日本を開国させた男、松平忠固  関良基  2021.6.6.

 

2021.6.6. 日本を開国させた男、松平忠固 近代日本の礎を築いた老中

 

著者 関良基 1969年信州上田生まれ。京大農学部林学科卒。同大学院農学研究科博士課程単位取得。農学博士。早大アジア太平洋研究センター助手、()地球環境戦略研究機関客員研究員などを経て、現在、拓殖大教授

 

発行日           2020.7.15. 第1刷発行       2020.10.23. 第3刷発行

発行所           作品社

 

 

松平忠固(ただかた)

文化9年~安政6(181259)。上田城の第11代城主。日米和親条約、日米修好通商条約の調印時に、何れも老中を務め、反対を押し切り調印を断行。徳川斉昭、井伊直弼と対立し、終始一貫して開国と交易を主張し、幕府の開国を牽引。一方で、養蚕業を推進し、海外輸出の地盤を固め、日本経済の礎を築く

「交易は世界の通道なり。皇国の前途は、公益によりて隆盛を図るべきなり」

大老・井伊直弼は、天皇の勅許を得られないまま、日米修好通商条約を調印したと思い込んでいる人が多いが、歴史的事実ではない

井伊は天皇の勅許に拘り躊躇し、井伊の同意なく全責任を負って断行したのは老中・松平忠固である

松平忠固は、誰よりも海外情勢を認識し、開国を推進し、さらに養蚕業の輸出の基盤を造った。忠固の先見性・構想力が、維新後の日本近代化の礎を築いたのだ

本書は、近年明らかになった日本開国の歴史的真実、そして松平忠固の実像を、その日記などの第1次史料を駆使し、初めて描いたもの

 

 

推薦文 岩下哲典(東洋大文学部教授、歴史学者。専門は幕末維新史)

確実な資料・文献を用いた「日本開国史」への異議申し立て

開国期の老中や大老といえば、阿部正弘、堀田正睦、井伊直弼が有名で、松平忠固(忠優とも)は、ほとんど知られていない

本書では、忠固こそが、日本の「開国」の舵取りだったとし、これまで私たちがよく知っている「日本開国史」に異議申し立てを行う。徳川斉昭や一橋派、また薩長政権たる明治政府の外交政策にも厳しい目が向けられる

江戸城大奥や上田藩の官民挙げての生糸・蚕輸出の話は興味深い。特に明治初期、上田が蚕種の輸出で全国シェア4割だった事実にも驚かされた。庶民や女性にも目配りした、幕末維新史啓発の書である

忠固の未完日記や確実な資料・文献を用い、読みやすい工夫が随所に施されている

 

推薦文 佐々木実(ジャーナリスト。大宅壮一ノンフィクション賞、城山三郎賞など受賞)

世界との交易を見据え、鎖国の扉を押し開いた開国の父は、なぜ幕末史から消されたのか?

日米修好通商条約は、不平等条約ではなかった。ハリスとの交渉を主導したのは、井伊直弼ではなかった。ペリー来航後、徳川政権末期に老中として、ただ一人開国を唱え続けた松平忠固。政敵の徳川斉昭や井伊直弼との暗闘を闘い抜きながら、信州上田城主として、輸出品としての生糸の生産を奨励

だが、明治維新を神話化するためには、「幕府は無能」でなければならず、開国の父は闇に葬られる運命にあった――。「交易」を切り口に、著者は「不平等史観」を鮮やかに覆す。本書は、世界資本主義へデビューする日本の姿を克明に描いた開国のドラマである

 

 

はじめに 開国を断行したのは、井伊直弼ではない、松平忠固である――政敵たちと熾烈な戦いを繰り広げ、開国・交易を推進した老中

歴史的事実として、徳川政権内にあって、ペリー来航の当初から交易通商を声高に主張し続け、交易の準備を進め、政敵たちと熾烈な闘いを繰り広げ、最終的に日米修好通商条約の調印を断行したのは、井伊直弼ではなく松平忠固

松平忠固は、著者の前著『赤松小三郎ともう1つの明治維新』で日本初の普通選挙による議会政治を唱えた上田藩士・赤松小三郎の主君であり、上田城主で嘉永~安政の老中

歴史的功績に比して、正当な評価がほとんど与えられてこなかった

最初の老中就任時の名は忠優(ただます)。ペリーが来た時から閣内で尊王攘夷の旗頭だった徳川斉昭に対し交易通商論を唱え、熾烈な攻防を繰り広げ、斉昭から憎まれ、日米和親条約調印の翌年斉昭によって失脚に追い込まれる

ハリスとの日米修好通商条約の交渉では、不死鳥のように返り咲き、またも斉昭や井伊直弼と対立。勅許を必要とすると主張する井伊らの反対を押し切って調印を断行、調印の4日後に失脚

忠固の功績は、条約調印に加え、生糸を日本の代表的輸出産品に押し上げたこと。養蚕・生糸・絹織物産業を振興し、条約調印前から生糸輸出の準備に注力、失脚後も上田藩主として横浜開港(1859)後に生糸輸出の先鞭をつけたのは上田藩。それを見届けるように3か月後死去。その後も江戸の技術である生糸は近代の日本経済を支え続ける

にも拘らず忠固の功績が歴史から抹殺されてきた理由を解明するのが本書の課題

本書のもう1つの目的が、「不平等条約史観」の誤りを明らかにすること

従来は、外交能力の欠如した幕府が、列強に強要されるまま、関税自主権がなく、治外法権を認めるという不平等条約を結ばされたと説明され、維新政府が努力の末ようやく幕府の負の遺産である不平等条約の改正を成し遂げたとされてきた

明治維新という一部藩閥によるクーデターが、あたかも輝かしい事実であったかのように顕彰される「明治維新の正当性を国民に刷り込む」上で必要な「神話」

松平忠固は、交易通商を進めることで、日本の繁栄を勝ち取ることができると考え、長期的な視野の下で、周到な準備をしながら、主体性を持って開国策を立てた。日米和親条約も「不平等」なものではなく、関税自主権も明確に存在した

忠固の政敵は、忠固を憎み敵視、悪評たらたら。一橋派(徳川斉昭)からも南紀派(井伊直弼)からも忠固を批判、後世の福地源一郎も、「性格執拗にして時勢を洞察するの識見もなく、政治を変通するの材略にも乏しく、いわゆる偏意地一方の保守家」と断じた

