日銀と政治 暗闘の20年史  鯨岡仁  2018.1.22.

2018.1.22. 日銀と政治 暗闘の20年史

著者 鯨岡仁 1976年東京都生まれ。99年早大卒。日本経済新聞社入社。03年朝日新聞に移り、政治記者として首相官邸(小泉番)、防衛省、民主党などを担当。08年経済部記者になり、日銀担当としてリーマン・ショックを取材。社会保障と税の一体改革、環太平洋経済連携協定TPP交渉、内閣府、財務省、自民党、首相官邸、経産省などを担当。景気循環学会所属

発行日           2017.10.30. 第1刷発行
発行所           朝日新聞出版

なぜ日銀は201212月の総選挙で、「インフレ目標政策」と「異次元の金融緩和」の導入に追い込まれることになったのか。政治家たちの日銀に対する非難は本当に正しかったのか。そして、本当にこのまま「異次元の金融緩和」を続けて大丈夫なのか――。
本書は「日銀と政治」のせめぎ合いをドキュメントで綴りながら、こうした疑問に答えていこうという試みである


まえがき
日本経済は、バブル崩壊からでも物価の下落が始まった98年からでも長期の停滞が続き、世界経済における存在感を徐々に低下させている
デフレの原因については、この20年間、政治家の間でくすぶり続け、徐々に支持者を増やしてきたのが「金融政策主犯論」で、日銀がバブル退治を過剰にやり過ぎたためにデフレとなり、デフレとなっても日銀が市中に出回る金を増やさず、適切な処方箋を実行できないままデフレから抜け出せないというもの
「金融政策主犯論」を唱える政治家と日銀は、長年論争を続けてきた
2012年の選挙で「デフレ脱却」を公約に掲げた安倍晋三は、「インフレ目標」と「異次元金融緩和」を日銀に求め、「金融政策主犯論」に基づく経済政策「アベノミクス」をスタート
5年経過しても物価上昇率は0.3%にとどまり、目標は未達どころか見通しも立たず
本書は、「日銀と政治」という切り口から、「失われた20年」の金融政策決定の迷走をドキュメントで辿る ⇒ スタートは98年。同年新日銀法が施行され、日銀の金融政策決定の主体性が担保された
日銀の政策決定プロセスを、「金融政策」「国内政治・政局」「通貨外交」の三位一体で描くことを目指す
新日銀法の理想にもかかわらず、国民に選挙で選ばれた政治家の言動、政府と日銀の水面下の交渉、あるいは外国政府との交渉が、日銀の政策決定に大きな影響を与えていた
第1期        速水総裁初期の新日銀法を強く意識した「独立」の時期 ⇒ ゼロ金利解除という判断ミス
第2期        ゼロ金利解除の失敗から、量的緩和政策導入までの時期 ⇒ 名誉挽回に努めた時期
第3期        福井総裁時代の「安定」期 ⇒ 政治の信頼を得つつ、最後は量的緩和の解除に踏み切る
第4期        政財界や国民の間に「日銀批判のマグマ」が溜まった時期 ⇒ リーマン・ショックや東日本大震災で定着した超円高に有効な手を打てなかったことが原因
第5期        「アベノミクス」期 ⇒ 圧勝した自民党がインフレ目標を与え、人事を掌握。日銀は政府の与えた目標を実現する「子会社」のような存在に
第6期        「ポスト・アベノミクス」期 ⇒ 次の経済政策を模索する動き
政府と日銀の統合が進んでいるように見える ⇒ 政策決定プロセスだけでなく、財務面でも進む。日銀の大量の国債保有に加えて年80兆円もの国債を買い続け、異次元緩和が長期化するほど、金融政策と財政政策の一体化が進んでいく
政策決定プロセスを検証するという作業は、その政策の責任の所在を明らかにすること。仮に今の金融政策が将来、重大な問題を引き起こした時、その責任は誰にあるのか?
本書が、その歴史的な視座を提供できれば幸い

