて、長き日の暮しやうを考へるより外に暮しやうを考へるより外に暮しやうも無かりき。
小き女の何やら風呂敷に包みたるを提げて廊下にかしこまり「写真は宜しうござりますか」といふ。何事にてもあれかしと思ふ折柄なれば「写真とはどんな写真だ、出して見せろ」と言へば風呂敷を解いて写真を並べる。何れも須磨の景色なれば此処に住む身は珍しからねど、他日の話の料にもと四五枚買ひ求めね「これは何処の写真だ」「それは須磨館でござります」「此内の写真か、しかも第一号だな、宜しいこれも買つた」と言へば外の写真を片付けながら「有難うござります」と挨拶して帰りぬ。
ある人の平家贔屓や夕涼
赤蜻蛉飛ぶや平家のちりぢりに
涼しさや平家亡びし波の音
敦盛の笛聞こえけり朧月
為る事もなくてうとうとと昼寝の枕に就けば何やら夢を驚かす声あり。誰そと問うへば貸本屋なり。やをら起きて何があると見るに大方は田舎向の探偵小説か、さらずば大阪出版の小説類のみ。其中に二三冊伝記者ありしを撰り出でて朝夕の伽とす。伝記は古英雄の事業を描き出だししからに、初めは慰みがてらに読みしものの果は本気になりて覚えず膝を打ち腕を扼することさへ少からず。アア老いたり、勝海正美。百折撓まず水火の中に飛び込んでも一大事業を為し遂げんと思ひしものを、あたら二豎のために困められて、人生の定め其半をも過ぎざるに、はや気息奄々として力将に尽きんとする哀れさよ。一難を経る毎に百倍し来ると誇りし勇気も或は青松白砂の間に葬られて一本の線香手向くる人だになき最後とやなり了らん。敦盛は無惨の死を遂げたれども彼は死すべき時を得て千歳の下佳名を博し得たり。磨けば玉になる石の凡石と伍して同じやうに苔など生ひたらんには固より玉ありとはいかで知らるべき。一個の高畑にだに劣る――才に於て学に於て敢て劣れりとは信ぜざれども、健康に於て彼に劣りたる吾は終に事業に於ても彼に劣るべし。已んぬるかな。一朝病魔に襲はれて万事休す。嗚呼。
正美は関西の生れにて高畑権二郎なる友とは郷貫を同じくし年齢を同じくし小学校を同じくし大学をさへ同じくして同年に同じ法科を卒業せり。竹馬の交り親しき中にもおのづと競争の心起りて何事につけても負けず劣らず勉強する事となりぬ。二人ともまだ小学校に通ひ居る頃なりけん、ある時打ち寄りて将棋など試みけるに、兎角に正美の方斯る術に拙くて負け続けけるにぞ、悔しき事譬へんに物無く、将棋はてて後、おのれは大人になりなば大学を一番で卒業して天下一の人とならんといふ。正美腹立てて、二人とも一番にならんとせば誰か一番になるべき。二人とも天下一となりなば天下一の中でもどちらがえらかるべきと言へば、権二郎も声を励して、一番は一人なり、天下一も一人なり、吾は兎に角に一番になり、天下一になるべし。イヤ吾こそ一番なれ、天下一なれ。イヤ吾こそと互みに言ひ争へる末、色を変へて分かれけるが、童のいさかひ珍しき事にもあらねば、翌の日より変ることなく親しく遊びしかども、二人とも此時より競争心はいよいよ盛にぞ起りける。
されど二人の性行はいたく相反せり。正美は狷介にして人と合はぬ代りに極めて正直なり。権二郎は交際術に長じ一見人をそらさぬ風あるからに、なかなかに表裏あるを免れず。容貌さへも正美は色白く痩せたるに、権二郎は色黒く肥えたり。二人とも大学に入りて等しく勉めけれども学才は正美の方優りけん常に第一位を占め、卒業にも猶一位を占めたり。正美は学術優等の廉を以て卒業後直ちに洋行を命ぜられぬ。是に於て見事権二郎との角力には勝ちたりと独り喜ぶ時、好事魔多く、病に冒されて彼は洋行の途にも上らず、終に須磨に遊ぶ身の上とはなりぬ。勢力全く消耗して自ら快復の見込みなしと見へる程なれば
名所に秋風吹きぬ歌よまん
人もなし木陰の椅子の散松葉
秋立てば淋し立たねばあつくるし
秋立つと何を雀の早合点
けさの秋きのふの物を取られけり
ののしりし人静まりてけさの秋
秋立つやほろりと落ちし蝉の殻
旅人の盗人に逢ひぬ須磨の秋
淋しさや盗人はやる須磨の秋
青々と猶淋しさよ須磨の秋
来て見れば風が吹くなり須磨の秋
人も居らずほこりも立たず秋の風
人去つてすがすがしさよ須磨の秋
須磨に更けて奈良に行く秋あら淋し
正岡子規といえば、
柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺
が有名だが、彼の一の谷への思い入れは、奈良とは比べものにならない気がする。子規の一の谷での作品を読んでいると、子規は一の谷に恋をして・・・、いや、一の谷で恋をしていたような気がしてきた。
一の谷が、正岡子規ファンの聖地巡礼地になっていないのが不思議だ。
Ø 我が病 明治33年3月
第1回
右には箕輪の人家が田圃越しに見えて千住あたりの煙突が2つ3つ
左手は谷中の森のはづれに天王寺の塔と銀杏の樹が同じ高さに並んでいる處から一直線に北に向かって王子の方へ走っている丘の景色が何となく気に入った景色
正面には三河島村の木立がむらむらと立っている
新聞社で文学欄を担当しているがために従軍が出来ぬといふのは実に情無い
第2回
明治28年2月、従軍が決まる。嬉しさは今更言ふまでもない。10年許前に上京を許された嬉しさ已来。医者も周囲も止めたが、人手不足の新聞社が予の願いを採用してくれた
暇乞いの挨拶で、最初に弟のように可愛がっていた玉井玉枝に、自分が死んだら跡を継いで立派な文学者になれと言い置き、その後新聞社で同僚の五十嵐の家で送別の縁をしてもらう。玉枝が思いを寄せる五十嵐の妹との事を頼もうと思っていたら、先に嫁に持らってくれと言われ、手編みのシャツまで選別に貰う
若し五十嵐から強要されたら何と答へたか。「かへらじとかねて思へば梓弓」といふ気取りで断ったら失望するし妹は泣くだろう。それで死んだら妹は弁内侍になる。結婚を承諾して儀式の盃だけ済ませ離別の情を語り明かして出立を延ばせば、勾当内侍にあたる
「大ぬさの引く手あまた」とは、お祓いの道具である大幣(おおぬさ)のように、多くの人から求められる状態を指す言葉です。これは古典である『伊勢物語』に由来する表現で、多くの人に引っ張りだこになること、または多くの人に好意を持たれる「モテモテの状態」を意味
ぶ‐ま【不間】 ... [名・形動]気がきかず、間が抜けていること。また、そのさま。へま。「ぶまな挨拶」
かへらじとかねて思へば梓弓なき数にいる名をぞとどむるこの歌の作者は南北朝時代の武将「楠木正行です。南朝のために戦い、北朝側の軍に幾度も勝利を収めました。しかし高師直率いる大軍との戦いでついに敗れ、自害したと伝えられています。この歌の出典は「太平記」。意味は「生きて帰ることはないと決意していたから、死者の仲間入りをする自分達の名を書き残しておくのだ。」この歌は合戦の前に詠まれたもので、「太平記」によると楠木正行は勝ち目のない戦いだと考えていたようです。歌には、戦って死ぬのだという覚悟と決意が表されています。
弁内侍(べんのないし)は、南北朝時代における南朝の女官。楠木正行との悲恋伝説で知られる。日野俊基の遺児。後醍醐天皇の後宮に女官として務め、南朝随一を誇る絶世の美女
勾当内侍(こうとうのないし)は、南北朝時代の女官。公家の世尊寺家の一族で、新田義貞の妻の一人。後醍醐天皇の討幕運動に加わり、鎌倉陥落に功績のあった上野国の新田義貞へ天皇から恩賞として与えられ、彼の妻になったといわれる。建武3年(1336年)初頭、新田義貞は建武政権から離反した足利尊氏を楠木正成や北畠顕家らとともに京都で破り、足利尊氏らは九州へ逃れたが、義貞は尊氏追撃を行わなかった。その理由として、勾当内侍との別れを惜しみ、出兵する時期を逃したとして、彼女が結果的に義貞の滅亡の遠因を作ったとする描き方がされている。勾当内侍は杣山(福井県南条町(現・南越前町))においてその戦死を知り、京で獄門にかけられた新田義貞の首級を目にして落飾して比丘尼になった
第3回
皆に見送られて広島の大本営に向かひ1カ月余り滞在の後、馬関の停戦交渉が始まったにもかかわらず、一行7人にて大連に向かう
第4回
金州城に入る。旅順にも遊びに行く
(未完稿)
「正岡子規 我が病」で検索した際のAIによる回答
正岡子規の「我が病」とは、彼が晩年に罹患した脊椎カリエスと肺結核を指し、特に脊椎カリエスによって長期間の臥床生活を送りながらも、病床から見た草木や自身の心情を赤裸々に記した随筆『病牀六尺』などで、その文学的営みと闘病生活が世に知られています。子規は激しい身体的苦痛と闘いながらも、病を「楽しむ」という境地に至り、障害を受容し、逆境の中で人間性を創造しました。
病状と生活の変化
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罹患と診断:
明治29年(1896年)に脊椎カリエス(結核菌が原因で骨髄を侵す病)と診断されました。肺結核も患っており、最終的な死因となります。
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臥床生活と苦痛:
激しい痛みが背中や腰を襲い、臀部や背中に穴が開いて膿が流れる状態でした。寝返りも打てず、モルヒネを助けに眠る日々でした。
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文学活動の継続:
寝たきりの生活が続き、歩行も困難になりました。しかし、そのような中でも彼は家族や弟子たちの協力を得て、口述筆記などで短歌や随筆、写生画を発表し続けました。
『病牀六尺』にみられる闘病と生き様
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狭い世界からの観察:
『病牀六尺』は、その狭い病床から見た外界や内面の世界を記録した随筆です。
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障害の受容と肯定:
障害という逆境を受け入れ、なお自己の価値を創造する過程が記されています。病苦の中で花や草木を観察し、生命の輝きに触れることで、悲観的な状況を乗り越えようとしました。
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周囲との相互作用:
家族、友人、弟子が身の回りの世話や環境整備を行い、子規の病床生活を支えました。病室の障子がガラス戸になり、庭の草花が見えるようになったことが、子規の心に大きな影響を与えたとも言われます。
子規の「病」が示したこと
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人間性の創造:
子規の生き方は、人間が逆境の中でも創造的な力を発揮できることを示しています。
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障害に対する理解:
障害者に対する知的な、そして情緒的な働きかけの重要性を示し、社会的な偏見が相対的なものであることを具体的に示しました
【紀行】
Ø かけはしの記 明治24年6月
明治24(1891)年6月25日、子規は学校の試験を途中で放棄し、草鞋ばきに菅笠をかぶっての旅を試みました。軽井沢から善光寺に入り、松本街道から木曽路を巡る旅です。木曽路は、子規が熱中していた坪内逍遥の『風流仏』の舞台のため、いきたいと考えていたようです。明治34(1901)年、「ホトトギス」に掲載された『くだもの』には「明治廿四年六月の事であった。学校の試験も切迫して来るのでいよいよ脳が悪くなった。これでは試験も受けられぬというので試験の済まぬ内に余は帰国する事に定めた(四月二十五日)」とあります。木曽路を歩いてから松山に帰郷しようという算段でした。
6月25日 木曽旅行 上野 横川 笛吹峠 軽井沢
26日 長野善光寺 川中島 篠井 稲荷山
27日 松本街道
28日 立峠 松本 原新田 洗馬 本山
29日 桜沢 木曽 奈良井の茶屋 鳥居峠 籔原 木曽川
30日 棧橋(かけはし)
7月 1日 野尻 見留野 妻篭 馬篭峠
2日 美濃路 余戸村
3日 御嵩 伏見
4日 船で木曽川 犬山城 木曽川停車場 (以下8月24日まで松山)
腰を屈めての辛苦艱難も世を逃れての自由気儘も固より同じ煩悩の意馬心猿(いばしんえん、欲情がどうにも抑えにくいこと)と知らぬが仏の御力を杖にたのみてよろよろと病の足元覚束なく草鞋の緒も結びあへで急ぎ都を立ち出でぬ
五月雨に菅の笠ぬぐ別れ哉
知己の諸子ははなむけの詩文をたまはる
ほとゝきすすみ山にこもる声きゝて木曽のかけはしうちわたるらん 伽羅生
碧梧桐子の文に
日と雨を菅笠の一重に担い山と川を竹杖の一旦にひっさげ木賃を宿とし馬子を友とし浮世の塵を離れて仙人の二の舞をまねられ単身岐蘇路を過ぎて焦れ公恋ふ故郷へ旅立ちさるるよし嬉しきやうにてうれしからず悲しきやうにて悲しからず。願はくは足を強くし顔を焦して昔の我君にはあらざりけりと故郷人にいはれ給はん事を。山ものいはず川語らず。ここに贐(はなむけ)の文を奉りて御首途を送りまゐらす
五月雨や木曾は一段の碓氷嶽
上野より汽車にて横川へ。馬車笛吹嶺を渉る。遥かにこしかたを見かへるに山又山峩々として路いづくにかある
軽井沢はさすがに夏猶寒く透間もる浅間おろしに一重の旅衣、見はてぬ夢を護るに難かり
山々は萌黄浅葱(あさぎ色)やほとゝぎす
汽車を駆りて善光寺に詣づ。川中島から篠井に戻る。さらに進んで稲荷山へ。姥捨てから(猿ケ)馬場峠、聖高原を経て、乱橋に泊まる。翌日は急峻な立峠へ。馬子に勧められて馬に乗って峠越え。松本から原新田まで3里は馬車。塩尻を超えて洗馬にて泊。桜沢を過ぎれば、ここぞ木曽の山入り
