鬼才 伝説の編集人 齋藤十一 森功 2021.5.29.
2021.5.29. 鬼才 伝説の編集人 齋藤十一
著者 森功 1961年福岡県生まれ。ノンフィクション作家。岡山大文卒。伊勢新聞社、『週刊新潮』編集部(90~02年)などを経て、03年独立。08,09年連続で「編集者が選ぶ雑誌ジャーナリズム賞作品賞」受賞。18年『悪だくみ「加計学園」の悲願を叶えた総理の欺瞞』で大宅壮一メモリアル日本ノンフィクション大賞受賞
発行日 2021.1.15. 第1刷発行
発行所 幻冬舎
初出 『サンデー毎日』(2020年6月14日号~2020年8月2日号)連載の『鬼才 齋藤十一』に新たな取材を加え、大幅に加筆修正
はじめに
l 編集長の遺言
2018年、週刊新潮第4代編集長・松田宏が臨終の床で心配していたのが、『週刊新潮』の行く末と、齋藤十一の評伝の仕上がり
生涯雑誌編集者だった松田にとって、究極の目標が齋藤
l 天皇の出社風景
齋藤は、月金の正午、シルバーのBMWで出勤。1956年『週刊新潮』創刊以来、40年以上にわたって編集部を意のままに動かしてきた人物。40年以上にわたってすべての特集記事のタイトルをつけ、50万部、ピーク144万部を発行し続け、週刊誌業界の先頭を走ってきた。「新潮社の天皇」「昭和の滝田樗陰」「出版界の巨人」「伝説の編集者」の異称がある
元々新潮社で文芸編集者として頭角を現わし、身を立てた
戦争で休刊していた看板雑誌の『新潮』が45年復刊されると、3か月後に編集長兼発行人となり、以後20年以上にわたり編集長を務めた
『週刊新潮』草創期に五味康祐や柴田錬三郎など新人の時代小説を起用して大ヒット、雑誌を軌道に乗せる傍ら、出版・雑誌ジャーナリズムの礎を築き、やがて週刊誌ブームを巻き起こす
81年、「誰だって人殺しの顔を見たいだろう」といって写真週刊誌『FOCUS』を創刊、200万部に達した成功を見て続々と他社が続き、写真週刊誌が社会現象に
49年には海外の美術評論を載せるための文化・芸術誌『芸術新潮』を立ち上げ、創刊号の小林秀雄の『ゴッホの手紙』が評判を呼ぶ。小林と齋藤は生涯を通じて親交を結び、自分以上に芸術に通じた小林のいる鎌倉に移り住むが、他の鎌倉文士とは異なる特異な存在
l スキャンダリズム批判
2018年『新潮45』掲載のLGBT特集のスキャンダルは、スキャンダル至上主義は齋藤の教えであるかのように非難されたが、齋藤が創刊した当初は、日記と伝記を中核に据えたノンフィクション誌を目指した。日航機墜落事故の生存スチュワーデスの手記掲載を指示したのも、生の真実を追い求めた齋藤の関心が結実したもの
齋藤は、これ以上ないほどの教養人でありあんがら、自らを自虐的に「俗物」と呼んだのも、人間社会が俗物の視点でないと理解できないと悟ったから
第1章
天才編集者の誕生
l 「山﨑豊子と申します」
1958年、山崎が『花のれん』で直木賞を取り、独立する決断に手を貸したのが齋藤で、次々に『週刊新潮』に連載させ、ヒット作を出版したが、上京すると決まって新潮社を訪問、幹部総出で迎える中、齋藤が現れると、決まって初対面であるかのような挨拶をする
l 受験の失敗
十一という名前は、生まれた日が紀元節だから。代々鶴川村(現・町田市)の造り酒屋だが、父親は東京ガスのサラリーマンで、齋藤も転勤先の北海道生まれ。小学校は大森、中学が麻布。海軍兵学校に行く者が多く、齋藤も受験するが失敗。旧制一高、松本高も失敗
l 新潮社を結び付けた「ひとのみち教団」
早稲田第一高等学院から早大理工へ
PLの前身となる「ひとのみち教団」に入団。後年編集部ではPL教団への言及がタブーとされたが、新潮社の創業者・佐藤義亮も深く関わっており、齋藤と新潮社を結び付けたきっかけが教団なのは間違いない。実弟が教団傘下の中学に入ったのがきっかけとも
l 当てのない上京
佐藤義亮は秋田出身。身一つで上京後秀英舎(現・大日本印刷)に拾われる
l 一等になった佐藤橘香の投稿
元々文学青年で、『国民之友』の『頼山陽論』に感銘を受けて佐藤橘香のペンネームで投稿したところ一等になり、校正部に抜け出す
l 良心に背く出版は、殺されてもせぬ事
秀英舎は文芸分野の書籍や雑誌の大半を製作、義亮は出版の全ての製作工程を学んだあと独立。1896年投稿雑誌『新声』を創刊。何度か浮沈の後1904年『新潮』に辿り着き、冒頭の社訓を定める
l 佐藤家との縁
義亮は一族を新潮社に入れ家業として実績を築いていく
佐藤家はみなひとのみち教団の信者で、義亮の長男の長男の家庭教師となる
l 善亮と十一の接点
佐藤家も齋藤家も娘の夭折を契機にひとのみち教団に入信
義亮が齋藤十一を見込んで、小学生の孫亮一の家庭教師を頼み、佐藤家の家族同様の生活を始め、十一は大学に戻らず、35年新潮社に入社
第2章
新潮社の終戦
l 新米編集長だった戦時下の日々
35年は文芸出版が飛躍した年。文藝春秋が芥川賞と直木賞を創設。藤村の『夜明け前』が『中央公論』で完結、『新潮』も川端康成や宇野千代ら脂の乗った作家が活躍
入社後の齋藤は、当初倉庫係、42年頃から単行本の編集をやる。その時付き合った伊藤整、河盛好蔵、和辻哲郎らとはのちのちまで親交を結び、新潮の編集にも関与
l 新潮社の初代天皇
1907年、新潮社の看板文芸誌『新潮』が漱石や藤村らを紹介し大ブレーク、同年入社の中村武羅夫は後の名編集長。次々に評判の企画を立ち上げ、新潮社の飛躍につなげる
l GHQによる追放
46年初、QHGから追放の予告
新潮社では、42年末義亮が脳軟化症で長男に譲ろうとし、『新潮』を休刊し半ば社業から離れたまま終戦を迎える
l 思いがけない抜擢人事
47年菊池寛公職追放
新潮社は、義亮が長男に社長を譲り、その他役員陣も一新してGHQの粛清から会社を守ろうとする。この時中村も退き、齋藤が抜擢され、休刊していた『新潮』の編集長となる
l 小林秀雄の編集長指南
抜擢人事に戸惑う齋藤を指導したのは、文化公論社で『文學界』の編集長もやっていた小林秀雄。戦前から数々の文豪たちを世に送り出すなど名編集者ぶりを発揮してきた小林が、ほとんど縁のなかった新潮社の駆け出し編集長・齋藤の訪問を受ける
l 「トルストイを読み給え」
31年から鎌倉に住み始めた小林が初対面の齋藤いったのは一言、「トルストイを読め」と
小林曰く、「若い人から何を読んだらいいかとよく聞かれるので、「トルストイを読め」というが、いまだ嘗て実行してくれた人はいない」、「それを実行したのは齋藤だけ」
以降、2人の深い交友が始まる
l 坂口安吾と太宰治の発掘
あらゆる物資が不足するなか、齋藤は着任早々から辣腕ぶりを発揮し、新潮社の新たな伝説を築いていく
復刊と同時に高見順の連載『わが胸の底のここには』を始め、翌年には坂口安吾を起用。31年の文壇デビュー以降は埋もれていた坂口を齋藤に薦めたのは河盛好蔵。特攻隊員が闇屋に成り下がったりした戦争に打ちのめされた日本人の境遇を描き、新潮は一気に部数を伸ばす。齋藤の大番頭が2代目編集長になった野平健一
同じように燻ぶっていた太宰を呼び込む。太宰を推したのも河盛。『斜陽』で大ブレーク
齋藤は、新潮の編集長でありながら、文芸誌とは全く異なる雑誌を発案し、成功させていく。50年創刊の『芸術新潮』、56年の『週刊新潮』、写真誌『FOCUS』、総合月刊誌『新潮45』はすべて齋藤が始めた雑誌。指南したのが小林と河盛
