うき世と浮世絵  内藤正人  2018.9.29.


2018.9.29. うき世と浮世絵
Images of the Floating World

著者 内藤正人 1963年名古屋市生まれ。88年慶大大学院修士課程修了。出光美術館主任学芸員を経て、現在慶大文学部教授。博士(美学)

発行日           2017.4.28. 初版
発行所           東京大学出版会

はじめに――21世紀の新たな浮世絵観へ向けて
日本の美術を研究、愛好する世界では、江戸の浮世絵はその昔、まるで鬼子扱い
ほんの2,30年前に大学の美術史専攻で浮世絵を選択するのは相当異端
仏画、やまと絵や漫画系水墨画を始めとする宗教色を強く帯びた上品で趣味の良い日本の古美術嗜好に比べると、江戸の庶民が中心となって愛玩した江戸の浮世絵は、まだ日が浅く、同時に正直言ってあまり趣味の良くない低俗、卑近なものであり、本物の古美術品とは比較にもならない遥かに格下の対象物だった
遊女、そののち役者を描くところから始まった浮世絵が卑俗な美術であるとされたこと、幕末期に近づくにつれ次第に浮世絵特有の濃密で退廃的な美表現、更には浮世絵そのものの本質とも係るストレートな性愛の表彰・春画の煽情的で強烈な刺激を伴う性描写などが渾然一体となって浮世絵のイメージが形成され、それが江戸時代そのものを丸ごと否定するに等しい、文明開化以降の知識階層による、直感的に「よいもの、面白いものをそのままに受け止めない」教条主義的で後ろ向きの忌避姿勢とも繋がって、総じて浮世絵は卑下されていた
近代の日本人にとって、事物を相対化するとは、西洋世界の評価に晒すことであって、西洋人の評価こそが重要としたが、極端に西欧寄りの、西洋文明に依存する偏った評価に対しては注意が必要。21世紀にあっては、中国や朝鮮半島を含む東アジアという巨視的観点を設けることで、西洋中心で推移してきた過去の価値観の見直しをも迫られるはず。こと美術に関しては極めて重要であり、有望視される観点だろう
浮世絵は、西洋世界から思いもかけずに与えられた非常に好ましい評価によって、望外の出世をした
西洋社会におけるジャポニズムの勃興と隆盛が、世界における日本の浮世絵という、近代化への道をひた走る母国日本とは全く異なる評価の枠組みを作り出した
日本招かれて初期に美術の歴史を講じたお雇い外国人たちも、当初こそ雪州や狩野派といった伝統を援用して日本の美術史構築に腐心したが、結局最後には西洋世界でもひと際関心が高い浮世絵を真正面から取り扱わざるを得なくなる
その後も日本国内での偏見は根強く続いたが、今では浮世絵の作品や絵師を学問的に研究することにも、春画のみを研究・鑑賞の対象とすることさえも、後ろめたさは消えつつあり、確実に市民権を得たと言える
それだけに研究の余地は多く残されている
本書では、まず浮世絵の成立を説明したうえで、その概念や構造の基礎的な問題では最重要と思われる「うき世」について、再検討を加える
浮世絵関連用語の史料集として、使いでのあるものにしたい
浮世絵を21世紀にも引き続き存在価値を保ち続ける表彰として位置付けできるよう論評
江戸と現代のサブカルチャーを具体的に繋ぐという視点を用意することにより、例えば今日展開する多様な表彰コンテンツに深い関心を寄せる若い人たちに、今より少しだけ積極的に過去の古い美術品やその絵師たちに興味を抱いてもらえたらと思う

