スターリンの娘  Rosemary Sullivan  2018.10.3.


2018.10.3. スターリンの娘 上・下 クレムリンの皇女スヴェトラーナの生涯
Stalin’s Daughter
The Extraordinary and Tumultuous Life of Svetlana Alliluyeba 2015

著者 Rosemary Sullivan 詩人、短編小説家、伝記作家、文芸評論家、書評家、コラムニスト。トロント大名誉教授。グッゲンハイム財団・カマルゴ財団・トルドー財団から奨励金を得ている。ローン・ピアス勲章受章。文学と文化への貢献を認められてカナダ王立協会から表彰され、カナダ四等勲爵子の称号を有す。最近はVilla Air-Bel及びLabyrinth of Desire(『欲望の迷路』)2著で高く評価

訳者 染谷徹 1940年生まれ。東外大ロシア語科卒。ロシア政治史専攻

発行日           2017.10.15. 印刷              11.5. 発行
発行所           白水社

まえがき
スターリンの娘として生まれるということは何を意味するのか。生涯を通じてスターリンという名の重荷を背負い、その重圧から一時も逃れられずに生きる人生とは?
神話的な存在と同時に、恐怖政治の元凶として数百万のソ連市民から憎まれてもいた
「私は父親の名前を刻印された政治的囚人の立場を免れない」というのが彼女の嘆き
ソ連国内での彼女の生活は想像を絶する苦痛の連続 ⇒ 6歳半で母親を自殺で失い、大粛清では親族も次々に呑み込まれた。父没後も兄ワシリーが逮捕されのちにアルコール中毒で62年死去。60年代半ばには友人の文学者が相次いで逮捕。相思相愛の相手インド人を見つけるが当局によって結婚は禁止され、彼の死後遺灰をインドに運ぶための出国を許される
6741歳で衝動的に亡命を決意、滞在先のインドでアメリカ大使館に逃げ込むが、アメリカは米ソ関係の安定破壊を理由に拒否、第3国を探す間スイスで待機、最終的に観光ビザで米国入国を認められる
亡命の際持ち出した63年執筆の回顧録『友人に宛てた20通の手紙』(邦題『スベトラーナ回想録 父スターリンの国を逃れて』)を出版して150万ドルの利益を得たが、金銭感覚がなく、多くを寄付に回し、残った全財産もフランク・ロイド・ライトの未亡人の策略で失う。未亡人はライトが設立したタリアセン財団の主任建築士ピータースとの結婚にスヴェトラーナを誘い込んで財産をむしり取る
ピータースとの間にオルガという娘ができ、心の支えとなったが、最初と2回目の結婚で出来た長男、長女を残したまま亡命したため、爾来15年間KGBの妨害により子供たちと連絡が取れなかった
亡命後の生活は44年に及ぶが、遊牧民のように移動を繰り返し、転居の数は30回を超え、その中には短期間ながらソ連邦に帰還すら含まれていた
「性格の不安定さ」を指摘する人が少なくない。父親似という評もあるが、驚くのは父親似ではないところにある ⇒ 全面的に暴力を否定、柔軟に耐え忍ぶ力を備える、生への執着を持ち、思いがけない楽観主義を発揮。東西両陣営のどちら側からも優しい扱いを受けなかった。苦しみながら西側世界の生活様式を学ぶ過程は彼女にとって驚異に満ちていたが、学習の結果はしばしば悲嘆をもたらした
スヴェトラーナにとってもスターリンが何者かを説明するのは困難。父親に対する気持ちには矛盾が含まれる。子供時代は情愛あふれる父親だったが、残忍な政策を推進した動機は何だったのか理解しようとしたが成功しなかった。「良心の呵責に苦しんだとは思えない。野心を実現したあとも、幸福だったことは一度もない」と言い、単に怪物として片づけるのではなく、歴史的に特異な政治体制が個人の私生活とその人生に何をもたらしたかを知ることが重要だと言っている。スヴェトラーナによれば、スターリンは単独犯では決してなく、数千人の共犯者がいる
何よりも驚嘆すべきは、彼女がともかくも生き抜いたという事実

プロローグ 亡命劇
67年スヴェトラーナがニューデリーのアメリカ大使館に駆け込んだとき、担当の二等書記官はすぐに国務省に電報を打って彼女のファイルを取り寄せようとしたが、FBIにもCIAにも彼女についてのファイルは何もないどころか、米国政府はスターリンに娘がいることすら知らなかった
前年末、インド人だった内縁の夫の遺灰を故郷の小さな村のガンジス川に流そうとしてソ連政府から許可をもらって出国、国家の「文化財」扱いするソ連政府のやり方に嫌気がさし、インド政府にビザの延長を申請したが拒否され、アメリカ大使館に逃げ込んだと説明、またパスポートにある「ソ連邦市民スヴェトラーナ・ヨシフォーヴネ・アリルーエワ」という名前については、57年に改正の権利を行使して父親の姓スターリナ(スターリンの女性形)から母親の姓アリルーエワに改姓したと話す。更に『友人に宛てた20通の手紙』の原稿を提示し、「自分の個人的な回想記で、66年モスクワ駐在のインド大使が密かに持ち出して、彼女がニューデリーに来たときに返却されたものだ」と説明
アメリカ大使館では、手稿のコピーをとった後、政治亡命に必要な申請書を記入・署名させたうえで、約束はできないと断ると、彼女は、「アメリカが受け入れなければ他のどこの国も受け入れなくなるので、全面的に報道機関に公表し、インドと米国の世論に訴えるしかない」と、政治的脅迫をしたが、これこそ彼女がそれまでの人生を通じて学び取った重要な処世術の1つだった
アメリカ大使は、直接彼女に会うことを避け、ワシントンの国務省宛てに対応を照会。ソ連は武器援助を通じてインド政府に絶大な影響力を持っており、彼女が滞在していたソ連大使館のゲストハウスから失踪したことがわかると、インド政府は司法権を行使して彼女を国外追放処分にする恐れがあり、ソ連が失踪に気付くまでに彼女を安全に国外脱出させなければならない
決定的に重要な鍵となったのは、スヴェトラーナがパスポートを所持していたこと。通常ソ連市民の外国旅行では現地到着と同時にパスポートを取り上げられ、帰国便に乗り込むまで返却されないのが常だった。スヴェトラーナは1か月の滞在許可を大幅に遅らせており、モスクワから駐インドソ連大使に度々督促が来て大使も激怒していたが、どうしても帰国しなければならないのなら自分のパスポートはどこにあるかと彼女が問いただしたのに対し、大使はパスポートを即刻渡して帰国を納得させていた
米国大使館は、彼女のパスポートに6か月有効な米国の観光ビザB-2を押して、深夜のローマ行きカンタス航空で出国、機体トラブルで1.5時間遅れとなったが無事機上に
米国務省本部ではソ連大使から最近国務次官補になったばかりのフォイ・コーラーが、すぐに叩き出せ、亡命を助けてはならないと指示、近時の米ソ間の雪解けのきっかけを作ったのは自分の個人的業績だと自負しており、ソ連がロシア革命の50周年を祝おうとしているこの年に亡命騒ぎに手を貸して、米ソ関係の改善に水を差すようなことを許すわけにはいかなかった
ところが本国の指示がインドに来た時には、既にスヴェトラーナは空港に向かっており、大使館は出発の遅延を確認しないまま、既にローマに向かう機上にいると返電
もし呼び戻されていたとしたら、その後の彼女の人生は全く変わったものとなったはず
いずれにせよ、彼女の人生は綱渡りのロープの上で踊るような暮らしの連続
後年彼女は、自分をジプシーに喩えている。スターリンの娘は最後まで父親の名前の影から逃れることが出来ず、安全な着地点を見つけようとして叶わず、流浪の旅を続けることになる

