評伝 フィリップ・ジョンソン  Mark Lamster  2021.6.12.

 

2021.6.12. 評伝 フィリップ・ジョンソン 20世紀建築の黒幕

The Man in the Glass House

Philip Johnson, Architect of the Modern Century 2018

 

著者 Mark Lamster 1969年ニューヨーク生まれ。建築批評家。テキサス大アーリントン校建築学部教授の傍ら、『ダラス・モーニング・ニュース』紙所属。『アーキテクチュアル・レビュー』など複数誌の編集者でもあり、『ニューヨーク・タイムズ』、『ウォール・ストリート・ジャーナル』など全米の雑誌や新聞に寄稿多数。本書は評伝の第3弾で、2018年全米批評家協会賞評伝部門最終選考に残った

 

訳者 松井健太 1986年生まれ。建築史研究。戦後イタリアにおける建築理論と建築教育。現在日本学術振興会特別研究員(PD)。東大大学院工学系研究科建築学専攻修了。博士(工学)

 

監修 横手義洋 1970年生まれ。近代建築史、建築理論・思想。現在東京電機大建築学科教授。東大大学院工学系研究科建築学専攻修了。博士(工学)。『イタリア建築の中世主義 交錯する過去と未来』で09年建築史学会賞受賞

 

発行日           2020.10.30. 第1刷発行

発行所           左右社

 

 

日本語版への序文 2020.6.

ジョンソンの建物は、ほぼすべてのアメリカの主要都市にあるが、もっとずっと大きな遺産の一部に過ぎず、ジョンソンという遺産こそ都市や建築に関する私たちの思考を形成しているものであり、機をとらえて私たちが住む空間や場所を作り出したもの

ジョンソンの人生とキャリアは、私たちの文化における最も深い悪意の存在を非常に鮮やかに照らし出す。こうした悪意について誠実に検討することによってこそ、優れた建築のみならず、より強固な社会結束を構築することができる

 

プロローグ

1959年、ジョンソンは建築の伝統について話している途中で、「歴史を知らないなんてダメだ」と言い放つ

彼の人生には、アメリカの歴史と同じく、闇と光が同じ分だけ詰まっている。不公平と偏狭、危ういシニシズム、人間の弱さと悪徳、目に余るほどの大企業へのすり寄り、やがて金権政治の手中に落ちてゆく富と名誉。近代デザインの名の下に大衆を改宗させようと始まったジョンソンのキャリアは、ドナルド・トランプの建物で幕を下ろす

個々の建物や都市を作った人物というだけでなく、アメリカ文化を作った人物でもある

ジョンソンが建築を始めた1920年代、モダニズムはまだ内輪の運動だったが、彼が死んだとき、モダンなるものははっきりとした形と物質感をまとって、アメリカ都市、ビジネス風土、文化界のアヴァンギャルドやスノッブたちの標準的な美学を特徴付ける言語になっていた。ジョンソンは、少なくともそれを助長する役を担っていた

ジョンソンのキャリアは、MOMA建築部門の初代主任であり、同時に最も重要なパトロンの1人で多くの近代絵画や彫刻を寄贈、MOMAを、そして20世紀芸術の語られ方を決定付けている

ジョンソンが特に影響を及ぼしたのは建築とデザイン。多くの企画展を通じ、デザインの展示と受容のありようを確立。近代建築のあるべき姿を説き論争を巻き起こす。近代性は優れたデザインが促進する価値観ではなく、形やスタイルに関する問題であり、手頃な価格で健康にもよく環境にも配慮した建物や都市計画こそが個々人の領域と公共的な領域を共に啓発すると主張。モダニズムに飽きると、ポストモダニズムを立ち上げ、それが行き詰まるともう一度仕切り直す

サーカス王バーナムに負けないくらい世間の注目を集め、「スター建築」という知名度頼みの慣習に加担し、その慣習が建築家という職業を牛耳るようになる

彼がしばしば物議を醸したのは、喜んで自分の立場を翻すことで、数え切れないほどの二枚舌を駆使し、アメリカのありとあらゆる矛盾や逆説を体現。愛情と憎悪を同時に向けられた奇妙なカリスマ性を備える

彼が犯した過ちの1つは1930年代の放蕩の年月、反ユダヤ主義のファシスト党を立ち上げようとしたことで、償いのためにユダヤ人と友達になり本物の友情を培った

ジョンソンの矛盾は、彼の建築のうちにも表れている

自邸『ガラスの家』には、「プライヴァシーを尊重してください」と看板を出しながら、目立ちたがりの究極の欲求の産物であり、多くの見学者を気前よく出迎えた

そこでの生活も挑発的な作品で、同性愛者で、ファシストの経歴を持ち、突っかかるのが何より好きだった

 

第1章     先生のお気に入り

1906年ジョンソン誕生。父は信託法のスペシャリスト弁護士で、裕福な家庭に育つ

ニューヨーク・たりタウンのエリート校ハックリー・スクールに通い、課外活動では音楽に打ち込む

同性愛を意識し、ロマンスとは無縁

 

第2章     回心

ジョンソンがハーヴァードに入学する直前まで、ジャズ時代に広まった性の解放の波が保守的なボストンにまで広がり、ハーヴァードもその例外ではなかったが、1920年に同性愛グループのメンバーの1人が自殺して雰囲気が一気に変わる。14名が粛清され町からも追放、黒人をキャンパスから締め出し、ラドクリフ女子大との大学連携さえ断ち切ろうとしたが失敗。ユダヤ人学生の割合を下げようと合格者割当制度を持ち出し、制度は却下されたがユダヤ人学生は半減

1924年、父親の方針で、3人の子どもたちに財産分与、ジョンソンはアルコアの創業者との付き合いで手に入れた同社の株式を受け取る

働かなくても暮らしていけるだけの資産を得たことでジョンソンの生活は一変、孤独なアパート暮らしから、ハーヴァードでも特権階級の上層に属する学生のための最上級のアパートに引っ越し、惜しげもなく金を使う。授業料が250ドルに対し年間に切った小切手が25千ドルだった

特に惹かれたのは音楽、その力強い精神的な衝撃であり、自分自身の精神という牢獄からの身体の解放に魅せられ、ワーグナーを「暴力的に」愛好し、「僕は全世界を虐殺し、神と僕はそれに酔いしれた、完全にそんな気分になっていた」

自分は同級生よりも賢いと疑わず、ハーヴァードの学友に対する蔑みは容赦のないもの

感情の起伏がひどく、集中力が続かず、辛辣な自己批判が目立つ

ギリス旅行が建築に興味を持つ契機。母の従姉妹の建築家セオダテ・ポープとの邂逅

大学では哲学教師に憧れ、古典哲学を専攻

1927年、ドイツ語習得のためドイツ滞在中にナチ初のニュルンベルク集会開催に遭遇

古典哲学からニ-チェへと、決定的な寝返り

気分循環性障碍の急性期と診断され暫く休学

最終学年で建築の研究を専攻、インテリア雑誌『ザ・アーツ』で、ハーヴァードを卒業したばかりでウェズリアン大で教えているヘンリー=ラッセル・ヒッチコックが書いたオランダのモダニスト、J.J.P.アウトの建築をテーマにした評論を呼んで、近代建築研究者になろうと決意。「パウロの回心」が起きたという

ハーヴァードにモダン・アートやモダン・デザインを持ち込んだのは、ゴールドマン・サックスの創始者を父親に持つポール・J・サックスで、ハーヴァード付属のフォッグ・アート・ミュージアムの副館長で「美術館講座」を担当、美術館職員が知っておくべきあらゆるトピックをカバーした授業。1929年ハーヴァード現代芸術協会を立ち上げ

協会は、バックミンスター・フラーのダイマクション・ハウスを展示。アルミ製のツリーハウスで、フランク・ロイド・ライトの路線ですら急進的とみられていた時代に衝撃を与える

ウェルズリー大の新進気鋭の美術史研究者アルフレッド・H・バーの近代芸術の連続講座を聴講、バーがヨーロッパで仕入れたモダニズム作品の展示を見て啓発、さらには大学最終学年で予定していたヨーロッパ旅行の助けとしてバーから重要建築作品の訪問リストを受け取る

 

第3章     スタイルの男

ごてごてした装飾を妥協なく拒絶する態度は、建築を巡るジョンソンの初期の思考の特徴だが、明らかにバーやヒッチコックの評論からの借り受け

ドイツに行って最初の啓示が訪れたのはシュトゥットガルト。バーからの指示で、ヴァイセンホーフ・ジードルングのモデル住宅群を訪れ、ヨーロッパのモダニストたちの作品を見る。アウト、ル・コルビュジエ、ヴァルター・グロピウス、ミース・ファン・デル・ローエ、何れも陸屋根の白塗りブロックに水平連続窓を備え、近代的な簡素さの驚嘆物であり、近代労働者階級コミュニティのありうべき姿を提示し、機能的でない装飾は一切なかった

パウル・クレーに惚れ込んで、ドローイング《聖なる島々》を購入したが、これが最初のアート作品購入

ヨーロッパ・モダニズムがアメリカで華々しくデビューしたのは、1913年のアーモリー・ショー(正式名称「国際近代美術展」)だったが、その後お高く留まって扱いにくいアメリカ美術館業界に近代美術の公式の本拠地が生まれる気配は一向になく、28年になってジョン・D・ロックフェラー・ジュニアの妻アビー・アルドリッチが友人らとの観光旅行の途上カイロでニューヨーク近代美術館のアイディアを思いつき、メアリー・クイン・サリヴァンを誘って、A・コンガー・グッドイヤーに白羽の矢を立てる。グッドイヤーはバッファローの美術館でピカソの前衛的な作品を購入して近代芸術の促進を厭わない勇気を示しており、美術館設立のアドバイザーの中にポール・J・サックスがいて、彼がバーを館長に推薦

1929年、大恐慌の直後にニューヨーク近代美術館MoMAが、セザンヌ、ゴーギャン、スーラ、ゴッホの絵画展と共にオープン。57番街と5thの南西角に立つ派手な商業タワーの12階の事務所を改装した空間だったが、物珍しさから公衆を強力に惹きつけ長蛇の列となった

1931年、新設のジュニア・アドバイザー委員会の1人として参画。ロックフェラー夫人の息子ネルソンが委員長で、バーからは先進的なアイディアを出すことに加え、美術館の財政面の支援も期待された。ハーヴァードにモダン・アートを持ち込んだ学生のリーダーだったリンカーン・キルシュタインやエディ・ウォーバーグも初代メンバー

モダン・アートに群がる面々はみなゲイ、若い独身男性が最も邪魔されることなく自分の生活を送ることができる街というのが、ニューヨークの魅力の1つで、芸術で富と名を成そうとする誰にでもチャンスがあった

ジョンソンも仲間の中にドッペルゲンガー(自己像幻視)を探し、キャリー・ロスと出会う

バーの仲立ちもあって、ジョンソンは近代建築に関心を持つ同好の士・ヒッチコックと共著で『インターナショナル・スタイル』を刊行するために、2人を結び付けたオランダ人建築家・アウトの事務所から出発、2人でヨーロッパの近代建築を見て回る

