人種差別の習慣  Helen Ngo  2024.2.16.

 2024.2.16.  人種差別の習慣 人種化された身体の現象学

The Habits of Racism

A Phenomenology of Racism and Racialized Embodiment          2017

 

著者 Helen Ngo呉莉莉 1981年生まれ。中国系ベトナム難民の娘としてオーストラリアで育ち、ニューヨークのストーニーブルック大で哲学博士号取得。現在3人の子供を育てながら、ディーキン大(メルボルン/ナーム)で特別研究員をしながら哲学を教えている。専門は現象学、批判的人種哲学、フェミニスト哲学

 

訳者

小手川正二郎 現在、國學院大文准教授。専攻はフランス近現代哲学、現象学。現象学の観点から、性差、人種、家族、責任などの問題に取り組む

酒井麻依子 現在、立命館大衣笠総合研究機構専門研究員。専攻は哲学、倫理学

野々村伊純 現在、東京大大学院人文社会系研究科基礎文化研究専攻倫理学研究室博士課程。特別研究員(DC2)。専攻は哲学、倫理学

 

発行日           2023.11.8. 第1刷印刷       11.20. 第1刷発行

発行所           青土社

 

 

日本語版への序文

本書は私の博士論文

私たちの日常生活を形作る些細な瞬間とその背景をなす習慣の中に意味が存在するという確信に心打たれた

本書は、現象学の手がかりに従って、人種化された人が人種的に組織された社会を生き抜くというのはどのようなことなのかについての1つの論述

 

序論

母や姉がつけている中国翡翠の腕輪は、取り外すのが難しく、半永久的につけているが、姉は「アジア人であることを忘れないようにするため」だという

探求の指針となるのは以下の2つの問い

   現象学の諸分析は、どのようにして人種差別的慣習の新たな領域や様態を見分けるのに役立つのか――フランスの現象学者モーリス・メルロ=ポンティが残した方策に依拠

   人種差別と人種化の身体的経験とはどのようなものであるか

 

第一章     人種差別の習慣――身体的な仕草、知覚、方向づけ

なぜ習慣という観点から人種差別の問題を取り上げるのか――人種にまつわる差別・憎悪・暴力は、その装いを絶えず変えながら存続する。にも拘らず、政治的影響力を弱めるようにも思える習慣という概念を通じて、人種差別にまつわる実践や現象を取り上げる意味は大きい。人種差別が習慣的な身体的方向付けに支えられていながら、その方向付けはしばしば気づかれないまま放置されている。身体的習慣とは、メルロ=ポンティの「知覚の現象学」における議論に基づいている

 

第一節     習慣と習慣的身体

 

l  身体図式における習慣

「習慣」という概念は、西洋哲学の伝統の中で長く豊かな歴史を辿ってきたが、ここではメルロ=ポンティの『知覚の現象学』において示された議論をいい、世界の中を動き回る私たちの身体的あり方のうち、繰り返し、無心であること、コントロールや意識的な意図なしにすること、人が培ったり、慣れ親しむようになったりするもの

習慣的運動は、意識的な活動より下位で生じるが、自動性や反射という水準以上の行動

l  習慣の時間的で空間的な構造

習慣は、私たちの身体の内に沈殿し、「凝固」した運動や性向として描かれる。沈殿物とは、現在のいき(られ)た身体の中にある過去の重みを証し立てている。同時に習慣は先を見据えたものであり、未来の行動とあり様への可能性を内に組み込んでいる

l  習慣的vs習慣化――方向づけとしての身体的習慣と可能性の表現

「習慣的」と「慣れている」を峻別――習慣記憶は反復的なもので、毎日車を運転することがそれにあたる一方、「慣れている」が意味するのは仕組みに精通するようになることで、ある一般的状況のうちに方向づけられている状況のこと

l  「住み込み」としての習慣

両者は語源的にも繋がりを持つ――車の大きさに慣れることは、車の中に居を定めることであり、そうした習慣の蓄積によって世界で生活し、世界に住み込んでいくと同時に、習慣の方も私たちに住み込むようになる

 

第二節     習慣は社会的でありうるのか

習慣が人々の間の社会的に有意味な相互交流に対応しているというのは理に適っていることなのか、個人的なものではないのか

l  ピエール・プルデューのハビトゥス

メルロ=ポンティが挙げる身体習慣の典型例が運動に向かう個人のものである点と、間主体的で集合的な領域における習慣に向けられる私たちの関心との間にある差異に注目

ピエール・プルデューは、ハビトゥスという概念で、社会的で文化的な環境が私たちの振る舞いや行動や態度を奥底から形成する過程を考察――彼の分析を根拠づけているのは、習慣が集合的ないし集団的環境の中で獲得され作動するという命題

l  アイリス・マリオン・ヤングと『女性的な身体の振る舞い』について

ヤングが論じるのは、女の子の比較的貧弱な運動能力は、「女性らしさの本質」によるものではなく、家父長的社会の中で社会化される仕方によるものとする

 

