日本軍の治安戦  笠原十九司  2024.1.30.

 2024.1.30. 日本軍の治安戦 日中戦争の実相 (戦争の経験を問う 全13)

 

著者 笠原十九司(とくし) 1944年群馬県生まれ。東教大大学院修士課程中退。都留文科大名誉教授。中国近現代史、東アジア近現代史。博士(学術)。著書に『南京事件』ほか、歌集に『笠原十九司歌集 同時代』

 

発行日           2010.5.25. 第1刷発行      

発行所           岩波書店

 

 

プロローグ 山西省の治安戦における宮柊二と田村泰次郎

l  歌集『山西省』(1949)に歌われた治安戦

戦後短歌の代表的歌人宮柊二は、193927歳で補充兵として召集、4年間山西省で治安戦に従軍。その時詠んだ歌を収めたのがこの詩集

敵兵を殺した瞬間を詠ったのが以下で、中国兵の刺殺に慣れていたことが窺える

ひき寄せて寄り添ふごとく刺ししかば声も立てなくくづをれて伏す

治安粛正作戦を展開した部隊で、独立して敵軍の背後に行動し、敵の退路を遮断するなど、あらゆる手段を尽くして本軍の作戦を有利にさせるための活動をした別働部隊。重火器を持たず、銃を使用せずに討伐・殺戮する

l  田村泰次郎『裸女のいる隊列』に描かれた治安戦

戦後すぐに『肉体の門』(1947)を書き、肉体の解放を唱える肉体派作家として文壇にデビューした田村は、194046年の山西省での従軍体験をもとに『肉体の悪魔』(1947)、『春婦伝』(47)、『蝗(いなご)(65)など、朝鮮人慰安婦、八路軍女性兵士との肉体的な恋愛関係などをテーマにした多くの戦争文学作品を書いている。最前線での厳しい戦闘生活から宣撫班に転属となり、文化活動による治安戦に従事。『裸女のいる隊列』(54)は、前線での戦場体験を回想した短篇で、日本軍が行った抗日根拠地、抗日ゲリラ地区に対する殲滅作戦について詳述――時には皆殺しの軍命令が出たこともあり、兵士より農民の方が多いくらいの死者をみる。惨殺の様子は、各種の証言から裏付けられている

l  治安戦と三光作戦

「治安」とは、『管子』の一節「万物を生養するは、地の則(おきて)なり、百姓(ひゃくせい)を治安するは主(天子)の則なり」に由来し、治安戦とは「治安を確保するための戦闘」であり、日本軍の治安戦とは日本軍が確保した占領地の統治の安定確保を実現するための戦略、作戦、戦闘、施策などの総称だが、中国側が「三光作戦」として恐れ憤ったのは、中国語でいう「三光」、即ち焼光、殺光、搶(そう)”(焼き尽くし、殺し尽くし、奪い尽くす)で、日本軍の徹底した掃討作戦を意味した。歴史研究でもその全貌は明らかにされていない

特に華北中心の共産党が指導する抗日根拠地(解放区)や抗日ゲリラ地区(遊撃区)での無法振りが、八路軍の退避戦法と相俟って、民衆の犠牲が遥かに膨大なものとなった

日本軍の治安戦が、どのようにして中国側で三光作戦と言われるものになったのか、日本軍の意図とは逆に多くの農民を中国共産党の方へ追いやり、抗日戦争を激化させる結果になったのはなぜか、それらの実態と全体像を明らかにすることなくして、日中戦争の実相に迫ることはできない。本書では、治安戦を「おこなった側」の論理と、「された側」の記憶とを照合させながら、日中戦争の実相に迫る

 

第一章     日中戦争のなかの治安戦

1      日中戦争の開始

l  中国における二つの戦場と治安戦

日中戦争では、日本軍に対し常に2つの戦場が存在――中国ではこの2つを「正面戦場(国民党軍戦場)」と「敵後戦場(共産党/解放区戦場)」と呼び、前者が正規軍同士の戦い、後者は共産党勢力を中心とする抗日ゲリラ部隊による非正規戦を展開

非正規戦の中で、日本軍が抗日根拠地と抗日ゲリラ地区の徹底的破壊を目指して燼滅掃討作戦を展開したのが「治安戦」で、後方戦場における日本軍の作戦と戦闘、工作の総称

①開始期(193739)、②本格化期(40)、③強化期(4142)、④弱体化期(4345)に区分

l  盧溝橋事件

盧溝橋事件を皮切りに、日本軍は華北で総攻撃を開始。満蒙政策拡大に走り山西省を軍事占領。一方、華中・華南を作戦領域とした海軍も、第2次上海事変を契機に華中戦場を拡大、大本営が設置され正式に南京攻略を下令して「事変」から「戦争」遂行へと発展

l  治安維持工作の始まり

華北の占領地に日本の傀儡政権を設立し、日満支蒙を合わせてソ連に対抗する反共ブロックを形成して日本の国体護持を図るとともに、同地域の資源を獲得し、市場を支配することを目指す、日本軍による治安維持はそのために必要だった

北京に臨時政府を成立させ、従来の県政府―村の地方行政機構を復活させ、占領統治の安定確保を図るとともに、日本人顧問を指導員として占領地行政の治安を確保しようとした

 

