私説 ドナルド・キーン  角地幸男  2023.8.12.

 2023.8.12. 私説 ドナルド・キーン

 

著者 角地幸男 1948年神田生まれ。早大文学部仏文科卒。ジャパンタイムズ編集局勤務を経て、城西短大教授を務める。ドナルド・キーンの著作の翻訳者。02年『明治天皇』の訳業で毎日出版文化賞受賞。著書に『ケンブリッジ帰りの文士 吉田健一』

 

発行日           2023.6.30. 第1刷発行

発行所           文藝春秋

 

 

第1部        私説ドナルド・キーン

l  ドナルド・キーン小伝 (初出『別冊太陽』20179)

これまでキーン自身は『日本との出会い』(50)、『このひとすじにつながりて』(71)、『私と20世紀のクロニクル』(‘11年文庫本化に際し『ドナルド・キーン自伝』に改題、85)を書いているが、評伝の類が1つもない

自伝は、他にも徳岡孝夫がキーンの口述をまとめた自伝『日本文学のなかへ』、河路由佳のインタビューに答える形で編纂された米海軍日本語学校時代の貴重な回想『ドナルド・キーン 私の日本語修行』(22-09参照)がある

古代から現代に及ぶ膨大な『日本文学史』、その文学史の番外編ともいうべき日本の日記文学を網羅した論考『百代の過客』、また『明治天皇』から『石川啄木』に至る晩年の評伝作品の数々、さらに能、近松の浄瑠璃、芭蕉の紀行から太宰の小説、三島、安部の劇作までを含む数多くの翻訳作品を前にして、そのスケールの大きさに初の評伝筆者は途方に暮れざるを得ない

Donald Lawrence Keeneは、1922618日、貿易商の父ジョセフ・フランクと母リナ・バーバラの長男としてニューヨークのブルックリンに生まれた。帰化して鬼怒鳴門

2歳下の妹は急性呼吸不全で夭折、14歳の時両親が別居、母と暮らす

2回飛び級して、1938年コロンビア大入学、ピュリッツァー奨学金による特待生

1931年、父といったフランスで、英語以外の言語の存在に衝撃を受け、外国語に興味を持ち、特にフランス語が好きになり、1939年には『フローベール論』を英文で書く

次いで、コロンビア大の中国人同級生から漢字を教わり、表意文字との衝撃的な出会いを経験し、漢字嗜好の始まりとなる

3番目の決定的瞬間が、1940年ニューヨークの古本屋でアーサー・ウエーリ訳の『源氏物語』と出会ったこと

19422月「海軍日本語学校」入学が、生涯で一番大事な出来事と述懐している。「以後現在まで、日本語を考えない日はない」のと同時に、ここで読めるようになった「手書きくずし文字」が、戦中戦後を通じで日本学者キーンにとって決定的な「日本語」体験を呼び寄せることになる――日本人兵士の手書きの日記との出会いが、後年『日本文学史』における日記文学の重視や、日記の集大成と論考、関連の著作へと繋がる

戦時中から筋金入りの平和主義者で日本学者、沖縄戦にも情報将校として、銃の代わりに和英辞典を小脇に抱えて参加。グアムで「玉音放送」を聞き、ハワイの原隊に復帰

戦後、コロンビア大大学院に復学、生涯にわたって唯一「センセイ」と呼ぶ角田(つのだ)柳作と再会、その後次々と芽を出すことになる多彩な研究の素地を蓄積

1947年から1年間、ハーバードに「編参」し、気鋭の日本史の助教授ライシャワーと杜甫の詩を講義するウィリアム・フン教授から強い影響を受ける

194853年、英国ケンブリッジ大のコーパス・クリスティ・コレッジへ留学。研究の傍ら日本語の授業も受け持ち、限られた語彙を用いて規則的な文法で書かれた『古今和歌集』の仮名序をテキストに使う――気品を感じさせる「日本語」の言葉そのものに惹かれた

30年後の1981年、それまでの学者としての仕事全てに対し文学博士号授与

1953年、フォード財団の奨学金で京大大学院に留学。「終生の友」永井道雄と「無賓主庵」に同宿。芭蕉の研究に没頭、茂山千之丞から狂言の稽古。’55,56年発刊の『日本文学選集・古典編』の2冊は世界各国の大学で初めて日本文学入門のテキストとして使われる

永井を通じて同級生の嶋中鵬二とも「終生の友」に。嶋中を通じて三島を知る

1953年、伊勢神宮式年遷宮に参列、芭蕉が書き残した足跡を辿るのが目的だったが、以後4回続けて参列。最後の絹垣(きんがい)を奉ずる行列のクライマックスに神の存在を感じ、何世紀にもわたる日本人の信仰が宿ることを喝破、超自然的なまでの歓喜を覚えたと記す

1955年、コロンビア大助教授(60年教授)。文法や意味だけでなく「音の響き」にも留意、日本語の意味を逐語的に移しつつ原文の日本語が美しいのと同様に翻訳の英語も美しくなければいけないとした

1964年、『日本文学史』の構想を抱く。当初は、日本文学の美を明らかにする楽しい本を書くべく作品そのものについてだけ書きたいとしていたが、英語の史料自体がないことに気付き、作者の生没年など自分にとって退屈な事実も文学史には必要不可欠だとして当初の構想を変更、結局25年かけて文学史として完成させる――’76年の近世編『壁の中の世界』(鎖国をイメージ)に続き、84年には近代・現代編『西洋への夜明け』(開国をイメージ)、最後が93年の古代・中世編『人の心を種として・・・・』(『古今集』仮名序からの言葉)

安部公房が書いた跋文(1984)――日本文学はあまりにも長く地下に埋もれていた。その全体像は日本人自身にも掴みにくいものだった。時代や洋式によって異なるバラバラな尺度が適用されていた。まとまりのある1つの鉱脈である事を発見するためには、ドナルド・キーンの探索を待たねばならなかった。西洋人にとっての発見だったばかりでなく、日本人自身にとっても初めて自分の顔を直視した驚きに似た衝撃を伴っている。日本文学の特殊性を取りこぼさずに、しかも尺貫法ではなくメートル法によって書かれた稀有な仕事だ

1964年、軽井沢に日本で初めての家を持ち、『徒然草』を仕上げる

1971年、文京区西方にマンション購入。74年北区西ヶ原のマンションに転居

1961年、サバティカルで某財団の助成金を得て、「文楽」と「能」の研究に専念

1959年、親しくなった「鉢の木会」の同人誌『聲』に、鷗外の『花子』をめぐって旧仮名遣いの日本語で寄稿、1つの誤りもない文章に一同感嘆、ポーランド生まれの英国の小説家ジョセフ・コンラッドとキーンは例外として脱帽

若き大江健三郎や安部公房と知り合ったのは1964年。大江の『個人的な体験』を読んでグルーブ・プレスに紹介、以後相次いで英訳が出版され後のノーベル賞のきっかけを作る

