初めて書籍を作った男  Alessandro Marzo Magno  2022.8.16.

 

2022.8.16. 初めて書籍を作った男 アルド・マヌーツィオの生涯

L’INVENTORE DI LIBRI Aldo Manuzio, Venezia e il suo tempo 2020

 

著者 Alessandro Marzo Magno ヴェネツィア生まれ。ヴェネツィア大でヴェネト史を専攻。週刊誌『ディアーリオ』の海外ニュース担当責任者として約10年間活躍。ミラノ在住。おもな著書に『そのとき、本が生まれた』(柏書房)、『ゴンドラの文化史 運河をとおして見るヴェネツィア』(白水社)、Gli eroi e le eroine che salvarono i capolavori italiani saccheggiati da Napoleone e da Hitler(ナポレオンとヒトラーに略奪されたイタリア名画を救出した英雄たち)などがある。

 

訳者 清水由貴子 東京都生まれ。上智大外国語学部卒。翻訳家。おもな訳書に、マルツォ・マーニョ『そのとき、本が生まれた』(柏書房)、セルヴェンティ、サバン『パスタの歴史』(原書房)、ダツィエーリ『パードレはそこにいる』(早川書房)、ホランド『食べる世界地図』(エクスナレッジ)、ヤング『ニール・ヤング回想』(河出書房新社)などがある

 

発行日          2022.7.10. 第1刷発行

発行所           柏書房

 

13-06 そのとき、本が生まれた』参照

 

 

第1章        アルドの遺産

本は紙の平行6面体。文章はピリオド、カンマ、引用符、アポストロフィ、アクセントといった約物(やくもの)と呼ばれる記述記号によって理解しやすくなっている――史上初の出版人アルド・マヌーツィオの功績。彼以前は、本を出すのは単なる印刷業者で、編集の品質はなおざり。揺籃印刷本(インキュナブラ:印刷年が1500年以前の本)は校正がいい加減。マヌーツィオの登場ですべてが変わる

マヌーツィオは正真正銘の「近代出版業の考案者であり、明確かつ一貫性のある出版計画をもって本に接した人物」であり、本を「この5世紀において、人類の知識の蓄積及び伝達のための最も効果的な手段」とした

アルドは、古代ギリシャ語を流暢に話し、ギリシャ語からラテン語へ、ラテン語からギリシャ語へ即座に翻訳し、ヘブライ語を勉強。ギリシャ古典文学のギリシャ語による出版を計画、さらにラテン語による古典文学や俗語の作品にまで拡大する計画、最も注目すべきは国境を越えた人文主義で、読む価値のあるものは全て出版することを目標とした

出版人と知識人の両者を兼ね、文人と商人の間の偏見や無理解を取り除くことに成功

 

l  本の誕生

紙とインクを除けば、今日本を特徴付けているものはすべてアルドが考案

写本時代の終わりを告げ、羊皮紙がパピルスの巻物に取って代わった紀元4世紀から1000年以上経っていた

15世紀には、古典から近代文学に至るまで、出版される本には悉く注釈が付けられ、大型本の各ページの余白には最低3,4つの注釈をモザイクのように挿入。読者が自分で内容を評価するのを妨げ、言うべきことがすべて古代の賢者によって言われてしまっている

l  マーケティング

マヌーツィオは、自身とその商品を売り出す類まれな才能の持ち主

希少価値があって高価な本に献辞をつけて権力者との関係を深めた――神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世をして「我が家族」と言わしめ、ルクレツィア・ボルジアは彼の遺言執行人となった

l  序文の役割

アルドは序文に自らのイデオロギーに基づく考えを示す場として活用、読者とコミュニケーションをとってアピールしようとした

l  目録

アルドの功績の1つで、1498年に初の刊行図書目録を発行

l  目次

アルド以前の本には、目次もページ数もなかった

教師であるアルドにとって、分厚い本全体で正確な個所を見つけ出すことは重要

印刷本がもたらした新たな問題が誤植で、訂正する個所を記したリストを作成するためにも目次が必要

l  本の首都

ヴェネツィアだからこそ出版業が発展――ヨーロッパで唯一、様々な制限を伴う宮廷のない都市。150200台の印刷機が稼働、ヨーロッパ全体で出版された本(3万冊)15%を占めるが、50%にまで上昇

出版業興隆のきっかけとなったのは、1469年ヴェネツィアに印刷技術を伝えたドイツ人シュパイヤーの死で、彼の独占権が消滅したため、誰でも出版業を始めることができた

誰もが出版業を始め、すぐにヴェネツィアは出版の都となり、個人の蔵書が急増、公共の書架も始まり、現在の国立マルチャーナ図書館の萌芽もこの時誕生

本の印刷は資本集約度が高く量産された本は確立されていた交易路に乗って他の商品とともに各地へと運ばれていった

l  外国人

15世紀、写本の販売の中心地はフィレンツェ共和国だったが、トスカーナ地方の人が出入りする程度だったのに対し、ヴェネツィアは多くの移民が受け入れられ、外国人の街で、伝統的な職業であるゴンドリエーレも漕ぎ手の半数近くが大陸領土かダルマチアの出身

出版業界も大半は移民。民族ごとの共同体は今に至るまで存在するように、各母語での出版も盛んに行われた

 

第2章        人文主義の思想

マヌーツィオは、ローマの南80㎞ラツィオ州の村で1450年頃生まれたが、幼少期のことは不詳

 

l  ローマ時代

1470年代初めにローマで勉強。イタリアに活版印刷の技術を伝えた教会の書記官を師とし、長年教師をした後、人生の後半になって出版業に傾倒

わずか数年でローマをあとにしたこと以外は不詳

l  フェッラーラ時代

1475年からフェッラーラに滞在。ルネサンス期の人文主義者で芸術の庇護者エルコレ1世デステが統治する都市で、マヌーツィオは古代ギリシャ語の習得に励む

貴族の人文主義者で学習仲間のジョヴァンニ・ピーコ・デッラ・ミランドラとの出会いがアルドの人生を変える――彼の姉妹がマントヴァ侯の息子でルッザーラ家の僭主ゴンザーガと再婚

l  カルピ時代

1480年カルピ領主ピオの子息たちの家庭教師となり、上の子アルベルト・ピオとは生涯固い絆で結ばれ、1503年以降はピオの姓を名乗って一族の一員となる

 

