満洲国グランドホテル  平山周吉  2022.7.15.

 

2022.7.15.  満洲国グランドホテル

 

著者 平山周吉 1952年東京都生まれ。雑文家。慶應大文学部国文科卒。出版社で雑誌、書籍の編集に携わる。昭和史に関する資料、回想、雑本の類を収集して雑読、積ん読。『戦争画リターンズ――藤田嗣治とアッツ島の花々』で第34回雑学大賞出版社賞、『江藤淳は甦る』で第18回小林秀雄賞受賞

 2022.12.1. 朝日新聞

 第26司馬遼太郎賞司馬遼太郎記念財団主催)が30日発表され、平山周吉さんの「満洲国グランドホテル」(芸術新聞社)に決まった。賞金100万円。司馬遼太郎フェローシップには大阪大学の平田京妃(みやび)さんが選ばれた。贈賞式は来年212日に大阪・東大阪市文化創造館で。

 

発行日           2022.4.20. 初版第1刷発行

発行所           芸術新聞社

 

初出 芸術新聞社ウェブサイト http://www.gei-shin.co.jp/ 2020.3.4.2021.12.14.

 

第1回     昭和13年秋、小林秀雄が満洲の曠野でこぼした不覚の涙

1932年、満洲事変勃発時の在満日本人は23万人、敗戦時には155万人

満洲国の人口は、建国時に30百万、後に50百万といわれた

敗戦から引き揚げまでの犠牲者は18万人、うち8万人は開拓移民。満洲国では国籍法が存在しなかったので、移民は日本国籍のまま、滞在者に過ぎなかった

満洲国が語られる場合、その出発と終焉が圧倒的に多い――奉天郊外の柳条湖で満鉄が爆破されてから国際聯盟脱退までが「出発」で、ソ連軍の参加から国家の崩壊、シベリア抑留にまでつながる長い敗戦処理が「終焉」

その中間の’38年に、林房雄と小林秀雄が建国大学で講演

満洲では日本より先に配給制になっていて、日本人が米、朝鮮人が米と高粱、中国人が高粱を主食として配給されていたが、全寮制の建大では批判が出て全員米と高粱の混合飯

小林秀雄が帰国後に執筆した『満洲の印象』は特異な紀行文――満州国のスローガンである「王道楽土」「5属協和」などは全く登場せず、いきなり真冬のソ連国境の最北の町「黒河(こっか)」で、近くの「満蒙開拓青少年義勇隊訓練所」で物資不足に凍える少年を前に講演し、「こんなにまでしてもやらねばならない仕事の必要さという考えがせつなく」、不覚の涙を浮かべたとの記述が出てくる。内地も外地も武漢三鎮陥落で沸いているときに、国策によって北満の地に送り込まれた10代の若人たちの凍える現実に直面し、日本近代の極北に立ち尽くすしかなかった

 

第2回     小林秀雄を満洲に呼んだ男・岡田益吉

小林秀雄の満洲旅行は友人の彫刻家岡田春吉と一緒だったが、満洲からの招待旅行で、招待者は春吉の兄の益吉。府立一中で小林の3年先輩であり、陸軍記者から満洲国で言論の指導と統制を任務に就いていた

 

第3回     「満州国のゲッペルス」武藤富男が、満映理事長に甘粕正彦を迎える

岡田益吉の上司が「満州国のゲッペルス」武藤富男。ゲッペルスに倣って、'37年満洲映画協会を設立、’39年甘粕元陸軍憲兵大尉甘粕正彦を理事長に迎え、周囲を驚愕させる

‘39年、『キネマ旬報』創刊20年企画で日本の映画人が大挙満洲を旅行したのは、満鉄の招待

武藤は1904年生まれ。帝大法学部から司法官になったエリートで、建国3年目の満洲に派遣され、弘報処長となる。「満州国のゲッペルス」の仕事が評価され、'43年帰国し情報局へ。終戦直前満洲国に復帰するが東京駐在だったため終戦の混乱を逃れ、追放後は賀川豊彦を助けてキリスト者として活躍、93の生涯を全う。満洲派遣時の俸給は大審院長と同額、新天地で法律を作るという創造的な仕事に燃え、当初約束の3年を超えて満洲にとどまったきっかけとなったのは甘粕との出会い

甘粕は、関東大震災直後の大杉栄らの扼殺事件の責任を一身に背負って服役した後、'37年満洲帝国協和会(国策組織)の総務部長就任。武藤は初めて会って甘粕から協和会の宣伝科長就任を要請され、法制処参事官との兼務で、プロパガンダの仕事に目覚めていく

武藤が弘報処長になってまず手を付けたのが関東軍との癒着が目に余った満映の改革で、甘粕を理事長に起用。矢継ぎ早の改革で内部を立て直し、映画事業に革新をもたらす

満洲国随一のおしゃべりは松岡洋右だが、それに匹敵するのが武藤

 

第4回     「満洲の廊下トンビ」小坂正則――その人脈と金脈

「満洲の廊下トンビ」は小坂の自称。その回想録は情報の量と猥雑さで群を抜く

満洲国では報知新聞新京支局長。満洲事変の立役者で奉天特務機関長の土肥原賢二大佐に同郷のよしみもあって取り入ったのがトンビ人生の第1歩。秘密警察である偵輯室に情報をもって出入り、偵輯室廃止後は記者クラブに入り、星野直樹総務長官の懐に飛び込む

満洲炭鉱社長の河本大作とも入魂で、河本を通じて陸軍の上層部にも取り入る

小坂を「モルヒネのような男」と評したのは正力松太郎だが、毒にも薬にもなるとの意

 

第5回     八木義徳の芥川賞受賞作『劉廣福(りゅうかんふう)』と奉天市鉄西工業地区

生涯にわたり「文学の鬼」を志望したのが八木(191199)で、左翼学生弾圧で北大を退学、哈爾濱を目指すが、思想容疑者として内地に押送され、転向して早稲田高等学院に入学、’38年早大仏文を卒業。在学中から早稲田派の新人として注目。化学会社入社後奉天の新会社設立の先兵として渡海。その後の4年半の海外生活を素材にした『劉廣福』が’44年芥川賞を受賞したのを聞いたのは召集され中国大陸に派遣された後のこと

『劉廣福』は、文盲の満人を主人公にしたハッピーエンドの作品

‘45の空襲で妻子は亡くなり、復員した八木一等兵には何も残されていなかった

 

第6回     直木賞作家・榛葉(しんば)英治(191299)が勤めた大連憲兵隊と満洲国外交部

八木の2年前、'36年に満洲を目指した早稲田派の文学青年が榛葉。英文科で卒業後すぐに渡満。直木賞の受賞作『赤い雪』は敗戦後の満洲を舞台にした長編小説で’58年の作

満洲国国歌を作曲した村岡楽童の甥で、大連憲兵隊の英語通訳に軍属として採用、関東憲兵隊司令官が東条英機。ノモンハン事変で召集され憲兵隊を辞める

召集解除後、満洲国外交部に英語力を見込まれて採用

自伝とは別に、『満州国崩壊の日』という2巻の長編小説があり、ライフワークという大作

 

第7回     笠智衆(190493)が満映作品《黎明曙光》に殉職警務官役で主演する

笠は3冊の自伝回想本を残す

'3935歳のとき満映に主演、高額のギャラをもらった――建国当時治安の不備に乗じて跳梁した匪賊の絶滅工作の中での警務官の死という実話を基にした日満官民一体の悲壮な殉職美談

満洲では好評で主演の笠への評価も高かったが、日本では子供騙しの大都映画よりも劣ると酷評、ただ笠の出演は労を多としたいと慰めている

満映には日活から参入した映画人が多かった――日本の映画界に見切りをつけ、新天地を求めた映画人も多い

笠と満洲とは相性がいい――最初の準主役級は《満洲行進曲》(‘32)

笠は、'41年松竹大船撮影所で俳優として「幹部」に昇格。徴兵検査は第1乙種だったが最後まで召集は免れ、役者を続けられた。弟は丙種にも拘らず満洲からシベリア抑留で死去

 

第8回     16歳の原節子が、満洲の「新しき土」を踏む

「新しき土」は満洲の代名詞のように胸躍らす表現に使われた

'37年、日独合作映画《新しき土》は内外で記録的な大ヒット。ドイツでは《サムライの娘》として公開。その舞台挨拶で原節子は初めて満洲の地を踏み、盟邦ドイツに向かう

映画は、レニ・リーフェンシュタールを発掘した山岳映画を得意とするアーノルド・ファンクが原節子に惚れ込んで作ったもの。貧相な満洲の構想に対し、壮大な舞台を妄想するファンクに引き摺られ製作費は空前の75万円に膨れ上がる。試写会には秩父宮以下9宮殿下や各国大使が招かれ、天皇皇后両陛下も例外中の例外でご覧になったという

共同監督となった伊丹万作(十三の父)は、不本意な形で1年近く時間を取られたうえ、屈辱だけが残り、体調を悪化させ監督も出来なくなり、敗戦の翌年死去

 

第9回     「満蒙放棄論者」石橋湛山の満洲視察

東洋経済新報社の社長で経済評論家の石橋は、’40年初めて満洲を視察

満洲国総務長官(日系官僚のトップ)の星野直樹が、建国後8年も経つ満洲をまだに放棄すると主張する石橋に、現実を見てもらおうと招待。石橋は実権者の関東軍には一切触れずに、満洲を「有望」と言いつつ開発には想像以上の困難が伴うと付言

戦争と景気の相関関係は、石橋の中には常に悩ましい問題としてあり、戦争には反対し、平和の下での経済と貿易により国を富ませるのが石橋の経済論だが、往々にして現実の戦争によって乗り越えられてしまう

視察後に書いた『満鮮産業の印象』では水力発電所と港湾建設については好意的に書いている

政治家としての石橋晩年の仕事は、行き詰まった日中関係の打開だった

 

第10回 ダイヤモンド社の石山賢吉社長(18821964)が見たテキパキ「満洲式」

石橋の満洲視察に同行したのが石山で、旅の報告を『満洲・台湾・海南島』にまとめる

石山は、星野の要請に応えて既に満洲国で経済雑誌を創刊

星野への表敬訪問が「満洲式」だったのに石山は驚く――テキパキして形式や無駄を省く

石山は'47年新潟から立候補して衆議院議員になるが半年後公職追放

終身刑になった星野に本を大量に差し入れ。’52年星野の外出が可能になるとダイヤモンド社に招き机を用意、ペンネームで寄稿してもらい、’55年釈放後は本名で寄稿、星野の回想『見果てぬ夢――満洲国外史』(‘63)はダイヤモンド社から出版

 

第11回 大蔵省派遣「平和の義勇軍」のリーダー星野直樹の8年間

星野の出所祝いは盛大に行われ、鮎川、五島、正力が口を揃えて自分の経営陣に引き入れる構想と決心を述べる。司会は星野の要請で小坂正則。評論はダイアモンド誌上で、実業は東急が中心舞台

巣鴨では、判決言い渡しの前日、家族ともども法廷に呼ばれて一緒に罪状朗読があった

星野は入省'17年、国有財産課長の時先輩課長から打診され、先輩で大蔵省の三羽烏といわれた賀屋、石渡、青木らこそ行くべきと説き躊躇する星野に対し後に「満洲の宋美齢」とまで言われた賢夫人操の決断で、8人の若手を引き連れて赴任。新聞は「平和の義勇軍」と書き立てたが、病床にあった星野の牧師の父は出発直前に亡くなる

一高時代の同級生には、文科では菊池寛、久米正雄、芥川龍之介、独法では倉田百三、秦豊吉、仏法では渋沢秀雄

商工省の人選は3か月もかかり、椎名悦三郎をキャップに17人が決まる、赴任は建国の1年半後

首相の斎藤實(まこと)は、「外国」だといい、陸相の荒木貞夫は「日本の領土のようなもの」といい、蔵相の高橋是清は「独立国」だと三者三様の閣内不一致を露呈

満鉄付属地があって治外法権の上日本円が流通して、満洲国建国のネックに

星野の交渉相手は関東軍参謀部、同世代の優れた参謀たちと議論しながら、徐々に権限を満洲国に移管していく――総務庁次長に岸信介を登用するが、満人との2人制とした

'40年、星野に第2次近衛内閣の国務大臣として企画院総裁のポストが用意され、電話で満洲国張総理の了解を取っただけで満洲に帰る暇もなく離任

 

第12回 田村敏雄――沢木耕太郎が発掘した満洲の「敗者」(グッド・ルーザー)

‘25年大蔵省入省の田村は、山際や植木康子郎と同期で、星野率いる「平和の義勇軍」の1人で、’63年逝去、享年67

新進の人物ノンフィクション作家沢木耕太郎(29)が戦後史に正面から取り組んだ異色作『危機の宰相――池田政治と福田政治』('77年文藝春秋掲載)で、池田の「所得倍増」を創出した片腕として下村治と共に取り上げられたのが田村で、3人ともそれぞれに「良き敗者」とされている

仙台の税務署長だった田村は石渡の説得で星野の下に参じる。難病で出世の遅れた池田も途中から満洲行きを希望したが、母親の反対で断念

田村は、苦労して師範学校を出て教師をした後帝大文科に入り直し、大蔵省入省は28歳のとき。満洲では地方と教育行政に注力――はみ出し者を送り出そうとする内地の姿勢に反発し、日本人中の日本人を送れと講演している

終戦後ソ連に抑留され、’50年帰国、池田勇人の尽力で大蔵財務協会の理事長に。抑留中にソ連のエージェントとなる誓約書に署名しており、米軍諜報部隊のファイルにはその旨記載されているが、池田は歯牙にもかけなかった

 

第13回     「民族協和する」古海忠之の満洲国13年と獄中18

「平和義勇軍」の1人として東京駅を出発してからの13年は、満洲国で主計・人事・経済などを担当、最後は事務方トップの総務庁次長。後半の18年はソ連への抑留と撫順での獄中生活。中華人民共和国建国の翌年中国に引き渡され、満洲の撫順戦犯抑留所で「認罪」し服役した後釈放。中国とは国交がなったので香港経由で帰国

‘65年、親友池田と岸の勧めで参院選に全国区から立候補するが落選。大蔵省同期の引きで山陽パルプ内に事務所を持った

古海の回想録『忘れ得ぬ満洲国』は、建国の裏面史――石原莞爾とは喧嘩分かれ、甘粕は遠縁で家族ぐるみの付き合い

 

第14回     「甘粕の義弟」星子敏雄の満洲と熊本

敗戦の時、甘粕の自殺を思い止まらせようとしたのが古海と星子

星子の妻が甘粕の妹、'28年東京帝大卒後関東庁(植民地管轄庁)に入り、満洲国に派遣され警務司長甘粕の下で警務総局長となる

敗戦時星子はソ連に抑留サレ、'56年帰還するが、終戦直後に自殺した甘粕の骨を掘り起こして'46年日本に持ち帰ったのは星子夫人

星子は帰国直後から恩給法改正に奔走、満洲で終戦を迎えた官吏にも同じように日満通算での恩給支給を’61年から実現させたあとは、’70年から熊本市長を16年務める

 

