mRNAワクチンの衝撃  Joe Miller、Özlem Türeci & Ugur Sahin 2022.7.10.

 

2022.7.10.  mRNAワクチンの衝撃 ~ コロナ制圧と医療の未来

THE VACCINE ~ Inside the Race to Conquer the COVID-19 Pandemic 2021

 

著者

Joe Miller 『フィナンシャル・タイムズ』紙フランクフルト特派員。ドイツ・マインツに本社のあるビオンテック社で世界初の新型コロナワクチンが開発されるまでの過程を同時進行でつぶさに取材。同社のトップであるウール・シャヒン、エズレム・デュレジ夫妻に密着取材することのできた数少ないジャーナリスト。初めての著書となる本書は、リモート取材も駆使しながら、夫妻のほか、50人以上の科学者、政治家、公衆衛生当局、ビオンテック社員への取材に基づき執筆した

Özlem Türeci & Ugur Sahin ビオンテック社の共同創業者(夫のウールは最高経営責任者、妻のエズレムは最高医療責任者)、世界初の新型コロナワクチン開発者。トルコからドイツへの移民労働者の子である2人は、それぞれザールラント大とケルン大にて医学を学び、分子生物学と免疫療法で博士号を取得。腫瘍免疫学の分野で数々の実績を上げ、科学論文及び特許取得の実績は数百件に上る。mRNA研究への貢献が認められ、22年にパウル・エールリヒ&ルートヴィヒ・ダルムシュテッター賞を夫妻で受賞

 

監修 石井健 東大医科学研究所 感染・免疫部門 ワクチン科学分野教授。93年横浜市立大医学部卒。3年半の臨床経験を経て、米国FDA7年間、ワクチンの基礎研究や臨床試験審査に従事。03年帰国後、阪大微生物病研究所准教授、日本医療研究開発機構AMED戦略推進部長、医薬基盤健康栄養研究所ワクチンアジュバント研究センター長などを経て19年より現職。専門はワクチン科学、免疫学など

 

訳者 

柴田さとみ 英語・ドイツ語翻訳家。東外大卒。はじめに、プロローグ、第13章、エピローグ

山田文(ふみ) 翻訳家。 第46

山田美明(よしあき) 英語・フランス語翻訳家。東外大中退。第710

 

発行日           2021.12.20. 初版印刷        12.25. 初版発行

発行所           早川書房

 

「ウール・シャヒンはこのパンデミックの次元の違いを理解していた。私よりずっと早くね」――アンゲラ・メルケル(ドイツ前首相)

 

WHOのパンデミック宣言に先立つこと6週間、まだ中国以外の地域で死者が報告されていない2020127日。後に医薬品製造の歴史におけるあらゆる記録を塗り変えることになる、ドイツの小さなバイオベンチャー企業による大逆転のプロジェクトが始まった――。

ファイザー社と組み、11カ月という常識外のスピードで世界初の新型コロナワクチンの開発に成功したビオンテック社。「医療界のゲームチェンジャー」として一躍脚光を浴びているmRNA医薬の技術で世界の最先端を走るバイオ企業の創業者/研究者夫妻に密着取材した迫真のドキュメント

 

 

はじめに

総勢60人、合計150時間のインタビューを通じた歴史の第1稿

 

プロローグ:コベントリーの奇跡

202012月コベントリーの病院の外来で90歳の女性に最初のワクチンが投与された

使用された薬瓶と注射器は、ロンドンのサイエンス・ミュージアムに運ばれ、ジェンナーの医療用メスと並んで永久に展示されることになるだろう

ワクチン技術は、ジェンナーの頃から大きく進歩したが、新薬を作り試験するプロセスは依然としてリスクだらけ。今回の発見以前の20年間に行われた数千件の治験では世界的な大手製薬会社が数十億ドルを投じてもなお開発プロジェクトの約60%は失敗

年初の予想では、ワクチン開発に最低でも1年と言われていたが、9カ月後には、既存の承認薬では用いられたことのないプラットフォームを基盤とした、極めて有効性の高いワクチンが実用化された。それを可能にしたのは無名の2人の科学者、マインツを拠点とする夫婦で、数十年にわたってチームを組み研究に取り組んできた。ごく小さな分子が免疫システムの持つパワーを引き出すことで、医薬に革命をもたらすと信じていた

 

第1章        アウトブレイク

‘20年初頭、武漢初の新たな感染症のニュースが出た時、発生源が食肉をその場で処理する「ウェットマーケット」であることを知って、「異種間伝播」を疑う

11年前にビオンテックを立ち上げ、免疫システムがどのようにして、様々に異なる部隊を統率して病に立ち向かうかのメカニズム解明に没頭していた。主力はがん治療薬の開発で、近年ビル・ゲイツ財団とも1億ドルの出資協定を結ぶほど業界では注目を集めていた

最初に気付いた論文には、武漢から香港に戻った家族5人がの間で新型コロナウィルスに関連する肺炎の家族性クラスター発生が示唆されていた

ウールが注目したのは、人から人へと感染していること、さらには健康な人にも伝播すること。感染症の専門家ではないが、SARSMERSの時の経験から、これらのウィルスがいかに急速に感染拡大するかを予測するデータモデリングについても研究していた

エピデミック(感染流行)の初期段階を示唆していたが、武漢が世界トップクラスの人口・人流を持つ大都会であり、瞬く間にパンデミック(世界的大流行)の恐れがある

すぐにフランスで、中国から入国した3人の新型コロナウィルス陽性が判明

ウールはパンデミックを確信したが、対峙するための武器は18世紀当時と変わらず、ごく初歩的な封じ込め策のみで、隔離、人と人の距離の確保、基本的な衛生対策、そして移動の制限