第3章        出版人への道のり

アルドは148990年の間にヴェネツィアに移る――ギリシャに精通した博識な人文主義者が大勢いることに惹かれたのだろうが、到着後間もなくラテン語の教科書を出版

ヴェネツィアでも元首一族の息子の家庭教師となる。出版もそのためのもの

 

l  文法

ヴェネツィア移住以前からラテン語の文法に取り組んでいたようで、1493年個人用に文法を簡潔にまとめた本を出版。1501年の改訂版はアルベルト・ピオに献呈

l  出版人のキャリア

印刷機7,8台で印刷所を開くとともに、工房や出版社は学者や友人たちの集う場所となる

印刷所の経営に参加したのは、未来の義父アンドレア・トッレザーニとヴェネツィアの元首一族のピエルフランチェスコ・バルバリーゴで、バルバリーゴは製紙工場を所有

出版の素人だったアルドを指導したのがアンドレア。15年以上にわたり印刷業を営み、シュパイヤー死後腕利きの印刷人とした活躍

出資比率はバルバリーゴ50%、トッレザーニ40%、アルド10

1494年シャルル8世の侵入でイタリア戦争が、1508年からはヴェネツィアを排除するためのカンブレー同盟戦争が勃発、1516年に終結するが、その間にアルドは「学者の役に立つために本を出版するという困難極まりない活動に着手した」と書き残している

当初5年はギリシャ語書籍の出版に専念

1499年バルバリーゴの死去に伴い、後継者がギリシャ語の出版の支援を拒否したため、販売は継続されたが部数は格段に減り、資金稼ぎのための出版に傾注

ペストの流行と、ヴェネツィアがオスマン帝国に敗北したことから、マヌーツィオの活動内容も大きく変化。俗語(イタリア語)での出版も手掛ける

l  結婚

1505年アンドレアの娘マリアと結婚。アンドレアの家に移って10年働く

中央ヨーロッパの知識人たちとの間に確固たる人脈を築く

l  ミラノ時代

1506年従業員を解雇して1年間のサバティカルをとり、新妻を連れてミラノからクレモナを旅し、「手で書かれた作品」を探す

l  マントヴァでの拘留

ロンバルディアから帰国の途上マントヴァ公爵領で、人違いによって牢獄に数日間拘留

l  ヴェネツィアへの帰還

1507年出版活動再開

同年エラスムスが来訪、エウリピデスのラテン語版の出版を依頼

1508年イタリアのルネサンス期を代表する数学者でフランシスコ会修道士のルカ・パチョーリが教会で運営するリアルト学校の新学期の開講講義に参加。著名人多数が列席

l  2度目のフェッラーラ

1508年カンブレー同盟結成――イギリス以外のヨーロッパ諸国がヴェネツィアを地図から抹消するために同盟。ヴェネツィア翌年2度にわたって壊滅的な敗北を喫する

アルドはアルフォンソ1世・デステと妻のルクレツィア・ボルジアの庇護を求め、家族ともどもフェッラーラへ向かう

無事戦火を逃れ、1511年ボローニャでエラスムスとも会い、翌年ヴェネツィアに戻る

l  ふたたびヴェネツィア

同盟軍が迫る中、高水準のギリシャ語書籍と、ラテン語の古典文学シリーズで出版活動再開。同盟軍に占領されたパドヴァから多くの文学者がヴェネツィアに避難してきて参加

確実なのはアルドが出版人20年のキャリアで132冊の書籍を出版したこと――73冊は古典文学(ラテン語が34冊、ギリシャ語が39)、俗語のイタリア語書籍が8冊、ラテン語の現代作品が20冊、スコラ哲学所が18(うち12冊がギリシャ語)、残りは小冊子等

全ての出版人によるギリシャ語の49の初版のうち、アルドだけで30冊を出版

発行部数は合計で約12万部

ギリシャ語が印刷された用紙は合計4212枚で、ラテン語の1807枚の倍以上。アリストテレスの5冊だけでも1792枚に及ぶ。ラテン語の書物の多くはギリシャ語からの翻訳

 

第4章        アリストテレスとギリシャ古典文学

ギリシャ語熱の波に乗って、出版人として最初に手掛けたのがギリシャ語の文法書、コンスタンティノス・ラスカリスの『問答集』――ギリシャ語を学び始めたばかりの人のためにラテン語を付記し、ギリシャ語の素晴らしい作品を全て出版する予定であることを宣言

マヌーツィオは、非ギリシャ人のためにギリシャ古典文学を出版した初めての外国人であり、彼の書籍はイタリア市場より、生まれ故郷に暮らすギリシャ人に向けて出されたもの

優れた古典作品を探し、その写本をなるべく多く入手すると同時にそれを隈なく調べて誤字・脱字を訂正してから印刷するのは険しく代償の大きな活動で最大限の注意が必要

 

l  競争相手

アルドの事業は大きな成功を収め、1499年には競争相手が現れる――クレタ出身の業者で長続きはしなかったが、銀行倒産の煽りで印刷所は1/5ほどに減少

l  再発見された写本

良好な状態の写本を探すのが一苦労で、ロレンツォ・デ・メディチによってギリシャに派遣されたヤヌス・ラスカリスの努力に負うところが大きい。最低3冊の写本を入手し、全員で読み込んで文献学的に正しい版を作成する

さらに出版することにより、本の普及によって読者からの修正指摘が期待できる――学識の共有という「開かれた」視野は進歩的

ギリシャ語の書籍を体系的に出版したのはマヌーツィオが初めて――全てのギリシャ古典文学を言語で出版するという明確な計画を立てたのもマヌーツィオが最初であり、5年間で60冊のギリシャ語書籍を出版。祈祷書の出版は簡単に稼げたがなぜか忌避

l  アリストテレス

1495年アリストテレス全集の1冊目出版――哲学を深く理解するには原書で読むことが必要と考え読者に約束。パドヴァやフェッラーラの大学でギリシャ語の原書で講義が行われたこともあって1025部が数年で完売。その後1498年までに4巻出版(5)