やさしくもあやめさきけり木曽の山
奈良井の茶屋に息ひて茱萸(ぐみ)はなきかと問へば知り侍らず。珊瑚實(さんごじつ)なら背戸(せど、裏門)にありといふ裏に廻れば矢張り茱萸なり
峡中第一の難所という鳥居嶺は若葉の風に夢を薫らせて痩せ馬の力に面白う攀じ登る
山を下れば薮原の駅。更に木曽川に沿って下ると宮の越村。日照山徳音寺に行き木曽宣公の碑の石摺1枚求む。福島泊。木曽第一の繁昌なりとぞ。桟橋では、見る目危うき両岸の岩ほ数十丈の高さに劉(き)りなしたるさま一双の屏風を押し立てたるが如し
上松を過ぐれば程なく寝覚の里。浦島太郎が龍宮より帰りて後に釣を垂れし跡なり
寝覚の床(ねざめのとこ)は、長野県木曽郡上松町にある景勝地。日本五大名峡の一つ。木曽川の水流によって花崗岩が侵食されてできた自然地形である。1923年に国の名勝に指定
5,6里も下ると須原宿。名物の花箱を購ひ泊まる。野尻から三留野(みどの)を過ぎ、妻籠からは岐蘇河とも別れ徒歩で馬籠峠を越える。美濃路に入り餘戸村に宿る。伏見?から舟に乗り、木曽河第一の難所(恵那峡? 太田の渡し?)を無事越えて犬山城の下を過ぐれば両岸遠く離れて白沙涯なく帆々相追ふて廻灘を下るを見るのみ。舟を降り木曾停車場(木曽川駅?)に至る。此旅竟に膝栗毛の極意を以て終れり
信濃なる木曾の旅路を人問はゞたゞ白雲のたつとこたへよ
正岡子規「かけはしの記」より 善光寺街道・乱橋宿
戸倉上山田温泉笹屋ホテル 掲載日/2011年4月
明治24年、東京大学の学生だった正岡子規は善光寺を参拝した後、善行寺街道、木曽路を通り、愛媛県の松山に帰る旅をしました。すでに病にかかっていましたが、稲荷山宿から猿ヶ番場峠(聖高原)を越え、麻績宿、青柳宿と歩き、難所立峠手前の乱橋に宿を取ります。乱橋は青柳宿と会田宿の中間にある間の宿(あいのしゅく)です。紀行文「かけはしの記」には、「乱橋というあやしき小村に足をとどむ」と書かれています。
「あやしき小村」とは、どんな村だったのか―
訪れてみると、峠に向かって伸びた坂沿いに切妻・土壁の家並みが連なり、苔むした路傍の石仏や石垣に、かつて善光寺詣での旅人たちが行き交っていたころの名残をとどめています。
「乱橋」という地名の由来は定かではありませんが、「弥陀の橋」という説があります。急峻な立峠を越えた旅人の目には天国への入口に見えたのか、あるいは信心深い里だったのか…。病弱な身体で、峠の多い善行寺街道を歩く旅は命がけだったと思われます。翌朝は馬に乗って、花を愛でながら「旅ほど気楽なものはなし」と立峠を越えた子規にとって、乱橋は旅の「救い」になったのかもしれません。
Ø 旅の旅の旅 明治25年10月
汽笛一声京城を後にして53亭1日に見盡すとも水村山郭(すいそんさんかく、水辺の村と山里)の絶風光は雲煙過眼よりも脆く写真屋の看板に名所古跡を見るよりも猶はかなく一瞥の後また跡かたを留めず。これを指して旅といふ。かかる旅は夢と異なるなきなり
旅の旅その又旅の秋の風
国府津小田原は一生懸命にかけぬけてはや箱根路へかかればなんとなく行脚の心の中うれしく秋の短き日は全く暮れながら谷川の音、耳を洗ふて煙霧模糊の間に白露光あり
湯元にて客引きに引かれるままに行けばいとむさくろしき家なり。やや落胆したるがままよこれこそ風流のまじめ行脚の真面目なれ。よもすがら雨と聞きしも筧の音、谷川の響きなりしものをとはや山深き心地ぞすなる。瀧の水朝日にきらつくに鶺鴒の小岩づたひに飛ありくは逃ぐるにやあらん。箱根街道のぼり行けは鵯(ひよどり)の声左右にかしましく。病みつかれたる身の一足のぼりては一息ほっとつき一坂のぼりては巌端に尻をやすむ。駕籠昇の頻りに駕籠をすすむるを耳にもかけず吟じつつ行けば、二子山鼻先に近し
千里の山嶺を攀じ幾片の白雲を踏み砕きて上り著きたる山の頂に鏡を磨ぎ出せる蘆ノ湖を見そめし時の心ひろさよ。餘りの絶景に恍惚として立ちも得さらず木のくひぜ(切株)に坐してつくづくと見れば山更にしんしんとして風吹かねども冷気冬の如く足もとよりのぼりて脳巓(のうてん)にしみ渡るここちなり。遥かの空に白雲とのみ見つるが上に兀然(こつぜん)として現はれ出でたる富士ここからも猶三千仞(じん、両腕を広げた長さ)はあるべしと思ふに更に其影を幾許の深さに沈めてさざ波にちぢめよせられたるまたなくをかし
箱根駅にて午餉したたむるに皿の上に尺にも近かるべき魚一尾あり。主人誇りがにこは湖水の産にしてここの名物なり。名を問へば赤腹となん答へける。面白き秋の名なりけり
箱根の関はいづちなりけんと思ふものから問ふに人なく探るに跡なし。これらや歌人の歌枕なるべしとて、 関守のまねくやそれと来て見れば尾花が末に風わたるなり
20余年前迄は金紋さき箱の行列整々として鳥毛片鎌など威勢よく振り立て振り立て行きかひし街道の繁昌もあはれものの本にのみ残りて草刈るわらべの小道一筋を除きて外は草の生ひ出でぬ處もなく僅かに行列のおもかげを薄の穂にとどめたり
三島に入れば小川に菜を洗ふ女のさまもややなまめきて見ゆ。三島神社に詣でて昔千句の連歌ありしことなど思ひ出せば有り難さ身に入みて神殿の前に跪き、しばし祈念をぞこらしける
三島の旅舎に入りて一夜の宿りを請へば草鞋のお客様とて町に向きたるむさくろしき2階の隅にぞ押し込められける。笑ふてかなたの障子を開けば大空に突立ちあがりし萬仞の不盡、夕日に紅葉なす雲になぶられて見る見る萬象と共に暮れかかるけしき到る處風雅の種なり
修善寺に詣でて蒲の冠者の墓地死所聞きなどす
馬車にて駈けり来たりし道を戻り、水晶巌を見て南条(韮山)の村社の祭禮を見る
伊豆市にある「水晶山(すいしょうざん)」からはかつて水晶が産出されました。この山は、大仁金山と関連が深く、地下水で溶け出した石英が水晶として析出したと考えられています。また、伊豆半島には「静岡水晶」と呼ばれる黄みがかった稀少な水晶があり、日本最大の火山密集帯にあるため、高温高圧下で良質な水晶の結晶が形成された
次の駅は軽井沢とて猶3,4里あり、2更過ぐる頃つくが、3軒の旅亭はいずれも満員、ようやく軒の下なりともとと頼み込んで泊まる。翌朝は馬の新道は通らず近道を行って軽井沢峠へ
前面忽ち見る海水盆の如く大島初島皆手の届く許りに近く朝霧の晴間より一握り程の小岩さへありありと見られにけり 秋の海名も無き島のあらはるゝ
熱海に著きたる頃はいたく疲れて飢に逼りけれども層楼高閣の俗境はわが腹を肥やすべきの處にあらざれば、ここをも走り過ぎて江の浦へと志し行く。根府川近辺は蜜柑の名所なり
石橋山の麓を過ぐ、頼朝の隠れし處もかなたの山にありと人のいへど、日已に傾きかかれば得行かず。ただ、 木のうろに隠れうせけりからつゝき(きつつき) など戯る
小田原を過ぐれば此頃の天気の癖とて雨降りいづ。秋雨蕭々として蟲の音草の底に聞え、両側の並松1つに暮れて破駅既に近し。羇旅佳興に入るの時汽車人を載せて大磯に帰る
明治25年10月13日 「旅の旅の旅」 国津府 小田原 湯本
14日 箱根街道
15日 修善寺
16日 熱海 江ノ浦 小田原 国津府 大磯
Ø 大磯の月見 明治25年10月
武蔵野の月草より出でて草に入らばこそ。煉瓦より出でて煉瓦に入る文明開化の有り難さには月も戸まどひして煙突の煙に泣き明かす夜だに多しとなん。いでや吾々かりにも風月の花月のと口に唱ふる身の仲秋の名月を電信線裏に賞せんも心なきわざなれば幾年の思ひ出をせめては人力車の聞えぬ處にて晴らさんといと大きやかなる詩嚢を携へて大磯の片ほとりにぞ著きたりける。留別としては
月見んと富士に近よる1日づつ
10月4日(待宵)は一天晴れ渡りて月光隈も無ければ坐ろに浮かれ立ちて浜辺などありくに名月の句はむらむらと口頭に押し上がりて詮方なき程なるを明日の事々と再び呑み込んで只、
待宵の晴れ過ぎて扨あしたかな
扨あくれば10月5日陰暦の仲秋なり。けふこそはと待ち設けたることなれば、朝より例の奚嚢(けいのう、しもべの袋)を傍に引き付け今宵の名吟は此大嚢に溢るること必せりと独りきほひこんで、 どの松にかけてながめん今日の月
等と昼の中より一山百文をならべたてる中に前夜の心配空しからずそろそろ空模様悪く何となく黒雲の蔓衍せんず勢とはなれり。ややありて黒雲層を成すのひまひまに光を漏らして名月は時に半月の形をなし時に三日月の影を現すなど先づ興ありとでもいふべきか。月は隈なきをのみかはとは負け惜みながら味な言をいはれたるものかな
蒲団被りて暫しまどろめば雲半ば晴れたり。さらば此良夜を窓戸の間に眺めんも本意ならねば草履を穿ち松原を抜けて海浜に辿り行く。流石は相模灘の片はしとて見渡す限り目に障る者なく足元に打ち返す大浪小浪は雪を翻して月影千々に砕く
月は曇るとも此風光に対して1句の作なからんも如何にやとて考ふれども
名月や大海原は塵もなし
其後は眠に就きしが夜半不図起きて窓を開けば庭前の小松1つ影を白沙に印して月光鮮明いふばかりなし。最一刻も早からば雅興にも入り名句も出来んものを。これも世の中よ
詩嚢」(しのう)とは、本来は詩の草稿を入れておく袋のことですが、転じて詩人が詩を創作するための「詩想や感情の源」を指す言葉です。この言葉は、中国の詩人である唐の李賀が詩想を書きとめるために使ったとされる錦の袋(錦嚢)に由来
留別(りゅうべつ)とは、旅立つ人が、あとにとどまる人に別れを告げること
明治25(1892)年10月3日から、子規は大磯、箱根、修善寺、熱海と旅をします。大磯では馴染みの松林館に泊まります。ここから子規は、叔父の大原恒徳に手紙を送りました。内容は、お金に苦労していることや常盤会金の給付、今後誠は陸羯南に依頼していること、「早稲田文学」から俳句の依頼があることなどを綴っています。ただ、この手紙は郵便料金が2銭不足しており、叔父上様以下に多くの文がつけられていたのかもしれません
Ø 日光の紅葉 明治25年11月
春の花は見るが野暮なり、秋の紅葉は見ぬが野暮なりと独り諺をこしらへて其言ひわけに今年は日光の紅葉狩にと思ひ付きぬ。鳴雪翁病の床より飛び起きて我も行かんと勇み給ふ
思ひ立つ日を吉日として上野より汽車を駆り宇都宮に1泊せし日は朝来の大雨盆を傾けていつ晴るべしとも知らぬに何が吉日ぞ
一番の汽車にて日光に行く。雨は降らず。東の方地平線上に一筋の薄明りこそ唯一の頼みなりけれ。車上にて、 露吹くや小藪の中の芋畑 鳴雪
と詠み出でられたる雅淡にして幽趣あり。元禄以後の作とは見えず。日光町に著きたる頃は一天晴れ渡りて朝日は小倉山の薄紅葉に映じ出だせるにうれしく
二荒や紅葉々々の山」かつら
大谷川を渡り含満(憾満ヶ淵)を左に大日堂を右に見て行くに山々の紅葉薄く濃く打ち重なり其間の谷底を一水蜿蜒として蛇行斗折するさま錦繍(きんしゅう)帳裡に白龍を躍らすが如し
馬返しより上は山険にして水急なり。紅葉青山水急流とはかかる處にやあらん。今迄は四山稍遠ければ恰も油画の秋山を見るが如く淡彩濃抹模糊として四方を囲みしも今は我身さへ紅葉堆裡に埋れ向ふの絶壁に危く生ひたる紅葉も皆手に取るばかり近く土佐流光琳派の画中に彷徨するの思ひあり 面白や一尺の木も櫨(はぜ)紅葉
千仞の絶壁すさまじきほどに紅葉満ち満ちたるに上臈の駕籠にめして危き岨をほいほいと渡るさま側の見る目さへくるめくばかりなり。華厳の壮観を目あてに襦袢の汗水を山坂の名残に留めてそこまで辿り来たり。紅葉の間をくねりくねりて流れ来る川一筋、谷盡くると見れば忽ち倒まに落す瀑布三千丈、水煙さと立ちて落ちこむ底だに見えず
中禅寺湖に至れば屏風の中に磨ぎ出だせる一面の鏡、龍田姫の化粧道具うつくし
神殿の御格子おろす紅葉かな
引き返して日光に帰るに固より同じ道筋なれど見上げたるけしきは見下ろしたるながめに異なり苦しんで見るは楽しんで見ると異なり朝日のいさましさは夕日のあはれなるに異なりてひねもす倦むことも知らず 絶壁に夕日うらてる紅葉かな
つぐの日東照廟大猷廟(家光)に詣づ。輪奐の美今更に言はず
華厳の瀧のほとりにて手折れる一枝の紅葉を都への家土産にとて携へ日光停車場に至れば一群の紅粧(化粧した美人)来りて一枝の秋色を請ふ。折りて与へたれば之を分けて各々鬢辺に挿む。此好題目のがすべからずと翁の戯れ給ふに、 薄紅葉紅にそめよとあたへけり
つきづきし(似つかわしい)からぬを人や笑はんとて大に笑ふ
かの人いふ。京に三美あり、上野2州に塩原碓氷霧積の諸勝あり、其の優劣は如何にやあらん。翁曰く天下の諸勝は固より知らねども或は規模小にして日光の大観なく或は此大観あるも此如き渓流と瀑布と大湖と無かるべし。されば山水の勝を兼ねて此変幻と此壮観とを具し而して白雲紅葉の色彩を施す者恐らくは日光諸山の美に過ぎたるはなからんと。かの人諾す
紅葉青山水急流:晩唐の詩人許渾(791~854年)。丹陽(現・江蘇省丹陽市)の人。陶淵明の時代には曲阿といった。謝亭での送別の七言絶句の第2句
竜田姫(たつたひめ)は、日本の秋を司る女神であり、奈良県に位置する竜田山を神格化した存在です。春の女神である「佐保姫」と対比されることが多く、竜田姫が紅葉で山々を彩ると考えられていた。染色や裁縫に秀でた女神ともされ、その美しさや秋の情景から、和歌や絵画のモチーフとしても親しまれている
「輪奐」(りんかん)とは、主に建築物が広大で壮大、そして美しいさまを表す言葉
10月29日 宇都宮
30日 日光 華厳滝 中禅寺湖
31日 東照宮 宇都宮 帰郷
Ø 高尾紀行 明治25年12月