三島由紀夫著『近代能楽集』('68、新潮文庫)に寄せたキーンの解説を読んだ三島は、「能の現代化という可能性を論ずる知識を持ってこれだけのことを書ける人は日本では1人もいない。批評家は古典に無知で、能の人たちは文学的教養もなければ西洋のことも知らない」と言ったが、キーンは『葵上(あおいのうえ)』『班女(はんじょ)』が書かれた’55年当時、日本の文学界では全く無視されていたが、いち早く反応し翻訳に取り掛かったという

1993年、『日本文学史』をライフワークと評されたが、まだ書き続けたかったキーンは発奮、初めて日本人の伝記を書くことを思い立ち、手掛けたのが『明治天皇』で、英語の伝記がないことに着目。以後次々に歴史の転換期に生きた人々を取り上げる

2011年、東北大震災に際し、「連帯を訴えるジェスチャー」として日本国籍を申請したとされるが、実際は長年温めていた気持ちの発露であって、偶々タイミングが重なったもの

2012年、日本帰化が決まった直後に、新潟出身の浄瑠璃三味線奏者上原誠己と養子縁組。06年初対面、大英博物館で発見された古浄瑠璃の上演をキーンに勧められた誠己は、関西の人形浄瑠璃文楽座で「鶴澤淺造」の名で25年間三味線奏者を務めており、自らの作曲で09年復活上演を実現、17年にはロンドン公演を果たす。養子縁組は永井道雄夫妻の仲立ちで実現。84歳の時の『自伝』でキーンは、自らの人生を左右してきたのは幸運だったと述懐し、日本に対する感謝の気持ちを強調。西ヶ原の無量寺の八重桜の古木の下に眠る

キーンの3冊の自伝は、そのままキーンの「交遊録」であり、世界各地の「旅行記」

キーンは、優れた日本学者に留まらず、スペイン文学やフランス文学への造詣も並々ならぬものがある。「幸運」であったのは間違いないが、自ら呼び寄せた「幸運」でもあった

キーンという人物の魅力は、日本学者であることにはない。好奇心旺盛な少年キーンが、そのまま晩年のキーンという人間に大成してしまったことにキーンの魅力は尽きる。「少年のような愕(おどろ)きやすさ」を95歳まで変わることなく持ち続けたことにこそキーンの「天才」がある

 

l  私説ドナルド・キーン――異邦人の孤独 (初出『文學界』20228)

『別冊太陽』の小伝を読んだキーンは、欠点に触れていないのが玉に瑕だと言った

悪評もあったが、虚像・実像全てを洗い出した正面切ったドナルド・キーン論はなかった

何度も自伝を書いたのは、日本の新聞社の要請によるもので、「珍しい存在」だったから。その分世間の誤解も受けやすかったし、誤解の度合いは年を経るに従って強くなった

英語圏から来た日本文学研究家という特異な立場であり、特権的存在で、特別扱いされた

外国人に日本語・日本文学がわかるわけがないといった鎖国的な差別感情が強いなか、「珍しい存在」であると同時に、いかにも世渡りがうまそうで誰にでも好かれる「嫌な存在」であり続けたことを抜かしてキーンを論じることはできない。「珍しい存在」に注がれるのは常に好奇の目でしかないし、「嫌な存在」なら興味の対象どころか無視されるよりほかない

日本への帰化を日本のマスコミが大震災に絡めて取り上げた際、キーンは世間の思惑はどうでもいいと思っていた節がある。昔から自分の「勉強」の環境さえ整えることができれば、世間の評価は一切意に介さなかった

『日本文学史』が完成した時、「源氏」の権威として知られる東大の某教授は、面と向かって「注釈に引用された無数の研究者の論文と批評も含め、すべて翻訳で読んだのでしょうね」といったそうだが、これらの愚問はもとより、何を言われても反論しない、釈明もしないというのがキーンの欠点。諸外国で日本学の権威として高く評価される一方で、日本でだけはただひたすら「珍しい存在」として好奇の眼に晒され、「嫌な存在」として軽蔑の的になることに耐えること――日本文学研究家キーンの孤独は、すべてここに発すると言える

ケンブリッジを辞めてまで過ごした2年目の日本留学で得た貴重な「数々の親交」や勉強の環境を作ってくれた嶋中鵬二との出会いこそ、稀有な「幸運」とキーンが述懐

京都の下宿していた「無賓主(むひんじゅ)庵」では、アメリカ帰りの京大助教授だった1歳年下の永井道雄と意気投合、永井から東京高師附属小学校時代以来の友人嶋中を紹介される。嶋中は急逝した父の跡を継ぎ25歳で中央公論の社長だった。嶋中は、閉鎖的な日本のジャーナリズムに失望を感じていたキーンに、三島を紹介、三島の近所に住む吉田健一も紹介、吉田はキーンが気兼ねなく英語で話せる唯一の親友となり、キーンの処女作を『日本の文学』(1963)と題して翻訳

さらに嶋中を通じて、永井荷風、谷崎、志賀、川端といった老大家たちとも面識を得、翌年からは『中央公論』本誌にエッセイを書き、後に『碧い眼の太郎冠者』(1957)として発刊。その後も嶋中は、キーン初の自伝から『日本文学史』まで、日本の文学界にデビューさせてくれた恩人であり、同社の『日本の文学』全80巻の編集委員としても抜擢

嶋中は司馬遼太郎にも紹介、日本文学の話題抜きにという司馬の条件をキーンが受け入れて数度の対談をした成果を『日本人と日本文化』(1972)というロングセラーにした

白洲正子が初対面のキーンに「どうせ、いろいろご覧になって、なんでも、よくご存じなんでしょ」といったが、キーンは皮肉と嘲笑以外の何物でもないことを感じ取ったが、キーンはどんな場合であれ、否定もしないし一切釈明もしなかった

『日本の文学』(1963)を絶賛した教授が、『日本文学史 近世編』上下(1977)では「大味な通説随順の教科書調」「学会の有力者たちの論説はくどいほど恭しく引用」と酷評していたが、英語で書く初めての通史を何としてでも完成させるために、場合によっては「日本の学者たちがやった研究」に頼らざるを得なかったと述懐しているように、海外に日本文学を紹介するというキーンの仕事の本質からして、後世の外国人研究者のための布石と考えれば、批判は些か見当違い。『日本の文学』は、あくまで自身が日本文学で驚嘆し美しいと思った作品の紹介であり、『日本文学史』は「日本の文学について組織的に論究したその概観」であって、「その代表作を網羅した参考書」にならざるを得ないとキーン自身自覚していた