2      1938年の作戦と戦闘

l  長期総力戦へ

武漢・広東作戦により、重要都市のほとんどすべてを占領下においたが、それが軍事動員力の限界、近衛師団以外の33師団すべてを大陸に派遣したが、国民党は徹底抗戦

l  華北の占領地統治

中国では伝統的に県が地方行政の中心になっていて、県城と呼ばれる地方小都市に行政府が置かれ、県城を中心にして周囲に多数の農村が散在。日本軍は県城を占領すると宣撫工作員を派遣、県政連絡員を軍属として現地募集し、治安情報の蒐集と謀略を行う

l  特務機関の宣撫工作

軍占領地の治安工作にあたったのが、北支那方面軍の特務部で、各軍師団に宣撫班を配属

支那事変直後の8月、満鉄派遣要員数十名が配置されたのが最初、2年で2千人を超えた

特務部は、日中戦争における占領地の拡大に伴い、現地政権を育成するために、現地部隊に所属する現地政務指導機関として設置された。最初が事変勃発直後の北支那方面軍特務部で、特務機関の上部組織。特務機関は、各省に省名を付して設置された実働部隊。38年興亜院設置により両者とも廃止され、興亜院に設置された各連絡部に統合されたが、その後も軍の特務機関がその活動を手放そうとせずに各地で「治安工作」活動を継続していた

華北占領拡大に伴い、内地財界の華北経済進出への要望が激しくなり、統括機関として陸軍省軍務課が中心となって国策会社の北支那開発が11月に設立される

 

3      1939年の作戦と戦闘

l  泥沼の戦争へ

大規模な侵攻作戦を実行する余力のなくなった日本軍は、重慶を抗戦首都に定めた国民政府軍と対峙するが長期持久戦に突入

l  天皇制集団無責任体制

軍部の独走を天皇は追認し、むしろ激励する役割を果たす

戦争指導は、天皇の統帥権を利用した軍部の集団指導体制になっていたが、国家主権者であり、軍隊の統帥権を持つ天皇は、神聖にして侵すべからずとされる存在であり無答責。天皇に近い、軍中央の高級エリートほど天皇を騙(かた)って責任を問われない構造

l  重慶爆撃

中支那派遣軍が地上戦の行き詰まり打開のために考えたのが、38年末陸軍航空兵団に要請して行った爆撃で、翌年には海軍航空隊も参加して本格化したが抗戦気力は衰えないどころか、無差別攻撃の惨状が国際的な批判を呼び、アメリカの対日制裁発動を誘引した

l  汪精衛政権樹立工作

38年末、近衛内閣は「東亜新秩序声明」を出し、「国民政府を対手とせず」声明を事実上撤回し、国民政府内の汪精衛はとの提携による和平を呼びかける。汪精衛は孫文と並ぶ革命指導の長老で、蒋介石政権の副総裁だったが、「和平救国論」を唱えるようになって蒋介石と対立していた。日本軍の2枚舌に乗せられた汪精衛は支持者を失い形ばかりの汪政権は発足したが、日本による中国の全面的制圧の要求を受け入れたもので作戦は失敗(桐工作)

l  海軍の海南島占領

戦局行き詰まりのなか、海軍主導で行われたのが海南島攻略作戦、ほとんど無抵抗で占拠完了。島内の抗日ゲリラ掃討の治安戦を実施

l  南寧占領と北部仏印進駐の強行

南寧は中国からベトナムへ通じる対外貿易路の要衝で、仏印援蒋ルートの重要拠点

陸軍がノモンハンの汚名挽回を期して南寧転進を目論み大本営を説得。欧州のどさくさに紛れて敢行するが、これが後の北部仏印進駐に発展する重大な意義を持つことに

l  関東軍の暴走によるノモンハン事件

関東軍は、シベリアや沿海州への武力侵攻も想定した北進論を唱え、満洲国を基地として対ソ戦を計画。作戦参謀の辻政信少佐起草の「満ソ国境紛争処理要綱」は、自ら設定した国境線を基準に、侵入するソ連軍の撃退を認めるもので、容易に局地戦に発展

辻は、作戦失敗の責任を前線の連隊長以下になすりつけ、多くの自決者を出す

 

4      華北における治安工作の開始

l  日支新関係調整方針

193811月、御前会議は「日支新関係調整方針」を決定、今後の対中国政策の基本方針とする――日満支3国による東亜新秩序を謳い、北支那方面軍占領下の華北を第二の満洲国化する方針を明示。点と線の支配から面での掌握を目指し、重要資源開発と取得のために、活発な治安粛正工作によって要地要域の面的占拠を期す

l  「治安粛正」の目的

19393月、北支那方面軍司令部は「治安粛正要綱」を策定、八路軍の百団大戦により治安戦のあり方が大きく転換するまでの治安行動の具体的方法を提示し準拠となる

美文長の文章で作戦の理念と目的が書かれているが、華北民衆の生活福祉を増進して、民衆の信頼を獲得することが繰り返し強調され、侵略・加害の意識を持たせないような内容になっているが、現実は全く相反し、多くの華北民衆を抗日闘争の側に追いやる結果に

 