 

第4章     ショー・タイム

近代美術館は、メトロポリタンなど他の美術館が受け入れようとしない種類の絵画や彫刻のための場所で、建築を美術館に持ち込むという発想はなかったが、バーの発案でジョンソンが建築の展示を美術館の理事会に建議。圧倒的な否定的意見の中で、ロックフェラー夫人が新機軸として前向きに取り上げる

1932年、近代建築家9組の作品に焦点を当てた展覧会開催。展示の監督役として監査役会がおかれ、ジョンソンの父親も保証人兼弁護士としてリクルートされる。ジョンソンは、会期終了後に他の会場に貸し出すことを提案、美術館初の巡回展を実現させる

ジョンソンのいう新しい建築とは、機能という論理を採用するとともに、美も同時に達成することができるもの

ジョンソンが選んだ9組とは、ヨーロッパからアウト、ル・コルビュジエ、グロピウス、ミース・ファン・デル・ローエの4人。残る5組はすべてアメリカ

ノーマン・ベル・ゲデス ⇒ 流線型で名高い工業デザイナー

モンロー&イルウィン・バウマン兄弟 ⇒ シカゴの事務所、実作はほとんど知られていない。アルミで覆われたアパート建築をシカゴで提案していた

レイモンド・フッド ⇒ ロックフェラー・センターの主任建築家

ハウ&レスケーズ事務所 ⇒ フィラデルフィア。ジョージ・ハウは美術館のジュニア・アドバイザー委員会に馴染み深い人物)。当時36階建ての最初の超高層を建設中

フランク・ロイド・ライト ⇒ アメリカ・モダニズムの黒幕

ジョンソンの成り上がりの横柄さに我慢ならない建築家が、誰にも劣らぬ尊大な自意識を備え絶頂期を迎えていたライトで、ジョンソンもライトのことを「近代建築とは何の関係もない年金暮らしの人物」と見做していたが、ライト抜きにこのテーマの展示会はあり得ないことは理解していたので、取り上げたし、ライトの方も世間の注目を欲し、派手な私生活の元手となる工面する仕事を必要としていたので、これほど絶大な広告への足掛かりを断ることは不可能

展示への出展要請のためベルリンに飛んだ際、市内で開催中の国際見本市、ベルリン建築展で「われらの時代の住まい」という旗印の下に有名建築家たちがデザインしたモデル住宅シリーズを見て、『ニューヨーク・タイムズ』に長文のレビューを寄せているが、これが一流新聞への初登場。展示会を企画し、作品を集めたミース・ファン・デル・ローエを絶賛

建築は、ヒトラーが少なからずその権威として振舞った点からして、ナチの関心を惹くものだった。ジョンソンは、ナチが最終的にはミースの美学に備わるモニュメンタルな力と抽象美へ回心することを期待していたが、ナチ党の組織としては、ポツダム広場に聳えるコロンブス・ビルがユダヤ人建築家メンデルゾーンによるものだという理由だけで近代建築を外国人やユダヤ人の堕落した産物と説明するようになっていた(ミースもグロピウスもユダヤ人ではない)

ファシズム政治へのジョンソンの関心の高まりは、ウェルズリー大卒の美術批評家で『ヴォーグ』のコラムニスト・ヘレン・リードの影響。近代美術館の熱烈な支持者でジョンソンと知り合い、ナチと化したドイツを一緒に旅行し、ミースの功績を評価

ベルリン建築展の展示会場のリリー・ライヒの水際立ったデザインを、10年以上も最先端であり続ける展示方式として賞賛、ミースのガラス張りのモデルハウスなどの作品を自身のその後のモデルとした

1932年、展示会オープン。展示の仕方はミースとライヒの盗用。モダニズムの偉大な人物の作品がアメリカに初めて集められた。クライマックスにはル・コルビュジエやライト、ミースらの上流階級向け住宅の模型が並べられ、上昇志向家庭のスタイルの普及に力点が置かれた。そこそこの入りだったが、聴衆の反応は物珍しさ程度のものに終わる

メディアの批評も、インターナショナル・スタイルの確立といって持ち上げるものと、どれを見ても似通ったものだとしてインターナショナル・モダニズムの単調さを非難するものと2分。さらに、ライトは過去の人という話に敏感になっていたこともあって、過去の巨匠と共に「史上最高の建築家の1人」として持ち上げられながら、一風変わった歴史的先駆者のような人間としての扱いに不満で、この後の巡回展から降りると宣言

ライトは、ジョンソンの単純な様式美を否定、建築とは個々人の芸術的天性が現代生活の必要と自然の環境に合わせて表現されたものであり、インターナショナル・スタイルは個々人の意思の消去を想定しており、共産主義的でありアメリカ民主主義の対極であるとした

ライトの罵詈雑言にも拘らず、ジョンソンは卑屈に誤解を解こうとする

1932年、MoMAは、ジョンソンを新設の建築部門の長として迎える。専門分野を横断して近代性を促進していくセンターを立ち上げるというバーの野望が実現。建築部門に与えられたスペースは、53丁目にロックフェラー家が所有する5階建てタウンハウスを改築した美術館新館内のギャラリー。これまでの費用はジョンソンが全額負担

 

第5章     マエストロ

アッパー・イーストのアスキュー姉弟(ママ)のサロンは、モダニストが揃う上流階級の集まり。サックスの教え子で美術商として成功、モダニストのパトロンとして振舞う

そのサロンで、ハートフォードのワズワース・アテネウム美術館長のオースティンと知り合う。彼もサックスの教え子、モダニズムへの嗜好を持ち、特に建築に執心

翌年、初の巡回展をシカゴで開催することが決まる

1932年夏、家族と一緒のヨーロッパ旅行の最中、ジョンソンは自分が決定的な権威になり得るような歴史的テーマを持つべきと思い、行き着いた人物がカール・フリードリヒ・シンケルに学んだドイツの建築家、ルートヴィッヒ・ペルシウス。永遠に師の陰に隠れて生きる追随者、エピゴーネンの仕事だったのは興味深い

当時のドイツは、ヒンデンブルク政権の下でベルリンは戒厳令下にあり。ポツダムでの大規模なヒトラー青年集会に出かけ、熱気を帯びた興奮に感化されたというが、おぞましい社会的・政治的理念よりは、ナチ美学に同性愛的魅力を感じたという性的欲求で取り繕う方が容易い。イタリアでも「ファシスト革命」展で、背筋も凍るような建築形態に魅了

ジョンソンは、ミラノ・トリエンナーレ建築展のアメリカ館の企画者に選出され、ライトの特集を組むが、その頃までにはジョンソンはヒトラーの冷酷さを自覚しながらも、権力奪取や独裁者のナチ党に対する熱中ぶりは目を瞠るものがあった

オースティンは、アテネウム美術館の新棟となるエイヴリー・メモリアルをアメリカ初の近代デザインの展示場にすべく、インテリアのデザインをインターナショナル・スタイルの設えとすべくジョンソンに依頼し、きちんとした教育を受けたことがなかったジョンソンはミースとライヒからの着想か盗用で仕上げる

ロックフェラー家の54丁目のタウンハウス最上階のプライベート・ギャラリーや、ネルソンの新しいアパートの内装の設計は逃したが、33年にはユダヤ系銀行頭取の御曹司のエディ・ウォーバーグは両親とともに住んでいた5番街の大邸宅の最上階のスカッシュ・コートをプライベート・ギャラリーに改築する仕事を任せてくれた。最初の施主。35年には『ハウス&ガーデン』にも取り上げられ、「落ち着きある簡素性と晴れやかな軽快性」に暗黙の賞賛を送り、インターナショナル・スタイルが趣味のいいアメリカ人にぴったりの美学として徐々に受け入れられていることの証となる

1933年に企画したのが《オブジェクト:1900年と今日》で、アール・ヌーヴォーの非常に装飾的なオブジェクトとバウハウス美学の現代小作品が巧みに並置された展示で、理事たちの支持を得ることに成功、より大規模な展覧会を承認していく

1934年、《機械芸術》展でセンセーションを巻き起こす。ビーカー、キャッシュ・レジスター、ディクタフォン、片手鍋などの工業製品を展示、それらは、装飾的なもの、ピクチャレスクなもの、それに手作りのものの死を告げる鐘として理解された。機械賛美にも拘らず、純粋に実用的なオブジェクトの展示というわけでもなく、並外れた形のゆえに、つまり美しいがゆえに、展示に選ばれた。同時に、展示方法としてインスタレーション・デザイン(場所や空間全体を作品として体験させる芸術)を近代美術館に導入したのは画期的

『ニューヨーク・タイムズ』もジョンソンを「展覧会のマエストロ」と持ち上げる

 

第6章     砂金の二人組

1934年末、ジョンソンは高校時代からの友人ブラックバーンとともに政治運動を始めるためにMoMAを辞任

自身のアパートで政治会合を開催。会合は悪意に満ちた反ユダヤ主義的なものとの証言があるが、さらに2人は車で大陸を横断、大衆の不満とニューディールへの反感を吸い上げて扇動するリーダーの1人となる

『資本主義はもうだめか?(1932)を出版して大恐慌の中で人々の心を最も惹きつけた人間の1人、ローレンス・デニスの民族主義的な世界観に感化される。黒人の母を持ちながら、誤魔化しとおせるくらいに肌が白かったことを利用して国務省外交局に入り、情報員として頭角を現したが、出世レースに敗れると、「生物的淘汰と精神的成長に適した人種の必要性」やファシズムこそ最善の選択と主張、近代社会を改良する新しいイデオロギーの宣伝者として自己演出。ジョンソンもすっかり信奉したが、その裏には根強いエディプス・コンプレックスもあり父親が大切にしていた共和国的価値観を見境なく拒否していた

父親は、ヴェルサイユ条約の際のアメリカ代表団の一員でもあり、息子の政治転身を恥晒しとして口も利かないようになり、沈黙で対応

国家の命運が自分の肩にかかっていると信じ、アメリカのヒトラーになることを望み、まずポピュリストで大衆扇動家のヒューイ・ロングと手を組み、後に彼を排除して国を掌握するつもりだったのかもしれない

1935年、ロング暗殺により、ジョンソンはオハイオ州を起点に独自の大衆運動へ。ポピュリスト政党の運動に身を投じたジョンソンたちは砂金の2人組と呼ばれたが、1936年の大統領選ではルーズヴェルトの歴史的大勝の前に敗退

 

第7章     アメリカの総統

ジョンソンが再起を期して目を付けたのがラジオ放送。資力にものをいわせて番組を手に入れ、アメリカを共産主義から救う青年民族主義運動と称して自前の集会を企画

1937年、運動を放り出してアメリカ人旅行者としては普通ではない選択だったドイツへ出発、ミースとリリー・ライヒに再会。ミースはアメリカ移住を考えていた

1938年もジョンソンはナチの党大会に参加。ナチのプロパガンダを外国人に広める民間団体のプログラムにも参加。駐米ドイツ大使ハインリッヒ・ディックホフとも面識

アメリカ孤立主義運動の顔として名を知らしめつつあったリンドバーグは、36年ゲーリング空軍の視察を表向きの任務として初めてドイツを訪れ、オリンピック中ということもあって、プロパガンダという面でナチにとっては大成功となる。翌年帰国したリンドバーグはドイツ空軍力を誇張して報告、ミュンヘン会談までの期間は融和政策を強く推す。38年再訪しゲーリングからヒトラーのメッセージ入りのドイツ鷲勲章を授与され、アメリカで積極的にファシズムの大義を代表する人たちを指示していた

