カラヴァッジョの秘密  Constantino D’Orazio  2018.1.18.

2018.1.18.  カラヴァッジョの秘密――傑作に隠された謎
Caravaggio Segreto           2013

著者 Constantino D’Orazio 1974年生まれ。美術史家 随筆家。ローマ現代アート美術館(MACRO)の展覧会キュレーターを務めるほか、イタリア国営放送で国内の芸術作品を紹介する番組を担当するなど、多方面で活躍。本書は著者の「秘密シリーズ」の第2弾で、第1弾のレオナルド・ダ・ヴィンチは、美術本としては異例成功をおさめた出世作

訳者 上野真弓 1959年生まれ。成城大文芸学部芸術学科(西洋美術史専攻)卒。1984年よりローマ在。ローマの生活や芸術を紹介する人気ブログ「ローマより愛をこめて」の管理人

発行日           2017.10.20. 初版印刷        10.30. 初版発行
発行所           河出書房新社

17世紀以降の西洋絵画に絶大な影響を与えた、カラヴァッジョ。常軌を逸した人格と、成功への執着が生み出した彼の傑作は、今なお永遠に生きる――
カラヴァッジョの革新的な光と闇の手法と、理想化することなく聖と俗を見つめた視点は、バロックという新時代の美術を開花させる原動力となった

はじめに
本書を書いたのは、カラヴァッジョを愛し、まるで彼を昔から知っている人かのように理解したいと思う人たちのための手引書として
多くの場合、1つの事物や色、あるいは表情が、作品に込められた真意を解くが、しばしばそれは専門家にしかわからない。カラヴァッジョの絵に現われる場面は、現実の一部で、自然のままに描いた絵であり、彼が描く聖堂の祭壇画はまさに万人向けで、聖画の解釈に特別な知識は必要ない。時にその人間臭さがスキャンダルを引き起こす
カラヴァッジョは、反宗教改革を最も純粋に代弁する1
見かけだけに立ち止まるな! ⇒ 注意深く見ない者を欺くために全力を尽くす

I 常軌を逸した人格と成功への執着
カラヴァッジョの画業の全ては、不朽の名声を得るという目的に集約。絵を描くのが上手だけでは不十分 ⇒ 強迫観念にも似た執着となり、仕事や人間関係を左右
芸術は、自分の死後も生き続ける手段 
1584年「ティツィアーノの弟子」と自称するペテルツィアーノ(154096)に弟子入りし、芸術に人生を賭ける夢を広げ、ミラノでの修業時代を経てヴェネツィアに滞在して伝説の画家たちの傑作を自分の目で確かめた
07年誕生日を推測する大発見があり、カラヴァッジョの誕生日が1571.9.29.と特定される(当時は乳児死亡率が高いため誕生後すぐに受洗したところから、受洗日が30日との記載が発見されたので生まれたのが前日ということ) ⇒ 出生証明がないため80年以上にわたり論争が続いていた。死亡についても1609.7.18.の記録があるが、当時その土地では98日が1年の始まりとされていたため、通常の暦では1610年となる
ここ数年の間にカラヴァッジョに関する研究が進むが、彼の人生は断片的な資料でしかなく、まだまだ闇の部分が多い。熱烈に崇拝する者もいれば、無条件に憎悪する者もいる
真偽交えて絶え間なく新発見が起こる ⇒ 172月にもカラヴァッジョの最古の伝記が発見され、テニスの試合中に頭をラケットで叩いた相手を殺してしまう(VII参照)
ヴァティカンの宮廷画家として高名だったダルピーノの工房に入るがすぐ飛び出す
ライバルたちとは違う土俵で勝負
16世紀末のイタリアでは美術アカデミーが花開き、カトリック教会が不祥事を避け斬新過ぎる創造力を抑えつけるためにこれらの新しい集団を支持したが、カラヴァッジョはどこにも属さず自由の身で、斬新な画風を選んだために作品が議論を引き起こす
17世紀の芸術家は、現実をただ模写する自然主義者と、新たに崇高な絵を創作する有能な理想主義者に大別され、カラヴァッジョは前者
コンタレッリ礼拝堂が、カラヴァッジョの輝かしいキャリアの出発点となるが、彼の画風を模倣する「カラヴァッジェスキ」がその様式をヨーロッパ中に広める ⇒ 伝統的な絵画の手法に挑戦するカラヴァッジョの能力は、古典主義に傾倒する「体制側の」批評家や芸術家からは過小評価される

II 最初の歩み、最初の欺瞞
1597年の音楽家襲撃事件公判での散髪屋の証言から、当時カラヴァッジョがローマにいたことが証明されるため、当初92年とされていたローマ到着年をずらさなければならず、「初期の作品」の制作年を見直す必要がある
カラヴァッジョがローマで描いた初めての作品と見做されている《病めるバッカス》は、ダルピーノの工房で働いているころの作と推定、ダルピーノはすぐ並外れて素晴らしいものと見抜くが、教皇パウルス5世の会計院に押収される
16世紀に急増した絵画の売買は、画商や知識人、画家たちに一連のカテゴリーを作らる。正確な主題や題材で分類され、絵の注文の際に役立つもの。「半身の人物像」という題材、「歴史画」の描写、「自然のままに」描く肖像画、「花と果物」の静物画などの定義が生まれ、芸術家はいずれかのジャンルの1つを専門にし、細部にわたった注文を受ける工房内で出来るだけ容易に仕事を得ようとした。2世紀以上にわたって続くシステム
カラヴァッジョの絵はどのジャンルにも属さず、むしろ伝統的なジャンルをかき混ぜ始めた
16世紀末に始めた絵画の考察で、17世紀の芸術家に貴重な手引きとなった絵を描く12の方法のヒエラルヒー
    打ち抜き模様に色粉を振りかけて下絵を写す ⇒ 他の画家のデッサンの輪郭線を細かな穴で模写することで、画家の創造力は不要
    他の画家の絵の模写 ⇒ 16世紀の美術市場で大きな成功をおさめた
    鉛筆や水彩やペンによる素描 ⇒ 目に見えるものを模写
    特徴のある人物を上手に表現できること ⇒ 肖像画を構成する能力がある
    並々ならぬ忍耐がなければ描くのが実に難しい、花をありのままに描けること
    遠近法と建築を匠に描くこと
    風景や特定の事物を描けること ⇒ ティツィアーノ、ラファエッロなど
    グロテスクに描けること ⇒ 最も難しいジャンル。万能の芸術家といえる
    戦闘画面や嵐で荒れ狂う海を描けること
    手法(マニエーラ)で描くこと ⇒ 素描と彩色の実践を長く積んだ画家が手本を見ることなく自らの創意で絵を形作ること。ダルピーノ
    自然の事物を目の前に置いて描くこと ⇒ 光の効果と調和を賢く使うことができなければならない
以上の頂点に⑩と⑪の融合として、事物を前にしてありのままの自然になおかつ手法で描くこと ⇒ 最後の方法を習得しているのがカラヴァッジョとカラッチ
数年後に描いたのが、神話の人物像を主人公にして異なる方法で2点、まるで手品のような並々ならぬ能力を確実なものにする ⇒ トスカーナ大公への贈物となった《バッカス》がその1つで、人物像が鏡で反転しているのが盃を左手で持っていることからわかる
 
III 誘惑のトリック
ダルピーノの工房を出てから数か月後、ローマで最も洗練された社交サロンに迎えられるデル・モンテ枢機卿の庇護を受け、飛躍のきっかけとなった作品が、《女占い師》と《トランプいかさま師》
カラヴァッジョは、習慣を変えず、いつも同じ人物と付き合い、同じ居酒屋で食事し、居住地区から外に出ない
モデル代を払えるようになって、より複雑で大きな構図に思い切って取り組むとき、カラヴァッジョの絵の質は急激に上がる

IV 異色の枢機卿
矛盾に満ち溢れた国際都市ローマで、世の流れを決めるのは高位聖職者、特に主要な役割を果たすのが枢機卿。夜は自らの屋敷で社交界を活気づけるが、出入する著名な客人が一緒になって貴重な芸術コレクションを振興させる ⇒ 傑作を集めたギャラリーはステイタスシンボルで、全ヨーロッパの芸術家が束の間の名声を求めてローマへと駆け付ける
教皇は70人の枢機卿を指名するが、大半は大使としてヨーロッパの各宮廷に送られるので、ローマ在住の枢機卿はごく僅かの特権階級で、政治体制の中枢を占める
カラヴァッジョが関わりを持つことになるのは、スキャンダルで高名な最も権力のあるコンタレッリだが、身元保証人になってくれたデル・モンテ枢機卿の庇護のお陰で高い評価を受ける ⇒ 芸術家と注文主という単なる職業的交流を超えた関係にあった
カラヴァッジョの描く天使は、あいまいで魅惑的な要素を持つものがあり、信仰への冒涜のようであり、スキャンダルとなる境界線がかなり低くなっていた当時の性的羞恥心を巧みに利用、懲戒処分ギリギリであり、彼は火遊びをするのが好きだった
《聖マタイと天使》でも、聖堂内の祭壇のための作品でありながら、肉感的な唇を持つ少女の姿を描くことで、新たな挑発行為という危険を冒す
さらに、天使に男女両性を与え、性別の判断を観者に委ねる ⇒ 1世紀も前にダ・ヴィンチも両義性表現に魅せられ、《受肉する天使》ではエロティックな図像シリ-ズを残し、イギリス王室コレクションに秘蔵されていたためにヴィクトリア女王が困惑した
カラヴァッジョがダ・ヴィンチの絵を見たかどうかは不明だが、ダ・ヴィンチこそカラヴァッジョのエロティシズムの表現における基準点
聖者からあらゆる虚飾を剥ぎ取り、その無邪気な人間性を信者たちの前に掲げる

