ある明治人の記録 会津人 柴五郎の遺書  石光真人  2023.9.22.

 2023.9.22. ある明治人の記録 会津人 柴五郎の遺書

 

編著者 石光真人 1904年東京生まれ。1930年早大文学部哲学科卒。32年東京日日新聞(毎日新聞)編集局勤務。42年以降、日本新聞会、同連盟、同協会勤務を経て、現在ABC協会専務理事

 

発行日           1971.5.25. 初版                1974.12.15. 7

発行所           中央公論社 (中公新書)

 

 

本書の由来

本書は柴五郎翁が、死の3年前に私に貸与され校正を依頼された、少年期の記録

翁は会津の出身、上級武士の5男として生まれ、我が国における最初の政治小説『佳人之奇遇』の著者・柴四朗(東海散士、参政官)の実弟。会津戦争では一族に多くの犠牲者を出す。落城後、俘虜として江戸に収容、後に下北半島に移封され悲惨な飢餓生活を続ける

脱走、下僕、流浪の生活を経て軍界に入り、藩閥の外にありながら、陸軍大将、軍事参議官の栄誉を得た逸材、中国問題の権威として軍界の重鎮

草稿を聴き取りで補足し整理したもの

死を前に翁は、本文の抜粋を会津若松の菩提寺恵倫寺に納め門外不出とした。肉親の菩提を弔うためと推測される。したがってこの文書も弾劾警世を意図したものではなく、肉親、藩士一同とともに、葬り去られた歴史の一節を秘かに菩提寺に葬り、いつかは翁自らも受難の時代とともに眠りにつかれることを考えておられたのではないかと思う

貴重な資料を私に貸与されたいきさつについては第2部をご参照いただきたい

 

第1部        柴五郎の遺書

l  血涙の辞

薩長の狼藉物も苔むす墓石のもとに眠りて久し。恨みても甲斐なき繰り言なれど、今は恨むにあらず、ただ口惜しきこと限りなく、心を悟道に託すること能わざるなり

郷土会津にありて余が10歳の折、藩公また京都守護職を辞して会津城下に謹慎せらる。朝敵・賊軍と汚名を着せられ、会津藩民言語に絶する狼藉を被りたること、脳裡に刻まれて消えず。たまたま叔父の家に仮寓せる余は、小刀を腰に帯び、豪雨の中を北御山の峠に至れば、鶴ヶ城は黒煙に包まれて見えず、城下は一望火の海。すでに自宅にて自害し果てたる祖母、母、姉妹のもとに行くこと能わず、路傍に身を投げ、地を叩き泣き叫びしこと、昨日の如く想わる

落城後、俘虜となり、下北半島の火山灰地に移封されてのちは、着のみ着のまま、日々の糧にも窮し、伏するに褥なく、耕すに鍬なく、乞食にも劣る有り様。氷点下20度の寒風に生きながらえし辛酸の年月。いつしか歴史の流れに消え失せて今は知る人もまれとなれり

悲運なりし地下の祖母、母、姉妹の霊前に伏して思慕の情やるかたなく、この一文をけんずるは血を吐く思いなり

l  故郷の山河

父柴佐多蔵は280石の御物頭(隊長)。子煩悩なれど厳格。兄弟姉妹多き大家族なれど躾厳しく家内騒がしきことなかりき。母は厳しき気性の人、世の躾は母に負う所

7歳より孝経四書の素読を始め、10歳にて藩校日新館に通学

神経質なれど、病弱の箇所もなくおとなしく健康なる子供として育つ。甲斐性なしの弱虫

l  悲劇の発端

会津の地極めて安泰平穏なるも、世相の変転急を告げる

慶應3年、慶喜公大政奉還を上奏、爾後天下とともに同心尽力し、皇国を維持して宸襟を安んじ奉るべしとの詔勅を賜ったにも拘らず、その前日岩倉、西郷、大久保らの謀議による慶喜公殺害、会津討伐の密勅と錦旗が薩長両藩に下さる。後世その真偽問題となりたる

l  憤激の城下

慶應4年、藩主容保公帰藩せるも登城せず城下に謹慎。会津の様子一変。余は日新館入学

夏には会津に敵軍近づき、会津盆地いよいよ騒がしく、学校は閉鎖

l  散華の布陣

挑戦に対する守備なり。戦いは散華壊滅を覚悟の布陣

青竜隊(3649歳、国境守護)、白虎隊(1617歳、予備)、朱雀隊(1835歳、実戦)、玄武隊(50歳以上、城内守護)

後世、史家のうちには、会津藩を封建制護持の元凶の如く伝え、薩長のみを救世の軍と讃え、会津戦争に於いては、会津の百姓、町民は薩長軍を歓迎・協力せりと説く者有れども、史実を誤ること甚だしきものというべし

33人の兄は出征、4番目は病気だったが、母に叱咤されて城内に送り出される

城下騒然たる中、余は大叔母の別荘に送り出される。余に柴家を相続せしめ、藩の汚名を天下に雪ぐべきなりとし、女子は籠城を拒み、敵侵入とともに自害することを約すなり

l  狂炎の海

会津が敵陣に包囲され紅蓮の炎が上がるとの報に翌朝豪雨の中帰宅を目指すが、南下する避難民の群れに遭って進めず、市内を見渡すと城も黒煙に包まれ、我が家の方は火の海、如何ともしがたく泣く泣く引き返す

l  絶望の雨夜

逃れてきた叔父から、早朝敵城下に侵入し、祖母以下5人が自刃したことを教えられ、叔父の指示に従って百姓の姿に変装。越後方面軍にいた長兄が足を負傷して別荘に合流

l  幕政最後の日

砲声が突如絶え、降服、開城を知らされる。幕政最後の拠点ついに崩れたり

l  殉難の一族郎党

北辺にオロシア軍上陸すれば松前藩は頼むに足らず、会津藩士を遠く征伐に赴かしめ、稚内、野付牛など数カ所に陣所を作り、礼文、利尻の両島より侵入軍を追い払い、後に藩士殆ど病没す。今は北辺の海近く会津藩士の墓、陣屋跡の石碑など寂しく残れるを見るのみ

余幼くして煩瑣なる政情を知らず、太平300年の夢破れて初めて世事の難(かた)きを知る。男子にとりて回天の世に生まるること甲斐あることなれど、自刃して果てた祖母以下の犠牲、何をもってか償わん。城下の百姓、町人などの犠牲も痛恨の極みなり

武士以外のものが城下に入ることを許され、殉難家族の遺骨を拾わしむ

3か月後旧邸焼跡に忍び入りて自らの手にてお骨を拾う

連日粉雪舞う中、突如4兄現る。白虎隊に属し城中にて病臥していたため生き残る。父3兄とともに猪苗代の収容所に無事にあり、許しを得て連絡に来たという

一族間の連絡次第に可能となり、その消息明らかとなれども、戦死、自刃多し

l  俘虜収容所へ

傷病者の治療を終えたところで俘虜として東京に護送されることが決まり、長兄の看護人として身分を偽り兄とともに東京へ。総勢100余人、苦しき旅10余日の後、謹慎所となった一ツ橋門内の幕府糧食倉庫に収容。1年後には藩事務所が認められ移動

1年後には会津藩主に対し、祖先の祀りをなすため南部の土地を割きて3万石を賜うとの恩命。猪苗代か陸奥かと聞かれ、猪苗代は旧領の一部にて経済的にも精神的にも受け入れること能わず、未知の地とは申せ宏大なる陸奥に将来を託す。慶喜、容保以下の罪を免ずとの詔勅下る。容保は家名を3歳の実子慶三郎に譲り、容大と称し、華族に列せらる。罪を免ずとは不可解千万として悲憤やるかたなきも、藩士一同感泣

下北半島の火山灰地に移封、僅か3万石を賜うが、半歳雪に覆われたる瘦地にて実収7千石に過ぎず、藩士一同を養うに足らざることを、この時誰1人知る者なし

l  学僕・下男・馬丁

明治2年、土佐藩公用人・毛利恭助の学僕となるも名ばかりにて、仕事は下僕同様

外出のお供をすれど、主人馬好きにて、余を馬側に従えて走らすため、すぐに見失う

余りの扱いに半年あまりにて永の暇を乞う。毛利後の侍従、静岡県知事、晩年不遇

陸奥に移封せらるも、実収7千石では4000戸を養えず、従いたるは2800

l  地獄への道

陸奥の地3万石は斗南藩と名付く。アメリカの外輪の蒸気船にて陸奥湾へ

田名部(現むつ市)に斗南藩庁を置き、山川大蔵が統轄

斗南藩、たちまち糧米に窮し、デンマーク領事より糧米を購入するも、藩よりの支払金を貿易商に横領され、長兄が罪を被って禁錮に処せらる

借家もままならず、原野に掘立小屋を建て開墾を始むることとなれり

この冬、餓死、凍死を免るるが精一杯なり。栄養不足のために瘦せ衰え、脚気の傾向あり

l  餓死との戦い

児童のために円通寺本堂に学校を設け、福沢諭吉の『西洋事情』などを教授す。余も毎日登校し、漢籍の素読を習う。身分低き者多しが、日新館の風習に従い姓を呼び捨てにしたため、軽輩を侮辱せりとて、依頼ことごとにいじめらる

長く辛かりし寒き冬も終わり、ようやく生き延び、ふたたび来るべき冬に餓死寸前の悲境に遭うは免れがたしと、父上みずから恐山の裾野に柴家永住の地を定め開墾を決意

藩より支給されし鋤鍬にて地表の蕨の根を掘り起こし粉にして売り、その後に菜類、豆類など植えるも虫にやられ、素人農業はことごとく失敗

東京に勉学のため残りたる3兄は海員を志したが、長兄が藩のため獄屋にあることを知り、父上援助のため来たれり、実情を知って翌日より一意専心、父上を助けて開墾に従事せり

世を憐れみ、田名部の友人に託し、同居訓育を願いて叶えられ、友人宅に寄寓通学

いよいよ吹雪の季節至りて、跣足(せんそく、はだし)にての通学困難を極め、寒風吹きすさぶ乞食小屋にてただひたすらに堪えぬくばかり

この境遇がお家再興を許された寛大なる恩典なりや。まことに流罪に他ならず。挙藩流罪という史上かつてなき極刑にあらざるか

「死ぬな、死んではならぬぞ、堪えてあらばいつかは春も来るものぞ。堪えぬけ、生きてあれよ、薩長の下郎どもに、一矢を報いるまでは」と、自ら叱咤すれど、空腹堪えがたき

l  荒野の曙光

明治4年末、3兄の斡旋奔走によるものならん。藩政府の選抜により、学問修行のため余を青森県庁に給仕として遣わし、大参事野田豁通(ひろみち)の世話になるとの報来たれり

