快男児  高橋銀次郎  2021.6.4.

 

2021.6.4. 快男児 日本エンタメの黎明期を支えた男

 

著者 高橋銀次郎 1947年東京生まれ。明治大政経卒。日本経済新聞社入社。11年退職後、小説家に転じ歴史小説を発表

 

発行日           2020.12.21. 第1刷発行               2021.3.10. 第2刷発行

発行所           日経BP

 

軽井沢図書館新刊本から

 

事実を基にしたフィクション

 

プロローグ 2人の男

新京極通の芝居小屋の盛況を見て2人の男が感無量

 

第1部         

第1章        廃藩置県

賤ケ岳七本槍の1人加藤家の孫が立藩した近江・水口(みなくち)藩の下級武士の新太郎は、16歳で子供のなかった大浦家の養子となり、東京から近江に来て義父亡き後家督を相続するが、廃藩置県により藩知事だった加藤家当主は東京へ異動

 

第2章        ランプ

仕事を探しに京に向かい、義母の甥・後藤秀治を訪ねるが、公家屋敷に加えて各藩の京屋敷も東京に移り、人口は激減して新しい仕事どころではなかった

2年後秀治から誘いがあり上京すると様変わり、文明開化で活気が戻っている。新聞記者になった秀治の案内ですき焼きを食べ、部屋の石油ランプの明るさに目を瞠ると同時に、石油を商いすることを思いつく

 

第3章        石油卸商

外国商社と直接交渉をするが、菜種油業社経由でないと取引しないという商社員に大風呂敷を広げて、前払いを条件に卸を認めさせる

1か月分の仕入れ代400円を、義父が遺してくれた200円に畑を売って残りを調達

灯油のランプは、予想を遥かに上回る速さで京都市内に普及、一般家庭にまで及び、新太郎の灯油は飛ぶように売れた。日本全体の灯油輸入量は明治510年で6倍に急拡大

関西一円に販売網を広げ、小売りから卸売へと転じる

 

第4章        渋沢栄一

3年目に入った頃、秀治の勤める「西京新報社」の講演会で渋沢栄一の「会社は道徳と経済が両立してこそ、社会に存在する意義がある」という話を聞き感銘を受ける

水口藩の同僚の妹が京都の親戚の飯屋で働いているのに偶然出会い、算盤が得意だったところから帳場を任せる。同時に無職だった同僚の兄も遅れてやってきて店を手伝う

 

第5章        お菊

義母がなくなり、嫁を取って商売を拡大していったが、維新後の景気悪化と物価値上がりから庶民の暮らしは逼迫、新太郎の商売上も円安となって収益が悪化していくが、渋沢の言葉を思い出し、卸価格を据え置いて頑張る

 

第6章        油取引所

油の取引量拡大につれ、取引所が誕生。菜種油の取引が拡大したものだが、石油の場合、取引はすべて「入船(いりふね)物」と呼ばれる先物取引で極めて投機的な商売

新太郎は、相場には手を出さず、直接相手の顔を見て取引していたが、同僚とお菊が仕入れ値を下げるために相場に手を出し大きな穴をあける

仕方なく辞めてもらうことにしたが、それ以上に新太郎の衝撃を受けたのは虎ノ門で初めて電灯が点火されたというニュースで、半年後に店を閉める決断をする。相場の損があり、手元には何も残らなかった

 

第2部         

第7章        布哇(ハワイ)

次の仕事を探しているとき、ハワイで日本人が雑貨を売って10倍の利益を得たとの新聞記事に閃き、外国行きを考える

1885年、明治初期重要な輸出品だった陶磁器を集め直接ハワイに持ち込もうとした

 

第8章        地上の楽園

ハワイに着くと、関税を払う金がなく荷物は差し押さえ、途方に暮れていると、新聞記事を書いた日本人記者・森正義に出会い、関税を立て替えてもらう

暫くすると瞬く間に売れ出し、4カ月で100個売り尽くし4倍の利益を稼ぐ

一旦日本に仕入れに帰るが、その際ハワイで日本人の軽業師の興行が成功したとの話を聞き込み、軽業一座を連れて行く

 

第9章        宝川伝吉一座

甲府を中心に活躍していたのが宝川伝吉一座。飛び込みで声をかけると即座に断られたが、日本にも西洋に負けないものがあると外国に誇りたいと言うと、意気投合して86年初に7人を連れて海外公演が決まる

 

第10章     JAPANESE ACROBATS

ハワイには日本からの官製移民増加で総領事館が出来たところ。総領事が応援し、オペラハウスを借りることができ、初日にはカラカウア大王夫妻がくるという

3日の興行で満員の観客を集めたが、ホノルルで興行に来られる余裕のある人はせいぜい2000人程度で、観客も頭打ちとなり、殆ど客が入らなくなる

陶磁器の販売もピークを過ぎたのか、初回ほどには捌けず

 