V 一世一代のチャンス
コンタレッリ礼拝堂の装飾で初めて公的作品での実力を試すときがくる

VI 聖女と娼婦
カラヴァッジョと宗教の関係は曖昧
彼の宗教画は、正統派の表現から遠く離れ、独自の手法を考え出し、美術愛好家を巻き込み、心を掴んでいく。激しい徴発であると同時に回心への明快なメッセージでもある
初めての宗教画は、《懺悔するマグダラのマリア》で、娼婦をモデルに選ぶが、その後次々と起こるスキャンダルの最初の例となり、カトリック教会と衝突する方向へ導く
娼婦は、誰だか容易に見分けがつき、特に黄色のマンとの着用を義務付けられた高級娼婦たちがモデルとなり、特にサンタゴスティーノ聖堂の《ロレートの聖母》(1604)は、祭壇を飾る公的作品にもかかわらず娼婦を、しかも聖母マリアそのもののモデルとし限界に挑戦

VII 逃亡
1606年殺人事件を犯す ⇒ テニスの試合中に負けつつある中で相手に致命傷を負わせ、極刑を逃れるためにローマから逃亡したとされるが、当日は新スペイン派教皇の就任1周年の祝祭が行われ、新フランス派のカラヴァッジョが両派の政治的闘争に巻き込まれもともと仕組まれた事件だったという
コンスタンツァ侯爵夫人などの庇護者の手引きでローマから、人口3倍のナポリ(当時はパルテノペという古称)の貧民窟に逃れ、二度とローマに戻ることはなかったし、貧民窟の下層の人々がじきにカラヴァッジョの新たな傑作の題材となっていく
侯爵夫人は、カラヴァッジョが画家志望の少年だった頃から目をかけ、ナポリでも社交界の扉を開く。最後の数点を受け取っており、彼の人生の「影の演出者」だったことは明らか
カラヴァッジョは、ローマから死刑宣告は受けていたものの、教皇庁領から出ることで巨匠として迎えられ、侯爵夫人のルートで庇護と仕事を保証される
現存するナポリでの最初の作品は《慈悲の七つの行い》(1607)で、新たに建立された聖堂を飾った ⇒ 主題は次の《キリストのむち打ち》に引き継がれ、より光が鮮明になって、筆使いが早くなり、身の安全を守るためか、背景描写を等閑にして、重要な要素だけ描くことに絞り込んでいる(節約法/要約法)。人物像の大半は下塗りの黒の中に沈み、陰影となる。この技法は年月を経るうちに最高水準に達し、人物像は薄くはがれ、闇はさらに画面を覆う
人生最後の2年間、マルタ島とシチリア島を逃げ回る中で、ローマへの帰還という確固たる望みにしがみつきながら、過去1世紀において巨匠たちが固めてきた絵画表現の規則を大混乱させる ⇒ 長い間、模倣に値する強烈な新様式を示す天才が不在だった南イタリアに、夥しい数の追随者を生み出す

VIII 落ち着く間もなく
ナポリで偉大な巨匠として迎えられ厚遇され、町で最も威信のある聖堂のいくつかに祭壇画を描くが、永遠の栄華を勝ち取るためにはローマへの帰還が必要だと思う
1年余の後、マルタ島へ渡るガレー船に乗り込む ⇒ マルタ島は、イスラムの脅威からキリスト教を守るための砦であり、新たなアテネとして芸術と文化の中心に変わりつつあり、そのために途方もない投資を続けていた
カラヴァッジョがマルタに行ったのは、島の騎士団に入れれば、殺人事件からの免責特権が得られるからでもあり、これも侯爵夫人の差し金によるものと推測される
1608年マルタのオラトリオ(威厳ある場所)の広間の巨大な壁画を任され《洗礼者聖ヨハネの斬首》を描き、騎士が使う称号をつけた署名を添えている ⇒ 入団寄付金の代わり
壁画公開の2日前に再び面倒に巻き込まれ投獄される ⇒ 品行方正を要求される騎士だったが、外国人騎士との乱闘に巻き込まれたことで逮捕。今回も侯爵家の関係で脱獄に成功、シラク―サに逃れ、石牢の壁に《聖女ルチアの埋葬》を残し、さらに《ラザロの蘇生》を描き始める
カラヴァッジョの瞬く間の成功は、作品に対する報酬額の推移で正確に把握できる ⇒ 売買を前提にした最初の作品は《トカゲに噛まれた少年》で、1596年頃の最初に描いた顔(1回の豪華な食事に匹敵する金額で描いていた)50倍の評価、数年後の《女占い師》の1つは04年当時彼の借家の家賃の2か月分に相当、公的作品では1600年のコンタレッリ礼拝堂側壁の2点の絵が同じ家賃の9年分、2年後の祭壇画《聖マタイと天使》が3.3年分、美術愛好家の個人的な依頼からは《イサクの犠牲》(02)2.2年分だが、《勝ち誇るアモール》では貴族がその倍でやっと手に入れた
ローマから逃亡の途中、ジェノヴァの宮殿の回廊のフレスコ画を《アモール》の20倍のオファーだったが何故か断る ⇒ 時間がかかることとローマの祭壇画と同じ名声をもたらすことがないことを知っていたため
ナポリでも評価を高め、《慈悲の七つの行い》では9年分(公的作品の価値が6年で倍増)、《ラザロの蘇生》はその2.5
これほどの高額の絵を描いたにもかかわらず、カラヴァッジョは常に無一文で登場、絵は「節約法」を多用しているし、どういう暮らし向きをしていたのか全く不明

IX 予告された死
1610年カラヴァッジョが殺されたという偽ニュースが流れ、死期を予知したカラヴァッジョは初めて注文主のいない絵を描くことで、死刑宣告を出したローマ教皇に赦しを請うことにしたのが《ダヴィデとゴリアテ》⇒ 同じ主題が描かれた有名な傑作はいずれもダヴィデを称賛することに絞り込まれているが、カラヴァッジョは敢えて人物像の役割をひっくり返し、首を斬られたゴリアテの顔立ちに焦点を当て、自画像にして、ローマ教皇に対して屈従という最後の行為を表明する証とし、教皇の赦しを得ることに望みを賭け、ローマに向かうが、上陸後はっきりしない状況の中死ぬ
自画像を描写する習慣は、芸術家が古来行っている癖のようなものだが、確実な証拠となって残るのは中世以降のことで、人物像の下に作者の名前が現れる頃、作品中の画家の顔は、署名と同等の価値を意味した
ルネサンス期にはもっと野心的な役割を持つようになる。ラファエロの《アテネの学堂》に入れた自画像は社会における自身の役割と高い自尊心を示すし、同時代のジョルジョーネがダヴィデに扮した自画像を描いたのは芸術の世界における自身の成功を称える手段
カラヴァッジョ作品における自画像は、マニアックに見えるが、その目的は全く異なり、《病めるバッカス》において鏡に映る自身を描くという試みが、視覚の両義性(曖昧さ)を探るための方策とするならば、《聖マタイの殉教》以降の作品では宗教的出来事の直接的証人として現れる。彼の存在が、場面に具体性と正当性と即時性を与える。《キリストの捕縛》ではランタンを持ち、《ラザロの蘇生》では奇跡を行うキリストに魅せられ、《ダヴィデとゴリアテ》では打ち負かされた巨人に扮している。最も謎に満ちている自画像は、《聖女ウルスラの殉教》場面を表す最後の傑作において聖女の背後に見える姿。それは6年前の《キリストの捕縛》に挿入した自画像の完全な鋳型。何事もありのままに描く彼なら決して見逃すはずのない細部の変化が見られないのは何故か
ローマに向かう直前に描いた最後の傑作《聖女ウルスラの殉教》では、通常乙女の信奉者たちと共に描かれ、集団処刑の中で殉教し、カトリック信仰のヒロインとして称えられるが、矢を射た迫害者を前に彼女は1人、なぜ自分なのかと驚き落胆し自問する彼女の背後に自身の顔を描いている
ローマ近くの港の記録によれば、カラヴァッジョは1610年病院で死去したことを証明しているが、その記録が偽物だという。ローマ上陸後憲兵に殺されたという説やマラリアに罹って死んだという説など混在

X 永遠に生きる
マニアックなカラヴァッジョ熱が今でも広がる
17世紀の美術市場における正真正銘の特異現象
カラヴァッジョの記憶を永続させるのは、単に自筆の作品だけではなく、彼の死後祭壇や通廊や宮殿を飾っていく膨大な量のカラヴァッジェスキの作品
誰にも自分の制作の秘密を教えなかったので、後世、カラヴァッジョ様式に不可欠な基本原理を若い画家たちに説明できるような「手法」を作る
l  暗い背景から不意に人物の顔や事物が浮かび上がること
l  舞台設定の構成を必要最小限に抑える
l  雰囲気を和らげる建造物や風景はいらない
l  現実を美化せずに模倣すること
l  もし描く人物像が遊び人、ジプシー、音楽家、皴だらけの老女ならば、出来れば半身像で、居酒屋のテーブルや道端などの日常の場面の中に至近距離で配置するのが望ましい
革新的なカラヴァッジョ様式は、まるでウィルスのように、既に成功した画家たちの芸術的霊感の中に忍び込み、画家本来の表現を揺るがし、感化する
自分の工房を持つことなど考えたことがなかったが、その意に反して、1世紀以上にわたって優れた「弟子たち」の集団を誇る
カラヴァッジョが永遠に生き続けるのは、彼を惨めな最期に引きずった不運や常軌を逸した性格が語られるからではなく、彼の絵が力強く魅力的だからだ。彼の絵は今日なお、我々の視線を誘惑し、暴かなければならない謎を秘めている



カラヴァッジョの秘密C・ドラッツィオ著
日本経済新聞 朝刊 2017122 2:30
殺人を犯し、逃亡生活の果てに38歳で行き倒れた「呪われた画家」のカラヴァッジョ。イタリアの美術史家が最新資料を駆使して、その生涯を生き生きと描写する。素行の悪さが注目されがちだが、伝統的な絵画の手法に挑戦し、成功を収める能力にこそ魅力があったと説く。弟子は持たなかったにもかかわらず、彼を模倣する若い画家があとを絶たなかったため、その手法が欧州に広まっていったという。上野真弓訳。(河出書房新社・2400円)