第3章
快進撃
l 万年没から大ヒット作家に
齋藤は、依頼した原稿が気に入らなければ「貴作拝見、没」と容赦なく斬り捨てたので、作家からはたいそう恐ろしい編集者のように見られてきた
犠牲者の典型が五味康祐。学徒出陣し戻ってきて書き始めるが、この一言だけ書いた葉書が届くたびに落胆し途方に暮れた。太宰や相撲界の男女ノ川と共に「三鷹の三奇人」と呼ばれ文壇で注目されていたが、レコード好きが縁で齋藤と引き合わせられ、新潮社入社。レコード鑑賞では弟のように可愛がりながら、純文学は認めず、漸く52年『新潮』に初めて書いた大衆小説『喪神』が掲載され、翌年の芥川賞受賞。4年後には『週刊新潮』創刊号から五味の『柳生武芸長』を連載、大ヒットする。五味を大衆小説から剣豪小説へと導いたのは齋藤だった
l 齋藤家の縁故採用
齋藤は家長として一族を支え、大泉の家に住まわせ、仕事がなければ新潮社に入れた
l 小林秀雄との付き合い方
中学から、音楽にも嵌っていた齋藤にとって、小林は音楽の師でもあった
小林は、齋藤が音楽や美術に関する広く深い知見に脱帽して心酔し、最も親しくしてきた文士の1人
小林は、「文学は読まなきゃダメだが、文学だけじゃダメ。それでは微妙ということがわからない」「齋藤は、その微妙がよく分かっている」という。「微妙」とは著作に秘められた言い表せない真意と言えばいいのか
l 微妙なところを嗅ぎ取る
齋藤は、『週刊新潮』で文学をやっているんだと言い、人間のパノラマを作るんだとも言っていたが、本能が潜む人間の”業”を細大漏らさず描き出し、週刊誌でその実景を再現することを目指した
小林は、孔子の『論語』に触れ、「孔子は60にしてやっと思索と感覚が全く応和するのを覚えた。耳の鍛錬を重ねた結果、人間をその音声によって判断できる。誰もが同じ意味の言葉を喋るが、声の調子の差異は如何ともし難く、そこだけがその人の人格に関係して、本当の意味を現わす」と、「耳順」の意味を説く
小林も齋藤も孔子に習ったのだろう
l 芸術新潮創刊秘話
50年前半までの出版界は困窮を極め、廃刊が相次ぐ中、『新潮』だけは売り上げを伸ばし、47年には『小説新潮』するが、朝鮮戦争勃発で環境が一変、そんな中で『芸術新潮』が創刊。従来の見る雑誌から、読む芸術誌として、重厚な芸術評論を中心に据える。小林を執筆陣に加え、『ゴッホの手紙』の連載が評判を呼ぶ。岡本太郎を見出したのも齋藤
l 趣味の延長「読む芸術誌」
齋藤にとって芸術に触れる作業は、自らの五感を鍛えるためであり、趣味の延長線上に仕事があった
当初は「読む芸術雑誌」と呼ばれ白樺派的教養主義と評されたが、60年代に入り編集方針を転換、カラー図版を多く使い見せる芸術誌の誌面作りをするようになったのは、時代の変化を敏感に読み取った結果。その頃美術界の異端児扱いされた岡本太郎を重用
齋藤にとって、『新潮』も『芸術新潮』も生涯追い続けてきた趣味の雑誌にほかならず、「女、カネ、権力」のスキャンダルを追い続けてきたとされる『週刊新潮』も根っこは同じ
第4章
週刊誌ブームの萌芽
l 新田次郎の「怨念」
51年、『サンデー毎日』創刊30周年記念の懸賞に『強力伝』(56年直木賞)を応募して1等になった気象庁職員の藤原寛人(後の新田次郎)に、新潮社からホラー短篇小説連載の依頼が来る。タイトルは『冷える』でと決まり、1回(400字詰め原稿用紙)20枚読み切りの12回連載で引き受けたが、5編書いても1編しか採用されず、自身がぐらつくぐらい苦しい日が続き、何とか終えたものの、苦しみだけで喜びなど全くなかったこの作品を後に発行された『全集』のラインナップからも外している。新田は悔しさのあまり、作家として大成してからも没原稿をずっと残しておき、いつか齋藤を見返してやるという怨念すら感じられたという。文章修業になったのは間違いなく、71年には新潮社から『八甲田山死の彷徨』を刊行し大ヒット
l 週刊新潮の発案者
56年、『週刊新潮』発刊。発案者は義亮の孫で、当時副社長の亮一
日本の週刊誌の歴史は、1922年創刊の『週刊朝日』と『サンデー毎日』を嚆矢とする
亮一は、同時に徳間書店の『週刊アサヒ芸能』の創刊にも関わる
戦前、講談社の『キング』に対抗して出した大衆文芸誌『日の出』の失敗があったので、社内は緊迫していた
l 谷内六郎の表紙秘話
出版社初の週刊誌の表紙として、亮一は作家の顔を提案したが、齋藤に一蹴され、齋藤の指示で第1回文藝春秋漫画賞を受賞したばかりの谷内六郎に依頼
無事創刊後、齋藤は前妻と別れ、編集を手伝っていた大田美和と再婚し、鎌倉の明月谷に新築
l モデルにした米週刊誌の限界
齋藤が『週刊新潮』発刊に際し最初に研究したのは”The New Yorker”で、タウン誌のようなファッショナブルな週刊誌だったが、52年から文芸小節やノンフィクション作品を数多く手がけるようになる。日本の雑誌では、齋藤が愛読していた31年発刊の月刊誌『セルバン』
創刊号から豪華な小説の連載執筆陣を揃え、谷崎の『鴨東奇譚』、五味康祐の『柳生武芸帳』、大佛次郎の『おかしな奴』を3大連載小説と謳い、最大部数の『週刊朝日』60万部の半分に達するが、なかなか安定した部数にはならい
新人の発掘に取り組み、柴田錬三郎や瀬戸内晴美を起用
新聞社のような取材の情報網がない出版社の狙う週刊誌だけに、「女、カネ、権力」という人間の欲望を描く、新潮ジャーナリズムに基づく記事作りに挑戦
野平と旧三高の同級生だった讀賣新聞の村尾清一が、時事問題を扱う「週刊新潮欄」を担当
村尾は、54年の第五福竜丸事件をスクープし、「死の灰」という造語を作ったスター記者で、後に日本エッセイスト・クラブの理事長、会長を歴任する、日本を代表する文章家
l 新潮ジャーナリズムの原型
村尾は48年読売入社、社会部一筋。三高のフランス文学のクラスの先輩だった河盛に私淑していたが、新潮に投稿した小説が齋藤の目に留まり、『新潮』に「新潮雑談」というコラムを設けて村尾他3人の新聞記者に、様々な事件の批評を書かせた。これが『週刊新潮』の原型となり、新潮ジャーナリズムが形作られていく。齋藤はそんな時事記事も文学の1つの有り様と捉え、『週刊新潮』で文学をやりたかったとされる
『週刊新潮』から出版界における雑誌ジャーナリズムが始まったと言ってもいい
l 駐車場の編集部から144万部へ
『週刊新潮』創刊当時、本社建て替えのため駐車場の広場で編集会議をやっていた
67年、父急逝を受けて亮一が社長就任、経営に専念
『週刊新潮』は、翌年には70万部に達し、54年100万部をピークに落ち込んでいた『週刊朝日』を逆転。各社の創刊ラッシュに火をつける。67年初がピークで144万部
l 円卓会議のメンバー
齋藤が『週刊新潮』のすべてのラインナップを決める
l 魔法使いのつけるタイトル
齋藤が戦後復刊した新潮を瞬く間に軌道に乗せ、数々の文芸小節をヒットさせてきた秘訣は、その絶妙なタイトルにある。その典型が井伏鱒二の『姪の結婚』で、齋藤が井伏の才能を認め新潮で連載させたが、齋藤の指示で『黒い雨』に題名変更、井伏も齋藤の命令ならと受け容れたところ、世界中で翻訳され、ノーベル賞候補にもなった
河盛も、齋藤のつけるタイトルの妙に脱帽、「文壇誌に過ぎなかった『新潮』を文学的教養誌に脱皮させた」と言って絶賛
