裏切り者は誰だったのか  Howard Blum  2024.2.13.

 2024.2.13. 裏切り者は誰だったのか CIAKGB諜報戦の闇

The Spy Who Knew Too Much 2022

 

著者 Howard Blum 1948年生まれ。作家。元『ニューヨーク・タイムズ』紙記者(ピュリッツァー賞調査報道部門で2回ノミネート)。ノンフィクションを中心に著書多数

 

訳者

芝瑞紀 青山学院大総合文化政策学部卒

高岡正人 東大教養学部卒。ハーバード大ケネディスクール行政大学院で修士号取得。外交官として、インド、英国、豪州などで海外勤務経験があり、外務省経済局参事官、財務省国際局審議官などを経て、イラク、モンゴル、クウェートで特命全権大使を務める。現在、中央大特任教授(国際関係論担当)

 

発行日           2023.9.5. 第1

発行所           原書房

 

 

読者への注記

本書の目的は、冷戦が残した大きな謎を解き明かすこと。それは、裏切りの証拠を負い続けた1人のスパイの真実に焦点を当てることでもある

 

プロローグ――罪の重圧

 

 

第1部     「もう一度あの突破口へ突撃だ」          197783

 

1.                    1978年 ブリュッセル

汚名を着せられてCIAを退きブリュッセルで暮らすピート・バグレーが対ソ連工作員2人の死の情報に接する。ピートは元CIAソ連圏部副部長で、CIAに潜むモグラを追っていた

1人は、コロンビアのソ連大使館にいた悪徳外交官オゴロドニクをCIAの工作員としてモスクワに送り込んだが、1977年失敗して自殺

2.      

もう1人はジョン・ペイズリー。夫婦でCIAに勤務、ソ連の最高機密を知り得るポストにいたピートの元同僚で、チェサピーク湾で腐乱した水死体で発見、CIAは自殺として処理

2つの事件を耳にしたピートには、CIAが間違った方向に進んでいるという確信があった

 

3.      

ピートはCIAを辞めて7年、54歳。66年に二重スパイの疑いで身辺調査され、無罪と分かった罪滅ぼしとして67年からCIAのブリュッセル支局長で5年勤務したが、本省に戻る時期になって、CIAの体質が対ソ緊張緩和の方向へすっかり変わっていることに失望すると同時に、戻ってもポストに恵まれないと判断し、退職を決意

2人の自殺のニュースを聞いて、KGBの手口だと確信したピートは、密かにCIAに戻る

 

第2部     スパイの家族           195484

4.      

1981年、ワシントンに戻ったピートは、54年連合国占領下のウィーンでKGBから寝返った諜報員デリアビンと面談。デリアビンはいまやCIAの敏腕分析官で、CIAの訓練生になっていたピートの娘と、国防情報局DIAの分析官でCIA防諜分析主任レイ・ロッカの息子とのお見合いをアレンジ、その席にピートが招かれたが、そこにはロッカも同席

 

5.     1947

ロッカは、第2次大戦後のヨーロッパで防諜活動に加わった後、本省で対ソ防諜分析官

 

6.     1966

ピートに理不尽な容疑がかけられたとき、ロッカも防諜部長のアングルトンも傍観しているだけ。嫌疑を上にあげたのは若い分析官クレア・エドワード・ペティ

 

7.      

ペティはアングルトンに報告したが、ピートは違うと言われ、今度はアングルトンを疑い、モグラ狩りに嫌気して辞職する際、作戦本部長にすべてを報告する。CIAは、アングルトンを別の理由で引退に追い込み、ロッカも退職

 

8.     1962

ピートは、亡命を考えていたKGB諜報員を名乗るノセンコにスイスで引き合わされる

モスクワ・センターに留まってソ連情報をリークするとの申し出

 

9.     1962

ノセンコは、アメリカから年間25千ドルもらいスパイとなることに同意

 

10.  

同じ頃に亡命してきたソ連側の工作員からの情報と照合したところ、CIAの上層部から漏れたとしか思えない情報をKGBが掴んでいることが判明したが、同時にノセンコがKGBからCIAに送り込もうとしたスパイであることも判明

 

11. 1964

1963年、JFKが狙撃された際、CIAは数週間前にオズワルドがメキシコのソ連大使館にビザを申請していたという情報を把握していたが、オズワルドの単独犯行説を固めるために黙殺していた。その翌年初にノセンコがスイスで亡命を求めてくる

 

12.  