『弁論術』と『詩学』は写本が見つからずに断念

アルドがプラトンを1513年まで出版しなかったのは、史上最大のギリシャ哲学の考えに立ち戻らないと理解できない――中世においてプラトンの著作で知られていたのは『ティマイオス』のみで、彼は超越的にして形而上学(物理的状態を超えたもの)の哲学者だと考えられたのに対し、アリストテレスは「ものを知る者たちの師」とされ、信仰との両立を可能にしたが、誤りだらけのラテン語版しかなかったためにプラトンと調和させ、両者をキリスト教思想の提唱者に仕立て上げるためにアリストテレスを超越性へと向かわせた。アルドはアリストテレスの自然科学の作品(自然史の学術書)に注目、哲学・化学・数学のためにギリシャ語の原書への回帰が必要と考え、古代人の科学の知識を受け容れることを認めた哲学者として紹介、それまではプラトンが主流だったにもかかわらず順位を逆転させ、古代の2人の哲学者を対比させ、違いを明確にした。アルドはアリストテレスと共に出版人のキャリアを始め、プラトンで最後を飾ることになる

l  ページ付けと活字

アルドのギリシャ語の本には、ラテン語の文が付記されている場合が多い――出版の目的が教育であり、ギリシャ語の初心者やギリシャ文学に疎い者のためにラテン語を付記

ページ付けもその目的に沿ったもの。文は1行づつ対比させ、ページの終わりで同時に終了しなければならない。ラテン語のページはギリシャ語のページと対照になっている

印刷に必要な活字は、ボローニャの彫金師フランチェスコ・グリッフォとの共同作業で、彼のギリシャ語活字はヴェネツィアとヴィチェンツァで働いていた律法学者イマヌエル・ルソタスのイタリック体を正確に再現

1502年アルドはヴェネツィア上院にギリシャ語活字の独占的使用権の特許を出願

グリッフォは4種類のギリシャ語活字を制作するが、それは極めて繊細で複雑な作業。記号(アクセントや引用符など)や合字も含め、1組につき約330種類の活字を彫る。ギリシャ語の24のアルファベットは75もの異なる形で表記されるので読むのは難解

アルドは、印刷様式を読者に読みやすいように工夫したため時代の申し子となった

l  アカデミア

アルドのアカデミアの会則が発見されている――ギリシャ語以外での会話は認めない

何冊かの本には出版場所として「アルドのアカデミア」の記載もあるが、実在の組織かどうかは疑わしい

1502年頃、神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世に出資してもらい、ドイツ語圏に自身の印刷所を移す計画があったが頓挫――マクシミリアン1世には幅広い文化の著作があり、全130冊をドイツの優秀な出版人に託そうとしていた

アカデミアがどれほど具体的だったかは不明だが、マヌーツィオがギリシャやヘレニズムの人文主義者の活発なグループを引き寄せる磁石の役割を果たしたことは間違いない

l  ギリシャ語への回帰

経営難から、普及している言語のラテン語や俗語(イタリア語)の作品の出版を余儀なくされたが、1502年には歴史家のトゥキディデスとヘロドトスの作品、ソポクレスのギリシャ悲劇が出版され、翌年にはエウリピデスとアンモニオスが続く

カンブレー同盟戦争によって3年活動休止に追い込まれたが、1512年にはラスカリスの文法書で復帰

1513年にはプラトンの初版を出版、レオ10世やジョヴァンニ・デ・メディチに献呈

1514年新たなギリシャ語の言語学の本を最後に出版から退く――アレクサンドリアのヘシュキオスの『語彙目録』で、現存するギリシャ語の辞書としては最も広範囲かつ完全なもので、5世紀ごろに編纂され、著者の引用や単語の各方言までカバー

晩年、自身初のギリシャ語の文法書を執筆するが、生前の出版はならず死後発行

出版によってギリシャ語の作品を永久に救出したことは間違いなく、出版の力によって知識が共有されるという考えは、その後フィレンツェの人文主義者によっても引き継がれる

 

第5章        『ポリフィルス狂恋夢』(別称『ポリフィロの夢』)、究極の美しさ

出版の歴史において文学者よりも芸術家のおかげで成功した本は多くない。1499年出版の『ポリフィルス狂恋夢』もその1冊。著者より版画家の長所が前面に出て、挿絵に対して報酬を払ったと言える

1455年のグーテンベルクの42行聖書と1499年の『ポリフィルス狂恋夢』は、インキュナブラの時代において対極に位置する作品

アルドの最も有名な本であり、少なくともルネサンス期では間違いなく最も美しいと考えられている作品が、本人にこれほど愛されていないのはいささか皮肉だが、委託出版だったためアルドは元々「自分の出版物」とは思っていなかった。委託したのはヴェローナの貴族。ダンテの影響を受けた夢の中の物語であり、博識な婉曲表現と過剰なエキゾチズムに満ちた「言葉と文学の倒錯」と呼ばれた

l  最も美しい版画

木版印刷と組版は、この本を芸術作品にしている二大要素で、組み版は数学や地理における黄金比を印刷に応用したとみることもできる

l  「ゆっくり急げ」

この本を特徴付け、様々な面で重要な存在とする要素の1つは、「ゆっくり急げ」という古くからのラテン語の格言と、イルカが錨に巻き付いたロゴマークが初めて印刷されたこと

ロゴマークは、錨を縦にして、1502年以降、アルド印刷所の商標となる

格言のほうは、本に掲載された木版画の80カ所以上に用いられていることから、アルドがとても気に入っていたことは間違いない――ロゴマークにも格言が刻印されている

ロゴマークは、格言の意味を図像で表したもの。船の道具は慎重さを、海の生き物は速さを象徴しており、マヌーツィオの出版活動における姿勢を反映――苦境においても出来る限り入念かつ俊敏でなければならない。時期を待ちつつも定期的に出版し続ける姿勢