柄谷行人が、「戦後アメリカのジャパノロジストが『雪国』をノーベル賞まで持ち上げた」とか、「『奥の細道」300周年で芭蕉関係の本がたくさん出ているが、どれも保田與重郎の『芭蕉』に比べれば生彩がなくみんなドナルド・キーンが書いたみたいなもの』と言っているが、キーンがノーベル賞に積極的に推薦していたのは谷崎であり、亡きあとは三島、後に安部、大江で、川端の作品で評価していたのも『雪国』ではなく『眠れる美女』だったし、芭蕉論についても根拠不明で、キーンがぞっこん惚れ込んだのもジャパノロジストの興味とは違う、『奥の細道』の「書かれた言葉」の永遠性にあった

キーンは自身が翻訳した『宴のあと』をフォルメントール賞に強く推薦、ノーベル賞を受賞させたかったが、若い左翼ゆえに斥けられる。キーンは川端の受賞に際し『ニューヨーク・タイムズ』に一文を寄稿、「非常に驚いたことに」川端が受賞したと書いたが、日本人受賞に驚いたのか、川端の受賞に驚いたのかは不明

1982年、キーンは朝日新聞の客員編集委員に就任、10年任期で定収を得ることにより「勉強」の環境は整えられたが、徳岡孝夫から絶交される。徳岡は毎日新聞編集委員、大の朝日嫌いで有名、キーンの口述を自伝の形で出版したり、『日本文学史』の2編の翻訳者だが、それ以後翻訳を降りたため、筆者に回ってきたが、朝日入社が原因ではないかとキーンに問い質すと、キーンは徳岡には関係ないことだと割り切っている。かけがえのない友人の信条であり心情でもある心の機微に対するこういう鈍感さはキーンの欠点の1つだろう

キーンが『ニューヨーク・タイムズ』に送った三島の追悼文(1971.1.3.)は、三島論の白眉と言っていいが、若者の純粋さと自分の信念のために死ぬ覚悟ができているものだけが日本の文化を救うことができるという三島の信念や、剣道に熱中する三島に違和感を覚えていたが、お互い相容れない部分があるのを十分承知のうえで親友だったことがわかる

徳岡がのちに仲直りしたのも、キーンのそういう性格を十分承知のうえで親友だったからだろう。意見を異にしても「親友」として遇される何かをキーンは自ずと身に備えていた

キーンの仕事の性格を掴むには、ごく初期の3作品に注目すべき――①『国姓爺合戦 近松の人形浄瑠璃、その背景と重要性』(1951)、②『日本人の西洋発見 本多利明とその他の発見者たち(172098)(1952)、③『日本の文学 西洋の読者のための入門』(1953)

①は博士論文で邦訳はない、中華民国政府の奨学金を得るために給付の条件に見合うテーマとして絞り出した作品、②は修士論文。何れもコロンビア大の角田柳作の影響を受けている。③はケンブリッジでの講義から得た成果を公開講義で発表したものが基本

『国姓爺』では、博士論文でありながら、早くも「一般の読者」を意識しているが、それはハーバード時代にライシャワーが円仁に関する優れた研究内容を一般大衆のためにわかりやすく書いた別冊を出したことに感銘を受けたことが基礎になっている

②『日本人の西洋発見』では、対象の選択自体にも角田の影響が色濃く反映され、江戸時代の著名な儒学者でなく、専ら独立思想を持った蘭学者、洋学者に向けられたことに注目、本多利明を選び、彼とともに1つの新しい時代が始まったことに自らを重ね合わせる

ここで語られた「不安な、好奇心旺盛な、感受力鋭敏な新精神」への共感は晩年の評伝『渡辺崋山』(原題は『井の中の蛙(大海を知らず)』、2006)で完結

③『日本の文学』は、「講義に誰も何の反応も示さないので落胆していたにもかかわらず、自分のやっている仕事が価値あるものだということを証明するために書いた」とあるように、志の高さを謳い、本多利明の「努力」と「熱情」に匹敵する自負を書いている

キーンが何よりも魅せられたのは、日本語の特性であり、機能や具体的な働きだった。日本の言語に注目したところに学者キーンの本領があった。中国語との違いを明確にした上で、掛詞(かけことば、同音異義)をその代表例として挙げ、日本語の音の種類が限られている結果、同じ音で意味が違う言葉が多くなるのは避けられないという――その特性を最大限具現化したのが俳句や連歌であり、それが同時に謡曲を通して能の面に繋がり、さらにそれが浄瑠璃における太夫と人形の機能として復活する。こうした共通の特徴を掴むことで、キーンには日本の文学全てが1つに繋がった。最初から「文学史」としての体裁を放棄し、日本語という「言語」の特徴だけに的を絞って「整理整頓」したのはキーンの卓見

キーンの念願は、一生「勉強」に費やして原稿を書くことにあり、「珍しい存在」であることも「嫌な存在」であることも、書かれた作品と同様、付け入る隙などなかった

キーンが特に連歌に拘ったのは、そこに日本語の特性を見ると同時に自分の生き方に通じるものを見たからで、「どの句も次の句に繋がり、詩が高度に暗示的な性格を失わないでいさえすれば、作品の構造を念入りに工夫したり、1つの主題をその結末まで発展させたりする必要がない」という連歌の特徴こそ、まさにキーンの生き方そのものだった。周囲の思惑を一切無視し、ひたすら連歌の呼吸で毎日を繋いでいくこと――これこそドナルド・キーンの生きる秘訣だった

 

第2部        日本文学者の原点

l  17歳の「フローベール論」 (初出『新潮』20226)

1939年、コロンビア大在学中に書いたのが『フローベールの象徴主義』

ニューヨーク市立小から高校まで首席で通し、飛び級2回のあとピュリッツァー奨学金の特待生としてコロンビアに入学して2年目に書いた英文19枚の論考、最高点の評価

「無駄なく簡潔な達意の文章」という特徴は、後年のキーンの文体の特徴を思わせ、精神の骨格そのものが簡潔で無駄がないということを現しているのは間違いない

『ボヴァリー夫人』など長短7編の代表作を取り上げ、ありきたりの逸話などすべて割愛し、見事なほど「象徴性」というテーマに基づいて自分の文章を進める。それも「象徴性」という言葉を使わずにその目的を果たしている。感嘆符の多用にも特徴。文章がその意図から自在にはみ出し、時として物語の主人公にもなり兼ねないまでゆくところに、既にキーンの特徴がみられ、晩年に到るまで一貫して変わらないキーンの文体となる。人間そのものに興味を寄せるキーンの嗜好が全編に漲り、後の評伝の魅力に憑りつかれることに発展

作品相互の関係にも目配りを怠らず、主人公の間の共通性に迫り、その性格の核心を突く

1953年、処女作『日本の文学』(吉田健一訳)――初めて日本文学に出会ったキーンは、言葉の「象徴性」なくして成り立たない、見渡す限り象徴主義一色の世界に目を疑っただろう

日本文学そのものが象徴主義の定義に他ならず、フローベールの象徴主義に魅せられた若き日のキーンが、そのまま仏文学者にならず日本文学者になったのはごく自然の成り行き、その意味で17歳の「若書き」の原稿は、日本文学者キーンの出現を予見させるもの