39年もドイツを訪問、ポーランドに行ったり、チェコからトルコにも足を延ばす。啓蒙宣伝省の庇護の下に行われる監督付きの前線視察に向かう外国人記者団にも参加、ポーランドの港湾都市がナチの戦艦の艦砲射撃で全滅するところを目撃

ジョンソンは、10月に帰国。ドイツ軍のポーランド侵攻に関する報告をまとめ、自身の立場を示す『社会正義』誌への最後の記事としたが、標的はナチではなく、仲間のアメリカ人通信員たち。アメリカの戦争に関する情報の90%は誤報で、自らその情報を正す準備があるとし、開戦以来訪れた町の99%が無傷で日常活動が平常通り続けられているという

友人たちの多くがアメリカ参戦の後に逮捕されたが、多くはドイツ政府から金銭的援助を受けた国外勢力の未登録エージェントと見做されたためで、ジョンソンはナチの役人と国内外で話はしていても、金銭的な繋がりはなく、アメリカの法を犯してはいないので逮捕は免れた

 

第8章     オヤジPops

1939年、ドイツから帰国後のジョンソンは、デニスと組んで特定の思想を支持する演説キャンペーンに乗り出す。「アメリカ人はメディアによって欺かれている、ファシズムの不可避の勝利を受け入れればよいのだ」と忠告して歩く

ナチの工作員はその他得体のしれない人々との交流がスパイ活動の嫌疑をかけられ、FBIから訴追はされなかったが監視下に置かれていた

1937年、近代美術館の建築部門全体がバーの弟子でジョンソンの友人でもあったジョン・マクアンドリューの指揮下に入り、美術館の新しい建物の設計まで彼の手に委ねられたことに対する嫉妬もあって、無気力となり、専門知識を求めて出直すことを考え、当時アメリカで最も先進的な建築学校だったハーヴァードに戻り、着任したばかりのバウハウスの創始者グロピウスの、建築家としてより教育力に一目を置いて復学を決める

1940年、ジョンソンは復学に当たって、メディアによる批判もあって、イメージの回復に努め、孤立主義の立場を翻し、今やアメリカと同盟を結ぶ諸外国への支援の拡大と軍事兵器による戦時体制を叫ぶようになっていた。海軍予備軍将校に志願したが却下

ハーヴァードでの交友が広がり、そこから建築家黄金世代のようなものが形成され始め、みな伝説的なキャリアを築くことになる。ドラフトマンとしては失格で実際の模型作りは同級生に金を払って作ってもらったが、近代建築に関する知識と経験はどの教師よりも幅広く、学友の尊敬を集める。アイディアを紙面に描きうつす能力は高く、彼のミース風デザインは、より器用なペン使いが要求される曲線の複雑な絡み合いよりも、直線的な幾何学の方に向かっていく

2年目に入って、過去の話がついて回ることに対し再度自分の愛国熱や過去への自責の念を示そうとして、ユダヤ人支援団体に寄付もし、アメリカ参戦が決定的となった時、CIAの前身の諜報組織の面接までいったが、前歴が壁になって不合格となり学業を続ける

1942年、卒業プロジェクトとして大学敷地内に土地を購入、学生仲間とのグループからアイディアを募って住宅を作る。街路から隠され壁に守られた住宅は、攻撃的で覆い隠すような囲いが区画線ぎりぎりまで押し寄せ、デザインとしての輪(ママ)を乱すだけではなく上品さを害するものとして近隣住民の間に波風が立ち訴訟騒ぎもあったが、ジョンソンのデザインを無効にするような条例は存在しなかった。工期短縮のため「プレファブリケーション」工法を取り入れたが、その狙いはハーヴァードを牛耳る賢人たちに歩み寄ること。グロピウスにとってプレファブ工法は至高の目標であり、集合住宅不足や戦時の動員体制の時代におけるモダニズムの義務だった。全てをプレファブで作るというコンセプトは家庭生活に関する彼の高尚な理念とは食い違っていたが、学部長となったグロピウスに譲歩することはジョンソンにとって必須。ジョンソンはこの住宅によって卒業要件である「建築実務経験」が満たされることを認めてもらう

新築住宅への招待客の常連が、MITからハーヴァードに移ってきた上流階級のI.M.ペイ夫妻で、転校以前から前途有望な学生としてジョンソンの関心を惹いており、その後よきライバルであり続ける

卒業作品はメディアでも大々的に持て囃され、自己宣伝の素晴らしい機会となった

ジョンソンはミースの訪問を期待したが、巨匠は拒否。ハーヴァード教授陣の多くも受け容れず。特に郊外に自邸を新築したばかりのグロピウスやブロイヤーはいい気持ちがしなかった

当時から、急速に戦争準備が進む中で建築という職能全体が自らを刷新しなければならなくなるだろうとし、さもなくば巨大建造物を迅速に練り上げる能力を持った土木技師や軍事技師に吸収されてしまうだろうという鋭い洞察を示す

グロピウスの目指す方向は、社会要請に応えられるようなチーム型の合理主義デザインで、対照的にミースの根底にあるのは芸術的純粋性を古典的に追求すること。ジョンソンはあけすけなミース信仰で、グロピウスの目指す方向を理解していなかった

43年、ジョンソンの住宅は卒業作品として認定され、建築学位を授けられ、学業成績と品格が特に優秀と見做される学生に与えられるアメリカ建築家協会の優秀メダルまで受賞

3年後、ジョンソンはグロピウスに、普通ではありえない礼節と敬愛の念を込めて、在学期間中の自らの振る舞いを謝罪する手紙を書くことで、理念の違いを超えて歩み寄る

43年春、招集(ママ)令拡大に伴い、戦争参加の願いが叶い、下級兵卒として訓練工兵小隊に入る。見下していたグループの人々とも付き合い、仲間からもPopsと呼ばれてやさしくされた。少し前に招集されたキルシュタインとも仲直り

デニスの起訴が確実となり、昔なじみのファシストたちも投獄され、ジョンソンも過去が再燃して諜報の業務にはつけず、44年末兵役を解かれるまで、基地で燻ぶり続けるが、自由時間を使って建築デザインの仕事は引き受けたりしていた

 

第9章     二度目の再出発

戦後ジョンソンが建築家としての再生を目指す場所として選んだのはニューヨーク、既に彼の過ちを忘れていた旧友の元に戻ることであり、コスモポリタンの人生への回帰

42丁目のクレメンツ・ホースリーの建築事務所の一室を借りてスタート。最初の仕事が近代美術館建築部門。年間必要とされる125万戸の住宅への挑戦で、ライトなどと共に模型を展示。ハーヴァードの卒業作品をアレンジした建物が「シンプルであることがもたらす新品質で最高度の住みやすさ」との宣伝文句が評判をとり、すぐに次の「使用人のいらない億万長者住宅」の受注に繋がる。その後数年間で同じような建築的ヴォキャブラリーの住宅が徐々に洗練されながら建て続けられ、ジョンソンの傑作品上位を占めることになる

バーの招きで近代美術館に戻ったのは45年、工業デザイン部門は分離され建築部門の顧問として実質的なリーダーとなる

1947年、ミース展開催

1948年、コネチカットの自邸《ガラスの家》で最初の夜を過ごす。ミースはアイディアを盗用され怒り心頭、ジョンソンは建築、モダニティ、洗練、公共性に関する独自のアイディアを表明していると主張。デザインが「派生的」なものであることを認め様々な影響元を概説、そこには、ミースが一番のインスピレーションだが、コルビュジエ、アテネのアクロポリス、バロック風の風景画全般など24のインスピレーションを挙げる

アート・コレクターのトレメイン夫妻が、アリゾナの隕石落下でできた直径1マイルのクレーターにビジターセンターを企画、ライトに設計を依頼したが豪奢過ぎて設計料も高く、妥協を拒んだためにジョンソンにお鉢が回ってきたのが業容拡大の契機。トレメインの事業からコレクションの展示場、アパートの改築まで手がけ、裕福で先進的な思想の持ち主のための先導的な国内建築家という新しいアイデンティティを自覚。モダニズムの厳格さをアメリカの富裕層家族向けに高級感と安らぎを備えた言語へ翻訳できるスタイルの権威というわけで、上流階級の権力者たちの筆頭だったロックフェラー一族のジョンソン贔屓が始まる。手始めがポカンティコ・ヒルズ内に計画された彫刻のパヴィリオン。ジョン・D3世の妻でネルソンの義妹・ブランチェットからの依頼。彼女はとりわけジョンソンを寵愛したが、ガラスの箱を彫刻に用いるアイディアはモダン過ぎて反対され、結婚によって一族の一員となっていたウォーレス・ハリソンに譲る。代わりにマンハッタンにゲストハウスの設計を依頼、コネチカットのガラスの家と煉瓦の家の融合物を要求

この仕事で、ジョンソンの無資格がゴシップの種に。建築士資格には卒業後数年間の研修機関と一連の試験合格が必要だが、他の事務所の建築士のサインで済ませたため、一挙一動が公衆の関心の的となるロックフェラー家の悪名もあって、合法性への嫌疑がかかる

悲願だった近代美術館の設計の仕事も手掛けるようになり、その後40年に亘りお抱えの建築家となる。最初が美術館の西部分の拡張で、グレース・レイニー・ロジャース記念棟と呼ばれ、ニューヨーク最初のモダンなガラス張りの建築となる(現在は消失)。ジョンソンは無償で引き受け、けちで名高いロックフェラー家の恩寵をまともに受けるようになる

1949年、建築・デザインの統合部門のディレクターとして美術館に正式に復帰

冷戦の激化に伴い、ジョンソンの過去の反アメリカ的な行動の代価が重くのしかかるが、美術館の評議会は、あえて過去には触れない方を選択

最初の段階から、建築・デザイン部門の自主性を尊重、自走していくのに任せたため将来名を挙げる者たちの修練の場となっていた。多くは女性。自分の方は基本的な関心を自身の仕事に向ける

ニューヨークにおけるジョンソンのキャリアの急成長により、市の検事当局から無資格で仕事を続けたことに目を付けられる結果を招き、規制の緩いコネチカットに事務所を移転

住宅関連の仕事は順調に増えていく。施主は裕福かつ人脈の広い層で、多くがニューヨークに通勤できるか週末に訪れることのできる距離の範囲内。自動車王の孫フォード夫妻のための家も設計。住宅建築家としてのジョンソンの成功は、アメリカにおけるもっと大きなトレンドである戦後期における郊外の急激な拡大を示している。この事態をキュレーターとしても活用し、国家が戦後の住宅危機に直面しているなかで、美術館の庭にデモンストレーション・プロジェクトとしてモデル住宅を展示する企画を提案、ブロイヤーに設計を依頼。「通勤者のための郊外住宅」と説明したが、新興住宅の4倍はするもので、平均的な復員兵の払える額を優に超えていた