l 「戦艦大和」の誕生秘話
59年の『鉄橋』以降芥川賞候補にはなるが縁がなく、作品依頼も途絶えた吉村昭に、三菱グループのPR誌『プロモート』に連載中の『戦艦大和取材日記』を読んだ齋藤から声がかかり、『新潮』に『戦艦大和』を書かせる
声がかかった直後に吉村は太宰治賞を受賞するが、渾身の作と絶賛されたロマンティックな作風ではなく、純文学からドキュメント作家に転向したのが奏功して、菊池寛賞を受賞
第5章
週刊誌ジャーナリズムの隆盛
l 吉田茂の手記
村尾の手を借りながら、雑誌に報道の風を吹き込んでいき、それがやがて新潮ジャーナリズムとして花開く
56年末に発行部数を押し上げたのが『吉田茂回顧録』の連載。戦後のリーダーとして活躍した吉田が、造船疑獄で総辞職して離党、57年に再入党するまで無所属だった吉田を齋藤が説得して『回顧録』を実現させた
齋藤の週刊誌のスキャンダリズムの源は、文壇のゴシップページ
l 藪の中スタイルの誕生
村尾のほかに新潮ジャーナリズムと称される『週刊新潮』の記事スタイルを作った上で欠かせないのが、草柳大蔵と井上光晴。齋藤が誌面のメインに据えた特集記事の最終稿を書くアンカーマンとしてこの2人に依頼
新聞記事スタイルの地の文を書く草柳が『女性自身』の創刊に携わったのを齋藤が嫌って、売れない作家だった井上に目がつけられ、取材コメントを繋げて物語にする形が編み出され、『週刊新潮』の特集記事の原型である「藪の中」記事スタイルとなる。裏どりが難しければ、書き手の捉え方を読者にぶつけて考えさせる、真相は藪の中に消えはっきりとは見えない、言い換えれば疑惑報道に近い記事スタイルで、新聞では書けない疑惑報道が週刊誌の真骨頂と呼ばれるようになったのもこのスタイルから。『週刊新潮』の書き手のデスクたちも井上の考案した藪の中スタイルを踏襲、なかでも3代目編集長となる山田彦彌は歴代の書き手の中でも名文家として知られるようになる
発行曜日によって競合しないようになっていて、新潮は文春と同じ木曜日。元々文春は重厚な特集記事を載せるのではなく、茶の間の洒落たゴシップをやる、一種のサロン雑誌で、殺しや政治経済のどろどろした暗闘みたいなテーマは避けていた。一方の新潮は齋藤が情念のルーツまで探るような記事が中心
l ゴールデン街の無頼伝
編集部は作家や記者の溜り場と化し、社員より高給を取る者もいたが、そんな中から将来の逸材も輩出。東大仏文三羽ガラスといわれた立花隆と岩本隼は、文藝春秋と新潮社に分かれた後も2人で一緒にゴールデン街にバーを経営
l ヤン・デンマンの正体
安保闘争で就職できなかった逸(はぐ)れ社会人を懐に入れて新潮社は成長
『週刊新潮』で齋藤が始めた名物コラム「東京情報」の筆者は自称オランダ人記者ヤン・デンマンで、齋藤の変名とも言われたが、ヤンは齋藤の好きだったシベリウスの名で、達者な書き手による持ち回りのコラムとし、タイトルやテーマ全てを齋藤が決め、外紙の特派員が日本の出来事をどのように捉えているかという視点で書けとの指示だった
l 編集部員の連絡役
際どいタイトルに抗議が殺到したこともあるが、齋藤の目の付け所が抜群に冴えた記事は数え切れない。札幌医大の和田寿郎心臓移植事件はその一例
l 「これは殺人事件です」
68年夏、『週刊新潮』の特集記事により、溺れて一旦蘇生したドナーの心臓を使ったところから、殺人容疑が浮上して大騒ぎに。殺人容疑で刑事告発され捜査が始まる
当時札幌医大の整形の講師だった渡辺淳一は、新潮社の取材に協力、和田に疑問を呈しながら、後にこの事件をモチーフに、『白い宴(旧題:小説心臓移植)を書き、作家への道を歩み始める
和田は結局嫌疑不十分で不起訴となるが、『週刊新潮』の特集記事は長い歴史上でも屈指のスクープ記事であり、取材した後の第4代編集長の松田の将来が開ける
l 闇に葬られた角福戦争の黒いウワサ
72年夏の三角大福中による自民党総裁選にまつわる特集も政界を大きく揺らす
中曽根が角栄に味方する見返りとして7億円受け取ったとのスクープ記事を載せたのも松田で、中曽根が新潮社を刑事告訴したが、情報元の福田派の中川俊思(秀直の岳父)が詫びを入れて一件落着、特捜も中曽根の世間へのアピールに利用されただけで、真相は藪の中。齋藤は告訴をものともせず、スクープの第2弾まで書かせ、2号とも完売
l ネタ元は児玉誉士夫と小佐野賢治
76年ロッキード事件での齋藤の関心は、ロッキード社の代理人であることが露見した児玉誉士夫にあり
齋藤は、明治天皇に敬意を払うが、昭和天皇以降の皇室の在り方には疑問を抱く、とりわけ戦中、戦後の右翼と皇室、政界との怪しげな繋がりに不審を抱き、天皇の戦争責任を問い、戦後の天皇制にも否定的で、58年には「第4のチャンス――天皇退位説を探偵する」と題した特集を掲載、宮内庁や皇室批判という菊のタブーを犯してきた
齋藤の疑問の根底には、児玉のような右翼への嫌悪があったのではないか
後に第3代編集長となる山田が、児玉とも小佐野とも親しく、直接会って情報を仕入れていた
l フリーとプロパーの混在
出版社系の週刊誌は、フリーランスの記者の取材力に依存したが、新潮社はプロパー採用との間に垣根がなく、両者分け隔てなく会社組織の中で出世。3,4代目編集長の山田、松田はいずれも専属記者から正社員になった後、編集部の組織で昇進していく
第6章
作家と交わらない大編集者
l 大作家が畏まる理由
山崎豊子と齋藤の初対面は58年、吉本興業の創業者をモデルにした『花のれん』が直木賞を受賞、齋藤が執筆を依頼して1年後に連載を始めたのが『ぼんち』で、齋藤が別なタイトルを考えろと言ったが、題名に拘る山崎が拒否したいという。それ以来の交友
68年山崎の『花宴』で最初の盗作疑惑が朝日に書かれた時、齋藤がわざわざ病院に山崎を見舞い、盗作騒ぎへの対処策を授け、山崎はすぐに文壇復帰を果たし作家活動を再開、70年に『週刊新潮』で『華麗なる一族』の連載が始まる。以後山崎は上京すると必ず齋藤を訪ねるようになった
l 二度目の盗作事件
73~78年『サンデー毎日』掲載の『不毛地帯』で2度目の盗作騒動になった時も、名誉棄損で提訴すると息巻く山崎に齋藤は、「裁判で勝っても作品で負ければ作家的生命は終わりだ」と説き、飽くまで判決を求める山崎も折れて4年後に和解成立
91年、『大地の子』を発表した後山崎が、齋藤に「もう書くことがなくなった」と別れの挨拶に行くと一笑に付され、「半年、1年もすれば必ず動き出す」と言ったら、その通り『沈まぬ太陽』『運命の人』と書き続けた
l 「2つの祖国はけしからん」
齋藤は作品に関する具体的なアドバイスはしない。採用か没の返事だけだが、タイトルには拘る
山崎が『不毛地帯』を新潮社で書籍化した後、『二つの祖国』に着手。『週刊新潮』連載の3作目で、齋藤が時代背景に馴染まないとして反対したが、ロスの日系2世記者が太平洋戦争の最中2つの祖国の間で翻弄される姿を描いたものでこれでなくては駄目と山崎が押し通す。80年、連載直前の号に、新連載『二つの祖国』(仮題)とあるのを見て山崎が激怒。結局連載は山崎の主張通りになったが、齋藤からは何の連絡もなし。NHKの大河ドラマにもなったが、その時のタイトルは《山河燃ゆ》で、日系2世たちの「祖国はアメリカしかない」という意向に沿ったもの
