ゼッフィレッリ自伝  Franco Zeffirelli  2018.10.20.


2018.10.20. ゼッフィレッリ自伝
The Autobiography of Franco Zeffirelli      1986

著者 Franco Zeffirelli

訳者 木村博江 1941年生まれ。ICU教養学部卒。翻訳家。訳書にマグリーヴィ編『グレン・グールド変奏曲』ほか

発行日           1998.1.30. 初版
発行所           東京創元社(創元ライブラリ)


私生児だった彼は、パルチザンとして戦時を過ごし、その後出会ったヴィスコンティとの愛憎劇を超えて、オペラと映画の世界で頂点を極める。カラス、ドミンゴ、トスカニーニ、シャネル、リズ・テイラー……等の、彼にしか語れない素顔、オペラ演出の内幕。世界的なオペラ演出家・映画監督の小説より面白い自伝(解説より)

はじめに
私は3度死にかけた。2度は機銃掃射で、1度は車の事故で
だから私が神の存在を信じ、運命について迷信に近い拘りを持っているのも当然
その一方で、命には限りがあるという事実が受け入れられず、多くの人々のように、死ぬことはあるまいと漠然とした期待に寄りすがっている
自分の人生を語ることには疑問。人々は真実を大幅に隠し、良いことだけ披露して自分の過去に手直しをする。だとすれば、日々の記憶や時代の歴史に何の価値があろう
今回それをしようとするのは、対話相手とインタビューを繰り返す方式で自分の記憶を確かめながら事実を正確に伝えようと試みた
人々に対する記憶には現在私がその相手に感じる感情によって色が付けられたし、辿って行くと、現在嫌っている相手も過去には愛していたことを実感
私にとってこの本の価値は、自分自身と自分の記憶、そしてそれに対する自己の反応の再認識にある ⇒ 言い換えれば、読者が社会や演劇の歴史、あるいは有名人の素顔を覗き見する以上に価値があると思えるものを残すための作業だったと思いたい


ウールや絹の商売で財を成した父親が、ファッション・デザイナーに産ませたのが私
あちこちに女を作り、何人もの子供を産ませていた。母も夫が結核で瀕死の状態にある中の不倫であり周囲からは祖母になる年頃に子供を作ることを反対されたが、産むことを決断したため、夫の姓はもちろん、母親のせいも名乗ることを認められず、書類上では名無しとされ、フィレンツェの中世から伝わる法律によって、私生児にはAからZまでのアルファベットの順番に従い、日によって違う頭文字の名前を付けられた。母は『コシ・ファン・トゥッテ』の「ゼッフィレッティ」(そよ風)を歌ったアリアが好きで、それに従った名前をつけようとしたが、登記所が綴りを間違えて誰も聞いたことがないゼッフィレッリという名前になってしまった
父に捨てられた母は、仕事も破綻して私と二人で自分の娘のところに転がり込むが間もなく死去。6歳で孤児となった私を引き取ったのが結婚に唯一賛成してくれた父の姉
8歳か9歳の時、伯母の恋人のアマチュアバリトン歌手がフィレンツェの歌劇場に連れて行ってくれ、恋人の友人のジャコモ・リミニの《ワルキューレ》を見たのが病みつきの始まりで、帰るとすぐに舞台装置を紙や木で作ってみた
カトリック・クラブで劇に熱中、伯母が連れて行ってくれた映画とともに私の進路を決定づけた。ハリウッドの「大スター」の名前は全て知っていた
38年絵の才能があることが分かって、父は私を美術学校に入れ、建築を専攻
39年法王ピオ11世がファシストに殺害される。ヒトラーがドイツの教会を迫害したためムッソリーニとドイツの同盟を承認しなかったことへの報復と見られた
406月イタリアが参戦
開戦と共に交換留学の日本人学生の姿が目立つようになり、彼らの見学ツアーの通訳を買って出る。37年パリ万博の日本館に目を見張ったのが始まりで、日本人学生に日本の建築について教えてもらう
41年イタリア南部を自転車旅行している最中、ナポリで空襲に遭い、九死に一生を得る
437月連合軍シチリア上陸、1週間後にムッソリーニは罷免逮捕
レジスタンス運動が始まり、私もパルチザンに加わってフィレンツェ近くの山岳地帯にこもる。44年の復活祭のころから英米軍による物資補給が始まる
連合軍に合流してムッソリーニ処刑の現場を確認した後、フィレンツェに戻って、父異母姉と暮らすようになり、45年夏エンタテイメンツ・ナショナル・サービス・アソシエーションENSAの提供によるローレンス・オリヴィエ主演の映画《ヘンリー5世》を見て、自分のすべきことが舞台であり、芝居を手掛けることだとわかり、自分の戦争が終わったのを知った
最初にフィレンツェのぺルゴラ劇場の舞台背景画家の助手として働いたが、舞台での稽古を見下ろしているときにルキーノ・ヴィスコンティが癇癪を爆発させながら入ってくるのを目撃
ヴィスコンティはシャルルマーニュの子孫で、先祖はミラノを支配。30年代にパリのグランプリ・レースで愛馬にまたがって力試しをしたのをきっかけに、2つの大戦間フランス文化に傾倒する優雅で端正で裕福な20代独身貴族の生活を謳歌。ココ・シャネルに気に入られ、映画監督のジャン・ルノワールに紹介され、パリの左翼文化に傾倒し、共産主義者になる。国家社会主義を装ってナチズムが台頭した時、彼はそれに傾倒、レニ・リーフェンシュタールのカメラが捉えた36年のベルリン・オリンピックの映像に強烈な印象を受け、この青年時代の熱狂がのちに《地獄に堕ちた勇者ども》や《ルートウィヒ――神々の黄昏》などの映画となって現れた。35年ルノワールは《ピクニック》の撮影に彼を第3助手として使い、映画作りにおいても彼の師となる。ヴィスコンティは映画の虜となり、37年にハリウッドに渡るが肌に合わず。ムッソリーニの政権下、左翼思想の持ち主としてその身が危うくなったが、ジェームズ・ケインの『郵便配達は2度ベルを鳴らす』のフランス語訳に出会い、《妄想》というタイトルで脚本化、映画作りに際して当時の慣例を破ってロケ方式で全編を撮り、荒れ果てた場所で普通の人々を使って撮影、汚れた惨めなものが現実として強調された。コントラストの強い白黒の画像は衝撃的で、「ネオ・レアリズモ」と名付けられ、明らかに左翼系だったが、ムッソリーニはこれを芸術として公開を許す。解放後、ヴィスコンティは、ファシストに抵抗したイタリア文化界の数少ない1人という羨むべき地位を自分のものとし、新たな出発点を求める者たちにとっての希望となり、驚異的なエネルギーで仕事に挑戦。占領下にあって外国の思想を渇望するイタリアの人々にジャン・コクトー、ジョン・スタインベック、ジャン=ポール・サルトルなどの現代劇を紹介。劇団を組織し、彼の制作する芝居なら何でも見たがる地方を公演して回り、まさに砂漠で水に出会うような感動を与える一方で、スキャンダルを振りまいた
ヴィスコンティが、本物の狂った老婆を探していることを確かめて、私は近くの老人ホームに走り、本物の狂女を紹介したところ、彼が興味を示して、若くて顔立ちがよかったところから私もオーディションの対象となり、過去の生い立ちから演劇に関与した経歴をすべて話した
多くの端正な容貌の若者がチャンスを掴もうと必死になっているとき、私の見つけた答えはラジオで、イタリアではメディアとしてラジオが圧倒的な存在であり、ラジオ局で出演の機会を探すとともに、連続番組の主役に抜擢される機会を掴む。そんなころヴィスコンティと出会う
ミラノでのヴィスコンティの《タバコ・ロード》は大成功で、老人ホームの老女は公演のスターとなってイタリアを1年間ツアーで回った
ヴィスコンティがローマに戻る途中フィレンツェに寄って一緒にトスカナ地方をドライブ
彼は自分の思い通りにならないとき、怒りと癇癪が爆発するが、壁にものを投げつけるとき、必ずひびの入ったコップを選ぶのに気づき、以後他の人々が恐怖に震え上がるときも、平然としていられた。タイミングのいい癇癪は彼から学んだ最高のレッスン。こちらが攻勢に出るとすぐに引っ込むことも直に分かり、それを知ってからは、長い波瀾万丈の関係の中でバランスをとることが出来るようになる
シエナの音楽アカデミーで教えるイネスは、母のいとこで、トスカニーニお気に入りの歌手だったが、声が出なくなってからは後進の指導に当たっていたが、46年夏舞台装置の手伝いを頼んできた。その仕事を通じて、音楽と演劇を結びつける仕事が出来るのではないかと考えた。それまでオペラはコンサートとあまり変わらず、演劇ほど深みのあるものとは決して捉えていなかった
遂にヴィスコンティからオファーが来る。新しい劇団を組織して《罪と罰》の新しい舞台をやるので、小さな役をくれるといわれ、建築家になることを強要する父の下を出る
ローマでのヴィスコンティとの仕事は演出方法を学ぶ上で非常に参考となるとともに、彼との個人的な時間をたくさん過ごすことが出来たが、端役だけでは生活が苦しかった
それを救ったのがイネス伯母の息子ピエロ。イタリア映画の脚本家として活躍していたピエロを通じて、映画界の人々と繋がり、チネチッタ撮影所で洪水にように流れ込むアメリカ映画のダビングで小遣いを稼いだ
ある日ピエロがドナルド・ダウンズを紹介してきて、たちまち終生の親友となる。アメリカの新聞紙上で誰よりも早く新しいイタリア映画を紹介し、興味を喚起した結果、ハリウッドがアンナ・マニャーニのようなイタリアの女優に群がるようになったし、彼のお陰でイタリア映画界は当時最高とされた感度の良いデュポンのフィルムをふんだんに使い、多くのネオ・レアリズモ映画で特徴的な白黒の鮮明なコントラストを出すことが出来た
47年夏、ピエロの脚本『婦人代議士アンジェリーナ』が採用され、大きなハードルを越えたが、映画の宣伝ロゴの仕事を私にくれたので、撮影に立ち会い、主演女優のマニャーニを初めてナマで見る。彼女の歌う《なんと美しいローマ》は、イギリスやドイツで歌われた《リリー・マルレーン》と同じ力をイタリアで持った。撮影の途中でマニャーニがキャストに文句をつけ、偶然目に入った私に役が振られてきて以来、小児マヒで子供をフグにして以来人間不信に陥っていた彼女とも友情が通うようになる
その後、テネシー・ウィリアムズが《ガラスの動物園》の初日に来て非常に満足し、ブロードウェイで幕を開けたばかりの《欲望という名の電車》のイタリア版の権利をヴィスコンティに与えたが、テネシーの敬愛するマニャーニが主役を演じることになり、ヴィスコンティ劇団に呼ばれたため、私との関係が露見