ホイットニー美術館の新棟を共同で建設することに同意。近代美術館の土地に建て、1階を共有したが、中庭の空間をジョンソンが48年死去したアビー・アルドリッチ・ロックフェラーの名を冠した彫刻庭園にデザインし、53年大衆に公開したところ、都会のオアシスとして評判となり、庭園を彫刻の舞台として展開するという新しいコンセプトの基礎となり、都市の文化的生活の中心と持て囃され、誰も気付かないうちからジョンソンの中に可能性を見て取り、支援してくれた女性に相応しい記念碑となった

 

第10章     信仰と背信

ジョンソンは、建築家としてのキャリアと近代美術館建築部門のディレクターとしての仕事を2股かけていたが、それが問題となったのが1953年の《アメリカの建物》展。ライトに始まって32人の建築家による43の建物を取り上げたもので、ライトから「2兎追うものは1兎をも得ず。批評家の方がうまくいきそうだが、両方やるのは断じて無理」と言われる

1954年、シーグラム創業者のブロンフマンの依頼でパークアヴェニュー375丁目(5253)に本社を設計。彫刻家の娘ランベールがバーに建築的探究のアドバイザーの紹介を依頼、ジョンソンに白羽の矢が立ち、2人で全米の建築家を面接、ミースを選ぶが、シカゴで68歳という高齢もあってニューヨークにジュニア・パートナーを置くことになり、ミースもこの仕事を通してくれたジョンソンに感謝し、ガラスの家という背信には目をつぶって「ファン・デル・ローエ&ジョンソン」というパートナーシップを発足させる。ミースとジョンソンはすぐにそりが合わないことを露呈するが、アメリカ建築家協会がミースの資格申請の認定を拒否したため、ミースはシカゴに戻り、現場はジョンソンの主導で作業が進む

ジョンソンが思い通りにすることを許されたのが1階の高級レストラン「フォー・シーズンズ」の設計で、ここから「パワー・ランチ」なる言葉が生まれてくる洗練された空間を創出

完成すると、地上階にある公共空間にこそ建築的秩序に対するミースのセンスが至高のものとして現れていると絶賛され、「小都市空間の社会生活」としてこの広場が都市の中でいかに成功をおさめているかが説明されたが、広場の後ろに立つビルという形式がニューヨークの雛形となり、デベロッパーたちはビルの前にアメニティのための余地をしっかり確保した二番煎じのビルが後に続く

桁外れの値札からは、あまりの豪華さにニューヨーク州税務委員会が贅沢税名目の追加課徴金という前例のない徴収に踏み切るという副産物まで飛び出す

ウェストチェスター郡のシナゴーグも無償で引き受けたのも表向きは懺悔の行為だが、公共機関からの依頼がなかったジョンソンにすれば、自身の信用値を釣り上げてくれる目玉商品だった

1954年、ポストモダニズムの誕生。陸屋根に代わってヴォールトが屋根を覆う。ジョンソンは新しい古典主義の始まりと表現

 

第11章    

1955年、クーパー・ユニオンで建築を学ぶ学生がジョンソンに憧れて事務所を来訪

1950年、自動車デザインをテーマにシンポジウムを開き、翌年には自動車を究極のデザイン・オブジェクトとして提示する記念碑的展覧会開催 ⇒ 空洞の動く彫刻

ジョンソンのいう「近代建築の7つの杖」とは、「歴史」「巧みなドローイング」「有用性」「快適さ」「安価」「施主への奉仕」「構造」

1958年、バークレー校の心理学教授による建築家の創造性に関する研究には40人の建築家が参加。最も計測が難航し、最も好戦的にして奇抜、非妥協的だったのがジョンソンで、自分を表すと思う形容詞のリストでは以下にチェックを入れた。独裁的、辛辣、自惚れ、威張りたがり、口うるさい、臆病、冷酷、嘘つき、無責任、不寛容、未熟、気分屋、日和見主義、偏見的、皮肉屋、非友好的

ジョンソンの評価を担当したインタビュアーによると、「彼は躁病患者の古典的な特徴を多く備えている。自己中心的、短気、神経質、思考の飛躍、横柄、それに不安になるような話題について真剣に考えることを避けるためのユーモアの活用といったもの」

建築家仲間が同業者を創造性の順にランク付けするよう求められ、ジョンソンは40人中7番目。建築批評家グループによるランク付けでは5位。どちらも1位はエーロ・サーリネンで2位がルイス・カーン。ジョンソンは自身を1位に格付けしている

ジョンソンの「土壌」は移ろいやすかった。1958年にはインターナショナル・スタイルからの撤退を謳い、同業者たちのスタイル重視の風潮を揶揄。自らも「構造古典主義者」「折衷機能主義者」と自嘲。1年後の小規模だがキャリア初の個展でのトーク会では、「僕のスタンスは断固たる反ミースだ」と言明。「自分の好みのものを歴史の至る所からピックアップする。歴史を知らないなんてダメ」というのがジョンソンの代名詞的となる警句

1956年、始めて(ママ)政府機関から注文を受ける ⇒ イスラエルの原子力研究センターのデザイン

 

第12章     テラスでカクテルを

1958年近代美術館で火災発生。これを機に翌年の30周年記念として総額25百万ドルで増築を計画。53thの北側に面して51年完成のグレース・レイニー・ロジャース記念棟の東隣に新棟をジョンソンが設計、黒のスティールとガラスという先行増築部分を踏襲しつつ、今回はテレビになぞらえる穏やかな曲線の窓が付き、背後の建物は2階建てにオサエラレタガーデン棟となり、彫刻庭園から屋上テラスまで続く広々とした階段がついている

ジョンソンが頼りにできる人間の1人が州知事に着任したばかりのネルソン・ロックフェラーで、59年の選挙以降も近代美術館の権限を保持していたおかげで、ジョンソンもインサイダー取引の噂にも拘らず、美術館再編の仕事を確保できた

リンカーン・キルシュタインもジョンソンのファシスト時代の振る舞いを許して、今や親友と呼べるほどになり、知性と才能に対する尊敬の念を深め、アメリカの突出した建築家と見做すまでになり、振付師のバランシンのためにニューヨーク・シティ・バレー団を創設、専用の劇場の設計をジョンソンに依頼

1959年に計画が始動したリンカーン・センターは、ニューヨーク市の大改造を主導して「マスター・ビルダー」の異名をとったロバート・モーゼスが一掃して作った広大な更地に建てられたパフォーミング・アーツの複合施設。当初はメトロポリタンの新拠点施設を目的としたが、ニューヨーク・フィルの本拠地や日替わり劇場、ジュリアード音楽院校舎にキルシュタインのバレエ団の恒久拠点も追加。実現に駆り出されたのがジョン・D・ロックフェラー3世。唯一の大きな慈善事業がジョンソンが本部を設計したアジア・ソサイエティだったことを考えれば思いがけない選出

ジョンソン、ネルソン、キルシュタインの親しい間柄は、近代美術館の設立から30年に亘る。バレエ劇場はその費用のための税金を納める市民に敬意を表して州立劇場と名付けるジョンソンの野望は、劇場デザインを越えてリンカーン・センターの施設全体までを見据えていたが、各々の施設を担当する設計者たちによる縄張り争いは熾烈

l  ウォーレス・ハリソンはメトロポリタン・オペラ、ロックフェラー一族親縁の一員

l  マック・アブラモヴィッツはニューヨーク・フィルの担当、ハリソンのパートナー

l  エーロ・サーリネンは日替わり上演劇場

l  ゴードン・バンシャフト率いるスキッドモア・オーウィングズ&メリルはパフォーミング・アーツ図書館

l  ピエトロ・ベルスキ(MIT学長)はジュリアード音楽院

建物の配置や設計ガイドラインで揉める中、さらに公園のための空間を確保しろというモーゼスの無理難題に直面して袋小路に入りかけたのを打開したのは、若輩のジョンソンが書いたマスタープランで、広場を中心に3つの主要劇場を纏めて配置したもの。全員ジョンソンの提案自体に反対だったが、それ以降の議論の出発点となる。同時に設計ガイドラインも大部分にわたってジョンソンの提案が受け入れられ、白のトラバーチン(細孔がランダムに入る大理石)を使用、全劇場のスケールを揃える、広場に面した劇場の列柱は柱間を20フィートとすることなどが含まれる。満場一致で決まったが、誰も喜ばず

最終的にジョンソンは中央広場のデザインも手中に収める。当時も今もこの都市で最も魅力的な公共空間の1つであり続けるが、2010年の施設の改築の際一部改造された

ジョンソンの州立劇場(現・デイヴィッド・H・コーク劇場)は、重鎮たちからは賞賛、リンカーン・センターを反動的な「芸術的失敗」とこき下ろしたハクスタブル(ジョンソンの近代美術館建築部門の出で、ニューヨーク・タイムズ初の専属建築批評家となってジョンソンの仕事を頻繁に批評)も、州立劇場のパブリックルームだけは「洗練されて美しい」と讃える

同時並行的に、キルシュタインの仲介で、ワシントンD.C.のハーヴァード大付属のダンバートン・オークス研究所と新棟のデザインを任され、自ら最もお気に入りの1つとなる

この頃の論評の多くが、言外にジョンソンの同性愛を映し出していると仄めかす

ジョンソンの名声にも拘らず、ファシストの前科が禍して、企業関連の顧客が1人もいない。特に戦時中ナチと共謀したという決まり悪い過去を持つフォードやIBMにとってはなおさら

コネチカットのニューケイナンの自邸を拡張、ポップアートの作品を「今日の世界で最も重要な芸術運動」として蒐集を加速、自邸の小山をくり抜いて地下アート・ギャラリーとして展示、一部は近代美術館にも寄贈。ウォーホルやリヒテンシュタインの作品は美術館のコレクションの決定的な主力となっている

1964年ニューヨーク万博のための州立パヴィリオン《明日のテント》も、ネルソン経由で届いた案件。博覧会の中の博覧会を目指し、劇場からディスプレイ、物販などあらゆる種類のイベントや活動を収容できるというもので。構造的には100フィートの16本の巨大なコンクリート柱が特徴で、5万平方フィートの空間を世界最大の剛性の吊り屋根が覆う

目玉となった円形パノラマ劇場の外装にも若い芸術家世代の作品を飾り大評判となる

1960年代の土地投機には憤慨。利潤のために土地を安く買い質の低い建築を建て、半年後には引っ越して莫大な利益を出すのは、都市を破壊するだけと非難。大手企業も安値の建物を作っていると非難の的にしたが、その言い分には反ユダヤ的な言外の意味が隠されており、「投機」とはユダヤ人事業と思われるものの婉曲表現だった。一方で、禁酒時代に不法売買で富を築いたブロンフマンが施主となったお陰で、ジョンソンがこうした風潮の重要な反例であり市民の美徳の模範と見做したシーグラムビルが出来たのは皮肉

