チャップリン 大野裕之 2022.5.23.
2022.5.23. チャップリン 作品とその生涯
著者 大野裕之 1974年大阪府生まれ。大阪府立茨木高卒、京大卒、同大学院博士課程所定単位取得。専攻は映画・演劇学。日本チャップリン協会会長。チャップリン作品の日本版Blue-ray、DVDボックスの監修などに携わる。映画《太秦ライムライト》の脚本・プロデュースなど多方面で活躍。著書に『チャップリンとヒトラー メディアとイメージの世界大戦』でサントリー学芸賞受賞
発行日 2017.4.25. 初版発行
発行所 中央公論新社 (中公文庫)
「このような時代においては、笑いは、狂気に対しての安全弁となるのです」。400巻のNGフィルムを全て閲覧した筆者が、初期の短編、《街の灯》《独裁者》等の名作から幻となった遺作《フリーク》まで、喜劇王が作品に込めたメッセージを読み解き、新たな実像を提示する画期的評伝。文庫書き下ろし
はじめに
時代も国も超えた存在だが、多くの誤解も存在。神格化されたエピソードから根拠のないゴシップまで。戦前のナチスや冷戦期のアメリカで捏造された人格攻撃の名残もある
2005年『チャップリン再入門』を書いたが、それを最新版にしたのが本書
² チャップリンの誕生
l ケニントン・ロードを歩く
テムズ川を挟んでウェスト・エンド地区の対岸に位置し、チャップリンが生まれた当時は貧民街で、チャップリン一家が収容されていた貧民院(ワークハウス)は、現在映画博物館になっている
l 極貧の幼少時代
1889年ロンドン南部の生まれ。両親ともミュージック・ホールの芸人
4代遡ってもユダヤ人はいない。母方の祖母がロマで、チャップリンは誇りにしていた
2歳のとき両親が離婚、母は貧困が高じて精神病で入院、父は酒が原因で死去。異父兄と共に浮浪児生活を送る。生き残ったこと自体が奇跡。《キッド》(1921)は自身の体験
賭場に連れていかれる羊が1頭抜け出して町中が大騒ぎになるが、捕まると突然悲劇的な現実が訪れる。ドタバタ喜劇と悲劇的な現実、この時の記憶が後年の作品の基調になった
l 母ハンナ
チャップリンも5歳のとき、声が出なくなった母に代わって舞台に立ち喝采を受ける
父の違う3人の子を育てた母は、チャップリンにとって世界一の物真似芸人
ぼろをまとっていても上品であるようにとの母の教えは、「放浪者にして紳士」に生きる
貧困から精神に異常をきたし、以後完治することはなかった
l 父チャールズ 少年俳優チャーリー そして兄シドニー
チャップリンが職業舞台人としてデビューしたのは9歳のときで、父の伝を頼ったもの
酒癖が悪く、チャップリンは生涯深酒はせず、今もチャップリン映画とそのキャラクターは酒会社のCMには使用できない
14歳のとき《シャーロック・ホームズ》のビリー少年を演じたのが当たり、3年にわたり巡業公演で演じる。正統派の芝居(正劇)であり、天才チャップリンの礎となる
学校に通えず文字の読めなかったチャップリンに代わって台本を読んでくれたのが兄シドニー。自らも舞台に立ち、英国ミュージック・ホール界の雄かーのー劇団に入団、その推薦でチャップリンも18歳で入団。寸劇ジャンルが得意な劇団で、リズミカルに笑いを生み出し、チャップリンもすぐに頭角を現す
l 帝国の娯楽 ミュージック・ホール
ミュージック・ホールの起源は、飲食店の余興で、1843年の「劇場法」により演劇の場での喫煙・飲酒が禁止され、飲食の場では台詞を含む演劇が禁止されたため、1852年に歌やダンス、寸劇や奇術などの「見世物」を酒と共に安価で労働者に提供する施設として出来たのがミュージック・ホールの始まり
映画が誕生するまでのイギリスの大衆娯楽の主役
歌われたのは、農作業の合間に歌っていたバラッド、ミュージック・ホールの成立は、産業革命による農村から都市への人口移動、イギリスの都市労働者階級の成立と密接に関連
l イギリスからアメリカへ
1910年、カーノー劇団の公演で初めてアメリカに行くが、イギリスのギャグが全く受けず、ニューヨークの早いテンポにも面食らう
² 〈放浪紳士チャーリー〉の誕生
l キーストン時代――スクリーン・デビュー
1913年、2度目のアメリカ公演の際、突然ニューヨーク・モーション・ピクチュアという映画会社の社長からスカウトのオファーが来て、カーノーの倍の週給で出演することに
デビューは’14年2月公開の《成功争い》というドタバタ喜劇だったが、批評家たちは第1級の喜劇役者としてチャップリンの演技を「天賦の才」と賞賛
政治的にも経済的にも、世界の中心がイギリスからアメリカに移った節目の年に、チャップリンもアメリカへと移民
l 扮装の誕生
'14年2月公開の3作目《メイベルのおかしな災難》で、チャップリンお馴染みの「放浪紳士」のキャラクターの紛争誕生――ちょび髭、ドタ靴、山高帽、きつい上着にだぶだぶのズボンで、プロデューサーから突然何かギャグが欲しいと言われて思いついた服装と仕草
「チャーリー」の誕生にスタジオ中が見物に集まったという
ほぼ同時公開の2作目《ヴェニスの子供自動車競走》では、ニュース映画のカメラマンと、どこに映りたくてキャメラの前をうろうろする放浪紳士とのやりとりだけの作品だが、キャメラマン=権力と大衆の象徴たるチャーリーとの闘いというテーマが早くも画面に現れている
l キーストン
プロデューサーのマック・セネットの思いつきから喜劇が生まれるアメリカ的、映画的要素と、チャップリンのイギリス的、ミュージック・ホール的な演技とは正反対の取り合わせ。セネットは元々ミュージック・ホールの売れない役者で、映画会社のバイオグラフ社に入社するが、そのバイオグラフに後に「アメリカ映画の父」と呼ばれるD.W.グリフィスが入社、彼の下で鍛えられたセネットは、1912年にニューヨーク・モーション・ピクチュアが喜劇専門のキーストンを創設した際その経営を任される。映画に喜劇を持ち込んで、テンポの速いコメディを作り上げる
一方のチャップリンは厳しいリハーサルで完璧な演技を作り上げるカーノー劇団仕込みで、セネット流のやり方は俳優の個性をなくすとして反発、一時は解雇寸前まで行くが、それまで見たことがなかったチャップリンの個性に魅了されて映画は大当たりとなり、チャップリンは瞬く間にスターダムにのし上がる
《チャップリンとパン屋》(1914)に見られるアナーキーなまでの若々しさが魅力
(1) 1913~'14年3月:監督たちとの衝突期 《成功争い》から《メイベルの身替り運転》
(2) 3月下旬~4月初:監督挑戦期 《恋の20分》から《雨に降られて》――監督に挑戦。初監督作品が《恋の20分》。階級社会における人間の虚栄心を冷徹に描く
(3) 4月中旬~6月初:《醜女の深情》撮影の傍らマック・セネット監督のもと主演俳優修業期――映画史上初の長編喜劇に出演。瞬時に成功が約束された俳優
(4) 6月中旬~7月中旬:監督復帰3部作《笑いのガス》《道具方》《チャップリンの画工》――イギリスでも7本が一斉に公開されチャップリン・ブームを巻き起こす
(5) 7月末~9月末:時間をかけた秀作と手早い間に合わせ作品の混交期――キーストン内での発言権が増し、じっくり時間をかけた作品(それでも1~2週間程度)を作り始める
《チャップリンとパン屋》では、ストライキに加わらない。組織に属さず、あくまで自由な個人であり続けた放浪紳士チャップリンの歩みはこの頃から始まっている
(6) 10~11月:新会社移籍のために忙殺された低長期――年末の契約更新期限を控え、チャップリンの気持ちはすでに新天地に向いていた
l エッサネイ時代――「フィーチュアリング・チャーリー・チャップリン」
週給400ドルという破格の条件を提示したセネットに対し、チャップリンは1000ドルを要求。「公園と警官とかわい子ちゃんさえあれば喜劇が作れる」と豪語(アメリカでもっとも有名な「チャップリンの名言」とされる)。ライヴァルを出し抜いてシカゴの映画会社エッサネイ社と契約金1万ドル、週給1250ドルで契約。西部劇《ブロンコ・ビリー》のヒットを出した会社
チャップリンはこの時代に3つの重要な要素を獲得
1つは、映画製作における「孤独」を手に入れた――ボスのいない地位で、孤独の中で演技をじっくり考えて撮り直す、というチャップリンをチャップリンたらしめるワンマンの完璧主義がこの頃芽生える。孤独を通じて、チャーリーとは誰なのかが明らかになってくるが、チャップリンは人物それぞれの孤独=個性を描き、ドラマを構築し始める
2つ目は、ヒロインとしてエドナ・パーヴァイアンスを得たこと。彼女のデビュー作がエッサネイ第2作の《アルコール夜通し転宅》(1915)で、以後’23年まで35本の作品に出演、公私ともコンビを組み、喜劇にロマンスの要素を加味して成功
3つ目の要素が「アメリカ」――ロサンゼルス以外で映画作りをした時期で、広大な国土、多様な地域性を感じ、映画に取り入れた。チャーリーが放浪者であることが強調されたのは、アメリカのホーボー文化の影響だろう
ホーボー(Hobo)は、アメリカで19世紀の終わりから20世紀初頭の世界的な不景気の時代、働きながら方々を渡り歩いた渡り鳥労働者のこと。ホームレスのサブカルチャーの一員。
鉄道に無賃乗車を決め込みながら、時には追い立てられ、アメリカの自由なフロンティア・スピリットを自らに体現し、文学や音楽の世界で多くの人が彼らに憧れと共感を示した。ウディ・ガスリー、ボブ・ディラン、ポール・サイモン、ティム・バックリィなどフォークをベースにした音楽を作った人たちには、ホーボーを歌った曲、タイトルがある。日本でも佐野元春は「インターナショナル・ホーボーキング」という曲があり一時期自らが率いるバンドを「ホーボーキングバンド」と称していた。
この時代の代表作は最後の作品で《失恋》(1915)で、エドナの優しさを愛と勘違いし、彼女に恋人がいることを知って落胆し、1人寂しく去っていくラストシーンは、チャーリーを象徴するシーンとしてその後も何度も繰り返され、放浪紳士のイメージを決定づける歴史的なショットとなる
大きく変化したのがタイトル画面で、「フィーチュアリング・チャーリー・チャップリン」と制作者を大書・明記して、誰の映画かをはっきりさせた
l ミューチュアル時代――「一番幸福な時期」
1915年末、チャップリンの争奪戦となり、ミューチュアル社が週給1万ドル、契約金15万ドルで獲得。キーストン社の喜劇役者として活躍していた兄のシドニーがチャップリンのマネージャーに専念
ミューチュアル社は、ロサンゼルスに専用の撮影所の提供など、153万ドルを投資したが、十分元が取れた。最初からヒットを飛ばしたが、同時にじっくりと腰を据えて製作に取り組み、1つ1つの演技に拘り、話の背景を語るなどストーリー・テラーとしても進化
アクションをこなしながら、50年でわずか2度しか大きな怪我をしていないのは驚異的
現存する最後のテイクは808。当時他の監督たちは1週間で2巻もの作品を作っていたが、チャップリンは41日もの時間をかけた(1日20テイクが普通)
l チャップリンのNGフィルム
チャップリンは完璧主義者で、納得いくまで何度も撮り直したため、膨大なNGフィルムが発生。慣例に従って、チャップリンもアメリカを国外追放された時、キャメラマンに焼却を命じたが、病気がちだったキャメラマンが防空壕の中に保管、伝説的なコレクターに売却され、暫く秘匿された後、’80年代に発見され、現在はロンドンの英国映画協会BFIに保管。その数約400巻。聞きしに勝る完璧主義者ぶりが偲ばれる
1918年独立した第1作《犬の生活》で心優しい「放浪紳士チャーリー」のイメージとスタイルを確立させたと言われるが、その直前のミューチュアル時代の試行錯誤を重ねて変貌を遂げていく「チャーリー誕生前夜」の産みの苦しみを知るために興味深い資料
チャップリン特有の仕事法――①'23年までは台本なし、②クラッパー・ボード(カチンコ)にはシーンごとではなく通し番号が付けられていた
ミューチュアル第11作目《移民》(1917)は映画史上名高い傑作短篇。そのNGフィルムに隠された創作の秘話とは、抽象的なアイディアから出発しながらも、何度も撮り直していくうちに具体的・現実的なテーマやストーリーを組み立てていくのだった
l 抽象的アイディアから具体的なストーリーへ
《移民》の場合も、ストーリーも配役も決まらずにスタートし、撮り直しを重ねていくうちに自ずと出来上がっていく。テイク207で最大の変更を行っている
l アメリカの現実、移民の現実
テイク231から面白い演技の撮影――日本人運転手高野虎市から習った侍の演技をするが、日本人以外には受けずすべてカット
撮影の2カ月前に、極めて排他的な移民制限法成立。さらにスパイ活動制限法によって言論機関の自由な活動も制限され、様々な愛国団体が外国人排斥の声を上げた
自ら移民であることを自覚したチャップリンは、テイク384から船上の移民の撮影に変わり、わずか23分の短篇喜劇のために40日間を費やし、その間に映画のテーマは移民というアメリカ社会の深い部分を掘り下げていった
チャップリンは「笑いと涙とヒューマニズムの映画作家」といわれるが、チャップリンのヒューマニズムは、あくまで笑いや芸に拘って、果てしない撮り直しの末に体得されたもので、時代や国境を超えて響く彼の「メッセージ」も、磨き抜かれた身体芸に裏打ちされているからこそいまだ残酷なまでの強度と説得力を持つのだ
l チャップリンの内なる「冒険」
ミューチュアル社の最後の作品は《冒険》(1917)――キーストン調に先祖返りした作品
チャップリンが去った後、エッサネイは既存のフィルムに一部追加撮影して作品を改変して公開。それを知ったチャップリンは訴訟を起こすが敗訴。作家としての権利を守ることの大切さを考え、模倣のできない作品作りを目指すとともに、1918年以降チャップリンの撮影所で作られた作品はすべてチャップリン家の会社であるロイ・エクスポートが著作権を管理。さらに夥しい物真似芸人からチャーリーやチャーリーのキャラクターの肖像権を守るために裁判を起こし、ちょび髭に山高帽という放浪紳士チャーリーのスタイルはチャップリンのものであることを司法に認めさせた。生身の人間によるキャラクター肖像権の確立という意味で画期的な裁判であり、後のキャラクター・ビジネスの礎を築く
² 〈放浪紳士チャーリー〉の完成
l 独立――チャップリン撮影所建設
自分の納得いく作品を撮るためには完全な自由と独立が必要であり、ファースト・ナショナル社と自作の配給について1年間100万ドルの契約を結んで、ミューチュアルから独立
サンセットとラブレアの角のオレンジ畑の土地2万平米を34千ドルで購入、10万ドルかけて撮影所を建設。開所式には業界のスパイが潜入して、ストーリーのノートなどが盗難に遭ったところから、チャップリンの製作における秘密主義貫徹が始まる。以後1952年の《ライムライト》までここでの製作が続く。現在はジム・ヘンソンのスタジオがある
l 《犬の生活》(1918)――〈放浪紳士チャーリー〉の完成
独立した第1作が《犬の生活》で、浮浪者のチャーリーと野良犬とキャバレーで虐げられている薄幸の少女エドナ、社会の底辺にいる3者が力を合わせて生きていく様を描く、まさに〈放浪紳士チャーリー〉のイメージを確立させた記念碑的作品
当初のタイトルは《心配無用I
Should Worry》で、76日の撮影期間中59日キャメラを回した。4月封切り
フランスの批評家が「シネマの初めての完全なる芸術作品」と呼び、喜劇映画が単なる見世物とされていた時に、高級芸術と見做されていた舞台のなかで当時最も尊敬されていた女優ミニー・マダン・フィスクが『チャップリンの芸術』という文章を発表するなど、その芸術性が高く評価され始めたきっかけとなる
l 《公債》と《担え銃(つつ)》――チャップリンと戦争
チャップリンの最初の戦争の記憶は第2次ボーア戦争
帝国主義的なテーマに満ち溢れたミュージック・ホールで修業し、街中が戦争を礼賛する言葉で溢れている中生まれ育ったが、「偏執狂的愛国熱」なる空しい観念に染まることなく、貧苦という現実と闘い、その闘いを支えたのは、舞台女優だった母がくれたユーモアに満ちた笑いと人間味溢れる愛の灯だった。この幼少時代の体験こそ、チャップリンの人生を貫く戦争観となる
兵役拒否の中傷が出され、集団ヒステリーの恐ろしさを味わったが、体重不足で兵役不適格となったものの、チャップリンの人気は戦場でも兵士の心を癒す
戦時公債募集キャンペーンに協力して旅に出る
映画史上初めてリアルな塹壕を登場させ、戦場での兵士の現実を描いた《担え銃》はそれまでで最大のヒット。その撮影の合間に撮ったのが《公債》
戦闘行為を描くのではなく、兵士の悲哀を描く。敵国であってもその文化や人に敬意を表し、戦争そのものを憎む――チャップリンの反戦の思いは一貫している
l 《サニーサイド》(1919)と《一日の行楽》(1919)――最初の結婚とスランプ
1918年、子役上がりの女優ミルドレッド・ハリスと結婚。妊娠と噓をつかれての結婚で、うまくいくはずもなくスランプに陥る
《サニーサイド》は、ニジンスキーに感化され初めてバレエを取り入れた作品。ニジンスキーは撮影所を訪れ、彼との出会いは後年の《ライムライト》へと繋がっていく
《一日の行楽》は、平均的なサラリーマンを描いた作品だが、スランプ中の作品で、キャメラを回す日も少なく退屈が続く
l 《キッド》(1921)――史上初の「世界的ヒット作Block Buster」
1919年、天才子役のダンスを見てヒントを得、爆笑の後にほろりとさせられる傑作《キッド》のアイディアを得る。その間、最初の子が誕生するが、重い障碍をもって4日で死去
その後子役は、チャップリンと別れると魅力が生かされず13歳で人気は終わり、それを契機に子役の権利を守る法律が制定され、今でも「クーガン法」と呼ばれる
1920年、ミルドレッドとの離婚成立
《キッド》は世界50か国以上で公開され、映画史上初の「世界的ヒット作」となる
本作は、困窮を極めて何度も孤児院に入れられた自身のロンドンでの幼少時代の記憶がベースにあり、お涙頂戴の俗悪な代物にならないのは、幼少期の体験に基づいてリアリティとある種の残酷さが作品の底流を冷たく流れているから
l チャーリーを捨てる?――短篇最後の日々と凱旋帰国
ファースト・ナショナル社との契約の最後が3本の短編喜劇――ゴルフ・ブームを皮肉った《のらくら》(邦題は《ゴルフ狂時代》)のほか、《給料日》と《偽牧師》
《偽牧師》は、あらかじめシナリオとギャグを準備して撮影に取り掛かった最初の作品であり、エドナがヒロインとしてチャップリンの相手を務めた最後の作品
撮影の途中で10年ぶりにロンドンを訪ずれリッツに投宿、原点を見つめ直す機会となる
² チャップリンの黄金時代
l ユナイテッド・アーティスツの設立
1919年、ファースト社に不信を抱き独立を決意、映画会社が談合して俳優のギャラ引き下げに動いたことに反発したパラマウントのスター俳優でアクション・スターのダグラス・フェアバンクスと「アメリカの恋人」と呼ばれたメアリー・ビッグフォードと組んで、自分たちの作品を自分たちで配給する会社ユナイテッド・アーティスツ社設立。「アメリカ映画の父」といわれたD.W.グリフィス監督も参加。現在まで続く「スター・システム」の生みの親となるとともに、製作から配給まで一貫して行う完全なワンマン体制を手に入れた
l ユナイト第1作《巴里の女性》(1923)――チャーリーから離れて
記念すべき第1作はチャーリーから離れて自ら製作・監督・脚本に専念したシリアス・ドラマ――「玉の輿狙いの女」の異名を持つ元ショーガールの過去に興味をもって脚本を書く
l チャップリンの演出術
公開当初から、「映像とアクションによってストーリーを語ることにおいて成功した」と芸術的達成として高く評価された
俳優の演技も徹底してリアリティに拘り、無用な演技を嫌った
批評家の絶賛に対し、冒頭の字幕に「私は本作に出ません」と断り書きを入れると喜劇を期待した大衆は去っていく。監督に徹したいという彼の野心を観客は許さなかった
酒で太り出したエドナを女優として売り出したいと考えたが、それも失敗し姿を消す
英雄と圧巻の話ではなく、あくまで情熱を持つ人間それぞれの弱さと葛藤のドラマで、テーマ的にはチャーリーの登場する映画と同じものではありそれなりの自信作だったが、興行的な失敗に打ちのめされる
次なる題材を探す中、ゴールド・ラッシュのビデオを見て《黄金狂時代》のヒントを、フォードのベルトコンベア工場を見学して《モダン・タイムス》のヒントを得る
l 《黄金狂時代》(1925)――悲劇と喜劇を超えて
1898年ユーコン州クロンダイクでのゴールド・ラッシュの際、黄金を求める採掘者の長蛇の列が峠を越える映像を見たり、1846年シエラ・ネヴァダの雪の中で起きたジョージ・ドナー入植団の悲劇的事件のことを知り、ストーリーを膨らませていく
撮影はカリフォルニア北部のリンカーン山の万年雪のなか2995mまで700mの細い道を作り、エキストラの浮浪者600人を連れてきて歩かせ鉱山師の行列とした
主演女優はジョージア・ヘイル。元ミス・シカゴの美貌で、蓮っ葉なキャラクターを好演。幼少から憧れていたチャップリンと後々まで深い友情で結ばれた
製作費は破格の92万ドル余り
これまでのチャップリン映画の集大成――極限状態の人間を描き、その中から喜劇が生み出されており、喜劇と悲劇の融合の1つの極点。同時にチャップリンの身体芸の集大成でもあり、放浪紳士チャーリーのイメージの集大成でもある
公開と同時に、チャップリン人気は絶頂を極め、世界中でセンセーションを巻き起こす
アメリカだけで600万ドル以上の収益を記録。サイレント映画史上興行収入5位
l 《サーカス》(1928)――I Stand Alone.