第三節     習慣的で身体的な仕草や知覚のなかの人種差別

習慣論は、身体化された経験的次元に特に注目しながら人種差別の現象を考える上でどのように役立つのか――人種差別が公共の言説や差別を伴うあからさまな行為のなかだけに存在するものではなく、また常に明白な意図をもって行われているとは限らず、人種化された「他者」と遭遇したら決まって生起するものであること。さらには、「習慣的人種差別」は仕草や動きを通じた身体表現だけに限定されず、習慣的な知覚を通じて生じている

l  身体的な人種差別――(微小な)仕草と身体的な反応

猿の真似をしてアフリカ人を嘲笑する類の身体的な仕草の水準の人種差別は、公共の言説のなかで明らかな差別として一線を越えているし、知覚も越えている

「エレベーター効果」――黒人がエレベーターに乗り込んで来た時の白人女性の身を守る仕草の描写は、熟慮なくなされた表面的な人種差別の事例として物議を醸す

l  「人種化された他者」の習慣的な知覚

習慣的な知覚という形の身体化された人種差別について考察――人種差別的な習慣は、身体的知覚の基礎的水準においてどのように現れるのか。人種化された知覚に対して反応するときにある種の身体的な動きや仕草が引き起こされる

l  人種の(解釈学的)可視性

人種の知覚は、私たちの知覚の枠組みによってもたらされ、その枠組み自体が身体的な習慣を通じて学習され、獲得されたもの

 

第四節 習慣的な人種差別と責任

l  習慣的な知覚と反応――身体化された人種差別の2つの事例

事故で怪我して助けを求めた黒人が、白人によって射殺される事例は、習慣的で身体化された人種差別の問題が、警察や当局だけでなく、黒人と日常生活を共にする一般市民の問題でもあることを示す

l  沈殿を再考する――習慣を保持すること

「堆積した」慣習や行動様式――身体的図式のうちに集約/沈殿している長く不幸な人種差別の歴史のために、黒人の身体は暴力的だと知覚され、とっさの防衛反応を受けてしまう

l  責任と変化

習慣が身体のうちに保持され、活性化されている場合、自身の習慣化された身体的な方向付けないしは知覚の様式に対して、人はどれほどの責任を負っているのか

 

第二章     人種差別と人種化される身体性の生きられた経験

第一節     人種差別と人種化の身体的な経験

人種差別の「受け手」側に立つ人々がいかにして人種差別という現象を経験するのかを考察

l  「ヴィヴァルディを口笛で」――身体的適応と習慣的な人種差別に対処する「作業」

若い黒人男性が公園で笑顔を振りまいても周囲に緊張が高まるが、ヴィヴァルディの曲を口笛で吹くと緊張が解けた事例は、人種差別ではなくてもビジネスではより礼儀正しい言葉遣いをしたりするように、身体的適応の異なる水準の例

l  人種化の経験における身体的で実存的なストレス

自分に直接向けられた習慣的な人種差別を予測して行動する以上に、それと関連して起こるストレス経験も存在する

l  人種化の「特別でない」性格

身体的で実存的なストレスの引き金となる人種差別的な契機の多くが、日常的な外出時にも生じている

l  回復力(レジリエンス)と人種化された身体の病理化

植民地における人種差別的な経験によって引き起こされた神経症の例

 

第二節     白人の身体性と存在論的な膨張性

ニューヨークのイーストヴィレッジで、白人女性がタクシー代を踏み倒そうとしたためインド人の運転手と揉み合いになり、運転手に暴行した挙げ句人種差別的な暴言を吐いたが、警官が来ても有色人種の証言を聞こうともせず、白人女性を逮捕しようともしなかった

l  白人の権限と身体的な自信

白人は、自分が多様な空間や場所のどこででも自信をもって流動的に移動する権限を持っているかのようで、この権限には、不利となる結果を恐れたり予想したりすることなく、法的に問題のある仕方で行動する自信も含まれる

 