第1部        クレムリンの皇女
第1章        陽の当たる場所
スヴェトラーナには、折に触れて昔の写真を取り出して眺め入り、思いに耽る習慣があり、それは生涯続いた
母親が亡くなる1932年まで、彼女が過ごした人生の最初の6年半は幸福な時代
幼少期をクレムリンで過ごす
母親は、スターリンの2度目の妻で、191816歳でスターリンの秘書となって革命の防衛に参加
自分の幸福な子供時代に逆説的な矛盾が内蔵されていることを否定出来なかった ⇒ 子供時代の句福は隔絶された特権的な孤立によって外界から守られていた者の幸福であり、外界では恐るべき不幸、党内闘争は情け容赦のない殺し合いの様相を呈していた
子供の目から見れば、幼年時代の世界は陽の当たる場所だったが、天国に裂け目が潜んでいることは察知していたはず

第2章        母のない児
32年の革命15周年記念日の赤の広場に初めて立ったスヴェトラーナ
母の自殺はその翌日のこと、共産党幹部が夫妻で集まってパーティを開いた晩のこと、拳銃による自殺だったが、いろいろな憶測が飛んだ ⇒ 彼女が精神疾患を病んでいたことは事実だが、教条主義的で理想主義の彼女にとって当初こそスターリンのやり方は受け入れられたものの、次第についていけないほどの嫌悪感を覚え批判的になっていき、更には彼女の友人が次々に粛清の対象となったこともあって、抗議のための自殺という可能性が高い。当然自殺の噂は封印されたが、公安機関の関係者の間では公然の秘密だった
スターリンの偏執狂的な猜疑心は、彼女の自殺によって一層悪化し、幻想と現実の区別が曖昧になる。ヨシフの心を和らげる唯一の存在はスヴェトラーナ
成人後のスヴェトラーナは、母親の死を自殺とする説を信じる。自殺以外出口がなかったというのが理由だが、真相を知らされたのは死の10年後
自分の敵として去っていった妻の墓を、スターリンは一度も訪れることがなかった
母親は、フルシチョフと大学の同級生

第3章        女主人と従僕
母親の死後、スヴェトラーナの周囲は軍隊式に激変、彼女の心の乾きは深刻で、空虚感を抱えた少女が救いを求める相手は父親以外になかった。父親はスヴェトラーナをクレムリンで一番偉い「女主人」と呼び、全ての部下が彼女に使えるように指示
傍らで見ていたフルシチョフに言わせれば、スターリンは本質的に他人の感情に鈍感で、娘を愛したといっても、それは猫が鼠を弄ぶときの愛情に似ていた
ソ連邦の最高権力者の集団である共産党政治局員の面々に命令を下し、使いまわしていたが、その少女は恐るべき孤独に苦しみつつ父親の好み通りの生き方を学ばされていた
16歳までは、第25模範学校の優等生で、学校で教えられるままに理想に燃える若き共産主義者で、党のイデオロギーを無批判に鵜呑みにしていた ⇒ 後に当時を思い出して愕然とし「奴隷の心理」と呼んでいた

第4章        吹き荒れるテロル
348歳の時レニングラードの党書記長でよく遊んでくれたキーロフが、政府転覆を図るテロリストに暗殺される ⇒ 即座に司法手続きを簡素化して反革命分子を排除するための新政令が発表され、以後3年にわたって「大粛清」というテロルの嵐に発展。一部にはキーロフの人望と考え方を危険と見たスターリンが暗殺を命じ、大粛清のきっかけにしたという説もあるが根拠はない
37年から新しい家政婦が監視役として、またボディーガードもつき、級友とは別メニューの学校生活が始まり、周辺の母の思い出の品などもすべて撤去されてしまい、親友からも切り離される
更に、スターリンが兄弟のようにしていた前夫人の弟夫妻が親族から最初の逮捕者としてでる。その後3年半にわたって捜査が続き、最高裁大法廷が一旦は無罪の判決を下すがその後覆され即処刑、その後も裁判は続き56年になってようやく何の証拠もなく公訴棄却となり名誉が回復された
赤軍にいたスヴェトラーナの母親の兄も軍の周囲が粛清されたのを見て心臓発作を起こし死去
一族は競ってスターリンにすがったが、スターリンの態度はすげなかった
さすがに乳母を、革命前に皇帝政府警察の事務官と結婚していた履歴が「信頼できない人物」だという理由で排除されそうになったときは、スヴェトラーナがヒステリーを起こしスターリンも娘の涙に負けて計画を諦めさせた
親友の父親が逮捕された際、その妻の手紙を親友から託されたスヴェトラーナが皆の前で父親に渡すと、父親から叱責されたが、しばらくして釈放され、スヴェトラーナは「私の父の一言が一人の人間の生死を全面的に支配し得る」ことを理解
スターリンにとっては、一族から犠牲者が出たのは格好の隠れ蓑になった。法制度上の合法性を偽装することによって醜悪極まる人権侵害を合理化するやり方は、あらゆる独裁政治に共通する特徴の1

第5章        嘘と秘密の世界
周囲の親族が次々と消える間でも別荘での親族の集まりは続いていた
416月バルバロッサ作戦開始、赤軍はスターリンの粛清のせいで戦闘準備態勢が整っていなかったために、開戦の情報は手にしていたが初戦から敗走を重ねる
スターリンは3人の息子たちを前線に送り、長男のヤーコフはドイツ軍の捕虜となって、ソ連側に投降したドイツ軍将軍との交換を提案されるがスターリンは拒否、そのままヤーコフは死去(死因不詳)
16歳になった春スヴェトラーナは、スターリンに日ごろから指示されていた英語の勉強の一環で読んでいた英米の雑誌の中に、「母親(ナージャ)の死が自殺は公然の事実である」との記事を見つけ、祖母にその事実を確認すると、自分だけが知らされていなかったことに深く傷つき、母親の自殺がスターリンの残酷さにあったことを確信、自分の拠り所を父への愛情から母親の記憶へと切り替え始めるとともに、それまでの父親の行動も理解し始め、無実の人々を投獄し、死に追いやりさえした可能性を信じ始めていた
偉大なスターリンを疑うことは冒涜行為だったが、スヴェトラーナは既に疑い始めていた

第6章        恋愛事件
421月ドイツ軍の敗走が始まる ⇒ 一族はモスクワに帰還
チャーチルがモスクワを訪問した時には、スヴェトラーナも紹介された
スターリンの次男ワシリーは空軍で出世して、自宅でよくパーティーを開き、スヴェトラーナ」も出席したが、その中に有名なユダヤ人のシナリオ・ライターがいて、41年にはスターリン賞も受賞していたが、スヴェトラーナを見初めて密かにデートを重ねる
シナリオ・ライターは、パルチザンの取材でしばらく連絡が途絶え、スターリンの警護部隊から警告も受けていたが、間もなくデートを再開、1か月デートを重ねて最後にキスを交わしたところで、警護部隊に連行され収監され5年の強制労働に。5年後釈放されたが、すぐに再逮捕され重労働5年の刑に
一族の住んでいた別荘では、「道徳的腐敗」を理由に全員が何らかの処罰を受け別荘は閉鎖
スヴェトラーナは、幻想の泡が最終的に砕け散り、はっきりと物が見えるようになった。それ以後見て見ぬふりをすることは不可能になった

第7章        ユダヤ人との結婚
大学入学に際しスヴェトラーナは作家になりたくて文学部を志望したが、父の命令で史学部に変更させられアメリカ現代史を専攻
模範学校時代からの知り合いのユダヤ人からプロポーズされたときも、父親が激怒したが、スターリンの警護部隊長が、ユダヤ人のことを優秀な共産党員だと保証したため、娘の言い分を聞かざるを得なくなり、2人は結婚したが、戦時中で披露はなく父親も義理の息子に会おうとしなかった
新婚生活が始まり子供もできたが、次々にスヴェトラーナの口利きを利用しようと押し掛ける夫の親類縁者には辟易、父親に救いを求めて関係修復を図る
スヴェトラーナは子供を連れて家を出て、再び父と過ごす
幼馴染のベリヤの息子との結婚の話もあったが、相手の母親の反対で実現せず