第二章     華北の治安工作と「第二の満州国化」

1      北支那方面軍の治安粛正計画

l  長期化する戦争

北支那方面軍の司令官は杉山元大将、参謀長は山下奉文中将、参謀副長は武藤章大佐

本書でいう「治安戦/治安作戦」とは、北支那方面軍による治安粛正作戦の略称、日本軍が匪区(ひく)と称した抗日根拠地、匪賊と称した抗日勢力への討伐作戦のこと。「治安工作」とは、占領地確保、民心掌握のための諸施策・工作のこと

l  治安工作の思想と目的

193940年にかけて3期に分けて計画・実施

1期では、占領地の拡大と安定統治のための治安工作に重点が置かれ、地方優良住民をもって所要の臨時宣撫班を編成して討伐後の迅速な治安宣撫を実施する

軍隊は軍務である討伐船(治安戦)に専念し、軍に隷属する特務機関が政務である治安工作を担当するという分担関係を構築

 

2      北支那方面軍の軍政実施

l  抗日意識の高まり

占領地の拡大と支配を目指した治安工作の強化と新党が、現地住民の憤激と反発・抵抗を惹起し、抗日闘争へ決起させ、抗日根拠地の形成と発展を促進させたことを明らかにするが、そもそも「治安関係事項」の内容に、中国民衆の抗日意識を誘発する問題があった

地方優良住民による自治組織自体困難で武力による強制となり、民衆感情と意識を逆なでするものとなり、日本軍の意図を中から崩していく結果となる。民間銃器の買収にしても、武装自衛の伝統を持つ農民を無防備にさせただけで、農民のゲリラ参加を促すだけだった

華北では、北京・天津を発信地として、満洲以上に抗日意識が強く、35年の学生による12.9運動を頂点とした華北分離工作反対運動が繰り広げられていた

l  新民会と宣撫班の統合

中華民国臨時政府の組織の新民会と宣撫班を統合して治安工作の1本化を図ろうとしたが、軍命令による強行だったことから、新民会の指導に協力してきた満洲国の日本人も含め、現地民衆の強い反感を惹起、さらに治安戦の経費も総て臨時政府に付け替えられたため、現地住民には重い負担となり、反発と抵抗を加速

 

3      華北の「第二の満州国化」

l  華北経済の収奪的支配

治安工作は、華北経済の支配についても詳細に定めており、日満経済ブロックへの強制編入と第二の満州国化の意図が明確に示された

19399月時点で、北支那と中支方面軍を統合して支那派遣軍を創設した際の総兵力は85万で、関東軍を凌ぐ外征大兵団。北支那だけでも30万を優に超える兵員が配置

l  県城と農村の支配

北京近郊の模範区域に保甲制度を実施する模範計画例を示し、全軍に周知徹底させた

農村の10戸と甲とし、10甲を保として、自衛団を組織して連座制により統制

l  プロパガンダ工作

農民を対象に、思想宣伝ビラ・ポスターを使って反ソ連、反共、反蒋介石のプロパガンダ工作を実施したり、「対匪特殊戦闘法」などの名目で教育訓練を強制したりする

l  「第二の満州国化」構想と興亜院

治安粛正計画の本音は、参謀副長の武藤がかつて関東軍参謀として推進した華北分離工作を延長拡大して、華北全体に及ぼそうとした「第二の満州国化」の構想

長期持久戦への転換に際し、対中国政策を総合的に調整・遂行する新官庁の設置が陸軍省から提唱され38年末に興亜院設立――総裁は首相、初代総務長官は柳川平助陸軍中将

地域ごとに連絡部が設置され、占領地行政を統括。華北連絡部長官には北支那方面軍特務部長の喜多誠一陸軍中将が就任。占領地の軍政は軍司令官の権限であり、興亜院は統帥権干犯だとして、現地軍の特務機関が各地で活動を継続したため、興亜院の役割が著しく限定された。1942年東条内閣が大東亜省を設置したことにより興亜院も廃止

 

4      華北における治安戦の開始

l  治安戦の開始

1939年、華北の治安粛正作戦及び治安工作開始。対象は、河北・山東・山西・河南・察哈爾(チャハル)5省、388県のうち312県で県政が復活するが、年央から中共軍の台頭が顕著となり、国民政府系や土匪も混在し、軍隊を出動させての治安戦も開始

l  治安戦初期の状況

39年を通じて、北支那方面軍の治安戦は開始されたばかりで、共産党と八路軍に対しても早期に芽を摘んでおくという程度の認識で、さほど重大視はしていない

 

第三章     百団大戦と治安戦の本格化

1      1940年の作戦と戦闘

40年の正面戦場での主な戦闘は、中支那派遣軍による宜昌(ぎしょう)作戦で、重慶に500㎞まで迫り、陸路・水路の経済封鎖と空からの爆撃を行ったが、戦況の打開には至らず

l  ドイツ軍の攻勢に幻惑された日本

ヒトラーの予想以上の侵攻の成功を見て、近衛の「東亜新秩序建設」から南進政策による東南アジアへの領域拡大を目指した「大東亜新秩序建設」を唱えるようになる

409月、日独伊三国軍事同盟締結

l  南進へ

同月、日中戦争解決を図ろうとすることもないまま、南支那方面軍が支那派遣軍司令部に無断で北部仏印への武力進駐開始。アメリカが航空機用ガソリンと屑鉄の対日禁輸発動

 

2      百団大戦の衝撃

l  八路軍の攻勢

408月、朱徳率いる共産軍が山西省中心に大部隊による猛反撃に転じ、各地で日本軍警備隊を急襲、鉄道・道路が寸断され日本軍は孤立

l  甚大な被害

40年の日本側の死傷者は18千人、うち百団大戦によるものが多かったのは間違いない

 