序章 「独立」した日本銀行
1996年自社さの大蔵省改革問題PTの幹部が異例の日銀訪問 ⇒ きっかけは、95年の大蔵不祥事で、大蔵省を改組しようという自民党と組織を守ろうとする大蔵省が対立、山﨑拓が日銀法改正を持ち出す
中央銀行は、3つの銀行業務を行う ⇒ 発券業務、最後の貸し手、政府の銀行
3つの業務を通じて、通貨価値が大きく変動しないようにしているが、歴史上必ずしもその役割を十分果たしてきたとは言えない ⇒ 戦中・戦後の時期の猛烈なインフレ
旧日銀法は、1942年制定、戦費調達を主眼とし、国家統制色が強い
政策決定は事実上、大蔵省銀行局と日銀総務部(企画局の前身)の間で水面下で調整されたが、政府と日銀は主従関係に近い ⇒ 国会で予算審議中は、政策金利を変更しないという慣習
国民の間には、住専問題などを通じて、政治や霞が関に歪められた判断がバブルを生み、うまく対処できなかったという世論が生まれつつあった
金融制度改革の象徴として日銀法改正が位置付けられた ⇒ 最大の論点が「独立性」
金融政策の最重要の目的を「物価の安定」とし、雇用については「国民経済の健全な発展」の中に含めることとし、「為替」については政府が一元的責任を持つべきということになった
憲法65(行政権は内閣に帰属)との兼ね合いで、日銀の憲法上の位置付け、とりわけ金融政策が「行政権の作用」なのかどうかが曖昧
976月日銀法改正
l  目的 ⇒ 物価の安定を図ることを通じて国民経済の健全な発展に資する
l  政策委員会 ⇒ 最高の決定機関とし、正副総裁3名、審議委員6名、政府委員2(議決権なし)からなり、人事には衆参両院の同意を要す
l  政府との関係 ⇒ 政府の経済政策の基本方針と整合性を保つよう、連絡を密にし、意思疎通を図らなければならない
l  予算 ⇒ 財務省が認可
l  透明性の確保 ⇒ 金融政策決定後、速やかに議事要旨を公表

第1章        ゼロ金利解除の失敗
983月速水が総裁就任(81年まで国際金融担当の理事) 
直前に証券課長の接待汚職事件で初の家宅捜索で松下総裁、福井副総裁が辞職
97年初めの消費者物価指数は1.8%で、前年の消費税率3%から5%への引き上げを除くとマイナスの可能性大だが、日銀はデフレではないかとの問いに回答を回避するが、物価の下がる状況はバブル崩壊の後遺症をより深刻にした
デフレ対応の経験がない日銀に対し、意図的に物価上昇を引き起こす「調整インフレ」の論争が起きる
クルーグマンは、日本がデフレに陥って金利がゼロになる状況(流動性の罠)では、金利の上げ下げによる金融政策や財政出動は効果がなくなる。インフレへの期待を作り出し、実質的な金利を下げることを目指すべきで、そのための金融政策の手段を考えるべきと提案
フリードマンの「貨幣数量説(マネタリズム)」を源流とする「量的金融」政策やインフレ目標などが議論の対象になったが、いずれも本来は過度のインフレを抑えるための手段
日銀による「デフレ」の定義 ⇒ 1つは期間で「物価の持続的かつ全般的な下落」、もう1つは「デフレ」と「デフレ・スパイラル」の使い分け。「実体経済の悪化」→「物価下落」→「実体経済の悪化」というスパイラルが生じた場合を「デフレ」とした。経企庁も「物価下落を伴った景気の低迷」という定義を使うことに決定
97年の金融破綻による景気後退の対策として、政府は財政構造改革を凍結し赤字国債発行に踏み切る ⇒ 日銀による国債買取の要求も出たが、「財政ファイナンス」という「禁じ手」でもあり日銀は拒否、代わりに短期金利(無担保コール)の誘導目標を0.125%まで引き下げ、さらに「ゼロ金利政策の導入」へと進む
速水は、デフレ懸念払拭の状況を盾に金融正常化へ向けゼロ金利政策の解除に突き進もうとするが、政府は景気回復を最優先とし一貫して反対、初の議決延期請求を行うが、日銀は中原伸之植田和男以外の全員の賛成でゼロ金利解除を決定(007)
当時の官房副長官安倍晋三は、初めて日銀の金融政策に触れる
日銀の決定は、政府・与党内に強い反発を巻き起こし、自民党内には金融政策に強い拘りを持つ政治家が増えた ⇒ アベノミクスの生みの親と呼ばれる山本幸三はその最右翼
山本は小宮ゼミで経済理論を学ぶ ⇒ 白川、中曽、岩田(規久男)らと同窓。小宮は金利操作だけに執着する日銀に対し、「マネーサプライを適正な伸びに抑えるべき」と主張、山本や岩田はその議論を応用して、「マネーサプライを増やせば物価が上がりデフレから脱却できる」と考えた。後に小宮はマネーサプライの抑制はインフレ退治の理論であって、逆に増やしても物価上昇には効果がないと考え、白川がその考えを支持
山本が三和総研の嶋中に頼んで、渡辺喜美らとともに反対の声明文を配布するもスルー
金融政策によって意図的にインフレを作り出して克服しようとする考えの源流ができる
l  岩田規久男を中心とするリフレ派 ⇒ 金利操作だけに頼った日銀の金融政策を批判、マネーサプライを増やすべきと主張。昭和恐慌研究会を立ち上げ、恐慌からの脱出の取り組みを研究
l  中原伸之を中心としたマネタリストのグループで、日銀内部からの変革を目指す
0010月米国ITバブルの崩壊の影響で日経平均も大幅下落、景気回復に冷水、速水の責任論が噴き出す
011月経済財政相に就任した麻生が、単純に物価の下落状態を「デフレ」として、3月に初めて公式に「日本経済デフレ宣言」を行う