Wikipedia
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(: Michelangelo Merisi da Caravaggio1571928 - 1610718)は、バロック期イタリア人画家
ルネサンス期の後に登場し、カラヴァッジョ(Caravaggio)という通称で広く知られ、1593から1610年にかけて、ローマナポリマルタシチリアで活動した。あたかも映像のように人間の姿を写実的に描く手法と、光と陰の明暗を明確に分ける表現は、バロック絵画の形成に大きな影響を与えた[1]
概要[編集]
カラヴァッジョはティツィアーノの弟子だった師匠のもと、ミラノで画家の修行を積んだ。その後、ミラノからローマへと移っているが、当時のローマは大規模な教会邸宅が次々と建築されており、それらの建物を装飾する絵画が求められている都市だった。対抗宗教改革のさなか、ローマカトリック教会はプロテスタントへの対抗手段の一つとして自分たちの教義を補強するようなキリスト教美術品を求めるようになる。しかしながら、盛期ルネサンス以降、およそ1世紀にわたって美術界の主流となっていたマニエリスムは、もはや時代遅れの様式であると見なされていた。このような状況の中、カラヴァッジョは1600年に枢機卿に依頼された作品『聖マタイの殉教』と『聖マタイの召命』とを完成させ、一躍ローマ画壇の寵児となった。極端ともいえる自然主義に貫かれたカラヴァッジョの絵画には印象的な人体表現と演劇の一場面を髣髴とさせるような、現在ではテネブリズムとも呼ばれる、強烈な明暗法のキアロスクーロの技法が使用されている。
カラヴァッジョは画家としての生涯で絵画制作の注文不足やパトロンの欠如などは経験しておらず、金銭面で困ったことはなかった。しかしながらその暮らしは順風満帆なものではなく、自宅で暴れて拘置所に送られたことが何回かあり、ついには当時のローマ教皇から死刑宣告を受けるほどだった[2]。カラヴァッジョについての記事が書かれた最初の出版物が1604年に発行されており、1601年から1604年のカラヴァッジョの生活について記されている。それによるとカラヴァッジョの暮らしは「二週間を絵画制作に費やすと、その後1か月か2か月のあいだ召使を引きつれて剣を腰に下げながら町を練り歩いた。舞踏会場や居酒屋を渡り歩いて喧嘩や口論に明け暮れる日々を送っていたため、カラヴァッジョとうまく付き合うことのできる友人はほとんどいなかった[3]」とされている。1606年には乱闘で若者を殺して懸賞金をかけられたため、ローマを逃げ出している。さらに1608年にマルタで、1609年にはナポリで乱闘騒ぎを引き起こし、乱闘相手の待ち伏せにあって重傷を負わされたこともあった。翌年カラヴァッジョは熱病にかかり、トスカーナ州モンテ・アルジェンターリオ38歳の若さで死去する。人を殺してしまったことへの許しを得るためにローマへと向かう旅の途中でのことだった。
存命中のカラヴァッジョはその素行から悪名高く、その作品から評価の高い人物だったが、その名前と作品はカラヴァッジョの死後まもなく忘れ去られてしまった。しかし20世紀になってからカラヴァッジョが西洋絵画に果たした大きな役割が再評価されることになる。それまでのマニエリスムを打ち壊し、後にバロック絵画として確立する新しい美術様式に与えた影響は非常に大きなものだった。ルーベンスホセ・デ・リベーラベルニーニそしてレンブラントらバロック美術の巨匠の作品は、直接的、間接的にカラヴァッジョの影響が見受けられる。カラヴァッジョの次世代の画家で、その影響を強く受けた作品を描いた画家たちのことを「カラヴァジェスティ」あるいはカラヴァッジョが使用した明暗技法から「テネブリスト」と呼ぶこともある。現代フランスの詩人ポール・ヴァレリーの秘書をつとめたアンドレ・ベルネ=ジョフロワはカラヴァッジョのことを「いうまでもなくカラヴァッジョの作品から近現代絵画は始まった」と評価している[4]
生涯[編集]
前半生(1571 - 1592年)[編集]
カラヴァッジョは1571年にミラノで三人兄弟の長男として生まれた[5][6]。父フェルモ・メリージは、ベルガモ近郊にあるカラヴァッジョ侯爵家の邸宅管理人かつ室内装飾担当で、母ルチア・アレトーリは、同地方の地主階級の娘だった。1576にはペストで荒廃したミラノを離れ、一家でカラヴァッジョ村へと移住したが、その翌年の1577年には父フェルモが死去している。カラヴァッジョは幼年期をこの村で送ったと考えられており、カラヴァッジョとスフォルツァ家コロンナ家といった当時の有力なイタリア貴族との関係はその後も続いていた。後年カラヴァッジョはスフォルツァ一族の娘と結婚し、このことがカラヴァッジョの後半生に大きな役割を果たすことになる。
カラヴァッジョの母も1584年に死去し、この年からカラヴァッジョはティツィアーノの弟子だったという記録が残っているミラノの画家シモーネ・ペテルツァーノ (en:Simone Peterzano) のもとで4年間徒弟として修行している。カラヴァッジョは徒弟の年季が終了した後もミラノ近辺に在住していたが、ヴェネツィアを訪れて、後年フェデリコ・ツッカリがカラヴァッジョの絵画はこの画家の作品を真似ただけだと非難したジョルジョーネ[7]やティツィアーノらの絵画を目にした可能性はある。カラヴァッジョはレオナルド・ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』などミラノに保管されていた貴重な作品や、ロンバルディア地方の絵画に親しんでいった。硬直化し、大げさな表現に陥っていたローマ風のマニエリスム様式ではなく、飾り気なくありのままを表現するドイツの自然主義絵画様式に傾倒していった[8]
ローマ時代前期(1592 - 1600年)[編集]
『果物籠を持つ少年』(1593 - 1594年)67 cm × 53 cm (26 in × 21 in)
ボルゲーゼ美術館ローマ
1592年半ばにカラヴァッジョは「おそらく喧嘩」で役人を負傷させ、ミラノを飛び出し「着の身着のままで行く宛ても食料もなくほとんど無一文の状態で」ローマへと逃げ込んだ[9] 。その数ヵ月後カラヴァッジョは、ローマ教皇クレメンス8のお気に入りの画家だったジュゼッペ・チェーザリ (en:Giuseppe Cesari) の工房で助手を務め、「花と果物の絵画」で画家としての技量を知られるようになる[10]。このころのカラヴァッジョの作品として知られているのは『果物の皮を剥く少年 (Boy Peeling Fruit)』(ロンギ財団所蔵、1592年ごろ)、『果物籠を持つ少年 (Boy with a Basket of Fruit)』(ボルゲーゼ美術館所蔵、1593 - 1594年)、『病めるバッカス (Young Sick Bacchus)』(ボルゲーゼ美術館所蔵、1593年ごろ)などがある。『病めるバッカス』は自画像ではないかと言われており、ひどい病気に罹患してチェーザリの工房から解雇された後の回復しつつある自分自身を描いたとされている。これら3点の絵画は精密な写実的表現で描かれており、カラヴァッジョの画家としての名声を高めることになった。『果物籠を持つ少年』に描かれた果物は園芸の専門家によればそれぞれの種類を言い当てることが可能で、例えば籠の右下に垂れ下がっているのは「菌類による病変に侵されて斑に枯れた大きなイチジクの葉」である[11]
『果物籠』(1595 - 1596年頃)
アンブロジアーナ絵画館(ミラノ)
カラヴァッジョは1594年にジュゼッペ・チェーザリの工房から解雇され、独立した画家として生計を立てることを決意した。このころがカラヴァッジョの生涯でもっとも底辺にあった時期だが、画家プロスペロ・オルシ、建築家オノーリオ・ロンギ、当時まだ16歳だったシチリア出身の芸術家マリオ・ ミンニーティら、カラヴァッジョにとって非常に重要な存在となる人々と友人になっている。オルシはすでに成功していた画家で、多くの影響力がある収集家をカラヴァッジョに引き合わせた。一方ロンギはカラヴァッジョに悪い影響を与えた人物で、喧騒に満ちたローマの裏の世界をカラヴァッジョに教えた。ミンニーティはカラヴァッジョのモデルをつとめ、数年後にシチリアでの重要な絵画制作に大きな役割を果たすことになった[12]
『女占い師 (The Fortune Teller)』(カピトリーノ美術館所蔵、1594年ごろとルーブル美術館所蔵、1595年ごろの2点のヴァージョンが現存)はカラヴァッジョの作品の中で最初に二人以上の人物が描かれた絵画で、モデルになっているのはミンニーティである。ミンニーティ扮する少年がジプシー娘に欺かれている様子が描かれており、このような題材の絵画はそれまでのローマでは見られず、この作品を嚆矢としてその後数世紀にわたって描かれるようになった題材である。しかしながら、この題材で描かれた絵画に人気が出たのは後年になってからのことで、カラヴァッジョ自身はただ同然の価格でしかこの作品を売却できなかった。
『トランプ詐欺師』(1594年頃)
キンベル美術館フォートワース
『トランプ詐欺師 (The Cardsharps)』(キンベル美術館所蔵、1594年ごろ)は、トランプ詐欺に引っかかる純朴な少年を描いた作品で、題材としては『女占い師』と同様のものである。しかしながら心理的描写はより優れており、カラヴァッジョの作品で最初の傑作とされている。『女占い師』と同じく後世になって人気が出た題材で、50点以上の模写が現存している。さらにこの作品を通じて、カラヴァッジョは当時のローマでもっとも優れた美術鑑定家の一人といわれていた枢機卿フランチェスコ・マリア・デル・モンテに認められ、後援を受けることに成功した。そして、デル・モンテと取巻きの裕福な美術愛好家たちに依頼され、多数の室内装飾用絵画を描いた。『音楽家たち (The Musicians)』(メトロポリタン美術館所蔵、1595 - 1596年)、『リュートを弾く若者 (The Lute Player)』(ウィルデンスタイン・コレクション所蔵、1596年ごろ、バドミントン・ハウス所蔵、1596年ごろ、エルミタージュ美術館所蔵、1600年ごろの3点のヴァージョンが現存)、『バッカス (Bacchus)』(ウフィツィ美術館所蔵、1595年ごろ)や、寓意に満ちているが写実的な『トカゲに噛まれた少年 (Boy Bitten by a Lizard)』(ロンドン・ナショナル・ギャラリー所蔵、1593 - 1594年とロベルト・ロンギ財団所蔵、1594 - 1596年の2点のヴァージョンが現存)などである。これらの作品にモデルとなって描かれているのはミンニーティのほか、数人の青少年である。
『懺悔するマグダラのマリア』(1594 - 1595年頃)
ドリア・パンフィリ美術館(ローマ
カラヴァッジョが最初に描いた宗教画は写実的で、高い精神性をもったものだった。宗教を題材とした最初期の作品として『懺悔するマグダラのマリア (Penitent Magdalene)』(ドリア・パンフィリ美術館所蔵、1594 - 1595年ごろ)があり、描かれているマグダラのマリアはそれまでの娼婦としての生活を悔やんで座り込み、あたりには虚飾を示す宝飾品が散乱している。「宗教的な絵画にはとても見えないかもしれない濡れた髪の少女が低い椅子に座り込み良心の呵責に苛まれ救済を求めているのだろうか[13]
『ホロフェルネスの首を斬るユディト』(1598 - 1599年)
国立古典絵画館(ローマ)
