栗山ノート  栗山英樹  2023.9.13.

 2023.9.13. 栗山ノート

 

著者 栗山英樹 1961年生。東京都出身。創価高、東京学芸大を経て、1984年ドラフト外で内野手としてヤクルトスワローズに入団。1年目で1軍デビュー。瞬足好打の外野手で、89年にはゴールデングラブ賞。90年シーズン終了後、怪我や病気(メニエール病)により引退。解説者、スポーツ・ジャーナリストとして野球のみならずスポーツ全般の魅力を伝えると同時に、白鷗大教授として教鞭をとるなど、多岐にわたって活躍。11年北海道日本ハムファイターズ監督就任。監督1年目でパ・リーグ制覇。16年には2度目のリーグ制覇、日本一となり、正力松太郎賞。18年監督通算1000試合、500勝達成。19年時点の監督で最長の就任8年目を迎え、同年5月監督として球団歴代2位の通算527勝達成

 

発行日           2019.10.30. 初版第1刷発行

発行所           光文社

 

表紙カバー裏

常識を疑えば、新しいものが生まれる

 

はじめに

もう何年にもわたって習慣にしているのが野球ノート

小学校1年から野球を始め、父が監督をしていたチームに、3歳上の兄とともに所属

最初は。練習メニューに始まり、気になったプレーを図解してプレーを整理する意味合いが増し、大学の頃にはチームが勝つためにはどうすればいいのかという考えが織り込まれていき、チームの勝利に貢献できる自分になることを強く意識

監督になってからは、プロチームとしてのレベルを上げていくのと同時に、無言の紐帯ともいうべき心の絆で結ばれた集団を作り上げる、選手の心を動かし、まとめ上げていくことに精魂を極めるのが自分の仕事と心得る

このノートに基づいた監督の人生観をまとめたのが本書。1人でも自分の経験が役に立つのであればと信じて執筆

 

序章 ノートの言葉たちが勇気と希望をくれる

2002年、北海道夕張郡栗山町に「栗の樹ファーム」造成。天然芝の野球場と練習場などを併設

‘12年監督就任の打診。リーグ優勝したが、翌年は最下位。そこで思い当たったのが『論語』の「君子は諸()れを己に求め、小人は諸れを人に求む」を思い出し、責任を誰かに押しつけていないかと反省

渋沢栄一は、「すべて形式に流れると、精神が乏しくなる。何でも日々新たにという心掛けが大事」と説く

『論語』に、「性は相近し、習えば相遠し」――人の性質は生まれたときにはあまり差はないが、その後の習慣や教育によって次第に差が広がる。学び続けなければ成長はない

『書経』に、「時なるかな、失うべからず」――チャンスを逃すなの意。ノートに書くことによって自分の行動を見つめ直し、課題を抽出し、来るべき「時」に備えて準備を進める

 

第1章        泰然と

何事にも動じない心の強さを持ちたいと願う

「泰然」とは、相手に我慢をさせないことであり、意思表示の鍵を開けるために力関係を形にしないことで、そのためには「覚悟」と「決意」が必要――どんな結果になっても全て受け止めて、迷わず次の機会に挑んでいく覚悟を持つ

 

l  1日は一生の縮図なり      森信三(哲学者、「国民教育の師父」)

アメリカでの春季キャンプに行く飛行機が遅れたのも、吉兆と受け止める

l  無私――野球とは無私道なり 飛田穂州(日本学生野球協会創立、「学生野球の父」)

監督7シーズンで一番負けたのは17年で、6083敗の5位。選手の幸せを思って戦う

l  我事において後悔せず      宮本武蔵(『独行道』より)

失敗しても、なぜうまくいかなかったのかを考えて次の機会に生かす

l  差し出口  良寛(『戒語』90箇条より)

余計な口出しのこと。自分が一番気をつけているのは、相手の話を聞くこと

l  成功は常に苦心の日に在り、敗時は多く得意の時に因ることを覚(さと)る 安岡正篤(まさひろ、陽明学者・思想家)

二宮尊徳「心田を耕す」も同様の教え

'184月、西武相手に8回表まで80で、勝利を確信した途端に歴史的な逆転負けを喫する

l  溌溂颯爽           藤尾秀昭(出版社社長、人間学の研究)

いつも心を爽やかにすることで、心の雑草を抜き取り、心に花を咲かせる

l  霜を踏みて堅氷至る         『易経』

物事には予兆があり、それを見逃さずに対処すべきの意。「まあいいか」は禁句

l  至誠にして動かざる者未だ之有らざるなり 吉田松陰が大切にしていた孟子の言葉

私心が入り込んだ瞬間に、人は誠を尽くせなくなる。誠を尽くせば変化に敏感になる

l  捨欲即大欲          森信三(『修身教授録』より)

自身のちっぽけな欲は払い落として、天下の人々の欲を思いやり、満たしてやる

l  荘子曰く、十目(じゅうもく)の視()る所、十手(じっしゅ)の指す所、其れ厳なるかな、と            朱子(『大学章句』より)

多くの人間の意見や判断が一致したところについては、世間の耳目を欺くことはできない

やるべきことをやり続けて習慣化することで、身体に沁みついていく

「君子は必ず自分一人でひたむきに慎んで精進する」とも記されている

l  大畜は剛健質実にして輝光あり、日にその徳を新たにす            『易経』

2019年の高校野球岩手県大会決勝で、大船渡高がエース佐々木朗希を登板過多から温存し、甲子園を逃したことに賛否両論が渦巻く。そのとき佐々木に贈る言葉として思い浮かんだ言葉。うまくいかなかったこと、やり切れないことに出会ったその時こそ、それまで以上の努力を自らに課したい

l  徳は孤ならず、必ずとなりあり   『論語』

一目置かれる存在とは、自分が選んだ道をひたむきに突き進む

正しい道を歩んでいけば、並走してくれる仲間、手助けをしてくれる賛同者が必ず現れる

 

第2章        逆境に

人生に逆境はつきもの。逆境は学びの機会として最高。「この道を究める」との志を立てていれば突破力が身についてくる

l  習坎(しゅうかん)はまことあり。これ心亨(とお)る。行けば尚(たっと)ばるることあり

『易経』

習坎とは非常に困難なこと。大変な苦しみに遭いながらそこから多くのことを習う。勇気をもって苦しみと向かい、また楽しい時が来ると信じて進む

l  人の強みとは清らかな心と優しさです      塩沼亮潤(宮城県在住職)

情報が溢れる現代社会では、心を迷わされてしまいがち。自分がすべきことを見失わないためにも、清らかな心を持って正しく生きていきたい。自分のためではなく、自分の周囲の人たちの幸せを少しでもお手伝いできるように

l  十善法語(じゅうぜんほうご)        慈雲尊者(江戸時代後期の僧侶)の著書

不妄語(偽らない、嘘をつかない)、不綺語(飾らない)、不悪口(そしらず)、不両舌(たばからず)など。とりわけ不両舌は絶対にやってはいけない

l  人生二度なし        森信三

逆境の連続だった人生を、信念を持って生き抜く

大谷翔平は、メジャーリーグで初打席初ヒット、初登板初勝利、初ホームランは本拠地での第1打席。二刀流を貫き新人王に選ばれたが、1年目で右ひじの手術を受け、2シーズン目は打者に専念。未知の環境で足掻いてもがいて自分の道を切り拓いていった

l  一燈照隅             安岡正篤

一人一人がそれぞれの役割を果たすことが、生き様として素敵。環境に左右されてはいけない

l  五事を正す          中江藤樹(陽明学者、近江商人)の教え

五事とは、貌・言(げん)・視・聴・思()。五事を正すことが、美しい心を磨き、家族を大切にする、先祖を敬う、大自然の恵みに感謝することに繋がる

l  道とは人が踏み行うもの。徳とは人が体得するもの。仁とは人が親しむもの。義とは人が則るもの、礼とは人が守るもの               『六韜(りくとう)三略』(古代の兵法書)