1      浮世絵の再検討
「浮世絵」とは、日本近世期、江戸時代に制作された風俗画の一種
美術/芸術とは、完全に舶来の概念 ⇒ 宗教画から発達した西洋では、聖から俗へと絵画の主題によるヒエラルキーが存在。歴史画→肖像画→風景画→風俗画→静物画
16世紀のブリューゲルや17世紀のフェルメールは本格的な風俗画の代表画家
日本でも古墳時代の壁画を皮切りとして、風俗描写に関心を寄せる絵画が描かれている
室町末期から桃山期、更に江戸初期にかけては、風俗画が屏風絵に象徴される大画面を軸に多様に展開したが、この頃はまだ絵画の世界であり、漢画系の狩野派、長谷川派などのアカデミックな流派に所属する絵師が中核であり、鑑賞者も公武の貴族や有力社寺や富裕な支配階層が中心で、江戸以降の状況とは大きく異なる
江戸時代の絵画史は、基本的には狩野派を中軸に据えて展開、元々は今川家の家臣団に連なる武家だったが、江戸に入って家康に重用された探幽守信が新狩野派の基礎を再構築
17世紀前期に刊行された林守篤の『画筌』 ⇒ 狩野派の絵師が図様や筆墨などの知識を一部披露したもので、江戸期の絵画流派に大きな影響を与えた
1850年『古画備考』→ 絵師列伝
桃山期に流行した名所の景観図を兼ねた風俗画が、名所を限定することによって風俗画としての濃度を高め、最終的には江戸寛永後期から寛文期(164060)にかけて掛け軸サイズの美人画、俗に「寛文美人図」と呼ばれる作品群が量産される ⇒ 浮世絵の誕生へ
出雲大社の巫女の出身とも伝える阿国が始めた阿国歌舞伎は、江戸初期から始まり、大流行して遊女歌舞伎へと変貌、遊女の廓外への外出禁止令以後は若衆歌舞伎の時代へ
浮世絵は、本来的には風俗画と完全な同義語ではなく、浮世絵における浮世はどうしても当世、移ろいゆく今であり、しかも好色で猥雑な世俗という意味合いが強いために、草創期の絵師である菱川師宣時代から、浮世絵には諸々の主題が無制約の状態で含まれていた
浮世絵の実態は、誕生の当初から多彩で、融通無碍であり、多くの場合版画や版本といった不特定多数へ向けての商業出版物として制作された ⇒ 風俗画的作例をその中核としつつも、その時々に販売物という宿命を引きずりながら、常に人々に関心の高い絵を描き出すという俗の極みの逞しさを露にする、これぞ浮世絵の正体であり、商業主義的に誘導された需要者本位の美術というべき存在

2      「浮世」という、ことば
「浮世/うきよ」の漢語としての用例 ⇒ 仏教の厭世観である「憂世」に起因
夜を憂うる、という意味の「憂世」は、中国にその用例があり、世を嘆き憂い、国の安危を心にかけるという語例があるが、名詞的用法はない
方や、「浮世」の語例も中国に多く見られるが、定めなき世の中とか不定の世という用例
仏教語辞典類では、漢字表記の「浮世」のみが存在し、無常の世の中を意味する言葉とされ、別に「憂世」とも表記されるとある
日本では、9世紀後期の遣唐使廃止以降、日本国内で開花した国風文化の時代に「うきよ」の語が一定の意味を帯びながら使われてい行くという趨勢が読み取れる ⇒ 最古の使用例は平安初期以降段階的に成立したとされる王朝文学『伊勢物語』となる
世の中に たえて桜の なかりせば 春の心は のどけからまし
の句に続いて別の従者が詠んだ句で
散ればこそ いとど桜は めでたけれ うき世になにか 久しかるべき
905年成立の『古今和歌集』では、「うきよ」は不定の世という意味であり、「憂き世」あるいは憂き世の中と表記しながら無常の世を表す用例
『源氏物語』でも用例は多く、世をはかなむかのように「うき世」の語が頻出
鎌倉初期からはさらに頻出
室町期は、憂世観に大きな変化 ⇒ 14世紀後期完成の『太平記』では「憂世」「浮世」とも用例が多く等しい意味内容だが、「浮世」が圧倒的な勢いで増え、市民権を獲得、平俗化・一般化が進み、両者を融通無碍に混用。ただ、のちにみる現世謳歌の感覚は乏しい
同時期の『閑吟集』では、享楽主義、現実主義的な意味合いでの用例が見られる
その後桃山期では、享楽・刹那・現実主義の色を強く帯びるようになって江戸期へと流れ、江戸浮世絵の誕生につながるうきよの思潮は、平安期から受け継がれ用いられてきた語の変遷をもとに、室町期以降、意味内容が次第に変化した結果新たに誕生したもの