「追い込まれた状態でギャグをしたい」とのチャップリンの一言から、サーカスの綱渡りを題材にした映画を撮ることになるが、公私ともに悪夢――嵐によるセットの破損、途中でフィルムに傷がついていることが判明して最初から撮り直し、妻が嫉妬に狂って撮影の邪魔をした挙句離婚訴訟提訴、チャップリンは心労で白髪に、最後はスタジオの火災
1927年創設のアメリカ映画芸術科学アカデミーの第1回アカデミー賞特別賞受賞
その後、1972年に特別名誉賞が、翌年《ライム・ライト》に作曲賞が贈られた
l チャーリーのイメージの変化――鏡の迷路を抜けて
1927年、初のトーキー映画《ジャズ・シンガー》が空前のヒット
サイレント映画はスピードのアートで、身体の動きの面白さを見せる喜劇に対して、トーキーは言葉のやりとりで笑わせる。互いに異なったジャンルだが、キートンらの無声映画の喜劇人はトーキー時代になると没落していった
弱者の象徴である小柄なチャーリーに対して、権力の象徴としての大柄な警官を登場させるという、チャップリンの寓話的な手法は、《サーカス》で微妙に変化――従来、大衆から離れた孤独な存在だからこそ大衆の象徴になり得たが、今回は大衆に紛れ込んだ1人となっており、巨大化した資本主義社会のなかでは大衆のうちの1人にしかなり得ず、チャーリーの個性は否定される。鏡の間に迷い込んで、どの像が本当の自分なのか分からなくなり、新たなチャーリーを模索する迷路に迷い込んだともいえる
撮影中、チャップリンに弟子入りしたのが日本人監督の牛原虚彦。秘書の高野の紹介で水谷八重子と共に撮影所を訪れ、7か月間チャップリンの傍らで撮影風景を目に焼き付けた
牛原の帰国時、チャップリンは色紙を贈り、イラストの横に一言”I Stand Alone.”
l 《街の灯》(1931)――言葉を超えて
トーキー全盛となる中、敢えて次もサイレントで製作。製作期間は683日に及び、キャメラを回したのは179日。世界中で大ヒット、今でもチャップリンの代表作として人気
この頃から「失明」と「金持と浮浪者の対比」がテーマになる――アメリカはローリング・トゥエンティーズ(騒乱の20年代)の末期、未曽有の好景気を誇っていたが、チャップリンには好景気のために見えなくなっていた社会の矛盾がくっきりと見えていた
言葉よりもパントマイムの方が普遍的であり、世界共通言語としてのサイレント映画に拘ると宣言する一方で、パントマイムと音を組み合わせたトーキー時代の新しいギャグも取り入れ、時代に合わせた柔軟性も示す
《街の灯》では、初めて劇中音楽20タイトルをすべて作曲し、「サウンド版」として公開。その中に名曲《スマイル》もある
l チャーリーの変化 夢の亀裂
登場人物の個性で、大衆・権力・夢を象徴的に描くチャップリンの手法は、ここでも健在
ヒロインは常に手の届かない存在であり、夢は成就しない
大恐慌以降、機械化・資本主義化が進み、チャーリーのような個性は生きにくい世の中になった。社会に取り込まれ、孤独な放浪者であることを捨てなければならなくなった
² 世界旅行と日本
l 世界旅行と初来日
《街の灯》の完成後世界旅行に出発――チャーチルやアインシュタインとも語り合ったが、とりわけ救貧法学校への再訪と、機械文明を否定するガンジーとの会談は大きなインパクトを与えた
ベルリンではナチスが「ユダヤ人道化が来た」とチャップリン人気を妨害しようとしたが失敗、日本では五・一五事件に遭遇し命を狙われる――犬養首相との晩餐会の計画が発表されると、軍国主義者が日米関係動揺を狙ってその席でチャップリンの暗殺を計画したが、直前になって相撲を見たいと言い出して晩餐会をキャンセルしたため難を逃れる
l チャップリンと日本
チャップリンと日本の縁は深い
トレードマークのステッキは滋賀県産の根竹(こんちく)製。日本の輸出工芸品
生涯で4度来日。小泉八雲の『怪談』が好きで日本に興味を抱く
初来日では20日間滞在し、美術館で浮世絵を楽しみ、歌舞伎などの伝統芸能を愛した
1936年に2度来日、淀川長治と出会い、京都・柊屋に泊まって伝統的風景に魅せられ、祇園の割烹料亭では調理師の美技に拍手喝采を送る。最後の来日は1961年
l 高野(こうの)虎市のこと
チャップリンが親日家になったのは高野の影響。喜劇王の全幅の信頼を得た
1885年広島県生まれ。名家に生まれるが、15歳で従兄弟を頼って渡米。28歳で家督を継いだが、即売却しロサンゼルスに移住、たまたまチャップリンが運転手を募集していたことを知って応募、日本人排斥が吹き荒れる中、運転ができるかどうかだけで採用。誠実な仕事ぶりでチャップリンの信頼を勝ち得、'26年頃チャップリン邸の使用人17人全員が日本人だった
18年にわたって喜劇王を支え続け、財産相続人の1人にされるほど信頼された
1934年、チャップリンのパートナーで女優のポーレット・ゴダードと衝突して辞任。莫大な退職金とユナイテッド・アーティスツ日本支社長のポストを与え、高野はそれを元手に事業を始めるが、喜劇王を離れた高野を相手にする者はなく悉く失敗。それでも日米親善に尽くすという野心は健在で、’38年米国女子ソフトボール・チームを初めて日本に招聘
1941年、アメリカ人の元俳優を日本海軍中佐に紹介したのがスパイ行為と見做され逮捕、不起訴処分となったが、太平洋戦争開戦とともに再逮捕、7年の収容所生活を送る
1956年、広島に帰るが、'61年のチャップリン来日の際は会っていない
l 日本のチャップリン
日本人もチャップリンのことが大好きな国民
1914年映画デビューを果たしたチャップリンは、5カ月後には日本の雑誌に登場――「変凹(ぺこ)君」と名付けられ、個性的な演技が注目される。次々と映画が紹介され、人気はうなぎ上りで不動のものとなる
1917年、上方の漫才師が初めて東下したが、彼等は日本チャップリン・梅酒家(うめのや)ウグイスという夫婦漫才
喜劇映画のスターというより、チャップリンの中に「人情」や「涙」を過剰に見るようになる
軍国主義が始まると、チャップリンの評価は急落。サイレントに拘るチャップリンを室生犀星は時代遅れと言い、高見順も《独裁者》をドイツの躍進の歴史的な意味を理解しようとせず天に唾するようなものと批判
l 歌舞伎になったチャップリン
《街の灯》の日本公開は1934年だが、ワールド・プレミア半年後の'31年、当時最高の台本作家・木村錦花の脚色で《蝙蝠の安(やす)さん》として歌舞伎化され、13世守田勘彌で大当たりをとり、翌月大阪中座で2世実川延若の《青天井》としても翻案上演
古い伝統を残しつつも、外国の最新メディアである映画を伝統芸能の中に柔軟に謙虚に取り入れ、自国の文化としていた当時の日本。情報の早さ、歌舞伎が本来持っていたフットワークの軽さには驚くべきものがある
日本以外にも、各国でそれぞれの文化に合わせる形で受容が行われたのは、どの国の人にも、どの個人にも共感できる「多様性」がチャップリンにはあるのだろう
² チャップリンの闘い
l 《モダン・タイムス》――〈現代(モダン・タイムス)〉の映画
世界旅行中に各地の恐慌の現状を見て、「経済人が喜劇人である程度には、私も経済人であるべきだと思った」と述べ、ワークシェアリングの推進や、欧州通貨統合などの持論を展開、貧困や不平等の解消などにも思索を巡らす
トーキー導入ですっかり変わった映画界に嫌気がさして引退も考えたが、貧しい幼少時代を過ごしたポーレット・ゴダードを紹介されて意気投合。'33年初から脚本を書き始め、翌年秋から1年かけて撮影、さらに1年かけて全曲の作曲と編集をする。8126ftの完成フィルムに対し費やしたのが21万ftあまりというから撮り直しが膨大な量だったとわかる
l トーキーとの闘いの裏幕
T型フォードの生産が始まったのが1913年
喜劇王は当初からアメリカ式の大量生産システムとは距離を置く。当時のアメリカ喜劇映画では大勢の登場人物が追っかけっこする映画が大流行していたが、チャップリンは俳優や喜劇まで大量生産するやり方を好まず、あくまで個性をじっくり見せることに拘った
ただ、新しい動きには敏感で、自身も「パントマイムは普遍的な意思伝達手段」といいながら、早くからトーキーのテスト撮影や、3D映像の実験までしていた
l 一本道の意味
《モダン・タイムス》は最後のサイレント作品。チャップリンのパントマイム芸の総決算であり、名場面のオンパレード
チャップリンのファンだったマイケル・ジャクソンのムーン・ウォークの原型もある
初公開時の批評は不芳、アメリカでの興行収入は《街の灯》の半分以下の150万ドルどまり。右派からは共産主義的と攻撃を受け、左派からは社会批判が生温かいと批判
映画がトーキーになって10年経っても実質サイレント映画だったことが災いしたが、機械文明に抵抗して個人の幸福を求める物語を作ったチャップリンは時代を先取りしている
チャップリンは放浪者から工場労働者になり、没個性のまま同一方向に向かって走らされる、そこに現代という時代の本質を見抜いている
ラストシーンは、チャーリーと恋人が手を携えて、機械文明から逃れ個人の自由を求めてどこまでも続く一本道を放浪していく
l チャップリンとヒトラー
チャップリンがベルリンを訪れてファシズムの勃興する不穏な空気を感じてから2年後には、ヒトラーが首相になり、メディアは同じちょび髭を持つ似通った容貌の2人を話題にし始める。生まれた日が同じ年で4日違い(ヒトラーがあと)、ちょび髭をはやしたのも同じ年
ヒトラーとは、敗戦のためにズタズタにされた国全体の歪んだ誇りと、彼個人の強烈な自負と劣等感とを究極的に一致させ、それをメディアで再現悪増幅させたモンスター的な現象に他ならない。その対極にいるのがチャップリンで、ヨーロッパからアメリカへと世界の中心が移り変わる時流の波に乗って個人の才能を開花させ、それをメディで高めて大スターになった
扇動家ヒトラーが、人々を常に祝祭状態に置くための装置とは、当時新興メディアだった映画。当時支配的なメディアだったラジオは、政権与党しか使えず、ヒトラーが目をつけたのが映画で、サイレントでは効果も限定的だったが、ユダヤ人のワーナー・ブラザーズがトーキーを発明すると、ヒトラーの運命は変わった。ヒトラーが発明したのは、敵を1つに定めて叩きのめし、分かりやすいフレーズをメディアで連呼し煽ることで、メディアを主戦場としイメージを武器とした政治のパイオニアで、メディアの力を知っていたからこそ、ヒトラーは自分と同じちょび髭を持つチャップリンのイメージを恐れ、1926年から反チャップリンの大キャンペーンを開始。反ユダヤ主義と絡めて、チャップリンもユダヤに違いないとし、政権の座に就くとチャップリンの映画上映はもちろん、マスコミのチャップリン論評まで禁止。総統は、何よりも彼のイメージを「茶化されること」を恐れた
l ナポレオン・プロジェクト
独伊日の軍事同盟化、大恐慌などの危機に対して、チャップリンが自らの考えを表明すべく、ナポレオンを題材に映画を作ろうとした――1920年代初頭にナポレオンの映画化を試みた時は《巴里の女性》になったが、背の低い俳優にとってナポレオンは魅力的な役柄で、よく仮装ではナポレオンに扮していた。その後も何度か映画化のチャンスはあったが、最終的に、過去の出来事に仮託して、自らの政治的考えを表明するより、今そこにある危機に真っ向から立ち向かうことを選ぶ
l 《独裁者》製作のきっかけ
《モダン・タイムズ」公開後、女優で3番目の妻となったボーレット・ゴダードのための次作を考える中で、放浪者チャーリーとヒトラーの似た外見をヒントに、ヒトラー・テーマで風刺とパントマイムを両立させるアイディアを思いつく――独裁者役ではデタラメなドイツ語など言葉のギャグを使って風刺し、「放浪紳士チャーリー」のキャラクターの時はあまり喋らずにサイレント映画からのイメージを守ることができる
《独裁者》製作の噂が流れると、ドイツは外交ルートを使って妨害を始める――ドイツにおける反ユダヤ映画の製作を誘発するとして、ハリウッド映画の輸出に対し検閲を強化して妨害、海外市場を失うことを恐れたメジャー・スタジオはチャップリンの製作に反発、自発的検閲機関を通じてチャップリンに圧力をかけてきた
当時、アメリカの世論のかなりの割合がヒトラーを支持、反ユダヤ主義を標榜する人が9割を超え、親ナチス勢力も存在。恐慌を切り抜けたリーダーとしてヒトラーを英雄視する向きもあった
直接的な妨害工作をしたのはドイツと同盟国だったイギリスで、外務省が製作現場に手を伸ばして中止させようとした。新聞も制作中止などを報じたが、チャップリンは製作の決意に揺るぎがないことを明言。ヒトラーのポーランド侵攻の8日後に撮影開始、6か月でほぼ終了したが、そのあと撮影はストップ。ドイツの進撃と相俟って、チャップリンは「ヨーロッパ戦争の、ハリウッドにおける最初の犠牲者」とまで言われたが、チャップリンは「このような時代にこそ、笑いは狂気に対しての安全弁となる」として製作から撤退するつもりはないとの談話を発表。その間ずっとラストの演説の推敲を重ねていた
l 演説
'40年6月フランス降伏の日に撮影を再開
戦局の激化とともに世論は打って変わって《独裁者》を求めるようになる
公開は'40年10月。直前まで撮り直しを続ける。米英では記録的ヒットとなり、ドイツの妨害工作にも拘らず、各地でも大ヒット。最高の興行収入を記録。同年度のニューヨーク批評家賞の主演男優賞を受賞したが、役者は競争するものではないとして授賞を拒否。アカデミー賞でも作品賞ほか5部門にノミネート。いくつもの名場面の中でもチャップリンが拘ったのが独裁者が《ローエングリン序曲》に合わせて地球儀の風船で踊るシーン。世界征服の狂気に憑かれて恍惚と踊る様は、7ページ以上の台本に記して延べ2カ月かけて撮影したもの、独裁者の幼稚性を際立たせる名ダンスは入念に準備された
独裁者の演説を伝える国際ニュース映像では、通訳が全く別の内容を伝えていて、客観的に真実・現実を伝えるはずのニュース映像がフィクションを孕んでいる危険性をチャップリンは告発する。「映像には毒が入っている」とはチャップリンの言葉。ニュース映像やインターネットなどで多くの情報を得ることができる現代人に、現実とフィクションとを主体的に見極めることの大切さを、独裁者のスピーチの解読は教えてくれる
世界中にチャップリンの演説が響き渡った'41年を境に、ヒトラーの演説回数は激減。多い時は1日3回も大演説をしていた稀代の扇動家が’41年には僅か7回のみ。「笑い」にされたことでヒトラーの演説は力を失う。笑いこそが独裁政治への武器となることを《独裁者》は教えてくれる
チャップリンは、「何が起ころうとも、全体主義は続かない。コメディとペーソスは密接に結びついていて両者を分けることはできない。私たちが生き延びることができる唯一の方法は、私たちの困難を笑うことだ」と言っている
映画は、演説者と聴衆を切り返して編集することで物語を紡ぐが、《独裁者》に聴衆は出てこない。実際に映画を見ている私たちが聴衆であり、チャップリンは現実に直接訴えかけ、私たちは聴衆という登場人物として現実で行動を起こす。こうして《独裁者》は永遠の現在性を獲得したと言える。映画を映画の中で完成させずにリアルな人々に向けて開いた。《独裁者》はまさに映画の枠を超える作品
結びの床屋の演説全容――皇帝なんかになりたくはない。お互いを助け合い、お互いの幸福で支え合って生きていきたい。機械よりも人の心、抜け目のない利口さよりも優しさや思いやりが必要で、それがなければ人生は暴力に満ち、全ては無になってしまう。今私たちを覆う不幸は、消え去るべき貪欲、人間の進歩の道を恐れる者の敵意でしかない。憎しみは消え去り、独裁者たちは死に絶える。彼等が民衆から奪い取った権力は、再び民衆の元に戻るだろう。人に死のある限り、自由は決して滅びることはない。兵士たちよ! けだものに身を委ねてはならない! 隷属のためにではなく、自由のために闘おう! 新しい世界のために闘おう! 僕たちは新しい世界に近づいている。もっと心優しい世界に。人間が自分たちの憎しみや貪欲や残忍さを克服する、そんな世界に
² 追放された「世界市民」
l 戦争中から始まっていた冷戦
1942年には、サイレント時代の傑作《黄金狂時代》に自らナレーションを吹き込んで弁士版として公開し大ヒット
大衆に大きな影響を及ぼすチャップリンを、当局は危険人物と見做すようになり、政界の保守派からの攻撃が始まる
息子2人を徴兵され、自らも対ファシズムのために役割を果たしたいと考えていたチャップリンは、前線の兵士や銃後を鼓舞するための集会に出て演説し、ファシズムを挟撃するために同盟国ソ連を応援することもあって反共主義者からも攻撃を受ける
戦争推進のアメリカにとってチャップリンが邪魔な存在になり、FBIを動員して唯一見つけたのが新人女優との間の子の認知裁判で、ネガティヴ・キャンペーンを展開
l 《殺人狂時代》――「チャップリンは変わる」
次の作品は、仏史上稀な財産目当てに結婚しては相手を殺した殺人鬼を主題にした《殺人狂時代》で、元のアイディアはオーソン・ウェルズ。ウェルズから主演を依頼されたが、俳優だけでは気乗りせず、ウェルズに「原案料」を払って自ら脚本・製作
戦後ハリウッドは度重なるストライキを経て組合の力が急上昇、雇用人数が増え賃金も急騰したため、本作も僅か3カ月でクランクアップ
本作は大きな転機――新しいキャラクターで身なりの良い紳士で饒舌。製作過程でも、詳細な脚本をもとに順不同で撮影を進める
トーキー後のチャップリン映画からは、多くの名台詞が誕生――「1人殺せば悪党で、100人殺せば英雄。数が殺人を神聖なものにする」。戦勝に沸くアメリカで、ここまで明確な反戦メッセージを打ち出した映画人はいない
‘47年の公開と同時に、「共産主義者か?」「愛国心はあるのか?」との質問攻めに対し「国際主義者だ」とのチャップリンの答えが右翼勢力の激昂を買って上映妨害を受け、興行成績は不振、アメリカ国内の公開で損失を出した唯一の映画となる
《殺人狂時代》のキャッチコピーは、「チャップリンは変わる! あなたは変われる!」だったが、アメリカがチャップリンにアカデミー賞栄誉賞を授与して事実上謝罪したのはヴェトナム戦争の帰趨がはっきりした1972年のことで、アメリカが変わるためには四半世紀もの時間を要した
l 《ライムライト》――喜劇王の集大成
《殺人狂時代》の公開直後、非米活動委員会の公聴会に召喚されたが、放浪紳士チャーリーの紛争で出廷するとの声明に委員会の方が尻込みし、尋問は行われず