第15回     型破りの「大蔵官僚」難波経一

――満州国「阿片」専売担当、そして「バタ屋の親父」へ

当時の阿片の害毒は病膏肓に入っていて、総理以外には相当程度浸透。根絶は難中の難事

専売制を設け、阿片吸飲者を把握し、順次厳格化して治療禁煙を指導する

星野が阿片根絶のトップに据えたのが難波で、'24年大蔵省入省が古海と同期

一中、、一高、東大で、夫人は岩倉具視の孫娘(道倶の次女)

東京裁判でも阿片政策に関し「供述書」を提出している

戦後は、山陽パルプ創設とともに社長に推され、大同証券のぎゅーちゃんと組んで財界、花柳界、銀座キャバレー界に異色の旋風を巻き起こした

機密費を使って夜の街で派手に遊ぶ難波を、堅物でクリスチャンの星野が嫌って民間に左遷――星野が大蔵省に満洲国国債(建国国債)の支援を依頼、担保を阿片専売収入としたことを公表したため、国際的な阿片条約違反と非難され、専売制度は公に告知されないまま進められたので、当初の目的も未達――関東庁にとっても、大きな収入源が脅かされる

‘37年、民間に移った難波は、’43年商工省の金属回収本部長となって官界に復帰――商工省の勅任ポストだが、仕事はバタ屋の親父

 

第16回     『武部六蔵日記』の満洲国首都、宴会漬けの日々

星野の後任の満洲国総務長官が内務省エリートの武部で、撫順の戦犯裁判では古海より2年重い20年の刑を受けるが、’56年病状悪化で釈放され帰国するも’58年死去、享年65

武部は、東大で星野と同期、病気で1年遅れたが銀時計組で、1年生で高文に合格

詳細な日記を残し、後に'35’40年分が出版されたが、総務長官時代は敗戦の混乱で喪失

武部が頼りにした秘書課長三浦直彦という内務官僚の娘が江藤淳の妻慶子

関東大震災後の帝都復興の業務が長く、39歳の最年少で秋田県知事、次いで満洲国の大使館内にあった関東局司政部長として新京に赴任。同局総長に昇進し治外法権撤廃の大仕事をやり、帰国後は企画院次長までやって’406代目の総務長官となって満州に復帰

家族帯同の赴任だったこともあり、夜の宴会の多さには辟易

東京裁判では検察側証人として出廷、総務長官時代の関東軍との関係を証言、家族とも久々の再会を果たすが、すぐにシベリアに戻され、撫順へと廻され、脳梗塞となる

 

第17回     「快男児」大達(おおだち)茂雄総務庁次長

――関東軍と大喧嘩した日系官吏のトップ

4代総務長官の大達は内務省出身(‘16年入省)で、武部の2年先輩

朝日新聞の陸軍記者で、、大達長官時代満洲支局次長の高宮太平による公式伝記が残る

満洲国の根本理念を巡って、本音を隠そうとする板垣参謀長の態度に業を煮やした大達が植田謙吉関東軍司令官に猛省を促すとともに辞表を叩きつける――辻政信ら下級参謀の横暴への怒りが根底にあり、関東軍は全面降伏、大達もそれを見届けて内地に戻る

大達の履歴には傷はつかず、内務次官から東京都の初代長官(知事)、小磯内閣の内務大臣などを歴任するが、プロフィールには関東軍との大喧嘩は出てこない

官僚屈指の快漢で気骨の俊邁と剛毅で知られ、福井県知事時代、女中を夫人に昇格させ(4人目)、学校整理案を巡って福井市と対立し辞職し、野に下る

東京都長官の時は、文部省の反対を押し切って学校の御真影を奉還、空襲で御真影を守るために無駄な犠牲者を出さないようにとの気配り。東条の迷首相振りに対する嘲笑的な談話を頻発。天皇を先導して東京大空襲の被害を内相として説明している映像が残る

敗戦後、2年弱巣鴨に収容。敗戦を、天皇制を野蛮なる武力から切り離してその内包する真善美を実現させ、本然の光を発揚すべき端緒としなければならないと説いた

吉田内閣の文部大臣当時、国会で戦争裁判が妥当だったかと聞かれ、「勝てば後で首祭をするのと同じ」と答え非難を浴び、吉田総理に辞職を迫ろうと辞表を書いたが、指揮権発動などで行き詰まった内閣は自ら総辞職

 

第18回     「満洲事変の謀略者」板垣征四郎の「肚(はら)」と「頭」と「手」

大達との大喧嘩の後も、一敗地に塗れたはずの板垣だが、無傷で温存され、'38年の近衛改造内閣では陸軍大臣で凱旋、板垣本が何冊も出版

陸大をビリに近い成績(25)で卒業した昼行燈型の将軍で、陸軍省勤務という軍政の経験もないが、石原莞爾という悍馬を乗りこなした満州事変の立役者

肚が座っていたと評価され、言語能力に不足があっても、それをボディランゲージで補っていた人種

‘464月に戦犯に指定された際は、「満洲国建国については天皇や他の人々にその累を及ぼさぬため、自分をおいて他にその実相を明かし得るものはいない」との確信のもとに敢えて自決せずに帰京、訥弁にしては珍しく検事団と激しい論争のあと従容として死についた

板垣が戦犯となるのは、本庄繁軍司令官が戦犯容疑を受けて遺書を残し割腹自決したことが大きい。遺書には、「満洲事変は、関東軍として自衛上やむを得ざるに出でたるもので、政府や最高司令部は無関係。全く関東軍司令官たる予一個の責任なりとする」とあった

 

第19回     「朝日新聞の関東軍司令官」竹内文彬(あやよし、18891980)、奉天通信局長

満洲事変を機に、日本の新聞は自由な言論が失われ、軍に歯向えなくなった

竹内は支那通の経済記者で、大連から’31年奉天へ赴任し、満洲関係の通信を統率

板垣とは北京公使館時代からの飲み仲間

奉天でも着任早々から石原莞爾参謀中佐とは深い関係を築き、満洲事変の際も中枢の情報をいち早くつかんで本社に打電

2008年、朝日が自らの戦争責任を追及した検証報道『新聞と戦争』で総括――「石原に近い竹内が積極論で通信してきたこともあり、軍の行動を「当然」と認めてしまった以上、その後の修正は難しく、日々限られた情報で判断せざるを得ないのが日刊紙の宿命とはいえ、ボタンの掛け違いは禍根を残した」。竹内をスケープゴートにそれ以上社内を追及せず

事変後竹内はジュネーヴ特派員に転出、松岡洋右に同行して国際聯盟へと向かう

連盟脱退を見届け、大阪経済部長、’40年には大政翼賛会経済部長として、石原との交友は続く。あたかも陸軍がマスコミ対策として設置した新聞班の班長役

 

第20回     「満洲国に絶望した」衛藤利夫(18831953)・満鉄奉天図書館長の「真摯なる夢」

満洲文化史の名著とされる『韃靼』の著者衛藤は、衛藤瀋吉の父。石原が「転向」を表明した事変後の座談会で、新国家を満洲に建設すると説く石原に向かい、アングロ・サクソンのアメリカ開拓に対する真摯な夢が満洲国建設には感じられないと発言している

衛藤は、大川周明と同期の旧制五高時代にストライキを起こして中退、東大図書館から満鉄に入り、潤沢な予算で満鉄奉天図書館を一大文化遺産とした

戦後も日本図書館協会理事長など図書館人として生きる

 

第21回     国際聯盟脱退、、松岡洋右(18801946)全権の「俺は完全に失敗したよ」

松岡でも、満洲事変の第1報は不意打ち

松岡は、「口先男」と言われるように相手に喋らせないが、書くこともできる2刀流

'21年外務省を辞めて満鉄に入り、副総裁を経て事変当時は政友会所属の衆議院議員1年生。外交への自負を持ち、国会での幣原喜重郎外相に対しての批判は世に印象付けた

日支衝突の報道から、関東軍の謀略をすぐさま読み取り、外交の破綻を悟る

13歳で米国に渡り、苦学してオレゴン大を卒業

外交力で満蒙の「生存権」を主張できるというのが松岡の「自信力」で、今の日本に最も欠如しているものがセルフ・コンフィデンス自信力であるとする

‘32年の上海事変では、満鉄副総裁だった松岡が調整役として派遣され、撤兵を説いて停戦協定の締結に貢献したが、牧野内大臣の評価は高かったものの西園寺の評価は低い

‘32国聯のジュネーヴ会議全権として派遣内定後にリットン調査団の正式報告書到着。その後に日本が満洲国を承認

脱退を宣言して議場を出てきた松岡は、出てくるなり「俺は完全に失敗したよ」と告白

出発直前、西園寺が松岡に対し「どんなことがあっても政府が聯盟から脱退するようなことはさせない」と約束しておきながら、その後聯盟脱退が国策となり、松岡は西園寺の態度に怒ったが、本国からの訓令に従わざるを得なかった

陸軍の強硬な態度に、西園寺も牧野も聯盟脱退阻止を強硬に主張できなかった

米ソ招聘問題にしろ、満洲国否認問題にしろ一切の妥協を頑なに拒否し、原則を固執して決裂に導いた内田外相、斎藤内閣に対し松岡に不満があったことは事実で、天皇への復命書でも内田外相との間に意見の相違があったことを明記

松岡は、「私は決して大きな仕事をしたのではない。世間の人の記憶から忘れられたい。私の享()けているのは虚名であり、世間の人にも理解してもらいたい」という

松岡の「虚名」はこの後も生き続け、満鉄総裁から外相へと押し上げていく

 

第22回     「ゴム人形」内田康哉(やすや、18651936)の「焦土外交」が破裂するとき

内田は、満洲事変当時満鉄総裁だったが、犬養内閣瓦解後の斎藤内閣では5回目の外相に就任。リットン調査団とは一切妥協的志向を持たず。5回目の割には名前が知られていないのは、実際政治家であって世論の要望に応え、今ならポピュリストと呼ばれそうだ

陸奥に見出され、原敬と共に陸奥の秘書官を務め、米国大使から最年少大臣として入閣したが、犬養内閣の時、虚言答弁を犬養に叱責され震えあがったという

「ゴム人形」の世評は、キューピー然とした容貌に加え、施設経営方針の柔軟性、伸張の自由性、心の広い融通闊達な人物を反映

満鉄総裁に就任後、関東軍に感化されたこともあって内田の考え方が変わり、外相就任後、松岡にジュネーヴ行きを交渉、その後国会の答弁で、「正当な我主張が行われざる時には、我国民は国を焦土とするも厭わない」と発言、以降「焦土外交」が内田の代名詞に

あまりに断定的で、あまりに固着的な考え方に危惧、「国策あって外交なし」との非難も

ジュネーヴ会議直前、英国からの妥協案を妥当として受諾するよう主張した牧野に対し、またも西園寺の「遺憾なるも已むを得ず」が出て脱退回避は却下され、その意向が重大閣議の方向を決定づけ、松岡に訓令された

パリ平和(不戦)条約で、アメリカはモンロー主義、イギリスはスエズの防備権について留保したのに、内田外交が満蒙に対する除外例を留保しなかった責任は大きい

内田は’36年病死(享年70)したので、日本が焦土となるのを見ることはなかった

 

第23回     ヒゲの「越境将軍」林銑十郎――死罪か、総理大臣か

満洲事変当時、朝鮮軍司令官林銑十郎は、沈黙の将軍といわれ口が重い

大命のないままに満洲へ越境、陸軍刑法では死罪に相当するが、成功してしまえば現状容認でそれが通る。「越境将軍」と言われ、勲章をもらって大将に昇進、中央に帰って教育総監から陸軍大臣となり、'37年には大命降下。わずか4カ月で総辞職して、大東亜紐帯の強力な民衆機関である興亜同盟の会長

参謀総長が拝謁し、「軍司令官の独断専行により奉天に越境したとの報告あり、恐懼に耐えない」と謝罪、善後処置は改めて奏上すると上奏

現場の血気にはやる若手将校の突出に現場の上層部が引きずられ、若槻内閣も陸軍に対して宥和的になり、天皇や牧野内大臣も弱気になっていたのが幸いし、事後承認となる

 

第24回     「満洲はわが輩の恋人じゃよ」

――小磯国昭関東軍参謀長の満洲国「改造」

満洲事変当時、陸軍省軍務局長として采配を振るい、後に関東軍参謀長となって事変の事後処理と満洲建国の礎石を築いたのが小磯大将。そのあと朝鮮総督を経て’44年首相に

日露戦液に従軍後、関東軍の前身である関東都督府の参謀として志願し旅順駐在、その頃から満洲が「恋人」  

小磯の履歴の中では、首相時代に蒋介石政権との和平を模索した「繆斌(みょうひん)工作」が大事だが、ここでは関東軍参謀長時代を扱う―「恋人」満洲を自分好みに仕立てた1年半

交友が広く、私邸は千客万来、現役を去ると門前雀羅(じゃくら)。政治家みたいな軍人

周囲からの攻撃にぐらつく南次郎陸軍大臣を支えて関東軍の独断専行を正当化していく

その功績で’32年次官に昇格するが、格下の関東軍参謀長に志願、'32年夏満洲建国に赴く

本庄司令官以下、事変当時の体制は一掃され、武藤信義大将の下小磯が実質取り仕切る体制が出来上がる――大アジア主義に基づく満洲国の独立育成方針から、日本の属国化・植民地化への方針転換

小磯は特務部長も兼務、農鉱商各企業の統括指導及び産業開発援助業務を支配下におさめ、利権がいくらでも入るため、スキャンダルなデマも多かったが、武藤は無視

武藤は’33年現職のまま肝臓がんで死去、後任の菱刈大将によって翌年小磯は広島の師団長に更迭、その翌年溥儀が執政から皇帝となり満洲帝国発足

師団には機密費がなったので、関東軍から機密費が回され、満洲国からの来賓接待に充当されたという。軍務局長時代は宴会漬けだったが、親譲りの財産もあり、夫人の実家も富裕だったので、月給はほとんど家庭に持って帰らなかったという

 

第25回     関東軍の岩畔豪雄(いわくろひでお)参謀、陸軍大尉の分際で会社を65も設立す

小磯の満洲行きに同行した多くの参謀の1人が元部下の岩畔(1897年生)、陸軍中野学校の創設に関わり、「謀略」の専門家として開戦前の日米交渉で名を馳せ、ボースを担いでインド独立を支援、戦後は20年の沈黙を破って『昭和陸軍 謀略秘史』を著したが、満洲では経済問題のプロで、後に小磯の秘蔵っ子といわれる

岩畔の小磯評は、器用で一応のことは触れるが内容は空っぽ

満洲国の日系官吏と手を組んで、新たな事業を次々に興していった

‘34年参謀本部へ転勤、満鉄の予算、決算を査定する部署に返り咲き――満洲の利権に絡んだ黒い霧にいくつも遭遇

戦後は戦争論を書こうと読書と思索に没頭、晩年の5年になって京都産業大学の発起人に名を連ね、傘下に世界問題研究所を設立したが所員は若泉敬1人。総力戦体制の推進者人脈を、高度経済成長に活かした産学共同を目指した

 