どれ1つが欠けても具合が悪いとされる

l  直・方・大なり。習わずして利()ろしからざるなし     『易経』

「直」は素直・実直、「方」は正方形の意、「大」はあまねく盛大。「直・方・大」は天に従い、万物を許容してあまねく育成する「地の徳」と言われる。教えられたことを素直に受け入れて徹底的に実践できる人は、知恵の一滴を与えられただけでも、習わずとも広大に伸びていくということ。知恵や技術を使いこなすためには「魂=覚悟」がなければならない

l  徳とは困難を乗り越えていく権謀            『六韜』(中国武経七書の1)

利己的な私心を削ぎ落としていくと、最後には「人の役に立ちたい」という気持ちが浮かび上がってくる気がする

l  君子は能く時中す            『中庸』

成果を上げるリーダーはいつも何時も相応しい手を打ち、あらゆる相克を乗り越えてどこまでも進歩、向上していく

選手の起用、去就についても、近視眼的な指導に走らず、選手個人個人の将来を考えた長期的な視点を持っていないと判断を誤る

l  尺蠖(せきかく)の屈するは、以て信()びんことを求むるなり          『易経』

尺蠖とは尺取虫

l  知者は惑わず、仁者は憂えず、勇者は懼(おそ)れず         『論語』

情報を取捨選択して勝利への最適解を見つけ出すのが「知者は惑わず」、力関係を客観視すると相手が上だという現実に突き当たるがそれでも「仁者は憂えず」選手の能力を最大限引き出して突破口を見つけ出す、そして失敗すること、負けることの怖さを知った上で志を貫くことこそが「懼れない勇者の姿」であり、リーダーたるもの、知者、仁者、勇者の資質を身につけようとするが、それは手段にすぎず、目的はあくまで組織の目標達成

 

第3章        ためらわず

「敏なれば則ち功あり」(『論語』)、やるべきことを先送りしないで敏速に処理することの薦めだが、躊躇いたくないのは「常識を疑うこと」。「革新」が「常識」となるまでには改良や改善が必要。新しい価値観を産み出すためには自己鍛錬は欠かせない

l  これを知る者はこれを好むに如かず。これを好むものはこれを楽しむものに如かず

『論語』より

知ることよりも好きなことが、好きなことより楽しむことが上達に繋がることの教え

野球の常識に引っ張られていたらワクワクは生まれない

l  世の人は我を何とも言わば言え、我が成すことは我のみぞ知る     坂本龍馬の和歌

2019年シーズンに導入したのがオープナー戦術。前年タンパベイ・レイズが導入した戦術で、リリーフ陣を先発させて相手の先制攻撃をかわした後先発がロングリリーフをする投手起用法。新しい野球を生み出すための試行錯誤を続ける

l  人間の価値=仕事への熱心さx心のきれいさ      永海(ながみ)佐一郎(化学者)

仕事の評価は他人がするが、心に曇りや染みがないとは言い切れない。それならせめて温かい心の持ち主でありたい、ということ

2019年シーズンに台湾の三冠王をポスティングで獲得できたのも、金額的には劣勢でも前年に来日して試合した時のファイターズの温かい歓迎に心動かされたからだろう

l  時宜に叶はざる事は拘泥すべからず 佐藤一斎(幕末の儒学者、『重職心得箇条』より)

問題処理に当たっては、まず自身の案を立ててのち、先例を参考にすべき

l  人間が出来ないと環境に支配される         安岡正篤

人は環境を作るからこそ人間たる所以があり、自由も、主体性、創造性も生まれる。自分が偉大であればあるほど立派な環境を作る。人間が出来ないと環境に支配される

環境を支配することはできないが、受け止め方次第で、言い訳にもなれば味方にもなる

l  すべては反対から始まる           老子(「弓の弦を引くが如し」)

試合中の決断は、ゆっくり考えれば答えの出るものが多いが、瞬間的に状況が変わる局面での瞬時の判断は別物で、「発想の幅」を持ち、基本的には均衡をとることを意識するが、セオリーに則った戦いでは勝機が薄いとみれば、大勝負を仕掛けることも

l  うまくやろうとするな                平澤興(こう、京大総長『一日一言』より)

こざかしい手練手管を持ち出しては感動は伝わらない

「善は弁ず。弁ずるは足りず」ともいう

「人が熟成する速度は、その人がどれだけ恥に耐えられるかに比例する」(ダグラス・エンゲルバート、アメリカの発明家で初期のコンピュータうあインターネットの開発に関わる)

l  自分が好きなものを追求していくと、どんどん自分が変わる。そして変わるということは、成長するということです 養老孟司(『バカの壁』)

突飛な発想に厳しい視線を向けられても、自分の信じる道を臆することなく進む。好きな野球を追求することが、プロ野球の成長に繋がることを信じて

l  一日之を暴(あたた)め、十日之を寒(ひや)さば、未だ能く生ずる者有らざるなり 孟子

何事も継続することが肝要で、それによって成果が上がっていく

「誰でも日々成すべきことを成し、努力出来るときに努力をして、努力の貯金をしておいた方がいい」(塩沼亮潤)。大切なのは日々の心掛け

l  (きざ)しと兆し            易経

「萌し」はわかりやすい目に見える変化を言い、「兆し」はもう少し曖昧なニュアンス

試合中は、「判断、決断、即実行」を心掛けるが、その成否は「兆しを読み取って準備をしておく」ことに尽きる

l  君子終日乾乾し、夕べに惕若(てきじゃく)たり。厲(あや)うけれども咎(とが)なし   易経

「乾」とは失敗を恐れず闘志全開で前へ進むこと。「惕若」とは畏れ慎む様子。ただ只管努力する姿は、傍から見ると「そこまでやるか」というくらい危なっかしいが問題は起こらない

l  学びて思わざれば則ち罔(くら)し。思いて学ばざれば則ち殆(あや)うし     『論語』

甲子園の100回記念大会で準優勝投手のルーキー吉田輝星を、6月の交流戦で先発させ、初登板初勝利を挙げたが、1軍での登板は2試合のみであとは2軍で過ごす

学んでいることに満足してほしくないし、自分はしっかり学んでいるのかという問題意識も持ってほしい

 

第4章        信じ抜く

相手を信じることは、見返りを求めないこと

l  夫れ主将の法は、務めて英雄の心を攬()り有功を賞禄し、志を衆に通ず 『六韜三略』

組織を引っ張る者は、部下の心を掴み、部下の功績を称賛し、自らの志を組織に広く浸透させていかなければならない。部下の心を掴むのは、部下の「諫言」を「箴言」として受け入れる度量が必要

l  すべて上に立つ者は、得意な方面があることが良くない。専門分野を持つべきではない                  荻生徂徠(儒学者)

下の者の意見も素直に吸い上げるには、ある分野に熟達しない方がいい、との教え

基礎の部分は常に蓄え、アップデートしておくが、それをどう応用するかは別物

「松のことは松に習え。竹のことは竹に習え」(松尾芭蕉)。知ったかぶりの誡め

l  深沈厚重             呂新吾(中国の儒学者、『呻吟語』より)