アルドの商標が不屈のものとなった背景には、エラスムスの後押しがあった

l  フランチェスコ・コロンナの正体

この本の著者は判明していない。署名もない。出版人の名前も正誤表にのみ記載

38章の最初の文字を繋げていくと1つの文章になり、そこにフランチェスコ・コロンナの名前が含まれているが、同姓同名が2人いて、1人はローマ出身の一族の当主、もう1人はドミニコ会修道士、どちらも著者の可能性がある

l  語り継がれる神話

世間の注目を集めるが、売れ行きは低調

ウルビーノ公グイドバルドに献呈されたが、その宮廷に仕えた部下は酷評

フランスでは、ラブレーがこの作品を引用し、加えた挿絵が功を奏して重版を重ねる

英語版も1592年初版が出版される

世紀をまたいで語り継がれ、ジェイムズ・ジョイスやカール・ユングなども作品に引用

現在初版印刷部数の半分以上、約300部の存在が判明しているが、2013年のクリスティーズのオークションでは316千ドルの値がついた

l  芸術としての『ポリフィルス狂恋夢』

美術史家は、コロンナの文章とティツィアーノ・ヴィチェッリオの絵に官能の着想及び感覚に明らかな共通点があることを発見――前者は夢の中での愛の勝利を主題とし、後者は絵の具と筆の力によって、それまで夢に見るだけだった愛の勝利を現実のものとしている

ティツィアーノの《聖愛と俗愛》(1515年作)は、『ポリフィルス狂恋夢』で語られる内容を表していると解釈できる

その後もあらゆる時代の美術史に残る傑作に影響を与えたことを多くの人が指摘している

 

澁澤龍彦 エッセイ集 『胡桃の中の世界』 (1974.10.1.初版、青土社)

『ポリフィルス狂恋夢』

15世紀イタリアのドミニコ僧フランチェスコ・コロンナの書いた奇妙な夢物語は、初め1499年名高いヴェネツィアの印刷業者アルドゥス・マヌティウスのもとで刊行されるが、後にフランスの高等法院検事ジャン・マルタンの手でフランス語に訳され、『ポリフィルの夢』と題されて1546年パリのジャン・ケルヴェール書店から上梓

原版も読まれたが、仏語訳は知識人の間で一種の知的センセーションを巻き起こした。それには、マンテーニャ派の画家によるイタリア語版の木版挿絵よりも洗練されたジャン・グージョン筆といわれる愛すべき木版挿絵の魅力によるところ大。当時の時代思潮だった古代への憧憬を目覚めさせるのに役立った。コロンナはキリスト教の修道士でありながら、古代へのやみがたい情熱を表明するためにこうした夢物語の形式を選んだのだろう

主人公は夢の中で彷徨いながら、壮麗な古代風の庭園や神殿で、様々な建造物や神話の怪獣や水精(ニムフ)や、愛神ウェヌスの盛大な祝祭や儀式などに遭遇する。ただ、著者の知識は空想的で、歴史的真実とは必ずしも一致しない非現実的なものが多い。コロンナの描き出した古代は、恣意的な創造力で再構成した、ひたすら甘美な夢の古代に過ぎない。コロンナの用いるイタリア語の原文も、その空想的な描写に相応しく、ギリシャ語、ラテン語、ヘブライ語を混在させた、異様なペダンティックな散文だった

16世紀から、イタリアやフランスで、装飾的なモチーフを好む画家や彫刻家や版画家に無限のイメージの源泉として利用され、後世の文学者に少なからぬ影響を与えた。同時代のラブレーの『パンタグリュエル第五の書』は大部分が剽窃と知られるし、18世紀にはミラボー伯爵が獄中の退屈まぎれに描いた春本の中で『狂恋夢』の一場面を利用、19世紀初めのロマン派の詩人の中にも『狂恋夢』の翻案といえる作品が散見されるなど、主題においてのみならず文体においても影響を与えている。サルバトール・ダリの図の中に挿絵そっくりなイメージがある

当時の文学作品としては稀有に属する本書を特徴付けているのは、夢物語の中にエロティックな寓意がふんだんに盛り込まれていること。原題も「睡の中の愛(エロス)の戦い」の意で、夢の中で恋人の姿を求める主人公に、愛神が与える試練の戦いを意味している。中世の『薔薇物語』の伝統の上に立つもので、題名の寓意は、恋人たちのエロティックな試練の戦いを意味すると同時に、キリスト教的禁欲の象徴たるディアナ女神と、異教的愛欲の象徴たるウェヌス女神との戦いをも意味している。最後に勝利するのは異教的愛欲

本書は、古代世界に関する一種の百科事典とも言い得べく、錬金術や医学から、本草学、建築学、測量学、造園学、象形文字に至るまで、あらゆる雑多な知識の宝庫のごとき観を示す

夢判断や夢の解釈に関する理論は遠くエジプトやギリシャの昔から行われていて、当時も多くの迷信的な夢判断の書が出版されていたが、本書はただ夢を語っているに過ぎず、深層心理学の絵解きのような書物。ユングが本書の挿絵を1枚ならず引用しているのもわかる

最初に現れるイメージは、春の自然のイメージ。花の咲き乱れる野原に主人公が1人立っている。妖しい歌声によって魔法にかけられ疲れて眠る。翌日狼や怪物に脅かされながら、巨大な建物の中の洞窟に迷い込み、真っ暗闇の中で恋人の名を呼ぶが現れず、漸く出口に辿り着く。次々と現れる意味深いイメージにはそれぞれ自身の中の女の現実を発見しようとする若い男のテーマが表象され、異教的な官能を謳歌した物語となっている

洞窟から出た主人公は5人の水精(5感の象徴)と裸になって水浴をし、男根を膨張させると水精はどっと笑う。最後に恋人に出会うが、処女神ディアナに純潔を誓った恋人の見分けがつかず、彼女の愛を目覚めさせるためにはウェヌスの力が必要で、ウェヌスの寺院で秘伝を授けられ逸楽の宗教に転向、婚姻の儀式に出発し、第1部はハッピーエンドで終わる

2部は現実的な世界で同じ物語を別の形式で語るが、恋人の愛撫で主人公が目を覚ました時には恋人は消えてしまい、主人公は夢から覚めたことを知るという結末になっている

物語のエロティックな性的な面は全てアレゴリー(寓意)に包まれているにせよ、まだキリスト教道徳が支配していた15世紀末にはかなり大胆不敵なもの。原作は1467年には書き上げていたとみられ、30年以上にわたって秘匿され、コロンナがヴェネツィアの聖ジョヴァンニ・エ・パオロ修道院の重要な役職に任命されて初めてアルドゥス版として刊行。その後も修道院で幸福な晩年を過ごし、94まで長命を保ったという