第26回     「童貞将軍」植田謙吉関東軍司令官、ノモンハン「敗軍の将」として帰還す

39年のノモンハン事件で引責辞任した植田が、帰国後東京駅から宮中に向かう御馬車を固辞して陸軍の車で参内。ノモンハンでの敗戦は国民には伝えられておらず

ソ連ぐぁの飛行根拠地を空襲して莫大な損害を与えたが、これは植田が大本営に報告なしにやった越権行為であり越境行為だったが、陛下からは「将来を戒め謹慎」ですむ

「童貞将軍」として親しまれていたのは、2人の息子を失った乃木大将の胸の内を推察して軍人たるもの子を持つものではないと固く心に誓ったという噂が根拠

植田は’75年生まれ、陸士10期の騎兵でシベリア出兵に従軍、’32年の上海事変で金沢師団を率いて大活躍、その時の部下に辻政信がいる――白川義則司令官率いる上海派遣軍が停戦に漕ぎ着けた後の上海での天長節のテロルで白川は爆死、野村吉三郎海軍大将は隻眼を、重光公使は隻脚を失い、植田も足指を失う重傷を受けたが、白川に代わって停戦協定に調印。宮中での軍状奏上には重傷未だ癒えざる野村と植田が宮内省差し回しの馬車に乗って行幸道路を経て参内、絵巻物を見るような凱旋行列が新聞に掲載

‘62年天寿を全うして亡くなるが、直前に『文藝春秋』の同級生交歓では張作霖の軍事顧問だった町野武馬陸軍大佐と一緒に収まっているが、町野の植田評は「バカ」尽くし――堅物で未だ童貞、数度の入閣懇請を絶対引き受けない、長いタケノコ生活でも恩給を受け取らないなど。品行方正、謹厳端正、模範的な軍人だが、正論より人情に傾くの嫌いあり、それがノモンハンの事態を悪化

陛下からは満洲事変の時も陸軍が事変不覚だと言いながら大事件になったことを引き合いに満ソ国境紛争懸念のお言葉もありながら、国境確定を関東軍に任せていた――植田の「断固撃退」方針に多田駿第3軍司令官が疑義を唱えたが植田から一蹴

最後は、参謀本部から攻撃中止の大命が伝達され、遺体回収の「戦場掃除」すら認められずに、責任をとって植田軍司令官、参謀長などが更迭

植田は参謀次長時代、毎週陸軍軍事学を進講していながら、「記憶の王」とまで言われた昭和天皇が、『独白録』の中で軍司令官の名前を完全に名前を間違えている

 

第27回     「事件記者」島田一男(190796)と「ねじまき鳥」村上春樹の「国境線へ行く」

NHKの長寿番組《事件記者》の作者で推理小説家の島田が戦前の記者時代を回想した中にノモンハン従軍の1節がある――敗残部隊と共に命からがら逃げ帰り、初めて負け戦の惨めさを味わわされた

満洲事変の年に満洲日報に入社、終戦までの記者生活の半分が従軍記者で、'44年勲六等瑞宝章をもらう。従軍記者としての論功行賞だが記者としては最高の叙勲

‘35年、日満両軍とソ連・外蒙古軍との国境会議の合間を縫って国境付近をドライブ

其の60年後に、同じく車で国境地帯に踏み込んだのが村上で、『ノモンハンの鉄の墓場』には廃棄されたソ連製の戦車に乗った写真が掲載。『ねじまき鳥クロニクル』でノモンハンと満洲のことを書いたのがきっかけで実現した旅

 

第28回     「オッチャン」芥川光蔵(18841942)の映像が伝える満洲の詩情と国策

‘33年、関東軍の落合自動車部隊が山海関を占領、万里の長城に日の丸を立て、北支(塘沽タンクー)停戦協定が出来たのを機に、島田と満鉄映画製作所主任の芥川は連れ立って長城の外を見に行く

芥川は満鉄日報で島田の先輩、「オッチャン」の愛称で呼ばれ、文化映画(ドキュメンタリー)の監督として名を馳せ、後に日本の文化映画史上に《秘境熱河》などの名作を残した名プロデューサー。満鉄映画製作所は'23年に満鉄の弘報部映画班として出発、'37年の満映設立までは満洲映画界を独占。国策映画《満洲におけるリットン調査団》は'32年ジュネーヴの国連大ホールにて正装の紳士淑女たちを前に上映され、狂える輿論の下に十字架上の人となったクリストになぞらえた松岡の大演説《十字架上の日本》とともに、満洲問題を討議する国際聯盟の議論を日本に有利に導くために利用されたが、時すでに遅かった

'41年満鉄を定年退職後、満映に入り、初仕事がノモンハン戦とその後を描く2作で、歴史を詩情へと収斂させることで映像作品にしているが、'42年急逝

 

第29回     初代「植民地の大番頭溥儀)」駒井徳三(18851961)の「大志」と「小志」

溥儀が初来日したのは’35年、天皇が宿舎の赤坂離宮に行幸し、大勲位菊花章頸飾を授与

満洲建国の功労者で初代総務長官が駒井。’31年事変直後に渡満、満鉄の民間人ながら関東軍の財務顧問、特務部長となり、満洲国建国時の総務長官、日満議定書調印後は満洲国の「参議」に特任されるが、’33年辞任して帰国、宝塚に私塾(康徳(=満洲の元号)学院)を開設、満洲と中国の間を取り持つ人材育成を目指し、溥儀も賛成して巨額の寄付をする

溥儀来日時は、単独拝謁を2回も行っているが、溥儀は自伝に憎々しげに駒井のことを「軍部と財閥によって植民地の大番頭に選ばれ、実際の総理となったので、上司は関東軍司令官であり、執政である私ではなかった」と述懐

滋賀の生まれ。祖母の父が大塩平八郎。札幌農学校に学び、満洲をフィールドワークして書いた卒論『満洲大豆論』が認められて満鉄に入るが、’20年内田康哉外相に請われて外務省アジア局の嘱託に転じる。張作霖の部下だった郭松齢(かくしょうれい)による満洲独立運動に加わるために下野するが関東軍の変節で失敗し逮捕。満人による革命の機会を逃す

大陸経営に大志を抱いた駒井の教え子は多才。葬儀委員長の江崎利一(江崎グリコ社長)は大阪池田の興亜時習社の塾長時代の弟子、講談社の野間省一は満洲での合弁進出の際の恩人(野間自身も満鉄の後輩)、小磯大将の秘書だった横山銕三は私塾(康徳学院)1期生

 

第30回     匪賊に襲撃された矢内原忠雄教授(18931961)の東京帝大満洲ネットワーク

建国直後の満洲国を視察中に匪賊の襲撃に遭ったと報告したのは、東京帝大経済学部教授で植民政策講座を持っていた矢内原。関東軍や駒井から満洲出張の要請が来るも、満洲事変が日本側の作為であることを確信していたため拒絶し、それとは無関係に視察に出る

新京弁護士会会長の大原とは一高同期で、菊池寛・久米正雄らとも同期。匪賊対策のアドバイスももらって出発、切符を手配した番頭の機転で難を逃れるが、支那事変を批判した講演録が引き金となって東大を辞職。大学仲間とともに矢内原を助けたのが岩波茂雄

 

第31回     長春→奉天→北京の小澤さくら(19082002)

――夫は小沢開作、息子は小澤征爾

小澤開作は満洲事変直後の現場へ馳せ参じた歯医者。長春(後の新京)で歯科医院を開業、’27年大連で満鉄に勤めていたさくらの叔父に見込まれてさくらと結婚。事変後は満洲青年連盟の仕事を始め、関東軍に全面協力し満洲国の成立に向け民間の志士として活動

関東軍の参謀だった板垣征四郎や石原と固く結ばれ、3男征爾が生まれた時には両者の名前をもらった

‘36年、満洲では活躍の余地がなくなって北京に転居、北支でも同じようなことをしようと新民会(代表:繆斌)の創立に総務部長として参加、自宅を小澤会館として開放し、日本の若者を受け入れていた。民衆組織を作らねば勝てないと主張する小澤に対し上から抑えつけようとする日本政府や軍のやり方に不満で批判したため憲兵隊からマークされる。’41年春一家は開作を残して日本に引き揚げ、開作も軍に睨まれるようになって’43年帰国。北京の小澤会館によく出入りした中に小林秀雄や林房雄がいる

喧嘩の小澤を陰で支えたのがさくら夫人

開作が亡くなったのは’70年、追悼告別式がフジテレビで行われたが、その日会場近くの自衛隊で三島が割腹自殺

 

第32回     「新幹線の父」十河信二(18841981)の満鉄子会社、「華北」に進出?

十河は帝大卒後鉄道院に入り、大震災後後藤新平に見込まれて帝都復興院に移るが、疑獄事件に巻き込まれ投獄。無罪となって、満鉄理事に浪人から初めて指名、その後満鉄全額出資で北支進出を担った興中公司の社長に転出、陸軍の華北分離工作の支援が目的。華北の豊富な資源を日満経済ブロックの中に取り込もうとしたが中国側の政治的反発で挫折

興中公司の社員だったのが岸道三、一高ボート部、興銀総裁結城豊太郎に見出され、満鉄から十河と行動を共にし、'37年近衛内閣の総理秘書官に抜擢。戦後は道路公団総裁

支那事変勃発により翌‘38年華北と華中に国策の開発会社が設立され、十河は帰国。板垣からどちらかの社長といわれたが、十河はもっと真の日中親善のために働きたいと言って固辞。以後出番はなく、本格復帰は’55年の国鉄総裁就任

 

第33回     誇り高き「少年大陸浪人」内村剛介(19202004)

日本13年、満洲12年、ソ連11年。'56年最後の集団帰国者1025人の1人として舞鶴に到着。ソ連獄中体験を思想的に決算した『生き急ぐ』を出版したのは'67年のこと

反ソ諜報活動の罪で禁固25年の刑を受ける

帰国後は日商(現双日)の猛烈社員として対ソ貿易に従事しながら執筆、吉本隆明が激励

'73年以降は北大・上智大教授としてロシア文学を講じる

14歳で姉夫婦の養子同然で満洲に渡り満鉄養成学校に入り、働きながら学ぶ。満洲国大哈爾濱学院に進み、北方国策の文化的戦士養成のためロシア語を徹底的に仕込まれる

卒業後関東軍参謀部勤務となり、8月初めにはソ連が参戦してくるとの情報を上にあげたが、1年前まで関東軍総司令官だった参謀総長の梅津美治郎は握り潰した

 

第34回     新京「役人街の少年」木田元(19282014)の山形人脈

哲学者木田元は、生後間もなく父の赴任について新京へ

父の思い出を『闇屋になりそこねた哲学者』に書く

母の兄が松木俠(たもつ)で、東大卒業後満鉄代表として満洲国官吏に。建国の功労者

満洲事変直後、関東軍は陸軍中央に財務と国際法の顧問派遣を要請、財務顧問には駒井徳三が、国際法顧問には松木が就任。関東軍の参謀たちの知恵袋となって新国家のグランドデザインを描く

松木に引っ張られて木田の父も満洲に渡り、文教部官吏から人事院総裁へ

 

第35回     小暮実千代――新京での不倫、妊娠、新婚生活、凄腕の夫・和田日出吉

満映・松竹合作の《迎春花》(‘42年公開)は、満洲娘の李香蘭(当時22)と恋人を奪い合って身を引く大和撫子を小暮(191890)が演じたメロドラマ

当時小暮は、日大芸術学部出身で幹部待遇ではあったが人気はいまいち

満洲新聞の社長だった和田が李香蘭を日本に連れてきて《迎春花》の撮影中に日米開戦、翌年満洲でのロケ中に和田と結ばれる。和田は従姉の夫で20歳上、時事新報社時代は辣腕の記者で、政財界の暴露記事が帝人(疑獄)事件が起こり、三原山爆発時は噴火口に部下をロープで吊るしたりと強引なジャーナリスト

結ばれた後は飛行機を使っての遠距離恋愛、小暮の出演料1200円が往復の航空運賃と同額だったという。小暮の不倫を知っていたのは実母だけで1人悩んでいた

和田は、満洲新聞の後満映の筆頭理事となり、終戦時抑留されたが、人脈を頼って釈放され、’46年には無事帰国。夫のプロデュースで小暮は銀幕に復活開花する

 

第36回     「北海道人」島木健作(1903)が持ち帰った1匹の「満洲土産」

‘39年、島木は肺患を押して初めて満洲を訪れ3か月間旅行。当時『生活の探求』でベストセラー作家で鎌倉文士の仲間入り。札幌生まれの北海道人3代目

その時の『満洲紀行』は、北満の開発地を間近に見た感動に包まれると同時に、結果論的な国策への批判的対応の視点から問題を詳述し、国民すべてを対象に論議の種を提供

大日向村の開拓団は国策模範村とされているが、入植早々広大な水田が与えられたということは、それだけ鮮人・満人農民がいたということであり、元の住民はどこに行ったのか、場合によっては小作人になっているが、その「繁栄」のからくりを抉り出そうとしている

さすがに関東軍批判は書けないにしても、満洲国のトップ批判はキッチリ書き込んでいる

紀行文に続けてその私小説版ともいえる『或る作家の手記』を刊行、収まらない怒りをぶつけているが、最後は旅行中の食事からサナダ虫に感染、5mもある奴をひり出していた

数年後に小さな動物を主題にして好短篇を書くのは、「サナダ虫」が関係していたのではないか。島木を「鋭敏で健全な詩人」にし、居丈高な慷慨家にさせなかったのは、この「満洲土産」だった。その後も亡くなるまで満州を書き続ける。開拓民の孫である島木は、満洲に故郷を重ねていたのだろう

‘42年肺結核が再発して療養生活へ。旧知の小林秀雄との行き来が頻繁に。終戦を3日前に知らせたのは川端で、終戦の2日後に逝去。鎌倉文士の仲間で見送る。遺作の『土地』は翌年末、小林秀雄編集の豪華版の雑誌『創元』に小林の『モオツァルト』と共に掲載

 

あとがき

満洲事変から建国までと、ソ連参戦から満州国崩壊までの時期はあえて避け、’37’38年頃に焦点を当てた。相対的安定期であり、支那事変によって満洲国が変質を余儀なくされた時期を、映画のグランドホテル形式に倣って、満洲国の「新しき土」を踏んだ人々に登場してもらう。11人の「満洲」の細部を積み重ねると、どんな満洲国が見えてくるか

指標としたのは'38年満洲を旅した小林秀雄の『満洲の印象』なのでそこから始める

最も重宝したのが小坂正則の本で、満洲の夜の部が異常に詳しい回想録

本書が主眼にした時代は、所謂「二キ三スケ」の時代――関東軍参謀長東条英機、満洲国総務長官星野直樹、満鉄総裁松岡洋右、満洲国総務庁次官岸信介、満洲重工業総裁鮎川義介

白紙に地図を書くように、満洲国を「改造」し、我が世の春を謳歌

個人的色彩の濃い文章や当時の貴重な映像、現場からの証言は、素人が「歴史」にアプローチするには一番の近道

コロナの最中人通りも消えた「死の街」が忽然と姿を現し、「非常時」体制がたやすく完成するお国柄をまざまざと見せつけられたが、満洲を目指した日本人とは、この空気に馴染めない人たちだったのではないか。開拓民であれ、エリート官僚であれ、この「日本」をはみ出した人々を受け容れたのが満洲だった。その最たるものが甘粕正彦と河本大作で、大杉栄殺、張作霖爆殺の汚名がそのまま「勲章」になるユートピアであり、再チャレンジ、前歴ロンダリングは、その大小、軽重を問わず、満洲国では当然のことだった