ハリウッドがイタリアの映画会社に注目し始め、RKOのスカウトに紹介され、47年夏にはハリウッドで週休500ドルで5年の契約を提示されるが拒絶、そのおまけの効果として、ハリウッドに密かな憧れを抱いていたが機会のなかったヴィスコンティが、新作で私を助手に使うと誘ってくれる。さらにイネス伯母からオペラでの演出も頼まれ、演劇、映画、オペラと私のキャリアの3つの道を育てる動きが猛烈な速さで動き始めた
ヴィスコンティの新作ドキュメンタリー《ゆれる大地》の助監督となり、舞台のシチリアで6か月間缶詰。収穫は彼の細部に対する情熱的な拘りで、あらゆる面で綿密な調べが行き届いた、その時代、場所、文化に浸り切り、画面の底にある「正確さ」を確信できた
映画は、社会派作品として失敗、共産主義という政治的な立場も旗色が悪く、打ちのめされたヴィスコンティは、ますます私を頼る様になって同居
作品のための多額の借金と、金遣いの荒さから、抑圧された脆い部分が丸出しとなり、彼にとって頼りに出来るのは私ぐらいしかいなくなり、ヴェネツィア映画祭でも上映を阻止しようという動きがあった
映画で失敗したヴィスコンティは芝居に戻って、《お気に召すまま》に決め、シャネルに仲介を頼んで、ダリにシュールレアリスト風の舞台美術を依頼するが、その構想を舞台で実現するのは至難の業、おまけにマリア・カラスの公演と重なってお針子が衣装を後回しにされる。カラスとはどんな奴かとヴィスコンティと2人で見に行くと、かつて聞いたこともないような衝撃的な歌声だった
苦労の甲斐あって初日の結果は素晴らしく、ローマでカラスの公演と人気を二分したのは運命的だった。大指揮者のトゥリオ・セラフィンの仲介でカラスと面談。眼、鼻、口、何もかも大きすぎる感じで、そのうえ最悪なことに脚が毛深かった
すっかり魅せられた私は、すぐに花を贈って楽屋に入り浸った。カラスは友達になると、全てかゼロの人で、彼女と私が親友になれたのは幸せだった
カラスは23年ニューヨーク生まれで、歌手にしようと思った母親が戦争直前にアテネに連れ戻り、エルヴィラ・デ・ヒダルゴの薫陶を受けさせたのがきっかけで、クラシックスタイルの「美声」ではないが、独自のドラマチックな特質があり、役柄に強烈な印象を与えることが出来るのをいち早く見抜かれ、18歳の時《カヴァレリア・ルスティカーナ》でデビュー以来、成功への階段を駆け上がった
Vは成功に気をよくして《欲望という名の電車》の公演権を活かし、現代劇に挑戦、私の前作での実績から舞台装置を私に一任、テネシー・ウィリアムズも初日に遥々やってきて満足し、その時から私たちの間に友情が生まれる。Vは再び引く手あまたとなり、「フィレンツェの5月祭」のメインの野外公演を任される。彼が選んだのは伝統に従ってシェークスピアの《トロイラスとクレシダ》で、またも舞台装置を私に一任、私は故郷に錦を飾り、ポスターにも名前が載り父に認められたが、父親は自分の苗字になっていないのが不満
公演は成功尾だったが、トロイの本物に似せた舞台装置はVの拘りのせいで途方もなく高くついた
気をよくしたVは再度映画に戻り、プラトリーニ原作の《貧しい恋人たち》に決まり、仏伊合作のためパリにスカウトに行くことになったが、直前になってVが行けなくなり私が一人で当時フランスで最も人気のあったジャン・マレーと、コクトーとシャネル宛の紹介状を持って出かける。シャネルの紹介で当時まだ新人の演出助手だったロジェ・ヴァディムに会ったが彼が連れてきたのがブリジット・バルドー
2週間の滞在中、キャスティングの仕事以外はシャネルと付き合った。シャネルは大戦中のドイツ軍将校との恋愛がもとでいまだに蔑視され普段は人目を避けながら復活の機会を狙っていた。シャネル5の権利を巨額の値段でアメリカの会社に売り渡したため彼女の名前と関わりのある名称の香水が作れなくなっていたが、本物と模造を混ぜた人造宝石を初めて作った。カルティエは世紀の変わり目に宝石と準宝石を一緒に使用したものの、それ以下の石は決して使わなかったが、シャネルは初めて模造真珠と本物のダイヤの組み合わせや、人造と本物のサファイヤを大胆に組み合わせで見せた
ジイドに紹介されたのもシャネルの店だったし、舞台美術家の最高峰クリスチャン・ベラールに会わせてくれたのもシャネル
シャネルと一緒に戦後初の大規模な革命記念日となったパリ祭を、マギー・ヴァン・ズイレンと共に初めて見物、翌日パリ最後の夜をシャネルの私邸で夕食を共にし、マティスが描いた12枚のバレリーナの、サイン入り版画集を土産にもらう
パリに帰るとVの気力が完全に萎えて、別の仕事に取り掛かっており、全てのメモ、台本など一式を保管しておくよう私に命じた。背景はいまだに不明
Vは、再び劇場に戻って《セールスマンの死》に取り組み、私はVの家に移り住んで以来初めてVと離れてアントニオ・ピエトランジェリ監督の映画で助監督を務めるが、ピエトランジェリは作家で監督経験がないためVに私を貸してくれと言ってきたもの
Vは当時最高の脚本家チェーザレ・ザヴァッティーニのお陰で映画に戻り、《ベリッシマ》でマニャーニと共演、Vの人気作の1つになった。Vの功績は、ショービジネス界での挫折という、甘ったるいハリウッド流のメロドラマに陥りかねなかった物語に、リアリズムを持ち込んだこと。さらにこの映画では、のちに映画界の巨匠となる若いデザイナーのピエト・トージに映画での初体験を与えている。私と同じフィレンツェ出身で、《トロイラス》でも手伝ってもらったが、映画のコスチューム製作の才能はVも認めざるを得なかった
マニャーニは45年に《無防備都市》で映画監督のロベルト・ロッセリーニと共に名を挙げ、当然の成り行きとして激しい恋に落ちるが、イングリッド・バーグマンが夫と娘を捨ててロッセリーニの下に走った時、偽善的なハリウッドで女優生命を失いかけたものの、男の子を生んだ時のマニャーニの反応は想像できる。間もなくマニャーニは自分を慰めるために妻子持ちの若い男と連れ込んでスキャンダルを起こす
51年夏Vの家に泥棒が入った際、他の使用人と一緒に警察に連行されるのをVは見て見ぬふりをしたため、自分で無実を証明するのに6か月もかかったが、そのときにVから独立することを考えた。Vは使用人以外の男と暮らしていたことがわかったらスキャンダルになると思ってみて見ぬふりをしたつもりだったが、過去にもVの援助なしに舞台を手掛けた時、悪い評判を流したのはなぜかVだったことがあった
家を出た後もVは仕事を私に回してきて、私は喜んで引き受けたが、別居の決心は変わらなかった
Vの《三人姉妹》の舞台美術を見たコンラード・パヴォリーニから翌年スカラ座で自分が制作する、ロッシーニの《アルジェのイタリア女》の美術のオファーが来る。初めてVが支配するローマの演劇界からの脱出となる
Vは引き続き初のカラーで撮った次作の映画《官能(邦題「夏の嵐」)》でも私を助手として使ってくれる。アメリカに認められたいという欲望が尾を引いてテネシー・ウィリアムズに脚本を依頼。映画は1866年のイタリアとオーストリアの戦争を題材に、ポー河を舞台にした大スペクタクルで、例によってVの拘りのために予算を使い果たしたが、準備に時間を使いすぎて秋に入ったため、なかなかポー河の霧が晴れずに多勢のエキストラを何日も待機させねばならず、ようやく撮影になったところで炊事場に起こった火事の煙で撮影がストップ、Vは助手の私を罵倒したので、ついに我慢しきれなくなって私はメガホンでVを殴りまくった。Vは私には何も言わずに、「もう一度行こう」と言って撮影が始まる。撮影隊はそのあとも他のロケ地に向かったが、私はスカラ座の仕事があるので別れる。ヴィスコンティは初めて自分の問題を離れ、私の決断を認め、私は感謝しつつミラノへと向う
スカラ座はヴィスコンティ家の劇場で、Vの祖父が20世紀の初めころ劇場を経済的な危機から救い、栄えある最高主権者となり、芸術監督にトスカニーニを迎えた
戦争で破壊されたスカラ座をミラノ人は1年で再建、46年にはアメリカから戻ったトスカニーニがヴェルディの《レクイエム》を振った
戦争で時代が変わり、舞台でもキリコなどの前衛芸術家に装置を依頼するなど革新的な動きがあったが、スカラ座だけはいまだに声が何より重視され、ひたすら偉大な歌唱が望まれ、ドラマがそれと等価になるとは想像もされていなかった。ドラマは専門の劇場に任せておけば良いというわけで、オペラは美しい衣装を着けたコンサートとほとんど変わらなかった
私がスカラ座に行った時はそれが変化し始めていた時期で、新時代の演出家や歌手たちがやってきて、オペラが再び人気を回復し、新しい若い聴衆が群がった
当時はイタリア人歌手が最も華やかな時代、純粋なベル・カント唱法のテバルディvsドラマチックな唱法のカラスの争いは熱狂的でサッカー・ファン並み
私の担当したオペラでは、若きカルロ・マリア・ジュリーニが指揮、当時最高のメゾのシミオナートが主役。舞台装置の機械類を縦横に使って部隊を動かしたのが成功の理由だったが、やはり本命は映画で、早く助監督に戻りたかった
カラスとスカラ座の関係は狂乱状態。4849年のヴェネツィアのオペラシーズンに彼女はワーグナーとしては2作目のイゾルデを歌って成功。ヴェネツィアのもう1人のスターだったマルゲリータ・カロシオがインフルエンザでベッリーニの《清教徒》のエルヴィラが歌えなくなったとき、指揮者のセラフィンの要請を受けてイゾルデとは全く違う声と唱法を要求するこの難役をたった7日間のうちにマスターしたことがスカラ座への道を開く
カラスがスカラ座への思いに取り憑かれていたため、古い演出の《アイーダ》の3度目の復活公演に出演を承知し、ヴェールを被ったままの王女を演じたが、聴衆が期待したのは新しいディーヴァ(歌姫)で、太ったギリシャ女がコントラルトとソプラノの間を行き来する不安定な声でドラマチックな歌唱も聞かれず、スカラ座の女王テバルディと比較して悪評を浴びせ、カラスは惨敗。監督のギリンゲッリと当時の関係者の観念を超えた新しいオペラの可能性をめぐって衝突した彼女は、「唯一絶対のプリマドンナ」でなければこの劇場に戻らないと宣言。世界中で嵐のような成功に次ぐ成功を収め、ギリンゲッリに批評の切り抜きを送り続け、リオのシーズンでカラスとテバルディが鉢合わせをした時にはカラスが明らかに勝利者だった。その後もイタリア中で歌い続け聴衆を熱狂させて、遂にギリンゲッリに世界的な存在だと認めさせ、スカラ座に戻ってきた
テバルディが伝統を守る一方、カラスは革新的で、支持者同士の争いが話題の種となる
テバルディはトスカニーニ一派によって守られ、カラスはセラフィンの支援を受ける
トスカニーニがなぜあれほどカラスを嫌ったのかは判じ難いが、ある時、「声に鬆()が入ってる」と発言、カラスがひどく傷ついたが、彼女は自分を殺してトスカニーニのオーディションを頼み、断られても後に引かず、彼を困った立場に追い込んだ