第三章     不気味さ――人種化された居心地悪い身体

人種差別の経験は不気味さの経験であり、人種化は人を異質かつ居心地悪い状態にする

第一節      不気味さ(Unheimlichkeit)と人種化された身体

l  異質さと「居心地悪くあること」

ハイデガーによって喚起された現存在の不気味さは、いくつかの点で人種化の経験と響き合うもの。多くの人々が、人種差別の経験を、異質や疎外という形で、言い換えれば不気味なものとして記述してきた

l  「家home」と「住宅house

家は住宅以上のもの、住宅が解体されても存続するが、住宅が建築なくても存在する

家とは、そこから人が出発する所であり、中心点()でもある

l  家と住まうこと

家は、出発点を提供し、身体的習慣と共に生まれてそれを支え、休息ないし身を引くことをもたらす

l  家としての身体

l  人種化されて居心地が悪い身体と「世界」を巡る旅

 

第二節      家の多孔性、身体の多孔性

家と住まうことの問題は存在とアイデンティティの問題でもあり、家が安定して保護されていることで、実存的で現象学的な安定と安心が一定程度もたらされる

l  住宅の多孔性

住宅の中にいても常に世界と繋がっているのが住宅の多孔性

l  身体の多孔性、あるいは間身体性

生きられた身体もまた多孔的

l  権力、および「旅すること」の批判的な見直し

l  くつろいでいること

 

第三節      家は必要なのか

 

第四章     人種差別のまなざし――サルトルの対象存在とメルロ=ポンティの絡み合いとの間で

「見て、ニグロだ!」という呼びかけは、人種差別の生きられた経験と働きについて多くのことを語る――人種差別は、最も一般的には、一種の目を向けることから始まる

第一節      対他的身体、対象性、人種差別のまなざし

l  人種化された身体、問題から対象へ

サルトルは1946年、「反ユダヤ主義者こそが、ユダヤ人を作る」という有名な声明を発表

l  サルトルのまなざしにおける主体―対象関係

l  人種差別のまなざしと人種化された対象

 

第二節      第二節 まなざし対象の存在論を複雑化すること――目を向けることの様相、見られている自分自身を見ること、そして身体の両義性

l  目を向けることの諸様相――まなざし、一瞥、そして凝視

目を向けることの様々な様相の境目を注意深く観察

l  自分が見られていることを見ている人種化された身体、可逆性、そしてサルトルによる身体の第三の存在論的次元

 

第三節      メルロ=ポンティの絡み合いと、人種化された身体性における主体対象の溶解

l  キアスム

キアスム (Chiasme)とは、現象学者メルロ=ポンティが、精神と肉体、主体と客体という、二元論的分離を回避するために生み出した造語的概念で、見るものと見られるものが相互に交差する、ない交ぜの状態を指すものと理解されています。

l  人種化された「パッシング」と視覚の領域の執拗さ

l  結尾――人種差別の存在論的暴力

 

結論

レイプとトラウマのサバイバーにとって重要な2つの活動――記憶することと聴くこと

人種差別の場合、白人の権力と特権のシステムが人種化された身体の苦しみに基づいており、その苦しみによって能動的に維持されているのだとすれば、「寄り添うこと」はさらなる何かを含んでいなくてはならない

本書は、人種差別の悲劇に「寄り添い」、人種差別に関する多くの多様な経験を人種差別の及ぶ範囲の広さとその負担の深刻さの下で明るみに出そうとする努力であり続けた。私が関心を注ぎ続けたのは、ありふれた苛立ちから深刻な分断に至るまで人種差別の様々な表現と次元を正確に叙述し、人種差別の生きられた身体経験を記録すること。こうした関心に導かれて本書は、人種差別的知覚と身体的方向付けの捉え難くも習慣的な様態の数々、人種化された身体図式の断片化、人種差別と共に生きるという経験に伴う感情的作業とストレス、自分自身の身体と生きられた環境に自分が居心地の悪さを感じるという、方向付けの慢性的な喪失を探求してきた

 

訳者あとがき・解説

本書は、批判的現象学の手法を用いて行われた、オーストラリアも含めた欧米圏の人種差別についての哲学研究。白人中心的な社会において人種的マイノリティとして遭遇したり、見聞きしたりした様々な人種差別を、それを生きる人々の経験という観点から分析

現象学というのは、フッサール(18591938)を祖として、1人称的な経験の記述を通して、自己、身体、他者、対象、時間といった多様な事象についての人間の意識と経験の様態を明らかにしようとする思想潮流で、批判的現象学というのは、現象学の手法に基づきつつも、女性や有色人種などのジェンダー・マイノリティ、人種的マイノリティの経験記述を行い、これまで見過ごされてきた、あるいは存在しないものとされてきた経験とその様態を分析し、従来の現象学が孕んでいた一面性や偏りを是正することを目指す