 

 

 

 

「満洲国グランドホテル」書評 傀儡国家を彩る人々の実態描く

評者: 保阪正康 新聞掲載:20220625

二キ三スケ(東条英機、星野直樹、松岡洋右、岸信介、鮎川義介)だけで満洲は語れない。既存の満洲国イメージを覆す、満洲の土を踏んだ日本人の奇妙にして、真剣なる「昭和史」物語…46644)年から45(同20)年までの13年間、存続した傀儡国家である。この国家がひとまず安定期に入った時期に登場した軍人、官僚、財界人、新聞記者、文学者らを語り、その意識や生活実態を解剖していく。
 全体は36話(36人)からなる。例えば文官の古海(ふるみ)忠之らを語るときは、多様な人物の証言をとり入れて複雑な心境が解明される。古海は戦後、中国で戦犯裁判を受けるのだが、そこでの「認罪」をめぐる著者の解釈からは、歴史を自省的にみる立場とは距離をとっていることがわかる。ロシア文学者の内村剛介を論じる中にもその視点が見える。

 その理解には距離をおくにしても、この人造国家に人生のある時期を懸けた人たちには共通の思いがある。この地に夢と理想を、との意思である。それがどう挫折するか、いかに主体的善意が空回りするかが浮かんでくる。旧満州国での話(とくに阿片)、「五族協和」の偽りなど)について戦後は大体の人が口をつぐむ。それが逆に、人造国家の裏側を浮き彫りにする。

 「憲兵」という語は、当時も嫌われていた。関東軍の英語通訳に雇われた直木賞作家の榛葉英治(しんば・えいじ)は、大連の憲兵隊に配属された。通訳なのに、憲兵だったとの噂は一生ついて回った。憲兵隊の描写や榛葉の退職の意志について、著者の表現は実態をよく示している。

 本書では、満州に赴いた民間人の証言や視点が真っ当だ、と描かれている。ある歯科医が漏らしたという「勲章を欲しがる軍人」により戦禍は北支に拡大したとの実感は、まさに「正鵠を射た軍人批判」と称えている。だが旧満州国運営に関わった官僚、軍人らの人物論は、傀儡国家批判抜きには語れない。それが本書が逆説的に教える教訓だ。
    
ひらやま・しゅうきち 1952年生まれ。雑文家。著書に『昭和天皇「よもの海」の謎』『江藤淳は甦(よみが)える』など。

 

 

満洲国グランドホテル 平山周吉著

「夢の天地」の闇の奥のドラマ

202264日  日本経済新聞

日本人の両親の元に生まれ育ちながら、親日派の中国人女優として戦時下のプロパガンダに利用された李香蘭は、戦後、映画界を引退し、結婚後の姓・大鷹淑子で参議院議員となったが、イスラエルの建国と満洲国の成り立ちに通ずるものを見出すと語っていた。

ひらやま・しゅうきち 52年東京都生まれ。著書に『江藤淳は甦える』(小林秀雄賞)、『戦争画リターンズ』ほか 書籍の価格は税込みで表記しています

満洲国は現在の中国東北部に1932年に建国され45年日本の敗戦とともに幻と消えた国である。「偽」の国とも、傀儡政権とも、現在では呼ばれる。

ロシアのウクライナ侵攻と重ね合わせて、31年の満洲事変について言及される機会がふえたようでもある。

だが満洲国への関心はそれに尽きるものではない。

多くの満洲本は満洲事変から満洲国成立期のさまざまな謀略に紙幅をさき、あるいは満洲国崩壊時に関東軍に見捨てられて難民化した人々の苦難を掘り起こす。本書もまた、満洲事変、日中戦争、ノモンハン事件、その節目節目で、軍部の暴走に歯止めをかける選択肢はなかったのか、その可能性はなかったのかを問いかける。

その一方で本書はあえて、満洲国の始まりと終焉ではなく、満洲国のしばしの相対的安定期をクローズアップし、人々の往還、交友と葛藤、並行する複数の人間ドラマを積み重ねてゆく。「グランドホテル」と名付けられた所以である。

相対的安定期に光をあてることで、満洲国への膨大な投資と、人的資源の投入と、「日本」をはみ出した人々を受け入れた満洲の特殊な姿が浮かび上がる。開拓民の移住に加え、軍人、政治家、官僚、文学者、映画人、ジャーナリストとそれぞれにクセの強い、多様な人材がひしめきあう。正史からこぼれ落ちた稗(はい)史の領域、著者が「剰余」と呼ぶ領域のドラマが展開される。「巨悪にとっても、小悪党にとっても、満洲は夢のような天地だったのだ」と、満洲国の闇の奥が語られる。

スターにたよらないというのが本書の方法である。だから満洲国の映画といえばまっさきに名をあげられる李香蘭は、ちらほら出没するものの、一章を費やされることはない。代わりに笠智衆、原節子、木暮実千代といった映画俳優の満洲映画体験がそれぞれ章を設けて語られる。こういう視点が新鮮である。

《評》文芸評論家 川崎 賢子

 

 

 

 

 

Wikipedia

満洲国(まんしゅうこく、旧字体:滿洲國、拼音: Mǎnzhōu Guó)は、1932大同元年[注釈 5])から1945康徳12年)の間、満洲(現在の中国東北部)に存在した大日本帝国傀儡国家

大日本帝国および中華民国ソビエト社会主義共和国連邦モンゴル人民共和国蒙古聯合自治政府(後に蒙古自治邦政府と改称)と国境を接していた。

「洲」が常用漢字でないため、日本教育用図書を含め一般的に「満州国」の表記が使われるが、日本の法令や一部の文献では「満洲国」が用いられる。

概要[編集]

が領有していた満洲と呼ばれる地域のうち、外満洲アイグン条約及び北京条約ロシア帝国に割譲され、内満洲の旅順大連日露戦争までは旅順(港)大連(湾)租借に関する条約でロシアの、戦後はポーツマス条約により日本の租借地となっていた。さらに内満洲ではロシアにより東清鉄道の建設が開始され、義和団の乱の際には進駐して来たロシア帝国陸軍鉄道附属地を中心に展開し、満洲を軍事占領した。朝鮮半島と満洲の権益をめぐる日露戦争の後、長春寛城子)以北の北満洲にロシア陸軍が、以南の南満洲にロシアの権益を引き継いだ日本陸軍南満洲鉄道附属地を中心に展開して半植民地の状態だった。

清朝は満洲族の故地満洲に当たる東三省遼寧省吉林省黒竜江省)には総督を置かず、奉天府と呼ばれる独自の行政制度を持っていたが、光緒33年(1907)の東北改制を機に、他の省に合わせて東三省総督を設置し、管轄地域の軍政・民政の両方を統括させた。歴代の総督はいずれも袁世凱の派閥に属し、東三省は袁世凱の勢力圏であった。

1912の清朝滅亡後は中華民国北京政府)が清朝領土の継承を主張し、袁世凱の臨時大総統就任に伴ない、当時の東三省総督趙爾巽も奉天都督に任命され、東三省も中華民国の統治下に入った。しかし、袁世凱と孫文の対立から中華民国は分裂、内戦状態に陥り、満洲では、趙爾巽の部下だった張作霖が日本の後押しもあって台頭し、奉天軍閥を形成し、満洲を実効支配下に置くようになった。

また日本は1922(大正11年)の支那ニ関スル九国条約1条により中華民国の領土的保全の尊重を盟約していたが、中華民国中央政府(北京政府)の満洲での権力は極めて微力で、張作霖率いる奉天軍閥を満洲を実効支配する地方政権と見なして交渉相手とし、協定などを結んでいた。北伐により北京政府が崩壊し、北京政府を掌握していた張作霖が満洲に引き揚げてきたところを日本軍によって殺される(張作霖爆殺事件)と、後を継いだ息子の張学良は、1928(昭和3年)1229日に奉天軍閥を国民政府(南京政府)に帰順(易幟)させた。実質的には奉天軍閥の支配は継続していたが、満洲に青天白日満地紅旗が掲げられる事になった。

1929年、日本は南京国民政府を中華民国の代表政府として正式承認した。

1931(昭和6年)918日、柳条湖事件に端を発して満洲事変が勃発、関東軍により満洲全土が占領される。その後、関東軍主導の下に同地域は中華民国からの独立を宣言し、1932(昭和7年)31日の満洲国建国に至った。元首満洲国執政、後に満洲国皇帝)には清朝最後の皇帝愛新覚羅溥儀が就いた。

満洲国は建国にあたって自らを満洲民族漢民族蒙古民族からなる「満洲人、満人」による民族自決の原則に基づく国民国家であるとし、建国理念として日本人・漢人・朝鮮人・満洲人・蒙古人による五族協和王道楽土を掲げた。しかし、日本の関東軍が占領した日本の植民地であり[1]、傀儡国家[2]であったという意見もある。 当時の他の植民地と大きく異なり、満洲帝国は聯盟加盟国の半数の国により承認されており、多数の外国の領事館も設けられ、日本の属国植民地ではなく、万里の長城より北側に存在した独立国家だったという説はある[要出典]

満洲国は建国以降、日本、特に関東軍と南満洲鉄道の強い影響下にあり、「大日本帝国と不可分的関係を有する独立国家」と位置付けられていた[3]。当時の国際聯盟加盟国の多くは満洲地域は法的には中華民国主権下にあるべきとした。このことが1933(昭和8年)に日本が国際聯盟から脱退する主要な原因となった。

しかしその後、ドイツイタリアタイ王国などの第二次世界大戦の日本の同盟国や友好国、そしてスペインなどの枢軸陣営寄りの中立国や、エルサルバドルポーランドコスタリカなどの後の連合の構成国も満洲国を承認した。さらに国境紛争をしばしば引き起こしていたソビエト連邦をも領土不可侵を約束して公館を設置した[4]。またイギリスアメリカ合衆国フランスなど国交を樹立していなかった国も国営企業や大企業の支店を構えるなど、人的交流や交易をおこなっていた。

第二次世界大戦末期の1945康徳12年)、日ソ中立条約を破った赤軍(ソ連陸軍)による関東軍への攻撃と、その後の日本の降伏により、818に満洲国皇帝・溥儀が退位して満洲国は滅亡。満洲地域はソ連の占領下となり、その後国共内戦中国国民党中国共産党が争奪戦を行い、最終的に1949に建国された中華人民共和国の領土となっている。

日本では通常、公の場では「中国東北部」または注釈として「旧満洲」という修飾と共に呼称する。[要出典]

国名[編集]

1932大同元年)31日の満洲国佈告1により、国号は「滿洲國」と定められている。この国号は、1934康徳元年)31日に溥儀が皇帝に即位しても変更されなかった。ただし、法令や公文書では「満洲国」と「満洲帝国」が併用された[5]。帝制実施後の英称は正称が「Manchoutikuo」または「The Empire of Manchou」、略称が「Manchoukuo」または「The Manchou Empire」と定められた[6]

歴史[編集]

満洲地方には、ツングース系モンゴル系扶余系など多くの国や民族が勃興し、あるいは漢民族王朝が一部を支配下に置いたり撤退したりしていた。土着民族として濊貊粛慎東胡挹婁夫余勿吉靺鞨女真などが知られるが、その来歴や相互関係については不明な点が多い。満洲南部から朝鮮半島の一部にかけては遼東郡、遼西郡が置かれるなど、中華王朝の支配下にあった時期が長い、後金などが知られる[7]。モンゴル系とされる鮮卑族によるなどや契丹族によるが支配した事もある。チベット系氐族の立てた前秦の支配が及んだ事もある。12以降、、清と、首都中国本土に置く、あるいは移した王朝による支配が続いていた。女真族(後の満洲民族)の建てた王朝として、後金(後の)が成立した。

清朝末期から満洲事変まで[編集]

清朝の中国支配の後、満洲族の中国本土への移出が続き満洲の空洞化が始まった。当初清朝は漢人の移入によって空洞化を埋めるべく1644順治元年)より一連の遼東招民開墾政策を実施した[8]。この開墾策は1668康熙7年)に停止され、1740乾隆5年)には、満洲はアイシン国(満洲語aisin gurun, 金国)創業の地として本格的に封禁され、漢人の移入は禁止され私墾田は焼き払われ流入民は移住させられていた(封禁政策)。旗人たちも首都北京に移住したため満洲の地は「ほぼ空白地」[9]と化していた。19世紀前半には封禁政策は形骸化し、満洲地域には無数の移民が流入しはじめた。chen[10]の試算によれば1851年に320万人の満洲人口は1900年には1239万人に増加した[9]1860年にはそれ以前には禁止されていた旗人以外の満洲地域での土地の所有が部分的に開放され、清朝は漢人の移入を対露政策の一環として利用しはじめた(闖関東)。内モンゴル(奉天から哈爾濱・北安に至る満洲鉄道沿線の西側)については、蒙地と呼ばれモンゴルの行政区画である「旗」の地域があり、清朝の時代は封禁政策により牧地の開墾は禁止されていたが実際は各地域で開墾が行われ(蒙地開放)「県」がおかれていた。これらの地域は「旗」からは押租銀や蒙租を、「県」からは税を課され、蒙租は旗と国とが分配していた。また土地の所有権(業主権)は入植者になく永佃権や永租権が与えられ開放蒙地の所有権はモンゴル人王公・旗に帰属するとされていた[11]。これらの地域ではモンゴル人と入植した漢人との間でしばしば民族対立が生じており、1891年の金丹道暴動事件では内モンゴルのジョソト盟地域に入植した漢人の秘密結社が武装し現住モンゴル人に対して虐殺をおこなっていた。その後、秘密結社が葉志超により鎮圧されたが、入植した漢人に対して復讐事件が生じていた[注釈 6]

清朝はアヘン戦争後の1843に締結された虎門寨追加条約により領事裁判権を含む治外法権を受け入れることになった。

ロシア帝国もまたアロー戦争後の1858天津条約を締結して同等の権利を獲得することに成功し、1860北京条約アムール川左岸および沿海州の領有権を確定させていた。

日本の満洲に対する関心は、江戸時代後期の1823経世家佐藤信淵が満洲領有を説き[13]幕末尊皇攘夷家吉田松陰も似た主張をした[14]明治維新後の日本は1871明治4年)の日清修好条規において清国と対等な国交条約を締結した。さらに日清戦争後の下関条約及び日清通商航海条約により、清国に対する領事裁判権を含めた治外法権を得た。

ロシアは日清戦争直後の国干渉による見返りとして李鴻章より満洲北部の鉄道敷設権を得ることに成功し(露清密約)、1897のロシア艦隊の旅順強行入港を契機として18983月には旅順(港)大連(湾)租借に関する条約を締結、ハルピンから大連、旅順に至る東清鉄道南満洲支線の敷設権も獲得した。日本は、すでに外満洲(沿海州など)を領有し、残る満洲全体を影響下に置くことを企図するロシアの南下政策が、日本の国家安全保障上の最大の脅威とみなした。1900(明治33年)、ロシアは義和団の乱に乗じて満洲を占領、権益の独占を画策した。これに対抗して日本はアメリカなどとともに満洲の各国への開放を主張し、さらにイギリス日英同盟を結んだ。