ウールは、1950年代後半に世界を揺るがしたアジア風邪のパンデミックに匹敵する流行になり得るとして、常勤監査役で投資家のパイプ役を果たしていたヘルムート・イェグレに連絡、必要資金の調達に走る。ただ、今回のウィルスに分類的に近い他のコロナウィルスに対し開発に成功したワクチンは未だ存在せず、今回の開発について勝算も予測しようがない。SARSMERSも、ワクチンができる前に流行は収束している

そのうえ、開発から実用までの時間がかかる――おたふく風邪ワクチンや、エボラ出血熱のワクチンの開発が5年で今までの最短記録

ウールとエズレムが専門家としての評価をかけてきた、がん治療に革命をもたらすことを目指した極く微小なmRNAと呼ばれる分子が、今回のワクチン開発の切り札となる

夫妻はどちらも'60年代にトルコ人両親のもとに生まれ、西ドイツ政府の労働力不足を補うための移民政策によってドイツに移住。共に医学の道を目指し、ザールラント大の附属病院で出会い、後にトランスレーショナル医療(臨床応用・実用化への橋渡しを目指す)と呼ばれる研究分野に進む

体には、感染症などの外敵を検知し、将来同じ敵に遭遇した時に備えて武装するよう自らを鍛える機能があり、それこそがワクチン開発に繋がる。一方で、1990年代初めごろ、免疫は体内の敵に対しても認識・攻撃するよう鍛えることができるという認識が広がり始め、免疫療法と呼ばれるようになり、がん医学で期待されたが、まだ製薬業界の視野には入らず。夫妻はまさに腫瘍と戦う武器が患者体内にあると信じ、それを操る方法を模索

免疫系は、高度に組織化され専門化された部隊をいくつも備えた軍隊のようなもの。それぞれが異なる形で指令を受け、異なる戦法で戦うが、一旦敵を認識すると、各部隊が力を合わせて連携攻撃を仕掛けて反撃する。抗体やT細胞といった武器は、特定の分子をターゲットと見定め強力なパワーで攻撃を仕掛ける。腫瘍の内部には健康な細胞には見られない特殊な分子が点在するのを発見、この分子を認識して攻撃を仕掛けられれば有効

抗原という特殊な分子を培養、がんの特殊な分子を生成して体内に移植すれば攻撃目標が明確になる。RNAを基盤とする技術を開発

RNA19世紀末に発見され、DNAと同様遺伝情報を保持しつつ、同時に、触媒能力といって、自身のコピーを作り出す能力を備えていたが、夫妻が興味を持ったのは1960年に新たな機能として発見された「メッセンジャーRNA」と名付けられたもので、生物に於て暗号を運ぶ使者の役割を果たし、DNAから細胞内の「工場」のような場所に一連の指示を運び、その指示のもとに体の臓器や組織を作りコントロールするための必須タンパク質が作られると、この1本鎖のリボン状構造物はすぐに破壊される――実験室での安定性が低く、生成されたとしても少なすぎるため、臨床研究の場では無視されていた

mRNAを用いた医薬品に含めるべき成分は遺伝暗号の列だけなので、抗原を分離してその遺伝暗号をコピーするのはシンプルな技術で可能であり、そのmRNAを患者の体内に投与すれば、後は患者本人の細胞に任せればいい

1960年代にヒトコロナウィルスが発見されて以降、確認されている種類は7つ。最初の4つは季節性で、一般的な風邪症状を引き起こすもの。次のSARSMERSはより深刻な呼吸器疾患を引き起こし、流行収束までに多勢の命を奪うに至る。最後が、今回発見された新型コロナウィルスで、じきにSARSコロナウィルス2と命名

コロナウィルスは、ウィルス表面からタンパク質でできた無数の突起(スパイク)が突き出ており、脅威の元凶で、この突起を無効化または変形させるよう免疫系に教えこめばウィルスを無害化できる。遺伝子配列は中国人教授が既に解読してネットに投稿していた

 

第2章        プロジェクト・ライトスピード(光速)

武漢でのコロナウィルス発生発表の直後から、開発スピードが喫緊の課題だとし、複数のワクチン作成と試験を並行して進める

前年10月に株式を上場した直後とあって、新規分野への進出は抵抗があるばかりか、会社の判断ミスによって大きな損失を被ったあら、全ての取締役がその責任を負わされる

1ステップは、前臨床試験に備えること――実験室での試験とマウスを対象とした動物実験が含まれる

2ステップは、人間を対象とした試験を設計し、世界規模の治験を実施する上でのパートナー探し――これまでフェーズ12の試験を実施した経験はあるがわずか400人で、今回は数万人規模が必要

3ステップは、製造能力を拡大し、希望するすべての人にワクチンを供給できるようにすること

4ステップは、世界初の承認済みmRNA医薬品を商品化する体制づくり――サプライチェーンと流通網、営業部門の設立、患者と医療提供者に向けた資料の作成を始め、膨大な量の業務を伴うが、ビオンテックはまだ自社開発の医薬品が承認を受けるるのはまだ何年も先という状態

2018年、ファイザー社との間で、mRNAを用いたインフルエンザワクチン開発に関する提携に合意していたことから、今回のワクチン開発の協力を打診したが、ビオンテックのmRNAプラットフォームは感染症に対する臨床試験で用いられたことがないこと、この技術がパンデミックを上回るスピードを実現できるエビデンスもなく、ワクチンは常に感染拡大に間に合わないものであることなどを理由に支援を拒否

mRNA医薬品を巡る規制は徐々に進展、1990年代後半DNARNAをベースとした核酸医薬品は、FDAや欧州医薬品庁EMAの分類ではまだ広く「遺伝子治療」に分類され、国際的に統一された医薬品の承認要件はまだ存在しなかったが、ドイツの規制当局であるパウル・エーリヒ研究所PEIが規制の枠組み作りに協力的に動いたこともあって、治験を始めるための行政上の障壁が低くなっていた