テバルディは《ワリ―》で散々な初日を開け、片やカラスは《メディア》の初日は鮮烈な舞台となった。若きバーンスタインのスカラ座デビューでエネルギーに満ちていた。テバルディは争いから退き、幸いアメリカで大きな成功を続ける。この時以来新しいイタリアオ・オペラの世界が、カラスと彼女を取り巻く我々とを中心に回り始めた
ギリンゲッリは《シンデレラ》を取り上げ、パヴォリーニ、ジュリーニ、シミオナートと私という同じ顔合わせを使うことになったが、まだそれは先のことで、毎日の生活費を賄うためにはシャネルからもらった本物だと分かったマティスの版画を売らなければならなかった。十分生活費が稼げるようになるまでには手元に4枚しか残らず、それも泥棒に盗まれ、シャネルの贈り物は消滅
ミラノに戻って演出家として仕事をするのは生易しいことではなかった。最初から合唱団と衝突、シミオナートの励ましもあって、主要メンバーの顔を覚え、それぞれに違った振り付けを指示したところ、全員が反応し、文字通り舞台に加わった。批評でもその点が取り上げられ、参加者全員が演技していたことが奇跡だと書かれ、その時以来私はどこでもそのようにしている
原作に重きを置き、その時代を再現するアプローチは、ヴィスコンティから引き継いだもの。予想もしなかったのは一般公開のドレス・リハーサルに姿を見せたことで、来ていることを知らなかったが、満員のホールから大喝采が湧いた後、外に出たところでVに抱きしめられたのには驚いた
ギリンゲッリに呼ばれて、次のシーズンの2つの公演を提案される、1つは偉大なテノールのジュゼッペ・ディ・ステファーノ出演のドニゼッティの《愛の妙薬》と、ロッシーニの《イタリアのトルコ人》だったが、最高のおまけとしてカラスが私の演出でロッシーニに出たいという
ところが、これがテバルディvsカラスの争いにも匹敵するヴィスコンティとの有名な闘いの始まりとなる。Vがスカラ座に演出を引き受けることになり、カラスと3つの公演をすることが決まり、最初がシーズン幕開けとなる《ヴェスタの巫女》、次が私の《愛の妙薬》だと聞かされてがっくり来る
シャネルが復帰するというニュースが飛び込み、彼女のショーを見に行くが、評論家、バイヤー、同業者仲間たちがが寄ってたかって酷評、ディオール、ファット、バレンシアーガなど当時の巨大な服飾製造帝国の中枢の大物たちにとってシャネルは脅威で、彼女のデザインするクラシックな服は何年でも着られるが、製造機械は急速に移り変わる使い捨てのファッションを望み、デザイン関係者は馬鹿にしたような沈黙と無礼の忍び笑いでシャネルのコレクションに報いた
ヴィスコンティ一族の名はミラノでは魔法の力を持ち、彼のリハーサルには最大限の努力を集中させるため、2番手の出し物の《愛の妙薬》には手を抜かれざるを得ない。ましてやVの大掛かりな装置や照明には全員多大な時間がとられたうえに、だれでも手が空けばカラスのリハを見に群がった。今や猛烈なダイエットによって太ったギリシャ女からすらりとした影のある美人へと変貌を遂げ、あらゆる意味でカラスは自らを作り上げた。声が犠牲になったのではないかと恐れたが、彼女は豊かな声量は大きな体が必要といわれた神話が偽りであることを示した
それやこれやで私の身辺がパニック状態になり、一番重点を置いた照明効果のリハが初日の午前中2時間しか取れないことが分かったうえに、客席はその夜のガラ公演のための飾りつけでドタバタ。そんな中トスカニーニがあかあかと照明をつけながら音響を調べに突然闖入、邪魔していることなど意に介さず、30分も話し続けたため、私は照明を落としてリハを始める。トスカニーニがどうしたのかと聞いたので、まわりがリハのためだと説明すると、彼は《愛の妙薬》には暗い場面などないと言ったが、私は無視して仕事を続ける。ギリンゲッリが飛んできてマエストロの言葉が聞こえないのかというので、「彼は40年遅れている。これは私の出し物で、演出のことで指図されたくない」というと、トスカニーニは黙って一行と共に出ていった。ギリンゲッリは「トスカニーニを侮辱した」と言って怒りで蒼白。トスカニーニの娘ワリーのとりなしがなければ出ていかざるを得なかったろう
トスカニーニからも、最初にスカラ座に来た時は苦労して、一目置かれるために随分無礼なことをしたと話してくれた
《愛の妙薬》は聴衆と批評家を満足させた。《巫女》も絶賛を浴びる。Vはカラスから演技力を引き出すことに成功。容姿も声も素晴らしく、相手役のフランコ・コレッリも文句なしに完璧。《愛の妙薬》も若きバーンスタインの指揮で、パステル調の色彩とフリルの多い絹がふんだんに使われたロマンチックな舞台は完全に独創的で、その後頻繁にこの手法が真似されることになるが、カラスの新しい魅力を引き出して成功。特に絶妙なピアニッシモは誰もが張り詰めた思いで耳を傾け、その緊張は信じ難いほどだった。今でもバーンスタインはオーケストラからもっとピアニッシモが欲しい時には、「カラス・ピアニッシモ」と表現する。この時を機にバーンスタインとも親しく付き合うようになった
シャネルは、アメリカで味方を得て、新聞は彼女を偶像化し、シャネル・ルックが流行って再び世界の頂点に立つ。私は彼女から南仏の別荘に招待される
56年にはジェノヴァで《カルメン》を、オランダ音楽祭ではジュリーニの指揮する《ファルスタッフ》を演出、翌年にはナポリとパレルモで演出
Vの下でカラスが黄金時代を迎え、彼女の優れた演技力がVの創造する大仕掛けな舞台を必要とし、2人でオペラ芸術を完全なドラマとして発展させた
私は、スカラ座の近くに新しくできたピッコラ・スカラでの演出を任され、若い才能ある集団を作ることを目的とし、台劇場の重苦しいスーパースターによる公演とは違うオペラの制作に励見、新しい実験を次々に実現、カラスが主張するオペラは歌だけではなくドラマであるべきという信念が目標になった。最大の支援者であり教師となったのはセラフィンで、モンテヴェルディの「プリマ・ラ・パローラ(まず言葉、次に旋律)」の金言を忠実に守っていたが、カラスはそれを徹底して仕込まれた
セラフィンに学びながら、できるだけカラスの後を追い続けた。彼女の行動の11つが伝説を作っていったが、58年末のシーズンの幕開けに《ノルマ》を歌うことになっていたが、風邪で声が出ないにもかかわらず大統領出席のガラ公演とあって引き受け、その旨事前予告もしてたのに聴衆はブーイングの嵐を浴びせたため、途中でホテルに帰ってしまう。数か月非難の嵐に会った後、Vの演出で復帰したが、聴衆は抗議の印としてドレスアップせずに来場、第2幕目で登場したカラスは、神々しいほどの力に満ちた歌声を披露、指揮者のガヴァッツェーニがあろうことか指揮棒を置いて喝采を促し、劇場は爆発した
資金の潤沢なダラスの新シヴィック・オペラが57年のオープニングにカラスのコンサートを希望し、私に《アルジェのイタリア女》の演出を依頼、初のアメリカ旅行をした
漸く小さな映画《キャンピング》を撮ることが出来たが、批評は散々だったものの、テレビで何度も放映され、新しい出発点には違いなかった
カラスは、マネージャー役の夫メネギーニとの破局が近く、オナシスとの密かな情事が進行中
カラスは法王ピウス12世とも議論して勝つ。彼女が《パルジファル》を歌ったとき、法王はイタリア語で歌ったのが残念だったと声をかけたのに対し、彼女は「"お高い芸術家になるか、人気者になるか、2つに1つだ」と答え、法王が庶民よりもエリートの見方をするのはふさわしくないと、手厳しく付け加えたが、法王は「ワーグナーの音楽はドイツ語によって最も生かされる」と怯まなかったものの、分が悪いと言わざるを得ない
彼女は権力に抵抗する者を愛し、私とトスカニーニの衝突の話を何度も繰り返した
カラスは次第に視力を失い、舞台から離れてオナシスの世界に引き込まれるメネギーニは寝取られたと復讐の離婚。オナシスにとってはカラスのもたらす権力と名声と威光が目的にすぎなかった
わたしにとって最も悲しかったのは、テキサスの石油成金の1人がマリアの出演する《椿姫》の映画化に250万ドル出すと提案してきたのに、カラスは私の力量に確信がなく、私の説得と懇願をはぐらかしたため、別れ別れなった
ジュリーニとの仕事が増え、新たにイスラエルのマン・オーディトリアムで《ファルスタッフ》の演出を頼まれる。大規模なホールで野外を想定したような装置が必要なうえに、世界一厳しい聴衆でごまかしは許されない。それ故にここのオーケストラは世界最高に数えられ、ジュリーニもバーンスタインもメータも、大指揮者が喜んで指揮をした
58年秋セラフィンから突然ロンドンに呼び出され、初めてイギリスでコヴェント・ガーデンでの《ランメルモールのルチア》の新演出についてのオファーがあり、カラスとの共演と期待したらジョーン・サザーランドを紹介され、がっしりした不格好な服装の趣味も悪い風邪を引いた姿に気力が萎えたが、セラフィンの伴奏で彼女が歌い出すと、声は違っていたがカラスとセラフィンとの情景がそっくり繰り返され、奇跡が起こった。私は即座に呼ばれた理由がわかる。これまでの実績を評価して新しいチャレンジの場を用意してくれたもので、これが国際的なデビューのきっかけとなった。彼女と話しているうちに、大きな問題は彼女自身の恐怖心と自信の無さだとわかり、自分の感じた通り素晴らしい女性であることを話すと打ち解けてくれた
ロンドンの街は期待通り、パリやローマのような尊大さはなく、なんとも控えめなところがあり、世界最大の君主国でありながらヴェルサイユやヴァチカンに比べると街の造りは簡素で、それが命を長らえた秘密にもなっていると思われた。町の中に感じられる村のような雰囲気、人間的なスケール、慎み深さも好きで、北国特有の光、軒先やバルコニーを照らす太陽の低い日差しは鋭い明暗を作り出し、南欧の人間には非常に魅力的
イギリス人の愛情の深さにも接した。冷たいと言われるが、見る目をもって見ればわかるはず
コヴェント・ガーデンの支配人デヴィッド・ウェブスターの関心は、ロイヤル・オペラから世界的なソプラノが誕生するかどうかとともに、《ルチア》をダラスに持っていってカラスに歌わせるのと引き換えに、《メディア》をロンドンに持ってくるというすごい契約にあった。そのため、カラスとメネギーニがドレス・リハーサルを見に来ることになり、上り坂にあるサザーランドの声を聴いて、大人の対応をする
初日にテノールのジョアオ・ギビンの調子が悪く声が出ないという知らせが入ったが、ジョーンは檜舞台にも関わらず自分を抑えて信じ難いほどのピアニッシモを出し、ギビンを助けた。聴衆は彼女に味方し、最初のアリアで9分間のスタンディング・オベイションとなり、カーテンコールでもホールは熱狂