第11章     興行師スペリー

サンフランシスコ経由で帰国しようとしたら、ハワイの興行の成功の噂を聞き付けた日本人が訪ねてきてシスコでの興行を持ちかけてきたので、3カ所ほどで興行すると、こんどは日本の領事から地元の富豪の興行師を紹介され、州内を1か月にわたって興行して歩く

興行は成功したが、興行師の窓口となった支配人に持ち逃げされ、興行師に文句を言うと、契約書には持ち逃げの立証責任が新太郎側にあり、興行師は支払いを拒否、領事にも如何ともし難く、新太郎はアメリカのビジネスでは契約書が何より大事だと思い知らされる

 

第12章     海図なき航海

大幅な期間超過に一座は帰国を懇請。全米ツアーを諦めきれない新太郎は、一座の帰国を認める代わりに、日本に残っているメンバーを代わりに送ってくれないかと提案。デンバーでの追加公演を最後に帰国する段になって、日本から代わりが来ることが決まる

日本でもハワイでの公演成功が評判となっていて、新たにアメリカ内陸部への興行の旅が始まるが、すべて初めてのことで苦難の連続

最初の公演はカンザスシティーだったが、夏の猛暑期間中興行場はどこも閉鎖。仕方なく周辺の地域の地元サーカス団に個人で入れてもらってアルバイトをしてもらう内に、中西部の興行師たちからのオファーが入り、コロンバスに行く。ところがここでもまた興行師に持ち逃げされるが、ワシントンからのオファーでは半分前金で漸く興行収入を手にする

以後4カ月ほど各都市を回り、8611月ニューヨークに到着

 

第13章     契約書

ニューヨークの町に圧倒されると、バーナムという世界一の曲馬団の甥と名乗る2人からから公演のオファーが来るので名前に惹かれて乗ったら、経費は彼らが負担したが給料は一切払われず、さらには契約を盾にイギリス公演まで強制され、イギリスで領事館に駆け込んでようやく契約義務から逃れた

1年経って何とか芸人一座は帰国させたが、無一文のまま1人残され、何とかシスコの領事に泣きついて帰国を果たす

 

第14章     再挑戦

新太郎は未知の世界での自身の無知と未経験を反省し、再起に向けて動き出す。軽業の興行自体は人気があり、前回の経験から信頼できる興行師も当てがあった。さらに話を聞きつけて資金援助を申し出る人もあり、1888年バンクーバーに向け宝川一座の12人と共に出発するが、またしても極寒のタイミングで来て、会場の当てもない

地元の日系人の紹介で出会った興行師がたまたま信頼できる人で、その紹介で本土を回ることになる。バンクーバーの興行師の紹介のお陰で、信頼できる地元の興行師が請け負ってくれ、広告から楽団の手配まで、一座に欠けていたものを補ってくれたので、公演は大成功となり、相当の儲けも手にする

信頼できる興行師のネットワークに辿り着くことができ、漸く興行が軌道に乗る

 

第15章     曲馬

再挑戦が始まって2年、憧れのニューヨークに来て、観客を観察していると、「驚嘆」から単なる「称賛」に変わっているのに気づく。興行は「驚嘆」でもっていることに気付き、新たな曲芸を加えようとし、4年前にニューヨークで見たバーナムの曲馬団を思い出す

一旦日本に帰って、日本人の曲馬乗りを新聞広告を使って高給で探すと、忍者の里からきた5人が使えそうだとなって、アメリカに連れ戻る

 

第16章     大浦サーカス誕生!

アメリカの馬を使って訓練すると、たちまち興行の目玉となって大喝采を浴びる

アメリカ全土に評判が広がり、「サーカス」の名がつけて呼ばれるようになる

バンクーバーのお世話になった興行師からもお祝いのメッセージと共に、一度興行をやってほしいと書かれており、一座を向かわせる

日本の軽業一座からも参加したいとの申し出が来て、4団体50人を超える芸人を抱える大所帯となる。それを統括する事務所をマンハッタンのアッパーイーストに設ける

 

第17章     NY(ニューヨーク)

全米のみならず欧州での興行にも手を伸ばす

ワシントンで世話になった興行師が、情熱がなくなったので引退するという

渋沢の、「事業は満足した段階で衰退に入る」の言葉を思い出し、退け時を考える

次のビジネスとして、自らが感激して心を奪われたアメリカのミュージカルを日本に紹介することを考える

 