野田は熊本細川藩出身、実学派の横井小楠門下、陸軍に入り初代経理局長、男爵。義侠無私の人にて、特に後進を養うこと厚く、箱館戦争に軍監として活躍、東北子弟救済に奔走

廃藩置県とともに、旧藩主の知藩事職を免じ、藩主は藩士一同に困苦忠節を謝して東京に去れり。荒涼たる原野に取り残されたる藩士の群れ、支柱を失いてその前途に迷い天を仰いで嘆息せり。藩すでに消滅し、お家再興の夢も霧散

この絶望の時に当たりて青森派遣の朗報に接し、どん底の一家欣然たり。父上の喜びひとかたならず。礼服を保存し有事に備うるは武家のたしなみなり

県庁より路銀1両を支給され、父より1分、ほか選別として1朱を懐に収め、駅馬にて出立。時に余13歳。野田邸に引き取られ日中は県庁の出勤して給仕、夜は家僕として働く

野田は独身、その書生の中から後藤新平、斎藤実、林田亀太郎(衆院書記官長)などを輩出

l  海外か東京か

出張してきた大蔵省の役人について東京に行く画策をしたり、青森に入港してきたドイツ軍艦に招待された折、潜入してドイツ渡航を企てたりするも、いずれも失敗

野田に上京を願い出て、大蔵省の一向に加わって東京行きを果たす

l  新旧混在の東京

東京を出でて東京に戻る。その間わずか2年余なれど、今や帝都としての威容を備えり

断髪廃刀の姿多きこと、袴を廃し、兵児帯を締めたる人も少なからず。頭髪を切るにも迷いたる時代なれば、諸事万端いかになりゆくものなりや推量いたすこと難し。神仏1つにありしを分かちて仏閣の破壊されたるもの多く、城郭の焼かれたるもの又多し

知人を訪ねて面倒を見てもらおうとしたが何れも断られ、斗南県大参事を辞した山川大蔵家に寄寓し、アメリカ留学中の捨松嬢の袷(あわせ)の袖を短くして着て暮らせり

山川家の困窮を知って野田が余を福島県知事安場保和(男爵、熊本藩士、横井小楠門下生、明治政府高官として活躍、次女は後藤新平の前夫人)の留守宅の下僕として斡旋。同家は赤穂義士大石良雄切腹の介錯せるを誇りとする武張りたる家柄、長女次女は雉橋の共立に通いその伴をする

l  わが生涯最良の日

野田、陸軍会計一等軍吏に就任、陸軍幼年生徒隊(幼年学校の前身)への応募を勧められ、野田・山川を保証人として願書提出。安場家の書生に読書・算術の教えを乞う

翌年の結果発表を待つ間に、安場が落馬して大怪我、一家を挙げて福島に転居することとなり、またしても路頭に迷い、山川家に寄食、余りの困窮に山川に預けたる余の金の借用を申し入れ承諾す。元家老の身が下僕同様の余に借金とはよくよくのこと

明治63月末日、入校許可の報あり。ともに受験せる斎藤実は落第し翌年海軍兵学校に入校せり。山川に軍服一式を揃えてもらい、41日入校に臨む

3日の神武天皇祭の祝日に野田家にも報告、我が事の如く喜び、青森以来の恩愛ここに実りて安堵せるものの如く「よか」を連発。他にも世話になりたる家を馳せ巡る。得意満面、余の生涯における最良の日というべし

l  国軍草創の時代

同時に入学せる者、石本新六(後に陸軍大臣、男爵、大学南校より転入)など十数名、何れも15,6歳。学校は陸軍兵学寮の管轄、教官はフランス人にて、何が何やら弁(わきま)え難く、会津弁のため発音の区別もつかず、常に最後尾にありき

日比谷練兵場にて毎日調練を受く。夏休みになりて、余は行くべきところなし、野田家の従僕となれり

2年目にしてようやく作文を褒められ、勉学楽しみとなりて、前途に曙光を見る心地せり

同夏は、保釈の長兄が借りた寓居にて、浪人中の病弱の4兄とともに合宿

榎本武揚ロシアより帰朝せりと聞き、面会を乞い「当今我が国における第一人者なりと心得、尊敬す。一身のため教えを得たし」と問えば、「第一に身体を強壮にせよ、第二に心を正しくせよ、第三に学問を身につけよ。今後暇あらば会うべし」と言われるも、余の心底にひがみ根性潜み、追い払われたる心地して、以後訪ねることなし

明治8年に至りて、検閲使来りてすべてフランス式なるを批判的に陸軍上層部に報告、校規を厳にし軍隊調となれり。教育法もフランス式を改め、『日本外史』を講義し、記録も日本語に改む。服装もドイツ式軍服となれり。日本文・漢文の理解力貧弱なるために士官学校に進学不能の者さえあり。国軍草創時代の混乱矛盾なれど、ただ軍教育のみに非ず

4兄は、病弱にして自習すること多く、英語をよくしてのちにアメリカに留学、後年名著『佳人之奇遇』16巻を著し、我が国における政治小説の濫觴として後世に残せり。さらに推されて代議士となり、参政官ともなる。才子多病なりというべし

明治9年末、ようやく長兄の判決あり。情状酌量され禁錮100日に処さるも、未決通算や執行猶予の恩典もなく、あらためて市ヶ谷監獄に収容

この頃、父、3兄もついに斗南の開拓を放棄し、会津に隠棲

薩長土肥の旧藩士、官界の要所をほとんど独占し、他藩の有志入り込むこと難く、わずかに片隅に座を得るも、彼らの頤使(いし、顎で使われる)に甘んずるのほかなし。然るに明治の創業未だ十分に実を上げざるに、早くも薩長土肥連合の藩閥政治に亀裂を生じ、西南に不穏の妖雲現る。校内にも各藩様々の生徒あるため、互いに遠慮し警戒、却て不気味

l  会津雪辱の日

明治9年神風連の乱と軌を一にするが如く、相次いで反乱起こる。薩摩出身の生徒は、夏季休暇終りても帰校せず。東京鎮台兵非常呼集され、日比谷練兵場にて戦闘演習

翌年初、幼年学校は陸軍士官学校の付属校となり、市ヶ谷士官学校境内の新校舎へ移転

西南の役勃発、芋(薩摩)征伐仰せ出されたりと聞く、めでたし、めでたし

幼年学校生も戦闘演習に出場。4兄が西征軍に従って出征

幼年学校生徒にして体躯短小ならざる者にはすべて銃器の操法を訓練さる。動揺興奮

士官学校生徒全員隊付きとなりたるため、その補充に幼年学校生徒を選抜繰り上げ入校せしむることとなり、余も試験に及第し、士官学校生徒となる

長兄、ようやく自由の身となり、願い叶いて鹿児島県出仕となり、戦後処理に当たる

3兄もいたたまれず会津から馳せ参じ、出征で欠員を生じた警視隊に入り巡査長となれり

はからずも兄弟4名、薩摩打ち懲らしてくれんと東京に集まる。まことに欣快これにすぐるものなし。山川浩(大蔵改め)も陸軍中佐として八代に上陸、薩軍の退路を断ち日向路に追い込めたり。同郷、同藩、苦境を共にせる者相集まり雪辱の戦いに赴く、まことに快挙なり、千万言を費やすとも、この喜びを語り尽くすこと能わず

l  維新の動揺終る

明治10年、薩軍ついに鹿児島に遁走して壊滅し、西郷自刃す

3兄、学術大試験あり、砲兵科を志し合格するも、出征の機会を逸し、警視隊を辞して父上の膝下会津に帰り、兄弟に代わりて孝養を尽くさる

大久保暗殺。西郷・大久保維新の際に相謀りて武装蜂起を主張し会津を血祭りにあげたる元凶なれば、今日如何に国家の柱石なりといえども許すこと能わず、結局自らの専横、暴走の結果なりとして、一片の同情も湧かず、両雄非業の最期を遂げたるを当然の帰結なりと断じて喜べり。純なる心情の発露にして、今もなお咎むる気なし。在校時代、教師の要求無理無体なるとき、又は試験の採点不公平なりしときは、その非を糾弾して同盟休校せること一再ならず、これらの生徒も後年、元帥、大将、中将となれり。神経質に咎めだてする必要なし

明治118月、近衛砲兵隊の暴動勃発。竹橋の砲兵営火災を起こし、士官学校にいたれば、大部分の生徒すでに出動、陸軍省、赤坂御所守衛の任に就く。西南の役に対する論功行賞に対する不満分子の暴動と聞けり。西南の役も含め、何れも維新に内在せる摩擦、未熟、矛盾に起因するものならん。校庭に戻り整列、解散の際余昏倒、2週間の治療を受け、ようやく正常に戻れり。脚気と判明。4兄は病気軽癒し、アメリカ留学に出発

 

 

第2部        柴五郎翁とその時代

l  遺書との出会い

幕末から維新にかけて権力者が交代し、新政権が威信を誇示して国民を指導するために、歴史的事実について多少の修飾を余儀なくされたことは周知の事実であり、また政治的立場からやむを得ないことであったろうと察しがつくが、それにしても本書の内容のような、1藩をあげての流罪にも等しい、史上まれに見る過酷な処罰事件が今日まで1世紀の間、具体的に伝えられず秘められていたこと自体に、深刻な驚きと不安を感じ、歴史というものに対する疑惑、歴史を左右する闇の力に恐怖を感ずる

柴五郎は、会津精神の化身ともいうべき人柄の持ち主であり、また生粋の明治人。藩閥外にありながら、軍人として最高の地位に上った優れた人材

日露戦争までは、日本の国軍は立派だった。軍規の厳正さについて、敵将クロパトキンの回顧録は、世界に稀に見る軍隊として称揚している。俘虜の扱いも、日本軍の負傷兵の扱いに比べ不公平であり、卑屈だと国内で攻撃されたほどで、この好遇に感謝し、そのまま日本に帰化した者が相当数に上ったことは周知のこと

これに比べ第2次大戦中における日本軍の行動は、武士道の廃頽であり、300年の太平になれた指導者層が統率力を失い、ほとんどなすところなく事の赴くままに流されてしまったことに遠因があろう。武士道を抹殺、天皇信仰を唱えただけでは市民意識は育たず、近代化の失敗を柴五郎という1人の武士の子を通じて教えられることが多い

国と民族の進路を誤り、未曽有の犠牲を招いた第2次大戦の際の愚かな一群の指導者を思うとき、晩年の翁の心境には堪え難いものがあったに違いない

昭和17年秋、玉川上野毛のお宅を訪ねた時、「この戦は負けです」と確信のこもった声で言われた

翁との関係は、翁の少年時代から死に至るまで交遊関係の続いた亡父を通じたもの

青森県初代大参事野田は亡父の叔父。亡父が熊本から上京した折、少尉に任官していた柴五郎宅に預けられ厳重に教導された。我が父は昭和17年死去、亡父の中国・ロシアにおける諜報任務に関する記録(『城下の人』全4巻として出版)を整理して翁のもとに持参したところ、「想像に絶するご苦労を重ねられたとは知らなかった」と大いに驚き歎かれたが、亡父もまた翁の想像を絶するこの記録を全く知ることなく世を去った