旅は2日道連れは2人旅行道具は足2本と決めて12月7日朝例の翁を本郷に訪ふて小春のうかれありきを促せば風邪の鼻すすりながら俳道修行に出でん事本望なりとて共に新宿さしてぞ急ぎける きぬぎぬに馬𠮟りたる寒さかな
暫くは汽車に膝栗毛を休め小春日のさしこむ窓に顔さしつけて富士の姿を眺めつつ
八王子に下りて二足三足歩めば大道に群衆を集めて声朗かに呼び立つる独楽まはし
茶店に憩ふ。婆様の顔古茶碗の渋茶店前の枯尾花共に老いたり。榾(ほた、木切れ)焚きそへてさし出す火桶も亦恐らくは100年以上のものならん 穂薄に撫でへらされし火桶かな
高尾山を攀ぢ行けば都人に珍らしき山路の物凄き景色身にしみて面白く下闇にきらつく紅葉萎みて散りかかりたるが中にまだ半ば青きもたのもし
飯縄権現に詣づ。山の頂に上ればうしろは甲州の峻嶺峨々として聳え前は八百里の平原眼の力の届かぬまで広がりたり 凩をぬけ出て山の小春かな
山を下りて夜八王子に著く
8日朝霜にさえゆく馬の鈴に目を覚まし花やかなる馬士唄の拍子面白く送られながら八王子の巷を立ち出で日野駅より横に百草の松連寺を指して行くに 朝霜や藁家ばかりの村一つ
寺を下りて玉川のほとりに出で一の宮の渡を渡る。府中にてひなびたる料理やにすき腹をこやし六所の宮に詣づ。国分寺に汽車を待ちて新宿に著く頃は定めなき空淋しく時雨れて田舎さして帰る馬の足音忙しく聞ゆ 新宿に荷馬ならぶや夕時雨
家に帰れば人来りて旅路の絶風光を問ふ。答へていふ風流は山にあらず水にあらず道ばたの馬糞累々たるに在り。試みに我句5,6息もつがず高らかに吟ずれば客駭(おどろ)いて去る
明治25年12月7日、子規は常盤会寄宿舎に内藤鳴雪を訪ね、高尾山への吟行に誘います。二人は高尾山に登って飯綱権現に詣で、八王子の「門屋」に一泊します。翌日は、百草の松蓮寺、高幡不動を経て玉川の辺りに出、府中、六所の宮などを訪ねたのち、国分寺から新宿まで汽車で帰りました。
この旅は、11日と14日と、2回にわたり「馬糞紀行」として新聞「日本」に掲載。その後、明治28年9月に刊行された『獺祭書屋俳話』へ掲載される際に『高尾紀行』へと改題され、冒頭にあった鳴雪の句「新宿や馬糞の上に朝の霜」がカットされました。
Ø 鎌倉一見の記 明治26年3月
面白き朧月のゆふべ柴の戸を立ち出でてそぞろありけばまぼろしかと見ゆる往来のさまもなつかしながら都の街をはなれたるけしきのみ思ひやられて新橋まで急ぎぬ。終りの列車なるに春の世の夢を載せて走る汽車20里は煙草の煙のくゆる間にぞありける
藤澤の旅籠屋を敲いて一夜の旅枕と定む。朝とく目さむれば裏の藪に鳴く鶯の一声二声もうれしく、 鶯やおもて通りは馬の鈴 鶯や左の耳は馬の鈴
一番の汽車にて鎌倉に赴く。由井が浜に隠士をおとづれて久々の対面うれしや。縄手づたいにあゆめば、行くともなしに鶴が岡にぞ著きにける。建長寺に詣づ。数百年の堂宇松杉苔滑らかに露深し 陽炎となるやへり行く古柱
円覚寺は木立昼暗うして登りては又登る山の上谷の陰草屋藁屋の趣も尊げなるに坐禅観法に心を澄ます若人こそ殊勝なれ。曙の頃隠士と某と3人して浜辺より星月夜の井に到る
長谷の観音堂に詣でて見渡す山の名所古蹟隠士が指さす杖の先一寸の内にあつまりたり
翌日は雪の下に古蹟を探る。頼朝の墓ここぞと上り見れば蔦にからまれ苔に蒸されたる五輪の塔1つ、これが天下の総追捕使のなれのはてにぞありける。鎌倉の宮に詣でて神前に跪けば何とはなしにはや胸ふたがりてはふり落つる涙はらひもあへず
梅が香にむせてこぼるる涙かな
泣く泣く鎌倉を去りて再び帰る俗界の中に筆を採りて鎌倉一見の記とはなしぬ
明治26年3月25日、夜汽車に乗った子規は藤沢の宿に泊まり、翌日世話になっている陸羯南を見舞うために鎌倉へ向かった。そして羯南の家に滞在し、鎌倉を散策することになった…
3月25日 鎌倉小旅行 新橋 藤沢
26日 鎌倉 由比ヶ浜 鶴ヶ丘八幡宮 建長寺 円覚寺
27日 長谷の大仏
28日 頼朝の墓 大江広元の墓 帰京
Ø はて知らずの記 明治26年7~8月
松島の風象潟(きさかた、秋田の景勝地)の雨いつしかとは思ひながら病める身の行脚道中覚束なくうたた寝の夢はあらぬ山河の面影うつつにのみ現はれて今日としも思ひ立つ日のなくて過ぎにしを今年明治26年夏のはじめ何の心にかありけん、〈松島の心に近き袷(あわせ)かな〉 と自ら口ずさみたるこそ我ながらあやしうも思ひしか、つひにこの遊歴とはなりけらし
浮世の旅に行く手の定まりたるもの幾人かある。山あれば足あり金あれば車あり。脚力盡くる時山更に好し財布軽き時却て羽が生えて仙人になるまじきものにもあらず
松島の風に吹かれんひとへ物
一句を留別として上野停車場に到る。折ふし来合せたる飄亭1人に送らる。鉄道の線は地皮を縫ひ電信の網は空中に張るの今日椎の葉草の枕は空しく旅路の枕詞に残りて和歌の嘘とはなりけり。されば行く者悲まず送る者歎かず。旅人は羨まれて留まる者は自ら恨む。奥羽北越の遠きは昔の書にいひふるして今は近きたとへにや取らん。〈みちのくへ涼みに行くや下駄はいて〉など戯る。宇都宮の知る人がりおとづれて一夜の宿を請ふ。驟雨瀧の如し神鳴り
常陸の山脈東南より来り岩代の峰勢西北に蟠(わだかま?)る。那須野次第に狭うして両脈峰尾相接する處之を白河の関とす。昔は一夫道に当りて萬卒を防ぐ無上の要害奥羽の咽喉なりしとかや。能因はまだ窓の穴に首さし出す頃なるをきのふ都をたちてけふ此處を越ゆるも思へば汽車は風流の罪人なり 汽車見る見る山をのぼるや青嵐
能因は、平安後期の歌人。「都をば霞とともにたちしかど秋風ぞ吹く白河の関」の歌に由来します。この歌がきっかけで、奈良・平安時代には国境の関として人や物資を取り締まる官僚的な機能を担っていたが、文学の世界で「歌枕」として憧れの地となり、多くの歌人たちがここを訪れ、歌に詠むようになった
白河の東半里許りに結城氏の城址ありと聞きて畦道辿り行く。此城出來し後、白河二所の関は廃せられたりという 涼しさやむかしの人の汗のあと
須賀川に道山壮山氏を訪ふ此地の名望家なり。須賀川は旧白河領にして古来此地より出でたる俳人は可伸(道山)等窮(相楽等躬)雨考(石井雨考)たよ女(市原多代女)等なり。郡山に宿る。旧天領にして二千餘戸の村市なり
道山壮山(みちやまそうざん):明治の須賀川俳諧の祖。1833~1900。本名は三次郎、号を芳秋、栗の本など。明治初期の東北を代表する宗匠です。家業の商業に従事するかたわら、種々の名誉職を務め町の有力者でした。可伸庵(かしあん)と名付けた自邸には、東北を旅する俳人は皆立ち寄ったといいます。栗の本という号は、壮山が俳句に熱心なため、1896年に京都二条家の御門家衆に加えられた時、同家より与えられた称号です。編著『柱石集』『早苗のみけ』『亀齢集(きれいしゅう)』『雪みくら』
22日朝浅香沼見んとて出でたつ。安達太良山高く聳えて遥かに白雲の間に隠約(見分けがつかない)たり。土俗之を呼んであだたらといふ 短夜の雲をさまらずあだゝらね
郡山より北すること1里餘福原といふ村はづれに長さ4,5町幅2町もあるべき大池あり。これなん浅香沼とはいひつたへける。小舟2,3隻遠近に散在し漁翁篙(さお)を取て画図の間に往来するさま幽趣筆に絶えたり
郡山より汽車にて本宮に赴く。本宮は数年前に洪水にていたく損害を蒙り今に猶昔の姿に回らずといふ。水の跡は門戸蔀(しとみ)などに残りて1間許りの上にあり
とにかくに200餘年の昔芭蕉翁のさまよひしあと慕い行けばいづこか名所故跡ならざらん。其の足は此の道を踏みけん其目は此の景をもながめけんと思ふさへただ其の代の事のみしのばれて俤(おもかげ)は眼の前に彷彿たり その人の足あとふめば風薫る
阿武隈川を渡れば路の側に老杉あり。下に碑を建てて黒塚といふ。兼盛の歌を刻む。
平兼盛。三十六歌仙の1人。「天徳内裏歌合」における壬生忠見との対決で詠ったのが「しのぶれど 色にいでにけり わが恋は
物や思ふと 人のとふまで」
二本松を横ぎりて細き道を攀じ上り満福寺に到る太神宮を祭りし宮なり。天台2祖の開基にして数年前の火災に600年の建築一片の灰燼となりて諸行無常色即是空のことわりを眼の前に示したるこそうたてけれ。山号を飯出山といふ事珍しき名なり。義経公奥州へ没落の節此処に立ちよられしかば、寺より飯をまゐらせけるに弁慶此寺の山号はと尋ぬ。いまだなきよし住僧答へければ、然らば飯出山といふべしと弁慶自ら名づけたる由言ひ伝へたりと
24日二本松より汽車に上る。福島の茶屋に投ず。郊外に小さき山1つ横たはれり。これなん信夫山といふ名所にて其の側に公園の設けありと聞きしかばそことなくそぞろありきす
25日葱摺の石見んとて行く。三伏の太陽日傘を透して焼くが如きに路傍涼を取るべきの處もなし。葱摺の観音の正面桜樹高く植ゑたる下に蕉翁葱摺の句を刻みたる碑あり。其後に棚もて囲みたる高さ1間広さ3坪程に現れ出でたる大石こそ葱摺の名残となん聞こえけれ
涼しさの昔をかたれ葱摺
「葱摺(ねぎずり)の石」は、実際には「文知摺石(もちずりいし)」の誤りと考えられます。文知摺石は福島市にあり、布を石にあてて植物(忍草:しのぶぐさ)をすり込み模様を染める技法「もぢずり(綟摺)」の石のことです。悲恋の物語が伝わる「文知摺観音」の境内にある「文知摺石」は、別名「鏡石」とも呼ばれ、この石が遠くの恋人に見えることからそう呼ばれるようになりました
陸奥(みちのく)の しのぶもぢずり 誰(たれ)ゆゑに 乱れそめにし われならなくに 河原左大臣
「三伏(さんぷく)の太陽」とは、中医学に由来する夏の最も暑い時期を指し、具体的には夏至の後の第三、第四、立秋後の第一の庚(かのえ)の日「初伏」「中伏」「末伏」の総称
帰路殆んど炎熱に堪へず。福島より人車を駆りて飯坂温泉に赴く。浴場は2カ所あり雑踏芋を洗ふに異ならず 夕立や人声こもる温泉の煙
26日小雨そぼふる。数十丈の下を流るる河は摺上(するかみ)川。飯坂湯野両村の境なり。ここにかけたる橋を十綱(とつな)の橋と名づけて昔は綱を繰りて人を渡すこと籠の渡しの如くなりけん古歌にも、 みちのくのとつなの橋にくる綱のたえずも人にいひわたるかな
今は鉄の釣橋を渡して行来の便りとす。大御代の開化旅人の喜びなるを好古家(こうこか、古事物の愛好家の古称)は古の様見たしなどといふめり
明日は土用の丑の日なればとて四方の村々より来る浴客夜に入りて絶えず。当地は佐藤継信等の故郷にして其居城の跡は温泉より東半里許りに在り。医王寺(飯坂の手前)という寺に義経弁慶の太刀笈(おい、足付きの箱)などを蔵すといふ。故に此地の商家多くは佐藤姓を名のると見えたり。此處に限らず奥州地方は賤民普通に胡瓜を生にてかじる事恰も眞桑瓜を食ふが如し。其他一般にも客を饗するに茶を煎ずれば茶菓子の代りに糟漬の香の物を出だすなど其質素なること総て都人士の知らざる所なり
27日曇天。をとつひより心地例ならねば終に医王寺にも行かず。人力車にて桑折に出づ。途中葛の松原を過ぐ。 世の中の人にはくずの松原といはるる身こそうれしかりけれ(古歌)
野面より吹き来る風寒うして病躯堪へ難きに餘りに顔の色あしかりしかば茶屋の婆々殿にいたはられなどす。強ひて病に非ずとあらがへば側に在りし嫁のほほ笑みて都の人は色の白きに我等は土地の百姓のみ見慣れたれば斯くは煩ひ給へるにやと覚ゆるもよしなしやなど取りなしたるむくつけき田舎なまりも中々に興あり 人くずの身は死にもせで夏寒し
桑折より汽車に乗る。伊達の大木戸は夢の間に過ぎて岩沼に下る。心地あしく武隈の松もかなたとばかり聞きて行かず。唯實方中将の墓所ばかりは弔はで止みなんも本意なければ地図を按じて町はづれを左に曲がりひたすらに笠島へとぞ志しける
武隈の松(二木の松)が「おくのほそ道の風景地」として国名勝に指定。文化庁では、芭蕉の『おくのほそ道』に関係する風致景観保護を目的として、名所旧蹟を一連の名勝として文化財指定。2014年第1回目の指定で、岩沼市の「武隈の松」を含む10県13箇所を名勝として指定。
実方中将は、光源氏のモデル。中古三十六歌仙の1人。藤原行成とのいざこざから、天皇より陸奥守に任ぜられ陸奥国へ下る。 笠島道祖神前を通る時に、神前であるため馬から降りるべきところをそのまま通ってしまい、神罰が下って落馬し この地で亡くなりました。 この非運な死を哀悼して、西行法師や松尾芭蕉、正岡子規が名取の地を訪れており、墓の近くには実方を偲んだ西行の歌碑と 芭蕉の句碑があります
岡の上杉暗き中に名に高き笠島の道祖神あり。京都六条道祖伸の女の商人に通じて終にここに身まかりたりとかや。口碑固より定かならず。 われは唯旅すずしかれと祈るなり
薬師堂を下れば実方中将馬より落ち給ひし處大方ここらなるべし。中将は一条天皇の御時の歌人なり。ある時御前にて(藤原)行成卿の冠を打ち落ししより逆鱗に触れそれとなく奥羽の歌枕見て来よと勅を蒙り處々の名所を探りて此處にかかり給ひし時社頭なれば下馬あるべきよし土人の申ししに扨は何の御社にやと問ひ給ふ。土人しかじかの旨答へしかばそは淫祠なり馬下すべきにも非ずとて坂を上り給ひしに如何はしたまひけん馬より落ちて奥州の邊土にあへなく身を終り給ふとぞ聞えし。山陰に墓所あり。石碑の残映だに見えず。唯1本の筍誤って柵の中に生ひ出でたるが丈高く空を突きたるも中々に心ある様なり。其側に西行の歌を刻みたる碑あり。枯野の薄かたみにぞ見ると詠みしはここなりとぞ。ひたすらに哀れに覚えければ我行脚の行く末を祈りて、 旅衣ひとへに我を護りたまへ
塚の入口のかなたに囲はれたる薄あり。やうやう1尺許りに生ひたるものからかたみの芒とはこれなるべし。増田迄1里の道を覚束なくも辿りつきて汽車仙台に入る。尺八月琴胡弓など合奏して戸毎に銭を乞う者多し。郡山よりこなたに往々観る所なり