ユングのいう「アニマ」とは、男の夢の中に現れる女性像であり、男の中の女性的心理傾向が人格化されたもの。現実の女と現実的な関係を結ぶより以前に男の夢の中に出現する女のイメージ

怪物も女精も危険な作用を及ぼすアニマの典型的なイメージであり、その誘惑を克服した後に最もふさわしい現実の女の中に究極のアニマを発見するに至る過程が克明に描かれている

 

第6章        『デ・エトナ(エトナ山について)』と活字の誕生

1496年出版の『デ・エトナ』は60ページの短い旅行記だが、印刷で用いられて活字で注目を集める。ピエトロ・ベンボがエトナ山に上ったときのことを書いたものだが、噴火にも言及した紀行文は火山学の先駆けとなる作品

余白を大きく取り、ページ内で本文の横と縦の比率を黄金比1.61とした

裕福で博識な権力者であるベンボの父親の頼みとあっては断ることもできず、ギリシャ語の出版を中断してラテン語の本を出したが、アルドの関心は低かった

l  フランチェスコ・グリッフォ・ダ・ボローニャ

活字の型を抜くための父型を作成するが、父型の原材料は銅で、手で文字を彫り、焼き入れをして硬度を上げる。父型を銅の板に打ち付けて文字の形をくり抜き母型を作る。そこに鉛、アンチモン、錫を溶かした合金を流し込み、金属が冷えて固まると活字が完成

通常一揃いの活字は、100150回印刷すると鉛の文字が欠け、再び鋳造する

繊細で複雑な作業はコストもかかり、活字の製作は印刷の工程よりも遥かに費用がかかる

アルドが見つけた金細工師がボローニャ出身のグリッフォで同世代、ニコラ・ジョンソンが25年前発明した活字を改良、当時フランスの出版人によって確立されていたローマン体を凌ぐ美しさを実現。「チャンサリー筆記体」という初のイタリック体も生み出す

因みに、ジョンソンの型や活字は1480年の彼の死後、アルドの義父トッレザーニによって買い取られている

アルドの手稿のギリシャ文字の筆跡とグリッフォが作ったギリシャ文字の活字の類似性が指摘されており、両者が緊密に連携して出来上がった芸術作品がこの活字といえる

l  現代における遺産

『デ・エトナ』の活字が、その後何世紀にもわたってヨーロッパのアルファベットの原型となり、脚光を浴びるまでには35年の歳月を要する――フランスの活字鋳造界のクロード・ギャラモンがグリッフォの活字を複製・改良して154061年ヨーロッパの大手印刷所に提供、さらに1929年イギリス人スタンリー・モリスンが『デ・エトナ』の再販で20世紀の編集形式に合わせて「モノタイプ・ベンボ270」という活字を発表

モリスンが開発した活字を3年越しで改良したのがタイムズ・ニュー・ローマン――1年前にイギリスの『タイムズ』紙から依頼されて経済性と読み易さを主眼に開発したもので、灰色がかった薄い紙の他紙には採用されず専ら書籍や雑誌向けだったが、1990年初めマイクロソフトがWindowsのデフォルトのフォントに採用

l  イタリック体

マヌーツィオとグリッフォの真の偉大な技術革新はイタリック体――印刷技術が調和と気品の手段となる

ルネサンス時代の印刷人が目指したのは写本と見分けがつかないほどの印刷本で、グーテンベルクが聖書をゴシック体で印刷したのも、1455年当時のアインツでは、そのように書かれていたからで、イタリアではドイツと異なる書体が用いられていた

証書の作成には「チャンサリー(書記局の意)」という別の書記法が用いられたが、それを真似てアルドとグリッフォが1500年に開発したのがイタリック体

ローマン体より読み易いと考えられ、イタリック体が一般的となる。イタリック体はローマン体よりコンパクトなため、紙面の節約に繋がり、紙代が書籍の最終価格の50%も占めた当時としては経費節減策となったはずだが、アルドの本はどれも行間が広く、余白もたっぷりとられている

l  グリッフォとの決別

1502年ヴェネツィア上院は、イタリック文字の独占使用権を承認。初めて活字が保護の対象となったが、それが原因でグリッフォはヴェネツィアを去る

グリッフォはその後、ヘブライ語の出版で名を残したソンチーノや、楽譜の出版で初めて活字を使用したペトルッチと仕事を一緒にし、10年後独占使用権が切れるとボローニャに戻って出版業を始め、これまでよりも小さなサイズのイタリック体活字を彫る

彼の活字は、英語でitalicと呼ばれ今に残る

グリッフォの新たな活字と互いに補い合って普及したのが小型サイズの文庫本

 

第7章        ウェルギリウス、ペトラルカ、ベストセラーの誕生

アルド以前の本は大きくて重く持ち運びが困難。場所をとる二折判(紙を2度折る書式)は書見台に置かれ、立ったまま大声で読み上げられる。2度折られていても句読点がないのでどのページも同じに見えたし、扉もなくページ番号も振られていなかったので、本の内容を知るためには大きな文字の文の最初の行を読まなければならなかった

マヌーツィオの本は、縦15㎝の軽くて扱いやすい小冊子。アルドが「手引書」「ハンドブック」と呼んだのは、文字通り手で持つことができるからで、「手引書形式の携帯可能な本」と献呈上に明記している。1501年ヴェネツィアで始まった革命であり、さらに1ページ2段という従来の段組みをやめてゴシック様式の伝統と訣別、本文を1段のみにして古代の写本の簡素な形式に戻ることを明示

l  文庫本

マヌーツィオは全く新しい書籍を生み出し、調和がとれ、洗練された印刷様式は後の書籍制作に影響を与える。八折版(3回折る:A3A5)を発明したわけではなく、その体裁を古典文学に対して使用し、それを古典作品とした