3      「浮世絵」誕生の軌跡
近世江戸期の新しい浮世観 ⇒ 1642年刊行、如儡子(にょらいし)の『可笑(かしょう)記』は、元山形藩主最上家の家臣が浪人中に書いた現世を冷めた目でとらえた小説であり、その後寛文前期(1600年代中ごろ)に刊行された浅井了意(都出身の浄土真宗の僧)の『浮世物語』でも、「浮世」感が再定義され、憂世でもあり当世でもある実際の現世を表す「うき世」として定立化されていった
1603年に出雲の阿国が風流踊りなどを発展させて歌舞伎踊りを創始し、都人たちの圧倒的支持を得て成長、その後遊女歌舞伎から若衆歌舞伎、野郎歌舞伎へと変貌し、江戸という若衆、浪人たちで溢れる男性都市にふさわしい荒事芸として江戸歌舞伎全盛の礎を築く
ともすれば江戸文化の代表とさえみられる歌舞伎も元来都生まれであったことを思えば、これまで見てきた浮世観、あるいは浮世絵も、そもそもは京・上方の文化が産み落とした卵が、江戸の地で孵化・成長を遂げて全盛を迎えたことを追認しておく必要がある
江戸期以降に使用される浮世の語には、大別して2つの意味がある ⇒ 「当世」と「浮世=好色」の2通りで、好色な意の強い合成語としては浮世女/男、浮世心、浮世寺、浮世草子、浮世茶屋など、好色と関連する遊里言葉としては浮世遊、浮世ぬめり、浮世言葉など、当世の意味が強いものとしては浮世医者、浮世歌、浮世頭巾、浮世床など、両者を兼ねる言葉としては浮世風呂、浮世事、浮世話など
浮世草子は、浮世絵と同じく、学校教科書レベルでは元禄文化の所産で、浮世草子の方が浮世絵より好色の意味に幾分比重が大きい。従来の文学や美術とは異なる新しい作品群として登場、1682年発表の井原西鶴『好色一代男』がその草分けで、仮名草子の教訓的な内容から好色の風を色濃く帯びたものへと転じ、浮世草子命名の理由となっている(ただし、発表当初も、元禄期になっても仮名草子と呼ばれていた)
仮名草子と浮世草子とを区別しながら用いるようになったのは18世紀初期、元禄末期以降で、好色本と同義だったが、18世紀に入って春画本が多く刊行されると、好色ものではあっても、主に世帯風俗を描く小説の呼称に限定されるようになった

4      浮世絵誕生以降
1674年浮世絵の語が俳句や『好色一代男』、菱川師宣の絵本序文などに登場
当初から、男女の秘戯図を描く春画と同義語という側面があったことは否定できない
浮世絵の元祖・菱川師宣は、千葉県保田の出身、江戸に出て画業を学び、落款のある有年紀作という点では1672年が最初のもので、絵画と版画の両方に作品を残す
版画によって不特定多数の顧客へ向けて広く普及させるための廉価版商品に加えて、絵画(肉筆画)の作品も手掛ける。春画のみでなく、女性風俗画、武者絵、物語絵なども含む多様な作品を制作・発表
版画には「菱川吉兵衛」という俗称を用い、絵画には「菱川師宣」という画号で署名
初期の浮世絵師は、まだ職人稼業であり、俗称を用いることが多かったのは、相対的な地位の低さを表している
『好色一代男』の江戸版挿絵を描いたのが師宣で、1684年から
同時期上方で活躍した絵師に吉田半兵衛とその門人居初(いそめ)つながいる
挿絵画家や浮世絵の絵師たちは、あくまで職人扱いで、貧乏な職人が多かった
浮世絵の代表的な絵描きとしては宮崎友禅(16541736)がいる ⇒ 友禅染の技法に関与した形跡はなく、あくまで画人として名を残す。加賀から京に出て名を成す
岩佐又兵衛(1650) ⇒ 江戸前期の画家、土佐派末流を名乗る。有岡城主荒木村重の遺児。転々とした後江戸で風俗画や故事人物画を描く。かつては浮世絵の元祖と言われたが、浮世絵誕生直前の絵師。新興都市ゆえに名所の少ない武都江戸の景観図屏風《江戸名所図屏風》は、のちの浮世絵誕生に連なる江戸初の風俗画で、湯女風呂や若衆歌舞伎などの繁栄を描き、豊頬長頤(い、おとがい)と呼ばれる面貌表現を得意としたが、その画風は師宣に引き継がれているように思われる
師宣が「浮世絵師」を名乗ることは稀 ⇒ 自署の冒頭に「浮世絵師」の語を用いたのは皆無で、「日本絵師」や「大和絵師」を名乗っている。他の絵師も同様に大和絵師を冠署
18世紀中期には、菱川派を学んで一家を成した宮川長春や鈴木春信などから署名形式が変わり、肩書をつけなくなった ⇒ 浮世絵師としての自負心の萌芽
ただ、士農工商の封建社会にあって、その身分は変わらず、江戸の市井で暮らして作画・販売で生計を立てる在野の絵師(本絵師)の中でも、浮世絵画工は下位にあったことは間違いなく、稀に本絵師に転身する者もいたようだ ⇒ 鍬形蕙斎(くわがたけいさい)、岩瀬広隆は大名の御用絵師にまで絵師として最上の転身、喜多川菊麿などがその例
「うきよ」の語の背景に仏教の無常感が強いことは変わらないが、浮世絵に特定の宗教観や思想のみを読み込むことには躊躇せざるを得ないものの、江戸後期の浮世絵隆盛の時代に深く浸透し、浮世絵や江戸の文化を考える上にも重要な思想となった倫理に関する教えで、元々上方の商人道で支持された教えである「(石門)心学」の影響は少なからずある
心学は、神道、仏教、儒教の3教合一思想で、商業に積極的な意味を与えた教えだが、あまりにも日本的なこの混合教は、江戸期の浮世観やひいては浮世絵全般にも読み取れることのできる日本人共通の心性とも、決して無縁ではない。仏教の無常感だけではなく、もっと柔軟でおおらかな複合的構造が読み取れる