l 恥を書き散らかして錢を取る
齋藤を仰ぎ見る小説家の1人が瀬戸内晴美。57年女子大生・曲愛玲が新潮社同人雑誌賞を受賞、その授賞式が初対面。受賞第1作として新潮に書いた『花芯』がポルノ小説扱いされ、子宮作家とまで酷評され、新潮社に抗議に乗り込み、『新潮』に反駁文を書かせろと言った際、齋藤から、「小説家は自分の恥を書き散らかして錢を取るもので、それを知らずに小説を書くバカがいるか」と一括され、以後新潮社から締め出される。5年後『夏の終わり』が認められ、齋藤から『週刊新潮』で連載を書けと言われ始めたのが『女徳』
齋藤がいう、「『週刊新潮』で文学をやる」という意味は、純文学と大衆文学の間に明確な違いはなく、作家に応じて才能を見極め、広く社会に浸透する文学の読者を掴もうとした
l 週刊新潮の清張担当
松本清張の『或る「小倉日記」伝』が当初直木賞候補だったが芥川賞候補に回され、五味の『喪神』とともに53年の芥川賞に輝いた
齋藤は、松本や五味の才能について、純文学では生かし切れないと考えたのか、松本に『週刊新潮』で『わるいやつら』の執筆を依頼、60年から長期連載が始まる
齋藤と松本はお互いを意識。齋藤も松本だけには相当気を遣って、「天才だ」などと持ち上げたりした
l 松本清張へのダメ出し
松本が純文学をやりたくなって『新潮』の編集長に書かせろと言ってきたが、それを漏れ聞いた齋藤がダメ出しをする
齋藤にとっては、純文学と言えば太宰や川端で、池波にしてもどこかで読者と折り合いをつけ、手をつないでしまうことを齋藤は気に入らず、『週刊新潮』には書かせても『新潮』には書かせない
齋藤は、独特の感性で作家を峻別、プライベートでは限られた作家としか付き合わない
川端と小林だけは特別扱い。川端三島論争で川端が三島に冷たく当たったのは、どこか違うと思ったからで、齋藤もその辺りの2人の違いを嗅ぎ分けていたのだろう
l 三島の割腹と梶山の吐血
週刊新潮欄の編集会議は、社長、齋藤、野平編集長と5人の週間欄担当者で行われるが、1週間分の新聞から齋藤がテーマを決めてタイトルをつける
三島由紀夫が保証人となって新潮社に入社した宮澤徹甫(定年退職後は谺(こだま)雄一郎のペンネームで時代小説家)も入社早々から週間欄担当となるが、作家を担当したのは梶山が最初
『週刊新潮』創刊時、同人雑誌推薦枠で新潮に松尾芭蕉の性癖を描いた(『合わぬ貝』)のが梶山季之で、齋藤とはそれ以来の付き合い。梶山の前半生は梶山軍団と呼ばれた取材グループを形成しジャーナリストとして大活躍、「文春に梶山軍団あり」と名を知らしめ、肺結核から回復した後半生はフィクションに転じ、経済小説や風俗小説を手掛ける
齋藤は後半生から梶山に『週刊新潮』での執筆を依頼。66年の『女の警察』は評判を呼ぶが、梶山と編集長の野平は猥褻物頒布で罰金5万円の有罪判決
6年後齋藤のアイディアで、『ぽるの日本史』を書く。連載の途中で梶山が喀血したが、齋藤はそれでも半分でいいから書かせろと言い、梶山も短縮して書いたが、単行本はしばらく新潮社から出なかった
l 筒井康隆『幻の落語』
74年の佐藤栄作のノーベル賞を「落語だろう」といって筒井に落語を書かせたのが齋藤
簡約的な作品を多く書いていた筒井に、コメディ小説の才能を感じての下命だった
筒井は、要請に訝りつつも「齋藤さんらしい発想だ」と言って引き受けてくれたが、いざ原稿ができると齋藤は、「なるほど…」と言ったきり納得しない様子で黙ってしまい、しばらくしていつもの特集記事に差し替えると言う。筒井には詫び状を書くしかなかった
齋藤は人見知りが激しいと言われるが、これほど幅広い分野の出版物を手掛けてきた編集者にしては、作家や評論家との交友が極端に少ない
l 週刊新潮もトルストイ
齋藤は、編集者は絶対に表に出ちゃいけない、黒子であるべきという意識が強かった。それが齋藤というカリスマ伝説を作った面はあるし、そのために黒子に徹しているという意識があったようにも思える
齋藤は自らを俗物と称し、長年こき使われた野平も齋藤を「知恵はあるが教養がない」と悪口をいい愚痴をこぼす
齋藤にとって、『週刊新潮』もトルストイが根本にある
第7章
タイトル作法
l 気をつけろ「佐川君」が歩いている
標題は、85年11月の特集記事に齋藤がつけたタイトル。4年前のパリ人肉殺人事件を取り上げ、本人が書いた体験小説『霧の中』を引用しながら事件を生々しく描写
精神異常として措置入院となり、カニバリズムも病気ではなく性格異常の範囲に留まるところから、松沢病院を退院。それもJALの事故の13日(ママ)とあってほとんど報道されない中、いち早く犯人の社会復帰の報を耳にしたのが齋藤で、「人1人食べた男が正常であるわけはない。そういう人物を社会に放り出して平気なこの国こそ以上で、我々はただ「気をつけろ、佐川君が歩いている」と警告するしかない」と記事を締め括る
l 「日本史 血の年表」
齋藤が社の幹部に残した出版についての多くの警句の1つに、「誰が書くかは問題じゃない。何を書くかだ」。多くの新人作家を発掘してきた自身の成功体験に裏打ちされた言葉
88年末、天皇崩御を前に新たな連載『日本史 血の年表』を企画、書き手を探させた
1年間として50回、1人で書く条件で、膨大な同人誌の山の中から見つけたのが竜崎攻。本名青山攻で箕面市役所の職員。翌年から開始して11回書いたが、役所の使い込み事件に巻き込まれて手が回らなくなり、代役として起用されたのが安倍龍太郎。大田区役所職員などを経て作家になり、『小説新潮』新人賞に毎回応募していた。尊氏に仕えた武将高師直を描いた作品が印象に残っていたのが手掛かり。「日本史 血の年表」は1年続き、90年『血の日本史』と改題して上梓、山本周五郎賞候補となり注目を集める。安部は13年に『等伯』で直木賞を取り、当代指折りの時代小説の書き手としての地位を確立
l 「人殺しの顔を見たくないか」
80年、齋藤は次の新雑誌の準備室立ち上げ。米誌『LIFE』を意識、「見開き2ページを1枚の写真にしてコラムを添える形の薄い雑誌」との指示。1年後に『FOCUS』として創刊
創刊号を飾った小佐野賢治のインタビューは、社内の評判は良かったが齋藤は不満、人間小佐野の素顔が捉えられていないということだった。売上もいまいちで、43万部刷って実売は2/3。30万部が採算分岐点と言われ、赤字が続きかなり苦戦した
グラビア誌ではなく、写真週刊誌というジャンルを確立したのも取材力
「おまえら人殺しの顔を見たくないか」というのが企画した時の齋藤の言葉といわれるが、人間の素顔こそが齋藤の関心の元
l 騒然となった闇将軍の法廷写真
82年は大きな事件や事故が相次ぎ追い風に
ホテル・ニュージャパン火災では、救援隊の医師が路上の遺体の目にペンライトを当てて瞳孔反応を確認している写真を掲載
日航機の羽田沖墜落事故では、引き揚げられたばかりの遺体や無残な機体全体を上空から撮影した写真を掲載
田中角栄の法廷写真は、既存メディアは違法行為と断じたが、齋藤は、「ジャーナリストは条文に書いてあることよりも、天の法、天の教養を大事にしなければならない」と言い放つ
これを機に売り上げが急増、小林が鬼籍に入った時83年には100万部、翌年初には200万部越えという週刊誌史上最高の記録を樹立。創刊後しばらく売れなかった頃、小林が「しばらくの辛抱だ」とアドバイスしてくれたのを齋藤は小林の1周忌で感謝している