本書の草稿を託された際も、自らの少年時代に勉強する機会がなかったこと、正式に日本文、漢文、日本の地歴を学ぶ機会がなかったことが自分の生涯において長い間苦しみになったことを謙虚に吐露し、添削・訂正を求められた

ところが帰宅してから内容を読むに従い、戊辰戦争に関する先入観は覆され、非常な脅威を感じたので、このまま巻を閉じて柴家の筺底に納むべきでないことを知り、筆写することを乞うたとこと、幸いにも許された

l  流涕の回顧

時に翁84歳。草稿について説明を聞くうちに、思い出すままぽつぽつと語られ、時折言葉が途絶え、両眼に涙が溢れる。単なる懐旧の情だけではなく、飢え果てて藁小屋から這い出てくる会津藩士一党の悔し涙でもあったかと思う

薩長両藩、その出身者に対し、激しい口調の言葉が多くみられるが、そのままとした。翁自らも、少年の純情に由来するもの、と記している

柴少年を遇する道を心得ず、車夫、馬丁、下僕と同様に取り扱いたる人々の教養の低さ、道義の頽廃、世相の矛盾混乱の姿を、澄んだ少年の目を通してこれほど大胆率直に語った資料は、まず皆無といってよい

会津悲劇の発端は、史家の観点、時点によっていろいろに説明されている。徳川幕府を支えていた最大の雄藩だった会津は、封建制度崩壊後の善後策に取り組まなければならなかった。しかも京都守護職にあって、浪人の集まる京都の治安に当たりながら、一方、北辺にロシアが侵入すれば兵を進め、長州反乱すればこれを打ち、東奔西走の連続

公武合体か、各藩連合の連邦制か、絶対君主国家か、議論を尽くさぬまま武力革命へ暴走

強引な明治維新は、ひ弱な新政体を生み、矢継ぎ早の大政策を進めるも、島津久光を皮切りに新政府への反発が起こり物情騒然、維新もまた血と憎悪に塗れたクーデターになった

l  翁の中国観

翁から、第2次大戦について厳しい批判を聞かされたことがある

「中国という国は決して鉄砲だけで片付く国ではない」

「中国人は信用と面子を貴ぶ。日本は彼らの信用を何度も裏切ったし面子も汚した。こんなことでは大東亜共栄圏の建設など口で唱えても、ついてこない」

明治33年、翁が北京駐在武官の時、北清事変(義和団の変)勃発。翁の沈着な行動は世界各国の称賛を浴びる。この時亡父は参謀本部付きの中尉でアムール川対岸のコザック大尉の家に寄宿・留学中

柴中佐のこの時の活躍は、数年前アメリカで映画化(《北京の55日》)されたが、アメリカの日本についての認識の低さのため、翁に対しても失礼な内容で不届き千万だった

翁は、「無事に任務を果たせたのは信用し合っていた多くの中国人のお陰で、彼らはひとたび信用したら最後まで誠意を尽くす」と回顧する

翁は明治17年頃、福建省の福州に住んで土地の邦人写真師の助手をしながら、諜報活動をしていたが、この時初めて中国と中国人を知った

l  会津人の気質

翁は、一連の事件を『北京籠城』という講演記録に残しているが、自らの手柄を他に譲るほか、言及も控えめにて、逆に失敗した作戦の責任を積極的に引き受けている。清国教民(キリスト教徒)を陰の功労者として称揚。真に中国を理解し、中国を西欧の植民地化から解放しようとする努力が生まれ、そうしてこそ日本自体が東洋の支柱となって安定できると考えたが、真に中国を知り、中国の友たらんとした人々は軍の体制から外されていった

本書は、士官学校までで終わっていて、その後についてはまとめられた記録はないとされているが、「明治20年より毎日日記を怠らず」とあるので調査中

晩年宮本武蔵に興味を持ち、解説書を探していたが、祖国の将来を憂えて懊悩されるなか、いつしか武蔵の生死を超越した悟りの境地に心惹かれたのではないかと心中推察する

l  痛恨の永眠

昭和201213日、87年の生涯を断つ

先輩たちの永年にわたる苦労を、一挙に無に帰した後輩たちの、史上まれに見る愚挙を、目の当たりに見つめて、「馬鹿なことを!」と胸中叱咤しながら夜を去ることが、どんなに辛かったことであろうか。翁にとっては、会津落城、下北半島流浪の苦しみに勝る痛恨事

薩摩出身の大山巌元帥は、斗南阪大参事山川大蔵の娘婿となった。時代の変転、人生の無常をしみじみと感じさせる

平民宰相原敬(18561921)は盛岡の生まれ。翁より3歳年長で、等しく東北討伐の惨禍を目撃し、後男爵を授けられることになった時、居並ぶ薩長土肥の元勲たちとともに爵位につくことを嫌い、返上するという破天荒な態度に出て世論を沸かし、遂に初志を貫く

『原敬伝』にも、「かくて南部藩は滅びた。しかるに天は1人の復讐者・・・・雪辱者を残した。健次郎(原敬)はこの時の無念さを深く頭に刻み付けて、終生忘れなかった」とある

原敬と同窓で弘前藩出身の陸羯南も薩長藩閥を攻撃、「薩長2藩の皇室となる」と痛論

仙台出身の文学者・大槻文彦も、「島津・毛利が天下の権を奪わんとする野心ありと見て、誰かこれをさしおくべき。ここにおいて排撃論となり、徳川・会津に与同申すことは自然の勢いにて、ついに合縦の兵(東北連合軍)となりし候次第に候」と書く

明治維新政府が成立して間もない明治2年、行政官より「奥羽人民告論」発出、幼稚な自己弁護。曰く「天使は神の子孫にて神より尊く、日本国の父母にましませば、敵対したものは大名といえども一命を取っても申し分ないが、叡慮寛大にして会津の如き賊魁すら命を助けた。そのほか加担の大名の家も知行も結構に立て下さったのはこの上なき御慈悲ならずや。百姓ども何の弁別もなく騒動いたしは相すみがたく、却て領主の迷惑となることなれば必ず騒ぎたち申すまじく候。日本の地に生まれし人々は等しく赤子と思召されありがたき措置もあらせられ候ことなれば、安穏に家業に出精いたすべし」

大久保利通は、維新直後の大坂遷都建言書の中で、天皇を雲上から引き下ろし、人民と接触すべきと力説していながら、鎧袖の蔭に隠れて威圧を加えている

さらには、朝敵は祀らず弔わずとして、招魂社への合祀を禁止。明治9年、明治天皇が初めて東北を巡幸した際も、「官軍」の墓には勅使を差遣し慰霊したが、賊軍の墓は無視

敵意と弾圧の中で明治政府の東北政策は進められた。かつては鎌倉幕府によって藤原文化は抹殺され、以後は飢餓と搾取に悩む一毛作の貧農地帯に成り果て、山林は多く召し上げられて国有林となり、今日なお開発の障碍となっている。人買い、青田買いも横行

維新の犠牲はその成果に比して過大であり、残酷。東北に西南に、深い傷痕を残した明治維新は、薩長藩閥政府、官僚独善体制を残して終わり、この体制は今なお続く

柴五郎の遺文に接して、国家民族の行末を末永く決定するような重大な事実が、歴史の煙霧の彼方に隠匿され、抹殺され、歪曲されて、国民の目を欺いたばかりでなく、後続の政治家、軍人、行政官をも欺瞞したことが、いかに恐ろしい結果を生んだかを、我々は身近に見せつけられた

この血涙にまみれた資料が維新史のどこかの間隙を埋めることが出来れば幸い

 

 

 

 

五郎 私の代表的日本人

3

 藤原 正彦 作家・数学者

2023/09/07   『文藝春秋』

──八ヵ国軍を率いた小さな男

 柴五郎は会津藩士柴佐多蔵の五男として1860年に生まれた。佐多蔵は常に上下(かみしも)着用を許された二百八十石の上士で11人の子沢山だった。五郎は名の通り五男だが、四男五女の次に生まれたので最年少の男子として皆に可愛がられた。

 幕末の頃、京都には諸国から尊王攘夷の過激志士が集い、天誅(要人暗殺)や強盗が横行し、治安を受け持つ京都所司代や京都町奉行はお手上げとなっていた。そこで幕府は一八六二年、所司代や町奉行の上に立ち、京都の治安、御所、二条城の警備などを担う役割として京都守護職を設置した。この任を引き受けるのを会津藩を含め徳川親藩はこぞって固辞した。どの藩も財政的に苦しく、千人もの藩士を派遣する余裕などなかったからである。会津藩の家臣たちも「焚き木を背負って火の中に飛び込むようなもの」と大反対した。しかし藩主、松平容保は藩祖、保科正之(三代将軍家光の異母弟)の作った会津家訓(かきん)の第一条、「大君(徳川家)の義、一心大切に忠勤を存すべく、列国の例を以て自ら処るべからず。若し二心を懐かば、則ち我が子孫に非ず、面々決して従うべからず」を説得役の松平春嶽に持ち出され、ついに承諾した。家臣たちは「これで会津藩は滅びる」と慟哭した。

 慶応四年(一八六八年)、長兄に手をひかれ、藩校の日新館に入学したばかりの五郎の周辺が騒がしくなった。前年の十月十四日、十五代将軍徳川慶喜が欧米の議会制度を模範とした合議制の政体を想定して大政奉還をしたが、まさにその日、幕府が単なる一大名になるのを待っていたかのように朝廷から「討幕の密勅」が下ったのであった。日本近代史の故石井孝東北大教授など多くの学者が「偽勅」とみなすものである。まだ十四歳で天皇になったばかりの明治天皇のまったくあずかり知らぬもの、西郷隆盛、大久保利通、および孝明天皇を毒殺したとの論が絶えない岩倉具視ら三人の謀議による偽文書と推測されている。薩長には新政府における権力を握りたいという強い動機があり、そのためには隠然たる勢力をもつ幕府を武力討伐すべきと考えたのである。いずれにせよ、討幕の勅旨が出たということは、幕府そしてそれを支えてきた会津が朝敵、逆賊となったということである。京都守護職として京都の治安を守り、天皇を命がけで守ってきた会津藩としては寝耳に水のことだった。すでに大政を奉還した後なのに、幕府と会津を討伐せよ、というのだから尚さらである。薩長を中心とした西軍は「錦の御旗」を掲げ、慶応四年一月には鳥羽伏見の戦いで幕府軍を打ち破り、各地で掠奪暴行を繰り返しながら江戸に進軍した。錦旗を相手に日本人は戦えないのだ。江戸城も四月には無血開城となり、将軍慶喜は水戸に謹慎となった。薩長などの軍はここで止まらなかった。江戸城開城で矛を収めよう、という意見もあったが、長州の木戸孝允(桂小五郎)が会津征討を強く主張して譲らなかった。一八六四年の禁門の変(蛤御門の変)で、御所に大砲を撃つという前代未聞の不敬を働いた長州を、京都守護職の会津藩は徹底的に撃破したうえ、その後の長州征伐でも中心となったからである。また、薩摩藩は庄内藩も討伐したかった。江戸の治安を乱すことで幕府の威信を傷つけようと、薩摩は江戸で浪人やヤクザなどを用い集団で放火、略奪などの狼藉を働いていた。彼等が決まって三田の薩摩藩邸に逃げこむのを見た江戸市中取締役の庄内藩は犯人を出せと言ったが一切言うことを聞かなかったので薩摩藩邸を焼き払ったのであった。長州は会津藩に、薩摩は庄内藩に強い怨念を抱いていたのである。私怨であり逆恨みであった。薩摩藩邸焼き打ちの報を京都で耳にした主謀者西郷隆盛は、「これで開戦の口実ができもうした」と、居合わせた谷干城に言ってニヤリと笑った(『隈山(わいざん)詒謀録(いぼうろく)』)。