5      浮世絵観の再構築
菱川師宣の《見返り美人図》以外、浮世絵は版画作品とされたが、絵師たちが描き上げたのは版画以外にも絵画=肉筆(hand painting Ukiyo-e)の作品が少なくない
木版画 ⇒ 紅絵、漆絵、錦画などの版画
刻本、版本 ⇒ 木版印刷された版刻本
肉筆 ⇒ 浮世絵師による絵画作品
昭和初期の贋作事件、春峰庵事件以来浮世絵の絵画は、一般には届かない奥底に
浮世絵の歴史は版画の歴史と同じで、17世紀中期に版画が黒摺りで簡素な状態から出発、彩色は塗り絵と同じく筆で色を加彩していたが、18世紀中期になって色板を別に作成する技術が生まれ、多色摺りが始まると一気に錦絵に飛躍
師宣に続くのが元禄期から活躍する鳥居清信で、役者を廃業して芝居絵を描く専門絵師になり、江戸の歌舞伎界と結ばれ、代々歌舞伎の役者絵や絵番付などを牛耳る
18世紀前期には、奥村正信、石川豊信らが、筆彩版画で人気を得、中期になると後世紅摺絵と呼ばれる2,3色摺が始まると、ほどなく多色摺へと画期的な技術革新が起き、鈴木春信という中核絵師を軸に、多数の新興勢力が参入し百花繚乱、のちの流派の元祖も多く生まれた
19世紀前期には歌川派から豊国が登場、美人画も役者絵もこなす稀有な存在
その後の浮世絵の最後を飾る時代は、歌川姓が席巻、国貞、国芳、広重が三羽烏として歌川王国の安定に盤石の態勢を築く。その他では北斎、英泉がいる
版画と絵画で浮世絵の歴史がどのように変わるのか ⇒ 師宣は絵画でも膨大な作品群を遺す。元禄年間後期には懐月堂安度一派、そのあとが美人画の宮川長春、歌川派のビッグネームはダブル
江戸期の浮世絵の受容 ⇒ 安価な1枚摺りの版画は購入され、高価な版本は貸本として大衆向けに普及。美術や芸術という言語を獲得した近代の日本においては、日本画と呼ばれる作品群の中に溶け込んでいく。歌川派は年方、清方、深水へと受け継がれていく
子規の晩年に書かれた『病牀六尺』にも広重に言及した部分があり、浮世絵と戯作という江戸時代のサブカルチャーが長く栄え、2つの分野に対する世上の概評がその後1世紀以上は続いたという
鷗外の作品にも、絵草子屋が存在し、春画が登場する