第8章        反コスモポリタン闘争
大祖国戦争の終焉で、人々は戦時中の規制と抑圧から解放されるだろうと期待したが、実際には新たな抑圧が始まった
スヴェトラーナの母親の兄嫁(戦争勃発時のスターリンの打ちひしがれた様子をよく見ていたことが10年の罪に)が、次いでその娘が逮捕され、更に兄嫁の再婚相手も、母親の実姉までが逮捕(無断でスターリンを含む回顧録を書いたために10年の禁固刑) ⇒ ほぼ全てがベリヤの陰謀をスターリンが認めたもの
スターリンの関心は「反コスモポリタン闘争」と称するキャンペーンで、すべての分野からユダヤ人の影響力を排除するもの ⇒ 42年設立の「ユダヤ人反ファシズム委員会」のミホエルス委員長が標的で、戦時中ユダヤ人社会からの財政支援を引き出すためのプロパガンダの道具として設立されたが、戦後はユダヤ民族のアイデンティティを増進する「ブルジョア民族主義集団」に転化したと見做され、ミホエルスは自動車事故で死去とされるが、たまたまスターリンが指示する電話を耳にしたスヴェトラーナは、暗殺を知る
ある日突然父が母の自殺について語りかけてきた、まだ犯人探しをしているが、スヴェトラーナにとっては父親と話すことが苦痛になってきた、スターリンは権力を掌握し、掌握した権力を維持するために、自分の中のすべての人間的な要素を犠牲にしていた。父親に会った後では、数日間をかけて心の平衡を回復しなければならなかったと、後に回想
父への愛情はすでに失われていたが、結局全面的には否定することはできず、父親はその心のどこかで娘の自分を愛していたのだとスヴェトラーナは密かに信じていた

第9章        嵐の前の静けさ
スヴェトラーナはクレムリンに戻るが、息子は別荘で乳母と過ごす。ある日スターリンが孫を見に行くと知ってスヴェトラーナは恐怖にかられた。一度も別れた夫に会おうとしなかったスターリンが、ユダヤ人の目を持つ孫にも拒絶の態度をとるのではないかと心配したが、案に相違して優しく接し、容貌を誉めさえした
49年モスクワ大卒。大学の専攻は現代史だったが、すぐに進学した大学院ではロシア文学を専攻、スターリンも無関心だった
スターリンは突然、前年死亡した副首相ジダーノフの息子とスヴェトラーナの結婚を決める ⇒ ジダーノフは、「反コスモポリタン闘争」を指揮し、スターリン自身も高く評価していたが、息子は前年スターリンが支持する遺伝学を否定する似非農学者を批判したかどで厳罰を食らったばかり
息子はマザーコンプレックスで、スヴェトラーナも義母を嫌っていたが、長女を難産の末出産するも、夫婦仲は離反、スターリンも52年には離婚を認める
スヴェトラーナは、クレムリンを出て子供2人と一緒に暮らす
スターリンの73(実は74)の誕生パーティーが、父と娘の会う最後の機会となる。幹部級の男ばかりの中に1人若い娘が入り、酔った父に髪の毛を引っ張られて無理やり一人踊らされた
53年医師団陰謀事件で、有名な医学者9人が最高レベルの指導者たちに有害な治療を施していると告発され、次々と逮捕。次第に反ユダヤ人主義的な人種差別キャンペーンの性格が表面化。続いて作家同盟陰謀事件が勃発、出版界を牛耳るユダヤ人が標的となる

第10章     首領の死
前年から動脈硬化症で厳密な医学的治療を推奨されたにもかかわらず放置していたために、徐々に衰弱して最後はチェーン=ストークス症候群という間歇的、断続的な呼吸に陥って死去。周囲は恐れおののいて医者を呼ぶこともできず、呼ばれた医者も専門家は大半が拘束された後で、病名についても拘束中の医者に聞かないとわからないものだった
すぐにスヴェトラーナが呼ばれたが、断末魔の苦悶に満ちた数日間を見守るだけだった
スターリンの死は、全ての人々にとって「一種の解放」だった

第2部        ソ連の現実
第11章     亡霊の復活
スターリンの死とともに、強制労働収容所から囚人たちが釈放され、そのあまりの多さに誰もが改めて衝撃を受ける ⇒ 短期刑事犯を中心に数百万規模の人たちが恩赦の対象
スターリンの死後数か月以内にフルシチョフが指導部内で実権を握り、ベリヤを告訴し銃殺刑に処す
兄ワシリーは、父親の死の衝撃から回復できず ⇒ 国防省から地方司令官のポストを提供されたが拒否、自ら退役を選び、酒場で乱痴気騒ぎの末逮捕され流刑
スヴェトラーナは子供たちとともに政府から僅かな年金をもらって暮らす
54年博士号授与
外面的にはエリート層の周辺に位置し、物質的な特権を享受していたが、内面的にはエリート層に対して大きな違和感を抱き、自分と子供たちの安全を確保するために、政治との関係を断つという生き方を選択したものの、世間は依然として「クレムリンの皇女」と見做す
シナリオ・ライターと再会して恋に落ちるが、相手にと手は単なる浮気だった
母が住んで愛した街レニングラード訪問の許可が下り、母親一家が住んでいた場所を尋ね、懐かしさと同時に過去のすべてが失われてしまったという絶望も感じる

第12章     大元帥閣下の娘
56年共産党大会でフルシチョフが読み上げる「秘密報告」の原稿を見せられ、スターリンを徹底的に批判した内容に、それが正しいことを知っているだけに、身を切られるような苦痛を感じるとともに、自分が父親と同類と見做されて人々に憎まれることを恐れ、人目を避けるようになり、自分の殻に閉じ籠った
報告内容は、ニューヨークタイムズが入手して1面に概要が報道され、世界に衝撃
57年スヴェトラーナは母方の姓に変えた
50年代終わりごろ、ミコヤンの家でユダヤ人詩人サモイロフに出会い、その場ですぐにキスを始めるほど熱烈な恋に落ちる。スヴェトラーナは常に、好きになった相手と結婚しなければならないという強迫観念に襲われるために、今回もすぐに破局で終わる

第13章     雪どけ以後
フルシチョフの「雪どけ」は、当初から政治的な混乱を伴っていた
56年の「秘密報告」の直後、グルジアではグルジア人スターリンを批判したことへの抗議の学生デモが暴動に発展、軍が出動して鎮圧
同年ハンガリーでも、学生がソ連による支配に抗議して蜂起、ソ連軍が鎮圧
ロシア語の「雪どけ」には、「雪どけの泥濘によってもたらされる混乱」というニュアンスも含まれ、フルシチョフも前進と後退を繰り返し揺れ動いたが、共産党による抑圧体制は不変
58年ノーベル文学賞の知らせを受けたパステルナークは、党政治局が『ドクトル・ジバゴ』を反社会的小説として禁書に指定していることから、パステルナークに受賞辞退を強制
61年にはグロースマンの『人生と運命』の草稿がKGBによって押収・破棄される
その一方で、強制収容所の暗黒生活を描いたソルジェニーツィンの『イワン・デニーソヴィチの1日』は出版が許可され、当局の対応は予測できない
61年前半は、スヴェトラーナにとって無味乾燥で陰鬱な日々、世間体だけは慎重に取り繕っていたものの、彼女の心の中は悲哀と疑惑、怒りと欲求不満が渦巻き、心理的な傷を癒せないどころか、傷を直視することさえできなかった
ゴーリキー世界文学研究所に勤務しながら、同僚とも恋に落ち、同じような事件に発展
62年反党行為にも拘らずロシア正教の洗礼を受ける ⇒ 幼いころキリストの生涯を話して聞かせたのは他ならぬスターリンだった。神父は被洗礼者名簿に記載しなかったが、スヴェトラーナは神父が言った、「たとえスターリンの娘でも神は貴女を愛するだろう」ということばを決して忘れないと書いている
62年実兄のワシリー死去。痛飲した挙句の若死。享年41
62年末スターリンの最初の結婚の妻の甥イワン・スワニーゼと偶然再会、両親が「人民の敵」として処刑されたため、イワンも犯罪者の子供用の特別孤児院に入れられたが、戦後苦労をして博士号をとり、アフリカ研究所に勤務していたが、戦時中の虐待で完全に健康を回復するには至らなかったが、スヴェトラーナは彼を放っておけないとして密かに結婚するも長続きせず
アメリカで出来た黒人とのハーフが、アメリカでの生活に耐えかねてソ連に移住、夫が暗殺された後、スヴェトラーナが滅多にないことだったが特権的な地位や人脈を活用して彼女に寡婦手当が支給されるよう取り計らったのが縁で親しくなり、スヴェトラーナがアメリカに亡命した時にはソ連に残った2人の子供を助けた
この頃から回想録を書き始め、35日で一気に書き上げる ⇒ スターリンの死から始まる友人宛の手紙という形式をとり、娘の立場から父親の死を記録するという立場を貫き、次いで母親がまだ健在だったころの昔の幸福な暮らしを回想、次いで親族の辿った運命を語り、家族が二重生活を送っていたことを暴露、更に母親の自殺を取り上げ、次いで彼女自身の残酷な別離と失望と喪失の人生を語る。最後は乳母に捧げる内容で、自分たちの過ごした時代についての最終的な審判は後世に任せるが、苦痛と悔恨と困惑の感情に導かれて、新しい歴史を築いていくことだろうとして結んでいる
政治的な主張は含まれていないが、スターリン体制については、いわゆる「集団的善」という目標のためにイデオロギー的な画一主義を押し付け、個人を無意味なものとするシステムとして、それを批判し、拒否している。最後に、「ロシアを愛する者は決してロシアを離れることがない」と断言しておきながら、4年後にはアメリカに亡命