 

第3章        未知数

1月には会社の社員1300人全員が一堂に集められ、新年度の方針の説明が行われたが、その場でウールは新型コロナウィルス感染症COVID-19と名前を変えた流行目前の新規感染症に対するワクチン開発にシフトする旨を発表。その段階での予測ではこの病原体が感染者100人のうち3人を死に至らしめ、世界的に感染拡大がピークを越すのは6月以降と指摘、300万人規模の犠牲者のパンデミックを予想し、それに立ち向かうのはわが社の義務と断定。その時点で全世界で確認されていた感染者数はまだ47千人、当初発見されていた25か国以外での感染例は確認されていなかったし、ウールの最大の懸念材料だった一見健康な人を介して感染していくという事実はまだ大きなリスクとは認識されていなかった。WHOも、「無症状者からの感染は主要な感染経路ではないと考えられる」と発表

ワクチンの有効性には大きな幅がある――インフルエンザウィルスは昔からよく知られた敵であり、ワクチンのメカニズムについても詳細に研究されてきたが、それでも年に1度のインフルエンザワクチンで得られる発症予防効果は40%あまり

手探りの開発が始まり、人体はほとんどのケースにおいて新型コロナウィルスを確かに記憶し、これを撃退できるとチームが確信したのは6月になってから

ワクチンが効くかどうかは重要度でいえば二次的な懸念――ワクチンは、構築を誤れば、利益よりも害をもたらしてしまう代物。1960年代後半ワシントンDCで子供を対象にした呼吸器合胞体ウィルス(RSウィルス)に対するワクチンの治験で、ワクチン接種者の80%がウィルス感染時に重度の呼吸器疾患を患い死者まで出たが、失敗の原因を突き止めるまでに半世紀を擁し、かつ、ワクチンによって作られた抗体がウィルスに結合はするが、それによってウィルスを中和するどころか健康な細胞への侵入を助けていたことが判明

SARSMERSの際のワクチン開発でも似たようにワクチンが病状の重症化を促進したことが起こっている――抗体依存性感染増強ADEという現象で、1960年代に初めて報告され、規制当局がワクチンを評価する上で最も気にする要素

ワクチン開発の最善の方法は、スパイクタンパク質の完璧なコピーの生成――スパイクが感染で重要な役割を果たしていることは2009年に判明しており、コロナウィルスに対して人体が自ら起こす自然な免疫反応も主にこのスパイクタンパク質を標的としているところから、天然のスパイクタンパク質と全く同じものを人工的に生成して攻撃対象とする

ウィルスは、肺細胞にとりつく直前に形状を変化させ健康な細胞と融合していくので、変化する前に攻撃を仕掛け、ウィルスの強力な結合メカニズムを阻害しなければならない

新型コロナウィルスを研究室で不活性化する方法もあるがスパイクの形状を正確に再現できない恐れがある一方、ビオンテックのように人体に遺伝子情報を与えて自力でスパイクタンパク質を作らせる方式の場合は、スパイクタンパク質の構造が本質的にとても不安定だという弱点がある。スパイクタンパク質の遺伝子配列がmRNAによって送り込まれた際、本来必要な完璧なコピーではなく、わずかに異なる構造のスパイクタンパク質が体内で生成されてしまうという可能性がある

アメリカ国立衛生研究所NIHのバーニー・グレアムは免疫学とウィルス学の専門家で、タンパク質の形状変化がワクチン開発を妨げる要因であることに気付き、2012年バイオ工学技術を駆使してタンパク質の「構造変化前」の形状を維持する抗原の生成に成功。直後にMERSウィルスに感染した患者のサンプルから、遺伝子配列のわずか2カ所のアミノ酸を置き換えるだけで、スパイクタンパク質の形状を安定化させ、さらに強力な抗体反応を引き出すことに成功

ウールは武漢のニュースとほぼ同時にグレアムの文献を目にして、新型コロナウィルスとMERSウィルスの類似性から、今回のウィルスについてもグレアムの方法を使えばスパイクタンパク質を安定化できそうだと直感。グレアムはすでにmRNA企業であるモデルナ社と提携、同社はコロナウィルスのワクチン開発に取り組んでいることを大々的に公表していたが、グレアムは情報公開を優先して、新型コロナウィルスに対する知見も全て公開してくれ、986番目と987番目のアミノ酸がスパイクタンパク質を安定化させるための鍵だとも教えてくれて、提携の合意が交わされた

もう1つの問題が、スパイクタンパク質の全体を複製すべきか、受容体結合ドメインRBDと呼ばれるスパイクタンパク質の先端部分で肺細胞の受容体に結合する役目を担っている部分だけを再製すべきかという議論で、後者の方がタンパク質の構成ブロックであるアミノ酸の総数も1/6200個ですむし、抗体の標的が小さくなるのでADEのリスクも軽減できる――時間的余裕のない状況で無謀な決断だったが、ウールは2つの方法を並行して進める

呼吸器疾患は戦いにくい。空気中を漂うウィルス粒子に対して免疫攻撃を仕掛けるチャンスは、ウィルスが鼻や肺の内側を覆っている細胞に付着してから内部に侵入するまでのわずかの間だけ、しかも細胞の内部に侵入すると急激に増殖してしまうので手遅れ。そのため非常に強い抗体反応を引き起こすようなワクチンの設計が必要で、大半の人が十分な防衛力を得るにはワクチンの2回接種が必要と見積もる