6      「絵師」再見
現代では、漫画やアニメのキャラクターデザインなどで活躍する人気の絵描きたちのことを絵師と呼ぶ
西洋世界にあっても、美術という造形創作の場は宗教や思想をその背景に色濃くつくろいながら推移しており、それゆえに高踏的で、ともすれば無知や無教養を見下すような図式を備えているが、日本でも在野の絵師は町絵師と呼ばれ、王朝以来の伝統的な主題や様式の絵画を描く者たちのことを大和絵師と呼んで区別していた
江戸の絵師たちの中でも、今日高く称揚されているのが浮世絵師
江戸期の浮世絵は、江戸の大衆の支持を母集団として制作されたもので、大衆好みの作品だけが生き残り、望まれない作品はすべて淘汰され滅びた。封建社会の下での、という制約の中で、時に幕府は人心や風俗を惑乱するという理由で弾圧を加えたが、僅かな規制の隙間をかいくぐって御触れが有名無実と化したとみれば大衆受けのより作品が巷間氾濫。大衆の人気頼りの作品であるという前提と、時々弾圧が重くのしかかるという宿命を抱えていたのが浮世絵で、花形絵師の重要な仕事の1つに春画があり、それが想像以上に大きな位置を占めていた ⇒ ストレートな性愛の描写を絵にした作品は当初絵草子屋で普通に店売りされていたのが、享保の改革のころ禁止され地下に潜ったものの、隠語によって引き続き売買が行われ、浮世絵師の仕事を他に譲ることはなかった
あけすけな性愛の表現や子供を居合わせての成人男女の性交描写をあっけらかんと描いて見せる日本の浮世絵春画、コンビニや書店に置かれる一般雑誌に当たり前のようにヌードグラビアが混在している日本の文化は、歴史的伝統の上に立つもの
日本的文化の中で生まれてきた、浮世絵や現代のサブカルチャー、ある意味文化の遺伝子で繋がっている
学校教科書には全く不向きな材料



2017.7.2. 朝日
(書評)『うき世と浮世絵』 内藤正人〈著〉
メモする
 江戸と現代のサブカルをつなぐ
 アニメなどの原作となっている挿絵入りの小説は現在「ライトノベル」と呼ばれ、文学賞を争うような小説群と区別されている。そしてライトノベルを書いている人たちのなかには、自分のことを「ライトノベル作家」だとは自称しておらず「小説家」だと自負している人が多い。あくまでジャンルの呼称は世間が決めている。
 このことは、浮世絵師にも言えた。江戸の浮世絵師・菱川師宣は浮世絵を普及させたことを自他ともに認めるが、一貫して自分のことは大和絵師ないし日本絵師と称した。つまり、浮世絵は、春画か役者絵だと判じられ、伝統的な日本絵画の線上では語れないものだと目されてきたのだ。それは昭和まで続いた風潮だ。師宣には、春画を描く者だと決めつけられることへの抵抗があったという。ではそうしたサブカルチャーとしての浮世絵の「浮世」とは、いったいどこから出てきた概念なのか。
 本書は「うき世」が、仏教的な無常観を漂わせる「憂世」から、次第に現世肯定的で享楽的な「浮世」に変遷し、定着していく過程を記紀万葉、源氏物語、太平記といった古典作品から江戸時代の小説に至るまでの使用例を調べ、抽出し明らかにしていく。ともすれば教科書的な「浮世絵の歴史」といった内容になりがちなテーマで、このように語史から検証したという点が画期的だ。そして、言葉の意味から捉え直した歴史観で、その意味に符合する浮世絵史を再構成する。するとどうだろう、先述の師宣の心理や、後世「浮世絵師」を名乗った絵師たちのプライドまでが手に取るようにわかってくる。
 著者の横断的な考察はさらに、冒頭に述べた現代におけるライトノベルや、「絵師」と呼ばれる二次元絵の作家たちの存在にも紐(ひも)づけられる。いま起こっていることは過去にも起こっていること。よくぞ言ってくれた! と快哉(かいさい)を叫んだ一冊。
 評・サンキュータツオ(学者芸人)本名安部達雄。コンビ名米粒写経。相方居島一平。東京都杉並区出身。1976.6.21.生。巣鴨中高、早大一文文学科文芸専修卒。所属オフィス北野。父親は小学校2年生の時に死去
「虎ノ門ニュース 8時入り!」でMCを務めていたのですが炎上して降板、きっかけはサンキュータツオさんら「虎ノ門ニュース 8時入り!」のコメンテーターをやっていた方達が「独立総合研究所社長の青山繁晴」さんのファンのことを信者と言い表したことなんだとか。

 『うき世と浮世絵』 内藤正人〈著〉 東京大学出版会 3456円
     *
 ないとう・まさと 63年生まれ。出光美術館主任学芸員を経て、慶応大教授。著書に『浮世絵とパトロン』ほか。


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