3      なぜ百団大戦が発動されたか

百団大戦は、日本軍占領地で展開された戦闘の最も大規模なもの

l  華北における抗日根拠地の成立と拡大

1937年、蒋介石は朱徳を総指揮とする紅軍3万を八路軍として国民政府軍に正式に編入、武器や軍費もわずかながら補給。さらに延安にあった共産党の革命政権を正式に地区政府として承認。さらに華中に留まっていた紅軍の諸部隊を新四軍として改編し国民政府軍に編入、第2次国共合作が正式に発足(37)、正面戦場と後方戦場の役割分担が成立

1938年、八路軍が山西省五台県(北京の南西、仏教の聖地)に地区政府を樹立、蒋介石も承認し、最初の抗日根拠地成立。共産党は、地区政府を国民党政府から独立した地方革命権力に築き上げ、民衆を組織していく。自給自足体制を築き、兵学校が作られ、兵員も養成

l  八路軍総司令朱徳の報告

日中戦争開始時に北支那方面軍が華北一帯を軍事占領するに伴って多くの住民を殺戮し、残虐行為を働いたいことが、民衆を憤激させ、自らを守るために動かざるをえなかったことが抗日ゲリラ闘争、抗日根拠地の急速な拡大を招き、共産党が組織した百団大戦によって北支那方面軍の対共産党意識が一変したことで日本側の三光作戦が本格的に開始された

l  百団大戦を発動させた内外情勢

北支那方面軍が華北5省の制圧に動く際に発動されたのが「国家犯罪としてのアヘン政策」

1940年、八路軍総司令朱徳が「戦役準備命令」を発令、大規模な交通破壊作戦が始まる

中共中央がフランスの降伏によって生じた国際情勢を分析、日本の新たな南進政策により重慶政府への圧力の高まりから、国民党政権の投降を阻止する目的で行動を起こしたもの

百団大戦の勝利が、全国軍民の抗戦に対する自信を高め、強大になっていく契機に

 

4      報復としての治安戦の本格化

l  報復作戦決行

北支那方面軍は、皇軍の威信保持のためすぐに反応し、特に被害の大きかった山西省中部に対し晋中作戦を開始。徹底的な「燼滅掃討」を企図した三光作戦実施命令が発動された

八路軍は退避戦術を取ったため、大きな戦闘はなく、日本軍の報復行為が続く

l  抗日民衆対象の三光作戦

日本側は従来の対共意識を改め、治安工作中心から治安戦重視に転換。同時に、主敵が国民政府軍から共産党軍に移り、軍隊相手から民衆相手に変化。戦時国際法に違反する非人道的な行為も構わないという治安戦の思想と方針が明示された

417月、粛正建設3か年計画を立案、その後の抗日根拠地への治安戦の基本方針に

 

第四章     アジア・太平洋戦争と治安戦の強化

1      1941年の作戦と戦闘

l  国策の奔放からアジア・太平洋戦争突入へ

416月、ドイツのバルバロッサ作戦開始とともに、日本はアジア・太平洋戦争突入に向けて国策を急転回。日中戦争の解決策を放置したまま、対米・ソの戦争を決意し、その開戦準備のため南北併進の国策を決定

l  「関東軍特殊演習(関特演)」=対ソ戦発動準備

北進については、関東軍の増強施策に基づき、「関特演」の秘匿名称のもと85万人26個師団基幹態勢を整える大動員を決定。4月に締結したばかりの日ソ中立条約を無視してすぐにも開戦の予定だったが、ドイツ軍の侵攻が思うように進まず頓挫

l  強硬派による対米開戦決定

南進は、南部仏印進駐を下令。アメリカは在米日本資産の凍結と対日石油禁輸で対抗したため、北進派と南進派が衝突、参謀本部を牛耳っていた南進派が勝って対米開戦へと進む

それに伴い、中国戦場の日本軍は南方へ抽出する対象となり、日中戦争の勝利は不可能に

 

2      華北の総兵站基地化

l  アジア・太平洋戦争開戦

太平洋戦争突入により、日中戦争の性格は大きく変わる。開戦翌日国民政府も対日独伊宣戦布告を行い、日中戦争は第2次世界大戦の一環となる。421月、26か国による連合国共同宣言発表。華北の治安戦の性格も大きく変化し、日本が華北に対し総兵站基地の機能を負わせたため、北支那方面軍の華北に対する治安工作と治安戦は一層強化徹底された

l  経済収奪のための治安戦

「戦力の培養補給」基地と位置付けられ、未治安地区の討伐作戦と治安地区での治安強化運動が始まり、華北の「第二の満洲国」としての位置付けが明確化。特に、ガダルカナルでの船舶被害の急増により、海上輸送力の減退が直ちに日本の国力の衰退をもたらすことになり、内地から近い華北の重要性がますます高まる

l  汪精衛政権の対米英参戦

汪精衛政権による日本軍占領地の行政支配を強化させ、対英米宣戦布告し「日華共同宣言」を発表、汪政権の同盟国であるとの口実の下、中国から公然と収奪するようになる

 