第18章     帰国

欧米での「大浦日本一座」の興行の店仕舞いを通告

帰国途上バンクーバーに立ち寄って世話になった興行師に礼を言う。エンターテインメントという言葉を初めて理解し、それが産業になっていることを知り、日本でエンタメ産業を創ることを勧められる

1892年央に帰国

 

第3部         

第19章     大谷竹次郎

京都に戻って雑貨の輸出を続ける傍ら金銭貸付を始めたが、新京極地区の見世物小屋への貸し付けの返済が滞りがちになっていた。担保流れでいくつか小屋を所有する羽目になったが、その経営に困っていると、ある小屋の金主(興行の出資者)の息子が興味を示す

息子は大谷竹次郎と名乗り、その小屋の仕打ち(興行師)だという。まだ21歳ながら、芝居は人に喜びを与え、生きる楽しみと勇気を与えるので芝居に一生涯賭ける積りだという

大谷の意気に感じて小屋を任せる

大谷家は、祇園館の売店経営を家業とし、長男の松次郎は寿司屋に養子に入り、二男の竹次郎が嗣ぐ

新太郎は、竹次郎と会って、久しぶりに新たな事業への活力が湧いてくるのを感じる

 

第20章     新京極とブロードウェイ

竹次郎の初公演の前日、警察から建物の老朽化を理由に公演中止命令が来る

代わりに売りに出ていた祇園館という大きな劇場を買って、新京極という小さな小屋に持っていくことを考え、移築に反対する声を振り切って強行、座の名前も「歌舞伎座」と変更

新太郎は竹次郎に、新京極を日本のブロードウェイにしようと持ち掛ける

当時新京極は「大衆的な盛り場」で、大劇場が多い四条界隈より一段格下、「道場芝居(宮地芝居)」と言われ、芝居の研修場所だったので、このままでは格は変わらない

 

第21章     嫌がらせ

新京極に竹次郎の大劇場が何軒か建ち始めた頃、新規物件の地主が急に売買契約を破棄すると言ってきたので、不審に思って調べると、地元のやくざが絡んできた様子だったが、勘違いに終わる

 

第22章     エンターテインメント

新太郎のアメリカでの経験談を聞きながら、竹次郎兄弟は興行界の改革を進め、興行主が力を蓄えて業界をリードするエンターテインメントの世界を目指す

 

第23章     市会議員

竹次郎兄弟は松竹(まつたけ)を創立、新京極に5館を経営、町の様相を一変させる

興行期間を決めた定期公演の習慣を根付かせ、劇場ごとに役者との関係を深めて専属制を確立、料金も入場料に統一し透明性を確保するなど改革を断行、芝居人気を盛り上げる

新太郎は府会議員、市会議員に

 

第24章     東京・歌舞伎座

新太郎は月1回兜町に行って株式の売買を行っていたが、東京に活動の拠点を移した竹次郎が夢の歌舞伎座を買収しようとしたが挫折したことを耳にする。既に新富座などを手にして東京進出を果たしていた関西人の竹次郎に対するやっかみだった

歌舞伎座の経営が苦しくなっていたときでもあり、新太郎が中に入って言い値で買い取り、竹次郎に興行を任せる

 

エピローグ 東洋亭

北山の「東洋亭」で秀治と一緒にビーフシチューを食べる

10年務めた府会議員と市会議員を辞職。府政や市政の浄化、効率化に貢献

 

 

あとがき

大浦新太郎は、1919年脳梗塞で死去、享年66

57歳で市会議員を辞した後、晩年は京都市内の中心部、新京極通の北の邸宅に住み家族と平穏な生活を送る。織田有楽斎(信長の弟)の居宅を買い取って移築。大正の御大典の際内大臣大山巌の宿舎にも充てられた

19歳違いの京の老舗旅館の娘すゑとの間に52女がいて、亡くなった年でも納税額が7,437(現在価値で1億弱)という資産家だが、質素な生活

近所の評判は、「上品で物静か。良い方」

若い頃は血気盛んな男も、晩年は質素で堅実な生活を送る。在米時代から日本に寄付を続け、帰国後も京都や故郷の甲賀、生まれ育った東京をはじめ多くの公共団体に寄付

墓は京都東山の大谷祖廟

明治には多くの日本人が未知への道を切り開いたが、大浦もその1人。下級武士の4男に生まれながら、維新後ランプの普及をいち早く読み、石油卸業を開業、さらに外国商社に頼らず単身外国に陶器を売りに行く。アメリカ各地を回り日本の軽業を世界に広め、帰国後は若干20代前半だった松竹創業者の大谷竹次郎に資金を与え、日本の近代芸能文化の黎明期を陰で支えた

成徳院釋超流という戒名は、明治という時代を疾風のように駆け抜けた男に相応しい

 

 

 

 

 

 

 

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