特定のウィルスに対する体内の狙撃兵には、液性免疫と細胞性免疫の2タイプがあり、前者は第1の防衛ラインを構成する抗体で、血流に乗ってうろついている異物が細胞にとりつく前に攻撃するのに対し、後者は第1の防衛ラインをすり抜けた敵を攻撃するT細胞で、既に感染した細胞を攻撃する。狂犬病のように抗体のみで撃退できる病原体に対し、結核やHIV、マラリアなどは抗体が中和するよりも早く細胞に侵入し感染させる力があるので、T細胞が不可欠。SARSの経験から、新型コロナウィルスによる死亡を防ぐには強力なT細胞応答を引き起こすことが決定的に重要となりそうだが、T細胞を活性化し過ぎると「サイトカインストーム」と呼ばれる現象を引き起こし、かえって有害

開発の成功の鍵は、抗原というワクチン標的の選択と、ワクチンに含めるmRNAをどう設計し送り込むかにかかっていた――最優先すべきは、ワクチンの有効性と安全性

4月の治験開始の大号令

ビオンテックの優れた技術、特に多彩なプラットフォームに注目していた中国の復星(フォースン)医薬からコンタクトがあり、感染地域での治験を考えていたウールは同社と包括的研究開発プランを策定、中国の医薬品審査評価センターに申請開始

 

第4章        mRNAバイオハッカー

ビオンテックには自社のmRNAプラットフォームとそれを筋肉に注射する時に使う特定の脂質との具体的な組み合わせについてのデータがない。研究室での実験では同社のイノベーションの基礎を支える複雑なメカニズムは信頼できることが証明されていたが、それが人体でどう働くのか、ほとんど研究されていない病原体に対していかに機能するのかは予想できなかった。一方で、スパイクタンパク質は形状がはっきりしていて、小さな分子に強大な力を与えるmRNAという武器があり、一連の特別な脂肪酸組成物を手に入れて、壊れやすいmRNAをヒト細胞に忍び込ませるのに十分な間保護できるようになっていた

1796年、ジェンナーが牛痘を接種し、現代の予防接種の道を拓く――牛痘ウィルスに晒されると、より致命的な天然痘にほとんど罹らないことに気付き、少年を敢えて生きた牛痘ウィルスに晒して天然痘から守り、その子の免疫系の活動を引き出したもの。現在のワクチンに含まれているのは、弱毒化されたものや完全に不活化されたウィルスで、基本的な技術は今行われているほとんどのワクチン接種でも変わらず根幹をなすが、難点は感染者からウィルスを含む膿をとって他の人に投与することで、梅毒など他の病気の蔓延を招くこともあり、後に動物の皮膚から取った膿を使うようになったが、リスクは減らず

現在のワクチンは、遥かに安全なやり方で、鶏卵を使って作られるがミスは避けられず、鶏卵の確保にも問題

代わって登場したのが、遺伝物質によって体内の細胞を工場にし、自分たちでタンパク質をつくるよう指示する方法

ウィルスベクターと呼ばれる方法では、ウィルスから害を与える力を奪い、複製力を制限したうえで、それに遺伝的指令を与えて体内に送り届ける、「トロイの木馬」方式で、エボラ出血熱のワクチンで初めて用いられ画期的な効果を表わし、他社も新型コロナワクチンに適用しようとしたが効果はまちまち

ウールとエズレムは、免疫系をきちんと理解すれば、その複雑な力を利用して、悪性腫瘍と戦えるかもしれないと考え、免疫療法のブレイクスルーを目指す

人体には2つの免疫がある――自然免疫と適応免疫で、前者はあらゆる場所に存在する病原菌キラーであり、後者は特定の脅威をピンポイントで攻撃する。両者が互いにコミュニケーションをとりながら働くことが解明されてきた。1970年代にラルフ・スタインマン(ノーベル賞)が発見したのが樹状細胞DCで、両者の橋渡しの機能を果たす

樹状細胞に遺伝情報そのもの、つまりタンパク質をつくる一連の指示を届ければ、体は指示に従ってタンパク質を生成するが、間にRNAを介在させることで安定的に指示を届けられる

mRNAの実験は1970年代に始まっているが、ベテラン免疫学者からは見向きもされなかった

mRNAの基本構造は全て同じで、最大で数千の糖とリン酸のグループが交互についた1本の鎖。糖のグループにはそれぞれG,A,U,Cという4つの塩基があり、mRNAの運ぶ遺伝情報はこれらの文字の配列によって決まる

2004年、樹状細胞に最適化されたmRNAを取り込ませ、mRNAにコード化されたタンパク質を十分に作らせることに成功。'06年までにはmRNA1つの鎖によって引き起こされる免疫反応を5000倍に増やすことに成功

2018年にはウールとエズレムによって、最適化されたmRNAが適切に脂質に包まれてリンパ組織に届けられさえすれば、それらの器官でうろうろしている樹状細胞が警鐘を鳴らし、強力な免疫反応を呼び起こすことが実証された

 

第5章        試験

感染症ワクチン市場は、少数の保守的な大企業に支配され、彼らは2人の新技術に懐疑的

夫妻は、自ら開発した新技術の応用分野として感染症のワクチンへの応用の可能性を探っていた――ウィルスを回避するために発達した免疫系の自然なメカニズムを他に振り向けるもので、わずかなステップでこの知見を全て活用して免疫系本来の目的であるウィルスからの保護に向けることができた

 

第6章        同盟締結

製造規模の拡大と将来の物流管理、薬品開発の後期段階を手助けする相手先として、既に協力関係にあったファイザーに話を持ち込む

夫妻は長年の経験で大手医薬品開発企業に何度も阻まれた後、漸くミュンヘンのシュトリュングマン兄弟に出会う。ジェネリック医薬品の巨大企業ヘキサルを75億ドルで売却して財を成し、次の夢を追っていた兄弟が夫妻の事業に賛同し、mRNAの技術に賭けてくれて、2008年ビオンテックを設立するが、当初約束した5年経っても第2相試験の気配はなく、一方でmRNA企業モデルナがアストラゼネカと240百万ドルの前払いを含む提携を発表、米国防総省の機関からも資金提供を受けることが決まったほか、他の大手企業やゲイツ財団も動き始めていた。ようやく夫妻の技術も認める大手企業が現れ、イーライ・リリーやサノフィとの契約が成立、さらに2016年にはロシュの傘下に入っていたバイオテクノロジー企業としては最も成功を収めていたジェネンテックとの提携にも成功、310百万ドルを引き出す