3      汪精衛政権下の清郷工作

l  新四軍の勢力拡大

日華基本条約によって、日本から承認された汪政権は南京・上海を中心に支配したが、蒋介石の重慶遷都によって生じた華中一帯に台頭してきたのが共産党軍の新四軍遊撃隊で、その勢力拡大は国民党側の警戒を生み、蒋介石は新四軍の襲撃を画策

l  清郷工作

417月、日本軍は汪政権の行政圏拡大を目指して「清郷(清郷地区=統治安定地域)政策」を実施、軍事的な掃討は日本軍が関与したが、その後の清郷工作は汪政権が実施したので、華北のような大規模な三光作戦は行われなわれず、工作自体も見るべき成果もなく終わる

 

4      海南島における海軍の治安戦

l  軍事拠点としての海南島

開戦を機に海軍の南方作戦の基地としての重要度は高まり、世界的良質鉄鉱鉱山の開発が進められ、最盛期には日本人3万人が居留

l  抗日根拠地の形成

日本進出に対し地元警備団が武装して抵抗、抗日根拠地や自治政府も設立され、日本側も討伐作戦を繰り返し、華北同様の治安戦・三光作戦が行われた

 

5      本土防衛のための中国戦場

l  逆転する戦争遂行の目的

米中が同盟国として共同作戦を展開するようになって、日中戦争の作戦は日本本土防衛のための作戦へと性格を変え、中国政府を屈服させるという当初のゴールは完全に消滅

l  膨大な犠牲を強いた大陸打通作戦

19441月、南方圏への海上交通手段に代わって、朝鮮―満洲―中国大陸を縦断する1号作戦(大陸打通作戦の秘匿名)を計画するが、アメリカは新たに開発した長距離重爆撃機B29を四川省から発進させ、大陸打通作戦の意味は失われたが強行したため大きな犠牲に

北支那方面軍は、南方への大兵力の転用、大陸打通作戦への動員、米軍上陸に備えた大陸東面作戦準備への移駐、ソ連の対日参戦に備えての満洲への移駐などにより、占領地は抜け殻状態となり、44年以降は治安戦も破綻・挫折

筆者の恩師藤原彰は、当時22歳で歩兵連隊の中隊長(中尉)として打通作戦に参加、自らも胸部に負傷したが、戦死者の多くは補給途絶による栄養失調。藤原は、戦後軍事史研究の立場から初めて本格的に三光作戦を取り上げた戦争史の生き字引となる

 

第五章     治安戦の諸相――加害者の論理と被害者の記憶

1      華北における治安戦の全体像

l  北支那方面軍の作戦

治安戦の開始期(3739)、本格化期(40)、強化期(4142)、弱体化期(43)

当初こそ政治的な意味合いの治安工作が重視されたが、40年の百団大戦以降は報復としての治安戦が中心となり、開戦後は物資収奪を強行するための治安戦が中心に。根本的な矛盾は、治安工作そのものが華北の「第二満洲国化」を目指した侵略政策であり、進めれば進める程中国民衆を抗日闘争に決起させずにはおかなかったことにある

l  引用する基本史料

加害者側の証言は、日本人戦犯裁判において、「坦白(タンパイ、告白)運動」「認罪(レンツイ)運動」を経た後に書いた高級指揮官たち969人の供述書。事実を相互に確認し合い、証拠と突き合わせているので、供述内容の実証性はかなり高い

被害者の記憶に関する史料は、『日本侵略華北罪行襠案』全10

 

2      掃蕩作戦と「収買作戦」――山西省

l  山西省における掃蕩作戦

相楽圭二は、38年少尉として治安戦を担当、終戦時大隊長で「山西残留」に。宮柊二の上官

自身が参加した掃討作戦の詳細を語っている

l  「罪悪事実」の手段と総数

相楽が供述した自らの罪悪事実――殺人831名、傷害519名、強姦34名、民家破壊1028棟、牛の掠奪985頭、毒ガス使用1

l  被害民衆の記憶

 

3      無住地帯(無人区)と経済封鎖――河北省

l  治安戦遂行者の証言と回想

師団長だった鈴木啓久中将の供述――総延長200㎞を超える遮断壕を掘り、附属望楼を構築し、八路軍の進出を防御したが、そのために多くの住民を強制使役。抗日根拠地破壊のため全戸を焼却し、野蛮な方法で住民を集団虐殺、車両・家畜等をことごとく略奪。満洲国との国境付近には、八路軍が巧妙に国境線を行き来して逃げるのを防止するために「無住地帯」を設けるべく住民を強制退去させた

l  虐殺事件の記憶と記録

『華北歴次大惨案』には虐殺事案が詳述されている

l  無人区と集団部落

無住地帯の記憶については、当該の省・県などの共産党委員会の「党史研究室」が調査・公刊したものが多数あり、鈴木の供述とも一致する

 

4      細菌戦――山東省

l  魯西作戦(1943年秋)におけるコレラ菌作戦

旅団長の長島勤大佐の供述――43年秋の山東省西部での作戦において、コレラ菌の撒布作戦効果調査のため部隊を参加させる。水害で飢饉に陥った村にコレラ菌の入った缶詰をばらまき蔓延させた後、日本軍部隊を当該地域に入らせ防疫訓練と罹患状況の調査を行う

l  記憶されなかった被害者の悲劇

細菌戦の存在は、1950年代になって、関与した日本人戦犯が自らの罪行を明らかにしたことから明るみに出て来たもので、長島供述にあるコレラ戦の被害者である中国民衆の証言は紹介されていない。最近の中国の文献では感染死亡者が40余万とも言われている