 

 満八歳の柴五郎にとっても、薩長を中心とする西軍が五月に北上を始めたのは理解しがたいことだった。すでに藩主の容保公は、すべての幕府要職を辞任し、藩主の座を嗣子に譲り謹慎している。それに北上する新政府軍に何度も恭順と謝罪を表明している。会津と庄内に同情した奥羽諸藩は、まとまって新政府に対し会津と庄内の赦免嘆願までした。これらすべてを拒否しての討伐だったからである。

 会津藩は座して辱しめを受けるよりは、と総動員体制をしいた。可能な限り頑張り、和平の機会を探ろうという計画だった。武士だけでは不足ということで農民、町人などに募集をかけた。何と三千名近い志願者が即座に集まった。戦闘では彼等も勇敢に戦った。庄内藩でも同様だった。後年、「会津藩や庄内藩は封建制護持の元凶として討ったが会津や庄内の農民や町人は新政府軍を歓迎した」などと薩長政府は言ったが、よくある権力者による歴史捏造にすぎない。五郎が入学したばかりの日新館はまもなく休校となった。教室は負傷者のための病院となり、道場は弾薬製造所となった。新政府軍の北上に対応し、国境守備を固めるため、柴家では、父は城内に入り、長男と三男は越後口へ、次男は日光口へと向かった。白虎隊員だった四男は熱病により家で床についていたが、母が「柴家の男子なるぞ、父はすでに城中にあり、急ぎ父のもとに参じて、家の名を辱しむるなかれ」と大声で𠮟責し無理やり送り出した。四男は蒼白な顔のまま、家族一同に見送られふらふらと城へ向かった。母は目頭を袖で押さえながら家に入った。家に残ったのは、八歳の五郎以外には八十一歳の祖母、五十歳の母、長男嫁、姉、妹の女五人だった。

叔父の言葉に気を失なった

 大砲の音が山の向こうから聞こえ、市中が騒然となった八月二十一日の朝、二里ほど南にある山荘に住む大叔母きさが訪ねて来て、五郎を「付近の山々は茸や栗の実の盛りですから、泊まりがけで取りにいらっしゃい」と山荘に誘った。

 五郎は翌二十二日、大叔母と、この沢あの峰と茸や栗を拾い集めていた。翌二十三日朝、母たちに喜んでもらおうと拾い集めた茸と栗で一杯の籠を下げ、大雨の中を下男と山荘を出た。泥道を十分も歩かないうちに大砲の音が大地を這い大気を震わせ始めた。雨具もなくずぶ濡れとなった裸足の避難民が続々と上って来た。城の見える所まで行くと、天守閣は黒煙に覆われ、町の各所で炎が上がっている。急に心配となった五郎は母の元に一刻も早く行こうと、走り始めた。下男も従った。何人もの避難民に「城下は火焔に包まれていて入れない、引き返しなさい」と言われたが無我夢中で家を目指した。しかし途中まで来ると一面火の海でこれ以上進むのは無理だった。情けなさで草むらに倒れこんだ五郎は、「母上、母上」と叫び続け、地を叩き、草をむしって号泣した。

「若旦那、お嘆きはもっともですがどうしようもありません。山荘に引返して下さい、お母様たちも必らず山荘に来るでしょう」、と下男に慰め励まされ、五郎はやっと立上がり山荘に戻った。

 午後になって高齢の叔父が疲れ切った表情で城下から山荘に到着した。五郎が直ちに「母上たちは」と尋ねたが叔父は「のちほど」とだけ言って奥の間に消えてしまった。しばらくして五郎が()び入れられた。正座する五郎に叔父が語り始めた。

「今朝のことだ。敵が城下に侵入したが、お前の祖母、母、兄嫁、姉、妹の五人は退去せず、いさぎよく自刃された。私は懇願され、介錯し、家に火を放って来た。母は死ぬ間際に、お前の養育を私に頼まれた。悲しいだろうがこれが武家の常なのだ。あきらめるのだ。いさぎよくあきらめるのだ」。五郎は声も出ず、涙も流れず、そのまま気を失なった。

 親戚一同が秘かに相談した結果、「男子を一人でも生かし、柴家を継ぎ、藩の汚名を(そそ)ぐべし」ということになり、最年少の五郎が選ばれたのであった。また戦闘に役立たない婦女子は、城の兵糧の浪費となるだけだから籠城せず、敵侵入とともに辱しめを受けぬため自害することになっていたのであった。

日本史上最も残酷無慈悲な処遇

 十一月になり、武士以外の者は城下に入ることを許されたので、丸坊主となり農家の子に扮した五郎は大叔母と一緒に山荘を出た。そびえ立っていた白亜の鶴ヶ城はあまたの砲弾により傷だらけで、白壁ははげ、瓦は崩れ落ちていた。柴家のあった場所は、庭木がほとんど見当らないほどに何もかも焼け落ちていた。呆然としたまま瓦礫の上にうつ伏せになっていると、大叔母が、

「五郎さま、さあ、ご自分の手で皆のお骨をお拾いになって下さい」

 と言い、五郎の腕を支え立ち上がらせた。五郎が涙ながらに集めた骨は白木箱に納めて山荘に安置し、後に菩提寺の恵倫寺に埋葬された。

 翌明治二年の六月まで山荘にいた五郎と、戦闘で負傷した長兄は、他の藩士百余名とともに東京に護送されることになった。負傷の兄を戸板に乗せ、十数日をかけ東京まで歩かされ、幕府の旧食糧倉庫に入れられた。柴家の次男は日光口の戦いで死亡していたが、生き残った父、三男、四男も同様に東京へ護送され別の所に入れられた。監視つきの言わば俘虜収容所であった。

 

 明治二年九月、新政府は会津藩を南部藩領であった下北半島三万石に移封した。六十七万石だった大藩の会津藩にとって三万石とは厳しい処遇であった。新領地が米もできない寒冷な痩地で、実収わずか七千石に過ぎないこと、すなわちこの移封が新政府による日本史上ほかにない残酷無慈悲な「全藩民流罪」であることなど誰一人知らなかった。実際この明治二年、南部藩は未曾有の大凶作で、下北は餓死者、行き倒れ、捨子で溢れていた。下北を日本一の荒地と確認したうえで会津藩を移封したのだった。

 

 三万石では会津藩士四千戸を養うのはとうてい無理ということで、斗南(となみ)藩と名づけられた新領地に行く者は全体の七割ほど、二千八百戸、全一万七千人となり、残りは会津、江戸、北海道などに分散した。五郎の父親は斗南に行く前に会津で墓参りをすませたいと陸路を行き、三男と四男は東京に残り将来のために勉学することとなった。

 明治三年五月、五郎は長兄と品川沖で八百トンばかりの蒸気船に乗せられた。二ヵ月ほど遅れて着いた父親とともに、一家は陸奥湾の北東端にある田名部で空屋を借りた。一階が十畳ばかりの台所兼用の板敷で、二階は六畳間だった。畳は一枚もなく、障子には何も貼っていなかった。十月というのに陸奥湾からの寒風が吹きつけ、父、長兄、再婚したばかりの長兄の嫁、十歳になった五郎の四人は、板敷にむしろを敷き、骨しかない障子に米俵を縛りつけ、囲炉裏に火を焚き続けて寒さをしのいだ。

 最果ての火山灰地である上、夏には山背と呼ばれる、冷たい親潮の上を渡ってくる北東風が吹きつけるため米も麦も育たず、どうにか育つ穀物といえば稗と粟くらいであった。そこに農業経験のない、鋤や鍬も持ったことのない藩士とその家族一万七千人が大挙してやって来たのである。移住当初に新政府から斗南藩に下げ渡された米が頼りだったが、それは二ヵ月もしないうちに食べ終わる量ですぐに底をついた。急場をしのぐため、長兄が使者として選ばれ、函館に渡りデンマーク領事から米を買い付けた。ところが仲介の貿易商人が、斗南藩の支払った多額の米代を横領し逃走してしまったのである。領事が藩政府に賠償を請求したため、長兄は迷惑が藩に及ぶのを避けるため横領は自らの仕業と罪を一身にかぶった。そのため逮捕され東京に護送されてしまった。

犬の死体をもらおうとして

 あばら家には年老いた父と兄嫁と十歳の五郎が残された。父は覚えたての漁網編みを家で、兄嫁は朝から晩まで町で機織りをして工賃を稼いだ。五郎は囲炉裏にくべる枯れ枝を拾い集めたり、水汲みに少し先の田名部川まで行ったりした。冬には枯れ枝を一メートルをこす雪の下から探したり、結氷した田名部川の川面に穴をあけ水を汲んだりした。海岸に流れついた昆布、ワカメなどを集めるのも五郎の仕事だった。これらを棒で何度も叩き、木屑ほどの細片にしてから稗などに混ぜて粥にするのである。当地でオシメと呼ばれるものだ。臭いが強く美味とは程遠いが、餓死を免れるには仕方なかった。部屋は北風が吹きぬけ、夜は囲炉裏の火を絶やさず、その横で(むしろ)をかぶって眠った。室内でも零下十五度くらいまで下がった。背を囲炉裏に向ければ腹が寒さで痛み、腹を向ければ背が凍える、指が凍えれば囲炉裏近くで手をもむ、という具合だった。特別に寒い日には、五郎は鍛冶屋で暖まらせてもらった。この冬、飢えや寒さや栄養失調で多くの老人や子供が死んだ。医者などいない土地だった。五郎も熱を出し四十日ほど米俵に入って寝ていた。

 雪融けの頃、五郎は田名部川の中ほどに、猟師に撃たれて死んでいる犬を発見した。氷が薄くなっていて猟師は取りに行けなかったのだろう。よく見ると鍛冶屋の犬だった。父親に相談すると、しばらく考え、