日露両国は1904から翌年にかけて日露戦争を満洲の地で戦い、日本は戦勝国となり、南樺太割譲、ポーツマス条約朝鮮半島における自国の優位の確保や、遼東半島の租借権と東清鉄道南部の経営権を獲得した。その後日本は当初の主張とは逆にロシアと共同して満洲の権益の確保に乗り出すようになり、中国大陸における権益獲得に出遅れていたアメリカの反発を招いた。駐日ポルトガル外交官ヴェンセスラウ・デ・モラエスは、「日米両国は近い将来、恐るべき競争相手となり対決するはずだ。広大な中国大陸は貿易拡大を狙うアメリカが切実に欲しがる地域であり、同様に日本にとってもこの地域は国の発展になくてはならないものになっている。この地域で日米が並び立つことはできず、一方が他方から暴力的手段によって殲滅させられるかもしれない」との自身の予測を祖国の新聞に伝えている[15]

清朝から中華民国へ

1911年から1912年にかけての辛亥革命により満洲族による王朝は打倒され(駆除韃虜)、漢民族による共和政体中華民国が成立したが、清朝が領土としていた満洲・モンゴル・トルキスタンチベットなど周辺地域の政情は不安定となり、1911年にモンゴルは独立を宣言、1913年にはベット・モンゴル相互承認条約が締約されチベット・モンゴルは相互に独立承認を行った。

満洲は中華民国臨時大総統に就任した袁世凱が大きな影響力を持っていたため、東三省総督の体制、組織をそのまま引き継ぎ、中華民国の統治下に入っている。この中に、東三省総督の趙爾巽の下で、革命派の弾圧で功績を上げた張作霖もいた。しかし、袁世凱と孫文が対立し、中華民国が分裂、内戦状態に入ると、張作霖が台頭し、奉天軍閥を形成し、日本の後押しも得て、満洲を実効支配下に置いた。

日本は日露戦争後の1905年に日清協約、1909年には間島協約において日清間での権益・国境線問題について重要な取り決めをおこなっていたが、中華民国成立によりこれらを含む過去の条約の継承問題が発生していた。

満蒙問題と日中対立

第一次世界大戦に参戦した日本は1914(大正3年)10月末から11月にかけイギリス軍とともに山東半島の膠州湾租借地を攻略占領し(青島の戦い)その権益処理として対華21カ条要求を行い、2条約13交換公文からなる取り決めを交わした。この中に南満洲及東部内蒙古に関する条約など、満蒙問題に関する重要な取り決めがなされ、満洲善後条約満洲協約北京議定書日清追加通商航海条約などを含め日本の中国特殊権益が条約上固定された。日本と中華民国によるこれら条約の継続有効(日本)と破棄無効(中国)をめぐる争いが宣戦布告なき戦争[注釈 7]へ導くこととなる。

1917(大正6年)、第一次世界大戦中にロシア革命が起こり、ソビエト連邦が成立する。旧ロシア帝国の対外条約のすべてを無効とし継承を拒否したソビエトに対し、第一次世界大戦に参戦していた連合国は「革命軍によって囚われたチェコ軍団を救出する」という大義名分により干渉戦争を開始した(シベリア出兵)。日本はコルチャク政権を支持しボリシェヴィキを攻撃したが、コルチャク政権内の分裂やアメリカを初めとする連合国の撤兵により失敗。共産主義の拡大に対する防衛基地として満洲の重要性が高まり、満蒙は「日本の生命線」と見なされるようになった。とくに1917及び1919カラハン宣言は人民によりなされた共産主義政府であるソビエトが旧ロシア帝国の有していた対中権益(領事裁判権や各種条約による治外法権など)の無効・放棄を宣言したものであり、孫文をはじめとした中華民国政府を急速に親ソビエト化させ、あるいは1920には上海に社会共産党が設立され、のち1921中国共産党第一次全国代表大会につながった。第一次国共合作により北伐を成功させた蔣介石南京国民政府は、1928719日に一方的に日清通商航海条約の破棄を通告し、日本側はこれを拒否して継続を宣言したが、中国における在留日本人(朝鮮人含む)の安全や財産、及び条約上の特殊権益は重大な危機に晒されることになった。

満洲は清朝時代には「帝室の故郷」として漢民族の植民を強く制限していたが、清末には中国内地の窮乏もあって直隷山東から多くの移民が発生し、急速に漢化と開拓が進んでいた。清末の袁世凱は満洲の自勢力化をもくろむとともに、ロシア・日本の権益寡占状況を打開しようとした。しかしこの計画も清末民初の混乱のなかでうまくいかず、さらに袁の死後、満洲で生まれ育った馬賊上がりの将校・張作霖が台頭、張は袁が任命した奉天都督の段芝貴を追放し、在地の郷紳などの支持の下軍閥として独自の勢力を確立した。満洲を日本の生命線と考える関東軍を中心とする軍部らは、張作霖を支持して満洲における日本の権益を確保しようとしたが、叛服常ない張の言動に苦しめられた。また、日中両軍が衝突した1919年の寛城子事件(長春事件)では張作霖の関与が疑われたが日本政府は証拠をつかむことができなかった。

さらに中国内地では蔣介石率いる中国国民党が戦力をまとめあげて南京から北上し、この影響力が満洲に及ぶことを恐れた。こうした状況のなか19203月には、外満洲のニコラエフスク(尼港)で赤軍によって日本軍守備隊の殲滅と居留民が虐殺される尼港事件が起き、満洲が赤化されていくことについての警戒感が強まった。1920年代後半から対ソ戦の基地とすべく、関東軍参謀の石原莞爾らによって万里の長城以東の全満洲を中国国民党の支配する中華民国から切り離し、日本の影響下に置くことを企図する主張が現れるようになった。

満洲事変

1928(昭和3年)5月、中国内地を一時押さえていた張作霖が国民革命軍に敗れて満洲へ撤退した。田中義一首相ら日本政府は張作霖への支持の方針を継続していたが、高級参謀河本大作ら現場の関東軍は日本の権益の阻害になると判断し、張作霖を殺害した(張作霖爆殺事件)。河本らは自ら実行したことを隠蔽する工作を事前におこなっていたものの、報道や宣伝から当初から関東軍主導説がほぼ公然の事実となり、張作霖の跡を継いだ張学良は日本の関与に抵抗し宇霆ら日本寄りの幕僚を殺害、国民党寄りの姿勢を強めた。このような状況を打開するために関東軍は、1931(昭和6年)918満洲事変柳条湖事件)を起こして満洲全土を占領した。張学良は国民政府の指示によりまとまった抵抗をせずに満洲から撤退し、満洲は関東軍の支配下に入った。

日本国内の問題として、世界恐慌や昭和恐慌と呼ばれる不景気から抜け出せずにいる状況があった。明治維新以降、日本の人口は急激に増加しつつあったが、農村、都市部共に増加分の人口を受け入れる余地がなく、1890年代以後、アメリカやブラジルなどへの国策的な移民によってこの問題の解消が図られていた。ところが1924(大正13年)にアメリカで排日移民法が成立、貧困農民層の国外への受け入れ先が少なくなったところに恐慌が発生し、数多い貧困農民の受け皿を作ることが急務となっていた。そこへ満洲事変が発生すると、当時の若槻禮次郎内閣の不拡大方針をよそに、国威発揚や開拓地の確保などを期待した新聞をはじめ国民世論は強く支持し、対外強硬世論を政府は抑えることができなかった。

満洲国建国とその経緯[編集]

柳条湖事件発生から4日後の1931922日、関東軍の満蒙領有計画は陸軍首脳部の反対で実質的な独立国家案へと変更された[17]参謀本部は石原莞爾らに溥儀を首班とする親日国家を樹立すべきと主張し、石原は国防を日本が担い、鉄道・通信の管理条件を日本に委ねることを条件に満蒙を独立国家とする解決策を出した。現地では、関東軍の工作により、反張学良の有力者が各地に政権を樹立しており、924日には袁金鎧を委員長、于冲漢を副委員長として奉天地方自治維持会が組織され、26日には煕洽を主席とする吉林省臨時政府が樹立、27日にはハルビン張景恵東省特別区治安維持委員会を発足した。

19322月に、奉天吉林黒龍江省の要人が関東軍司令官を訪問し、満洲新政権に関する協議をはじめた。216日、奉天に張景恵、臧式毅、煕洽、馬占山の四巨頭が集まり、張景恵を委員長とする東北行政委員会が組織された。218日には「党国政府と関係を脱離し東北省区は完全に独立せり」と、満洲の中国国民党政府からの分離独立が宣言された。

193231日、上記四巨頭と熱河省の湯玉麟、内モンゴルのジェリム盟長チメトセムピル、ホロンバイル副都統の凌陞が委員とする東北行政委員会が、元首として清朝最後の皇帝愛新覚羅溥儀を満洲国執政とする満洲国の建国を宣言した(元号は大同)。首都には長春が選ばれ、新京と命名された。国務院総理(首相)には鄭孝胥が就任した。

その後、193431日には溥儀が皇帝として即位し、満洲国は帝政に移行した(元号康徳改元[18])。国務総理大臣(国務院総理から改称)には鄭孝胥(後に張景恵)が就任した。

満洲国をめぐる国際関係

一方、満洲事変の端緒となる柳条湖事件が起こると、中華民国は国際聯盟にこの事件を提起し、国際聯盟理事会はこの問題を討議し、193112月に、イギリス人の第2リットン伯爵ヴィクター・ブルワー=リットンを団長とするリットン調査団の派遣を決議した。19323月から6月まで日本、中華民国と満洲を調査したリットン調査団は、同年102に至って報告書を提出し、満洲の地域を「法律的には完全に支那の一部分なるも」[19]とし、満洲国政権を「現在の政権は純粋且自発的なる独立運動に依りて出現したるものと思考することを得ず」[20]とし、「満洲に於ける現政権の維持及承認も均しく不満足なるべし」[21]と指摘した。その上で満洲地域自体には「本紛争の根底を成す事項に関し日本と直接交渉を遂ぐるに充分なる自治的性質を有したり」[22]と表現し、中華民国の法的帰属を認める一方で、日本の満洲における特殊権益を認め、満洲に中国主権下の満洲国とは異なる自治政府を建設させる妥協案を含む日中新協定の締結を提案した。

同年915斎藤内閣のもとで政府として満洲国の独立を承認し、日満議定書を締結して満洲国の独立を既成事実化していた日本は報告書に反発、松岡洋右を主席全権とする代表団をジュネーヴで開かれた国際連盟総会に送り、満洲国建国の正当性を訴えた。

リットン報告書をもとに連盟理事会は「中日紛争に関する国際連盟特別総会報告書」を作成し、1933224には国際聯盟総会で同意確認の投票が行われた。この結果、賛成42票、反対1票(日本)、棄権1票(シャム=現タイ)、投票不参加1国(チリ)であり、国際連盟規約154[23]および6[24]についての条件が成立した。日本はこれを不服として19333月に国際聯盟を脱退する。

隣国かつ仮想敵国でもあったソビエト連邦は、当時はまだ国際連盟未加盟であり、リットン調査団の満洲北部の調査活動に対しての便宜を与えなかっただけでなく[25]、建国後には満洲国と相互に領事館設置を承認するなど事実上の国交を有していたが、正式な国家承認については満洲事変発生から建国後まで終始一定しない態度を取り続けた。1935にソ連は満洲国内に保有する北満鉄路を満洲国政府に売却した。国境に関しても日満-ソ連間に認識の相違があり、張鼓峰事件などの軍事衝突が起きている。

満洲国の建国は国際聯盟で否決されたが、イギリスフランスは「日本の言い分もわかる、我々の権益が確保できるならいいだろう」として、陰では承認する用意があり、1935にイギリスが日本に対して「蒋介石がに困っているから一緒にファンドを作ろう。この話に乗るなら、満洲国を蒋介石に認めさせてやる」と言い寄こしたことがあり、日本政府は吞もうとしたが、関東軍が拒否した[26]

モンゴル人民共和国との間にも国境に関して認識の相違があり、ノモンハン事件などの紛争が起きていた。

1941413、日ソ間の領土領域の不可侵を約した日ソ中立条約締結に伴い、日本のモンゴル人民共和国への及びソ連の満洲国への領土保全と不可侵を約す共同声明が出された[注釈 8]

第二次世界大戦・大東亞戦争へ[編集]

大東亞戦争開戦直前の1941124、日本の大本営政府連絡会議は「国際情勢急転の場合満洲国をして執らしむ可き措置」を決定し、その「方針」において「帝国の開戦に当り差当り満洲国は参戦せしめず、英米蘭等に対しては満洲国は帝国との関係、未承認等を理由に実質上敵性国としての取締の実行を収むる如く措置せしむるものとす」として、満洲国の参戦を抑止する一方、在満洲の連合国領事館(奉天に米英蘭、ハルビンに英米仏蘭、営口に蘭(名誉領事館))の閉鎖を行わさせた。

このため、満洲国は国際法上の交戦国とはならず、第二次世界大戦の下で、満洲国軍が日本軍に協力してイギリスやアメリカ、オーストラリアなどとと戦っている南方や太平洋、インド洋やオーストラリア方面に進出するということも無かった。

日本の敗色が濃くなった1944下半期に入ると、同年729日に鞍山の昭和製鋼所(鞍山製鉄所)など重要な工業基地が連合軍、特にイギリス領インド帝国イギリス軍基地内に展開したアメリカ軍ボーイングB29爆撃機の盛んな空襲を受け、工場の稼働率は全般に「等しい低下を示し」(1944年当時の稼動状況記録文書より)たとしている。特に、奉天の東郊外にある「満洲飛行機」では、19446月には平均で70%だった従業員の工場への出勤率が、鞍山の空襲から1週間後の85日には26%まで低下した。次の標的になるのではという従業員の強い不安感から、稼働率の極端な下落を招くことになった。

1945211ソ連アメリカイギリスヤルタ会談を開き、満洲を中華民国へ返還、北満鉄路・南満洲鉄道をソ連・中華民国の共同管理とし、大連をソビエト海軍の租借地とする見返りとして、ソ連が参戦することを満洲国政府に秘密裏に決定した[27]。なおこの頃満洲国の駐日本大使館は、東京麻布町から神奈川県箱根に疎開する。

19455月には同盟国のドイツが降伏し、日本は1国で連合国との戦いを続けることになる。太平洋戦線では3月には硫黄島が、6月には沖縄がアメリカ軍の手に落ち、アメリカ軍やイギリス軍機による本土への攻撃が行われるなど、日本の敗戦は時間の問題となっていた。

ソ連の満洲侵攻[編集]

19456月、日本は終戦工作の一環として、満洲国の中立化を条件に未だ日ソ中立条約が有効であったソビエト連邦に和平調停の斡旋を求めたが、既にソ連はヤルタ会談での秘密協定に基づき、ドイツ降伏から3か月以内の対日参戦を決定していたため、日本の提案を取り上げなかった[28]