ノセンコの尋問が始まったが、すぐにすべてが作り話だと判明したものの、KGBがノセンコを潜入させようとした意図については不明のまま

 

13.  

ピートはノセンコを尋問するにつれ、KGBのスパイが今もCIAの中枢に潜んでいるとの確信を持つ

 

14. 1964

ノセンコはポリグラフにかけられ、2年以上にわたって尋問が続けられた

 

15.

残忍な監禁がだらだらと続く一方で、成果が得られないとなると、CIA内部の意見が割れ、ピートのCIA内にモグラがいるとの憶測を妄想に過ぎないと否定する一派から、ピートに攻撃の矛先が向けられ、最終的にピートがまとめた報告書があまりに膨大で精緻だったために、逆に狂信者のレッテルを貼られ、上層部が引き取って再尋問した結果、矛盾点を上回る価値ある情報をもたらしたと判断され、善意の亡命者として釈放され、賠償を払われ、挙げ句CIAの防諜コンサルタントとして雇用。そのためピートのCIAでのキャリアが終わっただけでなく、CIA内部に抜き差しならない亀裂が走り、何年にもわたって深刻化し、内部での個人攻撃的なものになっていく。4年前にノセンコがKGBのスパイだと証明したピートにインテリジェンス・メダルが授与されたが、今回はノセンコ事件を解決した高官に同じメダルが授与された

 

16. 1981

引退してもピートの疑惑は人生の一部として残っており、ノセンコが突然スイスに戻ってきたことと今回の2人の不可解な自殺とは直線で結ばれていると確信

デリアビン邸で、意気投合した若い二人が去った後、ピートは対ソ強硬派のレーガン大統領と諜報部出身のケーシーCIA長官の下でなら自らの疑惑を晴らせると期待して、デリアビンとロッカに協力を持ちかける

すぐにピートはケーシー長官に長文の訴える手紙を書き、長官は内部調査を指示したが、報告書がまとまると「それ以上の検討は不要」としてお蔵入りとなる

2年後、若い2人は結婚し、ピートの兄で元欧州海軍司令官のデイヴィッド・バグレー退役大将の邸宅で披露パーティが開かれる

 

第3部     「モグラはモグラで捕まえる」           198487

17. 1984年 ブリュッセル

ピートが敗北を認め、新たな学究生活に入ろうとした矢先に、「元CIA職員、チェコのスパイとして拘束」とのニュースを目にし、自分が警告していたことが現実になったと悟る

昔の同僚などから集めた情報では、CIAに潜り込んだモグラのチェコ工作員の通報で、CIAKGBに仕込んだモグラが次々に処刑されていたことが判明。改めてその事実を基に、ノセンコ事件と2人の自殺事件の関係を繙き、CIA内部に潜むモグラがアメリカのオペレーションを打ち砕いたという事実を隠すための偽装工作がなされていることを突き止める

「モグラはモグラによって捕まえる」べく、チェコ工作員を使うことを思いつく

 

18. 1962

チェコのスパイのケッヘルは、65年チェコ諜報局の目に留まり夫婦そろってCIA潜入の候補者とされ、コロンビア大に入学、ブレジンスキー共産問題研究所に入り、72年には米国市民権取得、ブレジンスキーの推薦状をもってCIAに就職

 

19.

ケッヘルは、能力を買われて頭脳部に入り込んでいく。一方で、妻の方はセックス・クラブでCIA上級職員や国防の上層部相手に情報収集に余念がなかった

1984年、夫妻のスパイ行為が発覚して刑務所入りするが、ソ連が夫妻の功績を認めて、反体制派の1人を釈放してイスラエルへの移住を認めさせるという東西間の囚人交換に夫妻の解放という条件を組み込む

 

20.  

ピートは、独力で調査を進め、丹念にケッヘル夫妻の行動の中の疑問点を解明していく

ケッヘルが、CIA内に潜むモグラと共謀しCIAの裏をかいたことが朧げながら浮上

 

21.  

徐々にモグラの実像が絞り込まれてくる。ワシントンに常時いて、自分が管理する二重スパイに指示を出し、保護するためにいつでも駆け付けられる場所にいなければならない

 

第4部     「狙いを定める」          198790

22.  