小型サイズは、既に聖職者が持ち歩く典礼書に採用されていたが、宗教の世界に限定されていたが、アルドがヒントを得たのは、ベンボの父親の蔵書にあった小型の写本

マヌーツィオは小型本のサイズを変更し、それは現在まで引き継がれている

マヌーツィオが出版を始める以前は、八折版は全体の5%に過ぎなかったが、彼の死の25年後の1540年には市場に出回っている本の51%に達した

アルドの文庫本はイタリック体と不即不離――初の文庫本は1501年のウェルギリウスで、アルドは以後の出版計画を発表するが、アルドが唯一の提供元だったギリシャ語書籍を期待した学者たちからは儲け目当てのアルドの変節が非難されたが、アルドはギリシャ古典文学から手を引いたわけではなかった

l  娯楽としての読書

小型本は画期的な変化をもたらす――本を読む方法を変え、読書の動機を多様化

余暇を読書に当てることを可能にしたり、黙読という習慣も生まれた

人々は楽しみのために本を読むようになる――アルドがその必要性を作り出した

アルドの発明品が持つ破壊力は時間を飛び越え、これからも飛び越え続けるだろう

紙から電子へと媒体は変わっても、アルドが与えてくれた読書の喜びが消えることはない

l  欲望の対象

アルドは出版方針を変更し、未発表の作品からすでに大型本として完全な注釈付きで出されている本を中心に出版することとし、普及を主目的とした

富裕層を中心に新たな読者層を掘り起こす――本は憧れの的となり、印刷が追い付かず

製本や細密画は外注

羊皮紙を使って豪華な本を作ったり、史上初めて青い紙に印刷したのは原価を同じにして販売価格を上げることができた

勅許状の紙に印刷する――コストは5倍だが、販売部数を制限して希少価値を持たせる

l  俗語の勝利

文庫本は全て俗語で出版された――ウェルギリウスに次いでホラティウス、ペトラルカ、キケロの『友人宛書簡集』、ダンテと続く

俗語の2大詩人、ダンテとペトラルカの作品が、友人のピエトロ・ベンボの編纂で注釈をつけずに出版――人文主義を反映し、ペトラルカの『カンツォニエーレ』は『俗語詩断片集』、ダンテの『喜劇』は『三韻詩句』(『神曲』になるのは1555年の版以降)と改題

ペトラルカは初期のベストセラー作家といえる――1470年のシュパイヤーの第1冊目を皮切りに30年間で38冊の俗語の師が発表されており、アルドの印刷機からだけでも2万部以上が生まれている

俗語は、人文主義の学者からも2流とされたが、読者を大衆化した効果は大きく、やがて宮廷での流行となり、権力者たちの間で人気を博す

さらにはペトラルカの詩をリュートに合わせて歌いながら宮廷を渡り歩く人が現れ、ペトラルカの音楽作品が流行し、ブームは17世紀後半まで続く

初めて俗語の本がラテン語の作品と同等に扱われ、文献学上も同じくらい注目される

ペトラルカの作業は、オリジナルの写本が存在したお陰でベンボの校正作業も順調に進む

ベンボは残りの人生を「俗語」の理論と文法を確立して過ごすと宣言

l  言語

1501年一部の批判をよそに、アルドとベンボは句読点には注釈と同等の価値があるとして、読み易くするために編集

ペトラルカの伝説的な存在は、アルドによって確固たるものとなる――イタリア国内では148点の『カンツォニエーレ』が出版されているが、16世紀だけで10万部が出回っていたし、ベンボがイタリア語を体系化する際に根拠とした「3つの王冠」(フィレンツェを代表する3人の文化人、他はダンテ、ボッカッチョ)の最も重要な詩人だった

写本に頻出する誤字・脱字を補正する一方で、注釈を削除し、解釈を完全に読者に委ねた

アルドは時代の寵児であり、博識で革新的だったが、教会の教えに従順だったために、破廉恥と見做されているものは遠ざけた。出版物は全て宗教上の厳格な戒律に則っている

彼の教育の理念は、自由な真理の探究を促すことより、キリスト教に深い根源を持つ。優れた文学作品の復活は、「正直で常識的な」キリスト教徒の育成に役立つ 

ウェルギリウスの淫らな詩は出版しないと明言し、ルクレティウスとは距離を置くことで、俗語の作家からボッカッチョを排除する意思を明確にした

l  娯楽と学問

文庫本の出版計画からは、マヌーツィオの教育的な目的も窺える――キケロの『友人宛書簡』は修辞学のテキストにされる一方、俗語の書簡集は顧みず、ヘロドトス、トゥキディデス、カエサルは優雅な文体で叢書に加えられ、ヴァレリオ・マッシモの歴史書はすでに広く普及していたために商業価値があった

 

第8章        ヘブライ語聖書

アルドの出版活動においてヘブライ語は大きな懸案事項――『ヘブライ語入門』は未完に終わり、1501年ラスカリスの『弁論八部集』の巻末に追加されて出版

ヘブライ語を勉強し、ヘブライ語の活字を1組持っていたことは窺えるが、未完に終わる

ヘブライ語の活字を用いた本は1470年にローマで誕生。イタリアにおけるヘブライ語出版の発祥地はクレモナの小都市ソンチーノで、同名の出版一家が唯一ヘブライ語の本を出版していた。1488年にはヘブライ語聖書が出版される

l  ソンチーノ、ヴェネツィアを去る

ソンチーノの(ヘブライ語の)『注釈集』をアルドが加筆、訂正し、1503年に再出版する

さらにアルドは、各単語の上に音訳とラテン語の翻訳をつけたヘブライ語の原文をいくつか出版したが、ソンチーノが去ったことでヘブライ語の出版を諦めた

 

第9章        ベンボ『アーゾロの談論』とエラスムス『格言集』

1501年ベンボはペトラルカの監修を行っていた際にイタリア語の体系化を思いつくが、共に働いていたアルドが何らかの貢献をしたと考えるのが自然

 

l  イタリア語

ベンボは1539年に枢機卿に任命されるが、ペトラルカやダンテの編集作業の傍ら、自分たちの言葉を形式化することを思いつく

1525年イタリア語の初の文法集『俗語読本』の出版に結実

ベンボは、愛についての対話集『アーゾロの談論』を執筆、1505年アルドが出版

l  ロッテルダムのエラスムス

エラスムスは150709年ヴェネツィアに滞在するが、アルドの下で確固たる知識人としての地位を築く――1500年にパリで出版した『格言集』を皮切りにアントワープで名声を高めていたが、1506年トリノで神学博士号を取得してローマへ向かい、ギリシャ語を習得して人文主義者たちとの交流を深めるなかでマヌーツィオとも繋がりを持つ