第2章        量的緩和の実験
013月政策決定会合で新たな金融政策として「量的緩和政策」の導入が決まる。期間については、「消費者物価指数の前年比上昇率が安定的にゼロ%以上となるまで」
量的緩和の対象は、民間銀行が日銀に保有する当座預金で、法定準備預金(当時4兆円)を超える残高を、まずは1兆円増やす。買取(公開市場操作)の対象は民間銀行の保有する短期国債とするが、不足する場合は長期国債も考える ⇒ 041月には35兆円に拡大、長期国債の買い入れも当初の4,000億から0210月には1.2兆円に
量的緩和とは、「非伝統的金融政策」であり、財政ファイナンスとならないための歯止めとして、日銀が保有する長期国債の残高を日銀券の流通残高以下に収めるという運用ルール(銀行券ルール)を作る ⇒ 当時日銀券の発行残高56兆円、長期国債保有残高46兆円
06年まで量的緩和政策の間銀行券ルールは守られた ⇒ のちに形骸化
014月自民党総裁選で、「構造改革」と「小さな政府(財政緊縮)」を掲げる小泉が国民世論を背に地滑り的圧勝。施政方針演説で日銀とデフレ阻止に向けて協力すると宣言
米国からも、不良債権の迅速な解決と、デフレ圧力の早期払拭の要請が来る
小泉・竹中による金融再生プログラムによって、半強制的な不良債権処理が進み、035月りそな銀行国有化
033月日銀総裁に福井が復帰、財務省の推した武藤と竹中の部下の岩田一政を副総裁とし、小泉の国対委員長だった中川が福井にデフレ脱却での協力を受け入れさせる
福井日銀の第1弾が資産担保証券ABSの買い切りオペ、第2弾が量的緩和の拡大(当座預金の目標を2227兆円に引き上げ)
財務省が打った手が巨額の為替介入による過度な円高の回避 ⇒ 米当局も日本経済の立ち直りのために黙認
02年に景気は底を打ち、不良債権処理も一段落、04年には景気回復は鮮明になり、05年郵政選挙で小泉が圧勝すると、059月福井が量的緩和解除の時期について初めて言及
05年第4四半期のGDPの実質成長率が5%を超え、1月のCPI0.5%と983月以来の高い伸びとなったことから量的緩和解除が現実味を帯びたが、デフレ状態継続を理由に強硬に反対したのが安倍官房長官
063月日銀は量的緩和解除決定し、「中長期的な物価安定の理解」という物価の数値イメージを導入 ⇒ 物価上昇率1%前後を目標とする
同時に「ゼロ金利政策」も解除 ⇒ 6年ぶりの金利引き上げ
069月安倍首相誕生
量的金融政策解除に当たり日銀で総括 ⇒ 不良債権で苦しむ金融機関が助けられ、信用収縮を防ぐ効果があったが、物価を押し上げる効果は薄かった
リフレ派は、量的緩和が経済活動を活発化する効果があったと評価