頭が切れて雄弁であるよりも、無口でどっしりと落ち着いている人の方がいい

自分の評価・噂などを気にすると、人間は集中力を欠く。自らの進むべき道をひたむきに真っ直ぐ歩く選手が成功を掴む。人の評価はあくまでその人の主観であり、価値観による

大谷の二刀流起用も、周囲から全身に批判を浴びたが、チームの統轄本部長が「いつか評価される日が来る」と言ってくれた

l  天真                   森信三(『修身教授録』)

自然のままで飾り気のないこと。天から授かった心の中の「真」をどうやって開発・表現するかということで、自分の心に宿る「天真」を自覚すれば、誰に対しても優しく、丁寧に接することができる。「明徳」も、生まれながらに持つ徳を他者のために使い切ることで、同様の意。自分の最善を他者に尽くし切ることであり、思い遣りの心を育んでいくこと

l  人間は自ら気づき、自ら克服した事柄のみが真に自己の力となる       森信三

知識と経験は違う「知行合一(ちこうごういつ)」の考え方と同じ

机上でどれほど知識を増やしても、実戦では値打ちがない

「野球には答えがない」という前提に立って、知識に寄りかからないこと

l  人は必ず陰徳を修すべし             『正法眼蔵随聞記』(曹洞禅の語録書)より

「陰徳」とは、誰かに気付いてもらう、知ってもらうことを目的としない善い行い

すぐできることは、感謝の気持ちを抱くこと

l  一を以てこれを貫く         『論語』より

深い真心をもって、1つのことに打ち込む。自分の人生を捧げるものを見つけて精一杯やり切る

l  信賞必罰             『韓非子』より

「君主にとって害となるのは人を信じること。人を信じればその人に制せられることになる」と説き、裏切られないために信賞必罰を持って対応すべきとし、孟子の性善説を楽天主義と批判。「君子は自らの好悪を臣下に悟られるな」とも説く

重要なのは、罰は自ら伝えること

l  嫌うは嫌うほど追いかけてくる               塩沼亮潤

仕事でも人間関係でも、嫌いなものは追いかけてくる。自分が嫌だなと思うあの人は、自分に足りないものを教えてくれる、自分を磨いてくれる存在

l  三方良し             近江商人の教え

「買い手良し」「売り手良し」「世間良し」――世の中全てが繋がっているという発想

「三方」に「世間」が入るのが肝で、プロ野球にとっての世間はファンだろう

「真の商人は先も立ち、我も立つことをもうなり」(石田梅岩)

l  敬を以て所(ところ)と作()               『書経』より

ファンへの「敬」がなければ成り立たない

l  大壮は貞(ただ)しきに利()ろしとは、大なる者正しきなり。正大にして天地の情見るべし  大壮、利貞(たいそう、ていによろし『易経』より

「大壮」とは「大いに盛ん」の意だが、それが「得意になる」になってはいけない。調子のいい時ほど、自分を見失わないようにしないといけない

 

第5章        ともに

多様性を認め、ともに助け合う

並走するとともに、見守ることも大切。率先垂範。「利」より「義」を大切に

l  人間は短い言葉が大事だ。人間は短い言葉によって感奮興起していく     安岡正篤

「書を読む人はその精力の半ばを筆記に費やすべし」(吉田松陰)――書くことで心に入る

l  乃知玄徳己深遠               『凌雲集』(平安時代編纂の日本初の勅選漢詩集)より

「玄徳」とは、外には見えないが大きな働きをする徳で、植物でいえば根にあたる

「野球やサッカーの監督はみな、中人(ちゅうにん)になればいい」(伊與田覺、論語教育者)

「中人」とは、『易経』でいう「ちゅん」が大事で、真ん中を取るという感覚で、自分とは考え方の違う選手たちをうまく嚙み合わせて掛け算の組織を作る

l  強くなりすぎれが必ず折れる        『六韜』より

「強さ」と「脆さ」は背中合わせ。折れる前に緩めておくべき

l  夢を見ることは重荷を背負うこと            松下幸之助

夢を夢のままで終わらせるか、それとも正夢にするかは、自分次第。「重荷」とは、自分に都合のよい甘えを捨て去り、夢を実現するために邁進する覚悟や決意を示す

l  商売をする上で重要なのは、競争しながらでも道徳を守ることだ       渋沢栄一

「人のために尽くす」という共通の利益に向かっていく。誰かに喜んでもらえることが、プレーする上での最大の原動力になる――それこそがプロ野球チーム・選手のあるべき姿

l  感動は推進力だ               私自身が心のうちで唱え続けていることば

自分の感動をぶつけていけば、選手も「感」じて「動」いてくれる。感動の連鎖、響き合うことができる。感動して涙することは、力を蓄えること、力を爆発させることに繋がる

l  人間たるもの、自分への約束を破る者がもっともくだらぬ          吉田松陰

一流選手の共通点は、自分で決めたことはやり通す、自分との約束を守り抜くこと

l  惜福、分福、植福            幸田露伴

「幸運も不運も偶然によるものではなく、自分のあり方が引き寄せるもので、失敗したら必ず自分のせいにせよ」と説く

「惜福」とは、恵まれた福を使い切らず、その一部を取っておく心掛けを指す

「分福」とは、自分の福を独り占めせず、他人に分け与えること

「植福」とは、能動的に福を招くこと。相手のことを考えた助言や苦言も未来への種蒔き

l  稚心を去る          橋本左内『啓発録』より

幼稚な心を捨て去らなければ何をしても上達しない

選手に対し、チームの勝利から逆算した行動を求める

「大人の心」とは、同じ過ちを繰り返さないこと、我がままを捨てる、自己犠牲

l  やるか、やらないか         私自身が大切にしてきた思い

野球のために自分に何ができるか。野球を変えてやるという気概

l  君子は世を没して名の称せられざるを疾()               『論語』より

ディープインパクトの突然の安楽死に際し頭に浮かんだ言葉

何か一つでもいいから世の中のためになることを残し、褒められなくてもいいから悪口をも言われないようにしたいと願う。天寿を全うしたい

l  天の時は地の利に如かず。地の利は人の和に如かず         孟子

組織が成功するための条件とは、1に人の和、2に地の利、3に天の時(孔子)

 

おわりに

「窮すれば即ち変ず、変ずれば即ち通ず」(『易経』)――事態がどうしようもなく行き詰まったら、そこで必ず変化が起こり、新たな展開が始まる。苦しみや悩みを乗り越えることでこそ、何かを生み出すことができる。新しい自分、組織、人間関係も生まれる

 

 

 

Wikipedia

栗山 英樹(くりやま ひでき、1961426 - )は、東京都小平市[1]出身の野球指導者、元プロ野球選手外野手)。右投両打。2012年から北海道日本ハムファイターズの監督を球団最長となる10年間務め、2022年からは同球団のプロフェッサーとして育成補佐に携わっている。

選手引退から監督就任までの間は野球解説者スポーツジャーナリストのほか、白鷗大学教授としても活動していた。日本のプロ野球監督で国立大学出身・大学教授の経歴を持つ人物はともに栗山が史上初めてで、現在は学校法人北海学園特任教授(北海学園大学・北海商科大学・北海高等学校・北海学園札幌高等学校の講演を担当)を務める[2]