両派が批判したという事実は、忠固が独立独歩の信念を貫いた証明でもあり、福地も客観的根拠を示しているわけではなく、受け売り的に伝えるのみ

松平忠固についての先行研究 ⇒ 小林雄吾『松平忠固公』(1915、『上田郷友会月報』に掲載)などいずれも上田の郷土史家による3冊があるのみ

歴史学の領域では、開国期を扱った文献に老中として登場するが、殆ど業績が検討されたことはないが、『大日本維新史料』の編集などに従事した原平三が唯一松平忠固と赤松小三郎の存在に注目。原は旧上田藩士の家の生まれ。文部省維新史料編纂課で公儀の蕃所調書を中心とした洋学史の研究を進める中、忠固と赤松研究の必要性を感じ、1936年『松平忠固と赤松小三郎』という論文を『上田郷友会月報』に掲載、実証的研究の必要性を説く。開戦と共に原は文部省が集めた維新史料を信州各地に疎開、現在東大史料編纂所に移管され、歴史研究に不可欠となっている。原は44年召集、45年ダバオで戦死。召集の背景には実証主義的な研究態度が文部省の上層部から疎まれた恐れがある。戦後歴史学のメインストリームになったのは、文部省編纂課で原の後輩だった遠山茂樹や井上清らが作り上げた講座派マルクス主義史学に基づく西南「雄藩」中心の明治維新研究だった

近年、徳川斉昭の政敵として立ちはだかった松平忠固の存在に注意が払われるようになり、忠固の失脚が徳川外交に深刻な負の影響を与えたと論じるものや、井伊直弼のライバルとして忠固の存在がクローズアップされる研究が出てきた

斉昭と井伊によって忠固が失脚させられた安政2年と5年の2度の政変劇が、政治史的に重要な出来事だったことが明らかにされつつある

 

第1章        日米和親条約の舞台裏――徳川斉昭と松平忠優の激闘

忠優(ただます)は、1812年播磨国姫路15万石の酒井雅楽頭忠実(ただみつ)の十男として江戸に生まれ、1829年信州上田藩53千石松平伊賀守忠学(たださと)の養子となり、忠優を名乗る。572度目の老中就任に際し忠固と改名

忠実は、兄に子が出来なかったため、家督を継いだが、その後子・忠学(ただのり)が出来たので実子をみな養子に出し、甥の忠学を養子として酒井家を継がせ、忠学は11代将軍・家斉の寵愛を受け、将軍の娘・喜代姫(晴光院)を正室とする

忠優の養父忠学は、旗本の兄・忠徳の娘・三千子を養女とし、忠優を婿養子に迎えたが、忠徳は上田松平家の分家の塩崎知行地5千石を継ぎ、12代将軍・家慶の時代に将軍側用取次の次席を務め、政権中枢の有力者。三千子は子を残さず夭折し、忠優の子は全て側室の子

1830年、忠優は家督相続、伊賀守就任後初のお国入り

上田城は、1585年真田昌幸が築城、息子・信之が松代に転封となり、代わって信州小諸の仙谷忠政が入封、1706年但馬の出石から徳川譜代の藤井松平忠周が入封、将軍・吉宗の1724年老中に列せられ、以後代々松平家が続く

忠優は、領内巡回で、冷涼な上田が稲作に不安があること、桑栽培の適地であると見抜き、養蚕奨励の訓示を出す。特産の上田紬をさらに改良、量・質ともに高めることを目指す

1832年、上田産物改会所を設置して、品質検査を行い上田織物のブランド力向上とともに、課税による犯罪性の好転を狙ったところに、339割損耗の大飢饉に見舞われ、4年間飢饉が繰り返し、領民救済に腐心。他領の住民から情深い殿様と羨ましがられたという

飢饉後、他領では米作優先だったが、忠優は養蚕奨励策を実施。蚕の品種改良も進められ、横浜開港時には上田藩が生糸輸出の先鞭をつける

1837年、忠優は寺社奉行に任命。以後国元に戻ることはなかった

寺社奉行の先任は、下総国佐倉城主の堀田正篤(後、正睦)。後に2人協力して開国を推進

忠優は、老中・水野忠邦の政策に批判的で、特に渡辺崋山や高島秋帆の投獄など「蛮社の獄」といわれた蘭学者弾圧を批判し続けたために43年お役御免となる

忠優のすぐ上の兄・三宅康直も養子で三河田原藩主を継ぐが、渡辺崋山の主君で、救済運動の一環で忠優にも相談していたのだろう

直後に水野も失脚したため、44年寺社奉行に再任

45年、大坂城代任命。37年の大塩平八郎の乱以降水野の苛政に苦しめられた大坂町民の人心一新が目的。難波に上田織物扱所を設置して、上田の絹織物の直販を開始

上田は、天保の大飢饉の後、42年は千曲川の大水害、47年は善光寺の大地震と災害続きで藩専売の織物は負債軽減に繋がり、一方で忠邦の奢侈禁止令で怨嗟の声が上がっていた大坂では絹織物の解禁を「御城代縞」と呼んで歓迎

1848年、老中就任。老中首座は阿部正弘

就任直後に忠優は、家中に通達を出し、老中になったことから家中の11人が行動の規律を保たねばならぬとして、生活規律の指導をしている

1853年、ペリー来航。忠優は平和を唱えたが、国元の藩士たちに対しては臨戦態勢を指示

家臣・八木剛助は、高島秋帆の門人。上田の洋式兵学の先駆者。佐久間象山塾に入門。ペリー来航と共に上田で大砲鋳造の許可を得て軍備増強に努める

家臣・櫻井純造は、旗本与力の馬丁に変装してペリー使節の様子を観察して、西洋流軍制必至を痛感。昌平黌に学び、佐久間象山塾に入門し洋砲を研究。維新後は宮内省の大書記官

家臣・赤松小三郎(旧姓芦田清次郎)は、洋式兵学者を志し砲術を学ぶ。55年勝海舟が長崎海軍伝習所の伝習生となる際従者として赤松を連れていく。赤松は英国式兵学の専門家となり、薩摩藩の軍事教官として野津道貫、東郷平八郎など多くの人材を育て、日本の近代陸海軍の兵制を確立するのに貢献

家臣・芦田柔太郎は赤松の兄、昌平黌に学び、ペリー来航の際は休暇を願い出て上田藩士らとともに浦賀に視察に赴く。佐倉藩の洋学者の下で研鑽を積み、江戸でも指折りの蘭学者となる

1853(嘉永6)、ペリーが去った後、老中・阿部は斉昭を海防参与に起用しようとしたが、忠優が反対、以後両者の生涯にわたって続く闘いが始まる ⇒ 斉昭の意見を聞きたければ、水戸の邸に行って聞けばいいだけで、登城し政務に参与となれば、老中の人事権にも介入し兼ねず、御三家が政治に関与しない慣例に加えて、斉昭の資質が老中の合議に基づく意思決定のプロセスにそぐわないとして反対

病床の将軍・家慶も斉昭が嫌いだったが薨去し、一方島津斉彬や松平慶永(隠居後春嶽)から斉昭の参与就任の建議が出され、押し切られる形で斉昭の海防参与就任が決定

斉昭が藩主時代、実兄の正室(11代将軍・家斉の娘)付きの上臈御年寄・唐橋を手籠めにし、唐橋に言い寄って拒まれた家斉の怒りを買って大奥から追放された後は水戸に囲い、江戸定府を破って水戸に滞在し続けたこともあり、将軍家からも大奥からも嫌われていた