エズレムも、最初に立ち上げたガニメドで、標準的な化学療法と組み合わせた抗体治療の開発に成功、「がん治療のゲームチェンジャー」と持ち上げられた後、2016年シュトリュングマン兄弟は14億ドルでアステラス製薬に売却(アステラスの支払いは一時金480億円)。夫妻の2つのスタートアップへの投資は、一挙に元が取れておつりが来た。アステラスの世界ベースでの大規模試験は現在も進行中

エズレムは、通常のバイオテクノロジー企業のビジネスモデルと資金調達の組み合わせのせいで、イノベーションを患者に届けるのが妨げられていると感じ、売却を後悔していたが、ビオンテックではモデルを作り変えることを目指し、ライバル企業に売却するのではなく、独立した会社を発展させることを考える

アメリカに拠点のないバイオテクノロジー企業はユニコーンでもほとんど知られておらず、さらなる資金調達には苦労したうえ、通常資産運用会社が投資する実験的なmRNAスタートアップは1社だけですでにモデルナに投資していた

2017年になって漸く最初の資金調達で270百万ドル、'19年には325百万ドルを調達して次の段階であるIPOに進む。景気後退の見通しの中ナスダック指数が急落、最終的に評価額35億ドルで150百万ドルの調達にとどまったが、NYSE上場の8つ目のドイツ企業として世界にその名を知らしめ、ナスダックの高層ビルの外壁に同社のロゴが並び、キャッチフレーズ「全ての患者のがんは唯一無二」が添えられ世界に届けられた

上場当初からマーケティングと販売の能力の欠如を公表しており、単独で事業を進める選択肢はなかった。2013年にインフルエンザワクチン開発での提携を取り付けて以降、ファイザーにとってビオンテックはパートナー候補の最下位であり続けたが、'17年になって突然感染症の新薬候補に関心を示してきた。ドイツ生まれの微生物学者で子宮頸がんワクチンの開発を率いて同社ワクチン研究部門のトップだったキャスリン・ジャンセンが夫妻の論文に目をつけ、'18年には両者の間でファイザーがワクチンの製造と使用許諾を担い、ビオンテックに特許権使用料を支払う内容の契約が成立

‘203月、全世界の死者が3000人に達し、SARSMERSの死者数の合計を超える感染症の広がりを見て、キャスリンからの提案をファイザーのCEOブーラ自らがウールと直接話をして即決、世界の4大ワクチン製造業者の1つが動き出す――お互いに先に進めることを止めないこととしてビオンテックは独立を維持し、費用も将来の利益も折半

同時に中国の復星製薬との提携も発表――中国及び周辺地域での販売権に最大135百万ドル払う

ファイザーの全面的なバックアップ体制が確立されてビオンテックも一息ついたが、ワクチン計画が公になったことで、妨害の手紙や攻撃がビオンテックに向けられてくる。夫婦の信仰や出自に関わる憎悪に満ちた攻撃は耐えられないものもあり、不審な郵便物が届き、役員への身辺警護もつける

ウールは、社内の懐疑論を押し切って、全ての情報をファイザーと共有するよう指示、「どれだけこちらが手に入れてそれを保っておけるか」よりも、「どうすれば効率的に意思決定をしてこの仕事を実現できるか」という視点で状況を見て、契約・開発の進捗を妨げるものはすべて取り除かれた――30日以内に決定に至らない場合は双方が法廷に訴える権利を持つという調停の仕組みも、朝廷を待っていたらパンデミックに対処できないとして削除

 

第7章        初めての臨床試験

ビオンテックは、第1相試験前の毒性試験の省略を巡ってPEIと議論。3年前のエボラの流行後に開発されたワクチンでは、毒性試験の中間報告の段階(安全の確認のみで、後半の分析プロセス前)で第1相試験を始める必要性が提言され、今回の開発でも適用が認められたが、さらに短縮するために3回投与の間隔を3週間から1週間に短縮

317日毒性試験開始。死者16人となり、メルケルが外出を控えるよう呼びかけ

1相試験では、フェイスブックでボランティアを募集すると1000人以上が応募してきたが、ビオンテックには試験に立ち会う医療管理者や臨床開発者が不足

現在試験中の20の候補のごく一部を使って、用量を徐々に増やしながら様子を見る

革新的なアイディアを研究室から直接患者の病床に届けようとするためには、専門家でない人にもわかるように説明する必要があり、そのスキルをエズレムが具えていた

1相試験の担当医師に、所謂取扱説明書の役割を果たしたのがエズレム

単回投与用量漸増試験の要領についてもPEIと交渉。通常1回目投与と2回目の間隔は28日、その14日後に血液サンプルを採取するが、今回は間隔を21日としその7日後には免疫反応のテストを実施することで14日短縮を認めさせる

すでにモデルナや、後にアストラゼネカと組むことになるオックスフォード大の研究者も、臨床現場に届けるワクチンを1種類に絞っていたが、ビオンテックはまだ20種あり候補を絞り込む必要があるが、ウールは出来るだけ多くを用いて効果を見たかった――ワクチンの2つの特徴のバランスが最適なものを見出す必要がある。1つはmRNAがエンコードするタンパク質を細胞内で大量に再生産されるものでなければならないこと、2つ目は免疫系を適度に刺激するものでなければならないこと、強すぎると副反応を引き起こすし、弱すぎては反応が不全。最終的に4種に絞って人体実験に臨むが、直前になってさらに優れた抗体反応を示すワクチン候補B2.9が見つかり、無理やり製造工程に押し込む