都市を破壊する元凶は金融資本主義と自動車とし、アメリカの原風景に美を取り戻そうと訴えたが、アメリカビジネス文化批判の勢いを削いだのは自身の偽善で、自らが非難するシステムに自身が加担しているということを、ジョンソンは悪びれずに認めている

自らの罪を認めるというのが自分のシニシズムを非難する連中を宥めるジョンソンのいつものやり方で、「テラスでカクテルを飲むような建築家」という非難に対しても、「最高の誉め言葉だ」といって切り替えした

1965年にはCBSがゴールデンタイムに文化人たちの「行動列伝」シリーズの第1弾でジョンソンを取り上げる

皮肉ではない気持ちから取り組んだのは、進歩と利潤の名の下に破壊されようとしていたアメリカ建築遺産の保護活動。その1つがオマハの1892年建設の郵便局の保存運動であり、シカゴの大好況時代の豪奢を尽くした1886年の傑作グレスナー邸の保存には1万ドルを寄付、さらにはニューヨークのペンステーションの保存運動では失敗したが、保存運動に市民を駆り立てる絶大な効果はあった

 

第13章     第三の都市

1966年、ワシントンD.C.からの帰り、チャーター便に空きを見つけて乗ったところ不時着、機長とジョンソンのみ無傷

1960年代、現状を改善しようとする近代運動の狙い自体は悪くなかったが、公園に高層アパートを林立させたり、人より車を優先したことによって旧市街は壊滅的な打撃を受けた。この事態を改善しようと、1963年にはケネディ大統領が美術委員会を立ち上げ、ジョンソンも候補となったが、30年代の活動の調査のために先延ばしとなり、ジョンソンの方から辞退。ジョンソンの時も100人を超えるパネリストを「自然美」会議に選出したが建築家は誰1人選ばれず。建築の衰退は、直面する都市デザインという問題のスケールや変化に対処できていないところに原因があり、熾烈を極めるコスト重視の公私開発事業という新しい環境下にあって、建築家は建設業者のキャストの付随的な配役に留まっていた

1966年ネルソンは、自然美に関して会議を企画、ジョンソンを都市計画委員会議長に抜擢。都市はそこに住む人々のためにこそデザインされるべきと主張して数々の提案を行う

ニーマン・マーカスのオーナーが、殺害された大統領をダラスで追悼したいとして、ジョンソンに追悼碑の建立の依頼が来て、手つかずのまま残された殺害現場であるディーリー広場に隣接する街区に作られたのは、スティールの脚に支えられて宙に浮く、白コンクリート柱でできた箱、中には大理石の平板が1枚あって大統領の名が刻まれている。彫像のない台座みたいに侘しいだけで、うらぶれた印象だが、ジョンソンの友人の1人ジャクリーン・ケネディを遠ざけたのはダラスに戻ることがただただ容認できなかったから

ジョンソンは、

剛直な材料と厳然とした幾何学を使ってさらに頑強な建築へと進んでいく

1965年、市長選キャンペーンでリンゼイから自治体建築委員会議長に指名。ジョンソンの都市改造プランをCBS社長ウィリアム・ぺーリー率いる都市デザイン特別部隊に加わったI.M.ペイ、イェール大を出たばかりの野心に燃える2人の建築家、ロバート・AM・スターンとジャクリーン・T・ロバートソンが実施に移す。ウォーターフロントの再生と開発、地下鉄システムの改善、ハーレムの125丁目を中心とする新しいビジネス地区の創出、歴史ある近隣住区の保存などが含まれた

ジョンソンによる都市建築の試みの中で最大の意義と成功を得たのはウェルフェア島(元ブラックウェルズ島で1971年よりルーズベルト島)の再編計画。数世代にわたって都市の伝染病患者、精神錯乱者、捨て子の収容地となっていたが、1969年に提案した2万人の低中所得層のための歩行中心のコミュニティのデザインを元に街づくりが進められた

 

第14章     タワーとパワー

1967年、事務所に加わったのがジョン・バーギー。ビジネス嗅覚のないジョンソンに代わって、その20年後に袂を分かつまで、ジョンソンを超高層ビルの名匠として、建築業界の顔となる比類なき名士として、自己改革していく手助けをする

バーギーの父親は、19世紀後半にアメリカ超高層ビルを発明したシカゴの事務所、ホラバード&ルートのパートナーで、彼もこの事務所でキャリアをスタート。オヘア空港の建設をした事務所に移った時にジョンソンと面識を得る。ジョンソンは1959年のアイドルワイルド国際空港(現・J.F.ケネディ国際空港)のターミナル計画のコンペで5人の応募者に選ばれ、スキッドモアやTWAターミナルがジェット機時代のアイコンとなったエーロ・サーリネンに対抗しようとしたが敗れたため、65年のフィラデルフィア空港再建コンペ参加に際しアドバイスを求めて協働作業を提案、シカゴの事務所側の担当がバーギーだった

空港コンペは負けたが、ジョンソンはバーギーを事務所の後継者としてスカウト。後にジョンソンの大口顧客となるヒューストンのデベロッパー、ジェラルド・ハインズも後に、「バーギーがいなかったらジョンソンは仕事をとれなかっただろう。信頼もなく、商業ビルの設計に定評があるわけでもない。耽美主義者だった」と回顧

1967年、バーギーがジョンソンの事務所を訪れた時、金になる仕事が全くなかった。騙されたと怒ったバーギーは、コストカットや人員整理で事務所の経営を立て直し、68年には2人の連名の事務所を立ち上げ

1972年、テキサスのコーパス・クリスティの有力者から美術館設計の依頼、白のコンクリートに大胆な幾何学をまとった建物、堅固な見た目が強烈で壁の厚さが12インチもあって、ハリケーンに対しても万全

バーギーがジョンソンの実務を儲けのよい成長事業へと生まれ変わらせた最初は、ジョンソンのキャリアの中でも最大の注文にして最初の真の超高層ビルとなったミネアポリスの巨大小売店デイトン・ハドソン(現ターゲット社)の新本社ビルで、既に決まっていた地元の建築家から乗り換えさせたもの。バーギーの越権行為が大逆転を実現。報酬が跳ね上がっただけでなく、仕事の性格が一変し、本物の超高層ビル建築家となった

プロジェクトは市街中心部に市民のためのスペースを創出するプランに発展し、ホテル、商業ビルなど4つのビル群の建設に拡大し、1972年にIDSセンター/クリスタル・コートとしてオープン。この都市を決定付ける建造物の1つとなる

バーギーは、パートナーシップの地位と事務所の収益の50%をジョンソンに認めさせるが、ことデザインに関しては、設計スタッフも彼の役割を小馬鹿にしていた

この仕事に目を付けたのがジェラルド・ハインズ。ヒューストンのペンズオイル本社のデザインをジョンソンに持ち掛け、37階建てのツインタワーを設計。1976年オープン

1976年、近代美術館の投資用タワー計画が決定され、ジョンソンがインサイダー取引の観点から美術館の建築家から外され、選考委員としてシーザー・ペリを指名したものの、壊滅的な一撃となり、それまでジョンソンは2千点を超える作品を寄贈していたが、以後は特別の例外を除き寄贈をやめ、コレクションの大部分を保管してあるガラスの家はナショアンル・トラストに寄贈。1982年自分のドローイングのアーカイヴをコロンビア大学に、最後には文書類をロサンジェルスのゲッティ・リサーチ・インスティチュ-トに寄贈、何れも何のつながりもなかった機関

1970年代前半に事務所が取り組んだプロジェクトの1つに都市景観に関わるものがある。フォートワースに一大都市アメニティを作り中心市街を再生させる計画。「アクティヴ・プール」と呼ばれる段差のついた5角形の泉で、4階に近い高さから水が落ち込む中でスリルある体験ができるものだが、2004年子どもを助けようとした大人がポンプで溺死する事故が起こるべくして起こり、プールは浅く改造された

次のATTの仕事でジョンソンは正真正銘のアメリカのスター、物議を醸すポストモダニズムの顔となり、『タイム』の表紙を飾る

1975年、ATTの剛腕社長ジョン・デバッツが望んだのは「世界最大企業に相応しい世界最高の超高層ビル」であり、ジョンソンに白羽の矢を立てる。実用主義でけばけばしいオフィスを好まないマーベル(社の愛称)の企業風土で、一等地のパーク・アヴェニューではなくマディソン・アヴェニュー(当時はまだ企業ビルに相応しい立地とは思われていなかった)に建設地を工面。ジョンソンのデザインは、タワーが石材に覆われていた前時代を振り返るもので、ガラスとスティールというミース風のデザインからの完全な方向転換。チッペンデール様式と揶揄されたペディメント(切妻屋根の破風)の先端に丸型の切れ目があるトップラインは、エンパイア・ステート・ビルやクライスラー・ビルが天空の覇権を争った1930年代前半以降、ニューヨークのスカイラインにこれほどまでに特徴的な痕跡を残した建物はなく、「ポストモダニズムの最初の重要なモニュメント」とまで言われた

様々な論争を経て竣工したのは1984年。古風な外観は戦前ニューヨークの偉大なる石張り超高層ビルへのオマージュとして構想され、グランド・セントラル駅と同じストーニー・クリーク産の桃色の御影石で、あまりの重さに構造エンジニアがそれを支える特殊な架台システムを設計しなければならなかった。コストも2億ドルを超えた。ジョンソンが美学上の理由から高い天井を望んだため、見かけは60階なのに中身は36

ジョンソンは、オフィスビルを作るだけでなく、オフィスワーカーが自由に行き来する都市アメニティを作るため、狭い敷地に脚柱でうまくビルを支えその下に開かれた空間を作り出した

ちょうど同じ頃、地球の裏側で同じようにコスト記録を破ろうとする超高層ビルが立ち上がりつつあった。ノーマン・フォスターによる香港のHSBCタワーで、剥き出しの骨組みがスティール製プレファブ・ユニットと空想的な空中庭園を支えるという積極的に技術を活用した構造物で、何もかもAT&Tビルにとっては真逆なもの

教え子のハクスタブルからは、ビルは「芸術というよりも騎士気取りの美学脳によるモニュメンタルな誇示」だと非難され、「パスティーシュ(模倣)」であり、ジョンソンはもはや「ディレッタント(好事家)」だとして、業界の中枢の多数派、進歩主義者たちの間で共有された批評だが、2人の友好関係には終止符が打たれる

AT&Tは、1982(ママ)までに政府からベルシステムの解体を命じられ事業を売却、デバッツも退任して、事業内容も一変していた。そのまま入居はしたが、92年ソニーに売却、13年にはさらに転売。下層階のファサードを削ぎ取って活性化させる計画もあったが、保存派の反対にあって頓挫、現在は改装中

1978年には、アメリカ建築家協会から業界で最高位の勲章であるゴールドメダルを授与され、翌年には建築界のノーベル賞として設立されたブリツカー賞の初代受賞者に

審査員の顔ぶれを見ると公平とは言えないが、『タイム』の表紙は例外なく最高度の重要性を持つ文化人の証。「ジョンソンは自分の建物がその反映となるような思考様式を作り出したわけではないが、そうしたものがもたらされる手助けはした。これまでにその思考様式に対してある程度公に認められる価値を付与し、他の企業の動向に影響を与えずにはおかないものとした」のは、否定しようのない事実