 

l  20代の「告白」――戦争直後に書かれた横山正克宛てキーン書簡を読む (初出『文學界』20228)

1951年の博士論文は3人の恩人に捧げられた――①漢字の手ほどきを受けたキム・リー(コロンビア大の同級生とは別人)、②キーンが唯一「センセイ」と呼んだ角田柳作、③「青島にいたときの友人」で実業家、京都の最初の寄宿先で1か月世話になった横山正克

横山とは、終戦時青島で本屋を経営する高島屋飯田(後の丸紅)の上海副支店長。店に来たキーンに日本の芸術への興味があるかと聞いたのが話のきっかけで一気に打ち解ける

以後キーンが京大に留学するまでの9年間、書簡のやりとりが続く――ぎごちなさや誤字の残る旧仮名・旧字遣いを交え、お互いの必需品を贈り合う。キーンからは日常生活の必需品が、横山からは翻訳中の『国姓爺合戦』に必要な注釈や一般時代物に関する論文など

書簡の文面の合間を縫って、当時のキーンが何を考え、何をしようとしていたか、率直に語られており、これまで資料として空白が多かった20代の「告白」にこそ耳を傾けるべき

1952年の書簡では、和文学の研究は進捗、能楽も勉強しているが、奥の細道の翻訳はあまり進んでいないと言い、「俳諧を英詩に変ると云ふのは殆んど不可能です。俳諧の特徴はものを暗示することでせう。然しアメリカ人は日本人の詩的背景を有して居ませんから、其の暗示を訳するには困ります。例へば「袖」と云う言葉は日本人に「涙」とか「憂」の意味を暗示しますがアメリカ人に只衣服の一部です」と語られる

1949年ケンブリッジからの書簡では、自分が将来書くべき「日本文学史」の内容に初めて触れ、久松の『日本評論史』を訳す方がいいかもしれないが、西洋人の立場から文学史を書く必要を感じる年、全然和文学を知らない西洋文学者のために西洋文学との比較を対象としなければならないと書く

1950年の誕生日の書簡で、『国姓爺合戦』が印刷されることになったので奉献する1人とすることに横山の許可を求めている

①のキムとは、ジャワ生まれの華僑でコロンビア大学生。オランダ語に堪能で修士論文を書く際にオランダ語の文献を読む手助けをしてくれた可能性がある

ケンブリッジ時代のキーンは、ヨーロッパ中を精力的に歩き回り、パリに感銘を受ける

日本行きが差し迫ってきた1953年には、奨学金獲得のために身元と支払い証明が必要だとして依頼している。日本留学を芭蕉の研究に捧げたかったが、フォード財団の規定に則って研究テーマを現代と結びつけ、「現代日本に残る古典文学の伝統」で申請

ケンブリッジ時代に皇太子が来訪、案内人の1人となり、以降親しい交遊を重ねる

 

第3部        翻訳作法

l  ドナルド・キーンから学んだ翻訳作法――東洋大学での講演 (20221124)

筆者がキーンと初めて会ったのは、新聞社のインタビューをした1972年で、気取らない若々しい印象を受け、いっぺんに飲み友だちになって、毎週のようにキーンの手料理で酒を飲んだが、10数年経った頃突然キーンから翻訳を依頼され拒絶

原作者が母語で読者を動かすのと同じように、翻訳者は日本語で読者を動かさなければならない。翻訳とは、原文と全く同じ作品を自分の日本語で書き下ろすことであり、正確さに拘って逐語的に訳す英文和訳とは本質的に異なる作業

キーンの目力に圧倒されて引き受けたのが始まりで、晩年の評伝まで翻訳する羽目になる

キーンが翻訳を必ず読んでチェックすることを条件に引き受けたが、キーンは決して人の原稿に手を入れず、「こういう積りで書いた」と指摘するだけ。他人が原稿に手を入れることは、翻訳者の文体をを乱してしまうため、指摘をヒントに翻訳者の文体で推敲する

キーン自身が日本語で書かないのは、「英語で書くのが私の仕事だから」で、日本語の分からない外国人に英語で日本のことを伝えることがキーンの本来の仕事

『明治天皇』以降は、すべて毎月新たに書き下ろされ同時進行で翻訳されたものが日本の雑誌に連載される。原稿より先に翻訳を発表した外国人の作家・学者はキーン以外にいない

日本語版が出てからキーンは英文に手を入れ始め、約1年後に英語版をアメリカの出版社から刊行する。場合によっては日本語訳に倣って英語を書き直したりもする

「短いエッセイなら最初から日本語で書けるが、長い連載では書き始めて見ないと何を書くか自分でもわからないことがあり、その場合は英語でないとまずい」とキーンは言う

文章を書くのは、既に頭の中に出来上がっていることを文字の形にして現すことではなく、書き出してみないと、自分でも何を書くかわからないから、人は書く。書きながらそれを読んで、「書く自分」と「読む自分」が葛藤しながら「言葉を探す」形で書き進められる。自分がどこへ行き着くか、知りたいから書く。それが無条件に面白いから人は書くのであり、これが本来の「考える」ということであり、書くという作業の本当の意味

キーンが、泉鏡花の文章について、日本語で評を書いているが、その最後に、「翻訳する気はないか」と問われたら、返事は簡単、「とんでもない、この快感を得るために30年前から日本語を勉強したのではないか」と。お互い翻訳できない世界がある

翻訳の大前提は、対象の文学作品に惚れること。惚れなければ見えてこないものがある

作品はあくまで「言葉の働き」なので、その働きに動かされることが必要で、キーンは自分が掴んだことを誰かに伝えたくて、次から次へと英語で原稿を書き、好きな作品だけ可能な限り翻訳した

 

第4部        評伝を読む

l  晩年の「評伝」3作を読む――明治天皇、渡辺崋山、正岡子規 (書き下ろし)

『日本文学史』が完成するまでのキーンは、それを自分の代表作と考えていたようだが、『明治天皇』が刊行されると「これが私の代表作だ」といった――義務的な日本文学通史の仕事の束縛から解放され、「やりたいことをやる」評伝の世界へと新たな一歩を踏み出した

キーンは、以前から明治時代の文化史に関心があり、「明治天皇にピントを合わせ」た「明治時代史」を書こうとした

注目すべきは読者の興味を喚起してやまない「註」の書きぶり。引用の出展を明示するのみならず、本文と同等の緊張感で展開して行く「註」の記述にこそ、学者キーンの本領がある