次作は、互いに尊敬し合う仲だった天才ダンサーのニジンスキーを取り上げたバレエと道化の寸劇。古巣のミュージック・ホールを舞台に、5人の子供や妻まで一家総出演
l キートンとの共演 映画コメディアンたちの盛衰
当時忘れられた存在だったキートンを迎え入れ、最初にして最後の競演を果たす
3大喜劇王のキートンもハロルド・ロイドもトーキー出現とともに凋落
世界各国にもそれぞれコメディアンが活躍していたが、時代の移り変わりとともに没落、あるいはアメリカ・デビューしても結果は思わしくなかった
l ユーモアについての考察
《ライムライト》のアイディアは、チャップリンが目撃してきた多くの喜劇スターたちの盛衰がヒントになっている。劇中の名セリフが多いのも、冷徹な喜劇役者の目を通した人生訓と思えば理解できる。チャップリン自らの人生が刻み込まれている
l 山口淑子、クレア・ブルームの証言
1951年、イサム・ノグチと婚約していた山口淑子が鯉のぼりを手土産にチャップリン邸を訪問、数日後《ライムライト》の音楽の録音現場を見学。チャップリンはオーケストラに「老いらくの恋の話だ、老人の哀愁を奏でてくれ」と注文、85歳だった山口も衰えを知らぬソプラノで《テリーのテーマ》を口ずさんだ
ヒロインのテリーを演じたクレア・ブルームは、19歳のころエージェントから「チャップリンが次回作のヒロインとして君に興味を持っている」と聞いても信じなかったが突然本人から電報が来て飛び上がったという。「私が選ばれたのは、チャーリーと釣り合う身長だったのと、奥さんのウーナに似ていたから」と述懐している
《ライムライト》のワールド・プレミアは'52年10月ロンドンにて。出席するため家族そろってクイーン・エリザベス号に乗船・出航したところで、アメリカ再入国許可が取り消され、事実上国外追放となる。その分、イギリスやヨーロッパでは大歓迎を受け、映画も記録的なヒットに。プレミアは王室も臨席、英国で初めてTV中継された上映となる
l 《ニューヨークの王様》――自由人の映画
アメリカから追放されたチャップリンが、故郷のロンドンで製作した最後の主演作が《ニューヨークの王様》で、反共主義の嵐が吹き荒れるアメリカを痛烈に風刺したコメディ。’53年末ごろから構想が湧き始め'56年撮影開始、12週間で終了、’57年公開
スイスのヴヴェイに居を定める(現在はチャップリン博物館)
ナポレオンとハムレットには最後まで拘りがあった
アクチュアルなアメリカ文明批判として批評的にも温かく迎えられ、ヨーロッパではヒットしたが、過去のチャップリンの傑作を超える作品との声は聞かれない
ネオ・レアリズモの大家ロベルト・ロッセリーニは、「これは自由人の映画だ!」といい、その年のベスト10に選んだ人もいる。迸るチャップリンの創作意欲、挑戦を続ける姿勢には感動。ベストとは呼べないが、「新しい波」の震源となって、映画の未来を拓いた
チャップリン自身も、最も反抗的な作品だとし、「今話題になっている死に行く文明の一部になるのはごめんだ」と語る
² チャップリンのラストシーン
l 《伯爵夫人》――最後の監督作
スイスに居を定め、『チャップリン自伝』の執筆に取り掛かる――'64年出版
かつての自作に音楽をつけて蘇らせる作業に邁進――アメリカに保管されたネガが届かないままに作曲したが、若い頃と同じテンポと長さだったという
'67年《伯爵夫人》公開。マーロン・ブランドとソフィア・ローレンという当時の2大スターを起用したが、コメディアンとしてのブランドはミスキャストで興行的には失敗したものの、サウンドトラックは世界中でヒットし、何とか製作費を回収
l 街を歩く
晩年は世界各国への旅行を楽しむ
'70年代の世界的なリバイバル・ブームで、再配給が行われ、各国がこぞって彼の業績を顕彰。'72年アメリカのアカデミー特別名誉賞で、20年ぶりにアメリカに降り立つ
80歳手前までテニスを楽しむが、徐々に自覚症状のない脳梗塞が始まる
'75年、エリザベス女王よりナイトに叙される
全世界で行われたリバイバル公開のための音楽の作曲が晩年の大きな仕事。最後の仕事が'75年の《巴里の女性》のための作曲
l チャップリンの翼
1977年のクリスマスに死去
最後の構想は'69年、道化の才能を最もよく受け継いだ娘ヴィクトリアを主演に据えた作品《フリーク》――羽の生えた少女が新興宗教の教祖に祭り上げられて起すドタバタで、「人は皆特別なのだ」というメッセージにチャップリンを感じる
(天声人語)兵士よ、君は人間だ
2022年5月19日 5時00分 朝日
舞台は架空の国トメイニアの宮殿。支配者ヒンケルが陶然とした表情で、地球儀を模した特大の風船をもてあそぶ。チャプリンの映画「独裁者」は世界征服の野望に取りつかれた男の狂気を描く▼ヒトラーを想起させる権力者と、うり二つの理容師をひとりで演じ分けた。実際の喜劇王はヒトラーと生まれ年が同じで、チョビひげまでそっくりだった。撮影開始は1939年秋。ナチスが隣国ポーランドに侵攻してわずか8日後のことだ▼評伝『チャップリン』(大野裕之著)によれば、当時、ヒトラーは大恐慌を切り抜けた指導者として多くの国々で称賛されていた。映画制作を思いとどまるよう説く大量の手紙が彼のもとに届いたという。しかし1940年に米国で封切られ、大ヒットする▼「いまこそ新しいチャプリンが必要だ」。仏カンヌ映画祭の開幕式で、ウクライナのゼレンスキー大統領が言及したのはこの作品である。「1940年の映画の言葉に耳を傾けなければならない」と述べた▼何十年ぶりかに作品を見直してみた。物語終盤、トメイニア軍が隣国オスタリッチに攻め込み、首都を制圧。ひょんなことから独裁者と入れ替わった理容師が大観衆の前で演説する羽目に。「独裁者は死ぬ」「兵士たちよ、けだものに身を委ねるな。君たちは機械でも家畜でもない。人間なんだ」▼不朽の名作、不滅の名演説と言うべきだろう。大義なき戦闘に駆り出された最前線の若者たちに、この言葉を届ける手立てはないものか。
Wikipedia
サー・チャールズ・スペンサー・チャップリン(英: Sir Charles Spencer Chaplin, KBE、1889年4月16日 - 1977年12月25日)は、イギリス出身の映画俳優、映画監督、脚本家、映画プロデューサー、作曲家である。サイレント映画時代に名声を博したコメディアンで、山高帽に大きなドタ靴、ちょび髭にステッキという扮装のキャラクター「小さな放浪者(英語版)」を通じて世界的な人気者になり、映画史の中で最も重要な人物のひとりと考えられている。ドタバタにペーソスを組み合わせた作風が特徴的で、作品の多くには自伝的要素や社会的及び政治的テーマが取り入れられている。チャップリンのキャリアは70年以上にわたるが、その間にさまざまな称賛と論争の対象となった。
チャップリンの子供時代は貧困と苦難に満ちており、救貧院に何度も収容される生活を送った。やがて舞台俳優や芸人としてミュージック・ホールなどの舞台に立ち、19歳で名門のフレッド・カーノー(英語版)劇団と契約した。そのアメリカ巡業中に映画業界からスカウトされ、1914年にキーストン社で映画デビューした。チャップリンはすぐに小さな放浪者を演じ始め、自分の映画を監督した。その後はエッサネイ社、ミューチュアル社(英語版)、ファースト・ナショナル社(英語版)と移籍を重ね、1919年にはユナイテッド・アーティスツを共同設立し、自分の映画を完全に管理できるようにした。1920年代に長編映画を作り始め、『キッド』(1921年)、『黄金狂時代』(1925年)、『街の灯』(1931年)、『モダン・タイムス』(1936年)などを発表した。『独裁者』(1940年)からはトーキーに完全移行したが、1940年代に私生活のスキャンダルと共産主義的傾向の疑いで非難され、人気は急速に低下した。1952年に『ライムライト』のプレミア上映のためロンドンへ渡航中、アメリカへの再入国許可を取り消され、それ以後は亡くなるまでスイスに定住した。1972年に第44回アカデミー賞で「今世紀が生んだ芸術である映画の製作における計り知れない功績」により名誉賞を受賞した。
目次
生涯[編集]
初期の人生:1889年~1913年[編集]
出生と子供時代[編集]
ハンウェルの学校における7歳のチャップリン(上から3列目の中央)。
毎日毎日が窮乏の連続だったので、私自身としては、別に一家の危機といった感じはほとんどなかった。それに、まだ子供のことではあり、そんな不幸は簡単に忘れてしまっていた。
チャールズ・チャップリン、幼少期の回想[1]
1889年4月16日、チャールズ・スペンサー・チャップリン(以下チャップリン)は父のチャールズ・チャップリン・シニア(以下チャールズ)と母のハンナ・チャップリンとの間に生まれた[2]。チャップリンは自伝で、ロンドン南部のウォルワース(現サザーク区)のイースト・ストリート(英語版)で生まれたとしているが[3]、公式の出生記録は存在していない[2]。両親は4年前に結婚したが、ハンナはその時までに非嫡出子のシドニーを出産していた[4][注 1]。両親は共にミュージック・ホールの芸人で、チャールズは人気歌手だったが、ハンナは芽の出ない女優だった[5]。1891年までに両親は別居し、翌1892年にハンナは夫の芸人仲間のレオ・ドライデン(英語版)との間にジョージ・ウィーラー・ドライデンを出産したが、ジョージは生後6ヶ月でレオに強引に連れ去られ、それから30年近くもチャップリンの前に姿を見せることはなかった[6]。
幼少期のチャップリンは、現在のランベス区内のケニントン(英語版)でハンナとシドニーと生活していたが、ハンナには時折の洋裁や看護で小銭を稼ぐ以外に収入がなく、チャールズは養育費さえも支払わなかった[7]。貧困とハンナの病気入院により、チャップリンは7歳の時にシドニーとランベス救貧院(英語版)に収容され、すぐにハンウェル(英語版)にある孤児や貧困児のための学校に移された[8][9]。1898年1月にチャップリンは同校を退校し、ハンナとシドニーと屋根裏部屋を転々とする生活を送ったが、やがてそれも打つ手がなくなり、7月に三人ともランベス救貧院に収容された[10]。救貧院では親子兄弟といえどもばらばらに収容されたが、8月12日に三人で申し合わせて退院手続きをとり、ケニントン・パークで久しぶりに一緒に一日を過ごした。三人はシドニーが手に入れた9ペンスで昼食をとり、新聞紙を丸めたボールでキャッチボールをしたりして、親子水入らずの時間を楽しんだあと、夕方に救貧院に再収容された[11]。チャップリンは収容後すぐにノーウッド(英語版)にある貧困児のための学校に移された[12]。
1898年9月、ハンナは栄養失調と梅毒を原因とする精神病を発症したため、ケイン・ヒル精神病院(英語版)に収容された[13]。それに伴いチャップリンとシドニーはノーウッドの学校を退校し、ケニントンに住んでいた父のチャールズに引き取られた。チャップリンはそれまでに父の姿を2回しか見ていなかった[14]。チャールズは重度のアルコール依存症に陥っており、そこでの生活は児童虐待防止協会が訪問するほど悪いものだった[15]。11月にハンナは病状が落ち着いたため退院し、チャップリンとシドニーは父のもとを離れ、再び三人で生活を始めた[16]。チャールズは1901年に肝硬変のため38歳で亡くなった[17]。
舞台デビュー[編集]
舞台『シャーロック・ホームズ(英語版)』でビリー役を演じた10代のチャップリン。
チャップリンの初舞台は5歳の時だった。オールダーショットの劇場で舞台に立っていたハンナが出演中に喉をつぶして野次を浴びてしまい、支配人はチャップリンが舞台袖でさまざまな芸でハンナの友人たちを笑わせているのを見て、急遽代役として舞台に立たせることにした。チャップリンは舞台で歌を歌って大喝采を浴びた[7][18]。この舞台出演は一時的なものだったが、チャップリンは9歳までにハンナの教えで舞台に興味を持つようになった。自伝では「母はわたしに舞台に対する興味を植え付けだした。自分には才能があると、わたしが思い込むように仕向けた」と述べている[16]。1898年末、チャップリンは父親とのつながりを通じて[19]、木靴ダンスのエイト・ランカシア・ラッズ(英語版)の座員となり、1899年から1900年にかけてイギリス中のミュージック・ホールを巡業した[注 2]。チャップリンは懸命に働き、舞台も人気を得ていたが、やがてダンスだけでは満足せず、コメディアンになることを夢見るようになった[21]。
チャップリンはエイト・ランカシア・ラッズと行動を共にした数年間、巡業先の学校を転々として通っていたが、13歳までに学業を断念した[21][22][23]。チャップリンは俳優になるという目標を持ちながら、生活のために食品雑貨店の使いの小僧、診療所の受付、豪邸のボーイ、ガラス工場や印刷所の工員など、さまざまな仕事を経験した[24]。1903年5月にハンナは病気が再発し、再びケイン・ヒル精神病院に送られた[23]。8ヶ月後にハンナは退院したが、1905年3月に再び病状が悪化したため入院し、それ以降は病状が完全に回復することはなかった[25]。自伝では「もはや諦めて母の運命を受け容れるしかなかった」と述べている[26]。ハンナは1928年8月に亡くなり、チャップリンはその後数週間もショックで立ち直れなかったという[27]。
1903年にハンナが入院した直後、チャップリンはウエスト・エンドにある俳優周旋所に名前を登録した。まもなく興行主チャールズ・フローマンの事務所の紹介で、俳優H・A・セインツベリー(英語版)の舞台『ロンドン子ジムのロマンス』の少年サム役を与えられた[28]。舞台は1903年7月に開幕し、チャップリンのコミカルで快活な演技は批評家の賞賛を受けたが、舞台自体は成功せず2週間で打ち切られた[28][29]。続いてフローマンが興行する『シャーロック・ホームズ(英語版)』でビリー役を演じ、3度の全国巡業に参加した[25]。1905年9月の3度目の巡業中には、ホームズ役者で有名なウィリアム・ジレットの舞台に出演するためロンドンに呼ばれ、10月から12月にかけてジレット主演の『シャーロック・ホームズ』でビリー役を演じた[30][注 3]。1906年初頭に4度目の『シャーロック・ホームズ』の全国巡業に参加し、これを最後に2年半以上演じてきたビリー役と別れを告げた[32]。
フレッド・カーノー劇団[編集]
フレッド・カーノー劇団とチャップリンのアメリカ巡業時の広告(1913年)。
チャップリンはすぐに新しい劇団で仕事を見つけ、1906年3月にスケッチ・コメディー『修繕』の巡業にシドニーとともに参加した[33]。同年5月にはケイシーズ・コート・サーカスの子供グループに参加し[34]、1907年7月に退団するまで花形コメディアンとして活躍した[33][35]。しかし、チャップリンは次の仕事先を見つけるのに苦労し、しばらく失業状態となった。この頃にユダヤ人のコメディアンとして一人で舞台に立とうと試みたが、テスト公演をしたのがユダヤ人地区の劇場にもかかわらず、反ユダヤ的なギャグを含む出し物をしたため、観客の野次を浴びて大失敗した[36]。
一方、シドニーは1906年にコメディの名門フレッド・カーノー(英語版)劇団に入り、その花形コメディアンになっていた[37][38][39]。1908年2月、シドニーは失業中のチャップリンに仕事を与えるようカーノーに頼み、チャップリンは2週間のテスト出演のチャンスを貰った。カーノーは当初、チャップリンを「青白くて発育の悪い、無愛想な若者」「舞台もろくにできないぐらいの恥ずかしがり屋」と見なしていた。しかし、チャップリンはロンドンのコロシアム劇場(英語版)で行われたテスト出演で、アドリブのギャグで笑いを取ったことが認められ、2月21日にカーノーと契約を交わした[37]。
カーノー劇団でのチャップリンは脇役を演じることから始まり、1909年に主役級を演じるようになった[40]。なかでも酔っ払いがドタバタを巻き起こす『啞鳥』が当たり役だった[41]。1910年4月には新作寸劇『恐れ知らずのジミー』の主役で成功を収め、批評家の注目を集めた[42][43]。同年10月、チャップリンはカーノー劇団のアメリカ巡業に参加し[注 4]、批評家から「これまでに見た中で最高のパントマイム芸人の一人」と評された。最も成功した演目は『イギリス・ミュージックホールの一夜』(『啞鳥』の改題)で、その演技でアメリカでの名声を獲得した[45]。アメリカ巡業は21ヶ月も続き、1912年6月にイギリスに帰国したが、10月には再びアメリカ巡業に参加した[46]。
映画スターに:1914年~1922年[編集]
キーストン社時代[編集]
『成功争ひ』(1914年)のチャップリン(右側)。
『ヴェニスの子供自動車競走』(1914年)で初めて「小さな放浪者」の扮装を披露したチャップリン。
1913年、チャップリンは2度目のアメリカ巡業中にニューヨーク映画会社(英語版)の支配人アダム・ケッセル(英語版)から、傘下のキーストン社と契約する話を受けた[注 5]。キーストン社はテンポの早いドタバタの短編喜劇を量産していた会社で[50]、すでに退社した人気スターのフレッド・メイス(英語版)の穴を埋める俳優を探していた[51]。チャップリンはキーストン社の作風をあまり好まなかったが、舞台の仕事に変わるものを求めていたこともあり、9月25日に週給150ドルで契約を交わした[48][51]。12月初旬にチャップリンはスタジオがあるロサンゼルスに到着し、撮影所長のマック・セネットと対面した。セネットはチャップリンの容貌が若すぎることに不安を感じたが、チャップリンは「老けづくりなら簡単にできる」と返事した[52][53]。
1914年1月末までチャップリンは映画に使われず、その間は映画製作の技術を学ぶための見学に充てられた[52]。チャップリンの映画デビュー作は、2月2日公開の『成功争ひ』である。この作品でチャップリンが演じたのは、洒落たフロックコートにシルクハット、モノクルを付け、八の字髭を生やした扮装の、女たらしの詐欺師である[52][54]。チャップリンはこの作品を嫌ったが、マスコミはその演技に早くも注目し、「第一級のコメディアン」と賞賛する業界紙もあった[55]。チャップリンは2本目の出演作のために、セネットの指示で喜劇の扮装を決めることになり、トレードマークとなる「小さな放浪者(英語版)」の扮装を作り上げた。チャップリンの自伝によると、衣裳部屋に行く途中でふとだぶだぶのズボン、大きなドタ靴、ステッキ[注 6]と山高帽という組み合わせを思いついたという[54]。自伝では扮装の狙いについて、以下のように述べている。