59年夏カラスはオナシスとのスキャンダルにまみれ、更に彼との頻繁なナイトクラブ通いなど彼女の行状がさらけ出され、《ルチア》の初日もぞっとする悲劇と喜劇の混ざり合いとなった。参加者の1人が彼女の写真を撮ろうとスカートの中にカメラを隠し、狂乱の場でシャッターを切り始め、その音が彼女に届き、彼女は鋭く咎めたが、狂乱の場の最後に到達したルチアが終わりに有名な高音Eに挑戦したが出ず、嗄れ声が聞こえただけだった。役者だったカラスはそれを息を引き取るときの悲鳴に変え、聴衆は演技の1つと受け取って熱狂的な喝采が続いたが、関係者にはすべて分かってしまった。舞台を終えた後カラスは楽屋に関係者を集め、シャッター音に原因があるので、声は出ると言ってアリアを歌い始めたが、また同じところで音を外した。カラスはピアノの蓋を閉め、全員が部屋を出た
ツイストに象徴される屈託のないバカ騒ぎが50年代の特徴で、60年代はビートルズで世界が塗り替えられた。カラスがダラスでピアノの蓋を閉めた時、1つの時代が終わった
59年末ウェブスターからロイヤル・オペラハウスで《カヴァレリア・ルスティカーナ》と《道化師》の新演出のオファーがあり、この舞台が私の人生の方向を変える。それを見た当時イギリス演劇界の「最高の」劇場とされたオールド・ヴィック座の総支配人ベントールからシェイクスピアの演出を持ちかけられ、最初は冗談と思っていたら、本気でイギリスの舞台で支配的なヴィクトリア調ではなく、前2作でもやったように舞台にイタリアの感覚を与えてほしいとの依頼。Vからも私の不安をからかわれ、演劇経験が1回しかないのにオールド・ヴィック座で、しかもイタリア語でもやったことのないシェイクスピアをやるなんて狂気の沙汰と言われたのが、逆に決心をさせて引き受けた。出し物は60年秋予定の《ロミオとジュリエット》
60年の幕開けは、サザーランドのイタリアデビューにヴェネツィアを選び、《ルチア》のチームがヘンデルの《アルチーナ》に挑戦、演出もさることながら、声楽的にほとんど不可能なほどの難役にジョーンが挑戦してその無限の可能性の一端を示してくれた。公演は大成功で、何度もカーテン・コールに呼び出され、編曲を担当したボニングのチェンバロの伴奏でヘンデルの最高傑作の1つである《輝ける大天使》を歌い、ホールは再び熱狂的に沸いた。《ルチア》のチームが61年から62年のシーズンをパレルモで開ける
ジョーンはカラスと同等の地位まで上がったが、ジョーンが穏やかで安定してる原因は、音楽仲間で、彼女の活動に刺激を与え、支えとなったリチャード・ボニングとの結婚
カラスとオナシスの場合は、情熱的ではあっても満たされない恋愛で、フラッシュライトの洪水の中で過ごした中で、彼女の実際に聴こえてくる声はますます潰れて弱くなっていく声でしかなかったのは、実に悲しい思い出
演劇の前にもう1つのオペラでヤコポ・ペーリの《エウリディーチェ》をフィレンツェの五月祭で野外セットを使用。オペラ作品としては最も古いものだが、断片が残されているだけ。古楽器のみを使い、メディチ家の宮廷をそのまま舞台装置として使えたことは最高
《ロミオとジュリエット》に取り掛かると、シェイクスピアが同じ題材のイタリアの作品をそっくり借用していて、作家のイタリアへの愛に溢れていることが読み取れる。同時に彼が目指したのは言葉の創造で、舞台でも不滅の台詞を正しく読み上げることが何にも増して重要視され、ヴィクトリア朝時代の考え方では主役を演じるのは常に経験豊かな年嵩の女優や男優で、ロミオやジュリエット役としては滑稽な感じさえ与えていた。シェイクスピアがジュリエット役に14歳の少年を使っていることに注目、作家にとって読み方より若さの方が重要だったことを知り、若い才能を試すことを決断、ベントールから紹介されたのがジュディ・デンチとジョン・ストライド。舞台はルネサンス初期の中世の色合いの濃い都市で起こった現実の物語に仕立てる。かつらもつけずに男女とも長い髪を伸ばしたが、ビートルズのはやる前で出演者には嫌われた。抑えられない性急な若い恋が初めて現実味を持ったが、幕を開けるとロンドンの演劇評論家は何もかもこぞって酷評、私を含めて萎縮する中、叱咤激励したのはベントールだった。直後に《リゴレット》のリハでブリュッセルにいると、『オブザーバー』紙に現代の批評家が絶賛していた。その後からオールド・ヴィック座にはアメリカからも客が押し寄せ、主催者はシーズンを延期せざるを得ず、終わりころには主役がダブルキャストとなって、街では長髪がはやり始めた
61年初ロンドンに行き《愛の妙薬》でグラインドボーンにデビューした後、シェイクスピア信仰の総本山ともいうべきロイヤル・シェイクスピア劇場からストラトフォードでの《オセロ》を提案されたが、その前にダラスに行って《ドン・ジョヴァンニ》に取り組む。サザーランドとエリザベート・シュヴァルツコップが歌い、ニコラ・レッシーニョが指揮。私にとってモーツァルトの傑作との生涯にわたる格闘の重要な第1歩となる
《オセロ》は全く勝手が違った。ギールグッドとバーネンの取り合わせだったが、舞台装置も予定通り作動せず、台詞もまちあげ、衣装もはがれて演劇史上でも最高に不運で悲惨な一例となった。たまたまVが初日に来ていて、私の演出に「心から敬服した」と宣った
61年終わりにオールド・ヴィック座の《ロミオとジュリエット》のニューヨーク公演があり、シティ・センターでの初日は大成功。公演後のレセプションでマリリン・モンローと出会い、食事を一緒にしながら演劇のことを話したが、構想はまとまらず
スカラ座から締め出されていることへの復讐の機会が、カラヤンによってもたらされた。ウィーンとスカラが公演を交換し合うという提案で、まずミラノで《ラ・ボエーム》を新演出で行う計画を立て、私を指名してきたので、スカラ座としては私を呼び戻さざるを得なかった。図に乗った私は翌春の《アイーダ》の演出も契約したいと申し出る。以前ニューヨークのメトが《アイーダ》の演出で私の同歌劇場でのデビューを依頼してきたとき、主役がビルギット・ニルソンだと聞いて、地元にこの役のために生まれてきたともいえるセンセーショナルな黒人歌手レオンタイン・プライスがいるのになぜと言って破談になったことがあり、今回は私の新演出でプライスを起用する条件を付け、スカラ座は同意
ブロードウェイに新旋風を起こしたエドワード・オールビー演出の《ヴァージニア・ウルフなんかこわくない》を見て圧倒され、彼に会ってすっかり意気投合し、イタリアとフランスでの上演権の交渉に入る。ヨーロッパではこのニューヨーク的な作品は受けるわけがないという者もいたが、オールビーの演出はどこでも通用する古典だとの確信を持った
《カミーユ》(椿姫)のオーディションでダスティン・ホフマンという無名の若者が来て演技を披露、すぐに物凄い才能だと分かったが、今回はふさわしい役がなかったのも明白で、そう指摘すると頷いてくれた。《ロミオとジュリエット》を見て一緒に仕事をしたいと思ったという。知り合ういいきっかけになった
63年初、スカラ座での《ボエーム》で成功し、そのあとに続く《アイーダ》で足固めをした。故郷ではV一派の1人に過ぎず、個人としては認められない存在だったが、《アイーダ》によって現在ゼッフィレッリの名と結びつくスタイルを確立。スケールの大きさと、ふんだんな演劇的要素である
私はニューヨークに心を掻き立てられル。創造的で他にはない雰囲気がある。多くの人が溢れていることで特別な電波が発生し、現実に作用しているのかもしれない。ニューヨークこそ都会だという感情は、アイゼンハワーのどちらかというと落ち着いた時代から一気に解放された60年代初期にとりわけ目立っていた。バーンスタイン一家と友人だったので、よけい強くそれを感じたのかもしれない。彼らは身辺に渦巻くあらゆるクレイジーでエキサイティングな物事の中心にいた
狂ったような旅の生活が続く。その年の終わりにカラヤンの《椿姫》のためにスカラ座に行く。主演はミレッラ・フレーニ、カラヤンの《ボエーム》で成功していたとはいえ、ヴィオレッタはミミとは全く違う。リハで彼女が神経質になったのは、カラスファンを始めとするディーヴァたちのファンからの脅迫状が原因。そのうえカラヤンの通し稽古をしない方針が貫かれる。歌手たちをリハーサル過剰にさせず新鮮に保つためのカラヤン流のやり方だったが、今回のフレーニに関しては自分のペースがつかめずに失敗だった。初日が近づくにつれ脅迫状は悪辣さを増し、フレーニは魂が抜けたような状態で劇場に到着。安全策で歌手たちがよく要求するように、音程を下げるよう頼んだがカラヤンは拒否。第1幕のソロのアリア、高音の「ジョイヤ」でフレーニの声が2度割れ、実に恐ろしい金切り声を出すのがやっと。私もそれ以上非道いものはめったに聞いたことがない。当然聴衆からはブーイングがあったが、第1幕のカーテン・コールでは突っ張りとおすことに決め、大向こうに胸を張ってこぶしを振り上げて見せたため、聴衆の激怒を買ってしまう
カラヤンは指揮台に戻ったが、巨匠自身もブーイングを浴び、指揮台を降りるかどうか迷っていたが、プロとしての誇りが彼に演奏を続けさせ、その後は順調に進んだ
翌日フレーニは病気を訴え、アンナ・モッフォが代役を務めたが、聴衆は同情どころかさらに辛辣で、パラシュートに繋がれた猫が客席から飛ばされ、ぎゃあぎゃあ鳴きながら舞台の彼女の足元に落ちた。スカラ座は残りの幕をキャンセルし、公演そのものを中止した
この初日も1217日で、私にとっての呪いの日だった
しばらくしてVと出会ったとき、「古い友人として言うが、《椿姫》は避けた方がいい。彼女とは相性が悪いようだ」と言われ、反論のしようがなかった
気難しい女性のもう1人はアンナ・マニャーニ。ハリウッドで大成功し、テネシー・ウィリアムズが彼女のために書いた《バラのいれずみ》でオスカーもとったが、下り坂に差し掛かったころイタリアに戻ったが、留守の間に彼女が得意としていた強い女の役はソフィア・ローレンのものとなり、夫のカルロ・ポンティからモラヴィア原作の《2人の女》の母親役をオファーされたが、「いくらなんでも私の娘役でソフィアが処女の役を出来るなんて思わない方がいい」と高飛車に出たため、出演機会を失う。私は《ヴァージニア・ウルフなんてこわくない》こそ、喧嘩早い妻にうってつけと考えてアンナにオファーしたが、役柄が不満でとうとう実現しなかった
ほかにも気にかかったのはカラスで、引退の理由となったオナシスとの関係が彼女の望んだ幸せをもたらすものではなかったことがわかる。彼女が絶望的な愛を捧げるほど彼はサディスティックに彼女を侮辱し、子供の反対を理由に結婚を避けた