『明治天皇』より早く、キーンが『日本文学史』と並行してその番外編ともいうべき日記文学の研究『百代の過客』を書いていたことに注目

キーンと日記の出会いは、戦時中の無名の兵士たちの日記であり、そこにまず「日本人」を読み取り、『明治天皇』でも、素朴で賢明で忍耐強い「日本人」を書きたかった

明治天皇の「素顔」を探りつつ、明治の歴史そのものの面白さに心を奪われる

『渡辺崋山』では、蘭学によって自分の世界を広げ、井の中の蛙にならずに済んだ崋山という人物をキーンは書きたかった――儒者でありながら、蘭学に親しみ、1839年『慎機論』『外国事情書』を著すなかで幕府の体質を「井の中の蛙」と批判したことが発覚し、告発されて獄に繋がれ、果ては田原の「在所蟄居」に。絵の才能があり、初午燈籠(はつうまとうろう)の絵を書く仕事で家族を養い、後には独学で人物描写におけるリアリズムを探求し肖像画を生み出す。自決前日に描かれた崋山最後の傑作《黄梁一炊図(こうりょういっすいず)》をキーンは、画家としての名声も、藩政を切り回した家老としての成功さえもが一抹の夢に過ぎなかったと読み解く。最後の一節は、「崋山が将来の世代を惹きつけるとしたら、何よりも一箇の人間―貧窮と迫害に屈することなく画業に邁進し、忘れがたい肖像画の傑作群を残した人物としてではないか」と結ぶ

キーンにとって正岡子規はただの俳人・歌人ではなかった。キーンの最後の評伝となった『石川啄木』は書きたくて書いたが、子規の評伝は書かなければならないと思って書いた

子規がいなければ俳句も短歌も、漢詩のように衰退し、詩歌として生き続けることはできなかったに違いないというのがキーンの持論であり、言葉の世界のすべてに興味を持ち、決断が早く、考えるより先に体が動いてしまう子規に、自分の気質に通じるものを嗅ぎ取り、子規の中に自分を見ていたのではないか

自ら英語が苦手と公言していた子規の英語力を、漱石の次に評価されるほど堪能だったと指摘したのはキーンが初めて。子規の新体詩は英語の詩から多くのものを得たことを示す

子規の長編批評『俳人蕪村』を、キーンは「俳句史上最も重要な文章の1つ」と評価

 

崋山の次にキーンが「評伝」の対象に選んだのは、明治維新の前年に生まれ、俳句と短歌を革新したことで知られる正岡子規だった。

しかしキーンにとって、子規はただの俳人・歌人ではなかった。才気あふれる子規は11歳から漢詩を作り、俳句、短歌はもとより、ヨーロッパの影響を受けた新体詩に挑戦し、さらに明治を舞台にした能作品を書き、小説にも手を染め、最後は病床にあって比類ない随筆を書き続けた。批評家としては紀貫之を「下手な歌よみ」として斥け、芭蕉の俳句は大半が「悪句駄句」と言い放つ。度胸があって、機知に富み、ユーモアを解し、一方で16世紀初期から18世紀末までの300年間にわたる膨大な俳句を、主題別に分類した『俳句分類』という忍耐強い仕事を見事にやり遂げている。

キーンの最後の評伝となった『石川啄木』を書き終えたとき、キーンは筆者に言ったものだった。啄木の評伝は書きたくて書いた、しかし子規の評伝は書かなければならないと思って書いた、と。若くして啄木に親しみ、いち早くModern Japanese literature(日本文学選集・近現代編、1956)に『ローマ字日記』の翻訳の一部を収録し、「友だちになりたくないですが、実におもしろい人物です」と語っていたキーンのセリフとして、いかにも納得がいく。一方、子規がいなければ俳句も短歌も、漢詩のように衰退し、詩歌として生き続けることはできなかったに違いない、というのがキーンの持論だった。だから、ぜひ「書かなければ」という気持ちに駆られて、子規の評伝を書き始めたというのも納得できる。

しかし、この稿を書くために改めて『正岡子規』を通読してみて、その子規に向けられたキーンの眼差しが、意外にも親密で共感に満ちたものであることに気づいた。言葉の世界のすべてに興味を持ち、決断が早く、考えるより先に身体が動いてしまう子規――キーンは、子規に自分の気質に通じるものを嗅ぎ取っていたかもしれない。ひょっとしたらキーンは、啄木よりむしろ子規の中に自分を見ていたのではないか。

まず、司馬遼太郎『坂の上の雲』にも登場する有名なエピソードから始めたい。正岡子規は明治17(1884)9月、東京大学予備門を受験。その時の英語の試験にまつわる失敗談を、子規は『墨汁一滴』に書いている。

 

・・・・其時或字が分らぬので困って居ると隣の男はそれを「幇間(ほうかん)」と教へてくれた、(中略)併しどう考へても幇間では其文の意味がさつぱり分らぬので此の訳は疑はしかったけれど自分の知らぬ字だから別に仕方もないので幇間と訳して置いた。今になって考へて見るとそれは「法官」であったのであろう、それを口伝へに「ホーカン」といふたのが「幇間」と間違ふたので、法官と幇間の誤などは非常の大滑稽であった。

 

これは試験に出たjudicatureという単語をめぐっての一節だが、あまりに出来過ぎていて子規の作り話の匂いがしないでもない。続けて、「試験受けた同級生は56人あったが及第したのは菊池仙湖(謙二郎)と余と2人であった」と子規は記している。

これを受けて評伝『正岡子規』は、「子規が試験に及第したのは、かりに「ホーカン」の意味を知らなかったとしても、子規が同級生たちより英語ができたことを示している。自分は英語が苦手だと執拗に繰り返す子規の言葉は、眉に唾して読んだ方がいいかもしれない」と指摘する。

さらに、「子規は自分に英語の力がないことを、繰り返し述べている。子規研究家は一般にこの子規の言葉を事実として受け止めているが、子規の英語力は決して馬鹿にしたものではなかった」と強調する。

その例に挙げたのは、明治23(1890)の第一高等中学校時代に子規が授業で書いた答案だった。「冒頭の一節を読むと子規の英語の力がよくわかる」とキーンは言う。子規の英文を添削したのは、当時同校で教鞭をとっていた著名な歴史家ジェームズ・マードックだった。「マードックの添削は細かく行き届いたものだが、子規が自ら言っているように英語の力が絶望的であることを示すほど手厳しいものではない」とキーンは指摘し、第2章註20に次のように書く。

 

・・・・マードックは、明らかに子規のエッセイが気に入った。子規の英文はマードックの薦めで、雑誌The Museum(明治2379日号)に発表された。マードックの英語のクラスで同じ課題について書いた漱石の英文が同号で子規の前に掲載されていることから見て、子規は英語の実力で漱石の次に評価されていたことがわかる。(中略)また、子規は英語で演説もしていて、明治2225日に行われた「英語会」のプログラムには子規が”Self-reliance”の題で、漱石が”The Death of My Brother”の題で演説したことが記されている。

 

英語が苦手と自ら吹聴し、また誰もがその言葉を信じていた中で、実は、子規は英語に堪能だった――この事実を指摘したのは、ドナルド・キーンが初めてではないか。2年後に子規が書いた芭蕉についての英文エッセイについて、「英語の間違いがほとんどない」と言い、その子規の英文を掲げた後、次のように書く。

 