だぶだぶのズボンにきつすぎるほどの上着、小さな帽子に大きすぎる靴という、とにかくすべてにチグハグな対照というのが狙いだった。年恰好のほうは若くつくるか年寄りにするか、そこまではまだよく分からなかったが…とりあえず小さな口髭をつけることにした。こうすれば無理に表情を隠す世話もなく、老けて見えるにちがいない、と考えたからである[54]。
その2本目の作品は『メーベルの窮境』(1914年2月9日公開)であるが、それよりも後に撮影された『ヴェニスの子供自動車競走』の方が2日早く公開されたため、『ヴェニスの~』が小さな放浪者の扮装を初めて観客に披露した作品となった[58]。チャップリンはこれを自身の映画のキャラクターに採用し、自分からギャグを提案したりもしたが、監督のヘンリー・レアマンやジョージ・ニコルズ(英語版)とは意見が合わず、対立を繰り返した[59]。11本目の出演作『メーベルの身替り運転』では、監督兼主演のメイベル・ノーマンドと衝突したことで解雇寸前にまで至ったが、ニューヨークから「チャップリン映画が大当たりしているから、至急もっと彼の作品をよこせ」との電報が届いたため、チャップリンの解雇は回避され、彼に対するセネットたち周囲の態度も軟化した[60]。チャップリンはそれに乗じて、作品が失敗したら1500ドルを支払うという条件で、自分で映画を監督することをセネットに認めさせた[61]。
チャップリンの監督デビュー作は、1914年4月20日公開の『恋の二十分』である[62]。監督2作目の『とんだ災難』はその時点までで最も成功したキーストン社作品の1本となった[63]。その後、チャップリンは1週間に1本のペースで新作の短編映画を監督・主演し[64][65]、ショットの組み立てやストーリー構成などの映画技術を貪欲に身に付けていった[63][66]。自伝ではこの時期を「いちばん張りのあったすばらしい時期」としている[60]。チャップリンの人気も高まり、その名前が出ただけで大ヒットが約束されるようになると、キーストン社内でのチャップリンの発言力も高まった[67]。同年11月、セネットが監督した長編コメディ『醜女の深情け』で主演のマリー・ドレスラーの相手役を演じたが、これが他監督のもとで出演した最後の公式映画となった[68]。同年末、チャップリンはセネットと契約更新の話をし、週給1000ドルを要求するが拒否され、契約更新の話もそれで打ち切られた[69]。
エッサネイ社時代[編集]
『チャップリンの失恋』(1915年)で小さな放浪者を演じたチャップリン。
キーストン社と契約満了をもって退社が確定したチャップリンは、週給1250ドルのギャラと1万ドルのボーナスを提示してきたシカゴのエッサネイ社に移籍し、1914年12月下旬にスタジオに参加した[70]。チャップリンはレオ・ホワイトやベン・ターピンなどの俳優を集めてグループを作り、同社2作目の『アルコール夜通し転宅』ではサンフランシスコのカフェで見つけたエドナ・パーヴァイアンスを相手役に採用した。パーヴァイアンスとは8年間に35本の映画で共演し、1917年までプライベートでも親密な関係を築いた[71]。チャップリンはそれまで会社の製作慣習に従い、流れ作業のように映画を作り続けてきたが、この頃から慣習には従わない姿勢を打ち出し、より時間をかけて映画を作るようになった[72]。『アルコール夜通し転宅』と次作の『チャップリンの拳闘』とでは封切り日に27日の間があり、それ以後の作品はさらに封切りの間隔が広がった[72][73]。
この時期にチャップリンは小さな放浪者のキャラクターを変え始めた。キーストン社時代のキャラクターは、女性や子供をいじめたりする卑劣で残酷な役柄や、性的にいやらしい性格であるものが多かった[66][74]。しかし、エッサネイ社時代になると、より穏やかでロマンティックな性格に変化した[75]。1915年4月公開の『チャップリンの失恋』はキャラクターの変化のターニングポイントとなる作品と考えられている。この作品では放浪者がヒロインに失恋し、ラストシーンで一本道をとぼとぼと歩き去る姿が描かれている[76]。このシーンはその後の作品でも数通りに変化させて使用された[77]。チャップリン研究家の大野裕之は、この作品を「孤独な放浪者のロマンスというチャップリン・スタイルの芽生え」であるとしている[76]。同年8月公開の『チャップリンの掃除番』には悲しげな結末にペーソスが加えられたが、映画史家のデイヴィッド・ロビンソンはそれがコメディ映画の革新であるとしている[78]。映画学者のサイモン・ルービッシュは、エッサネイ社時代のチャップリンは「小さな放浪者を定義するテーマとスタイルを見つけた」と述べている[79]。
1915年にチャップリンの人気は爆発的に上昇し、その人気にあやかって人形や玩具などの関連商品が売られたり、新聞に漫画や詩が掲載されたり、チャップリンについての曲が作られたりした[64][80][81]。同年7月にモーション・ピクチャー・マガジン(英語版)のジャーナリストは、チャップリンの真似をする「チャップリニティス」がアメリカ全土で広まったと書いた[82]。チャップリンの人気は世界的に高まり、映画業界で最初の国際的なスターとなった[83]。12月にエッサネイ社との契約が切れ、自分の価値を認識していたチャップリンは次の契約先に15万ドルのボーナスを要求した。ユニバーサル、フォックス、ヴァイタグラフ(英語版)などの映画会社からオファーを受けたが、最終的にチャップリンが選んだのは、最も高額な条件を提示してきたミューチュアル社(英語版)だった[84]。
ミューチュアル社時代[編集]
1916年までにチャップリンは世界的人気を得た。写真は自身の人形を持つチャップリン(1918年頃)。
1916年2月、チャップリンは年収67万ドルでミューチュアル社と契約を結び、世界で最も給料が高い人物のひとりとなった[85]。その高額な給料は大衆に衝撃を与え、マスコミで広く報道された[86]。社長のジョーン・R・フロイラーは「私たちがチャップリンにこれだけ巨額の金が払えるのは、大衆がチャップリンを求めており、そのために金を払うからである」と説明した[85]。チャップリンはロサンゼルスに自分専用のスタジオを与えられ、3月にローン・スター・スタジオとして開設した[87]。自身の俳優集団には、エッサネイ社からパーヴァイアンスやホワイトを引き連れ、その後の作品で大きな役割を占めることになるアルバート・オースチンとエリック・キャンベル、そして腹心の友となるヘンリー・バーグマンを新たに加えた[88]。
チャップリンはミューチュアル社と、4週間に1本のペースで2巻物の映画を作ることを約束し、1916年中に公開した8本はすべてこの約束に従っていた。しかし、1917年に入るとこれまで以上に時間をかけて映画を作るようになり、同年に公開した『チャップリンの勇敢』『チャップリンの霊泉』『チャップリンの移民』『チャップリンの冒険』の4本を作るのに10ヶ月を要した[89]。これらの作品は多くの専門家により、チャップリンの最良の作品のひとつと見なされている[90][91][92][93][94]。チャップリンは自伝で、ミューチュアル社時代がキャリアの中で最も幸福な時期だったとしている[95]。
チャップリンは第一次世界大戦で戦わなかったとして、イギリスのメディアに攻撃された[96]。チャップリンはアメリカで徴兵登録を行い、「祖国の命令には進んで従うつもりである」と声明を出したが、結局どちらの国からも召喚されなかった[注 7]。こうした批判にもかかわらず、チャップリンは前線の兵士にも人気があった[96]。チャップリンの人気は世界的に高まり続け、ハーパーズ・ウィークリー(英語版)誌は、チャップリンの名前が「世界のほぼあらゆる国に深く浸透している」と報告した[97]。その人気ぶりは、1917年に仮面舞踏会に参加した男性の10人のうち9人までがチャップリンの扮装をしたと報告されるほどだった[98]。舞台女優のミニー・マダン・フィスク(英語版)は「多くの教養ある芸術愛好家たちが、イギリス出身の若き道化師チャールズ・チャップリンを、天才コメディアンとしてだけでなく、世にも稀な芸術家であると考えるようになってきている」と述べている[97]。こうした人気ぶりの一方で、チャップリンは数多くの模倣者の出現に悩まされ、彼らに対して法的措置を講じることになった[99][注 8]。
ファースト・ナショナル社[編集]
『犬の生活』(1918年)のポスター。
ミューチュアル社はチャップリンの生産本数の減少に腹を立てず、契約は友好的な関係のまま終了した。チャップリンは契約スケジュールに縛られた映画作りによる品質低下を懸念し、これまで以上に独立することを望んだ。チャップリンのマネージャーだったシドニーは、「今後どんな契約を結ぶとしても必ず条項にしたいものがひとつある。それはチャップリンには必要なだけの時間と、望み通りの予算が与えられるということである。私たちが目指すのは量ではなくて質なのだ」と表明した[102]。1917年6月17日、チャップリンは新しく設立されたファースト・ナショナル社(英語版)と「100万ドル契約」と広く呼ばれた配給契約を結んだ。この契約ではチャップリン自らがプロデューサーとなり、会社のために8本の映画を完成させる代わりに、作品1本あたり12万5000ドルの前金を受け取ることが決定した[103][104]。
チャップリンはハリウッドのサンセット大通り(英語版)とラ・ブレア通り(英語版)が交差する角に面した5エーカーの土地に、自前のスタジオであるチャップリン・スタジオ(英語版)を建設し、1918年1月に完成した[105][106]。このスタジオは地域の外観にうるさい近隣住民を安心させるため、イギリスの田舎のコテージが並んだような外見をもつように設計された[105]。こうしてチャップリンは自由な映画製作環境を手に入れ、以前よりも膨大な時間と労力をかけて映画を作るようになった。また、それまでは1巻物や2巻物の短編映画を主に作っていたが、この頃からは3巻物の中編映画を作るようになった[107]。新しい契約先での最初の作品は、同年4月公開の『犬の生活』である。この作品でチャップリンは小さな放浪者を一種のピエロとして扱い、コメディ映画に複雑な人間的感情を与えた[108]。大野は、この作品で心優しい小さな放浪者のキャラクターが完成したとしている[109]。この作品でチャップリンの芸術的評価は決定的なものとなり[107]、フランスの映画批評家ルイ・デリュックは「映画史上初のトータルな芸術作」と呼んだ[110]。
1918年4月、チャップリンはダグラス・フェアバンクスやメアリー・ピックフォードとともに、第一次世界大戦のための自由公債(英語版)募集ツアーに駆り出され、約1ヶ月間アメリカ国内を遊説した[111]。ワシントンD.C.で演説した時には、興奮の余り演壇から足を滑らし、当時海軍次官補をしていたフランクリン・ルーズベルトの頭上に転げ落ちたという[112]。さらにチャップリンはアメリカ政府のために、公債購入促進を訴える短編プロパガンダ映画『公債』を自費で製作した[113]。次作の『担へ銃』では戦争をコメディ化し、小さな放浪者を塹壕の兵士に変えた。周囲は悲惨な戦争からコメディを作ることに反対したが、喜劇と悲劇の近似性を意識していたチャップリンの考えは揺るがなかった[114][115]。この作品は大戦の休戦協定の締結直前に公開され、チャップリン映画として当時最高の興行記録を打ち立てた[116]。
ユナイテッド・アーティスツと『キッド』[編集]
ユナイテッド・アーティスツの創立メンバー(1919年)。左からダグラス・フェアバンクス、メアリー・ピックフォード、チャップリン、D・W・グリフィス。
『担へ銃』の公開後、チャップリンはより高品質な映画を作るため、ファースト・ナショナル社に製作費の増額を要求したが拒否された[117]。作品の品質低下の懸念に加え、映画会社が結託してスターのギャラを下げようとしているという噂話を心配したチャップリンは、 1919年2月5日にフェアバンクス、ピックフォード、D・W・グリフィスとともに、新会社ユナイテッド・アーティスツを設立した[117][118]。同社は共同設立者の4人がそれぞれ独立製作した映画を配給する会社で、雇用主の束縛なしに自由に映画を作ることができるうえに、これまで雇用主に吸い上げられていた利益も手にすることができた[118]。チャップリンはこの新会社での映画作りを望み、ファースト・ナショナル社に契約解除を求めたが拒否され、残る6本の契約を消化しなければならなくなった[119]。
ユナイテッド・アーティスツの設立前、チャップリンは最初の結婚をした。17歳の女優ミルドレッド・ハリスはチャップリンとの間の子を妊娠したことを明らかにし、チャップリンはスキャンダルを回避するため、1918年10月にロサンゼルスで秘密裏に結婚したが、すぐに妊娠は嘘であることが判明した[120]。チャップリンは結婚生活に気分が乗らず、結婚が創作力に悪影響を及ぼすと考えていた[121]。事実、11月に次回作『サニーサイド』の撮影を始めたが、アイデアが湧かなくてスランプに陥り、自伝では「虫歯を抜くような苦労をして作り上げた」と述べている[121][122]。1919年にミルドレッドは本当に妊娠し、7月7日に奇形児の息子ノーマン・スペンサー・チャップリンを出産したが、わずか3日後に死亡した[123]。
チャップリンの幼少時代の貧困経験は、次の映画『キッド』に影響を与えたと考えられており、それは小さな放浪者を捨て子の保護者に変えた[104][124]。チャップリンは劇場で見つけた4歳の子役俳優ジャッキー・クーガンと契約し、1919年7月に撮影を始めた[123]。撮影は順調に進んだが、これまで以上の大作になることが分かり、早く新作を求めるファースト・ナショナル社をなだめるため、数週間撮影を中断して急拵えで『一日の行楽』を製作した[125]。『キッド』の製作は約1年かかったが[126]、その間にミルドレッドとの結婚生活は破綻した。1920年8月に彼女は離婚訴訟を起こし、『キッド』の撮影済みフィルムを差し押さえようとした[127]。チャップリンはそれから逃れるため、州を越えてソルトレイクシティに避難して編集作業を行い、完成後の11月に離婚が成立した[127][128]。『キッド』はチャップリンの最初の長編映画で、「笑い」に「涙」を組み合わせたチャップリン特有のスタイルを完成させた[126]。1921年2月に公開されると大ヒットし、3年以内に50ヶ国以上で配給された[128]。
チャップリンは次回作『のらくら』の製作に5ヶ月を費やしたあと[129]、突如としてヨーロッパ旅行を決断し、1921年9月にロンドン、パリ、ベルリンを訪問した[130]。ロンドンとパリでは大群衆の熱狂的な歓迎を受け、著名人との社交生活を送ったが、ロンドン訪問中は少年時代を過ごしたケニントンを訪れたり、H・G・ウェルズ家に滞在したりもした[131][132]。ベルリンでは大戦でチャップリン映画の配給が遅れたため知名度が低く、熱狂的な歓迎を受けなかった[132][133]。帰国後、チャップリンは旅行記『My Wonderful Visit』を執筆し、残る2本のファースト・ナショナル社との契約を、1922年公開の『給料日』と1923年公開の『偽牧師』で完了させた[134]。
長編映画時代:1923年~1938年[編集]
『巴里の女性』と『黄金狂時代』[編集]
『黄金狂時代』(1925年)で靴を食べる小さな放浪者(チャップリン)。
ファースト・ナショナル社との契約を終えたチャップリンは、ようやく独立したプロデューサーとして自前のスタジオで映画を作り、自分の会社で配給するというワンマン体制を手に入れ、完全に自由な映画作りを行うことができた[135]。そこでチャップリンはパーヴァイアンスを一本立ちしたスターに仕立てるため、ロマンティックなドラマ映画『巴里の女性』を製作した[136]。この作品でチャップリンは監督に徹し、主演はせずにノンクレジットでカメオ出演するにとどまった[137]。チャップリンは俳優に抑制のきいた自然な演技を求め、新しいリアルな演技スタイルを取り入れた[138]。作品は1923年9月に公開され、その革新的で洗練された表現方法で批評家から高い賞賛を受けた[139]。しかし、一般観客はチャップリンが出てこないチャップリン映画に興味がなく、興行的に失敗した[140]。作品の出来栄えに誇りを持っていたチャップリンはこの結果に失望し、すぐに作品を劇場から撤退させた[141]。
チャップリンは次回作でコメディに戻り、『キッド』以上の作品、それも偉大な叙事詩を作ろうと考えた。そこでクロンダイクのゴールドラッシュの写真とドナー隊の悲劇に触発されて『黄金狂時代』を製作した[142]。この作品では小さな放浪者が孤独な金鉱探しになり、逆境に直面しながら黄金と恋を求める姿が描かれている。飢えをしのぐために靴を食べるシーンや、ロールパンのダンス、崖から落ちる山小屋のシーンなど、チャップリン映画で最も有名なシーンのいくつかも含まれている[143][144][145][146]。撮影は1924年2月に開始したが、600人のエキストラを動員したり、豪華なセットや特殊効果を使用したりするなど、製作はより大規模なものになった[147]。撮影日数は約14ヶ月もかかり、製作費は92万ドルを計上した[143]。1925年8月に公開されると全米で500万ドルの興行収入を記録し、サイレント映画で最も高収入をあげた映画の1本となった[144][148]。ジャーナリストのジェフリー・マクナブは、この作品を「チャップリン映画の典型」と呼んでいる[144]。
リタ・グレイと『サーカス』[編集]
チャップリンの2番目の妻であるリタ・グレイ。
『黄金狂時代』の撮影中、チャップリンは16歳の女優リタ・グレイと2度目の結婚をした。1924年9月、リタはミルドレッドの時と同じように、チャップリンとの子を妊娠したことを明らかにした。カリフォルニア州法では未成年女性と関係を持つと強姦罪が適用され、最高30年の刑が科せられたため、リタの両親はそれをタネにチャップリンに結婚を強要した[149]。そのためチャップリンは結婚を余儀なくされ、11月26日にメキシコで内密に結婚式を挙げた[150]。リタは『黄金狂時代』のヒロイン役に予定されていたが、結婚により降板し、代わりにジョージア・ヘイルが演じることになった[151]。リタとの間には、チャールズ・チャップリン・ジュニア(1925年5月5日生)とシドニー・アール・チャップリン(1926年3月30日生)の二人の息子をもうけた[152]。