 

第15章     サークルの長

ジョンソンが社交界建築家として設計のキャリアを開始したのは1940年代、研究機関や政府側の男へと転身したのが50年代、優秀な企業建築家へ再転身を遂げたのは70年代

スターの地位に上り詰めることで新しい役割につきものの緊張感が体を蝕み、74年初めて検査入院して以降、バイパス手術も受ける

バーギーと同じシカゴの事務所から来たイスラエル人の若手建築家アッティアは10年一緒に仕事をしたが、その間事務所の美学的構想を担っていたのは自分だとして、一連のデザインに対するクレジットを主張。ペンズオイル広場や、テレビ宣教師ロバート・シューラ―のために建てたNASAの格納庫から着想を得て10900枚の反射ガラスパネルの箱となったオレンジ郡のクリスタル・カテドラルなどが対象

1984年竣工のPPGプレイスでも同じような美学的アプローチをとる。ピッツバーグの一等地の5エーカー以上の商業空間をPPG40階建ての本社ビルを中心に6つのビルから成る複合施設。ロンドンの国会議事堂をベースにしたネオゴシック様式の仕上げ

驚くべきペースでアメリカ中の都市にビルを立ち上げてゆくが、共通点は、どれもみな金になったということ。年間20百万ドル稼ぎ、各パートナーに7桁の給料を支払う。投機目的の開発や企業による都市荒廃を責め立てていたジョンソンに何があったのか

ジョソンソンの変わり身の究極的なシニシズムを描き出したのは、ワン・インターナショナル・プレイス。ボストンの3つの石造ビル群で、同業者間の品評会でのあらゆる悪評に対しジョンソンは、「僕は娼婦みたいなもので、高層ビルを建てることで高い金をもらっているし、支払いに見合う分の時間だけ喜ばせる」と放言

どこに行ってもジョンソンは常に上座の最上席で、「サークルの長」と呼ばれる

悪評もビジネスではプラスにしかならなかったし、同業者やメディアからの手厳しい非難も気にならない。ジョンソン自身はシニシズムの厚かましくもますます恥知らずのものとなり、プロジェクトが到達するニヒリズムもその度合いをさらに増していき、つい最近書いた自らの都市論考や初期に建てた自作を規定するあらゆる理念さえ拒絶された。ミース時代の研ぎ澄まされたモダニズムは白々しいポストモダニズムに道を譲り、最終的に行き着いたのは知的な演出も厳格さもないひどい代物で、驚くほど無作法に歴史を取り扱いながら市民空間に悪影響を及ぼす鈍重な躯体をまとった建築だった。IDSセンターでは企業向けモダニズムを先進的なアーバニズムの完成に結び付けようとしていたが、今では悪びれもせずにこの目標から撤退し、十分な額の請求書に喜んでサインしてくれるなら、どんな顧客にも自らの名と名声を貸し出すようになっていた。1985年竣工のダラスのクレシェントではこうしたことが目に余るほどに達し、モダンからキッチュへの移行を示す

1983年依頼のヒューストン大建築学部の新校舎は、1770年代のプロジェクトからの複製で、ジョンソンにとっても失敗作。ポストモダンのパスティーシュの1

ジョンソンが歳を取るにつれバーギーはジョンソン旅立ち後の事務所を考え、83年には事務所名をジョン・バーギー・アーキテクツ・ウィズ・フィリップ・ジョンソンとする。事業独占を目指すバーギーに立ち塞がったのが70年代前半にドラフトマンとして入所、84年にはパートナーとなったインド人、ラジ・アフジャ。1973年ズービン・メータの仲介でボンベイにインド国立パフォーミング・アート・センターなる劇場を設計する仕事をジョンソンと協働でこなした後、革命前で建築ラッシュに沸いたテヘランのサテライトオフィスへ

86年、事務所を三番街のリップスティックビル2階に移転。ゲリー・ハインズの発注したビルでジョンソンにとってはこの都市のアール・デコ様式の伝統に対する応答でもあったが、大衆向けの三番街の中では場違いに見える。三番街はA級オフィス・スペースの立地としては「荒地」だったため、ハインズとしては代名詞的なデザインでパーク・アヴェニューのような流行地区からテナントを東へ惹きつける必要があったためジョンソンを担ぎ出し、人気のある賃貸とは決して言えないこのビルを事務所に提供するという話で彼を誘った

85年竣工し三番街の変貌に一役買ったが、それ以上の大きなスケールでニューヨークの都市改造事業に加わったのが同時並行して進められたタイムズ・スクエアの再開発

2次大戦以降、断続的な衰退の途にあり、都市の機能不全の国家的シンボルであり、アメリカ都市の不衛生の象徴のままだった場所を改造するもので、下品な暗部の歴史を、未成年の男娼との逢引きで人生をひっくり返され兼ねなかったこともあるジョンソン以上に知る者はいない。この地区の浄化に似つかわしくない、あるいは皮肉な人間だったが、こうした矛盾も彼を悩ませることはなかった

1983年、計画が公表されると、都市を特徴付けていたタイムズ・タワーを取り壊し4つのオフィスビルがV字型広場の周りに配置されたデザインは、建築としても過去の模倣で魅力に乏しく敷地にも不似合いとして非難囂囂だったが、始まりからして再開発計画はコッチ市長の肝いりで、ニューヨーク・タイムズ上層部も、本社は近隣に移転していたが、周辺環境が改善され所有する土地の価値が劇的に上がることに胸躍らせる。公衆の反応が余りにも激しかったためにプロジェクトは数年間建築家たちの推敲に委ねられた

 

第16章     すべては崩れゆき

ジョンソンの体調が悪化、86年には二度目の心臓手術を受け、回復が遅く無気力になり、ジョンソンはコンサルタントとして残り、バーギー単独の事務所となってパートナーシップは終焉。88年まで紳士協定として続いたが、バーギーから「公衆の面前からの完全撤退」との条件を突き付けられ

84年には、近代美術館は建築ギャラリーにジョンソンの名を冠することを決定。ジョンソンもそれに応えてキュレーターとしての立場で美術館への復帰を決意、バーギーからの最後通告があった時には、54年以来初めて本人企画の展示を予定していた

仕事から解放されたジョンソンは、ガラスの家で、1960年に教え子として知り合い、近代美術館の絵画・彫刻部門の展示企画の担当の仕事を斡旋、63年から同棲を始めたパートナー、デイヴィッド・グレンジャー・ホイットニーとの余生を過ごしながら、ニューケイナンに思い出の建築を復活させる

1989年、タイムズスクエア計画が復活。バーギーはジョンソンを閉め出したかったが、開発事業者パークタワー社のジョージ・クラインはジョンソンをデザインのオーソリティとして尊敬。口も利かない2人の出したデザインはまたしても酷評で、「歴史や伝統へどれほど呼びかけようと、ポストモダニズムはたいてい、年代物の衣装をまとった近代フォルマリズムに過ぎない」と論評。再開発は計画自体の重みもあって瓦解

ベルリンのチェックポイント・チャーリーに化粧品業界の大物レナード・ローダーを含む合弁企業の支援でアメリカからのビジネス関心を促進させるためのオフィスビルの設計がバーギーに指名された際、ローダーの意向で突如バーギーがジョンソンに置き換えられる。ジョンソンが、美術館評議会を通じた友人のローダーに売り込んだ結果の逆転劇で、バーギーとのパートナーシップは正式な終わりを告げる。バーギーはアフジャも追い出しにかかり、彼のパートナーシップを18百万で買い取るか事務所の1年分の利益を分け合うことを提案したが、事務所から1/4を取り分を認められていたアフジャは調停に持ち込み、92年に137百万円を受け取り、この判決によってバーギーは破産、ジョンソンが手を差し伸べることはなかった

1992年、ベルリン・プロジェクトは、アメリカン・ビジネス・センターとして竣工。ポストモダニズムとデコンストラクティヴィズムの混在で、不格好な7階建て。1979年ヒトラーの建築家シュペーアがジョンソンへの称賛の念を表明したことへのお返しとして彼の作品も参照。93年にはこの都市で講演し、ヴァイマール時代の終わりの3年間を過ごしたことに言及しているが、「ベルリンの近代生活に夢中で、その根底で大きくなりつつあった政治的困難など完全に見過ごしていた」とのくだりは、どう好意的に見ても不誠実そのもの

82年代の初頭、ジョンソンが自らのオーラルヒストリーをプリンストン大講師で理論志向の若手建築家ピーター・アイゼンマンにやらせようとした際、ファシスト時代についても話が及び資料が手渡されたが、最終的には1万ドルで取り戻し、手を引かせた

もう1人、AT&Tタワーのデザインで「ミースから離反したことを倫理的な欠落と本質的ニヒリスティックな世界観の象徴だ」と先頭に立って非難した若手建築家マイケル・ソーキン

が、ニューヨークの文化政治に関する風刺雑誌で反ユダヤ主義的で優生学的な言葉を再録したことや、93年にBBCがファシスト・マフィアとしてのジョンソンをテーマにしたドキュメンタリーを放映した際には、自らの過去に対する責任を認め懺悔している

しかし、ジョンソンの人生を通じてヒトラーは思想的な試金石であり続けていた。64年友人への手紙には「ルーズヴェルトよりナチの方がましだと思う」と言ったり、頻繁に総統を引き合いに出し、大きなスケールの建設能力には驚嘆の念を抱いていた

伝記作家としてジョンソンが最終的に承認したのはフランツ・シュルツ。ドイツ生まれでミースの伝記を出版して好評を得ていた。ただし、出版はジョンソンの死後という条件付きで、ジョンソンは、自分の作品より性生活に過剰に焦点を当てていると不満だった

 

第17章     空想の抗えぬ魅力

92年、ウォール・ストリート・ジャーナルがジョンソンとバーギー、アフジャの関係解消に関する下世話な話が1面を飾ったのを見て、彼の不名誉にチャンスを見て声を掛けてきたのがトランプ。アトランティックシティのカジノ改装プロジェクトを持ち込む。マンハッタンのトランプ・タワーはIDSタワーの模倣物であり、トランプはジョンソンのレジェンドとしての名を欲しがった。カジノは挫折したが、それを契機としたマンハッタンのアッパー・ウェストサイドのアパート群リバーサイド・ハウスの建設は実現。デザインなどの厳しい規制の中でジョンソンの創造的試みが入り込む余地はなく、次のコロンバス・サークルのガルフ&ウェスタンビルの改築もメディアには馬鹿にされる。建築家とディベロッパーの協働は最初から難しかった。トランプの成金趣味や専門家への敬意の欠如に立腹

トランプにとってジョンソンの承認は一流趣味の必須条件であり、パパラッチを引き付けることで物件の値段を釣り上げてくれる名前を持つ人間としてジョンソン以上の者はおらず、一方でジョンソンにしてもこの仕事が欲しかったし、トランプがしょっちゅう巻き起こす世間の注目も切望、建築界の「異端児」という自身のイメージが、ニューヨークで最も神経質なディベロッパーとの繋がりによって長持ちするならばそれで万々歳だった