 

5      三光作戦の被害概数

l  戦後補償要求裁判

治安戦の諸相という観点からは、毒ガス戦の事例や「労工狩り」といわれた抗日根拠地・抗日ゲリラ区農民の集団拉致と連行、強制労働の事例や、日本軍の性暴力と日本軍「慰安婦」問題の事例など、取り上げるべき問題対象はまだ残されている――1990年代後半から市民の支援団体による中国人戦後補償要求裁判が日本各地で展開された結果、個別事例の歴史事実の解明が飛躍的に進展。訴訟ごとに原告弁護団や研究者・市民などが現地を訪れ調査し、原告となった中国人被害者が来日して法廷で証言しているが、日本の最高裁は国家無答責論や除斥論(20年の時効成立)、あるいは72年の日中国交回復時に解決済みとの立場から、賠償・補償請求を却下しつつも、、被害の歴史事実は認定している

l  被害総数

中国側の調査では、4142年華北において軍事工事に強制徴用された人夫は延べ45百万人、4143年華北で補足され満洲などへ連行された青壮年は289万人

日本軍が長城線沿いに設定した無人区は20県。熱河省だけで10万余が虐殺、15万人が補足され、21.4万戸の107万人が強制移住、12.3万戸の61.8万人が逃亡

山東など5つの抗日根拠地で総人口9363万のところ、日中戦争8年間の死者287万、障害者319万、拉致者252万、強姦62万、疾病者482万、総計1403(人口の1/7)

日本軍は8年間に毒ガス使用1000回、生物兵器使用70回以上(うち25件での死亡者が47万超)。華北から華北以外の地への強制連行は10百万以上、華北地域での奴隷労働させられた労工は20百万以上、日本へ強制連行された4万のうち6830人が死亡

強姦の62万には、性奴隷化された女性や性病罹患者も含まれる

経済破壊と略奪の総額は、1946年の統計によれば、公私財産の損害は305億米ドル、家屋財産と食料107億、農林畜産など45億、農産物減産の損害12億、工鉱業12億など

 

 

 

エピローグ 対日協力者=漢奸たちの運命はどうなったか

l  対日協力者たちの戦後

中国では「偽軍」といわれる汪政権軍や保安隊など約30余万が存在

現在の中国では、単純な2項対立論による評価が徹底

「漢奸」とは、中国人でありながら中国を裏切って敵と通じた者の意で、戦後厳しい裁判が行われ、日本人よりも遥かに多くの中国人が処刑――国民政府の報告では、3万人が起訴され1/2が有罪に(うち死刑369)。一方で、日本人BC級戦犯で起訴されたのは883人で有罪504(死刑149)。中共の撫順・太原戦犯裁判では周恩来の発案もあって死刑判決はなし、45人の起訴以外は全員が起訴免除となり56年帰国、最高刑の禁固20年を受けた者も64年を最後に全員満期前に帰国。一方で、漢奸の処刑者数の記録はない

敗戦で日本軍が撤退し、引き揚げていくときの対日協力者の絶望と恐怖、怒り、その後の彼らを襲った漢奸裁判とその後に続く反漢奸闘争の修羅場への思いを忘れてはならない

共産党の革命政権そのものが抗日戦争の中で形成発展を遂げてきたという歴史的経緯から、中国の社会主義体制は日本の侵略戦争の産物であったという性格を色濃く持っていたので、反漢奸闘争は、共産党が農民の素朴なナショナリズムを急激な階級闘争へ組織し、抗日戦争をモデルに人民戦争戦略に基づいた社会主義家革命を推進するために不可欠であった

l  日中戦争の実相へ

筆者が1994年北京郊外で聞き取りを行った人も、傀儡政権下で教員を務め、日本人と交流があったことから、反右派闘争の恐怖に直面し神経症となって失意の後半生を送る

日本人には、対日協力者は日本の中国侵略がもたらした被害者であるという視点に立って、日本当局と日本人に利用され欺かれた彼らの悲惨で無惨な歴史を記憶することが求められるのではないか。それが日中戦争の実相をさらに明らかにすることになる

 

 

あとがき

「治安戦」という歴史用語は、防衛研究所編纂の『戦史叢書』のなかで「治安掃討作戦」「治安粛正作戦」「治安強化作戦」などの作戦の略称として日中戦争当時使われていたが、軍事用語事典類には見当たらず、歴史用語としては忘れ去られようとしているかに見える

本書は、筆者がこれまで近代日本の戦争史における治安戦についての考察の総まとめであり、第1に日中戦争における治安戦の全体像を明らかにし、第2に三光作戦の事例を取り上げ、加害者の論理と被害者の記憶の両面から事件を照射し実相に迫った、第3に「天皇制集団無責任体制」というサブ・ストーリーで無謀・デタラメの戦争指導体制への批判と、併せて日中戦争における海軍の戦争責任を初めて追及した

2つの問題を提起する

1つは、治安戦という戦闘を行った日本軍兵士の意識と経験について。兵士の多くが戦後になっても侵略・加害者であったことの自己認識が出来ないまま、深刻な省察を加えることもなく、治安戦という思想の欺瞞性に目覚め、反省する機会を持たなかった。本書は、治安戦の実相を明らかにすることを通して、日本軍兵士の治安線の経験を問い、彼らの陥った思想と思考の錯覚にもメスを入れ、戦争の意味を改めて問い直そうとした筆者なりの試みでもある