リタとの結婚生活は不幸であり[152]、チャップリンは妻と会うのを避けるためスタジオで仕事に没頭した[151]。1926年11月末、リタは息子を連れて家出し、翌1927年1月に離婚訴訟を起こした[153]。訴訟書類はチャップリンだけでなくその関係者も相手取り、チャップリンを誹謗中傷する内容が書かれていた[154]。この事件は大見出しのニュースとなり、全米各地でチャップリン映画のボイコットが起きたため、チャップリンは神経衰弱に陥った[155][156]。8月にチャップリンの弁護士は、その種のものではアメリカの裁判史上最高の金額である60万ドルの和解金を支払うことに同意し、リタとの離婚が成立した[157]。チャップリンは心労で一夜にして白髪になったが、幸いにも事件はすぐに忘れられ、チャップリンの人気にほとんど影響を与えることはなかった[158][159]。
離婚訴訟が起きる前に、チャップリンは新作『サーカス』の撮影を始めていた[160]。この作品は猿に囲まれて綱渡りをするというアイデアから物語が作られ、小さな放浪者をサーカスのスターに変えた[161]。撮影は離婚訴訟のため8ヶ月間中断され、撮影中もさまざまなトラブルに直面した[162]。この時の大きなストレスは長年にわたり感じ続け、自伝でもこの作品について言及されていない[163][164]。作品は1927年10月に完成し、1928年1月にプレミア上映が行われて好評を博した[165]。1929年、チャップリンは第1回アカデミー賞で「『サーカス』の脚本・演技・演出・製作で示した優れた才能」に対して名誉賞を受賞したが、授賞式は欠席した[162]。
『街の灯』[編集]
私はサイレント映画を作り続ける決心をした…もともと私はパントマイム役者だった。そのかぎりでは誰にもできないものを持っていたつもりだし、心にもない謙遜など抜きにして言えば、名人というくらいの自信はあった。
チャールズ・チャップリン、 トーキーに対する自身の姿勢[166]
『サーカス』が公開された頃、ハリウッドではトーキーの導入が進んでいた。しかし、チャップリンはトーキーについて否定的な立場をとり、トーキーはサイレント映画の芸術性を損なわせてしまうと考えていた[167]。また、チャップリンは小さな放浪者に言葉を入れることで、その国際的魅力と世界共通言語としてのパントマイムの普遍性が失われることを恐れ、自身に成功をもたらしたこの方式を変えることに躊躇した[167][168]。そのためチャップリンはトーキーの流行に従うのを拒否し、サイレント映画を作り続けることにした。それにもかかわらず、この決断はチャップリンを不安にさせ、次回作である『街の灯』の製作中もずっと悩み続けた[168][169]。
『街の灯』(1931年)のチャップリンとヴァージニア・チェリル。
チャップリンは約1年かけて『街の灯』のストーリー作りに取り組み、1928年末に撮影を始めた[170][171]。この作品は小さな放浪者がヴァージニア・チェリル演じる盲目の花売り娘を愛し、彼女の視力を回復させるための手術代を調達しようと奮闘する姿が描かれている。撮影は約21ヶ月間も続けられ[172]、チャップリンは自伝で「完璧を望むあまり、神経衰弱気味になっていた」と述べている[173]。チャップリンがサウンド技術で見つけた利点のひとつは、自分で作曲した映画音楽を録音する機会を得たことだった。以前から映画音楽の作曲に関心を抱いていたチャップリンは、この作品のためにオリジナルの伴奏音楽を作曲し、サウンド版として公開することにした[174][175]。
1930年12月に『街の灯』の編集作業が終了したが、この頃にはサイレント映画は時代遅れになっていた[176]。1931年1月に行われた一般向け試写は成功しなかったが、その翌日のマスコミ向け試写では好意的な評価を受けた。あるジャーナリストは「それが可能な人物は世界中でチャップリンだけだろう。彼は、『観客へのアピール』と呼ばれる独特のものを、話す映画へとなびく大衆の好みに挑めるくらい十分に備えているただ一人の人物である」と書いた[177]。同月末に正式公開されると高い人気を集め、最終的に300万ドルを超える収益を上げるほどの興行的成功を収めた[177][178]。英国映画協会は、批評家のジェームズ・エイジーがラストシーンを「映画の中で最高の演技で最高のシーン」と賞賛したことを引用して、チャップリンの最高の作品と評価した[179]。
世界旅行と『モダン・タイムス』[編集]
1931年初めにチャップリンは休暇を取ることを決心し、16ヶ月間に及ぶ世界旅行に出かけた[180]。チャップリンはイギリス、フランス、スイスのサン・モリッツでの長期滞在を含めて、西ヨーロッパを何ヶ月間も旅行した[172]。チャップリンは至る所で大歓迎され[132]、多くの著名人と社交的関係を持った。ロンドンではジョージ・バーナード・ショー、ウィンストン・チャーチル、マハトマ・ガンジー、ジョン・メイナード・ケインズと会談し、ドイツを訪問した時はアルベルト・アインシュタインの自宅に招待された[181][182]。チャップリンはヨーロッパ旅行を終えると、休暇を延ばして日本へ行くことを決めた。シンガポールやバリ島を経由して、1932年5月に日本を訪れ、6月に帰国した[183]。
『モダン・タイムス』(1936年)のポスター。
ロサンゼルスに戻ったチャップリンは、トーキー導入で大きく変化したハリウッドに嫌気がさした[184]。自伝では当時の心境を「まったくの混迷、将来の計画もなんにもない。ただ不安なばかりで、底知れぬ孤独にさいなまれていた」と回想している[185]。チャップリンは引退して中国に移住することも考えたが、1932年7月にポーレット・ゴダードと出会ったことで孤独感が解消され、二人はすぐに親密な関係を築いた[186][187]。しかし、チャップリンはなかなか次回作に取りかかろうとはせず、旅行記『コメディアンが見た世界』の執筆に集中した[188]。チャップリンは世界旅行をして以来、恐慌後の世界情勢に関心を持つようになった[189]。実際にチャップリンは、経済問題に関する論文「経済解決論」を執筆したり、ニューディール政策の熱熱な支持者として、1933年に全国産業復興法を支持するラジオ番組に出演したりしている[190]。アメリカの労働状況の悪化はチャップリンを悩ませ、機械化が失業率を高めるのではないかと恐れた。こうした懸念から次回作の『モダン・タイムス』が構想された[190]。
1934年10月に『モダン・タイムス』の撮影が始まり、約10ヶ月半かけて終了した[191]。チャップリンはトーキーで作ることを考えていたが、リハーサル中に気が変わり、前作と同様に効果音と伴奏音楽を採用し、会話シーンはほとんど使わなかった[192]。しかし、小さな放浪者がデタラメ語で「ティティナ」を歌うシーンで、チャップリンは初めて映画で肉声を披露した[193]。大野は、この作品を「機械文明に抵抗して個人の幸福を求める物語」としており[194]、『キッド』以来の政治的言及と社会的リアリズムが取り入れられた。チャップリンはこの問題を重視しないようにしたにもかかわらず、こうした側面が多くのマスコミの注目を引き付けた[195]。作品は1936年2月に公開されたが、一部の大衆観客は政治的要素を嫌ったため、アメリカでの興行収入は前作の半分にも満たない150万ドルにとどまり、評価も賛否両論となった[196][197][193]。それでも現代ではチャップリンの最も優れた長編映画のひとつと見なされている[179]。
『モダン・タイムス』の公開直後、チャップリンはポーレットとともにアジア旅行に出発し、香港や日本などを訪問した[198]。チャップリンとポーレットはお互いの関係について言及することはなく、正式な夫婦であったかどうかは明らかにしていない[199]。その後、チャップリンは旅行中の1936年に広東で結婚したことを明らかにした[200]。ポーレットは『モダン・タイムス』と次回作の『独裁者』でヒロイン役を演じたが、二人はそれぞれの仕事に重点を置いていたため、お互いの気持ちは離れていった。1942年にメキシコで二人の離婚が成立したが、その後もお互いの関係は良好だった[201]。
論争と人気の低下:1939年~1952年[編集]
『独裁者』[編集]
『独裁者』(1940年)の風船の地球儀を弄ぶシーン。
チャップリンは、1930年代の世界の政治的緊張とファシズムの台頭に不安を感じ、これらの問題を自分の仕事から遠ざけることはできないと考えていた[202][203]。この頃、各国のメディアではチャップリンとアドルフ・ヒトラーとの類似点が話題に取り上げられた[204]。二人はわずか4日違いで生まれ、どちらも社会の底辺の出身から世界的な有名人となり、鼻の下に歯ブラシのような口髭を付けていた。こうした類似性は、チャップリンに次の映画『独裁者』のアイデアを提供した。この作品ではヒトラーを直接的に風刺し、ファシズムを攻撃した[205]。
チャップリンは『独裁者』の脚本執筆に2年も費やし[206]、イギリスがドイツに宣戦布告した6日後の1939年9月に撮影を始めた[207]。チャップリンは政治的メッセージを伝えるために適した方法であることから、この作品をサイレントではなくオール・トーキーで製作したが、この時にはもはやトーキーを導入する以外に選択肢はなかった[208]。ヒトラーを主題にしたコメディを作ることは大きな物議を醸すと思われたが、チャップリンの経済的独立はそのリスクを冒すことを可能にした[209]。チャップリンは自伝で「ヒトラーという男は、笑いものにしてやらなければならないのだ」と述べている[210]。チャップリンは小さな放浪者を、同じ服装のユダヤ人の床屋に置き換えて、反ユダヤ主義のナチスを攻撃した[注 9]。さらにチャップリンは、ヒトラーをパロディ化した独裁者のアデノイド・ヒンケルも演じた[213]。
『独裁者』の製作には約1年かかり、1940年10月に公開された[214]。この作品はニューヨーク・タイムズの批評家から「今年最も熱狂的に待望された映画」と呼ばれるなど多くの注目を集め[215]、それまでのチャップリン映画で最高の興行収入を記録した[216]。しかし、結末のシーンは人気がなく、論争を引き起こした[217][218]。その結末シーンでは、チャップリンが床屋のキャラクターを捨てて、カメラ目線で戦争とファシズムに反対する5分間の演説をした[219][220]。映画史家のチャールズ・J・マーランドは、この説教がチャップリンの人気の低下を引き起こしたと考え、「今後、映画ファンはチャップリンから政治的側面を切り離すことができなくなった」と述べている[219]。『独裁者』は第13回アカデミー賞で作品賞、主演男優賞、脚本賞など5部門でノミネートされた[221]。
ジョーン・バリーとウーナ・オニール[編集]
1940年代半ば、チャップリンは自身の公的イメージに大きな影響を与えた一連の裁判に関わり、それにほとんどの時間を費やした[222]。1941年にチャップリンはポール・ヴィンセント・キャロル(英語版)原作の戯曲『影と実体(英語版)』の映画化を企画し、その主演女優として無名のジョーン・バリーと契約した。しかし、バリーは精神的に不安定で奇行が目立ったため、1942年5月に契約を解消した[223]。その後、バリーは2度もチャップリン家に侵入して逮捕され、1943年にはチャップリンの子供を妊娠していると発表した。チャップリンはこれを否定したため、バリーはチャップリンに対して子供の父権認知の訴訟を起こした[224]。
チャップリンの政治的傾向を長年にわたり疑っていた連邦捜査局(FBI)は、チャップリンの評判を傷つけるためのネガティブ・キャンペーンの一環として[225]、このスキャンダルに関する4件の罪状でチャップリンを訴えた。これらの中で最も問題になったのが、性的目的で州を越えて女性を移動させることを禁じるマン法(英語版)に違反したという申し立てである[注 10]。歴史家のオットー・フリードリックは、これを「時代遅れの法」による「馬鹿げた訴追」と呼んでいるが[228]、チャップリンが有罪となった場合は23年の懲役刑になる可能性があった[229]。他の3件の告発は法廷に持ち込むのに十分な証拠がなかったが、マン法違反の裁判は1944年3月21日に始まり[230]、2週間後の4月4日に無罪となった[226]。この事件はトップ級のニュースとして報道され、ニューズウィークは「1921年のロスコー・アーバックル事件の裁判以来の最大のスキャンダル」と呼んだ[229]。
キャロル・アンと名付けられたバリーの子供(1943年10月生)の父権認知の裁判は、1944年12月に開廷した[231]。原告側弁護士はチャップリンを不道徳であると強く非難し[232]、1945年4月の判決でチャップリンが父親であることが認定された。血液検査では「O型のチャップリンとA型のジョーンから、B型のキャロル・アンが生まれる可能性はない」と結論付けられていたが、裁判が行われたカリフォルニア州では、血液検査は裁判の証拠として認められなかった[226]。チャップリンは判決に従って、キャロル・アンが21歳になるまで養育費を支払うことになった[233]。この裁判でチャップリンは、FBIの影響を受けたメディアから過度な批判を受けた[234][235][228]。
この裁判でチャップリンが受けた打撃は大きかったが、そんな傷心の彼を慰めたのは4番目の妻であるウーナ・オニールだった[236]。1942年10月にチャップリンはタレントエージェントを介してウーナと初めて出会い、1943年6月16日に結婚した[237]。チャップリンは自伝で、ウーナとの出会いは「長きにわたるであろう私の最良の幸福のはじまり」と述べている[238]。しかし、二人が結婚したのはバリーが父権認知訴訟を起こしてから2週間後のことであり、それはチャップリンをめぐる論争を高めることになった[239]。チャップリンは亡くなるまでウーナと連れ添い、8人の子供をもうけた。その子供たちは上からジェラルディン(1944年7月生)、マイケル・ジョン(英語版)(1946年3月生)、ジョゼフィン・ハンナ(英語版)(1949年3月生)、ヴィクトリア(英語版)(1951年5月生)、ユージン・アンソニー(英語版)(1953年8月生)、ジェーン・セシル(1957年5月生)、アネット・エミリー(1959年12月生)、クリストファー・ジェイムズ(英語版)(1962年7月生)である[240]。
『殺人狂時代』と共産主義の告発[編集]
『殺人狂時代』(1947年)のポスター。
チャップリンはバリーの裁判で「自分の創作意欲をひどく傷つけられた」と感じ、再び映画製作を始めるまでには時間がかかった。チャップリンの新作は『殺人狂時代』で、フランスの失職した元銀行家ヴェルドゥが家族を養うために裕福な未亡人と結婚して殺害するという内容のブラックコメディである。このアイデアを思いついたきっかけは、1942年秋にオーソン・ウェルズがチャップリン主演でフランスの連続殺人犯アンリ・デジレ・ランドリューが主人公の映画を作りたいと提案したことだった。チャップリンはこの申し出を断ったが、このアイデアがすばらしい喜劇になると考えた[244]。そこでウェルズに原案料として5000ドルを支払い、当時進めていた『影と実体』の企画を棚上げして、4年がかりで完成させた。
チャップリンは『殺人狂時代』で再び政治的姿勢を主張し、資本主義や戦争における大量破壊兵器の使用を批判した。そのため1947年4月に公開されると物議を醸した。プレミア上映ではブーイングされ、ボイコットの呼びかけもあった。この作品はアメリカで批評的にも興行的にも失敗した最初のチャップリン映画だったが、海外では高い成功を収め、第20回アカデミー賞では脚本賞にノミネートされた。チャップリンはこの作品に誇りを持っており、自伝では「『殺人狂時代』は自分の作品中でも最高の傑作、実によくできた作品だと信じている」と述べている。
『殺人狂時代』に対する否定的反応は、チャップリンの公のイメージが変化した結果だった。チャップリンはバリーとのスキャンダルの被害に加えて、政治的姿勢が共産主義的であると公に非難された。チャップリンの政治活動は、第二次世界大戦中にソビエト連邦を支援するために第二戦線を開くことを呼びかける演説を行い、さまざまなアメリカの親ソ組織を支援した時に激化した。また、ハンス・アイスラーやベルトルト・ブレヒトなどの共産主義者とされる著名人と交友があり、ロサンゼルスでソ連外交官が主催したレセプションにも出席した。1940年代のアメリカの政治情勢では、そのような活動は「危険なほど進歩主義的で不道徳」と見なされた。FBIはチャップリンの国外追放を考え、1947年に公式な調査を開始した[注 11]。
チャップリンは共産主義者であることを否定し、代わりに自分を「平和主義者」と呼んだが、イデオロギーを抑圧する政府のやり方は自由権を侵害していて容認できないと主張した。チャップリンはこの問題について沈黙を拒否し、共産党員の裁判と下院非米活動委員会の活動に公然と抗議した。チャップリンの活動はマスコミで広く報道され、冷戦の恐れが高まるにつれて、チャップリンがアメリカ市民権を取らなかったことにも疑問が投げかけられ、国外追放を求める声も上がった。例えば、1947年6月に非米活動委員会の委員であるジョーン・E・ランキン議員は、「チャップリンがハリウッドにいること自体が、アメリカの体制には有害なのです…今すぐ彼を国外追放処分にして追放すべきであります」と発言した。同年9月、チャップリンは非米活動委員会から召喚状を受け取ったが、証言するために出頭されることはなかった。
『ライムライト』とアメリカ追放[編集]
『ライムライト』(1952年)で人気を失くした舞台芸人のカルヴェロを演じたチャップリン。
チャップリンは『殺人狂時代』の失敗後も政治的活動を続けたが[注 12]、次回作の『ライムライト』は忘れられたミュージック・ホールのコメディアンと若いバレリーナが主人公の作品で、政治的テーマからかけ離れていた。この作品はチャップリンの子供時代と両親の人生だけでなく、アメリカでの人気の喪失をほのめかしており、非常に自伝的なものになった。出演者にはチャップリンの5人の子供や異父弟のウィーラー・ドライデンなどの家族が含まれていた[276]。チャップリンは3年間も脚本に取り組み、1951年11月に撮影を始めた[277]。チャップリンのパントマイムシーンの相手役にはバスター・キートンが出演したが、サイレント映画時代に人気を分けた二人が共演したのはこれ限りだった。