第3章        リーマン・ショックと白川日銀
077月参院選で自民党が歴史的大敗、ねじれ国会に ⇒ 小泉の構造改革路線を敗北の原因とし、軌道修正しよとしたが、自身の体調不良により辞任
079月後を引き継いだ福田は、ねじれ国会解消策として民主党との大連立を持ち掛けるが、民主党内の反発で頓挫
083月の日銀総裁人事は武藤を推す自民案に「財金分離」を持ち出した民主が反発、異例の総裁空席となり、元日銀企画担当理事で副総裁となった白川が代行を務める
4月白川の昇格が決まる
9月リーマン・ショックで日銀も外貨供給に協力するも、景気の底堅さを背景に対岸の火事的な受け止めだったが、危機は一気に進行、欧米の中央銀行が協調利下げしたのに日銀だけが参加しなかったために、急激な円高を招き、株価も20%下落して1万円を割る
海外投資家の売り浴びせで株価が一気に6,664円まで下落
9月福田が辞任して麻生に代わり、全世帯を対象とした総額2兆円の「生活支援定額給付金」の配布などを柱とした国費5兆円の経済対策を発表
日銀も、政策金利を02%引き下げ、7年半ぶりの金融緩和
一方でFRBは危機からの脱却に向けゼロ金利政策に踏み切ったために、日米金利逆転現象が出来、円相場は13年ぶりに87円台に突入、白川は慌てて金利引き下げを行うが、円相場は80円台が定着
099月民主党政権誕生、白川の原理主義的な態度に政府との意思疎通は全く取れず
景気悪化を背景に日銀は更なる金利引き下げ(実質ゼロ金利政策の復活)を行うとともに、総額35兆円の買い入れ基金創設

第4章        日銀批判のマグマ
103月民主党内に「デフレ脱却議員連盟」誕生、松原仁を筆頭に池田元久らが集まり、金融政策の転換を目指す
この頃長期国債発行残高600兆超え(10年で倍増)、国の経済規模(GDP)130%、先進国では最悪
113月東日本大震災の被害16.9兆円(原発分を除く)に対し復興増税 ⇒ 山本を中心に増税より震災国債の全額日銀引き受けを主張(池田も同調)
121FRBがインフレ目標(長期的物価上昇率年2)を導入、ゼロ金利政策を14年後半まで持続と発表 ⇒ 円高が75円まで進み、日銀は集中砲火を浴びる
122月日銀政策決定会合で「中長期的な物価安定の目処」としてCPIの前年比上昇率1%となるまでゼロ金利政策を続けるとした ⇒ 国債買い入れ基金を10兆円上積み
129月自民党総裁に安倍復活 ⇒ 経済政策に重点
安倍家と30年来の付き合いのあった中原伸之が、3代続いた日銀出身総裁の失政を綴り、さらに財務省出身の本田悦朗のアドバイスもあって、安部はインフレ目標を23%とし、それに向かって無制限緩和をしていくと決意
本田は30年来の知己、モスクワ大使館勤務時代、晋太郎外相の秘書だった安部をモスクワで案内、さらにリフレ派の岩田規久男の講義を受け、師弟関係にあった
安部は、さらに国土強靭化を謳い、建設国債の全額日銀引き受けをぶつ
白川が即座に反応、歴史の教訓を持ち出し、安部の主張に真っ向から反論
安部は、エール大名誉教授の浜田にも意見を求める ⇒ 浜田は安倍が官房副長官時代、内閣府経済社会総合研究所所長で、金融緩和の効用を訴える経済学者。東大教員の70年代、学生の白川を高く評価していたが、日銀入行と同時に翻す
安部の発言に市場が反応して株価、為替とも反転
12月衆院選で自民党圧勝、安部が民意をバックに日銀の政策転換を試みる