自分の英語が目覚ましく上達したことに、子規は気づいていないようだった。あるいは子規は、群を抜いて英語が優れていた旧友の夏目漱石と自分とを比較していたかもしれない。しかし、この芭蕉のエッセイを書くころまでに子規が原書で読んでいた本を列挙していけば分かるように、子規はかなり難解な作品をも理解する力を持っていた。子規の手紙、とりわけ漱石に宛てた手紙には、自分が特に感動した英国の詩が幾つも引用されている。子規は、英語の原書を買い続けた。子規が死んだ時、その蔵書にはミルトン、バイロン、ワーズワースなどの詩の本と並んで哲学、歴史の本があった。子規は、これらの本を持っていただけでなく読んだのだった。

 

英語の詩を読むことで、子規は多くのものを吸収した。キーンは子規の新体詩に触れたくだりで、「本人が英語の力不足を強調しているにもかかわらず、子規の新体詩は英語の詩から多くのものを得たことを示している」と認め、また随筆『我邦に短篇韻文の起りし所以を論ず』を批判した文中で、「こうしたロマン主義的な見解は、間違いなく子規がヨーロッパの詩歌を読んでいたことを示すものである」と指摘する。さらに、第3章の次の一節。

 

・・・・子規は抽象的思考や方法論にほとんど興味がなかった。他人の作品に対する子規の批評は、作品の文学的価値に対する直覚的な理解に基づいたもので、内容の分析や評価に基づくものではなかった。子規は感銘を受けた作品から、自分が必要とするものを取り出した。明治22年、ハーバート・スペンサーのThe Philosophy of Style(文体論)を読み、「文章は短ければ短いほど良い」という金言にいたく感動し、これが文章を書く上での子規の基本原則となった。子規はまた芭蕉の有名な「古池や蛙飛び込む水の音」を論ずるにあたって、スペンサーの”minor image(s)”(断片的な影像)を引用し、ふだん気づかないような何でもない「一部」を通して詩人は「全体を現はす」のだと言っている。

 

ちなみに、「抽象的思考や方法論にほとんど興味がなかった」という子規の性癖は、そのままキーンに当てはまる。また第5章で、キーンは次のようにも書く。

 

子規は小説『銀世界』で、ことあるごとに難解な漢文の言い回しを挿入したがる日本人をからかった。まったく同じことを子規は、これ見よがしに自分の発言を英語で飾りたがる知識人たちについても感じていた。しかし子規は、日本語よりも自分の言いたいことがよりよく表現できるような時は、躊躇することなく英語を使った。

 

英語に堪能で極めて聡明な人物だった子規は、言葉のあらゆる領域で挑戦を重ねた。たとえば『七草集』で子規が示したのは、「詩であれ散文であれ、漢文であれ和文であれ、自分が選んだ方法で自由に書けるだけの言語の技巧、文体の技巧を子規が持っているということだった」とキーンは指摘し、そこに収録されている子規唯一の能について「これは、あるいは明治日本を舞台にした最初の能作品であったかもしれない」として、かつて子規が仮寓していたことのある向島長命寺の桜餅屋を舞台にした「能」を丁寧に読み解いている。

また、明治28(1895)の子規の代表的な批評『俳諧大要』の書き出しの一節、「俳句は文学の一部なり文学は美術の一部なり故に美の標準は文学の標準なり文学の標準は俳句の標準なり即ち絵画も彫刻も音楽も演劇も詩歌小説も皆同一の標準を以て論評し得べし」を引用し、次のように書く。

 

子規がこうした断定的な表現を用いたのは明らかに読者を驚かすためだった。明治時代まで、それぞれの芸術は全然別のもので互いに他と関係ないものと見なされていた。今日「文学」の名称でまとめられているジャンルすべてを統合する日本語は存在しなかったし、詩歌や演劇、小説が同じ批評作品の中で論じられることもなかった。同様に個々の詩歌を指す名称(和歌、漢詩、発句、等々)はあったが、これらすべてを統合する名称はなかった。それぞれ異なる芸術を相互に結び付ける共通の絆は、ふつう無視されていた。

 

その注目すべき例外として、キーンは芭蕉の『笈の小文(おいのこぶみ)』から「西行の和歌における、宗祇の連歌における、雪舟の絵における、利休が茶における、其貫道する物は一なり」の一節を引き、しかし芭蕉と子規の違いを次のように説く。

 

芭蕉は、見たところ異なっているように見えるこれらの芸術が、自然および四季に密接に関係している点で同等であることを理解していた。芭蕉が自分自身を表現するのに選んだのは短歌でも漢詩でもなく俳句だったが、他の形式にも詩があることに芭蕉は気づいていた。(中略)子規は、これらの詩歌の形式すべてで書き、1人の人間が3つの形式で書くことはできないという説を認めなかった。

 

言うまでもなく子規の挑戦は、これら「3つの形式」に止(とど)まらなかった。たとえば全部で90篇ほどある子規の新体詩について、キーンは次のように書く。

 

・・・・子規の新体詩は、子規の俳句や短歌ではめったに見られない形で様々な感情を喚起する。個人的な気持ちを見せようとしない子規の生まれ持った性格が、俳句や短歌では読者との間に距離を保たせている。

新体詩を作る子規の実験の中には、押韻(おういん)の使用が含まれていた。

 

押韻を用いた新体詩として子規が養祖母を詠んだ「老嫗(らうう)某の墓に詣(まう)づ」を例に挙げ、キーンはその価値を次にように説いている。

 

・・・・押韻は何か意外で困難なものがなければ記憶に残らないが、日本語ではそれが簡単に出来てしまう。すべての言葉が5つの母音の1つで終わるから、押韻は平凡過ぎて気づかないまま通り過ぎてしまう。それでもなお子規の新体詩は、批評家たちが言うように引き伸ばされた俳句や短歌に過ぎないものとして斥けられるべきではない。子規は墓について書くだけでなく、自分の喪失感を伝えている。その親切が自分の少年時代を堪えられるものにしてくれた老女の思い出を、子規は捜し求めている。これは子規が老女の墓を訪れた最初ではなくて、以前にも来たことがあった。しかし3年経って来て見れば、驚いたことに尾根にも谷にも見渡すかぎり墓が満ち満ちていて、どれが老女の墓か子規は途方に暮れる――この新体詩は、あまり引用されることがないが、子規の俳句や短歌と同じく私を感動させる

 

漢詩については、「子規について議論されることが少ないいま1つの詩歌は漢詩だが、この詩歌の形式は11歳で初めて漢詩を作った時から生涯を通じて子規には不可欠のものとなった」と指摘し、「中学時代の子規は、趣味で漢詩を作る級友たちの仲間に加わって毎日のように漢詩を作っていた。ヨーロッパで言えば、定期的に集まってラテン語で詩を作ることを楽しんだ英国の学生たちのようなものである」と続ける。

 