エウリピデスのラテン語訳を不朽のものとするのは、アルドの美しい活字しかないと言ってアルドに出版を勧める

ヴェネツィアに来て何冊か出版した後、『格言集』にとりかかり、初版に登録されたラテン語の格言818を、ギリシャの作家にまで広げて3260まで拡大。重い二折判にも拘らず16世紀最大のベストセラーとなり、合計66販のうち、9版はエラスムス自身が1536年死去するまでに見直して修正

9か月間アルドの印刷所に通い、植字工の側で原稿を確認、本文を修正してはすぐに植字工に渡し作業を進めた

エラスムスの名声が広まったのは偏に『格言集』の出版のお陰

格言の1001番目には、アルドの教訓でもある「ゆっくり急げ」も取り上げられ、友人に対する愛情深い弁明を試みている

l  トッレザーニ家

エラスムスはイタリアを離れた直後『愚痴神礼讃』を執筆。アルドの印刷所で目にした口論をベースにしている

エラスムスは他の著作でもトッレザーニをケチな大金持ちと書いている

食事にも金をかけずに水増ししたワインや粘土を混ぜたパンなどを食べさせられた

 

第10章     敵と志願者

アルドの出版物がそこかしこで真似されたのは成功の証

1502年アルドは海賊版の出版に対しヴェネツィア政府に嘆願書を提出

リヨンでは、文庫本の完全な模倣が現れる。原本より速やかに再販が繰り返される

遂にはフィレンツェの大手出版社ジュンタがアルドの複製版を出版、独占権にも異議を唱えたため、アルドもジュンタをヴェネツィア共和国上院に提訴し、上院はアルドの主張を認めたが、リヨンの海賊版やフィレンツェの複製版には効力が及ばず

どこまで競争相手による模倣が深刻だったのかについては、両論あってはっきりしない点が多い

 

l  ミラノの競合者

競合者の出現に対しアルドは出版独占権で対抗するとともに、ヴェネツィア貴族との幅広い交友関係を持ち出したので、彼に盾突く者は滅多にいなかった

l  ストーカー

ヨーロッパ中の出版界で名の知られた人気者となったアルドの動向について情報を得るために多くの人が動き、少なからぬ作家がアルドの商標の入った本を出版して知名度を上げようとした

 

第11章     マヌーツィオと死の後継者

1515年死去

最後の出版は、死の1か月前、ルクレティウスの『事物の本性について』――八折版で、アルベルト・ピオに献呈。教師としてのアルドの集大成

遺言執行人にアルベルトとリオネッロ・ピオを指名し、カルピに埋葬して欲しいと要望、妻と息子たちはその地に住み、領主より財産を受け取るよう命じ、娘たちには結婚か修道院に入るかを自由に選ばせた――当時娘に選択の自由を与えることや恋愛結婚を勧めることも異例。アルドの墓は見つかっていないし、カルピの年代記でも埋葬の記載はない

 

l  パオロ・マヌーツィオの時代

アルドがなくなったとき、後継者となるパオロはまだ3歳で、アルドの印刷所はアンドレアと息子のジャン・フランチェスコによって運営される

パオロは12歳のときヴェネツィアに戻り、アンドレアの家で暮らし、1529年アンドレアの死後、1533年ジャン・フランチェスコと共に事業を再開する

15402人は訣別し、パオロの印刷所は1561年まで続いて成功を収めた――ラテン語の古典文学を出版し、キケロの名は51回も登場。神聖ローマ皇帝マクシミリアン2世に認められたことは意義深い。28年間に346点はヴェネツィアでもひときわ勢いがあったことを示し、内容的にも技術的にも文句なしの出来栄え。大半は文学。マキャヴェッリも含まれ、バルダッサーレ・カスティリオーネの『宮廷人』は4度出版され、16世紀に最も売れた本となり、出版史上初のベストセラーとなった

16世紀に広く普及したジャンルの書簡集も54冊ある――キケロを凌ぐ作家はいない

パオロの夢は、ヴァチカンの印刷所で聖書を出版すること。ローマに行くことはできたが、対抗宗教改革運動に巻き込まれて9年間に出版された本は数えるほどで一旦ローマを脱出

1572年再びローマに戻りグレゴリウス13世の命でエラスムスの削除版の編集を行うが、息子との関係が悪化したまま1574年死去

l  アルド・マヌーツィオ・イル・ジョーヴァネ

マヌーツィオが構築した事業をパオロが維持し、その息子アルド・ジュニアが浪費し、借金地獄に陥って死去

 

第12章     アルドの財産

アルドの出版した本はヨーロッパ全土で垂涎の的。遺言状でも言及される

 

l  蒐集

画家アルブレヒト・デューラーは、アルドの本に細密画を提供しているが、彼の習作の基となったのは北方に運ばれてきた『ポリフィルス狂恋夢』の可能性が高い

トマス・モアは1516年『ユートピア』の初版を出版――理想の社会の島では、「アルドの小型本を読み、ラスカリスの文法書を持ち、高価なブルタルコスの本を所有」と描く

王侯貴族が競ってアルドの書籍を求め、1639年ミュンスターでグーテンベルクの発明の200周年を記念して出版された本ではアルドの出版物の素晴らしさを認める

18世紀初めには流行が下火となったが、世紀末には伝記が出版されるとブームに火がつき価格が急騰

最も重要なアルドの蒐集家で研究者は、アントワーヌ=オーギュスタン・ルノワールで、20代のころから出版人、書店主、愛書家として名を馳せ、1853年死去、享年88――アルドの出版年表は何度も版を重ね、最も完全かつ信頼できる図書目録研究。伝記も出版