88、ソ連は1946426まで有効だった日ソ中立条約を破棄して日本に宣戦布告し、直後に対日参戦した。ソ連軍は満洲国に対しても西の外蒙古(モンゴル人民共和国)及び東の沿海州、北の孫呉方面及びハイラル方面、3方向からソ満国境を越えて侵攻した。ソ連は参戦にあたり、直前に駐ソ日本大使に対して宣戦布告したが、満洲国に対しては国家として承認していなかったため、外交的通告はなかった。満洲国は防衛法(193841日施行)を発動して戦時体制へ移行したが、外交機能の不備、新京放棄の混乱などにより最後まで満洲国側からの対ソ宣戦は行われなかった。

一方、満洲国を防衛する日本の関東軍は、1942以降増強が中止され、後に南方戦線などへ戦力を抽出されて十分な戦力を持っていなかったため、国境付近で多くの部隊が全滅した。関東軍首脳は撤退を決定し、新京の関東軍関係者は810憲兵の護衛付き特別列車で脱出したため、ソ連軍の侵攻で犠牲となったのは、主に満蒙開拓移民をはじめとする日本人居留民たちであった。通化への司令部移動の際に民間人の移動も関東軍の一部では考えられたが、軍事的な面から民間人の大規模な移動は「全軍的意図の(ソ連への)暴露」にあたること、邦人130万余名の輸送作戦に必要な資材、時間もなく、東京の開拓総局にも拒絶され、結果彼らは武器も持たないまま置き去りにされ、満洲領に攻め込んだソ連軍の侵略に直面する結果になった。

ソ連軍は軍紀が乱れ、戦時国際法の基礎教育どころか、まともな義務教育もされていなかったため、赤軍将兵により日本人居留民に対する殺傷強姦略奪事件が多発した。814には葛根廟事件が起こった[29][30]

滅亡[編集]

皇帝溥儀をはじめとする国家首脳たちはソ連の進撃が進むと新京を放棄し、朝鮮にほど近い、通化省臨江県大栗子813日夕刻到着。同地に避難していたが、815に行われた日本の昭和天皇による「玉音放送」で戦争と自らの帝国の終焉を知った。

2日後の817に、国務総理大臣の張景恵が主宰する重臣会議は通化で満洲国の廃止を決定、翌18日未明には溥儀が大栗子の地で退位の詔勅を読み上げ、満洲国は誕生から僅か13年で滅亡した[31]。退位詔書は20日に公布する予定だったが、実施できなかった。

819日に旧満洲国政府要人による東北地方暫時治安維持委員会が組織されたが、824日にソ連軍の指示で解散された。溥儀は退位宣言の翌日、通化飛行場から飛行機で日本に亡命する途中、奉天でソ連軍の空挺部隊によって拘束され、通遼を経由してソ連のチタの収容施設に護送された。そのほか、旧政府要人も831日に一斉に逮捕された。

その後の満洲地域[編集]

日本兵と日本人入植者

日本軍と満洲軍は降伏し、終戦となったものの、その後も9月上旬までソ連軍は戦い続け、その後ソ連軍により、シベリアや外蒙古、中央アジア等に連行・抑留された者もいる(シベリア抑留)。戦闘終了後、ソ連軍はほとんどの関東軍兵士を武装解除して捕虜とし、シベリアや中央アジアなどの強制収容所に送り、過酷な強制労働を課した。18歳から45歳までの民間人男性が収容され、65万人以上が極度の栄養失調状態で極寒の環境にさらされた。このシベリア抑留によって、25万人以上の日本人が帰国できずに死亡したといわれる。

ソ連軍の侵攻を中国人や蒙古人の中には「解放」と捉える人もおり、ソ連軍を解放軍として迎え、当初関東軍と共にソ連軍と戦っていた満洲国軍や関東軍の朝鮮人・漢人・蒙古人兵士らのソ連側への離反が一部で起こったため、結果として関東軍の作戦計画を妨害することになった。中華民国政府に協力した日本人数千名が中国共産党に虐殺された通化事も発生した。

また、一部の日本人の幼児は、肉親と死別したりはぐれたりして現地の中国人に保護され、あるいは肉親自身が現地人に預けたりして戦後も大陸に残った中国残留日本人孤児が数多く発生した。その後、日本人は新京や大連などの大都市に集められたが、日本本国への引き揚げ作業は遅れ、ようやく1946から開始された(葫芦島在留日本人大送還)。さらに、帰国した「引揚者」は、戦争で経済基盤が破壊された日本国内では居住地もなく、苦しい生活を強いられた。政府が満蒙開拓団や引揚者向けに「引揚者村」を日本各地に置いたが、いずれも農作に適さない荒れた土地で引揚者たちは後々まで困窮した。

ソ連軍政下

満洲はソ連軍の軍政下に入り、中華民国との中ソ友好同盟条約では3か月以内に統治権の返還と撤兵が行われるはずであったが、実際には翌19464月までソ連軍の軍政が続き、撫順市長春市などには八路軍が進出して中国共産党が人民政府をつくっていた(東北問題)。この間、ソ連軍は、東ヨーロッパの場合と同様に工場地帯などから持ち出せそうな機械類を根こそぎ略奪して本国に持ち帰った。

中華民国

19465月にはソ連軍は撤退し、満洲は蔣介石率いる中華民国に移譲された。中華民国政府は、行政区分を満洲国建国以前の遼寧・吉林・黒竜江の東北3省や熱河省に戻した。しかしその後国共内戦が再開され、中華民国軍は、人民解放軍に敗北し、中華民国政府は台湾島に移転することとなる。

中華人民共和国

1948秋の遼瀋戦役でソ連の全面的な支援を受けた中国共産党の人民解放軍が満洲全域を制圧した。毛沢東は満洲国がこの地に残した近代国家としてのインフラや統治機構を非常に重要視し、「中国本土国民政府に奪回されようとも、満洲さえ手中にしたならば抗戦の継続は可能であり、中国革命を達成することができる」として、満洲の制圧に全力を注いだ。八路軍きっての猛将・林彪と当時の中国共産党ナンバー2高崗が満洲での解放区の拡大を任されていた。

旧満洲国軍興安軍である東モンゴル自治政府自治軍はウランフによって人民解放軍に編入され、チベット侵攻などに投入された[32]

1949に中国共産党は中華人民共和国を成立させ、満洲国領だった東モンゴル地域に新たに内モンゴル自治区を設置した。満洲国時代に教育を受けた多くのモンゴル人たちは内モンゴル人民革命党に関係するものとして粛清された(内モンゴル人民革命党粛清事件[33][34]。ソ連軍から引き渡された満洲国関係者の多くは撫順戦犯管理所で中国共産党の思想改造を受けたが、毛沢東によって元満洲国皇帝の溥儀はロシア帝国最後の皇帝ニコライ2とその一家を虐殺したソ連より優越している中国共産党の証左として政治利用されることとなった[35]。溥儀は釈放後、満洲族の代表として中国人民政治協商会議全国委員に選出された。

地理[編集]

主な都市[編集]

新京

奉天

満洲里

吉林

通化

哈爾浜

斉斉哈爾

営口

安東

敦化

海拉爾

上記の括弧内に記載した省・自治区はこれらの満洲の省が属する現在の中華人民共和国の行政区分である。

関東州 - 日露戦争後の満洲善後条約により、日本の中国からの租借地とされたが、満洲国建国後は満洲国領土の一部とされ、満洲国からの租借地とされた。

人口[編集]

1908の時点で満洲の人口は1583万人だったが、満洲国が建国された1932101日には29288千人になっていた[36]。人口比率としては女性100に対して男性123125の割合で、1942101日には人口は44242千人にまで増加していた[37]移民国家としての側面もあり、内地からの日本本土人以外でも、隣接する外地の朝鮮からの移住者が増加した[38]他、台湾人5000人移り住んだ。

国務院総務庁と治安部警務司の統計では1940年(康徳7年)101日の満洲国の人口は41080907人、男女比は120:100[39]。国務院国勢調査では[40]、同時期の満洲国の人口は43233954人、男女比は123.8:100であった[39]。統計に開きがあるのは、警察戸口調査においては現住人口調査主義[注釈 9]を、臨時国勢調査においては現在人口調査主義[注釈 10]を採用したことによる[41]

人口の構成としては、

全人口

全人口に占める割合

満洲人(漢族、満洲族)

38,885,562

94.65%

日本人

2,128,582

5.18%

その他外国人(白系ロシア人を含む)

66,783

0.16%

上記の「日本人」の中には、1309千人の朝鮮人を含む。台湾人は朝鮮人に含まれている[39]

国籍法の不存在[編集]

満洲国においては最後まで国籍法が制定されなかったため、満洲国籍を有する者の範囲は法令上明確にされず、慣習法により定まっているものとする学説が有力であった[42][43]。国籍法が制定されなかった背景として、二重国籍を認めない日本の国籍法上、日本人入植者が「日本系満洲国人」となって日本国籍を放棄せざるを得ないこととなれば、新規日本人入植者が減少する恐れがあること、日本の統治下にあった朝鮮人を日本国民として内地人と同等に扱っていた朝鮮政策との整合性の問題や、白系ロシア人帰化問題などがあった[43]1940年(康徳7年)に「暫行民籍法」(康徳781日勅令第197号)が制定され、民籍に記載された者は満洲国人民として扱われた。日本人が満洲国で出生した場合には国籍が不明確になるが、満洲国の特命全権大使にその旨を届け出て、大使が内地の本籍地にそれを回送することで日本人として内地の戸籍に登録された。

日本人・満蒙開拓移民の人口[編集]

1931(昭和6年)から1932(昭和7年)の満洲には59万人の日本人(朝鮮・台湾籍を含む)が居住し、うち10万人は農民だった。営口では人口の25%が日本人だったという。

満洲国の成立以降、日本政府は国内における貧困農村の集落住民や都市部の農業就業希望者を中心に、「満蒙開拓団」と称する満蒙開拓移民を募集した。さらに日本政府は1936(昭和11年)から1956(昭和31年)の間に、500万人の日本人の移住を計画していた。結局は、1945(昭和20年)のポツダム宣言受諾での日本の降伏により満洲国は消滅したために、この計画は頓挫に終わった。1938(昭和13年)から1942(昭和17年)の間には20万人の農業青年を、1936(昭和11年)には2万人の家族移住者を送り込んだ。

しかし、内地からの移住計画はきわめて低調で満洲への移住者の過半が朝鮮籍日本人であり、内地から満洲に移住した家族の大半は軍関係者あるいは南満洲鉄道および附属企業関係者とその家族であった。満洲で逐次開設されていった小学校の日本人教員の募集は内地の給与の7割から175分増しで募集された[注釈 11]

終戦時、ソ連対日参戦によりソビエト連邦が満洲に侵攻した際には、85万人の日本人移住者を抑留している。公務員や軍人を例外として、基本的にはこれらの人々は1946(昭和21年)から1947(昭和22年)にかけて段階的に連合国軍占領下の日本に送還されている。

朝鮮人移住者[編集]

建国当時日本領であった朝鮮半島から多くの朝鮮籍日本人が満洲国へ移住した。水商売や小規模商店などの事業を行うものも多かった。しかし現地の住民たちの反感を買う事例もあったという[38]

1934(昭和9年)1030岡田内閣岡田啓介首相)は朝鮮人の内地への移入(在日韓国・朝鮮人)によって失業率や治安の悪化が進んでいる日本本土を守ろうと、朝鮮人が満洲に向かうよう満洲国の経済開発を推し進めることを閣議決定している[45]

ユダヤ人自治州[編集]

満洲事変以前からヨーロッパにおけるユダヤ人問題に関心を持ち始めていた日本政府は、満洲国内におけるユダヤ教徒によるユダヤ人自治州を企図し、反ユダヤ政策を推進していたナチス・ドイツ政府に対し、その受け入れを打診していた(河豚計画)。

しかしその後、日中戦争支那事変)に突入したことなどにより、日満両政府が本格的に遂行することはなく、第二次世界大戦前夜のナチス・ドイツソビエト連邦による反ユダヤ人政策を嫌悪し、満洲国経由でアメリカ合衆国南米諸国に亡命しようとしたユダヤ人のうち少数が満洲国に移住したにとどまった。

国家体制[編集]

政治[編集]

満洲国は公式には五族協和王道楽土を理念とし、アメリカ合衆国をモデルとして建設され、アジアでの多民族共生の実験国家であるとされた。共和制国家であるアメリカ合衆国をモデルとするとしていたものの、皇帝を国家元首とする立憲君主制国家である。五族協和とは、満蒙漢日朝の五民族が協力し、平和な国造りを行うこと、王道楽土とは、西洋の「覇道」に対し、アジアの理想的な政治体制を「王道」とし、満洲国皇帝を中心に理想国家を建設することを意味している。満洲にはこの五族以外にも、ロシア革命後に共産主義政権を嫌いソビエトから逃れてきた白系ロシア人等も居住していた。

その中でも特に、ボリシェヴィキとの戦争に敗れて亡ぼされた緑ウクライナウクライナ人勢力と満洲国は接触を図っており、戦前には日満宇の三国同盟で反ソ戦争を開始する計画を協議していた。しかし、1937にはウクライナ人組織にかわってロシア人のファシスト組織(ロシアファシスト党)を支援する方針に変更し、ロシア人組織と対立のあるウクライナ人組織とは断交した。第二次世界大戦中に再びウクライナ人組織と手を結ぼうとしたが、太平洋方面での苦戦もあり、極東での反ソ武力抗争は実現しなかった。

満洲国は建国の経緯もあって日本の計画的支援の下、きわめて短期間で発展した。内戦の続く中国からの漢人や、新しい環境を求める朝鮮人などの移民があり、とりわけ日本政府の政策に従って満洲国内に用意された農地に入植する日本内地人などの移民は大変多かった。これらの移民によって満洲国の人口も急激な勢いで増加した。

国家機関[編集]

満洲国政府は、国家元首として執政(後に皇帝)、諮詢機関として参議府、行政機関として国務院、司法機関として法院、立法機関として立法院、監察機関として監察院を置いた。

国務院には総務庁が設置され、官制上は首相の補佐機関ながら、日本人官吏のもと満洲国行政の実質的な中核として機能した(総務庁中心主義)。それに対し国務院会議の議決や参議府の諮詢は形式的なものにとどまり、立法院に至っては正式に開設すらされなかった。

元首[編集]

元首(執政、のち皇帝)は、愛新覚羅溥儀がつき、1937年(康徳4年)31日の帝位継承法制定以後は溥儀皇帝の男系子孫たる男子が帝位を継承すべきものとされた。

帝位継承法の想定外の事態に備えて、満洲帝国駐箚(駐在)大日本帝国特命全権大使兼関東軍司令官との会談で、皇帝は、清朝復辟派の策謀を抑え、関東軍に指名権を確保させるため、自身に帝男子孫が無いときは、日本の天皇の叡慮によって帝位継承者を定める旨を皇帝が宣言することなどを内容とした覚書などに署名している(なお、溥儀にはこの時点で実子がおらず、その後も死去するまで誕生していない)。

国民[編集]