44年には領内での軍事訓練が謀反の建議をかけられ、斉昭は家慶から強制隠居と謹慎処分にあうが、老中・阿部は密かに斉昭と通じ、謹慎解除に奔走、解除後は斉昭の息子・慶喜を一橋家に養子として送り込むことにも協力

斉昭の海防策は、「内戦外和論」で、表向きは決戦の構えを取りつつ、裏では避戦のための外交交渉も行うということで、たえず外敵の脅威を煽って、国内に臨戦態勢を敷き、大艦巨砲主義から軍艦の建造、大砲の鋳造を次々建議するが、交易は否定、西洋技術の普及を敵視するという矛盾を孕む。領民の困窮を尻目に建造した軍艦や大砲は不良品ばかり

異民族と外来文化への根強い偏見とともに、新しい知識や技術を少数エリートの私有物化し特権化して、広く大衆の利用を許すまいとする封建領主的驕慢と狭量は、そのまま外交問題における攘夷思想、家中のお家騒動的派閥闘争と結びついて藩を破局へと導いた

交易を巡って斉昭と忠優が対立するなか、翌年ペリーが再来航すると、斉昭は輸出のみ許可して輸入は認めないとし、受け容れられなければ交易は認めないと主張

月番老中になった忠優は、交渉の場を波の穏やかな横浜に変更、横浜応接所の警護を関門海峡の警護で慣れた小倉藩と、西洋砲術家佐久間象山のいる信州松代藩に命じる

続いて交渉担当となった林復斎と井戸角弘に対し、和平を最優先に、その場で事を進めるよう極秘指令を与える。都度老中に報告していたのでは斉昭に付け入るスキを与えるとの懸念から現場に判断を委ねた

密命を知った斉昭は、すぐに両名を召喚し、けっして交易を許すなと厳命

密命の露見により、場内での議論に発展。焦点は交易の是非であり、結論は、通説では人道的支援に限って提供するとなっているが、実際の評議は35年後の交易開始を承認

評議結果を知って攘夷論者だった越前藩主・松平慶永は、他の同調する藩主を誘って老中・阿部に反対の申し入れ

斉昭の常套手段となった引責辞任の意向を聞いた阿部は、結論を覆す。つまるところ、積極的な開国論者は忠優ただ1人だった

後世、歴史学者は阿部を、「包容力と柔軟性に富み、名宰相」と評価するが、大いに疑問

日米和親条約交渉は、最低限の物資補給のみで交易は認めないとする幕府案をペリーがすんなり受け入れ、アメリカの要求する78港の開港に対し、下田と函館のみ開港を認め調印に持ち込む ⇒ 日米和親条約=神奈川条約

直後に吉田松陰の密航が失敗、唆したとされた佐久間象山も捕縛、死罪を主張する意見に対し、忠優は国元蟄居で穏便に処理

54年、下田に停泊中のロシア軍艦ディアナ号が東海大地震による津波で大破、修理に向かう途中で沈没。地元の魚民たちによりロシア人乗組員は全員救助されたが、斉昭はロシア船を襲撃、皆殺しにせよと建言して阿部に諫められている

ロシアは伊豆の戸田村で新艦を建造、日本の造船技術が飛躍的に高まり、領土交渉でも樺太は両国の雑居とし、択捉までを日本領に組み入れるという大きな成果を勝ち取る

日米和親条約に基づき、アメリカは「下田3箇条」を要求、領事滞在、測量艦隊の派遣、外国人の下田上陸・滞在。3箇条とも認めないとする斉昭と忠優は対立を深める

ちなみに、忠優の4男・忠厚は旗本から、維新後ニュージャージーのラトガース大に留学、キリスト教に改宗し、松平家と縁を切ってアメリカ人と結婚、日本人最初の国際結婚となる。土木学者として国際的に成功、日本人の評価や対日感情を向上させるのにも貢献

55年、阿部は斉昭に同調して「下田3箇条」の拒否を決め、反対する老中2人を更迭

全会一致を慣例としていた徳川政権の合議による意思決定のプロセスはこれ以降終焉に向かう

上田藩内では、国家老・藤井右膳と、江戸家老・岡部九郎兵衛の間に対立が深刻化。国政に傾倒する忠優に対する不満が国元で広まり、逮捕・蟄居が相次ぎ、家老にまで及ぶ

忠優自身も、あまりに信念に盲従するばかりで周囲を顧みないところもあったようで、近臣たちにでさえ理解されない孤独な闘いを続けていたともいえる

 

第2章        日米修好通商条約の知られざる真相――井伊直弼と松平忠固の攻防

55年、阿部も斉昭の攘夷論を擁護しきれず、首座を降りて堀田正睦に譲る

堀田は、「蘭癖」と言われるほどの洋学好きで、翌56年のハリス総領事の駐在に対し強硬に反対する斉昭を押し切って承認。57年阿部病没の後、斉昭も辞職し、忠固が復帰し、次席で勝手掛(財政担当)となる。堀田や忠固を将軍・家定に推したのは斉昭嫌いの大奥

斉昭は実子・慶喜を13代将軍とするべく、「賢侯」と呼ばれていた松平慶永、島津斉彬、山内豊信(土佐)、伊達宗城(宇和島)らに働きかけ政権中枢を説得しようとするが、斉昭の政治介入を嫌って堀田と忠固は反対。慶永は、後に臣下・橋本左内の説得で開国派に転じるが、後年慶喜と不仲になり、斉昭の私心を知らずに欺かれたと慶喜を推したことを後悔

通説では、忠固が紀州藩の慶福を推す「南紀派」とされるが、これも誤解で、忠固は両者から中立。日米条約交渉の最中の将軍後継の政争に巻き込まれることを回避したと見るべきで、直弼を大老に推したのが忠固であるという根拠はないのに対し、直弼と忠固が不仲だったという堀田の言葉が遺されている

慶喜擁立の最大の障碍は大奥、中でも家定の母・本寿院の斉昭憎悪は激しく、慶喜もそれを知って将軍を受けないと断念している

日米条約交渉は、ハリスの宿泊所でもあった九段坂下の蕃書調所で行われ、日本側の代表は井上清直と岩瀬忠震で、今回はあくまで閣老会議との橋渡し役

交渉の詳細は不明だが、忠固が可能な限り自由な交易を目指し、キリスト教の伝播についてもリベラルな考えを持っていたことは窺えるところから、慶永らの一橋派が近代的な思考を持った「改革派」で、幕閣の中枢は「保守的」であったという定説は誤りで、真実は逆

関税率が決定されたのは最終交渉の場で、日本側の主体的選択により、一般の輸入品については20%、輸出品は5%とされ、税率も変更可能なように制度設計されていたところから、関税自主権がなかったという俗説は誤り