「鍛冶屋に行って犬をもらって来るがよい」

 と言った。鍛冶屋に走って行き承諾を得て帰ると、父親が珍しくほめてくれた。と、そこに犬の死体をかついだ中年の藩士が息を切らしてやって来た。

「この犬をもらおうと鍛冶屋に行くと、すでに柴家にあげてしまった、そちらで交渉してくれと言われました。私が危険な氷上を渡って取って来たので半分いただけないか」

 父親は苦笑して了承した。その藩士が解体した犬の肉を柴家ではその日から毎日食べることになった。兄嫁は気味悪がっていっさい箸をつけないので父親と五郎が主食代わりに食べた。初めは久しぶりの肉で美味しかったが、塩で煮ただけのうえ、大きな犬で三週間も続いたから、ついには無理に口に入れても飲みこめないほどになった。これを見た父が語気鋭く五郎を𠮟った。

「武士の子たることを忘れしか。戦場にありて兵糧なければ、犬猫なりともこれを喰らいて戦うものぞ」「会津の武士ども餓死して果てたるよと、薩長の下郎どもに笑わるるは、のちの世までの恥辱なり。ここは戦場なるぞ、会津の国辱雪ぐまでは戦場なるぞ」

 長く辛い冬を生き抜いた三人は、このままでは次の冬を越すことはできないと、食糧を得るため開墾を決意した。明治四年春、雪が溶けるのを待って、三人は藩から与えられた鋤や鍬を手に生まれて初めての荒地の開墾に精を出した。三人の苦境を知った三兄が東京から助けに来た。出来上がった畑に何種類かの種を蒔いた。やせ大根と小ぶりのジャガイモだけが少量だが収穫できた。野菜作りはうまく行かなかったが付近にはセリ、ワラビ、フキ、アサツキなどの山菜がいくらでもあった。主食は相変らずオシメ粥だった。

 五郎は兄嫁を気の毒に思った。世が世なら深窓の令嬢として華道、茶道、琴、和歌などに勤しんでいるはずなのに、今はボロを着て、髪を整える油もなく、やつれた顔でオシメ粥をすすっている。

 冬は毎日、むしろのすき間から吹き入る寒風に震えながら、父、兄、兄嫁が無言のまま部屋の中で縄をなっている。斗南に来た人々にとっては過去も未来もなく、ただ寒さと飢えにじっと耐えるだけで、話すことなど何もなかった。

 五郎は時折、

「こんな運命が待っていたのなら、母上たちと一緒に自決すればよかった」

 と、炉の火を見つめながら頬を濡らした。

最果ての荒野で五郎が見た曙光

 この年(明治四年)、廃藩置県が実施され斗南藩は消滅し弘前県に併合され、次いですぐに青森県となった。斗南藩の消滅に伴い、容保の嫡子、容大公も去ったこの地に多くの藩士たちが見切りをつけ、会津、東京、北海道など各地に散って行った。

 この年の寒風吹きすさぶ師走、雪に埋もれた最果ての荒野で夢も希望もなくしていた五郎に、ついに曙光が見えた。旧斗南藩から選抜され、青森県庁の給仕として働くことになったのである。青森県のトップは二十五歳の大参事、野田豁通(ひろみち)だった。薩長軍についた熊本藩士だが、横井小楠門下として学識があり、義侠心が強く、惻隠の情に溢れた人物だった。戊辰戦争で荒廃した東北から有望な若者を書生として取り立て、有為な人材を養成しようとしていた。会津の柴五郎の他にも、水沢藩の後藤新平(満鉄初代総裁)、同じく水沢藩の斎藤実(首相)などを育てた。自らの娘を会津藩士の家に嫁がせたりもした。五郎の仕事は職員の出勤前に役所へ行き、火をおこし湯をわかし、各室の掃除、火鉢に火を用意し鉄びんや茶釜を配るといった仕事だった。斗南での仕事に比べれば何のことはなかった。飢餓と厳寒に生命を脅かされていた五郎にとって、米を食べ布団に寝る生活は夢に見たものだった。誠実さや仕事ぶりを見込まれた五郎は給仕の身分はそのままで野田大参事の邸に住みこむことになった。野田は五郎を可愛がり、五郎の将来のため夜間には読書や習字の先生をつけてくれた。五郎も、討幕派、佐幕派などを一切気にせず人物本位で人を見る野田に、自らの心の底にあったこだわりが次第に融けていくのを感じていた。

明治大正昭和と続いた会津いじめ

 半年ほど県庁で働いた五郎は、この地に給仕として安穏に暮らしていても将来がない、兄たちのいる東京に行き、戦乱でままならなかった勉学に励みたいと思うようになった。野田大参事もすぐに賛同し励ましてくれた。

 明治五年八月、十二歳となった五郎は二年ぶりに東京に戻った。二年前はボロを着た難民姿だったが、今回は白地の浴衣に袴をつけ、大人用の山高帽を耳までかぶり、父親のくれた竹行李を背にかつぎ、草鞋ばきという頓珍漢な格好だった。東京は二年前と大きく変わっていた。とりわけ仏閣が壊されているのには驚いた。日本は奈良時代の頃から神仏習合と言われ、寺の境内に神社があったり、神社に仏像が置かれたりしていた。「神と仏は一つ」と教えられてきた五郎にとって増上寺などいくつもの寺が壊されたりひどく縮小されていたのは衝撃だった。慶応四年に神仏分離令が発布され、廃仏毀釈(仏教弾圧の一環として仏像や寺院を次々と破壊すること)が盛んになったのである。戊辰戦争で天皇利用に味をしめた薩長が、日本を国家神道一本とし、これまでのように天皇の威を借ることで権力を掌握し続けようと企らんだのである。

 廃仏毀釈は千年余りにわたる伝統文化を破壊した恐るべき犯罪であった。薩長の無知無教養な若輩たちによる歴史上類のない蛮行であった。実際大政奉還のあった一八六七年、四十九歳の西郷隆盛を除き、坂本竜馬三十一歳、伊藤博文二十六歳、山県有朋二十九歳、大隈重信二十九歳、板垣退助三十歳、木戸孝允三十四歳、大久保利通三十七歳と若造ばかりだった。松下村塾出身者もいるが、吉田松陰の四天王と言われた久坂玄瑞や高杉晋作など秀才四人は、大政奉還前に死んで、残ったのは無教養の凡才ばかりだった。彼等の良識の欠如は維新の犠牲者を祭るため明治二年に建立された靖国神社に、会津など東北人犠牲者を祭ることを禁止したことにも表れている。維新時、すでに佐久間象山、橋本左内、藤田東湖など維新をリードすべきだった高い知性の人々がいず、薩長の見識も良識もない若い武断派下級武士たちによるクーデターとなったため、法外の人的犠牲や文化的犠牲が発生したのだった。薩長は維新後も藩閥政治を作り、昭和の頃まで権力を握り続けた。会津いじめも続き、福島県ができた明治九年、県庁は会津の十分の一ほどの規模だった福島町に置かれ、昭和になっても仙台に次ぐ東北第二の都市だった会津若松には山形新幹線も秋田新幹線も通さなかった。今でも会津若松へは郡山で新幹線を降り、単線の磐越西線でのろのろ行くしかないのである。三十年ほど前に初めて会津若松を訪れた私は、郡山の繁栄に比べ、高い建物も活気もなくひなびた会津若松を見て、明治大正昭和と続いた会津いじめに胸の塞がる思いだった。

 

 知己を頼りに、下僕として働きながらあちこちを転々としていた五郎に、青森県大参事を解任され上京していた野田豁通より手紙が届いた。

「近々陸軍幼年生徒隊にて生徒を募集する試験あり、受けてみよ。これに合格すれば陸軍士官になることを得、汝武士の子なれば不服あるまじ」

 というものだった。五郎は嬉しさで飛び上がり、さっそく野田豁通と斗南藩大参事だった会津藩家老の山川大蔵の両恩人に保証人となってもらい願書を提出した。同時に下宿先の書生に頼み読書や算術の猛勉強を始めた。

 十一月初旬に和田倉門外の兵学寮で受験した。翌明治六年三月に「入校を許可す」との報が届いた。起居していた山川邸では、大蔵も夫人も涙を流さんばかりに喜んでくれた。大蔵は五郎を連れ出し軍服を購入し着せてやった。五郎はそのまま野田邸に向かい合格の挨拶をした。野田は大いに喜び、「これでよか、これでよか」を連発した。

 正規の教育を十分に受けられなかった五郎の成績は入学当初はビリだったが、先生に作文をほめられてから自信を取り戻し猛勉に励む力が一気に湧き、二年の終りにはトップ争いに加わるほどになった。

 明治九年になって、斗南で頑張っていた父親と三兄と兄嫁が、ついに開墾を諦め会津に戻った。会津は未だ立ち直っていなかった。美しく整然とした城下町は消え、威儀正しい人々も消え、大城下町はただの田舎町となっていた。これは今もさほど変らない。

新婚生活に安らぎを覚えるも……

 翌明治十年には西郷率いる薩摩勢による西南の役が起きた。旧会津藩士たちはこれを千載一遇のチャンス、「汚名返上戦争」ととらえ、こぞって政府軍に参加した。学業中の五郎を除いた柴家の兄弟達も「今こそ芋侍たちを木ッ端微塵に叩きのめさないと泉下の母親たちに申し訳がたたない」と勇んで参戦した。負けた薩摩軍は命からがら故郷へ帰り総帥の西郷は自決した。半年後には政府軍の総帥大久保利通が東京の紀尾井坂で暗殺された。権力掌握のため、何の理由もなく会津に朝敵の汚名をかぶせた上、血祭りにあげた元凶二人が、非業の最期を遂げたのである。五郎は国を守る陸軍にいながら、国の柱石たる二人の死を「天罰」と秘かに思い溜飲を下げた。

 明治十七年、陸軍士官学校を卒業後、中尉にまでなった五郎は「渡清を準備せよ」との内示を受け、福建省の福州へ派遣されることになった。山川大蔵や野田豁通など恩人が送別の宴を開いてくれた。

 この頃、ハーバード大学へ留学していた四兄の四朗が帰朝し、その経済学に関する知識が谷干城(たてき)農商務大臣の目に留まりその秘書官に採用されていた。四朗は幼少の頃から身体が弱く、戊辰戦争では白虎隊にいながら発熱により死を免れたが、秘書をしながらも体調を崩しがちだった。彼が熱海で静養している間に東海散士のペンネームで書き上げたのが政治小説『佳人之奇遇』の第一編だった。彼の欧米体験をベースに書いたこの作品はまたたく間にベストセラーとなった。

 山紫水明の福州で二年半ほど、北京語に慣れ英語を学び、諜報活動を隠すため写真館を開いていた五郎は、北京に移り、将来、清国と戦争になった場合に必要な、北京および周辺の精密な地図を作った。