第14章     優しいインド人紳士
63年扁桃腺の摘出手術を受けるために入院した病院でインド人の紳士ブラジェシュ・シンに出会う。ガンジーの本を読んでいて、その感想を聞くために話しかける
シンは、インド独立のために理想主義に燃える共産主義者でソ連に来たが、すでに妄信を失い、今は気管支炎と肺気腫を患っていた
シンは、ガンジー家ともネール家とも親しい地方の王族という名家の出身で、まさに王子様がスヴェトラーナを救いに来たような状況
病院内での2人の交際に、ロシア人は眉を顰め、英語の会話も盗み聞きされていたが、シンはスヴェトラーナがスターリンの娘だと告白されても動ぜず
スヴェトラーナのアイディアで、シンはビザ期限後もヒンドゥー語の翻訳者としてモスクワで働くことを計画、労働ビザを申請していたが、モスクワ在住インド共産党によってシンが当局に密告されたため、ビザの発給に1年半もかかり、ようやくモスクワで一緒の生活が始まる ⇒ シンの国外退去の恐れを除くためにソ連の市民権を獲得するのは結婚が早道で、さらにシンの病状からはインドに戻った方がよかったが、スヴェトラーナをおいて帰ることを拒否、スヴェトラーナが国外に出るためにも結婚が必要
64年フルシチョフが失脚、あまりにも場当たり的な改革が命取りとなり、ブレジネフ体制へと移行し、スヴェトラーナをスターリンの娘として復活させようとする状況となったため、早くから2人の関係を批判的に見ていた当局は2人の結婚を認めず、また抑圧の時代に逆戻り、有名作家が何人も拘束
66年スヴェトラーナの原稿は、夫の友人で駐ソインド大使の手で国外に持ち出される
ソ連政府がシンへの圧力を強め、2人の出国を拒否、シンは間もなく息を引き取る
シンの甥でインドの外務次官がインディラ・ガンジー首相を巻き込んで事態に介入、伯父の葬儀を伝統に従ってガンジス川に散骨することをソ連政府に認めさせ、スヴェトラーナの出国についても外国人記者との接触をインド政府が防止するという条件付きで承認
出国の直前、息子が結婚
出国の日は雪嵐で最悪の状況、更に遺灰の入ったスーツケースを知らずに掴んだ息子の新妻をスヴェトラーナが咎めて家族との別れが気まずいものとなったまま機上の人となる

第15章     ガンジス川の岸辺
スヴェトラーナは空港に着くとすぐにパスポートやビザ、航空券を取り上げられ、シンの甥の家に招かれていたにもかかわらず、ソ連大使館構内のゲストハウスに軟禁状態となるが、大使館と交渉の結果、大使館での滞在と2週間後の帰国を受け入れた代わりに、自ら遺灰をシンの故郷に運んでガンジス川に流すことを認めさせる
初めて見る外国の世界に目を見張り、すぐ近くに米国大使館があることも確認
シンの故郷に行って葬儀が執り行われ、シンの弟の手で遺灰がガンジス川に散骨される
スヴェトラーナは、シンの弟の家に行って、シンが過ごした部屋に宿泊、滞在期間をビザの有効期間である1か月まで延長申請の手紙を駐印ソ連大使に書き、お目付の女性に大使館までもっていくよう指示
スヴェトラーナは、既にモスクワには戻らないことを決意、帰国していた駐ソインド大使から手稿を取り戻して出版し、シンの名前の病院を建てることを決意
翌月の国政選挙のためシンの故郷に遊説に来たインディラ・ガンジー首相に面会し、滞在期間延長を訴えたが、首相は幸運を祈るとだけ返事したため、スヴェトラーナはソ連市民が国外の親族を訪問する際、滞在ビザを2,3か月延長できるという規則を盾にコスイギン首相に手紙で延長を要請、インド大使館は2か月の延長を承認
国を捨てることは子供たちとも別れることであり、逡巡した結果、大使館に戻ることを決心し、取り戻した手稿を持ってニューデリーに帰ると、大使館は国際婦人デーの準備でごった返している
駐印ソ連大使との昼食会で、スヴェトラーナがパスポートと関係書類の返還を要求すると、大使はスヴェトラーナがようやく帰国を決意したことで油断したのかその場で返還するという規則違反を犯す。その夜、身の回りのものだけを持って、自らあらかじめ確かめておいた方法でタクシーを呼び、米国大使館へ駆け込む

第3部        アメリカへの亡命
第16章     イタリア風コミック・オペラ
インドと米国の時差10時間がスヴェトラーナに幸いする
駐印米国大使ボウルズがスヴェトラーナの亡命を安易に受け入れたことで、ワシントンの国務次官補は激怒、国務長官のディーン・ラスクが外交上の損害を最小限に食い止めるための善後策に着手
タイミングは最悪で、冷戦の膠着状態打破しようと相互に領事活動を確立するために領事の刑事免責や相手国を訪問した自国民の保護などを取り決めた「領事条約」の批准作業の真っ最中、米上院ではスパイ活動の機会拡大につながるとして反対が強く作業は難航していたうえ、ソ連邦閣僚会議議長のコスイギンの訪米が決まっていて、米ソ関係がデタントの方向に動きつつあったときであり、スヴェトラーナの問題で関係改善が阻害される恐れが十分にあったため、ローマに向かった彼女を問題の少ないスイスやスペイン、イタリアで身の安全を確保しつつ、アメリカへの亡命を阻止しようとした
ローマ到着を知ってイタリア側も激怒、すぐに国外追放を要求、いくつかの国と交渉の結果スイスが私的な旅行で政治的発言をしないことなどを条件に短期間の受け入れに同意したため、出国が決まり、空港へ行く車に並走したスイス領事の車中でビザを受け取り、嗅ぎ付けて群がるパパラッチを避けながら、何とか米国のチャーター便でスイスに脱出、スイスでは最終的に女子修道院に身を隠す
真っ先にニュースをキャッチした『ニューヨーク・タイムズ』は、CIA工作員がスターリンの娘の亡命を手引きしたとして大々的に報道、世界中の新聞にも転載
自由世界への境界線を越えたが、波乱の後半生の始まりであると同時に、父親の名前の影から逃れるどころか、より身近に感じられることになる

第17章     外交狂奏曲
インド政府は米国大使あてに抗議をしたが、ボウルズ大使は、米国はそれまで彼女の存在すら知らず、彼女が自らの意思で米国大使館に来て、パスポートを所持している以上出国は合法であり、出国が強要されたものでないことは明らかだと回答
ソ連政府は、当初沈黙していたものの、亡命のニュースが流れたため国民の騒ぎを鎮めるため簡単なコメントを出したが、水面下では復讐への動きが始まる
アメリカは、表立って動けないために、元ソ連大使のジョージ・ケナンを起用してスヴェトラーナに面談することになり、すでに彼女の手稿を入手してその出版にも対応
ケナンは、彼女を保護し、反ソ宣伝の材料として米国政府に利用されないよう守ることを決意、出版も含め、彼女が新しい環境に適応するのを助けようと腐心