条約原案に激怒した斉昭の影響は、水戸郷士によるハリス暗殺未遂事件に発展。水戸のテロリズムの暴走が止まらなくなる

調印直前になって、勅許のために2カ月延期を言い出したのは堀田と岩瀬。忠固も含め、外交の知識もない禁裏の承認など不要というのが幕府の考えだったが、自らの墓穴を掘ったようなもので、これを機に堀田と忠固の間に亀裂が入る

堀田の上奏に対し、禁裏は「伊勢神宮の神慮をうかがうべし」となり、増長して公儀への干渉を強めていく。堀田の上京は、権力逆転の契機となり、日本の歴史を変えるターニング・ポイントとなった

勅許獲得に失敗した堀田は、慶永家臣・橋本左内と岩瀬の建議により慶永を大老とし慶喜を将軍後継にして再度勅許を得ようとしたが、家定が反対。代わりに井伊直弼が大老となるが、その際直弼を推したのが忠固だとする噂が一橋派によって広められたが、根拠はない

忠固は、条約締結を最優先とし、将軍後継には中立を堅持していたが、条約成立が見えてきた時点で、慶永の説得に応じて大奥への根回しを始めるが、同時に一橋派の天皇利用には危うさを感じ、飽くまで決定権は幕府側にあると釘を刺す

最終的には、直弼が大老となり、大奥の意向が通って、後継は紀州派の推す慶福となる

平素から慶永は慶喜を持ち上げ、暗に家定のことを凡庸と馬鹿にしきったところがあり、家定の反感を買っていたこともあり、慶永を大老にとの建議に対し、反射的に井伊直弼を大老に任命した。同時に慶喜を推してきた堀田も家定によって後に罷免される

58(安政5)、井伊直弼は大老就任と同時に勝手掛を兼務、忠固は軍艦操練など国防と洋学研究担当に、いわば降格人事

一橋派は、家定の人事を裏で操ったのも、井伊の後ろにいるのも忠固と思い込んで忠固に攻撃の的を搾る。一方の井伊も就任直後から忠固との路線の違いから衝突、家定に忠固の罷免を要請。最大の争点は条約締結に際しての勅許の有無

直弼の再三の忠固罷免要求に、一度は大奥の意向を理由に拒否していた家定も根負けして堀田と共に罷免に踏み切るが、それを知った忠固は、自分の月番のうちに条約を締結しようと躍起になる

アロー戦争(2次アヘン戦争)が集結し、勝ちに乗った英仏艦隊40隻が来航したら、とても日米条約どころではないことも見通したうえでのことで、ハリスからも早期条約締結が得策との説得がある。忠固は、勅許を待つと主張する井伊に対し、幕府の権威をもって条約を締結すべしと主張して押し切る

条約調印後、老中5名の連署で京都に報告の奉書が送られるがそこに井伊の署名はなく、その日のうちに堀田と忠固に登城差止の命令が来て、正式にお役御免、謹慎処分と続く

返す刀で井伊は一橋派の弾圧を開始

失脚後13カ月で忠固は死去するが、謹慎後も柳橋の江戸藩邸中屋敷で家臣に交易によって隆盛を図るべきであり、準備怠りなきよう叱咤激励している

59年の横浜開港と同時に上田藩による生糸の輸出商談が始まるが、直後に忠固が急逝、その直後上田の物産を独占的に扱っていた中居屋という貿易商人が営業停止処分を受け代金が未回収となる。一連の裏に何があったのかは不明

忠固の子・忠礼と忠厚はいずれも側室の異母兄弟、72年ラトガース大に留学後、跡を継いだ忠礼は外務省に奉職。忠厚は松平家と縁を切って、ユニオン・パシフィックの測量主任として大陸横断鉄道の建設に関わるが37歳で夭折。その息子欽二郎はメリーランド州エドモンストン市長で、第2次大戦中も在職、洪水の対策に手腕を発揮したという

 

第3章        不平等でなかった日米修好通商条約

近年、徳川官僚層の有能さを立証する研究が多くなされているが、日米修好通商条約の、関税自主権の喪失と治外法権という不平等条約説を覆すまでには至っていない

関税について、ハリスはアメリカの慣行に従って輸出税はゼロ、輸入税のみと主張したが、日本側は輸出入とも12.5%を主張、日本側はハリスの主張を一部受け入れ輸出税を5%まで引き下げる一方、輸入については一般材は20%、酒類は35%、日本在住の外国人の生活必需品は5%とすることになるが、この判断は忠固がしたものと思われる

日本側が輸出関税に固執したため、最恵国条項が削られ、日本はアメリカに最恵国待遇を約束するが、アメリカは約束しないという不平等が生じたが、それは日本側の同意の上でのことであり、立場が弱かったから押し付けられたというものではない

日本側が輸出関税に固執した背景には、輸出関税は相手国の輸入業者が外貨で払うものであり、日本の外貨収入に貢献したこと、また国内産品は国内需要に見合ったものだったところから、輸出に流れるのを抑制する効果を狙ったことがある

条約本文に税率が規定されていないのも、将来の税率変更を可能にするためで、本文には5年後日本の申し出によって見直される義務が規定されている

輸入関税率の20%という水準は、当時の欧米列強が互いに交易する際に課したのと同等

イギリスだけが0%、低税率を強要されたのが清(5)とインド(2.5)。日本も長州藩の下関戦争の結果対英輸入関税を5%に引き下げさせられた

領事裁判権についても、文言上は双務的で対称的な内容であり、アメリカ人に対して法を犯した日本人を日本の法で裁くというのは、アメリカに在住する日本人がアメリカで犯罪を犯した場合、日本の領事が日本の法に則って裁くというようにも読める。であれば双方の国が双方の国で対等に領事裁判権を持つことになる。米英仏蘭との条約ではその点が曖昧にされているが、直後にロシアと結んだ条約では、「ロシア国に於ての日本人も同様たるべし」と加筆されている

そもそも当時の日本には近代的な法律制度自体がなかったため、領事裁判権がない限り外国人は安心して生活できなかった

「不平等条約」とは、明治政府が創出した合言葉であり、国民主義を鼓吹して日本の国際的地位を急激に高めようとした当時の為政者の政策的な意図から出たもの

条約締結に際しての日本側の判断ミスは通貨問題。当時日本における金貨と銀貨の交換の重量比率は15程度だが、海外では115で、洋銀を持ち込めば3倍の交換差益が出るため、ハリスは日本貨幣の輸出禁止と、同じ銀貨の交換についても公儀が6%の両替手数料をとれる仕組みを提案してくれたのに、日本側は外国通貨の自由な使用を認め、日本の貨幣輸出も解禁したため、外国商人は競って日本の小判を漁ることに狂奔