もう1つは、治安戦は過去のことではなく、現代の戦争であるということ。現代の「対反乱作戦」は、日本軍の治安戦が原点

本書を第4章記載の恩師藤原先生のご霊前に捧げる

 

 

 

 

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日本軍の治安戦 日中戦争の実相

治安戦(三光作戦)の発端・展開・変容の過程を丹念に辿り、加害の論理と被害の記憶からその実相を浮彫にする。解説=齋藤一晴(文庫本)

治安戦とは,占領地,植民地の統治の安定を確保するための戦略,作戦,戦闘,施策などの総称であり,今日もイラクやアフガニスタンで実行されている。いわゆる三光作戦,つまり日本軍がおこなった治安戦の発端・展開・変容の過程を丹念に辿り,加害の論理と被害の記憶からその実相を浮き彫りにする。現代の戦争を考える上でも示唆に富む一冊.

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この本の内容

目次

治安戦とは、占領地、植民地の統治の安定を確保するための戦略、作戦、戦闘、施策の総称である。日本軍が行った治安戦(三光作戦)の過程を丹念に辿り、加害の論理と被害の記憶から実相を浮彫にする。解説=齋藤一晴。

 

 

 

安田浩一が薦める文庫この新刊!

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2024113 500分 朝日

 

 

 

 

 

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『日本軍の治安戦 日中戦争の実相』

 (1)日本軍の治安戦 日中戦争の実相(笠原十九司著、岩波現代文庫、1760円)

 (2)ロッキード(真山仁著、文春文庫、1430円)

 (3)わかりやすさの罪(武田砂鉄著、朝日文庫、946円)

     *

 (1)ひきよせて寄り添ふごとく刺ししかば声も立てなくくづをれて伏す――日中戦争に従軍した歌人・宮柊二(みやしゅうじ)は、中国兵に帯剣を突き刺した瞬間をこのように詠んだ。宮が参加した討伐作戦は、治安維持を目的に抗日根拠地を徹底的に破壊するものだった。殺し尽くし、焼き尽くし、奪い尽くす。中国側から「三光作戦」と恐れられた日本軍の「治安戦」である。強姦(ごうかん)・輪姦(りんかん)も繰り返された。近現代史の専門家として知られる著者は、加害者、被害者双方の記録を掘り起こし、侵略戦争の実相を明らかにする。「殺す」ことを正当化する加害の論理からは、現在のウクライナやパレスチナの風景も浮かび上がる。

 (2)新聞が飛ぶように売れた。国会中継に人々は釘付けとなった。ロッキード事件は世論を沸騰させた。だが、社会を覆い尽くした怒りの熱量は、大疑獄事件のすべてを詳(つまび)らかにしたわけではなかった。数々の疑問が残る。ロッキード社から流れた工作資金の行方。米国の意図。そもそも誰が、何のために田中角栄を葬ったのか。人気作家が挑んだ本格派ノンフィクション。事件の核心に迫る。

 (3)たとえば「ヘイトスピーチ」を「悪口」だと誤訳し「差別者をヘイトするな」とやり返す。こうした雑な発想は、しかし一部で「わかりやすい」と称賛される。そう、「わかりやすさ」とは考えることを放棄した結果にすぎない。お手軽な共感に支えられた「わかりやすさ」偏重社会。本書はその「いやな感じ」に、理解を急ぐなと訴える。

 (ノンフィクションライター)

安田 浩一(やすだ こういち、1964~)は、日本ジャーナリスト日本労働組合総評議会(総評)系 の機関誌『労働情報』編集委員。静岡県出身。千葉県在住。

 

 

福岡県弁護士会 コラム「弁護士会の読書」

2010.9.15.

日本軍の治安戦

 著者 笠原 十九司 、 岩波書店 出版 

 ひき寄せて寄り添ふごとく刺ししかば声もな立てなくくづをれて伏す

 夜間、敵の中国軍陣中に潜入、遭遇した中国兵を抱え込み、自分の体重をかけて帯剣で突き刺し、腸をえぐるようにして切断する。中国兵は呼び声をあげる間もなく崩れるように即死する。

 このように人を殺している瞬間をうたった歌は、日本短歌史のなかでも類を見ない。これは、戦後短歌の代表的歌人である宮柊二の『山西省』という歌集におさめられている。

宮は、銃剣による中国兵の刺殺に慣れていた。

うむむ、なんということでしょうか・・・・。言うべき言葉も見当たりません。

落ち方の素赤き月の射す山をこよひ襲はむ生くる者残さじ

これまた、すごい歌です。これから八路軍(中国共産党の軍隊)の根拠地のある山村に夜襲をかけ、村民ふくめて皆殺しにしてやろうという短歌なのです。よくぞ、こんなことを短歌によんだものですね・・・・。

中国軍民の死者1000万人という被害者の規模について、日本人には想像できないし、受け入れがたい数字だと思っている人が多い。その主な理由は、中国侵略戦争の期間に、日本軍が中国各地でどのような加害行為・残虐行為をおこなったかについて、あまりにも事実を知らないからである。その典型が、華北を中心とする広域において、中国民衆が、長期間にわたってもっとも甚大な被害をこうむった三光作戦の実態がほとんどの日本人に認識されていないことである。