第18章     弁護士の出番
まずは米国入国ビザの取得と手稿の出版を実現させるためにケナンの友人の弁護士が紹介される。経済的に自立すれば、国務省の世話にならずに入国ビザの取得が可能
弁護士は国務省と交渉して、何とか6か月の観光ビザの発給を認めさせ、更に手稿の出版で、ハーパー・アンド・ロウから25万ドル、『ニューヨーク・ダイムズ』に連載することで22.5万ドル、『ライフ』への連載で40万ドル、ブック・オブ・ザ・マンス・クラブとの間でも32.5万ドル、さらに米国以外での出版権・連載権も発生。いずれも極秘が条件
スイスで初めて『ドクトル・ジバゴ』を手にして感動の涙を流し、『パステルナークへの手紙』と題した公開書簡を書く。その本は電気ショックのような強烈な衝撃を伴って彼女を現実に引き戻し、独裁的な体制によって情け容赦なく子供たちから引き離された悲劇を改めて思い起こさせた
スヴェトラーナは、リヒテンシュタインに設立された会社に原稿の権利を委託する形をとって150万ドルを受け取る ⇒ チャーチルの回顧録以来の高額契約
シンの故郷に病院を建てる夢が実現したものの、共産主義を拒否して亡命した信念の人が、単なる大金持ちの亡命女に成り下がる最悪の運命だった
ソ連政府のみならず西欧のメディアも彼女の亡命を、国外での財産目当てと臆測
スイス政府は米国に対して彼女の引き取りに圧力を強める
米国政府も、純粋に私的な旅行者としての受け入れを認めるまでに軟化、弁護士事務所の招待で出版に関する協議の目的で入国することとなり、国務省も手を汚さずに困難な事態を切り抜けた
米国に入国したスヴェトラーナは、米ソ関係を傷つけるような発言をしないよう配慮するケナンに対し、ソ連から亡命した理由を疑問の余地なく明確に表明することが自分の希望であり、自分に対するソ連現政権の扱い、芸術家と知識人に対する抑圧に抗議するための亡命だったことを明言

第19章     アメリカの土を踏む
スイスを隠密裏に出発した後、ニューヨークには、64年のビートルズ訪米を上回る群衆が詰めかけ、厳戒の中「アメリカの土を踏んで幸せ」だとカメラの放列に応えた
スヴェトラーナは自分の英語の拙さをわびたうえで、「ソ連を去ったのは自分自身の決断であり、その背景には夫の死をめぐる問題とその後のソ連政府の対応への怒りがあり、米国に来たのは祖国では認められない自己表現の場を求めてのこと。自分と子供たちは、古いイデオロギーに騙されない新しい世代に属している」、と取材陣に話す
KGBによる奪還作戦は失敗し、長官は解任されアンドロポフに代わる。彼女には彼女自身の負担で厳しい警戒網が敷かれていた
当意即妙とソ連の体制批判の記者会見が終わって隠れ家に戻ると、息子からの手紙が届いていて、冷たい口調で怒りを込め、今後は自分たちのやり方で人生を送ると言ってきたのを読んで、涙が止まらなかった
翻訳者の家を隠れ家としてしばらくの間滞在するが、編集に手を入れたとたんにスヴェトラーナの怒りが爆発、隠れ家で世話になったことも忘れたのか、二度と親しい会話が交わされることはなかった

第3部   アメリカへの亡命
第20章     謎の人物
67年最初の夏はジョージ・ケナンの娘ジョーンとプリンストンにケナンが所有する800㎢の農場で過ごす
これ以上の警護は必要ないとして専属の警備会社から解放
6月に米ソ首脳会談が実現したが、基本的な認識の一致すら実現せず
スヴェトラーナはコスイギンの記者会見の言葉の端々から、激しい怒りを感じ取る。ソ連邦が一致してスヴェトラーナ排斥キャンペーンを開始し、『プラウダ』ほかに激しい非難の論説記事が載ったばかりか、ロシア正教府主教のコメントや海外メディアでも貶められた
ソ連の手回しで、息子の家で押収された原稿をもとに海賊版が出そうになったため、ソ連の革命50周年式典の直前にロシア語版が刊行された
自由を求めて西側に来た彼女はあらゆる人の好奇心の的で、彼女は祖国のみならず、友人、子供たちなど、愛するすべての人々から切り離された流刑囚に等しく、新しく知り合った人々もドアを閉ざしてしまい、まったくひとり

第21章     『友人に宛てた20通の手紙』
夏の終わり、出版に備えてニューヨークに移るが、以後知人の家など頻繁に住居を変える
彼女が出版で訴えたかったのは、革命によって成立したソヴィエト・ロシアは反動的で抑圧的な国家に成り下がったが、多くのロシア人が奇跡的に精神の自由を維持しており、国際主義への憧憬を抱き続けていることがロシアの魅力であることを西側の人々に理解してほしかったし、依然として自身が失ったロシアに深い愛情を感じてもいた
『ニューヨーク・タイムズ』の連載が始まったが、個人の写真や不本意な見出しに加えて内容に間違いも多く不快感を禁じえなかったが、ようやく単行本が出版され心が慰む
KGBの監視は続いており、子供への接触を餌に接近してきたが、FBIも監視を続ける
単行本の書評は、賛否両論
トルストイの娘と劇的な会見、ニューヨーク州郊外にトルストイの非暴力的平和主義思想実現のためのコロニーに出向く
約束通り、慈善財団を通じて各所に寄付を配り始める
スヴェトラーナは本質的に楽観主義者、しかも不屈の楽観主義者で、彼女の楽観主義は多くの人々との死別という残酷な経験によって、また繰り返し味わった失望と喪失の歳月によって磨かれてきた。未来を信ずる気持ちを失っていなかった。それは彼女自身によれば、彼女の楽観主義の根源は善なるものを信じ、自然の深遠さを感得する精神的能力にあった
スヴェトラーナの善は、悪に直面してなお自己を堅持する意思というべき

第22章     冷酷な拒絶
ケナンの紹介で知り合ったジャーナリストのルイス・フィッシャーにも強烈な恋心を抱くが、恋愛の餌食になっただけで終わる ⇒ 冷酷な拒絶ともいうべき対応
次は、CIAの新たなスヴェトラーナ担当となったジェイムソンで、彼の助言と支援で68年永住権を獲得
2作目を執筆し始める
ケナンの紹介でプリンストンに家を購入

第23章     『たった1年』
2作目も同様に自伝的な作品で、この1年に起こった尋常ならざる旅の物語だが、随所でスターリンとその体制に対する非妥協的な批判を展開
前作に関する書評の多くは、ソ連指導者が犯した政治的犯罪の責任をもっぱらベリヤに負わせてスターリンを免罪することが著者の目的であろうと指摘していた。ベリヤがスターリンの親族を攻撃目標にしていたのは事実だったし、スターリンと同郷のグルジア時代のベリヤについてスターリンの親族が多くを知りすぎていたことがその理由だとスヴェトラーナは考えていたが、あくまで前作は自分の家族に関する個人的な回顧録であり、しかも亡命の4年前に精神的なカタルシスのつもりで書いたものだったので、執筆当時の思いを忠実に伝えるために、出版に際して書き直しをすることもなかった。その自分の意図が理解されていないと感じる
しかし63年以降、スヴェトラーナは多くの資料を読み、外国の文化に触れることで、父親の実像をより正確に知る様になっていた。第2作では、彼女が父親の犯した犯罪を次第に認識してゆく過程が圧倒的な迫力で描かれている
スヴェトラーナが追及したのはスターリンの個人的犯罪にとどまらなかった。スターリンだけに責任があったのではない。独裁者による支配には共犯者の協力が必要で、スターリンの権力闘争の歴史を読み、父が歴史的教科書の改竄という手段を利用したのを知る。スターリンの死後も共産党の幹部たちが多数のプレーヤーが参加する政治的なルーレットゲームを引き継いでいた。フルシチョフによる支配も偽の自由化の11年であり、反ユダヤ主義もはびこったままで、ソ連政権がスターリン主義から脱却できないまま過去の栄光を復活させようとすれば、世界に厄災をもたらすとし、ソ連のシステムが抱える根本的な問題はスターリン体制の生みの親であるレーニン主義そのものにあると指摘。それはソ連の聖域の核心部分に対する攻撃だった
スヴェトラーナの予想通り、KGBは激怒し、ソ連に敵対する勢力が反共キャンペーンのために書いた本だと喧伝。ソ連国内ではその喧伝が効果を上げるとともに、本の謝辞に記載された人々こそが執筆者集団だとして、KGBに恰好の攻撃手段を与えてしまう
VOA放送に出演して、『たった1年』の一部を朗読したことに対し、ソ連政府が激怒して市民権を剥奪したが、その根拠は大粛清期の38年にスターリンが制定した罪名だった
書評はまたも賛否両論に分かれる
ソ連には、友人についての噂話はしないという不文律があった。にも拘らず、スヴェトラーナは著書の第3部「再会を期して」の中で、偽名を使ったとはいえ知識人層に敬意を表し、抑圧に抗議したが、友人たちの横顔を描くことでKGBには容易に想像でき、更なる圧力が加えられるようになった
作家が執筆に没頭するときに感ずる高揚感に浸りきっていたスヴェトラーナは、著作のもたらす結果に思い至らなかった。西側世界に来て言論の自由を経験した興奮から、スヴェトラーナの警戒心が緩み、ソ連社会の常識を忘れた可能性が高い
ただ、彼女はもう本を書くのはこりごりだと漏らし、第3作を書くのは15年後のこと。ただし、その空白を引き起こした原因は、前2作の悪評でも疲労感でもなく、彼女の心を挫く新しい悲劇だった