1860(万延元年)、金貨改鋳によってようやく金貨の流出が止まるが、物価は高騰

イギリスは自由貿易による帝国主義的支配確立を狙って、通商条約締結に際しては関税自主権剥奪を主眼とし、実現できなければ武力の行使も辞さない構えだっただけに、イギリスに先行して日米間に関税自主権が確立されたことは、イギリスの帝国主義から日本を守るための知恵だった

日米に続いて蘭露英仏と相次いで条約締結に至るが、対英条約のみ関税率改定に双方の意向が尊重されることに変更されるとともに、綿製品と羊毛製品の関税を5%に引き下げられ、当時の日本の輸入に占める量製品の割合が93%だったために、関税収入が激減したばかりか、安価な英国の工業製綿製品の輸入により国内産業が壊滅的打撃を受ける

開港後の貿易収支は黒字で、日本に大きな外貨収入がもたらされたが、イギリスの執拗な輸入関税一律5%の要求に屈した67年以降は輸入が急増し、大幅な貿易収支の赤字と歳入不足に悩まされるようになる

 

第4章        日本の独立を守った市井の庶民たち

「不平等条約史観」によれば、幕府は条約を締結したものの、開港後の貿易の見通しについての定見はなく、開港による物価高騰による社会不安にも対処できない中、尊王攘夷のエネルギーの中から近代国家の思想が芽生え、開国論に転じる中で明治維新という近代的社会変革につながったと評価されてきた

丸山眞男ですら、幕府の開国論の根っこは保守的鎖国論だったと論じる一方、吉田松陰らの神国思想の持ち主たちを「積極的な開国論者」と評価

戦後に興隆した左派マルクス主義史学も、丸山同様、幕府の開国論を保守的なものとしつつ、攘夷派のエネルギーを近代的主権国家形成の契機とする戦前からの見方を踏襲

明治維新の評価については、左右両派とも共通しているが、そうした見方に異議を唱えるものが最近増加 ⇒ 日本の独立を維持した基盤は、広範な人々の貿易への積極的な参画にあったと見る。尊攘の志士たちは排外主義に凝り固まってテロを繰り返したのに対し、多くの庶民たちは開港を好機ととらえ、貿易への参入を試みる

忠固の命に従って上田の生糸輸出の準備をしたのは商人。上田の郷土史家によって発見された上田商人の伊藤林之助の『出府日記』によれば、産物世話役に任命され、輸出候補37品を決め貿易商の中居屋に送付。中居屋が最初に扱った輸出品は、紀州の茶、会津の絹糸、上田の白絹糸などで、長く輸出の主力を占めるようになるが、生糸の買い占めで国内流通に齟齬を来したことから中居屋に閉店命令が下り、さらに「五品江戸廻送令」により生糸、雑穀、水油、蝋、呉服については直接輸出が禁止され江戸の問屋経由が義務付けられた

上田藩内でも一時的に不正取引で逮捕者を出したが、問屋を変えて輸出は復活し、「廻送令」も有名無実化、藩内には生糸御殿が出現するほど生糸輸出は隆盛を極める

開港後の物価高騰が社会不安と攘夷熱を高めたとされてきたが、攘夷熱を高めたのは武士階級であり、庶民は冷静に対処し積極的に貿易をしようという意欲を見せる

生糸については、品質の高さが中国産を上回る人気を呼び、国際的に高く評価された日本の蚕業・絹産業の技術力こそ、貿易で国内経済が破壊されることなく独立を維持することができた原動力となる

1850年代から、フランスやイタリアでは蚕に菌類が寄生し、大打撃を受けていたこともあって、日本の生糸が歓迎される一方、フランスは製鉄技術輸出を見合いとして当初日本では禁輸とされた蚕の卵を輸入して国内養蚕業の復興を図る

当時諸外国から最も評価された蚕種は、奥州産の「青白」と信州産の「信州かなす」

「信州かなす」は上田領内塩尻村の藤本善右衛門縄葛(つなね)が開発した新品種で、平地がほとんどない上に千曲川が氾濫するという不遇な環境を克服して養蚕に精励した結果であり、蚕種生産のメッカとなる。養蚕の解説書も出回り、一部はフランス語の翻訳まで出た

 

第5章        日本の独立を脅かした尊攘志士たち

平等だった条約が不平等になった理由を明らかにする

江戸末期の外国人を対象としたテロ事件 ⇒ 初期は水戸藩で、順次薩摩・長州、その他の藩へと伝播していく。下関事件がクライマックス

水戸藩がテロを生んだ要因は、藤田幽谷・東湖父子の思想と、テロを鼓舞した斉昭の存在

後期水戸学派の主要な思想家であり「国体」の概念の発明者・会沢正志斎の『新論』は、尊攘志士に最も影響を与えた

国家統合のための民衆教化の手段として、神道の力に依存しようという会沢の発想の根源には、西洋社会の誤った分析とともに、民衆への根強い不信感があり、近代化どころか古代国家への回帰志向であり、近代化を歪める結果にしかならなかった

会沢に続く思想家の藤田東湖になると、本居宣長の国学思想を積極的に受容し、『古事記』の記述を「決して疑うべからず」の真理と見做し、水戸学の新たな思想段階に踏み出し、より不合理な方向へと向かう水戸学の発展が、明治期の「国家神道」に繋がっていく

会沢の『新論』執筆の動機となったのは、1824年の大津浜事件。イギリスの捕鯨船がビタミン不足から壊血病が蔓延、新鮮な食料と薪水の補給を求めて水戸領内の大津浜に侵入、公儀の役人は人道的見地から支援したが、会沢は打ち払いを主張、公的権力による制度的な打ち払いを論じたが、藤田幽谷に至っては東湖に皆殺しを命じる。藩主になった斉昭は、会沢から水戸学を学び、東湖を登用し神国思想に基づく排外主義で水戸の藩論を染め上げていく。ロシア軍艦ディアナ号事件でも、斉昭は皆殺しを建議

「億兆心を一にして」という『新論」の説く忠孝の道は、明治になって『教育勅語』にそのまま採用され、学校教育の現場で子供たちに刷り込まれ、水戸学の論理が明治になっても連綿と引き継がれ、大日本帝国の侵略主義の思想的背景となる

水戸学の思想を薩摩にもたらしたのは、若くして薩摩から江戸に出て東湖に学んだ有村俊斎(後に海江田信義)で、西郷を東湖に紹介したのも有村。西郷は東湖に心酔

水戸藩士とともに井伊直弼の首を挙げたのは有村の末弟。有村も生麦事件の主犯で、薩英戦争の原因を作り、列強による内政干渉を恒常的に招く一因となる

水戸学を長州に拡散したのは吉田松陰。佐久間象山門下の時は水戸学は実戦の役に立たないと批判的だったが、密航に失敗した獄中で象山から離れ、水戸学に影響され「国家神道」の原理主義者となり、尊王攘夷という独自の思想を確立。遺志を継いだ門下生によってテロが拡大し、松陰の説く「七生説」は「七生報国」のスローガンとなって神風特攻隊を正当化する論理となる