子規は勿論、小説にも挑戦した。「自分独自の俳句が作れるという自信を得たと思われるまさにその時、代わりに子規が打ち込んだのは子規自身が「小説」と呼ぶ散文作品を書くことだった」とキーンは言い、めったに取り上げられることのない小説『銀世界』を丹念に読み解く。しかし、どのような言葉や文体で書くか、子規はまだ決めていなかった。

 

・・・・子規が熱中する対象は、目まぐるしく変わった。明治23(1890)に子規は書いている。馬琴を読めば馬琴に惚れ、春水を読めば春水に惚れ、西鶴、近松を読めば元禄文にうつつを抜かし、源氏を読めば中古の文体を慕う、と。青年時代の子規は、坪内逍遥の著作や二葉亭四迷の『浮雲』のような作品を素晴らしいと思っていた。最近では、夜店でたまたま見つけた幸田露伴の短篇小説『風流佛』(1889)に心底びっくりしてしまった。

 

井原西鶴を思わせる『風流佛』の文体に心を奪われ、子規は小説『月の都』を書いた。「露伴が西鶴の文体を使ったことに子規は感嘆し、これが文語体の宝庫を棄てないという子規の決意を強めた。二葉亭四迷が使った口語体は確かに生き生きとしているが、それが果たして美しいものになり得るかどうか、子規は疑問だった。俳句であれ短歌であれ、口語体で詩歌を作ることに子規は断固反対だった。口語体は過去の文学と響き合うものもなければ、日本語に本来備わっている美しさもないのだった」とキーンは書く。

その「口語体」について子規は、明治22(1889)に『筆まかせ』所収の「言文一致の利害」を書き、嫌悪感を表明している。その是非を巡って、いかにもキーンらしい批判が展開する。

 

文章の後半で子規は、文語体の簡潔と口語体の冗長を対比させている。しかし、子規が言文一致に反対する主な理由は、文学は「多衆の愚民」にだけ向けて書かれるべきではないという信念にあった。(中略)作家は無教養な人々にもすぐわかる言葉だけを使うべきであるという言文一致の主張は、作家の表現力をだめにすることになるのだった。

この子規の論法には、幾分不愉快な傲慢さがある。子規は無知な人間に同情のかけらもなく、自分が士族階級に属しているということを片時も忘れることがなかった。

 

しかし、後に『病牀六尺』で子規の文体が変化したことをキーンは指摘する。

 

初期の随筆と違って、『病牀六尺』の大半は口語体で書かれている。読むと直に子規に接しているようで心動かされる思いがするが、子規は以前は言文一致を拒否していた。この時期から子規が発表する散文は、もっぱらこの言文一致の文体になるが、詩歌では相変わらず古典的な日本語を使っている。

 

青年時代の子規は、馬琴の詩的文体に惹かれていた。「馬琴の小説は主に散文で書かれているが、5音と7音が交互に現れる伝統的な韻律に基づく一節を多く含んでいて、全体に詩的な調子が満ち溢れている。(中略)子規は馬琴の詩的文体に心を奪われたことがあった。子規の批評が長い間にわたって詩的でない言文一致の散文を拒絶してきたのは、あるいはそのせいであったかもしれない」とキーンは言い、「言文一致」を採るに到った子規の「豹変」ぶりを次のように書く。

 

・・・・子規の態度は豹変した。随筆『叙事文」(明治33)を書く頃には、すでに子規は自分が詩歌で唱えた飾りのない「写生」に相当する言文一致こそが、現実を描く最高の散文であると考えるに到った。子規が散文作家たちに勧めたのは、馴染みのない漢語などは極力避け、かりに郷愁的な連想を犠牲にすることになったとしても「詩的な」言葉は使わないようにすることだった。言文一致は、近代の文体だった

 

さて、その「写生」について。

まず、「子規は不折(画家の中村不折=引用者注)に大いに感銘を受け、この2人の友情が俳句の歴史を変えることになった」とキーンは書く。2人の出会いは、そもそも新聞『日本』の社主で子規の大恩人だった陸羯南の着想がきっかけだった。当時の新聞としては異例のことだが、子規に編集を任せていた新聞『小日本』の子規の記事に、羯南は初の試みとして挿絵を入れることにする。そして応募してきたの画家の中から、不折が抜擢された。

「子規と不折は固い友情で結ばれるようになったが、子規が別の随筆で触れているように1つの話題についてだけは全く意見が合わなかった」とキーンは指摘し、日本画の大変な崇拝者であった子規に対し、あくまで西洋画を支持する不折の意見を次のように代弁する。

 

・・・・不折は、西洋画の真に迫っている事実性を主張した。一般に様式化された日本画と違って、西洋画は描く対象に忠実だった。その上、日本画は同じ景色を描いた他の絵画で見たことがあって誰もが美しいとわかっている景色だけを描く傾向があった。しかし西洋画はどんな景色でも、たとえそれが一見魅力のない景色であっても描く対象となるのだった。

 

さらに、「子規は、何よりも「写生」の重要性を教えてもらったことで不折に恩義があった」と書き、「子規は、写生の方法を自分の俳句の手本となる原理として取り入れ、後にはこれを自分の画にも適用したのだった」と続け、次のことを指摘する。

 

写生俳句は、ある景色を観察した際の詩人の感情を描くものではないし、またその景色が蘇らせる思い出を描くものでもなくて、それはただ観察した対象そのものを描く。詩人が見た対象を正確に伝えれば伝えるほど、その詩は良くなるのだった。子規が古池に蛙の飛び込む芭蕉の有名な俳句を称えたのは、まさしくある瞬間に芭蕉が見た対象がそのまま表現されていたからで、これこそ写生の極致なのだった。

 

子規の長篇批評『俳人蕪村』を、キーンは「俳句史上最も重要な文章の1つ」と評価する。「子規の称賛がなければ俳人蕪村の評価は確実にもっと遅れたし、あるいはついに評価されるということもなかったかもしれない」と言い、ここでも不折からの恩義を強調する。

 

もし不折に出会わなかったら、子規の蕪村発見はなかったかもしれない。不折の提唱する写生の影響を受けた子規は、この方法を昔の俳句に見つけようとした。たとえば蕪村の俳句に写生を見つけると、子規は写生で詩歌を作ることができるようになり、それが最も子規らしい独自のスタイルを確立したのだった。

 

ちなみに、『墨汁一滴』で江戸後期の画家がち(酒井抱一、谷文晁等)に辛辣な批評を加えている中で、唯一称賛している渡辺崋山の画に対する子規の評価を、自ら崋山の評伝を書いたキーンは、子規の武士階級に対する「偏愛」に触れつつ次のように書く。

 

・・・・渡辺崋山の画については、「華山(ママ)に至りては女郎雲助の類をさへ描きてしかも筆端に一点の俗気を存せず。人品の高かりし為にやあらむ」、崋山に至っては女郎や雲助の類さえ描いているが、その筆端に一点の俗気もないのは人品の高いせいであると思われる、と称えている。崋山に対する子規の称賛は、その作品に対する客観的な評価というよりはむしろ、武士階級に属する画家に対する子規の偏愛を反映したものであったかもしれない。