l 御前会議の隠し撮り
齋藤が最後に手掛けた雑誌が『新潮45』
82年、45歳以上の中高年層の読者に向けた総合月刊誌を謳い、流行作家の随筆を中心とするソフト路線を目指し、『新潮45+』として創刊したが、鳴かず飛ばずだったのを、齋藤が取り上げて、誌名を改め、日記と伝記を2本柱に据えたノンフィクション誌として全面リニューアルして85年創刊、売上を一気に伸ばす
僅か4人しかいない編集部の御前会議を隠し撮り
l 編集者の根本は…
御前会議での齋藤の指示は、「キミたちが読みたいと思う雑誌を作る。キミたちみたいな人間が、人間として何を求めているかだ」といい、日記、伝記、特集記事とそれぞれの項目ごとにたくさんのタイトルが並ぶ巻紙を見せられた
世界には学問とか芸術とかがあるが、素人だから手に負えなかったものを、うまい味をつけて誰にでも読ませることができるようなものにするのが編集者の役目だという
最も印象に残る齋藤語録は、「人間ほどデモーニッシュ(鬼神が憑いたかのような凄味のある様)な存在はない」
l ビートたけしの才能
『新潮45』で齋藤がつけた名タイトルの1つが、「衆愚とはオレのことかとたけし言い」(89年)、「職業に貴賎あり――青年実業家が一番怪しい職業」(90年)
漫才師として売り出していたビートたけしを取り上げ、たけしに衆愚を語らせることにより、世間の常識に一石を投じた
会ったこともない齋藤がたけしの才能を見抜いていた。たけしはここから文化人扱いされ、映画監督や社会評論までこなす
「職業に貴賎あり」も、たけしに様々な職業を切って捨てさせ、身の程をわきまえなくなった上っ面の平等主義に疑義を挟み、自分の仕事に後ろめたさを感じなければ説得力のある出版物は作れないということを言おうとした
第8章
天皇の引き際
l 重役会の寸鉄
亮一の息子で現社長の隆信が、電通から転職して重役会に出席するようになって最も印象に残っているのが、出版部を統括していた新田常務が公私混同問題で窮地に立った際、齋藤が「新田君の不徳の致すところ」の一言で、新田は出版部から広告部に異動となり、問題にも蓋をした一件で、滅多に経営に口を出さない齋藤の天皇としての面目躍如
l イトマン事件と山崎豊子
イトマン事件を『週刊新潮』が特集した際、磯田が山崎に泣きつき、記事から磯田の名を外そうとした。作家という出版社の泣き所を利用しようとして、記事は修正されたが磯田の名を削ったわけではなく、齋藤が記事にゴーサインを出している以上記事はとまらない
l 華原朋美の正体を追え
齋藤の発想が独特なので、周囲はその意図を図りづらい
92年、大船駅のリニューアルでルミネが出来た時も、通勤の途上で気になったのか、背景を知りたいとの下問があり、真意を探ると女子高生が騒いでいるのを見て鎌倉文士の住む町の風情が損なわれると危惧したのではないかということになったが、特集記事になった時のタイトルは、「高額保証金の利益計算」で、テナント店舗の経営の先行き不安を書いた
文春に比べて芸能情報には疎かった時代があり、突然「華原朋美の正体を追え」との指示が来て出来上がったタイトルが、「1週間で60億の売上 新人歌手・華原の黒い成り上がり」
l 「なんだ、この中見出しは」
97年初、齋藤が相談役から顧問に退き、徐々に『週刊新潮』の記事への関与を薄めていたころ、まだ編集部に在籍していた筆者がイトマン事件に関連して書いた記事の中見出しに担当役員の山田が説明し過ぎだとダメ出ししたが、それは松田編集長の指示に沿って変更したもの。齋藤が現場に任せるようになって社内に混乱が起こっているように感じた
l 池波正太郎の没原稿
本の価値はあくまで作品の中にあると言い、著作に才能が枯れたと見れば容赦なく斬り捨てる、齋藤にはそんな非情さもあった
歌人としてそれなりに名が知れていた寺山修司に『週刊新潮』でエッセイ『人間を考えた人間の歴史』を連載させたのは齋藤の直観力だが、寺山がソープランドのエピソードを書いた時はもの凄い怒りをかったという。「いくらスケベェでも構わないが、下品になるな」と、品性の欠如を極端に嫌ったという
池波正太郎も没原稿の”被害者”の1人。60年『錯乱』で直木賞を取った後、67年に鬼平の原型ができた直後、齋藤は『週刊新潮』での連載を依頼し、『忍者丹波大介』が始まったが、14回で突然打ち切り。2年後くらいに齋藤が自ら池波を訪問し連載を依頼。2度と新潮には書かないと怒っていた池波も新潮社の重役が玄関先に立っているのには参って書いたのが『編笠十兵衛』
l 天才の3要素
齋藤は読者として自身の俗物的な部分を肯定しながら、ノブレスなものへの憧れを抱いてきた。書き物は教養に裏打ちされた俗物根性を満たさなければならない。人間はデモーニッシュな生き物であり、人の頭を割ってみるとろくでもない存在であることがわかるが、そこに光る何かを見出す、それが下品にならない書き物であり、そこに齋藤の一種の価値観がある
朝日など大手マスコミには噛みつくが、週刊誌やミニコミなどには寛容で、ライバルを蹴落とすようなさもしいことはするな、というのが齋藤の教え
齋藤を天才たらしめた3要素
(1) ある種精神的貴族でありながら俗的な興味を持つ。教養人と俗物の2面性
(2) 言葉のセンス ⇒ 元歌をちょっと変えて独特のコピーをする
(3) 黒子に徹したこと ⇒ 横柄ではないが謙虚ではない。出版界で唯一文藝春秋の池島信平を意識。池島は文藝春秋を残したが、齋藤は何をやったとは絶対に言わない
謎めいた仕事ゆえに神秘性が高まった
第9章
天才の素顔
l 葬儀に参列した”息子”
01年の建長寺での葬儀で流れた曲は、ブルーノ・ワルター指揮のモーツァルト《フリーメーソンのための葬送曲》
前妻や息子も参列。息子・小川雄二は音楽家
l 糟糠の妻
前妻はひとのみち教団での知り合い36年結婚、給料をレコードにつぎ込む齋藤に代わって、一族のみならず仕事上の恩人となる河盛が転がり込んできたときには一緒に養った
l 宗旨替え
戦後カトリックに宗旨替え、両親は多磨霊園のカトリックの墓地に眠り、前妻が墓を守る
64年前妻と離婚、翌年美和と結婚。建長寺に墓を買って入る
l 愛した”息子”との出会い
54年、大泉に住んで音大附高に通っていた小川が齋藤夫妻と教会の勉強会で知り合う
子供のいなかった齋藤夫妻の家で雑用のアルバイトをしながら、国立音大に行きオペラ歌手を目指すのを齋藤が全面的に支援
l スケッチを持参した東山魁夷
東山魁夷も齋藤の大泉の家に何度か訪ねてきた。齋藤がオーディオの作り方を指南
齋藤に大泉の家で音楽を指南したのは吉田秀和。齋藤は東山とも吉田とも終生変わらぬ濃厚な付き合いをしてきた
l ベルリン留学「破格」の仕送り
小川も齋藤の支援に応え、首席で卒業、講師として大学に残り、文部省の音楽留学制度でベルリンに留学。齋藤は吉田に小川の公演を聴かせ、才能を再確認して留学に破格の支援をし、小川も5年制のベルリン国立音楽大学を3年半で卒業
小川が留学する直前、齋藤から前妻の世話を頼まれ、帰国後正式に前妻と養子縁組する
l 離婚の理由
齋藤は離婚に先立ち前妻のため、蓼科の別荘と国立に家を新築。既に齋藤は鎌倉に家を建てて住んでいた
65年、美和と再婚