明治時代、政治・文化的側面で濃厚な影響力を与え続けた水戸学・国学は、近代日本の形を歪め、その足枷となり、国家の進路を決定的に誤らせていく

1860年、水戸学思想に感化された薩摩藩士・伊牟田尚平らがアメリカ公使ハリスの通訳ヒュースケンを暗殺

61年、第1次東禅寺事件。英国公使館に水戸浪士が切込み館員が負傷・帰国

62年、第2次東禅寺事件。東禅寺の警備役だった松本藩士が英兵を殺害

同年、生麦事件。次いで松陰以下の長州藩士による英国公使館焼き討ち

62年、生麦事件の直前、島津久光が武力を背景に勅使を立てて、一橋慶喜の将軍後見職と、松平慶永の政治総裁職を要求し、政権を転覆。開国派の政権となるが、禁裏は攘夷過激派に席巻され、江戸に勅使を派遣して攘夷実行を迫ったため、慶喜・慶永とも奉勅攘夷の方針に同意。慶永は総裁職を放り出して帰藩。将軍・家茂と慶喜は63510日を攘夷実行の日と決める

当日攘夷を実行したのが長州藩で、下関での無差別砲撃を実行、アメリカ商船が犠牲となり、続いてフランス、オランダをも砲撃、死傷者を出す。イギリスも生麦事件の報復として薩摩を攻撃

イギリスは、朝廷の横浜鎖港の意思固いと見るや、米仏蘭を誘って下関砲撃への報復戦争を計画、64年夏わずか3日で下関砲台を占領、幕府に対し賠償金と関税引き下げ、兵庫・大坂の開港を要求

1年後、4か国の軍事的圧力はさらに高まり、慶喜は孝明天皇を説得して勅許を出させる

イギリスの輸入関税削減要求に最後まで抵抗したのは小栗上野介忠順で、輸出税撤廃を提案するが、66年結着したのはイギリスの要求通り輸出入とも従量税方式で一律5

日本のイニシアティブによる関税率改訂条項も削られ、貿易収支は赤字基調となって、政府の財源上も、産業振興の観点からも大打撃となる

貿易赤字が解消されるのは1911年の関税自主権回復により輸入関税引き上げ以降となる

小栗の家臣・田辺太一も、「攘夷党の凶暴をほしいままにしたために国を害したことと、幕府に最初から開国を国是と定める勇気がなかったことを嘆かざるを得ない」と述懐、維新後も外務省に出仕、元老院議員などを歴任するが、薩長政権が、不平等条約を幕府の責任として歴史を改竄するのを見て、徳川外交の名誉のために1898年『幕末外交談』を著す

砲艦外交を主導したイギリスの軍事責任者の覚書にも、「ミカドや大名の大半は敵対的だが、貿易従事者は大名階級より下の封建家臣でもない人々でヨーロッパ人との平和的関係につては概ね好意的。戦争になった場合は政府か大名が報いを受けるが、貿易従事者は保護される。木造が多いので砲撃は極力回避」と書いている

関税率削減は日本の近代化にも足枷をはめる。慢性的な貿易赤字と財源不足に苦しみ、代替財源を農民への重税に求めたため、地租改正後は農地を手放す農民が多く、寄生地主制の発達を促す。従来は寄生地主制を封建遺制と見做すが、江戸時代は基本的に自作農社会で、封建制を打倒した薩長政権が生み出した新しい怪物である

関税率削減は、工業化の進展も遅らせる。特に重工業の発展は関税自主権なしには不可能

 

終章 近代日本の扉を開いた政治家、松平忠固

松平忠固の推し進めた開国路線は、家臣たちには積極的に西洋技術を学ばせ、百姓の技術力や商人の交渉力を信じ、外国との条約を信頼し、交易によって国を豊かにしようという自主的・能動的かつ合理主義的な考えに基づいていた

従来の安政年間の政治史は、「一橋派正統史観」で叙述され、斉昭中心の一橋派を日本の近代化を推進する「改革派」と評価し、井伊直弼も忠固も一緒にして「佐幕・守旧派」と規定する単純二元論だった

忠固の貿易や商品流通に対するリベラルな姿勢、洋学容認への積極性、国禁を犯した松陰らの救済努力、キリスト教布教への寛容な態度など、将軍の権威に盲従する保守主義者でないことは明らか

経済面では、忠固の振興した生糸が最大の輸出品であり続け、日本の近代化を牽引

政治・文化面では、水戸学の影響を受けた薩長政権が、敗戦により開国論には転じたが、根本は排外主義にあり、天皇を中心とした神の国だという国体思想は、専制権力維持の便利な道具として利用され、亡国に至る

排外主義思想の蔓延に抗して、理性の力で闘った人々に光を当てるためにも、忠固の記憶を呼び起こす必要がある

忠固のおかしたミスは、条約締結に際し、通貨の交換比率を「同種同量交換」としたため「金貨の海外流出」を認めたこと、将軍後継問題で慶永の説得に負け一橋派を擁護したために水戸派、一橋派の専横を許したこと

忠固が政治的に敗北した以下の3点は、何れも日本の歴史を暗転させる契機となった。①斉昭の参与参画、②日米和親条約での交易合意が覆されたこと、③日米修好通商条約で禁裏の勅許を得ようと堀田が上洛したこと

大奥が斉昭一派の暴走を抑え、男性グループの好戦主義に対抗した側面、政治力にも注目

歴史学者が「不平等条約史観」や「一橋派史観」で染められてきたのも、学者の世界が男ばかりであることによって生じてきたジェンダー・バイアスに拠るのかもしれない

 

あとがき

2017年、上田の旧松平藩士の子孫を中心とした有志で構成された「明倫会」が主催する「松平忠固を語る講演会&トークセッション」が本書誕生のきっかけ

本野敦彦のホームページ「松平忠固史」は、忠固の業績を発信し続ける

忠固の玄孫の娘・浦辺千鶴は、戯曲の翻訳で2015年第8回小田嶋雄志・翻訳戯曲賞受賞

 

 

Wikipedia

松平 忠固(まつだいら ただかた)は、幕末譜代大名老中信濃国上田藩6代藩主。伊賀守系藤井松平家8代当主。嘉永7年(1854)の日米和親条約と、安政5年(1857)の日米修好通商条約という2度の条約の調印時にいずれも老中を務めた。徳川斉昭と対立しながら、終始一貫して開国を主張し、幕府の開国論を牽引した支柱的存在であった。

最初の老中就任時は松平 忠優(まつだいら ただます)という名前で、2度目の老中就任時に松平忠固と改名しているが、同一人物である。

生涯[編集]

最初の老中就任[編集]