満洲国は瓦解に至るまで国籍法を定めず、法的な国民の規定はなされなかった。結果、移民や官僚も含めた満洲居住の日本人は日本国籍を有したままであり、敗戦後、法的な障害無しに日本へ引き揚げる事が出来た。1940年(康徳7年)に「暫行民籍法」(康徳781日勅令第197号)が制定され、民籍に記載された者は満洲国人民として扱われた。

行政[編集]

1932年(大同元年)の建国時には首相(執政制下では国務院総理、帝政移行後は国務総理大臣)として鄭孝胥が就任し、1935年(康徳2年)には軍政部大臣の張景恵が首相に就任した。

しかし実際の政治運営は、満洲帝国駐箚大日本帝国特命全権大使兼関東軍司令官の指導下に行われた。元首は首相や閣僚をはじめ官吏を任命し、官制を定める権限が与えられたが、関東軍が実質的に満洲国高級官吏、特に日本人が主に就任する総務庁長官や各部次長(次官)などは、高級官吏の任命や罷免を決定する権限をもっていたので、関東軍の同意がなければこれらを任免することができなかった。

公務員の約半分が日本内地人で占められ、高い地位ほど日本人占有率が高かった。これらの日本内地人は日本国籍を有したままである。俸給、税率面でも日本人が優遇された。関東軍は満洲国政府をして日本内地人を各行政官庁の長・次長に任命させてこの国の実権を握らせた。これを内面指導と呼んだ(弐キ参スケ)。これに対し、石原莞爾は強く批難していた。しかし、台湾人(満洲国人)の謝介石は外交部総長に就任しており、裁判官や検察官なども日本内地人以外の民族から任用されるなど[46]、日本内地人以外の民族にも高位高官に達する機会がないわけではなかった。しかし、これも日本に従順である事が前提で、初代首相の鄭孝胥も関東軍を批判する発言を行ったことから、半ば解任の形で辞任に追い込まれている。

省長等の地方長官は建国当初は現地有力者が任命される事が多かったが、これも次第に日本人に置き換えられていった。

選挙・政党[編集]

憲法に相当する組織法には、一院制議会として立法院の設置が規定されていたが選挙は一度も行われなかった。政治結社の組織も禁止されており、満洲国協和会という官民一致の唯一の政治団体のみが存在し、実質的に民意を汲み取る機関として期待された。

法制度[編集]

憲法に相当する組織法や人権保障法を始めとして、日本に倣った法制度が整備された。当時の日本法との相違としては、組織法において、各閣僚や合議体としての内閣ではなく、首相個人が皇帝の輔弼機関とされたこと、刑法における構成要件はほぼ同様であるが、法定刑が若干日本刑法より重く規定されていること、検察庁が裁判所から分離した独自の機関とされたことなどが挙げられる。

標準時[編集]

満洲国版図では日露中の支配域ごとに異なる標準時が用いられていたが、満洲国は東経120度を子午線とし、+800を標準時として統一した。193711日に日本に合わせて+900に変更された[47]。変更後の子午線は東経135度となり、満洲国内を通っていない。

外交[編集]

第二次世界大戦開戦前、エチオピア侵略で経済制裁を受け国際聯盟を脱退したイタリア193712月承認[48])や再軍備でベルサイユ条約を破棄し聯盟を脱退したドイツ19382月承認[49][50])が承認した。さらに第二次世界大戦の勃発後にもフィンランドをはじめとする枢軸国タイ王国などの日本の同盟国、クロアチアスペインなどの枢軸国の友好国、ドイツの占領下にあったデンマークなど、合計20か国が満洲国を承認した。また、イギリスフランスは「日本の言い分もわかる、我々のが確保できるならいいだろう」として、陰では承認する用意があった[26]1939昭和14年)当時の世界の独立国は60か国ほどであった。ただし、フィリピン、ビルマ、中華民国(汪兆銘政権)蒙古聯合自治政府自由インド仮政府は日本の占領下で樹立された政権である。また、スロバキア共和国、クロアチア独立国もドイツの影響下で樹立され、従属国、傀儡国家と見なされている。ルーマニアはファシスト政権であり、ハンガリー、ブルガリアは領土拡大を図りドイツと協力関係にあった。

満洲国は上記の国のうち、日本と南京国民政府に常駐の大使を、ドイツとイタリアとタイに常駐の公使を置いていた[54]。東京に置かれていた満洲国大使館は麻布区桜田町50(現在の港区元麻布)にあり、ここは日本国と中華民国との間の平和条約の締結後に中華民国大使館となり、日中国交正常化後に中華人民共和国大使館に代わった[55][注釈 13]

外交上の交渉接点があった諸国[編集]

満洲国は正式な外交関係が樹立されていない諸国とも事実上の外交上の交渉接点を複数保有していた。奉天とハルピンにはアメリカとイギリスの総領事館、ハルピンにはソ連とポーランドの総領事館など13の総領事館が設置されていた。

ソビエト連邦とは満洲国建国直後から事実上の国交があり、イタリアやドイツよりも長い付き合いが存在した[53]。満洲国が1928年の「ソ支間ハバロフスク協定」にもとづき在満ソビエト領事館の存続を認めるとソ連は極東ソ連領の満洲国領事館の設置を認め、ソ連国内のチタブラゴヴェシチェンスク[56]に満洲国の領事館設置を認めた[25]。さらに日ソ中立条約締結時には「満洲帝国ノ領土ノ保全及不可侵」を尊重する声明を発するなど一定の言辞を与えていたほか、北満鉄道讓渡協定により北満鉄道(東清鉄道から改称)を満洲国政府に譲渡するなど、満洲国との事実上の外交交渉を行っていた。

また、満洲国を正式承認しなかったドミニカ共和国エストニアリトアニアなども満洲国と国書の交換を行っていた。このほか、バチカンローマ教皇庁)は、教皇使節(Apostolic delegate)を満洲国に派遣していた[注釈 14]

外交活動[編集]

国交を樹立した国に外交使節を派遣したほか、経済部大臣の韓雲階を団長にした「満洲帝国修好経済使節団」がイタリアやバチカン、ドイツやスペインなどの友好国を訪問し、ピウス12ベニート・ムッソリーニアドルフ・ヒトラーらと会談している。また1943(康徳10年)に東京で開催された大東亜会議にも張景恵国務総理大臣が参加し、タイや自由インドなど各国の指導者と会談している[58]

1941(康徳8年)にはハンガリーやスペインとともに防共協定に加わっている。一方、日独伊三国同盟には加盟せず、第二次世界大戦においても連合国への宣戦布告は行っていない。しかしながら日本と同盟関係を結び日本軍(関東軍)の駐留を許すほか、軍の主導権を握る位置に日本人が多数送られていた上に、軍備の多くが日本から提供もしくは貸与されているなど、軍事上は日本と一体化しており実質的には枢軸国の一部であったとも解釈できる[誰によって?]

軍事[編集]

満洲国の国軍は、1932年(大同元年)415日公布の陸海軍条例(大同元年415日軍令第1号)をもって成立した。日満議定書によって日本軍(関東軍)の駐留を認めていた満洲国自体の性質上もあり、「関東軍との連携」を前提とし、「国内の治安維持」「国境周辺・河川の警備」を主任務とした、軍隊というより関東軍の後方支援部隊、準軍事組織国境警備隊としての性格が強かった。

後年、太平洋戦争の激化を受けた関東軍の弱体化・対ソ開戦の可能性から実質的な国軍化が進められたが、ソ連対日参戦の際は所轄上部機関より離反してソ連側へ投降・転向する部隊が続出し、関東軍の防衛戦略を破綻させた。

経済[編集]

政府主導・日本資本導入による工業化、近代的な経済システム導入、大量の開拓民による農業開発などの経済政策は成功を収め、急速な発展を遂げるが、日中戦争(日華事変)による経済的負担、そしてその影響によるインフレーションは、満洲国体制に対する満洲国民の不満の要因ともなった。政府の指導による計画経済が基本政策で、企業間競争を排するため、一業界につき一社を原則とした。

三井財閥三菱財閥財閥系企業をはじめとする多くの日本企業が進出したほか、国交樹立していたドイツやイタリアの企業であるテレフンケンボッシュおよびフィアットも進出していた。なお、日産コンツェルン1937(康徳4年)に持株会社日本産業を満洲に移転し、満洲重工業開発(満業)を設立している。さらに国交のないアメリカの大企業であるフォード・モーターゼネラルモーターズおよびクライスラーゼネラル・エレクトリック等、イギリスの香港上海銀行なども進出し、19417月に日英米関係が悪化するまで企業活動を続けた。

通貨[編集]

法定通貨満洲中央銀行が発行した満洲国圓(圓、yuan)で、1圓=10=100分=1000厘だった。当時の中華民国や現在の中華人民共和国の通貨単位も圓(元、yuan)で同じだが、中華民国の通貨が「法幣」と呼ばれたのに対し、同じく法幣の意味をもつ満洲国の通貨は「国幣」と表記して区別した。中華民国の銀圓法幣(及び現在の人民元台湾元香港元)と同様、漢字で「元」と表記したが、満洲国内の貨幣法では、日本国と同様に「圓」(円)の表記が採用された。

貨幣法(教令第25号)の公布は、満洲国が成立した同年(1932年)611日である。 金解禁が世界的な流れとなる中で日本では金解禁が行われていたが、通貨は中華民国と同じく銀本位制でスタートし、現大洋(袁世凱弗、孫文弗と呼ばれた銀元通貨)と等価とされたが、193511月に日本円を基準とする管理通貨制度に移行した。このほか主要都市の満鉄付属地を中心に、関東州の法定通貨だった朝鮮銀行発行の朝鮮券も使用されていたが、1935年(昭和10年)114日に日本政府が「満洲国の国幣価値安定及幣制統一に関する件」を閣議決定したことにより、満洲国内で流通していた日本側の銀行券は回収され、国幣に統一された。

満洲国崩壊後もソ連軍の占領下や国民政府の統治下で国幣は引き続き使用されたが、1947中華民国中央銀行が発行した東北九省流通券(東北流通券)に交換され、流通停止となった。

満洲国建国以前の貨幣制度は、きわめて混乱していた。すなわち銅本位の鋳貨(制銭、銅元)および紙幣(官帖、銅元票)、銀本位の鋳貨(大洋銭、小洋銭、銀錠)および紙幣(大洋票、小洋票、過爐銀、私帖)があり、うち不換紙幣が少なくなかった。ほかに外国貨幣である円銀、墨銀、日本補助貨、日本銀行券、金票(朝鮮銀行券)、鈔票(横浜正金銀行発行の円銀を基礎とした兌換券)などが流通し、購買力は一定せず、流通範囲は一様でなかった。満洲国建国直後に満洲中央銀行が設立されるとともに旧紙幣の回収整理が開始され、1935年(康徳2年)8月末までにほとんどすべてが回収された。

こうして貨幣は国幣に統一され、鈔票の流通は関東州のみとなり、その額は小さく、金票は1935年(康徳2年)114日の満洲国幣対金円等値維持に関する日満両国政府による声明以来、金票から国幣に換えられることが増えて、満鉄、関東州内郵便局および満洲国関係の諸会社の国幣払実施とあいまって国幣の使用範囲は広がった。国幣は円単位で、純銀 23.91g の内容を有すると定められたが、本位貨幣が造られないためにいわば銀塊本位で、兌換の規定が無いために変則の制度であった。

貨幣は百圓、十圓、五圓、一圓、五角の紙幣、一角、五分、一分、五厘の鋳貨(硬貨)が発行され、紙幣は無制限法貨として通用された。紙幣は満洲中央銀行が発行し、正貨準備として発行額に対して3割以上の金銀塊、確実な外国通貨、外国銀行に対する金銀預金を、保証準備として公債証書、政府の発行または保証した手形、その他確実な証券または商業手形を保有すべきことが命じられた。後に鋳貨の代用として一角、五分の小額紙幣が発行された。

郵政事業[編集]

中華郵政が行っていた郵便事業を1932726日に接収し、同日「満洲国郵政」(帝政移行後は「満洲帝国郵政」)による郵政事業が開始された。中華郵政は満洲国が発行した切手を無効としたため、1935年から1937年までの期間、中国本土との郵便物に添付するために国名表記を取り除き「郵政」表記のみとした「満華通郵切手」が発行されていた。

同郵政が満洲国崩壊までに発行した切手の種類は159を数え、記念切手[59]も多く発行した。日本との政治的つながりを宣伝する切手も多く、1935の「皇帝訪日紀念」や1942の「満洲国建国十周年紀念」・「新嘉坡(シンガポール)陥落紀念」・「大東亜戦争一周年紀念」などの記念切手は日本と同じテーマで切手を発行していた。

1944の「日満共同体宣伝」のように、中国語の他に日本語も表記した切手もあった。郵便貯金事業も行っており、1941には「貯金切手」も発行している。

満洲国で最後の発行となった郵便切手は、194552日に発行された満洲国皇帝の訓民詔書10周年を記念する切手である。予定ではその後、戦闘機3機を購入するための寄附金付切手が発行を計画されていたが、満洲国崩壊のために発行中止となり大半が廃棄処分になった。だが第二次世界大戦後、満洲に進駐したソ連軍により一部が流出し、市場で流通している。

アヘン栽培[編集]

日本は内地及び朝鮮を除いてアヘン(阿片)専売制と漸禁政策を採用しており、満洲地域でもアヘン栽培は実施されていた。名目上はモルヒネ原料としての薬事処方方原料の栽培だが、これらアヘン栽培が馬賊の資金源や関東軍の工作資金に流用され、上海などで売りさばかれた。

1932年(大同元年)に阿片法(大同元年1130日教令第111號)が制定され、アヘンの吸食が禁止された。ただし未成年者以外のアヘン中毒者で治療上必要がある場合は、管轄警察署長の発給した証明書を携帯した上で政府の許可を受けた阿片小売人から購入することができた。

交通・通信[編集]

鉄道[編集]

日本の半官半民の国策会社・南満洲鉄道(満鉄)は、ロシアが敷設した東清鉄道南満洲支線を日露戦争において日本が獲得して設立されたが、満洲国の成立後は特に満洲国の経済発展に大きな役割を果たした。同社は満洲国内における鉄道経営を中心に、フラッグ・キャリア満洲航空、炭鉱開発、製鉄業、港湾、農林、牧畜に加えてホテル、図書館、学校などのインフラストラクチャー整備も行った。

新京〜大連・旅順間を本線として各地に支線を延ばしていた。「超特急」とも呼ばれた流線形のパシナ形蒸気機関車と専用の豪華客車で構成される特急列車「あじあ」の運行など、主に日本から導入された南満洲鉄道の車両の技術は世界的に見ても高いレベルにあった。

一方、満洲国成立前から満鉄に対抗して中国資本の鉄道会社が満鉄と競合する鉄道路線の建設を進めていた。これらの鉄道会社は、満洲国成立後に公布された「鉄道法」に基づいて国有化され、満洲国有鉄道となった。しかし満洲国鉄による独自の鉄道運営は行われず、即日満鉄に運営が委託されて、実際には満洲国内のほぼすべての鉄道の運営を満鉄が担うことになった。新規に建設された鉄道路線、1935ソビエト連邦との交渉の末に満洲国に売却された北満鉄路(東清鉄道)など私鉄の接収・買収路線も全て満洲国鉄に編入され、満鉄が委託経営を行っていた。特に新規路線は建設から満鉄に委託と、「国鉄」とは名ばかりで全てが満鉄にまかせきりの状況であった。この他にも満鉄は朝鮮半島朝鮮総督府鉄道のうち、国境に近い路線の経営を委託されている。車両などは共通のものが広く使われていたが、運賃の計算などでは満鉄の路線(社線)と満洲国鉄の路線(国線)に区別が設けられていた。しかしこれも後に旅客規程上は区別がなくなり、事実上一体化した。