経歴[編集]

プロ入り前[編集]

野球好きの兄に誘われ、小学校時代に軟式野球を始める。中学校では一度野球を離れ、バレーボール部のセッターとして活躍。この時に会得したフライングレシーブが、後の外野守備での華麗なダイビングキャッチを生み出すことになる[3]。中学3年時には、地元小平市のポニーリーグチームに所属し、投手として日米大会に出場、大会MVPを獲得する。大会後、小平市内の創価高校野球部の熱心なスカウトに心を動かされ、ともに甲子園を目指すことを決意する。

創価高校では1年時からベンチ入りし、3年時には主将兼エースとしてチームを牽引したが、春の全東京大会では早稲田実業0-3で敗れて関東大会出場を逃し、優勝候補として期待された夏の西東京大会でも4回戦で敗退し、甲子園への夢は断たれた。高校一年と二年の年末に1週間、広島商業で合同練習を行う[4]。「当時学んだ広商野球は今も僕のベースになっている」と話している[4]。その後は教員を目指して東京学芸大学教育学部に合格する。

東京学芸大学では硬式野球部に入部し、投手、内野手として活躍する。東京新大学野球連盟では投手として1年春、2年春のシーズンをリーグ制覇するも、スライダーを投じた際に右肘を故障してからは投手としての限界を感じ、野手に転向することになる。東京新大学野球連盟での通算成績は、投手として258敗、打者として打率.389(リーグ史上3位)という並外れた成績を残した。在学中に小・中・高の教員免許を取得し卒業後は教員を目指していたが、野球への夢が再燃して、野球部の合宿で訪ねた静岡県掛川市で出会った野球解説者の佐々木信也の紹介でプロテストを受けさせてもらえるようになったこともあり、進路を野球一本に絞る。教師になれる目前でその目標を捨てるようなことで両親からは大反対されたが、説得を続けた末[5]4年時には社会人・朝日生命へ内定[6]、その後プロチームの入団テストを受け、その結果ヤクルトスワローズへのドラフト外入団が決まった。担当スカウトは片岡宏雄[7]

ヤクルトスワローズ選手時代[編集]

1年目の1984に遊撃手として一軍デビューを果たしたが、プロのあまりのレベルの高さに強い衝撃を受け、野球を辞めることばかり考えていたという。

さらに2年目の1985からは、平衡感覚が狂う三半規管の難病であるメニエール病に苦しむようになり、試合中に突然目まいや立ちくらみを覚えるようになる。最初にメニエール病の症状に襲われたのは、5月の二軍公式戦であった。この試合の最終回に突然地面が揺れ始め、ボールが2つにも3つにも見えるようになり、あと1人で試合終了というところでベンチへ交代を願い出ている。しかし、一・二軍間のボーダーラインにいた栗山は、その後は目まいが起こっても首脳陣には隠して頭をクラクラさせながらも試合に出続けたという[3]。同年には外野手として一軍でのスタメン出場を果たし、ジュニアオールスターゲームに出場。オフには意図的に三半規管を麻痺させる治療を受け、一時的に症状を抑え込んでいる。

このオフには若松勉[ 1] が、栗山の俊足を生かすためにスイッチヒッターに挑戦させてはどうかと土橋正幸監督に提案。栗山はもともと右打ちだったが[8]、若松の指導の下、左打ちの猛練習に取り組んでスイッチへと転向した。この猛練習が功を奏し、翌19865月末に杉浦享が負傷して外野のポジションが空くと、6月からは1右翼手としてレギュラーに定着し、規定打席未満ながら打率.301を記録した。

しかし、シーズン終盤には再び試合中に目まいや立ちくらみを覚えるようになり、オフには治療に専念するため長期入院を余儀なくされた。栗山は、いつ症状が再発するか分からない将来への不安の中で入院生活を送っていたが、たまたま顔見知りになった同じ入院先の子供たちが自分よりもはるかに深刻な病を持っていることを知らされてからは、自分の甘さを恥じて「また発症してもそれは仕方がない。一期一会の精神で野球に全力を尽くそう」と、前向きな気持ちになれたという[9]

結局、翌1987ユマキャンプには参加できず、開幕にこそ間に合ったが、調整不足のため打撃不振に陥ってレギュラーを外された。復活を期する栗山は、再び若松の指導の下で猛練習を重ねて調子を取り戻し、1988のユマキャンプで左足の肉離れを起こしてしまったため、この年の開幕には間に合わなかったものの、6月に復帰すると1番・中堅手に定着してヒットを量産。出遅れが響いて規定打席には33打席足りなかったが、打率.331を記録した。

1989には、開幕から中堅手のレギュラーに定着。当初は1番を打っていたが、ルーキーの笘篠賢治1番に固定されると2番に回り、37犠打を記録した。シーズン序盤は攻守ともに絶好調で打率も3割以上を維持していたが、6月中旬にメニエール病の症状が再発すると打率が急降下した。そのため8月以降は先発を外れることもあり、スタメンの場合でも7番・8番に打順を下げての出場が多くなった。結局この年は打率.255に終わったものの、初めて規定打席に到達し、守備範囲の広さを評価されてゴールデングラブ賞を獲得した。なお、斎藤雅樹がプロ野球新記録となる11試合連続完投勝利を達成した同年715日の対巨人戦では、9回表二死で打席に立ち初球を一直に打ち取られ最後の打者となった。

しかし、メニエール病の症状はシーズン終了後もなかなか好転せず、満足な練習ができないまま次のシーズンに臨まざるを得なくなり、翌1990野村克也が監督に就任すると、当時無名だった柳田浩一にレギュラーの座を奪われた。それでも、途中出場となった47日の開幕戦(対巨人)では大森剛の抜ければサヨナラという左中間の強烈なライナーをダイビングキャッチでアウトにする活躍を見せたが、メニエール病の症状に加えて古傷の右肘の故障も再発したため極度の不振にあえぎ、レギュラーの座を奪い返すことはできなかった。

栗山は、特別な才能に恵まれているわけではない自分にとっては、120%の努力をすることがプロの世界で生きていくための最低条件であり、それができなくなってしまった以上はプロ生活を続けられないと考え、この年限りで現役を引退した[10]

現役引退後[編集]

1991年から2011年は野球解説者・スポーツキャスターとしてテレビ朝日 - 1993年、2001 - 2011年)、TBSテレビTBSラジオ1993[11] 以降、テレビ解説は2000年まで[ 2])に出演。スポーツニッポン専属野球評論家も務める。そのかたわら、母校東京学芸大学および桐朋学園大学短期大学部の講師を務め、少年野球の普及育成に努めた。

2004年から白鷗大学助教授、2007年から准教授、2008年に教授に昇進。経営学部教授としてスポーツメディア論・野球型などを専門分野としていた[13]。なお、現在は監督業のため休職という扱いになっており、白鷗大学に籍を残している。

TBSラジオ解説者としてのコピーは熱中先生国際派2002年までテレビ朝日のプロ野球中継にあったコピーは熱血先生

北海道栗山町から観光大使を依頼され、栗山町民との親交を深めたことがきっかけで、私財を投じて天然芝の野球場と練習場などを兼ね揃えた「栗の樹ファーム」を2002年に完成させている。(後述参照)また、同所に本拠を移している関係もあり、日本ハムファイターズが本拠地を東京から移す直前の2003年からは、HBCラジオをはじめとする道内放送局のファイターズ戦中継でも解説を行っていた。