文化9年(1812711日、播磨国姫路藩主・酒井雅楽頭忠実の次男として江戸で誕生。文政12年(18299月、同じ譜代大名で老中歴任者の多い上田藩(藤井松平家5代藩主・松平忠学の養子となり、文政13年(1830420日に忠学が隠居したのを受けて家督を継ぐ。藩政では天保の飢饉の悲惨さから上田の冷涼な気候での米作依存の危うさを痛感し、桑栽培による生糸産業に力を注いで後年の発展の基礎を築いた。寺社奉行在任の際に水野忠邦を批判してお役御免となるが水野の失脚に伴い再任、大坂城代を経て嘉永元年(1848)、老中に抜擢される。

嘉永6年(18536月、浦賀へ来航して国書を交付してきたアメリカ東インド艦隊提督マシュー・ペリーからの開国要求に際し、老中首座・阿部正弘は諸大名朝廷からも意見を求め、また前水戸藩主・徳川斉昭を海防参与に任じたものの、忠優はこれらに最も反対した。外交問題も含め朝廷から諸事一任されている幕府がわざわざ朝廷諸大名に意見を求めるのは、幕府の当事者能力の喪失を内外に印象付けるだけで愚策であるというのである。

事実、幕末の政局は朝廷公卿や外様大藩からの幕政への容喙によって混乱を招いており、忠優の危惧も頷けるところである。更に、譜代大名重鎮の一つである酒井雅楽頭家の出身者らしく、元々御三家といえども幕政に参与する資格など無く、ましてや狷介な性格の斉昭ではいたずらに幕政に波風(暴風)を立てるだけだとして警戒し、斉昭の海防参与就任にも反対した。

また、攘夷論を唱える徳川斉昭の主張は一見威勢はいいが、当時の幕府がアメリカと一戦交えても勝利できるはずはなく、下手をすると国土の一部を割譲されるだけである、それならばいっそ国書を受け取り、早めに開国すべきであるというのが、幕府内で主流派であり、自身も属していた穏便・開国派の考えであった。そこで、さらに積極的な交易論を唱える忠優は、交易通信の承認に傾けるほど幕閣の大勢を主導していた。

しかし海防水戸学の思想に固まる斉昭と、積極開国派の忠優では見解の一致などあろうはずがなく、両者の対立は激しさを増す。

交易を絶対に認めない斉昭から、強い抗議の意味合いで海防参与の辞職を出願されたため、老中首座の阿部正弘は事態の収拾を図ろうと斉昭に譲歩し、通商通信を許さないという決定を下してしまう[2]。さらに安政2年(1855630、忠優と彼に歩調を合わせる松平乗全の両名の老中免職まで要求する斉昭に対し、やむなく屈した正弘によって、84日に乗全と共に忠優は老中職を解かれて、帝鑑間詰に戻された。

2度目の就任[編集]

両者罷免後に、かえって幕府内での孤立を深めた正弘は、安政2年(1855年)10月には開国派の巨頭・堀田正睦を老中に招聘した。しかも正睦へは、形式的に首座の地位まで譲ることで斉昭のような外部からの抗議の矛先を躱しつつ実権を確保し、幕政に専念できる体制造りに取り組んだ。ただ、その甲斐も無く安政4年(18576月に在任のまま正弘が死去。後事を託された堀田正睦は日米間の条約交渉を共に推進する同志として、開国派の忠優を復帰させる決断をした。忠固と改名した忠優は、勝手掛も兼ねる次席格の老中として再び敏腕を揮う機会を得た。

再任後の忠固は日米修好通商条約締結につき、勅許不要論を唱え、一刻も早い締結を主張し、要勅許を唱える外野の斉昭や松平慶永と対立した。また、慶永や尾張藩主・徳川慶勝将軍継嗣問題一橋慶喜を推して雄藩連合でこの難局に対処すべしと主張したのに対して、忠固は紀州藩主・徳川慶福を将軍とし、従前どおり譜代大名中心で幕政を進めるべしと考えていた。

日米修好条約の勅許を得るために上洛中の正睦を、忠固は見限って近江国彦根藩主・井伊直弼大老にする工作を行った。一説によると、一橋派に寝返った正睦を直弼に逐わせ、直弼を傀儡にして自らが老中首座として佐幕路線を突っ走る目論見があったといわれる。しかし、直弼は大老として既に13将軍徳川家定から全幅の信任を受けており、忠固などいつでも逐える体制を整えていたのは彼によって予想外のことであった。

なお、忠固は南紀派であったという解釈が一般的であるが、実際にはどちらにも与せず中立であったという説もある。南紀派の井伊直弼も一橋派の松平慶永もそれぞれ将軍継嗣問題に絡んで忠固に黄金を贈ろうとしているが、忠固は受け取らなかった[3]。後世に忠固が評価されていないのは、その中立的スタンスが災いして、一橋派からも南紀派からも悪く言われたためではないかとも思われる。

日米交渉における忠固のスタンスは一貫している。当時、破竹の勢いでアジア諸国を植民地化しつつあったイギリスの艦隊が日本に襲来する前に、相対的に穏当な交渉相手であるアメリカのタウンゼント・ハリスとの間で、少しでも日本に有利な内容の最恵国条約を結んでしまおうというものであり、そのためには朝廷の勅許など待ってはいられなかった。朝廷の勅許にこだわっていたのは正睦と直弼であり、強い意志で条約の調印を決断したのは忠固であった。

直弼が松平慶永に語ったところによれば、調印当日の619日の閣議の席上、直弼は「天意(孝明天皇の意志)をこそ専らに御評定あり度候へ」と、勅許を優先させることを訴えたが、忠固が「長袖(公卿)の望ミニ適ふやうにと議するとも果てしなき事なれハ、此表限りに取り計らハすしては、覇府の権もなく、時機を失ひ、天下の事を誤る」と即時条約調印を主張、結局そのまま調印に至った。条約調印の最終段階において直弼は無力だったのであり、忠固こそが閣議をリードしていた様子が伺える。直弼は完全に孤立したため、翌日、慶永のもとを訪れ「貴兄初の援助を依頼するの他なし。伊賀(忠固)抔は小身者の分際として此頃は権威を誇り、傍若無人の有様、此度の事抔も我意に任せて京都を押付んと致す條、言語道断なり」と怒りをぶつけ、忠固と正睦を失脚させる事への協力を依頼した[4]。忠固を失脚させるため、南紀派の直弼が一橋派と一時的に手を組んだのである。

条約の調印から4日後の623日、忠固は正睦と共に老中を免職、蟄居を命じられた。安政の大獄の始まりである。勅許を得ず条約を締結し、かつ朝廷に対して条約締結を事後報告で済ませたのは不遜の極みとして責任を取らされたともいわれ、あるいは閣内で直弼と権力を争うに至り、機先を制した直弼が異分子を排除したともいわれる。