94年、ジョンソンにニューヨーク市歴史建造物保存委員会から名誉勲章授与

95年、ジョンソンがガラスの家に建てた《ダ・モンスタ》は、ヴィジター向けのパヴィリオンで、この土地がナショナル・トラストに譲渡された時には美術館として構想されることになる建物だったが、建物というよりはフォリー(庭園などにある装飾用建物)で、模倣作、実用面では完全な失敗、音響がひどすぎてどんなプログラムにも使えず、機能面でも失敗

90歳の誕生祝に近代美術館から贈られたのは、ジョンソンが寄贈した中から選りすぐった80点の展覧会。非公式の晩餐会の集合写真には磯崎新もいる

96年、二度目(ママ)の心臓手術、大動脈弁を置換してペースメーカーを挿入

2000年初め、事務所で辞職を伝える。最後の大きなプロジェクトは都市版のガラスの家。ガラスとスティールでできた富裕層向け住宅に対する当時の投資熱を反映した都心のタワーマンションで、この流行はほんの数年前にほんの数ブロック先でジョンソンの弟子の1人リチャード・マイヤーによる開発から始まったもの。最後の皮肉にジョンソンはもう一度追従者となったわけだが、今回はガラスの家を建てた半世紀以上も前に自分で始動させた運動に追従したのだ

05年、ジョンソンは立派な葬式も大規模な告別式も一切なしという指示を出す

 

エピローグ/謝辞/訳者解説

2017年、AT&Tビルの低層部分の改装が公になった際、激しい憤りが建築家や保存主義者の間で沸き起こり、改装を中止ささてこのビルに歴史的建造物の認定を与えようというキャンペーンが本格化。ロビーはすでに壊されて手遅れ

設計案の段階から、アメリカにおいてもっとも罵られてきた建築作品であり、ポストモダニズムのイメージキャラクターだったが、建物も貶され、運動が貶され、その建築家も貶された

しかし、時代が視野を変化させる。その後わずか数年でAT&Tビルは歴史的な重要性と保存すべき価値を持つものとして理解される

思いもよらぬ情勢の変化、それまでの立場の如何なる明白な拒絶もなく一方の極から反対へと移ること、これこそはジョンソンの性格やキャリアに相応しい

6070年代のジョンソンは、ペン・ステーションやグラセンの保存運動をしながら、一方で近代美術館の拡張では2棟のボザール様式タウンハウスを取り壊し、歴史地区のハーレムを自らの計画で置き換えようとした

ジョンソンの矛盾という性格は理論的な駆け引き以上のもので、両義性は彼の本質的な気質であり、若い頃から苦しんできた精神状態(双極性障碍の一種)の産物。生涯のほとんどにおいて2人のジョンソンが存在、可能性に駆り立てられた躁状態のジョンソンと、深い傷を負い喪失感に満ち内気で心配性のジョンソン

一番破滅的な特質は、人々を利用するだけ利用して、自分にもたらすものがなくなると平気で見捨てようとする態度で、犠牲者は枚挙に暇がない

それなりの年齢に達したころのジョンソンは、毒々しいまでの反ユダヤ主義者で優生学を支持する人種差別主義者。それから数十年の間その埋め合わせをすることになる

ジョンソンの行動や人付き合いは、彼のシニシズムや日和見主義によって毒されてはいたものの、多くの点で心からのものだった ⇒ ジョンソンのもう1つのパラドックス

建築家、理論家、批評家としては不誠実で悪名高かった。じっとしていることが出来ず頭の回転も速かったから、新しいものが持つ麻薬のような引力や新しいものが差し出す自己促進のチャンスには抗えなかったこともあり、ジョンソンの気紛れは重大な倫理的欠落と受け止められた

ジョンソンの権力と支配の物語の始まりは、近代美術館における1932年の《近代建築:国際展》。ロックフェラー夫人とバーの庇護の証であり、ジョンソンのエネルギーと知性の証

現代生活の材料・技術・条件に応じた新建築を展開するヨーロッパ・モダニズムをアメリカの公衆に紹介したが、彼自身の構想は根無し草で、フランク・ロイド・ライトから激しく批判されたが、美術館に建築部門を立ち上げたのは間違いなくジョンソン

ジョンソンのアイデンティティと近代美術館は切り離せないほど絡み合っている。4070年代にはお抱え建築家として増改築に携わっただけに、美術館からの拒絶は最大の打撃

建築の世界のコレクションも作り上げ、手始めにモダニズムの伝道者となるとキャンペーンは成功、ミースのガラスの箱は超高層ビルの事実上のパラダイムとなる

モダニズムに飽きると、ポストモダニズムが業界を揺るがす最良の媒体となり、ジョンソン自身を真のアメリカのスターに押し上げる

7080年代にかけてポストモダン・ビルはアメリカ中の都市に芽を出していくが、多くはジョンソンの設計であり、自身もAT&Tビルによってこのパラダイムを確立

ジョンソンのキャリアは、企業化の進行と少数の特権階級への富や権力の集中を特徴とする戦後アメリカ社会の変遷を映し出している。死ぬまでスターであることが最も重要な公衆への名の売り方であり、トランプが晩年の突出したパトロンだったのも偶然ではない

彼が実際に残した遺産は建築分野を超えてアート、デザイン、都市問題にまで及ぶが、それでもやはり彼が設計した建物が彼の一貫性を捉える最も分かりやすい指標。一貫して繰り返されたテーマが前進。建築は、動きや時間が展開していく中でこそ経験されるべきであるという考え方。デザインに何かしら決定的な特徴があるとすればそれは空白であり、オープン・ルーム、アトリウム。ガラスの家も本質的には空っぽの容器、オープン・ルームなのだ。そうした空白を社会的交流の空間として想像していて、それらは一番状態が良ければ大きなエネルギーと礼節を獲得することも出来た。近代美術館の彫刻庭園と州立劇場のプロムナードはニューヨークにおける最高級の空間であり、ガラスの家は知性と肉体が交流するサロンだったが、人間の存在が空っぽになって骨組みだけになると、ジョンソンの建築はその洗練さや贅沢さにも拘わらず、不毛でつまらない孤独なものに感じられてしまう。これこそがジョンソンの建築であり人生で、いつも中身を探している、立派で、脆く、空虚な器なのだ

 

訳者あとがき

最初の伝記が献呈されたのは94年のフランツ・シュルツによる『フィリップ・ジョンソン――生涯と作品』で、偉大な建築家の「始まりの物語」だったのに対し、本書は死後に書かれたこともあるが、晩年の死の瞬間で幕を開ける、ジョンソンとは誰だったかと問い掛ける「終わりの物語」であり、ジョンソンという歴史をどう受け止めるのかを自らに問い掛けなければならない

建築作品の質より建築家の知名度が重視されるスター建築家は70年辺りを境に始まったとされる。スター建築家自身による自伝の弊害は、当人の不都合な過去の書き換えで、ジョンソンのファシズム時代はその最たるものであり、また建築家の生涯と作品が閉じた1つの輪を描く点が問題であり、そこに批判的な眼差しはない

本書は、スター建築家以降の時代の評伝の可能性を問い直すものとして見ることができる

シュルツは、ジョンソンの成功の要因として、「レジリエンス(柔軟性、打たれ強さ)」を指摘。スターの備える強烈な個性や確固とした自信がジョンソンには見られない。そうしたものの欠如こそが彼をスターにしたともいう

単一の人格の記述としてのモノグラフの不可能性は、当人による記録物や同時代からの証言を含めて1個人に関する情報が膨大な量となった20世紀特有の問題かもしれない

シュルツの伝記が、何とかしてジョンソンの歩んだ道に一貫性と整合性を与えようとしたのに対し、本書では独立、並置された17の章がそれぞれに異なるジョンソンの顔を描き出す

 

 

 

 

 

Wikipedia

フィリップ・ジョンソン(Philip Johnson, 190678 - 2005125)は、アメリカモダニズムを代表する建築家

1906    オハイオ州クリーブランドに生まれ、ニューイングランドで育った。

1923    ニューヨークのハックリー・スクールを卒業後ハーバード大学に入学。哲学を専攻した。在学中に弁護士の父から譲られた株が高騰し、巨額の富を手にした。1927年に卒業。その後ヨーロッパを巡り、古典建築及び近代建築に触れた。

1930    ハーバード大卒(古典)

1932    ニューヨーク近代美術館MOMA)の初代館長アルフレッド・バーの誘いでキュレーター(初代建築部門ディレクター)に就任。1932年、建築史家のヘンリー・ラッセル・ヒッチコックと共に近代建築展《インターナショナル・スタイル- 1922年以後の建築》展を開催し、アメリカにヨーロッパ最先端のモダニズム建築を紹介した。

1933    《アメリカ・スカイスクレーパーの誕生》展、《機械芸術》展を開催するなど精力的に活動

1936    辞職。H.ロングに接近。1930年代初めのドイツ旅行の際に触れたナチズムに感化され政治活動を行った。

1940    再びハーバード大学建築学部大学院に入学し、グロピウスマルセル・ブロイヤーらに建築学を学んだ。 卒業後はアメリカ軍技術師団に志願入隊し、第二次世界大戦の終戦まで過ごした。

1946    再度ニューヨーク近代美術館MOMA)のキュレーターに就任(1954)

1947    《ミース・ファン・デル・ローエ》展を開催し、アメリカで初めてミースを紹介しその活動に助力した。 

1949    自邸《ガラスの家》竣工、終生住み続ける

1956    ミースシーグラム・ビルディングにも協力し、モダニズムの建築家の代表となった。

1979    《クリスタル・カテドラル》竣工。第1回ブリツカー賞受賞、『タイム』誌1面を飾る

1984    AT&T(現、ソニービル)ではポスト・モダニズムへの展開を見せた。

1986    《リップスティックビル》竣工

1988    《デコントラクティヴィスト建築》展を監修

1995    《希望の教会》(竣工は2010)

2005    《ガラスの家》で歿

建築作品[編集]

自邸・ガラスの家(1949

ロックフェラー・ゲストハウス(1950

リチャード・ホジソン邸(1951

クネシス・ティフィレス・ユダヤ教会(1956

セント・トーマス大学(1957

シーグラム・ビルディング1958 ミースと共同設計

フォーシーズンズ・レストラン(1958年)

アジア・ハウス(1959

マンソン・ウィリアム・プロクター協会美術館(1960

エーモン・カーター美術館1961

シェルドン美術館(1963

MOMA増改築・彫刻庭園1964

ニューヨーク世界博・ニューヨーク州パヴィリオン(1964年)

リンカーン・センターニューヨーク州立劇場1964年)

モンテフィヨオール病院医学研究所(1965年)

クライン生物学タワー(1965

ボストン公共図書館増築(1972

エルマー・ホームズ・ボブスト図書館1973

IDSビル(1973年)

ウォーター・ガーデン(1974年)

ペンゾイル・プレイス(1976

ガラスのカテドラル1979

リパブリック・センター(1983

ウイリアムズ・タワー1983

AT&Tビル(現・ソニービル1984

PPGプレイス英語版)(1984年)

バンク・オブ・アメリカ・センター英語版)(1984年)

リップスティック・ビル1986

メイドン・レーン33番地ビル(1986年)

190サウス・ラサール・ストリート(1987

プエルタ・デ・エウローパ1993年)

著作[編集]

インターナショナル・スタイル(1932年)、ヘンリー・ラッセル・ヒッチコックと共著

『インターナショナル・スタイル』武沢秀一訳、鹿島出版会SD選書〉、1978

機械芸術(1934年)

ミース・ファン・デル・ローエ(1947年)

伝記[編集]

マーク・ラムスター『評伝フィリップ・ジョンソン 20世紀建築の黒幕』横手義洋監修、松井健太訳、左右社2020

 

 

 

左右社 ホームページ

今日の建築の姿を決定づけた知られざる黒幕の生涯を描き出す傑作評伝

MoMAの初代キュレーターに就任、世界的な潮流となった建築展を仕掛けた男。

アメリカのヒトラーにならんとした男。

現代美術と建築の世界で知性とカネの力をふるった男。

建築界のノーベル賞といわれるプリツカー賞をはじめて受賞した男。

ミースへの憧れとコンプレックスに引き裂かれていた男。

ドナルド・トランプと協働しアメリカの都市風景を変えた男。

いまだ見学者の途絶えないモダニズム建築のアイコン〈ガラスの家〉の設計者であるフィリップ・ジョンソン。数えきれない称賛の一方で、非難も多い。いわく、建築をデザインの遊びに貶めた、権力に心酔するファシスト、気まぐれな金持ち仲間のお遊び……

アメリカで最も憎まれ、最も愛された男の規格外で行方しらずの情熱を描く一冊!