満鉄は単なる鉄道会社としての存在にとどまらず、沿線各駅一帯に広大な南満洲鉄道附属地(満鉄附属地)を抱えていた。満鉄附属地では満洲国の司法権や警察権、徴税権、行政権は及ばず、満鉄がこれらの行政を行っていた。首都新京特別市(現在の長春市)や奉天市(現在の瀋陽市)など主要都市の新市街地も大半が満鉄附属地だった。都市在住の日本人の多くは満鉄附属地に住み、日本企業も満鉄附属地を拠点として治外法権の特権を享受し続け、満洲国の自立を阻害する結果となったため、1937に満鉄附属地の行政権は満洲国へ返還された。

満鉄・国鉄の他にも、領内には小さな私鉄がいくつも存在した。これらの中には国有化され、改修されて満洲国鉄の路線となったものや、満洲国鉄が並行する路線を敷設したために補償買収されてから廃止になったものもある。以下に満洲国が存在した時期に一貫して私鉄であったものを挙げる(印は補償買収後に廃止になった路線)。

1940前後から、満鉄が請負の形で積極的にこれら私鉄の建設に携わるようになり、戦争末期の頃には相当数の路線が満鉄の手によって建設されるようになっていた。ただしその多くが竣工する前、竣工しても試運転をしただけの状態で満洲国崩壊に遭って建設中止となり、未成線になっている。

この他、首都・新京を始めとして奉天・哈爾濱など主要都市の市内には路面電車が敷設されていた。新京及び奉天では地下鉄建設計画もあったが、実現しなかった[60][61]

航空[編集]

1931年に南満洲鉄道の系列会社として設立されたフラッグ・キャリア満洲航空が、新京飛行場を拠点に満洲国内と日本(朝鮮半島を含む)を結ぶ定期路線を運航していた。

中島AT-2ユンカースJu 86ロッキード L-14 スーパーエレクトラなどの外国製旅客機の他にも、自社製の満洲航空MT-1や、ライセンス生産したフォッカー スーパーユニバーサルなどで満洲国内の主都市を結んだ他、新京とベルリンを結ぶ超長距離路線を運航することを目的とした系列会社である国際航空を設立した。

満洲航空は単なる営利目的の民間航空会社ではなく、民間旅客、貨物定期輸送と軍事定期輸送、郵便輸送、チャーター便の運行や測量調査、航空機整備から航空機製造まで広範囲な業務を行った。

通信・放送[編集]

電話ファックスなどの通信業務やラジオ放送業務も、1933年に設立された満洲電信電話MTT)に統合された。放送局はハルビン、新京、瀋陽などに置かれており[62]ロシア人を中心に作られたハルビン交響楽団、後に日本人を中心に作られた新京交響楽団による音楽演奏も毎週これら放送局だけでなく、日本租借地にある大連放送局へも中継された。聴取者から聴取料を徴収していたが、内地に先駆けて広告も扱っており、また海外へ外国語による放送も行われていた[63]

言語[編集]

「満語」と称された標準中国語と日本語が事実上の公用語として使用された。軍、官公庁においては日本語が第一公用語であり、ほとんどの教育機関で日本語が教授言語とされた。モンゴル語ロシア語などを母語とする住民も存在した。また、簡易的な日本語として協和語もあった。19381月以降、中国語(満語)、日本語、モンゴル語(蒙古語)が「国語」と定められ授業で教えられた[64]

大本の教祖である出口王仁三郎は布教活動の一環としてエスペラントの普及活動も行っており、満洲国の建国に際し、信奉者である石原莞爾の協力を得てエスペラントを普及させる計画があったが実現しなかった。

教育[編集]

満洲国の教育の根本は、儒教であった[65]。教育行政は、中央教育行政機関は文教部であり、文教部大臣は教育、宗教、礼俗および国民思想に関する事項を掌理した。大臣の下には次長が置かれ、さらに部内は総務、学務および礼教の3司に分けられ、それぞれ司長が置かれた。総務司は秘書、文書、庶務および調査の4科に、学務司は総務、普通教育および専門教育の3科に、礼教司は社会教育および宗教の2科に分けられ、それぞれ教育行政を掌した。視学機関は、督学官が置かれた。地方教育行政は、各省では省公署教育庁が、特別市では市政公署教育科が、各県では県公署教育局が、それぞれ管内の教育行政を司った。

最高学府として建国大の他、国立大学の大同学院ハルピン学院などが設置された。

小学校は、修業年限は6年で、初級小学校4+高級小学校2年とするのが本体であったが、初級小学校のみを設けることも認められた。教育科目は、初級小学校は修身、国語、算術、手工、図画、体操および唱歌であり、高等小学校は、初級小学校のそれのほかに歴史、地理および自然の3科目が加えられ、その地方の特状によっては日本語をも加えられた。後に、初級小学校は国民学校、高級小学校は国民優級学校にそれぞれ改称された。教科書は、建国以前に用いられていた三民主義教科書に代わってあらたに国定教科書が編纂された。僻地では、寺子屋ふうの「書房」がなおも初等教育機関として残されていた。

中学校は、初級および高級の2段階で、修業年限はそれぞれ3年で、併置されるのが原則で、初級中等には小学校修了者を入学させた。教科目は初級は国文、外国語、歴史、地理、自然科、生理衛生、図画、音楽、体育、工芸(農業、工業、家事の1科)および職業科目で、一定範囲の選択科目制度が認められ、高級は普通科、師範科、農科、工科、商科、家事科その他に分かれ、その教育は職業化されていた。

師範教育は、小学校教員は、省立師範学校および高級中学師範科で、養成された。省立師範学校は修業年限3年、初級中学校卒業者を入学させた。普通科目のほかに教育、心理その他を課し、最上級の生徒は付属小学校その他の小学校で教生として教育実習を行った[注釈 15]。ほか実業教育機関として職業学校があった。

ただし、日本人のほとんどは、満鉄が管轄する付属地の日本人学校に通っていた。1937年の治外法権撤廃により付属地が消滅した後も、教育、神社、兵事に関する事項は日本の管轄に残され、日本人が通う学校は駐満全権大使が管轄し、日本国内に準じて運営された。この方針は日本人開拓団の学校にも適用され、日本人学校は満洲国の教育制度の外に置かれていた。[66]

文化[編集]

映画[編集]

1928に南満洲鉄道が広報部広報係映画班、通称「満鉄映画部」を設け、広報(プロパガンダ)用記録映画を製作していた。その後1937に設立された国策映画会社である「満洲映画協会」が映画の制作や配給、映写業務もおこない各地で映画館の設立、巡回映写なども行った。

漫画[編集]

田河水泡の当時の人気漫画「のらくろ」の単行本のうち、1937年(昭和12年)1215日発行の「のらくろ探検隊」では、猛犬聯隊を除隊したのらくろが山羊と豚を共だって石炭の鉱山を発見するという筋で、興亜のため、大陸建設の夢のため、無限に埋もれる大陸の宝を、滅私興亜の精神で行うという話が展開された。

序の中で、「おたがひに自分の長所をもって、他の民族を助け合って行く、民族協和という仲のよいやり方で、東洋は東洋人のためにという考え方がみんな(のらくろが旅の途中で出会って仲間になった朝鮮生まれの犬、シナ生まれの豚、満洲生まれの羊、蒙古生まれの山羊等の登場人物達)の心の中にゑがかれました。」とあり、当時の軍部が国民に説明していたところの「興亜」と「民族協和の精神」を知ることができる。

雑誌[編集]

新京の藝文社が19421月から、満洲国で初で唯一の日本語総合文化雑誌「藝文」を発行した。194311月、「満洲公論」に改題。

服装[編集]

多民族国家・満洲国では、各民族の衣装が混在していた。初代国務院総理の鄭孝胥は、溥儀の皇帝即位式典はじめ、公私ともに生涯中国服を通したといわれる。

一方、後任の張景恵は、「協和(会)服」と呼ばれる満洲国協和会の公式服を着用することが多かった。国民服に似たデザインと色だが、国民服より先に考案された。階層によって材質・デザインに違いがあったとされるが、上は国務総理大臣から下は一般学生まで、民族を問わず広く着用され、石原莞爾や甘粕正彦のような日本人の軍人・官僚・有力者も着用した。協和服には、飾緒のような金モールと、満洲国国旗と同じ色をした五色の房からなる儀礼章が付属した。ループタイのように首からかけて玉留めで締め、左胸に房をかける形で佩用する。慶事には房の赤と白、弔事には黒と白の部分を強調することで対応した[67]

なお、宮廷行事等では、日本の大礼服と同様のものが用いられた。

スポーツ[編集]

1932年に満洲国体育協会が設立された。満洲国の国技サッカーであり[68]、満洲国蹴球協会やサッカー満洲国代表チームも結成されている。野球でも、日本の都市対抗野球大会参加したチームがあり、日本プロ野球初の海外公式戦として、1940年に夏季リーグ戦を丸々使って満洲リーグ戦が行われている。

建国当初の満洲国ではオリンピックへの参加も計画されており、1932521日に満洲国体育協会はロサンゼルスオリンピック19327月開催)への選手派遣を同オリンピックの組織委員会に対して正式に申し込んでいるが、結局参加は出来なかった[69]。ちなみに、派遣する選手としては陸上競技短距離走劉長春や、距離走の于希渭(謂)などが挙げられていた(ただし劉は満洲国代表としての出場を拒否し、中華民国代表として出場している)[70][ 16]

1936年に開催されたベルリンオリンピックへの参加も見送られたが、1940年に開催される予定であった東京オリンピックには選手団を送る予定であった。しかし、日中戦争の激化などを受けて同大会の開催が返上されたため、オリンピックに参加することはできなかった。なおその後、実質的な代替大会である東亜競技大会が開催されている。

音楽[編集]

満洲国へは多くの日本人音楽家が渡り、西洋音楽の啓蒙活動を行った。満洲国建国以前よりこの地には白系ロシア人を中心としたハルビン交響楽団が存在したが、これに加えて日本人を中心に新京交響楽団が結成され、両者は関東軍の後援を受けてコンサートや放送のための演奏を行った。1939年には「新満洲音楽の確立及び近代音楽の普及」を目的として新京音楽院が設立された。

園山民平は音楽教育や満洲民謡の収集・研究に尽力した他、満洲国国歌を作曲した。その他、指揮者の朝比奈隆、作曲家の太田忠大木正夫深井史郎伊福部昭紙恭輔などの音楽家が日本から短期間招かれ、例えば太田は「牡丹江組曲」、大木は交響詩「蒙古」、深井は交響組曲「大陸の歌」、伊福部は音詩「寒帯林」、紙は交響詩「ホロンバイル」を作曲した。

崔承喜1940年代当時、世界的に有名な舞踏家であるが、当時の満洲、および中国各地を巡業していた[71]

祝祭日[編集]

詳細は「満洲国の祝祭日」を参照

国花[編集]

満洲国の国花[72]とされることが多いが、蘭は「皇室の花(ローヤル・フラワー)」であり、日本における菊に相当するものであった。いわゆる「国花(ナショナル・フラワー)」は高粱であり[73]1933(大同2)年4月に決定されたとの記録がある[74]

現在[編集]

満洲国の消滅後は、満洲族も数ある周辺少数民族の一つと位置付けられ、「満洲」という言葉自体が中華民国、中華人民共和国両国内で排除されている(「満洲族」を「満族」と呼び、清朝の「満洲八旗」は「満清八旗」と呼びかえるなど)。例外的に地名として満洲里がその名をとどめている程度である。今日、満洲国の残像は歴史資料や文学、一部の残存建築物などの中にのみ存在する。

満洲国を扱った作品[編集]

満洲国生まれの人物[編集]

満洲国で出生した日本における人物についてはCategory:満洲国出身の人物を参照。

傀儡国家・理想国家・第3の歴史認識[編集]

中華人民共和国の歴史書や事典などでは、日本が東三省を武力占領した後に建国した傀儡政権[75]傀儡国家[76][77][78]とされ、その傀儡性や反人民性を示すために「偽満洲国」あるいは「偽満」と称しており、中華民国国民党台湾政府[76])で出版されたものでも同じである[79]。日本での見方は当然のように違い[77]、おおむね満洲国の政治実態に重点をおく「傀儡国家」論、満洲国の政治言説の分析力点をおく「理想国家」論の二つに分類できる[80]が、辞書や歴史辞典の類においてみれば、日本または関東軍の傀儡国家と規定するものが多い[81][82][83][84]。また、満洲国が傀儡国家か理想国家かという二者択一の問題を重要視しない第3の歴史認識ともいうべき新たな視点が日中両国の歴史マニアの間で浮上してきた[85]傀儡国家・理想国家・第3の歴史認識参照)。

日本国内においては、満洲国を、日本や関東軍の傀儡国家とみなす立場[86]に関して、山室信一加藤陽子並木頼寿のような日本の研究者がいる[87]

大日本帝国の立場において、以下のような論述がある。

農業学者新渡戸稲造は在米中の1932年(昭和7年)820日、CBSラジオでスティムソンドクトリンに反論する形で「満洲事変と不戦条約」について言明し、「満洲事変は自己防衛の手段としてなされたものであって侵略ではなく、満洲国は一般に考えられているように日本の傀儡政権ではない」と表明している[88]。親日運動家シドニー・ギューリック1939の自著『日本へ寄せる書』において、「支那における排日運動は極めて徹底したものである。一般民衆に排日思想をふき込む許りでなく子供の排日教育にも力を注ぎ、このためには歴史上の事実さへも歪め、虚偽の歴史を教えて子供の敵愾心をそそり、憎悪の念を植え付けていった」「例えば満洲は支那本土の一部であるにもかかわらず日本がそれを奪ったと教える。しかし歴史上満洲が支那の一部であった事実は未だ一度もなく、逆に支那本土が満洲の属国であった歴史上の事実がある位である。これなどは全然逆な事実を教えるものであるが、その目的は一に満洲から日本の勢力を駆逐しようとするところにあったわけである」と述べている[89]

オーウェン・ラティモアは、The Mongols of Manchuria1934)のなかで、中国は確かに西洋列強半植民地に転落したが、同時に中国はモンゴルチベットなどの諸民族に対し、西洋列強よりも苛烈な植民地支配を強制し、無数の漢民族をモンゴルの草原入植させては軍閥政権を打ち立て、現地人が少しでも抵抗すれば、容赦なく虐殺しており、西洋列強と中国に比べて、新生の満洲国はモンゴル人の生来の権益を守り、民族自治が実現できている、と評価している[90]

しかし、民族自治ところか日本内地人が圧倒的優位に立つ植民地的国家であったという評価[91]がされることもある。

 

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