2000年代以降は日本野球機構などが開催するシンポジウム「夢の向こうに」で第1回(2003年)から司会を務めるなど、プロ野球選手と高校球児の交流事業にも積極的に参加している。

2007年には、栗山の古巣であるヤクルトの選手兼任監督古田敦也の引退により監督候補の一人として挙がったが、実現しなかった(最終的に高田繁が就任)

2009年には、日本高等学校野球連盟が定めるアマチュア資格を満たさない元プロ野球選手としては初めて、同連盟から高校球児への直接取材を特別に認められた(日本学生野球憲章第10条の特例措置[14])。同年以降の全国高等学校野球選手権大会期間中には、プロ野球解説・評論などの活動と並行しながら、朝日放送(ABCテレビ)の「熱闘!高校野球ナビゲーター」として地方大会から同局制作の情報番組(『熱闘甲子園』など)で司会や取材を担当していた。

2011113日、北海道日本ハムファイターズの監督就任(梨田昌孝の後任)が決定した[15][16]。監督に選ばれた理由として、球団オーナーからの「球団方針を理解してくれる人」「選手を育てながら強化してくれる」の要請を汲み、またコメンテーター時代の幅広い知識と人脈を買われてのことであった。契約期間は2[15]119日には就任会見が行われた。背番号は私淑する三原脩(元日本ハム球団社長)にあやかって80となった[17][18]

北海道日本ハムファイターズ監督時代[編集]

2012

監督就任1年目となった2012年はチームのエースだったダルビッシュ有が抜け苦戦も予想されたが、開幕投手斎藤佑樹を指名し、開幕戦330日の埼玉西武ライオンズ戦で4安打1失点でプロ初の完投勝利を飾った[19]。四番には次の10年を見据え中田翔を固定して打線の核を作り上げ[20]吉川光夫ら若手選手の台頭もあり開幕当初から好調を維持。102日、新人監督として17人目のリーグ優勝を果たした。なお、プロ野球史上初めてリーグ5球団のうち3球団(西武、福岡ソフトバンクホークス東北楽天ゴールデンイーグルス)に負け越して優勝した。クライマックスシリーズでもファイナルステージでソフトバンクを無傷の4連勝(リーグ優勝チームのアドバンテージの1勝を含む)で下し、現役時代は出場経験がなかった日本シリーズへの出場権を獲得したが、読売ジャイアンツと対戦した日本シリーズでは24敗で敗れ、日本一達成とはならなかった。日本シリーズ敗退後、栗山との確執が報道された投手コーチの吉井理人が退団した[21]。しかし、吉井は後に2016年から一軍投手コーチとして復帰し、2018年に退団。ヘッドコーチの福良淳一も退団[22]

2013

ヤクルト時代の同僚阿井英二郎がヘッドコーチ、投手コーチに黒木知宏、外野守備・走塁コーチに大塚光二が就任、外野手の稲葉篤紀が打撃コーチ兼任で就任[22]2年契約の2年目だったが、キャンプ直前の125日に糸井嘉男がトレードでオリックス・バファローズに移籍が決まると、その翌日に球団は急遽、栗山と2014年までの契約延長を発表した。高卒1年目の大谷翔平を二刀流で起用し、話題を集める。大谷は打撃でも期待に応え、投手では3勝を挙げるなど投打で采配に応えた。陽岱鋼盗塁王(球団史上初)、新外国人のミチェル・アブレイユ本塁打王のタイトルをそれぞれ獲得し、4番の中田も初の3割を達成するなど明るい話題が多かったが、吉川が前年から成績を大きく落とし、前年オフに移籍した田中賢介や糸井の穴埋めができず、中田も骨折で終盤離脱するなど苦戦し、優勝した楽天に18.5差をつけられ、816敗と大きく負け越し、西武に915敗、千葉ロッテマリーンズ1014敗と上位3球団に負け越して、12年ぶり最下位でシーズンを終えた。チーム防御率は5位、失策はリーグワーストの88を記録した[23]。前述の通り契約延長により、2014年も指揮を執ることとなった。525日の阪神タイガース戦で10の最終9回無死、武田久が、打者浅井良の懐をえぐった1球を球審白井一行死球と判定し、白井に顔面が接触しそうなほど近づき、猛抗議し、「納得できないから退場にしろ!」と詰めると約2分後、監督就任2年目で初めて白井から退場処分を宣告された[24]。クジ運が悪く、20131025日のドラフト会議では、松井裕樹柿田裕太岩貞祐太を立て続けに外し続けた。なお、競合ドラフトの同日3連敗は、2010年の当時オリックスの監督岡田彰布以来となった。

2014

栗山の要請で内野守備走塁コーチに白井一幸が就任[25]。大谷が日本プロ野球初の同一シーズンでの1010本塁打を達成し、抑えに武田久が離脱したことで増井浩俊を起用し、これが当たり増井は抑えに定着した。最終的にチームは3位となり、2年ぶりにクライマックスシリーズ進出を決めた。CSではファーストステージで2位のオリックスに21敗で勝利し、ファイナルステージではソフトバンクと対戦したが34敗で敗れた。

2015

79622分となり、リーグ優勝した2012年の勝率、勝利数を上回る好成績を残したが、この年のリーグ優勝チームのソフトバンクには12ゲーム差をつけられ2位となった。クライマックスシリーズでは、3位のロッテに12敗で敗れた。阿井が辞任[26]

2016

開幕から首位を独走したソフトバンクに一時最大で11.5のゲーム差をつけられながら、619日から711日まで球団新記録となる15連勝などで猛追。特に、監督就任からケガを除き一貫して4番打者として起用し続けた中田が不振に陥った際、627日の対西武戦では好機で中田に代打矢野謙次を送ったり、開幕から不調が続く守護神増井を8月から先発に転向させたりするなどの策を講じた。また、開幕から打撃が好調の大谷が先発投手の試合において、DHが使用できるパ・リーグ主催試合でありながら、スタメンに敢えてDHを使用せず「投手・大谷」を入れ(529日の対楽天戦など)、7月にマメの影響で大谷の登板が不可能となった際には、二軍降格ではなく指名打者として一軍に帯同させながら、9月の投手復帰に向けた調整をさせた。天王山となった921日、22日のソフトバンク最終2連戦では2連勝しマジックを点灯させると、928日の対西武戦に勝利し4年ぶりのリーグ優勝を果たした(最大11.5ゲーム差からの大逆転劇は、1996年の巨人が首位広島と最大11.5ゲーム差だったのを捲って以来2例目である)。クライマックスシリーズでも「1番大谷」の起用が先頭打者ホームランになるなど功を奏しファイナルステージで2位のソフトバンクを42敗で降し、4年ぶりに日本シリーズへの出場権を獲得した。そして、広島東洋カープと対戦した日本シリーズ42敗で制覇し、球団としては10年ぶり3度目、自身としては初の日本一を獲得した。また、日本一を決めた第6戦は2009年に開場したマツダスタジアムで行われたため、同球場の初代胴上げ監督となった[ 3]112日に1年契約を延長したことが発表された[27]