コヴェント・ガーデンのウェブスターは私と同様、彼女の復帰を確信、64年に《トスカ》でのカムバックを懇請。イメージとしてオナシスに虐げられているカラスを想像させるような演出を試みて、やっと彼女に目を覚まさせる。カラスの天才的なところは、いったん割り切ったものを自分の中に取り込むと、生まれたての赤ん坊のようにそれに衣装を着せ始める。が突然すべてを理解し、本質を掴み、非常に洗練された言葉で議論に入る、その時彼女はディーヴァになり、全てが報われる。キャリア全体を通して、自分が役に何かを見出せないと感じた場合、そのオペラをレパートリーから外す。《アイーダ》を歌わなくなったのも彼女自身は誇り高い自立した人間であるはずなのに、ヴェルディはそのようには書いてはおらず、彼女はかなり無理をしなければならなかったから。カラスが演出家に望んだのは、ふんだんなヒントであり、彼女に霊感を与えるちょっとしたアイディアだった。彼女はそれらを一緒にしてアイディアについて思い巡らし、受け入れると実行に移す。彼女とのリハはアイディアとイメージとヴィジョンの万華鏡のようだった
カラスは、《トスカ》に加えてパリでの《ノルマ》も引き受けてくれ、翌年には場所を交換して行う計画になった
目前の《ヴァージニア・ウルフ》については、イタリア演劇界では団体の資金援助が不可欠で、夏の間中資金集めとキャスティングで時間を費やしたが、結局見つけた主役は不適任と分かり、マニャーニに懇願したが拒絶され、初日迄1か月もないときに急遽サラ・フェッラッティが助けてくれ、ヴェネツィアでの開幕に間に合わせた。この時は国際演劇祭で3回公演しただけだったがのちにイタリア各地を回り、長期的な成功を確信。ローマでは第1幕だけでも25分のスタンディング・オベイションを受け、舞台裏はお祝いを叫ぶ群衆でぎっしりとなったが、その時マニャーニが飛び込んできて私に殴り掛かり、金切り声で「あの役は私のために書かれてたんだ。それを永久に逃しちまった」と取り乱した
《トスカ》の初日、カラスは自分の声に対する例の恐怖心が復活、精神状態が肉体に作用する病も再発し、夕方にはしわがれ声になっていたものの、舞台に出るとさすがに声は完璧で神経も静まっていた。ただ舞台に出るまで握られていた私の手には彼女の爪痕に血が滲んでいて、私はその傷を何週間も大切にした
ニューヨークでは、メトがリンカーン・センターに移る前の最後の舞台として、新演出の《ファルスタッフ》を私に依頼、しかも初のバーンスタインとの一緒の仕事
《ノルマ》の初日、カラスは初めから声の調子が最上でないのは明らかで、そのうえオーケストラの楽器のピッチが以前よりも上がっているのに、彼女は下げることを拒否、第1幕で外し、第3幕の高音のCでも再び掠れたが、偉大なオペラは声の競技ではなく、彼女のノルマは最も偉大な解釈であり、確実に現代最高の歌唱だった。この公演にシャネルが駆けつけてくれたのを見て、マティスの版画集を売ったことを白状したが、彼女は全く覚えていない様子で、特別な贈り物をすると言ってくれたが、生前には訪問できなかった
いつの間にか、私はニュース種になり始めた、有名にはなったが貧乏だった。60年代半ばにもマティスを売っていたが、経済面での最大の失敗は、ライブ・シアターに夢中になったこと。イタリアに最高の現代劇を紹介することに情熱を燃やし、現代演劇を多くはアメリカから導入し、劇団を組織してイタリアの主要都市を巡演
パリでは《ヴァージニア・ウルフ》のフランス語版を準備、順調にいったのでローレンス・オリヴィエに依頼された彼の新しいナショナル・シアター・カンパニーがオールド・ヴィック座で講演する《から騒ぎ》の準備にかかる。ローレンスにも出演を依頼したが叶わず、代わりにアルバート・フィニーを紹介され、蓋を開けると彼が最大の注目を浴びてしまうと同時に、当時イギリス演劇界では重い出し物が続いていたこともあって一連の憂鬱が拡散していたが、それを見事に吹き飛ばした
リズ・テイラーとリチャード・バートン夫妻が《ヴァージニア・ウルフ》の舞台稽古をこっそり見ていったことが後に大きな実を結ぶ
《ヴァージニア・ウルフ》のプロデューサーは、イングリッド・バーグマンがロッセリーニと別れた後結婚したラルス・シュミットで、初日は予想通り大成功。イタリアのシステムと違って長期公演が可能となり以後3年間続くが、数か月後キャストの間で人気を競って争いがおこり、舞台上で本気の喧嘩に発展、主演女優が大怪我をして芝居は中止、怪我の回復まで劇場は閉鎖。スキャンダルのお陰で復帰後の公演は収益的には大成功となった
64年の締め括りはマニャーニで、私の劇団の維持も兼ねて彼女に《雌狼》への出演を説得したところ、しぶしぶ応諾。翌年フィレンツェのペルゴラ劇場で開幕、長いこと生の舞台から遠ざかっていたマニャーニは正面席にまで声を届かせることが出来なかったが、聴衆は世代を超えた生命力のシンボルであり、あらゆる困難に立ち向かい、つらい目に遭っても常に胸を張って生きる女性として捉えられていたマニャーニのカムバックを受け入れ、劇団の将来も保証された。当初、芝居に縛られたくなかったマニャーニは3週間限りと言っていたが、この役を絶対に手放せなくなり、3年後にこの役を彼女から引き離すのに苦労した。それほど彼女にとって完璧な役柄であり、他にそんな機会は見つからなかった。《雌狼》では、《ロミオとジュリエット》で酷評した不倶戴天の敵となったローマの劇評家たちに一泡吹かせようと、招待券を出さなかったため、侮辱された記者たちはチケットを自腹で買って酷評する代わりに、今後私の劇に関しては一切批評を載せないという申し合わせをした。それが逆に《雌狼》のチケット売り上げにプラスとなって公演は大成功に終わり、私はローマの批評家たちに感謝する1ページ広告を新聞に載せた。彼らはこれからも決して私を許さないだろう
65年はチャーチルの死で明け、当時世界でも屈指の映画制作者であるリュー・グレイドと知り合いになり、いまだに最終目標としていた映画の世界に入るため、古典劇を撮ることになり、シェイクスピアの《じゃじゃ馬ならし》のリメイクを選び、バートン夫妻に白羽の矢を立て説得に行く。バートン夫妻が新人監督の映画に出てくれるとは期待できなかったが、バートンはシェイクスピアに戻りたがっているという情報があり、説得に行ったとき、リズはどこからか手に入れてきたキツネザルを持て余していたのを助けてあげたことが奏功して、説得に成功
ニューヨークでは新歌劇場の杮落しで最初のオペラの演出の依頼が来る。ビングはシェイクスピアの《アントニーとクレオパトラ》を題材とした新作オペラの企画を提示され、私に台本と装置と演出を、サミュエル・バーバーに作曲を委嘱。精巧な舞台装置を駆使した大スペクタクルを思い描く
ニューヨーク滞在中に、旧メトでカラスの《トスカ》を見た。取り立てって素晴らしい公演ではなかったが、聴衆はカラスの復活を熱狂的に迎え、彼女にとってもなにがしかの満足が得られたに違いなかった。おかしかったのは、ロビーにいた過去の栄光に浸る着飾った老婦人が、ホールの明かりが落ちる寸前に会場に入って注目を集めようとしたことで、長く待ちすぎると照明が落ちてしまうので11人と諦めて客席に入るなか、最後まで粘ったのが5060年代に活躍したソプラノのズィンカ・ミラノフで、拍手喝采を受けたが、どうもおかしいと思って上を見上げると桟敷席にジャクリーン・ケネディ未亡人の姿があった。ジャッキーはバーンスタイン夫妻と映画監督のマイク、ニコルズと一緒
カラスについては、激しさを増す神経症的な行動から、彼女の生涯にわたる自分の声との闘いで最終ラウンドに入っていることは明白で、コヴェント・ガーデンでの残り4回の《トスカ》で遂にギリギリになって出来ないと宣言、しかも最後は女王の御前公演だった。3回は代役を立てたが最後だけは出演を懇願し、しぶしぶ同意。私はこれがカラスを見る最後だと直感したので友人にその旨を伝えて誘う。カラスはそれなりに立派にこなし、聴衆も寛大な拍手を送ったが、破綻はなかった代わりに光り輝く歌もなく、彼女は遂に舞台を投げたのが伝わってきた
63年の暗殺以来、オナシスはケネディ一家に接近したが、世界一有名な未亡人と結婚するという大胆な発想はいつから抱き始めたのか。モンテ・カルロで選り抜きの赤十字舞踏会で、カラスは私にエスコートを頼み、オナシスはマギー・ヴァン・ズイレンをエスコトート、ズイレンの夫は男爵で一時ベルギーの外交官を務め、こうした催しを嫌っていた
私はまだカラスには《トスカ》の映画での役割が十分値すると考えており、カラスもようやく理想とするヘプバーン願望を満たせると喜ぶはずで、オナシスのヨットにまでプランを持っていったが、オナシスが支援するといったのは1万ドルだけで、それでも私はやると決めて準備をしていたら、映画化権を持っていたカラヤンが拒否したため、プラン自体が潰れ、カラスは自分の出資した1万ドルを返せと言ってきたので、すでに何十万ドルも身銭を切っていた私としては承服しかねて断ったために、二度と修復できない関係となった
65年が終わり、バートン夫妻との映画制作は進み、バートンは自分を破滅させるハリウッドの象徴としてのリズに腹を立て、彼女のほうは彼の中のイギリス役者のお高くとまったところが嫌いだったが、最終的には大部分の出費を自分で賄ったので、バートン―ゼッフィレッリ制作とクレジットされることになる。2人の大スターをイタリアでイタリア人が監督する名誉を感じたが、私のチームとバートンの取り巻きとの間で衣装について諍いが発生、バートンが私たちのチームが用意したものを、リズがバートンの取り巻きのデザイナーのものを着ることになる。それ以外にも朝から準備が出来ているバートンに対してリズは夕方からしか始動しない。最終的に8時から3時としてリズに妥協してもらう。2人の前向きな点は、バートンがシェイクスピアの役の解釈で彼女に力を貸し、彼女は彼の大袈裟な舞台用の演技を抑えるという撮影技術を教え、お互いの経験不足を補いあった
メトの杮落しのほうでトラブル、バーバーの音楽は室内楽の作品で、私が期待した壮大な叙事詩ではなかったにもかかわらず、ビングは修正を拒否、案の定リハは死に馬に鞭打つような地獄で、そのうえ新しいメトの機械装置である回り舞台を利用しようとしていたのにリハの間に壊れて使い物にならず、初日にはさらに滑稽な場面が露呈して聴衆の失笑を買い、メトはタオルを投げて公演をキャンセル。ちなみに、バーバーの曲はスポレートで室内楽のオペラとして再演されその規模としては成功だった