 帰国して陸軍士官学校で兵器学の教官をしていた五郎は、明治二十四年に旧土佐藩士の娘くまえと結婚した。五郎三十歳、くまえ十八歳だった。優しいくまえとの新婚生活に五郎は何十年も忘れていた心の安らぎを覚えた。翌明治二十五年には支那の専門家として参謀本部第二部支那課に戻るなど順風満帆だった。ところがその後、長女みつを産んだくまえは産後の肥立ちが悪く、急逝してしまった。

 悲嘆にくれている暇はなかった。陸軍一の切れ者、川上操六参謀次長に随行して清国と韓国の視察に行くことになったのである。川上操六中将は、明治二十年に乃木希典少将や福島安正大尉とともにドイツへ留学し、欧州一のドイツ兵制を学んだ後、参謀次長として日本陸軍の近代化に取り組み、陸軍参謀本部育ての親とも言われる大物だった。

 当時、清国は一八四〇〜四二年のアヘン戦争と一八五六〜六〇年のアロー戦争で香港と九龍半島南部をイギリスに奪われ、一八八四〜八五年の清仏戦争ではベトナムをフランスに奪われ、ロシアには満州の北から沿海州までの膨大な地域を掠め取られていた。貪欲あこぎなヨーロッパ列強に次々に戦争を仕掛けられ、すべてに惨敗し領土を蚕食されてきた弱兵しか持たない清国が、かつての属領朝鮮に目をつけ、欧米勢が興味を示さないのをいいことに再び属領にしようと親清政権を作った。日本は、いずれやってくるロシアの南下から本土を守る砦として、朝鮮を支配下に置くことが不可欠と考え、清国の動きに神経を尖らせた。日本の思惑に感づいた清国は明治十九年、丁汝昌提督率いる自慢の北洋艦隊に、友好という名のもと、恫喝する目的で日本各地を訪問させた。長崎では日本の許可なく上陸した五百人の水兵達が略奪、婦女暴行などの乱暴狼藉を働いたが、我が国は北洋艦隊の主力艦「定遠」と「鎮遠」に対抗できる戦闘艦を保有していなかったため、抗議すらできなかった。

 明治二十六年、五郎が川上参謀次長と行った三ヵ月にわたる清韓視察の結果、「日本軍は清国に規模でははるかに下回るものの、鍛錬度や愛国心ではるかに上回り圧勝できる」という結論に達した。翌年からの日清戦争はその通りとなった。

 

 帰国した五郎は参謀本部第二部(情報)に戻り、中佐に昇進した。情報マンとは世界中を歩くのが仕事だが五郎も例外でなく、日本で寛ろぐ間もなく半年後の一九〇〇年(明治三十三年)には清国公使館附として北京に赴任した。「柴中佐」が世界にとどろくことになる大事件が起こるとは夢想だにせず、懐しい北京へ向かった。

日本中が泣いた屈辱

 日清戦争で北洋艦隊を全滅させられ惨敗した清国は、明治二十八年四月十七日、下関海峡をのぞむ料亭「春帆楼」での講和会議で、全権代表の李鴻章が日本側に一方的に有利な和平案を吞まされた。この下関条約では、朝鮮の独立承認、遼東半島、台湾、澎湖諸島の日本への割譲、それに約三億円(日本の国家予算の三倍半)の賠償金の支払いなどが決められた。清国は日本に戦争を仕掛けられたうえ、多大な領土と多額の金を日本にふんだくられたのである。弱肉強食が帝国主義の掟であった。維新後二十八年にして日本はすでに欧米列強と並ぶ一人前の帝国主義国となっていた。

 

 伊藤博文首相や山県有朋陸相の決めた条件だったが、欲張りすぎであった。果たして調印の六日後に露独仏の三国が干渉してきた。「日本による遼東半島支配は東洋平和のためにならないから放棄を勧告する」というものだった。清国に涎を垂らしている三国の言い掛かりに過ぎないが、この三国を相手に戦うことはできない。日本は一週間の大議論の末、この恫喝に屈することとなった。恫喝に屈した屈辱を、日本中が、子供から大人までが泣いて口惜しがった。

 

「眠れる獅子」と思われていた中国が「眠れる豚」にすぎないと知った欧州列強は、死体にとりつくハイエナのように中国に群がった。ドイツが膠州湾を占領、租借し、ロシアは日本に返還させた遼東半島をちゃっかり租借して旅順を自らの軍港とし、イギリスは旅順から海を隔てて二百キロの威海衛と香港のある九龍半島南部を租借し、フランスは広州湾を占領し租借した。

「彼の奴隷になってもいい」

 列強の目に余る横暴に、当然ながら清国民衆の憤慨は頂点に達した。「扶清(ふしん)滅洋(めつよう)(清を助け西洋を滅ぼせ)」を唱える宗教団体、義和団と一緒になり一九〇〇年に武力蜂起した。西洋のシンボルたる教会を焼き打ちにし、西洋の建設した鉄道を破壊し、西洋人やキリスト教徒を攻撃し始めた。山東半島で始まった義和団の乱は天津そして北京へと移った。放火や略奪などが続出していたが清国政府は十分な取り締りを行なわなかった。十分理解できることだが、政府も義和団と同様、外国人に対し怒り心頭だったのである。

 日英米仏独露伊墺など八ヵ国の北京の公使館はまとまって公使館区域にあったが、危険を感じ天津沖にいる各国軍艦に護衛兵の急派を打電した。八ヵ国合わせて四百人余りの海軍陸戦隊員が集まった。日本軍からは二十五名だった。一キロ四方もある公使館区域をこれだけの人数で守るのは難しい。老幼婦女を含む居留民三百人、百名ほどの公使館員、それに逃げこんで来た支那人キリスト教徒三千人もいる。増派を打電したが、北京・天津間の鉄道も電信線も切断されていた。清国政府に再三の警護要請をしたが何もしてくれなかった。

 

 中国というのは理解を絶する国である。一ヵ月ほどして清国政府が何とこれら八ヵ国に宣戦布告したのだ。八ヵ国のどの一国にも負ける清国がである。翌日からは清国正規兵が公使館区域を包囲攻撃してきた。各国は守備隊補強のため居留民からなる義勇軍を作った。

 八ヵ国の兵がバラバラでは守り切れないから、連合軍を作り陸軍にいたことのある英国公使マクドナルドが司令官となった。ところが実際の戦闘が始まるとすぐ、マクドナルドは作戦や実戦指揮の上で、日本隊の司令官柴中佐が抜群の能力を持っていることに気付いた。自然に柴五郎が総指揮をとることとなった。黄色人種が白色人種の上に立つというのは、人種差別の激しい当時、前代未聞のことだった。柴中佐は勇敢さ、冷静な判断力、公平な指揮、そして人格など、誰から見ても一頭地を抜いた存在だったのである。

柴五郎

 各国勢が柴中佐の指揮に従った。中仏英の各語に流暢なのも役立った。我の強い国々同士のもめ事があっても柴中佐の一言で決まった。数百人の清国兵が英国公使館を包囲し、壁に穴をあけ侵入し、火を放ったことがあった。マクドナルド公使の急報を受けた柴は直ちに安藤辰五郎大尉以下八名を救援に送った。八人は群なす清国兵の中にサーベルを抜いて突撃し、たちまち敵兵を一掃してしまった。公使館の英国人達が窓から射撃している前でこれが行なわれたから、讃嘆の的となった。

 柴のもとで戦った英国人シンプソンは日記にこう書いている。

「この小さな男はいつの間にか混乱を秩序へ変えた。彼は部下を組織化し、逃げ込んだ支那人キリスト教徒には塹壕を掘らせるなど見事に使いこなしている。(中略)僕はこの小男に自分が傾倒しているのを感じる。僕は間もなく彼の奴隷になってもいいと思うようになるだろう」

財宝や芸術品すべてを返却

 日本から臨時派遣隊千三百名が急派された。指揮官として参謀本部の情報部長、福島安正少将が選ばれた。支那通のうえ、英仏中独露の五ヵ国語に堪能だから列国軍隊との難しい調整もできそうということだった。福島は子飼いともいうべき柴を救うために北京に一番乗りだ、と勇んだ。各国の連合軍一万人の中心となった福島は、上陸して十日足らずで三倍の兵力をもつ清国軍を壊滅させ天津を制圧した。

 籠城が長く続いた公使館区では食糧も弾薬も欠乏していた。公使館で飼っていたロバやラバも食べてしまったし、草を食べつくした支那人たちからは餓死者が続出していた。

 日本軍の活躍で連合軍が北京を制圧するや、福島は真先に公使館にかけつけた。福島と五十日余りにわたる最前線での指揮により穴だらけ泥まみれとなった軍服をまとった柴とが、万感の思いをこめて黙ったまま堅く長い握手を交わした。

 さっそく福島は柴に尋ねた。「外国軍や敗戦の清国兵の規律はひどいものだ。金目の物や若い女を見ると手当り次第に襲いかかるという始末だ。そこで明朝、政府建物を押さえる手筈だが、どこから手をつけるべきと思うか」「何と言ってもまず、西太后のいる可能性の高い紫禁城です。同時に大量の銀のある大蔵省を押さえるべきと考えます」

 翌朝二人は馬に乗って日本軍を指揮し、大蔵省を封鎖し、紫禁城の四つの正門のうち三つを日本軍が、一つを米軍が占拠し封鎖し、城内の膨大な美術品を守った。日本軍は紫禁城で確保した財宝や芸術品すべてを清国帝室に返却した。英米仏露などの兵隊や将校までが狂ったように北京のあちこちにある宮殿の掠奪に走り、それを敗戦清国兵や他国軍の仕業に転嫁しているのと対照的だった。日本の廉直に好印象をもった清国は、四年後の日露戦争で日本に種々の便宜を図ってくれた。この日の午後、マクドナルド公使は列国指揮官会議に出席し、

「籠城における功績の半ばは勇敢な日本兵に帰すべきものである」

 と語った。日本兵には農民や商人出身の者もいたが、明治二十年くらいまでに生まれた日本人には未だ勇敢、沈着、忍耐、惻隠といった武士道精神が埋火として根付いていたのである。

「柴中佐」が世界史を動かした

 義和団の乱の後、日本軍の実力と規律を目の当りにしたイギリスは、極東においてロシアに対抗できるのは日本のみと考えるようになった。北京に籠城し、柴中佐の有能さや人間性に感銘を受けた英国タイムズ紙のモリソン記者などが、紙上でしきりにロシアの脅威を訴え日英提携論を掲げた。日英同盟は数年前から川上参謀次長や福島少将、林(ただす)外務次官など、先見の明のある人々が構想していたものだった。