毒性試験の中間報告は、試験直前に投与用量を減らしたのが奏功して、問題ない結果が出たが、後から押し込んだ候補のデータは含まれず

421日、PEIが第1相試験開始を許可――1855歳の健康な被験者200人による治験で、それ以上の年齢の被験者については、第1グループの2回の投与の様子を観察後とされたが、PEIは記者会見で、完成は年内は無理と答え失望を買う

423日、初めて新型コロナワクチンの人体での試験が始まり、ビオンテックが第1

2回目の投与が終わるまでに3週間、免疫防禦システムが作動するのに1週間、血液サンプルの処理に1週間、計5週間を待たねばならない

529日、治験から得られたデータでは、少量でも十分な量の中和抗体を産生していることが判明。数年にわたって取り組んできたmRNAの最適化が功を奏し、有効なワクチンの選別は重要ではなくなり、市場化が承認された場合に提供できる接種回数が事実上3倍になった――直前にはモデルナが小容量では足りないことが判明、用量を上げた再試験をすると公表

 

第8章        自分たちで

強力な免疫反応を示すワクチンが見つかって、純粋に科学的な段階はほぼ終了

ビル・ゲイツ財団が4月には、どのワクチンが効果があるのかわかる前から製造拠点を建設しておいた方がいいと、各国政府に働きかけていたし、2000年のダボスでの世界経済フォーラムでもウィルスの流行に対し世界が連帯して対応するための戦略が策定され、'17年にはそれが更新されていたが、計画が実現することはなかった

ビオンテックは、たまたま製造基準GMPを満たす工場を買収して手許に製造設備を保有していた――多種多様ながんに対応するためには、多様な製造プロセスに適した製造技術が必要で、迅速性・機敏性・適応性に優れた製造設備を自前で持つしかなかった

大半の国々では商品化をファイザーが担当してくれることになっていたが、ドイツとトルコに対してだけは直接ワクチンを販売したいと考えていた

3月には、同じmRNAを使ったワクチン開発を進めるドイツのキュアバックがホワイトハウスに招かれ、トランプ大統領が同社の開発するワクチンをアメリカが独占的に確保するという条件で同社に10億ドルの資金提供を申し出たという報道が流れ、メルケルは驚愕。関係者は否定したが、欧州諸国の指導者は動揺、欧州委員会委員長がヨーロッパ向けコロナ対策ワクチンの開発・生産のためとして80百万ユーロの財政支援を申し出

ビオンテックにもメルケルの官邸から支援の申し出が来たが、開発の進捗状況を説明しただけで、政府の支援については丁重に断っている

71日、ビオンテックとファイザーが第1相試験で力強い免疫反応を引き起こしたと公表――1回の投与量の目途もつき、製造やコストの目途も付き、高所得国では117.5ユーロと見積もる

最初の契約はイギリス。ジョンソン首相の肝いりで、30百万回投与分の契約をかわす

トランプ大統領も100億ドルをかけたワープスピード作戦を展開中で、モデルナとファイザーに声がかかるが、ファイザーのブーラは政治の臭いをかいで出資を拒絶したため、単なる購入契約として1億回分+5億回分のオプション

米英がすぐに行動を起こせたのは、政府の対策本部を率いていたのが「業界人」だったためで、EUのように予算も限られ、安価な既存のワクチンに期待していた分国ごとに考えがまちまちで、治験の最終段階に入ることが見込まれる段階になっても契約には至らなかった

副作用が出た場合の責任の所在についての問題も対応に差が出る結果となる――米英の場合、公衆衛生の緊急事態に円滑に対応するため、製薬会社に対する賠償請求について免責を認めている。EUもアストラゼネカに対しては損害賠償を補償することに同意しているが、ビオンテックやファイザーとはリスクを共有しようとはしなかった

ちなみに、30億回に及ぶ年間ワクチン投与は、世界中に174000億ドルの利益をもたらす

逼迫していた手許資金も、試験結果の公表で5億ドルの資金がもたらされ、さらにシンガポール政府からも250百万ドルの出資があり、いくつもの国と供給契約が結ばれた

3相試験のワクチンには、後から追加したB2.9を使用することに決定

727日、第3相試験開始――世界数十か国で数万人規模の試験

アメリカ以外の国では何とか試験が進んでいたが、アメリカでは一貫して芳しくない世論調査結果に直面していたトランプが、大統領選の自分の勝利を妨害しようと、FDAが故意にワクチン開発を遅らせているとツイート。ホワイトハウスがアストラゼネカのワクチンを迅速に承認するため安全手順を省略しようとしているとの報道が流れ、さらにトランプが投票日までにワクチンが準備できると主張するようになると、ワクチンが科学ではなく政治により承認決定がされるのではないかと思われ、ワクチンに対する大衆の信頼が損なわれる恐れがあり、せっかくビオンテックやファイザーがワクチンを生み出しても受け入れてくれないといった事態も起こりかねない。大手製薬会社連名で「ワクチン開発への取り組みが、高い倫理基準と確固たる科学原則に従っていることを言明する」との声明を発表

3相試験は6か国、150会場で43千人という史上最大規模の治験

二重盲検法により、FDAとの間で設定した「重症化や死亡の予防に50%を超える効果があること」という条件のクリアを目指す

クリアするためには、ワクチンかプラセボの投与を2回受けた被験者の少なくとも164人が新型コロナウィルスに感染することが必要と考えられ、感染した被験者の中のワクチンとプラセボを投与された人数を比較して、ワクチンの効果を測定する

米大統領選の期日との関係で、結果の公表のタイミングが微妙になったが、最低62人の感染事例が確認されるのを待って有効性データを発表することでFDAと合意し、投票日までには間に合わないことが明らかになる。トランプは怒ったが、科学の前には絶句

 

第9章        効果あり!