この作品はロンバルド風の絵画で、当時のローマ風の気取った作風ではないと考えられていた。同様の作風で描かれた宗教絵画に『聖カテリナ (Saint Catherine)』(ティッセン=ボルネミッサ美術館所蔵、1598年ごろ)、『聖マタイとマグダラのマリア (Martha and Mary Magdalene)』(デトロイト美術館所蔵、1598年ごろ)、『ホロフェルネスの首を斬るユディト (Judith Beheading Holofernes)』(ローマ国立古典絵画館所蔵、1598 - 1599年)、『イサクの犠牲 (Sacrifice of Isaac)』(ピエセッカ・ジョンソン・コレクション所蔵、1598年ごろ)、『法悦の聖フランチェスコ (Saint Francis of Assisi in Ecstasy)』(ワーズワース美術館、1595年ごろ)、『エジプトへの逃避途上の休息 (Rest on the Flight into Egypt)』(ドリア・パンフィリ美術館所蔵、1597年ごろ)などがある。これらの作品は広く公開されていたわけではなく、比較的限られた人にのみ目にする機会があったものだが、カラヴァッジョの名声は美術愛好家や友人の芸術家の間で高まっていった。しかし一般からの評価を決定付けるためには、教会の装飾絵画のように広く大衆が目にする作品が必要だった。
極端なまでの写実主義と自然主義の作品によって、現代のカラヴァッジョの評価はゆるぎないものになっている。カラヴァッジョは題材を目に見えるとおりに表現し、描く対象を理想化することなく欠点や短所すらもありのままに描き出した。このことはカラヴァッジョが非常に高い絵画技術を有していたことを示している。ミケランジェロのような古典的理想表現こそが絵画のあるべき姿だと認識されていた当時において、カラヴァッジョの作風は大きな反響を呼んだ。この時期のカラヴァッジョの作品は写実主義だけが最大の特徴というわけではなく、当時の中央イタリアで長期にわたって受け継がれてきたルネサンス様式を否定したところに大きな意義がある。カラヴァッジョは対象をそのまま油彩画へと描きだした、ヴェネツィア風の半身肖像画や静物画を特に好んでいた。このような作風がもっともよく表れている当時の作品に『エマオの晩餐 (Supper at Emmaus)』(ロンドン・ナショナル・ギャラリー所蔵、1601年)があげられる。
ギャラリー[編集]
『果物の皮を剥く少年』(1592年頃)
ロンギ財団(ローマ)
『病めるバッカス』(1593年頃)
ボルゲーゼ美術館所蔵(ローマ)
『音楽家たち』(1595 - 1596年)
メトロポリタン美術館(ニューヨーク)
『女占い師』(1594年頃)
カピトリーノ美術館(ローマ)
『女占い師』(1595年頃)
ルーブル美術館(パリ)
『リュートを弾く若者』(1596年頃)
ウィルデンスタイン・コレクション
『リュートを弾く若者』(1596年頃)
バドミントン・ハウス(グロスタシャー)
『リュートを弾く若者』(1600年頃)
エルミタージュ美術館(サンクトペテルブルク)
『バッカス』(1595年頃)
ウフィツィ美術館(プラド)
『トカゲに噛まれた少年』(1593 - 1594年頃)
ナショナル・ギャラリー(ロンドン)
『トカゲに噛まれた少年』(1594 - 1596年頃)
ロベルト・ロンギ財団(フィレンツェ)
『聖カテリナ』(1598年頃)
ティッセン=ボルネミッサ美術館(マドリッド)
『聖マタイとマグダラのマリア』(1598年頃)
デトロイト美術館(デトロイト)
『イサクの犠牲』(1598年頃)
ピエセッカ・ジョンソン・コレクション(ニュージャージー、プリンストン)
『法悦の聖フランチェスコ』(1595年頃)
ワーズワース美術館(ハートフォード、コネチカット)
『エジプトへの逃避途上の休息』(1597年頃)
ドリア・パンフィリ美術館(ローマ)
ローマ時代後期 - ローマでもっとも有名な画家(1600 - 1606年)[編集]
聖マタイの召命』(1599 - 1600年)
サン・ルイジ・デイ・フランチェージ教会コンタレッリ礼拝堂(ローマ)
1599年におそらく枢機卿デル・モンテの推薦で、カラヴァッジョはサン・ルイジ・デイ・フランチェージ教会コンタレッリ礼拝堂の室内装飾の依頼を受けた。契約では2点の絵画を制作するとなっており、このときに描かれたのが『聖マタイの殉教 (Martyrdom of Saint Matthew)』と『聖マタイの召命』である。1600年に完成したこれらの絵画は、たちまちのうちに大評判となった。カラヴァッジョはこの絵画でキアロスクーロよりもさらに強い明暗法のテネブリズムを使用し、このことが画面に高い劇的な効果を与え、カラヴァッジョの作品が持つ鋭い写実性に激しい感情表現を加えることになった。当時の画家たちの間ではカラヴァッジョに対する評価は両極端に分かれている。絵画技法上、様々な間違いを犯していると公然と非難するものもいたが、カラヴァッジョを新しい絵画技法の先駆者であると支持するものが多かった。「当時ローマに居た画家たちは、カラヴァッジョの作品が持つ革新性に驚愕した。とくに若い画家たちはカラヴァッジョに共感し、実物をありのままに描くことが出来る比類ない画家であると賞賛して、その作品はほとんど奇跡だとまで考えていた[14]
『キリストの捕縛』(1602年頃)
アイルランド国立美術館(ダブリン)
カラヴァッジョには有力者たちから大量の絵画制作の依頼が舞い込むようになった。とくに暴力的な表現を伴う宗教画の依頼が多く、グロテスクな断首、拷問、死などが主題となっていた。カラヴァッジョが描いたこのような宗教画のなかでも、もっとも優れた作品といわれているのがイタリア貴族マッテイ家 (en:House of Mattei) からの依頼で描かれた『キリストの捕縛 (The Taking of Christ)』(アイルランド国立美術館、1602年ごろ)である。200年以上にわたって失われた絵画だとされていたが、1990年になってダブリンのイエズス会教会で再発見された作品である。次々と描きあげる絵画によってカラヴァッジョの名声は高まる一方だったが、ときには依頼主に受け取りを拒否されることもあり、描き直すかあるいは別の購入者を探すことになった作品もあった。カラヴァッジョの描く強い明暗法で表現された劇的な作品は高く評価されていたが、逆に通俗的で下品な絵画であるとして忌避されることもあった[15]。サン・ルイジ・デイ・フランチェージ教会の依頼でコンタレッリ礼拝堂のために描かれた、みすぼらしい小作人のように表現された聖マタイが、光り輝く衣装に身を包んだ天使に教えを受けているという構図の『聖マタイと天使 (Saint Matthew and the Angel)』(第二次世界大戦で消失、1602年)は依頼人の好みに合わず、代替として『聖マタイの霊感 (The Inspiration of Saint Matthew)』(サン・ルイジ・デイ・フランチェージ教会コンタレッリ礼拝堂所蔵、1602年)が描かれた。有名な『聖パウロの回心 (The Conversion of Saint Paul)』(オデスカルキ・バルビ・コレクション所蔵、1600年ごろ)も当時の依頼人から拒否され、同じ主題の『ダマスカスへの途中での回心 (Conversion on the Way to Damascus)』(サンタ・マリア・デル・ポポロ教会所蔵、1601年)として描き直されている。『ダマスカスへの途中での回心』は聖パウロが乗馬していた馬のほうがパウロよりも大きく描かれており、このことがカラヴァッジョと絵画を依頼したサンタ・マリア・デル・ポポロ教会の間で論争にもなった[16]
『聖ペテロの磔刑』(1601年)
サンタ・マリア・デル・ポポロ教会チェラージ礼拝堂(ローマ)
『キリストの埋葬 (Entombment)』(バチカン美術館所蔵、1602 - 1603年)、『ロレートの聖母』(サンタゴスティーノ教会所蔵、1604 - 1606年)、『聖アンナと聖母子 (Grooms' Madonna)』(ボルゲーゼ美術館所蔵、1605 - 1606年)、『聖母の死 (Death of the Virgin)』(ルーブル美術館所蔵、1604 - 1605年)なども有名なカラヴァッジョの宗教画である。とくに『聖母子と聖アンナ』と『聖母の死』の来歴は、カラヴァッジョ存命時の作品が一部の人々からどのような評価を受けていたのかの好例となっている。
『聖アンナと聖母子』は別名『蛇の聖母』とも呼ばれており、もともとはローマ教皇庁の馬丁組合大信心会が依頼し[17]サン・ピエトロ大聖堂の小さな祭壇に飾るために描かれた作品だった[18]。だが飾られていたのはわずか二日間だけで、すぐさま祭壇から除去されてしまった。当時の枢機卿付書記官が「下品で、神を冒涜する不信心極まりない絵画で、嫌悪感に満ちているこの絵画は優れた技術を持つ画家の作品かも知れないが、その画家の心は邪悪で善行や礼拝などといった信仰心からはかけ離れているに違いない」と書き残している。『聖母の死』は1601年にサンタ・マリア・デッラ・スカラのカルメル会修道院に礼拝堂を個人所有していた裕福な法律家の依頼を受け、その礼拝堂の祭壇画として描かれた作品だったが、1606年に修道院から所蔵を拒絶されている。同時代の著述家ジュリオ・マンチーニが、修道院からこの作品が拒絶されたのは、当時非常によく知られていた娼婦を聖母マリアのモデルにしたためであると記録している[19]。同じく同時代人の画家ジョヴァンニ・バリオーネ (en:Giovanni Baglione) は、どちらの絵画も聖母マリアのむきだしの足が問題視されたのだとしている[20]。カラヴァッジョの研究者ジョン・ガッシュは、カルメル会修道院が『聖母の死』を拒絶したのは、芸術的評価ではなくカルメル会の教義が影響しているのではないかと推測した。神の母は決して死することなく天国へと召されただけであるという聖母の被昇天の教義を否定している絵画と見なされたとしている。『聖母の死』の代替に描かれたのは、カラヴァッジョの追随者でもあったカルロ・サラチェーニ (en:Carlo Saraceni) が描いた祭壇画で、カラヴァッジョの『聖母の死』とは違って、聖母マリアは未だ死んではおらず、座して死に行くさまを描いたものだった。しかしながらこの祭壇画も修道院から受け取りを拒否され、さらなる代替作品として、天使たちが聖歌を歌う中でマリアが天界へと昇天していく絵画が描かれている。とはいえ、このような絵画の受入拒否はカラヴァッジョやその作品が嫌われていたことを意味するとは限らない。『聖母の死』は修道院から拒まれた直後にマントヴァ公ヴィンチェンツォ1世・ゴンザーガが購入しており、しかもこのときにマントヴァ公にこの作品の購入を勧めたのはルーベンスだった。その後、1671年にイングランド国王チャールズ1が購入し、清教徒革命によるイングランド内戦でチャールズ1世が処刑されると、フランスへ売却されてフランス王室コレクションに納められた。
愛の勝利1601 - 1602年)
絵画館ベルリン
キリスト教には関係がないこの時期の作品の一つに、1602年にデル・モンテの取り巻きの一人で銀行家・美術本収集家イタリア人ヴィンチェンツォ・ジュスティニアーニ (en:Vincenzo Giustiniani) の依頼で描かれた『愛の勝利』(絵画館所蔵、1601 - 1602年)がある。描かれているキューピッドのモデルとなったのは、17世紀初頭の記録にフランチェスコの愛称である「チェッコ (Cecco)」と記されている人物である。この人物は後にチェッコ・デル・カラヴァッジョ (en:Cecco del Caravaggio)と呼ばれ、1610年から1625年ごろに画家として活動したフランチェスコ・ボネリではないかと考えられている[21]。裸身で矢を手にし、好戦、平和、科学などを意味する事物を踏みにじっている様子で描かれ、その歯をむき出しにしてほくそ笑むいたずら小僧のような表現は、ローマ神話の神であるキューピッドを想起することは難しい。カラヴァッジョには他にも半裸の青年として多くのキューピッドを描いた絵画があるが、いずれも芝居の小道具のような翼で描かれており、こちらも神話のキューピッドが描かれているようには見えない。しかしながらカラヴァッジョが意図していたものは、極めて強く写実的に絵画を描くことによって、神たるキューピッドと俗世のチェッコ、あるいは聖母マリアとローマの娼婦という二面性を同時に作品に持たせることだった。