2018年クリスティーズでアリストテレス全集が315千ユーロで落札されたが、全5巻がすべて原本で、他の版が混じっていない――出版当初からセットとして扱われていた証拠

l  アルドをめぐる人々

蒐集家によるアルドの本の再発見が書籍の世界全体に対する関心を高める

1830年古書店主だったウィリアム・ピカリングがアルドの名を冠した全57巻の『オルダイン英国詩人叢書』の出版を開始、本には錨とイルカの銘をあしらった商標が用いられた

1920世紀、アメリカの多くの図書館で漆喰装飾、帯状装飾、彫刻、絵画、コーニス(洋風建築で軒と壁の頂部に帯状に取り巻く装飾)などにアルドのシンボルが使用された

詩人で劇作家のダンヌンツィオも1929年の献辞文でアルドに言及

愛書家の国際的団体は「アルダス・クラブ」と名付けられ、本部はミラノ

1985年にはシアトルで史上初のページレイアウト・ソフトウェアが発売され、「アルダス・ページメーカー」と名付けられ起動画面にはマヌーツィオの『ポリフィルス』が表示される。開発者はアルダス・コーポレーション。アップルのマックには標準装備され、ページレイアウトの革命を起こし、「デスクトップ・パブリッシング」という用語も誕生

アルダス社は1994年アドビ社に買収されさらに改良版に取って代わられる

「プロジェクト・マヌーツィオ」は、1971年名作文学を電子化してネット上で公開する目的で始まった「プロジェクト・グーテンベルク」のイタリア語版。第1号は1993年で、現在書籍4000冊、音楽8000曲、オーディオブック数百冊がダウンロード可能

2015年にはマヌーツィオの没後500年を記念してグラフィックノベル『アルド・マヌーツィオ』が出版されたほか、記念切手やアルドの業績を題材にした本やワインまで登場

l  芸術作品におけるアルド

1504年ピオ家との養子縁組と貴族の姓を名乗ることを記念したメダルが鋳造され、表面にアルドの横顔、裏面に錨とイルカのマークが彫られ、いくつかは現存する

16世紀初頭には、領主アルベルト・ピオと並んで立つフレスコ画がカルピニはいくつも描かれたり、単独の肖像画も残る

l  アルドの家

ヴェネツィアのアルドの印刷所があったサンタゴスティン一帯は教会も1808年閉鎖された後、公営住宅が建てられ現在に至る。印刷所は現在ピッツェリアで、本とピザは今も昔もイタリアが誇る2大輸出品

 

 

訳者あとがき

2013年の同著者の前書の訳者あとがきで、「電子書籍の登場によって人間と本の関係は明らかに変わってきた」と書いたが、本書第7章の「娯楽としての読書」の締めくくりの文章で、「紙から電子へと媒体は変わっても、アルドが与えてくれた読書の喜びが消えることはない」とあったのを見て、前言を撤回したい

紙であろうと画面であろうと、本質は変わらない。いつの時代にも、本は常に人間の支えとなる心強い存在

スティーブ・ジョブズがスマホの必要性を生み出したように、アルドは読書の必要性を生み出した。その画期的な発明が持つ力は、500年経っても衰えていない

2015年の没後500年ではイタリア各地で記念行事開催、生地の村パッシアーノには文学博物館がある

著者のアレッサンドロ・マルツォ・マーニョは、綿密な調査に基づきあまり知られていない歴史にスポットを当てる作家。このほど20冊目の『ヴェネツィア 海と陸地の歴史』を上梓。第4回十字軍を率いて1204年東ローマ帝国を滅ぼしたヴェネツィア元首エンリコ・ダンドロを尊敬してやまないマーニョはこれからも故郷ヴェネツィアの埋もれた歴史を掘り起こし後世に伝えていくだろう

 

 

 

柏書房 ホームページ

私たちが普段読む本には、冒頭に目次や序文や献辞があり、ページ数が振ってあり、文章は句読点で句切られ、時折書体を変えて強調されている。巻末には索引がついていたり、時には正誤表が挟み込まれていたりもする。持ち歩いたり寝そべって読んだりするのに文庫本サイズはとても便利だし、書店に高く積まれたベストセラーには興味をそそられる。

実は、いま太字で強調したものすべては、今からおよそ500年前、たった一人の人物によって生み出されたものである。グーテンベルクによる活版印刷技術の発明からわずか半世紀後の自由都市ヴェネツィアを舞台に出版の世界に大変革を巻き起こし、現在も使われている書籍の体裁を発明した出版界のミケランジェロことアルド・マヌーツィオの激動の物語。

 

 

 

Wikipedia

アルドゥス・ピウス・マヌティウス(: Aldus Pius Manutius 1450151526)は、ルネサンスヴェネツィアで活躍した出版人。商業印刷の父と言われる。イタリア語名でアルド・マヌーツィオ(: Aldo Pio Manuzio)とも呼ばれる。1494アルド印刷所を設立して多くの名著を出版し、子・孫の3世代に渡って印刷文化を牽引した。

生涯・業績[編集]

バッシアーノに生まれ、ローマで成長する。古典のギリシャ語ラテン語を学び、人文主義者ピコ・デラ・ミランドラとも交友があり、非常に学識豊かであった。1475から20年かけて、ヴェネツィア印刷工房を設け、ギリシア、ラテンの古典(約120点)を校訂し、出版した。ギリシャ文字の活字を製造し、また、イタリック体アンティカ体を開発した。

近代の印刷技術の祖であるヨハネス・グーテンベルクとアルドゥスの作った本には2つの大きな相違点がある。それはノンブル(ページ番号)の有無及び本のサイズである。グーテンベルク聖書に見られるように、グーテンベルクの作った本にはいずれもノンブル付けがなく、かつ大変な大型本であったのに対し、アルドゥスの視点は異なり、ページの順序を示す番号を紙面の端につけ、また八つ折り判を採用することで本のサイズ自体を小さくした。「持ち歩ける」小型本の歴史はアルドゥスに始まるものであり、これは書物史における転換点であった。

一方では、彼による技術革新によって海賊版とよばれる刊行物の横行と、それに対する戦いが始まることとなり、これは21世紀に至るまで続いている。

DTPという概念を創出した20世紀における出版関連ソフトウェアの開発企業アルダスは、彼の名(英語読みでアルダス・マニューシャス)を取ったものである。

 

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