28日晴。睡魔に襲われ唯うとうと。窓を開けば十六夜の月澄み渡りて日頃のうさを晴らす折から不図松島のけしきこそ思ひ出だされたれども最早夜深けて独り不平に堪へず頻りに呟きながら蚊帳に入るに生憎月光は玻瓈窓(はりまど、ガラス窓)を透過してがが枕辺に落つ
十七夜の月(立待月)見過ごしてはことさらに松島の風光に負くに似たり。明日は必ず扶桑(日本)第一の山水に対せんと独り契り独り点頭(うなづ)きて眠に就く
29日つつじが岡に遊ぶ。躑躅岡/山榴岡ともいひ古歌の名所なり。仙台停車場のうしろの方に当たれり。杜鵑花(さつき)は1株も見えざれども桜樹茂りあひて空を蔽ひ日を遮る
汽車鹽竈に達す。鹽竈神社に詣づ。数百級の石階幾千株の老杉足もとひやひやとして已に此世ならぬ心地す。神前に跪き拝し畢りて和泉三郎寄進の鉄燈籠を見る。大半は当時の物なりとぞ、鉄全く錆びて側の大木と共に七百年の昔ありありと眼に集まりたり
炎天や木の影ひえる石だゝみ
塩焼く煙かと見るは汽車汽船の出入りするなり。歌詠む貴人にやと思ふは日本の名所を洋文の案内書に教へられたる紳士なめり。山水は依然たれども見る人は同じからず。星霜移り換れども古の名歌は猶存す。しばし石壇の上に佇みて昔のみ思ひ出でらるる
小舟を僦(やと)ふて鹽竈の浦を発し松島の真中へと漕ぎ出づ、入海大方干潟になりて鳬(けり/かも?)の白う處々に下り立ちたる山の緑に副へてただならず。先づ第一に見ゆる小さき島こそ籬が島。此の島別にさせる事もなきも其の名の聞えたるは鹽竈に近き故なるべし
籬が島(まがきがしま)」とは、島に祀られる「曲木神社」の神名を冠する「曲木島(まがきしま)」という呼び名でも知られ、歌枕として知られる「曲木島(まがきしま)」とも。塩竈湾の北岸近くに位置し、古来、文学作品に数多く詠まれ、国の「名勝」に指定されている「おくのほそ道の景勝地」の1つ。
舟より見る島々縦に重なり横に続き遠近弁へ難く其数も亦知り難し。1つと見し島の2つになり3つに分かれ竪長しと思い¥ひしも忽ちに幅狭く細く尖りたりと眺むる山の次第に円く平たく成り行くあり。我位置の移るを覚えず海の景色の活きて動くやうにぞ見ゆるなる。船頭のいふ、松島七十餘島といひならはせども西は鹽竈より東は金華山に至る海上18里を合せ算ふれば八百八島ありとぞ伝ふなる。かなたに金華山、こなたに富山観音、舳に当たりたるは観月楼、楼の右には五大堂、楼の後の杉の林は瑞巌寺。その左に観瀾亭と其続きが雄島
観月楼に上り、観瀾亭に行く。伊達家の別荘にして建物は300年の昔豊太閤が伏見桃山に築き給ひしを貞山公(政宗)に賜はり其後当家3代肯山公のここに移されし者なりとぞ。彫刻鈿鏤(でんる?)の装飾無しと雖も古樸にして言ふべからざる雅致あり。一柱一板盡く唐木、蓋し一世の豪奢なり。襖板戸の絵は皆狩野山楽の筆。踈鬆(そしょう、まばら)にしてしかも濃厚の處あり。廊下に坐して見渡せば雄島五大堂を左右に控え福浦島正面に当り其他の大島小嶼相錯伍して各媚を呈し嬌を弄す。真に美観なり。嗚呼太閤貞山共に天下の豪傑にして松島は扶桑第一の好景なり。而して其人此亭中に此絶勝を賞するに及ばず。此景此亭に其人を容れしむる能はざりしは千古の遺憾と謂はまくのみ
瑞巌寺に詣づ。古雅幽静太(はなは)だ愛すべきの招提(しょうだい、仏教において僧侶の住む寺院・道場を指す)なり。門側俳句の碑林立すれども殆ど見るべきなし。唯、 〈春の夜の爪あがりなり瑞巌寺 (岩間)乙二〉 の1句は古今を圧して独り卓然たるを覚ゆ
海草水面に広がりて月宿るべきひまだになきはあたら松島の疵にやあらん。さて此草を此あたりにて藻と呼ぶにやと問へば船頭いふやう此草は冬になれば全く枯れて跡なく春の頃より少しづつ生ひそむるになん。昔は製塩の法も今の如くは開けざりしかば此草を多く刈りあつめて之を焚き其灰より塩を取りし故に今も藻汐草とはいふなりと語る
十符の菅菰の事など尋ぬるに朧気(おぼろげ)に聞き知りて話などす
十符の菅菰(とふのすがこも)とは、はるか昔から宮城県利府町周辺で作られていた、菅を編んで作った敷物のことです。編み目が10筋あったことから「十符」と呼ばれ、その名が現在の利府町の語源にも
鹽竈より徒歩にて名所を探りあるく。名所図會の絵めきたるは野田の玉川なり。伝ふらくこは真の玉川に非ずして政宗の政略上より故にこしらへし名所なりとぞ。いとをかしき模造品にはありける。末の松山も同じ擬名所にて横路なれば入らず。市川村に多賀城址の壺碑を見る
野田の玉川は、塩竈市大日向(おおひなた)から多賀城市街を通り、砂押川に注ぐ小さな流れ。歌枕ともなっているこの小川は、藩政時代になると「野田の玉川」は仙台藩によって整備、保護され、1992年に市の「水・緑景観モデル事業」の一環として、往時を偲ばせる姿に整備されました。歌枕として有名な六玉川(むたまがわ)の1つで、新古今和歌集に収められている平安時代の僧侶、歌人で中古三十六歌仙の1人・能因法師が詠んだ歌が有名です。「ゆふされば しほ風こして みちのくの のだの玉河 千鳥なくなり」
末の松山(すえのまつやま)は、多賀城市八幡の独立小丘陵にある景勝地。2014年より、「おくのほそ道の風景地」の一つとして国の名勝にも指定。「大津波が超えてはならぬ」という意で歌枕となった。「古今和歌集』の序文「仮名序」 に、貞観11年(869年)の貞観津波は「まつ山のなみ」として取り上げられ、「末の松山」はその後多くの歌人に詠まれ、実景からは遠のき、「あだし心を持てば波が越す」という歌枕として定着した。『小倉百人一首』には清原元輔の歌が撰ばれ、ますます人口に膾炙した。
「契りきな かたみに袖を しぼりつつ
末の松山 波越さじとは」(『後拾遺和歌集』恋四)
多賀城址の壺碑(つぼのいしぶみ)は、城南門の近くに、覆堂(ふくどう)に守られて立つ多賀城碑。奈良時代(8世紀頃)に建てられた古碑です。歌枕としては壺碑として知られており、城の創建・修造などについて141文字で綴られている。那須国造碑(なすのくにのみやつこのひ、なすこくぞうひ)、群馬県の多胡碑(たごひ)とともに書道史上重要な日本三古碑の一つ
蒙古の碑は得見ずして岩切停車場に汽車を待つ 蓮の花さくやさびしき停車場
燕沢碑(つばめざわのひ)は、仙台市燕沢の善応寺境内に立つ石碑。仙台市内に散見される蒙古碑(もうこのひ)と呼ばれる古碑の一で、元からの帰化僧である無学祖元が鎌倉時代後期(13世紀後葉)の文永・弘安両度の元寇における元軍戦歿者の追善の為に建てたものと推測されている[1]。江戸時代に一時埋もれたが、発掘された後に「大乗妙典(法華経)一字一石の塔(記念碑)[2]」として利用
31日広瀬川を渡り槐園子を南山閣に訪ふ。川を隔てて青葉山と相対す。青葉山は城址にして広瀬川は天然の溝渠なり。東は眺望豁然と開きて仙台の人家樹間に隠現し平洋の碧色空際に模糊たり。雲烟風雨の奇景を眼下に見下ろしながら槐園との歌話俳話に1日の閑を消す
「槐園子(かいえんし、えんじゅ、えにし)」とは、中国原産のエンジュ(槐樹、花槐、ハナエンジュ)の古名または別名です。マメ科の落葉高木で、「幸福を呼ぶ木」「長寿をもたらす木」として日本でも古くから寺社などに植えられ、人々に大切にされています。
鮎貝房之進。号は槐園(かいえん)。気仙沼市出身。言語学者、歴史学者、歌人。二兄は歌人の落合直文
8月1日朝窓を開けば雨後の山川遠望更にほがらかなり 野も山もぬれて涼しき夜明けかな
2日宮澤渡の仮僑を渡りて愛宕山の仏閣に上る。政宗公の廟に詣づ。公に在ては則ち此僻地に葬られて徒に香火の冷ならざるを得るのみ。豈に其の素志ならんや
3日再び南山閣に到る。例の歌談俳談に夜をふかす。4日雨。文学談猶盡きず
5日出羽に向ふ。広瀬川に沿ふて遡る。作並温泉に投宿す。家は山の底にありて翠色窓間に滴り水声床下に響く。絶えて世上の涼炎を知らざるものの如し 涼しさや行燈うつる夜の山
山嶮に谷深うして道をつくるべき處もなし。攀じて其もとに到れば山根に一条の隧道(すいどう)を穿つ。これを過ぐれば則ち羽前の國なり。路二筋に分るる處即ち天童楯岡の追分なり
楯岡に一泊す。7日殊に前日の疲れ全く直らねば歩行困難を感ず。3里の道を半日にたどりてやうやう大石田に著きしは正午。最上川に沿ふたる一村落にして昔より川船の出し場
8日川船にて最上川を下る。此舟米穀を積みて酒田に出だし又酒田より塩乾魚(えんかんぎょ)を積み帰るなり。下る時風順なれば18里1日に達し上る時風悪しければ5,6日をも費やすといふ。乗合ひ十余人多くは商人にして結髪(けっぱつ)の人亦少からず。言なまりて更に解せず。独り艫辺に佇みて四方の景色を見る。古口より12里の間山嶮にして水急なり。曾て舟して木曾川を下る。潜かに以て最奇景となす。然れども之を最上に比するに終に此幽邃峻奥(ゆうすいしゅんおう)の趣に乏しきなり 朝霧や四十八瀧下り船
清川にて陸に上る。戊辰戦争の古蹟なりと聞きて、 蜩(ひぐらし)の二十五年も昔かな
酒田に達す。名物は婦女の肌理(きめ)細かなる處にありといふ。夜散歩して市街を見る、紅燈緑酒客を招くの家数十戸檐(ひさし)をならぶ。毬燈(きゅうとう、丸い提灯)高く見ゆる處にしたひ行けば翠松館といふ。松林の間に小屋を掛けて納涼の處とす。
10日北に向ふて行くに鳥海山正面に屹立して谷々の白雲世上の炎熱を知らぬさまなり
鳥海にかたまる雲や秋日和 木槿(むくげ)咲く土手の人馬や酒田道
吹浦に沿ふて行く。海に立ちて馬洗ふ男、肴籠重たげに提げて家に帰る女のさまなど総て天末の夕陽に映じて絵を見るが如し。 夕陽に馬洗ひけり秋の海
11日象潟は昔の姿にあらず。汐越の松はいかがしたりけん、いたづらに過ぎて善くも究めず
二更(21,2時頃からの2時間)頃本庄に著けば町の入り口青楼(女郎屋)軒をならべて幾百の顔色ありたけの媚(こび)を呈したるお飢渇と疲労になやみて余念なき我には唯臭骸のゐならびたる心地して格子をのぞく若人の胸の内ひたすらに疎まし 骸骨とわれには見えて秋の風
本庄にても石雪川を渡りたる石脇にても宿空き室無とて、詮方なく警察署を煩はしてむさくろしき1軒の旅籠屋に上り飯などたうべし時は三更(二更のあと)にも近かりなん
初秋の天炎威未だをさまらず熱さは熱し。昨夜の旅草臥猶いえずして足のうら痛さは痛し。熱さと痛さに攻められてここが風流なり。6里の道やうやう道川にたどり著き宿る
13日馬車にて秋田に著く。再び人力車にて大久保に赴く。八郎潟眼前に横たはりて海の如し
夕日は傾きて本山の上に落ちたりと見るに一条の虹は西方に現はれたり。不思議と熟視するに一条の円虹僅に両欠片を認むるのみにて其外は淡雲掩ひ重なりて何事も見えざりき。こは普通の虹にはあらで「ハロ」とならんを我は始めてここに見たるなり。日暮れて一日市(八郎潟の東岸)に泊す。僻地の孤村屋室の美魚介の鮮なけれども、まめやかにもてなしたるはうれし
ハロ(日暈、ひがさ)は、上空の薄雲を構成する氷の粒に太陽光が当たって屈折することで、太陽の周りに現れる光の輪です。一方、通常の虹は空気中の水滴(雨粒)によって太陽光が反射・屈折して見られる現象。ハロが見られるときは、低気圧や前線が接近して天気が下り坂になる前触れとされることがありますが、必ずしもそうとは限らない
14日12里を経て盲鼻にいたる。邱上に登りて八郎湖を見るに四方山低う囲んで細波渺々唯寒風山の屹立するあるのみ。3つ4つ棹さし行く筏静かにして心遠く思ひ幽かなり
15日秋田を発す。御所野のほとり縄手松高うして満地(地面一杯)の清陰涼風洗ふが如し
戸島より人車を駆る。夕月ほのかに見ゆる頃大曲に宿る
16日六郷より岩手への新道を辿る。湯田といふ温泉場に宿る
17日の朝は枕上の塒(ねぐら/とや)の中より声高く明けはじめぬ。半ば腕車の力を借りてひたすらに和賀川に従ひて下る。ここより杉名畑に至る6,7里の間山迫りて河急に樹緑にして水青し。風光絶佳雅趣掬すべく誠に近國無比の勝地なり(ゆだ錦秋駅の辺り)。黒沢尻に達す
18日旅宿に留まる。けふは七夕といふに風雨烈しく吹きすさみて天地惨憺たり
19日午後の汽車にて水澤に赴く。当地公園は町の南端にあり。青森仙台間第一の公園なりとぞ。櫻梅梨雑樹を栽う。夜汽車に乗りて東京に向ふ 背に吹くや五十四郡の秋の風
20日は白河の関にて車窓より明け行く。小雨猶やまず。正午上野著
みちのくを出てにぎはしや江戸の秋
始めよりはてしらずの記と題す。必ずしも海に入り天に上るの覚悟にも非ず。30日の旅路恙なく八郎潟を果として帰る目あては終に東都の一草庵をはなれず。人生は固よりはてしらずなる世の中に、はてしらずの記を作りて今は其はてを告ぐ。はてありて喜ぶべきにもあらず。はてしらずとて悲しむべきにもあらず。無窮時の間に暫く我一生を限り我一生の間に暫く此一紀行を限り冠らすにはてしらずの名を以てす。はてしらずの記ここに盡きたりとも誰か我旅の果を知る者あらんや 秋風や旅の浮世のはてしらず
俳聖 松尾芭蕉の「おくのほそ道」の道を辿る形で、明治26年夏に作者自身が東北を旅した際の体験を、俳句を交えて記した紀行文です。病に伏しながらも発奮し旅を敢行する子規の姿や、旅先での豊かな風光、人物との出会いが句とともに綴られ、文学的な魅力に加え、人間的な一面も垣間見える作品
「はて知らず」とは、松尾芭蕉の旅の跡を辿ることを基本としつつも、「行先を定めない」の意味
7月19日 東北旅行(「はてしらずの記」) 上野 宇都宮
20日 白川 結城市城跡 中島山麓訪問
21日 須賀川 道山壮山を訪問 郡山
22日 浅香沼 本宮 遠藤菓翁を訪問
23日 二本松 黒塚 阿武隈川河畔の茶屋 満福寺
24日 二本松 福島 小川太甫を訪問 信夫山麓の公園