 

わたしたちはいま、世界中で、経済危機と不平等、市民の不安、高まる権威主義を経験している。ジョンソンも1930年代、ちょうど同じような時局を生きていた。彼は裕福な若者で、美術館の学芸員としてのキャリアも前途有望なものだった。しかしジョンソンはそのキャリアを捨て、ファシストの政治工作員となる。その後になってようやく建築の専門家へと転向したのである。(略)

ジョンソン自身の建築作品──並外れたものもあればひどい出来のものもある──には、拠り所となっている哲学がほとんどないようにみえる。教条的なモダニストとしてキャリアをスタートさせ、続いてモダニズムを拒否してポストモダニズムを支持し、さらには「デコンストラクティヴィズム」と自ら呼ぶものへ向きを変えたのだった。近代建築が純粋な形態の実践だとすれば、スタイルの変更に何の問題があるだろう?

ニューヨーク近代美術館建築部門のディレクターにして主要な後援者として、ジョンソンは自らの建築ビジョンを公衆や専門家たちに喧伝し、そのような作品を創造する建築家に白羽の矢を立てることができた。そして「スター建築家」なる概念を発明しただけでなく、飛行機で世界を飛び回るスター建築家の支えとなるような制度の形成にも一役買ったのだった。(略)

ジョンソンの最後の大口クライアントは、ニューヨークの不動産開発事業者にしてゴシップ誌の御用達、しかも雑多な建物遍歴を併せ持つ男、ドナルド・トランプだった。お互いがお互いの望むものを持つ二人である。トランプにとってジョンソンは高い社会的価値を得るための手段だった。ジョンソンにとってトランプは注目度の高い仕事の提供者だった。二人は自然に引き寄せられたが、その関係には始まりからして暗雲が垂れ込めていた。トランプはジョンソンの建築的要求に対してほとんど我慢ならなかったし──欲しかったのはジョンソンというブランド・ネームだけなのだ──、ジョンソンはトランプなど俗物だと思っていた。金の話はさておき、彼らのパートナーシップは、ジョンソンが近代建築をその起源からどれほど離れたところへ押しやったかを伝えている。二人が一緒につくった建物群はその薄っぺらさという点で度肝を抜かれる。(「日本語版への序文」より)


 

 

 

 

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建築家 フィリップ・ジョンソンは、米国のオハイオ州出身の建築家です。ニューヨークの近代美術館のキュレーターから建築家になりました。世界を代表する建築家です。

本記事の内容

本記事では、建築家フィリップ・ジョンソンの略歴、代表作、書籍を紹介したいと思います。建築家フィリップ・ジョンソンは、父親から莫大な資産を受け継いで、建築家となりました。特に、処女作であるグラスハウスは圧巻です。思想と建築が融合した建築ですが、実際に住むのは結構大変そうです。ポストモダン建築を牽引したことでも知られています。まずは実際の建築を見てみましょう!

目次

建築家 フィリップ・ジョンソンの略歴

建築家 フィリップ・ジョンソンの作品

1949 自邸・ガラスの家

1984 ATTビル

1984 PPGプレイス

建築家 フィリップ・ジョンソンの書籍 紹介

まとめ

1.建築家 フィリップ・ジョンソンの略歴

建築家フィリップ・ジョンソンは、1906年にオハイオ州で生まれました。父親は弁護士でした。ニューヨーク州で青年時代を送り、ハーバード大学に進学します。ハーバード大学では、ギリシャ語、言語学、哲学を学びます。特に、哲学の研究にのめり込んだそうです。

フィリップ・ジョンソンは、ヨーロッパで重要な古典とゴシック建築を回るグランドツアーを行います。また、1928年にフィリップ・ジョンソンは建築家ミース・ファン・デル・ローエに会いに行きます。このとき、ミース・ファン・デル・ローエが42歳、フィリップ・ジョンソンは22歳です。ミース・ファン・デル・ローエは当時1929年に竣工するバルセロナ・パビリオンを設計していた時期です。こう考えると、フィリップ・ジョンソンがミース・ファン・デル・ローエを尊敬し、生涯に渡る関係がここから生まれたのがわかります。

1930年、24歳のときにフィリップ・ジョンソンはニューヨーク近代美術館の建築部門に入ります。1932年に、建築史家であるヘンリー=ラッセル・ヒッチコックとアルフレッド.バールJr.と近代建築の展覧会「モダン・アーキテクチャー」を開催しました。

1941年の35歳のときにハーバード大学大学院に進学して、マルセル・ブロイヤーとヴァルター・グロピウスの元で建築を学びました。194112月には、アメリカが第二次世界大戦に参加したため、ジョンソンは陸軍に入隊します。

ドイツでのナチス政権が実権を握りマルセル・ブロイヤーやミースファンデルローエが迫害される時期、フィリップ・ジョンソンはアメリカへの移住を手助けしました。

戦争が終わり、1946年から1954年には、ニューヨーク近代美術館(MOMA)のキュレーターに再就任します。1947年に「ミース・ファン・デル・ローエ」展をアメリカで初めて開催します。また、その後ミースのシーグラム・ビルディングの設計にも協力します。

1978年に、アメリカ建築家協会の金賞を受賞し、1979年には最初のプリツカー建築賞を受賞しました。1984年には代表作であるAT&Tビルで、ポスト・モダニズム建築を浸透させます。

2005年に98歳で逝去します。

2.建築家 フィリップ・ジョンソンの代表作 紹介

l  1949 自邸・ガラスの家

フィリップ・ジョンソンの自邸であるガラスの家(グラスハウス)は、コネチカット州ニューカナンにあります。1949年に竣工です。

ガラスの家は、時代としてはガラスや鋼鉄などを住宅設計における産業資材とした初期の例です。ジョンソンはこのグラスハウスで58年間住んでいました。また、美術評論家であり彼の長年のパートナーであったデービッド・ホイットニーも一緒でした。

ガラスの家は、ミース・ファン・デル・ローエを含む1920年代のドイツの建築家から多くの影響を受けています。その中にはファーンズワース邸も入っています。1947年に近代美術館で開催したミース・ファンデル・ローエ展では、ガラスのファーンズワースハウスの模型を展示しました。そこでは、最小限の構造、形状が強調されており、まるでガラスの家そのものです。

ガラスの家は傾斜地からなだらかになった場所にあり、石垣から池を見下ろしています。建物の長さは17 m、幅9.8 m、高さ3.2 mです。キッチン、ダイニング、寝室があり、シャワーだけが不透明の丸いシリンダーの中にあります。外装は、木炭塗装のスチールとガラスだけです。

ジョンソンは、ガラスの家の眺めは「壁紙」であると言いました。そうしてみると、グラスハウスは透明なのではなく、緑の壁紙に覆われています。ジョンソン自身も、「私は最も高価な壁紙を持っている」と言っています。

ジョンソンの思想と、それを具現化する敷地と建築の関係がとてもおもしろいです。

l  1984 ATTビル

AT&Tビルは、フィリップ・ジョンソンとパートナーのジョン・バーギーによって設計され、1984年に竣工しました。象徴的なビルの最上部の装飾が有名であり、またこれが議論の的(「チッペンデール」と言われて嘲笑された)となりました。インターナショナルスタイルの、フラットなトップデザインと大きく違います。また、七階の高さを持つアーチ・エントランスは、利用者に開放されています。

しかし、こうした装飾性こそが、味気のない機能主義や効率性を追求した(ある意味でつまらない)モダニズム建築を打破するものとして、フィリップ・ジョンソンの新たな挑戦でした。またこのビルによって世界全体で始まっていたポストモダン建築運動を正当化したともいわれています。

l  1984 PPGプレイス

PPGインダストリーズの本社として、フィリップ・ジョンソンとジョン・バージーの設計により1984年に竣工しました。このビルは、デザイン様式としてはネオゴシックですが、近代的な複合施設として、リチャードソンのアレゲニー郡庁舎なども参照されています。

建物は231本のガラスの尖塔が有名で、最大のものは25メートルもあります。また、反射絶縁ガラスの使用も特徴です。PPG Place40階建てのタワーであり、他にも14階建ての建物と4つの6階建ての構造物も含まれています。

この建築デザインは、PPGインダストリーズの方向性を明確にするだけでなく、設備的には高いエネルギー効率を生み出しています。夏の熱はガラスによって建物から反射され、冬は赤外線の熱を建物内に閉じ込めます。表面の壁は、内壁と外壁を効果的に分離するバリア構造を備えています。また、建物はコンピューター機器から熱を集め、構造物全体でリサイクルしています。

3.建築家 フィリップ・ジョンソンの書籍 紹介

インターナショナル・スタイル (SD選書 139)

建築家になる前の、フィリップ・ジョンソンの記念碑的な著作です。なるべくして、建築家になったように思います。

近代建築運動の真只中にあった1932年に発せられた記念碑的な著作、「インターナショナル・スタイル」。建築のみならず、モダニズムの可能性を再考する上での必読の古典的名著といえる。

4.まとめ

建築家フィリップ・ジョンソンは、米国出身の世界を代表する建築家です。近代建築から現代建築まで、建築の変遷をたどると、さまざまなところにフィリップ・ジョンソンが登場します。コルビジェが世界に知られるようになったニューヨークの近代美術館の建築展覧会「モダン・アーキテクチャー」を企画したのもフィリップ・ジョンソンです。歴史の証人のようなフィリップ・ジョンソンの作品を見るととても面白いです。是非、実物を見に行きましょう!

 

 

 

 

 

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