 

最後に、キーンの註からぜひとも引用しておきたい一節がある。子規の死後の後始末を語るくだりで、キーンは子規の墓が禅宗でなく真言律宗の田端・大龍寺にあることに触れ、「正岡家の宗旨である禅宗に、子規が特に関心を見せたことはなかった」と書き、その註27に次にのように記している。

 

子規が珍しく禅宗に言及している文章の1つは、『病牀六尺』の明治3562日の項。「余は今迄禅宗の所謂悟りといふ事を誤解して居た。悟りといふ事は如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思つて居たのは間違ひで、悟りといふ事は如何なる場合にも平気で生きて居る事であつた」。

 

本文中でキーンがこの一説に触れなかったのは、さほど興味がなかったということかもしれない。あるいは、本文の流れの中でうまく登場させる場がなかったから、せめて註で触れておきたい、ということであったかもしれない。いずれにせよ、ここに引用された「悟りといふ事は如何なる場合にも平気で生きて居る事であつた」という一文は、子規の生き方を象徴する極めつけの傑作ではないかと思われる。

子規は結核から脊椎カリエスを患い、食欲旺盛ながら、さんざん苦しんだ末に若くしてこの世を去った。『病牀六尺』を読んだ時、筆者がなぜかこの一節を読み過ごし、キーンが註に書き留めて置いてくれたお陰で、改めて子規の本文に立ち返り、何度も読み返した。それ以来、筆者はこれを勝手に解釈して「座右の銘」としている。すなわち、いつ如何なる時どんなことが起きても、つまり子規のように結核から脊椎カリエスになって死ぬほど痛い目に遭おうと、また筆者のようにドジばかり踏んで死にたいほど自分が厭になろうと、それを情けなく思ったり、悔やんだりしても無駄である。ましてや落ち込んだり、卑屈になるのは無意味である。起きてしまったことすべてを潔く受け入れ、それを自ら肯定し、平気で生きていること――これが大事なのだ、と。

子規の評伝が完結して間もなく、たまたま子規の辞世の句を掛け軸に仕立てたもの(もちろん複製)を古美術商で見つけた筆者は、これを『子規』完結の祝いとしてキーンに贈った。評伝『正岡子規』は、子規の最期を次のように記している。

 

・・・・918日朝、子規は最後の俳句となった3句を作った。いつも画を描くのに使っている唐紙に、子規は走り書きのように句を書きつけた。妹の律(りつ)が、唐紙を貼り付けた画板を支えた。子規は何も言わずに書き、痰でのどをつまらせた。誰も一語も発しなかった。病人の咳の音が時たま起こるだけだった。子規がこの時書いた3句の最初の1句は、子規の辞世として知られることになる。

          糸瓜(へちま)咲て 痰のつまりし 仏かな

この句で、子規は自分を死者()に見立てている。厳粛な辞世であるにも拘らず、この句は諧謔味を帯びている。仏が痰をつまらせるという、いかにもそぐわない諧謔である。子規は、3行に分けた句の1行を書くごとに間を置き、書き終わると投げるように筆を捨てた。(中略)

明治35919日未明、子規は死んだ。35歳だった。

 

 

 

エピローグ――キーンさんとの時間 (書き下ろし)

キーンさんという陽の温もりを一身に浴びて、その恵みに守られて生きてきたような気がする。あの力強い眼差しと笑顔、その笑い声が、わたしの記憶から消えることはない

 

あとがき

ひょっとしたらドナルド・キーンは、日本で正当に評価されたことがないのではないか、という素朴な疑問から本書は生まれた

四半世紀を費やして読み、そして書いた『日本文学史』に対して、国文学者や日本文学研究家といわれる人々の誰が、学界やメディアを通してその内容を評価しただろうか、あるいは誰が、キーンの論説に対して反論を試みただろうか。ただ無視された

筆者が飲み友だちとして、また作品の翻訳を通して知った実像と、世間で持て囃されている「虚像」の間に、歯がゆいまでのギャップを感じていた。その2つの像が折り合いをつけてくれることを願って本書を書いた

本書に索引をつけることを思いついたのは、キーンに対するジョークの積りで、日本で出版される学術書・研究所に索引がないことが信じられないというのが学者キーンの口癖だった

 

 

 

 私説ドナルド・キーン 角地幸男著

伴走者の視点が光る評伝

2023729 2:00 [有料会員限定] 日本経済新聞

ドナルド・キーン(19222019年)は文化勲章を受章するなど、最もよく知られた日本研究者だ。しかし、40年来の友人で『明治天皇』などの著書を日本語に訳してきた著者は「日本で正当な評価を受けたことなど一度もなかったのではないか」との疑問を抱いてきた。そんな思いで生まれた評伝及び作品論は「伴走者」ならではの気づきを含んでいる。

キーンが日本国籍を取得したのは、11年の東日本大震災で大きな被害を受けた日本国民との連帯を示すため、とされた。しかし、著者はその前から「ついに日本人になることに決めました」との言葉を聞いていた、と記す。日本文学・文化のことは外国人には分からないと思う日本人にとって、キーンは「珍しい存在」「嫌な存在」に映っただろうとも指摘。彼は「自分の『勉強』の場を確保するため」、その孤独に耐えて来たとの見方を示す。この日本研究者を知るには「作品と直(じか)に向き合うほかない」と訴える。

「ドナルド・キーンから学んだ翻訳作法」という講演録も、2人とも翻訳家だけに面白い。なぜ日本語で書かないのか、との質問に「英語で書くのが、わたしの仕事だからです」と答えたというキーン。そこには日本文学・文化を世界に広めたいとの強い思いがにじむ。(文芸春秋・2310円)

私説ドナルド・キーン 角地幸男著

伴走者の視点が光る評伝

2023729 2:00 [有料会員限定] 日本経済新聞

ドナルド・キーン(19222019年)は文化勲章を受章するなど、最もよく知られた日本研究者だ。しかし、40年来の友人で『明治天皇』などの著書を日本語に訳してきた著者は「日本で正当な評価を受けたことなど一度もなかったのではないか」との疑問を抱いてきた。そんな思いで生まれた評伝及び作品論は「伴走者」ならではの気づきを含んでいる。

キーンが日本国籍を取得したのは、11年の東日本大震災で大きな被害を受けた日本国民との連帯を示すため、とされた。しかし、著者はその前から「ついに日本人になることに決めました」との言葉を聞いていた、と記す。日本文学・文化のことは外国人には分からないと思う日本人にとって、キーンは「珍しい存在」「嫌な存在」に映っただろうとも指摘。彼は「自分の『勉強』の場を確保するため」、その孤独に耐えて来たとの見方を示す。この日本研究者を知るには「作品と直(じか)に向き合うほかない」と訴える。

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