2人目の水死体となったペイズリーに目をつける

ピートは、ノセンコを拘束した後、KGBとケネディ暗殺事件との関係についてノセンコが何を知っているのか聞き出すために苛烈な尋問を行ったが、釈放されたノセンコは1970CIAからの賠償金を得てノースカロライナに住むが、その家をピートと共に尋問側にいたペイズリーがたびたび訪れ、親友として交遊を深めていた

 

23.  

ペイズリーが、KGBを裏切って米国に亡命した者たちを匿うための施設を頻繁に訪れ、デリアビンともそこで面談しており、彼らの報告を聞く立場にいた事が判明

 

24. 1948

1948年、イスラエル誕生後のアラブとの和平協定の仲立ちをしたスウェーデン貴族ベルナドッテ伯爵の使節団に無線技士として同行したのがペイズリー。伯爵が路上で狙撃され、犯人は不明のまま。たまたまその前後にペイズリーはアングルトンと出会い、CIAの世界の諜報網を作るための要員としてスカウトされる

 

25. jj

ペイズリーは、諜報を扱う「ダークサイド」ではなく、「ホワイトサイド」にいながら実績を積んで、ダークサイドの情報へアクセスすることに成功

 

26. 1966

CIAの長官(6673)ディック・ヘルムズは、元現地工作員。長官就任の上院承認の直前、駐米ソ連大使館勤務のKGB少佐を名乗る男から二重スパイの申し出を受け、うっかり乗ったばかりに亡命してきたソ連将校が殺害されるが、そこにもペイズリーの名が出てくる

 

27.  

ピートの推測は、自殺した2人にヘッケルを加えた3人の関係へと進む

ヘッケルとペイズリーは共にワシントンのセックス・パーティーの常連だと判明

ところが、ペイズリーはCIAでのキャリア積み上げの真っ最中の7451歳で突然退職

 

28. 1972

米ソ2大国がSALT Iの軍備制限条約に調印し、加熱した核兵器拡大競争に歯止めがかかったときにCIAチームが盗聴したのは、ソ連側が想定外の新型強力核弾頭弾を装備するという情報で、7677年にかけてCIA内部で議論の結果、強硬派の狂信的な偏見が支配することとなるが、そこで活躍したのがいつの間にかCIAに戻ってきたペイズリー

 

29.  

ペイズリーの行動を子細に見ると、米ソ両サイドに重要な情報を流しており、混乱が見られるが、CIA側はそのサインに気付くことなく、ペイズリーに責任ある仕事を与え続ける

 

30.  

さらに、ペイズリーの妻がCIAの、それもソ連圏部の短期契約職員であることが判明、しかも彼女は敵陣内で活動するすべてのCIA工作員の情報にアクセスできる立場にいた

その上、彼女の上司の夫ジョン・ハートはCIA職員で、ノセンコ尋問の苛烈さを非難してピートを狂信者呼ばわりした張本人だと判明。悪意のある誹謗中傷を流してピートを攻撃

ペイズリーの生活が息子の交通事故を機に破綻していく。妻とも離婚が成立

1978年、CIA職員から保安部長に、「ペイズリーはKGBに通じている」との連絡が入る

 

31. 1978

ピートと同じ様にKGBのモグラがCIAに入るとかねがね訴えていたサリヴァンは、CIA内部で受け入れられない不満を上院議員に流したため、保安部長から追及を受けるが、その際モグラ候補としてリストされた10人のうちの1人だったペイズリーが、何年もポリグラフ検査を受けていないことが判明。高いレベルのセキュリティ・クリアランスを持つ者は、全面的な身元確認調査を定期的に受けなければならず、その召喚の通知が来た時、覚悟を決めたペイズリーはヨットで海上に出たが、彼の生きている姿が確認されたのはそれが最後。上院情報委員会がペイズリーの死をめぐる調査を行い、「卓越した功績を損なう情報はなかった」と結論付けるが、ペイズリーの死の謎については触れず、真相解明もされないまま残る

ペイズリーの水死体発見から12年後、ジェシー・ヘルムズ上院議員が上院外交委員会で、ペイズリーの死について公式に質問を投げかけ、ソ連に通じていた可能性の審査を要求

 

第5部     「月の裏側」                19902014

32.  

ソ連の崩壊を経て、ピートは残された疑問の解明と過去に受けた誹謗中傷への疑いを晴らすため、元KGB幹部も含めかつての交友関係を掘り起こすことから再開

 

33.  