 日本にとって幸運だったのは北京籠城の際のマクドナルド駐清公使が、次の赴任地として駐日公使になったことだった。早速、日本側は日英同盟締結のため、まず福島や柴が半蔵門の英国公使館を訪れ地均しをし、次いで小村寿太郎外相が正式な交渉を始めた。義和団の乱以降、柴中佐や日本軍に対する尊敬の念を抱いていたマクドナルドは、夏休みを取るという名目でロンドンに直行した。彼はヴィクトリア女王、首相、外相などに会い、北京籠城について詳しく報告し、日本軍のすばらしさを説き、「光栄ある孤立」の政策を捨て日英同盟を結ぶための根回しをした。ロシアが義和団の乱に乗じて満州を占領し、朝鮮にまで触手を伸ばし始めたこと、このままでは北京や揚子江流域のイギリス権益が脅かされ、ひいてはその脅威が英領のビルマそして生命線のインドにまで及びかねないこと、などを説いた。南アフリカでボーア戦争をしているイギリスには、極東に割く兵力がないから極東は信頼できる日本軍に頼るしかない、と衆議一決した。一方の日本はイギリスの有する世界一の海軍力、そして何より世界中に網を張ったイギリスの情報力に期待した。

 日英同盟は一九〇二年一月三十日、正式に調印された。日本の国民は超一流国との同盟に大喜びだった。各戸には日英の国旗が飾られた。英国民も喜んだ。北京籠城に関しては、籠城中の各国居留民には婦女子が混じっていたこともあり、連日ヨーロッパ中で大きく報道されていた。「居留民は婦女子を含め全員死亡」などという誤報が出るほどだった。柴中佐や日本兵はこの大事件でのヒーローとなっていたからである。英国人フレミングは『北京籠城』の中でこう書いた。

「日本軍を指揮した柴中佐は、籠城中のどの将校より有能で経験も豊かだったばかりか、誰からも好かれ尊敬されていた」

 柴五郎と日本将兵の武勇、忍耐、規律、公正、謙虚などすべての立居振舞は世界注視のもとで発揮された武士道だった。これは紳士道とよく似ていたから世界、とりわけイギリス人の日本人を見る目が一変したのである。これが日英同盟に結実し、二年後の日露戦争における勝利をもたらした。まさに柴たちの活躍は世界史を動かしたのであった。

逆賊となった会津人の絶望

 会津藩士とその家族合わせて一万七千人が流罪となった北の果て、斗南を訪ねてみたいと思い立った私は、七月初め、三沢空港に降り立った。レンタカーで紫陽花の咲く道を下北へ向かった。

藤原正彦氏 ©文藝春秋

 一時間半ほど走りむつ市に到着すると、陸奥湾の向うに釜臥山が望まれた。猪苗代湖の向うに見える磐梯山を連想させられた。この地に流された会津の人々は郷愁にかられたことだろう。昼食に名物の「みそ貝焼き」を食べた。ホタテの大きな殻の上に名産のホタテ、豆腐、卵、白菜などを乗せ、味噌と一緒に焼いたものである。素朴な郷土料理を賞味してから町に出たが、活気はなく人もほとんど歩いていなかった。厳しい自然や交通の不便により目ぼしい産業のないむつ市は、東京二十三区より広い面積を有しながら人口はたったの五万人ほどである。五郎が飲み水を汲みに通った田名部川は、生活排水が流れこんでいるのか白く濁っていた。

 

 翌朝、むつ市役所に向かった。前もって連絡をしておいたので、下北の地域史に詳しいM氏が待っていてくれた。私が自己紹介をすると、「本物の藤原正彦さんですか」と言った。想像していたよりずっと若々しく好感度の高い紳士だったからであろう。

 斗南藩庁の置かれた円通寺を訪れた。斗南藩大参事として幼い主君松平容大(かたはる)に代わり、実質七千石ほどのやせ地に流されて来た一万七千人の会津人の命を預っていたのは、会津戦争で千三百人の部下を率いて日光口を守った山川大蔵だった。妻をこの戦争で失った彼は後に東京で高等師範学校長を務めた。弟に山川健次郎東京帝大総長がいる。斗南の窮乏生活から救い出そうと函館へ里子に出した妹の捨松は、その後アメリカに留学し、名門ヴァッサー大学で卒業生総代になるなど才能を発揮し、帰国後は陸軍元帥となる旧薩摩藩士大山巌に嫁いだ。薩摩弁と会津弁で話はチンプンカンプンだったので、二人はフランス語で話したという。大山が会津鶴ヶ城の攻略に参加していただけに、捨松の結婚は親戚一同から反対されたが、意志を貫いた。後に英仏独語を駆使し「鹿鳴館の花」として活躍し、日本で初めての看護婦学校を設立した。

 円通寺の裏には大きな墓地があった。高さ五十センチほどの小さな墓石がいくつも目に入った。その一つには「元会津藩士手代木勝富妻小川氏墓」と刻まれていた。妻の名は小川氏出身というだけで書いていない。裏に明治三年十一月十四日とあったので胸を衝かれた。到着して間もなく始まった冬を越せず死亡したのだ。着の身着のままでようやく辿り着いた地は、肥沃な会津盆地に黄金色の稲穂が揺れる故郷とはまったく異なり、米どころか稗や粟がやっとという不毛の地だった。ここで生きなければならない苛酷さに悲観した。その上、それまで士道を軸に真っ直ぐに生き、藩財政の窮乏に耐えながら京都で懸命に天皇をお守りしてきた自分達が今や恥ずべき逆賊となってしまったことに絶望した。これらに身を切るような寒さも加わり、弱い者から生きる力を失ってしまったのだ。同じようなお年寄の墓石がいくつも目についた。墓地の中央に黒御影石の立派な墓が立っていた。裏に回るとこう書かれていた。「戊辰戦争以後、正に苦難の道であった。正義を尊び、士道に生きた先祖たち、今、安らかに眠りにつく 平成十六年七月二十五日 六代小町屋侑三・ひほる」。そのまま斗南の地に残った会津人の子孫の方であろう。

遺書を書き、日本刀を手に取った

 次に訪れたのは田名部郊外の斗南ヶ丘だった。山川大蔵が誰も住まないこの原野に、会津人が自立して生きて行かれるようなモデル地区を作ろうと、二百戸ほどのバラックを建設し、周囲を開墾する計画を立てたのである。今は一軒も残っていないが、大風で屋根が吹っ飛ぶような粗末なものだったらしい。傍の「旧斗南藩墳墓の地」には彼等の墓があった。京都近江屋で坂本竜馬を斬り殺した、小太刀日本一の佐々木只三郎の父親の墓もあった。

 斗南ヶ丘の中央に立つ立派な碑は、昭和十一年にここを訪れた秩父宮両殿下を記念したものであった。秩父宮妃殿下勢津子さまは松平容保公の孫である。この婚礼が昭和三年に行なわれた時、全会津人が「これで逆賊の汚名が雪がれた」と泣いて喜んだという。当時、東大、京大、九大の総長を退き枢密顧問官をしていた山川健次郎が、奔走した賜であった。実際この昭和三年、山川健次郎と陸軍大将を退役した柴五郎は、京都守護職の会津藩一千名の本陣であり、戊辰戦争殉難者の墓地もある京都の金戒(こんかい)光明寺を訪れ、殉難者の霊に婚礼を報告している。この寺が好きで毎年訪れている私は、この時の写真を見る機会があったが、両人とも実に晴れ晴れとした表情をしていた。

 柴五郎は決して偉ぶらない人だった。陸軍大将を退役した後、北海道巡遊の帰り、下北を二度も訪れている。そして半世紀余り前、少年だった自分に親切にしてくれた地元の人々に改めて感謝を伝えた。斗南時代に暖かい衣服を持たなかった五郎は、刀鍛冶の二本柳家に行っては火のそばで暖をとらせてもらった。下北訪問の時、五郎は懐旧の念に駆られてこの鍛冶屋を訪れ、お世話になった人の孫に感謝を述べた。孫の方は陸軍大将の突然の訪問にさぞ仰天恐縮したであろう。祖父の鍛えた美しい槍をこの訪問の記念にと五郎に贈った。五郎は東京に戻ってからすこぶる丁寧なお礼の手紙を送っている。また、青森県庁の給仕として採用された十一歳の時、餞別として青森までの旅費をくれた人の夫人が、まだ生きていたので感謝を伝えている。五郎の暖かさは下北人の暖かさと共鳴していたのである。

 

 晩年、柴五郎は『ある明治人の記録——会津人柴五郎の遺書』(石光真人編著、中公新書)の草稿を半紙に毛筆で記した。序文の一行目はこう始まった。

「いくたびか筆とれども、胸塞がり涙さきだちて綴るにたえず、むなしく年を過して(よわい)すでに八十路を越えたり。……故郷の山河を偲び、過ぎし日を想えば心安からず、老残の身の迷いならんと自ら𠮟咤すれど、懊悩流涕やむことなし」

 続いてこうも書く。「時移りて薩長の狼藉者も、いまは苔むす墓石のもとに眠りてすでに久し。恨みても甲斐なき繰言なれど、ああ、いまは恨むにあらず、怒るにあらず、ただ口惜しきことかぎりなく、心を悟道に託すること能わざるなり」

 世界の「柴中佐」となり、陸軍大将にまで昇りつめ、功成り名を遂げた柴五郎が、八十路を越えてなお、薩長への深い恨みを忘れよう、安らぎを得ようと死闘しているのである。結びにはこう書いた。「悲運なりし地下の祖母、父母、姉妹の霊前に伏して思慕の情やるかたなく、この一文を献ずるは血を吐く思いなり」

 五郎はこの草稿を死を前にして会津若松の菩提寺に納め、門外不出とした。正義を世に訴えるためのものではなく、柴家の人々の無念を鎮め菩提を弔うためのものであった。

 柴五郎は大東亜戦争終結の一ヵ月後、遺書を書いてから母たちのように日本刀による自決を試みた。八十五歳の老齢により果たせなかったが、その傷がもとで三ヵ月後に亡くなった。現在は、幼い柴五郎が焼跡の中から泣きながら拾い集めた祖母、母、姉妹の遺骨と並んで、会津若松の恵倫寺に眠っている。

 

 

 

Wikipedia

五郎(しば ごろう、1860621万延元年531945昭和20年)1213)は、日本陸軍軍人12師団長・東京衛戍総督台湾軍司令官・軍事参議官を歴任し、階級は陸軍大将勲一等功二級に至った。柴四朗(東海散士)は兄。

経歴[編集]

少年時代の柴を庇護した野田豁通。野田の娘は柴とは同藩出身の西義一に嫁ぎ、野田の甥石光真清の長男である石光真人は柴の遺書を編纂し、『ある明治人の記録』として出版した。