ギャラリー[編集]
『聖パウロの回心』(1600年頃)
オデスカルキ・バルビ・コレクション
『ダマスカスへの途中での回心』(1601年)
サンタ・マリア・デル・ポポロ教会(ローマ)
『聖マタイと天使』(1602年)
第二次世界大戦で消失
『聖マタイの霊感』(1602年頃)
サン・ルイジ・デイ・フランチェージ教会コンタレッリ礼拝堂(ローマ)
ロレートの聖母』(1604 - 1606年頃)
バチカン美術館(バチカン)
『聖母の死』(1604 - 1606年頃)
ルーブル美術館(パリ)
『聖アンナと聖母子』(1605 - 1606年頃)
ボルゲーゼ美術館(ローマ)
ローマ追放と死(1606 - 1610年)[編集]
『ロザリオの聖母』(1607年)
美術史美術館ウィーン
カラヴァッジョは激動の生涯を送った。裏社会の住人たちの間でさえ喧嘩っ早いという悪評があり、カラバッジョの不品行が当時の警備記録や訴訟裁判記録に数ページにわたって記載されている。そしてカラヴァッジョは、1606529日におそらく故意ではないとはいえ、ウンブリア州テルニ出身のラヌッチオ・トマゾーニという若者を殺害してしまう[22]。それまでのカラヴァッジョの放埓な言動は、有力者に多くパトロンがいたことによって大目に見られていたが、このときはパトロンたちもカラヴァッジョを庇うことはなかった。殺人犯として指名手配されたカラヴァッジョはローマを逃げ出し、ローマの司法権が及ばないナポリで有力貴族コロンナ家の庇護を受けた。カラヴァッジョとコロンナ家との関係は『ロザリオの聖母 (Madonna of the Rosary)』(美術史美術館所蔵、1607年)など、主要な教会からの絵画制作依頼に大きく寄与している[23]
ナポリでも成功を収めたカラヴァッジョだったが、数か月後には、おそらくマルタ騎士団の騎士団総長アロフ・ド・ウィニャクール (en:Alof de Wignacourt) の庇護を求めて、ナポリからマルタへと移った。ド・ウィニャクールは、このイタリア有数の高名な画家を騎士団の公式画家とすることは利益になると判断してカラヴァッジョを騎士団の騎士として迎え入れ、カラヴァッジョを喜ばせた[24]。マルタ滞在時にカラヴァッジョが描いた主要な作品には、唯一カラヴァッジョ自身の署名が残る『洗礼者ヨハネの斬首 (Beheading of Saint John the Baptist)』(聖ヨハネ准司教座聖堂所蔵、1608年)や、『アロフ・ド・ウィニャクールと小姓 (Portrait of Alof de Wignacourt and his Page)』(ルーブル美術館所蔵、1607 - 1608年)を始め当時の主要なマルタ聖堂騎士団員を描いた肖像画などがある。
遅くとも16088月終わりまでに、カラヴァッジョは逮捕され投獄されている。このマルタ時代のカラヴァッジョを取り巻く急激な環境変化は長く議論の的になっており、近年の研究では、カラヴァッジョがマルタでも喧嘩沙汰を起こし、騎士団宿舎の扉を叩き壊したうえに騎士の一人に重傷を負わせたためだとされている[25]。騎士団員たちによって投獄されたカラヴァッジョは、同年11月に「恥ずべき卑劣な男」であるとして騎士団から除名されたが[26]、脱獄してマルタから逃れた。
『聖ルチアの埋葬』(1608年)
サンタ・ルチア・アラ・バディア教会(シラクサ
マルタを後にしたカラヴァッジョは、昔からの知り合いで結婚後シラクサに住んでいたマリオ・ ミンニーティを頼ってシチリアへと逃れた。二人は共にシラクサを離れてメッシーナへと出発し、最終的にシチリアの首都パレルモに到着している。カラヴァッジョは旅先の各都市でも画家としての名声を勝ち取り、多額の謝礼を伴う絵画制作の依頼を受けたため、この旅はいわば大名旅行ともいえる贅沢なものになった。このシチリア時代の作品には『聖ルチアの埋葬 (Burial of St. Lucy)』(サンタ・ルチア・アラ・バディア教会所蔵、1608年)、『ラザロの蘇生 (The Raising of Lazarus)』(メッシーナ州立美術館所蔵、1609年ごろ)、『羊飼いの礼拝 (Adoration of the Shepherds)』(メッシーナ州立美術館所蔵、1609年)があげられる。カラヴァッジョの作風は進化し続けており、このころの作品は描かれている人物が身にまとう織りの粗い衣服が、何も描かれていない広い背景から浮き出て見えるかのように表現されている。「カラヴァッジョがシチリアで描いた素晴らしい祭壇画は陰になっている部分が多く、薄暗く広い背景に数人のみすぼらしい人物が描かれている構図という他にあまり例のない作品になっている。人間の絶望的なまでの不安と心の弱さを表現すると同時に、人間が代々受け継いできた優しさ、謙虚さ、柔和さなどが未だ失われていないさまを描き出している」といわれている[27]。一方でカラヴァッジョの不品行は改まってはおらず、眠っているときでさえ完全武装し、他人の作品を根拠なく誹謗してその絵画を引き裂いたり、地元の画家たちを嘲笑していたという当時の記録が残っている[28]
カラヴァッジョはシチリアに9か月滞在した後に再びナポリへと戻っている。ナポリ帰還は、最初期の伝記によればカラヴァッジョがシチリアで常に敵対者に付け狙われており、ローマ教皇の許しを得てローマに戻れるようになるまでは、知己である有力貴族コロンナ家が大きな権力を持つナポリがもっとも安全であると考えためである[29]。ナポリ帰還後の作品として『聖ペテロの否認 (The Denial of Saint Peter)』(メトロポリタン美術館所蔵、1610年ごろ)、『洗礼者ヨハネ (John the Baptist)』(ボルゲーゼ美術館所蔵、1610年ごろ)、そして遺作となった『聖ウルスラの殉教 (The Martyrdom of Saint Ursula)』(インテーザ・サンパオロ銀行所有、1610年)がある。特に『聖ウルスラの殉教』は、フン族の王が放った矢が聖ウルスラの胸を貫く瞬間を描いた奔放かつ印象的な筆使いの絵画で、それまでの絵画が持ち得なかった躍動感にあふれた作品になっている。
『ゴリアテの首を持つダビデ』(1609 - 1610年)
ボルゲーゼ美術館ローマ
カラヴァッジョは安全な場所だと思っていたナポリで襲撃を受けた。犯人は不明で、ローマでは「有名な芸術家」カラヴァッジョが殺されたという記録が残っているが、これは誤報でありカラヴァッジョは顔に重傷を負ったものの生命に別状はなかった。『洗礼者ヨハネの首を持つサロメ (Salome with the Head of John the Baptist (Madrid))』(マドリード王宮1609年ごろ)の大皿に乗った生首は自身の頭部を描いたもので、カラヴァッジョはこの作品をマルタでの不品行への許しを請うためにマルタ騎士団長ド・ウィニャクールへと贈っている。『洗礼者ヨハネの首を持つサロメ』とおそらく平行して『ゴリアテの首を持つダビデ (David with the Head of Goliath)』(ボルゲーゼ美術館1609年)も描いている。若きダビデが不思議な悲しみの表情で巨人ゴリアテの切断された頭部を見つめている作品で、この絵画に描かれているゴリアテの頭部もカラヴァッジョ自身の自画像である。カラヴァッジョはこの『ゴリアテの首を持つダビデ』をローマ教皇パウルス5の甥で、罪人への恩赦特権を持つ悪名高き美術愛好家の枢機卿シピオーネ・ボルゲーゼ (en:Scipione Borghese) への贈答絵画にするつもりだった[30]
1610年の夏にカラヴァッジョは、奔走してくれたローマの有力者たちのおかげで近々発布される予定だった恩赦を受けるために北方へと向かう船に乗り込んだ。このときカラヴァッジョは枢機卿シピオーネへの返礼品として3点の絵画を持参していた[31]。この後カラヴァッジョに何があったのかの記録が非常に混乱、錯綜しており、いずれも推測の域を出ない。わずかに事実だといえることは、728日のローマからウルビーノ公爵家へ宛てた速報手記 (en:Avviso) にカラヴァッジョが死去したという記事が掲載されており、3日後の別の速報手記にカラヴァッジョがナポリからローマへと向かう旅の途中で熱病のために死去したというものである。カラヴァッジョの友人の詩人が後に718日をカラヴァッジョの命日であるとしており、近年の研究で同じく718日にトスカーナ大公国ポルト・エルコレで熱病で死去したという証拠が見つかったと主張する美術史家もいる。