1994年、ピートは元KGBのコンドラシェフ中将と面談、以後中将が死ぬ2007年まで友人として親交を深める中で、KGBの中の秘密部隊第14部の存在を知り、その内情を明らかにする本の執筆を始める。彼の証言から明らかになったのは、CIAに潜入した二重スパイによって、KGBを裏切った工作員たちが次々に殺され、その二重スパイであるモグラを守るためにノセンコが送り込まれた

 

34.  

最後にピートはコンドラシェフに、ペイズリーが何者なのかを尋ねるが、コンドラシェフはピートを共同墓地に連れて行ってここに眠っているとだけ示唆

ピートもまた2010年、4年前に癌を宣告され死の床に就く。CIAを蝕んだ「裏切りの歴史」との戦いを通じてわかったことを書いた。組織の怠慢、プロとしての信念の欠落、そうしたことを世間に訴えたかった。裏切り者はこれからもアメリカの諜報機関の脅威になるだろう、と警告しておきたかった

 

エピローグ――秘密の重圧

ペイズリー夫人は、CIA職員として過ごした20年の間に抱え込んだ秘密の重圧に押しつぶされそうになる。火葬されたのは夫ではないという手紙を書いてCIAのトップに真相解明を迫る。彼女の下には毎月違う家族を気遣う言葉を書いた絵ハガキが届く

 

 

 

原書房 ホームページ

CIAの対ソ連防諜責任者だったピート・バグレーは、ある囮スパイの存在からCIA内部にKGBの密告者が潜んでいると確信する。疑惑が新たな疑惑を呼ぶ諜報戦の闇を、元『ニューヨーク・タイムズ』の名物記者が記す話題の書。

 

 

裏切り者は誰だったのか ハワード・ブラム著

CIA内の「モグラ」を追え

20231125 2:00 [会員限定記事]

本書は冷戦期米ソ間の熾烈なスパイ戦を描いたノンフィクションだ。大筋は米国中央情報局(CIA)に潜り込んだソ連国家保安委員会(KGB)のスパイが誰なのか、その真実を50年にもわたって追い続けたCIAの敏腕スパイ、ピート・バグレーの物語である。バグレーは2014年に亡くなっているが、膨大な調査記録を残しており、それら資料を基に聞き取り調査を行った、作家ハワード・ブラムの手によって本書が上梓された。

原題=THE SPY WHO KNEW TOO MUCH(芝瑞紀・高岡正人訳、原書房・2970円) 著者は48年生まれの作家。元米ニューヨーク・タイムズ紙記者。

冷戦期、東側の情報機関は若者を米国に送り込み、時間をかけてCIAに就職させるような浸透工作を行っていた。そうやってCIAに潜り込んだモグラは、機密情報を東側にもたらすようになる。1962年のキューバ危機の際、ソ連の軍事情報をCIAに伝えたオレグ・ペンコフスキー・ソ連参謀本部情報総局(GRU)大佐は、裏切りが発覚して逮捕・処刑されているが、この一件にもCIA内のモグラが関与した可能性が濃厚だという。もちろんCIAの方もモグラを探しだそうとするわけだが、KGBは常にその一歩先を行く。モグラの正体が発覚しそうになると、KGBが亡命者を送り込み、偽情報によってCIAの調査をかく乱しようとする。CIAが亡命者に気を取られている間に、追及の手は緩み、真相は闇の中、といったことが繰り返される。こうして冷戦が終結するまで、モグラの正体は不明のままであった。

バグレーはモグラ狩りのため、同僚に疑いをかけるようになり、CIAから疎んじられるように退官している。しかし彼はその後も、真実に迫ろうとした。バグレーが注目したのは、78年に変死したジョン・ペイズリーという元CIAのスパイだ。ペイズリーの死には不審な点が多かったにも関わらず、CIAは早々にその死を認めて、死体を火葬処分しており、80年には議会調査委員会の報告書も、外国の情報機関の関与を立証する十分な証拠がない、と結論づけている。バグレーはペイズリーこそがモグラであり、死を偽装して逃亡したのではないか、という仮説を立て、残りの人生をかけてその正体を暴こうとする。本作はジョン・ル・カレの小説『ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ』を髣髴とさせる、ケレン味のあるスパイ物だが、こちらは紛れもない実話なのだ。

《評》日本大学教授 小谷 賢

 

 

 

 

 

 

 

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