なお日米修好通商条約の調印に先立ち、安政4年(1857年)忠固は産物会所を国元と江戸に設置し、上田藩の特産品であった生糸を江戸へ出荷する体制を作り上げ、生糸輸出を準備させていた。横浜開港と同時に生糸の輸出を始めたのも上田藩であった。その後、明治から昭和初期まで生糸が日本最大の輸出品として日本経済を支え続けたことを考えると、開国を見据えた忠固の先見性は確かなものであったことが分かる。

安政6年(1859年)914日に急死、享年48。表向きには病死と報告されているが暗殺説もあり、跡継ぎが決まっていなかったため、家名断絶を恐れた藩により暗殺は極秘にされたという説である[5]。急遽跡を三男の忠礼が継いだ。墓所は天徳寺(東京都港区虎ノ門3丁目)、後に改葬され多磨霊園(東京都府中市多磨町)。

遺訓は「交易は世界の通道なり。皇国の前途は交易によりて隆盛を図るべきなり。世論囂々たるも開くべきの通道必ず開けん。汝らはその方法を講ずべし」であった[6]。息子の忠礼忠厚はこの遺訓に従い、廃藩置県後に米国に留学した。忠厚は米国の土木工学者として画期的な測量法を開発し、全米で有名になった。

また、忠固の家臣には、慶応3年(1867年)に普通選挙による議会政治の導入や人民平等の原則を建白した赤松小三郎がいる。

人物・逸話[編集]

日米和親条約の調印後、吉田松陰による密航事件が起こり、松陰とその師の佐久間象山が投獄された際、開国派の忠優は2人に同情し、何とか救済しようと尽力。国元蟄居という軽い罪で穏便に処理した。2度目の老中就任に際し、忠固は佐久間象山を赦免しようと動いた。安政47月、萩の松陰のもとを上田藩士の櫻井純蔵と恒川才八郎が訪れ、象山を赦免しようとしている忠固の意向を松陰に伝えている。松陰はその事実を知り、忠固を深く敬慕する共に、櫻井と恒川を通して象山の赦免を忠固に重ねて働きかけている。安政41029日の桂小五郎宛ての書簡の中で、「而して僕獨り上田侯に眷々たる(思い慕うさま)ものは、櫻井・恒川二子の言猶耳に在るを以てなり」と記し、忠固を敬慕する心情を吐露している[7]

年表[編集]

日付は旧暦

1812年(文化9年)711日、生誕

1829年(文政12年)1216日、従五位下・左衛門佐に叙任。

1830年(文政13年)420日、家督相続し、藩主となる。伊賀守に遷任。

1834年(天保5年)728日、奏者番就任。

1838年(天保9年)414日、寺社奉行兼任。

1843年(天保14年)222日、寺社奉行・奏者番御役御免。

1844年(弘化元年)1218日、寺社奉行・奏者番再任。

1845年(弘化2年)315日、大阪城代に就任。従四位下に昇叙。

1848年(嘉永元年)101日、老中に異動。

1848年(嘉永元年)1215日、侍従に任官。伊賀守兼任留任。

1855年(安政2)84日、老中御役御免。

1857年(安政4年)912日、諱を忠固に改める。

1857年(安政4年)913日、老中再任。勝手入用掛。席次は老中次座。

1858年(安政5年)623日、老中御役御免。

1859年(安政6年)910日、致仕。

1859年(安政6年)914日、卒去。

(参考資料日本史籍協会編・続日本史籍協会叢書『増補幕末明治重職補任 附諸藩一覧』東京大学出版会 児玉幸多監修・新田完三編『内閣文庫蔵・諸侯年表』東京堂出版 「大日本近世史料 柳営補任」 東京大学出版会

系譜[編集]

子女は『平成新修旧華族家系大成』から[1]

父:酒井忠実1779 - 1848年)

母:隆姫西尾忠移

養父:松平忠学1788 - 1851年)

養母:光柏院松平忠済

正室:三仙子[1] - 松平忠学養女、松平忠徳

側室:井上氏

三男:松平忠礼1850 - 1895年)

側室:前田氏、青木氏

生母不明の子女

女子:芳井上正直正室

四男:松平忠厚1851 - 1888年)

女子:章子戸沢正実正室

五男:土井忠直 - 土井利教の養子

六男:松平忠隆

女子:広閑院堀直虎正室、のち離縁

養子

女子:最上義偆

長男、次男は夭逝し、三男の忠礼が嫡子となって家督を相続した。四男の忠厚明治維新後、兄・忠礼と共に米国に留学。忠厚は土木工学を専攻し、大陸横断鉄道を建設していたユニオン・パシフィック社の主任測量士などで活躍。測量に関する英文論文も多数発表した。アメリカにおける日本人初の公職者として、全米で有名になった。五男の忠直は三河国刈谷藩主・土井利教の養子となった。六男の忠隆は早世した。他家に嫁いだ娘は3人いる。

 

 

コトバンク

松平忠優(読み)まつだいら・ただます

朝日日本歴史人物事典「松平忠優」の解説

松平忠優

没年:安政6.9.14(1859.10.9)
生年
:文化8(1811)
幕末の老中。姫路藩主酒井忠実の次男,信州上田藩主松平忠学の養子。のち忠固と改名。天保1(1830)年家督相続。奏者番,大坂城代を経て嘉永1(1848)年老中。徳川譜代としての強い自負があり,「己が心として思い入たる事は,引返すかたなき本性」とは松平慶永の評。ペリー来航後,開国論を主張。また幕府専裁方式を重視して,徳川斉昭の幕政参与に抵抗。斉昭の反発を招き,安政2(1855)年罷免される。同49,斉昭が幕政参与を辞任すると,そのあとを追うように老中再任。井伊直弼の大老就任に尽力。同56,朝廷の同意を不要とし幕府の方針を日米修好通商条約の即時調印に導く。だが朝廷との協調を求めた直弼に疎まれ老中を罷免され,ほどなく没した。

(井上勲)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

 

 

https://www.matsudairatadakata.com/

本野敦彦のホームページ

サイトについて

松平忠固をご存知でしょうか。
幕末の開国時、日米和親条約と日米修好通商条約を締結した際の幕府閣僚・老中です。

詳しくはこちら

松平忠固の人物像

ペリー来航時に交易による積極的開国を唯一主張した閣僚・松平忠固とはいかなる人物なのか?

詳しくはこちら

日本初の生糸貿易

我が国が幕末に開国した直後、いかに生糸貿易が始まったかを振り返りたいと思います。

詳しくはこちら

シンポジウム等

平成29年に開催された講演会・トークセッション、平成30年の講演会のご報告です。

詳しくはこちら

映像化を目指して

『日本を開国させた男/日米和親・修好通商条約締結物語』脚本です。
目指せ、大河ドラマ(笑)

詳しくはこちら

 

 

 

 

 

コメント

このブログの人気の投稿

近代数寄者の茶会記  谷晃  2021.5.1.

新 東京いい店やれる店  ホイチョイ・プロダクションズ  2013.5.26.

自由学園物語  羽仁進  2021.5.21.