25日 葱摺りの石 飯坂温泉
26日 摺上川 十綱の釣橋
27日 葛の松原 桑折(こおり) 岩沼 実方中将の墓 笠島 増田 仙台 国分寺町針久旅館
28日 一日宿で寝る
29日 仙台つつじが丘 塩釜 松島 観瀾亭 瑞巌寺 五大堂 観月楼泊
30日 雄島 富山紫雲閣 塩釜 多賀城址 岩切 仙台針久旅館
31日 青葉山 南山閣に鮎貝槐園を訪問
8月2日 愛宕山 伊達政宗の廟
3日 南山閣に鮎貝槐園を訪問
5日 広瀬川 山形 作並温泉泊
6日 九十九折 隧道 天童楯岡 白河河原 東根 楯岡
7日 大石田泊
8日 最上川 烏川 古口泊
9日 四十八滝 清川で上陸 酒田 翠松館を見る
10日 鳥海山を見ながら吹浦 大須郷の松原
11日 塩越村 本庄 古雪川 石脇
12日 道川
13日 大久保 八郎潟
14日 盲花 秋田
15日 戸島 大曲 象潟
16日 六郷より岩手への新道 湯田温泉郷
17日 和賀川 黒沢尻
19日 汽車で水沢 水沢公園 夜行列車で帰京 (白河で夜明け)
Ø 発句を拾ふの記 明治27年3月24日
亀戸木下川に梅を観、蒲田小向井に春を探らんは大方人に打ち任せて我は名もなき梅を人知らぬ野辺に訪はんと同宿の虚子をそそのかして薄雲る空に柴の戸を出づ
梅の中に紅梅咲くや上根岸 松青く梅白し誰が柴の戸ぞ
千住街道に出づれば荷馬乗馬肥車郵便車我れも我もと春めかして都に入る人都を出づる人
下町や奥に梅さく薬師堂 肥舟の霞んでのぼる隅田かな
千住を離れ、村の名を問へば面白の名や。 鶯の梅島村に笠買はん
野道辿れば上州野州(下野國の別称)の遠山僅かに雪を留め左右前後の村々梅あり藪あり鶏犬画中に聞ゆ いたづらに梅老いけりな藪の中
ささやかなる神祠(しんし/ほこら)に落椿(おちつばき)を拾ひあやしき賤(せん)の女に路程を尋ね草加に著きぬ 順礼や草加あたりを帰る雁 虚子
夜道おぼろに王子の松宇亭を訪ふ。 春の夜の稲荷に鄰るともしかな
最終汽車に乗りて上野の森月暗く電気灯明かなる頃山づたひに帰り来る夜の夢、寝心すやすやとして周公もなければ美人もなし
子規が俳句革新を進める中で、 高浜虚子を俳句の道に誘う際に詠んだ句「名もなき梅を人知らぬ野辺に訪はん」の、その句を詠んだ状況や意図を記した文章です。明治27年(1894年)の早春に子規が虚子を誘い、一緒に名もなき梅を探しに行った時のことなどが書かれています
Ø 上野紀行 明治27年8月
俗塵十丈の中に埋れて塵埃を呼吸せんことの苦しく魂ばかりは處々方々とさまよひありけど貧乏暇なき身の上こそつらけれ。さりとては此炎天に一大漫遊を試みざるは口をしきの限なりと御成街道より広小路に出づ 車道狭く埃捲くなり夏柳
1時間の漫遊ここに了りて再び身を俗界の中に投じ去りぬ
7月中旬 上野の山散策 御成道 広小路 山内 彰義隊の墓 清水堂 摺鉢山 博物館 寛永寺 音楽学校 美術学校 動物園 東照宮 不忍池(「上野紀行」)
Ø そぞろありき 明治27年8月
さわがしき世の中に草の庵1つ静かに住みなして暁の夢ひややかに覚むれば竹垣に這ひつきし朝顔の花は此處彼處にに三輪づつ咲きて短き命のさてもうつくしき色かな。斯く疾く起き出でたるも我にはいと珍らかなるに郊外の景色見んも興あめりと庵を出づ
7月末 郊外散歩 音無川 御行の松 箕輪 三河島 日暮里仮葬場 諏訪明神 本行寺(「そぞろあるき」)
Ø 王子紀行 明治27年8月
去る13日の其日もはや七つ下りの頃鳴雪翁われをおとづれて王子の祭見に行きなんや、と云はれ不折子をも伴い翁に供して上野に至る。余不折氏に向ひて戯れて今日の遊び画と俳句と腕を競べんかと云ふ、不折氏曰く諾と。忍川に夕餉したたむ。汽車上野を発す
王子権現に詣づ
数日を経て不折一巻を携え来りて余に示す。披き見れば王子紀行なり。絵画数十枚いづれか面白からぬは無し。余瞠若一語を発する能わず。不折頻りに余の俳句を見ん事を覔(もと)む。余固と一句なし。曰く俳句画に輸(ま)けたりと。不折聴かず。已むを得ず数句を記して其責を塞ぐ。只憾しむらくは不折の画僅かに滝の川の1枚をここに掲げて他の数十葉を掲ぐる能はざるを
Ø 閒遊半日 明治27年11月
明日は天長節となんいふに何が嬉しくてか小躍りして勇む子供今宵一夜なくもがなと母に向ひてかこちたるもをかし。翁も片頬に笑を含みて昔は9月9日を菊の節句とはいひしを今は11月3日こそ菊の日とも菊の祭りとも称ふべけれ、さるを庵に1本の菊なからんも本意なし、古人が「今日になりて菊作らうと思ひけり」といひしは重陽の事なりしも今は天長節に逢ひて其感は起るなり。夜店の菊にても購ひ来らんなどつぶやくも興あり
田舎の天長節と世間の戦争の噂とを知らんとて新橋より汽車に打ち乗りてあたり見廻せば商人らしきもの会社員らしきもののみなりき
處定めねば川崎に下りて外に目的もなし。大師様へと志し行く
小店の老婆云ふ夏の旱に焼かれて今年の梨は全くはづれたれば例年よりは代も安からず来年も亦実入わろきやうなりと、来年の事如何にして知るかと問へば見給へ畑は真白なりといふ。見れば梨の木に帰り花の咲きたるなり。梨園を畑といふも面白く花とは言はで只真白といへるも亦奇なり 川崎や畑は梨の帰り花
六郷橋を渡る。村を出づれば街道の並松まばらに路の両側は稲刈る人穂をこく人藁を干す人いづれも忙はしく勇ましげなるは天長節の故にもあらず。頻りに海陸軍捷報の到るが為にもあらず。彼らの胸中には天長節も日清事件も無く今日の好天気に刈り入れを為すの一事のみ。これ亦耕して食ひ井を掘りて飲む人ならん 晩稲刈る東海道の日和かな
蒲田村の村はづれに池上道といへる享保14年の石標を見つけて左へ小道を取る。向ふは小丘蜿蜒として半ば色つきたる木立の村落を埋めたる景色得もいはれず。東京を離るる3里餘既に此雅致野趣を得夢にだも知らぬ都人士ぞ多からん
十余町にして池上に達す、本門寺は山上に在り遥かに仰げば松杉鬱蒼の間僅かに山門を認む
此の寺は日蓮宗の本山にして身延と竝称する者なり身延は知らずこを房州の誕生寺に比するに人為の建築は彼よりも盛大にして天然の風致は稍々彼に劣れり。然れども此地を川崎大師の凡俗なるに比べんか実に人間と天上との差あり。蓋し日蓮は弘法に比してさらに俗なるものから其抱負の大なるに至っては豊公と肩を比ぶべく、其大俗なる處は日蓮の能く名を後世に成せし所以にして凡人の企て及ぶべきに非ず。彼をして内外多事の今日に生れしめんか決して僧侶をもって終らざるなり。彼地下に霊あらば如何の感想をもって日清事件を見るか聞かまほし 松杉や妙法の山に秋もなし/山行けば御堂々々の落葉かな
Ø 総武鉄道 明治27年12月
鉄道は風雅の敵ながら新しき鉄道に依りて発句枕を探るこそ興あらめと2人して朝疾く出で立つ。本所の割下水にて即景(眼前の景色を見て作句) 染汁の紫こほる小川かな
本所の町はづれの停車場に著く。少しく都離れて原の中にかたばかりの家新しく、場内の人まばらに田舎めきたるが多し。停車場の前の広場を残して向ふは沼田の中に一条の鉄軌低き棚に沿ひ汽罐車の車輪まであらはに往来する様などむくつけきが中々にをかし
いと古代めきたる老嫗の若人に向ひて作右衛門は此頃旅順より消息せしが別に変ることも侍らずとぞいふなる。今は一字不通の匹夫匹婦も旅順平壌を隣のやうに覚えて蝦夷よりも琉球よりも近き心地ぞすなる 水洟に旅順を語る老女かな
朝晴の景色心地よく鴻の台を左に眺めて車は転じ江戸川の鉄橋を渡りて市川に著きぬ
昔は隅田川が武蔵下総の境を流れけん、今はこの川を間にして市川より先は下総なり。総じて此国には山といふものなく、只一望の平野大波を打ちて少しづつの高低ある麦畑薯蕷(ながいも)畑は時々ニ三十戸の村落と饅頭程の松原とに破らるゝのみ。遥かに見ゆる山の真白に地を離れて聳えたる霜月の富士は東京にて見るよりも大きやかなり
幕張。海見えて白帆遠く右に見ゆる烟突の高きは行徳にやあらん。船橋。四つ街道
佐倉。木陰寒き坂を上りて左は士族町ならん、右に折れて通り町に出づ。1時間許り前に都を見たる眼には何もかも淋しき心地す。町を少し入りて清国捕虜厩舎と書きたる門見ゆ。坂上より印旛沼を見るべし。坂を下れば堀あり堀の内は昔の城にて今の営所(兵営)なりとか
次の汽車にて本所に著きぬ 冬の日の暮れんとすなり八つ下(さが)り(14~16時頃)
12月下旬 総武鉄道小旅行 12月9日に開通した総武鉄道で桜間での小旅行(「総武鉄道」)
Ø 夕涼み 明治31年8月
蜩(ひぐらし)上野に啼きて入日谷中に傾くある夕暮れの風にさそはれてからうじて車に舁き(かき、担ぐ)載せられつ、三尺の庵を出づれば空は思ひしよりも広くゆたけき様なり
鶯横町を出でて狸横町に入る。家奥まりて路暗く夏草垣より高く生ひ茂りて昼も人の通はざりし此横町にいつの間にか建ちけん新しき家檐(ひさし)を竝べて昔の草むらのなごりもとどめず 狸さへ蟇(かえる)さへ住まずなりにけり
上野の木の下闇を出づれば広小路御成道の両側稍々異なりし様を見つつ行く。連雀町から両国を渡り川に沿ひて吾妻橋に向かう。上げ潮溢れんとして夕風波だつ中を人のぬき手きって泳ぐを見るに物おそろしき心地に先づ肝潰るるは我ながら気の衰えたるよ
泳ぎ場に人の残りや夏の月/鷺の立つ中州の草や川涼し
今しも入りなんとする三日月のいと大きなるが駒形堂に掛れる、靄(もや)は浅草を罩(こ、覆う)めて波の音かすかなり。嗚呼思ひいだせば此夕なり。ここに住みし昔夏の長き日を小説にも読み飽き夕餉の後は蚊の声に追出だされて此堤の上を且つ歩み且つ佇み夕栄の富士蒼く見らるる頃より暮れ盡す迄の変化を見るは1日のこよなき楽みなりき。何一つ変ることなきこのけしきにあはれ我も昔の人に立ちもどらばやと思ふもせん無かるべし。光陰は水声の中に盡き人の命は白頭をしも待たず。更に思ふ10年の後、此けしき、此夕、知らず月は如何なる人にか忍ばるべき
吾妻橋を渡れば万感盡く消えて浅草の観音は相変らずの繁昌なり。入谷にそれて帰る
Ø 道灌山 明治32年10月
9月28日、晴れて快し。遊意稍々動く
青空に聳ゆる庭の葉鶏頭(カマツカ)は我にあるけといへるに似たり
音無川に沿ひて遡るに右にやきいも屋あり。昔の儘なり。其家の横に植込の小庭ありて、秋海棠一もと二もとづつ、木の間、石の陰ともいはずまばらに咲き満ちたり
石橋ありて芋坂団子の店あり。繁昌いつに変わらず。根岸に琴の鳴らぬ日はありともこの店に人の待たぬ時はあらじ
田端停車場盡くつあたりに岡を切り取りたる處ありて、そこに急な上り道出来たり。上りて見れば平野一望黄雲十里此ながめ28年このかた始めてなり
山もなき武蔵野の原をながめけり車立てたる道灌山の上
胞衣(えな、胎盤)神社の前の茶店に憩ふ。崖に臨みたれば眼望隠す所無く足下に見ゆる筑波山青うして消えなんとす。我嘗て此處の眼望を日本第一といふ、平らに広きをいふなり
武蔵野の空の限りの筑波嶺は我居る家より低くおもほゆ
此景色如何に綴れども発句にならずといひしに、しかなり画にもならずと不折のいひし事思ひ出でて 画にもならず歌にもならず武蔵野は只はろはろに山なしにして
谷中の墓地を横ぎり御院殿の坂を下りて帰る。歌修行の遊び今日が始めてなり
Ø 本郷まで 明治32年12月19日
11月それの日、かねてふもとの新築をおとなはんの約あればけふの晴をさいはひに俄に思ひ立ちて金助町へ行く。石階1つ2つ上りて玄関に入れば庭先の門より直に座敷にまはれといふに負はれたるまま庭より通りぬ
あたらしき庭なつかしみ足なへのわれ人の背に負はれつつ来ぬ
Ø 小石川まで 明治32年12月25日
秀真を原町に訪ふの約成りて、午後3時頃車して出づ。谷中の墓地を行くにここかしこの山茶花紅に咲きて低き銀杏の黄葉と照りあへる、夕日のさまもいとはなやかに心ありげなり
よき人を埋めし跡の墓の石に山茶花散りて掃く人もなし
安民(原、鋳造家・歌人)、麓(岡、俳人・書家)集い、某が彫りたる石膏細工の猿曳を皆で批評す
夕餉もてなされて後雑談に移る。四畳半の間に主客4人額をあつめて暖かさに夜の更くるを知らず。終に別れて帰る 牛を割き葱を煮あつきもてなしをよろこび居ると妻の君に言へ
Ø 亀戸まで 明治33年5月17日
をとどしは梅散る頃南の野に車を巡らして残りの雪に驚き去年は彼岸の寒き日神田まで行く途につむじ風に吹き捲かれて身の毛もよだちし事こそありしか、今年は桜散り山吹咲き牀の辺の寒暖計は60度以上に上りて猶褥を離るるの勇気無く、本所の左千夫が牡丹見に来の勧めも秋風萩が枝を吹き動かす頃ならではといふものから来ん秋だにたのめがたき心細さにをりをり思ひ沈む事もありき 我庭の萩の上葉に秋風の吹くらん時を待てばくるしも
格堂来り、秀真来にければ、にわかに左千夫がり訪はんと思ひ立ち、共に車つらなまて出づ
左千夫あらず。格堂、秀真と亀戸天神に詣づ。そぞろにうち興じつつ境内に入る。藤は僅かに四五寸伸びてまだ花咲くべくもあらぬに、
広前の御池に垂るる藤の花かづらく(髪飾りにする)べくはいまだみじかし
再び左千夫がり立ちよればをりふし主立ち帰り来て(菊池)容斎の画ける吉野の図を見せなどす 絵を見るに猶しおもほゆ三吉野(相模?)の吉野の山の花のあけぼの
4人額をあつめて歌を語り画をあげつらひなどする程に熱やうやくさめければ再び車に乗りて根岸の宿に帰りたるは夜半過ぐる程にやありけん
【小品】
Ø 小園の記 明治31年10月
我に20坪の小園あり。園は家の南にありて上野の杉を垣の外に控へたり
此より後病いよいよつのりて足立たず門を出づる能はざるに至りし今小園は余が天地にして草花は余が唯一の詩料となりぬ。余をして幾何か獄窓に呻吟するにまさると思はしむる者は此十歩の地と数種の芳葩(ほうは、花)とあるがために外ならず