チャップリンは『ライムライト』のワールド・プレミアを、作品の舞台となったロンドンで開催することに決めたが[279]、ロサンゼルスを去ればもう戻ってくることはないだろうと予感した。1952年9月17日、チャップリンは家族とクイーン・エリザベスに乗船し、イギリスへ向けてニューヨークを出航した。その2日後、アメリカ合衆国司法長官のジェームズ・P・マクグラネリー(英語版)はチャップリンの再入国許可を取り消し、アメリカに戻るには政治的問題と道徳的行動に関する審問を受けなければならないと述べた。マクグラネリーは「チャップリンを国外追放した根拠を明らかにすれば、チャップリン側の防御を助けることになる」と述べたが、マーランドは1980年代に開示されたFBIの記録に基づき、アメリカ政府はチャップリンの再入国を阻止するための証拠を持っていなかったと結論付けた。チャップリンは船上で再入国許可取り消しの知らせを受け取り、アメリカとの関係を断ち切ることに決めた。
あの不幸な国に再入国できるかどうかは、ほとんど問題ではなかった。できることなら答えてやりたかった―あんな憎しみに充ちた雰囲気からは、一刻でも早く解放されればされるほどうれしいことはない。アメリカから受けた侮辱と、もったいぶったその道徳面には飽き飽きだし、もうこの問題にはこりごりだ、と。
チャップリンの全財産はアメリカに残っており、合衆国政府に何らかの口実で没収されるのを恐れたため、政府の決定について否定的なコメントをするのは避けた。この事件はセンセーショナルに報道されたが、チャップリンと『ライムライト』はヨーロッパで温かく受け入れられた。アメリカではチャップリンに対する敵意が続き、『ライムライト』はいくつかの肯定的なレビューを受けたものの、大規模なボイコットにさらされた。マーランドは、チャップリンの人気の「前例のない」レベルからの低下は、「アメリカのスターダムの歴史の中で最も劇的かもしれない」と述べている。
ヨーロッパ時代:1953年~1977年[編集]
スイス移住と『ニューヨークの王様』[編集]
私は強力な反動的グループによる虚偽と悪意あるプロパガンダの対象にされてきた。彼らは自らの影響力とアメリカのイエロー・ジャーナリズムの助けで、リベラルな考えの人々を選び出して迫害することを許す不健康な空気を作り出している。このような状況下では、映画製作を続けることは事実上不可能であり、アメリカに居住することを諦めました。
チャールズ・チャップリン、アメリカに戻らないという決定に関する声明
チャップリンは再入国許可が取り消されたあと、アメリカに戻ろうとはせず、代わりにウーナをロサンゼルスに送って、財産をヨーロッパに持ち出すという問題を解決させた。チャップリン一家はスイスに移住することに決め、1953年1月にレマン湖近くにある村コルシエ=シュル=ヴヴェイにある、広さ14ヘクタールの邸宅マノワール・ド・バンに居を定めた。同年3月にビバリーヒルズにある家とスタジオは売りに出され、4月にアメリカへの再入国許可証を放棄した。1955年にはユナイテッド・アーティスツの残りの株式を売却し、アメリカとの最後の仕事上の関係を断ち切った。
1950年代もチャップリンは、世界平和評議会から国際平和賞を受賞したり、周恩来やニキータ・フルシチョフと会談したりするなど、物議を醸す人物であり続けた。1954年にはヨーロッパでの最初の作品となる『ニューヨークの王様』の脚本執筆を始めた。チャップリンは国を追われてアメリカに亡命した国王を演じ、自身が最近経験したことのいくつかを脚本に取り入れた。チャップリンの息子のマイケルは、両親がFBIの標的にされた少年役にキャスティングされ、チャップリンが演じた国王は共産主義の告発に直面するという設定だった。また、チャップリンは非米活動委員会をパロディ化し、アメリカの消費主義や大画面映画なども攻撃した。劇作家のジョン・オズボーンは、それを「チャップリンの映画の中で最も辛辣」で「公然たる個人的映画」と呼んだ。1957年のインタビューで、チャップリンは自身の政治的姿勢について「政治に関しては、私はアナーキストだよ。政府や規則、束縛は嫌いだ…人間は自由であるべきだ」と発言した。
チャップリンは『ニューヨークの王様』を作るために新しい製作会社アッティカを設立し、ロンドン郊外にあるシェパートン撮影所(英語版)をスタジオに借用した。チャップリンは今まで自分のスタジオで気心の知れたスタッフと映画を作っていたため、仲間がほとんどおらず、スケジュールにも縛られたイギリスでの撮影は困難な仕事となった。それは映画の完成度に大きな影響を及ぼした。作品は1957年9月にロンドンで初公開され、さまざまな評価を受けたが、ヨーロッパではヒットした。チャップリンはパリでの初公開時にアメリカの記者を追い出し、1973年までアメリカで上映しなかった。
最後の作品と晩年[編集]
チャップリンと妻のウーナ・オニール(1965年)。
チャップリンはキャリアの最後の20年間で、過去の作品の所有権と配給権を確保し、それらを再公開するために音楽を付けて再編集することに精力を傾けた。その最初の仕事として、チャップリンは『犬の生活』『担へ銃』『偽牧師』の3本をまとめて、1959年に『チャップリン・レヴュー』として再公開した。この頃のアメリカでは政治的な雰囲気が変わり始め、世間の注目はチャップリンの政治的問題ではなく、再びチャップリン映画に向けられた。1962年7月にニューヨーク・タイムズは、「いまだ忘れられていない小さな放浪者がアメリカの港に上陸するのを許したところで、この国が危険にさらされるとは思えない」と社説で述べた。1963年11月にはニューヨークのプラザシアターで、『殺人狂時代』『ライムライト』を含むチャップリン映画の回顧上映が1年かけて行われ、アメリカの批評家から高い評価を受けた。1964年9月、チャップリンは7年前から執筆していた『チャップリン自伝』を刊行した。この自伝は初期の人生と私生活に焦点を当てており、映画のキャリアに関する情報が不足していると指摘されたが、世界的なベストセラーとなった。
チャップリンは自伝の出版直後、1930年代にポーレット・ゴダードのために書いた脚本に基づくロマンティック・コメディ『伯爵夫人』の製作を始めた。物語は豪華客船を舞台とし、マーロン・ブランドが乗客のアメリカ大使、ソフィア・ローレンが彼の部屋に隠れる密航者を演じた。チャップリンが国際的な大スターを起用したのはこれが初めてで、自身はちょい役で出演するにとどめ、監督に徹した。また、この作品ではチャプリン映画として初めてカラーフィルムとワイドスクリーンを導入した。作品は1967年1月にユニバーサル・ピクチャーズの配給で公開されたが、否定的な批評が多く、興行的にも失敗した。チャップリンは自身最後の映画となったこの作品の否定的反応に深く傷ついた。
1960年代後半、チャップリンは軽微な脳卒中を起こし、そこからチャップリンの健康状態はゆっくりと低下し始めた。それでも創作意欲が衰えることはなく、すぐに新しい映画の脚本『フリーク』に取りかかった。これは翼が生えた少女が主人公のドラマ仕立てのコメディで、娘のヴィクトリアを主演に想定していた。しかし、チャップリンの健康状態の低下は映画化の実現を妨げた。1970年代初頭、チャップリンは『キッド』『サーカス』などの自作を再公開することに専念した。チャップリン映画を配給するためにブラック社が設立され、「ビバ・チャップリン」と題したリバイバル上映が各国で行われたが、これは日本だけの収益で元が取れた。
1972年のアカデミー賞授賞式で名誉賞を受賞したチャップリン(右)。左はプレゼンターのジャック・レモン。
1970年代、チャップリンはカンヌ国際映画祭特別賞やレジオンドヌール勲章など、その業績に対してさまざまな栄誉を受けるようになった。1972年に映画芸術科学アカデミーは、チャップリンにアカデミー名誉賞を授与することに決めた。ロビンソンは、これで「アメリカも償いをする気になった」と述べている。最初チャップリンはこれを受けるのをためらったが、20年ぶりにアメリカに戻ることを決心した。授賞式では、同賞の歴史の中で最長となる12分間のスタンディングオベーションを受け、チャップリンは「今世紀が生んだ芸術である映画の製作における計り知れない功績」を理由に名誉賞を受け取った。チャップリンはその2年後に著した『映画のなかのわが人生』の中で、授賞式について「私はその温かな意思表示に感動したが、あの出来事にはなにがしかのアイロニーがあった」と述べている。
チャップリンはまだ新しい映画のための企画を考えており、1974年には「アイデアが次々と頭の中に飛び込んでくるから」引退することはできないと語っていたが、1970年代半ばまでにチャップリンの健康状態はさらに低下した。チャップリンは数回の脳卒中を起こし、やがて歩くこともできなくなった。チャップリンの最後の仕事は、1976年に『巴里の女性』を再公開するためにスコアを付けて再編集する作業だった。1975年にはチャップリンの人生についてのドキュメンタリー『放浪紳士チャーリー』に出演した。同年3月、イギリス女王エリザベス2世よりナイトの称号を与えられた。授与式には車椅子姿で登場し、座ったまま栄誉を受け取った。
死去[編集]
スイスのコルシエ=シュル=ヴヴェイにあるチャップリンの墓。
1977年10月15日、チャップリンはスイスに居住してからの恒例行事だったヴヴェイのニー・サーカスの見物に出かけたが、それがチャップリンの最後の外出となった。それ以降は絶えず看護が必要になるまでに健康状態が悪化した。12月25日のクリスマスの早朝、チャップリンは自宅で睡眠中に脳卒中のため88歳で亡くなった。その2日後にヴヴェイにあるアングリカン・チャーチの教会で、チャップリンの生前の希望による内輪の質素な葬儀が行われ、棺はコルシエ=シュル=ヴヴェイの墓地に埋葬された。チャップリンが亡くなったあと、世界中の映画人が賛辞の言葉を寄せた。フランスのルネ・クレール監督は「彼は国と時代を超えた、映画の記念碑的存在だった。彼は文字どおりすべてのフィルムメイカーの励みだった」と述べた。俳優のボブ・ホープは「私たちは、彼と同じ時代に生きることができて幸運だった」と述べた。
1978年3月1日、チャップリンの棺は移民の失業者であるポーランド人のロマン・ヴォルダスとブルガリア人のガンチョ・ガネフにより掘り起こされ、墓から盗み出された。二人は自動車修理工場の開業資金を手に入れるために棺を盗み、ウーナに60万スイス・フランの身代金を要求したが、大規模な警察の作戦により逮捕された。5月、チャップリンの棺は墓地に近いノヴィーユ村の麦畑に埋められている状態で発見され、再発防止のため鉄筋コンクリートで周りを固めて同じ墓地に埋め戻された。
作風[編集]
影響[編集]
最初にチャップリンに影響を与えたのは、芸人である母のハンナだった。ハンナはよく窓際に座って通行人の真似をして、幼少期のチャップリンを楽しませた。これを通してチャップリンは、手ぶりや表情で自分の感情を表現する方法と、人間を観察して掘り下げる方法を学んだ。チャップリンはミュージック・ホールの舞台で活動し始めた頃、ダン・リーノなどのコメディアンの芸を間近で見て学んだ。フレッド・カーノー劇団で過ごした日々は、俳優及び監督としてのチャップリンのキャリア形成に影響を与えた。チャップリンはカーノーからギャグのテンポを変えることや、ドタバタにペーソスを混ぜることを学んだ。映画業界からは、フランスの喜劇俳優マックス・ランデーの影響を受けており、チャップリンは彼の作品を賞賛した。小さな放浪者の扮装とキャラクターは、浮浪者のキャラクターがよく演じられていたアメリカのヴォードヴィルの舞台に触発されたと考えられている。
製作方法[編集]
チャップリン・スタジオ(1922年)。1918年から1952年までのチャップリン映画はすべてここで作られた。
チャップリンは自分の映画の製作方法についてほとんど話そうとはせず、もし作り方がわかってしまえば「魔法はすっかり消し飛んでしまう」と主張した。また、1918年にチャップリンは業界のスパイが記者に化けて製作会議を盗み聞きしたという事件に遭遇し、それ以来映画製作において秘密主義を貫き、スタジオの訪問も禁じていた。そのためチャップリンの生涯を通じて、その製作方法が知られることはほとんどなかったが、没後に映画史家のケヴィン・ブラウンローとデイヴィッド・ギルにより研究が行われ、その調査結果が3部構成のテレビドキュメンタリー『知られざるチャップリン』(1983年)の中で紹介されて以来、チャップリンのユニークな製作方法が明らかになった。
チャップリンは『独裁者』で会話付きの映画を作り始めるまで、決定稿の脚本を用意してから撮影を始めることがほとんどなかった。初期作品の多くは「小さな放浪者が保養所に入る」や「小さな放浪者が質屋で働く」などの漠然としたアイデアから出発し、そこからセットを組み立て、俳優と協力してギャグを即興で作りながら、それぞれのシークエンスを順序通りに撮影した。チャップリンは頭の中にあるアイデアをもとに、何度も撮り直しを行い、アイデアの破棄や変更を繰り返しながらストーリーを構築した。そのためすでに完成したシーンがストーリーと矛盾していれば再撮影する必要が生じた。『巴里の女性』以後は、準備されたプロットから撮影を始めたが、デイヴィッド・ロビンソン(チャップリン研究の世界的権威)によると、『モダン・タイムス』までの作品は「ストーリーが最終的に出来上がるまでに、アイデアは多くの変更と修正を経た」という。
チャップリン以外には、製作のすべての面でこれほどまでに完璧に支配し、あらゆる仕事をこなした映画製作者はいない。もしも可能であったなら、チャップリンはすべての役を自分で演じ、(息子のシドニーが冗談半分ながら指摘したように)すべての衣装を自分で縫ったことだろう。(チャップリンの伝記作家デイヴィッド・ロビンソン)
この方法で映画を作るということは、チャップリンが当時の他の映画監督よりも、映画を完成させるのにより長い時間を要したということを意味した。チャップリンはアイデアが煮詰まると、インスピレーションを取り戻すまでスタジオを離れて撮影を休み、それが何日間も続くこともあった。チャップリンの厳格な完璧主義は、撮影をさらに遅らせた。友人のアイバー・モンタギューによると、チャップリンにとって「完璧以外に正しいものはない」という。チャップリンは完璧な映像を作るため、同じシーンを何十回でも撮り直し、そのために膨大な長さのフィルムを使用したが、どれだけの費用と時間をかけても満足するシーンでなければ、何千フィートもの撮影フィルムをカットした。『キッド』は完成作品が約5300フィートなのに対し、総撮影量は約27万9000フィートに及んだ。
チャップリンは私生活が入り込む余地がないほど映画作りに没頭し、晩年でさえも、ほかのすべてのことや人よりも優先して仕事にすべてをささげた。そんなチャップリンは製作過程のすべてを自分でコントロールした。他の俳優が演じる役も、自分が解釈した通りに演じることを求めた。チャップリンはすべての映画を自分で編集し、数万フィートに及ぶ撮影フィルムを処理して、自分が求める完全な作品を完成させた。こうした完全な独立性により、映画批評家のアンドリュー・サリスは、チャップリンを最初の作家主義的監督のひとりと見なした。しかし、チャップリンには長年のカメラマンであるローランド・トザロー、マネージャーを務めたシドニー・チャップリン、常連俳優で助手のヘンリー・バーグマン、助監督のハリー・クロッカーやチャールズ・ライスナーなどの協力者がおり、その助けを借りながら映画作りを行った。
スタイルとテーマ[編集]
『キッド』(1921年)には、チャップリン映画の特徴的な作風であるドタバタ、ペーソス、社会批評が含まれている。
チャップリンのコメディ・スタイルは、スラップスティック(ドタバタ)と広く定義されているが、それは抑制された知的なものと見なされている。映画史家のフィリップ・ケンプは、そのスタイルを「巧みでバレエのようにフィジカルなコメディと、よく考えられたシチュエーション・コメディ」を組み合わせたものと考えている。チャップリンはギャグのテンポを遅くし、シーンからシーンへ素早く移動するのではなく、各シーンで可能な限りのギャグを使い尽くしてから次のシーンに移り、感情表現に重きを置く性格喜劇的なタッチにすることで、従来のスラップスティック・コメディとは異なるスタイルを見せた。ロビンソンは、チャップリンのギャグは滑稽な出来事自体からではなく、それに対するチャップリンの態度から生み出されていると指摘している。例えば、小さな放浪者が木にぶつかる時、ユーモアは衝突そのものではなく、反射的に帽子をとり木に向かって詫びることから起きている。チャップリンの伝記作家ダン・カミンは、チャップリンの他のコメディ・スタイルの重要な特徴として、「風変わりな癖」と「ドタバタの最中での真面目な行動」を指摘している。
チャップリンのサイレント映画は通常、小さな放浪者が貧困の中で生活し、しばしば悲惨な目にあうが、必死に努力して紳士として見られるように振舞う姿が描かれている。小さな放浪者はどんな困難に見舞われても、いつも親切で明るいままである。大野裕之は、小さな放浪者には「イノセントな性格」があると指摘している。小さな放浪者は権威的な存在に抵抗するが、大野はこうした特徴から、チャップリンを社会的弱者や大衆を象徴する存在と見なし、そのために大衆観客の共感を得たと指摘している。また、小さな放浪者は冒険や恋を夢見るが、現実で成就することはない。いくつかの作品では、小さな放浪者が再び夢を求めて放浪し続けるために、背を向けて一人で去って行く姿がラストシーンで描かれている。
悲劇がかえって笑いの精神を刺激してくれるのである…笑いとは、すなわち反抗精神であるということである。私たちは、自然の威力というものの前に立って、自分の無力ぶりを笑うよりほかにない-笑わなければ気が違ってしまうだろう。(チャールズ・チャップリン、悲劇的な題材からコメディを作る理由について)