次期大統領に選出された売電は勝利演説の中で、「科学を基盤とする」計画に基づいてパンデミックに対処すると約束し、関係者を安心させた

118日、夫妻の所に、ファイザーから感染予防に90%以上の効果があると報告が入る

43538人の被験者のうち、新型コロナウィルスに感染した94人の血液検査の結果は、ワクチン2回接種した被験者は4人で、残り90人はプラセボ投与の被験者。承認条件を遥かに超える成果であり、実際その効力はおたふく風邪や狂犬病などもっと落ち着いた環境で開発された一般的なワクチンの効力を凌駕

併せて、ワクチンが接種後に感染した人に害を及ぼさないことも確認できた――ADEもサイトカインストームも引き起こさず。6人死者がいたが、ワクチン投与との関連が確認された事例はない

翌日の公表で、両社の株価は急騰、ビオンテックはバイエルに匹敵する会社に。パンデミックの収束を期待して市場全体が記録的な高値となり原油価格も急上昇

1週間後にはモデルナが、有効性94.5%を示すデータを公表、mRNAの優位性が確立

その後ビオンテックとファイザーも最終解析結果を公表――感染が確認された被験者170人の内ワクチン2回投与者の感染は8人で有効性は95%、高齢者にはワクチンが効果を発揮できない傾向にあるが、今回は65歳以上でも94%以上の効果が確認された

ファイザーの助けを借りて、各国宛に承認申請が出される――最初に承認したのは122日でイギリスの医薬品・医療製品規制庁MHRA、ウールがコロナの記事を目にしてから10カ月と8日後。有効性データが届いてからわずか3週間後のこと

FDAも欧州医薬品庁EMAも相次いで承認

 

第10章     新たな常態(ニューノーマル)

ワクチン接種が始まる中、12月初旬ごろからイギリスでは新たな変異株が出始めていた

一般的にウィルスは、1カ月に23回のペースでランダムに変異するが、新型コロナウィルスはすでに17種もの変異を獲得していて、感染力も致死率も70%も高いとの情報

最初の変異株はイギリスのケント州、次いで南アフリカでも発見され、それぞれワクチンの標的になるスパイクタンパク質が大幅に変わっていた

新たな設計のワクチン開発を進める前に、まずは既存のワクチンで新たな変異株を交差防禦できるのかどうかを、科学に基づいて判断する必要がある――特にビオンテックのB2.9は、第1防禦の抗体と、第2防禦のT細胞の両方を動員できるよう設計されており、ウィルスの変異に対してもある程度の適応力を備えている。変異株への対応において、ワクチンの設計に修正が必要な場合でも、がんの治療薬開発で患者11人に合わせてそれぞれ異なる製造工程を用意してきた技術が役立つ。承認課程だけは問題が残る

ドイツ連邦共和国功労勲章授与――大統領公邸のベルビュー宮殿で壮大な式典挙行

ファイザーとの連携が進んだのは、ウールとブーラが、「科学者であり移民であるという共通の背景」を通じて心を通わせたから――ライトスピード・チームは60か国以上の専門家で構成され、半数以上が女性

同じような危機発生に備え、ワクチン開発のスピードアップが検討されている――病原体保有動物への生物学的監視を強化し、迅速にワクチンを製造できる設備を発展途上諸国に導入すれば、人類が再び同様の厄災に直面する状況回避に役立つ。各国の政府機関は、新たな感染症が流行した場合に、他の感染症に利用された同種のワクチンを使った試験のデータがあれば、その各要素の試験を繰り返さなくてもいいことを認める規定を提案

「デルタ」株に対しては、効果がやや低下している――ワクチンの幅広い効果を維持するためには、2回接種の半年後に3回目の接種が必要かもしれない。あるいは、インフルエンザワクチンと同様に、その後も1年か2年毎に追加の接種が必要になる場合も考えられる

これが「新たな常態」になるのかもしれない

ビオンテックの業績は、2021年には160億ドルの利益を予想するが、人類の厄災を予防・根絶する現在進行中の取組みの1通過点にいるに過ぎない

夫妻もシュトリュングマン兄弟も、持ち株には一切手を付けていない――夢はあくまでがん患者の個別治療薬の開発であり、15のがん治療薬に対して18の試験が進行中。同時に、インフルエンザ・マラリア・HIVという3大感染症に対応するmRNAワクチンの開発も進む

 

エピローグ

ビオンテックの成功例は、医学界の主流から外れた部分に目を向けることの重要性を示した――ワクチン開発という手法がたまたま有効だったウィルスと、それまで感染症医薬品を治験にかけたこともなかった1企業、論文発表数では世界上位でもその専門知識を承認医薬品として活用するという点では常にアメリカに遅れをとってきたヨーロッパという舞台。科学は、偶然の巡り合わせに左右されることの証左

イノベーションは一度には起こらない――いくつもの個々の発見が、時に何の繋がりもない分野で同時に起こり、積み重なっていく。やがてそれらのアイディアや研究者が出会い、融合した時、人類は総体としてとてつもなく大きな飛躍を成し遂げる

今回の全てのパーツに現れる共通点が、ウールとエズレム夫妻の人柄

 

ワクチンに入っているもの

有効成分: SARS-Cov-2のスパイク(s)糖タンパク質をコードするヌクレオシド修飾メッセンジャーRNA

添加物: 