第24章     タリアセンの罠
6911月には、建築家フランク・ロイド・ライトの未亡人オリガから繰り返し、故ライトの設立したスコッツデールのタリアセン研究共同体訪問への招待状が届く
スヴェトラーナは、高名な建築家を知らなかったが、オリガは25年前に自動車事故で亡くした娘の名が「明るい光」という意味の同じ名前であることに運命を感じていた
オリガはモンテネグロ出身、父親が最高裁判所長官で母親は対トルコ戦に参戦したという陸軍の女将軍、強烈な性格、ロシア革命のころ餓死寸前に陥るが結婚して娘が生まれたころ、アルメニアの神秘主義哲学者グールジェフを知る。グールジェフ家は、スターリンがトビリシの神学校に通っていた時の下宿先で、下宿代を踏み倒されていた
オリガはその後、苦難の生活を経てシカゴの劇場で舞踏の公演を大なった際、ライトが一目惚れして、253番目の妻となる
ライトが、共同体として生活しながら建築の研究を進めるという画期的な実験事業としてタリアセンを始めたのは1911年だったが、死後もオリガが全権を握って運営、高額の運営費を捻出するためにスヴェトラーナの資産に目を付けた
タリアセンの主任建築士ウェスリー・ピータースは、タリアセンに来て建築の勉強を始めたが、ライトの娘スヴェトラーナと恋に落ちて駆け落ちするが、3年後に夫婦となって戻り、ライトの戦力として働く。不慮の自動車事故で妻と子供を失ったピータースは、自分の過失もあったとして、以後オリガに全面的に支配されてしまい、スヴェトラーナの資産を取り込むためにピータースとの結婚を企てる
オリガに大歓迎されたスヴェトラーナは、すぐにピータースが好きになり結婚するが、結婚とは名ばかりで、タリアセンという共同体での公開の夫婦であり、自分たちだけの時間は許されなかった
問題はピータースの浪費癖で、50万ドルの負債を抱え破産寸前状態にあり、スヴェトラーナは自らの資産で穴埋めして愛情を示そうとする

第25章     モンテネグロの女帝
結婚生活の中まで支配しようとするオリガから何とか自分たちの生活を確保し続けたスヴェトラーナは、妊娠してオリガを激怒させる。タリアセンには子供用の施設がなかったことが原因だったが、71年無事女の子を出産
ピータースにすっかり惚れ込んだスヴェトラーナは、共同生活に慣れたピータースがオリガに従うよう求めるのに応じて、何とか一緒に暮らすために彼に合わそうとしたが、遂にオリガの目に父スターリンと同じ独裁者の目つきを見つけて怯え、ついに子供の養育のことを考え飛び出すことを決意、ピータースは同居を拒み出ていくスヴェトラーナを非難
ピータースの債務をすべて引き受けることを約束したスヴェトラーナは、ピータースの息子が経営する農場にも莫大な資金をつぎ込み、共倒れになる危険があった
何とかケナンの娘婿の弁護士が奔走したこともあって離婚が成立、娘の他には僅かな資産だけが手元に残って72年にプリンストンに戻ってきた

第26章     スターリンの娘芝刈り機を押す
自分の家に戻ったスヴェトラーナは、家政婦や庭師を雇う金もないため、自分で芝刈り機を買ってきて押さなければならなかった
米国国務省の外交行嚢に入れられて匿名のジャーナリストからケナン宛に、スヴェトラーナの息子ヨシフに訪米の希望があり、母親と接触する方法を探る内容の手紙が寄せられたが、KGBの仕業である可能性が強く、結局無視したが、ロシア側の沈黙に彼女は不安を募らせ、抑えられない衝動に負けてモスクワの息子に直接電話する。幼い頃の愛称で息子に呼び掛けたところ、「9年もご無沙汰して、まだ母親のつもりでいるのか?」と言って切れた

第27章     KGBの格好の標的
76年プリンストンの家を売って南カリフォルニアに転居
精神的に不安定な状況が続き、絶望的な状態に陥って精神科医に通う
ピータースの裏切りで預金のほとんどを失ったばかりか、自分自身を失い、自信を粉々に打ち砕かれ、それを認めて受け入れるまでに長い時間が必要だったが、ようやく亡命した時の勇気と誇りを回復しつつあり、成熟と安定を目指して頑張ろうとする
77年スパイ追放に関するスキャンダルが報道され、前章で触れたヨシフの消息について連絡してきたジャーナリストはAP通信社の記者で、今回追放の対象になっていたが、その際ヨシフとの間に立ったロシア人から怪しげな手紙がスヴェトラーナに届き、ヨシフが母親に会いたがっていることだけはわかったので、ヨシフの父親あてに手紙を書くと、たまたま国外に出る機会があった際に返事が来て、ヨシフの無事が確認できて安堵する
77年亡命から10年を経て、共産圏からの移住者が市民権を申請する資格を得るための「検疫期間」が終了、警察署に出頭して必要な手続きを取り始めるが、プリンストンに戻って友人たちに囲まれてニュージャージーの法廷で市民権取得のための忠誠鮮宣言を計画

第28章     米国市民ラーナ・ピータース
78年ラーナ・ピータースとして市民権獲得するが、スヴェトラーナにとってプリンストンでの生活はかつてのような住み心地の良いところではなかった。反共運動に参加しないことをトルストイの娘は批判して「犬畜生」とまで呼んだし、亡命ロシア人サークルからも歓迎されず、冷戦のプロパガンダが市民の間の反露感情を刺激
2作の著作権が、「撤回不能信託財団」となっていた「アリルーエワ慈善財団」に譲渡され、財団は彼女自身も理事になっている受託理事会によって運営されていたため、彼女個人の手に取り戻すことは出来ないようになっていたことから、彼女は激怒して逆上、取り戻すための手段として自宅にジャーナリストを招いて亡命以来の経緯を洗いざらいぶちまける
インタビューの模様は、「これ以上スヴェトラーナでいたくない」という記事となって『ワシントン・ポスト』に掲載されたが、彼女の目的を達成するにはほど遠い内容で、更に腹いせに弁護士事務所を紹介したジョージ・ケナンに対しても、これ以上拘わらないでくれとの手紙を書く。怒りに任せて書く手紙は、最低の礼儀正しさを維持するための装飾的表現をまったく欠いて、読む者に肉を引き裂くような痛みを与えても顧みなかった
ケナンには、その後詫びを入れて関係を修復しようとし、ケナンも受け入れる
娘の教育費負担に耐えかねて、次々に安い家賃や狭い家に引っ越しを繰り返す
娘は、反ロシア感情とシングルマザーに対する偏見、更には非カトリック教徒に対する差別扱いに遭って学校が嫌いになり、成績も惨憺たるものだったが、母親は自分の抱える様々な不安のすべてを娘に注ぎ込んでいた