我小園の見所はまこと萩芒のさかりにぞあるべき。今年は去年に比ぶるに萩の勢ひ強く夏の初の枝ぶりさへいたくはびこりて末頼もしく見えぬ。8月の末より待ちに待ちし萩は一つ二つ綻び初たり。飛び立つばかりの嬉しさに指を折りて翌は四、あさっては八、10日目には千になるならんと思ひ設けし程こそあれ、ある夜野分の風はげしく吹き出で、今迄さしも茂りたる萩の枝大方折れしをれたるなりけり。斯くと知りせば枝に杖立てて置かましをなど悔ゆるもおろかなりや。園中何事も無きは只松と芒とのみ
去年の春彼岸やや過ぎし頃と覚ゆ、鷗外漁史より草花の種幾袋贈られしを直に播きつけしが百日草の外は何も生えずしてやみぬ。中にも葉鶏頭をほしかりしをいと口をしく思ひしが何とかしけん今年夏の頃、怪しき芽をあらはしし者あり、必定葉鶏頭なめりと竹を立てて大事に育てしに果して二葉より赤き色を見せぬ。野分にも負けず今は二尺ばかりになりぬ。つぐの日なり件。不折子が大きなる葉鶏頭1本引きさげて来り、朝霧に濡れつつ手づから植ゑて去りぬ
薔薇、萩、芒、桔梗などうちくれて余が小楽地の創造に力ありし隣の老嫗は其後移りて他にありしが今年秋風に先立ちてみまかりしとぞ聞えし ごてごてと草花植ゑし小庭かな
Ø 車上所見 明治31年11月
秋晴れて、野に出でばや、稲は刈りをさめしや、稲刈り女の見知り顔なるもありや、あぜの草花は如何に色あせたらん、など日毎に思ひこがるれど、さすがにいたつきのまさんことも心もとなければ、さてやみつ。車来て車夫に負はれて乗る。成るべく静かに挽かせて鶯横町を出づるに垣に咲ける紫の小き花の名も知らぬが先づ目につく。音無川に沿ひて行く。川にて男3人ばかり染物を洗ふ。笹の雪の横町を野に出づ。村々の木立遠近につらなりて、右に千住の煙突4つ5つ黒き煙をみなぎらし、左は谷中飛鳥の岡続きに天王寺の塔聳えたり
見渡す限り眉墨程の山も無ければ、平地の眺めの広き、我国にてはこれ程の處外にはあらじと覚ゆ。胸開き気伸ぶ
道の邊に咲けるは蓼の花ぞもっとも多き。そのくれなゐの色の老いてはげかかりたる中に、ところどころ野菊の咲きまじる様、ふるひつくばかりにうれし。此情、人には語られず
穂蓼野菊の花にさはる程に掛稲(刈った稲を竹組に掛けて干す)の垂れたるもいとあはれに、絵にかかまほしと思ふ。我車のひびきに、野川の水のちらちらと動くは目高の群の驚きて逃ぐるなり。あないとほし。目高を見るはわが野遊びのめあての1つなるを、なべての人は目高ありとも知らで過ぐめり。世に愛でられぬを思ふにつけていよいよいとほしさぞまさるなる
一足、町を離るれば見るものひなびて雅なり
三河島の入口に社あり。前に四抱えばかりの老樹の榎とも何とも知らぬが立ち、其幹に絵馬の形したる板1つ吊りさげあるを近づくままに見れば、絵と見しは鉄砲の絵にて「ここにて打つべからず」と記せる、興さむるわざかな。村に入る。山茶花の垣、花多くつきていとうつくし
此路、此螽(いなご)、こはわが忘れんとして忘れ得ざる者なり。今より4年前、世は日清戦争にいそがはしく、わが身を委ねし事業は忽に倒れ、如何にしてか従軍せんとのみ思へども、許さるべくもあらねば、ひとり心をのみ悩ましつつ、日毎に郊外散歩をこころみ、写生的俳句をものせんとて、眼に映るあらゆるものを捕へて17字に捏ねあげんとす。わが俳境のいくばくか進歩せし如く思ひしは此時にして、さ思ふにつけて猶面白ければ総てのうさを忘れて同じ道をさまよふめり。三河島付近はもっともしばしば遊びありきしところなり。をりをりここに遊びては螽をともにしてうさをはらすに、曾て人に遇ひし事もなければおのづから別天地の心地して今に得忘れず。日傾き風俄に寒ければ興盡きて帰る。3年の月日を寐飽きたるわが褥も車に痛みたる腰を据うるに綿のさはりこよなくうれし。世にかひなき身よ
Ø 雲の日記 明治32年1月
明治31年12月15日 朝晴れて障子を開く。赤ぼけたる小菊二もと三もと枯芒の下に霜を帯びて立てり。上野の森の上に白く薄き雲。われ此雲を日和雲と名づく
31日 毎夜、夜を更かして頭痛み雲掩ふ。窓外の天気常に晴朗
Ø 夢 明治32年1月
先日徹夜をして翌晩は近頃にない安眠をして。其夜の夢にある岡の上に枝垂桜が一面に咲いてゐて、其枝が動くと赤い花びらが粉雪のやうに細かくなって降ってくる。其下で美人と袖ふれ合ふた夢を見た。病人の柄にも無い艶な夢を見たものだ
Ø 蝶 明治32年4月
空はうららかに風はあたたかで、今日は天上に神様たちの舞踏会のあるという日の昼過、白い蝶と黄な蝶との2つが余念無く野辺に隠れんぼをして遊んで居る
独り病牀にちぢかまりて40度以下の寒さに苦む時、外に遊び居たる隣の子が、あれ蝶々が蝶々がといふ声を聴いて一道の春は我が心の中に生じた。それはたしか2月の9日であった
Ø 酒 明治32年6
一つ橋外の学校の寄宿舎に居る時に、明日は三角術の試験だといふので、ノートを広げてサイン、アルファ、タン、スイータと読んで居るけれど少しも分らぬ。困って居ると友達が酒飲みに行かんかといふから、直に一緒に飛び出した。自分は5勺飲むのが決まりであるが、此日は1合傾けた。学校の門を這入る頃から、足が土地へつかぬやうになって、酔がまはって苦しくてたまらぬ。試験の用意などは思ひもつかぬので、それっきり寝てしまった。すると翌日の試験には満点100のものをやうやう14点。余り例のない事。酒も悪いが先生もひどいや
Ø 夏の夜の音 明治32年7月
時は明治32年7月12日夜、處は上根岸の某邸の構内の最も奥の家、8畳の間の真中に病の牀を設けて南側の障子明け放せば上野おろしは闇の庭を吹いて枕辺の燈火を揺がす
午後8時より9時迄 北側に接してある台所では水瓶の水を更ふる音漸く止む。上野の森に今迄鳴いていた梟は、はたと鳴き絶えた。最合井(もあいい)の辺に足音がとまって女2人の話は始まった。一口二口で話が絶えると足音は南の家に這入った
午後9時より10時迄 東隣の家へ、此お屋敷の門番の人が来て、庭で話してすぐ帰った
午後10時より11時迄 単行の汽罐車、今度は下って往た。蚊帳を釣り寝に就く
午後11時より12時迄 枕もとの時計の音のみ聞えて天地は静かな(ママ)。うとうとと眠る
午後零時より2時迄起き居る間に 鼠の音1度聞きしのみ。そよとの風も吹かず
Ø 旅 明治32年7月
旅はなさけ、恥はかきずて、宿屋に著きて先づ飯森女の品定め、水臭き味噌汁すすりながら、ここに遊君はありやといへばござりまする。片田舎とて侮り給はば思はぬ不覚を取り給ふべし、などいふ、今の世の中に旅といふもの可愛い子にはさせまじき者なり
白河二所の関とは一夫道にあたりて万夫も進まざる恐ろしき険阻、鬼も出づべしと思ひきや、淋しき町はづれにいかめしき2階づくりの一廓、秋風の吹かぬ處ぞかし
鯖名という温泉(飯坂温泉の共同浴場鯖湖湯(さばこゆ))にも廓ありと聞きて、凌霄(りょうしょう、ノウゼンカズラ)咲く門に這入りける。翌朝、宿へ帰ればここの小もの笑ふて、ゆうべ旦那の買われしはやつがれと同じ国の生れなりといふ。狭い處では一夜のうちに何も彼も知れぬは無し。今日にても宿屋の下女、さすがになまめきて、3日のなじみ、さはらば落つべかりしが、それもここにては掃き捨てる程ぞかし
Ø ゐざり車 明治32年9月
東京の町はいつも同じ事なり。半年や1年に、いちじるしく変わる者に非ず。埃立つ路、高く低き家、同じ町には大方同じ店、同じ店には大方同じ品物を竝べて、何の珍しげもなけれど、たまたま田舎より出でたる者はいと興ありげに佇みて、時計屋の店に人形の揺くを不思議さうにながめ、細工場の前に機械運転を見てすばらしきものに思ふらん
始めて田安宗武の歌を見るに万葉調にして趣向斬新なり。実朝以後歌人無しと思ひしに俄に此人を得て驚喜雀躍に堪へず。吾は余りの嬉しさに虚子を猿楽町に訪はんと思ひ立ちぬ
新坂より坂本に通ずる路。前はヤッチャ場と称へし處町真直に幅広くなりて全く昔の様にあらず。滄桑の変(激しい変化のこと)なり。上野は変わりたる處無し
飄亭も呼ばれ、歌の話、小説の話、裱具の話、床の間の沿革の話、此頃は俳句が出来ぬといふ話、松山には盆踊がなくて獅子舞がるといふ話、話の種は盡くる事無し
帰りの車は駿河台に上がる。月薄く雲間にありて、稲妻は北の方に頻りなり。稲妻10句をものせんと思ひつつ、そろそろと引かれ行く 稲妻や足場掛けたる蔵の間
御茶の水橋を渡り、女子師範横手から枳殻寺(からたちでら、麟祥院)につきあたり、池の端へ出づ。三橋より上野に上る。車に揺られしためか、喰ひ過ぎしためか、此夜、寐つきあしかりき
Ø 飯待つ間 明治32年10月
余は昔から朝飯を喰はぬ事にぎめている故病人ながらも腹がへって昼飯を待ちかねるのは毎日の事である。今日は午砲が鳴ったのにまだ飯が出来ぬ。ぼんやりして庭をながめて居る
雁来紅(はげいとう)は美しき葉を出して白い干し衣に映って居る
籠の鶉もまだ昼飯を貰はないのでひもじいと見えて頻りにがさがさと籠を掻いて居る
Ø 柚味噌會 明治32年11月
秋田の片田舎に怪しき物あり。名づけて露月といふ。初め東都に出で文を学んで成らず怏々(おうおう、心が晴れない)として郷里に帰る。再び東都に出でて医を学ぶ。僅かに試験に及第して京都に遊ぶ事6カ月、医療機械を載せて再び郷里に帰らんとす。露月閭門(りょもん、故郷の門)を入るの日、父老路に迎へて相賀し、家嫂(あによめ)機を下りてために炊かんとすらん。露月の得意知る可きなり
東都の同人、日を卜して露月を道灌山胞衣神社の傍に送る。五彩の幣帛(へいはく、供物)床に垂れて静にして風無く、浅紅の茶梅階に落ちて微に声あり。行厨(こうちゅう、弁当)を開き芳醇(ほうじゅん、酒)を酌む。虚子齎(もたら)す所の柚味噌、是日第一の雅味と為す。其他巻鮓あり、麺包(まんぱお、パン)アリ、カラスミあり。分飲旁食、一皿八珍。碧梧桐と露月とは各々火鉢を抱へ炭を按排し柚味噌を焼くに周旋す。少焉(しばらく)尻焦げ蓋揚る時衆箸一斉に下る。牛伴は牛の如く、把栗は栗の如く、五城は城の如く、繞石は石の如く、四方太は白眼にして四方を望む。虚子は酔ふが如く酔はざるが如く、青々は有が如く又無きが如し。子規は横臥、餓鬼の如し、刀子(とうす、刃物)を把って仔細に柿の生熟を鑑定す
子規子口を開いて曰く何ぞ柚味噌の露月と相似るの甚だしきや。柚の花の華ならざる、柚の実の老いて而して瘦せたる既に露月の少にして老成せると其趣味を同じくするものあり。其の皮を柚にして、腸を味噌にし、一緑葉を粧ふて恬然(てんぜん、平気でいる様)として敧坐(きざ、坐る)するに至りては、露月と柚味噌と、蓋し是一是二なり。況んや其火上に置きて臀を烘(あぶ)らるるに当って、初は緘黙し、後漸く気息を漏らし黄沫(こうまつ)を噴く。直に蓋を取って味噌を嘗むるに冷、水の如し、怪みて、其底を探れば味噌煙を吐き柚香紛々として来るが如き、恰も此露月胸中の写真鏡に非ずや。何ぞ柚味噌の露月と相似るの甚だしきや
柚味噌怫々として怒って曰く我豈露月と似んや。我嘗て露月に似ず、露月或は我に似たらんのみ。我豈露月と似んや。乃ち歌ふて曰く
柚味噌を見るに蓋あり。七子豈紋なからん。柚味噌を見るに葉あり。露月盍ぞ髯を蓄へざる
歌ひ畢って復言はず
子規子さらに露月に謂ふて曰く爾(なんじ)、彼柚味噌の言を聴くか。柚味噌の言、微旨あり。昔爾の江湖に流落して東都に来るや、我一見以て異となす。推して職に文字に就かしむ。しかも爾は職に堪ふる能はず、一二年にして郷里に帰る。我病床に在りて熟々之を思ふ、惆恨(ちゅうこん、恨む)の情に堪へず。或は爾が志の堅固からざるを憐み、或は我が人を見るの明無きを愧ぢ、或は文学に志す者の末路は多く此の如くならざるべからざるかを歎きぬ。後爾の再び東都に来り医を学ぶや、我先づ其成否を疑ふ、思へらく薄命児、亦曩日(のうじつ、以前)の如けんのみと。而して今や爾の業成り志満ち錦を著て再び秋田に帰るの日に遇ふ。得意の状眉宇の間に溢る。我之を見る、喜んで而して泣かんとす。然れども文学は爾の余技にして其什或は世に伝はり、方技は爾の職分にして其名未だ人の知る所とならず、豈多少の慚愧無からんや。得意は爾が長く處るべきの地にあらず。長く處らば則ち殆(あやう)し。如かず疾く失意の郷に隠れ、失意の酒を飲み、失意の詩を作りて以て奥羽に呼号せんには。而して後に詩境益々進まん。往け
附記 此日即時即景を詠ずる者無慮(凡そ)200余句。左に記する句は十の一を挙ぐるのみ
掃きよせし落葉に雨の降り出しぬ 虚子
送別の萩留別の芒かな 碧梧桐
山茶花や子供遊ばす芝の上 子規
明治32(1899)年10月23日、石井露月が郷里の秋田に帰って医師を開業するというので、子規たちは道灌山胞衣神社で句会を兼ねた送別会を催しました。
露月は、子規が編集長をしていた「小日本」で仕事につき、日本新聞社で記者をしていましたが、脚気になって明治27(1894)年に帰郷することになりました。秋田の地で医者になろうと勉強し、学科試験に合格して京都の病院で働き、実技に合格したため、帰郷してふるさとの戸米川村と隣の種平村の村医を務めることになっていたのです。
集まったのは、子規、露月、高浜虚子、河東碧梧桐、内藤鳴雪、松瀬青々、大谷繞石、下村牛伴、坂本四方太、数藤五城、福田把栗、歌原蒼苔、佐藤肋骨らの面々で、巻き鮓、切り鮓、麺包、黄粉飯、缶詰、佃煮、カラスミ、サンドウィッチとさまざまな食べ物が並びましたが、虚子が持参した柚味噌が、この日のメインディッシュとなりました。