日中戦争において、中国大陸には、いつも日本軍に対する二つの戦場が存在した。中国では、この二つを正面戦場(国民党軍戦場)と敵後戦場(共産党軍戦場)と呼んでいる。日本軍は正面戦場では中国の正規軍であった国民政府軍と正面作戦を展開し、後方戦場では共産党勢力を中心とする八路軍・新四軍・抗日ゲリラ部隊が日本軍に対してゲリラ戦を展開した。

日本の戦争指導体制は、政府と軍中央が対立、軍中央も参謀本部と陸軍省の対立があり、陸軍に対抗して海軍拡張を目論んだ海軍が日中戦争を華中・華南に拡大させるのに積極的役割を果たした。陸軍は陸軍で、軍中央と現地軍との対立・齟齬があり、現地軍が軍中央の統制を無視して作戦を独断専行する、下克上の風潮が強かった。

軍部の暴走を天皇は追認し、むしろ激励する役割を果たした。国家の重要政策・戦略を最終決定した天皇臨席の御前会議は文字どおり会議であって、常設ではなく、戦争の最高指導機関とされた大本営や大本営政府会議も、軍事、外交・経済政策を統合して強力に指導する機能はなかった。しかも、戦争指導は、天皇の統帥権を利用した軍部の集団指導体制になっていたが、国家主権者であり、軍隊の統帥権をもつ天皇は「神聖にして侵すべからず」とされる存在であり、政治や軍事の責任を負わない仕組みになっていたから、天皇に近い軍中央の高級エリートほど天皇を騙(かた)って責任を問われず、回避できる構造になっていた。天皇制集団無責任体制と呼ばれるゆえんである。

富永恭次第一部長(小将)は参謀本部内の下克上の風潮を代表する軍人であり、熱狂的な興奮にかられて武力行使による仏印進駐を主張して独走した。東京からハノイへ出かけ、自分の命令をあたかも参謀総長の命令であるかのように装って、南支那方面軍参謀副長の佐藤賢了大佐とともに第五師団を動かして日本軍の北部仏印進駐を強行した。

ノモハン事件のときには、血気にはやる辻政信少佐(作戦参謀)や服部卓四郎中佐ら作戦参謀のソ連軍の戦力を軽視した作戦指導により、4ヶ月にわたる死闘が続き、2万人もの死傷者を出した。このようにして関東軍を引きずり無残な大敗を招いた実質的な責任者である辻政信は、敗北を導いた責任と罪を前線の連隊長以下になすりつけ、自決を強要した。

辻や富永のような、異常ともいえる強烈な個性と迫力をもった参謀エリートが、常に積極攻勢主義を唱えて周囲を引きずり、陸軍の方針決定に大きくかかわっていた。このようなことは、まさに天皇制集団無責任体制においてこそ可能だった。

1940年当時、中国に派遣されていた日本軍は65個師団、85万人に達していた。これは日本の動員力の限界に達していた。これだけの兵力を中国大陸に投入しても、日中戦争の膠着状況を打開できなかった日本の戦争指導当局は、ヒトラーの率いるナチス・ドイツの電撃作戦の予期以上の進展に引きずられた。

19408月から10月にかけての第一次、第二次の百団大戦という大攻勢による日本軍の被害は甚大だった。八路軍による百団大戦で甚大な被害を受けた北支那方面軍は、対共産党軍認識を一変させ、反撃と報復のための大規模なせん滅掃討作戦を展開した。

中国農民が中国共産党の指導を受け入れ、これを指示させたのは日本軍の報復の脅威だった。共産党は、日本軍を直接経験しなかった地域では、ゲリラ基地を建設できなかった。すなわち、日本の侵略による破壊と収奮が、北方中国人の政治的な態度を激変させたのである。華北の農民は、戦時中、共産党の組織的イニシアチブにきわめて強い支持を与え、共産党のゲリラ基地は華北の農村で最大の数を記録した。

多くの中国人は、言わないけれど、日本軍のしたことを決して忘れてはいない。

百団大戦は、北支那方面軍の八路軍に対する認識を一変させ、それまでの治安工作を重点にした治安作戦(燼滅掃討作戦)重視に転換させる契機となった。

共産党軍それ自体の軍事力はたいしたことないが、治安攪乱の立体は、共産主義化した民衆であり、これが主敵であるとみなすに至った。ここに抗日根拠地、抗日ゲリラ地区の民衆を主敵とみなして、殺戮、略奪、放火、強姦など、戦時国際法に違反する非人道的な行為をしてもかまわないという治安戦の思想と方針が明示されることになった。

日本軍の治安戦が統治の安定確保とは正反対の結果をもたらし、未治安地区を治安地区に拡大するどころか、略奪・破壊・殺戮など日本軍の蛮行によって生命・生活が極度の危険に追い込まれた中国農民が、共産党・八路軍の工作に応じて協力し、さらには抗日ゲリラ闘争に参加していったのは当然のことであった。

香川照之が熱演した中国映画『鬼が来た』は、まさにこの状況を活写していました。

大変勉強になる本でした。いつもながら著者の博識と迫力には感嘆します。

20105月刊。2800円+税)

 

 

 

 

 

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