第29章     自由という名の現代のジャングル
10年ぶりにアメリカに戻ってきた旧友夫妻を訪ねてニューヨークに通うようになり、63年に亡命していた旧知のアシュケナージや74年に亡命して78年にソ連市民権を放棄していたロストロポーヴィチとも再会
81年夏には英国マスコミ界のスター、マガリッジからの招待で渡英、インタビュー番組がBBCで放映される
「自由という名の現代のジャングルであるアメリカに来て14年、適切な生き方を見つけることはまだ出来ていない」ことを認め、誰かに導いてくれなければ前に進むことができない
ソ連社会で生き延びるためには、権威者又は保護者を見つけてその翼の影に身を隠す生き方こそが自然であり必要だったが、スヴェトラーナの行動様式はそれを反映
信頼できる人物の助言を必要としていたスヴェトラーナは、70年以来の友人だった英国の高名な哲学者バーリン卿に相談、より反露感情のない英国での暮らしを選択することとなり、英国での出版社も紹介や移住ビザ取得を支援してもらって82年に移住する

第4部   西欧社会で生き残る方法
第30章     英国ケンブリッジ市チョーサー・ロード
デタントが進みヨシフから電話がかかってきて、親子の会話が再開
娘は近くの寄宿学校へ通う
すぐにパパラッチが嗅ぎつけて、あらゆる新聞が母娘の私生活を詳細に伝える
スヴェトラーナは、スターリンを主題に作品を書けば巨額の印税が稼げることはわかっていたが、父親の伝記作家になることは拒否。自らの遍歴を200ページの草稿にしたが、英国の出版社も米国系の出版社も変更を要求したため、別の出版社から『遥かなる音楽』と題した第3作を刊行
西側社会に幻滅し孤独を感じ始めたころ、ヨシフから病気との連絡が入り、急遽帰国することを思いつき、在英ソ連大使館に駆け込む。ソ連からは異例の速さでギリシャ経由帰国のスケジュールが示され、娘とともにケンブリッジの家を処分して帰国の途に就くが、友人に頼んでソ連宛に送ってもらった荷物は一切届かなかった

第31章     ソ連への帰国
1984年ギリシャへ出国、迎えたのは最近病没したアンドロポフの息子夫妻
モスクワに帰還したスヴェトラーナは、ホテルで待つ息子と18年ぶりの対面だが、ぎごちないものとなる
ソ連政府は市民権を復活させ、米国パスポートを取り上げようとした
入国の条件は記者会見で、ソ連外務省の要求に従ったものになり、米国での扱いを中傷するかのような内容で、のちに英語通訳が意図的に誤訳したと主張することになる
スヴェトラーナの帰国は、ソ連政府にとってプロパガンダのための絶好の材料
米国のジャーナリズムは辛辣で、悪評たらたら
ソ連政府からは最高の待遇を提供されたが、息子や親族との再会はスヴェトラーナの思い描いていたのとは全く正反対のもので、カムチャッカにいる娘からも17年の不在を非難する冷淡なものだった
自分にとっても娘にとっても、モスクワへの帰還が厄災でしかないと悟ったスヴェトラーナは再び逃げ出そうと決心、西側報道機関からの逃避を理由にソ連政府にロシア世界とアジア世界の境界線上に位置するグルジアへの旅行の許可を申請

第32章     トビリシ間奏曲
84年末トビリシの接待施設に移る。そのときの扱いのすべてはグルジア共産党書記長シュワルナーゼが仕組んだこと
スターリンの成果を訪ね、孫娘はその貧しさに驚愕
ソ連政府も、多くの問題を抱えていて、スヴェトラーナを持て余していたところで、アメリカ大使館が手を差し伸べ、2人に米国パスポートを提供、娘は英国の寄宿学校に戻る
スヴェトラーナは、アメリカに帰国
帰国後も、スヴェトラーナは、騙されて帰国したという思いを振り払うことができなかったが、ヨシフの冷たい態度を考えると、まんまと罠にはまった可能性が高いが、CIAの膨大なファイルは今も開示されておらず、ソ連に関しては何一つ明らかなことはわからないという事実だけが残っている

第33章     米国の現実
86年米国ウィスコンシン州の農場に一時疎開
地元大学の教授と会見を行った記事が『ニューヨーク・タイムズ』に掲載
生活費に困窮したスヴェトラーナは、友人たちに無心の手紙を書いたが、ソ連では当たり前でも、米国では友人への物乞いはルール違反であり自力で奮起するのが建前
インドの病院建設・維持のために設立した「アリルーエワ慈善財団」の解散を目論むが、「撤回不能」のため彼女自身のために引き出すことはできないとされ、出資先だけを米国の機関に変更
ゴルバチョフについて講演の依頼が来たが、講演会の聴衆が投げかける質問はすべてスターリンに関するもので、スヴェトラーナは無力感に襲われ、「これから先もアメリカの現実の中で生きる技術を学び取ることは困難でしょう、私の能力を遥かに超えている」と述懐
スヴェトラーナは無心の手紙をケナン夫妻には意図的に送っていなかったが、友人たちから転送されてきた手紙を見て介入を決意、大統領補佐官に米国に対する否定的なプロパガンダの材料を提供し兼ねないとして援助を求め、秘密裏に翻訳の仕事が入る様になり、毎月定期的に翻訳料が支払われるようになる
4作目を書き始める。『孫娘たちのための書』という題で、オルガを連れて帰国したソ連での経験を綴る
88年には、2年前に友人の紹介で知り合った建築家でドミニカ修道会の平修道士だったターナーと恋に落ちたが、半年後にターナーが末期がんの宣告を受け、1年後には最期を看取ることになる。その間、オルガが学校を抜け出して駆け落ち、大学にも進めず
毎月翻訳料が入ることを不審に思ったスヴェトラーナが、小切手の振出人を辿ってCIAの仕業だと知ってしまい、逃げ出すために友人を頼って渡仏するが、最後は娘のいる英国に渡り、慈善運動家に紹介され、ロンドン市内の困窮者用居住施設に落ち着く

第34章     タイト・スカートは自殺に向かない
91年ポーランドの作家コジンスキーの自殺にスヴェトラーナは精神的に落ち込み、ロンドン・ブリッジで細身のタイト・スカートをたくし上げて欄干によじ登ろうとしたが、背後から見知らぬ男に歩道に引き戻され、警官がやってきてパトカーに収容
自殺未遂を犯して初めて、人は単なる衝動的な事故で自殺することもありうると知り、自分を見捨てて自殺した母を長いこと許せなかったが、今になって漸くその絶望を理解し、母親を許すことができたと感じる
イギリスの友人と、スヴェトラーナがアリルーエフ家の人々について語った内容を本にしようという話が持ち上がり、友人が直接ソ連に行ってインタビューした話を中心に、スヴェトラーナが数章執筆した形で、93年に『長い影――スターリン家の内幕』を共著として出版、表紙と裏表紙にスターリンの写真があしらわれていたが、スヴェトラーナは結果に不満で友人とも著書とも絶縁
著書4冊を1巻にまとめて『魅せられたる巡礼の旅』として刊行する構想 ⇒ 彼女の人生を総括する本

第35章     連中は少しも変わっていない
95年ロンドンからコーンウォール半島の同じような施設に移動
ソ連にいた母方の従弟から、彼の書いた『ある家族の年代記』の英訳を頼まれたが、内容を読んで仰天。古臭いソヴィエト権力の復活を目論む本だったので、ロシア語で長い書評を書きモスクワのラジオ局で放送させることに成功。両親が粛清の対象とされた従弟の書くものとは思えなかったが、彼の確信犯的な反ユダヤ主義にも嫌悪感を抱く
書評がきっかけとなってまたKGBによる嫌がらせが始まったように見え、エリツィンの「民主主義的な」ロシアでも、FSBに名前を変えて存続していることを知る
97年ウィスコンシンに戻り、娘と一緒に住み始める