週刊朝日にいた美和の兄が、『週刊新潮』創刊の時怒鳴り込んできたが、その兄から妹との関係を暴露すると脅されて、齋藤の母が怖がって嫁に身を引かせたとの話がある。その頃齋藤のスキャンダルを暴くアカ新聞を新潮社の社員が買い占めていたという
齋藤は終生糟糠の妻に負い目を感じながら俗物の編集者として生きてきたのかもしれない
第10章
天皇の死
l 低俗なマスコミ
00年末、黒子に徹した齋藤が一度だけTBSテレビ《ブロードキャスター》に出演
『FOCUS』をテーマとして創刊の裏話を聞こうとしたもので、齋藤が期待する写真は「人殺し。問題を起こした人間の顔」だと言った。「人間の顔に本性が現れる」と考え、幹部にも「写真で、嘘のない生々しい人間の本性を伝えろ」と采をとった
写真誌ブームは長く続かず、ビートたけしの講談社殴り込み事件もあって、写真誌の”のぞき見”批判が巻き起こり、87年末には53万部に落ち込み、他社では廃刊も出た
残った3Fのうち、『フライデー』と『フラッシュ』はヘアヌードで部数を回復、『FOCUS』 は97年神戸連続殺人事件の犯人の顔写真を修整なしで掲載し存在感を示す。発売2日後法務省が回収勧告を出すが拒否、児童文学作家の灰谷健次郎による新潮社からの版権引き上げ騒動に発展したが、『週刊文春』のインタビューに応じた齋藤は、「よくやった」と言い、目線を入れて写真を掲載した『週刊新潮』を「へっぴり腰」ならぬ「びっくり腰」と裁断
l “天の法” が見えるのか
灰谷が「低俗な価値観に迎合している」と『FOCUS』を批判したのに対し、齋藤は「みんな低俗だ」といい、「俺も”売らんかな”だが、天の決めた法に逆らってまで売ろうという気はない」と断言
独善との批判を受けながらも、天の法を探し求め、そこに従おうと追い続けてきたのが、齋藤の出版人としての誇りだった。そこには創業者・佐藤義亮の残した社訓「良心に背く出版は、殺されてもせぬ事」に通じるものがある
『FOCUS』退潮の原因についてインタビューで齋藤は、「作る相手のレベルだ。誰を対象に作るか。普通の人だよ。みんなに読んでもらいたかったのに、お姉ちゃん、お兄ちゃん相手に作ったのでおもしろくなくなった」と語り、それから半年後に休刊を発表
齋藤が言った「お姉ちゃん、お兄ちゃん」とは衆愚のことか。「普通の人」は大衆/民衆
齋藤は、都合よく使われる民主主義や民衆の意見を疑い、誰もが信じる常識や社会通念に異議を唱えた。民主主義という綺麗な言葉の裏に隠された嘘を感じ取り、衆愚という表現に代表されるようなポピュリズムや世論のいかがわしさを嫌った
自ら携わった出版事業の全てにその姿勢を貫く。それを可能にしたのは、知識や教養の蓄積に加え、独特な感性があればこそだろう
共産党や日教組、創価学会を忌み嫌う一方で、天皇の戦争責任を訴えた。保守・右翼とも違い、天皇制に疑問を抱き、皇室を利用してきた児玉誉士夫や三浦義一といった戦中・戦後の右翼、暴力装置に食って掛かった。『週刊新潮』でも多くの誌面を割いた
齋藤にとっての出版事業は、人間をどうとらえるか、という壮大なテーマを追い求める作業であり、文学からジャーナリズムを学び、音楽や絵画によって感性を磨いた
《ブロードキャスター》の放送を見ながら「老醜だ、もう死ぬべき」と呟き、翌日脳梗塞で倒れ、4日後に死去
l 昭和の滝田樗陰
21世紀早々の葬儀では、瀬戸内が弔辞を読み、「昭和の滝田樗陰と呼ばれた名編集者」と称え謝意を表す。次いで山崎の弔辞も謝意に溢れる内容。それ以外の作家はみな他界
l 戦友と恩人を失った
山崎は『沈まぬ太陽』を出版した99年、共にJALと闘ってきた第3代編集長の山田が危篤だと聞いて病院に駆けつけるが、意識は戻らないまま死去。葬儀に齋藤の姿がないのを知って山﨑は戦友を見捨てるなんてと齋藤に食って掛かる。参列しなかった理由は不明
山崎は、齋藤への弔辞を、「戦友が先年卒然として斃れ、今また恩人に行かれてしまった。次は私が原稿用紙と万年筆を持ってそちらへ参るので、お別れの言葉は申し上げない」と締め括った
l 大誤報の後始末
松田は山田の後山崎の担当役員となり、齋藤の死後も山崎に『運命の人』「約束の海」と次々に書かせ、連載途中の13年、山崎は鬼籍に入る
09年、『週刊新潮』は「私は朝日新聞阪神支局を襲撃した!」と題した特集を掲載、4回の続報を組んだが、虚言壁のある男の証言で完全な誤報だったことが判明。2か月後に謝罪、訂正記事を掲載するが、記事で触れた関係者や読者に頭を下げただけで済ませたため、社内には不満が残り、取材先でも誤報を理由に拒否されたり、あげく編集部内の士気は下がり、今もなお後遺症から抜け出せていないようだ
l 脱齋藤に舵を切った新潮社
齋藤の死後、”脱齋藤”が進む
4代目社長の佐藤隆信は社長就任時に、齋藤を相談役から顧問に退かせたが、齋藤に対する謝恩の気持ちは変わらない
l 空洞化する言論界
齋藤は、小説からノンフィクション、評論に至るまで、その構想を示し作品を生み出すプロデューサーだった
齋藤が去った後、01年の『FOCUS』休刊、09年『週刊新潮』の誤報、18年の『新潮45』の廃刊と受難続き
新潮社では、齋藤がいなくなった時、下に誰もいなくなった。そのくらいの空洞化があったが、新潮社に限らず、出版界、新聞、テレビに至るまで、かつてのような記者や編集者がいなくなり、伝える中身がスカスカになっている感を免れない
Wikipedia
斎藤 十一(齋藤 十一、さいとう じゅういち、1914年(大正3年)2月11日 - 2000年(平成12年)12月28日)は、昭和期の編集者・出版人。
カリスマ性のある人物で、新潮社の「天皇」とも「怪物」とも呼ばれた。新潮社会長の佐藤亮一の参謀として権勢を振るい恐れられた。1960年(昭和35年)から『週刊新潮』に名物コラム「東京情報」を長期連載していた自称オランダ人記者ヤン・デンマンは、斎藤の変名と考えられている[注釈 1][2][注釈 2]。
l 生い立ち[編集]
東京ガスの社員の父が北海道ガスへ出向中、北海道忍路郡(おしょろぐん)塩谷村(しおやむら=現在の小樽市)に生まれ、父の転勤で3歳から東京市大森区に育つ。1927年(昭和2年)、旧制麻布中学校入学。在学中の成績は中位で、軽度の吃音に悩む、おとなしく目立たない生徒だった。1931年(昭和6年)、麻布中学校卒業。海軍兵学校を受験したが体格検査ではねられる。のちに徴兵検査でも肺浸潤が発見されたため、兵役を免れている。。次いで旧制第一高等学校と旧制松本高等学校の受験に失敗したため、早稲田第一高等学院理科から早稲田大学理工学部理工科に進むも、一高受験失敗の衝撃から休学して家出し、南総の寺で1年間修行。のち、ひとのみち教団(現在のPL教団)信者の父によって家に連れ戻され、十一自身も同教団に入信。
同じ信仰を持つ、新潮社の創業者、佐藤義亮の四男佐藤哲夫と親しくなったのが縁となり、義亮の孫、佐藤亮一(のち新潮社会長)の家庭教師となる。
1935年(昭和10年)9月、早大理工学部を中退して新潮社に入社。1936年(昭和11年)、ひとのみち教団の女性信者と結婚。翌1937年(昭和12年)9月、ひとのみち教団教祖の御木徳一が少女への強姦猥褻事件で逮捕され、教団は解散に追い込まれた[注釈 3]。この時の裏切られた思いが、斎藤の冷笑的な人間観を形成したとする説もある。