2010年にポルト・エルコレの教会で人骨が発見され、この骨はまずカラヴァッジョのものに間違いないだろうと考えられている[32]。この発見から一年以上かけてDNA鑑定、放射性炭素年代測定など様々な科学的鑑定が行われた[33]。発見された人骨からは高濃度の鉛が検出されており、この人骨がカラヴァッジョのものであるならば鉛中毒で死去した可能性が高い[34]。当時の顔料には多くの鉛が含まれ、鉛中毒はいわば画家の職業病だった。さらにカラヴァッジョは非常に放埓な生活を送っており、このことも鉛中毒に悪影響を及ぼしたと考えられる。
墓碑銘[編集]
カラヴァッジョの墓碑銘は、友人のマルツィオ・ミレージによるものである。
フェルモ・ディ・カラヴァッジョの息子ミケランジェロ・メリージ
自然そのもの以外に比肩しうるもののいない画家
ナポリからローマへと向かう途中のポルト・エルコレにて
36
年と6カ月12日の人生を生きて1610815日に客死した
- 法学者マルツィオ・ミレージが、この異常なまでの才能を持った友人に捧ぐ[35]
ギャラリー[編集]
『聖ヨハネの斬首』(1608年)
聖ヨハネ准司教座聖堂(マルタ、バレッタ)
『羊飼いの礼拝』(1609年)
聖ヨハネ准司教座聖堂(ローマ)
『ラザロの蘇生』(1609年頃)
メッシーナ州立美術館(メッシーナ)
『聖ペテロの否認』(1609年頃)
メトロポリタン美術館(ニューヨーク)
『洗礼者ヨハネ』(1610年頃)
ボルゲーゼ美術館(ローマ)
『聖ウルスラの殉教』(1610年)
インテーザ・サンパオロ銀行所有(ナポリ)
画家としての評価[編集]
バロック芸術の成立[編集]
『洗礼者ヨハネの首を持つサロメ』(1609年頃)
マドリード王宮(マドリード)
カラヴァッジョは「陰 (oscuro) キアロスクーロ (chiaroscuro) へと昇華した」といわれる[36]。キアロスクーロ自体はカラヴァッジョ以前から長らく使われてきた手法だが、一方向からまばゆく射す光を光源として段階的な陰影をつけて描かれた対象物を浮かび上がらせる表現はカラヴァッジョが絵画技法として確立したものである。カラヴァッジョが持っていた肉体面、精神面両方に対する鋭い写実的な観察眼によって成立したもので、とくに宗教絵画においてカラヴァッジョが直面した数々の課題を通じて形成されていった。カラヴァッジョの絵画制作速度は非常に速く、モデルを前にしたまま基本的な部分を最後まで描き上げることが出来た。カラヴァッジョが描いた下絵(ドローイング)はほとんど現存しておらず、このことはカラヴァッジョが紙などに下絵を描くことなく、キャンバスにいきなり描き始める手法を好んでいたためと考えられている。これは当時の熟練した画家たちからは忌み嫌われていた手法で、旧来の画家からはカラヴァッジョが下絵から描き始めないことと、人物像を理想化して描かないことを声高に非難された。しかしながら、人物を理想化することなく写実的に描くことはカラヴァッジョにとってはごく当然のことだった。
『フィリデの肖像』(1597年頃)
消失
写実的に絵画に描かれた人物像のモデルが誰なのかが判別している者もいる。よく知られているのは後にカラヴァッジョの作風を受け継いだ画家となったマリオ・ ミンニーティとフランチェスコ・ボネリで、ミンニーティは初期の世俗的な作品に、ボネリは天使、洗礼者ヨハネ、ダビデとしてカラヴァッジョ後期の作品にそれぞれ描かれている。女性モデルには『フィリデの肖像 (Portrait of Fillide)』(第二次世界大戦で消失、1597 - 1599年)に描かれているフィリデ・メランドローニ、『聖マタイとマグダラのマリア』に描かれているアンナ・ビアンキーニ、法廷記録の「アーティチョーク事件」にレナという名前で記載されているカラヴァッジョの愛人マッダレーナ・アントネッティらがいるが[37]、全員が当時有名だった娼婦であり、カラヴァッジョは彼女たちを聖母マリアなど様々な聖人のモデルとして多くの宗教絵画に描いた[38]。カラヴァッジョは自身の肖像も数枚の絵画に登場人物として描いている。最後の自画像は『聖ウルスラの殉教 (The Martyrdom of Saint Ursula)』の右端に描かれている男性像である[39]
『エマオの晩餐』(1601年)
ナショナル・ギャラリー(ロンドン)
カラヴァッジョは決定的な瞬間を誰にも真似できないほどに鮮やかに切り取って描く優れた能力を持っていた。『エマオの晩餐』はキリストの弟子だったクレオパが、夕食をともにしている人物が復活したキリストだと気がつく場面を描いた絵画で、直前までメシアの死を嘆く旅人であり宿屋の主人が目もくれていなかった人物だったものが、突然救世主として再臨したその瞬間を劇的に表現した作品である。『聖マタイの召命』ではマタイが自分を指差して「私ですか?」と問いかけているかのように描かれているが、その両目はキリストに注がれ「私は貴方のしもべです」と応えており、マタイが自分の使命に目覚めた瞬間を描き出した絵画である。『ラザロの蘇生』では死人が復活する瞬間を捉えたさらに進んだ表現がなされている。ラザロの胴体は断末魔の死後硬直の状態にあるが、手はすでに復活しキリストのほうを向いている。
カラヴァジェスティ[編集]
『聖マタイの殉教』(1599 - 1600年頃)
サン・ルイジ・デイ・フランチェージ教会コンタレッリ礼拝堂(ローマ)
カラヴァッジョの絵画を研究し、その作風を真似た追随者はカラヴァジェスティ (Caravaggisti) と呼ばれることがある(カラヴァッジョ派、カラヴァジェスキとも)。1600年にコンタレッリ礼拝堂に納められた『聖マタイの殉教』と『聖マタイの召命』はローマの若手芸術家の間で大評判になり、カラヴァッジョは野心的な若手画家たちの目標となっていった。カラヴァジェスティと呼ばれる最初期の画家にカラヴァッジョの友人でもあったオラツィオ・ジェンティレスキやジョヴァンニ・バリオーネ (en:Giovanni Baglione) があげられる。ただし、バリオーネがカラヴァッジョ風の絵画を描いた時期は短く、カラヴァッジョがバリオーネの絵画は自分の作品からの盗作だと糾弾したこともあって二人は長く反目しあっていたが、後にバリオーネはカラヴァッジョに関する伝記を最初に書いた人物となった[40]。次世代のカラヴァジェスティとしてカルロ・サラチェーニ (en:Carlo Saraceni)、バルトロメオ・マンフレディ (en:Bartolomeo Manfredi)、オラツィオ・ボルジャンニ (en:Orazio Borgianni)らがいる。1563年生まれのジェンティレスキはこの3名よりもかなり年長だったが、長命な画家でこの3名よりも長生きし、最後はイングランド王チャールズ1宮廷画家になり1639年にロンドンで死去している。ジェンティレスキの娘アルテミジアも父の縁でカラヴァッジョとは面識があり、カラヴァジェスティの画家の中ではもっとも才能があった一人だった[41]
ナポリではカラヴァッジョは短期間しか滞在していないにも関わらず、バッティステッロ・カラッチョーロ (en:Battistello Caracciolo)、カルロ・セッリート (en:Carlo Sellitto)ら、重要なカラヴァジェスティの画家を輩出した。ナポリでのカラヴァジェスティの活動は1656年のペスト流行によって終焉したが、当時のナポリはスペインの支配下だったこともあって、カラヴァッジョの影響はスペイン絵画へも波及していった。