2か月後にはフィレンツェのアルノ川が氾濫、市内が洪水に見舞われ、水が引いた後には惨状が晒され人類の芸術的遺産が散々な目に遭った。その時の私のフィルムは驚異的な記録映画になると確信したが、バートンのナレーションという協力によって町に2億ドルの収益をもたらし、復興に役だった
《じゃじゃ馬ならし》の公開から次の映画まで普通はじっくり時間をかけるものだったが、《ロミオとジュリエット》の映画化の準備開始まで3か月もなかった。舞台公演の予想外の成功にも主役俳優が無名だとして、映画《じゃじゃ馬ならし》の成功もバートン夫妻のお陰だとして、出資者はシェイクスピアは儲からないと言って否定的、唯一乗ってきたのがパラマウントだったが、親会社のG&W80万ドルしか出さないと言ったのに軽率にも同意。さらに問題はキャストで、ロミオにはレナード・ホワイティングが推薦され問題なかったが、ジュリエットのオーディションではオリヴィア・ハッセーを見たが太りすぎでイメージが合わず、他はすべて決まった後、再度呼んだら驚異的な変貌を遂げたハッセーに巡り合ってほっとして、67年央に撮影に入る。予算が少ないのでセットは少なくしてロケーションが中心だったがすぐに予算は底をつき、G&Wに増資を頼むしかなく、それまでできたフィルムを見せたところ、ワンマンのプルドーンは全く関心がなかったが一緒に見ていたローティーンの息子が気に入り、父親も認めざるを得なくなる。映画は150万ドルで完成したが、結果的には50百万ドル近い売り上げを達成、スタジオ史上でも最高の収益率となってスタジオ閉鎖を考えていたプルドーンからパラマウントに自信と熱気を回復させ、後の《ある愛の詩》や《ゴッド・ファーザー》に繋がる。ついでに隣のスタジオで撮影していたローレンス・オリヴィエが当然のようにシェイクスピアの映画なら何にでも持ち前の興味を示し、何とか参加する方法がないかと私に尋ね、冒頭のナレーションを依頼、他にも色々な声音での出演を考え、観客はどれだけオリヴィエが出演していたか知る由もなかった
映画《ロミオとジュリエット》は68年アメリカを皮切りに公開され、全世界規模での成功によって、金持ちとなり、国際的著名人へと引き上げられた
フィレンツェでの地元サッカーの試合を見に、ジーナ・ロロブリジーダの運転するロールスでローマからオリヴィエト郊外の有名な悪路を走っている途中でジーナがコントロールを失っているのを見て咄嗟に私はジーナの顔を守るために覆い被さり車はフェンスに激突しガラス窓を突き抜けて道路に投げ出され意識を失う。ガラスにぶつかったのは顎と鎖骨で、上下の顎は打ち砕かれ、骨折は18か所、7本の歯が欠けたが、頭蓋とその中の脳は被害を受けなかった。顔の右側半分が血で膨れ上がり形を成さない肉塊の中に目が埋もれていた。直前に同じ場所を車で通りがかったときに修道僧を乗せた満員のバスが横転して死傷者が多数出た事故を目撃し救助を手伝ったばかりだった
顔の整形の名医がイギリスにいて私の芝居を高く評価してくれたのが縁でイタリアまで飛んできて手術をしてくれたが、痛みは想像を絶するものだったが、名医の手術は成功して何とか顔がもとの姿に戻る。ロロブリジーダが最低限の保険しかかけておらず、入院代さえカバーできないのに、私が訴訟を起こすのを恐れて、権利放棄の書類にサインを迫り、とにかく忘れたい一心の私は署名させられた
抗生物質とX戦の過剰摂取で免疫力がなくなり、すぐにすべての治療をストップさせたが、ようやく復帰。パラマウントが5年契約をオファーしてきたので、聖フランチェスコの映画を提案、聖なる改革者であり、非暴力主義、教会内の強欲と怠惰を平和的に排斥した行動を取り上げようと、中世イタリアの音楽を調べ上げ、それをジャズと混ぜ合わせたデモ・テープを作ってビートルズに提示したが、スケジュールの都合で挫折したのはショック。《ビートルズがやってくる》も巧みなスケッチに過ぎず、4人が本格的な演技をする機会が与えられなかったのは悔やまれるが、聖フランチェスコは別な形で結実
復帰第1号はメトでの《カヴァレリア》と《道化師》だったが、歌劇場が史上最悪最長のストライキに突入しそうな気配で、次第に指揮者も主役も次の仕事のために去っていく中、ストの目途が付き始めた時、自分に付きまとう呪いを取り除くためにも公演を実現させねばならないと思って、バーンスタインに助けを求める。《道化師》はファウスト・クレーヴァの指揮と偉大なアメリカのテノールのリチャード・タッカーで完璧に仕上がっていたが、《カヴァレリア》が悲惨な状態で、レニーが指揮を引き受け、フランコ・コレッリが復帰を応諾してくれて、何とか健在ぶりを示すことが出来た。タッカーは、大歌手だったが、演技については彼の厚い(ママ)信仰心ゆえに感情を抑えすぎで酷評、何とか内面を出すことに成功し、タッカーを握りつぶしたと思っていた批評家たちを完全に見返した。《カヴァレリア》でも、オリジナルのテンポの復活を主張するレニーに対しコレッリは同意せず、奇妙に端折ってしまったために、休憩時間に舞台裏では爆発が起こっていた
705月法王パウロ6世がベートーヴェンの生誕200年を記念して、聖ピエトロ大聖堂で《ミサ・ソレムニス》の演奏しそれをテレビでも放映、全ての監督を私に一任するという。2つのオーケストラをサヴァリッシュが指揮、ミュンヘンとサンタ・チェチーリアの合唱団が参加、ソリストの中にはデビューとなったプラシド・ドミンゴもいた。ミラノの大司教当時から芸術に大きな関心を持っていた法王は自由に空間を使っていいとしてくれたので、ベートーヴェンの音楽とミケランジェロの芸術への讃歌にしようという発想がわく。1時間10分にまとめられたフィルムは、当日が法王の叙階50周年にもあたり、世界中から僧侶たちが来て、感動的な力強いイメージに出来上がったが、一過性のもので、手から手に渡っている間にすぐに消えてしまって残っていないのは残念
70年には聖フランチェスコの映画に取り組み、タイトルは聖者の祈りの言葉からとって《ブラザー・サン シスター・ムーン》とし、コンセプトを求めてもがくなか日本の《ビルマの竪琴》に出会い最大のヒントを得て仕事が方向づけられた。脚本やキャストで難産の上漸く72年の復活祭にイタリアで公開し、おおむね良好な反応を得たが、ニューヨークでは不評。ベトナム戦争への抗議が激しさを増し、国旗が焼かれた時で、愛と優しさという発想は完全に時代の新しい息吹に逆行していた。テネシー・ウィリアムズは作品を評価し、年間ベストテンのトップにしてくれたが、イギリスでの公開も酷評で、何年も経って日本で公開された時は《ビルマの竪琴》の伏線があったので大成功だった
脳梗塞で倒れたVは物理療法を続け、車椅子生活となりながらも、創作意欲は旺盛で、スカラ座で《指輪》の全曲連続公演の予定があり、彼の別荘で2人で話していると互いの間にあった年月も訣別も反目と苦さも消えたが、スカラ座は愚かにもVの装置は古臭くどこか違うと判断して、別の演出家に決めたといい、Vの《指輪》公演の機会を永久に失う
73年にはスポレートでVの《マノン・レスコー》が最高の舞台となり、スカラ坐には小気味良いしっぺ返しとなった
私は、スカラ座で《仮面舞踏会》をプラシド・ドミンゴとやった。二度目に会った彼は見違えるほど変貌、体重を減らし、俄然猛烈な力を発揮し始めた
《キャバレー》で最高の人気者となったライザ・ミネリを《椿姫》にしようとした企画も、彼女は大いに乗り気となったが、制作者の意向とあわずに潰れる
73年末、キリストの生涯の映画の話が、リュー・グレイドからくる。テレビの連続番組で、キリストの生涯とその言葉を伝えるのが主眼。75年モロッコにまたとないロケ地を見つけ、翌年にはナザレの適地をチュニジアに見つけてロケをした。スターには決して高くはない週3万ドルを「最恵国条件」としたが、ローレンス・オリヴィエが出演を希望したことでスターが続々出演を引き受けた。アンソニー・クイン、ピーター・ユスチノフ、ジェームズ・メイスン、マグダナのマリアにはリズ・テイラーの体調が悪かったのでアン・バンクロフト、マリアニオリヴィア・ハッセー、イエスには散々選んだ挙句にロバート・パウェル等々。このロケ中にVが死去
Vの葬儀で欠席が目立ったのはカラス。かつて情熱的に愛していたが、オナシスも死んで陰の世界に漂っていた彼女は混乱と後悔に相次いで襲われ、古い友達からも遠ざかっていた。北アフリカでの撮影中の会えない間に彼女はすっかり変わってしまう
イエスの映画は《ナザレのイエス》として2年間かけて76年クランクアップ
イタリア語版の《ロミオとジュリエット》と《ハムレット》はフランス演劇賞をとり、《ヴァ―ジニア・ウルフ》は当時フランス演劇界の注目の的で、コメディ・フランセーズの支配人ピエール・デュックスの招きで、同劇場にイタリアの風を送り込みたかったようで、またパリに戻る
5年の改装工事を終えて一新したサル・リシュリューの杮落しのオファーで、ミュッセの《ロレンザッチョ》には、同劇団員全員が参加の機会を望んだ
何年か前《ブラザー・サン シスター・ムーン》の慈善試写会でポンピドゥー夫人に招待され、フランスでの公式行事の華麗な演出は経験していた。映写会はフランス王家の陵墓であり中世フランスの偉大な記念碑の1つであるサント・シャペルで行われ、思慮深い真に知的な人々の半ば内輪の集まりで、さりげなくエレガントに装ったなか、これほど壮麗な雰囲気の中で私の映画を見たことはなかった
フランスの文化的国粋主義については、彼らのスノビズムと尊大さには時としてハッとさせられることがある。実際尊大さを堂々と誇示して見せ、世界が自分たちに対して折れるのを待つのは彼らの得意技。普通のフランス人が尊大なら、コメディ・フランセーズの役者になると大変。彼らは全員フランス文化の頂点で、この劇場のすべてが彼らの究極の優越感に磨きをかける。役者は"会員と呼ばれ劇団の株主。ルイ14世によって開設され、建物そのものが普通とは違うことを強調している。11人が個室を持ち、自分流に内装を施す。厳しい階級制度があり、個室の場所によって自分の社会的地位が示される
オールド・ヴィック座の時は私もキャリアを作り上げる途中で、ベントールも配慮して劇団員の群れに入る道をつけてくれたが、デュックスは私を経験豊かな確立された演出家と見做し邪魔立てしてはいけないと考えた。まず主役に映画と芝居の両方のスターであるクロード・リッチを指名したのが躓きのもと。劇団には140150人の役者がいて、必要ならば引退した"会員にまで声を掛けられることから、他を当たる必要がなかった。実際その後主役は内部に取って代わられた。しかもほかで通用してきた私流の芝居そのものや登場人物について固定観念を持たず稽古を通して互いに作り上げていくワークショップ方式が不興を買い、皆が私の指示を待つだけだった。さらにこの劇団の背景となっている感動的な言葉が壁となり、劇団はたちまち私の弱点をもてあそんだ。私は、ミュッセという偉大な詩人の言葉を尊重しながら、芝居を演じるのだということを考えてほしと頼んだのが次第に理解されてきて、徐々に大袈裟な演技がドラマとして意味を持つものになっていった。お陰で初日の舞台はかつて手掛けたどの芝居にも増して、喜びを与えてくれた