第5章        レジーム・チェンジ(体制転換)
安部は、政権の最大の使命を、日本経済のデフレからの脱却とする ⇒ 3本の矢
   日銀の金融緩和
   政府の機動的な財政政策 ⇒ 公共事業支出の増大
   企業の投資を引き出す成長戦略
131月安倍政権下初の経済財政諮問会議で、安部は白川に厳しい言葉で注文を付ける
政府と日銀の政策連携についての共同声明 ⇒ 目標を2%とし、日銀の責任を明確化
2月白川が辞意、代わりに新日銀法改正を阻止の言質を取る
後任には黒田が総裁、岩田規久男と中曽が副総裁 ⇒ 黒田は、浜田の推薦のほか、9902年円高阻止のため当時としては過去最大の為替介入を実施、予てよりデフレの責任を日銀にあると明言していたことが評価、岩田はリフレ派の代表格、中曽は日銀生え抜き
白川は辞任会見でも持論を貫き、新執行部は2%の2年以内達成を公言

第6章        異次元緩和の衝撃
黒田は、これまで節目節目で金融政策を立案してきたプリンスの雨宮理事を企画担当に呼び戻す ⇒ 常識を超える金融緩和の実施を目標に、「量的・質的金融緩和」QQEを実施
   金融市場調節の操作目標を、従来の「短期金利」から「市場に流すお金の量(マネタリーベース)」に変更 ⇒ 138兆円を2年で270兆円に膨らませる
   国債の大量買入れ ⇒ 14年末の日銀保有長期国債残高を2倍の190兆円とする。毎月の買い入れ額7兆円強は月間発行額の7割。超長期債も対象に
   ETFJ-REITの保有残高も増やす ⇒ 緩和経路の多様化と株価・不動産価格押上げ。ETFは年1兆円、J-REITは年300億円
   物価安定目標が安定的に持続するようになるまで続ける
   銀行券ルールの一時運用停止 ⇒ 基金による別枠管理分を加えるとすでに超過
138月参院選でねじれ国会解消 ⇒ 景気回復を背景に144月の消費増税を決定するが、1510月の更なる引き上げについては14年第3四半期の結果次第とした
消費増税で、家計消費は戦後最大級の落ち込み
10月日銀は金融緩和政策を加速、国債買い入れ額を30兆円上積み
年金積立金管理運用法人GPIFが投資配分の基準を変更し、株式への投資を50%へ
1412月衆院選で安部一強達成 ⇒ 消費増税延期
黒田ですら財政規律を守るために「具体的な財政再建計画」を作るという安部の公約に期待
国債発行残高は800兆円に接近、PB黒字化は当初の2010年から10年遅れの2020年に繰り延べ、しかも消費増税を織り込んでいた
安倍が新たに言い出したのは、GDPを拡大すれば累積債務も対GDP比で縮小するとしたが、黒田は格付け引き下げもあって、財政再建に本腰を入れるべきと強調
黒田は、低空飛行を続ける物価上昇率の責任を原油価格の低下と円安進行に転嫁
世界同時株安の進行 ⇒ 中国人民元の切り下げで、中国の景気悪化が懸念されたため
8月にはCPIも前年同月比-0.1%と、24か月ぶりのマイナスに突入