2017

開幕直後に大谷が負傷離脱し、先発陣が軒並み不調に苦しむこととなった。4月に6連敗と10連敗を繰り返し、4月を最下位で終えた。53日にロッテ戦に勝利し5位に、5月下旬に4位に浮上するが交流戦初戦でDeNAに敗れて5位に転落してからは順位を上げることも出来ず、早々にチーム再建へ舵を切る年となった。得意にしていた交流戦も初めて負け越し、9位に終わる。交流戦終了後の7月には、3度の5連敗を喫するなど1度も連勝することが出来ずに418敗と大きく負け越した。それでも726日のロッテ戦で2004年の北海道移転後からの通算1000勝を達成。8月に入ってからは、816日のロッテ戦で約2か月ぶりの2連勝、それ以降チームの調子も上向き、1110敗と5月以来の月間勝ち越し、910月も1613敗と勝ち越してシーズンを終えた。なお、最終戦ではメジャー移籍を志望していた大谷が4番・投手で出場して10奪三振と2安打を記録し、チームも完封勝利で有終の美を飾った。最終順位は5位で2013年以来4年ぶりのBクラスとなる5位に終わった。

2018

ヤクルト時代同僚であり、栗山が結婚式の司会を担当した仲である荒木大輔が二軍監督に就任[28]。前年守護神を務めた増井がオリックスへ移籍したこともあり、新外国人のマイケル・トンキンを守護神に抜擢し、交流戦以降は4年目の石川直也を起用するなど投手陣を再編成し、西武との優勝を争い後半戦から失速したが、2年ぶりAクラスとなる3位でシーズンを終了した。クライマックスシリーズファーストステージでは2位・ソフトバンクに12敗で敗退した。オフには、三塁手のブランドン・レアードが退団し、ロッテへ移籍した。

2019

オリックスのエースだった金子弌大が加入。この年、開幕当初はオープナーを採用し、実際に加藤貴之堀瑞輝を、第2先発として金子を起用し、5月以降は本来の先発でも起用した。前半戦は2位で終えるも、8月以降は9連敗を喫するなど520敗と大きく負け越し、9月は1010敗と5割だったが、8月の失速が響き5位に終わり、最下位のオリックスに1582分と唯一の勝ち越しで交流戦も891分で残り、パ・リーグの4球団に負け越した。

2020

開幕直後から低迷し、故障者の続出や外国人選手の不振など誤算、優勝したソフトバンクに20ゲームをつけられ、ソフトバンク戦は6171分と大きく負け越した。栗山の采配については、週刊ベースボールに昨季から導入した「オープナー」が機能しているとは言えず、開幕から1割台に低迷している清宮幸太郎を最終戦までファームに降格させないなど、采配と育成のビジョンに疑問の声と指摘された[29]。失策はリーグワーストの75、捕逸もリーグワーストの13[30]、チーム防御率は2004年以来16年ぶりの4点台の4.02、チーム本塁打数は89本で2年連続となるリーグワーストタイとなった[31]04年の北海道移転後では、球団史上初の2年連続Bクラスとなる5位に終わった。1117日、畑佳秀球団オーナーに今季の報告を行った席上で続投を要請され、1年の契約延長で合意した。

2021

就任10年目のシーズンは、中田の出場停止処分や主力選手の不振、選手・コーチの新型コロナウイルス感染症が大きく響き、またしても開幕から不振に喘いだ。中田は820日に無償トレードで巨人へ移籍し、栗山は「今シーズンが終わるまで野球をやらなければ、野球人として終わってしまう怖さも考えていたが、ただ、うちのチームで『はい、どうぞ』というところではない。いろいろなことを考えて、翔を救うと巨人が判断してくれた」と移籍へのいきさつを話した[32]。そのまま最下位を独走し、825日の試合で日本ハムの自力優勝の可能性が消えると、925日の試合で日本ハムの自力CS進出の可能性が消えた。そして、1016日に栗山が2021年シーズン限りで日本ハムの監督を退任することを発表した[33]。なお、最下位は脱出したものの、3年連続Bクラスの5位で終了。111日に退任に関する記者会見が行われ、感謝の意を述べた[34]。栗山は大谷、有原航平西川遥輝近藤健介中島卓也といった多くの選手たちを見出し、ブレイクへと導いてきた[35]

侍ジャパン監督時代[編集]

2021122日に野球日本代表監督に就任[36]2022年からはテレビ朝日(テレビ朝日のみ本数契約、系列CSBSを含む)ゲスト解説者を務める。202241日、学校法人北海学園特任教授に就任したことが発表された[37]2023322日、2023 ワールド・ベースボール・クラシックで日本代表を優勝に導く[38]。同年531日をもって代表監督を退任し、62日に退任会見を開いた。会見では、今後の進路については正式に言及はしなかった。[39]

選手としての特徴・人物[編集]

選手として[編集]

俊足巧打のスイッチヒッター。外野守備のスペシャリストでもあり、1989年にはゴールデングラブ賞を受賞している[40]。なお前述のようにプロ入り当初は内野手であり、一軍公式戦において二塁手遊撃手としてそれぞれ2試合ずつ守備に就いている。

人物[編集]

独身で、結婚歴はない。学生時代に教職員免許を取得し、解説業や評論家を務める傍ら東京学芸大学や白歐大学にて教職に就いている。選手時代には「天使というより魔法使い」という楽曲をリリースしている。野球解説者時代に、福島弓子伊達公子との交際歴がある[41]。日本ハムの監督就任当初は実際の自宅は東京にありながらも、栗山町に生活拠点を置いていたが、2015年中に正式に栗山町に自宅を構えた。木田優夫によると、野球道具を集めることが趣味のため栗山町の家がその倉庫となってしまい、近くにもう一つ家を建てて住んでいるという。(後述の、栗の樹ファームを参照)

高校時代、野球以外に面白そうと思った職業として俳優を挙げている。友人の一人(本人曰く悪友)が、休日にエキストラ出演のアルバイトをやっており、次の日にしてくれる撮影現場での出来事の話が面白かったことで、そこから「高校卒業後は二人で俳優になろう」と話し合ったこともあった[42]

栗山は自称「原マニア」というほど原辰徳を尊敬しているとメディアなどで語っている。きっかけは栗山が東海大相模のセレクション受験時に、当時スターだった原から声をかけられたことだという[43]

日本ハムの監督就任後は、コミュニケーションの一環で大抵の選手を下の名前や愛称で呼んでいる[44]。ただ、選手絡みの談話に出てくる発言がネット上でネタとして扱われることが多い。日本ハム監督退任後、WBC日本代表監督就任後は、代表選手として選ばれた選手のことも大抵下の名前で呼ぶほか、初の日系人からの選出となったラーズ・ヌートバーのことは、ミドルネーム「達治」にちなんで「たっちゃん」と呼んでいる。

敗戦後のインタビューでは度々「俺が悪い」と発言していた。

マスコミの前では敗戦時や大型連敗時でも個人批判や厳しい言葉を滅多に発さないが、ロサンゼルス・エンゼルスへ移籍した大谷翔平には、マスコミの前でも厳しく苦言を呈することが度々あった。そこで「満足」してしまっては慢心がうまれ、より魅力的なプレーヤーになることができず、良い結果を出せなければ「二刀流」ひいては大谷自身に批判が集まるのは事理明白で大谷を批判し、新たな目標を提示できるのは立場上監督である栗山しかいないからであると述べている[45]。別のインタビューで栗山は、「オレが認めてしまったら、その瞬間に(大谷の)成長が終わってしまう怖さを感じている。だから、絶対に認めないし、心の底から『まだまだ』と思っている」と明かした。この厳しい姿勢は清宮にも向けていた[46]。大谷に対して厳しい言葉を発している一方で、裏では「体、大丈夫か?」と気遣いの言葉をかけており、大谷を守るために厳しくやっていたことを明かした。大谷本人もそれを感じ取っており監督の本心は理解しているつもりですと語っている[47]