ペーソスの導入は、チャップリン映画のよく知られた特徴である。大野は、チャプリン映画の特色を「笑いだけでなく涙の要素も入れた物語」と指摘している。ルービッシュは、チャップリン映画の感傷性を作る要素として「個人的な失敗、社会の狭窄、経済的損害」を特定している。『担へ銃』『黄金狂時代』などでは、悲劇的な状況を題材にコメディを作っている。このスタイルの原点となったのは、チャップリンが幼少時代に見た屠殺場から羊が逃げ出したエピソードである。チャップリンは羊が無茶苦茶に走り回り、通りが大騒ぎになる光景を見て笑ってばかりいたが、やがて羊が捕まり屠殺場に連れ戻されると、母に泣きながら「あの羊、みんな殺されるよ!」と訴えた。チャップリンはこのエピソードが喜劇と悲劇を結合する作風の基調になったと述べている。
社会批評は、チャップリン映画の特徴的なテーマである。チャップリンはキャリアの初期から社会的弱者を同情的に描き、貧しい人々の窮状を描いてきた。また、『チャップリンの移民』では移民、『チャップリンの勇敢』では麻薬中毒、『キッド』では非摘出子を描くなど、社会的に物議を醸す題材を扱うこともあった。その後、チャップリンは経済学に強い関心を持ち、その見解を公表する義務を感じるようになると、映画に明白な政治的メッセージを取り入れ始めた。『モダン・タイムス』では過酷な状況にある工場労働者を描き、『独裁者』ではヒトラーとムッソリーニをパロディ化し、ナショナリズムに反対する演説をラストシーンに挿入した。『殺人狂時代』では戦争と資本主義を批判し、『ニューヨークの王様』ではマッカーシズムを攻撃した。
チャップリン映画のいくつかには、自伝的要素が取り入れられている。『キッド』は幼少時代に孤児院に送られた時のトラウマを反映していると考えられている。『ライムライト』の主人公は舞台芸人だった両親の人生から多くの要素を取り入れており、『ニューヨークの王様』はアメリカを追放された経験が関係している。映画に登場するストーリート・シーンは、チャップリンが育ったロンドンのケニントンの街と類似している。チャップリンの伝記作家スティーヴン・M・ワイスマンは、チャップリンと精神病を患った母親との関係が、チャップリン映画に登場するヒロインと、彼女たちを救いたいという小さな放浪者の願望に反映されていると指摘している。
映画史家のジェラルド・マストは、チャップリン映画の構造に関して、密接に順序付けられたストーリーではなく、同じテーマと設定で結び付けられたスケッチで構成されていると見なしている。視覚的にはシンプルで、固定カメラで撮影したシーンが多く、その映像は舞台上で演じているように見えた[377][394][395]。『ライムライト』の美術監督ウジェーヌ・ルーリエ(英語版)によると、チャップリンは撮影時に芸術的な映像を作ることは考えず、カメラに俳優の演技を収めることを第一に考えていたという[396]。チャップリンは自伝で「単純なアプローチ、それが結局いちばんよい…特別な技法はただ演出のスピード感をなくすだけで、退屈で、しかも不愉快である。カメラ操作はもっぱら俳優の動きを楽にするような演出に基づいて決定される…カメラがのさばり出してはいけない」と述べている。こうしたアプローチは、1940年代以降に時代遅れであると批判された。映画学者のドナルド・マカフリーは、それはチャップリンがメディアとしての映画を完全に理解していなかったことを示していると考えているが、カミンはチャップリンが「映画的なシーンを考案し、演出する才能」を持っていたら、スクリーン上で十分に笑わせることはできなかっただろうと述べている。
音楽[編集]
チェロを弾くチャップリン(1915年)。
チャップリンは子供の頃から音楽を学び、チェロやバイオリンを猛練習したり、ピアノで即興演奏をしたりした。1916年にはチャップリン音楽会社を設立し、自分で作曲した3つの曲を出版した。1925年にも自作の曲を2つ出版し、エイブ・ライマンのオーケストラでレコーディングした。そんなチャップリンはサイレント期から映画音楽の重要性を口にし、『キッド』以降は伴奏音楽を指示したキューシートを付けて配給した。トーキーが出現すると、チャップリンは『街の灯』からのすべての作品で、自ら映画音楽を作曲した。1950年代以降にいくつかのサイレント映画を再公開した時も、自分で作曲した伴奏音楽を付けている。
チャップリンは正式な音楽教育を受けていたわけではないため、楽譜を読むことができず、スコアを作る時はデイヴィッド・ラクシン、レイモンド・ラッシュ(英語版)、エリック・ジェイムズなどのプロの作曲家の助けを必要とした。一部の批評家は、チャップリンの映画音楽の功績は一緒に働いた作曲家に与えられるべきだと主張したが、ラクシンはチャップリンの創造的な立場と作曲過程における大きな貢献を強調した[403]。チャップリンの作曲は、思いついたメロディをピアノで弾いたりハミングしたりして、それを作曲家が譜面に書き取るという形で進められ、満足するメロディになるまで何度もやり直しをした。チャップリンは作曲家に自分が求めるものを正確に説明したが、その際に「ここはワーグナー風でいこう」というように、作曲家の名前を挙げて表現することが多かった。
チャップリンは自らの作曲作品から、3つの人気曲を生み出した。『モダン・タイムス』のために作曲した「スマイル」は、1954年に作詞家のジョン・ターナーとジェフリー・パーソンズにより歌詞が付けられ、ナット・キング・コールの歌唱でヒットした。『ライムライト』のために作曲した「テリーのテーマ」は、ジミー・ヤングにより「エターナリー」のタイトルで広まった。そして『伯爵夫人』のために作曲し、ペトゥラ・クラークが歌った劇中歌「This Is
My Song」は、イギリスのシングルチャートで1位を獲得した。また、チャップリンは1973年に再公開された『ライムライト』で、第45回アカデミー賞の作曲賞を受賞した[注 13]。
評価と影響[編集]
小さな放浪者に扮したチャップリン(1915年)。
1998年にアンドリュー・サリスは、チャップリンを「おそらく映画が生み出した最も重要な芸術家であり、間違いなく優れたパフォーマーであり、そしておそらく最も普遍的なアイコンである」と呼んだ。チャップリンは英国映画協会に「世界文化の中でそびえ立つ人物」と評され、タイム誌の「20世紀の最も影響力のある100人」のリストに「何百万人もの人々に笑いをもたらし」「多かれ少なかれ世界的な名声を作り、映画を芸術に変えるのを助けた」として選出された[411]。1999年にアメリカン・フィルム・インスティチュートが発表した「映画スターベスト100」では、男優部門の10位に選ばれた。
チャップリンが演じた小さな放浪者のイメージは、文化史の一部となっている。サイモン・ルービッシュは、このキャラクターがチャップリンの映画を見たことがない人や、その映画が上映されていない地域でも認知されているとしている。映画批評家のレオナルド・モルティンは、チャップリンの世界的影響に匹敵するコメディアンはいないと主張した。映画批評家のリチャード・シッケルは、チャップリンの小さな放浪者の映画には、映画史上最も「説得力のある豊かなコメディ表現」があると述べている。キャラクターに関するメモラビリアは、オークションで高値で落札されている。2006年にロサンゼルスで行われたオークションでは、衣装のひとつである山高帽と竹のステッキが14万ドルで落札された。
映画監督として、チャップリンはパイオニアと見なされ、20世紀初頭の最も影響力のある監督のひとりと考えられている。また、チャップリンはしばしば最初の映画の芸術家のひとりと認められている。映画史家のマーク・カズンズは、チャップリンが「映画のイメージだけでなく、その社会学と文法も変えた」と指摘し、D・W・グリフィスがドラマの発展に貢献したのと同じくらいに、チャップリンがコメディの発展に重要な役割を果たしたと主張した。チャップリンは長編コメディを普及させ、コメディの動きのペースを遅くし、そこに哀愁と繊細さを加えた最初の人物だった。その作品はドタバタ劇に分類されているが、『巴里の女性』はエルンスト・ルビッチ監督の『結婚哲学』(1924年)に大きな影響を与え、ソフィスティケイテッド・コメディの創始に貢献した。ロビンソンによると、この作品でのチャップリンの革新的スタイルは、すぐに当たり前な映画技法になったという。チャップリンはユナイテッド・アーティスツの創設メンバーとして、映画産業の発展にも大きな役割を果たした。ジェラルド・マストは、この会社がMGMやパラマウントに匹敵する大企業にはならなかったが、監督が独自で映画を作るというアイデアは、時代を何年も先取っていたとしている。
チャップリンの影響を受けた映画監督には、フェデリコ・フェリーニ(チャップリンを「一種のアダム、私たちのルーツとなる存在」と呼んだ)、ジャック・タチ(「彼がいなかったら、私は映画を作ってはいなかった」と述べた、ルネ・クレール、マイケル・パウエル、ビリー・ワイルダー、ヴィットリオ・デ・シーカ、リチャード・アッテンボローがいる。ロシアの映画監督アンドレイ・タルコフスキーは、チャップリンを「疑いの余地なしに映画史を作った唯一の人物で、彼の映画は決して古くなることはない」と賞賛した。また、チャップリンは後続のコメディアンにも影響を与えた。マルセル・マルソーはチャップリンを見てパントマイム・アーティストを志し、インドの俳優ラージ・カプールは『放浪者』(1951年)などでチャップリンを元にした放浪者のキャラクターを演じた。マーク・カズンズは、イタリアの喜劇俳優トトがチャップリンのコメディ・スタイルの影響を受けていると指摘した。他の分野では、フィリックス・ザ・キャットやミッキーマウスなどの漫画のキャラクター、芸術運動のダダイスムに影響を与えた。
レガシー[編集]
チャップリンが晩年の25年間を過ごした、スイスのコルシエ=シュル=ヴヴェイにある邸宅マノワール・ド・バンは、チャップリンの生涯と作品を展示する博物館「チャップリン・ワールド」に改装され、2016年4月にオープンした。ヴヴェイの町はチャップリンに敬意を表して、1980年にその名前に因んだ庭園を開園し、2011年には二つのビルにチャップリンを描いた大きな壁画を発表した。ロンドンでは、1981年に彫刻家ジョン・ダブルディ作のチャップリンの銅像がレスター・スクウェアに設置された。ロンドンやハンプシャー、ヨークシャーには、チャップリンを記念する9つのブルー・プラークが設置されている。1960年代にチャップリンが家族と夏を過ごしたアイルランドのウォータービルでは、2011年からチャップリンの人生と仕事を称えるために「チャーリー・チャップリン・コメディ映画祭」を開催している。
また、1981年にソビエト連邦の天文学者リュドミーラ・カラチキナが発見した小惑星(3623) Chaplinは、チャップリンに因んで命名された。1980年代にIBMは、小さな放浪者のキャラクターをパーソナルコンピュータの広告で使用した。2011年4月15日には、Googleがチャップリンの生誕122周年を祝してGoogle Doodleを作成し、多くの国のホームページに掲載した。六大陸にわたる多くの国では、チャップリンを記念した郵便切手が発行された。
チャップリンが遺した著作物や資料は、彼の子供たちがパリに設立したチャップリン・オフィス/チャップリン協会により管理されている。この事務所は、1918年以降のほとんどの映画の著作権を保有するRoy Export SASと、チャップリンとキャラクターの名前やイメージに対する商標権を保有するBubbles Incorporated SAを代表している[447]。チャップリンの膨大な文書や写真などのアーカイブは、スイスのモントルー公文書館に保管されている[446]。1990年代後半にイタリアのフィルム・アーカイヴのチネテカ・ディ・ボローニャ(イタリア語版)は「チャップリン・プロジェクト」を立ち上げ、チャップリン映画を復元したり、膨大なアーカイブをスキャンしてオンラインで公開したりした。2002年には英国映画協会が「チャップリン研究財団」を設立し、2005年7月に最初の「チャールズ・チャップリン国際会議」をロンドンで開催した。
チャップリンと日本[編集]
受容[編集]
曾根純三監督の『活動狂時代』(1926年)では、柳妻麗三郎と松尾文人がチャップリンを真似る大道芸人を演じた。
チャップリンが日本の映画雑誌で初めて紹介されたのは、『キネマ・レコード』の1914年7月号である。その記事でチャップリンは、特異な扮装と滑稽な歩き方から「変凹君(へんぺこくん)」と名付けられていた。同年から日本でチャップリン映画が公開され、すぐに高い人気を集めるようになり、当時は酔いどれ役のイメージから「アルコール先生」という愛称で呼ばれた。1916年から出演作は『チャップリンの~』の邦題で封切られ、正月とお盆にはチャップリンを中心に短編喜劇を集めた「ニコニコ大会」という上映会が日本各地で始まり、人気を不動のものとした。その人気ぶりに注目した映画会社の日活は、1917年に同社としては破格の金額でミューチュアル社と契約を結び、チャップリン映画の日本興行権を獲得した。チャップリン映画を得意とする活動弁士も現れ、その中でも大蔵貢はチャップリンの扮装をして映画説明をしたことから「チャップリン弁士」と呼ばれた。
笑いと涙を融合したチャップリン映画は、日本の大衆観客から人情喜劇として高い支持を受けた。大野裕之は当時の封切チラシから、日本人がチャップリン映画の中に「情」や「悲しみ」の要素を多く見出していると指摘している。それと同時にチャップリン映画の芸術性の高さも指摘され、インテリ層からも芸術家として支持された。キネマ旬報ベスト・テンでは、1924年に『巴里の女性』が「芸術的に最も優れた映画」の1位に選ばれ、その後も『黄金狂時代』『殺人狂時代』『独裁者』が「外国映画ベスト・テン」の1位に選ばれた。しかし、1920年代に左翼運動が高まる時代に入ると、社会風刺の強いチャップリンのイメージは変化し、危険なコメディアンという扱いを受けるようにもなった[460]。芥川龍之介はチャップリンを社会主義者と見なし、甘粕事件を引き合いに出して「もし社会主義者を迫害するとすれば、チャップリンもまた迫害しなければならない」と述べている。
第二次世界大戦前に日本公開されたチャップリン映画は『モダン・タイムス』(1938年公開)が最後となり、『独裁者』は完成当時に日独伊三国同盟を結んでいたため輸入されず、それから20年後の1960年に初公開されると大ヒットした。日本での人気は衰えず、1971年には萩本欽一がテレビ番組の企画でスイスのチャップリン邸を訪ね、1972年には東宝東和が「ビバ! チャップリン」と題したリバイバル上映を行い、若者を中心に高い支持を集めた[464]。没後もリバイバル上映が行われ、2003年には日本ヘラルド映画により「Love Chaplin! チャップリン映画祭」と題して代表作12本が上映され、2012年には「チャップリン・ザ・ルーツ」と題して初期作品63本のデジタルリマスター版が上映された[465]。2006年には日本チャップリン協会が設立され、日本国内での上映会やシンポジウムなどの活動が行われている。
チャップリンは日本の作品や人物にも影響を与えている。チャップリンの模倣者や翻案作品は、大正時代から数多く登場している。その最初は『成金』(1921年)で、主演の中島好洋は自らを「日本チャップリン」と称した。日活の俳優の御子柴杜雄は、『娘やるなら学士様へ』『夢泥棒』(1926年)でチャップリンの扮装を真似した。『キッド』は野村芳亭監督の『地獄船』(1922年)で翻案されたのをはじめ、『小さき者の楽園』(1924年)や『父』(1929年)など多くの影響作品を生み、『街の灯』は木村錦花脚色で『蝙蝠の安さん』(1931年)として歌舞伎化された。喜劇映画監督の斎藤寅次郎は、チャップリンをパロディ化した『チャップリンよなぜ泣くか』(1932年)を作り、主演の小倉繁は「和製チャップリン」と呼ばれた。また、漫画家の手塚治虫とお笑い芸人の太田光は、チャップリン映画から影響を受けていることを明らかにしている。さらに、漫才師の日本チャップリン・梅廼家ウグイスや声優の茶風林のように、チャップリンに因んだ芸名を付けた芸能人もいる。
日本人の使用人[編集]
チャップリンは自宅の使用人に、何人もの日本人を雇い入れていた。とくに知られているのが、1916年に運転手として雇われた高野虎市である。チャップリンは高野の誠実な仕事ぶりを評価し、やがて運転手だけでなく経理を含めた個人秘書の役割も任せるようになった。高野に厚い信頼を寄せたチャップリンは、彼の仕事ぶりから日本人の使用人を好むようになり、何人もの日本人を次々に雇い入れた。例えば、ハワイ出身の日系二世のフランク・ヨネモリやヒロサワ、運転手のヤマモトである。1926年頃にはチャップリン家の使用人は全員日本人となり、当時の妻のリタ・グレイは「日本人のなかで暮らしているようだった」と回想している。1934年に高野はポーレット・ゴダードと衝突したため辞任し、フランク・ヨネモリが秘書に昇格した。しかし、1941年12月の真珠湾攻撃でアメリカが第二次世界大戦に参戦すると、日本人の使用人は強制収容所に収容された。そのためチャップリンは新たにイギリス人の使用人を雇い入れたが、日本人の迅速で能率的な仕事ぶりに慣れていたため、イギリス人の仕事ぶりはうんざりするほどのろく感じたという。
4度の来日[編集]
1932年の初来日時に力士たちと記念写真を撮るチャップリン一行。左から清水川、シドニー、武蔵山、チャップリン、高野虎市、玉錦。
1961年に家族と鵜飼見物に訪れ、鵜匠と記念写真を撮るチャップリン(右端)。
チャップリンは小泉八雲の書物を読んで以来、日本に興味を持ち、生涯で4回来日した。初来日したのは1932年5月であるが、この時にチャップリンは犬養毅首相が暗殺された五・一五事件に遭遇した。首謀者の海軍青年将校は、当初チャップリンの暗殺も計画していた。来日前の4月に青年将校は、チャップリンの入京翌日に首相官邸で歓迎会が行われることを新聞報道で知り、その歓迎会を襲撃する計画を立てた。首謀者のひとりの古賀清志は、歓迎会を襲撃すれば「日米関係を困難にして人心の動揺をおこし、その後の革命進展を速やかにすることができる」と裁判で証言している。彼らは5月15日を決行日にしたが、チャップリンが滞在先のシンガポールで熱病に罹り、少なくとも5月16日以降に日本に到着することが判明したため、チャップリンを襲撃する計画は流れた。ところが、チャップリンは予定よりも早い5月14日に到着することになり、再び暗殺の標的に自ら飛び込む危険が生まれた。