第7章        金融と財政、「合体」へ
159月新たな政策目標として、2020年の名目GDP600兆円を掲げる(14490)
一億総活躍社会を目指し、アベノミクス第2ステージを発表 ⇒ 「3つの的」
   希望を生み出す強い経済 ⇒ GDP600兆円
   夢を紡ぐ子育て支援 ⇒ 希望出生率1.8
   安心につながる社会保障 ⇒ 介護離職ゼロ
161月日銀が追加施策として「マイナス金利政策」導入
6月「骨太の方針2017」を閣議決定 ⇒ 1910月の消費増税を織り込む
2020年度のPB黒字化と並列に「債務残高対GDP比の安定的な引き下げを目指すとした
岩田一政が日銀の出口戦略を指摘し始める
自民党内に財政規律への疑問も噴出

あとがき
本書の目的は、特定の政策の是非を問うことではなく、政策が誰の手により提唱され、どのような力学で決められ、実行されていったのかを克明に記録すること


日銀と政治 暗闘の20年史 鯨岡仁著
2017/12/2付 日本経済新聞
フォームの終わり
 日本銀行と政治という切り口から日本経済の「失われた20年」を歴史的にたどったのが本書だ。単なる金融政策の解説本ならたくさんあるが、本書は新日銀法下での政府からの「独立」を経て、黒田東彦総裁による異次元の金融緩和までの過程を丹念に追った政策決定過程の検証である点が他と一線を画す。関係者への取材により、安倍晋三首相による経済政策「アベノミクス」の生成過程をも浮き彫りにしている。(朝日新聞出版・2000円)


(書評)『日銀と政治 暗闘の20年史』 鯨岡仁〈著〉
201712100500分 朝日
 金融政策を歴史的な視座で問う
 本書は、1998年の日銀法改正から、現在のアベノミクス下の超金融緩和策に至る政治と日銀の関係の「舞台裏」を、緻密(ちみつ)な取材を基に記述したものである。
 安倍晋三首相が、小泉政権官房長官時代から日銀に不信感を強めてきた経緯や、現在の日銀総裁・副総裁人事の内幕など、生々しい話が盛り込まれている。
 来年は新日銀法施行20周年にあたる。この法改正の意義は何だったかを、このタイミングで振り返る本書のコンセプトは、非常に価値あるものと思われる。
 というのも、法改正の主要テーマは日銀の独立性強化にあったからである。戦時下に制定された旧法は、戦費調達安定化のために日銀を政府の「打ち出の小槌(こづち)」にするものだった。
 一方で、現在の日銀は、デフレ脱却を大義名分としつつも、国債を猛烈に買い取ってその発行金利をゼロ%またはマイナスに押し下げ、政府の財政再建先送りを事実上強くサポートしている。
 評者は最近、金融市場関係者から、「日銀の独立性はこの20年でかえって低下したのではないか?」との皮肉な指摘をよく聞く。日銀の国債保有額が激増する一方で、最近の黒田総裁は政府の財政運営に苦言を呈さなくなっているからだ。
 本書を読んで痛感させられたのは、米欧と異なり日本には中央銀行が過度な金融緩和策を行った場合、それを抑える政治勢力が議会に存在しない点である。最近の日本経済は好調だが、最大の原因は海外経済の好転にある。日銀がこんなにも金融緩和をしているのにインフレ率は政府と定めた目標に近づかないため、出口は全く見えてこない。
 著者は「仮に、いまの金融政策が将来、重大な問題を引き起こしたとき、その責任は誰にあるのか? 本書が、その歴史的な視座を提供できれば、幸いだと思っている」と述べている。将来振り返ったとき、本書は重要な歴史的証言となる可能性があるだろう。 評・加藤出(東短リサーチチーフエコノミスト)
    *
 『日銀と政治 暗闘の20年史』 鯨岡仁〈著〉 朝日新聞出版 2160円
    *
 くじらおか・ひとし 76年生まれ。朝日新聞記者。『ドキュメントTPP交渉 アジア経済覇権の行方』『この国を揺るがす男――安倍晋三とは何者か』(共著)など。


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