北海道胆振東部地震の影響で札幌ドームでの試合に影響が出ていた中、日本ハムのある選手は「本当に僕たちは試合をやっていいんですかね……」と被災者への申し訳なさを漏らした。すると栗山は「われわれは野球をやれることへの感謝を持ちながら野球をする使命がある。1人でも元気になってもらえるなら意味があるはず。その姿が大事。それが見せられないようならプロ野球球団が存在する意味がない」と言葉を紡いだ[48]

日本ハム監督時代に選手の間柄だった宮西尚生は「(監督は)一言で言うなら、選手想い。絶対に選手を批判したりとか、信用をなくすとかはしない。ずーっと信用し続けてくれる。そういう監督でしたね。この監督のためなら、体がつぶれてでも投げたいと思える人でした」と語っている[49]

栗の樹ファーム[編集]

栗山は、苗字が同じということから[50]、スポーツジャーナリスト時代の2002北海道夕張郡栗山町に同町の市民らと協力して、少年野球場「栗の樹ファーム」を作った。栗山は自ら野球場を作りたいという考えを持ち、1989に上映されたアメリカの映画「フィールド・オブ・ドリームス」に感銘し、自らの私財を投じて、全面天然芝の野球場や、ログハウスには、栗山のコレクションしている世界各地の野球関連グッズの展示コーナーを設けた[51][52]。ここでは飲み物の提供や、より野球や道具を身近に感じてもらえるようにという想いで、バットなど一部の道具は入館した一般人も手に取れるように選手名と背番号をともに表記し展示している(なお、COVID-19の影響により2022年時点で休業しているため、従来のように展示品の観覧や手に取ることなどはできなくなっている)。普段の施設運営は一般の従業員が行っているが、栗山自身も現地にいる場合がある。

「栗の樹ファーム」では少年野球教室や大会が開かれ、子どもたちの夢を育む舞台にもなっている。2009年にはこの功績が認められ、日本芝草学会より日本芝生文化大賞を受賞した[53][54]

詳細情報[編集]

年度別打撃成績[編集]

















































O
P
S

1984

ヤクルト

2

1

1

0

0

0

0

0

0

0

0

0

0

0

0

0

0

0

0

.000

.000

.000

.000

1985

29

18

18

9

5

1

0

0

6

1

1

0

0

0

0

0

0

1

1

.278

.278

.333

.611

1986

107

258

239

34

72

5

0

4

89

14

8

5

9

0

4

0

6

26

0

.301

.329

.372

.701

1987

72

99

92

13

18

1

1

0

21

5

0

1

3

0

3

1

1

7

3

.196

.229

.228

.457

1988

90

370

338

33

112

11

4

0

131

17

7

5

20

0

7

0

5

33

0

.331

.354

.388

.742

1989

125

484

420

49

107

18

3

2

137

26

4

4

37

4

17

2

6

34

5

.255

.291

.326

.617

1990

69

109

96

15

22

0

1

1

27

4

3

0

10

0

2

0

1

7

3

.229

.253

.281

.534

通算:7

494

1339

1204

153

336

36

9

7

411

67

23

15

79

4

33

3

19

108

12

.279

.308

.341

.649

年度別監督成績[編集]

リーグ公式戦




























2012

日本ハム

1

144

74

59

11

.556

-

90

.256

2.89

51

2013

6

144

64

78

2

.451

18.5

105

.256

3.74

52

2014

3

144

73

68

3

.518

6.5

119

.251

3.61

53

2015

2

143

79

62

2

.560

12.0

106

.258

3.62

54

2016

1

143

87

53

3

.621

-

121

.266

3.06

55

2017

5

143

60

83

0

.420

34.0

108

.242

3.84

56

2018

3

143

74

66

3

.529

13.5

140

.251

3.77

57

2019

5

143

65

73

5

.471

13.0

93

.251

3.76

58

2020

5

120

53

62

5

.461

20.0

89

.249

4.02

59

2021

5

143

55

68

20

.447

14.0

78

.231

3.32

60

通算:10

1410

684

672

54

.504

Aクラス5回、Bクラス5

·        2021年度シーズン終了時

·        順位の太字は日本一

ポストシーズン











2012

日本ハム

パ・リーグクライマックスシリーズ
ファイナルステージ(1)

福岡ソフトバンクホークスパ・リーグ3位)

40=日本シリーズ進出
(
2)

日本シリーズ

読売ジャイアンツセ・リーグ1位)

24=敗退

2014

パ・リーグ クライマックスシリーズ
ファーストステージ

オリックス・バファローズ(パ・リーグ2位)

21=ファイナルステージ進出


ファイナルステージ(1)

福岡ソフトバンクホークス(パ・リーグ1位)

34=敗退
(
3)

2015

パ・リーグ クライマックスシリーズ
ファーストステージ

千葉ロッテマリーンズ(パ・リーグ3位)

12=敗退

2016

パ・リーグ クライマックスシリーズ
ファイナルステージ(1)

福岡ソフトバンクホークス(パ・リーグ2位)

42=日本シリーズ進出
(
2)

日本シリーズ

広島東洋カープ(セ・リーグ1位)

42=日本シリーズ優勝

2018

パ・リーグ クライマックスシリーズ
ファーストステージ

福岡ソフトバンクホークス(パ・リーグ2位)

12=敗退

·        1 クライマックスシリーズファイナルステージは6試合制で先に4勝したチームの優勝、リーグ優勝チームに1勝のアドバンテージ

·        2 アドバンテージの1勝を含む。

·        3 ディスアドバンテージの1敗を含む。

表彰[編集]

·        ゴールデングラブ賞1回(外野手部門:1989年)

·        正力松太郎賞1回(2016年)監督として表彰[55]

·        パ・リーグ最優秀監督賞:2回(2012年、2016年)

·        テレビ朝日スポーツ特別功労賞(2011[56]

·        ビッグスポーツ賞 スーパーベースボール賞(2012[57]

·        テレビ朝日スポーツ放送大賞(2016[58]

·        最優秀監督賞1回(パ・リーグ連盟特別表彰:2016年)

·        キタデミー賞 監督賞(2018年)[59]

記録[編集]

初記録

·        初出場:1984108日、対横浜大洋ホエールズ25回戦(明治神宮野球場)、9回表に水谷新太郎に代わり遊撃手として出場

·        初安打:198581日、対横浜大洋ホエールズ12回戦(明治神宮野球場)、8回裏に宮本賢治の代打として出場、遠藤一彦から単打

·        初先発出場:1985105日、対横浜大洋ホエールズ20回戦(明治神宮野球場)、8番・右翼手として先発出場

·        初盗塁:19851012日、対横浜大洋ホエールズ21回戦(横浜スタジアム)、6回表に二盗(投手:門田富昭、捕手:小山昭晴

·        初打点:1985109日、対阪神タイガース22回戦(阪神甲子園球場)、8回表に福間納から内野ゴロの間に記録

·        初本塁打:1986628日、対阪神タイガース14回戦(明治神宮野球場)、9回裏に伊藤文隆からソロ

その他の記録

·        1試合4犠打:198964日、対中日ドラゴンズ8回戦(明治神宮野球場)

監督としての記録

節目の記録

·        500勝:201892日、対千葉ロッテマリーンズ23回戦(ZOZOマリンスタジアム)、3-2で勝利 史上30人目(球団史上3人目)[60]