その直後にはミラノで76年シーズンの幕開けを《オテロ》で、画期的な公演を手掛けることになる。カルルス・クライバーとプラシド・ドミンゴと一緒にやるのは初めて。さらにミレッラ・フレーニとピエロ・カプッチッリが加わる。シェイクスピアはよくイタリアのダ・ポルトの原作から題材を得ているが、私はカトリック的に解釈して、宗教的葛藤の末に自分が育った西欧への忠誠を放棄し、奴隷に堕ちる前に自分のアフリカのルーツへ、自分の民族と宗教へと戻るとした。クライバーとの初仕事は畏怖すべきもの。ドミンゴを完璧な高みに引き上げた。スカラ座の初日はテレビで生中継されることになり、カメラ・リハーサル迄加わったので、膨大な仕事はさらに加速。ところが劇場外では、極左欲がスカラ座を攻撃相手に選び、前のシーズンでも天井桟敷から1階の特別席に向けて卵が投げられる事件があり、今回は2万人のデモが予想されるという不穏な噂が広まる。警察と軍隊が出動、聴衆は3㎞手前から歩かなければならなかった。午後中デモ隊が封鎖を破ろうとする乱闘と逮捕の様子がテレビに映り、幕が上がっても最後まで進行できるかどうかの確信はなかったが、公演は大成功に終わった
復活祭とともに《ナザレのイエス》の放映が各国で始まり、視聴率は天文学的な数字を記録。イタリアでは8083%を記録、法王も復活祭前の世界に向けた講和の中でこのテレビ番組について触れた
9月マリアが心臓発作で死去。《ナザレのイエス》を最初にお祝いを言ってくれたのはカラスで、コヴェント・ガーデンに戻る構想も練ってオファーもしたが、結局は実現しなかった。彼女をアパートに送って行く途中、目はほとんど見えなかったが、手は透き通るようで皮膚の下に血管が浮き出ているし、極端に怯えていて、誇大妄想的は精神状態だった
77年末、MGMから誘われたハリウッドでの仕事を引き受けることにして、31年子供のころに見たキング・ヴィダー監督の《チャンプ》の改作を提案
ハリウッドとの相性はぴったりで、慣れ親しんだ文化的生活は見られず、芝居もオペラもないも同然だったが、それを補って余りあるのが重要な監督となるセンセーションだった《チャンプ》のような映画での成功の鍵はただ1つ大スターの名前を確保することで、父親役には若手俳優の中でも気に入っていたライアン・オニールを起用、子役には6歳のリッキー・シュローダーをスクリーン・テストで発見、更にジョン・ヴォイトが見つかったためにオニールを差し替え。オニールを変更したために、ハリウッドのゴシップ雀はすぐに破滅するだろうと予言したが、母親役のフェイ・ダナウェイも決まって予言を覆す
安手のお涙頂戴だと陰険な批評もあったが、何と書かれようとも成功作の1つになった。MGM146百万ドルという途方もない売り上げを記録、制作費はたったの9百万。にも拘らず、MGMはビザンチン社に吸収合併され、私に対しても反感すら持たれたようだった
アメリカには映画の観客が多いところから映画が生き残っているが、企業側は危険を避け、無難に市場利益が望める安全な物語しか作ろうとしない。私の希望に沿って映画を作ることが出来たのは幸運で、ロスを去るべき時だったが、ビヴァリーヒルズの暮らしを愛しており、留まってこのシステムと渡り合おうとした
オペラの映画化では、当初はライブで撮られていたが、最近ではスタジオ録音に沿って撮影が行われる。将来的には大半はスタジオで録音され、クローズアップの場面ではライブを使うというハリウッドのやり方が使えるだろう。アテレコで、カメラ映りが良いとは言えない歌手が歌を録音し、美しい俳優がカメラの前で口だけ動かすという手法も可能かもしれない。こうした手法は、オペラが大衆の娯楽だという感覚を失っている純粋主義者にはご法度
《ナザレのイエス》でチュニジアに動き出した映画産業を興す手助けを進めていたが、その1つが《アイーダ》で、80年夏にロケハンを敢行、長い間のアラブとイスラエルの対立でヨーロッパからのエジプトの孤立化に終止符を打ちたいというサダトの希望だといわれ、また彼らは《アイーダ》が北アフリカとその他の地中海沿岸地帯との文化的結びつきを強められるきっかけになると考えた。私はこのアイディアをバーンスタインに話すと飛びついてきた。さらに大口出資者もでき、各国のテレビ局との契約もできたのに、サダトの暗殺によってすべて一瞬にして蒸発
その間にスコット・スペンサー原作の『エンドレス・ラブ』の映画化に出資者がついたと知らされ、現代版《ロミオとジュリエット》のような物語に興味をそそられる。版権は金融業者キース・バリッシュが持ち、若手のブルック・シールズと抱き合わせが条件。バーブラ・ストライサンドの夫ジョン・ピータースが映画全体のプロデューサーになり、バリッシュと共同で、レコード会社ポリグラムの若い重役ピーター・グルーバーにこのアイディアを売り、私に監督を要請してきた。ブルック・シールズはすでに出来上った女優であり、物語の主人公としては適役ではないと予感したが、条件とあれば仕方なく、若い2人の悲劇に引きずられる2つの家族の物語として捉えたかった。最終的な編集権は私にあったが、制作者の意図は単純な青春の悲劇でよく、その意向に引きずられて妥協せざるを得なくなった。批評家の多くはブルック・シールズを傷つけて喜んだが、興行的には7080百万ドルの売り上げとなり大成功だった
81年初、スカラ座で《カヴァレリア・ルスティカーナ》と《道化師》を新演出でやることになっていて、テレビ局も初日の中継を私に依頼したがっていたので、私はオペラの映画撮りを実行。ドミンゴが出演するほか、ソプラノにはテレサ・ストラ―タスを使うようスカラ座を説得。オペラの一般公開の後フィルム撮りを2日で完了。指揮のプレートルには10分で切れるフィルムの編集作業に多大の労力を削がせることとなった
《アイーダ》の蒸発のショックの後、ニューヨークで《ボエーム》の新演出をやる。聴衆の興味を引いたのは私の肺病のミミの扱い方。肺病はかつてはヨーロッパ芸術の主要テーマで《ボエーム》と《椿姫》はこの病の特徴と、病人の行動の点でかなり似通っている。平均的なソプラノでは太って健康そうでありすぎるので、またもテレサ・ストラ―タスを起用して死の影が濃く出たミミを演じさせ、ホセ・カレーラスだけが彼女の傍らで若さを十分に感じさせることが出来た。この完璧な組み合わせから多くの考えが湧く
チュニジアの映画界に同じ組み合わせで《椿姫》をやろうと持ち掛ける。カレーラスのスペインのエージェントが拒否してきたので代わりにドミンゴに頼み込み、初めての完全なオペラ映画の制作に漕ぎつける。ところが、私も含め、何年も前にやったカラスの《椿姫》をイメージしていたために、ストラ―タスが反発、途中で逃げ出したが、82年末にようやく完成、83年の公開時には批評家がこぞって彼女の女優としての才能を賞賛し、映画のキャリアが彼女のものになると予言されたが彼女は姿を消し、すべては無駄だった
映画《トラヴィアータ 1985 椿姫》は、劇場全体を涙で包むほど、テレサが私たち全員が夢見たヴィオレッタを創造したと悟った
84年の終わりにメトで《椿姫》の新演出を指揮カルロス・クライバーと驚異的な新人ソプラノのチェチリア・ガスディアでやったが、パリでも公演され、映画的な規模で装置や衣装を作り上げた
85年には初めてバレエをスカラ座で手掛ける。バレエは振付家が演出するというのが神話だと悟って引き受ける決心がついた。今世紀最大のバレエ演出家ディアギレフも、踊り手でも振付家でもなかった。取り上げたのは《白鳥の湖》で、帝国ロシア・バレエ団が作り上げたものに、のちの振付家が次々と手を加え、それを継ぎ足して上演されるが、手を加える間に作品全体の本質が見失われているのではないかと考えた。イワノフとプティパはサン=サーンスのバレエ《死の白鳥》でバレリーナが白鳥のように両手をはばたかせる動作を大幅に導入し大成功を収め、彼らのバレエがロシア派のレパートリー最大の宝となり、それ故に主要な古典バレエ団ではいずれもこれを取り入れたが、そのために犠牲となったものも大きい。一方で、物語の底の浅さから、愚かな因習がいくつもあるのに気づく。長い年月の間に作曲家の元の構想から遠ざかったのは明らかで、本来の意図に戻るための大胆な試みがなされてこそすべての混乱は解決すると考えた
原曲に当たり、時代背景を調べ上げると、お馴染みの御伽噺的なバレエとは全く違う世界が現れた。1870年代に流行した情緒的象徴主義の手法で語られた陰鬱な北国の民話の世界であり、唯美主義とデカダンス、半ば囁くような情念の時代、オスカー・ワイルドの《サロメ》の時代であり。美そのものを究極の目標とした時代である
原作の根底にあるテーマは死に対する愛の勝利であり、この高貴な幻を甦らせるべきと考え、オペラと映画でやってきたことをバレエにも適応しようと、硬いチュチュや羽をつけた踊り手の代わりに、照明やバックスクリーンの特殊効果を使い、バレエの初期の頃と同じようなふくらはぎの半ばくらいまでの長さのドレスを着せてみた
スカラ座でオペラが変貌を遂げた時と同じように、偉大な伝統に対する冒涜として嫌悪する者もいれば、死にかけた芸術に命を吹き込む試みとして歓迎する者もいた。キャスティングでも王子の役にミハイル・パリシニコフの起用を考えていたが、私が演出まで手掛けると知って辞退、その最大の理由がチュチュが使われないことで、これこそ旧式な古典バレエのシンボルであり、自分たちの慣れ親しんだ世界に何の変化も望まない人々の拠り所だった。結局スカラ座バレエ団3人によるパ・ド・トロワは音楽にぴったりで圧巻だった
次いでドミンゴが新しい映画を提案、すでにスポンサーもあるという。出資者は《トロヴァトーレ》を考えていたようだったが、私は世界的に有名で古典劇のような有名な素材を基にしたオペラのほうが映画化に適していると指摘し、ドミンゴがいることもあって、《オテロ》を取り上げることにして、カンヌ映画祭で発表。さらに映画化に際しての原則は歌手たちの容貌と演技力で、ソプラノにはイタリアのカティア・リッチャレッリを、イヤー後にはプラシドの友人でプエルトリコのバス・バリトンのフスティーノ・ディアスを起用。スカラ座のオーケストラと合唱団で指揮はロリン・マゼールが引き受けてくれた。ロリンは監督が同じ音楽で何通りかバリエーションを必要とするのを心得ていたし、映画化に必要な音楽の編集にも協力してくれた