l 編集者時代[編集]
入社当初は書籍の発送など雑用を任されていたが、1942年から1943年頃から単行本の編集を担当。1944年(昭和19年)から1年半ほど新潮社に在職した伊藤整は、当時の斎藤について「戦時中までは、カミソリのやうな、とはかういふ人のことだらう、と思ふやうな人物であつた」「齋藤氏は『天皇』といふ別名もあるほどで、仕事の上では強い性格の人として知られてゐる」「私の印象では目から鼻に抜ける、といふ日本語は齋藤十一のために作られたやうな言葉であつた」「入社して最初に私に向つて彼は『伊藤さん、僕を書いちや駄目ですよ』と念を押したのであつた。その時の一睨みで私は齋藤十一氏を描くことをあきらめたのである」などと回想している。
1945年(昭和20年)11月、終戦に伴って復刊した文芸誌『新潮』の編集者となる。1946年(昭和21年)2月、同社取締役に就任。同年から『新潮』の編集長になる(1967年まで)。同人誌を読んで無名の新人作家を発掘し続けた反面、坂口安吾や佐藤春夫といった大作家の原稿も気に入らなければ没にする、連載を打ち切ることで知られ、共にクラシック音楽を愛好し親交の深かった小林秀雄からは「斎藤さんは天才だ。自分の思ったことをとことん通してしまう」と賛嘆された。尻込みする太宰治に野平健一を差し向け、「如是我聞」を書かせたのも斎藤だった。また同年『新潮』の顧問であった河盛好蔵の助言で、坂口安吾の『堕落論』を同誌に掲載し、大きな反響を呼んだ。また戦後流行した左翼的な風潮に反発し、戦争責任を問われ文壇から遠ざかっていた保田與重郎や河上徹太郎らに作品発表の場を提供した。
1950年(昭和25年)1月、『藝術新潮』創刊。1956年(昭和31年)2月、『週刊新潮』を創刊。編集長の佐藤亮一(後に野平健一になる)の頭越しに全てのタイトルを決定し、実質的に同誌を支配し、『週刊新潮』の天皇と言われた。創刊にあたってのコンセプトを、のちに「うちの基本姿勢は俗物主義」「どのように聖人ぶっていても、一枚めくれば金、女。それが人間」「だから、そういう人間を扱った週刊誌を作ろう、ただそれだけ」 と語っている。
これまで純文学しか書かなかった立原正秋に、初めて大衆小説を書かせて成功し、五味康祐や柴田錬三郎、山口瞳、山崎豊子、瀬戸内晴美といった大衆作家を育てた。また4度にわたり芥川賞候補となるも落選を繰り返して文壇的不遇を余儀なくされていた吉村昭に出世作『戦艦武蔵』を書かせたのも斎藤だった。また山口瞳の名物コラム『男性自身』の題名を命名したのも斎藤によるものだが、山口は当初この題名を嫌がっていたという。
一方、新人作家からは苛烈なしごきで恐れられた。新田次郎は1959年(昭和34年)3月、気象庁勤務時代に『週刊新潮』からスリラー小説の読切連載を依頼された折、3作書いて編集部に送ったところ、3つとも没にされた。改めて2作書いたところ、1作だけが合格。連載2回目は3篇中1篇のみが通るという具合で、その全てが斎藤の意向だった。また筒井康隆も若手時代に苦汁を飲まされた一人であるという。吉行淳之介は宮城まり子との不倫を『週刊新潮』に書き立てられ、しかもその書き方が宮城との仲を性犯罪と併置したものだったために激怒し、円形脱毛症となり、しばらく新潮社と縁を切っていたことがある。なお、吉行も麻布学園の卒業生であった為、斎藤は母校の知り合いを使い情報を収集したとも言われる。遠藤周作は斎藤から無理難題を押しつけられて苦しんだ体験談を新人編集者時代の校條剛(のち『小説新潮』編集長)にたびたび語り、校條から生意気な発言をされると「そんなら、斎藤さんを投げ飛ばしてみろ」とたしなめた。「あの斎藤さんには、誰も敵わない」ということは作家の間での共通認識だった、と校條は述べている。純文学作家時代の川上宗薫は、1961年(昭和36年)、斎藤らにけしかけられて『新潮』6月号にモデル小説『作家の喧嘩』を発表したところ、この作品が原因で友人の水上勉から訴えられそうになり、さらには文芸誌から干されて大衆作家への転身を余儀なくされた。これに対して斎藤は、何ら川上を擁護しなかったのみか、水上への謝罪文を川上に書かせようとする態度に出、結局「水上勉への詫び状」と題した川上の文章が『新潮』の翌月号に掲載された。また松本清張の小説を高く評価していたが、松本が新潮社の仕事を受けるようになったのは、すでに作家としての地位を確立してからだった。車谷長吉は、1980年代初頭、都落ち時代に「あんな奴は神戸で覚醒剤の売人でもやってりゃいいんだ、それがお似合いだよ」と齋藤から嘲笑されたことを記している。
1958年(昭和33年)『国民タイムス』により女性スキャンダルを報じられる。1965年(昭和40年)9月、週刊新潮編集部で五味康祐を担当していた大田美和と再婚。
1981年(昭和56年)6月、新潮社専務取締役に就任。同年10月、自らの企画で写真週刊誌『FOCUS』を創刊し、やはり記事の全タイトルを自ら決定した。なお『FOCUS』を創刊する際のエピソードに、部下に「君たち、人殺しの顔を見たくはないのか」と発言したとされる[注釈 4]。
l 晩年[編集]
1985年(昭和60年)5月、廃刊寸前の健康雑誌『新潮45+』を全面的に刷新して『新潮45』を創刊。1989年(平成元年)6月、新潮社取締役相談役に就任。1992年(平成4年)3月、新潮社相談役に就任。 1997年(平成9年)1月、新潮社顧問に就任。心不全で死去する直前まで『週刊新潮』の全てを取り仕切り、雑誌作りに熱意を燃やし続け、自ら構想する新雑誌の目次を作成していた。
斎藤には、少年期以来の吃音と赤面症から、人前に出るのを極端に嫌う一面があった。元『週刊新潮』編集部で斎藤の部下だった亀井淳は「彼は極度の人見知りをする男である。こんなことをいったら相手に笑われるのではないか、という恐怖心を、実は常に深く抱いている」と述べている。このため斎藤は長らくテレビやラジオのインタビュー取材を拒否し、新聞や雑誌のインタビューを稀に受ける程度だった。1980年代以降は北鎌倉に在住し、週に約2・3日出社する程度だったことから、社内でも顔を知っている者は限られた。
2000年(平成12年)12月23日、同年休刊した『FOCUS』の20年史をテーマに、ブロードキャスター(TBS)でのインタビューに応じた。斎藤自身はテレビ放映された自らの姿を「老醜だ。生きているべきではない」と言ったという。翌朝ソファに座ったまま意識を失い、同年12月28日、死去。86歳没。墓所は鎌倉の建長寺で、遺言によって墓石は自宅の漬物石を用いている。
注釈[編集]
1.
デンマンの名は、占領軍のパイロットだった米国人将校の名前が由来で、斎藤の趣味だったクラシックレコードを海外から安く仕入れてくれる友人だった。
2.
ただしヤン・デンマン名で執筆していたのは斎藤一人でなく、のちの『FOCUS』編集長の田島一昌も担当していたと言われる。また、平岡正明によるとヤン・デンマンは2人組で「刑事部屋のヤニくささと岡っ引き的な品性のいやなやつらだった」だったという。その後『週刊新潮』では、2013年1月からやはりヤン・デンマン名義でコラム「東京情報」が再開され、2018年4月まで続いた。
3.
ひとのみち教団は戦後PL教団として再興。またこの事件を冤罪と見る説もある
4.