オランダでも17世紀初頭に画学生としてローマを訪れ、カラヴァッジョの作品に多大な影響を受けたユトレヒト・カラヴァッジョ派 (en:Utrecht Caravaggism) と呼ばれる宗教画家たちが存在した[40]。これら画学生たちが自国へ持ち帰ったカラヴァッジョの作風の流行は短かったとはいえ、1620年代にはヘンドリック・テル・ブルッヘンヘラルト・ファン・ホントホルスト、アンドリエス・ボト (en:Andries Both)、ディルク・ファン・バブーレン (en:Dirck van Baburen) らによって全盛期を迎えている。以降の世代のオランダ人画家たちにはカラヴァッジョの影響は薄れていったが、マントヴァ公ゴンザーガ家の依頼でカラヴァッジョの『聖母の死』を購入し、『キリストの埋葬 (Entombment of Christ)』の模写も行ったルーベンスを初め、フェルメールレンブラント、さらにはイタリア滞在時にカラヴァッジョの作品を目にしているベラスケスの作品にもカラヴァッジョの影響が見られる。
死後の評価と20世紀の再評価[編集]
『キリストの埋葬』(1602 - 1603年)
バチカン美術館ローマ
カラヴァッジョの名声はその死後間もなく急速に廃れてしまった。カラヴァッジョの革新性はバロック芸術のきっかけになったとはいえ、バロック絵画はキアロスクーロを用いた劇的な効果のみを取り入れて、カラヴァッジョの特性といえる肉体的な写実主義には目を向けようとはしなかった。上述した画家以外では、イタリアからは距離があるフランスのジョルジュ・ド・ラ・トゥール、シモン・ブーエ (en:Simon Vouet)、スペインのホセ・デ・リベーラらが直接カラバッジョの影響を受けた画家だが、カラヴァッジョの死後数十年でその作品は単なる醜聞にまみれた画家が描いた絵画とみなされるか、あるいは単に忘れ去られてしまった。カラヴァッジョの死後バロック美術は発展し作風も変化していったが、その成立に多大な貢献をしたカラヴァッジョはバロック美術の発展に多大な貢献をしたアンニーバレ・カラッチとは違って工房も弟子も持たず、自身の絵画技術を広めるための努力はしていない。自身の作品の根幹ともいえる理性的な自然主義絵画製作手法について何も語ってはおらず、その写実的な心理描写の技法は残された作品から推測するしかなかった。それゆえに、後世のカラヴァッジョの評価は、ジョヴァンニ・バリオーネ (en:Giovanni Baglione) とジョヴァンニ・ピエトロ・ベッローリ (en:Gian Pietro Bellori) がそれぞれ書いたカラヴァッジョに極めて否定的な初期の伝記に大きく左右された。バリオーネはカラヴァッジョと長く確執があった画家で、ベッローリは直接カラヴァッジョとは面識がなかったが、その作品を嫌っていた画家であり、かつ17世紀に影響力があった批評家でもあった[42]
しかし、1920年代になってからイタリア人美術史家ロベルト・ロンギ (Roberto Longhi) がカラヴァッジョを再評価し、西洋美術史のなかに確固たる地位を与えた。ロンギは「ホセ・デ・リベーラ、フェルメール、ラ・トゥール、レンブラントは、もしカラヴァッジョがいなければ存在しえない画家だっただろう。また、ドラクロワクールベマネらの芸術も全く異なったものになっていたに違いない[43]」とし、著名な美術史家バーナード・ベレンソンも、「ケランジェロを除けば、カラヴァッジョほど絵画界に大きな影響を及ぼしたイタリア人画家はいない[44]」と同様の意見を述べている。
カラヴァッジョはイタリア10リラ紙幣に肖像が採用された。このときには「人殺しを紙幣の顔に採用するとはどういうことか」と一部から批判の声があがった。しかし、画家としての業績や時代背景などを考慮して採用されることになった。
絵画作品[編集]
『聖ペテロと聖アンデレの召命』(1603 - 1606年)
ロイヤル・コレクション
現存しているカラヴァッジョの作品で、まず真作であろうと考えられているのは80点程度にすぎず、なかには時代を経てからカラヴァッジョの作品であると同定された、あるいはカラヴァッジョの作品らしいと見なされた作品も多い。『聖ペテロと聖アンデレの召命 (The Calling of Saints Peter and Andrew)』(ロイヤル・コレクション1603 - 1606年)は1637年にイギリス国王チャールズ1が購入し、清教徒革命でフランスに売却されたものをさらに王政復古で戴冠したチャールズ2が取り戻した絵画である。長くカラヴァッジョのオリジナル絵画の複製画と見なされ、ハンプトン・コート宮殿に所蔵されていたが、6年間にわたる修復と調査の結果、2006年にカラヴァッジョの真作であると認定された。一方でリチャード・フランシス・バートンがカラヴァッジョの作品として書き残した「トスカーナ大公家のギャラリーが所蔵する、30人の男たちが描かれた聖ロザリアの絵画」は現在行方不明となっている。ローマのサン・ルイジ・デイ・フランチェージ教会コンタレッリ礼拝堂から受け取りを拒否された『聖マタイと天使』は、第二次世界大戦中のドレスデン爆撃で失われ、現在は白黒の写真が残るのみである。20116月にはそれまで知られていなかったカラヴァッジョが1600年頃に描いた『聖アウグスティヌス』がイギリスのプライベート・コレクションから発見されたという発表があった。この「重要な発見」によってもたらされた絵画はローマ時代のパトロンだったヴィンチェンツォ・ジュスティニアーニが秘密裏に依頼した作品であると考えられている[45]
カラヴァッジョを題材とした大衆文化作品[編集]
カラヴァッジオ』-1986イギリスの映画監督デレク・ジャーマンが、カラヴァッジョの生涯や創作スタイルを描いた映画。ベルリン映画祭で銀熊賞を受賞したこともあり、カラヴァッジョの絵画を多くの人が知るきっかけとなった。
カラヴァッジョ 天才画家の光と影』-2007にイタリアで放送された全2話のテレビ・ミニシリーズ。日本では2010に、1本の映画作品として公開された。
『カラヴァッジオ』 - 2008年にベルリン国立バレエ団により発表されたバレエ作品。カラヴァッジョをウラディミール・マラーホフが演じた。
日本語文献[編集]
入門書
『カラヴァッジョ巡礼』 宮下規久朗編 (新潮社〈とんぼの本〉、2010年) ISBN 978-4-1060-2200-5
『もっと知りたいカラヴァッジョ 生涯と作品 〈アート・ビギナーズ・コレクション〉』
 宮下規久朗編 (東京美術2009年) ISBN 978-4-8087-0870-2
『カラヴァッジョ アート・ライブラリー』 ティモシー・ウィルソン=スミス
 宮下規久朗訳(西村書店2003年/新装版2009 ISBN 978-4-8901-3627-8
伝記
『カラヴァッジョへの旅 天才画家の光と闇』 宮下規久朗(角川選書2007年) ISBN 978-4-0470-3416-7
『闇の美術史 カラヴァッジョの水脈』 宮下規久朗(岩波書店、2016年) ISBN 4-00-025356-5
『カラヴァッジョ 灼熱の生涯』 デズモンド・スアード
 石鍋真澄、石鍋真理子訳 (白水社2000年/新装版2010 ISBN 978-4-5600-8059-7
『カラヴァッジョ伝記集』 石鍋真澄編訳 平凡社ライブラリー2016年)、ISBN 978-4-582-76838-1
『カラヴァッジョの秘密』 コスタンティーノ・ドラッツィオ(上野真弓訳、河出書房新社2017年)
大著
『カラヴァッジョ 聖性とヴィジョン』 サントリー学芸賞(文学・芸術部門)受賞 
宮下規久朗 (名古屋大学出版会2004年) ISBN 978-4-8158-0499-2
『カラヴァッジョ鑑』 岡田温司編(人文書院2001年、復刊2009年) ISBN 978-4-4091-0014-1 - 17名の論考
『カラヴァッジオ 生涯と全作品』 ミア・チノッティ解説、森田義之訳 (岩波書店1993年) ISBN 978-4-0000-8057-6
画集
『カラヴァッジョ 西洋絵画の巨匠』 宮下規久朗編 (小学館2006年) ISBN 978-4-0967-5111-4
展覧会図録 『カラヴァッジョ 光と影の巨匠バロック絵画の先駆者たち』
東京都庭園美術館20019-12月/岡崎市美術博物館200112-022
『カラヴァッジョ 全作品集』 ゼバスティアン・シュッツェ (TASCHEN(タッシェン・ジャパン) 2010年) ISBN 978-4-88783-401-9