ンゴは、メルロ=ポンティの身体性の現象学に基づき、人種差別を身体的な習慣として捉えることで、人種差別がそれを被る人々によって、そしてそれを行う人々によってどのように経験されているかを考察。特に、多くの人々がしばしば無自覚に行っている振る舞いや態度、知覚の習慣を検討対象にしている。人種差別を習慣として分析することの利点は、人種差別を、当人に意識可能な差別感情や差別意識の範囲を超えたもの、あるいは意識される以前のものとして捉えるようになる点にある。差別されている人にしか気づかれない「習慣としての人種差別」として、責任を問うことができる枠組みを提供する

1章では、「習慣」という概念を新たに捉え直す。習慣が社会的・文化的環境によって形作られ、都度主体によって活性化され、引き受け直されるものであることを明らかにし、人種差別の習慣を保持することの責任を問うことが可能となる。白人が、人種差別的な習慣を疑うことなく、修正することもない、「何もしない」こともまた人種差別だと指摘

「エレベーター効果」のように、習慣には行為の習慣だけでなく、知覚の習慣も含まれる。知覚とは、歴史的・文化的な文脈に規定されているもので、黒人男性を暴力的なものとして知覚する習慣が白人女性や警察官にはある

2章では、人種差別される人々の身体経験がどのようなものかを分析し、白人性の考察に進み、両者の身体性の差異を明らかにする

3章では、人種差別を被る人々が経験する「居心地の悪さ」を考察

 

 

青土社 ホームページ

日常に織り込まれた差別とは

差別を体現する行動や仕草は、日常生活に知らぬ間に入り込んでいる。それは差別される者にしか気づかれない。誰もが意図せずに行ってしまう/向けられている可能性を孕む「習慣的な人種差別」。メルロ=ポンティの現象学に軸を据えながら、差別する・される身体の多様なありようを明らかにする。マジョリティのまなざしを捉え直すための必読書。

 

 

(書評)『人種差別の習慣 人種化された身体の現象学』 ヘレン・ンゴ〈著〉

2024127日 朝日

 構造解き明かす新鮮で重い視座

 実に厳しい本である。差別をした側がよく使う「悪気はなかった」という言い訳、差別を訴えた側に問題の原因を求める「気にしすぎだ」という一言。本書はいずれにも免責を与えない。しかし紹介されるいくつものエピソードにふれると、そこまで踏み込まねばならぬほど執拗な振る舞いが人種差別であることがわかる。

 本書では、メルロ=ポンティ、ハイデガーなどが展開した身体に関する哲学が、フランツ・ファノンなど人種差別を分析した論客と接合される。中でもメルロ=ポンティを引きながら、習慣に潜む能動性に注目する1章は必読であろう。

 習慣とは、挨拶時に思わず頭を下げるといった、考えるより先に体が動くと説明されるような行動のことを指す(人類学的には「慣習」としたいところ)。

 著者は習慣のこのような側面を認めつつも、人間は習慣の下僕ではないことを喝破する。なぜなら私たちは習慣に頼りつつも、その場その場で何がベストかを瞬時に判断し、行動の調整をしているからだ。

 エレベーターに黒人が乗ってきたことに気づいた白人女性がハンドバッグを思わず引き寄せるとき(これも習慣)、その行動には黒人は危険な存在であるという世界観が埋め込まれている。だからこそその世界観の引き受けに関して白人女性は責任を問われうる。

 人種差別は「差別はいけない」と頭で理解すればなくなるような代物ではない。むしろ「差別はいけない」と知っている人の身体が、それと矛盾するように差別を繰り返すことに問題の本質がある。だからこそ差別をする身体の構造を明らかにせねばならず、そこで現象学が力を発揮する。

 居心地の良さ、不気味さ、触るといった身体に近い用語で人種差別の構造を解き明かす視座は新鮮にして重い。難解ではあるが、挑戦し甲斐のある1冊である。翻訳も慎重かつ丁寧で読みやすい。

 評・磯野真穂(文化人類学者)

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 『人種差別の習慣 人種化された身体の現象学』 ヘレン・ンゴ〈著〉 小手川正二郎、酒井麻依子、野々村伊純訳 青土社 3080円 電子版あり

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 Helen Ngo 中国系ベトナム人難民の娘としてオーストラリアで育つ。豪ディーキン大特別研究員

 

 

 

 

 

 

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