そんな途中でメキシコシティの大地震が発生、プラシドの参加が危ぶまれたが、他の契約はすべてキャンセルしたが映画は続けると言ってくれ、現代最高のオテロを見る機会が失われなかったのは幸い
プラシドが最初に映画化の話を持ってきたとき、アメリカ系イスラエル人2人のキャノン・フィルムという制作会社の名を聞いて、娯楽映画やアクションものを撮る2流の会社と思っていたが、夢は芸術映画の制作だったことが分かり、その潤沢な資金のお陰で、オペラが初めてハリウッドの史劇にも相当する規模で撮影できることになった。物語の舞台となるヴェネツィア時代のキプロスにふさわしい場所としてマルタ島のバルレッタ城を使用、背景にはクレタ島のヘラクリオンの港を選ぶ
何年も前に私の仕事で背景助手やお針子として出発した人々が、呼び掛けに応えてその後の目覚ましい成長ぶりを示してくれた。彼らはリラ・デ・ノビリ、ピエロ・トージ、レンツォ・モンジャルディーノの仕事を見て育ち、荒れ果てた城の部屋にヴェネツィア芸術の栄光を甦らせるのを見て、私は大きな誇りを感じた。装置は物語の単なる背景ではなく、私にとっては登場人物の性格を描く上での重要な一部。オテロの一般的解釈は、西洋文明でうわべを飾った野蛮人で、イヤーゴの虚言によって脆くも原始的な行動に駆り立てられるというものだったが、私の解釈はオテロこそ西洋文明を完璧に体現する人物で、イヤーゴのような悪魔的怪物と同じ次元では物が考えられず、西洋文明自体の残酷な毒素が彼を破滅させるというもので、プラシドも私の解釈と意見が一致
歌手の吹き替えについても、主役で使うと観客は騙されたと思うかもしれないが、脇役には使えると考え、容姿第一で採用を決めることにした
激しい嵐の場面をロケで撮った際には、大勢のスタッフが気管支炎にやられ、私も肺炎になって緊急入院、年末年始の1か月いない間プラシドが率先して他の仕事をキャンセルして他の人々を終結させてくれた
最後の問題は帆船で、出資者がほんの数秒間のためだけに8万ドルを提供してくれて、映画の冒頭から観客の注意を惹きつける豪華さを備えることが出来、向こう20年は誰もが映画化を断念する《オテロ》の決定版に仕上がった。映画化の構想からまる1年かかった
86年《オテロ》がカンヌ映画祭で試写された際、批評家が「音楽的にも映画的にも、いかなる点でも完璧」と言ってくれた時は、多くの人々をオペラに呼び込むという仕事をやり遂げたと嬉しく思った
常に大衆化を目指してきたが、プッチーニ以降、現代作曲家たちが大衆を無視し、時には蔑視さえしていることを残念に思う。芸術に「難解さ」を求め、「前衛」と思われる人々が文化的エリートとみなされがちなのは不愉快な皮肉
私はキャリアを通して、世界の大劇場に偉大な古典の新演出を残し、それがその後何年もスタンダードな舞台となっている。作家の望みを満たす生きた舞台が必要
83年共産党に押された劣勢を挽回するため、キリスト教民主党は私に立候補を要請してきたので、フィレンツェを舞台芸術のヨーロッパの中心地にするべく政治力を使おうと考え引き受けたが、結果は落選でほっとした

訳者あとがき
彼が求めたのは美とドラマと感動で、舞台や映画で特徴的なのは、絵画的な豊かな色彩とドラマチックな展開
日本語版のためにと言っていくつか加筆してくれた


解説 ~ ゼッフィレッリとの1時間           三浦雅士
892月に本書の刊行と、自身の映画監督作品《トスカニーニ》の宣伝のために来日した際インタビュー
人生が最大の舞台であり演劇。そして神が最大の劇作家であり演出家
演劇は儀式であり、皆で神に祈りを捧げる
映画は多勢で撮るから楽しいのに比べると、演劇は儀式が絡むのでより真剣、深刻
映画の場合は編集したのが自分の作品になるが、舞台の場合は毎回違うので、完結することがない
ヴィスコンティは、幼年時代の家庭教師がドイツ人とフランス人なのに対し、私の場合はイギリス人から英語を習った。この教養のベースの違いが一番根本的差異
Vはミラノの貴族で、私はフィレンツェの私生児





中野京子
オペラ界巨匠と映画監督の恋 舞台よりドラマティックな現実
201898 2:00 日本経済新聞
まだニューヨークにツインタワーがそびえていた1990年代後半。メトロポリタン歌劇場でフランコ・ゼッフィレッリ演出のオペラ『椿(つばき)姫』を観(み)た。
幕は4回上がるのだが、その度に豪華絢爛(けんらん)たる舞台が出現し、超満員の客席から溜(た)め息、どよめき、最後は拍手がしばらく鳴りやまず、純粋に舞台美術のみへの熱狂という体験を初めて味わった。
それもあって読んだのが、『ゼッフィレッリ自伝』(木村博江訳、創元ライブラリ)。オペラや映画の製作裏話の面白さはむろんのこと、若きゼッフィレッリがのし上がってゆく過程がわくわくするほどスリリングだ。
貧しく、何の後ろ盾もなく、しかし野心ではち切れそうなこの22歳は、自らの美貌をとことん利用すべく常に機会を狙っていたが(自分でそう書く率直さも本書の魅力だ)、ルキノ・ヴィスコンティの演出する芝居で背景画を描くアルバイトをしたのが転機となる。当時のヴィスコンティは40代。イタリア有数の名門貴族にして世界的な映画監督。美青年好きのホモセクシュアルとしても知られていた。
ゼッフィレッリが恋に落ちたのは、舞台稽古中のこの貴族がふだんと全く違う顔で癇癪(かんしゃく)玉を破裂させ、口汚く罵っていたからだ。またヴィスコンティがこの若者に惹(ひ)かれたのは、美貌と野心に見合った才能を備えていたからだろう。古代ギリシャのスパルタ軍におけるように、年長者は年下の想(おも)い人を精神的にも肉体的にも愛し、導き、鍛えあげた。
破局もドラマティックだ。
一人立ちできる力をつけたゼッフィレッリが、映画『夏の嵐』でヴィスコンティの助手をした時、ささいなミスを皆の前で痛罵されて思わず手が出る。なんとヴィスコンティの頭を、メガホンで殴りつけたのだ。怖(おそ)ろしい沈黙のあと、ヴィスコンティは何事もなかったかのようにスタッフに指示し、撮影は再開された。ゼッフィレッリの核にある粗野な部分、またヴィスコンティのエレガントな対処の仕方に、2人の関係の生々しい一端を見る思いがする。
決裂後ゼッフィレッリはオペラ界の巨匠となり、『ロミオとジュリエット』などの映画も監督した。かつての恋人への愛憎まじりの烈(はげ)しい感情が時の川に洗われ、彼への、運命への感謝の念が語られると、なんだか泣ける。
荒唐無稽なドラマを「まるでオペラみたい」と言う人がいるが、いえ、いえ、現実のほうがはるかに先を行っています。
(ドイツ文学者)


Wikipedia
イタリア元老院現職 1994.4.21.就任
選挙区 カターニャ
生誕 192321295歳) トスカーナ州フィレンツェ
政党 自由の人民
出身校 フィレンツェ大学
宗教 カトリック
兵役 英国陸軍194245年 部隊: British 24th Infantry Brigade 戦闘:2次大戦

フランコ・ゼフィレッリ(Franco Zeffirelli, 1923212 - )は、イタリアフィレンツェ出身の映画監督脚本家オペラ演出家政治家である。
来歴
仕立て屋の息子として生まれ、フィレンツェに住むイギリスの上流階級の人々のコミュニティで育つ。(イタリア人の少年とイギリスの婦人たちの交流を描いた「ムッソリーニとお茶を(Tea with Mussolini)」は彼の半自伝的映画である)。そのため英語が堪能であり、無党派だった彼は第二次世界大戦の際にはイギリス陸軍の通訳として働いた。
キャリア[編集]
ルキノ・ヴィスコンティのスタッフとして演劇界入りし、主に美術・装置を担当した。ヴィスコンティが映画に進出すると、その助監督も経験した。間もなく自らも映画監督を手掛けるようになった。古典劇をベースにした清爽な青春映画で知られる。1968の『ロミオとジュリエット』では原作に忠実でオリビア・ハッセーレナード・ホワイティングティーンエイジの役者を主役に起用して世間を驚かせ、シェイクスピアの映画化としては最高のヒットを記録させた。1972の『ブラザー・サン シスター・ムーン』は中世の修道士聖フランチェスコの物語を題材に、信仰に目覚めた若い日々に焦点を絞ることで青春映画の快作に仕立て上げた。
近年ではオペラ演出を活動の中心とし、ウィーン国立歌劇場ミラノ・スカラ座、ニューヨーク・メトロポリタン歌劇場、ロンドン・ロイヤル・オペラハウスなど、世界各地の主要歌劇場で演出を行い、とくに自国イタリア出身の作曲家ヴェルディプッチーニなどの作品は知られている。読み替え演出全盛の現代ではオーソドックスな保守派に属するが、美術家出身らしい美しく豪華な舞台作りでファンが多い。また映画の題材にもマリア・カラスなど、オペラに関するものを選んだり、椿姫などオペラ映画も数多く手がけている。
プライベートではゲイであることを公にしている[1]
2016年、イタリアの歴史家による研究チームはレオナルド・ダ・ヴィンチの存命する血縁者約35人を発見したと発表し、その中にフランコ・ゼフィレッリも含まれていた。ダ・ヴィンチの遺体は16世紀に失われたためDNA検査を行うことはできないが、教会や地方議会などの文書を調べ家系図を作成した。ダ・ヴィンチ自身に子供はいないが多くの兄弟がおり、これらの人物が調査の対象となった[2]
主な監督作品[編集]
じゃじゃ馬ならし The Taming of the Shrew (1967)
ロミオとジュリエット Romeo and Juliet (1968)
ブラザー・サン シスター・ムーン Fratello sole, sorella luna (1972)
ナザレのイエス Gesù di Nazareth (1977)
チャンプ Champ (1979)
エンドレス・ラブ Endless Love (1981)
トラヴィアータ/椿姫 La Traviata (1982)
トスカニーニ Il Giovane Toscanini (1988)
ハムレット Hamlet (1990)
尼僧の恋 Storia di una capinera (1993)
ジェイン・エア Jane Eyre (1996)
ムッソリーニとお茶を Tea with Mussolini (1998)
永遠のマリア・カラス Callas Forever (2002)
著書[編集]
『ゼッフィレッリ自伝』 木村博江訳、東京創元社1989年/創元ライブラリ文庫1998


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