脚注[編集]

3.   ^ Floris Claes van Dijk, a contemporary of Caravaggio in Rome in 1601, quoted in John Gash, "Caravaggio", p.13. この引用はカレル・ヴァン・マンデルの『画家列伝(画家の書)』(1604年)を底本としている。カラヴァッジョの名前が出てくる最初のローマでの記録は、パートナーで共同制作者でもあった画家プロスペロ・オルシによるもので、159410月の聖ルカ祭に参列した人物の一覧のなかに名前が記載されている(H. Waga "Vita nota e ignota dei virtuosi al Pantheon" Rome 1992, Appendix I, pp.219 and 220ff)。カラヴァッジョのローマ時代の暮らしぶりが記載された最初の資料は15977月の訴訟裁判記録で、サン・ルイジ・デイ・フランチェージ教会近くで起きた事件の参考人としてカラヴァッジョとオルシが召喚されたというものである("The earliest account of Caravaggio in Rome" Sandro Corradini and Maurizio Marini, The Burlington Magazine, pp.25-28)
4.   ^ Quoted in Gilles Lambert, "Caravaggio", p.8.
5.   ^ Biography of Caravaggio Archived 2009416, at the Wayback Machine.
6.   ^ Confirmed by the finding of the baptism certificate from the Milanese parish of Santo Stefano in Brolo: Rai International Online Archived 2009416, at the Wayback Machine.. 以前はその姓から、カラヴァッジョ村で生まれたと考えられていた。
7.   ^ Harris, p. 21.
8.   ^ Rosa Giorgi, "Caravaggio: Master of light and dark – his life in paintings", p.12.
9.   ^ Quoted without attribution in Robb, p.35. おそらく一次資料であるマンチーニ、バリオーネ、ベッローリの各著作からの引用で、どの著作もカラヴァッジョのローマ時代初期がひどい貧困状態だったことを記載している。
10.               ^ Giovanni Pietro Bellori, Le Vite de' pittori, scultori, et architetti moderni, 1672:「ミケーレ(カラヴァッジョ)は金銭的理由からジュゼッペ・ダプリーノ(チェーザリ)のもとで働いた。花と果物を描く助手として雇われ、現在に至るまで愛される美しい写実的な作品を残した」
12.               ^ Catherine Puglisi, "Caravaggio", p.79. Longhi was with Caravaggio on the night of the fatal brawl with Tomassoni; Robb, "M", p.341, believes that Minniti was as well.
13.               ^ Robb, p.79. Robb はその著作でベッローリも引き合いに出している。ベッローリはカラヴァッジョの豊かな色彩感覚は賞賛していたが、その自然主義には批判的だった。「カラヴァッジョは自然をそのままに描くことで満足し、それ以上のことに頭を使おうとはしていない」
14.               ^ Bellori. さらに「これら若い画家たちはいかにうまくカラヴァッジョの作品を模倣できるかを競い合い、衣服を脱がせたモデルに強い光をあてて絵画を描いた。それはカラヴァッジョの作品を研究、解析するというよりも、手軽にカラヴァッジョの作品を模写しているにすぎなかった」と続く。
15.               ^ 対抗宗教改革下における教会の芸術に対する礼儀思想によるものだった (Giorgi, p.80 and Gash, p.8ff)。『聖マタイと天使』『聖母の死』が受け取りを拒否された詳細な経緯については Puglisi, pp.179–188. を参照。
16.               ^ Lambert, p.66.
17.               ^ このことから『馬丁の聖母』とも呼ばれる。
19.               ^ 「近年の画家の絵画は目に余る。ミケランジェロ・ダ・カラヴァッジョがサンタ・マリア・デッラ・スカラの依頼で制作した、娼婦をモデルにして聖母を描いた作品などが最たるものである。神に仕える依頼主が受け取りを拒否したのは当然で、このあわれな男はおそらく今までの生涯で様々な騒動を巻き起こしているに違いない」(マンチーニ Considerazioni sulla pittura:
20.               ^ Baglione: 「トラステヴェレのサンタ・マリア・デッラ・スカラ教会の依頼で描かれた『聖母の死』は、聖母の脚が描かれた慎みに欠ける絵画だったため教会から拒まれた。その後マントヴァ公がこの作品を購入し。自分のもっとも大きなギャラリーへ飾った」(Baglione Le vite de' pittori
21.               ^ ジャンニ・パピはチェッコ・デル・カラヴァッジョはフランチェスコ・ボネリだとしているが、17世紀初頭にカラヴァッジョの身辺の世話をし、モデルも務めたチェッコとボネリとの関連性は状況証拠しか存在しない (Robb, pp193–196)
22.               ^ このときの乱闘騒ぎとラヌッチオ・トマゾーニの死については未だに謎のままである。当時のいくつかの記録では、乱闘の原因がギャンブルによる金の貸し借りとテニス試合の遺恨によるものだとしており、これが広く受け入れられるようになっている。しかし、近年の研究によるともっと単純な痴情のもつれによるものであると考えられている (Peter Robb's "M" and Helen Langdon's "Caravaggio: A Life")'Red-blooded Caravaggio killed love rival in bungled castration attempt'
23.               ^ 1606年のトマゾーニの死亡事件のあと、カラヴァッジョは最初にローマ南部のコロンナ家所領に逃げ込んだ。その後、生前のカラヴァッジョの父フェルモが邸宅管理人を任されていたフランチェスコ・スフォルツァの未亡人、コスタンツァ・コロンナ・スフォルツァを頼ってナポリへと落ち延びている。コスタンツァの兄弟アスカニオはナポリ王国の Cardinal-Protector、マルツィオはスペイン副王の顧問官、妹はナポリの重要な一族カラファ家へと嫁いでいた。これら有力者たちからの支援もあって、ナポリでもカラヴァッジョのもとへは次々と絵画の制作注文が舞い込んでいる。コスタンツァの息子ファブリツィオ・スフォルツァ・コロンナはマルタ騎士団の騎士で将官であり、1607年にカラヴァッジョがマルタ島へ移住する際に便宜を図り、さらに翌年マルタ島の監獄から脱獄するのにも手を貸したと考えられている。カラヴァッジョはマルタ島脱出後の1609年に再びコスタンツァを頼ってナポリの宮殿に滞在した。このようなカラヴァッジョとコロンナ家の親密な関係は多くの伝記に書かれており、美術史家からの研究対象となっている (Catherine Puglisi, "Caravaggio", p.258, for a brief outline. Helen Langdon, "Caravaggio: A Life", ch.12 and 15, and Peter Robb, "M", pp.398ff and 459ff)
24.               ^ Giovanni Pietro Bellori, Le Vite de' pittori, scultori, et architetti moderni, 1672
25.               ^ この乱闘騒ぎに関する証拠がマルタ大学のカイト・シベラス教授によって発見された。 "Frater Michael Angelus in tumultu: the cause of Caravaggio's imprisonment in Malta", The Burlington Magazine, CXLV, April 2002, pp.229–232, and "Riflessioni su Malta al tempo del Caravaggio", Paragone Arte, Anno LII N.629, July 2002, pp.3–20. Sciberras' findings are summarised online at Caravaggio.com Archived 2006310, at the Wayback Machine..
26.               ^ 「恥ずべき卑劣な男」は、騎士団を除名される際に用いられる決まり文句である。1608121日に騎士団の高位騎士たちが招集されたが、4度に及ぶ喚問にも関わらずカラヴァッジョの罪状の立証はできなかった。結局騎士たちによる投票が行われ、その結果満場一致でカラヴァッジョの騎士団除名が決定された。
27.               ^ Langdon, p.365.
28.               ^ カラヴァッジョの奇行は画家としてのキャリア初期から評判となっていた。マンチーニはカラヴァッジョを「完全に狂っている」と評し、枢機卿フランチェスコ・マリア・デル・モンテは書簡のなかでカラヴァッジョの奇矯な言動について書き残している。さらにマリオ・ミンニーティに関する1724年に書かれた伝記には、ミンニーティはカラヴァッジョの素行に耐えられず袂を分かったという記述がある。このような奇行はマルタ島移住以来ますます顕著になっていき、18世紀初頭に書かれた『メッシーナの画家たちの伝記 (Le vite de' pittori Messinesi)』にはシチリアでのカラヴァッジョの常軌を逸した言動の逸話がいくつか記載されており、この本を参考としたカラヴァッジョの一生を描いた伝記が現代のランドン (Langdon) やロブ (Robb) といった美術史家から発表されている。ベッローリはカラヴァッジョの町から町、島から島へと渡り歩く「恐るべき」人生にページを割き、結局はナポリを含め「どこにも安住の地はなかった」としている。バリオーネもカラヴァッジョはつねに「敵に追い回されていた」と書いているが、ベッローリと同様にカラヴァッジョの敵が具体的に誰なのかは明らかにしていない。
29.               ^ Baglione says that Caravaggio in Naples had "given up all hope of revenge" against his unnamed enemy.
30.               ^ 17世紀の記録には、ゴリアテは自画像でダビデは「小さなカラヴァッジョ (il suo Caravaggino)」であると記されている。「小さなカラヴァッジョ」が何を意味するのかははっきりしないが二つの説があり、若いころの自画像、あるいは有力な解釈として『愛の勝利』のモデルだったチェッコだといわれている。ダビデが手にしている剣には簡約された銘があり「謙遜は高慢を凌駕する」と解釈されている。制作年度はジョヴァンニ・ピエトロ・ベッローリ (en:Gian Pietro Bellori) が書いた17世紀の芸術家列伝『現代画家・彫刻家・建築家伝』(1672年)にはローマ滞在後期となっているが、近年の研究ではナポリ帰還後だと考えられている (Gash, p.125)
31.               ^ ナポリのカゼルタ司教から枢機卿シピオーネへと送られた1610729日付の書簡には、カラヴァッジョがシピオーネへと贈るつもりだったのは2点の洗礼者ヨハネを描いた絵画と、マグダラのマリアを描いた絵画であるという情報が記載されている。これらの絵画はおそらくシピオーネの叔父、つまり教皇パウルス5世がカラヴァッジョに恩赦を与える見返りとして要求したものである。
32.               ^ Vatican reveals Caravaggio painting 'found' in Rome BBC website, published: 19 July 2010, accessed: 2011-09-08
33.               ^ Church bones 'belong to Caravaggio', researchers say BBC website, published: 16 June 2010, accessed: 2011-09-08
34.               ^ The mystery of Caravaggio's death solved at last – painting killed him, Tom Kington, The Guardian, Wednesday, 16 June 2010.
35.               ^ Inscriptiones et Elogia (Cod.Vat.7927)
36.               ^ Lambert, p.11.
37.               ^ ローマでのカラヴァッジョの暮らしぶりは法廷記録に多く残っている。「アーティチョーク事件」とは、カラヴァッジョが熱いアーティチョークが盛られた皿を給仕に投げつけたという記録である。
38.               ^ Robb, passim
39.               ^ 最初に作品に描かれた自画像は『病めるバッカス』でその他に『ゴリアテの首を持つダビデ』に描かれているゴリアテもカラヴァッジョの自画像である。カラヴァッジョ以前にも自身の肖像画を作品に登場させた画家はいたが、役割は主題となっているモチーフの傍観者や観衆としてであり、自身を主題の主要人物として描いた画家はいなかった。
40.               ^ a b Giovanni Baglione Le vite de' pittori, 1642
41.               ^ アルテミジアは1997年にフランスの女性監督アニエス・メルレのデビュー作『アルテミシア(Artemisia)』で映画の主人公に取り上げられている。この作品はフランスとイタリアの合作によって制作され、メルレ自身が監督・脚本・台詞を担当しており、同年ゴールデングローブ賞にて外国映画賞を受賞した。
42.               ^ ほかにもスペインで活動していたイタリア人画家ヴォンチェンツォ・カルドゥッチ ( en:Vincenzo Carducci) がカラヴァッジョを、他人を欺く「恐ろしい」才能を持った「キリストの教えに背く者」であると酷評している。
43.               ^ Roberto Longhi, quoted in Lambert, op. cit., p.15
44.               ^ Bernard Berenson, in Lambert, op. cit., p.8
45.               ^ Alberge, Dalya (2011619). “Unknown Caravaggio painting unearthed in Britain”. The Guardian. 2011620日閲覧。


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