会津藩の上士(280石)である柴佐多蔵の五男として生まれた[2]会津戦争の籠城戦前に祖母・母・兄嫁・姉妹は自刃した。自刃前に親戚に預けられた五郎は親戚の山荘で隠れていたが、兄たちや父親と再会する。戦後は会津藩の武士階級は旧会津藩から移住することが決まり、藩主と同じ陸奥国斗南青森県むつ市)への移住を選ぶ。藩校日新館青森県庁給仕を経て、1873(明治6年)3月、陸軍幼年学校に入校。1877(明治10年)5月、陸軍士官学校に進み、1879(明治12年)12月、陸軍砲兵少尉に任官され、翌年12月に士官学校を卒業する。士官生徒3期の柴の同期には、上原勇作元帥内山小二郎秋山好古本郷房太郎の各大将がいる。

卒業後の1881(明治14年)7月、大阪鎮台山砲兵第4大隊小隊長に就任。1883(明治16年)2月には近衛砲兵大隊小隊長に移る。1884(明治17年)6月の参謀本部出仕を経て同年7月に陸軍中尉に進級し、同年10月には清国差遣を命ぜられ福州北京に駐在する。

1888(明治21年)5月、近衛砲兵連隊小隊長に就き、翌年3陸軍砲兵射的学校を卒業する。11月、陸軍大尉に進級し、近衛砲兵連隊中隊長に進む。1890(明治23年)2月、砲兵課員として陸軍省に勤め、同年5月から陸軍士官学校教官となる。1892(明治25年)1月からの参謀本部第二局員を経て1894(明治27年)3月、イギリス公使館附心得を命ぜられる。いわゆる駐在武官であるが8月に帰朝となる。同年11月、陸軍少佐に進級し、大本営参謀。翌1895年(明治28年)4月から日清戦争に出征し、5月に帰還、同年9月イギリス公使館附に復する。

1898(明治31年)515日、米西戦争の視察の命令を受けワシントンD.C.の日本公使館に着任、大使・星亨の紹介により陸軍長官アルジャーと面会して24日にワシントンを離れ、25日から61日までテネシー州チャタヌーガの陸軍キャンプで訓練を視察、8日の予定が遅れて13日にフロリダ州タンパ港から出港した。アメリカ陸軍第五軍団(シャフター少将指揮)は22日にキューバサンチャゴ・デ・クーバの東約16マイルのダイクイリに上陸を開始し、続いて24日には同じく8海里のシボネーに第1師団が上陸し、柴はこれに同行した。71日に米軍はエル・カネーとサン・ホアンへ攻撃を行い苦戦ながらも両地点を確保し、柴はこのうちサン・ホアンの攻防戦を観戦した。降伏の交渉が始まり、17日には入城式が執り行われ、この方面の主な戦闘は終結した。柴はサンチャゴ市内へ入りスペイン側からも攻防戦の情報を集め調査した。柴の乗った船は20日にサンチャゴを離れ、柴は続くプエルトリコ攻撃の観戦を希望したが、既に遠征軍は出撃しており、26日にタンパへ帰港した船で検疫のために足止めを受けて上陸は30日、81日にワシントンへ戻った[3]

12月、参謀本部出仕。翌年1月、参謀本部部員を命ぜられ8月に帰国する。

1899(明治32年)10月の陸軍中佐進級を経て1900(明治33年)3月、清国公使館附を命ぜられる。駐在武官として着任まもない5月、義和団の乱が起こる。暴徒が各国の大使館を取り囲み、日本公使館書記生の杉山彬やドイツ公使ケットレルClemens von Ketteler)が殺害される。柴は公使・西徳二郎の下で居留民保護にあたり、また他国軍と協力して60日に及ぶ篭城戦を戦い、その功を称えられる。当時、北京には日本の他に11カ国が公使館を持っており、うち日本を含む8カ国が多少の護衛兵を持っていたが、柴は事前に北京城およびその周辺の地理を調べ尽くし、さらには間者を駆使した情報網を築き上げていたことから、各国篭城部隊の実質的司令官であった。事変後、柴はイギリスのビクトリア女王をはじめ各国政府から勲章を授与された。ロンドン・タイムスはその社説で「籠城中の外国人の中で、日本人ほど男らしく奮闘し、その任務を全うした国民はいない。日本兵の輝かしい武勇と戦術が、北京籠城を持ちこたえさせたのだ」と記した。なお、柴自身はアメリカ軍人が最も勇敢だったと評している。

1901(明治34年)3月、参謀本部附となり、同年6月から野砲兵第15連隊長に就任、1902(明治35年)12陸軍大佐に進級する。1904(明治37年)4月から野戦砲兵第十五連隊長として日露戦争に出征し、1906(明治39年)2月に帰還する。それまでの功績から41日、功二級金鵄勲章を受章する。同年3月、イギリス大使館附の辞令が発せられ、7ロンドンに着任する[4]

1907(明治40年)11月、陸軍少将に進級し、1908(明治41年)12月に佐世保要塞司令官という当時「ヨウナイ司令官」と陰口をたたかれた閑職に就く[* 1]1909(明治42年)8月就任の重砲兵第2旅団長の後、1911(明治44年)12月に参謀本部附の身分で清国に出張する。

1912大正元年)9月、重砲兵第1旅団長となり、翌1913年(大正2年)8月に陸軍中将に進級するが、補職は下関要塞司令官であった。数々の武勲を立てた柴が閑職にあったのは陸軍大学校を出なかったからとも、朝敵である会津藩の出だからともいう[要出]。しかしその後、師団長を務めてからは大将街道に復帰する。

1914(大正3年)5月には12師団長に親補され、1917(大正6年)525日に勲一等瑞宝章受章。1918(大正7年)9月からの東伏見宮依仁親王のイギリス派遣にあたってはこれに随行する。1919(大正8年)1月にイギリスより帰国するが、前年の大正77月に東京衛戍総督に親補されており、帰国後の大正88月には陸軍大将に親任された。大正811月に台湾軍司令官に、1921(大正10年)5月に軍事参議官にそれぞれ親補され、1922(大正11年)11月に待命、翌年の1923(大正12年)3月に予備役被仰付、1930(昭和5年)4月に退役。

1945(昭和20年)、太平洋戦争敗戦後に身辺の整理を始め915日に自決を図った。柴は老齢のため果たせなかったが同年1213日、その怪我がもとで病死する。享年85。墓所は会津若松市恵倫寺にあり、同市のかつて兵営があったところに柴の生家跡をしめす石碑がある。

栄典[編集]

位階

·        1880(明治13年)531 - 正八位[5]

·        1884(明治17年)830 - 従七位[5][6]

·        1891(明治24年)1228 - 正七位[5][7]

·        1894(明治27年)1226 - 従六位[5][8]

·        1899(明治32年)1220 - 正六位[5][9]

·        1903(明治36年)330 - 従五位[5][10]

·        1907(明治40年)1227 - 正五位[5][11]

·        1913(大正2年)130 - 従四位[5][12]

·        1915(大正4年)31 - 正四位[5][13]

·        1918(大正7年)320 - 従三位[5][14]

·        1921(大正10年)411 - 正三位[5][15]

·        1923(大正12年)420 - 従二位[16]

勲章等

·        1890(明治23年)310 - 大日本帝国憲法発布記念章[17]

·        1893(明治26年)1129 - 勲六等瑞宝章[18]

·        1895(明治28年)

o   1018 - 単光旭日章功四級金鵄勲章[19]

o   1118 - 明治二十七八年従軍記章[20]

·        1897(明治30年)1125 - 勲五等瑞宝章[21]

·        1906(明治39年)41 - 功二級金鵄勲章明治三十七八年従軍記章[22]

·        1910(明治43年)520 - 勲二等瑞宝章[23]

·        1915(大正4年)1110 - 大礼記念章(大正)[24]

·        1917(大正6年)525 - 勲一等瑞宝章[25]

·        1920(大正9年)111 - 金杯一組大正三年乃至九年戦役従軍記章[26]

外国勲章等佩用允許

·        1894(明治27年)1010 - カンボジア王国:ロイヤル・デュ・カンボジュ勲章オフィシエ[27]

·        1902(明治35年)925

o   オーストリア=ハンガリー帝国:鉄冠第二等勲章[28]

o   イタリア王国:サンモーリスエラザル勲章コマンドール[28]

·        1903(明治36年)39 - 大清帝国:第二等第二竜宝星[29]

·        1907 (明治40年)57英国:ロイヤル・ヴィクトリア勲章;名誉コマンダー[30]

人物像[編集]

·        陸士旧3期の中将、大将の多くが柴五郎、内山小二郎の名を友人として挙げている。陸士旧3期のリーダー格は上原勇作であったが、人間関係の輪の中心には内山、柴の両名がいたことは間違いない。個性が強く異なる人物たちと共通の友人であったことは稀有なことである。

·        上記の通り、故郷の会津が薩摩勢に甚大な被害をもたらされ、自らの家族も犠牲にあったため、薩摩の西郷隆盛大久保利通の死を「一片の同情もわかず、両雄非業の最期を遂げたるを当然の帰結なり」として喜んだと回顧している。移住先で陸軍幼年学校に入ることに決める[31]

·        義和団の乱の防衛戦で賞賛を浴び、欧米各国から数々の勲章を授与された。『タイムズ』の記者ジョージ・アーネスト・モリソンの報道も相俟ってリュウトナンコロネル・シバ(柴中佐の意)は欧米で広く知られる最初の日本人となった。『北京籠城』の著者ピーター・フレミングは「日本を指揮した柴中佐は、籠城中のどの士官よりも有能で経験も豊かであったばかりか誰からも好かれ、尊敬された」と記した[32][33]

·        陸軍部内きっての中国通としても知られ、事ある毎に中国へ派遣された。義和団の乱において総指揮を取ったイギリス公使クロード・マクドナルドは、共に戦った柴と配下の日本兵の勇敢さと礼儀正しさに大いに心を動かされ深く信頼するようになり、1901の夏の賜暇休暇中に英国首相ソールズベリー侯爵と何度も会見し、715には日本公使館に林董を訪ねて日英同盟の構想を述べ、以後の交渉全てに立ち会い日英同盟締結の強力な推進者となった。このことから柴は日英同盟のきっかけをつくった影の立役者として評価されている。

·        東海散士の筆名を持つ農商務次官外務参政官柴四朗は兄。養嗣子の柴平四郎陸軍少将、娘は西原一策陸軍中将に嫁いだ。嫡孫の柴由一郎[34]1937年(昭和12年)時点で陸軍士官学校本科(15期)生徒[35]である。

柴五郎を演じた人物[編集]

·        伊丹十三 - 映画『北京の55』(1963年、アメリカ。当時は「伊丹一三」名)

·        中村俊昭 - テレビドラマ『田原坂』(1986年、日本テレビ)

·        田中隆三 - テレビドラマ『蒼穹の昴』(2010年、NHK BS hiNHK総合)

関連項目[編集]

·        森雅守(斗南時代から行動を共にした、陸士同期生)

·        安場保和(一時書生を務める)

脚注[編集]

[脚注の使い]

注釈

1.      ^ 歴代陸軍大将134名中、要塞司令官経験者は8名のみである(松下芳男『日本軍事史実話』文園社)

 

 

 

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