5月14日、チャップリンはシドニー夫妻と神戸港に到着し、数万人の人々に出迎えられた。一行は東京に向かったが、東京駅では4万人もの群衆が押し寄せ、翌日に東京日日新聞はその混乱ぶりを「関東大震災当時の避難民の喧騒と怒号」のようだと報じた。チャップリンは宿泊先の帝国ホテルに向かう途中、同行した高野に頼まれて皇居に遥拝した。これは軍国主義が台頭していた日本で、チャップリンの身の安全を守るために高野が考えた演出だった。翌5月15日、チャップリンは当日に行われる首相官邸での歓迎会に出席することを承諾したが、突然予定を延期して両国国技館で相撲見物に出かけた。その夕方に犬養は首相官邸で暗殺され、チャップリンは事なきを得た。チャップリンは身の危険を感じて帰国することも考えたが、結局6月2日まで日本に滞在した。日本の伝統文化を好んだチャップリンは、歌舞伎や人形浄瑠璃などの古典芸能を鑑賞したり、上野の美術館で浮世絵を楽しんだりして過ごした。また、チャップリンは滞在中に何度も天ぷらを食し、一度に海老の天ぷらを30本も平らげたため、新聞では「天ぷら男」とあだ名された。チャップリンは初来日の感想について、自伝で「もちろん日本の思い出が、すべて怪事件と不安ばかりだったわけではない。むしろ全体としては、非常に楽しかったと言ってよい」と述べている。
1936年3月6日、チャップリンはゴダードとアジア旅行の途中、乗船したクーリッジ号が神戸港に停泊した一日半を利用して再来日した。その後、2ヶ月半ほどアジア諸国を旅行したあと、5月16日に三度目の来日を果たし、銀座や京都を観光したり[注 14]、岐阜の鵜飼を見物したりして6日間滞在した。1961年7月にはウーナと息子のマイケルを連れて、最後の来日を果たした。美しい日本の姿を求めていたチャップリンは、高度経済成長で近代化された東京の風景に失望し、再び鵜飼を鑑賞した時も、その大きく変化した光景に落胆した。しかし、京都を訪れると、古き良き日本の風景が残っているのを見て安心し、宿泊先から雨が降る東山の景色を見て「浮世絵のようだ」と感嘆したり、龍安寺ではお茶を点てる女性の動きを見て「まるでバレエだ」と表現したりして楽しんだ。京都見物の途中に銭湯に急遽立ち寄った時には、居合わせた人々にビールを振舞った。
フィルモグラフィー[編集]
詳細は「チャールズ・チャップリンの映画作品一覧」を参照
チャップリンが出演・監督した公式映画は82本存在するが、それ以外にも未完成及び未公開の作品、再編集して公開された作品、カメオ出演した他監督の作品がある。2020年時点でアメリカ国立フィルム登録簿には、『ヴェニスの子供自動車競走』(1914年)、『チャップリンの移民』(1917年)、『キッド』(1921年)、『黄金狂時代』(1925年)、『街の灯』(1931年)、『モダン・タイムス』(1936年)、『独裁者』(1940年)の7本の公式映画と、カメオ出演したキング・ヴィダー監督の『活動役者(英語版)』(1928年)が登録されている。
監督した長編映画
キッド(1921年)
巴里の女性(1923年)
黄金狂時代(1925年)
サーカス(1928年)
街の灯(1931年)
モダン・タイムス(1936年)
独裁者(1940年)
殺人狂時代(1947年)
ライムライト(1952年)
ニューヨークの王様(1957年)
伯爵夫人(1967年)
受賞[編集]
ハリウッド・ウォーク・オブ・フェームにあるチャップリンの星。
チャップリンは生涯に多くの賞と栄誉を受けた。1962年にオックスフォード大学とダラム大学から名誉博士号を与えられ、1965年にはイングマール・ベルイマンとともにエラスムス賞を受賞した。1971年にはフランス政府からレジオンドヌール勲章のコマンドゥールの称号を授けられ、1975年にはエリザベス2世から大英帝国勲章のナイト・コマンダー(英語版)(KBE)の称号を与えられた[330]。映画業界からは、1957年に映画芸術への顕著な貢献に対してジョージ・イーストマン賞(英語版)を受賞し、1971年の第25回カンヌ国際映画祭ではチャップリンの全作品に対して特別賞を贈られ、1972年のヴェネツィア国際映画祭では栄誉金獅子賞を受賞した。同年にリンカーン・センター映画協会から生涯功労賞を受賞し、同賞はそれ以来「チャップリン賞」の名称で毎年映画人に贈られている。また、1972年にハリウッド・ウォーク・オブ・フェームで星を獲得したが、それまではチャップリンの政治的問題のために除外されていた。
以下の表は、チャップリンが受賞した、もしくはノミネートされた映画賞(作品自体に与えられた賞を含む)の一覧である。
チャールズ・チャップリンの主な映画賞の受賞とノミネートの一覧 |
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賞 |
年 |
部門 |
作品名 |
結果 |
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『サーカス』 |
受賞 |
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『独裁者』 |
ノミネート |
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ノミネート |
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ノミネート |
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脚本賞 |
『殺人狂時代』 |
ノミネート |
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名誉賞 |
- |
受賞 |
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『ライムライト』 |
受賞 |
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『独裁者』 |
受賞 |
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『ライムライト』 |
ノミネート |
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主演男優賞 |
ノミネート |
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演技賞 |
『独裁者』 |
受賞 |
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1947年 |
『殺人狂時代』 |
受賞 |
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1949年 |
『殺人狂時代』 |
受賞 |
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1959年 |
- |
受賞 |
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1952年 |
外国映画賞 |
『殺人狂時代』 |
受賞 |
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1953年 |
『ライムライト』 |
ノミネート |
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1976年 |
- |
受賞 |
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1953年 |
『ライムライト』 |
受賞 |
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1974年 |
名誉終身会員賞 |
- |
受賞 |
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家族[編集]
チャップリン(左から4番目)と4番目の妻ウーナ・オニール(チャップリンの右隣り)とその子供たち(左からジェラルディン、ユージン・アンソニー、ヴィクトリア、アネット、ジョゼフィン、マイケル)。
詳細は「en:Chaplin family」を参照
父:チャールズ・チャップリン・シニア(1863年 - 1901年、舞台俳優)
母:ハンナ・チャップリン(1865年 - 1928年、舞台女優)
異父兄:シドニー・チャップリン(1885年 - 1965年、俳優)
異父弟:ウィーラー・ドライデン(1892年 - 1957年、俳優)
最初の妻:ミルドレッド・ハリス(1901年 - 1944年、女優)
長男:ノーマン・スペンサー・チャップリン(1919年、生後3日で死去)
2番目の妻:リタ・グレイ(1908年 - 1995年、女優)
次男:チャールズ・チャップリン・ジュニア(1925年 - 1968年、俳優)
三男:シドニー・アール・チャップリン(1926年 - 2009年、俳優)
3番目の妻:ポーレット・ゴダード(1910年 - 1990年、女優)
4番目の妻:ウーナ・オニール(1925年 - 1991年、ユージン・オニールの娘)
長女:ジェラルディン・チャップリン(1944年 - 、女優)
孫:ウーナ・チャップリン(1986年 - 、女優)
四男:マイケル・チャップリン(英語版)(1946年3月 - 、俳優)
孫:ドロレス・チャップリン(フランス語版)(1970年 - 、女優)
孫:カルメン・チャップリン(1972年 - 、女優)
次女:ジョゼフィン・チャップリン(英語版)(1949年 - 、女優)
三女:ヴィクトリア・チャップリン(英語版)(1951年 - 、女優)
孫:ジェームス・ティエレ(英語版)(1974年 - 、俳優)
五男:ユージン・アンソニー・チャップリン(英語版)(1953年 - 、レコーディング・エンジニア)
孫:キエラ・チャップリン(英語版)(1982年 - 、モデル)
四女:ジェーン・セシル・チャップリン(1957年 - )
五女:アネット・エミリー・チャップリン(1959年 - )
六男:クリストファー・チャップリン (英語版)(1962年 - 、作曲家・俳優)
チャップリンを題材にした作品[編集]
映画『チャーリー』(1993年、リチャード・アッテンボロー監督) - チャップリンの生涯を描いた伝記映画で、ロバート・ダウニー・Jrがチャップリンを演じた。
映画『ブロンドと柩の謎』(2001年、ピーター・ボグダノヴィッチ監督) - エディー・イザードがチャップリンを演じた。
舞台『Limelight:
The Story of Chaplin』(2006年発表・2010年初演、トーマス・ミーハン、クリストファー・カーティス作) - チャップリンの人生に基づくミュージカル[513]。2012年にブロードウェイで『Chaplin: The Musical』のタイトルで上演。
テレビアニメ『チャップリン&CO(英語版)』(2011年、フランス3) - チャップリンの小さな放浪者が主人公のCGアニメーションシリーズ。
映画『ダンシング・チャップリン』(2011年、周防正行監督) - フランスの振付師ローラン・プティによる、チャップリンを題材にしたバレエの舞台を映像化した作品。
映画『チャップリンからの贈りもの』(2014年、グザヴィエ・ボーヴォワ監督) - チャップリンの遺体が誘拐された実話をもとに、その犯人を主人公にしたフィクション作品。
ドキュメンタリー作品[編集]
『放浪紳士チャーリー』(1975年、リチャード・パターソン監督) - ヴヴェイの自宅で撮影されたシーンを含む。
『知られざるチャップリン』(1982年、ケヴィン・ブラウンロー、デイヴィッド・ギル監督)
『チャーリー・チャップリン ライフ・アンド・アート』(2003年、リチャード・シッケル監督) - ウディ・アレンやジョニー・デップなどのインタビュー映像を含む。
『Charlie
Chaplin: The Forgotten Years』(2003年、フェリス・ゼノーニ監督)
『Chaplin,
la légende du siècle』(2014年、フレデリック・マーティン監督)- フランスのテレビドキュメンタリー。
著書(訳書)[編集]
『僕の旅』高瀬毅訳、中央公論社、1930年。
文庫版『チャップリン自伝〈上〉 若き日々』中野好夫訳、新潮文庫、1981年。
『チャップリン自伝〈下〉 栄光の日々』中野好夫訳、新潮文庫、1992年。
新訳版『チャップリン自伝 若き日々』中里京子訳、新潮文庫、2017年。
『チャップリン自伝 栄光と波瀾の日々』中里京子訳、新潮文庫、2018年。
デイヴィッド・ロビンソンと共著『小説ライムライト チャップリンの映画世界』上岡伸雄、南條竹則訳、集英社、2017年。
脚注[編集]
注釈[編集]
1.
シドニーの父親の身元は確かではないが、ホークスという金持ちの出版業者であるとされている。
2.
チャップリンがエイト・ランカシア・ラッズを退団した正確な時期ははっきりとしていないが、映画史家のA.J.マリオットは調査に基づいて、その時期を1900年12月としている。
3.
ウィリアム・ジレットは、シャーロック・ホームズの舞台をアーサー・コナン・ドイルと共作し、1899年の初演以来ホームズを演じていた。1905年にジレットは新作喜劇『クラリス』をデューク・オブ・ヨーク劇場で上演したが不評で、急遽『苦境に立つシャーロック・ホームズ』を公演に追加し、チャップリンはこの作品でビリー役に抜擢された。公演は失敗したため数日で終了し、『シャーロック・ホームズ』の再演に引き継がれると、チャップリンも引き続きビリー役を演じた。
4.
このアメリカ巡業には、のちにローレル&ハーディで知られるスタン・ローレルが「スタン・ジェファソン」の芸名で参加していた。
5.
キーストン社がチャップリンを見出した経緯は諸説ある。マック・セネットによると、ニューヨークの劇場で『イギリス・ミュージックホールの一夜』に出演したチャップリンを見て、彼を引き入れるようケッセルに頼んだという。チャップリンも自伝でこの話を採用している。これ以外の説では、ケッセルがニューヨークの劇場で発見したという説や、ニューヨーク映画会社重役のハリー・エイトキンが発見したという説がある。
6.
チャップリンが持っている竹のステッキは、当時の特徴的な紳士用品だった。19世紀半ばから20世紀初頭のイギリス紳士の間では、ステッキの材質に竹や籐を使うのがポピュラーで、特にしなやかで丈夫な日本製の竹が流行した。チャップリンが使用したステッキは、滋賀県草津市産の竹根鞭細工で、これはイギリスでも広く普及したものだった。
7.
イギリス大使館はチャップリンの主張を裏書きするように、「チャップリンはその気になりさえすればいつでも志願兵になることはできる。しかし、彼は現在、大金を稼いで戦時公債に出資することで前線で戦うのと同じほど国家のために尽くしている」と述べている。
8.
主なチャップリンの模倣者には、ビリー・ウェストやビリー・リッチーがいる。リッチーは自分が放浪者の扮装の考案者だと主張し、チャップリンに対して訴訟を起こしたことで知られる。ハロルド・ロイドもチャップリンを模倣したロンサム・リュークなる人物を演じていた。
9.
1910年代に名声を得た頃から、チャップリンはユダヤ人であるという憶測が広まったが、それを示す証拠は存在しない[211]。大野によると、公的な記録に基づいて、父母双方の家系を4代遡ってもユダヤ人はいないが、母方の祖母がロマであるという。1915年にチャップリンは、記者の「あなたはユダヤ人か」という質問に対し、「残念ながらそんな幸運には恵まれていない」と答えている。しかし、ナチスはチャップリンがユダヤ人であると思い込んでいたため、『黄金狂時代』の国内上映を禁止し、チャップリンを攻撃した。チャップリンは『独裁者』でユダヤ人を演じることでこれに反撃し、「私は世界中のユダヤ人のためにこの映画を作った」と発言した。しかし、自伝では「もしあのナチス収容所の実態を知っていたら、『独裁者』はできていなかったかもしれないし、ナチどもの殺人狂を笑いものにする勇気も出なかったかもしれない」と述べている。
10. 検察官は、チャップリンが1942年10月にニューヨークに行った時に、性的目的でバリーをロサンゼルスからニューヨークへ移動させ、彼女にニューヨークまでの旅費を支払ったことが、マン法に違反していると主張した。二人はニューヨークで会ったことは認めたが、バリーはそこで性的関係を結んだと主張した。チャップリンは1942年5月以降に関係を持ったことはないと主張した。
11. チャップリンは1940年代以前からFBIに注目されており、報告書で最初に言及されたのは1922年だった。1946年9月にFBI長官のジョン・エドガー・フーヴァーは、チャップリンに関する特別な報告書の作成を要求したが、FBIロサンゼルス支局の反応は遅く、翌年春に活発な調査を始めた。FBIはチャップリンがイギリス人ではなくフランスまたは東ヨーロッパで生まれ、本名がイズレイル・ゾーンシュタインであるという誤った申し立てを調査するためMI5に協力を求めたが、MI5はそのような証拠を発見できなかった。
12. 1947年11月、チャップリンはパブロ・ピカソに、ハンス・アイスラーの国外追放に抗議するためのデモをパリのアメリカ大使館前で行うよう要請し、12月に国外追放手続きの中止を求める請願書に署名した。チャップリンは1948年アメリカ合衆国大統領選挙でヘンリー・A・ウォレスを支持し、1949年に起きたピークスキル暴動に抗議する請願書に署名した。
13. 『ライムライト』は1952年に公開されたが、ロサンゼルスではボイコットのため1週間以上公開されなかったため、1972年に再公開されるまでアカデミー賞のノミネート基準を満たしていなかった。
14. 同年10月の『新青年』には、チャップリンが銀座を散策する様子を松山虔三が捉えた写真記事が掲載されている。
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