第36章     最後の帰還
同居は1年続いたがそれが限度で、99年にはソーシャル・セキュリティを受けて、老人ホームに入居。月末には一文無しに
加齢と共に側弯症を発症、ねこ背もひどくなり、歩行器に頼るようになる
スヴェトラーナはロシアの動きからも目を離さず、97年にはソ連の「全面的崩壊」がこれほど早くやって来るとは予想もしなかったと告白したが、同時にロシアの変化は見かけほど本格的ではないと警告、「飲んだくれの老エリツィンとその背後にいる「党官僚たち」は本質的には旧態依然たる「ボリシェヴィキ」のままで、変化という仮面を被っているに過ぎない」
さらに、00年訪ロする友人にも、「ロシアは急速に過去に回帰しつつある。恐るべきことに、KGBのスパイだった男が今や大統領代行になっている。ロシアが民主主義を目指した時期はもうとっくに過去のものとなってしまった」と更なる警告を発している
00年の大統領選でプーチンが選出された際にも彼女は、「ロシアは国旗を変更し、国名も一部変更したが、本質は依然として昔のソ連のまま。旧KGBの大佐という胡散臭い人物が大統領になれたのは、前大統領のエリツィンに対し政治的腐敗と公金横領の容疑による捜査と訴追を行わないと保証したからに他ならない。米国ではロシアの実態はほとんど理解されていない」として、ロシア語で口汚く罵っている
2010年がメディアに出た最後で、「スターリンを決して許さないし、自分の人生が父によって破壊されたと言ってもいい」、と答えている
最後の2年間は娘とともに平穏に暮らす
新しくできた作家の友人が、著作権協会と交渉して、『友人に宛てた20通の手紙』の著作権を取り戻してくれたので、娘に継承させることができた
11年末期がんの宣告、病状は急激に悪化し、娘に知らせたが間に合わなかった。享年82
オルガは母親の遺灰を太平洋に散骨



Wikipedia
スヴェトラーナ・ヨシフォヴナ・アリルーエワ(ロシア語: Иосифовна Аллилуеваグルジア語:სვეტლანაs იოსებინა ალილუევა英語:Svetlana Iosifovna Alliluyeva1926228 - 20111122)は、ソビエト連邦の政治家ヨシフ・スターリンの娘である。作家となり、アメリカ合衆国帰化した。彼女は1967にソ連から亡命したことで、国際的に熱狂的賞賛を引き起こした[1]
1926228モスクワにて、スターリンとナジェージダ・アリルーエワとのあいだに生まれる。ソ連共産党の政府高官たちの子供の中では最上位の位置を占めていた。スヴェトラーナは乳母に育てられたが、ときおり両親も育児に参加した。母のナジェージダはスターリンの2度目の妻であったが、スヴェトラーナが6歳の頃の1932119に死んだ。彼女は、公式には虫垂炎からくる腹膜炎で死んだと発表された[2]。ナジェージダの死の原因については、他にもさまざまな憶測が生まれた(スターリンの命令で殺された、スターリン自身が殺した、など)。
スターリン、ワシーリーとスヴェトラーナ
父・スターリンは二人の息子(ヤーコフワシーリー)の場合と異なり、スヴェトラーナに対しては優しく愛情ある態度で接することもあったが、ニキータ・フルシチョフは自身の回顧録の中で、スターリンがスヴェトラーナに対しても虐待的に接したと述べている。フルシチョフによれば、クレムリンで催されたパーティーにてスヴェトラーナが父の要求した踊りに熱を入れなかったとして、激怒したスターリンがダンスフロアの上で泣いているスヴェトラーナの髪の毛を掴んで引きずり回したという[3]
スヴェトラーナが16歳のときに、ユダヤ人の映画監督アレクセイ・カプレルAleksei Kapler)と恋に落ちる。カプレルは当時40歳を超えていた。父スターリンは娘の交際に激しく反対した。のちにカプレルは、「イギリスのスパイである」として有罪を宣告され、北極圏の近くの工業都市ヴォルクタ10年間追放された。スヴェトラーナが抗議するとスターリンは激怒し、彼女に暴力を振るった[4]
スターリンがカプレルにとった措置について、カプレルが娘を介して権力へ取り入ることを警戒したとも、あるいはスターリン自身の潜在的な反ユダヤ主義のため(スヴェトラーナ自身の解釈)ともいわれるが詳細は不明である。
結婚[編集]
スヴェトラーナが17歳のときに、モスクワ大学の学生仲間ゲオルギー・モロゾフと恋に落ちる。彼もまたユダヤ人であった。父スターリンは2人の結婚を不承不承に認めるが、それにもかかわらず、彼は理由をつけて花婿に会うことはなかった。1945に息子のヨシフ・アリルーエフJoseph Alliluyev[5]を出産するも、夫婦は1947に離婚した。1949、スヴェトラーナは父の親しい仲間で片腕であったアンドレイ・ジダーノフの息子ユーリー・ジダーノフと結婚する。1950に娘のエカテリーナが生まれるが、のちにまもなく離婚に至る。
しかし、タイム誌は、スヴェトラーナが1951ラーザリ・カガノーヴィチの息子ミハイル・カガノーヴィチ3度目の結婚をしたことを主張したと報じている[6]
スターリンの死後[編集]
195335に父スターリンが死ぬと、スヴェトラーナは、母の結婚前の姓を名乗り、教師及び翻訳の仕事をしていた。彼女はアメリカ合衆国の歴史英語を教えていたが、それにもかかわらず彼女は重要なことを話す機会がほとんどなかった。スヴェトラーナは、自身の家柄を基礎とし、ソ連共産党およびノーメンクラトゥーラの特権を享受していた最上級の党員に接触を図った。彼女は自分の子供たちの世話のために働くのを辞めたのち、自分自身の扶養のために年金を受け取った。
1963扁桃腺で入院していたスヴェトラーナは、モスクワを訪れていたインド共産党員Brajesh Singhと出会う。彼はおとなしい態度の理想主義者であったが、深刻な気管支拡張症肺気腫を患っていた。2人は黒海近くのソチで病気の回復に努めながら関係を結び、絆を深めた。シンは1965にモスクワに戻り、翻訳の仕事を始めるが、2人は結婚することを許されなかった。1966にシンが亡くなると、スヴェトラーナは、ガンジス川に彼の骨を蒔くためにインドへ向かうことを許可された。彼女はガンジスの川岸近くのKalakankarの家に住む一家のもとで2ヶ月間滞在し、地元の風習に馴染んだ。彼女はインタビューで、2人は結婚を公式に許されない状態であったが、自分の夫としてシンに接したという[7]
政治的亡命とその後[編集]
196736、最初にニューデリーにあるソ連大使館を訪れたスヴェトラーナは、その後アメリカ大使館へ向かい、大使のChester Bowlesに、「政治的亡命」として正式に請願書を提出する。インド政府はソ連政府から反感を受けるかも知れないと懸念したが、請願書は受け入れられた。スヴェトラーナがただちにインドを出てアリタリア航空の飛行機に乗ってローマに到着してからただちにジュネーヴへ向かうと、アメリカへ向かう6週間前にスイス連邦参事会査証と宿泊施設を手配した。
19674ニューヨークに到着したスヴェトラーナは雑誌に寄稿し、回顧録を発表してスターリン政権とソ連政府を公然と非難した。西側での出版を早い時期に終えたのは、海賊版を発売するようソ連政府からの脅迫があったことと、特定の外交上の問題があったためである。
スヴェトラーナはプリンストンと、のちに近くのペニントン英語版)に移住した[8][9]
1982、スヴェトラーナは娘とともにイングランドケンブリッジに移住する。1984にソビエトに帰国して市民権を再び獲得し、グルジアトビリシに移り住むも1986に再度出国、1990年代にはブリストルに戻る。1992年には、イギリスの市民権を獲得した。
20111122日、結腸がんのため、ウィスコンシン州リッチランド・センター英語版)で死去[10]85歳没。
評伝[編集]
ローズマリー・サリヴァン 『スターリンの娘 「クレムリンの皇女」スヴェトラーナの生涯』(上下)、染谷徹訳、白水社2017年 













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