   塩類: 4種類の異なる塩(えん)。人間の体内pHに合わせてワクチンのpHを安定させるための緩衝剤

   脂質: 4種類の異なる脂肪分子。RNAの周囲に保護膜を形成し、その送達を助け、即時の分解から保護する

   糖類(スクロース): いわゆる「抗凍結剤」。保管時の低温により脂質の粘性が上がり過ぎるのを防ぐ

ワクチンに入っていないもの――卵、ゼラチン、ラテックス、防腐剤、金属、超小型電子機器、電極、カーボンナノチューブ、半導体ナノワイヤ

 

監修者のことば

新型コロナウィルスによるパンデミックは、いまだかつてないワクチン開発の革命を2つ引き起こした――1つはワクチンの開発から供給までのプロセス、もう1つは核酸であるmRNAでできたワクチン

この2つの革命、即ち歴史的な破壊的イノベーションの立役者がウール・シャヒン、エズレム・デュレジ夫妻

 

 

 

mRNAワクチンの衝撃 ジョー・ミラーほか著

開発物語に見る成功の本質

2022326 2:00 日本経済新聞

最近、思わずはっとさせられたことが、ふたつある。

ひとつは、"昭和の大横綱"大鵬の父親がロシア人ではなく、実はウクライナ人であったということだ。

そしてもうひとつは、ファイザー製コロナワクチンの開発者が、移民の子としてドイツで育ったイスラム教徒のトルコ系夫妻にほかならないという事実である。本書は、ふたりの"成功物語"と言ってよい。

私も医療ルポを何冊か書いてきたのでわかるのだが、医学の世界で起きたばかりの大事件を、これだけのスピードと内容の濃さで一冊のノンフィクションにまとめあげるのは至難のわざだ。しかも、専門用語が飛びかう遺伝子レベルの話を、一般の読者にもわかりやすく、かつ正確に伝えている。

キーワードは「mRNA」(メッセンジャーRNA)である。私たちの細胞すべてにあるこの分子の特性を活(い)かして、ワクチンに「指名手配ポスター」を持たせ、免疫系の「狙撃兵たち」にやっつけさせるのだ。巧みな比喩に乗せられてすいすい読み進めるうちに、難解きわまりないはずの話が、少なくともわかったような気にさせられる。

ワクチンの実用化までには、むろん膨大な費用と手間ひまに加え、許認可の難関が控える。夫妻が立ち上げた無名の会社が、巨大製薬企業のファイザーに呑み込まれないよう最大限に警戒しつつ、やはりギリシャ出身のユダヤ人移民であるファイザーの最高経営責任者と信頼関係を深める様は、まさに「小説よりも奇なり」の人間ドラマだ。

こうして開発着手後わずか11カ月でワクチンは完成し、予想以上の効果を全世界にもたらした。偶然の出会いやたぐいまれな幸運も、大成功をあと押しした。なにしろ通常、ワクチン開発プロジェクトの約6割は失敗に終わるというのだから。

あまりにもバラ色の結末に、ファイザー製ワクチンの副反応に苦しんだ家族を持つ私はいささか鼻白んだが、本書が私たちに示唆するものは多い。

彼らのチームは60カ国以上の国々からの出身者で構成され、半数以上を女性が占める。「このスピードは、複雑なお役所仕事を単純化した結果にすぎない」とのメンバーの言葉も、耳が痛い。彼らは、現代における"失敗の本質"ならぬ成功の本質をも体現しているのである。

《評》ノンフィクションライター 野村 進

原題=THE VACCINE(柴田さとみほか訳、早川書房・2530円)

ミラー氏はジャーナリスト。独ビオンテック共同創業者のエズレム・テュレジ氏とウール・シャヒン氏との共著。

 

 

厚生労働省ホームページ

mRNA(メッセンジャーRNA)ワクチンやウイルスベクターワクチンは新しい仕組みのワクチンということですが、どこが既存のワクチンと違うのですか。

ウイルスのタンパク質をつくるもとになる遺伝情報の一部を注射します。それに対する抗体などが体内で作られることにより、ウイルスに対する免疫ができます。

これまで我が国において使用されていたワクチン(不活化ワクチン、組換えタンパクワクチン、ペプチドワクチン)はウイルスの一部のタンパク質を人体に投与し、それに対して免疫が出来る仕組みでした。

mRNA(メッセンジャーRNA)ワクチンやウイルスベクターワクチンでは、ウイルスのタンパク質をつくるもとになる遺伝情報の一部を注射します。人の身体の中で、この情報をもとに、ウイルスのタンパク質の一部が作られ、それに対する抗体などができることで、ウイルスに対する免疫ができます。

ファイザー社及び武田/モデルナ社のワクチンはmRNAワクチンと呼ばれ、新型コロナウイルスのスパイクタンパク質(ウイルスがヒトの細胞へ侵入するために必要なタンパク質)の設計図となるmRNAを脂質の膜に包んだワクチンです。このワクチンを接種し、mRNAがヒトの細胞内に取り込まれると、このmRNAを基に、細胞内でスパイクタンパク質が産生され、そのスパイクタンパク質に対する中和抗体産生や細胞性免疫応答が誘導されることで、新型コロナウイルスによる感染症の予防ができると考えられています。

また、アストラゼネカ社のワクチンは、ウイルスベクターワクチンであり、新型コロナウイルスのスパイクタンパク質のアミノ酸配列をコードする遺伝子をサルアデノウイルス(風邪のウイルスであるアデノウイルスに、増殖できないよう処理が施されています。)に組み込んだワクチンです。このワクチンを接種し、遺伝子がヒトの細胞内に取り込まれると、この遺伝子を基に細胞内でスパイクタンパク質が産生され、そのスパイクタンパク質に対する中和抗体産生及び細胞性免疫応答が誘導されることで、新型コロナウイルスによる感染症の予防ができると考えられています。

 

 

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