子規は突然、柚味噌と露月は、とてもよく似ている、と言い出します。柚子の花が華美になりすぎないようなところや、柚子の実に皺が多く痩せているところは、若い露月が老成して見えるのと同じだ。柚子の風情は、恬然と鎮座している露月の姿に通じる。火の上に置いて臀を炙られても、初めは静かにしているが、しばらくすると息を漏らして、黄色いしぶきを上げる柚味噌。蓋を取って味噌を嘗めると冷たく感じるが、その底を探れば熱い味噌が現れ、柚の香りが周りに漂う。心の芯に熱い意志を潜ませている露月と柚味噌は本当によく似ていると、子規は語っています。
喜びの涙を流す露月に、子規は「(医者となる露月にとって)文学は余技であるかもしれないが、人や作品が集まると世に伝わる。露月の職務の医学では、露月の名はまだ誰も知らない。早くふるさとに帰り、失意の郷に隠れて失意の酒を飲み、失意の詩をつくって、奥羽地方で叫び声をあげよ。そうすれば詩境がますます進んでくる。行け!」という、はなむけの言葉を続けました。この言葉を受けてか、露月はふるさと秋田で俳誌を出版し、子規からもらった「俳星」の誌名を掲げています。
Ø 闇汁図解 明治32年11月
時は明治32年10月21日午後4時過、處は保等登藝須発行所、人は初め7人、後10人半、半はマー坊(碧梧桐の子)なり。闇汁の催しに群議一決して、客も主も各々物買ひに出づ
準備出来る迄に一会催すべしとの議出づ。席上柿あり、柿を以て題とす
鍋の中から仁木弾正でもせり上がりさうな見えなり。ぬばたまの闇汁會はいよいよ幕あきとなりぬ。鍋の中を杓子にてかきまぜながら、「誰だ誰だ、大福を入れたのは」と碧梧桐叫ぶ。固より入れた者の外に入れた者を知らず。喰い喰いて鍋の底現るる時、第二の鍋は来りぬ。衆皆腹を撫でて未だ手を出さざるに、露月黙々として既に4椀目を盛りつつあり
初は牛飲馬食の勢あり。中頃は牛を飲み馬を食ふの概あり。第二の鍋の未だ半を盡さざるに、胃満ち神疲れ、漸く牛に飲まれ馬に食はれんずるの有様を示しぬ。我は柿腹を抱へて衆に先立って帰る。鳴雪翁は別に蛤1個宛を椀に入れて各々に配る。之に湯を注げば蛤自から開きて昆布、辻占、麩、鰕(えび)など躍り出る仕掛なり
Ø 根岸草廬記事 明治32年12月
去年の暮、虚子が生ける小鴨1羽を贈ってくれたので盥に入れて飼ふて居た
今年の春、又虚子から生ける鶉の番いひもらふた。昔から鶉は秋のものとなって居るから秋になったら善く鳴くかも知れぬといふて居たが、庭の萩の散る頃より盛んに鳴き出した
我住居の周囲には椎、槻、榛(はん)、椋(むく)などの4丈も5丈もあるのがいくつも突っ立って居るので鶯横町の方から見ると物凄いやうな感じがする。毎年此大木へ高いハゴ(仕掛け)を掛けて小鳥を取る例になって居る。囮を入れた籠を高い處に引き上げる。気の毒にも此ハゴに掛る鳥が少くても一朝に四五羽はある。其中に幸福な鶸(ひわ)が1羽あって其鶸は我内に貰はれて来た
此秋の野分に悉く倒れた鶏頭は別に枯れもしないで段々大きくなって行く。薄も刈ってしまひ、萩も枯れてしまひ、他の草は皆跡も留めぬやうになった冬の初に、十本余りの燃えるやうな鶏頭ばかりが残った。3日ばかりして、障子を明けられたから見ると驚いた、あれほど美しかった鶏頭は霜に打たれたか全く枯れてしまふて実に見苦しき残骸を留めて居た
明治31年の末、高浜虚子は子規に鴨をプレゼントしました。明治32年1月10日の「ホトトギス」に発表された『雲の日記』から抜粋
子規は「いつまでも鴨と離れたくなかった」ようですが、盥の中では長く生きていけないと思い、陸羯南の懇望で、元日に陸家の池へ放してやりました。
ここに登場する「六つばかりになる隣の女の子」「ともチャン」は、陸家の四女・巴です。巴はひんぱんに子規の家へ遊びにきました。『仰臥漫録』にも、明治34年9月5日は「午前 陸妻君、巴さんとおしまさんとをつれて来る。陸氏の持帰りたる朝鮮少女の服を巴さんに着せて見せんとなり。服は立派なり。日本も友禅などやめて、このようなものにしたし」、翌日には「午後おいくさん、巴さん、おしまさん三人来り。西洋の廻灯籠をまわして遊ぶ。皆蝦茶の袴也」と書かれています。陸家の姉妹たちが訪ねてきていることがよくわかります。また、9月5日には、子規は巴の規定た朝鮮の服を絵に残しています。妻てつは『正岡さん』で「陸も行けば、私も行く、特に宅の子供はしょっちゅう遊びに行き、小父さんが何していました、ああしていました、家に帰っては話しました。子規さんも、宅の子供を愛して、遊び相手になってくださるので、子供は朝に晩に出かけていました」と語っています。
陸家には、上から万亀、鶴代、幾子、巴、しま子、真末、五十子と、七人の娘がいました。男は生まれず、阪大医学部卒で医学博士の四郎を養子としています。長女の万亀子、次女の鶴代、四女の巴以外は生涯独身を貫いたといいます。
Ø 熊手と提灯 明治32年12月
本郷の金助町に何がしかを訪ふて帰り例の如く車をゆるゆると歩ませて切通の坂の上に出た
二の酉でしかも晴天であるから、昨年来雨に降られた償ひを今日1日で取りかへさうといふ大景気で、その景気づけに高く吊ってある提灯の赤い色が非常に愉快に見えて来た
坂を下りて提灯が見えなくなると熊手持って帰る人が頻りに目につくから、どんな奴が熊手なんか買ふか試に人相を鑑定してやらうと思ふて居ると、向ふから馬鹿に大きな熊手をさしあげて威張ってる奴がやって来た。職人でもあらうか、欲ばって居るやうな人相
明治32年(1899年)初出、俳句 雑誌『ホトトギス』より。金助町からの帰り、二の酉の夜。あざやかな提灯の景色、酉の市で熊手を買った人々を観察した随筆。
Ø 病 明治32年12月
明治28年5月大連湾より帰りの船の中で、何だか労れたやうであったから下等室で寝て居たらば、鱶(ふか)が居る、早く来いと我名を呼ぶ者があるので、はね起きて急ぎ甲板へ上った。甲板に上り著くと同時に痰が出たから船端の水の流れて居る處へ何心なく吐くと痰ではなく血であった。自分の行李から用意の薬を取り出し、自分の座に帰って静かに寝ていたが、自分らの頭の上は大尉以下の兵隊の仮の桟敷で、下に居る自分等がやうやう坐れる位なものだから、呼吸器の病に罹っている自分は非常に陰気に窮屈に感ぜられる。血を咯(は)く事よりも此天井の低い事が一番いやであった。固より病人の手あてなどしてくれる船では無いから、自分の薬を飲むが血はやはりとまらぬ。航海中の無聊は誰も知って居るが、自分のは無聊に心配が加はって居るので、只早く日本へ著けば善いと思ふばかり、永き夜の暮し方に困った
日本に著くと検疫があり、彦島へ上がって風呂にはひった。著物も消毒。上陸の喜びと愉快が3時間とは続かなんだ。何やら船中に事が起こり、同乗の軍夫が只今コレラで死んだといふ
1週間停船の命令が下る。再び鼎の沸くが如くに騒ぎ出した。自分も気が気でないので寝ても居られず、この船が我最期の場所かと思ふと恐しく悲しくなって1分間も心の静まるといふ事は無い。検疫官が来て下痢症のものは悉く上陸させるという。自分も上陸したくてたまらんので同行の人が周旋してくれたが、命令が無いから仕方が無いということだった
此夜から喀血の度は一層烈しくなったが、船中では吞み込んでしまはねばならぬ
漸く放免の許可が下りたが、荷物もあり歩行くたびに血を咯くので、連れの人に釣台(つりだい、板を台とし両端に吊り下げの棒を付けて2人で担いで物を運ぶための台)を頼み検疫所を出る。神戸病院に直行。1か月ぶりに蒲団の二三枚も重ねた上に寝た時は、丸で極楽へきたやうな心持で、これなら死んでも善いと思ふた。併し入院後1日々々と病は募りて後には咯血に咽る程になってからは又死にたくないのでいよいよ心細くなって来た。やがて虚子が京都から来る、叔父が国から来る、危篤の電報に接して母と碧梧桐とが東京から来る、といふ騒ぎになった。これが自分の病気のそもそもの発端である
Ø 新年雑記 明治33年1月
復新年を迎へた。うれしい。新年が嬉しいといふのは大方自分のやうな病人ばかりだろう
をととしの新年を迎えた時は前年の大患を切り抜けてとにかく次の年を迎へたといふ事が愉快でたまらなかったが、併しそれと同時に未来を考えた。それは来年の正月を迎へられるかどうかといふ事なので、これは自分に取っては容易ならぬ問題。今年も明日の発会式や福引に逢ふ事が出来たといふ其事が一番嬉しい。其「うれしい」がまだ盡きぬ内にはや次の大問題は首を挙げて来る、「来年の正月は」。「なに今年も」とやってのける勇気は最早なくなった。とにかく来年の正月迄は生きる積りだ。といっては見たが「とにかく」「迄は」「積りだ」といふ言葉を省く事が出来なかった
去年の正月と今年の正月と自分に格別違ふたこともないが、少し違ふたのは、からだの余計に弱ったと思ふ事と、年賀のはがきが意外に沢山来た事と、病室の南側をガラス障子にした事と位。ガラス障子にしたのは寒気を防ぐためが第一で、第二には居ながら外の景色を見るためであった。果してあたたかい。果して見える。予想しない第三の利益は日光を浴びる事
俳句雑誌『ホトトギス』明治33年(1900年)1月に掲載された随筆です。晩年の病床にあった子規が、新春を迎えた心境や出来事を、簡潔かつ写実的な筆致で綴っています。
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執筆時の状況: この時期、子規は脊椎カリエスが悪化し、病床での生活を余儀なくされていました。
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作品の内容:
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新春の喜びと同時に、昨年一年間の苦難を振り返っています。
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病床を囲む弟子たちとの交流や、福引を楽しむ様子などが描かれています。
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年が改まっても続く病苦のなか、文学への意欲が衰えていないことを示しています。
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例年通りの挨拶客とのやり取りや、正月の何気ない情景を写生的な筆致で描写しています。
関連する俳句
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生活苦を詠んだ句: 「新年や昔より窮す猶窮す」(福引に「窮す」という文字を引き、それを発句の題とした)
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正月の情景を詠んだ句: 「寝後れて新年の鐘を聞きにけり」、「暗きより元朝を騒く子供哉」
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病状を詠んだ句: 「長病の今年も参る雑煮哉」、「病牀を囲む礼者や五六人」
「小品」としての特徴
この作品は、俳句や短歌とは異なり、短い文章で構成された「小品文(随筆)」の一種です。子規は病床での生活を克明に記録しており、俳句における「写生」の手法が、このような文章表現にも反映されていることがわかります。
Ø ラムプの影 明治33年1月
病の牀に仰向に寐てつまらなさに天井を睨んで居ると天井板の木目が人の顔に見え、横に寐ると襖にある雲形の模様が天狗の顔に見える。ランプの火影に顔が現れたのは今宵が始めて
西洋の画に善くある子供の顔から、猿の顔、、丸髷の女、荒神様から耶蘇へと変わる
病の牀(とこ)に寝ていると、天井の模様がなにものかの顔に見える。
今宵ははじめて、ランプの火影が像を結んだ。
鬼神、猿、西洋の哲学者、丸髷(まるまげ)の女、三宝荒神、耶蘇……。
最後は仰向けに寝た人の横顔。
Ø 車上の春光 明治33年7月
4月29日の空は青々と晴れ渡って、自分のやうな病人は寝て居る足のさきに微寒を感ずる程であった。牡丹の頃には是非来いといはれた左千夫を本所の茅場町に訪はうと決心
今年になって始めての外出だから嬉しくてたまらない。狸横町の海棠はもう大抵散って居た。仲道の庭桜は若し咲いて居るかも知れぬと期して居たが、何處にもそんな花は見えぬ
やっちゃ場の跡が広い町になったのは見るたびに嬉しい。坂本へ出るとここも道幅が広がりかかって居る。左千夫は留守で、亀戸天神へ行く。秀真格堂は歩行いて往た。折あしく池の泥を浚へて居るところ。寒くなってきていよいよ不愉快をまぎらかしに歌でも作らうと相談したが、3人がだまって考へこんだが誰も出来ぬ様子
左千夫が戻って来て、(菊池)容斎の芳野、(河鍋)暁斎の鴉其外いろいろな絵を見せられ、それに就いての論が始まった。夕飯後も灯下の談柄は歌の事で持ちきった。歌界の前途には光明が輝いて居る、と我も人もいふ
Ø 明治33年10月15日記事 明治33年11月
余が病体の衰へは一年々々とやうやうにはなはだしく此頃は睡眠の時間と睡眠ならざる時間との区別さへ明瞭に判じ難き程なり
今日10月15日はホトトギス募集の1日記事を書くべき日なることを思い出づも、何も書くべき事なし。実に平凡極る日なり
先刻来慢性的嘔吐を催す事頻なり。こは殆ど平常の事なれど今夜は稍々多量なり。晩飯を喰ひ過ぎたりと見ゆ
附記 睡眠の時は多く仰臥なり。仰臥も後には背の痛み堪へ難くなれば其時は左向きに寝ぬ
此日位の熱は平常なり。此頃は筆取らぬ日さへ多ければ此日の如きは多くの仕事をしたる日なり。蓋し平日よりは余の気分の善かりしを證するに足る