斎藤自身はTBS番組『ブロードキャスター』のインタビューの中で「知らないねえ。そんなことは」「それは言ったかもしれないね」と言を左右にしている。
◆新潮社の「象徴」鮮やかに
[評]小松成美(作家)
駆け出しの頃、齋藤十一の姿を目にしたことがある。新潮社の社屋ですれ違った時、一緒にいた編集者が身を固くして息をのみ深く頭を下げたのを見て、私は「この人が新潮社の天皇だ」とすぐに分かり、続けて会釈をした。
相談役だった齋藤との一瞬の交錯に興奮を押し殺すことはできなかった。山崎豊子、新田次郎、吉村昭等、私が青春時代に読みふけった人気小説を世に送り出した天才編集者にして『週刊新潮』の生みの親。とりわけ齋藤が1981年に創刊した『FOCUS』は毎号手に取っていた。出版界の巨人の静かな表情は、今も瞳の奥に強く残っている。
本書は、残像だった齋藤の姿をまるで3Dプリンターで成形するように鮮やかに浮かび上がらせる剛毅な評伝である。集められたのは伝説の編集人の出生から大往生の記録と、隆盛を極める日々の縦横無尽かつ独断専行ともいうべき逸聞。「俗物主義」を信条とした齋藤らしく、話題は吉田茂からビートたけし、華原朋美にまで及ぶ。その振り幅が、すなわち齋藤十一なのだ、と著者は書き進めていく。
政権の闇やその当事者を描く「怖面(こわもて)」ジャーナリストである著者だが、本書では主題に対するあたたかなまなざしを忘れない。担当編集者の助言と週刊新潮に一時期籍を置いていた縁に背中を押されてスタートした取材で、人間・齋藤に没入していった著者にとっても希有で新鮮な経験だったに違いない。
雑誌というメディアがこの国の文化を作り得た時代。『芸術新潮』がなければ、岡本太郎の芸術はその工房の中だけの爆発に終わったかもしれない。齋藤は、文学・芸術への含蓄と独自のセンスと直感を駆使し、新潮社にしか(つまり齋藤にしか)できない文学や言論を新潮社創業家の後ろ盾で完遂する。
「誰が書くかは問題じゃない。何を書くかだよ」と言って作家や編集者を鼓舞していたという齋藤。凋落を危ぶまれる出版界の人々はこの本を読み、何を思うのか。活字離れ×齋藤十一が、この一冊のメインテーマでもある。
(幻冬舎・1980円)
1961年生まれ。ノンフィクション作家。著書『悪だくみ』など。
新潮社
概要[編集]
1896年7月[2][3]に創業された新聲社[注 1]が前身。田山花袋などの自然主義者の書籍を出版していた。1914年には新潮文庫を創刊した。他にも単行本、全集などを多数発行している。
文芸雑誌は1904年創刊の文芸誌『新潮』[4]の他に、第二次世界大戦後の1947年に創刊された中間小説誌『小説新潮』[5]などを発行している。週刊誌は1956年創刊の『週刊新潮』が初めての出版社系週刊誌として成功を収める[6]。
1981年には日本初の写真週刊誌『FOCUS(フォーカス)』を創刊。『フォーカス』は法廷を隠し撮りした未成年(14歳)の容疑者の写真を掲載したりするなど、過激な編集方針で一時期には発行部数200万部強までになったが、1990年代後半に売れ行きが悪化し2001年に休刊。スポーツ年鑑『ウィナーズ』や、タレント・グラビアアイドルの写真ムック『月刊~』(不定期)の発行、『nicola』、『週刊コミックバンチ』の創刊(2010年8月休刊)、女性誌での『旅』の再創刊(2012年3月休刊)に踏み切り、従来の路線からは大きく転換された。また新潮文庫もサブカルチャー面での刊行を多くした。
社長職は創業者佐藤義亮から、代々世襲によって引き継がれている同族企業である。第2代佐藤義夫(長男)、第3代佐藤俊夫(次男)、第4代 佐藤亮一(義夫の息子)を経て、現社長の佐藤隆信(亮一の息子、お茶の水中でポコちゃんと一緒)が第5代目である。
東京都新宿区矢来町に、広大な不動産を持っていることでも知られている。
特装本[編集]
新潮社では、単行本の発行部数が累計で10万部を突破すると、記念に革装本が4部だけ作られる。4部の内、2部は著者に贈られ、残る2部は新潮社用として、1部は資料室の閉架に、もう1部はガラス戸付き本棚に鍵がかかった状態で保管されている。この10万部突破記念の特装本は新書も含まれる。なお、単行本には山羊の革が、新書には羊の革が使用される。
1956年、三島由紀夫の『金閣寺』が10万部を突破した際に担当編集者が何か記念になるものを作ろうとスタートした企画から始まった。2009年11月までに作られた特装本は547点に上り、三島由紀夫、司馬遼太郎、松本清張、遠藤周作、大江健三郎などのほか、さくらももこ『さくらえび』や『鈴井貴之編集長 大泉洋』なども革装本になっている。村上春樹の『1Q84』は初版から10万部を超えたが、38刷で特装本化された伊坂幸太郎の『重力ピエロ』のように版を重ねての特装本化の例もある。[7]
訴訟[編集]
2015年10月5日、橋下徹大阪市長の出自に関する2011年11月3日号に掲載された『週刊新潮』の記事で精神的苦痛を受けたとして、発行元の新潮社に慰謝料など1100万円の損害賠償を求めた訴訟の判決で、大阪地裁は名誉棄損があったと認め275万円の支払いを命じた。[8]週刊新潮編集部は控訴、上告したが、2017年6月最高裁判所で地裁判決が確定した。[9]
上の1件に限らず、週刊新潮は、訴えられることの大変多い雑誌である。
刊行物[編集]
選書[編集]
新潮選書 - 江藤淳『漱石とその時代』、藤原正彦『天才の栄光と挫折』など、多数のロングセラーがある。
叢書[編集]
新潮クレスト・ブックス - 日本国外の文学の翻訳。『朗読者』がベストセラーとなる。
新潮モダン・クラシックス
とんぼの本 -
美術・文化を中心としたビジュアル本のシリーズ
プリシラブックス
新書[編集]
ラッコブックス
- 実用・雑学分野を扱う。新潮新書創刊時を境に発行は止まっている。
新潮新書 - 養老孟司『バカの壁』、藤原正彦『国家の品格』がベストセラーとなる。
文庫[編集]
新潮文庫 -
哲学古典からサブ・カルチャーやタレント本まで、文庫レーベルで最も多彩で刊行数も多いが、初版のみで品切れとなるタイトルも多い。
新潮文庫nex
- 新潮文庫創刊100周年の節目に、2014年8月28日刊行開始[10]。
新潮pico文庫 - 1996年、短期間発行していた手のひらサイズの小冊子。なお、同様のコンセプトのレーベルとして角川mini文庫がある。
新潮OH!文庫 - 実用・雑学分野を扱う。2003年以降新刊は発行されていないが、一部重版は続けられている。また、新潮文庫から刊行しなおすものもある。
雑誌[編集]
週刊[編集]
月刊[編集]
nicola(ニコラ) - ローティーン向け女性ファッション誌(1997年 -
)
ENGINE(エンジン) - 自動車雑誌(2000年 -
)
隔月刊[編集]
ニコ☆プチ - 小学生向け女性ファッション誌(2006年 -
)
ニコ☆プチKiDS - 小学1・2・3年生向け女性ファッション誌(2014年 -
)
ウェブメディア[編集]
Foresight(フォーサイト) - 国際情報誌(2010年 - )
yomyom
pocket - 文芸誌(2013年1月 - 2015年)
くらげバンチ
- コミック誌(2013年10月 - )
デイリー新潮
- 総合ニュースサイト(2015年12月 - )[11]
Bバンチ - コミック誌(2017年7月 - ) - コミックバンチweb内
かつて発行・発売していた雑誌[編集]
FOCUS(週刊、1981年10月 - 2001年8月) - 休刊中
03 Tokyo calling(月刊、1989年12月 - 1991年11月) - 休刊中
Mother
Nature's(1990年3月 - 1993年6月) - 全7冊、廃刊
SINRA(月刊、1994年1月 - 2000年7月) - 休刊中
アウフォト(1997年5月 - 2000年5月) - 全13冊、休刊中
Gramophone
Japan(月刊、1999年12月 - 2001年1月)
週刊コミックバンチ(2001年5月 - 2010年8月) - 編集はコアミックス
フォーサイト(月刊、1990年3月 - 2010年3月) - 2010年9月にウェブマガジンとして復活。
旅(月刊(途中から隔月刊)、2004年 - 2012年3月)JTBが発行していたものを譲り受けたもの。休刊中。
考える人 -
総合誌(2002年 - 2017年) - 休刊中
yom yom(ヨムヨム) - 文芸誌(2006年 - 2017年) - 休刊中
ROLA[注 2](ローラ) - 女性誌(2013年 - 2016年)
ゴーゴーバンチ - コミック誌(2013年 - 2018年)
新潮45 - 総合誌(1982年(「新潮45+」として創刊) - 2018年) - 休刊中
賞[編集]
以上の4賞は「新潮四賞」と呼ばれる。
小林秀雄賞と新潮ドキュメント賞の原型となった賞。かつてこの賞と日本芸術大賞、三島賞・山本賞で新潮四賞だった。なお、日本文学大賞の文学部門は純文学を対象とした三島賞と大衆文学を対象にした山本賞にそれぞれ分離し、新潮学芸賞は日本文学大賞の学芸部門から改名した。
新潮ミステリー大賞 - 日本推理サスペンス大賞、新潮ミステリー倶楽部賞、ホラーサスペンス大賞の後継
関連人物[編集]
「Category:新潮社の人物」を参照
関連会社[編集]
大泉書店 - 1946年に関連会社として設立された実用書専門の出版社。
ピコハウス - 1987年に新潮社の映像・音楽部門として設立された制作会社。
コアミックス - 2000年に設立された漫画雑誌編集・著作権事業を行う会社。
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