·        600勝:2020815日、対千葉ロッテマリーンズ11回戦(ZOZOマリンスタジアム)、9-0で勝利 史上24人目(球団史上2人目)[61]

背番号[編集]

·        461984 - 1989年)

·        41990年)

·        802012 - 2021年)

·        892022- 2023年)

関連情報[編集]

著書[編集]

単著

·        『栗山英樹29歳:夢を追いかけて』(池田書店19904月、ISBN 4262143759

·        『スポーツキッズのほうれん草:スポーツサイエンス・リポート』(全国朝日放送19926月、ISBN 4881311778

·        『夢は正夢』(扶桑社19947月、ISBN 4594014739

·        『復活:地獄を覗いた男たち』(199410月、ベースボール・マガジン社)ISBN 4583031610

·        『忘れちゃいけないものがある:スポーツを愛する人たちへ』(19968月、小学館ISBN 4093871914

·        『栗山英樹のベースボールアカデミー』(20057月、出版芸術社ISBN 4882932717

·        『栗の樹ファーム物語:栗山英樹、野球場をつくる:北の大地で育む"フィールド・オブ・ドリームス"』(20063月、マキノ出版)ISBN 4837670555

·        『栗山英樹が選ぶアスリートたちの世界集』(20072月、学習研究社。「中学生のためのショート・ストーリーズ」第8巻として発行)ISBN 9784052026331 複数の著作家によるスポーツ選手の物語を栗山が選定したもの(「栗山英樹選」のクレジットあり)。

·        『怪物前夜:"60億円の男"松坂大輔を育てた「嫌いにさせない」子育て術』(20073月、東京学参)ISBN 9784808007737

·        『はるかなる甲子園:もう一つの高校野球物語』(201011月、日刊スポーツ出版社ISBN 9784817202826

·        覚悟 理論派新人監督は、なぜ理論を捨てたのかベストセラーズ201210月。ISBN 978-4584134535

·        伝える。 言葉より強い武器はないベストセラーズ20133月。ISBN 978-4584134849

·        未徹在ベストセラーズ201511月。ISBN 978-4584136867

·        「最高のチーム」の作り方ベストセラーズ201612月。ISBN 978-4584137666

·        『栗山魂』(河出書房新社20173月、ISBN 9784309617091

·        『稚心を去る』(ワニブックス20191月、ISBN 9784847097515

·        『野球が教えてくれたこと』(KADOKAWA20193月、ISBN 9784048961141

·        『栗山ノート』(光文社201910月、ISBN 9784334951177

·        『栗山ノート2 世界一への軌跡』(光文社、20237月、ISBN 9784334953928

出演番組[編集]

テレビ[編集]

解説者のみならず、スポーツ情報番組を主体に司会者としても活動した。

テレビ朝日ANN系列各局

·        スーパーベースボール1991 - 1993年、2001 - 2011年。解説。朝日放送北海道テレビなど系列局制作の中継にも不定期出演)

·        スポーツフロンティア19914 - 19933月。メインキャスター)

·        楽天GIGランド名古屋テレビ199210 - 19933月。司会)

·        速報!スポーツCUBE2000 - 2001年。メインキャスター)

·        ベストポジションSPORTS2001 - 2002年。コーナー司会)

·        報道ステーション2004 - 2011年。プロ野球コメンテーター)

·        GET SPORTS1998 - 2011年。ナビゲーター)

·        熱闘甲子園(朝日放送・テレビ朝日。2009 - 2011年度)

長島三奈とともに、スタジオ司会と全国高等学校野球選手権大会各都道府県代表校への大会中取材を担当。

·        速報!甲子園への道(朝日放送、2009 - 2011年度)

コメンテーター兼リポーター。長嶋とともに、全国高等学校野球選手権大会地方大会を随時取材していた。

·        スペシャルドラマ・ママが生きた証201475日。本人役)[62]

TBSテレビ

·        JAPAN MAJOR BASEBALL1993 - 2000年。解説)

·        JNNニュースの森(プロ野球年末総括やシーズン前の順位予想で出演した)

·        JNNスポーツ&ニュース1993 - 1997年、メインキャスター。本人の歌う『天使というより魔法使い』がエンディングテーマに使われた)

·        オールスター感謝祭199343日、1993109日、199442日、1994101日、199541日、1995930日、1996330日、1996105日、1997329日、1997104日、1998328日)

·        スポーツマンNo.1決定戦(第8回芸能人サバイバルバトルまでのメインリポーター)

·        人生最高レストラン202334日)

NHK総合テレビ

·        土曜元気市

·        新・男の食彩2003年度。司会)

·        プロ野球 マジックの継承者たち~WBC栗山監督と名将のノート~(202335日)

ラジオ(特記ない限り、パーソナリティとしての出演)[編集]

TBSラジオ

·        TBSラジオ エキサイトベースボール1993 - 2011年。解説)

·        栗山英樹のスポーツBEAT ON!19954 - 19969月)

·        サタデー・デイ・キャッチ!スポーツ199610 - 19973月)

·        初田啓介の激アツ!ビバ!プロ野球初田啓介の激アツ!エキサイトベースボール!200510 - 20063月)

·        栗山英樹のエキサイトサンデー200610 - 20073月)

HBCラジオ

·        HBCファイターズナイター2003 - 2006年。解説。2007年以降もTBSラジオ制作の裏送りには出演していた)

FM NACK5

·        栗山英樹 Dream Navigation20004 - 201112月)

·        栗山英樹 NEXT INNING

·        サタデー・オン・ザ・ウエー

·        ハロー・サンシャイン

·        ゲット・ユア・ドリーム

·        夢の翼に

各地のAM

·        栗山英樹のミュージックブルペン1993 - 2011年)

o   栗山英樹の夢を追いかけて

STVラジオ

·        栗山英樹の野球場に行こう!201225 - 。毎月第1日曜19:00 - 19:30の『ぞっこんほっかいどうアワー』枠で放送)

CM[編集]

·        ナムコワールドスタジアム5』(2001年)[63]

·        第一三共ヘルスケア 『ルルアタックIB』(2007年)[64]

·        日本ハムグループイメージCM2014年)

·        100満ボルト2014 - 2021年)

音楽[編集]

·        「好敵手/それぞれの旅」(1992725日・シングル)2曲ともさだまさしの作詞作曲。

·        『フォー・シーズンズ』(1993926日・アルバム)

ゲームソフト[編集]

·        プロ野球 熱スタシリーズ(2006年・2007年、バンダイナムコゲームス大塚光二とともに解説者として声の出演)

映画[編集]

·        探偵はBARにいる32017年) - 本人役

脚注[編集]

[脚注の使い]

注釈[編集]

1.      ^ 翌年から打撃コーチ補佐兼任。

2.      ^ 12球団全選手カラー百科名鑑2001』(『ホームラン20013月号増刊。日本スポーツ出版社発行)の解説者名鑑内で「TBSを卒業」という旨の記述をしているが、テレビ解説の活動先をテレビ朝日に移しただけで、TBSラジオでの解説者活動は引き続き行っていた[12]

3.      ^ 2016年まで、現在のマツダスタジアムでセ・リーグ優勝監督・CS制覇チーム監督の胴上げが行われたことは一度も無く、同球場での日本シリーズ開催は2016年が初めてであった。なお、2016年の広島のセ・リーグ優勝の胴上げは東京ドーム910日の巨人対広島戦)で行われた。

 

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