「溲瓶(しびん)を呼ぶ」という五文字には、そうした女性たちに介護されている男性としての子規の、恥ずかしさと申し訳なさをはじめとする様々な複合した感情の寄り集まりのうえに、二人の女性介護者への気遣いもあらわれている。
「溲瓶を呼ぶ」という五文字があらわれるのは、朝昼晩のわずか三回。あまりにも少なすぎる。
そこに読者が気づくと、にわかに昼食の記述の際の「漬物と茶は用ゐぬ例なり。自ら梨二個を剥いで喰ふ。終に心(しん?)を噛み皮を吸ふ」という記述が「山」になっていることに注意が向く。喉がかわかないように塩分をひかえ、排尿が少なくなるよう水分をひかえているから、「梨」の「心」や「皮」まで、「吸ふ」ことになる。
こうした「山」をつなげていくと、『明治三十三年十月十五日記事』が介護を受ける側の人間と、介護をしてくれている人間との間の、心の動きの「山」並の「写生」になっていることが伝わってくる。
Ø 初夢 明治34年1月
(座敷の真中に高脚の雑煮膳が3つ4つ据ゑてある。自分は袴羽織で上座に著く)
千客万来、子規もすっかり元気になって応対に忙しい
目を明いて見ると朝日はガラス戸越しに少しくさし込んで、ストーブは既に焚きつけてある。腰の痛み、背の痛み、足の痛み、この頃の痛みといふものは身動きもならぬ始末であるが、去年の暮の非常に烈しい痛みが少し薄らいだ為に新年はいくらか愉快に感ずるのである。アヽけふもエー天気だ
明治時代の俳人・歌人・国語学研究家である正岡子規の随筆。初出は「ホトトギス」[1901(明治34)年]。正月、袴羽織姿で上座の席に座り、雑煮や屠蘇を飲んで、新年の句を詠む。近所をまわっては、新年の言葉を交わす。「君はいつから足が立つようになったのだ」と聞かれ、「今朝立って見たら君、痛みなんどはちっともないのだもの」と答える子規。だが、これらはすべて夢だった。起きてみると、腰や脊が痛む。
Ø 死後 明治34年2月
人間は皆一度づつ死ぬるのであるといふ事は、人間皆知って居るわけであるが、それを強く感ずる人とそれ程感じない人とがあるやうだ。余の如き長病人は死といふ事を考へだす様な機会にも度々出会ひ、又さういふ事を考へるに適当した暇があるので、それ等の為に死といふ事は丁寧反復に研究せられてをる。死を感ずるには2様の感じ様がある。一は主観的の感じで、自分が今死ぬるように感じるので、甚だ恐ろしい感じである。一は客観的の感じである。客観的に自己の死を感じるといふのは変な言葉であるが、自己の形体が死んでも自己の考は生き残ってゐて、其考が自己の形体の死を客観的に見てをるのである
冬になって来てから痛みが増すとか呼吸が苦しいとかで時々は死を感ずるために不愉快な時間を送ることもある。併し夏に比すると頭脳にしまりがあって精神がさわやかな時が多いので夏程に煩悶しないやうになった
明治時代の俳人・歌人・国語学研究家である正岡子規の随筆。初出は「ホトトギス」[1901(明治34)年]。人間は皆一度ずつ死ぬ。子規のような長病人は、死という事を考える機会が度々あり、また考える時間もある。死を感じるその方法は二種類あって、一つは主観的の感じで、もう一つは客観的の感じだと述べる
Ø くだもの 明治34年3月、4月
植物学の上より見たるくだものでもなく、産物学の上より見たるくだものでもなく、唯病牀で食ふてみたくだものの味のよしあしをいふのである。間違ふてをる處は病人の舌の荒れてをる故とみてくれたまへ
くだものの字義――くだもの、といふのはくだすものという義で、くだすといふのは腐ること。菓物(くだもの、食用となる木や草の実のこと)は凡そ熟するものであるから、それをくさるといったのである。大概の菓物はくだものに違いないが、栗、椎の実、胡桃、団栗などは果物とはいへず、木の実といふ。くだもの類を東京では水菓子といふ。余の国ではなりものともいふ
くだものに準ずべきもの――畑に作るものの内で、西瓜と真桑瓜は甘味があって生で食ふ所がくだものの資格を具へてをる
くだものと気候――江南の橘も江北に植ゑると枳殻(からたち)となる。熱帯に近い方の菓物は非常に肉が柔かで酸味が極めて少い。其寒さの強い国の菓物は熱帯程にはないが、やはり肉が柔かで甘味がある。中間の温帯のくだものは、汁が多く酸味が多き点に於て他と違ってをる。此頃の様に農芸の事が進歩すると、いろいろの例外が出来て来るのはいふ迄もない
くだものの大小――西瓜が一番大きいであろう。一番小さいのは榎実(えのきのみ)位
くだものと色――大概美しい皮がかぶさっていをる
くだものと香――熱帯の菓物は熱帯臭くて、寒国の菓物は冷たい匂がする
くだものの旨き部分――一般にいふと心の方よりは皮に近い方が甘く、尖の方よりは本の方即軸の方が甘味が多い
くだものの鑑定――皮の青いのが酸くて、赤いのが甘いといふ位は誰にもわかる
くだものの嗜好――何が最も好きかといふと、それは人によって一々違う
くだものと余――余がくだものを好むのは病気のためであるか。他に原因があるか一向に分らん。子供の頃から好きで、大きな梨ならば6つか7つ、蜜柑ならば15か20食ふのが常習
覆盆子(ふくぼんし、木いちご)を食ひし事――試験の直前脳が悪くなって帰国の途時、松本街道の猿が馬場といふ峠で路の端に木いちごの熟しているのを見つけ思ふ存分食ふた。奥羽行脚でも秋田から横手に行く途中の山路で木いちごの林を見つけ餓鬼の様に食ふた。神戸病院に入院していた時も、非情な衰弱で1杯の牛乳も飲むことが出来なんだが、少しばかりのいちごを食ふことを医者に許されて毎朝欠かしたことがなかく、その味がいつまでも忘れられぬので東京の寓居に帰ってきて後庭の垣根に西洋いちごを植ゑて楽しんでゐた
桑の実を食ひし事――信州の旅行は蠶時(こどき、蚕を飼う時、春)だったので木曾へ這入ると山と川の間の狭い地面が皆桑畑で、その老木に真っ黒な実がおびただしくなってをるのを食ひ始めた。味は世人に賞翫されぬが、他に較べる者も無い程よい味。何升食ったか分らぬが、寐覚の里へ来て名物の蕎麦を勧められたが、蕎麦などを食ふ腹はなく、木曾の桑の実は寐覚蕎麦より旨い名物である
寝覚蕎麦(ねざめそば) 島崎藤村の『夜明け前』第二部の中に、「木曽の寝覚で昼、とはよく言われる。半蔵等のように福島から立って来たものでも、あるいは西の方面からやって来るものでも、昼食の時を寝覚に送ろうとして道を急ぐことは、木曽路を踏んで見るもののひとしく経験するところである。そこに名物の蕎麦がある」という記述がある。「寝覚ノ床」は、江戸時代から木曽路を往来する旅人が、必ず足を止めて眺めた名勝であり、木曽川の流れによって侵食された花崗岩が鳥帽子岩、象岩、獅子岩などのさまざまな形で立ち並ぶ「木曽八景」のひとつである。
苗代茱萸(なわしろぐみ)を食ひし事――信州旅行の際、木曽の贄川は木曽路第一の難處鳥井峠の麓。名物蕨餅を勧められたが、茱萸がないか聞くと、誰も分からず、絵を描くと、サンゴミかといひ、いくらでもどうぞといふのでハンケチに一杯取りため、峠まで馬の背に揺られながら茱萸を食ふ
御所柿を食ひし事――神戸の病院を出た後、病を推して奈良へ遊びし時柿が盛んになってをる。柿などといふものは従来詩人にも歌よみにも見離されてをるもので、殊に奈良に柿を配合するといふようなことは思ひもよらなかった。国を出て10年振りに御所柿を食ふ。柿をむいてゐる十六七位のややうつむいてゐる女の顔にほれほれと見とれてゐた。自分の頭の上あたりにある東大寺の大釣鐘が初夜を打つ。初夜といふのが非常に珍しく面白かった
Ø 煩悶 明治35年?
時は午後8時頃、体温は38度5分位、腹も背も臀も皆痛む
寝返りしても痛いどころか、ぢっとしてゐても痛いや。アーアーいやになってしまふ。もうだめかな。もういかんや。ほんたうに人を馬鹿にしとる (未完稿)
没後に刊行された「子規遺稿子規小品文集」[1905(明治38)年]に収められている。「痛いナ」「苦しいナ」「じっとして居ても痛いや」などの痛切な言葉が連続して書かれている。
体の痛さを笑いに紛らわせなければならないくらい、苦悶の日々を過ごしていたのでした。ところが、明治35年8月10日発表の『病牀六尺』では、まるで極楽のように穏やかな風景を夢想しています。
Ø 9月14日の朝 明治35年9月
朝蚊帳の中で目が覚めた。尚半ば夢中であったがおいおいといふて人を起した。虚子は看護の為にゆうべ泊まって呉れたのである。余は口の内に一種の不愉快を感ずると共に、喉が渇いて全く湿ひのない事を感じたから、用意の為枕許の盆に載せてあった甲州葡萄を十粒程食った。何ともいへぬ旨さであった。金莖の露一杯という心持がした
「金莖の露一杯」(きんけいのつゆいっぱい)は、不老不死の仙薬を指す言葉で、とくに古代中国の伝説に由来します。具体的には、漢の武帝が建てた「承露盤」(しょうろばん)という銅製の高台にたまった露を、玉の粉と混ぜて飲んだという故事に基づく
四五日前より容態が急に変って、今迄も殆ど動かす事の出来なかった両脚が俄に水を持ったやうに膨れ上がって一分も五厘も動かす事が出来なくなった。此度の様な非常は苦痛を感ずるのは始めてで、病室には一種不穏の徴を示して居る。昨夜に限って殆ど間断なく熟睡を得た為であるか、精神は非常に安穏であった。余は病気になって以来今朝程安らかな頭を持て静かに此庭を眺めた事は無い。嗽(うが)ひをする。虚子と話をする。外を眺めて居ると、たまに露でも落ちたかと思ふやうに、絲瓜が1枚2枚だけひらひらと動く。其度に秋の涼しさは膚に浸み込む様に思ふて何ともいへぬよい心持であった。何だか苦痛極まって暫く病気を感じないやうなのも不思議に思はれたので、文章に書いて見たくなって余は口で綴る、虚子に頼んで其を記してもらふた。筆記し了へた處へ母が来て、ソップは来て居るのぞなといふた
編輯後記
この巻に収めた小説は『子規遺稿集』の『子規小説集』中にあった『月の都』『花枕』『月見草』『我が病』の4篇の外に、『一日物語』『當世媛鏡』『曼殊沙華』の3篇を加へてある
『月の都』は、明治25年、居士が大学在学中の作だが、発表は明治27年『小日本』紙上に於て。その稿本は2冊子規庵に残ってゐるが、これと新聞切り抜きとを対照してみると、猶余程推敲されたものであることが窺はれる。この署名は「卯の花舍」とある
次で『小日本』紙上に3~4月連載されたのは『一日物語』。署名は「黄鸝(こうらい)村人」
『小日本』は2月に創まって7月に廃刊。最後の連載が『當世媛鏡』。『月の都』には1,2回挿画があったきりで、『一日物語』には全然なかったが、『當世媛鏡』は殆ど全部挿画入であった。この切抜を綴ぢた表紙に居士自身の筆で「當世此賣かがみ、一名島田と束髪」と書かれてあるが、新聞に出た時には一名は省かれてゐた。この署名は「むらさき」である
『曼殊沙華』の草稿も亦子規庵に2種を存している。一は半紙を綴ぢたもので、表紙に「艸稿」とある。これを浄書されたのが唐紙の原稿紙70余枚になってゐるが、終りの方が少し欠けてゐる。欠けた部分だけは全部完結してゐる艸稿の方に従って補った。年代は慥(たし)かなところはわからないが、明治30年9月、10月の日記に「小説を草す」「小説を浄書す」などの記事が続いてゐるのが『曼殊沙華』のことではあるまいかと思ふ
『草枕』は明治30年3月春陽堂の請に応じて作られたもので、『新小説』第2年第4巻に掲載。同年9月春陽堂から出た『五色筆』の中に収めてある。『月見草』もこれと同時の作であることは、『子規小説集』の凡例にある通りである。『月見草』は『花枕』と同時の作で、初めこれを書きかけて、長くなりさうなので、改めて『花枕』を作られたらしい。皆署名は「のぼる」
『我が病』は今子規庵に原稿を存せぬが、これが草された時代は、明治33年『週間記事』の歌の中に、
「3月29日「我が病」を草す」 ともし火のもとに長ぶみ書き居れば鶯鳴きぬ夜や明けぬらん
とある一首によって推すことが出来る。居士の小説としては最後のもの
紀行は『発句を拾ふの記』が『小日本』に掲載されたものである外、他は盡く『日本』所載のもの。その中で『かけはしの記』『旅の旅の旅』『高尾紀行』『鎌倉一見の記』『はて知らずの記』等は居士自身纏められた『獺祭書屋俳話』(再販)中に収められてゐるものなので、子規庵所蔵の同書に従ひ、自ら朱を加へられたところは、それによって訂正した(『かけはしの記』の『日本』掲載は明治25年5月。24年6月とあるのはその執筆の時だろう)
紀行の大半が『日本』に出たものである如く、小品はすべて『ホトトギス』に掲載されたもの(『煩悩』が未発表の断片であることは言ふまでもない)
小品の名は元来厳密な意義を持ってゐるものでないから、この内容は固より一様でない。皆な編輯者の見る所によって分類した。『くだもの』の如きは前半は随筆的であり、後半と稍々趣を異にするが、もともと同じ題の下に2回に亙って書かれたものを両断するのも惜しいから、全部をここに収めることとした
小品中或は、『寒玉集』『寸紅集』等に収められ、続いて『子規小品文集』に載ったものがあり、載らぬものがある。一度雑誌に現はれたままのものもある。それ等の区別を明らかにすべきであるが、省略
本集中の文章は、在来刊行の物に比して多少辞句の相違がある。それは居士自身が登載の雑誌その他切抜に加へられた訂正に従ったものである
巻頭に掲げたのは『曼殊沙華』の原稿第1枚と、明治25年10月旅行中の写真とである。写真の裏には「我なりを見かけて鵯(ひよどり)のなくらしき」といふ句が記してある。『旅の旅の旅』紀行の際のものである
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